『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[13]


○都会人と都市生活


(1)人口と都市の文化について

 A.産業革命以前のヨーロッパの都市網がほぼ完成した時代(1250年頃)における都市人口と都市の成長について:
1.「巨大都市パリで人口100,000人を越える程度、その他6大都市(ヘント以外はイタリアの都市)が50,000人を超えている」
2.「ヨーロッパ全体で人口10,000人を越える都市は60~70、千人単位の都市は数百が存在していた」
3.「都市の配置は不均衡であり、密度の高い成長地域では、全人口の3~4人に1人が都市住民だった。発達の遅れた地域では10人に1人だった」
4.「農村世界の大きな中心地=都市は、人間を材料のように際限なく消費していくものの、たちまち補充される」
5.「都市の勢いは人口増加以上であった:学校が建つ,托鉢修道会士が定着する,君主が都市を首都に定める,工芸が多様化する,市場経済が絶えず領域を広げる」
6.「都市には複雑な社会が発展した。この社会は領主制とその様式に適応する一方で、都市固有の階層を育てた」

【都市文化という共通項】
 B.だが重要なのは、都会人が田舎人に対してより多くの値打ちを持つのではない、ということである。両者の間には文化的相違があるだけだった。都会人は「農村で知られていないような社会性(身分が違う人々どうしが普通にすれ違う),特殊な生き方,貨幣の日常的使用」が必要となり、人によってはより広い世界を理解しなければならない、というだけだった
 C.文化の発展の程度だけが都市ごとに違うだけだった。どの都市でも様々な関係者(例:聖職者,商人,手工業者)全体によって動かされ、発展度合いの高い主要都市を手本として(人の交流を通じて)見習う。したがって各都市は全て縁者であった
 D.初期に成長した都市(10~12世紀)の都会人と比べて、高い成長段階を達成した都市(15世紀)の都会人には「自らの生活様式(=都市文化)に自信が花開いていた」点が異なる。しかしどの時代でも、都会人は都市で生まれ育つよりも、若い頃に都市へ行くのが多かったことは変わりない


(2)都市世界への入り口(12世紀)

 A.ある田舎人が都市で働き口を得て定住するつもりで都市の門をくぐったとする(1150年頃)。そこは彼にとってみれば「特権に守られた世界」であった。しかしそれはよく使われた法諺=“都市の空気は人を自由にする”ということではなかった
〈例〉リールは私生児・移住者を受け入れなかった。ボローニャとアッシジは非自由民に重税を課した(1200年頃)。どこであれ、都市領主は農奴を自由にするまで1年間こき使った
 B.そもそも都市が持つ自由とは、君主からの特許状や法律で認められた特権などではない。それは「奪い取る,獲得する,取引する,同意させる,むしり取る」かして手に入れた権利・慣習の積み重ねだった。(自由を定めた)法に実効性を持たせるのは、共同体がそれを守らせる実力を持っているかにかかっていたが、都市には金・住民の数・団結力があった
〈例〉“自治都市”という言葉は、ピカルディ・フランドルではきわめてエモーショナルな力を持っていた(1200年頃)
 C.市民(とりわけ商人)は、至る所で経済活動に必要な自由を獲得し、反対に抑圧的or侮辱的な慣例(領主支配の名残)はあちこちで相当減っていた(12世紀末)。都市での裁判権が領主に属していても、住民の主だった人々から託された裁判は判例を積み重ねて、個人とその財産に関する権利や条件を統一する傾向にあった
 D.事業主たち(手工業の親方)は、事業を麻痺させるような形式主義から解放されていった。これによって「彼らは束縛なしに(作業場で)必要な職人を雇えた」だけでなく「度量衡・市場・定期市に関して」「雇用と仕事の規制について」定められた。さらに「盗難・不法監禁の犠牲になった市民のため」の効果的な介入もあった
 E.上記のような集団的連帯による恩恵を受けられる、ということは、逆に市民権の獲得が難しかったことを推測させる。市民権を得るには「保証,認可,一定の滞在期間(おおむね1年以上),定職を持つ,不動産所有」といったことが必要だった
 ⇒市民になるのは簡単ではなく、大半の貧しい住民はそうした障壁(排他的な少数派=市民権取得者が築いた)を越えられなかった
 F.市民権取得への高い障壁にもかかわらず、都市に住むことは何らかの期待を抱かせた(それゆえ、障壁の存在は実は重要ではなかった)。外から見た、都市居住のメリット:
1.「略奪者や軍人を寄せ付けない城壁に守られ、比較的安全に暮らせる」
2.「都市には蓄えや穀物を集荷する力がたるので、飢え死にしない」
3.「失業し悲惨な時でも生き延びられる希望がある。都市には配給があり、権力の慈善による残りかすを得られるから」

【都市の内外を二分する城壁】
 G.西欧ではイングランドを除いて、どの都市にも城壁があり、それは「都市共同体or都市領主の事業」の象徴であって都市と融合していた。どの都市も城壁で閉ざされ、また拡大発展とともに更に増築していった(例:ヘントは5回・フィレンツェは3回増築した〔1150~1300年〕)。市民の誇りであるが当然、金食い虫である(例:ランス〔14世紀〕では100,000~150,000リーヴルを要した)
 H.城壁は「(分担して壁と門を警備し安全を図る)住民を構造化する」「日常の時を刻む(日が暮れると門は閉ざされる)」「閉じ込めた住民を大事にする」「中にある景観に独自性を与える」ことによって、都市生活を¨封印¨していた
 I.ただし、城壁によって都市の内外が完璧に仕切られるのではない。というのは「都市周辺の田舎は都会人の資本によって支配され、ブルジョワの邸宅も散在している」。さらに農民は都市の市場へ規則正しくやって来るが「市内にも少なからずいる耕作者と途中ですれ違い、城壁内で庭園・ブドウ畑を横切り、家禽類や豚(城壁の下で生まれ、太っている)を追い払う」のだった


(3)都市の中

【異なる土地利用形態】
1.「農業は大きな村よりも集約されて用いられる(※作物も違うはず)が、そもそも都市の主要産業ではない」
2.「都市の土地は周辺の田舎よりずっと地価が高い(例:ミラノ〔12世紀〕では36倍!)。ヘント・ジェノヴァ・ピサでの土地投資は、ブルジョワの富を表していた」
3.「都市内部での建築物の堆積は、特に地中海沿岸都市で高度に発達している」
〈例〉鐘楼の集中,大聖堂の巨大さ,貴族たちの城館・塔,中心部の高さを競う家並(パリ・フィレンツェ・ジェノヴァ・シエナでは5・6階建ての家も珍しくない)
4.「都市の内部は、くぼみ・内部分割・樹枝状にめぐらされた狭い道・中庭・路地のために、初めて訪れた者にとっては、奇妙で魅惑的な世界だった」

【住環境】
1.「貧しい人が都市に住むなら、まずは2・3人で『高い階上の部屋,窓の無いあばら屋,屋根裏部屋』で暮らすことになる」
2.「同様に、少し金があれば居酒屋に下宿するし、金持ちならばそこで1・2の部屋を取る」
3.「ただしいずれにしても『井戸・料理場はいつも他人と共同使用』だった」
4.「手工業者はもちろん自分の家に住み、そこには地下倉・屋根裏部屋があり、召使いや見習いも一緒に住んでいる」
5.「ほとんどの人は、身分も職業も様々な隣人に囲まれて生活することに慣れなければならない。その必要が無いのは、ごく少数の裕福な人だけである」
6.「都市の住民の3人に2人は、1年中(orその一部)を市場に頼ってパン・ワイン・おかずを買うことになる」
6.「時には井戸が汚染され、飲み水がなくなることもある。城壁内の生活の不便さとはそういうものだった」
7.「都市が包囲されたりして何年も封鎖された場合には、頻尿の中で暮らすことになる。溜まった汚物が汚染・疫病の温床となった」
8.「都市当局はレプラ患者を城壁の外に建てた施療院に隔離して、保険衛生を実行することもあった」
9.「しかしペストは気候条件が整えば、都市の中心部・工場の多い町外れを電撃的に襲うので、当局は効果的に戦えない」
10.「何ヶ月も何年も、包囲・戦争・ペスト流行が続いたならば、住民の精神は内向的となる。流言飛語に惑わされ、疫病のように不安に感染する。群集を襲う恐怖や閉鎖的強迫感が、動揺・パニック・集団的残忍性を生むことが多い」
11.「また群集は、和平の成立や王の逝去を知って、歓喜の声を上げたり悲痛な叫びを上げる」

【移民】
 A.どんな都市文化でも、よそ者にとってまず必要なのは「都市の習慣と言葉,雑居での暮らし方」を学ぶことだった。都市の発展を促したのは、明らかに田舎からの移民だった
 B.当初、周辺から都市を目指して行ったのは、裕福な人々であった(例:アミアン,マコン,トゥールース,フィレンツェ)。彼らは自由と地位の向上に惹かれて移り住んだ。フィレンツェ(13世紀初)では市内の「田園地区」に見られるのだが、しかし彼らのように都市で成功するのは少数派だった
 C.しかし裕福な者と前後して、都市の発展に伴って貧しい人の移民が多くなった(12世紀~)。都市の職場には「村の余剰者,分家農家の子息,破産した農民(農地は都市市場の支配力によって牧場とされた:ピサ,ボーケール,サン・ジルの周辺)」たちが集まってきた
 D.やがて都市の人口吸引範囲は、ますます離れた場所にある農村にまで及んだ(都市が活発であるほど広い)。中でも政治都市・商業都市・大学所在都市には、さらに遠くからの多数のよそ者が集まっていた。至る所で移住者の数が地元民を上回るようになる
〈例〉ピサの小教区の中には、移住者が全体の50~66%を占めている所があった(1260年頃)
 E.移住地域の拡大・移住者の増加は人口の不均衡をもたらしたが、これは大災害の世紀(14世紀)によっていっそう激しくなった
〈例〉フィレンツェでは(ローヌ川流域の都市と同様に)、農村での労賃が都市に比べて下落したことにより、遠くからの貧しい移住者の集団(婦人も含む)が増え続けた(1450年頃)
 F.しかし彼らは同化に関しては必ずしも大きな問題とはならなかった(問題となる度合いは数と出身地によって影響された)。小都市ならば発展していた時期であっても、到来者は同じ言語を話し類似した習慣を示したので、あまり問題なく対処できた
 G.これが人口流入が1,000人を越えるよえな場所では事情が変わる(下記例のようになる)が、どの地方人も長い間「それぞれの出身地の特性を保持し、同郷のよしみ・結合・郷里との連絡」を維持していた
〈例〉アヴィニョン(1370年)では、同じ小教区内に西ヨーロッパ中の人々が隣り合っていた。ディジョンでは「フランシュ‐コンテ人,ピカルディ人,ブルゴーニュ人,ロレーヌ人」が並びあっていた

【移民への障壁】
 H.都市社会の上層部(最も安定し豊かな少数者,行政者)にとって、新しい移住者は必要であると同時に危険な存在でもあった。事業主の中でも、食料販売者にとっては問題なかったのだが、手工業者だと「少しでも景気が悪くなれば、古い敵意が燃え出して移住者とそうでない者との隔たりが大きくなりがち」だった。金は同化を容易にしたものの、全ての問題を解決できはしなかった
 I.たとえ同じ生活水準であっても、移住者は「知人関係,職業の受け入れ,政治参加の可能性」に恵まれなかった。これは元からの市民たちが政治を抑えており、移住者に対して法的障壁や目に見えない壁を多く築いたためだった
〈例〉かのダンテも、フィレンツェの道徳低下を招いたのは「貪欲な移住者の臭気,人々の混ざり合い」だと主張した。そうした非難をした知識人は数多い

 今ヨーロッパの民俗を並行して調べているのですが、12月13日の「聖ルツィア祭」について。
 「この日が旧暦の冬至の日にあたる」という説明が何カ所かでされているのですが(それらのソースは1つのようです)、旧暦とはユリウス暦(新暦のグレゴリオ暦への改編は1582年)のこと。しかしそのユリウス暦でも、冬至は12月25日だった筈です。それゆえに教会はこの日をクリスマスとし、わざわざキリストの誕生日に設定したというわけだとか。
 では12月13日が旧暦の冬至だというのは一体何なのだろうか!?

 それはユリウス暦の不完全さが原因だったようですね。
 ユリウス暦は100年に1度の閏年飛ばしが無いので、次第に実際の冬至よりも暦の方が先走ってしまい、どうやらグレゴリオ暦への改編直前には1年で1番昼の短い日(=暦上ではなく実質的な冬至)が12月13日に来ていたようです。
 これが改編後にもそのまま残った地域では「冬至は12月13日」とされてしまい、この日に聖ルツィア祭となった…ということでしょうか?

 とりあえず気づきと思いつきを書いただけなので、間違っている可能性大(元々暦法に関しても素人なので)。いずれ修正します。
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[12]


(8)農村共同体

 A.農村の共同体は一般的に、領主制よりも古くから存在した。地中海沿岸地方についていえば、村の起源は古代ローマ(orそれ以前)に遡る。ただしこうした古い共同体に対する「聖俗の上級領主の新しい権利」が覆ってきたのは、中世になってからのことである(時には中世後期のこと)
 B.その他の共同体は「ローマ時代の古い集落の周りに発達し、帝政後期の大所領に属していた」のが、次第にゲルマン人の侵入者→フランク人貴族の手へと移っていった。この経過に伴って、かつての「小作農の生活条件,土地管理の方法,所有者の権利」などが徐々に変化し、(農奴制のように)人間に対する支配の仕組みへと変わっていく
 C.第3のタイプの村落は、特に人口増加期(11~12世紀)において、貴族・君主から修道院へ譲られ、そこを開発することによって生まれた(譲られた時点では、過疎の未開発な樹木の多い地域であった)
 D.第4のタイプは、入植によって形成されたものであり、領主権力は入植者の出身農村と比べて抑圧的ではなかった。ドイツの農民集団がエルベ川を越えてスラヴの土地へ入植したのだが、そこでは「耕作に適した土地へ入植が集中し、広大な森林地帯が見捨てられ」ていた。そこでドイツ人の入植者が殺到し(13世紀~)、聖俗領主や騎士修道会のプッシュによってトランシルバニアまで進出した

【共同体と領主との関係について】
 E.中世盛期の共同体の姿は、ヨーロッパの多くの地方において共同体が領主に強要して「農民の義務,農民固有の役割,両者の間で同意した協定」を文書化した“解放特許状”“布告”“慣例”などによって、明らかになる(11世紀~)。これらの証拠は、農村共同体の誕生を意味するのではないことに注意しなければならない(単に共同体に直接関わる問題処理を記述した、というだけ)
 F.既にこの時代より以前から、農民は村の内部(or村どうしの間)で「(耕作地と同じように)未開地における放牧権の設定,水域の開発,耕作の方法,種蒔きと収穫,人間や獣から受ける植物への被害を防ぐための監視,有害な動物(狼・熊・狐など)に対する戦いと防備」といった問題について、最小限の相互協力を定めなければならなかった。当時の行政能力を考えれば、そういった問題全てが農民-領主間で解決が図られた筈はなかった
 G.地域の共同体と領主との間の関係は複雑だった。というのは、司教・修道院長・貴族は複数の村の領主になっていたし、反対に1つの村が複数の領主に共有されていたのも珍しくはなかったから
 H.共同体と領主の協力は不可欠だった。領主制が発達したことによって、農民にも自らのアイデンティティ(個人レベルでも、集団レベルでも)を深く自覚させるようになり、共同体の活動を刺激したようだ

【共同体vs領主】
 I.しかし必然的に、両者の対立も避けられなかった。時には農民は多くの問題=「極端な好戦癖,役人の職権濫用,不正な裁判,過去には無かった各種の賦課の徴収開始(例:領主所有の水車小屋の使用強制),人頭税」によって、領主を非難することもあった
 ★人頭税は領民に課された貢租に比べて、封建社会ではもっと高い率に設定された。当初は「領民を保護する見返り」として領主が勝手に定めた税金だった
 J.農民の闘争は静かな反抗である場合が多かったが、堂々とした農民一揆として繰り広げられることもあった。また時には「農民が共通の利益を持つ」&「地域の領主の要求がひどい」場合、地域レベルでの反乱(orより広範囲な反乱)が発生した。こうした農民一揆は「中世社会にとって本来的なものであり、資本主義社会でのストライキと同質である」という見方もある
 K.両者の軋轢の争点は「土地の法的な条件,未開地の開発,司法,領主の独断」に関係していた(これらは地理的環境・封建制の発達度・より上級の権力の影響力もあった)
 ⇒“解放特許状”“協定書”などはこうした問題を扱っていた。時には農村生活の秩序・平和に関係する項目=「耕作地の警備,植物の保護,秣(まぐさ)の刈り取り,防火」などを付け加えていた
 L.上記を考慮した上で、共通の争点となったのは「当然領主に支払うべきもの」&「新規の賦課(もしくはそう思われるもの)」に対する闘争だった。「人頭税の安定,製粉所の領主独占を廃止する(or減らす)」ことは、こうした農民運動の特徴であった
〈例〉製粉所に関して:
 イタリア中部の農村共同体の中には、この協定に従って領主に反抗し、近くの都市に従属した事例もある。その都市は「(独占的管理下にあった)未開地への農民の通行権,農民による貢租と奉仕の買い取り,製粉所の権利の共同体への移管」を認めた

【農民の経済利益の増大】
 M.農民は隷属からの自由を熱望し、領主に対して「賦役労働の買い取り(or廃止),貢租・地代の減免による自由の拡大,配偶者選びの自由」などを要求した。これは同時に「土地の売却・購入,子孫への相続」に関する権利拡大を伴い、土地に関する農民の権利がいっそう拡充された
 N.個人の自由の増大・土地の利用権の拡大は、共同体内部での社会的分化の可能性を増すことにつながった。というのは「ますます人口が増加する都市や、その農産物市場に農産物を売ることにより、蓄財の可能性が開けた」からである。社会的分化は共同体によりその強さは違うものの、どこでも認められる現象だった
 O.しかも社会的分化は「農民が領主から村の役職を任される(これは財産を作るにはかなり正当な可能性があった),高利貸しを行う」ことにより、いっそう強力に現れた。この現象は都市に近いところでは顕著だった
 P.新たに出現した「農村ブルジョワジー」は、他の村民とは異なる生活様式=「手工業・商業活動を営む,息子たちを聖職者・公証人に就かせる」で際立っていた。彼らは都市との関係では、都市に入り込むこともあれば、反対に出生地の村を支配し続けることもあった


(9)人口危機以降の農村社会と領主制

 A.人口危機の時代を迎えて、君主・領主・都市の政治的・経済的対策は様々であり、その結果も地域によって異なる
[西欧一般]
 「領主権力の衰微,領地の減少,ゆっくりとした農民の解放,農村社会の階層化傾向」が継続した
[フランスとイギリス]
 大貴族の多くは収入が下落したので、領地をまとめて貸し出すことに決めた
[スペインとイタリア南部]
 着実に成長しているブルジョワジーがいなかったので、国王・領主は却って強大な“大土地所有者”となった
[東ドイツ]
 領主は人口激減によって放棄された農民の土地を横領して広大な領地を形成した。さらに君主の力が衰微したことにつけ込んで、領民をコントロールする権利を新たに手に入れ、これによって所領の農園で新たな賦役義務を農民に課した

【領主の復興】
 B.やがて領主の復興につれて人口も回復した(15世紀末)。イングランドではこれは領主による“エンクロージャー”=「(伝統的に)穀物栽培のためにあった共同体の解放耕地と、農民が家畜の放牧に充てていた共有地の占有」だった。領主はそれを自らの領地に組み込んで「広大な牧草地として、羊毛業者or家畜業者に委託して羊の放牧に使った」
 C.このような事態は“羊が人間を食べる”と言われたが、それ以前から人口減少を利用して、季節移動式牧畜を発展させると共に特殊な制度を設ける事例があった:
「スペインの牧羊組合“メスタ”,プーリアの羊税,シエナの放牧税,教皇領での羊税」など


(10)農民の精神性と意識

【教育】
 A.確かに一般的に、農民階層は無学・文盲であったが、例外もあった(特に経済が発達した都市の支配を受けた土地では)。少なくともイタリア北・中部では、共同体(たぶん農村ブルジョワジーの小グループが住んでいた、大きくて豊かな共同体)は「学校の教師を雇うこと」を決められ、教育が農民のために役立ったことも珍しくはなかった
〈例〉トスカーナ地方のある地域は農民は豊かであり、小地主でもあった。たぶん村の司祭から学問の手ほどきを受け、何とか書けたり、少なくとも読むことはできたようだった
 B.農民は村落に閉じこもって暮らすのか広く一般化された習慣であった。しかし、彼らが経験・視野を深めるチャンスは「近くの都市との接触,巡礼への参加,近くの聖地への参詣,仕事を求めて旅する,季節ごとの移動」といった形で存在した
 ☆「求職の旅」とは、農民がいろんな所で期間限定の仕事を見つけた(例:臨時の石工)ことを指す。「季節ごとの移動」は、農業がひどく貧弱だった地方(例:アペニン山脈)での羊飼いたけに限られたのではない

【教区教会】
 C.農民の信仰の多くの要素は、キリスト教化以前の異教的な環境から誕生していた。教会は特に(貧しい世俗の人々と密に接触する)小教区において、多くの「ヘブライ由来の贖罪儀式,アニミズム的・魔術的な儀礼」を取り入れなければならなかった。司祭自ら、場合によっては魔術と信じられるような方法も辞さなかった
 ⇒それでも教区の多くの素朴な魂にとっては、全く醜聞とは思われることなく、むしろその行為が聖務の1つと見なされた
 D.農民のメンタリティーから見て、こうした教会の活動の多くは「繰り返される農業サイクル」と関係があった。そして農民と聖者との関係は契約的=「お供え物をする代わりに、豊作・天候の恵み・人間と動物の健康が与えられることを期待する」であった
 E.農民にとっては、教会(特に自分の村の教会堂)への愛着と信頼は深かった。教会堂は単なる祈りの場所ではなく、共同体の¨心¨に近い存在だった。それを強調するかのように、聖なる建物は住民のあばらやの間にそびえていた(それは場合によっては、領主の塔・館も同じだった)

【建物としての教会】
1.「農村共同体の民会が開催場所は(特別の建物が建つまでは)『教会堂の中,広場,墓地』のいずれかだった」
2.「司祭が住民集団にとってプラスになることを報告したのも教会堂の中である」
3.「危機に際して、住民・財産を避難させたのも教会堂の中だった」
4.「おまけに教会堂では(必ずしも宗教的ではない)多くの祭典が催された」
5.「教会堂は隣にある墓地とともに、共同体の共通の記憶を育んだ」
6.「教会にある鐘は、農民たちに単に祈りを知らせるだけではなかった。時計(=「商人の営業時間」)を農民はまだ利用しておらず、時は全て鐘が知らせた」
7.「鐘は『嵐と戦い、時には狼の群れを住民から遠ざけ、火事を知らせ、戦闘の危険を通報する』のにも役立った」

【信仰の共同体】
 F.教区での共同活動に農民が参加するのは、彼らにとって教育にもなった(これは都市民も同じ)。そこで農民は「司祭の行いを観察する,聖なる建物・器・飾りの手入れを手伝う」のだった
 G.共同体は組織を作って、地域によって様々な名称を付けた(例:“慈善団”“教会財産係”)。またある地域では、托鉢修道会の発議によって「祈り・贖罪・慈善のための信心会を住民が結成した」

【政治的意識とキリスト教】
 H.農民が社会的に不満を表明する時には、その根拠として「キリスト教の異端思想」を持ち出すのではなく、キリスト教の正統思想に頼った。中世後期の福音主義的思想は農民とは結びつかず、むしろそれは都市の貧民たちを惹きつけていった
 I.農民にとっての¨黄金時代¨とは、不確かで見通しのつかない未来ではなく、理想化した過去であった。なぜなら「世界は時間が経過するにつれて衰退している」という、近代以前の一般的な信念そのものに基づいていたから
 J.したがって領主との対立の場面においても、上記の2点が論拠とされた(例:“我々は、神が尊い血を流して全ての農奴を自由にしたのだから、全ての農奴が解放されることを要求する”)
 ⇒この自由への憧れは「土地の流通のいっそうの活発化,人・物に課せられる負担の軽減」への要求となり、領主と農村共同体との間の協定書となった

【都市と農民の対立意識】
 K.都市に対する農民の嫌悪は、イタリア北・中部に多くの証拠が残されている。この地方では多くの(規模の大きな)都市が存在し、都市の自治が発達して農村の領主として君臨した。農民は何よりもまず「彼らを苦しめた税制と穀物管理政策」を理由に都市を、そして「農民の貧困と苦労に無感覚な」土地所有者を、それぞれ非難した
 L.実際には農民の集団蜂起・個人的反抗は次第に減っていった(特に小作地帯)が、これは農村共同体に危機が起こらなくなったためである。それでも都会人は、農民の遠慮や落ち着いた態度を見ても、その内面が「妬みと憎悪で膨れ上がっている」ことを理解していた
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[11]


(5)農作業

 A.農民の基本的な心掛けは、自分の家族と土地所有者である領主(世俗的領主,都市在住の地主,教会領主)のために穀物の生産を確保することだった。穀物はどこでも食生活の主食であった(特に低い階層では)
 B.しかしパンには品質のランク(白パン,混合パン,スペルト小麦やミレットのような下級品種の穀物で作られたパン)があり、どれを食べているかによって社会階級を分けることができる。パンを求める熱情は自給自足の主要動機であった
 C.自給自足への欲望は、全ての農村共同体だけでなく、都市の地主・社会の上層階級にもあった。「自然のきまぐれ,常に襲い来る飢饉の脅威,農産物の長距離輸送の困難さ」が、自給自足体制の必要性を説明している
 ★ただし、農産物の長距離輸送が全く無かったのではない。ワインはさて置くとしても、シチリアの小麦はイタリア北・中部の都市化が進んだ地方へ、ほぼ規則的に行われていた

【穀物の農作業】
 D.「耕作→種まき→収穫→脱穀」の作業は、農民の作業と気配りのほとんどを占めていた。この「作業と気配り」は、4要因=「輪作法,犁と無輪犁の型,役畜,土壌の生産能力」によって地域毎に異なる
 E.種子に対する収穫の比率はまだ十分に明らかにはなっていない(平均で種子1に対して3~4,最高でも7~8,最低はせいぜい2~3)」。ヨーロッパの中央部・西部の深く緻密な土壌に比べて、地中海世界の軽い土壌は生産性が低い(標高の高い土地では平野部より生産性が低い)。生産性は(土壌の性質とともに)「農耕技術・作業の発達水準」により決まり、生産性の水準は「種まき以前の耕作回数」に現れている
 F.馬はよく使われたが、犁を引くには主に牛が用いられた(牛は1対、重い土の場合には数対)。全ての農民が役畜を利用できたのではないし、農業共同体では役畜の所有数が社会階層を形成する要因だった
 G.ヨーロッパの中央部・西部の、深く緻密な土壌に定着した農民は「導輪・犁刀・犁べら(犁べらの普及は中世初期)のある、重い新型の犁」を使った。これに対して地中海世界の乾燥地帯のイタリア農民は「左右対称の刃を付けた、旧式の無輪犁」をまだ使っていた(これは土を掘り起こすことなく、ただ掘り進むだけだった)
 ★もっと遅れた技術としては「ただ先に鉄片を付けて強化しただけの、原始的な無輪犁」がまだ使用されていた(シチリア内陸,サルディーニャ)
 H.輪作方法も「深い土壌の多湿のヨーロッパ」と「軽い土壌の乾燥したヨーロッパ」によって分けられた。後者では「¨休耕¨と¨冬小麦or春小麦orマメ科植物¨の循環」&「ただ畑の1/3だけを休ませておく休耕」しか知られていなかった
 I.穀物収穫の作業には刈り入れ用の鎌が用いられたが、鋸歯の付いたもので刈り取られることも多かった。穀物の茎は上の方で刈り取られ、畑に残された部分は、落ち穂拾いが済んだ後で「家畜のささやかな飼料,土壌への肥料」として役立った。また、畑で低木栽培ができなくなると「切り株は雑草とともに焼かれ、灰が土を肥やした」
 J.脱穀にあたっては、農民が「2人1組で作業する」or「もっと多人数で作業し、穀物倉で殻竿を使う」or「南の方面では戸外で作業できる気候だから、牛・馬・(特に地中海沿岸で)騾馬を用いる」かした
 K.製粉は家族の手作業で行われる場合がある(ただし例外的)。普通、農民は「穀粒を粉ひき屋まで運び、粉ひき作業は水力(水車)を利用して行う」のだった。水に恵まれないor風の強い地方では、風力が利用された
 ★多くの教会堂で、1年ごとの農業サイクルが月別に描かれたもの(農事暦)が残っているという。上記の作業もそこには描かれている。地中海から遠ざかるにつれて、年次の収穫時期は遅くなる

【灌木栽培の作業(ブドウ)】
1.「ブドウ栽培はたいていどのような土にも適し、また標高・気候の障害にも強い性質があった」
2.「ブドウ栽培とワイン作りは四季を通じて行われた」
3.「ワインはパンとともに食料の基本的要素になっている(ただし地方によっては、シードルかビールになる)」
4.「中世の全ての世紀を通じて(都市・田舎に住む者も含めて)上等なワインを求めることは、上流社会を識別する要素だった。だから特別製のワイン作りに拍車がかかった」
〈例〉イタリア北・中部の都市や他国の都市でも、イタリア半島南部の甘口ワインとコルシカ産が好んで求められた。イングランド・ネーデルラントではボルドーワインが求められた
 L.このように外部の需要があり、しかも河川輸送の方がが楽だったので、ローヌ川・ソーヌ川・セーヌ川・ライン川・モーゼル川流域でブドウ栽培が発達した。もちろん、戦争とともに住居・農機具は焼け、度々ブドウは壊滅した
 M.「ブドウ畑の植え込み・成長」という作業には何ら特殊性はない。その他に「剪定,除草,施肥,若枝の刈り込み,栽培用具の準備,ブドウの刈り入れ,ワイン醸造」の作業が必要性だった。作業には大人の男手が必要だが、楽しい収穫には女子供も一緒になって働いた
 ★オリーブの取り入れや実を絞る時にも、地方によっては楽しい様子となった
 N.栗の木が栽培される地方では(栗が農村経済を支えていた!)、収穫期には共同体生活に独特の賑わいが訪れる。続いて「村の貧しい人々が落ちた栗を拾う」→「最後の残りは豚の飼料となった」。また栗は「干され、砕かれ、その粉は家の中の箱に貯蔵された」


(6)農民生活

 A.自給自足を求めること以外にも、農民の労働意欲を刺激する要素は存在した(それは次第に多様化していく)。それは「農村外からの食料需要,工業品原料への需要」であった
 B.これには2つの要点がある。1つは「域外の需要に応えることが支配者の利益にかなう場合」に、それが農村住民の生活に相当なマイナス作用を及ぼすことがある(例:シチリア島は食料の潜在的生産能力が破滅寸前に達した)。もう1つは、食料需給が比較的緩和していた時代(14世紀半ば~15世紀半ば:人口減少の時期)において「都市工業での毛織物生産が、大青・茜などの染料植物の栽培を促す」→「季節移動式の牧羊が発展するのを促す」という波及効果があった
 C.市場経済へ参加した農家は、全体から見て少なかったようだ。というのは「最重要の食料(小麦・ワイン)は、主として領主・修道院など聖界施設・都市の地主によって売られていた」から、農民はむしろ、村や都市の市場へ「鶏,家畜,生鮮物と乾物,チーズ・牛乳,森の産物,小さな工芸品」などを提供していた

【季節移動式の羊飼いの1年】
1.「夏(おおむね5~9月)は山間の貧弱な小屋に潜んでいる」
2.「秋は最初の寒気が訪れる前に、羊の群れを連れて山を下ってもっと温暖な平野へと移った」
3.「山を下る際には、雌馬に日用品を積み、雄馬はまだ子供のように若い羊飼いに引かれていくことが多かった」
4.「羊飼いの生活を構成するもの:チーズ作り,雌羊と(特に)子羊の世話,剪毛,狼からの羊の保護(相棒は頑丈な鉄製の首輪をつけた大型の犬だった),川や道の熟知,羊を耕作地へ侵入させぬよう監視」
5.「遊牧生活は定住農民よりも、自然環境や異なる社会的現実に触れたので、心や知識を豊かにできた」

【家畜】
 D.定住農民によって飼育された家畜の数は全体的に少なかった。この原因は、トスカーナ地方やイタリア北部の多くの都市周辺では「公共用の未開地が私有化されて耕作地となり、そこでの放牧の自由が制限された」り、別の場所では「農村共同体に対する領主の優越権が、領主所有の家畜を優先させた」ことによる
 E.飼育された家畜は牛よりは「雌羊,豚,山羊」で占められていた。山羊は南ヨーロッパの乾燥地帯での、豚は中央ヨーロッパでの特性だった。しかし平野部(例:パルマ,レッジオ・エミリア,ピアチェンツァ)の、肥沃で湿気の多い牧草地で「本当の乳牛の飼育が行われた(中世後期~),生産されたチーズが有名になっていた」のだった
 ★豚の飼育は、冬に入る前の屠殺というイベントと密接に関係していた

【農作業以外の仕事】
 F.森で働く者の仕事は「木を伐採して、木炭を作ること」だったが、やがてこの2つの仕事は別々の専門業へと分化したようだ。仕事はもちろん冬季を避けた
 G.農民の生活は手作業が特色であり、農作業のみならず(特に冬の休閑期には)ちょっとした手仕事が行われ、これで籠・農機具が作られた。農家の婦人は「家族のために糸紡ぎ・織物に励んだ,(商業が発達した地方では)都市の毛織物商のために糸を紡いだ」
 H.家族全員が若い年頃から家計を助け、子供はよく「家畜を牧草地へ連れて行く仕事」を手伝った。もし土地の収益だけで核家族を維持できなくなれば「娘は子供の時から都市の家庭へ奉公で出される」「息子は職人の所で徒弟となり、仕事を覚える」「主婦も、裕福な市民の子供or聖界施設の捨て子の乳母となる」といった対策で埋め合わせした

【非日常のとき】
 I.農村生活は単調な反復であり、そこに社交の時間=「ミサへの参加,村の居酒屋通い,市場への参加,製粉所に行く,鍛冶屋に行く」が入ってくるだけだった
 ★居酒屋は一種の反教会的な存在(or“悪魔の教会堂”)であり、教区会議や説教師から度々糾弾されたものの、その効果はなかった
 ★鍛冶屋は中世後期になれば、全ての農村地帯で開業していた。農機具の種類は少ないが、鉄の利用は広く普及していた
 J.習慣的な時間に加えて特別な時間が、年間を通じて定期的にやってきた(例:宗教的な大祭,地域・教会の守護者のお祭り,婚礼)。こうした時には日常的な衣食の習慣が破られ「できるだけの(農村的な)贅沢さが披露される,大饗宴が催されて特別の酒盛りが開かれる」のだった。この時ばかりは、日常的な貧困とはおさらばであった


(7)農村社会と領主

【農民共同体と支配権】
 A.農民は「生まれた時から教会に登録される、小教区の構成員である」&「地域の農村共同体の構成員である」。農村社会は多様であった(時間的にも空間的にも)が、これに属することにより、ヨーロッパ全体の農民を互いに類似した存在とした。孤独の中で暮らす農民が居たものの、それは出身の農村共同体から完全に離脱はしていなかった
 ★しかし経済発展により、多くの周縁人=「流れ者,放浪者,乞食,盗賊,農村出身の犯罪者」は増加した
 B.農村共同体はあらゆる場所で、聖俗の領主権力(大きなものから小さなものまで)の権力に服していた。農民生活の社会的な部分は「共同体(or領主)との関係,領主と共同体との間の絆(or対立)」で成り立っていた。最上位の権力(王・諸侯)は、たいていは農民から遠くにあったものの、影響力・強制力は及んでいた
 C.農村という伝統的な世界でも、特に都市自治が発展したイタリアの諸地方では改革が行われ、その影響が農民の物質・精神両面での生活に及んだ。これらの地域では、農村での領主権力は相当減少し、代わって都市の支配下に入った。そして市民が地主として農村に進出し、農地を集めていった
 D.その他にもイタリア南部の地域では、王権の直轄地となって領主権力に直接服さないようになる。またヨーロッパには、アイスランドのように全く特殊な地域(ここの農村共同体に属した農民は、本当の意味での領主には服していなかった)が存在していた

【農民の直接負担】
 E.ある領主の所領内において、全ての農民が領主に対して、必ずしも同じ立場ではなかった。特に土地に関しては、ある農民たちが「年貢・賦役負担から完全に解放されている土地」を所有することもあった(これはあくまで例外)
 F.一般的には村では、1人~複数の領主に支配されているのはありきたりであった。村の土地は「領主の直営地,農民保有地(形式上or事実上の世襲財産だった),森林・未開地」の3つに分かれていた
 G.領主直営地の開発については「直営地に住む隷農や、日雇い農民の手による」or「保有農による賦役(時には農民は牛を連れてきた)」に頼っていた。しかし一般的には、賦役の日数は減少していく
[12世紀]
フランス・イタリアの一部の地域では、賦役は消滅する傾向にあった。一方でイングランドでは賦役の活用がますます活発になっている
[13世紀]
賦役の減少傾向は続くが、地域によっては完全には無くならない(例:イタリア南部の多くの領地)
 H.農民は賦役をまとめて清算するor減らしてもらうために、領主に現金を支払った上で現金地代or現物貢納を追加しなければならなかった(あるいは、1回限りの現金支払いと毎年の支払いの上乗せのどちらかで済む場合もあった)
 I.「家畜を養うための未開地の利用,薪・野生の木の実の採取」は、領主と農民との間の軋轢の種となった。領主は自己の家畜のために優先利用権を持つのみならず、それらの土地の一部を横領する傾向がしばしば見られた。さらに貴族の利益のために特に狩猟を制限したことによって、農民はますます自然の富の開発を奪われた
 ★しかし農民は領地内での釣り・狩りなどの権利(既得権)を維持しようとした

【領主と農民(経済権力】
 J.中世盛期から後期の「経済と社会の活性化,流動性の増加」によって、領主はその収益を増大させる方法を手に入れた。土地の価値は高まったが、開発された土地の所有権そのものが最大の収益をもたらしたのではなく、領主の領地経営手腕によって引き出せる利益の伸びしろが大きかったことによる
 K.黒死病以前の人口増加・土地不足の時代においては、領主の直営地は減少し農民の手によって経営される農地が増加した。これによって領主は「単なる貢納と地代の受取人」になっていくのだが、様々な独占権が領主の最大の収益源となる
 L.領主は「水域の利用・開発に関する独占権」を獲得した。地方によっては「村のパン焼き窯と居酒屋の独占権」も有した。また、領主は「水車小屋・織物縮絨機の設置権を持ち、使用料を得る・製粉の分け前を受け取る」ことができた(領主役人が直接運営するか、その管理権を他人に与えるかした)
 ⇒領主の独占権は、共同体との争いを招いた(例:領主は「全ての農民が家庭用の碾き臼を使って製粉することを禁止」し、領主の製粉所の使用を強制させた)

【領主と農民(司法面)】
 M.農民と領主との関係は、必ずしも「土地所有に基づく経済的な支配力」だけで成り立っているのではない。「土地開発に必要な労働力」=農民を確保するために、領主は軍事的・法的な面において、かなり大きな権力を有していた
 N.領主は少なくとも、下級裁判権に属する事柄に関して村民を裁くことができた。上級裁判権に関する問題については、ずっと上位の領主・君主に委ねることになっていたが、地域レベルでしか支配力を持たない領主が、上級裁判権を手に入れた場合も少なくない(下記の例1・2)。いずれにせよ、司法は領主にとって村民に対する権力であるのみならず、収入源にもなった
〈例1〉イタリアの中部・北部の多くの領主かの場合。原因は「皇帝(=上位の権力)から遠ざかっていた」「領地に対する都市の支配下がまだ決定的ではなかった」ことにある
〈例2〉イタリア南部(15世紀)では君主・貴族間での争いで、貴族に有利なように政治権力が移っていったため
 ★上級裁判権とは「民事としては人の身分および所有権に関する最重要事件を審理し、刑事では死刑を科せる流血裁判権」のこと。下級裁判権とは「さほど重要でない民事と刑事を審理する裁判権」のこと

【領主と農民(軍事面)】
 O.軍隊を動かせる“地域の軍事長官”としての領主は「自分の上級領主(=封主)に軍事的に仕えるため」だけでなく「他の領主との小競り合いで優位を確保するため」にも重要だった
 P.戦争が農民共同体に与える影響は「たとえ数日間であっても、共同体から成人男子を引き抜き」「村が攻撃されたならば被害を蒙る」だけではない。以下は未解明の事項:
 ☆農民がどの程度まで「領主の軍事機能に貢献していたか?」「戦争遂行の財政的協力をしたのか?」。さらに「兵役が地域の中でも特殊な住民集団に割り当てられたのか?」「住民のある者にとって、騎士の称号が与えられたのか?」といった問題もある
 Q.他方で、農民社会もまた「深い激情に駆られ、剣を振るい、個人同士の血みどろの乱闘・復讐を繰り返した」。特に(地理的に)周辺に存在する共同体=「最も厳しい自然と接触して暮らしている人々,国境近くにいる人々」(例:アペニン山脈北部の共同体)の場合がそうだった
 R.農民から見て領主は単なる迷惑者ではなく、領主の軍事的機能・軍人的職業意識は「農民の防衛・保護に役立つ」ことを認めていた。これによって農民は「家族・収穫・富・家畜を保護してもらう」ことを期待した
〈例〉既存の村落や小集落に防備を施す,城壁を巡らせた居住地を建設する(“インカステラメント”という:イタリア〔11~12世紀〕),何らかの事態が発生した際に誰か権力者に保護を求める
 S.こうした保護機能は、部分的には「大修道院の頑丈な防壁,貴族の孤立した城塞」、また町外れに住んでいる場合には「都市内に逃げ込むことで」も確保された
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[10]


○農民と農作業(13~15世紀)


(1)ヨーロッパでの農耕の多様性

 A.大半の農民は一次産業の生産者(小生産者)であったが、その様相は地域によってかなり違っている。農業技術が低いレベルだったので「地理的な環境(土壌・気候),人口密度,農地の開発度」といった要因は、農民の活動と生活に大きな影響を及ぼしていた

【地形から見た2つのヨーロッパ】
 B.農業開発が可能だった第1の地帯の「イタリア・スペインの大部分,フランドル通貨の東南地方,ギリシア,カルパティア山脈の手前のバルカン半島」である。この地帯は海抜500m以上に位置し、広大な山岳地域を含んでいる(例外:ポー河流域の平野とドナウ河流域)
 C.第2の地帯は「イギリス中部・フランス西海岸からウラル山脈・カフカス山脈の地域」まで広がる。この地帯は広大な低い平野が横たわり、標高も200mを越える場所は稀である

【自然要因】
 D.年間降水量の分布は、ヨーロッパ大平野(第2の地帯)の西部・中部では「かなり規則的」である。対して地中海沿岸地域(第1の地帯)では「きわめて不規則でとりわけ秋・春に集中する,時には夏の終わりに豪雨と洪水をもたらす場合がある」
 E.標高を見ると、第1の地帯の山岳部では「ある標高から上は農耕は不可能」である
 F.土壌は、ヨーロッパ中部・西部の高地の土は(ロシアの“黒土”と同じく)「地中海沿岸地方の土壌より肥沃」だった。その地中海沿岸地方は(潜在的にはきわめて生産性の高い平野もあるが)「中世ではまだ沼地であり、農耕活動はまだ行われていなかった」(例:ポー河流域平野の最も低い地域,キアーナ流域〔トスカーナ〕,マレンマ地域〔トスカーナ〕)

【人々の活動について】
 G.「農業の役割,森林・未開地,定住,半定住,季節移動的な牧畜活動」の重さは、地方によって様々だった
 H.ある地方での農業開発は排他的(よそ者抜き)orもっぱら国内からの入植だった。しかし他の地方での農地開発(=スラヴ地域へのドイツ人進出,スペインでのキリスト教徒によるレコンキスタ)には、政治的進展を伴っていた。また別の地方では「人の住んでいる地域から、さらに標高の高い無人の森林地帯へ」移動していった
〈例〉ノルウェーのフィヨルドの沿岸や、スウェーデン南部の平野からの移動
 I.農業生産活動は全ての土地において、必ずしも「都市住民の需要を満たせるよう努力する」とは限らなかった
 J.地方によっては異民族の農民が隣り合って生活していた(例:シチリア,スペイン,ドイツ化されたスラヴ地域)が、その影響は明らかではない


(2)総人口の推移と証拠

 A.緩慢な人口増加がピークに達した(14世紀初)が、黒死病(1347~50年)は急速に蔓延し(ただし人口減少の前兆はそれ以前から現れていた)、人口はピーク時の2/3にまで減少し(15世紀半ば)そこから緩やかに回復していく
 ★人口の絶対数:
  73,000,000人を越えない(ピーク時)
  50,000,000(15世紀半ば)

【地理的に分けて見る】
 B.南ヨーロッパ(ギリシア・バルカン半島・イタリア・イベリア半島)の人口:
  25,000,000人(1340年)
  19,000,000人(1450年)
 C.西欧・中欧(フランス・ベネルクス・イギリス諸島・ドイツ・スカンディナヴィア)の人口:
  35,500,000人(1340年)
  22,500,000人(1450年)
 D.これらの地域以外の人口は少なく、ロシア(全体で60,000,000人)・ポーランドとリトアニア(全体で20,000,000人を越えない)だった。しかしヨーロッパの人口が多い地域でも、地域ごとの差は大きい(下記の中でもスカンディナヴィア諸国は特に少ない)
〈例〉
・スペイン:
  9,000,000人(1340年)
  7,000,000人(1450年)
・イタリア:
  10,000,000人(1340年)
   7,500,000人(1450年)
・フランス+ベネルクス:
  19,000,000人(1340年)
  12,000,000人(1450年)
・ドイツ+スカンディナヴィア:
  11,500,000人(1340年)
   7,500,000人(1450年)
 E.人口密度は地方ごとにかなり違う(イル・ド・フランスの人口密集地→中欧→ノルウェー→アイスランドという順で低くなる)だけでなく、同じ地域内でも隣接地どうしでも「自然環境,農業開発の可能性」によって著しく違った

【自然との闘い】
 F.中世盛期における人口増加(10~11世紀)の間接的証拠は「都市人口と都市の絶対数の増加」「未開地(森林・沼地など)の減少」「開墾地の拡張」「農民の移住(単独でor農家が集団でor農村共同体全体で)の増加」がある。さらに、新しい土地への移住によって「教会堂が建てられ、村落が創設される」「家・家族が細分化される」のだった
 G.自然に対する人々の闘い(健気な個人的努力もあれば、領主・修道院・都市による事業もあった。都市の場合は特にポー河流域)がヨーロッパ中で行われた。開墾の証拠は多くの村の名に残されている
〈例〉フランス西部の“villeneuves”、同東部の“abergements”(特にブルゴーニュ地方)、同南西部の“bastides”、ドイツ語圏では人名や“-berg,-dorf,-feld,-rode,-reuth”という語尾を持つ地名
 H.水域・海・沼地に対する闘いはいっそう困難だった。その中でも最も重要なのは「フランドル地方とゼーラント地方の干拓地事業」がある。その他には「イギリス農民vs沼沢地」「ブルターニュとポアトゥでの海との闘い」「イタリア農民のポー河流域全体での活動」「内陸部での河川氾濫・沼地との闘い」があった

【人口変動】
 I.人口の減少した事業・地域では、辺境地で生産性の低い耕地が見捨てられ、村全体が消滅した。そうした場所では農業に代わって牧畜活動が現れた
 J.大きな人口変動はあったが、中世末期ヨーロッパは「強力な都市化が進んだ拠点(例:フランドル地方,トスカーナ中央・北部,パリ盆地)の出現」の一方で「依然として農村的世界のままであり、人口の9割は農村で暮らしていた」のだった


(3)農民が住む環境

 A.都市の市壁内にも、農業に関係する人(地主・賃金で雇われる農業労働者)は住んでいた。農業労働者は「あまり大きくなく、経済的にも遅れている都市」に集まっている場合が多い(例:中央イタリアの幾つかの都市)。反対に手工業・商業の大中心地(例:フィレンツェ,シエナ,ピサ,ヘント)では全く知られていない
 B.農村住民の大半は村に集まって生活していた(もちろん分散していたケースもある)が、村は城壁ではなく何らかの防護壁で守られていた。農民は朝になれば村を出て「近くの畑で作業をする,森で木の実を拾う,家畜を牧草地へ連れて行く,狩りをする,釣りをする」のだった
 C.農家の家族はたいていの場合、核家族or拡大した核家族=「1~3人の子供,祖父・祖母,親」からなり、多人数の家族は珍しかった。農家の生活は「耕地が広くなる,家畜(特に役畜)が多くなる」につれて、ますます豊かになった


(4)自然環境の相違と作物

 A.山岳地帯(ピレネー山脈・フランス中央高地・アルプス山脈・アペニン山脈・バルカン半島)では、平野部と比べて「穀物栽培地の比率が低い,森林で覆われ牧草地が広大である」ことは対称的だった
 B.もっと低い土地=沼沢地(マレンマ湿地帯・サルディーニャの1地方)はやはり人口が少ない
 C.上記A.B.以外のその他の地方(例:メセタ・シチリア内陸・ヨーロッパ中央の広大な地域)は、小麦・その他の穀物を豊かに産出した
 D.トスカーナの丘陵地帯やイタリア北・中部では「穀物・ブドウ・果樹の集約的な同時栽培」が定着した(中世後期)。しかし他の地方(特に地中海の環境下)では「灌木(低木)の単作」が定着した
〈例〉セビーリャ・プーリア・前アルプスのイタリア湖沼地帯・リグリアでのオリーブ栽培,コンカドーロ=“黄金の谷”(パレルモ)の果樹園(まだ柑橘類は多くない),カラブリア・カンパーニアの多くの村の周辺でのブドウ栽培
 E.ヴァランス・セビーリャ・パレルモの近くでは、灌漑法の進んでいたアラブ農業の痕跡が存在する
 F.気候がオリーブ栽培に適さない(ある緯度より北ではどうしても不可能)場合には、クルミの木の栽培が発達した。この木は「保存できる貴重な実をつける(一般的には干しイチジクがある),油が食用・灯油になる」というメリットがあった
 G.多くの農業的な景観には、季節的移動式の牧畜活動のためにバランスが破綻した痕跡が残った(例:プロヴァンス,メセタ,プーリア,トスカーナとラティウムのマレンマ湿地帯)