(先日放映されたNHK 未解決事件「下山事件」をご紹介した投稿、大きな反響がありました。そこで、同じシリーズの帝銀事件について、昨年1月5日の投稿を再掲してみました。)

 

 

 

2022年NHKで放送された「帝銀事件」のドラマとドキュメンタリー、見ごたえがありました。

1948年、白昼の銀行で行なわれた大量毒殺事件「帝銀事件」、薬物処理を熟知した者でなければできない犯行なのに、逮捕され死刑判決を受け、獄中死したのは、薬物とまるで関係ない画家だった

警察の拷問的「取り調べ」で20日目に「自白」させられた平沢貞道画伯、公判では一転、無実を主張し続けた

犯人の顔を見た生存者は平沢氏を見て「犯人は卵型だが、平沢は、ほおが出ている。犯人より平沢の方が年とっている」「これが犯人だと感じられなかった。そういうものがない」「あの人ではないと思う」と話していた。

「自白」でも最初は「凶器は塩酸」と言っていたのに、警察の筋書きに沿って「青酸カリ」と供述を変えた。

毒を飲ませた犯行を再現させたフィルムが残っているが、かえって平沢の無実を証明する内容になっている。

毒物を入れる動作が犯人と違う

平沢はピペットを指でつまんでいるが、生存者の証言では、犯人はピペットをにぎり、親指で押す動作をしていた。

毒物の飲ませ方が犯人と違う

平沢はまっすぐ舌を出して飲むよう促した、と再現したが、犯人は下で歯を包むようにして飲むよう指示していた

2つ目の液体を飲むまでの時間、平沢は「2分」としたが、犯人は「1分」と指示していた

2つめの薬を飲むまでの時間も、平沢は「2分」としたが、犯人は「1分」と指示していた。

平沢氏に犯行再現行為をさせているけど、本当の真実の犯人と同じような動作が全然できなかった。

 

捜査が進む中で旧日本軍関係者の捜査が急増していく

南方防疫給水班の中に「毒殺班」があった

警察は「南方軍防疫給水部」と関係のあった組織に捜査の網を広げていく

 

二カ月後警察はある秘密部隊(731部隊)に到達する

捜査員が部隊を率いていた石井四郎と接触

石井は「俺の部下にいるような気がする」と語った。

石井は、「憲兵の指揮官、軍曹Aが(犯人のモンタージュに)一番良く似ている」とも語った

731部隊と深い関係にあった「登戸(のぼりと)研究所」

登戸研究所幹部 伴繁雄は即効性のある(服用後すぐ死ぬ)「青酸カリ」ではなく、遅効性の「青酸ニトリール」を開発した。

その青酸ニトリールは厳重に管理されていたが、管理者が明かしたのは「複数の人間が持ち去った。とにかく2回出した。」という事実

GHQは「軍の秘密部隊を警察が捜査していることは報道するな」と報道機関に要請

石井四郎(731部隊隊長)の娘は語る

アメリカもソ連も731部隊の研究内容を欲しがった。

陸軍の中枢にいた服部卓四郎と有末精三がGHQに731部隊の情報を与える代わりに関係者を免責(戦争責任を問わない)する、という取り引きを行い、その後軍関係者は口を閉ざすようになる。

731部隊員の証言

私たちの身柄を保障してくれると米軍では申し、もし米ソ戦争が開始された際には身柄は早速米本国へ移すことになっている、と聴いている

 

有末精三、服部卓四郎の聴取から1週間後、警察は突如平沢の逮捕状を取得。本丸だった軍関係者への捜査は急転換する。

警察が追っていた憲兵Aは昭和49年に亡くなっていた。

そして帝銀事件の凶器は、登戸研究所が開発した「青酸ニトリール」と言っていた、登戸研究所の伴繁雄は、それまでの供述をくつがえし、平沢の「自白」に合わせて、「青酸カリ」だとした。

伴繁雄の晩年の未公開の手記によると

「GHQ、G2に召喚さる」警察から聴取を受けた同じころGHQから呼び出され、尋問を受けていた。「戦犯の指名を受ける日がついに来た。取り調べに偽証したら巣鴨プリズンに収容すると厳粛に告げられ、威圧感を覚えた。ギブ・アンド・テイクの法則に従って協力を約せしめ

逮捕当初平沢に同情的だった世論もマスコミの報道で変化していく。平沢が過去に詐欺事件を起こしていたことが報じられると「えん罪の被害者」という声はかき消され、未曽有の凶悪犯だ、と非難があつまった。そして警察はすべての軍関係者への捜査を終了した。

松本清張は、こう書き残している。

世間の大衆が平沢に憎悪の目を投げつけたのは当然である。彼らは、新聞による報道だけで、詳細な内容を知らされていない。警視庁の主観が新聞の主観となり、それが読者の主観となり、世論となるのである。

現在20回目の再審請求が行われている。

帝銀事件で娘を失った父親は心境をこうつづっている。

亡くなった娘は帰ってこない。
思うに帝銀事件という出来事も間接には戦争の生んだ犠牲の延長と私は考えざるを得ない。あの頃は何か無言の力で自分の意志の自由は押さえられていた時代で事件の真相の究明をも困難に陥らしめたのであろう。(以上、テレビ番組より)

 

警察、当初は「陸軍習志野学校関係者に犯人がいる」と考えていた

帝銀事件で捜査当局が注目したのは、毒物を第1薬と第2薬の2回に分けて与えたことでした。

上の図に出て来る「習志野学校」(陸軍化学兵器研究所)では、「体験要領」として、毒薬を第1薬と第2薬(中和剤Second)に分け、「教官が兵を集めて自ら呑んで見せて/呑ませる」というやり方で教育していた。これは帝銀事件の犯人と同じやり方であり、事件の際に犯人が第2薬を入れていた薬ビンには「Second」と記されていた。


このことから当初は「習志野学校関係者に犯人がいる」と見られ、下図のとおり捜査の第3期には、習志野学校が集中的に捜査対象にされていました。
しかしその後捜査対象は731部隊に移っていきました。

(下の表は山田朗著「帝銀事件と日本の秘密戦」に掲載されたものです)

 

 

ドラマの中で語られた「戦争は人間が人間でなくなる」「情報を伝えないことで社会の安寧を保つ」という言葉

このドキュメンタリーの前に放映されたドラマ「帝銀事件」で記憶に残った言葉があります。

戦争は人間が人間でなくなる(松本清張の言葉)

戦争は人間をケダモノにしてしまう。重い言葉です。「敵基地攻撃能力」などという言葉を軽々しく叫んで国民に戦争をさせようとすることが以下に愚かなことか、肝に銘じたい。

(情報を)伝えない、ということで「社会の安寧が保たれる」のなら、その選択は正しい
(GHQの指示に従ってしまった新聞記者の言葉)

「社会の安寧」を保つために、「真実」が隠され、如何に多くの「えん罪」が作られてきたか。「犯人でないことを重々知りながら無実の人間を犯人にしてしまう」ことによって成り立つ「社会の安寧」、それは権力者にとって都合の良い「安寧」ではないのか。改めて考えさせられる言葉です。そして「社会の安寧」のための「えん罪」は今もあとをたたない。

 

 

 

 

平沢の母校「北海道小樽潮陵高等学校」50年史(1953年刊)には「潔白の日の一日も早からんことを」と書かれている

1950年第一審で死刑判決、1955年に最高裁で死刑確定。しかしその渦中の1953年に平沢の母校「北海道小樽潮陵高等学校」が発行した「潮陵五十年史 第五篇 卒業生の活動」の中には、文学・芸術方面で活躍した人物として平沢の名があげられ、

昭和二十四年いわゆる帝銀事件の容疑者として人生の悲運に泣かねばならぬことになった。母校も同窓も共に泣き、潔白の日の一日も早からんことを念じている。

と記されています。

世間が平沢を凶悪犯と騒いでいた頃、学校の記念誌にこういう文章を堂々と載せる校風、すごいと思いませんか?

なお、この潮陵高等学校の卒業生には、以下のように錚々たる人士がいます。

伊藤整(作家)
加藤浩次(タレント・極楽とんぼ)
小林正樹(映画監督)
平沢貞通(画家、帝銀事件で有名)
山中恒(作家)
秋野豊(政治学・タジキスタンにて殉職)
岩村忍(東洋史学・京都大学人文科学研究所教授)
向坂逸郎(マルクス経済学者)
山内昌之(歴史学・東京大学名誉教授)

 

 

 

 

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