『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[23]


(10)芸術家の評価と自意識の変化

【イタリア都市(12世紀初)】
 A.モデナ(イタリア)大聖堂付属学校長アイモの書いた銘板(建物の落成を祈願したもの)が後陣に付けられた。銘板は「聖ジェミニアノの遺体を安置し(彫刻を施された)大理石で光り輝く大聖堂を賛美し、建築者ランフランコを称賛した」ものであった。そこでは「建築計画の立案と、構想を実現できる建築家(=ランフランコ)探しが成功するまでの経過」が強調されている(12世紀初)
 B.細密画(13世紀)には「ランフランコが土木作業者たち(労働者,石工)に指図している様子,司教とマティルデ伯爵夫人と一緒に厳かな儀式に参列している様子」が描かれている。ランフランコの姿は「長い服・帽子・手にした棒・離れた位置・指揮する態度」によって、他の人々とは明確に区別されている(ただしこのランフランコの姿は、13世紀の芸術家像をそのまま当てはめたイメージである可能性が高い)
 C.同じ大聖堂の正面には、建築工事を記念した別の石がある。石の下部には彫刻家ヴィリジェルモの名が見られる。このようにして、最も意味のある場所(後陣や建物正面)に、仕事をした芸術家たちの名が残されるようになった
 D.ピサの大聖堂正面には最初の建築家ブスケートの墓(古代様式の石棺)があり、その上に称賛の銘が刻まれている(そこではブスケートはダイダロスと比較されている-これは珍しい称賛の仕方ではない)
 E.この2都市での事例は、芸術家の社会的地位の向上を示している(12世紀初)。都市共同体において、最も優れた芸術家の協力により、最も立派な建築が生まれたということは(次第に活動を活発にしていく)都市の威光を増大させた。芸術家は新しい発注者(=都市共同体)との関係によって、社会的地位・役割を向上させたのだった
 F.芸術家の署名(建築家・石切師・彫刻家たち)が増加している事実(12世紀)は、特にイタリアにおいて多く確認される。そしてこの習慣は、ピサ→ルッカ→ピストイアへと広がり普及した
〈例1〉フォリーニョの聖堂はアットーという人物によって改修されたが、彼は石彫り師であるだけでなく“重要人物”であり「市長」であった。彼はボヴァーラのサン・ピエトロ教会でも仕事をし、教会正面に署名している
〈例2〉ビドゥイノはセッティーモのサン・カシアーノ像の台輪に“この作品は、ビドゥイノが心を込めて完成した”と、古典的な書式で署名している
〈例3〉グルアモンテは(男の名アデオダトと共に)ピストイアのサン・アンドレア像の台輪に“名匠”と署名している
 G.建築工事の機能分割という面では「設計&工事監督を行う建築家,巧みな石彫り家,石工と大工の親方」がいる。さらに彫刻家もはっきりと姿を見ることができる
〈例1〉彫刻家ニッコロは、キウサのサン・ミケーレ大修道院において、黄道十二宮図の入口で「(彼自ら彫った)植物の絡み合った模様の中で野獣と怪獣の秘めたところを観賞し、注意深く絵図を検討し、碑文を読み、作品の意味を理解してほしい」と告げている
〈例2〉彫刻家グリエルモはピサ大聖堂のために説教壇を制作した(1159~62年)。彼の墓はブスケートの墓と同じく大聖堂の正面に置かれている。ちなみにこの説教壇は、ジョヴァンニ・ピサノが1世紀半後に新しい説教壇を彫刻した時にカリアリへ移された

【その他の地方では】
 H.彫刻家・建築家による署名はイタリアよりはるかに少ない(11~12世紀)ものの、それなりに存在する
〈例1〉修道院長ゴズランがフルーリに招聘した芸術家の1人と思われる、ウンベルトゥスという人物の名が「ガリア地方全域の模範として」建てられた塔の柱頭に残っている
〈例2〉ギスレベトゥスという名が、オータンの大聖堂にある『最後の審判』のティンパン(フランスのロマネスク様式の最も素晴らしい作品の1つと言われる)に署名されている。この大聖堂内部の大半の柱頭も、このギスレベトゥスの作と考えられる
 I.フランスのロマネスク様式の彫刻で最も見事なものの中には、全く署名が無いものがある。彫刻家の役割がフランスとイタリアでは非常に異なる状況に置かれていたようだ。また、ゴシック様式の大聖堂において彫刻家の名が完成に消滅したという部分もある、という
 ★イタリアでは「彫刻家‐建築家の役割が明確となる」が、フランスでは反対に「建築家優位の状況」となる
 J.ドイツてもロマネスク様式の彫刻家の名前は多く見られる
〈例1〉ゴスラールの大聖堂では、ある銘は“ハルトマンヌスが像の土台を彫った”と明示されている
〈例2〉東フリースラントにあるラーレルト教会の小壁(タンパン)の図像と銘の場合。タンパンの中央に発注者(聖職者イッポ)と建築家マインハルトの名が示されている。彫刻家メルヌフスの名を示す銘には“イッポはケチではなく、私という芸術家に気前が良かった”とある
 ☆伝統的な図像形式では「タンパンは聖者を表現するためのもの」。伝統の弱いこの辺境地だからこそ、それを無視したスタイルが可能となった

【建築家と彫刻家のポジション】
 K.イタリア(12世紀末~14世紀)で活躍した大芸術家たちは、何よりもまず彫刻家であった(自らもそのように称した)。これは(古典古代文化と密接な関係をもつ)技術が備えていた権威ゆえであった。建築の概念では、造形的・装飾的な面が重視された
〈例〉バルマの大聖堂(1178年)にある『キリストを十字架から下ろす図』を敷石に描いた“ベネディット”と署名している彫刻家ベネディット・アンテラミの場合、素晴らしい技量を持つ天才的な建築家でもあった。この大聖堂の洗礼所の制作者でもあるが、彼こそがイタリアにおける最初のゴシック様式の芸術家である
 L.フランス(13世紀)では建築家が重要であり、彼らの建築現場での役割は、石彫り師・石工のそれとは違う。建築家は「建物の設計図を作る」「様々な業種団・各種の芸術家(彫刻家・画家・ガラス工芸家・金銀細工師・指物師・大工)・その他の仕事を統率する」のだった。つまり分業が進んでいた
 ☆建築家は「手袋をはめ、手に棒を持って現場に現れて、石の彫り方を石彫り師に指図し」普通の職人より高い報酬をもらう、という(ドミニコ会士ニコラ・ド・ビヤールの説教(1261年)から)
 M.フランスでゴシック大建築の現場で監督に当たった、建築家の多くは名前が判っている。建築家の名前は「時には墓碑銘に刻まれた」「時には教会の敷石に描かれた迷路模様に彫られる」(迷路模様はルッカのサン・マルティノ大聖堂のものがきわめて早い時期に登場した)
〈例1〉ノートル・ダム・ド・パリの南交差廊の銘では、大聖堂のこの部分は「ジャン・ド・シェル棟梁が着工した:1257年2月」という
〈例2〉サン・テティエンヌ教会(カーン)では、内陣に安置された墓の上で、ギヨームか“技量の最高者”と呼ばれている
〈例3〉パリの「サン・ドニ修道院教会,サン・ジェルマン・デ・プレ,サント・シャペル」の建築者ピエール・ド・モントレイユは、サン・ジェルマン・デ・プレの聖母礼拝堂にある墓所敷石(1267年建造)では“石彫り博士”と呼ばれている。これは大学人なみの地位を暗示している!
 ☆スコラ哲学が手工芸に対して侮蔑を示していた時代であることに注意。芸術家がそれに対して自分たちの誇りを示しているように受け取れる
〈例4〉サン・ニケーズ教会(ランス)の建築者ユーグ・リベルジエは「アカデミックなトーガに似た立派な衣服をまとった姿」「自ら建築した教会の模型を握っている(これは当時は発注者だけの特権だった)」姿で、墓所敷石の上に表されている

【フランス人建築家の魅力】
 N.フランス・ゴシック建築の威容が持つ魅力はかなりの影響を及ぼし、フランス人建築家はヨーロッパ中から呼ばれた
〈例1〉ギヨーム・ド・サンスはカンタベリー大聖堂の内陣を、早い時期にゴシック様式で建築し始めた(1178年)
〈例2〉エティエンヌ・ド・ボヌィユはパリからスウェーデンに招かれ(1287年)ウプサラの大聖堂で仕事をした
〈例3〉パリからやって来た「ある彫刻の名工」は、シュヴァルツヴァルトに近いヴィンプフェン・イム・タール教会をゴシック様式風に“ドイツらしく”再建することを託された
 O.ヴィラール・ド・オヌクールはハンガリーまで赴いた(13世紀中頃)。現在に伝わっている彼の画帖には「モー,ラン,ランス,ローザンヌにある建築物の平面図・立面図・見取図・詳細図」が「古代の彫刻や記念の設計図,工具の図面」と交互に描かれてある
 P.ヴィラールの画帖から確認できるように、フランスにおける大規模工事(12世紀~)の現場責任者が「各種専門家の活動を統括・監督する,必要なもの・方針・示唆を与える」役割を果たしていた。このために、同時期の日付がある彫刻家の署名は全く見られない
 ☆しかしゴシック様式時代において、大規模工事の現場責任者は(特に)彫刻家だったようだ(例:エティエンヌ・ド・ボヌィユはウプサラに招かれて、石彫りの仕事をした)
 Q.フランス(13世紀)では「金銀細工師」だけが、建築家と並んで名を残す権利があった。彼らもまたヨーロッパ中から要請された。そればかりではなく、エティエンヌ・ド・ブシェは(ヴィラールと同様に)ハンガリーへ行き、そこでタタール人に捕らえられ、それから中国まで行って大汗の金銀細工師となった、という

【芸術家への授爵】
 R.フランス宮廷(&それを模倣した各国の宮廷)では、芸術家への授爵が始まった(13世紀末・14世紀初~)
〈例1〉宮廷お抱えの金銀細工師ラウールは、フィリップ4世によって爵位を授けられた(1270年)
〈例2〉建築家ピエール・ダジャンクールはナポリのアンジュー家の宮廷に仕えていたが「miles:宮廷人(※騎士ではないのか?)」という称号を与えられていた(1289年)
 S.君主から家族としての待遇を受けた芸術家が、その技量のおかげで貴族に迎えられた、と考えがちである。しかし(芸術家というよりも)役人であるために授爵された可能性もある。事実として、フランス・イギリス・ナポリでは「宮廷の発展・改編とともに新人が多くなっていった」ことは間違いなく、これが芸術家に社会的地位を高める機会を広げ、彼らに対する認識を高めたのだった
〈例〉アルプレヒト・デューラーはヴェネツィアに滞在中は「この地では私は貴族である」と感激させられるような状況だった

【イタリアでの新たな状況】
 T.イタリアでは(パリがはっきりと主導権を握っていた)フランスと異なり、各都市共同体の旺盛な経済力は抑えがたい多元主義をもたらした。さらに「建築家の絶対的優位」現象も見られない
 U.画家の活動は特にトスカーナ地方の諸都市(例:ピサ,ルッカ,フィレンツェ,シエナ,アレッツォ,ピストイア)が中心地となり、そこでは多くの画家の署名も残されている。あるいは最初期の描画建築)契約書も存在する(例:ピストイアのコッポ・ディ・マルコヴァルドのもの)
 ☆他には教会の建築契約書も存在する
 U.ローマ教皇や枢機卿の代理が、ローマで(13世紀末の数十年間)行われた「聖マルティヌス大祭」のような輝かしい夏に、芸術家たちをローマに招いた。この影響でアッシジの聖フランチェスコ聖堂の装飾工事は、各地からやって来た芸術家によって進められた。他方で南イタリアの各宮廷(例:フリードリヒ2世のシュヴァーベン風宮廷,ナポリのアンジュー家の宮廷)も芸術家にとって憧れの都市となる
 V.芸術家の新しい野心・自意識・作品に対する意識を見るには、彫刻家が一番であった
〈例〉ジョヴァンニ・ピサノの場合:
 彼は中世の巨匠の1人であると同時に極端な例である。「自分の仕事の重要性を極度に感じ取る」「並外れた自尊心を抱いて平気で発注者と喧嘩したり、訣別したりする」「中世の芸術家を縛る制限や、障害を乗り越えようとする振る舞いの多かった」芸術家である
 シエナでは発注者と劇的に衝突し、大聖堂の建築現場を見捨てて突然町を去った。ピサでもそこまで激しくはないが決裂が起こった。彼は銘にも自尊心を示しつけた:“ニコラの息子であるが、もっと技量に優れ、古今を通じて最高の碩学であり、未だかつて粗末な仕事をしたことがない彫刻家こそ、ジョヴァンニである”
 ☆ジョヴァンニとは反対に“父の存命中は師匠と呼ばれたくない”と言明した、ティノ・ディ・カマイノのような人物もいる


(11)初期の芸術家伝と作品の評価

 A.ジョヴァンニ・ピサノは、ピサの大聖堂の説教壇に刻まれた2つの碑文に、劇的な自叙伝を残している。彼の作品・行為・告白はルネッサンスの先取りであったが、当時はまだ例外的存在であった
「1つめ:自分の芸術観を述べ、創作力を天賦の才とみなした。“醜悪な彫刻はたとえ望んだとしても作れなかった”“彫刻家は数多くいるが、とりわけ崇高な彫刻と多様な像を制作した点では、自分こそ名誉と称賛を受けるに相応しい”とする」
「2つめ:不当な批判を受けるのを恐れ、一種の個人的弁護を試みている。書き出しの中で作品の意義などを暗示し、中傷者・批判者に向かっては“王冠に相応しい者を批判する者は自らの劣等を暴露し、また非難する者はかえって非難されるべきであることを証明する”と挑んだ」
 B.ソルステルヌス(スポレート大聖堂の正面を装飾する巨大なモザイク模様を作った:1207年)は碑銘で“ドクトル・ソルステルヌス-現代芸術の最高峰”と称している。ドクトル(博士)という大学人の名称を用いた点でピエール・ド・モントレイユの墓碑銘と同じだった
 C.芸術家たちは手工芸への差別待遇から脱出するために、学者という言葉を使った(例:“学者のような指”“学者のような手”)が、その目的に決定的な役割を果たしたのはダンテの『神曲』煉獄篇だった。そこでは2人の細密画家(オデリシ・ディ・グッピオ,ボローニア人のフランコ)と2人の画家(チマブーエ,ジョット)が、文学者と同等に扱われ比較されている
 ☆速やかに広く成功を収めた『神曲』に登場したことが重要だった

【ジョットからルネサンスへ】
 D.フィレンツェの文化はそもそもそうした傾向によい環境を提供していた。そこにダンテの言葉の重み、ジョットの革新的な芸術の重みが働き、ジョットの作品は並外れた反響と評判を示した
〈例〉フランチェスコ・ダ・バルベリーノのような絵画好みの文人が、スクロヴェニ礼拝堂の台座に描かれた『妬み像』を引用した(1313年)
 E.ジョットがナポリで国王の友人として仕事をしていた時、彼は“画壇の第一人者”“巨匠”と呼ばれた。死去3年前にフィレンツェへ行った時には、彼に並ぶ者は存在しなかった。彼がフィレンツェに招かれたのは「この自治共同体の建築事業(都市における最も重要な任務)を監督するため」であった
 ☆この任務において、彼の企画・設計の技量が様々な領域で発揮されるのを期待していたから
 F.文学者たちはジョットを認めるようになり、彼はエリートに属しエリートに理解される芸術家となった
〈例1〉『デカメロン』において、ボッカチオはジョットを立派な芸術家とみなした。“ジョットはこの芸術の真価を完全に回復した。なぜならこの芸術は幾世紀もの間、無趣味な人々にへつらい、優れた人々を無視してきた人々全ての錯誤の下に埋もれていた芸術だからだ。だから我々はジョットをフィレンツェの栄光と見なすべきである”
〈例2〉ペトラルカは遺言書の中でジョットの絵をパドヴァの領主へ遺贈した時「この画家の美は無知な者には理解されないが、識者を仰天させている」と指摘している
 G.このように、識者と無知な者との区別が行われるのは、素晴らしい評価法となった。形象芸術が自由学芸の品格に近づいたのである。それも芸術家たちが「署名によって自分たちの仕事が(手芸的ではなく)知的であり、教養と学識を示している」と主張し、自己の正当化に努力してきた賜物であった
 H.ペトラルカは、幸運にも発見されたウェルギリウス(古代ローマの詩人)の原稿の第1ページの挿絵をシモーネ・マルティーニに依頼した。両者の名を並べ「優れた詩を練り上げたウェルギリウス」と「優れた絵を手指を使って描いたシモーネ」が生まれた、と指摘した
 I.フィリッポ・ヴィラーニはフィレンツェの有名人への賛辞(14世紀末)において、ジョットやその他のフィレンツェ画家たちを挙げている。“ある画家たちが、自由学芸の教授らに比べて精神的にいささかも劣らなかったことが、正当に多くの人々から信じられている”。知識人と芸術家が比較されうるようになったからこそ、フィレンツェは他の都市に先駆けて芸術分野を広げ、さらに近代的に構造化することができたのだった
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[22]


(5)金属加工・溶解

 A.この技術の専門家は、金銀細工師と並んで重要な地位を占めた。フルーリ修道院長ゴズランの伝記には「あらゆる溶解技術にこの上なく優れたリュデュルフルス」という人物(当然、修道院で仕事を行った)が伝えられている。この芸術家は「ベザレルの後継者」とまで言われている
 ☆ベザレル:『出エジプト記』において、神に助けられながら金・銀・青銅・宝石・あらゆる種類の木を細工できる者と認められた「契約の箱」の神秘的な作者
 B.聖堂大扉の場合には、しばしば作者名が示されるだけでなく、場合によっては作者の姿も描かれる。というのは、それはとてつもなく大きな仕事であり、中世を通じて感嘆の眼差しで眺められたから
〈例〉サン・ゼーノ教会(ヴェローナ)の青銅大扉には、作者名は無いものの、ノヴゴロドの聖ソフィア大聖堂の大扉を作っている彫刻家の姿が描かれている
 ⇒この扉はザクセン人の職人たちにより溶解・細工された。「鋳造師リカンが金属材料を秤で量っている」「若いヴァイムットが溶けて沸き立つ金属でいっぱいになった坩堝を火挟みで掴んでいる」「3人目の工匠アブラハムも坩堝と槌を持っている」ところが表現されている


(6)筆耕と細密画

 A.ロマネスク様式時代の若干の細密画家の名前・姿も分かっている。「ある画家たちは署名を残している」「(稀なケースとして)文献史料に名を残している,同時代人による他の画家についての証言もある」など
 B.しかし最も重要な地位(=「文書」の世界で最も社会的な権威があった)のは、筆耕'scriptor'であった。彼らの仕事は「神の言葉・聖者の書き物の筆耕として、画家の手作業よりも高級&知的なものと見なされ」、多くの名前が伝わっている
〈例〉
 ケンブリッジの古文書には「修道士エドウィンが筆記台に向かって仕事に専念している肖像」の周りに、読む人に宛てて「エドウィンとその仕事(筆跡)を説明している」銘がある。これによってエドウィンは、カンタベリーで最も著名&優秀な筆耕として表敬されていたことが伝わる
 C.ただしscriptorが細密画家であるケースもある。また細密画家が別の仕事をすることもある

【自画像】
 D.初期の細密画家の自画像のうちでは、修道士ユゴー(ジュミエージュのノルマンディー大修道院の修道士か?)が聖ヒエロニスムの文書(11世紀末)において「ペンと文字削りナイフを持った姿」で表されている。彼は「この作品の画家で、細密画家だ」と自称している
 E.ロバート・ベンジャミンは修道士ユゴーと同時代の人物。こちらは「跪いた格好で、聖アウグスティヌスの『詩編』の注釈の頭文字の中で、十字を切っている」
 F.ヒルデベルトの場合:
1.「彼は聖アウグスティヌスの『神の国』の写本(1140年頃)の最後のページに、仕事場の中の様子とともに描かれている」
2.「獅子像に支えられた書見台の上に1冊の本が置かれている。その前にある立派な高座に、長い豪華な衣装(金の刺繍のあるチュニカ,短いマント)をまとったヒルデベルトがいる」
3.「彼は筆耕であり、1本のペンを耳に挟んでいて、書見台には別のペン・インク壺・絵の具入れ・文字削りナイフが置かれている」
4.「この光景は福音史家をモチーフにしていて(高座と書見台を支える獅子がそう)、聖マルコを表すように、低い場所で助手エヴェルウィンが低い腰掛けに座っている。彼は1枚の羊皮紙に葉模様のフリーズ(※帯?)を描いている」
5.「そのすぐ傍にはテーブルが置かれ、そこでは1匹のネズミが鶏肉のローストとその皿をひっくり返し、大きなチーズの切れ端を奪っていくところである」
6.「ヒルデベルトは仕事の邪魔をされて腹を立て、ネズミに向かってスポンジを投げつけようとしている」
7.「書見台に置かれた本は怒り声を発している。『ネズミ野郎!失せろ、悪い奴めが、いつもこんなに俺を怒らせて!』」
8.「別の細密画でもヒルデベルトは“画家H”として、エヴェルウィンとともに描かれている。『聖グレゴリウスを描いた大きい細密画』の下で、ヒルデベルトは飾り枠を描いている。その反対側では修道士が筆耕の仕事をし、低い所で弟子が絵の具入れを差し出している」


(7)現代に芸術家を伝えるもの

 A.『諸技芸提要』(12世紀初)はロジェという修道士芸術家によって書かれた。彼はドイツの修道院で仕事をしていて、テオフィルスと称し、金属加工の巨匠の1人である修道士テオフィルス(ロゲルス・フォン・ヘルマルスハウゼン)と同一人物であると考えられている
 B.彼の著作は3巻に分かれている。「第1巻:絵画・技術・材料に割り当てられ、細密画・壁画・木版画に及ぶ」「第2巻:ガラス工芸の技法とその応用,置物,ステンドグラス」「第3巻:金属の加工法」。第3巻が一番長い部分で「鉄・銅・銀・金の工芸,応用としての様々な技法,各種の道具,七宝,象牙と骨の彫刻,宝石細工の技法」が記述されている
 C.テオフィルスのこの本は単なる技法書ではない(技法だけなら、他にも『ロマネスク様式の絵の具と画法』といった著書が存在している)。この本は彼の「自叙伝」であり、著書は「自分の仕事・意図・信仰・信念を個人的に、感動的に、情熱的に語っている」点に特徴がある
 ⇒才能・技能の多様性と、ロマネスク様式の芸術家が才を発揮できた領域の多様性が示されている


(8)再び、芸術家の地位の問題

 A.中世盛期以降、芸術の各分野における序列化は難しくなる。知識人たちが「手芸の劣等性」「手芸は貴族で無い者・平民の子弟にしか相応しくない」と主張しても、現実にはそれなりの地位を占め始めた。とりわけイタリアではそれが進んでいて、芸術家の署名が重要視されるようになっていたことにも判明している
〈例〉フライジングのオットー(フリードリヒ・バルバロッサの伝記作者)は「手芸-この疫病神-にたずさわる者ならば、えらい軍人・文官と同じ地位に就けた」と言明している

【4つの疑問・問題点】
1.「芸術家の地位:自由な身分or農奴,世俗人or聖職者」
2.「芸術製作の発注者としてだけでなく、直接関わった司教・修道院長の存在」
3.「技術の等級,技術にたずさわる芸術家の移り気」
4.「初期の芸術家伝と、その芸術家の作品に対する評価」

【芸術家の地位について】
 B.聖職者だけでなく世俗人も、都市・宮廷・修道院で働いている
〈例1〉
 シャルル2世(禿頭王)の王令で、パリの金銀細工師は特権が認められた(846年),同じくシャルル2世の宮廷では、妻子とともに2人のガラス工芸師が仕事をしていた(842年)
〈例2〉
 ザンクト・ガレン修道院の平面図(9世紀)には、修道院の境内にある2つの建物が「世俗の職人・工芸家の宿舎」とされていた,コルヴァイ修道院の家族調査簿(?)では「修道院で仕事をしていた世俗人(金銀細工師,金属溶解師,羊皮紙職人など)の人数・資格」が記されている
 C.金銀細工師ウォルウィヌス(カロリング期最高の芸術家の1人)は、俗人だったようだ。しかし聖職者‐世俗人の間にある柵は、実は越えやすかったので「修道院or司教館で働いていた俗人が教会の名誉役員になる」こともあった
〈例〉ダニエルは(12世紀)という貧しいガラス工芸家出身の俗人は、やがてラムゼイ修道院長となり(12世紀半ば)、さらにセント・ベネット・アト・ホルム修道院長に任じられ、国王の支持によってカンタベリー大司教にまで出世した
 ⇒長い時代にわたり、記録に残った多くの芸術家は聖職者であった(~11世紀)が、実は教会・修道院の年代記の証言を用いる場合には注意が必要になる

【芸術家の社会的地位と報酬について】
 D.アンジェのサン・トーバン修道院長ジェラールと“優れた画家”フルコとの間で交わされた契約書から(11世紀後半):
「a.画家は注文通りの仕様で、修道院全体を装飾して窓のステンドグラスを作る」「b.その代わりにフルコは修道院の助修士となり、院長に仕える」「c.修道院長・修道院は彼にブドウ畑・家を提供し、彼は生涯その家に住める」「d.しかし彼の死後にはどちらも返還される」「e.もし息子がいて父の仕事を受け継ぎ、サン・トーバン修道院のために働くならば、そのまま住み続けることができる」
 E.このような「芸術家を生涯束縛し続けることになる報酬の在り方」は、この時代では珍しくなかった。しかしもっと良い条件もあった
〈例〉ロンバルディアのライモンド:
 彼は評判の高い技術者であり、教会を建てることができ、さらに5人の同郷者グループの棟梁だった(1175年)。彼はウルヘルの司教と契約し「a.期限7年で聖母教会を建てる」「b.報酬として彼は教会役員の手当てに相当する終身年金を受け取る」
 F.芸術家は場合によっては、工芸品を寄贈できるほど金を稼ぐことができたので、修道院に貴重な作品を寄進する芸術家たちが出現した(12世紀)
〈例1〉ゴトフロワ・ド・ユイ:
 (シドン司教から貰った)バプテスマのヨハネの遺物を入れた非常に貴重な箱を、ヌフムスティエ修道院へ寄進した
〈例2〉ゲルラック
 このステンドグラス画家は、ラーン河畔にあるアルンシュタインのプレモントレ会修道院へ、モーゼの一代記を書いた素晴らしいステンドグラスを寄進した(12世紀半ば)
 ☆ゲルラックはそのステンドグラスの裾に自分の姿を描いた。自画像では彼は「筆を手に描画していて、その周りに“おお、王の中の優れた王よ、ゲルラックに恵みをたれ給え”という銘を入れ、主の加護を求めている」


(9)製作に関与した発注者

 A.高位聖職者=発注者は芸術製作の領域にまで直接介入していたが、文書の上で彼らが“建造者”“制作者”“建築者”と書かれていても、どこまで関与していたのかは分からない。ただし伝記などの中で、製作活動に自ら関わったことが明記されている高位聖職者も存在する

【ベルンヴァルト(11世紀)】
 B.彼はヒルデスハイム司教だったが、伝記の第1章で“彼は全ての自由学芸に熱烈な情熱を傾けたが、それでも手工芸と呼ばれる、低い次元の芸術の研究にも没頭した。彼はまず、分筆に優れたが、絵画や鍛冶・金属溶解の技術にも秀でていた”と強調されている
 C.タンクマール(ヒルデスハイムの聖堂参事会会員・大聖堂付属学校の校長・ベルンヴァルトの師)によると、ベルンヴァルトは「硬質石・水晶の彫刻に優れていた」「宝石・宝石箱・聖遺物箱・聖杯・古文書装幀の作り方にも秀でていた」「画家・建造者・建築者としての天分に恵まれていた」という。彼の名はかなり多くの作品(特にヒルデスハイムの堂々たる聖堂框〔かまち〕)に認められる
 D.ベルンヴァルトの自叙伝には、彼の制作意図が窺える。彼は制作活動に参加して熱中していたので、実際に働いていた芸術家たちへの指図だけでなく、彼自身が直接、芸術家の仕事に加わっていた

【トゥオティロ(9世紀)】
 E.この修道士に関しては、ザンクト・ガレン修道院史(修道院長エッケハルト4世の手によるもの:11世紀初)によって伝えられている。彼は多才な人物で、皇帝からも修道士になったことを惜しまれているほどだった。いわく「美貌,高い気品,体育者のような体つき,澄んで爽やかな声,音楽上の造詣の深さ,教養,多国語の語学能力」
 F.彼は修道院で貴族の子弟を教育し、特に芸術活動に秀でており「画家,象牙の彫刻家,金銀細工師」として活動した。「コンスタンツの聖堂を飾る多くの重要文化財の制作者」であり、祭壇・聖遺物箱・宝石を散りばめた金の十字架も作った。彼は「自分の修道院のために見事な象牙板を彫った」「マインツのザンクト・カストル聖堂のために貴重な祭壇正面を作った」「メスの大聖堂のために聖母子画を描いた(この絵を描いた時には、聖母自ら姿を現してモデルになった、と伝えられる)」

【ジョヴァンニ(1000年頃)】
 G.彼はオットー3世から、アーヘンの宮中礼拝堂で絵を描くように招聘されたイタリア出身の画家である。50年後にリエージュ司教バルデリックは伝記を書き、その中で「たとえ時代を経て痛んでいても、ジョヴァンニの数々の絵を観賞に来るよう」読者に促している。また彼はリエージュで数々の絵を描き「リエージュに葬って欲しい」と願った、という
 H.皇帝は彼の功績に報いるために、司教を失ったイタリアのある司教区の司教に任命されたものの、彼は祖国から遠く離れた宮廷生活を選び、宮廷で皇帝の家族同様にもてなされた。また彼は領主の娘を妻に迎えるよう要請されずに済んだ(司教になるはずだったから!)

【オスナブリュックのボイノン】
 I.彼は司教であり、ハインリヒ3世とハインリヒ4世に重臣として仕えた人物だが「建築界の第一人者であり、城壁建設に卓越していた」「設計図の作成・建築現場にも直接関係した」という。彼はシュパイヤー・ゴスラール・ヒルデスハイムにおいて重要な建築現場の監督を務めた
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[21]


○芸術家


(1)歴史的な問題点

 A.現代人が中世をイメージするにあたって、多種多様な建築物・芸術作品(例:彫刻,モザイクor多彩なステンドグラス,金銀細工,極彩色の書物,象牙彫刻,青銅製の大扉,七宝,壁画,タペストリー,刺繍,玉虫色のユニークなデザインの布・織物,金地に描かれた絵などで満ちた教会堂の白壁)にあたることができる。しかし一方では、ごくわずかの芸術家の名前しか挙げられない
 B.この現象について、近代芸術家の自己中・虚栄心を嘆くために「中世の工芸家の献身・謙譲・徳性」を持ち上げ、さらに「中世の人間は神の報いしか願わず、名前の顕示を嫌い、慎ましく無名のままで満足し、ただ信仰を高めようとする集団での努力に参加したいだけだった」とする見解があった
 C.実際には、上記B.のロマン派的見解が現実と異なっていることを示す事例は数多く見られる
〈例〉多くの作品の作者名が判らなくとも、保存されている中世芸術家の名前・署名は多い。さらに「中世の芸術家にしっかりとした自尊心が存在し、名声が無名と対立していた」ことが多く証言されている
 D.だからといって、中世芸術家がいかに自尊心・誇りを示していたとしても、彼らが一般的に謙譲さを備えていたことをハッキリと否定することはできない。中世芸術家の態度は「多くの点でそれ以前orその後な芸術家とはかけ離れている」という

【古代の芸術家(中世との比較)】
 E.古代の芸術家の「身分,職人身分との違い,社会的地位,経済事情,処遇」についての共通した見解はまだ得られていない。「a.芸術家が一般にどの程度評価されていたのか」「b.反対にどれほど卑しい者と見なされていたのか」「c.多くの芸術家の署名は現存しているが、陶工の署名にはどんな意味があったのか(署名は自尊心の証拠?コピーライト?)」
 F.古代の多くの史料は、芸術家の名前を伝えて序列化し、ある芸術家には特に賛辞を送っている。しかしプルタルコスの『ペリクレス伝』では「芸術家になりたいと思うような若者は良家にはいない」とされている
 ⇒「古代」として一緒くたにされる長い長い期間を通じて、芸術家の地位に対する統一した評価などは存在しない。時代・地域ごとに状況は大いに異なっている(例:紀元前5世紀のアテナイで仕事をした芸術家と、紀元前4世紀のアレクサンドロスの宮廷で仕事をした芸術家の違い)。もちろんギリシアとローマとの違いなどもある


(2)古代から中世へ

 A.古代世界の芸術家の状況以上に、中世の芸術家については曖昧だった。それは「中世が1000年にもわたっていること(そこには深い多様性がある)」「調査が古代世界ほど進んでいないこと」が理由
 B.古代世界の危機によって状況が変化した。趣味の高い裕福な収集家が消えたせいで、古い重要な中心地(芸術においても中心だった)では作品制作がほとんど止まった。別の土地では、かなり規模が縮小しながらも継続したが、発注者とその身分は変わった
 C.芸術作品の機能・概念も相当変化した。絵は「現世のことを対象とする,異教文化に関係する,偶像崇拝の疑いがある」限り、相当な憎悪が生じた。そして次第に「キリスト教とその使命,贖罪と救済の計画を伝える」ことに奉仕するようになり、さらに「文盲にとっての読み物の代わり」と見なされた(教皇グレゴリウス1世の言葉より)
 D.中世では「絵を見るより読書の方が高尚・高級な活動」であり、当然「絵を描く人よりも文字を書く人の方が尊重された」。そして一般的に「手仕事に従事している人は見下された」
 E.しかし手工芸を擁護する意見もあった。プロティノスは著書『エンネアデス』において芸術家を擁護した(3世紀)。彼の思想は中世文化に影響を与え、芸術活動に対する特別の敬意を生んだ


(3)芸術家への評価をみる

 A.中世の文献史料には、現在の「芸術家」に相当する言葉はなく、'artefices' は職人と芸術家を表した。だから『ベレンガリウスは見事なarteficesだった』という記述(1050年頃:シャルトル大聖堂の過去帳)からは、彼がどのような「芸術家」として腕を振るったかは分からない
 ☆ベレンガリウスは、火災(1020年)後に大聖堂の修復を監督した建築家だったようだ
 B.芸術家という言い方がときには文献史料に登場するが、これは(現在の手工芸に関係する者ではなく)「自由学芸:文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何・天文学・音楽の4科」を研究or実践している者のことだった。「特殊な技能を有する人」という意味を与えられるのは遅かった(13世紀末)

【芸術家への評価】
 C.建築家は芸術分野の中でも格別に評価されていた。しかし言葉が示す意味は多様であり「設計と現場監督(古代~カロリング期)」「石工であり設計者(7~13世紀)」「建築家=建設者(理論的活動・設計の仕上げよりも現場活動を優位とみなす)」などであった
 D.諸技術の境界は越えることができたから、多芸に秀でた芸術家が史料に登場する。他方では「金細工師やガラス細工師の地位は高い」(理由は単純-難しい技術に長じているから)。また、若干の画家が激賞されている
〈例1〉ジョヴァンニ:オットー3世によりイタリアからアーヘンへと招かれた画家
〈例2〉ロンバルディア人ニヴァルドゥス:修道院長ゴスラン(ユーグ・カペーの庶子で、豪勢な発注者として知られた)からフルーリ修道院(サン‐ブノワ‐シュール‐ロワール)で仕事をするよう頼まれた
 E.芸術家が文学作品の登場人物として最初に現れたのはトスカーナ地方(14世紀初~)だが、これは極めて先進的なエピソード。中世の芸術家について調べるには普通、諸々の史料(修道院・司教の年代記,大修道院・大聖堂の過去帳,司教と修道院長の書簡)が用いられる
 ☆芸術家の名を伝えるものには、他には署名・銘や証書(支払い,契約,組合資格に関するもの)がある

【建築家に対する2つのイメージ】
1.「ランフレドゥスという名の建築家は当時(12世紀?)、フランスでどんな建築家にも優るという称賛を受けていた。しかし彼はノルマンディーのイヴリー城の塔を建てた後で首をはねられた。それは『彼が同じような塔を2度と他所で建てられないようにするため』だという」
2.「ある有名な『石彫り師』が、自分の設計に文句をつけた修道院長に向かって答えた-『私の設計がお気に召さないなら、他の職人を探していただきたい』」

【署名】
 F.中世初期にはなぜか芸術家の署名が消滅した(例外:硬貨に刻まれた彫刻家の署名)が、復活するのは伝統豊かなイタリアにおいてだった。芸術家は基本的に、図式として「発注者と並んで鑿と槌を振るっている姿」を彫りたかった
〈例〉ウルスス・マギステル:
1.「弟子のユヴェンティノとユヴィアノとともに、サン・ジョルジオ教会堂(ヴァルポリチェラ地方)の聖体容器に署名を残している」(712年)
2.「フェレンティロ修道院(テルニの近く)内の祭壇の正面にもこの銘が見られる。これは発注者ヒルデリクス・ダギレオバ(おそらくスポレート公イルデリック:739年)の記述で署名が許されたようだ」
 G.「マギステル」という言葉から想定されるのは、彼は「大勢の者(見習い・各種の手伝いまで含む)で構成されるチームを統率していた」ということ

【聖エロアの場合】
 H.聖エロアは「偉大な金細工師,硬貨製作者,メロヴィング宮廷の重要人物,ノワイヨン司教」であったが、彼の伝記には芸術活動は特別には扱われていない。伝記作家の意図は「物質的な手仕事よりも知的な仕事の方が優れている」という点にある
 I.伝記では、エロアの芸術面での才能・深い信仰心だけでなく、彼の社会的地位と威厳を示そうとしている。そのため「彼の芸術の技量を感激しながら」語り、さらに「金銀細工作品,彼の敬虔さ,慈愛の深さ,君主たちとの親密さ」「貴族に相応しい長い指,豪華な衣装」にも触れている


(4)金銀細工師について

【著名な金銀細工師】
 A.彼らの社会的地位は、技術的難易度ゆえに高かった。ミラノの聖アンブロシウスの金の祭壇を見ると、製作者ウォルウィヌスは作品に署名している。さらに「発注者(大司教アンギルベルト2世)が聖アンブロシウスから戴冠される」のと同じように「発注者自身が聖アンブロシウスから戴冠される」様子を表現している
 B.ただし大司教の方は、聖者の前に祭壇を捧げながら跪く時「頭部に四角い光輪」が見えているのに対して、製作者の方は「光輪はなく手は何もしていないので、跪く姿がいっそうハッキリと描きだされている」という違いがある
 ★中世では芸術家と発注者との関係は(当然ながら)同等ではない。発注者が「より高い身分で、経済力があり、教養において芸術家を圧倒している」ほど、芸術家の地位は引き下げられた
 C.著名な金銀細工師アデルレムスは貴族出身の聖職者であり、クレルモンの大聖堂(※現在の大聖堂の前のものを指すようだ)を設計し「石・金の細工に優れていて、過去の芸術家の中で最高と知られていた」「クレルモンの有名な聖遺物箱は彼の作であり(当時復興しつつあった)彫刻の手本となった」人物である(10世紀)
 D.聖ダンスタンも聖職者であり、修道院改革者にして政治家だった。さらに「ハープにも歌にも優れた」「彫刻家・金細工師・青銅鋳造師・画家・達筆家だった」。亡くなる時にはカンタベリーの大司教を務めていた

【金銀細工】
 E.何世紀にもわたり「金銀細工」は、中世芸術の偉大な技巧の1つだった。優れた芸術家たちは技術を試み、それは彼らにとって最重要な仕事であり、最も先進的な挑戦となった。「芸術作品はその素材より優れている」と繰り返し言われた(しかしこの考えとは矛盾することも多い…下記参照)
 F.金銀細工の作品は「発注者から神へ・聖母マリアへ・守護聖人へ捧げる最高の表敬」と考えられた(経済的な価値,その輝き,そこで読み取れる多くの聖書的内容に意味があった)ので、発注者は最も優れた金銀細工師に頼まざるを得なかった
 G.芸術作品に実際の費用が銘記されている事例もある。さらにいかに立派な芸術家による作品であっても、必要に迫られると作品を溶かして金属材料の現金価値だけが求められた(芸術作品は一種の貯蓄となった)
〈金額を銘記した例〉
 マインツ大聖堂の十字架には「金600リーヴルが使われた」と銘記されている。スタブロ大修道院長ヴィボーが発注した(1148年)祭壇には、使われた金銀の費用と制作費が銘記された

【ムーズ川流域地方の金属工業】
 H.この地方では、大商業地の発展(12世紀初)に伴って、金属の溶解技術・金銀細工技術が目覚ましく発達し、工芸活動が盛んになった。そこで活動した代表的な人々は、顕著な役割を果たし、技術に対する評判が高かった
〈例1〉
 サン・バルテルミー教会(リエージュ)の青銅洗礼盤(1118年)の製作者ルニエ・ド・ユイは都市貴族階級に属していた。彼はリエージュ司教に奉仕していた(※家人出身)ようだ
〈例2〉
 皇帝ハインリヒ3世が作らせた「聖セルウィツィオの聖遺物箱」の作者が発注者の怒りを買ってしまい、作者(=皇帝お抱えの金銀細工師たち)は投獄された(聖遺物箱は聖者の目を宝石で作っていたが、それが斜視になっていた)。ところが夜中に聖セルウィツィオが皇帝の前に現れ「作者たちは、自分が神から与えられた通りの姿を表現したのだ」と証言した→この奇蹟のおかげで作者たちは釈放された
〈例3〉
 サン・ドニ大修道院長シュジェールは、この修道院の部分的再建(1140年頃)のために6・7名の金銀細工師を修道院に呼んで仕事を依頼した(ステンドグラス,金銀細工,彫刻,青銅の扉)。シュジェールはこれら作品について素晴らしさを伝えるが、作者の名前には全く触れていない(作品の銘にはシュジェールの名を残している)
 I.シュジェールは芸術家の人格を全く考慮しなかったが、それとは反対に「金銀細工師と発注者が特に親密な関係を保っていた」きわめて特異な証言も伝わっている。スタヴロ修道院長ヴィボーと、偉大な金銀細工師ゴトフロワ・ド・ユイ(と推測される)の書簡(1147年):
 ☆「修道院長は他の仕事を断って自分の依頼に専念してくれるよう、金銀細工師に要請している」のに対して、金銀細工師は「自分の財政的窮状を訴える」一方で、勢力ある修道院長の催促に「修辞学的技巧・皮肉・洗練された文学的教養でもって」答えている
 J.ゴトフロワ・ド・ユイに関して、ヌフムスティエ大修道院(彼が名誉役員を務めていた)の過去帳には、貴重な聖遺物箱の寄贈者として「当代、比類無き金銀細工師」と記されている。リエージュ司教たちの伝記(13世紀)では「金銀細工の巨匠」「古今東西を問わず最高で、最も優れ、最も巧み」と評されている
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[20]


(6)14・15世紀

【オッカムのウィリアム】
 A.“マギステル”の中で最高の知識人の1人(14世紀)であるイギリス人ウィリアム・オブ・オッカムは、オックスフォードのフランチェスコ会修道院で学んで学士となった。彼にとっては「教会:権力も富も持たず、ひたすらに福音の価値を追求する“信者の集まり”」「世俗的権力:地上の身体・富に関わり、その目的は(否定的な方法によって)個人間の協調関係を維持することにある」
 B.オッカムが政治に関わるようなことをしたのは、(最初は)帝国への献身を目的としたのではなく、悪徳からの脱出のためであった。彼の考えを動かしたのは「宗教的ユートピア,貧しいキリスト教会,(主権者ではなく)信者の父としてのローマ教皇」という考え方であった。彼は「帝国は教皇制から生まれたのではない」と、聖書に基づいて証明した
 C.彼の中では、神学と政治的情熱が(ハッキリとして意識的に)結合していた。彼は教皇の過ちを厳しく非難し、教皇派の多数の人々からの攻撃を招いた

【ウィクリフ】
 D.ジョン・ウィクリフは、きわめて厄介な政治的行動を選んだ知識人だった。彼はイングランド王に使え(1372年)「教会の支配に対する世俗の支配の自律性」を強調した(→君主の味方をする)。だから教皇は勅書で彼の著作を弾劾した
 E.それから間もなくウィクリフは改革事業に着手し“貧乏伝道者”団を結成した(いわゆる“ロラード派”は一種の蔑称)。しかし彼はワット=タイラーの乱(1381年)によって、彼を支持していた世俗の富裕者からも疑惑の目で見られるようになる。これは「乱を起こした者たちの権利要求が、ウィクリフの主張に類似している」と思われたため
 F.疑われ、のけ者にされたウィクリフの晩年は孤独だったが、オックスフォード大学から受けた暗黙の保護のおかげで、あまり激しい迫害を受けずに済んだ
 G.彼は、目に見えるほど堕落しているローマのキリスト教会とは反対に“見えざるキリスト教会”という概念を作った。さらに“神の支配”(真に完全で充実した、唯一の支配)という概念によって、現実の支配とは異なったタイプを追求する手段を用意した。そして論理的・神学的な推論に従って「唯一正当な人間の支配は神の支配にこの上なく似ている。それは“財の当分”によって実現される支配である」と言明した
 ⇒これは財産共有の状態である。その論理的結末として彼は、農民一揆(1381年)に賛同した。農民は「アダムが土を掘り、イヴが糸紡ぎをしていた時、領主はどこにいたのか」と歌っていた
 H.ウィクリフは「理論から政治上の実践へと移ること」「きちんと概念づけた手段によって、同時代の世界の分析ですら哲学的に基礎づけること」の必要性を自覚していた。彼は言説を効果的にするために、言葉の修辞に配慮していた
〈例〉『…俗っぽく、太った聖職者に贅沢をさせ、威張らせ、立派な馬・道々に響き渡る手綱に加えて上等な鞍・派手な衣装を着用させるとは何事か。それに引き換え貧しい聖職者を飢えと寒さに耐えさせておくとは何事か』

【フス】
 I.農民一揆の時期は王家の豪華な婚礼の年でもあった。イングランド王リチャード2世がボヘミアのアンと結婚した時(1382年)、オックスフォードの学生だった多くのチェコ人が婚礼に招待された。彼らが故郷に帰る時にウィクリフの著書・思想を持ち帰り、フスの活動に繋がった
 J.ボヘミア(15世紀初頭)での社会的・文化的状況は、激しい緊張に満ちていた。教会分裂(1378年)以後、チェコでは重大な分裂が起きていた:
「国王・チェコ人住民はローマとアヴィニョンの両教皇間の紛争では中立を守り、教会改革派の枢機卿を支持した」「大司教とドイツ人住民はローマのグレゴリウス12世に賛同した」「大学の内部でも対立が激しくなって各国人に分裂したが、少数派であっても優勢なのはドイツ人だった」「そこに熱情が加わって、プラハの住民は感情的に、急進的改革派の傾向を持つ宗教活動に加わっていった」
 K.フスも(英訳聖書を作ったウィクリフと同様に)活動のフィールドにラテン語ではなく、自国語(フスの場合はチェコ語)を選んだ。そのことは社会的・政治的・宗教的な対立意識の徴であった(社会的には富裕者階級と、政治的にはドイツ人と、宗教的にはローマ教会と、それぞれ対立した)
 L.プラハでは事件・出来事が相次いだ(改革が起こる,宗教改革の要求や教会内での階級制への拒否が起こる,奢侈が社会的不正として厳しく告発される)。フスはこうした状況下で、異端者によって書かれた著書(ウィクリフは異端と見なされ、その著書は焼却処分を受けていた)を大学で使える権利を擁護した。大司教は(当然)プラハに対して聖務停止令を発っしたが、国王ヴェンツェルはその施行を禁止した
 M.そしてフスは(オックスフォードの師から受け継いだ論拠により)国王の権利を擁護した。彼の主張は「国王は神に仕える者として権力を行使するが、王の権力とは『善人を守り悪人を倒すこと』にあり、相手の身分が世俗であろうと聖職であろうと問題ではない」のだった(他方で大司教は、聖職者の使命を妨害していたのだから)

【自国語を使うことの意味】
 N.中世末の激動期において、政治活動に参加し・伝統に反抗し・分裂と改革に賛同したことにより、中世の知識人の活動は最終局面を迎えた(=ウィクリフとフスがラテン語を放棄する)。俗語による説教は、もっと広い聴衆に聞いてもらうためだけでなく「物事を一新するため」でもあった
 ⇒中世の知識人の条件(=ラテン語)を捨て、自国語で書く・説教することは社会的・政治的な陣営の選択を表していた
 O.まだヨーロッパは共通の1つの舞台ではあった(例:プラハの礼拝堂での説教,ウィクリフの農民に対する演説がパリ大学にまで影響した)が、遠心的な緊張の時代が始まろうとしていた。そうした中で、パリ大学長ジェルソンの仕事は「様々な命題・主張を収集し、審査・判断する」ことにあった
 P.ジェルソンはパリ大学の振興(13世紀の隆盛・威信の復活)を企図した。文化的な大論争の時代において彼は、大学長としては研究の自由よりも大学内の平和に腐心した(=科学的に養成されていない学生の間に、外部からの論争問題が持ち込まれるのを恐れた)


(7)中世後期の知識人を取り巻く環境

 A.中世後期の大学では、所在都市が政治的にひっくり返るような極端な事例もある(プラハとパリ:後者は百年戦争の時にジャンヌ・ダルクの裁判を引き受けた当局がイングランドに傾いた)
 B.イタリア各地の大学では「大学から都市共同体の参事会員・行政官を出す」一方で「大学は財政面で都市に依存し、都市がほとんどの教授の選考権を保有し、さらに教授の俸給を支払う」のだった。そして(世襲カーストに近い)一種の階層が形成された。著名な教授たちは「最も権威ある地位に就き、都市からの俸給以外にも学生から謝金を貰う」「貧困な学生に奨学金を貸してその利息を受け取った」。他方で学生集団も、社会経済におけるエリート階層となる
 C.大学の誕生以来、教授たちは下層階級を軽蔑し、さらに土地所有者(むしろ貴族階級)に対しても攻撃的姿勢を取っていた(教授たちは、自分たちの持つ徳性=貴族性と考えた)

【知識人の変化】
 D.やがて新しい知識人階級が出現した(14世紀末)。イタリアの法学者・公証人が加わり、さらに芸術家も参加してきた
〈例〉デューラーはイタリアに旅行して、古典学者・金銀細工師・職人の論争に加わる。その後に知識人に変貌して論文を書き、親しい作家の著書の挿し絵を描いた(その活動を妻に非難された)
 E.法学者のコルッチオ・サルターティは最初は公証人であり、その後にトディとフィレンツェで要職に就いた。彼は著作で「思索生活よりも活動的生活を優先させるべきである」「天上・神のことを知っていても、却って自分のことを省みない者を本当に学者と呼べるだろうか?」「信じてはならない…、群衆から遠ざかり、美しいものを見ようとせずに、修道院に閉じこもるか隠者の生活を送ることが、完成への道だなんて」と主張した
 F.サルターティは新しいタイプの知識人ではあるが、過去を振り返って立派だと思った知識人もいる。それはアベラールであり、(とりわけ)ソールズベリのヨハンネスである。彼らは「まず大学人であり古典学者であり、次いで活動的生活に進んだ」点に特徴がある
 G.ポー川流域平野にあるイタリア各地の大学は、新しい古典文化普及の中心となった。そこで活動したローマ人ロレンゾ・ヴァラ(フィレンツェの環境で暮らし、ピアツェンツァとパヴィアで教授を勤めながら、重要な著作を書いた)の思想は、中世の大学において優勢だった知的伝統とハッキリ決別している:
 ☆「学芸だけでなく、芸術も人間に大切な欲求を満たすものであり、その目的は人生を美しく優雅なものにすることである。例えば農業・建築・織物・絵画・染色・彫刻・船舶艤装など」。嫌悪されるのは「理解し難い神の神秘に通じようと徒に努力することによって“人間を愚かにする学問”である」。この上なく抽象的な議論や干からびた論理学は、ヴァラには無用だった
 H.サルターティやヴァラはまさしく「世俗的な知識人」であるが、もちろん彼らと並んで聖職の領域における古典学者も変わらず存在していた
〈例〉エレア・シルヴィオ・ピッコロミーニは「カリストゥス3世の秘書,トリエステとシエナの司教,枢機卿,(さらには)ローマ教皇」となる。マルシリオ・フィチーノは40歳で聖職の道に入った
 I.教会と古典文化との関係は、密接かつ複雑だった。教会は多くの知識人から「最も強力な組織」と見なされたが、逆説的に「最も寛容な保護者」と感じられている(特に私生活に関する事項において)

【決定的な変化】
 J.それまでは大学こそが文化的環境の中心だったのが「結社・アカデミー,図書館,(特に)宮廷」へと移っていく。権力が宮廷に集中したことによって、知識人は政治生活・(より広い)社会環境との接触を失った。これは「ラテン語が(俗語を守るために)見捨てられる一方で、日常語と異なる文学語として復活する」のと無関係ではなかった
 K.大学の教授には確かに論文が糾弾される恐れがあったにもかかわらず、始めから勝てる見込みもなしに(政治的対決によく似た)論争に参加した。ところが急速&明らかな変化(15世紀)により「改革か保守か,教皇か皇帝か,教皇か君主か」というような大きな選択は、知識人単独では不可能となる
 ⇒知識人は大貴族(例:ゴンザーガ家,マラテスタ家,メディチ家,ルチェライ家)の宮廷に招待されるようになる


(8)中世知識人の様々な意見

【メランコリー】
 A.アリストテレスはメランコリーを「天才に相応しい英雄的態度」とした。しかしキリスト教の教父たちは、メランコリーを「魂の最悪な敵」と指摘した
 ☆メランコリーは「怠惰,狭量(物事に対する近視眼的な見方),想像力が不安定で支離滅裂,おしゃべりor無言」を生む、と言う
 B.しかしペトラルカにおいては、メランコリーは新しい態度であり、それはやがて近代の文学者・哲学者の特徴となるものだった:
「私は夜中に起き、夜明けに家を出る。だが自然の中にいると、私は我が家にいるような気持ちになり、学び・思索し・読み・書く…」「ここ狭い谷間で、私は自分の周りに、至る所からいつでもやって来る、現在・過去の友人たちを集め…(“友人”とは個人的な知り合いだけでなく、何世紀も前に亡くなっていて文学作品においてしか知らない人々も混じっている)」「この人たちと会話を交わすことが、他の人々と話すよりはるかに楽しい…。だから私は自由気ままに、静かにさまよい歩く…」

【都市を否定するか、肯定するか】
 C.ペトラルカにとって(2世紀前の)ベルナール・ド・クレルヴォーと同じく、都市は腐敗したバビロンのままである。彼は都市の手仕事を否定的に見ていた。しかしそれに対して、ユーグ・ド・サン‐ヴィクトールは「建築,航海術,織物,その他の機械技術」を「我々の死すべき条件にとって不利な点を補ってくれる人間活動は、それ自体、英知を備えている」として「哲学の第4部門」と定義していた
 D.他にも、ホナヴェントゥーラは(現実的にも)「田舎では住民はあまりにも散在しているので、説教に全ての人を呼び寄せるのは難しい」「それに反して都市では、食料品が豊富で大勢の人が集まって暮らしている-この方がはるかに都合よい」と、都市を選択することを正当化した。あるいはあるフランチェスコ会修道士も「都市へ行くと、多くの人に会えてホッとし、また楽しく散歩もできる。都市は素晴らしいところだ」と、一般論をイキイキと説いている

【結婚と家庭】
 E.このテーマはかなり激しい議論の対象となったものの、知識人の態度は伝統維持であった。結婚反対の資料は『ヨウィニアヌスへの反論』にみる聖ヒエロニムスの論拠を踏襲したものが普及していた(12世紀)
 F.哲学者アベラールの愛人で妻になるエロイーズは、様々な結婚反対の論拠を緻密に集めた。そこには「結婚を『感情的生活の真髄』と見なす古代哲学の知識の影響」「結婚とは、日常的で煩わしい配慮・物質的欲求によって、哲学の理想郷から必然的に離れさせてしまうこと」「結婚を、避けようとしても悪へ走らせてしまいがちな“淫欲”に対する解決策としてのみ理解する、聖者たちの理性」、さらには「真実&無私無欲な愛を完全とみなす教会制度に対する、隠れた深い不安」までもがあった
 G.結婚に対する圧力は知識人によって様々だった(禁欲的・宗教的な動機だったり、道徳的な動機だったり)。しかし哲学者的には、制度としての結婚は信頼を失っていたので、これを正当化するのは難しかった

【「権威」の問題】
 H.中世の知識人にとって「権威」とは、(先行する時代の)著者・著書・文献資料を指していた。一方では知識人の前に、膨大な注釈・注解(プラトン,アリストテレス,福音史家,すぐに「権威」と認められた直近の思想家〔例:ペトルス・ロンバルドゥス〕のものに対する注釈・注解)が積み上げられていた
 I.知識人の間で「多様な注解と意見,激論,厳しい反論」があった。バースのアデラード(1080頃~1152年頃)は、同時代に存在した「古代人・その他の人々によって発見されたものしか受け入れようとしない悪徳」を非難した。さらに次のようにも述べている:
“真実を教える人々がどんな運命を辿るのかはよく分かっている。だから私が論文を発表する時、それを(自分のものではなく)我が師アラブ人たちの理論として示すだろう”
「理性でなく権威に従うのは“この上なく愚かな盲進に陥り、危険な罠に引きつけられることである”」
 J.アルベルトゥス・マグヌスの警告:
“アリストテレスが一種の神であったと信じる者は、アリストテレスが一度も間違わなかったと考える筈である。だがアリストテレスも人間だったと信じるなら、アリストテレスもまた我々のように過ちを犯すかも知れない”
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[19]


○知識人


(1)知識人と定義

 A.“知識人”という言葉は近代の産物であるが、しかし中世にも知識人と呼べる人間タイプ=「言葉と精神を使って活動する」「土地がもたらす収益で暮らさず、手を使って働く必要もない」「他の分野の人々とは違っていることを意識している」は存在した
 B.さらに“知的な” という形容詞は「徳性・知識・快楽に関係している」「『全ての文脈において“知的”とは反対のもの』よりも貴重で、高尚な何かを意味し、文句なしに肯定的な特性を示している」のだった。そして中世の知識人は自己認識として「他の職業・活動に比べ、自分たちの活動は特殊な値打ちがある」と考えていた

【知識人に関する様々な用語】
「メートル,プロフェスール(教授)」:
 同じ意味であり、学問を積んでからそれを教える人々。ただしプロフェスールには「知識を自負し過ぎる」尊大さとうぬぼれに対する皮肉が混じる場合が多い
「マギステル」:
 道徳的高揚と明白な威厳が存在する
「碩学,学者」:
 中立的な意味であり、書物で研究して知識を積み上げた人を指す
「哲学者」:
 特に古代の人の場合に使われる。それを意識してこの名称を要求する人物もいた
〈例〉アベラールは“世界の哲学者”を、次いで“神の哲学者”を名乗った。アヴェロエス主義派の仲間も「(自分たちを)哲学者である」と言った
「文学者」:
 「読み書きできる人全て」or「言葉の世界(演説,説教,書き物,論文)を支配する者全て」を対象としており、範疇はきわめて広く最も曖昧だった。彼らは圧倒的多数の「文盲」に対してきわめて少数だった
「文盲」:
 いくつかの意味を持つ。「読み書きのできない人」or「ラテン語(最上級の言語)を知らない人(例:イングランド〔14世紀〕の世俗貴族)」or「ラテン語を少しは知っているが書けない人」

【中世盛期から後期において】
 C.文学者はたいてい聖職者だった(11世紀)。やがて聖職者以外にも教養深い人々か登場する(13世紀)。さらに、教育組織(大学)の全ての構成員を“聖職者”と呼んでいる(14世紀)
 ⇒定義が揺れ動き知識の世俗化が進んだにもかかわらず、聖職者は識別されやすい集団として存在していた
 D.知識人には(知識の伝達に励む)その時代の学校における教師=マギステルがまず存在する。しかしその対極に、生涯を通じて「外交官,都市参事会員,司教,独立作家,説教師」といった人々がいる。というのは、彼らは「同じように知性と言葉を駆使しながらも、知識の伝達を主要な仕事としないし、知識を持つことの特異性をあまり意識していないと思われる」から


(2)大学誕生に向けて

 A.中世都市の勃興という現象は、確かに当時の人々もその変化を知覚していた。しかしまだ都市の活動が重要ではなかった段階(11世紀)では、文化活動の主導権は主として「大修道院と(いくつかの)大聖堂」が握っており、そこで教育の組織化と管理が行われた

【パヴィアのランフランクス】
 B.パヴィアのランフランクス(1005年頃‐1089年)は、ボローニャで法律・自由学芸を学び、アヴランシュ(ノルマンディー地方)で学校を創設した。次いでベック大修道院に行き、そこの学校の校長となる。その後カンタベリー大司教となる(1070年)
 ★ベック大修道院の学校は当時の文化的世界の中で有名となり、教会法学者として名高いイヴ・ド・シャルトルもここで法学を学んだ
 C.彼はコミュニケーションが容易でなくまた活発でもなかった時代において、様々な話し言葉が用いられていた諸地方をまたいだ「国際的な生涯」を送った。これが可能だったのは、ラテン語と修道院施設が「知識人&組織運営者にとって、力強い環境の統一をもたらしていた」からだった

【アンセルムス】
 D.アンセルムスは、ベック大修道院(ノルマンディーの騎士エリュルアンによって創設された)の副院長に(1063年)、さらには院長になる(1078年)。彼もカンタベリー大司教となる(1093年)が、この時は「イングランド王ヘンリー1世とローマ教皇パスカリス2世との間の叙任権闘争」の最中であった
 E.彼は学問よりも「修道院の静謐な環境,瞑想的な雰囲気」を優先しており、一見すると知識人とは見なし難い。しかし彼は「a.信仰に『知性』を求めようとした」「b.同僚であり弟子でもある修道士たちへ、知的&文化的な能力を伝えようとした」「c.激しい論争を求める知的な真剣さを持っていた」ことから、紛れもなく“知識人”の特色を備えていた
 F.彼の瞑想的性格は教え方の性質にも現れていた。信仰は個人的な事柄であり、伝えがたいものである。そのために彼の教え方は、都市の学校(開設され始めた)とは異なっていた。このアンセルムスと反対だったのが、同時代のロスケリヌスだった(彼は厳しい教え方だったようで、最優秀の弟子アベラールとも決して親密な関係を作らなかった)

【フランス(11世紀末)】
 G.当時のゲルマニアにはほとんど学校らしいものはほとんどなく、イタリア諸地方の学校もあまり発展していなかった。これらと比べて「ラン,ランス,シャルトル,オルレアン,トゥール,パリの学校」は「カペー朝によって保証された平和,イル・ド・フランスの驚異的な経済発展」のおかげで、格別な様相を呈していた
 H.これらの都市的中心地はいずれも、特定の学問研究に優れていた:ラン(神学),シャルトル(自然哲学と聖書研究の組み合わせ),オルレアン(詩人の研究),パリ(修辞学・弁証法・神学)

【12世紀半ば~13世紀の発展】
 I.都市の発展とともに仕事の専門化・分業化が進み、教育も「手工業・商業と同等の仕事」となる。教育の必要性が明確にされ「義務と利益,教師と生徒の活動領域」も具体化されていく
 ⇒教師と学生に社会的・法的な「身分」が与えられた
〈例〉アベラールは初めてパリに滞在した時、他の論戦を回避するためにサント・ジュヌヴィエーヴ丘の学校へ教えに行くが、これは「学生」の権限(=学生は上司である司教から“授業許可”を与えられた。無報酬なのは確かだが資格の認定が行われた)を逸脱していた
 J.上記のような構造が固まってきたところに、ラテラノ公会議(1179年)の決議=「各大聖堂の聖堂参事会は学校を開く義務がある」、幾つかの教皇勅書が加わり、大学が誕生する。この活動を教会は管理下に置こうとしたが、教師と学生は抵抗したので、緊張状態が生じた
 ⇒教皇と国王が「学生を聖職者と見なす」ことで同意し(1200年)「サン・ジェルマン・デ・プレ教会とセーヌ川との間にある通り・居酒屋を流血事件に巻き込んだ」騒ぎは収まった
 K.その後は教皇勅書・法律の規制が重なり、初期にあったような自然発生的現象のような「躍動」が抑えこまれることが多くなる。混乱しながらも活気に満ちた初期の現象を思い出し、嘆く者も現れている(例:1250年頃のある司祭の嘆き)
 L.この時期の学問環境は「学校は様々な政治権力の影響(例:パリにおけるフランス王,ボローニャでの皇帝と教皇)を受けていたので、都市ごとに大きな差が生まれた」。一方で学問全体を概観すると、場所の違いにかかわらず同じように発展していた

【学科編成】
 M.学科は「自由学芸7科目」=「3教科(文法,論理学,修辞学)」+「4教科(数学,幾何学,音楽,天文学)」という構成で、これを基礎として「神学(=魂の救いの教え)」を学ぶという構造だった。ただし、神学と7科目との関係はそんなに単純ではない、という。神学を学び教えることは「知識人の学問の目的,生涯の名誉」であった
 N.ただし場合によっては、予備科目の教科(技芸科目:医学,法学)が教養科目から独立して自主科目となる。教科の発展と独立は「“3教科”と“4教科”に属する各学問の中身の多様化」「7教科という構成の断片化」によって生じた


(3)アベラール

 A.アベラール(1079~1142年)は論理学の研究に没頭し、アウグスティヌスにならって論理学を「科学中の科学」と呼んだ。彼は波乱に富んだ生涯を送った(パリでは若々しく幸せな年月を、パラクレ校では貧困のどん底にあって苦しい歳月を過ごした)。彼の学問的特徴は「批判に関する天分の才能」にあり、彼を優れた分析へと導いた
 B.彼は教育においても、自分の思想を伝えるにおいても、情熱的でたゆまない努力をした。尊者ピエールによれば、アベラールはクリュニー修道院で発病・衰弱しながらも、その頭脳は明晰で「教え、書き、口述し続けた」という

【ソールズベリのヨハンネス】
 C.アベラールの弟子であるソールズベリのヨハンネス(イングランド人:1115頃~80年)は、師に対して熱烈な献身をし、思想・言葉において親密な影響を受けた。しかし彼と師の人生の間に「12世紀ルネサンス」と呼ばれる大きな変化が起こった
 ★学者の書庫は“アリストテレスの復興”とともに、初めはアラブ語・次いでギリシア語からの翻訳で一杯になる。イスラムの科学・哲学も届き始めた。こうした充実と変化のプロセスの末に「知識を取り巻く環境が未来にはどうなっていくのか」が薄々感じられるようになった
 D.ヨハンネスが学生としてパリを訪れた(1136年)時には、20歳のアベラールの時代よりずっと充実していた。学校の数はシテ島・セーヌ川左岸では増加していた(プティ・ポンではアダンが、サント‐ジュヌヴィエーヴ丘の学園ではアベラールが、大修道院ではアウグスティヌス修道会士たちが、それぞれ教えていた)。ヨハンネスが通った学校には著名な人々がいた
〈著名聖職者リスト〉
 フライジングのオットー,アルナルド・ダ・ブレシア,多くの未来の司教,未来のローマ教皇ロランド・バンディネッリ
 E.しかしヨハンネスにはその後、政治における生活が待っていた。後に急いでバリに戻った時、彼は幻滅した。いわく:
“相変わらず論理学の研究に没頭している旧友や同輩に再会できて嬉しかった…。そして互いの進歩について語り合った…。しかしすぐに分かったことは、彼らが少しも進歩していないことだ”
 F.この認識は「教えることに専念する知識人」と「学業を終えて現実生活(政界)に入った知識人」との断絶から生じた。ヨハンネスはトマス・ベケット(カンタベリー大司教)の秘書として、様々な政治上の事件を目撃し、また心ならずも都市参事会や政治問題に深入りしていたので、彼は「好きな『文学』の教養を深める,キケロの理想に影響された文化的理想を追求する」時間がほとんど無かった


(4)13世紀の偉大な知識人

 A.大学人の組合は職人組合と同じように組織されたが、学生たちは一時的にしか組合に加入していなかった点に特徴がある。彼らはヨーロッパ各地から学びに来ていたので、互いに意志疎通しあうにはラテン語を使わねばならなかった
 B.聖ボナヴェントゥーラ(フランシスコ会総長:1221~74年)は、神学者の中でも最も保守的な存在であり、トマス・アクィナス(ドミニコ会士,パリ大学神学部教授:1225~74年)や学芸学部の教師たちと対立していた。彼は、知的・哲学的・科学的探求が正当とされるのは「その探求が神学上の真理に還元される」場合に限定した
 C.ホナヴェントゥーラとトマス・アクィナスが生きた時代、学者たちは「労働していた人々」と「学問をしていた人々」の2種の人間集団に分ける意識を持っていた。彼らは学問をしない、労働によって生きている人々を見下していた。彼らは理性的人間を他の動物種族との違いをハッキリ強調していた
 D.トマスは理性を信頼し、神学を科学として構築し、その知的活動は歴史的に大きな重要性を持つ。「神学は科学である」→「聖書を信じない者に科学を教えることが可能」ということであった(=理性を使って異教徒を改宗させうる期待が持てる)
 E.トマスが生きた歴史的・学園的風土は白熱化していた。托鉢修道会は「在俗」教師(=ドミニコ会にもフランチェスコ会にも属さない者)と対立し、大学の決定事項よりも修道会を尊重していた。ローマ教皇の介入があり「在俗」教師は服従を拒否して破門され、数年にわたって大学は閉鎖された
 F.ロジャー・ベーコンは、フランチェスコ会修道士アレクサンドル・ド・ヘイルズとアルベルトゥス・マグヌスを「自然哲学に無知であり、著書が無数の虚偽と愚鈍に満ちている」と厳しく批判した。ベーコンは神の意図を実現するために、権力と学問の統一という観念を指向した(これはローマ教皇庁の方針であった)。彼は「論理学に対する数学の重要性を説いた」「同じ時代の人々とは違い、地上において物質的に有益となる事柄を重視した」点に特徴がある。加えて百科辞書を作って自説を普及させることを夢見ていた(実現しなかったが)


(5)真実の追求(13世紀後半)

 A.アリストテレスの著作集がパリの学芸学部に収められ(1255年)、それから間もなくアヴェロエス(アラビア人)による注釈研究が伝わり、キリスト教哲学の研究に新たな展開をもたらした:
「弁証法を教えていた(教養学部としての)学芸学部が独立した学部として哲学研究へ向かうようになる」「アヴェロエス哲学体系は、アウグスティヌスから発するキリスト教的伝統には異端であると思われた」
 B.アヴェロエス哲学の大きな特徴は、シジェ・ド・ブラバン(“アヴェロエス主義者”とされる)によれば「哲学者の義務は、アリストテレスの教えを説明することにあり、その思想を訂正したり隠したりすることではない」「たとえその思想が(神学的)真実に背いていても」という点にある。これが「キリスト教的文化の伝統的観念を守っている人々には許されない」ことだった。そして司教エティエンヌ・タンピエによる審問(1277年)へと繋がる
 C.アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の思索によって誕生する新しい人間像(※下記参照) =“真理の認識に本当の喜びの源を見出す”新しいタイプの教授は、伝統主義者にとって異端的&危険な存在に見えた。批判者の立場からすれば「研究&哲学的思索に没頭している哲学者は悪人であり、不信心であり、法に従わない者であり、したがって共同体から追放されて当然だ」ということになる
 ※「喜びは思索にあり、そして知性の対象が高尚であれば、それだけにいっそう喜びも大きい。だからこそ哲学者は喜びに満ちた人生を送ることができる」「人間性が完全するにつれて、真実を予見する哲学者は帝王・君主よりも貴族的である」とする。アヴェロエス主義のスタイルでは、哲学の目的は「真実を思索することで得られる真の幸福にある」という
 D.一方でダンテは「積極的に活動しなかった(できなかった)」知識人といえる。彼は確かに知性・言葉を使って活動したが、それは適切な場所ではなく、また自分の思想・仕事を伝えられるような状況にはなかった。彼の意識は「異郷にいて知性を存分に発揮できない」という悲痛をいつも味わっていた
 E.ダンテは医師・薬剤師組合に加入していた。知識人が政治生活に参加するのは「教育活動を通じて実現できる」と考えられたが、ダンテにとっては、全く異質な組合に登録するという手段(※これは慣例的だったという)しか残されていなかった
 ☆中世の知識人の場合「政治への参加」とは、しばしば「教皇制と帝国のいずれかを選ぶ」ということを意味した