令和大相撲5年史 優勝争い分析③−2 星の差 各年代比較 | 三代目WEB桟敷

三代目WEB桟敷

力士分析などを行う相撲研究サイト「大相撲パラサイト」のブログです。

 

 

ちょっと間が空いたが、令和5年間の優勝争いの傾向を探る特集。「星の差」の第2弾。各年代で比較して、時代ごとの特徴を探る。

 

 

年代別 平均星の差ランキング

まずは優勝力士と準優勝力士との星の差の平均値が小さかった年代と、大きかった年代。それぞれ上位5傑は以下の通り。

僅差 

①令和元〜5年  1.11  

②平成6〜10年  1.13

②平成11~15年  1.13

④昭和50s前半  1.17

⑤平成元〜5年  1.27

 

やはり令和初年の星の差は小さく、5年毎の年代別でも最も接戦という数字が出た。優勝平均成績が唯一の12勝台なので、当然といえば当然か。0.02差の2位には、平均13.1勝の平成11〜15年が続いたが、平成6〜10年は13.5勝ながら2位タイで並んだ。4位の昭和50年代前半は13.73勝もしているが、意外に接戦だった。後続のレベルも高かったことが要因と言えるだろう(昭和53年の若乃花は年78勝で優勝1回だった)。トップ5に入った年代では、星の差4つはほぼなかった。

 

大差

①平成21〜25年 1.79

②昭和40s前 1.6

③昭和60s  1.54

④昭和50s後 1.53

⑤昭和40s後 1.52

 

星の差の大きかった方では、白鵬全盛の平成21〜25年。優勝平均成績も圧巻の14.13勝。2位には昭和40年代前半。優勝者平均成績は標準的な13.53勝で、星の差4つの場所もなかったが、3差の割合が27%と最多だった。3〜5位は僅差で、千代の富士の活躍した両時代は、いずれも決定戦が10%台前半に留まるなど割合が酷似。対して40年代後半は戦国の様相を呈した乱戦が目立つが、意外に独走も多くて割合は異なるが平均値は近かった。

 

 

 

年代別 平均星の差  昭和〜平成〜令和(部屋別総当り制下)

令和5年間は、決定戦が3割。1差以内が3分の2。全年代で最も僅差というデータが出た。優勝決定後に敗れて縮まったのも一番最初の朝乃山だけで、純粋に接戦。

 

白鵬が休場する場所が増えていき、次第に接戦が増えた。しかし決定戦の割合は平成で最も低く、1差以内も50%台と多くはなかった。

 

 

半数以上の場所で2差以上開いた。他の時代では多くて1割の3差が目立ち1/4近くを占めて1差と同数。4差も1割あった。

21年は3度決定戦に縺れたが、朝青龍が引退すると白鵬の天下。22年は次点が14勝の場所も2度あったが、11場所も全勝。安定した対抗馬もおらず独走が際立った。

 

平均1.5と星の差は開いた。2差以上が半数に迫り、1差が前5年比で半減し、2差と僅差だった。

横綱の独走ぶりに、好成績でも敢えて上位戦を組まれなかった平幕が次点に残ることも度々あり、上位力士との差でいうと数字以上に開いていた印象がある。

 

平均の星の差では前の年代と並んだが、構成は異なる。決定戦は2割を割り込んだが、4差は0。2差も減って、1差が6割を占めるのが特徴。

4分の3が1差以内となった。13日目に優勝を決めた曙が連敗して1差となるなど、必ずしも千秋楽まで争ったわけではないが、11年から14年3月までずっと1差以内が続いた。武蔵丸も4回連続優勝後の取組を落としている。年代の終盤に4度の優勝でいずれも2つ以上の差をつけた朝青龍がいなければ、平均1を割っていたかもしれない。優勝ラインは下がったが、上位陣の休場が目立ち、後続の力不足で締まらない場所も多かった。

 

唯一決定戦が3割に乗り、1差以内で7割。高いレベルでの決定戦も多くて、星の差は開かなかった。

優勝回数では貴乃花が半数以上の17回と他を圧倒したが、優勝争いは案外独走になることは少なかった。ライバルたちの健闘の結果でもあり、優勝を逃しても毎場所好成績を残す貴乃花の安定感ゆえでもあった。

 

3分の2が1差以内。3差以上は13%だった。目立った特徴はなく、構成は平成全体と最も相似しているが、平成平均値よりは0.11低く、1.27。

全勝は1度だけ。優勝決定後に敗れて差が縮まったのが4場所もあったため、印象以上に星の差が縮まった。

 

50年代後半と似ているが、若干1差が減って2差が増えて3割近くに。平均ではわずかに差が大きくなった。全勝が6回と多く出たわりにはまだ大差は少ない方だったが、決定戦が12%(3回)と少なかった。63年は平均1.83。双羽黒がいれば千代の富士の53連勝はなかったという声もあるように、なんだかんだ言われながらも最も大横綱に食い下がっていた新人類横綱が62年暮れに失踪した影響は大きかった。

 

星の差1.5以上をマーク。1差以内は60%だが、2差、3差、4差がコンスタントにあり、決定戦が13%と3番目に少なかった(4回中3回を千代の富士が制し、朝潮は3回敗退している)。千代の富士ー隆の里の4場所連続相星決戦など見応えはあったが、決定戦は1度もなし。千代の富士ー北の湖も1度きりだった。59年は安定勢力がおらず、好調者が抜け出して連続で4差、大きく星の差が大きくなった。

 

昭和屈指の僅差となった時代。それでいて平均優勝成績も13.73と高く、輪湖に若乃花の健闘が多くのデッドヒートを生んだ。3分の2が1差以内。2差34%は最多だが、3差以上がたった1場所。千秋楽の相星決戦の結果1差、1差決戦の結果2差がついたケースも多く、数字以上に白熱した。

 

6パターンもの星の差を生み出した特異な時代。最後の引分を記録した三重ノ海が11勝3敗1分で次点に入ったため、2.5差の場所が発生した。1差以内は57%と6割弱。混乱期を含むが、星の差平均1.52は5番目の大差だった。一人に押し付けるわけではないが、全勝ー8勝ー全勝をマークし、準優勝わずか2回の北の富士のムラっ気が星の差を大きくした要因といって間違いないだろう。存命中1度しか「掲示板」を外さなかった(優勝か準優勝)玉の海が健在なら全く違う数字が表れただろう。

 

決定戦が10%(3回)は、全時代で最も低い割合。人気低迷の一因ともなった。4差がつく場所はなかったが3差が27%を占めるのは最多。45連勝中の大鵬が3場所連続で3差をつけた。4横綱のうち3人が引退、後継大関も停滞し、対抗馬不在。一方で大鵬も休場が増えて準優勝は少なく、次点との差がつきやすい環境にあった。その結果、平成21ー25年に次いで平均の星の差が大きい年代となった。