『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[18]
(16)時計
A.農村で暮らす農民に時を告げるのは鐘の音だった。しかし市民ももちろん、機会仕掛けの時計が登場する(13世紀)以前には、教会堂のてっぺんや鐘楼にあった鐘の音に頼っていた。鐘の音は「働く時間を刻む,城門の開閉を知らせる,消灯の合図となる,参事会を召集する」といった、市民の世俗事の時刻をリズム化した
B.時計の文字盤と針が時刻を告げ、カリヨンと自動時計の音が響き渡るようになり(1300年~)、鐘は補助的な役割へと後退する。日時計などは「聖者に祈る,旅をする,市民行列をする」時に適当な時刻を定めた
C.時計は不正確であった(停止する,操作係の役人が怠ける,各都市ごとの特殊性がある)が、それでも集団生活を規則づける要素となる。事業主は自動的に刻まれる時のおかげで労働時間の管理が可能となるが、それは職人たちから抗議を受けた。君主・聖職者の立場から見れば、時計は群集をしつけるよい手段だった
〈例1〉“この機器はまことに正確12時間の時を刻んでいるので、正義と法律を遵守すべきであると教えている”(パリのシテ島の宮殿の時計に張り出された告示:1400年)
〈例2〉“もしこのような時計が作られるならば、もっと多くの商人が定期市に参加するだろうし、市民も慰められ、楽しく幸せになり、ますます規則正しい生活をしようとするだろう”(リヨンのサン・ニジエ教会の聖堂参事会員たちは時計を欲しがり、市参事会に訴えた:1481年)
⇒時計は人々の行動・振る舞いを規定し、都市的な「計算」の要素となる
(17)礼儀とマナー
A.風俗習慣のまじめさは都市の礼節の基本だった。シャンソンや都市賛歌の作者たちは市民の礼儀正しさを強調した(例:パヴィアの住民は全て“互いに親切で優しい。社交的で慇懃であり、だれが部屋に入ってきても起立する”という)。反対に、身分の低い者・貧しい者の様子はいつも行儀が悪いという
B.都市には「各社会集団・職業集団に固有の言語コード(規則・習慣)」と「住民一般に共通の言語コード」の2つがある。偉い人々の模範的な礼儀は、前者に同化していくが、そこでは家庭教育が基本である。しかし一方で「芝居,上流社会の催し物」の場での影響(例:組合員,説教師,宗教劇,絵師,都市の市民)も存在する
C.礼儀作法は単なる真似事ではなく、規律を習得しているか否かは都市空間ほど大切な場所はなかった。「神聖な場所で不謹慎な真似をする,ペスト流行時にあまりにも大げさな嘆きを顕わにする,行列の中で仲間の評判に傷をつける」などは(当然)有害だった。もちろん、礼儀作法(エチケット)は生きている人に対してだけでなく、聖者・神に対する態度も大事だった
D.都会人は、多くのマナー=「あまり音を立てずに慎み深く食事すること,肉切り皿の共用の仕方,教会堂への入り方,祭壇への近づき方,見知らぬ人に対する身分に応じた挨拶の仕方,祈る時の声の抑揚のつけ方,嘆きのうったえ方,神聖な絵の前・市場・市民広場での心掛け」を覚えた
E.特に学ぶべきは「友情の示し方,感情・恋心の表し方,慇懃な物腰」だった。これらには宮廷と都会とでは異なる礼儀がある
〈例〉メッツの領主は、馬上試合の合間に「茶番劇を挟み、シャリュモー(※クラリネットの元祖)の音に合わせて踊る」公共広場仕込みの奔放さを歓迎し取り込んだ
F.中世社会での結婚は個人の選択による場合が多いので、少なくとも形式的な慇懃さは必要だった。婚前関係はたまたま知り合った相手の女性への評価から始まり「訪問,窓下での演奏,ダンス」によって互いに徐々に理解していくのだった。また愉快な仲間どうし・団体が「恋のプロセス」を「儀礼化し、暴力を避け、やり方を脚色する」のに役立った
⇒仲間の中にいることで、恋の喜びを互いに分かち合うこともあった。しまいには“恋は瘡より悪質”とされて“まじめな遊び女から移される都会病”とすら見なされた(15世紀末)
(18)都市の祭典
A.節度・秩序・礼儀は「穏やかに暮らす,暴力・恐怖を抑える,狂気を回避する,協調・服従を表明する」。そのおかげで都会人は、洗練された都市の文化にゆっくりと融合できるのだった
B.市民行列の厳粛さは、笑うこと・抗議することと一体であった。自由な祭り(12月,カーニバル,5月祭)であっても、参加者の自発性は職業上・社交上の組合の枠に拘束されてはいたものの、都会人は年に何度でも存分に祭りを楽しんだ。そして祭りは、人心を刷新し浄化する儀式(=祭り)は、人々を繋げる役割を果たした
【祭りの様子】
1.「若者は思い切り憂さ晴らしをし、演奏者・ならず者連中といった愉快な者と一緒に、フードを被って踊りまくった」
2.「若者は道化役者とも一緒に笑った。この道化者たちは、芝居小屋で道化杖を手にして(広場or学校or宮廷で覚えた)アンティストロペ(頌歌:しょうか)・ファトラジー(デタラメ歌)を朗詠した」
3.「カーニバルでは全てを逆転させる。おどけた裁判にかける,音楽もどきの騒音に没頭する,権力者・偽善者への抗議を示すなどが行われた」
4.「都市の住民は他の地区を相手として競技で戦うこともあった(例:ヴェネツィアでは橋を取り合う,ボーケールではローヌ川を奪い合う)」
5.「市民たちが陽気に競い合ったのは『城壁の下で原始林を想定して、射手の服装をし、狂気と叙事詩の夢想を結びつけて、狩りと射撃の楽しみにふける』遊びだった」
〈例〉ブリュッヘのガルベールが記述している「国王にしたがう若者たち」,“5月の王”と呼ばれた、ロビン・フッド伝説をしたうイングランドの都市や村の“ヤングメン”
6.「隊列を組んで行進したり“正当な”略奪物で大饗宴を開く。連れてきた犠牲者にワインを飲ませ、その代金を払わせた」
7.「広場で若者や子供も含めて、奇蹟を行う聖者の前で感激に酔った」
8.「その聖者は何時間ものあいだ見物人を笑わせたり、泣かせたり(宗教劇の役者のように)、ありふれた話と恐怖な喚起を組み合わせて『人民を食い物にする者,堕落した聖職者,女の意地悪』を弾劾し、父・主人・役人への服従を説いた」
【共同体の権威】
C.都市の為政者にとって、最良の統治策は権威を示すことであった。「強力なギルドは中央広場・広場に接して鐘楼を建設した(フランドル地方,アルトワ地方)」「市民が貴族に対して勝利したイタリア都市では、新しい共同体の象徴たる市庁舎が建設され、貴族家の塔を圧倒した」
☆ただしフランスの主要都市では、教会の鐘楼が塔の役割を果たし、また托鉢修道会の教会堂が集会所になっていた。このため、市民的な建造物の建築事業ははるかに遅れた
D.市民的な建造物は、必ずしも都市の地理的中心にはなかった(むしろその逆が多い)が、社会的・歴史的な(or神聖な空間の)中心にあり、それを演劇・儀式を開催することによって威光を高めた。実際には「市門から大聖堂・市庁舎へ通じる曲がりくねった通りが、豪華な装いによって立派な幹線道路となる」
E.さらに「柱廊(=建物の張り出しポーチ)が堂々たる舞台となる」のであり、聖体行列・一般の行列はそこに集められた。ここに語り・演劇が追加されることもあるが、行列は市民の祭典の主要部である
F.聖体行列は一般見物人に対して、都市の階級秩序を示すものだった(そのため、ときおり内部で序列をめぐる争いが起こる:序列については下記参照)。しかし争いは表には現れないので「ヴェネツィアのセンツァ祭,フィレンツェのサン・ジョヴァンニ・バティスタ祭,シュトラスブルクのシュヴェルタック祭」も、決して混乱・反乱のきっかけとはならなかった
G.市民にとっては、定期的に行われる儀式的な集会は都市共同体の維持には欠かせなかった(例:ブリュッヘにおける年13回の一般行列や、ヴェネツィアにおける年16回の行列)。どんな小都市でも多く開催されたが、そのうち“キリスト会”の行列は、至る所で市民デモに発展した
H.行列の典礼的な規定では序列・階級的配列が神聖視されていて、それぞれが「都市当局によって定められた順序」に従って旗印の後ろに並んだ。聖体行列では、都市の高官の周りで権力を誇示する要素が存在していた
I.聖遺物を捧持した聖体行列は「都市の高官と十字架に従った市民が団結したので、災害を終わらせたor敵を退けた(勝利した)」ことを喚起させるのに、きわめて効果的だった。行列は「きちんとした列,,象徴を示すスタイル,響く歌声,派手な装飾」によって、都市の神話という観念を顕示した
☆都市の神話:
・「都市は素晴らしい枠組みであり、そこで一致協力することで生きる、自由にして統一された市民の共同建築物である」
・「都市は物質的・社会的な調和の場として、最後には混乱や敵に打ち勝つ。都市は怪物を踏み潰す」
・「都市は平和を広め(壁画に描かれていた)、ローマより古くから存在し、たとえ破壊されても必ず復活する」
・「都市は美しく、神聖で、礼儀正しく、生き生きとし、永久不動のものだった」
J.祭りは祝日に行われ、一般大衆を市民の価値観に巻き込み参加させる効果的な手段だった。また祝日は慈悲の時でもある=「追放された人々も恩赦を与えられた」「気まぐれな君主は施しの引換券を配った」「高官は一般大衆に対してワインをふんだんに贈った」「貧しい人々は(娯楽が始まる前に追い出されない限りは)分け前にありつけた」。都市の装いは「花・天幕ですっかり様変わりした」
【都市での成功者の例】
K.ある田舎暮らしの者(1500年代のヨーロッパのどこかの都市の外れに住む)は、30年間都市で様々な束縛に我慢しながら暮らし、成功した。彼は市壁から離れて田舎の館に住み(あるいは邸宅を建てて暮らす)、その豪華さは一般の通りに対して目を背けている彼は豪勢な暮らしの中で孤立し、かつての同輩とは去年(こぞ)の親しさしか残っていない
L.彼は時には村の第一人者となり、お偉方が叫ぼうとも頓着せず、ペスト流行が心配されても悲惨な人々が追放されても我関せず、だった。彼は神を怖れるが、あの世への道中の心配は無かった(既に金を払っている)。そして、彼に成功をもたらした力のおかげで、息子たちは世界へ通じる道を開いたのだった
(16)時計
A.農村で暮らす農民に時を告げるのは鐘の音だった。しかし市民ももちろん、機会仕掛けの時計が登場する(13世紀)以前には、教会堂のてっぺんや鐘楼にあった鐘の音に頼っていた。鐘の音は「働く時間を刻む,城門の開閉を知らせる,消灯の合図となる,参事会を召集する」といった、市民の世俗事の時刻をリズム化した
B.時計の文字盤と針が時刻を告げ、カリヨンと自動時計の音が響き渡るようになり(1300年~)、鐘は補助的な役割へと後退する。日時計などは「聖者に祈る,旅をする,市民行列をする」時に適当な時刻を定めた
C.時計は不正確であった(停止する,操作係の役人が怠ける,各都市ごとの特殊性がある)が、それでも集団生活を規則づける要素となる。事業主は自動的に刻まれる時のおかげで労働時間の管理が可能となるが、それは職人たちから抗議を受けた。君主・聖職者の立場から見れば、時計は群集をしつけるよい手段だった
〈例1〉“この機器はまことに正確12時間の時を刻んでいるので、正義と法律を遵守すべきであると教えている”(パリのシテ島の宮殿の時計に張り出された告示:1400年)
〈例2〉“もしこのような時計が作られるならば、もっと多くの商人が定期市に参加するだろうし、市民も慰められ、楽しく幸せになり、ますます規則正しい生活をしようとするだろう”(リヨンのサン・ニジエ教会の聖堂参事会員たちは時計を欲しがり、市参事会に訴えた:1481年)
⇒時計は人々の行動・振る舞いを規定し、都市的な「計算」の要素となる
(17)礼儀とマナー
A.風俗習慣のまじめさは都市の礼節の基本だった。シャンソンや都市賛歌の作者たちは市民の礼儀正しさを強調した(例:パヴィアの住民は全て“互いに親切で優しい。社交的で慇懃であり、だれが部屋に入ってきても起立する”という)。反対に、身分の低い者・貧しい者の様子はいつも行儀が悪いという
B.都市には「各社会集団・職業集団に固有の言語コード(規則・習慣)」と「住民一般に共通の言語コード」の2つがある。偉い人々の模範的な礼儀は、前者に同化していくが、そこでは家庭教育が基本である。しかし一方で「芝居,上流社会の催し物」の場での影響(例:組合員,説教師,宗教劇,絵師,都市の市民)も存在する
C.礼儀作法は単なる真似事ではなく、規律を習得しているか否かは都市空間ほど大切な場所はなかった。「神聖な場所で不謹慎な真似をする,ペスト流行時にあまりにも大げさな嘆きを顕わにする,行列の中で仲間の評判に傷をつける」などは(当然)有害だった。もちろん、礼儀作法(エチケット)は生きている人に対してだけでなく、聖者・神に対する態度も大事だった
D.都会人は、多くのマナー=「あまり音を立てずに慎み深く食事すること,肉切り皿の共用の仕方,教会堂への入り方,祭壇への近づき方,見知らぬ人に対する身分に応じた挨拶の仕方,祈る時の声の抑揚のつけ方,嘆きのうったえ方,神聖な絵の前・市場・市民広場での心掛け」を覚えた
E.特に学ぶべきは「友情の示し方,感情・恋心の表し方,慇懃な物腰」だった。これらには宮廷と都会とでは異なる礼儀がある
〈例〉メッツの領主は、馬上試合の合間に「茶番劇を挟み、シャリュモー(※クラリネットの元祖)の音に合わせて踊る」公共広場仕込みの奔放さを歓迎し取り込んだ
F.中世社会での結婚は個人の選択による場合が多いので、少なくとも形式的な慇懃さは必要だった。婚前関係はたまたま知り合った相手の女性への評価から始まり「訪問,窓下での演奏,ダンス」によって互いに徐々に理解していくのだった。また愉快な仲間どうし・団体が「恋のプロセス」を「儀礼化し、暴力を避け、やり方を脚色する」のに役立った
⇒仲間の中にいることで、恋の喜びを互いに分かち合うこともあった。しまいには“恋は瘡より悪質”とされて“まじめな遊び女から移される都会病”とすら見なされた(15世紀末)
(18)都市の祭典
A.節度・秩序・礼儀は「穏やかに暮らす,暴力・恐怖を抑える,狂気を回避する,協調・服従を表明する」。そのおかげで都会人は、洗練された都市の文化にゆっくりと融合できるのだった
B.市民行列の厳粛さは、笑うこと・抗議することと一体であった。自由な祭り(12月,カーニバル,5月祭)であっても、参加者の自発性は職業上・社交上の組合の枠に拘束されてはいたものの、都会人は年に何度でも存分に祭りを楽しんだ。そして祭りは、人心を刷新し浄化する儀式(=祭り)は、人々を繋げる役割を果たした
【祭りの様子】
1.「若者は思い切り憂さ晴らしをし、演奏者・ならず者連中といった愉快な者と一緒に、フードを被って踊りまくった」
2.「若者は道化役者とも一緒に笑った。この道化者たちは、芝居小屋で道化杖を手にして(広場or学校or宮廷で覚えた)アンティストロペ(頌歌:しょうか)・ファトラジー(デタラメ歌)を朗詠した」
3.「カーニバルでは全てを逆転させる。おどけた裁判にかける,音楽もどきの騒音に没頭する,権力者・偽善者への抗議を示すなどが行われた」
4.「都市の住民は他の地区を相手として競技で戦うこともあった(例:ヴェネツィアでは橋を取り合う,ボーケールではローヌ川を奪い合う)」
5.「市民たちが陽気に競い合ったのは『城壁の下で原始林を想定して、射手の服装をし、狂気と叙事詩の夢想を結びつけて、狩りと射撃の楽しみにふける』遊びだった」
〈例〉ブリュッヘのガルベールが記述している「国王にしたがう若者たち」,“5月の王”と呼ばれた、ロビン・フッド伝説をしたうイングランドの都市や村の“ヤングメン”
6.「隊列を組んで行進したり“正当な”略奪物で大饗宴を開く。連れてきた犠牲者にワインを飲ませ、その代金を払わせた」
7.「広場で若者や子供も含めて、奇蹟を行う聖者の前で感激に酔った」
8.「その聖者は何時間ものあいだ見物人を笑わせたり、泣かせたり(宗教劇の役者のように)、ありふれた話と恐怖な喚起を組み合わせて『人民を食い物にする者,堕落した聖職者,女の意地悪』を弾劾し、父・主人・役人への服従を説いた」
【共同体の権威】
C.都市の為政者にとって、最良の統治策は権威を示すことであった。「強力なギルドは中央広場・広場に接して鐘楼を建設した(フランドル地方,アルトワ地方)」「市民が貴族に対して勝利したイタリア都市では、新しい共同体の象徴たる市庁舎が建設され、貴族家の塔を圧倒した」
☆ただしフランスの主要都市では、教会の鐘楼が塔の役割を果たし、また托鉢修道会の教会堂が集会所になっていた。このため、市民的な建造物の建築事業ははるかに遅れた
D.市民的な建造物は、必ずしも都市の地理的中心にはなかった(むしろその逆が多い)が、社会的・歴史的な(or神聖な空間の)中心にあり、それを演劇・儀式を開催することによって威光を高めた。実際には「市門から大聖堂・市庁舎へ通じる曲がりくねった通りが、豪華な装いによって立派な幹線道路となる」
E.さらに「柱廊(=建物の張り出しポーチ)が堂々たる舞台となる」のであり、聖体行列・一般の行列はそこに集められた。ここに語り・演劇が追加されることもあるが、行列は市民の祭典の主要部である
F.聖体行列は一般見物人に対して、都市の階級秩序を示すものだった(そのため、ときおり内部で序列をめぐる争いが起こる:序列については下記参照)。しかし争いは表には現れないので「ヴェネツィアのセンツァ祭,フィレンツェのサン・ジョヴァンニ・バティスタ祭,シュトラスブルクのシュヴェルタック祭」も、決して混乱・反乱のきっかけとはならなかった
G.市民にとっては、定期的に行われる儀式的な集会は都市共同体の維持には欠かせなかった(例:ブリュッヘにおける年13回の一般行列や、ヴェネツィアにおける年16回の行列)。どんな小都市でも多く開催されたが、そのうち“キリスト会”の行列は、至る所で市民デモに発展した
H.行列の典礼的な規定では序列・階級的配列が神聖視されていて、それぞれが「都市当局によって定められた順序」に従って旗印の後ろに並んだ。聖体行列では、都市の高官の周りで権力を誇示する要素が存在していた
I.聖遺物を捧持した聖体行列は「都市の高官と十字架に従った市民が団結したので、災害を終わらせたor敵を退けた(勝利した)」ことを喚起させるのに、きわめて効果的だった。行列は「きちんとした列,,象徴を示すスタイル,響く歌声,派手な装飾」によって、都市の神話という観念を顕示した
☆都市の神話:
・「都市は素晴らしい枠組みであり、そこで一致協力することで生きる、自由にして統一された市民の共同建築物である」
・「都市は物質的・社会的な調和の場として、最後には混乱や敵に打ち勝つ。都市は怪物を踏み潰す」
・「都市は平和を広め(壁画に描かれていた)、ローマより古くから存在し、たとえ破壊されても必ず復活する」
・「都市は美しく、神聖で、礼儀正しく、生き生きとし、永久不動のものだった」
J.祭りは祝日に行われ、一般大衆を市民の価値観に巻き込み参加させる効果的な手段だった。また祝日は慈悲の時でもある=「追放された人々も恩赦を与えられた」「気まぐれな君主は施しの引換券を配った」「高官は一般大衆に対してワインをふんだんに贈った」「貧しい人々は(娯楽が始まる前に追い出されない限りは)分け前にありつけた」。都市の装いは「花・天幕ですっかり様変わりした」
【都市での成功者の例】
K.ある田舎暮らしの者(1500年代のヨーロッパのどこかの都市の外れに住む)は、30年間都市で様々な束縛に我慢しながら暮らし、成功した。彼は市壁から離れて田舎の館に住み(あるいは邸宅を建てて暮らす)、その豪華さは一般の通りに対して目を背けている彼は豪勢な暮らしの中で孤立し、かつての同輩とは去年(こぞ)の親しさしか残っていない
L.彼は時には村の第一人者となり、お偉方が叫ぼうとも頓着せず、ペスト流行が心配されても悲惨な人々が追放されても我関せず、だった。彼は神を怖れるが、あの世への道中の心配は無かった(既に金を払っている)。そして、彼に成功をもたらした力のおかげで、息子たちは世界へ通じる道を開いたのだった