『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[28]


○女性と家庭
 ~個人として成り立つ前の女性~


(1)はじめに

 A.中世の3身分の図式=「騎士,聖職者,農民」(11世紀頃)には、女性固有の地位は与えられていない。社会的な区分・職業(例:農民の女,女城主,聖女)を通じて女性を規定するようになるのは、まだ後のことであり、長い間女性は「子を産む役割,家族グループ内での立場・関係」によって規定されていた
〈例〉妻・未亡人・処女というのは、男性(or男性グループ)との関係において定まる。一方では男性には法的人格・日常的倫理が明示されている
 B.中世における女性の立場は、家族グループという狭い空間の中が全てではない。「女性のために出された請願・命令はもっと広い範囲に影響を生じる」「交際範囲も血縁・姻戚関係に止まらず、地域の交友・経済界・政界に広がる」のだった
 C.女性と家庭の姿を伝えている史料(ごくわずか)が、主な当事者としての女性の声を再生してくれる。実際のところ「『日常的な喜び・悩み,家庭での歓喜,不和のこだま』は、女性側よりも男性側のほうがはるかに多い」という制約がある(それは寛容・悪意・むき出しの敵意といった感情とともに伝えられる)
 D.史料におけるもう1つの制約は「社会の上層(古い時代には貴族階級,中世後期には都市のブルジョワジー)に関する史料が多い」という点にある


(2)婚姻という戦略

 A・中世において、一族と一族との間の対立関係(時には紛争の果てに)の存在するところにおいて、婚姻によって「和平」が調印される。和睦する相手の家へ娘を嫁がせるのは、和平の担保(or手段)としてその中核となり「女性の個人的運命,私的な願望」を越えた(無視した)役割が与えられる
 B.女性は「両家族の間の一切の不都合を解消する,嫁ぎ先の家系を維持するために子供を産む,身体と持参金を提供する」という役割が、夫への義務よりも強く要求された。近代的な「夫婦の結合の原理」は、聖職者たちによって徐々に考察が熟し、さらに深刻な経済的・社会的変動(中世後期)を経過して、はじめて現れるものである→“良妻”のイメージが浮かび上がって来るようになる
 C.女性を利用しての2家族間の友誼を作る(or回復させる)事例は、最初は封建社会の指導層から始まる。封建領主は領土的野心・政治的理由によって広く実行していた(中世盛期)。やがては都市の指導層(13~14世紀)において「旧来の憎悪・絶えなかった報復行為が、華麗な女性交換で終結する」。しかし時には和解が失敗し、そうなると必ず私的or公的な戦いが白熱してしまう
〈例〉フィレンツェ:
 チェルキ家とアディマリ家の婚姻(1288年)のおかげでビアンキ派の結束は固まり、旧来の軋轢に終止符を打った。他方でネリ派の党首は、最初の妻(チェルキ家の女)と離婚しただけでなく、反対派から奪った豊かな女相続人と再婚したために、内乱を招いた
 その後アディマリ家とペルッツィ家は、プリオーレ広場に両家の友人たちを大勢集めて厳かな和睦を結んだ(1312年)。ここでも女性は家族間で移動させられ、和平の保証にされた。ここでは巨額の持参金が動いたことが記録されている

【教会の介入】
 D.婚姻戦略の理論化は、聖アウグスティヌスから始まっている。この聖者は「他の家族と結婚する義務」「社会的な絆を保証し、姻戚となった者同士が守るべき慈善と友愛が社会の結合の基礎となる必要性」を強調している
 E.ところが、血縁の連帯は閉鎖的家族グループを互いに対立させてしまう可能性があった。というのは「祖先伝来の財産を子孫に伝える」のは家系の最も重要な義務であり、財産の流出を防ぐために同族間結婚が行われてきたのだから、他の家族との結婚は家系の義務に反することだった
 ★俗人は(たとえ聖職者から「近親婚に該当する」と言われても)一族の財産を守ろうとして同族の子供同士を結婚させるために、既に存在する姻戚関係を放棄してしまうことがあった
 F.一方で教会は、上記D.を口実として「同族間結婚の禁止」を正当化した(6~8世紀)。「あまりに近親すぎるいとこ同士の結婚」は、教会にとっては排除しなければならないが、俗人にとっては(家族財産の流失を防ぐために)奨励されるべきこととなる。両者の見解の衝突は、王侯家族の結婚をめぐって起こった(11世紀末)
 ⇒教会は年を追って要求を緩和し、第4ラテラノ公会議(1215年)では「7親等の外婚範囲を4親等に引き下げた」=「互いに4代目の子供なら結婚できるようになった」
 ⇒ただしその代わりに、いくら身分の低いキリスト教徒でも、いとこ同士であることを知らないフリが出来ないようにした。つまり「当人たちの親等をよく知らない婚約者たちの近親婚を避ける」ために「予め婚約の公示をさせる」ようにした


(3)結婚がもたらす効果

 A.婚姻は両家族の身分・名誉に関係し、結婚によってもたらされるメリット(名誉と物質的利益)を両家族ともに計算する。重要となるのは「嫁に出される娘は『夫の家への移動』『階級・地位の上下への移動』を甘受しなければならない」点である。後者は、夫の家と妻の家の社会的序列が違うと必ず発生する
 B.騎士階級の結婚戦略(11・12世紀)と都市ブルジョワジーの結婚戦略(14・15世紀)は、いずれも「父親が自分の息子のために、自分より上流階級の娘を嫁に迎えようとする」ものだった。嫁の大半は結婚によって「家系の地位・階級が劣る夫のもとへ嫁いで身分を落とし、それでも夫に服従しなければならない」のだった
 C.このことから、中世文学において「身分の低い夫を非難してやまない短気で過酷な女」「自分の家系&家紋を笠に着てガミガミ言う女」に刃向かう男の恐怖は、よく見られるテーマだった
〈例〉再婚に際して、前の妻より偉い身分の女を選ばないように勧めた(byパオロ・ディ・チェルタルド)。なぜならそんな女と再婚したら「あたしには貸しがあっても借りはない。だったあたしの方が大家の生まれだし、親類も偉い人ばかりだから」と言われる筈だから
 D.結婚が社会に認められるためには、時代がいつであれ「たとえ僅かでも財産がある家族集団から他の家族集団へ譲られ、それによって女性の譲渡が実現されなければならなかった」。これによって双方の家族集団の名誉が保たれた
 E.中世初期には「a.夫とその家族から妻の家族へ財産が移された」(=娘を譲渡した家族への損失補填)。その後「b.この財産は妻自身へ与えられる」「c.妻は見返りとして衣類・不動産をもたらす,現金を夫に与え続ける(or自分の手許に残す)」。この仕組みによって「d.彼女は夫の死後も生活を確保できた」
 ★この贈与&見返りによって「両家は固く結ばれる」。しかもその価値はハッキリとランク付けされ、両家の社会的地位を現していた

【持参金】
 F.やがて妻の持参金額が増加する一方となり、夫の贈り物・提供物に比べて負担が大きくなる(12世紀~)。夫の提供する物のうち、あるものは勝手に廃止された
〈例〉フランク族に由来するジェノヴァの“テルティア”(亡夫の財産の1/3に対する未亡人の権利)は廃止された(1143年)
 G.その後持参金は(特にローマ法の原則を受け継いでいる国=西欧の南半分で)結婚に関係する交換の中心的負担となり、中世後期には「夫婦間の財産提供に関する全ての法律」へとつながる。夫側からの提供も完全に消滅することはなかった:
1.「南フランス・イタリア・スペインでは、嫁いだ女性の評価は持参金額に依る」
2.「それより北側の西欧では、夫が設定する財産遺贈(=自分の死後に妻へ遺す)は近代まで存続する」
3.「一般的には女性は、持参金・夫から貰った財産を完全には自由できないようになる(中世後期に至るまでは、自由に財産を利用できた)」
4.「これにより『a.夫が上記の妻の財産を管理するようになり、収益をほしいままにできる』『b.夫が死んでも妻には用益権しか手にできない』『c.全ての遺産を自由に遺贈できなくなる』のだった」

【財産に対する女性の権利喪失の理由】
1.「土地関係の封建化が進んだことにより、女性が城・領地といった財産の移転に関与できなくなる」
2.「商工業で生計を立てている都市では、各職業組合の閉鎖性により、活動と責任は男性のものとなる(=女性の経済的役割の低下)」
3.「支度金を貰ったことにより、娘は世襲財産の相続から外される(支度金が相続分の代わりとなるから)」
4.「ひとたび嫁ぐことにより、理論的には自分の所有である筈の財産に対しても、能動的な管理権を放棄することにされた」
 H.上記の変化の方向は、地方や慣習によって多少の違いはあっても、ほとんどの場所で同じだった(中世が進むにつれ)

【女性の地位低下】
 I.女性の経済的役割・財産管理能力が引き下げられたことによって、女性の「価値」が低下していった。文献史料に見られる女性蔑視(13~15世紀)の生まれた原因は「禁じられた性に対する聖職者の抑えがたい悩み」でしかないのだが、しかし女性に対する敵意に満ちた雰囲気を作り出し、女性の財産権を制限する方向へと働きかけた→さらに「女性に対する懐疑的・否定的な一般の態度」を助長した
 J.都市化されたヨーロッパの大部分において「持参金のインフレ現象」が起こる(中世後期)。それは決して女性の貪欲と虚栄心のせいではなく、持参金・結婚支度金が「社会的な地位を確保し、身分を社会に認めさせる」目的で高額を用意するようになったから(=結婚は家族の名誉のために金がかかる!)
 ☆夫から貰う見返りもなく、持参金を付けて嫁ぐ女性もいたので“女性は嫁がせるのに高くつく”と言われた

【妻の振る舞い】
 K.男系相続の原理が確立し、家の名誉を重んじる社会では、女性は「血統を保存する役割が重要」であり、後は「煮炊き物”と子供をしつける」だけでよい。ところが、女性が性的な節操を守れるか否かは家族の中心問題となり得た。というのは「“良家”では他人の血が血統に混じるのを心配する」からである
 L.夫が婚外で作った子供は、言うまでもなく相続から除外される。しかし妻の不倫から生まれた子供は、母親が上手く罪を隠したならば(血統にとって)危険な存在となる。おまけにそれは「肉体の罪から生まれた,嫁ぎ先の家に対する裏切り行為」という二重の非難を受けた
 M.身分不相応な家へ嫁いだ女性は(窮屈な立場にあっても)「実家と嫁ぎ先の仲介役」という役割に忠実&献身的でなければならない。時にはこの求めは「妻の愛情,夫への服従」という義務とぶつかった。中世の終わり頃には世俗の人々は、家系に対する服従意識がぐらつき始めていた
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[27]


(7)悲観的な時代の商人

 A.モレッリは(多くの同時代人と同じく)深い悲観論者=「人間は生まれつき悪人である,人生は厳しく運命は非情である,現在ほどひどいものはない」だった。この時代のイタリア商人にとって、黄金時代は過去のものだった(※これは近代以前の人間にとって普通の「歴史観」だった)。だから家族が唯一の避難所と認識された
 B.イタリア(14世紀半ば頃~)を脅かした社会的・経済的な危機が、イタリア・ルネサンスが発展した背景にある。ルネサンス期のユマニストや商人作家たちは「人間存在の儚さを意識し、人間の本性に悲観的な眼差しを向けていた」のだった。そこには「数多くの身近な死の経験,数々の大惨事」があり、人々を少しも晴れやかな気持ちにさせてくれなかった、という状況がある
 C.しかし、ユマニストたちは文化という「理想的な価値観による人為的な世界」に閉じこもっているが、商人作家(←ブルジョワ階級)は「純粋に物質的な利害にしか動かされない、実業的世界」にいた。両者の繋がりは実はきわめて薄いものでしかなかった

【ルネサンス期実業家の現実】
 D.富裕な商人たちの絵・肖像画(イタリアやフランドルの巨匠たちにの作品)での姿は「上品で威厳を保ち、いかにも敬虔に見える」。さらに彼らは「病院を建てる,教会堂・公共建築物を装飾する」おおらかな寄進者のようにイメージされうる
 E.しかし実際の彼らの実業家としての精神は「情け知らずの利己主義を露呈する,商取引の相手に対して臆面もなく功利的であこぎな態度を示す」のだった。つまり彼らには、相反する2つの顔=「文化と商売,宗教性と合理性,信心と背徳」が共存していた!
 F.彼らは政治の舞台に立つと、政治を道徳から解き放った。事実上彼らは“マキァヴェリ以前のマキァヴェリ主義者”であると言える
 G.また、たとえ魂の救いが心配であっても、スペイン・イタリアの商人はイスラム教徒との取引の妨げにはなっていなかった。彼らは「教会の禁令を破ってアラブ人・トルコ人に武器を売った」「奴隷(※これはキリスト教徒?非キリスト教徒?)の売買で法外な収益を上げた」のだった
 H.イタリア商人は、ドイツ・ハンザの諸都市の商人と比べて、より積極的に「教会による高利貸し禁止の抜け道を探し・作り出した」。実際にフィレンツェでは「高利貸し業に対する苦情が多かったので、12~15%を越える利子を高利と見なした」のだった(コンスタンツの場合:利子が11%を越える貸出を禁じた)

【不道徳の恐怖】
 I.上記(6)のように、実業家たちは信心が(潔白に程遠い)取引の邪魔にならないよう調和させようとした。しかし実際にはそれは必ずしも上手くはいかず、地獄行きの恐怖心は商人・銀行家を襲った。その結果、少なくとも臨終の時には、財産を貧しい人々・教会へ寄付せずにはいられないこともあった
 J.ルネサンス期の哲学・芸術でよく見られる「メランコリー」とは、感情的な悲哀のことではなく「癒しがたい恐怖・救いが望めない恐怖」のことであり、商人層を支配する精神状態を指していた。実業家たちのこの恐怖心(人間の運命の浮き沈みの激しさによってもたらされた:上記A.)は、個人主義が発展していたことの反映であり、あの世での刑罰を恐れる気持ちによって深刻となった
〈例1〉フランチェスコ・ダティーニは老後、悔悛しようとして「巡礼を行う,断食する,(ついには)フィオリーノ金貨75,000枚に上る巨額の財産のほとんど全てを慈善事業へ寄贈した」。しかしそれでも、自分の過ちと「メランコリー」の悩みから解放されはしなかった
〈例2〉道徳的理由で職を辞したヴェネツィアの統領(ドージェ)は大商人だったが、店を閉めて修道院へ引退した
 ★もちろん、全ての商人があくせく働いて築いた財産に(上記のような)後ろめたさを感じたのではない!

【富と運命】
 K.中世における富のイメージは「休みなく紡ぎ車を回し続け、成功を求めてその輪にしがみつく人々を次々に引き上げては落とす」というものだった(このイメージは古代から継承した)が、これは誰よりも商人に適用された。「富:fortune」という語には「運命,成功」「富,大金」という2つの意味がある
 L.商人に常につきまとっている危機感は「人間を弄ぶ運命:fortune」と結び付けられた。中世末期になると「運命」の概念は、商人=「速やかに金持ちになるが、突然破産する」(例:フィレンツェのバルディ商会とペルッツィ商会の破産)というように繋がっていた。「運命」とは神の力・業である(古代とはこの点が異なる)
 M.しかし中世末における危機の増大は、人々に対して「破壊的で不吉な力=非運」というfortuneのマイナスの概念だけをのしかからせた。そこで商人たちには、運命のいたずらを避けるために保護してくれる守護聖者が必要となった
〈例〉ミラのニコラウス(聖ニコラウス=サンタ・クロース):
1.「彼は商人のために『商業と航海の守護聖者』の役割を果たした。遺体はバーリに保存され(11世紀末~)、多くの巡礼が押し寄せた」
2.「ヴェネツィアの商人たちは『聖ニコラウスの本物の遺体がヴェネツィアで発見された』と主張した。これはバーリとヴェネツィアの商業競争の産物である」
3.「北ヨーロッパ・バルト海沿岸地域でも、聖ニコラウスは商人たちの守護聖者となった」
4.「経済的な不安感がイタリア諸都市の住民の間で深刻化すると、不運から守ってくれると信じられた聖者の名が、子供たちに付けられた」
5.「商船にも聖者の名を付けられることが多くなる」

【富の保全】
 N.商業情勢の悪化は「遠隔地との交易に伴うリスク」を避けようとする商人に、資本の投資先としてもっと確実な選択をさせた
〈例1〉バルバリゴ家(ヴェネツィア)では、商人である老アンドレアは晩年に土地を買おうとし、また息子のニッコロも遺言書で「決して商売へ投資しないように」と、若アンドレアに勧めていた
〈例2〉『都市生活論』の作者マッテオ・パルミエリは、営利稼業を礼賛しながらも「平和な生活を保証する」農業を好んだ
 O.イタリアの実業家たちは、商業を見捨てて金融&土地所有への転向を行ったが、それによって大西洋で起こった地理的発見と、新しい大きな通商ルートの恩恵に与り損ねた

【危機によって広がったもの】
 P.中世後期に始まった経済活動の衰微(14世紀前半)とペスト大流行(1348‐49年)は、同時代の人々には「人間の罪に対する神の怒りの現れ」と受け止められ、引き起こされた人口激減は、社会的・心理的・道徳的な危機を生じさせた。死が目前に迫り絶え間ない脅威となり、商人全体に影響を与えた
 Q.『デカメロン』第1日目の物語的背景は「世界的な荒廃,野獣に変身した人間,全ての人間関係の崩壊」である。この作品に満ちている愉快な出来事・軽はずみな冒険の語りは、実はフィレンツェの10人の若い男女が流行中のペストの災厄から逃れている間に展開される。その裏舞台には「死の勝利」が広がっている
 ★同じように、フランコ・サケッティは自分の物語(※日本語訳は『ルネッサンス巷談集』)の序文で“読者がこの種の語りを聞きたがるのは、様々な破局、ペストと死の荒廃のただ中で、陽気と慰めを望んだからだ”とはっきり書いている
 R.大量悔悛・信心と熱狂の渦・鞭打ち苦行者の行列が“中世の黄昏”のヨーロッパ諸国に突然広がった(中には異端に走る者も現れた)が、この動きの中での商人たちの役割・影響力を量るのは難しい。しかしフィレンツェでは、ブルジョワに対するプロレタリアの階級闘争の特徴を示している『チョンピの乱』(1378年)が発生している
 S.その約1世紀後のフィレンツェは、メディチ家の支配から解放されたばかりであったが、今度は(禁欲主義の使徒&改革者の)サヴォナローラが、金持ちと聖職者階級に対して攻撃を繰り返した。彼の理想は「都市全体を一大修道院に変え、そこから奢侈・富・高利貸し・世俗的美術・世俗的文学を追放すること」だった。しかしそれは、金持ちに対する過激な憎悪の極端な表示に過ぎなかった
 T.中世商人の理想は、本来なら「a.限られた商取引に取り組む小企業」「b.『正当な価格』と『節度ある利潤』を追求する節度ある取引」において実現し「c.商人の経費と家族の必要を満たす以上を求めない」ものであるハズだった。ところが中世末には理想が現実と矛盾し始める
 ⇒商人の宗教性は貪欲&金銭的情熱と結びつき、商人倫理もそれに服従した!

【商人と家族】
 U.フィレンツェ商人シモーネ・ディ・リニエーリ・ペルッツィの遺言書では、父が息子に対して“わが息子は永遠に呪われるべし!”と、激しく怒っている。しかしこれは、中世後期の商人の家族が感情的に固く結びついたいなかった証拠とは解釈できない
 V.商人=家長の仕事は家族全体の仕事であり、それは「a.相続によって父から息子へ受け継がれる」「b.家族における父の役割は、息子を家族の中核に据えるようにすること(稼業を継ぐのは息子である)」というものである。さらに「c.家族は大規模な商業・金融業組織での主要な構成要素となる」「d.都市の富裕家族は、代々の都市要職への就任によって都市の管理機能を世襲した」
〈例〉オーベルシュトルツ家(ケルン:13~14世紀)は市長職に25回就いた
 W.身分の高い家族の自意識は、上記の「家族的回想録」にはっきりと現れている。それはイタリア諸都市のみならず、ドイツ(例:ニュルンベルク,アウクスブルク,フランクフルト)でも見られた。アルベルティの『家族論』にも、家族内での求心力の強まりが証言されている
 X.中世末の宗教画では、聖史の場面を家族における1場面のスタイルで表現されるようになっているが、これも富裕層の家族意識の生長と無関係ではない。ブルジョワの家族は(この時期の美術において確立された新しい現象である)「集団的肖像」のテーマとなる
 ★商人・金融家はその名を不滅にしようとして、肖像画を依頼した。画家はその構図を「家庭・事務所の中で妻子とともに描いた」のだった


(8)商人と打算・価値

 A.実業家たちの活動を認めるには新しい価値体系が必要だった(例:ダンテは商人を冷淡に扱い、ペトラルカは商人に全く関心を払わなかった)。都市の商人生活がイタリア文学に盛んに現れるのは『デカメロン』以降である(つまり14・15世紀)
 B.中世の伝統的な精神は、商人の特質=「通貨の使用,営利的アプローチ」とは全く相性が良くなかった。イタリア・フランス(15世紀)では、営利思想や利益計算に基づいた言い方・考え方が浸透し始めていた
〈例1〉「何千フィオリーノ(orフラン)に値する人物」
〈例2〉ジャコボ・ロレダーノ(ヴェネツィア人)の会計簿の備考欄:“統領フォスカーリは我が父と叔父の死のことで、私の債務者である”(=私に恩義がある)
〈例3〉商人が競争相手に勝ち、さらにその息子にも勝った時、彼は満足そうに目の前のページに“済み”と書き込む

【死後の世界と計算】
 C.煉獄が登場する(13世紀)以前の中世では、カトリックの概念上「死者の魂はすぐに(or“最後の審判”で)天国に行くか、それとも地獄に行くか(こちらの方が可能性は大)」とされていた
 D.ここに「a.煉獄において多少とも刑罰を受けてから天国へ行ける」という道が開けた。その上「b.死者へ捧げるミサ,教会への気前よい寄進,貧しい人への援助」を行うことで「c.煉獄の炎の中にいなければならない時間が短縮された」のだ
〈例〉遺言書(14・15世紀)では、富裕な資産家が遺言執行者と相続人に宛てて「死後ただちに膨大な回数(数百~数千)のミサを挙げ、一刻も早く煉獄の苦しみから救われて天国に行けるようにして欲しい」と指示している
 E.これによって「d.遺言者は自分のためにできるだけミサを多く唱えてもらわなければ気が済まなくなる」ほど熱心に、煉獄での責め苦を避けようとした。この動機が「e.中世末に遺言が激増する原因の1つとなる」「f.この世での善行とあの世での報いの数が正比例する、という考え方を普及させる」。金持ちは、あの世でもできるだけ快適に過ごしたい、と願った

【商人と表現法】
 F.遠近法は「見る者の視点を基点とする」手法であり、そこには本質的に「都市空間を三次元的に奥まで見通そう」とする積極的な意思が反映されている
 G.航海すり商人の必要に応じて「海図,旅行案内書,港や海路の案内図,ヨーロッパや世界の地図」が登場・発達した。陸路・海路での旅行(14・15世紀)は「地図作製法の発達,より合理的な空間支配」を促した

【商人と時】
 H.商人にとって「各地の定期市の巡回,商業・金融の各種事業や投機の成功に好都合な状況の利用」は全て、時に対して最大の注意力を向けさせた。彼らは「物事を日数単位で考える」唯一の中世人だった
 I.1年の始まりが地域によって異なり、さらに移動祝日である復活祭を年始とする場所もあり、実業家にはきわめて具合が悪かった。彼らの必要のために、1年が1月1日に始まるよう求められていく
 J.教会の鐘に支配された中世の時間(当分されておらず季節によって長さが変わり、不正確だった)とは違った、等分された文字盤によって示される機械式時計が発明(13世紀末)されて各都市に取り付けられる。その瞬間から「1日が24時間に当分される」「それが時計の鳴り響く音など(例:シュトラスブルクでは機械式の雄鳥の鳴き声)で告げられる」ようになる。やがて個人使用の機械式時計も製作されるようになる(15世紀)
 K.こうした発明は、実用的であるだけでなく「時が(聖職者ではなく)世俗人のために利用されるようになった」ことの象徴であった。時に対する感覚もこれによって敏感となった
〈例〉ジェノヴァの公証人は、書類を作りながら作成の日付のみならず、時刻も記録した
 L.時の値打ちは増大し、さらにかつては「時はかつての賜物」と思われていたが、今や「時は人間の財」と見なされるようになる
〈例1〉レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404‐72)は「人間の所有になるものは3つある」として、魂・身体・(はるかに貴重な所有物として)時を挙げた。さらに「失われたものは全て取り返せる。ただし時を除いて」と付け加えた
〈例2〉パリのある熟年ブルジョワが若妻に宛てたアドバイスの書では「各人が浪費した時について、あの世で釈明しなければない」と教えた
〈例3〉フランチェスコ・ダティーニ(銀行家・企業家)は「自分の時を最高に利用できる者は、他の誰よりも優れている」と主張した
〈例4〉あるヴェネツィアの商人は、1年の各月において「金の必要が増える月,最も多くの利益を上げるためにその必要を満たすべき時期」を記録している:
「a.ヴェネツィアでは9月・1月・4月で、これは出帆の時期である」「b.ヴァランスでは7月・8月、これは収穫期である」「c.モンペリエでは年に3度の定期市が立つ時に特に金の必要が感じられる」
 ☆上記1と4を比べると分かるように「ユマニストの時」に比べて「商人の時」は、ずっと味気なく現実的である。それでも、時を活用することに対する意識は等しかった

【商人と芸術】
 M.フィレンツェを始めイタリア諸都市の実業家は、ローマ教皇・専制君主・貴族たちに加わって「芸術家の庇護,芸術作品の発注,建築家・彫刻家・画家の制作に出資した」。大聖堂・大建築物が誕生し、さらに壁画・像で装飾された。金持ちは貴族を模倣しそれに比肩しようとして「故郷の町を美化する,自分たちの個性を賛美する」ための出費を惜しまなかった
 N.こうした芸術への参加は彼らの「社会における威光を高める,霊的視野を広める」のに役立ったし、社会的に見ればユマニスムの地盤を築く役割を果たしている。ルネサンス期の巨匠が作り出した文化の世界は、神話的・ユートピア的な輝きによって、商人・企業家たちの日常生活を輝かせ、崇高なものにした
 O.商人たちは計算・利殖に長けている一方で、鷹揚な金の使い方も知っていたのだ。彼らの教養は利益追求のためだけでなく、芸術作品を鑑賞する・文学作品を読むことに個人的な喜びをもたらした
 P.ところで、実業家たちと芸術家・詩人との関係は極端に変化しうるものだった(崇拝関係から単純な利用=賃金労働者のように扱う、まで)。しかし商人は、芸術のおかげで「自分たちの実業生活に全く新しい要素がもたらされる,高尚な意味が与えられる」ことを認めないわけにはいかなかった
 Q.新しい芸術がもたらしたもの=「世界の新しい知覚・観察,遠近法による空間への同化,写実的な細かさへの好み,時の感覚と歴史の時間経過に対する理解への変化,キリスト教の人間化,身体に与えられる高い価値」のいずれもが、中世末イタリアに現れた新しい階級=「前‐ブルジョワジー」の合理主義とマッチしていた
 R.実際のところ、実業家と天才とでは「個人的原則:美徳と能力」に対する理解が異なっていた。それでも両者は、共通した活動=「新しい世界の創造」に参加していた
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[26]


(5)商人の教育

 A.中世が始まってから長い間、教育は聖職者の特権(独占ではなかったようだ)であった。しかし商業の活性化につれて、状況はフランドル地方~イタリアにかけ至る所で変化し始める(13世紀~)
 B.商業活動を行うにはある種の教育(養成)が必要であり、無学文盲の商人では上手く仕事を管理できなかった。大都市のみならず小さな都市でも「世俗の学校が出現し、裕福な家庭の子弟に読み書き・計算を教える」ようになる。商人だけでなく、ロンドンでは「金銀細工師の見習い」も学校へ行くことを職業的に義務化していた
 C.新しい都市の学校では特に実業に関する知識が教えられた(これとは対称的に聖職者の学校では「聖書を学び、数学も暦法の観測以外は要求されなかった」)。商人に必要なのは、ローマ数字を捨ててアラビア数字(商業計算・ゼロの使用に適している)を使うことだった。計算と正確さが指向されるようになる
 D.商業計算のために「数え玉機」が作られ(13世紀~)、また計算を覚えやすくするためにリズム化されることもあった
〈例〉ヴェネツィアの1商人の遺言書(1420年)では、子供たちは「商売の仕方を覚えるために」数え玉のレッスンを受けること、とされている
 E.都市の学校ではラテン語が教えられたが、手紙・その他の文書が俗語で書かれることも多くなっていた。今日知られている最も古いイタリア語文書は「シエナの商業計算の断片(1211年)」である。実業文(特に商業文)の発達は「アルファベット文字の変化:カロリング式小文字の放棄とイタリックへの復帰(12~13世紀)」と直接に結びついていた
 F.実業家の子息は進んで大学へ通い、市参事会員にもなった(しかし稼業を続けた)。ただし高等教育を受けた者が、全て商売に戻ってきて家業を継いだわけではなく「ある者は聖職者・医師・法律家となった」
〈例1〉ハンブルク市参事会は「ロストック大学で学ぶブルジョワの子弟に奨学金を支給する」ことを決定した
〈例2〉北ドイツの小都市の参事会員家系では、3代にわたり18人の若者が大学へ通っている。また幾つかの都市では、大学教育を受けた人々が市参事会員の半数に達している
〈例3〉リヨンの羅紗商人の息子がローマ法の博士号を受けた(1360年)

【言語・文字】
 G.一般的な国際語は「地中海地域:イタリア語」「バルト海地域:中・低ドイツ語」であった。それでも外国語の勉強はかなり重視され、商人の要望に応えて辞書・会話の本も書かれた
〈例〉イタリア商人の子息は英語・ドイツ語を学んだ。ドイツ・ハンザの諸都市の商人は、ノヴゴロドでの取引に不可欠なロシア語を学び、バルト諸国での交渉のためにエストニア語を学んだ
 H.書物は長い間、聖職者に独占されていた。やがては商人・富裕なブルジョワの家庭でも所蔵されるようになるが、もちろん広く普及することはなく、贅沢品に止まっていた(~中世末)が、この点でもイタリアが進んでいた。ただしドイツでも「都市参事会が充実した図書館を備えていた」という
〈例〉シチリア島では、歴史家に知られている書庫123ヶ所のうち、100以上が市民の所蔵であった(14・15世紀)
〈商人の蔵書例〉
聖者伝,聖書,詩篇集,ボエティウスやキケロの作品,ローマの詩人,『神曲』,ボッカチオ

【商人の共有知識】
 I.商人は会計簿において(支出・収入だけではなく)、興味を引いた出来事について様々な情報を記録していた。商人の知識は諸国・諸都市への旅行だけでなく、読書からも得られた(例:ヨーロッパ・東洋の市場について,諸国民の習慣・制度について)
 K.とりわけ商業活動の実用書が現れた。その中には「a.商品・度量衡の単位の列挙」「b.流通貨幣と関税について」「c.商人への課税額を引き上げた当局の目を誤魔化す方法」「d.商法」「e.会計の例」「f.各種産物の特性についての助言」が見られる。抽象的な知識に代わって、商人の関心は「具体的・実用的・計算的な要素の手引書」に向けられていた

【商用の連絡】
 L.実業家は絶えず手広く連絡を取っており(彼が手紙を書くor書記に書かせる)、教養(=読み書きの能力)は事業に成功する第一条件であった。そうした規則的な商業文は、束にして積み荷とともに商船によって運ばれた
〈例1〉フランチェスコ・ダティーニ(1410年没)の文書集には150,000通以上の商業書簡が含まれている
〈例2〉フィレンツェ人パオロ・ディ・チェルタルドは助言集を書いた(1460年代)。そこには敬虔な教え&実用的な助言が含まれている。以下は商業文について:
“貴方が手紙を受け取ったら、それを読み、必要な場合にはすぐ適切な措置を取り給え。またその手紙が売り買いの問題を含んでいたら、返事を書き給え”“だが自分の仕事を片付けるまでは、預かった他人の手紙を渡してはならない。なぜならその手紙には貴方に不利な情報が含まれているかも知れないから”“貴方が仕事に励んでいる間は、他人のために尽くしてはならない”


(6)商人倫理と自我

 A.パオロ・チェルタルドによれば、商人倫理とは「a.金の儲け方を覚えなければならない」「b.しかし、金を正しく適切に使うのはもっと大事である」。彼の助言集のキーワードは“勤勉”“一徹”“忍耐”である。そして「c.自力で得た富の方が、遺産相続で手に入れた富よりも値打ちがある」ことを心得ていた
 B.彼は(同様の本を書いた他の商人〔15世紀〕とおなじく)敬虔な人物である。「d.軽率な者には地獄が待っている」「e.死を恐れないのは不可能だが、絶えず死の準備はしておかねばならない」「f.そのためには、死ぬまでに仕事を完全に整理しておき、神・仲間と貸し借りが無いように精算できなければならない」(←創造主に対する個人の義務と、商人の他の全ての義務が同一視されている!)
 C.パオロにとって「日常生活上の要求」と「宗教・倫理面での理想」は矛盾していなかったようだ。商人の意識はおそらくその両極の間で揺れ動いただろうが、それでもその葛藤を商人倫理と調和させるようにしていた

【家族的回想録の登場】
 D.複数の商家出身の作家によって、家族的回想録(=商家の「小史」)や歴史書が生み出された。歴史書には「実業家の経済・統計的データ・確実な事実への関心」が反映されていた(例:ジョヴァンニ・ヴィラーニ)。そこには、ヨーロッパの住民の中で最も発展し、最も裕福で、最も活動的だったイタリアの実業家たちの個人的・集団的な自己意識の成長があったようだ
 E.「家族的回想録」の中身には「家族メンバーの誕生・結婚・死亡,収益の多かった取引,都市の要職への就任」が含まれている。一方で上記のブオナコルソ・ピッティの『回想録』には、彼自身のことしか書かれていない(ピッティの利己的な自我があらゆるページに出現している=自叙伝である)

【ある家族的回想録から】
 F.ジョヴァンニ・ディ・パゴロ・モレッリ(1371‐1444)は『回想録』(1393~1421年に至る)を著した。彼は「染め物業者兼羅紗商人の息子」だが、フィレンツェの寡頭支配体制を構成する支配者家族ではなかったし、あまり裕福でもない中流の商人だった。しかし彼は仕事に没頭し質素倹約に励み、かなりの財産を築くことに成功した
 G.そんな彼は、数多くの政治的事件・陰謀に加わったピッティとは正反対の、恐ろしく慎重で疑り深い男であった。彼は事業が危険だと分かれば、利益を追うことはなかった(中世末期の商人は、モレッリのように“節度”の原則に固執した)
 H.モレッリは自分の家族を愛し、祖国愛は二番目だった。彼の回想には、それを示す忠告が多く見られる」
〈例〉「a.税金の支払いを免れるために、収益規模を共同体(=都市政府)に知られないよう努力すること」「b.あらゆる手を使って、財産を実際の半分しかないと示せるよう心掛けること」「c.常に権力者と親しくし、一番強い党派に味方すること」「d.誰にも気を許さないこと,召使い・家族・友人も信用しないこと(人間は性悪で、詐欺・裏切りで腐敗しているから)」
 I.金以外の手段が無い金持ちなら、金で友人を買うようにすべき、とする。彼は「金の貸し借りを断る方法,家族から金をむしり取られない方法,召使いを監視する方法」も説明する
 J.彼にとって「財=有益なもの,美徳=利益,悪=財政的損失」であった。それでも、高利貸しという稼業自体は非難すべきとは考えていない。しかし「評判を悪くすることがあるので危険だ」と判断する
 K.正確な会計を非常に重要視しているか、知識を実務経験だけに限定しない:
「a.ウェルギリウス,ボエティウス,セネカ,キケロ,アリストテレス,ダンテを知っておくのが得」「b.世界を旅行し世界を知っておくのが為になる」「c.文化は企業活動に欠かせない能力を育てるのに役立ち、精神的快楽も与えてくれる」
 L.信仰心に篤いモレッリも、パオロ・ディ・チェルタルドと同じように「商売の成功は神への奉仕となる」と考えていたが、それは中世末期イタリアの商人層では普通だった:
1.「商取引に関する史料に書かれている祈願の文言から。“わが主、イエス・キリストとその母聖母マリア、さらに天に召します全ての聖者よ。どうか陸と海において富と健康を与えたまえ!我が子・我が富が成長し増大しますように!そして我が魂と肉体が救われますように!”」
2.「商人・商会の会計簿には『神会計』の欄が設けられ、そこには彼らが慈善のために寄付した金額が記入された」
3.「この“神に捧げる配当率”は稼ぎに比例していた→神は企業家にできるだけ多くの利益を上げさせる方が得だった!」
4.「商業精神は『財の追求=神聖な仕事』と信じることができる商人の信仰心に重なっていた。事業を真面目に行うことは、魂の救いにプラスとなるのだった」
〈商業精神の例〉
「神を冒涜しない商人,近親者にした約束を尊重する商人,高利で金を貸さない商人」は“富み栄え、永遠の生にふさわしい”(ヴァランスの商館の壁に刻まれた銘文:15世紀)
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[25]


(3)新しい価値観(13世紀)

 A.聖職者作家(11~12世紀)が好んだ「祈る人,戦う人,耕す人」の図式は、社会の現実とは異なるようになる(13世紀)。社会構造の古い概念は「都市の住民(特に商人階層)の飛躍的発展」の結果として古臭くなっていた
 B.説教師ベルトルト・フォン・レーゲンスブルクは、各種の身分・職種を「天上の天使の階級に類似している」と見なして、地上の社会構造を正当化した

【9位階について】
1.「天使には9位階があり(かつて偽ディオニュシオスが語ったように)、これに相応して人間にも9階級があって、様々な務めを果たす。低い位階の天使が上級の天使に仕えるのと同じく、低い身分の人間は上級の身分の人に隷属する」
2.「天使の上級3位階は、平民の上に立つ人間の3階級(聖職者・修道士・世俗の法官)に相当する。聖職者の頂点にはローマ教皇がいる。“世俗の法官”には皇帝・国王・公爵・伯爵・全ての世俗領主が含まれ、未亡人・孤児を保護する」
3.「天上ではその下の6位階にはきちんと意味・序列が存在するが、地上の6階級では意味が失われる(=都市とそれを取り巻く世界を表している)」
4.「1番目:“服と履き物を製造する人”,2番目:“鉄製の道具を使って仕事をする人”(宝石職人・貨幣鋳造師・鍛冶屋・大工・石工),3番目:商人,4番目:“食料品・飲み物を売る人”(小売商人),5番目:農民,6番目:医者」
5.「天使の第10位階は『神から見捨てられて魔王に身を売った』が、人間の第10階級は“パントマイム師・役者”など。彼らは生活を悪に捧げ、魂は破滅を宣告されている」

【商人の部分的正当化】
 C.ベルトルトは“強欲な者”“金持ち”に対しては呪いを浴びせるが、しかし商売・商人を「社会全体の機能に必要なものであり、彼らの活動は創造主から予め定められた使命に基づいている」として、完全に正当化している
 ★「まじめな商い」は、ベルトルトのみならず他の説教師(13世紀)からも認められた理想である
 D.ベルトルトは人間に与えられた能力を、独創的に解釈している。その背景には「説教師が世論(=一般の生活)に押されて、聖書の形式的・伝統的な解釈に新しい内容を盛り込まざるを得なかった」という事情が存在した、とする

【5つの賜物】
 E.ベルトルトによれば、神から人間に5つの賜物(能力)が授けられ、それをどのように使ったかが人間の本質的な価値である、という
1.「1番目の賜物:“人間の身体”であり、創造主自身の姿に似せて作られ、自由意思を授けられて品格を与えられた」
2.「2番目の賜物:あらかじめ定められた“奉仕”(責務)であり、神から各人にそれぞれ固有のものとして与えられた。これは『身分』という社会集団のカテゴリーではなく、社会的責務を果たす各個人を視野に入れている点に特徴がある」
 ☆ただし「ある社会的身分にある人が、自分の“責務”を捨てて、別の身分へ移ることはできない」「ある種の活動は神から定められた“責務”ではない」。問題となる活動とは「高利貸し,掠奪,不正,盗み」である
〈例〉水をワインだと言って売る,空気で無駄に膨らませたパンを売る,ビール・蝋に混ぜ物を使う,ごまかしの秤を使う
3.「3番目の賜物:人間の生存のために与えられる“時”である。時を浪費することは禁じられ、人間が働くために使わなければならない(浪費された時に対しては責任を取らねばならない)」
4.「4番目の賜物:地上における“所有物”であり、これを賢明に活用し、上手く管理しなければならない。この“所有物”とは『まじめに働いて合法的に得られた財』である」
 ☆ベルトルトが問題とするのは、所有物の不公平な配分ではなく「所有物の悪い使い方をすること」である(→金持ちと貧乏人の存在を認めている)
5.「5番目の賜物:“隣人愛”」

【この説教の意味するもの】
 F.5つの賜物をまとめると「人間の身体,使命,生存の時間,物質的な財,他人との関係」となる。触れられていない“魂”は、これらの見えない中心と位置付けられる。さらに“奉仕”に見るように、個人の人格には人間の社会的機能も含んでいる点に特徴がある
 G.“時”はまだ個人のものとなっていない(=世俗化されていない)。教会の鐘によって人々の生活の時を刻んでいたことに象徴されるように、まだ「教会の時」であって「商人の時」ではない(※時計の登場がこの転換となる)。その証拠に“時”の使い方について人間は神に対して責任を持っている
 H.しかし5つの賜物の中に“時”が登場しているのは、これが人間生活と身体の本質的なパラメーターと見なされていることを示す。托鉢修道会の説教師は、都市(=新興のブルジョワ階級)ときわめて密接な関係の上に活動を展開していたのだが“時”“身体”“使命”が結びつけられていりのは暗示的である。“時”を価値化しているのは、中世の商人・職人の組合加入を背景としている
 I.ベルトルトは都市の住民を前にして、現世の富を否定的に語ることはできなかった。富=財を語るにあたり、もちろん「貧しい人々・乞食を救済し、慈善行為を積まねばならない」。だが物質的な財は、まずは我が身と家族の必要を満たすためにあるのだった
 J.さらに「富の不平等な配分」を繰り返し語るものの、豊かな者が貧しい者に分け与えればよい、とはしない。ベルトルトは説教で「“隣人愛”とは、自分と同じだけのものを隣人に『期待する』ことです。あなたが天国へ行きたいなら、それを隣人にも願い給え」と説いた(※財を分け与える必要はなく、願うだけ!)。商人・市民の意識において“隣人愛”は以前よりもはるかに意味を弱めていた
 ★この時代(13世紀)には「2着の服を持っている者が1着も持っていない哀れな人と分け合うべきだ」と主張することは、既に異端と見なされていた

【キリスト教的価値観の見直し】
 K.新たに都市に現れた職業・新しい倫理観が示しているのは「都市という環境下で活躍した説教師の理想」が「伝統的な修道院の理想」とは、根本的に異なっているということ。ブルジョワの(徐々に形成されていく)人間と地上での利益を軸にし新しいた世界観と、神中心の従来の世界像との矛盾でもある
 L.新しい世界観においても、まずは神の役割が定められているので(←5つの賜物)、その意味では神学的といえる。しかしそのロジックには新しい力が含まれている。そこには、ベルトルトが説教活動を展開した南ドイツ(例:アウクスブルク,レーゲンスブルク)は「富裕な商人たちの住む重要な商業都市だった(13世紀)」という事情がある
 M.この時期にキリスト教は「聖職者的宗教」から「大衆的宗教」の段階へと移行する。ベルトルトが発展させた新しい観念は、自らそれを語ることのない人々の期待・願望に宗教的な表現を与えていた
 ⇒「地上の関心事と物質的な利益」が、神聖な認可を受けた(神の教えの1つとなった)。人々は自己を意識するようになり「社会的・職業的な“使命”“所有物”“時”を神の賜物とみなし、それを神に返上するまでの期間(=人生)において保有・増大させるべきもの、と見なした」
 ★托鉢修道会の神学者・修道士は、説教・告解手引書・神学「提要」において、商業と商人の宗教上での正当化にかなり貢献した、と言える


(4)商人の時代の到来

 A.ヨーロッパの多くの都市(13~14世紀第1三半期)における商人のエリートの状況と役割:
1.「富を掌中に収める,都市の支配者層(パトリキ)を構成する,都市行政に決定的な影響を与えた」
2.「彼らは都市人口のごく僅かしか占めなかったが、都市の全ての権力を掌握した」
3.「都市参事会で多くの席を占める,税制を有利に動かす,地元の司法・立法を管理した」
4.「大衆(賃金労働者・召使い・職人・小商人)は商人エリートに依存した」
〈例〉フィレンツェでは、彼ら寡頭政治家は「大物:popolo grasso」と呼ばれ、これに「細民:popolo minuto」が対立していた。あるイタリア年代記作家は「人民:populus」とは「“売ったり買ったりして生活している住民”で、その中から“手仕事で生活している者”を除く」と定義した(≒無産市民)
 B.騎士貴族はまず血統の上に乗っかって安んじていた。商人の一部は、祖先(貴族の子孫だった)・成功した親を誇りとしていたが、本質的にはまず「自分自身の進取の気性に頼るしかない」のだった
〈例〉リューベックの商人ベルトルト・ルツェンベルクの遺言書(1364年)では、彼は誇らしげに「自分は親から一切遺産を貰わず、自分の富は全て懸命に働いて獲得したものだ」と強調する
 ☆もちろん当時の考え方にしたがって「商人の成功は、神の特別な思し召しによる」と信じる習慣もあった

【新興成金】
 C.地主貴族は農民を搾取したし、領主は臣下を露骨に軽蔑・嫌悪する上に臣下の人間的品格を認めなかった。しかし封建的な関係は本来「個人と個人の関係」であり(一種の家父長制)、没個性的な関係ではない。しかしこれとは反対に、中世都市での「富裕者」‐「下層民・職人・平民」の関係には、個人的関係の性質は消滅していた(→ひどい搾取につながる)
 D.ジャン・ボアヌブローク(フランドルの羅紗商人でドゥエのパトリキ:1286年頃没)は、収入を増やすことに関して手段を選ばなかった。彼は「a.働く職人・労働者から何もかも奪い取り、破滅させた」「b.彼のために働く者たちを徹底的に軽蔑し・侮辱し・あざけり・全く人間扱いをしなかった」「c.彼らが自分に完全に依存している状態を利用した」のだった
 E.彼は金銭欲の塊のような男であり、その信条は「決して借金を返さないこと,他人のものを横領すること」であった。自由になった暴君のように振る舞い、歴史家からは“真の企業盗賊のよう”と評されている。ところがそんな彼も「あの世では自分の魂が罰せられるはずだ」と白状しなければならず、その意思を尊重した彼の相続人によって、彼が生前に奪った金は返済された
 F.ヨーロッパの各都市で起こった憎悪の爆発(13~15世紀)から判断して、ボアヌブロークは例外ではなかったようで、彼のような商人は数多く存在する。しかし例外的な存在もあった
〈例1〉ベルトラント・モルネヴェヒは貧しい身から驚異的な早さで金持ちとなり、リューベック市の参事会員となった。彼は常軌を逸した不当な利得者だった。彼の妻は多数の裕福な家族を生み出した
〈例2〉ゴドリッヒ・フォン・フィンハーレ(11・12世紀の境目を生きた)は、小商人からわずかの間に大貿易商となり、バルト海を舞台に巨額の富を築いた。そして彼は最後には商売を捨てて宗教生活に引きこもり、魂の救いを求めた(死後には聖者とされた)
〈例3〉シエナのジョヴァンニ・コロンビーニは、事業を捨ててイエズス会の托鉢修道会を創設した(1360年)
 G.新興成金は才覚・企業家精神に優れていたが、同時に「破廉恥さ,利己主義,家父長制に対する無頓着さ」で知られていた。ところで、金銭的な富の所有だけでは封建社会で名誉・権威を得るには不十分だった
〈例〉ラーフェンスブルクのあるブルジョワが、騎士から親しく「お前」という言い方をされたので、騎士宛の手紙で同じく「お前」と書いたら、騎士から叱られた
 H.貴族からすれば、商人は「身分の証を立てる代わりに行き着けのビアホールへ戻って、アレクサンドリアやバルセロナから来る船荷のことを話しておればよい」ということになる。こんな状況だから、パトリキ(都市の支配者層)は貴族との階級的障壁を下げようと願ったのだった
 ★イタリアでは、貴族とパトリキとの身分格差は廃止されずとも緩和されていったが、ドイツではまだ厳しかった
 I.商人の中には「広大な土地を獲得する」+「貧しい貴族と身分不相応な縁組をする」ことによって、貴族となる道が開かれた者もいた。貧しい貴族は、富裕な商人家系との結婚によって財政状態を立て直すことができたので、仕方なく結婚を承諾したのだった。都市の金持ちの中には「騎士の地位に就けた」者もいた
 J.パトリキの商人の特徴は、豪華な暮らしに憧れる点にある。下記のような邸宅は貴族たちも羨んだかも知れない:
1.「彼らは権威を高めて社会の注目を浴びるために、立派な家を建て、塔をめぐらせた大邸宅を建てた」
〈例〉南ドイツのパトリキ階層のポスト‐ゴシック様式の住居,イタリア商人のルネサンス様式の邸宅
2.「邸宅の窓にはステンドグラスが付けられ、住まいには豪華な家具・調度品が揃い、壁にはタペストリーが掛かっている」
3.「商人は貴族のように狩猟=“貴族のスポーツ”を愛好する」
4.「服・装身具だけでなく、葬式もできるだけ派手に挙行して貴族と競争する。墓の上には豪勢な弔いの記念物が立てられる(パトリキは栄光を不滅のものにしたがった-それも急いで)」

【権力と商人】
 K.財源を必要とした王権は、商人・企業家を尊重しなければならなかった。最も栄えた商人の中には、宮廷で高官となる者もいた
〈例1〉ジャック・クール(1395頃‐1450)はヨーロッパ随一の財政家であり、儲かる全ての事業に投資した。「a.シャルル7世の財務長官となり、国家の改革に参画し、フランスの軍事・外交政策に関与した」「b.しかし国王の不興を買ってフランスを脱出し、追放の身で亡くなった」
 ☆彼の死後に詩人のフランソワ・ヴィヨンは「ジャック・クールの魂があの世のどこへ行けたか」と考えた
〈例2〉ブオナコルソ・ピッティ(1354‐1430)はジャック・クールの兄で、比較的小規模の商人だったが波瀾に富んだ人生を送った:
1.「栄達を求めて『フィレンツェ,ニース,アヴィニョン,ハーグ,ブリュッセル,アウクスブルク,ザグレブ』へと渡り歩いた」
2.「彼はロンドン・パリ・神聖ローマ帝国の宮廷へ外交使節として赴き、フィレンツェ共和国で高官となる」
3.「彼は商才に長けた商人であるが、同時に骨の髄まで賭博師だった。大金を失ったり儲けたりして、その詳細を細かく記録した」
4.「凄腕の実業家・策士・作家であった彼は、私的な思い出を『回想録』にまとめた。この作品には『彼の裕福で波瀾に満ちた生涯の出来事,家族,縁者,体験した決闘・陰謀,目撃した政治的対立』などについての多くの情報が盛り込まれている」
 L.イタリアの諸都市はヨーロッパの中でも特に「a.商人層が政治権力を掌握していた」「b.商業活動が住民の広い層によって行われていた」。この地では商業が道徳的権利を得ていた
〈例〉『黄金伝説』の作者でもあるジャコモ・ディ・ヴォラジネは、商人をキリストその人に例えた。「キリストは(人間にとって儚い)地上の富を、永遠の富に引き換える可能性を与えるために、十字架の船でついた」(富に対しての否定的な意味がない!)

【リスクを冒す商人】
 M.多くの商人たちが、より危険な長距離航海に乗り出し(13世紀~)、より大胆な探検家たちも現れた。彼らの興味を引いたのはインド・中国・アフリカ諸国・近東である
 N.商人は海賊に早変わりすることもあった(例:『デカメロン』)。商人は貿易に出かける時は武装していた。ジェノヴァは「シチリア島・マジョルカ島よりも遠くへ向かう時には、非武装での出発を禁止した(1507年)」
 O.多くのファブリオー(西洋の落語)においても「財産・生命の危険を顧みず、食糧を求めて長い旅に出る商人」が語られている。この文学ジャンルでは、商人の長所=「商才,エネルギッシュさ,大胆さ,危険な冒険をいとわない」を強調している。他のジャンルの文学も(ファブリオーと同じく)「座ったまま暮らす都市の他の金持ちとは違い、商人は放の人生を送っている」ことが語られている
〈例〉『パリの家長』(14世紀末)では、パリに住む熟年の夫が若妻に対して「もし自分が死んで、貴女が商人と再婚するなら、何よりもまず旦那を快適に過ごさせるように心掛けるべきである」「なぜなら旦那は、雨でも・嵐でも・雪でも出かけていき、旅の苦労を味わうからだ」とアドバイスしている
 P.商人は「危険も商売のうちだ」と常に意識している。長い旅(特に航海)では、難破・海賊・商売敵の攻撃といった脅威に満ちていた。それだけではなく、取引上のトラブルも多く「取引先がどのような人と関係しているか」が危険となりえた
〈例1〉商人兼作家が書いた注意・教訓では「商売仲間も・友人も・さらには親族も信用してはならない」と、繰り返している
〈例2〉プラートの商人フランチェスコ・ダティーニも、晩年になって若い世代に対して「お前は若い、だがいつか私の年頃になれば、また私ほど多くの人に出会っていれば、人間自体が危険な存在だから人間を相手にするのは危険だ、と悟るだろう」と言っている
 Q.商業資本の出し手(金・商品を賭ける)と航海する商人(生命を賭ける代わりに出費が軽減される)との間で利益・損害分担を定める商業団体が生まれたのも、商人のリスクに対する意識が源にあった
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[24]


○商人


(1)初期の商人と社会

 A.中世盛期の最初(11世紀初)でのヨーロッパの住民の圧倒的多数が農村で暮らしていた。しかし確かに都市は存在し、商人は(役割を無視することなどできない)社会の構成要素の1つだった。君主・高位聖職者・貴族を筆頭に、その地域では生産できないので、よそから(or遠方から)取り寄せなければならない財・各種商品をしばしば必要とした
 B.そこで商人が陸路or海路で、高価な衣服・布地・家具・その他の珍品を運んだ。それらの品物が支配層の人々の高級品嗜好を満たしたからである。海域・河川・(時には)ローマ時代から存在する荒れた街道が通商の動脈だった

【ヴァイキングと商行為】
 C.中世の前半500年間の商人は、それ以降の商人とは根本的に異なっている。この点で、ヴァイキングの時代の北ヨーロッパでの商業活動は極めて興味深かった
 D.ヴァイキングは「戦闘員&侵略者&大胆な船乗り&植民地建設者」であった。フランス・イングランド・古代ロシア・地中海沿岸地域はヴァイキングの侵略を受けた。しかし一方では、ヴァイキングの遠征活動は通商と密接に関わっていた:
1.「ノルウェー人・スウェーデン人が隣国へ旅する時には、一緒に商品(狩猟・工芸の産物)を運んで、自分たちが必要とする物と交換した」
2.「ヴァイキングの時代の要地からは、武器と一緒に『スカンジナビアの船乗りが使っていた分銅付きの秤』が発掘された」
3.「北欧で発見された金銀の貨幣は、全てが略奪の取得物なのではなく、一部は平和な商取引に用いられたものである」
4.「しかし(アイルランドの伝説で伝えられているように)スカンジナビア人の通商は、相手国の住民を攻撃することで完了する場合も多い」
5.「ヴァイキングは交易では手に入らないものを武力で略奪した=通商と略奪は密接に重なり合っていた」

【危険を乗り越えて】
 E.初期の商人は略奪にふけらなかったとはいえ、戦闘意識は持ち合わせていた。彼らは「キャラバンを組んで遠い国々・外国の町・外国人の中」へ行かねばならず、様々な危険(海賊・盗賊・賊に等しい地方領主)に晒されていたからだ。領主らは商品・収益に課税したり、つべこべ言わさずに没収したりした
 F.商人は、よその土地へ赴いては商品を売り(別の場所では入手できない)貴重な品を買い入れる。だが海上では嵐に出合うし、道路が無いので陸上輸送はきわめて困難だった。貴重な商品の取引から上がる儲けはきわめて大きかったものの、冒すリスクまた大きかった

【社会と商人】
 G.中世初期の人々の「経済観念」はあくまで自然経済のものであり、重要な仕事は「全ての人を養う耕作者の仕事」であった。また、封建社会(形成されつつあった)を理論的に描き出す立場からしても、社会は「祈る人(聖職者)‐戦う人(騎士)‐耕す人(農民)」によって構成されていた―市民・職人・商人は無視された。伝統に支配された社会では、古い概念的図式が活き活きとした複雑な現実を理解できぬまま、頑固に残っていた(11・12世紀)
 H.古い概念からすれば、耕作者の仕事は社会組織が機能するには必要不可欠と理解されていたが、一方では「都市の活動(特に商業)は、支配的な倫理にとっては曖昧&疑わしい性格のもの」だった。教会の教えを論拠として、農民・貴族たちは商人に疑惑・軽蔑を抱いていた
 ☆一方では商人に頼らないわけにはいかず、社会の態度は完全に矛盾していた
 I.『王の鏡』(教養あるノルウェー人の目から見たノルウェーの社会階層を描いた著作〔13世紀初の30年間のもの〕)に見る、商人に求められた要素:
a.「商人になろうとする者は、海上・異教の国・外国人の間で多くの危険に身を晒す。だから、どこにいても慎重な態度を取れるように心掛けねばならない」
b.「海上では勇気を奮って即座に決断しなければならない」
c.「取引先or全く別の場所へ行くのなら、全ての人から好意を受けられるよう、礼儀正しく親切にしなければならない」
d.「どこへ行こうと、その土地の商慣習を詳しく学び、商人法をよく知ることが大事である」
e.「商売の成功には外国語を習得しなければならず、特にラテン語とフランス語が必要である」
f.「航海する商人は天体の状況を見て、日夜のサイクルのどこにいるのか、どの方位を向いているのかを定めなければならない」
g.「お前の役に立つ何かを学ぶために、1日も疎かにしてはならないし、賢いという評判を得たいのならば規則正しく勉強しなければならない」
h.「商人は協調的で、節度をわきまえねばならない。相手とどうしても戦わねばならなくなっても、復讐を急がずに状況を慎重に充分検討し、正しく行動するように心掛けねばならない」
i.「仲間を選ぶのは特に気をつけなければならない」
j.「儲けの一部は全能なる神へ、聖母マリアへ、またいつも庇護を願っている聖者へ捧げるべきである」
 J.上記の忠告を守れば金持ちになれる。しかし『王の鏡』の作者は、海上交易には重大な危険を伴っていることをわきまえているので、若者に対して「k.交易で財産をかなり増やしたと思ったときの最良のやり方は、商業資本の2/3を残して土地購入に投資すること」「l.この種の財産はお前にとっても子孫にとっても、一番現実である」とアドバイスする
 K.ノルウェーのような農地が少ない国の住民ですら、土地への投資による財産の保全を勧めている。大陸の国々(ドイツからイタリアまで)においても、商業で築いた財産を土地所有に向ける行動が見られた。商業活動は重要だが「様々な危険,商人に対する社会的な危険性」をわきまえていた故の行動である

【低い社会的権威と都市の成長】
 L.金持ちは妬まれて反感を抱かれた。そして商人の責任感・誠実さすらもひどく疑われ、彼らは社会における「嫌われ者」的存在のままであった。「ある値段で商品を買い、それをもっと高い値で売る」という利潤追求の行為に「不当な儲けが誤魔化されている」として、神学者たちは商人と商業活動を糾弾し続けた
 M.しかし都市の成長とともに、教会は「教義・道徳を人々に植え付け、強化しよう」とする努力の重心を、田舎から都市へと移さざるを得なくなった(13世紀)。都市は田舎の住民を引きつけ、人間のかなりの部分が都市へ移動した。やがて都市は異端の温床にもなった!
〈例〉フランチェスコ会・ドミニコ会が活動を都市に集中させ、彼らの説教もまずは都市住民に向けられた
 N.教会の活動が都市に重きを置くようになっても、商人に対する態度は矛盾したものであった。社会全体の活動における商業の重要性は認める一方で“商業には何か恥辱的なものが含まれる”(トマス・アクィナス)というのだ
 O.フランチェスコ会の創設者であるアッシジの聖フランチェスコは、富裕な羅紗商人の家の出であった。彼は「福音的貧困」の概念により、富を捨て家族と絶縁し、志を同じくする者の兄弟会を結成したが、これが急速に修道会へと変わった。教会は「托鉢修道士を保護下に置き、この運動を取り込む」判断を下した
 ☆当時は貴族・エリートの持つ富だけでなく、教会の富が民衆の不満を増大させ、異端を生じさせやすくしていた。こうした状況で教会は、異端的運動に影響されることなく、教会の庇護のもとに裸の者が「裸のキリストの足跡を歩む」ように願った
 P.新しい修道会の説教は「天国は地上の富を捨てた人々に約束され、富の根源にある貪欲は最も重大な罪になる」と見なした。財産家たちは苦しいジレンマにたたされた


(2)高利貸しと倫理

 A.利子付きで金を貸す金持ちは、特に人々の憤激を招いた…が、商人はこの利殖方法に頼ることが多かった。金に困る人が数多く存在している(君主・貴族から小商人・職人・農民にいたるまで)中で、無視できない危険を冒して遠くまで交易に乗り出すよりは、金貸しの商売の方が望ましかった
 B.教会の知識人は高利貸し業を非難し続け、やがて公式に「キリスト教徒に対する高利貸し」を禁止した(1179年:この禁止事項では、中世西洋の経済生活においてユダヤ人が果たした役割がかなり詳しく説明されている、という)。にもかかわらず、多くのキリスト教徒も高利貸し業を止めなかった

【高利貸しへの罵倒】
 C.説教師たちはキリスト教の倫理原則にしたがって、容赦なく倫理からの逸脱者を非難した(君主・騎士・市民・農民・さらには聖職者自身も!)。その中で決まってひどく罵られるのは高利貸しだった
〈例〉『エクセンプラ』
 これは説教にも利用された、短い教化のための逸話集(元ネタは民話・古い時代の文学)。その中では高利貸しは「道徳上の怪物,神と自然と人間の敵」とされた
 ☆外洋へ乗り出した船の上では、猿が高利貸しから財布を奪ってマストの上へ登り、高利貸しが商売で蓄えた全ての金を海へ捨てた(※『エクセンプラ』の中の逸話の1つだろうか?)
 D.高利貸しはダンテの『地獄篇』でも拷問を受けているように、常に地獄と結びつけられた。また高利貸しは「魔王の一番忠実な召使いになる」とも言われた。高利貸しの魂が救われるには、生前の不当な儲けによって築いた財産の全てを配布しなければならない、とされた
〈例〉地獄へ連れて行かれる高利貸し:「高利貸しの魂は死ぬ瞬間に審判を受ける」→「恐ろしい形相の悪魔たちによって直ちに地獄へ連れて行かれる」→「焼けた貨幣を口一杯に押し込まれる」
 E.通常の許し難い罪人(姦通者・放蕩者・殺人者・偽証者・冒涜者たち)は罪に飽きることもあろうが、高利貸しの罪は常に続いている(寝ている間・食べている間・休息している間にも利子は増え続けている、という理屈)。それは「(全ての人間の共有する財産である)時間を盗んでいる」のだから、天国に行くことはできないのだ(=永遠の時間と休息が許されない)、とされた
 F.高利貸しの魂にのしかかる呪いはあまりにも重いとされ、それゆえに「彼の葬式の日には、隣人たちにも遺体を持ち上げることができない」という
 G.聖職者はあくどい彼らを神聖な場所に埋葬するのを拒否した。高利貸しの遺体はロバの背に載せられて町を出て行き、晒し台(軽い犯罪者の懲らしめ用)の下の汚物の山に捨てられた、という

【聖職者が攻撃した理由】
 H.説教において高利貸しばかりが攻撃対象となったのは、単なる教義上の問題だけではない。むしろ説教の聴衆たちが高利貸しに対して抱いていた憎悪(=世論)が先に存在し、それをある意味で正当化するために神学者の論拠が引用された、と推測されうる
 I.説教では高利貸しに関する多くのエピソードが引用されたが、その全てが『エクセンプラ』から来ているとは考えづらい。むしろ世論を背景にして作られた部分はいくらか存在している、という(高利貸しへの市民の反感が現れている話がある)
 J.西洋における高利貸し大虐殺・殺戮は、ユダヤ人大虐殺と同じほど頻繁し拡大した(13世紀第4四半期~14世紀)。ユダヤ人大虐殺は「高利貸しに対する憎悪+宗教的動機」に依った点に特徴がある
〈例〉“もしユダヤ人が貧しく、また領主がユダヤ人から借金していなかったら、ユダヤ人は焼かれることもないだろう”(『シュトラスブルク年代記』:14世紀末~15世紀初)

【商人階級の精神への攻撃】
 K.階級社会において価値があるのは「貴族出身であること,騎士的勇気があること」であり、都市住民は(たとえ富裕な商人であっても)貴族からは軽蔑されるだけだった。騎士・貴婦人からすれば「商人≒ならず者,卑しい者」だった
 L.しかし富裕市民・商人・高利貸しは、富の力で社会的向上をはかろうとした
〈例〉あるフランス人説教師(13世紀)の話から:
 疥癬にかかった小僧が都市で暮らすようになり、物乞いから始める。彼は高利貸しを仕事にして、次第に金持ちになるにつれて社会的地位が変わり、呼び方も変化する。“疥癬のマルティヌス”→“マルティヌスの旦那”→“マルティヌス親方”→“マルティヌス先生(or殿or閣下)”。最後には町で一番の金持ちとなっている
 M.だが(マルティヌスのように)どんなに成り上がったとしても『エクセンプラ』の中では、最後は地獄行きだった。高利貸しの魂を救うのは不可能であったが、唯一の手段は「借り手に与えた損害を償うために最後の一文まで投げ出す」ことだった
 N.その後も教会の知識人は、高利貸し業に対する態度を変えなかった。フィレンツェ大司教アントニヌスはある程度の譲歩を示していた(イタリア諸都市では金融業の発展が頂点に達していた:14・15世紀)ものの、一方ではシエナのベルナルディーノは説教において「全世界から非難される高利貸し」の印象的なイメージを素描していた
 O.上記I.のように、説教における高利貸し糾弾は(世間からの批判を意識する以上は)止めることはできなかった。この弾劾活動には「社会心理的な影響力」があった。というのも高利貸したちは「営利目的の経済活動」と「活動に与えられたきわめて低い道徳的価値」とのギャップゆえに、彼らの宗教心が強い限りは、霊的救済を求める心をいたく悩ませたのだった
 P.商人の「蓄財の倫理」は、キリスト教の教義とぶつかっただけではなく、貴族の精神が求めるものとも明らかに対立していた。というのも、貴族たちは「自分たちの財産を見せつけ、蕩尽すること」に値打ちがあるという精神性であった。収入を考慮せずに出費するのは「貴族的であり、鷹揚さを示すこと」だった。しかし商人は打算家・節約家にしかなれない
〈例〉『蓄財家と浪費家との間の興味ある論争』という題の詩(14世紀半ば):
1.「“蓄財家”=商人・法律家を“浪費家”=騎士・貴族をそれぞれ表す」
2.「“蓄財家”は蓄えた財産を眺めて喜び、節約家を礼賛し、自ら質素な暮らしをし、商売の仕方を心得ている」
3.「“浪費家”の狂気沙汰は、衣服・飲食物に現れ、家庭でも無理解と憤激を向けられる。“浪費家”の家で開かれる饗宴で出される料理の一覧は、それだけで料理本になるほど」
4.「1ペニーも持っていないくせに、一度に珍しい毛皮・高価な服・その他の贅沢品を買う人々は“けちな人”の疑惑と反感を買うだけ」
5.「“けちな人”は“暇人”に向かって『耕作に無関心で、戦争ごっこや狩猟の費用を支払うために仕事の道具を売ってしまう』と非難する」
6.「宴会・飲酒は、遺贈すべき財産を蕩尽する。“蓄財家”が“浪費家”に向かって『出費を控え、破産を回避し、家族を仕事に向かわせるよう』いくら忠告しても無駄である。“浪費家”が財産を蕩尽するのは“傲慢”のせいである」
7.「“浪費家”は『宝をいくら集めても、誰にも役立たない』と言って“蓄財家”を非難する」
8.「“浪費家”はキリストの名において“蓄財家”に向かって『金庫を一杯にするのを止めて、貧しい人々に金を分けてやれ』と勧める」
9.「“浪費家”は富の虚しさを強調し、富が招く悪を思い出させる。人は金持ちになればますます臆病になるから、短命でも幸せな人生の方が好ましいではないか」