平成の幕内力士【師匠編】 ⑪隆の鶴 | 三代目WEB桟敷

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略歴

 

 強豪が揃った昭和51年生まれの中では目立つ存在ではなく、しかも同部屋にはのちに大関候補となった「鳴戸の若隆」がいた。さらに奇病に苦しみ、同世代が芽吹いた頃には足の大手術で長期離脱。前相撲に落ちたりと苦労した。それでも大きな体を武器に15年1月の新入幕では早々に勝ち越し、12日目に10勝1敗と優勝争いに残っていた元大関出島を破る活躍も、最後3連敗で条件付き敢闘賞を逃した。その後は故障で幕下落ち、這い上がって再入幕で6連勝で勝ち越した。幕内在位は5場所。

 

 

特徴

 

 同じく長身でもみ上げを蓄えた闘牙とのそっくりさん対決が話題。相撲ぶりは対照的で、巨体を生かした寄り、極め技で、腰高ながら腹を押しつけて出る迫力があった。最後の勝利はその闘牙で、翌日から通算20連敗を喫して引退した。

 

 

引退後

 

 準年寄、仮株とつないでいたが、23年に師匠が急逝すると、唯一の部屋付として鳴戸を襲名。同期の関脇隆乃若は既に退職、若の里は現役だった。その後稀勢の里が横綱に、髙安が大関に昇進するが、その頃には田子ノ浦部屋。協会に提出を求められた年寄証書の引き渡しを巡って先代遺族と折り合わず、やむなく鳴戸を返上。急遽部屋も移転し名跡変更していた。先代への不義理と感じる向きもあっただろうが、弟子たちも師匠の事情を理解したのか足並み揃えて「脱鳴門」を果たした。引退した若の里の西岩、稀勢の里の荒磯(のち二所ノ関)は独立。部屋付きもいなくなってガランとした部屋を、長らく高安一人が支えている。田子ノ浦部屋になってからの関取はまだ誕生していない。

 

 

 

証書引き渡しが波紋を呼ぶ

 

 年寄証書の引き渡しというのが度々出てくるが、暫定的な襲名である場合には、借株でなくても先代側が債務履行の担保に証書を所持している場合もあったらしい。たまたま当時は公益財団法人移行のために一斉提出を義務付けられ、そういった事情で貸出を希望しても折り合わないケースが出てきた。

 苦肉の策で別の名跡の都合をつけたのが、鳴戸改め田子ノ浦であり、手を打てずに退職に追い込まれたのが濵錦の春日山である。そのほかにも、表沙汰になっていなくても、人知れずギリギリの交渉が行われていたことだろう。