「下山事件 最後の証言」という本。著者柴田哲孝氏の祖父が下山事件に関係していた!

(習志野市民の方から勧められた「下山事件 最後の証言」という本、その内容が載った読売新聞オンラインの記事です)

 

作家の柴田哲孝(66)は、ノンフィクション「下山事件 最後の証言」(以下「最後の証言」)を2005年に著して翌年の日本推理作家協会賞「評論その他の部門」に輝くと、15年には追加情報や自身の推理などを書き加えた小説「下山事件 暗殺者たちの夏」(以下「暗殺者たちの夏」、いずれも祥伝社)も出版した。この2冊で、米軍情報機関と通じて密輸などを手がけていたとされる「亜細亜産業」が組織的に事件に関与したとする他殺説を展開した。

信用すべきだと思われる情報を絞り込み、時系列で構成した。あくまでも一つの説であることを、あらかじめ断っておく。(読売新聞東京本社・木田滋夫)

 

仮説・下山事件…1949年7月5日の動き

午前8時20分頃  出発

 

 東京都大田区上池上にある下山の自宅から、公用車で丸の内の国鉄本社へ向かった。皇居の和田倉門付近までは、いつものルートを走った。

 

午前8時40分頃~9時30分過ぎ 公用車で「 謎のドライブ 」

 

 丸の内・日本橋・神田など狭いエリアを公用車でグルグルと巡った。百貨店、神田駅、銀行などと、運転手に対する行き先の指示は二転三転した。

 

 

午前9時35分過ぎ  日本橋三越で姿を消す

運転手に「5分くらいだから待っていてくれ」と言い残し、南口から店内へ。その後、車には戻ってこなかった。

 

昼過ぎまで 亜細亜産業で監禁か

 三越から、 日本橋室町 にあった亜細亜産業(編集部注:下山事件に関係した元軍人や右翼が出入りしていた会社)の事務所までは、直線距離で約250メートルと近かった。柴田は、下山が三越店内で誰かに脅されるなり誘われるなりして、亜細亜産業に連れ込まれた可能性が高いとみる。根拠としては、平日(7月5日は火曜)にもかかわらず、亜細亜産業が休業していたことを挙げた。「亜細亜産業に当時勤めていた私の大叔母によると、7月5日を含む2日間か3日間は会社が休みだった。彼女の記憶では『亜細亜産業の総帥が田舎に帰るため』といった理由だった。私は別の元事務員の女性に対する取材でも『確かに会社は休みだった』と聞いた」

 事務員たちを出社させなかったのは、下山を監禁するための人払いだったという推理だ。亜細亜産業が組織的に事件に関与したという柴田の説通りならば、「無人の自社事務所内」は、日中の監禁先としては確かに、他の場所よりも目立ちにくかっただろう。

 

午後2時半~4時頃 亜細亜産業から車に乗せられて出発

午後3時半~5時頃 足立区西新井のたばこ店前

 諸永裕司著「葬られた夏 追跡 下山事件」(朝日新聞社)に収められた目撃証言を、柴田は真実味が高いと考えている。証言内容を要約すると「7月5日の午後そう遅くないころに、下山のような男を乗せた黒塗りの外車が東京都足立区西新井のたばこ店前に現れ、運転手が向かいの家に立ち寄り、間もなく走り去った」。証言者はたばこ店の2階に下宿していた大学生だ。そのあたりでは珍しかった車をのぞき込んで、後部座席の真ん中に挟まれて座っていた眼鏡の男性の顔を見たといい、翌朝の新聞に掲載された下山の顔写真を目にして「声を上げそうになった」とされる。

 日本橋の亜細亜産業から西新井駅周辺までは北に約10キロ。当時の車での移動時間は1時間弱くらいか。「午後そう遅くないころ」を3時半~5時と仮定すると、亜細亜産業を出たのは2時半から4時頃にかけてのいつか、という計算になる。

 

午後5時以降 荒井工業へ

足立区西新井を出発した車は、南東4・5キロにあった葛飾区小菅の「 荒井工業 」に入った。この町工場の旋盤工だった荒井忠三郎(2023年7月に96歳で死去)の証言によると、7月5日は通常通り操業していた。ここに下山が連れ込まれたとしたら、夕方の終業後、従業員が帰った後だったと考えるのが自然ではないか。なお、下山を三越で見送った公用車の運転手が「カーラジオで(下山失踪の)ニュースを聞いた」と国鉄に連絡した時刻は、午後5時過ぎだった。それからしばらくの時間帯、捜査の目は日本橋の三越付近に集中していたことだろう。

 

荒井工業と遺体発見現場(れき断現場)の位置関係
荒井工業と遺体発見現場(れき断現場)の位置関係

 

午後9時40分~10時40分 荒井工業内で死亡

  東大による解剖の結果、下山の遺体の性器には、生前にできた出血を伴う傷があり、強い衝撃を受けた可能性を示していた。「暴行を受けて死亡した現場は、荒井工業なのかもしれない」と、柴田と僕は考えている。荒井工業は切削作業にヌカ油を使用し、建物はもともと染色工場だったといい、下山の衣類にヌカ油や微量の染料が付着していた事実も、ここで暴行を受けたとする仮説と符合する。荒井は「近くにある別の工場が現場ではないか」と考えていたが、柴田はこの見方を退ける。「遺体の発見現場から近いエリアで、下山総裁を連れ回して荒井工業のほかにも『現場』を作れば、犯行グループにとっては発覚リスクが高まる。それはやらないだろう」

 また、荒井工業近くの道路・ ミヨシ通り では「午後9時5分」に黒い外車が遺体発見現場の方に向かって走り去っていくのも目撃されている。矢田喜美雄著「謀殺 下山事件」(新風舎)に収められた証言によると、車内は5~6人の男性でぎっしりで、その一人が通行人に呼び掛けるように手を振るのを、ほかの男性が押さえているように見えたという。

 

午後11時以降 遺体発見現場の付近へ

 下山の遺体を乗せた外車は、常磐線の線路付近でとまり、男たち数人によって運ばれた。荒川放水路の鉄橋を越えた綾瀬駅寄り、東武線が常磐線の上を交差する地点は、自殺者の多い地点として知られていた。線路脇には「ローブ小屋」「ロープ小屋 」と呼ばれる釣り糸製造の作業場があり、 下山と同じ血液型の血痕も見つかった。列車が通過するまで、この小屋を待機場所に利用したかもしれない。

 

6日午前0時19分 常磐線を走る蒸気機関車が遺体をれき断

下り線の貨物列車が、線路上に横たわっていた下山の体をれき断し、地響きを立てながら走り去った。

荒井工業こそ「現場だったのだろう」

 ――僕が取材した「荒井証言 」によると、証言者が勤めていた町工場は下山総裁のれき断現場に歩いて行けるほど近く、しかも「 亜細亜産業の系列工場だった 」とのことでした。鉄道弘済会との取引があって、事件前日に「犯行予告の怪電話」を受けたことで知られる 弘済会職員 が工場の顧問としてたびたび訪れていたとも、証言者は話しています。工場では切削作業にヌカ油を使い、 建物はもともと染色工場だった という点も、下山総裁の衣類にヌカ油や染料が付着していた事実と符合します。

 

 「荒井証言は、町工場『荒井工業』に事件当日の夕方以降、下山総裁が連れ込まれた可能性を示しています。死亡推定時刻(午後9時40分~10時40分)を考えれば、遺体の発見現場から近い場所に下山総裁が連れ込まれたほうが整合性がとれます。そして、証言者が描いた工場の見取り図は、亜細亜産業で働いていた私の大叔母が描いた『系列工場だった綾瀬の鉄工所』の 見取り図と、ほぼ一致 しましたね」

 

 

――柴田さんは、「証言者の長兄(荒井工業の経営者)が、 プラチナのインゴット (延べ板)をもらった」という話の中で、「プラチナ」に注目されました。僕自身は「どういう趣旨でもらったのか」が焦点だと思って取材していたので、少々意外でした。

 

 「もし、証言者の作り話なら『プラチナのインゴット』ではなく『金の延べ棒』と言ったでしょう。プラチナだったから、私は証言を本物だと思いました。プラチナが当時の日本でどこにあったかを考えても、亜細亜産業とつながりの深かった『 金銀運営会 』に行き着きますし、どちらの組織も事務所は東京・日本橋の ライカビル にありました。当時はプラチナより金のほうが貴重で、世界中どこへ行ってもさばきやすかったはずです。だから、終業後の工場を利用することに対する荒井工業への『協力謝礼』か『口止め料』を、亜細亜産業側はプラチナで済ませようとしたのではないでしょうか」

 

柴田哲孝氏の著書。2冊とも祥伝社刊
柴田哲孝氏の著書。2冊とも祥伝社刊

 

 

 

 

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