『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[23]
(10)芸術家の評価と自意識の変化
【イタリア都市(12世紀初)】
A.モデナ(イタリア)大聖堂付属学校長アイモの書いた銘板(建物の落成を祈願したもの)が後陣に付けられた。銘板は「聖ジェミニアノの遺体を安置し(彫刻を施された)大理石で光り輝く大聖堂を賛美し、建築者ランフランコを称賛した」ものであった。そこでは「建築計画の立案と、構想を実現できる建築家(=ランフランコ)探しが成功するまでの経過」が強調されている(12世紀初)
B.細密画(13世紀)には「ランフランコが土木作業者たち(労働者,石工)に指図している様子,司教とマティルデ伯爵夫人と一緒に厳かな儀式に参列している様子」が描かれている。ランフランコの姿は「長い服・帽子・手にした棒・離れた位置・指揮する態度」によって、他の人々とは明確に区別されている(ただしこのランフランコの姿は、13世紀の芸術家像をそのまま当てはめたイメージである可能性が高い)
C.同じ大聖堂の正面には、建築工事を記念した別の石がある。石の下部には彫刻家ヴィリジェルモの名が見られる。このようにして、最も意味のある場所(後陣や建物正面)に、仕事をした芸術家たちの名が残されるようになった
D.ピサの大聖堂正面には最初の建築家ブスケートの墓(古代様式の石棺)があり、その上に称賛の銘が刻まれている(そこではブスケートはダイダロスと比較されている-これは珍しい称賛の仕方ではない)
E.この2都市での事例は、芸術家の社会的地位の向上を示している(12世紀初)。都市共同体において、最も優れた芸術家の協力により、最も立派な建築が生まれたということは(次第に活動を活発にしていく)都市の威光を増大させた。芸術家は新しい発注者(=都市共同体)との関係によって、社会的地位・役割を向上させたのだった
F.芸術家の署名(建築家・石切師・彫刻家たち)が増加している事実(12世紀)は、特にイタリアにおいて多く確認される。そしてこの習慣は、ピサ→ルッカ→ピストイアへと広がり普及した
〈例1〉フォリーニョの聖堂はアットーという人物によって改修されたが、彼は石彫り師であるだけでなく“重要人物”であり「市長」であった。彼はボヴァーラのサン・ピエトロ教会でも仕事をし、教会正面に署名している
〈例2〉ビドゥイノはセッティーモのサン・カシアーノ像の台輪に“この作品は、ビドゥイノが心を込めて完成した”と、古典的な書式で署名している
〈例3〉グルアモンテは(男の名アデオダトと共に)ピストイアのサン・アンドレア像の台輪に“名匠”と署名している
G.建築工事の機能分割という面では「設計&工事監督を行う建築家,巧みな石彫り家,石工と大工の親方」がいる。さらに彫刻家もはっきりと姿を見ることができる
〈例1〉彫刻家ニッコロは、キウサのサン・ミケーレ大修道院において、黄道十二宮図の入口で「(彼自ら彫った)植物の絡み合った模様の中で野獣と怪獣の秘めたところを観賞し、注意深く絵図を検討し、碑文を読み、作品の意味を理解してほしい」と告げている
〈例2〉彫刻家グリエルモはピサ大聖堂のために説教壇を制作した(1159~62年)。彼の墓はブスケートの墓と同じく大聖堂の正面に置かれている。ちなみにこの説教壇は、ジョヴァンニ・ピサノが1世紀半後に新しい説教壇を彫刻した時にカリアリへ移された
【その他の地方では】
H.彫刻家・建築家による署名はイタリアよりはるかに少ない(11~12世紀)ものの、それなりに存在する
〈例1〉修道院長ゴズランがフルーリに招聘した芸術家の1人と思われる、ウンベルトゥスという人物の名が「ガリア地方全域の模範として」建てられた塔の柱頭に残っている
〈例2〉ギスレベトゥスという名が、オータンの大聖堂にある『最後の審判』のティンパン(フランスのロマネスク様式の最も素晴らしい作品の1つと言われる)に署名されている。この大聖堂内部の大半の柱頭も、このギスレベトゥスの作と考えられる
I.フランスのロマネスク様式の彫刻で最も見事なものの中には、全く署名が無いものがある。彫刻家の役割がフランスとイタリアでは非常に異なる状況に置かれていたようだ。また、ゴシック様式の大聖堂において彫刻家の名が完成に消滅したという部分もある、という
★イタリアでは「彫刻家‐建築家の役割が明確となる」が、フランスでは反対に「建築家優位の状況」となる
J.ドイツてもロマネスク様式の彫刻家の名前は多く見られる
〈例1〉ゴスラールの大聖堂では、ある銘は“ハルトマンヌスが像の土台を彫った”と明示されている
〈例2〉東フリースラントにあるラーレルト教会の小壁(タンパン)の図像と銘の場合。タンパンの中央に発注者(聖職者イッポ)と建築家マインハルトの名が示されている。彫刻家メルヌフスの名を示す銘には“イッポはケチではなく、私という芸術家に気前が良かった”とある
☆伝統的な図像形式では「タンパンは聖者を表現するためのもの」。伝統の弱いこの辺境地だからこそ、それを無視したスタイルが可能となった
【建築家と彫刻家のポジション】
K.イタリア(12世紀末~14世紀)で活躍した大芸術家たちは、何よりもまず彫刻家であった(自らもそのように称した)。これは(古典古代文化と密接な関係をもつ)技術が備えていた権威ゆえであった。建築の概念では、造形的・装飾的な面が重視された
〈例〉バルマの大聖堂(1178年)にある『キリストを十字架から下ろす図』を敷石に描いた“ベネディット”と署名している彫刻家ベネディット・アンテラミの場合、素晴らしい技量を持つ天才的な建築家でもあった。この大聖堂の洗礼所の制作者でもあるが、彼こそがイタリアにおける最初のゴシック様式の芸術家である
L.フランス(13世紀)では建築家が重要であり、彼らの建築現場での役割は、石彫り師・石工のそれとは違う。建築家は「建物の設計図を作る」「様々な業種団・各種の芸術家(彫刻家・画家・ガラス工芸家・金銀細工師・指物師・大工)・その他の仕事を統率する」のだった。つまり分業が進んでいた
☆建築家は「手袋をはめ、手に棒を持って現場に現れて、石の彫り方を石彫り師に指図し」普通の職人より高い報酬をもらう、という(ドミニコ会士ニコラ・ド・ビヤールの説教(1261年)から)
M.フランスでゴシック大建築の現場で監督に当たった、建築家の多くは名前が判っている。建築家の名前は「時には墓碑銘に刻まれた」「時には教会の敷石に描かれた迷路模様に彫られる」(迷路模様はルッカのサン・マルティノ大聖堂のものがきわめて早い時期に登場した)
〈例1〉ノートル・ダム・ド・パリの南交差廊の銘では、大聖堂のこの部分は「ジャン・ド・シェル棟梁が着工した:1257年2月」という
〈例2〉サン・テティエンヌ教会(カーン)では、内陣に安置された墓の上で、ギヨームか“技量の最高者”と呼ばれている
〈例3〉パリの「サン・ドニ修道院教会,サン・ジェルマン・デ・プレ,サント・シャペル」の建築者ピエール・ド・モントレイユは、サン・ジェルマン・デ・プレの聖母礼拝堂にある墓所敷石(1267年建造)では“石彫り博士”と呼ばれている。これは大学人なみの地位を暗示している!
☆スコラ哲学が手工芸に対して侮蔑を示していた時代であることに注意。芸術家がそれに対して自分たちの誇りを示しているように受け取れる
〈例4〉サン・ニケーズ教会(ランス)の建築者ユーグ・リベルジエは「アカデミックなトーガに似た立派な衣服をまとった姿」「自ら建築した教会の模型を握っている(これは当時は発注者だけの特権だった)」姿で、墓所敷石の上に表されている
【フランス人建築家の魅力】
N.フランス・ゴシック建築の威容が持つ魅力はかなりの影響を及ぼし、フランス人建築家はヨーロッパ中から呼ばれた
〈例1〉ギヨーム・ド・サンスはカンタベリー大聖堂の内陣を、早い時期にゴシック様式で建築し始めた(1178年)
〈例2〉エティエンヌ・ド・ボヌィユはパリからスウェーデンに招かれ(1287年)ウプサラの大聖堂で仕事をした
〈例3〉パリからやって来た「ある彫刻の名工」は、シュヴァルツヴァルトに近いヴィンプフェン・イム・タール教会をゴシック様式風に“ドイツらしく”再建することを託された
O.ヴィラール・ド・オヌクールはハンガリーまで赴いた(13世紀中頃)。現在に伝わっている彼の画帖には「モー,ラン,ランス,ローザンヌにある建築物の平面図・立面図・見取図・詳細図」が「古代の彫刻や記念の設計図,工具の図面」と交互に描かれてある
P.ヴィラールの画帖から確認できるように、フランスにおける大規模工事(12世紀~)の現場責任者が「各種専門家の活動を統括・監督する,必要なもの・方針・示唆を与える」役割を果たしていた。このために、同時期の日付がある彫刻家の署名は全く見られない
☆しかしゴシック様式時代において、大規模工事の現場責任者は(特に)彫刻家だったようだ(例:エティエンヌ・ド・ボヌィユはウプサラに招かれて、石彫りの仕事をした)
Q.フランス(13世紀)では「金銀細工師」だけが、建築家と並んで名を残す権利があった。彼らもまたヨーロッパ中から要請された。そればかりではなく、エティエンヌ・ド・ブシェは(ヴィラールと同様に)ハンガリーへ行き、そこでタタール人に捕らえられ、それから中国まで行って大汗の金銀細工師となった、という
【芸術家への授爵】
R.フランス宮廷(&それを模倣した各国の宮廷)では、芸術家への授爵が始まった(13世紀末・14世紀初~)
〈例1〉宮廷お抱えの金銀細工師ラウールは、フィリップ4世によって爵位を授けられた(1270年)
〈例2〉建築家ピエール・ダジャンクールはナポリのアンジュー家の宮廷に仕えていたが「miles:宮廷人(※騎士ではないのか?)」という称号を与えられていた(1289年)
S.君主から家族としての待遇を受けた芸術家が、その技量のおかげで貴族に迎えられた、と考えがちである。しかし(芸術家というよりも)役人であるために授爵された可能性もある。事実として、フランス・イギリス・ナポリでは「宮廷の発展・改編とともに新人が多くなっていった」ことは間違いなく、これが芸術家に社会的地位を高める機会を広げ、彼らに対する認識を高めたのだった
〈例〉アルプレヒト・デューラーはヴェネツィアに滞在中は「この地では私は貴族である」と感激させられるような状況だった
【イタリアでの新たな状況】
T.イタリアでは(パリがはっきりと主導権を握っていた)フランスと異なり、各都市共同体の旺盛な経済力は抑えがたい多元主義をもたらした。さらに「建築家の絶対的優位」現象も見られない
U.画家の活動は特にトスカーナ地方の諸都市(例:ピサ,ルッカ,フィレンツェ,シエナ,アレッツォ,ピストイア)が中心地となり、そこでは多くの画家の署名も残されている。あるいは最初期の描画建築)契約書も存在する(例:ピストイアのコッポ・ディ・マルコヴァルドのもの)
☆他には教会の建築契約書も存在する
U.ローマ教皇や枢機卿の代理が、ローマで(13世紀末の数十年間)行われた「聖マルティヌス大祭」のような輝かしい夏に、芸術家たちをローマに招いた。この影響でアッシジの聖フランチェスコ聖堂の装飾工事は、各地からやって来た芸術家によって進められた。他方で南イタリアの各宮廷(例:フリードリヒ2世のシュヴァーベン風宮廷,ナポリのアンジュー家の宮廷)も芸術家にとって憧れの都市となる
V.芸術家の新しい野心・自意識・作品に対する意識を見るには、彫刻家が一番であった
〈例〉ジョヴァンニ・ピサノの場合:
彼は中世の巨匠の1人であると同時に極端な例である。「自分の仕事の重要性を極度に感じ取る」「並外れた自尊心を抱いて平気で発注者と喧嘩したり、訣別したりする」「中世の芸術家を縛る制限や、障害を乗り越えようとする振る舞いの多かった」芸術家である
シエナでは発注者と劇的に衝突し、大聖堂の建築現場を見捨てて突然町を去った。ピサでもそこまで激しくはないが決裂が起こった。彼は銘にも自尊心を示しつけた:“ニコラの息子であるが、もっと技量に優れ、古今を通じて最高の碩学であり、未だかつて粗末な仕事をしたことがない彫刻家こそ、ジョヴァンニである”
☆ジョヴァンニとは反対に“父の存命中は師匠と呼ばれたくない”と言明した、ティノ・ディ・カマイノのような人物もいる
(11)初期の芸術家伝と作品の評価
A.ジョヴァンニ・ピサノは、ピサの大聖堂の説教壇に刻まれた2つの碑文に、劇的な自叙伝を残している。彼の作品・行為・告白はルネッサンスの先取りであったが、当時はまだ例外的存在であった
「1つめ:自分の芸術観を述べ、創作力を天賦の才とみなした。“醜悪な彫刻はたとえ望んだとしても作れなかった”“彫刻家は数多くいるが、とりわけ崇高な彫刻と多様な像を制作した点では、自分こそ名誉と称賛を受けるに相応しい”とする」
「2つめ:不当な批判を受けるのを恐れ、一種の個人的弁護を試みている。書き出しの中で作品の意義などを暗示し、中傷者・批判者に向かっては“王冠に相応しい者を批判する者は自らの劣等を暴露し、また非難する者はかえって非難されるべきであることを証明する”と挑んだ」
B.ソルステルヌス(スポレート大聖堂の正面を装飾する巨大なモザイク模様を作った:1207年)は碑銘で“ドクトル・ソルステルヌス-現代芸術の最高峰”と称している。ドクトル(博士)という大学人の名称を用いた点でピエール・ド・モントレイユの墓碑銘と同じだった
C.芸術家たちは手工芸への差別待遇から脱出するために、学者という言葉を使った(例:“学者のような指”“学者のような手”)が、その目的に決定的な役割を果たしたのはダンテの『神曲』煉獄篇だった。そこでは2人の細密画家(オデリシ・ディ・グッピオ,ボローニア人のフランコ)と2人の画家(チマブーエ,ジョット)が、文学者と同等に扱われ比較されている
☆速やかに広く成功を収めた『神曲』に登場したことが重要だった
【ジョットからルネサンスへ】
D.フィレンツェの文化はそもそもそうした傾向によい環境を提供していた。そこにダンテの言葉の重み、ジョットの革新的な芸術の重みが働き、ジョットの作品は並外れた反響と評判を示した
〈例〉フランチェスコ・ダ・バルベリーノのような絵画好みの文人が、スクロヴェニ礼拝堂の台座に描かれた『妬み像』を引用した(1313年)
E.ジョットがナポリで国王の友人として仕事をしていた時、彼は“画壇の第一人者”“巨匠”と呼ばれた。死去3年前にフィレンツェへ行った時には、彼に並ぶ者は存在しなかった。彼がフィレンツェに招かれたのは「この自治共同体の建築事業(都市における最も重要な任務)を監督するため」であった
☆この任務において、彼の企画・設計の技量が様々な領域で発揮されるのを期待していたから
F.文学者たちはジョットを認めるようになり、彼はエリートに属しエリートに理解される芸術家となった
〈例1〉『デカメロン』において、ボッカチオはジョットを立派な芸術家とみなした。“ジョットはこの芸術の真価を完全に回復した。なぜならこの芸術は幾世紀もの間、無趣味な人々にへつらい、優れた人々を無視してきた人々全ての錯誤の下に埋もれていた芸術だからだ。だから我々はジョットをフィレンツェの栄光と見なすべきである”
〈例2〉ペトラルカは遺言書の中でジョットの絵をパドヴァの領主へ遺贈した時「この画家の美は無知な者には理解されないが、識者を仰天させている」と指摘している
G.このように、識者と無知な者との区別が行われるのは、素晴らしい評価法となった。形象芸術が自由学芸の品格に近づいたのである。それも芸術家たちが「署名によって自分たちの仕事が(手芸的ではなく)知的であり、教養と学識を示している」と主張し、自己の正当化に努力してきた賜物であった
H.ペトラルカは、幸運にも発見されたウェルギリウス(古代ローマの詩人)の原稿の第1ページの挿絵をシモーネ・マルティーニに依頼した。両者の名を並べ「優れた詩を練り上げたウェルギリウス」と「優れた絵を手指を使って描いたシモーネ」が生まれた、と指摘した
I.フィリッポ・ヴィラーニはフィレンツェの有名人への賛辞(14世紀末)において、ジョットやその他のフィレンツェ画家たちを挙げている。“ある画家たちが、自由学芸の教授らに比べて精神的にいささかも劣らなかったことが、正当に多くの人々から信じられている”。知識人と芸術家が比較されうるようになったからこそ、フィレンツェは他の都市に先駆けて芸術分野を広げ、さらに近代的に構造化することができたのだった
(10)芸術家の評価と自意識の変化
【イタリア都市(12世紀初)】
A.モデナ(イタリア)大聖堂付属学校長アイモの書いた銘板(建物の落成を祈願したもの)が後陣に付けられた。銘板は「聖ジェミニアノの遺体を安置し(彫刻を施された)大理石で光り輝く大聖堂を賛美し、建築者ランフランコを称賛した」ものであった。そこでは「建築計画の立案と、構想を実現できる建築家(=ランフランコ)探しが成功するまでの経過」が強調されている(12世紀初)
B.細密画(13世紀)には「ランフランコが土木作業者たち(労働者,石工)に指図している様子,司教とマティルデ伯爵夫人と一緒に厳かな儀式に参列している様子」が描かれている。ランフランコの姿は「長い服・帽子・手にした棒・離れた位置・指揮する態度」によって、他の人々とは明確に区別されている(ただしこのランフランコの姿は、13世紀の芸術家像をそのまま当てはめたイメージである可能性が高い)
C.同じ大聖堂の正面には、建築工事を記念した別の石がある。石の下部には彫刻家ヴィリジェルモの名が見られる。このようにして、最も意味のある場所(後陣や建物正面)に、仕事をした芸術家たちの名が残されるようになった
D.ピサの大聖堂正面には最初の建築家ブスケートの墓(古代様式の石棺)があり、その上に称賛の銘が刻まれている(そこではブスケートはダイダロスと比較されている-これは珍しい称賛の仕方ではない)
E.この2都市での事例は、芸術家の社会的地位の向上を示している(12世紀初)。都市共同体において、最も優れた芸術家の協力により、最も立派な建築が生まれたということは(次第に活動を活発にしていく)都市の威光を増大させた。芸術家は新しい発注者(=都市共同体)との関係によって、社会的地位・役割を向上させたのだった
F.芸術家の署名(建築家・石切師・彫刻家たち)が増加している事実(12世紀)は、特にイタリアにおいて多く確認される。そしてこの習慣は、ピサ→ルッカ→ピストイアへと広がり普及した
〈例1〉フォリーニョの聖堂はアットーという人物によって改修されたが、彼は石彫り師であるだけでなく“重要人物”であり「市長」であった。彼はボヴァーラのサン・ピエトロ教会でも仕事をし、教会正面に署名している
〈例2〉ビドゥイノはセッティーモのサン・カシアーノ像の台輪に“この作品は、ビドゥイノが心を込めて完成した”と、古典的な書式で署名している
〈例3〉グルアモンテは(男の名アデオダトと共に)ピストイアのサン・アンドレア像の台輪に“名匠”と署名している
G.建築工事の機能分割という面では「設計&工事監督を行う建築家,巧みな石彫り家,石工と大工の親方」がいる。さらに彫刻家もはっきりと姿を見ることができる
〈例1〉彫刻家ニッコロは、キウサのサン・ミケーレ大修道院において、黄道十二宮図の入口で「(彼自ら彫った)植物の絡み合った模様の中で野獣と怪獣の秘めたところを観賞し、注意深く絵図を検討し、碑文を読み、作品の意味を理解してほしい」と告げている
〈例2〉彫刻家グリエルモはピサ大聖堂のために説教壇を制作した(1159~62年)。彼の墓はブスケートの墓と同じく大聖堂の正面に置かれている。ちなみにこの説教壇は、ジョヴァンニ・ピサノが1世紀半後に新しい説教壇を彫刻した時にカリアリへ移された
【その他の地方では】
H.彫刻家・建築家による署名はイタリアよりはるかに少ない(11~12世紀)ものの、それなりに存在する
〈例1〉修道院長ゴズランがフルーリに招聘した芸術家の1人と思われる、ウンベルトゥスという人物の名が「ガリア地方全域の模範として」建てられた塔の柱頭に残っている
〈例2〉ギスレベトゥスという名が、オータンの大聖堂にある『最後の審判』のティンパン(フランスのロマネスク様式の最も素晴らしい作品の1つと言われる)に署名されている。この大聖堂内部の大半の柱頭も、このギスレベトゥスの作と考えられる
I.フランスのロマネスク様式の彫刻で最も見事なものの中には、全く署名が無いものがある。彫刻家の役割がフランスとイタリアでは非常に異なる状況に置かれていたようだ。また、ゴシック様式の大聖堂において彫刻家の名が完成に消滅したという部分もある、という
★イタリアでは「彫刻家‐建築家の役割が明確となる」が、フランスでは反対に「建築家優位の状況」となる
J.ドイツてもロマネスク様式の彫刻家の名前は多く見られる
〈例1〉ゴスラールの大聖堂では、ある銘は“ハルトマンヌスが像の土台を彫った”と明示されている
〈例2〉東フリースラントにあるラーレルト教会の小壁(タンパン)の図像と銘の場合。タンパンの中央に発注者(聖職者イッポ)と建築家マインハルトの名が示されている。彫刻家メルヌフスの名を示す銘には“イッポはケチではなく、私という芸術家に気前が良かった”とある
☆伝統的な図像形式では「タンパンは聖者を表現するためのもの」。伝統の弱いこの辺境地だからこそ、それを無視したスタイルが可能となった
【建築家と彫刻家のポジション】
K.イタリア(12世紀末~14世紀)で活躍した大芸術家たちは、何よりもまず彫刻家であった(自らもそのように称した)。これは(古典古代文化と密接な関係をもつ)技術が備えていた権威ゆえであった。建築の概念では、造形的・装飾的な面が重視された
〈例〉バルマの大聖堂(1178年)にある『キリストを十字架から下ろす図』を敷石に描いた“ベネディット”と署名している彫刻家ベネディット・アンテラミの場合、素晴らしい技量を持つ天才的な建築家でもあった。この大聖堂の洗礼所の制作者でもあるが、彼こそがイタリアにおける最初のゴシック様式の芸術家である
L.フランス(13世紀)では建築家が重要であり、彼らの建築現場での役割は、石彫り師・石工のそれとは違う。建築家は「建物の設計図を作る」「様々な業種団・各種の芸術家(彫刻家・画家・ガラス工芸家・金銀細工師・指物師・大工)・その他の仕事を統率する」のだった。つまり分業が進んでいた
☆建築家は「手袋をはめ、手に棒を持って現場に現れて、石の彫り方を石彫り師に指図し」普通の職人より高い報酬をもらう、という(ドミニコ会士ニコラ・ド・ビヤールの説教(1261年)から)
M.フランスでゴシック大建築の現場で監督に当たった、建築家の多くは名前が判っている。建築家の名前は「時には墓碑銘に刻まれた」「時には教会の敷石に描かれた迷路模様に彫られる」(迷路模様はルッカのサン・マルティノ大聖堂のものがきわめて早い時期に登場した)
〈例1〉ノートル・ダム・ド・パリの南交差廊の銘では、大聖堂のこの部分は「ジャン・ド・シェル棟梁が着工した:1257年2月」という
〈例2〉サン・テティエンヌ教会(カーン)では、内陣に安置された墓の上で、ギヨームか“技量の最高者”と呼ばれている
〈例3〉パリの「サン・ドニ修道院教会,サン・ジェルマン・デ・プレ,サント・シャペル」の建築者ピエール・ド・モントレイユは、サン・ジェルマン・デ・プレの聖母礼拝堂にある墓所敷石(1267年建造)では“石彫り博士”と呼ばれている。これは大学人なみの地位を暗示している!
☆スコラ哲学が手工芸に対して侮蔑を示していた時代であることに注意。芸術家がそれに対して自分たちの誇りを示しているように受け取れる
〈例4〉サン・ニケーズ教会(ランス)の建築者ユーグ・リベルジエは「アカデミックなトーガに似た立派な衣服をまとった姿」「自ら建築した教会の模型を握っている(これは当時は発注者だけの特権だった)」姿で、墓所敷石の上に表されている
【フランス人建築家の魅力】
N.フランス・ゴシック建築の威容が持つ魅力はかなりの影響を及ぼし、フランス人建築家はヨーロッパ中から呼ばれた
〈例1〉ギヨーム・ド・サンスはカンタベリー大聖堂の内陣を、早い時期にゴシック様式で建築し始めた(1178年)
〈例2〉エティエンヌ・ド・ボヌィユはパリからスウェーデンに招かれ(1287年)ウプサラの大聖堂で仕事をした
〈例3〉パリからやって来た「ある彫刻の名工」は、シュヴァルツヴァルトに近いヴィンプフェン・イム・タール教会をゴシック様式風に“ドイツらしく”再建することを託された
O.ヴィラール・ド・オヌクールはハンガリーまで赴いた(13世紀中頃)。現在に伝わっている彼の画帖には「モー,ラン,ランス,ローザンヌにある建築物の平面図・立面図・見取図・詳細図」が「古代の彫刻や記念の設計図,工具の図面」と交互に描かれてある
P.ヴィラールの画帖から確認できるように、フランスにおける大規模工事(12世紀~)の現場責任者が「各種専門家の活動を統括・監督する,必要なもの・方針・示唆を与える」役割を果たしていた。このために、同時期の日付がある彫刻家の署名は全く見られない
☆しかしゴシック様式時代において、大規模工事の現場責任者は(特に)彫刻家だったようだ(例:エティエンヌ・ド・ボヌィユはウプサラに招かれて、石彫りの仕事をした)
Q.フランス(13世紀)では「金銀細工師」だけが、建築家と並んで名を残す権利があった。彼らもまたヨーロッパ中から要請された。そればかりではなく、エティエンヌ・ド・ブシェは(ヴィラールと同様に)ハンガリーへ行き、そこでタタール人に捕らえられ、それから中国まで行って大汗の金銀細工師となった、という
【芸術家への授爵】
R.フランス宮廷(&それを模倣した各国の宮廷)では、芸術家への授爵が始まった(13世紀末・14世紀初~)
〈例1〉宮廷お抱えの金銀細工師ラウールは、フィリップ4世によって爵位を授けられた(1270年)
〈例2〉建築家ピエール・ダジャンクールはナポリのアンジュー家の宮廷に仕えていたが「miles:宮廷人(※騎士ではないのか?)」という称号を与えられていた(1289年)
S.君主から家族としての待遇を受けた芸術家が、その技量のおかげで貴族に迎えられた、と考えがちである。しかし(芸術家というよりも)役人であるために授爵された可能性もある。事実として、フランス・イギリス・ナポリでは「宮廷の発展・改編とともに新人が多くなっていった」ことは間違いなく、これが芸術家に社会的地位を高める機会を広げ、彼らに対する認識を高めたのだった
〈例〉アルプレヒト・デューラーはヴェネツィアに滞在中は「この地では私は貴族である」と感激させられるような状況だった
【イタリアでの新たな状況】
T.イタリアでは(パリがはっきりと主導権を握っていた)フランスと異なり、各都市共同体の旺盛な経済力は抑えがたい多元主義をもたらした。さらに「建築家の絶対的優位」現象も見られない
U.画家の活動は特にトスカーナ地方の諸都市(例:ピサ,ルッカ,フィレンツェ,シエナ,アレッツォ,ピストイア)が中心地となり、そこでは多くの画家の署名も残されている。あるいは最初期の描画建築)契約書も存在する(例:ピストイアのコッポ・ディ・マルコヴァルドのもの)
☆他には教会の建築契約書も存在する
U.ローマ教皇や枢機卿の代理が、ローマで(13世紀末の数十年間)行われた「聖マルティヌス大祭」のような輝かしい夏に、芸術家たちをローマに招いた。この影響でアッシジの聖フランチェスコ聖堂の装飾工事は、各地からやって来た芸術家によって進められた。他方で南イタリアの各宮廷(例:フリードリヒ2世のシュヴァーベン風宮廷,ナポリのアンジュー家の宮廷)も芸術家にとって憧れの都市となる
V.芸術家の新しい野心・自意識・作品に対する意識を見るには、彫刻家が一番であった
〈例〉ジョヴァンニ・ピサノの場合:
彼は中世の巨匠の1人であると同時に極端な例である。「自分の仕事の重要性を極度に感じ取る」「並外れた自尊心を抱いて平気で発注者と喧嘩したり、訣別したりする」「中世の芸術家を縛る制限や、障害を乗り越えようとする振る舞いの多かった」芸術家である
シエナでは発注者と劇的に衝突し、大聖堂の建築現場を見捨てて突然町を去った。ピサでもそこまで激しくはないが決裂が起こった。彼は銘にも自尊心を示しつけた:“ニコラの息子であるが、もっと技量に優れ、古今を通じて最高の碩学であり、未だかつて粗末な仕事をしたことがない彫刻家こそ、ジョヴァンニである”
☆ジョヴァンニとは反対に“父の存命中は師匠と呼ばれたくない”と言明した、ティノ・ディ・カマイノのような人物もいる
(11)初期の芸術家伝と作品の評価
A.ジョヴァンニ・ピサノは、ピサの大聖堂の説教壇に刻まれた2つの碑文に、劇的な自叙伝を残している。彼の作品・行為・告白はルネッサンスの先取りであったが、当時はまだ例外的存在であった
「1つめ:自分の芸術観を述べ、創作力を天賦の才とみなした。“醜悪な彫刻はたとえ望んだとしても作れなかった”“彫刻家は数多くいるが、とりわけ崇高な彫刻と多様な像を制作した点では、自分こそ名誉と称賛を受けるに相応しい”とする」
「2つめ:不当な批判を受けるのを恐れ、一種の個人的弁護を試みている。書き出しの中で作品の意義などを暗示し、中傷者・批判者に向かっては“王冠に相応しい者を批判する者は自らの劣等を暴露し、また非難する者はかえって非難されるべきであることを証明する”と挑んだ」
B.ソルステルヌス(スポレート大聖堂の正面を装飾する巨大なモザイク模様を作った:1207年)は碑銘で“ドクトル・ソルステルヌス-現代芸術の最高峰”と称している。ドクトル(博士)という大学人の名称を用いた点でピエール・ド・モントレイユの墓碑銘と同じだった
C.芸術家たちは手工芸への差別待遇から脱出するために、学者という言葉を使った(例:“学者のような指”“学者のような手”)が、その目的に決定的な役割を果たしたのはダンテの『神曲』煉獄篇だった。そこでは2人の細密画家(オデリシ・ディ・グッピオ,ボローニア人のフランコ)と2人の画家(チマブーエ,ジョット)が、文学者と同等に扱われ比較されている
☆速やかに広く成功を収めた『神曲』に登場したことが重要だった
【ジョットからルネサンスへ】
D.フィレンツェの文化はそもそもそうした傾向によい環境を提供していた。そこにダンテの言葉の重み、ジョットの革新的な芸術の重みが働き、ジョットの作品は並外れた反響と評判を示した
〈例〉フランチェスコ・ダ・バルベリーノのような絵画好みの文人が、スクロヴェニ礼拝堂の台座に描かれた『妬み像』を引用した(1313年)
E.ジョットがナポリで国王の友人として仕事をしていた時、彼は“画壇の第一人者”“巨匠”と呼ばれた。死去3年前にフィレンツェへ行った時には、彼に並ぶ者は存在しなかった。彼がフィレンツェに招かれたのは「この自治共同体の建築事業(都市における最も重要な任務)を監督するため」であった
☆この任務において、彼の企画・設計の技量が様々な領域で発揮されるのを期待していたから
F.文学者たちはジョットを認めるようになり、彼はエリートに属しエリートに理解される芸術家となった
〈例1〉『デカメロン』において、ボッカチオはジョットを立派な芸術家とみなした。“ジョットはこの芸術の真価を完全に回復した。なぜならこの芸術は幾世紀もの間、無趣味な人々にへつらい、優れた人々を無視してきた人々全ての錯誤の下に埋もれていた芸術だからだ。だから我々はジョットをフィレンツェの栄光と見なすべきである”
〈例2〉ペトラルカは遺言書の中でジョットの絵をパドヴァの領主へ遺贈した時「この画家の美は無知な者には理解されないが、識者を仰天させている」と指摘している
G.このように、識者と無知な者との区別が行われるのは、素晴らしい評価法となった。形象芸術が自由学芸の品格に近づいたのである。それも芸術家たちが「署名によって自分たちの仕事が(手芸的ではなく)知的であり、教養と学識を示している」と主張し、自己の正当化に努力してきた賜物であった
H.ペトラルカは、幸運にも発見されたウェルギリウス(古代ローマの詩人)の原稿の第1ページの挿絵をシモーネ・マルティーニに依頼した。両者の名を並べ「優れた詩を練り上げたウェルギリウス」と「優れた絵を手指を使って描いたシモーネ」が生まれた、と指摘した
I.フィリッポ・ヴィラーニはフィレンツェの有名人への賛辞(14世紀末)において、ジョットやその他のフィレンツェ画家たちを挙げている。“ある画家たちが、自由学芸の教授らに比べて精神的にいささかも劣らなかったことが、正当に多くの人々から信じられている”。知識人と芸術家が比較されうるようになったからこそ、フィレンツェは他の都市に先駆けて芸術分野を広げ、さらに近代的に構造化することができたのだった