『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[18]


(16)時計

 A.農村で暮らす農民に時を告げるのは鐘の音だった。しかし市民ももちろん、機会仕掛けの時計が登場する(13世紀)以前には、教会堂のてっぺんや鐘楼にあった鐘の音に頼っていた。鐘の音は「働く時間を刻む,城門の開閉を知らせる,消灯の合図となる,参事会を召集する」といった、市民の世俗事の時刻をリズム化した
 B.時計の文字盤と針が時刻を告げ、カリヨンと自動時計の音が響き渡るようになり(1300年~)、鐘は補助的な役割へと後退する。日時計などは「聖者に祈る,旅をする,市民行列をする」時に適当な時刻を定めた
 C.時計は不正確であった(停止する,操作係の役人が怠ける,各都市ごとの特殊性がある)が、それでも集団生活を規則づける要素となる。事業主は自動的に刻まれる時のおかげで労働時間の管理が可能となるが、それは職人たちから抗議を受けた。君主・聖職者の立場から見れば、時計は群集をしつけるよい手段だった
〈例1〉“この機器はまことに正確12時間の時を刻んでいるので、正義と法律を遵守すべきであると教えている”(パリのシテ島の宮殿の時計に張り出された告示:1400年)
〈例2〉“もしこのような時計が作られるならば、もっと多くの商人が定期市に参加するだろうし、市民も慰められ、楽しく幸せになり、ますます規則正しい生活をしようとするだろう”(リヨンのサン・ニジエ教会の聖堂参事会員たちは時計を欲しがり、市参事会に訴えた:1481年)
 ⇒時計は人々の行動・振る舞いを規定し、都市的な「計算」の要素となる


(17)礼儀とマナー

 A.風俗習慣のまじめさは都市の礼節の基本だった。シャンソンや都市賛歌の作者たちは市民の礼儀正しさを強調した(例:パヴィアの住民は全て“互いに親切で優しい。社交的で慇懃であり、だれが部屋に入ってきても起立する”という)。反対に、身分の低い者・貧しい者の様子はいつも行儀が悪いという
 B.都市には「各社会集団・職業集団に固有の言語コード(規則・習慣)」と「住民一般に共通の言語コード」の2つがある。偉い人々の模範的な礼儀は、前者に同化していくが、そこでは家庭教育が基本である。しかし一方で「芝居,上流社会の催し物」の場での影響(例:組合員,説教師,宗教劇,絵師,都市の市民)も存在する
 C.礼儀作法は単なる真似事ではなく、規律を習得しているか否かは都市空間ほど大切な場所はなかった。「神聖な場所で不謹慎な真似をする,ペスト流行時にあまりにも大げさな嘆きを顕わにする,行列の中で仲間の評判に傷をつける」などは(当然)有害だった。もちろん、礼儀作法(エチケット)は生きている人に対してだけでなく、聖者・神に対する態度も大事だった
 D.都会人は、多くのマナー=「あまり音を立てずに慎み深く食事すること,肉切り皿の共用の仕方,教会堂への入り方,祭壇への近づき方,見知らぬ人に対する身分に応じた挨拶の仕方,祈る時の声の抑揚のつけ方,嘆きのうったえ方,神聖な絵の前・市場・市民広場での心掛け」を覚えた
 E.特に学ぶべきは「友情の示し方,感情・恋心の表し方,慇懃な物腰」だった。これらには宮廷と都会とでは異なる礼儀がある
〈例〉メッツの領主は、馬上試合の合間に「茶番劇を挟み、シャリュモー(※クラリネットの元祖)の音に合わせて踊る」公共広場仕込みの奔放さを歓迎し取り込んだ
 F.中世社会での結婚は個人の選択による場合が多いので、少なくとも形式的な慇懃さは必要だった。婚前関係はたまたま知り合った相手の女性への評価から始まり「訪問,窓下での演奏,ダンス」によって互いに徐々に理解していくのだった。また愉快な仲間どうし・団体が「恋のプロセス」を「儀礼化し、暴力を避け、やり方を脚色する」のに役立った
 ⇒仲間の中にいることで、恋の喜びを互いに分かち合うこともあった。しまいには“恋は瘡より悪質”とされて“まじめな遊び女から移される都会病”とすら見なされた(15世紀末)


(18)都市の祭典

 A.節度・秩序・礼儀は「穏やかに暮らす,暴力・恐怖を抑える,狂気を回避する,協調・服従を表明する」。そのおかげで都会人は、洗練された都市の文化にゆっくりと融合できるのだった
 B.市民行列の厳粛さは、笑うこと・抗議することと一体であった。自由な祭り(12月,カーニバル,5月祭)であっても、参加者の自発性は職業上・社交上の組合の枠に拘束されてはいたものの、都会人は年に何度でも存分に祭りを楽しんだ。そして祭りは、人心を刷新し浄化する儀式(=祭り)は、人々を繋げる役割を果たした

【祭りの様子】
1.「若者は思い切り憂さ晴らしをし、演奏者・ならず者連中といった愉快な者と一緒に、フードを被って踊りまくった」
2.「若者は道化役者とも一緒に笑った。この道化者たちは、芝居小屋で道化杖を手にして(広場or学校or宮廷で覚えた)アンティストロペ(頌歌:しょうか)・ファトラジー(デタラメ歌)を朗詠した」
3.「カーニバルでは全てを逆転させる。おどけた裁判にかける,音楽もどきの騒音に没頭する,権力者・偽善者への抗議を示すなどが行われた」
4.「都市の住民は他の地区を相手として競技で戦うこともあった(例:ヴェネツィアでは橋を取り合う,ボーケールではローヌ川を奪い合う)」
5.「市民たちが陽気に競い合ったのは『城壁の下で原始林を想定して、射手の服装をし、狂気と叙事詩の夢想を結びつけて、狩りと射撃の楽しみにふける』遊びだった」
〈例〉ブリュッヘのガルベールが記述している「国王にしたがう若者たち」,“5月の王”と呼ばれた、ロビン・フッド伝説をしたうイングランドの都市や村の“ヤングメン”
6.「隊列を組んで行進したり“正当な”略奪物で大饗宴を開く。連れてきた犠牲者にワインを飲ませ、その代金を払わせた」
7.「広場で若者や子供も含めて、奇蹟を行う聖者の前で感激に酔った」
8.「その聖者は何時間ものあいだ見物人を笑わせたり、泣かせたり(宗教劇の役者のように)、ありふれた話と恐怖な喚起を組み合わせて『人民を食い物にする者,堕落した聖職者,女の意地悪』を弾劾し、父・主人・役人への服従を説いた」

【共同体の権威】
 C.都市の為政者にとって、最良の統治策は権威を示すことであった。「強力なギルドは中央広場・広場に接して鐘楼を建設した(フランドル地方,アルトワ地方)」「市民が貴族に対して勝利したイタリア都市では、新しい共同体の象徴たる市庁舎が建設され、貴族家の塔を圧倒した」
 ☆ただしフランスの主要都市では、教会の鐘楼が塔の役割を果たし、また托鉢修道会の教会堂が集会所になっていた。このため、市民的な建造物の建築事業ははるかに遅れた
 D.市民的な建造物は、必ずしも都市の地理的中心にはなかった(むしろその逆が多い)が、社会的・歴史的な(or神聖な空間の)中心にあり、それを演劇・儀式を開催することによって威光を高めた。実際には「市門から大聖堂・市庁舎へ通じる曲がりくねった通りが、豪華な装いによって立派な幹線道路となる」
 E.さらに「柱廊(=建物の張り出しポーチ)が堂々たる舞台となる」のであり、聖体行列・一般の行列はそこに集められた。ここに語り・演劇が追加されることもあるが、行列は市民の祭典の主要部である
 F.聖体行列は一般見物人に対して、都市の階級秩序を示すものだった(そのため、ときおり内部で序列をめぐる争いが起こる:序列については下記参照)。しかし争いは表には現れないので「ヴェネツィアのセンツァ祭,フィレンツェのサン・ジョヴァンニ・バティスタ祭,シュトラスブルクのシュヴェルタック祭」も、決して混乱・反乱のきっかけとはならなかった
 G.市民にとっては、定期的に行われる儀式的な集会は都市共同体の維持には欠かせなかった(例:ブリュッヘにおける年13回の一般行列や、ヴェネツィアにおける年16回の行列)。どんな小都市でも多く開催されたが、そのうち“キリスト会”の行列は、至る所で市民デモに発展した
 H.行列の典礼的な規定では序列・階級的配列が神聖視されていて、それぞれが「都市当局によって定められた順序」に従って旗印の後ろに並んだ。聖体行列では、都市の高官の周りで権力を誇示する要素が存在していた
 I.聖遺物を捧持した聖体行列は「都市の高官と十字架に従った市民が団結したので、災害を終わらせたor敵を退けた(勝利した)」ことを喚起させるのに、きわめて効果的だった。行列は「きちんとした列,,象徴を示すスタイル,響く歌声,派手な装飾」によって、都市の神話という観念を顕示した
 ☆都市の神話:
・「都市は素晴らしい枠組みであり、そこで一致協力することで生きる、自由にして統一された市民の共同建築物である」
・「都市は物質的・社会的な調和の場として、最後には混乱や敵に打ち勝つ。都市は怪物を踏み潰す」
・「都市は平和を広め(壁画に描かれていた)、ローマより古くから存在し、たとえ破壊されても必ず復活する」
・「都市は美しく、神聖で、礼儀正しく、生き生きとし、永久不動のものだった」
 J.祭りは祝日に行われ、一般大衆を市民の価値観に巻き込み参加させる効果的な手段だった。また祝日は慈悲の時でもある=「追放された人々も恩赦を与えられた」「気まぐれな君主は施しの引換券を配った」「高官は一般大衆に対してワインをふんだんに贈った」「貧しい人々は(娯楽が始まる前に追い出されない限りは)分け前にありつけた」。都市の装いは「花・天幕ですっかり様変わりした」

【都市での成功者の例】
 K.ある田舎暮らしの者(1500年代のヨーロッパのどこかの都市の外れに住む)は、30年間都市で様々な束縛に我慢しながら暮らし、成功した。彼は市壁から離れて田舎の館に住み(あるいは邸宅を建てて暮らす)、その豪華さは一般の通りに対して目を背けている彼は豪勢な暮らしの中で孤立し、かつての同輩とは去年(こぞ)の親しさしか残っていない
 L.彼は時には村の第一人者となり、お偉方が叫ぼうとも頓着せず、ペスト流行が心配されても悲惨な人々が追放されても我関せず、だった。彼は神を怖れるが、あの世への道中の心配は無かった(既に金を払っている)。そして、彼に成功をもたらした力のおかげで、息子たちは世界へ通じる道を開いたのだった
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[17]


(13)売春

 A.中世都市の父親たちは、売春婦の存在を「彼女たちのおかげで暴行事件が防がれ、処女・人妻の名誉が守られる」「狂える恋心を抑制する」ために必要と考えられた。したがって売春は女性本人の自由意思に任されていたものの、姦淫そのものは基本的には大罪と見なされており、規制の対象であった
[13~14世紀]
 売春宿は四旬節の全期間を通じて夜間は閉鎖されていた。また、公娼を認可した都市は稀であった
[1350年~]
 制限は緩和され、彼女たちの服装は目立たなくなるor一般のものと変わらなくなる。その後に都市当局は売春を制度化した
[1400年前後]
 ヴェネツィア・フィレンツェ、さらに少し遅れてフランス諸都市で、当局は売春を「市民的な価値の1つ,公安手段の1つ」と認め、司祭たちも同意した

【価値観の変化】
 B.とりわけ明察な神学者たちは、単純な姦淫をあまり重大視しなくなった(13世紀半ば~)。そして、多くの論文や聴罪司祭の手引書でも、姦淫は「軽い罪の境界線近く」に置いた(1300年~)。一方で聖職者たちは、娼婦の仕事と報酬について検討するようになる(その結論は「報酬を放棄するのが妥当である」となったが)
 C.さらに進むと「肉欲は自然なことであり、結婚生活で満たされるべきである」「しかし聖職者は、熟練して遅めに結婚するように勧め、また自然に背くことを糾弾している」「そこで“結婚する年齢が来れば回心する”という条件でならば、独身男性が娼婦と関係してもよい」という結論に達した(14・15世紀の変わり目頃)
〈例〉シエナの聖ベルナルディーノは、シエナやフィレンツェでの売春宿の開店・拡張を知っても文句を付けない
 D.若者は1人で(or集団で)神父たちに隠れて楽しく“歓楽場”へと出かけ、父親は息子に、女を買う金とワイン代を与えた。若者だけではなく「貧しい亭主が“華麗な家”へ」「富豪が公衆浴場へ」行って、風呂・食事・ベッドの楽しさを味わった
 E.快楽が容認されるようになった背景には「煉獄」の観念が教義において力を持った(12・13世紀の変わり目頃)ことの意味が大きかった。煉獄によって、多くの罪人たちに「以前では地獄行きを免れなかったが、最後に立派な死に方をすれば、地獄での永劫の断罪を許され、希望の持てる場所に行ける」という道を開いた
 F.都市では「霊的に救済するための組織が緊密になっていた(=組合社会)」ことが、都会人の生き方を多様化させた。それた托鉢修道会が「活発な生活‐富の正しい配分」をともに推奨してきたことの結実であった
 ⇒ときおり出現する黙示録的な説教師の中には、“新しいバビロン”のような都会人の生活を断罪し、虚栄を焼き尽くすための処刑台を建てる者もいた。しかしその活動の火が消えると、断罪は忘れられた。商人・手工業者ははばかることもなく、元の活動・快楽に戻った


(14)魂の救済と職業

 A.伝統的な道徳思想によって「金満家には“高利化し”という非難」「法の執行・有償教育(いずれも都市の産物)に関しては疑問」「手工業者に向けては軽蔑(手仕事は単なる贖罪でしかない)」が生じていた。やがてこの道徳は一世を風靡する(1200年頃)
 B.商人たちの中には、自らの魂が救われるかどうかを心配し「財産を捨てて、貧しい人々の中に交じって贖罪に努める」者もいた(すでに12世紀半ばから)
〈例〉クレモナの商人オモボノは貧しい人々を絶えず救済しながら、仕事も稼ぎもやめなかった。彼は商人の身で聖者とされ(1200年の直後)、彼の像が大聖堂の正門にある聖母像の傍に建てられた
 ★聖フランチェスコは商人の守護者となることができた(ピサ大司教の指示による:1261年)
 C.クレモナにはもう1人、職人聖者がいた(大聖堂の中に立っている大きい十字架を作った)。他の職人たちも「彼らの守護聖者,仕事の道具」を、教会堂のステンドグラスや組合礼拝堂の祭壇画に描いた
 D.やがて(13世紀~)都市の様々な職業を表現した図像が、神聖な建物や公共建築物の壁面に展示されるようになる(例:ヴェネツィアのサン・マルコの正面,フィレンツェの鐘楼の礎石,シエナのパラッツォ・プブリコ)。各職業の守護聖者は仕事場の装飾に表現されたが、時には「大聖堂の扉に作品が示される」「宗教行列の時に公開される」などした

【神学者の論理】
 E.かつては職人の仕事は卑しいものとされ、肉体を使う手工芸に関わる人間は金持ち・知識人からも軽蔑された。しかし
神学者たちは「どんな職業でも公益のために働いている」と主張するようになり、手仕事は正当化された。もはや「労働は魂の救済を妨げるものではない」というように考えられた
 F.やがて職人も商人も、自分たちの品格や社会的機能を疑わなくなる。都市では新たな道徳の境界線として“働く人と働かない人”という区別を引いた。都市から暇人を追い出すような提案も出され、不活発・無気力な人々(の集団)は社会的評価をとことん落とした
[※働けない人・働かない人に対する態度の変化は、慈善行為の意味が変化していくのと表裏一体であったようだ]
 ★神聖なものすら働いている、と評価された=「地下納骨堂まで拝みに行かねばならなかったご神体も、危機や祭礼の時には教会を出て、城壁と同じように都市の防衛に加わる」とされた
 ⇒ここから、高利貸しに対する新たな批判の論点が発生した。というのは「彼らは眠っている間に資本が働いて金儲けができ(=利子を得る)、太っていく」からであった

【都市の新しい道徳】
 G.古い社会に対する反感は強まっていく。「a.フランスのブルジョワは、娘を処女のままで修道院へ送るのを嫌がった(15世紀)」「b.自発的な行為として行う物乞いに対する、あからさまな不信感が現れた」「c.商売に励むが、何か立派な役目を果たして貴族との差をつけようとするブルジョワの意欲」「d.富を浪費しない心掛け(かつては浪費こそが尊さの証だった)」。やがて、金持ちと富は名誉とされるようになる
〈例〉アウクスブルクのアルベルトゥス・マグヌスは「いざという時のたむに防備を確保し、武器・食料を働く者たちに提供できるのは金持ちしかおらず、この人たちがいなければ生き延びられない」として、裕福な人々と都市を称賛した(1260年)
 H.金儲けという行為自体へのマイナス評価も変わっていく。利益にはリスクが伴うという言い分が認められるようになり、多くの人は「高利貸しは許されうる軽微な罪に過ぎない」と思うようになる(フィレンツェ:1340年頃)。富は正当であり、さらに「成長・美徳・魂の救いを容易にする」とされた
〈例〉“金の儲け方を知るのは立派なことであり、大きな才能である”“それは神の恩恵である”(14世紀末)とされた
 I.確かにぜいたくに対する規制は度々発動され、説教師は「a.極端なものだけを糾弾し、婦人用のエナン帽を焼却させ、ぜいたくなオシャレを非難した」。しかし一方で「b.ブルジョワ風に暮らしているまじめな手工業者には、信仰の篤い社会を思い起こさせた」「c.豪華な友人たちを招待する婦人を、聖母にたとえた」
 J.こうして都会人は自分の富を隠す必要がなくなり、富は守護聖人に献納された祭壇画に細かく描かれて「家の正面で誇示する,都市へ見せ物として提供される,祝日には儀礼の中で称賛される」ようになる(時には貧者の暴動によって消滅することもあるが)
〈例〉「フィレンツェのサン・ジョヴァンニ・バティスタ祭の“展覧会”の期間」「ヴェネツィアのサンタ・マリア・フォルモサ」「メッツのカーニバルと5月のパレード」
 K.富は個人的なものであるだけでなく「市民的な活力」でもあった。そこで「a.浪費は許されないし」「b.気前よく振る舞うのはよいが、節度を守らねばはらない」「c.全ての市民は収入・支出・時間・言葉・行いを慎まねばならない」と教えられるようになる


(15)教育

 A.初期の都市での学校は、聖職者によるものだった。それらが都市の商人の要望(金貨・銭の数え方をマスターする)にある程度は答えていた(例:ランで保存されている古文書〔12世紀〕には、通貨・度量衡を扱ったきわめて具体的な計算問題が80問も含まれている)のだが、これが主要な勉強ではなかった。学校では歌(賛美歌など)やラテン語を教育していた

 B.やがて商人・手工業者の子息たちのために設けられた私立or公立の学校は、まずフランドル地方とイタリアで、さらに各地で増加した。少なくとも主要都市では、計算器学校が増設された
 C.しかし中世を通じて、学校制度には欠陥が多かった。そこには幾つかの障害=「教会からの反対,教師間の競争,教師職の不安定さ,生徒のきわめて不規則な登校(生徒は仕事場と学校の間を行き来していた)」があった
 D.ブルジョワは自分の子息に「学校or自宅or公証人の事務所」で「事業の経営or公務の参加」に必要な教育を与えることができた。学校教育は「ラテン語ではなく俗語を採用し、実用的な読本を提供し、スラスラ読めるような書き方を教えた」
 ⇒こうした教育の効果として、個人or自治体の会計簿での間違いは稀であった。数字の扱い方はどこでも、かなり熟練している(ただしヴェネツィアやトスカーナ地方にはかなわない)
 E.都市の年代記作者が何でも数字にして表す習慣があった。都市の活気を評価する仕方ですら、様々な具体的数字を並べる手法に頼っていた。商業都市では計算こそが大事であり、あの世のビジョンや宗教上の実践においても数字が支配していた
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[16]


(10)都市空間を行き来する

 A.人々にとって地区での日常が全てではないし、たとえ友人同士であっても、生涯隣人のままでは過ごさない。都市住民は多少とも「高級品を扱う商店街へ通う」「専門店へ上等の肉を買いに行く」「有名な居酒屋へ珍しいワインを飲みに行く」はずである
 B.パリ人はグラン・ポンをうろつき、アラスやシエナの住民は広場を徘徊する(そこではいつも見せ物が開かれている)。たとえ日曜日の礼拝へ規則正しく出席しなくても、時には托鉢修道会の教会堂へ行って「聖体拝領を見たり、説教を聞いたりする」のだった
 C.大半の人々は仕事の関係で、絶えず都市の中を行き来しなければならない。自宅と職場が一体である手工業者とは違って、仕事場と家庭生活が別々の場合もある
〈例1〉フィレンツェでは、仕事場を借りている大部分の手工業者は、その通りとは別のところに(時には別の地区に)住んでいる
〈例2〉パリでは、収入の少ない役人・駆け出しの検察官は、シャトレ裁判所や宮殿の近くには住まいを持てない
〈例3〉フランドル地方の羅紗製造の中心となっている複数の都市では、プロレタリア(“青い爪”)は時には都市の外れで暮らさねばならなかった。というのは、都市にいる親方たちは1日の仕事が終われば、もう同じ場所には居て欲しくなかったから
 D.商人・職人は仕事場に住んでいたとしても「市場へ通う」「都市の品質検査官の指導を受ける」ために仕事場を離れた。そうでない場合には、仲間や見習いを連れて仕事場を転々とするパターンだった。最後に一番の文無しの場合には、ほとんど毎日求人広場へ赴き、日雇い仕事を転々としなければならなかった
 E.不安定(=定職がない)は、下層or悲惨な都市住民集団的に共通した運命だった。労働者の貧困は地域レベルでの連帯性を破壊したのであり、貧困は楽しい近所付き合いとは無縁だった


(11)中世後期の様々な共同体

 A.中世後期の様々な危機・災害は「ヨコの繋がり=会組織を作る」ことの動機となり、そして結成された団体は中世都市の構造を変えた(1250~1500年)
 B.中世都市では長い間、勢力ある者だけがその職業団体の結成を認めさせてきた(互いに責任を分担し、権益を保持し、団体に所属しない者を排斥した)。そんな彼らには、新たに生まれた会組織は反逆の危険な温床に見えた。それゆえに後になっても、専門職の同業組合が社会・政治組織の枠としてしっかりと結集していた(1400年頃)
 C.ところが托鉢修道会は、都市でかなりの勢力を張るようになると、そのようなヨコの繋がりの会組織がもたらす利益を理解した。そこで彼らを歓迎して結成を奨励するようになる。こうして結成された新しい組合は、中世の最後の2世紀において急増した
〈例〉アヴィニョンでは100以上・ボルドーでは60近く・フィレンツェでは75を数えた(14・15世紀)。フランスの中都市(1500年頃)では30団体を数え、各組合の会員数は数十~数百人に上っている(アルル,エクス‐アン‐プロヴァンス,ヴィエンヌ)。こうして成人男子人口の大半が組合に加入していた(青少年のためには修道院がある)
 D.こうした動きは都市には限られなかったが、都市の影響によって最も活動があった地方(例:トスカーナ)ても、その数は決して多くない

【組合の中身】
 E.組合は「信仰,悔悛,職業,市民,享楽,歓待,軍事,娯楽」など様々な特徴・目的を持つものがあり、規模の様々なサークルが都市空間を交錯して満たした。というのは、一家の家長はこれらの組合に複数所属していたから(多ければ10団体)。加入には入会金が必要だが、加入した組合への人々の愛着は増していった
 F.たいていの組合は、複数の地区に属する多様な人々を集めていた。そこへの加入によって、組合員には「厚い人情だけでなく、社会的な向上」がもたらされた(新入会員であっても、面目を保ちながらよそ者と付き合えた)
 ★職業組合にも親・友人からなる第3身分があり(第1は親方,第2は職人が占める)、会費は安いものの共同の祈り・饗宴には参加できた
 G.厳粛な入会式では“平和を尊重し、組合に天罰or復讐をもたらすような言動を慎む”ことを、聖書に手を置いて誓約させられた。幹部(例:代官,小修道院長,使者,隊長)の仕事は“和合と相互愛の維持”であり、彼らは「酔っ払い・乱暴者・口論する者を排除する,組合の内紛を解決する,反逆者を追放する」のだった
 ★組合のようなサークルに参加することは「同意した規約にしたがって行動しなければならない」ということ
 H.そのような社会生活を見習い体得することは、青年団(特に青年会や多くの修道院において:15世紀)の本質的な意義だった。こうした修道院では「様々な身分の青年たちを集めた その中で仲間が副院長や幹部に選ばれた(階級や家父長的な仕組みはほとんど構成員を拘束しない)」。そうしたやり方が歓喜や自発性といった要素を自由にした
 I.組合は保護をもたらす。物質的な保護として「a.共同金庫から貧困に苦しむ会員に対して、できるだけ低金利で貸付が行われた(要返済)」「b.病院のベッドを確保する(病院は組合保有のもの,そうでないものがある)」。他方で推薦とコネが重視される社会で「c.組合が新しい援助会を組織した」「d.組合は斡旋人として、当局に対して組合員のために介入した」
 ★この「援助の枠組みの公営化」によって、多くの資金が都市の貧困者に当てられるようになり、慈善型の都市経済へと変わる。病院は「市民優先の老人ホーム」に変わるので、ますます効果が上がった
 J.この団体は天国まで届く霊的連帯として“天国の法廷”においても弁護人(=守護聖人)を持っていた。会員が亡くなった後に、生前の彼から頼まれていたミサ・祈りが彼の魂を救うのに役立ち、その際には守護聖人たちは煉獄で仲介者として振る舞う、と考えられていた
 ☆この¨霊的保障制度¨によって、立派な死に方をさせてもらえるのだった。援助を行う会員は「病人を見舞う,告解を勧める,組合の貴重な棺被いを掛けられた死者の後に従う,組合の礼拝者で遺体を迎える」ことで、あの世への道を確実なものとするのだった

【托鉢修道会の影響力】
 K.このような組合はたいてい托鉢修道会の世話を受けた。組合の集会・祈りは、従来からの地区レベルでの連帯とははっきり区別される存在だった
〈例〉フィレンツェ(1329年)では“聖歌”会を受け入れる教会は、小教区の教区ではなかった。アヴィニョン(15世紀)では95ヶ所の礼拝堂のうち55ヶ所は、4つの托鉢修道会に属した
 L.元来聖職者は「都市全体を小教区っ見なし、伝統的な近所付き合い・親類関係を無視した」。そしてとりわけ都市で最も広い視野を持つ托鉢修道会士は、死の専門家として葬式を要請された。彼らは、従来の「町内会的な枠,同職組合の枠」を越えた組合の、市民全体レベルでの意思表示を支持し、それによって毎年の厳粛な宗教行列では都市全体を掌握した

【組合の運営自治】
 M.組合とは¨ミニチュア化された自治体(都市)¨であり、その選挙・運営は都市共同体のそれを再現している。組合の幹部は数ヶ月~1年で更新され、幹部の権限は広く分配されて大多数の会員に何らかの役割が与えられる。責任者は年配者である
 N.階級・身分の感覚は消滅しないものの、愉しい饗宴が平等の感覚を広めた。組合の儀礼は、差別を減らすことを組織原則とした「加入者を平等にする相互誓約」が重要視された。会の活動は、ミサ・行列に続く食事会こそが主要な年次行事であった
 O.食事会の費用は、会員の共同収益の多くを割り当てられた。この時の料理は(貴族の結婚式のように)招待客に配られるのではなく、“小鉢”料を支払った会員の間で分けられる。さらに「会員は並んで座る」「服に(平等の証明or象徴の表現として)綬をかける」「頭巾を被るor制服を着ることが多い」

【組合が生み出す立派な生き方】
 P.階級化された社会の中でも、各人は生涯に何度も「対等な人々」or「そのように自称する人々」と誓約する場面に出くわした。やがて社会的に上に立つ者が現れて対等性が崩れるとしても、社会の活力によって再びしっかりとした意思を持つ人々が集まり、その中でしばらくの間、再び平等を信じることができた
 Q.都会人の多くは、もっとまともな都市に住みたかったので(その極端な例が、シエナやフィレンツェの毛梳工の蜂起だった〔1370年代〕)、対立が決定的になるのは稀であった。都市の社会性が組織化され、個人を「連帯性,地域,平等な人同士の協調」に結びつけた。この関係は「社会の矛盾を覆い隠す,衝突を緩和する,多くの価値観や生き方(=文化)を洗練する」のだった
 ⇒この文化は、中流以下の人々に共通のものとなりやすく、組合のおかげで都会人は、仲間によって立派な死に方をさせてもらう前に立派な生き方をを学んだ


(12)食事と儀礼

 A.“都市の礼節”“礼儀”という言葉が登場し(1350年頃)、そこから2世紀に渡って都市生活の作法は徐々に“田舎風”を脱していった。もちろん住民のだれもが洗練された礼節を身に付けたのではないが、大多数の人に「統一された都市の世界観」を与えた。「市民の儀礼,宗教劇,大衆に対する説教」は、階級を横断した組合と同じように役立った
 B.しかし“都市の礼節”は、実は処世術に由来しており、厳格な説教師からはいつも“現世への愛着だ”と糾弾されていた。実際、ファブリオー(※「西洋の落語」とも表現される)やシャンソンの作者は、ブルジョワたちの情熱として「食い意地」を強調している

【パンと肉】
 C.都市は食品消費に関して特権的な地域である。都市のパン屋は「小麦粉の質,焼き方」によって異なる3ランクのパンを焼いた=「貧しい者にはふすまの混じった丸い黒パン,金持ちには小麦だけの上等な粉で作ったパン,普通の市民層にはその中間」。ところが白いパンを労働者が食べられるようになる(1400年~)
 D.中世後期になると、パンが食費に占める割合が低下する(3割程度)。トスカーナ地方でのブルジョワ家庭では、パンとスパゲティだけで食事を済ませる人は軽蔑されるようになり、肉・魚が好まれた
〈例〉フランクフルト‐アン‐デア‐オーデルでは年間100kgの肉を消費した(14世紀初)。カルパントラ(フランス南部)では年間26kgだが(15世紀)、これでも19世紀より恵まれていた
 E.家畜は遠くから運ばれてくることがあるが、都市のすぐ近くで「肉屋が借り上げた牧場で飼育されていた」。農民は自家用に老いぼれた家畜を有するだけであり、肉質は都市のものよりも落ちた
 F.農村では「肉屋はきわめて不規則にしか開かれていない」というデメリットもある。一方で年間160日の小斎の日(=肉絶ちの日)には、これまた不規則な商いだが「都市では(田舎にはない)魚屋で、海水魚・淡水魚が豊富に売られた」

【食事のランク】
 G.一般労働者は、仕事場or親方の食卓(後者は職人や見習いの場合)で食べない時には「昼食はパン・タマネギ・チーズ」「夕食はスープに煮込み肉を浸して食べる」「ロースト肉を食べられるのは祝日だけ」だった
 H.太った人(=金持ち)の家では「毎日、煮込み肉とロースト肉が交互に出てくる」「これにパテと香辛料を使ったソースが付く」といったご馳走だった。魚の質の高さ(マス,ウナギ,八つ目ウナギ,チョウザメ)は四旬節の食事の豪華さを示していた
 I.ブルジョワには家柄の名誉がかかっていたので、食事にはたいへん気を遣った(このため、都市には必ずパティシエ・焼き肉屋・料理屋・シェフらがいる)。彼らブルジョワは「町で食事をする,結婚披露宴を開く,組合の宴会をする」場面はとても大事だった。しかも美味しい料理は都市の評判を高めることもあった
〈例〉アミアンでは、市の顔役たちは毎週出掛けて「パティシエが美味しい肉・料理・パテを売っている」「有名なジル・カステルのクリーム入りフランが相変わらず絶品だ」と確認していた
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[15]


(8)対立と暴力

【大規模な対決】
 A.いがみ合いは「経済的な不公平によって引き起こされた緊張」「都市での絶え間ない派閥同士・家族同士の対立」を助長し、都市を絶え間ない対決の世界とした。ヨーロッパの都市の歴史は「家族の名誉,都市参事会への参加,労働条件」などを発端とする、暴力事件・恐怖・革命で満たされている
 B.こうした闘争は、まず「大物vs人民」の間で始まり、イタリアでは「派閥に牛耳られた党派間の対立」となり、フランドル諸都市では「大殺戮・追放・破壊を伴う階級間の事実上の戦争」となった(1250~1330年)。結果はどこでも「古い金持ちが敗北し、新たな金持ちによる寡頭政治が広まった」
 C.よりはっきりとした社会的対立である紛争の第二波(14世紀末)は全ての都市を揺さぶった(例:シエナとフィレンツェでの“梳毛工の暴動”,パリにおける“マイヨタン(木槌党)の反乱”)。これらの反乱は失敗に終わったものの、下層民の挫折は緊張に終止符を打たなかった

【暴力の拡散】
 D.今度は、ほとんど絶え間ない潜在的な闘争となって現れ、都市社会を覆った。これは史料においては、一般犯罪とはっきり区別されていない
〈例〉「夜中にある主人の家の窓に石が投げつけられる」「高利貸しが暴行を受ける」「敵対する労働者集団の間で乱闘騒ぎが起こる」。こうしたケースでも、裁判官はあっさり普通の暴行沙汰として片付けた
 E.多くの都市住民は緊張した長い困難な時期を生きてきたが、反乱‐鎮圧という恐怖はたいていは免れえた。ところが誰もが、ほとんど日常的な暴力的雰囲気を味わった
〈例〉「冷酷な復讐」「ナイフや鉄具付きの棒で決着をつける、個人or集団の激しい乱闘」「哀れな娘たちを狙って夜半に部屋から連れ出して殴りつける、集団的な暴行」といった事件の数々(フィレンツェ,ヴェネツィア,パリ,リール,ディジョン,アヴィニョン,トゥール,フォアでの裁判記録から)
 F.このような暴力沙汰はたいていの場合「若者or(しばしば)身分の低い大人」(しかし善良な市民と全く区別がつかない!)によって引き起こされる。都市は犯罪を生んだ
〈例〉ロワール川流域の都市では、周辺の農村と比べて犯罪発生率は2倍だった(14世紀末頃)。リヨン周辺の平野は、リヨンやアヴィニョンよりも明らかに暴力事件の件数が少ない
 G.ワイン(酩酊はよく言い訳に使われた)は全てを説明できないし、武器の所持(都市の条例で禁止されていた)も同じことである
〈例〉ランス(14世紀初)において、司法当局が氏族間で繰り広げられた、武器を使った戦いを阻止できなかった

【名誉と暴力】
 H.公権力による暴力(例:死刑,体刑,市内引き回し)は見せ物として提供された。家庭の道徳は暴力に甘い。加えて裁判はあまり信用されない(尊重されるよりむしろ恐れられ、効果は無いし費用だけかさむ)ので、侮辱を受けた者は「名誉を守るために」即座に豊富手段に訴えた
 I.若者たちが「名誉を傷付けられた」という言い分で娘を罰することがあった。暴力と同じく名誉も、都市社会では非常に広く普及した価値観だった(勢力ある者は“名誉ある人”と呼ばれた)
 ☆「名誉が無ければ名声もない,権威が無ければ名誉もない」のだった。金持ちにとって¨金¨と¨友人¨は名誉を高めた
 J.しかし無一文の人間にとっては、自分の名声だけが頼れる資本だった。そのため、殴り合いはたいてい対等の者同士の対決となる。広場・通り・公共の場所で、名誉をかけて決着が図られた
〈例〉ある作品での忠告:『一緒に食事する2人の友は、いざという時に助け合えるように交替で酒を飲みなさい』
 K.暴力は不安を培ったにもかかわらず、有力者は本気で根絶しようとはしなかった(暴力を告発することはあったが)。この恐怖は貧しい人々にとって「無関心のうちに見捨てられる」という心配を助長した。かつては住民は互いに知り合いだったのが、都市の拡大とともにそれは失われた


(9)隣人と友人

 A.中世都市での生活とは「都市内にある個々の地区レベルでの生活」であった。都市はたいてい多核的であったので、旧市街では「その個性,(時には)習慣,特権」すらも保持されていた。貴族の家族は集合しあい、都市内の所有地を集中型に分割した
 ★貴族が住む区域には「塔がそびえる」「同じ家系の人々の家並が集中する」「中央には邸宅・列柱廊・中庭・教会堂があり、そこで親類縁者・隷属する者たち・召使いらが共同生活を営む」のだった
 B.一方で都市への移住者たちも「住居を定めて仕事を見つけるのが難しいので、都市では知り合い・親類に頼るしかない」上に、住居や通りで「同じ方言で話し合う必要を感じていた」から、自然と同じ地域に集まった
 ⇒農村で隣人であった者たちは、都市に来ても近くに住んだ。これはフィレンツェ・リヨン・パリ・カスティーリャ諸都市でも(つまりどこでも)認められる。特にカスティーリャでは(時には)当局からそのように強制された
 C.同じ職業どうしも集合する場合が多い(特に廃棄物を垂れ流す“迷惑産業”である肉屋・なめし革業・染色業)

【地域住民の集まり】
 D.それぞれの地域内でも「住居の形態,防衛,警備の必要性」から「区割り,通り,中庭を囲む家並の1区画」ごとに特色が現れていた。それぞれが「中心となる会合,守護聖人のお祭り,独自の景観と色調」といった特徴的な境界をもつ、近隣界隈となっていた
 E.この小さな区画は、当然格式ばらない社会性の場=「居酒屋,墓地(子供や若者が遊んだり踊ったりする),憩いの場,小さな広場」があり、新しい住民には馴染みやすい空間だった。そこは農村的な広場であり、都市生活の問題を自由に話すことができた。また井戸端・パン焼き窯には女たちが集まった

【通りでの近所付き合い】
 F.地域住民はいつも会っているので、互いに声も顔も知っている。自宅の近くでは(少なくともフランスでは)言動を監視されることが他所よりも少なかった
 G.また、通り(そこは公共地である以前に住民の土地だった)は住居・店と一体化した空間として欠かせないもので、住民はかなりの時間をそこで過ごしている
1.「子供たちはあまり危険もなく通りに散らばり、娘は年頃になっても散歩できる(イタリア都市では娘は、部屋の窓から見せ物を眺めなければならない)」
2.「ディジョンでは暖かい季節になると、様々な年齢の身分ある婦人が家の前で、紡ぎ棒or糸車で糸を紡ぎながら、往来の情景を観察していた」
3.「彼女たちは顔を上げ、男の名を呼んでも構わない」
4.「男たちは暑い日には、家の戸口で友人たちにワインをご馳走したり、階下にある天井の低い部屋にあるワインの大樽の傍でたむろしていた(トスカーナ地方でもアヴィニョンでも、この天井の低い部屋は出入りしやすかった)」
5.「婦人たちの社交はどこかの家で、婚約した娘を取り巻いて毎日のように続けられた。そこで花嫁衣装・出産の話・厳粛な葬儀をしなければならない故人のこと、などで話の花を咲かせていた」

【ご近所さんの集まり】
6.「ディジョンでは祭りの前日、ブルジョワの妻マリーは近所の婦人たちと一緒に教区内の公衆浴場へ行くが、その時に亭主たち(例:ブドウ作り,石工)もそのお伴をする時がある(1460年)」
7.「大金持ちは“楽しいご馳走”を食べる。ベルビゼ家の者はモレスム家に呼ばれて、サン・ジャン教区の上流社会の人々と一緒に食事する」
8.「フィレンツェでは、バルディ家とロッシ家の家族は、隣家の金銀細工師(もちろん豊かである)と一緒に食事するのを楽しみにしていた(1370年頃)」
9.「冬には貧しい人々は夜の集いをする。ブルゴーニュ地方からブルターニュ地方にかけて、男も女も娘もおしゃべりも働き者もみんな一緒になって、どこか気に入った家or特別に建てた小屋に集まる。あるいは教会堂に集まり、教区内の人々は自宅に居るような気安さを味わう」
10.「青年たちは友人同士で居酒屋に行って飲んで歌う。また球技場で遊び、それから夜遊びに繰り出し、他の地区へ行って娘や喧嘩相手を狩り出す」
11.「異様な騒動や夫婦喧嘩が起こって助けを求められたなら、近所の人が駆けつけて仲裁に入り、落ち着かせて急場を救う」

【隣人関係の様々な側面】
 H.このような日常的関係性のおかげで、若者・新住民たちも徐々に溶け込むことができ、腰掛けに座ったままのうるさい老人も慰められる。もちろん隣人関係は必ずしも良い面だけではないが、いかに不幸な地域でも(悲惨な場所は例外だが)、何らかの基本的な機能を果たしていた
12.「見習い職人や職人が初めて来た時、彼には洗礼名しかなかったが、やがてあだ名(たいていの場合は出身地名)が姓となって、身元が作られる」
13.「若者が、宴会・喧嘩・賭博に誘われてグループの仲間入りをする」
14.「移住者同士の男女を夫婦と認知することもあった」
15.「そうした夫婦関係が、聖職者の前で儀式として認められなかったとしても(イタリアの場合)、どんちゃん騒ぎのデモによって結婚行列・初夜の儀式の代わりをして、2人の結合を合法化する」
16.「再婚を合法化する場合には、男やもめ会と青年団に現金を寄付させたり、ひどい騒ぎを起こして制裁を加えたりする」
17.「外国人には教区内の娘を誘拐させる(※これも儀式!?)」
18.「同棲の男女も、真面目に暮らすという条件で容認する」
19.「個人的な放蕩も大目に見る。ただし『騒いで町の静かさを乱さない』『危険な違法行為で町の安寧を揺るがさない』という条件付きで」
20.「近所の人が死者の棺を担いで、教区の墓地まで運んで行った」
〈19.の例〉
 アヴィニョンでは司法当局の手が足りなかったので臨時の裁判所役人が任命された。彼は「姦淫・姦通・畜妾の事実を確かめる」ために、市民の住居への立ち入り検査ができるという悪習があった。しかし教皇バウルス2世はその後、そのような干渉ができるのを「容疑者の友人・親族・隣人から正式の訴状がある場合に限る」と定めた(1465年)
 ☆教皇は単に「他の多くの都市でも同じようになっている」ことを公認しただけに過ぎなかった

【隣人たちの結集性】
 I.地区・小教区で様々な社会的義務がどの程度強制されていたのか、それを正確に示す史料は少ない。しかし分かっている範囲では、義務と結集性はいつも極端に濃密だった
〈例1〉リヨンでは「サン・ヴァンサン地区の船頭,アファヌール(フランコ・プロヴァンス地方の非専門職労働者)」は、5人中4人まで同じ教区内の娘と結婚した(1500年頃)
〈例2〉フィレンツェでは、結婚の大半は同じ「旗の下」(騎士,同業組合者など)の者同士で結ばれた(15世紀)
〈例3〉地区から出ることになった人々でも、自分の子供の代父には元の地区の隣人・友人を選んだ
 J.とりわけ貧しい人々の間では、托鉢修道会の墓地よりも小教区内の墓で葬られることをはるかに好んだ。そして、最後の意思として墓の建立を忘れる者はいない

【祭事と家族】
 K.こうした結集性は、家族的祭事=「洗礼,結婚,葬儀」で強化される。勢力家では盛大に行われ、招待客も数百・数千を数えるが、特に「近所の人々が丁重にもてなされ、家から張り出した柱廊で饗応を受ける」のだった。祭事の主役(洗礼を受ける子供,新郎,故人の棺)の後を、仲間や楽器演奏者たちがついて行った
 L.カーニバルや5月の祝日には、近所の人々は一緒に「山車を出して仮装行列を行う」。守護聖人の祭日には、厳かなミサとありがたい説教を聞いた後で「全ての家族は集まって、主役の夫婦とその子供たちとを取り巻いて飲食する」のだった

【町内会】
 M.祭事の熱気はよい隣組精神を作り、ルール(民主的に作られたのではない)が守られやすくなる。各地区には長orミニ有力者がいて、さらに「互助的だが監視・追放も行う団体」が存在する場合がきわめて多い
〈例〉ジェノヴァ(15世紀半ば)
 ポルタ・ソプラナの近くの住民を集めた“聖ドナティ”町内会に加入できたのは近所の人だけである。誰かがその地区を離れるとすぐに除名された。新しく入会するには会員の3/4の同意が必要だった
 N.これは¨町内会¨への加入は全ての世帯主に義務付けられていたが、加入条件の厳しさは「束縛の枠組みが常態化していた」ことを推測させる。もし町内の者が¨町内会¨から拒否されたならば、その者は遅かれ早かれ地区を離れるしかなかった(残っていても、小教区の集団的連帯・慈善・霊的恩恵には浴せない)
 ⇒かくしてその者はあちこちの小教区へ行ったはずである
 O.町内の責任者たち(彼らは都市の評議会で町内を代表していた)は、仲介者としていっそう恐るべき権限を握っていた。彼らは「割り当てられた税金を緩和したり、夜番を免除したりできる」が、一方で「怪しい者を告発することもできる」。したがって町内住民にとって、友人として振る舞うこともあれば抑圧者として君臨することもあり、それが隣組の結束を固めたり弱めたりした
 P.¨町内会¨は平和な時期もあれば、嵐や破綻も経験した(これは一般の共同体と同じ)。ペストのような大災害に見舞われたなら、その度に再建しなければならないし、さらには内部的な弱さも抱えていた
〈例〉共同体が機能していないケース:
 ディジョンでは、町外れで夜間の襲撃事件が起こっても、5回のうち4回までは近所の人は(恐怖のために)干渉できなかった。ヴェネツィアでは、姦通や暴行が横行したのは町の中心部だった
 Q.狭い範囲での人付き合いを、人々は煩わしくも思った。“路地が狭いので、どこからでも覗き見ができる”“どんな秘密も、長い間隣人の詮索好きな観察眼を逃れることはできない”とも言われた。ブルジョワが季節によって、自分が所有する農場や牧場へ移動するのは、経済上・健康上の理由だけでなく「孤独と気晴らしが欲しかった」こともある
〈例1〉ヴァランシエンヌの1ブルジョワ(14世紀初)は、常に気が乗らない義務的な会合を罵っている。“この宴会に出席するしかなかった。というのも貧富を問わず、この大衆的な舞踏会へ行かなければ大金を払わされたからである”
〈例2〉ヴァランス(1440年)では、職人たちは「トルデオン門の労働者たちから、結婚式や再婚式のためにわざわざ儀式へ引っ張り出された」として、裁判所へ訴えた(強引で理不尽だ、と主張した)
 R.中流以下の者たちは、同じ地区内での結婚を好まず、共同体の習慣を重荷と考えていた。下層民の中でも本当に貧困の者よりも少しは財産がある人々は、同じ地区での結婚は少ない。実力者たちは地区外(時には都市の外にまで)結婚相手を探さねばならなかった(同じ身分と婚姻関係を結ばねばならない、という制約から)
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[14]


(4)家・家族・結婚

【上層階級の家系意識】
 A.意識としての「家系」は、地中海沿岸都市の社会的・政治的場面で重要だった(~14世紀)。成り上がり者の商人たちは信じられないほど古い「家系」と先祖を考え出したし、一方で都市には由緒ある家系も当然知られていた
 B.家系は都市の成長期(11~12世紀)において「基礎を固める,血統の記憶を活性化する,世襲財産の管理を強化する,集団の統率を長男へ伝える」ために、互いに(or家系内で)争った。主要都市(例:フィレンツェ,メッツ,ランス,ヴァランシエンヌ,ヴェルダン)では、権力は家系と一致した
 C.「やってくる者・出て行く者から生じる混乱,人間の絶え間ない混じり合い」によって、古い家柄であれ最近定着した者であれ、とにかく都市住民に深い影響を与えていた(特に最近定着した者には親類縁者がおらず、その傾向が強かった)。年代記作者は「都市に住む度し難い人種のために、都市の内部抗争が絶えない」と説明していた

【家族】
 D.親類となった家族は、同じ屋根の下で暮らさないとしても、共通の家族問題全て(財産,結婚,日常的or季節的な相互援助)を分かち合った。こうした親類どうしの絆は、中流家庭であってもかなり緊密となって現れる場合もあった
 E.それでも大家族は少ない。さらには大部分を占める貧しい人々には、そもそも家系・家名の意識は無いし、道徳家たちが尊重する「多人数同居の楽しさ」を知らなかった。一般的に家族は分散しやすい
 F.したがって「a.少人数の家族・密度の薄い核家族から成り立っている」「b.都市の家族は農家よりも構成人数が少ない」「c.家族構成は中流・下流階層では崩壊さやすい」という傾向が見られる

【結婚】
 G.女子の場合の結婚年齢について「一般に12~15歳までの娘を嫁がせられる父親は稀である」「結婚の平均年齢は16~18歳(1450年:フィレンツェ,シエナ),20~21歳(1450年:ディジョン)」
 H.男子の場合、結婚は非常に遅かった(例:トスカーナ地方では30歳以上,トゥールとディジョンでは25歳頃〔どちらも1450年〕)。しかもこの時代は「1~2世紀前に比べて生活水準が上昇していた」ので、将来の社会的地位向上への期待もあり、結婚して家庭を持つことは容易になっていたのだが。都市ですら結婚年齢はこの状態だったから、農村での結婚は「長い青春の末に獲得できる、高価な¨社会的勝利¨」となっていた
 ☆結婚できないことが「男子の性欲に関しておぞましい罪の萌芽となる」と有力者は考えていた。しかし実際には結婚を遅らせることは、貧乏人が悲惨な状態に陥らないための唯一の手だてだった
 I.結婚年齢の高さゆえに「a.職人が結婚する頃には既にその親たちは亡くなっている」のだった(例:ジェノヴァ〔12世紀〕において早くも確認できる)。さらに夫婦の死別も頻繁した=「b.夫婦生活の平均期間は、非貴族階級は12年(貴族階級は16年)しかなかった(ヴェネツィア:1350~1400年)」
 J.男子の晩婚傾向と夫婦の死別の多さは「c.子供数の少なさ,女性の出産率の低下」を、さらに「d.貧しい家庭でのいっそう悲惨な幼児死亡率と妊娠中絶の多発(実際、ディジョンでは妊娠3ヵ月以内ならば合法化されている)」「e.イタリア都市での避妊法の発達(フランス都市ではまだ知られていなかったor稀だった)」につながった。他方で「f.農村よりも都市の方で、未亡人の存在はありふれた事実となっていた」のだった
 K.あまり世襲財産もなく父親も存在しなかった「g.小さな手工業者・職人の結婚は、彼個人の選択の結果であることがきわめて多かった」

【崩れやすい家族】
 L.都市の家庭は農家よりも柔軟性があり、壊れやすく長続きしない。都市の住民は家族の脆さをはっきり意識していて、様々な理由によって引き離され、親たちとの距離が大きくなるのを嘆いていた。従兄弟たちは「必要にされると拒絶する」と言われた
 ☆平凡なブルジョワは活発&献身的な血族関係に憧れていた(実は貴族への憧れも、一部にはそこから来ていた)
 M.「契約による共同家族(※?)」という結びつき方も、農村より稀でしかなくしかも「たいていは期限付きで、さらに一方の契約者の都合で簡単に解消される」程度の脆さだった。農村では堅実な「同族の結合」も、都市の城壁の中では維持できなかった
 N.結局のところ、都会の中では「経済・環境・倫理という要素によって、一般大衆の家族関係は破壊された」のだった(例:疫病が発生すると連帯感が緩み、道徳的な危機が迫ってきて家父長の権限すら危うくなる)
 ⇒都会人は「祖先も財産もないことが多く、あまり肉親にも頼れない」が、これは根無し草が多いというだけでなく、都会か金に頼っていることにも原因かある


(5)富こそ基準

 A.都市の城壁内で活動する人々は様々な対極にいた(例:教会参事会員と学生,有力者とブドウ作り,都市貴族と無産住民,卸商人と小売り商人,スキルの高い手工業者と単なる作業人〔個人の運命と景気に流され、仕事と物乞いの間を彷徨う労働者〕。その彼らが隣り合って暮らしていることを住民の誰もが分かっていた
 B.商人企業家よりも無産住民の方が圧倒的に数が多く、また貴族は指で数えられるほどしかいなかった
〈例〉サン・トメール(1300年頃):
 騎士が5~10人,裕福な人が300人,財産所有者が3,000人,世帯数10,000のうち25~30%が貧民だった
 C.富の格差の要因は「社会的地位,出身地,階級,身分」であった。そして都市社会の模範とはブルジョワであり、区別の基準は金である。都会人はどこにいても住民を「上流‐中流‐下流,金持ち‐貧乏人,大者‐小者」に分け、収入と資産によって個人を序列化した
 D.さらに、たとえ身分が高くても生活状態が悪ければ、軽蔑が尊敬に勝った。身分で判断されるのはユダヤ人と外国人だけだった
 E.手工業者も金の力によって、自らのビジネスを商業へと移していく。彼は「商人ハンザ,卸商人組合,金満家のクラブ」へと加入し、最終的には都市貴族に加えられるように努力した


(6)都市の経済原理

 A.都市の機能はますます多様化していくが、その中でも商人の精神が支配的となり、人々の感じ方・振る舞い方を方向づけた。あらゆる働き手・資本家が労働・知識・資本財を「取引の場」に提供する。それには市場原理によって適正価格が毎日付けられた
[例:雇われ職人は技能を,地主は土地の一部を,法学者は法学を,教授は知識を,,労働者は肉体労働を,芸人は芸を,売春婦は身体をそれぞれ提供した]
 B.金こそが都市の血・生命力・構成要素だった。したがってブルジョワとは拝金主義者の代名詞であり、聖職者も(高利貸しという行為だけでなく)ブルジョワの金銭欲を非難した
 C.ブルジョワの財産は(一部もしくはかなり)常に流動性が保たれている。財産は簡単に姿を変え、作り直される(例:金塊・高価な皿)。さらに融資・様々な契約の手段とされる(例:発注,商業上の協定,武力の提供,銀行預金)。事業の成功に関係する財産ですら、比較的流動性が高い(例:家屋,作業場,陳列台,都市近郊の所有地)
 D.都市貴族は「領主権と家紋の保持者である」「塩・小麦・織物に対する税を独占徴収して権勢を維持した(12世紀)」「決して純粋な金利(レント)生活者にはならない」「両替商,税金(通行税や関税など)徴収者になっていることが多い(14世紀)」のだった
 E.多くの人々は僅かな貯蓄を投資(海運や高利をもたらす企業に対する)に賭けることはできないし、望みもしなかった。ところがどの都会人も訳あって「金の上手な運営,資金の動き,市場の需要・供給に影響する出来事」に敏感だった
〈例〉ピサやジェノヴァの人々は「小麦の供給をロマーニャ・シチリア島・ローヌ川流域に依存していた」ため。フランドルの織物業者は「イングランドの羊毛が到着しなければ失業する」ため、パリやリヨンの人々(1430年頃)は「ブルゴーニュとの和平で生活が楽になると信じていた」ため
 F.故郷を離れて新しく都市に住み着いた田舎人は、視野の広い世界を前にしてさっそく自らの労働の価値を考えなければならなかった。彼らは市場や求人広場において「物価がファッションや身分のように絶えず変化している」ことを知った

【新たな台頭と没落、さらに貧困】
 G.年代記・歴史・シャンソンには“成り上がり者”がよく現れる。この者は「無一文から出発して、高利貸し・商業・手工業によって出世し、権勢の頂点に達した者」である。しかし実際には、富を成す第1条件とは「初めからかなりのお金を持っていること」だった
 ★実は多くの貴族的商人(12世紀)はそもそも金持ちの子息であり、多くの“成金”とはそもそも「他の都市からやって来た金持ち」に他ならなかった
 H.それでも「歴史」にはそれなりの真実があり、急速に富を作った人物はいた(例:ジェノヴァの大商人は5年間で投下資本を4倍に増やした〔1200年頃〕)。反対に破産も急激である(例:フィレンツェの土地台帳〔15世紀〕には、貧困化した大物の名前が急増している)
 I.長い間に「古くからの名家,貴族,事業主,食料業者(例:肉屋),法律家」たちが社会の頂点に達し、都市の参事会に加わる。他方で下層民の集団はますます多くなる。時には「貧困を隠した者,上流階級から零落してきた者」が加わるものの、たいていの場合は「慢性的な失業の懸念によっていつも傷つきやすい、賃金生活者層に属する者たち」である
 J.華々しい富とは対称的に、都市には悲痛で目立ちやすい貧困があり、もし市民が貧困の犠牲になれば騒動を招く。他の者についてはあまり心配はない(乞食の群れは、都市が繁栄している兆候だった!)。金持ちと貧乏人との隔たりは時には縮まることもある(例:1350~1400年)が、それでも依然として大きいことには変わりない


(7)道徳問題と議論

 A.都市での仕事は、産業・商業の再編成(13~15世紀)とともに次第に専門化していくので、それに伴って個人の仕事は変化せざるを得ない。さらに不断の変化は、都市での活動が呼び起こす「労働・利益・貸付・富・貧困の意義」についての道徳上の問題を多様化した
 B.同じように、若者が長い独身生活を強いられるようになり、さらに大勢の男子聖職者の存在もある。したがって新しい性道徳を検討しなければならなくなった。この深刻な問題は、何世代にも渡って知識人が弁証法とスコラ的論法により、省察して解答を試みている」

【社会的な議論や世論】
1.「論議は個人に義務を強制し、それは何度も再検討される」
2.「人々の精神を¨議論の実践¨¨意見の多様性¨に馴染ませる」
3.「ある時には聖職者・商人・職人までもを意見と議論の交換に巻き込んだ」
4.「知的な交換場所が型どおりの大学となっても、議論参加者の協力関係は、多くの人々の考え方・態度を変えることができるほど続いた」
5.「しかも抗議を繰り広げ、知的・道徳的な対決をする場所も多かった(例:聴衆を引きつける托鉢修道会の説教師の演壇の前,世論が形成される公共広場,居酒屋,世俗の劇場の舞台,地位のある人々に対して自己主張する青年団)」
6.「このようないがみ合いは爆笑・騒々しい儀礼・醜い決裂になることもあった(例:アッシジのフランチェスコは公然とマントを脱ぎ捨てた)」