令和大相撲5年史 優勝争い分析②−3 昭和5年毎の地位別割合 | 三代目WEB桟敷

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令和大相撲5年間と、昭和大相撲(部屋別総当たり制実施以降)の5年毎を比較する。

 

平成の5年毎との比較はこちら

 

改めて、令和はこの通り。

 

早速昭和60年代は4年間で集計する。以降、○年代前半、後半と平成とは切り取り方が1年ずつズレるが、ご容赦いただきたい。

5連覇あり、53連勝ありと千代の富士黄金期に当たる昭和60年代。横綱75%、大関21%と上位陣で占めた。唯一関脇で優勝した保志も、1年半後には横綱北勝海となった。

 

北の湖を中心とした4横綱リーグ戦の時代からウルフフィーバー、隆の里がライバルに浮上。横綱はコンスタントに優勝したが、千代の富士に3連覇があるだけで圧倒的な存在はおらず、比較的低めに終わった。大関では若嶋津が3場所で2回、全勝も記録するが綱取りは失敗。関脇は3回、3人とも場所後に大関に昇進した。蔵前国技館のフィナーレを飾った多賀竜の平幕優勝は、実に8年ぶりだった。

 

輪湖時代全盛期、横綱が8割。割を食ったのは大関で、輪湖が不調の50年に貴ノ花が2度記録し、若三杉が52年夏を制したが、翌場所以降はずっと横綱の優勝が続いた。気の毒なのは旭國で、決定戦で輪島に、13戦全勝対決で北の湖に敗れている。若三杉は2場所連続決定戦で北の湖に敗れ、三重ノ海は14戦全勝の輪島に並んだが決定戦でお返しされたが、それぞれ直近1年以上優勝なく横綱に推挙された。平幕優勝で息を吹き返した魁傑は大関に復帰、金剛は二所ノ関の後継者に。

 

北玉同時昇進に始まり、3横綱のハイレベルな争いで11場所連続で賜杯を回し合った。ところが、大鵬引退に続いて玉の海が急逝、一人横綱の重圧に北の富士が沈んで突如乱世が訪れた。47年は関脇と平幕の優勝が続いたが、北の富士の復調、琴櫻の狂い咲きと輪島の超特急昇進でどうにか収まった。49年にはまだ20歳の北の湖が関脇、大関で優勝したが、納めの九州で小結魁傑に決定戦の末逆転され横綱として賜杯は抱けなかった。結果、横綱の割合は昭和の各年代で最も低い63%に留まり、関脇以下は最多の20%に達した。

 

40年代と共に部屋別総当り制が導入され、現在と同じレギュレーションに。初日から玉乃島が元兄弟子の大鵬に恩返し。序盤から横綱栃ノ海ー大関佐田の山が組まれるなど、上位陣にとっては番付上位との対戦が増えてハードになったはずだが、優勝力士の地位にはそれほど影響なく、最初の3年は大鵬、柏戸、佐田の山の3横綱でほぼ占めた。43年春、混戦から最後にひょっこり顔を出した若浪が平幕優勝で風穴を開ける。佐田の山が引退、柏戸も最晩年を迎え、大鵬は45連勝をマークするも休みがちになる中で、翌年にかけて大関の優勝が目立った。大関時代の北・玉・櫻が2回ずつ、清國も新大関で栄冠を勝ち取り、4大関による昇進レースの中で70年代に突入。大関は昭和後半で最多、3割に迫る優勝率となった。

 

まとめ

昭和(後半)もどの時代も横綱、大関が安定。最も荒れた昭和40年代後半でも関脇以下合計で20%を占めたに過ぎない。令和の関脇以下優勝半数越えというのがいかに異例のことか改めて浮き彫りとなった。