『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[13]
○都会人と都市生活
(1)人口と都市の文化について
A.産業革命以前のヨーロッパの都市網がほぼ完成した時代(1250年頃)における都市人口と都市の成長について:
1.「巨大都市パリで人口100,000人を越える程度、その他6大都市(ヘント以外はイタリアの都市)が50,000人を超えている」
2.「ヨーロッパ全体で人口10,000人を越える都市は60~70、千人単位の都市は数百が存在していた」
3.「都市の配置は不均衡であり、密度の高い成長地域では、全人口の3~4人に1人が都市住民だった。発達の遅れた地域では10人に1人だった」
4.「農村世界の大きな中心地=都市は、人間を材料のように際限なく消費していくものの、たちまち補充される」
5.「都市の勢いは人口増加以上であった:学校が建つ,托鉢修道会士が定着する,君主が都市を首都に定める,工芸が多様化する,市場経済が絶えず領域を広げる」
6.「都市には複雑な社会が発展した。この社会は領主制とその様式に適応する一方で、都市固有の階層を育てた」
【都市文化という共通項】
B.だが重要なのは、都会人が田舎人に対してより多くの値打ちを持つのではない、ということである。両者の間には文化的相違があるだけだった。都会人は「農村で知られていないような社会性(身分が違う人々どうしが普通にすれ違う),特殊な生き方,貨幣の日常的使用」が必要となり、人によってはより広い世界を理解しなければならない、というだけだった
C.文化の発展の程度だけが都市ごとに違うだけだった。どの都市でも様々な関係者(例:聖職者,商人,手工業者)全体によって動かされ、発展度合いの高い主要都市を手本として(人の交流を通じて)見習う。したがって各都市は全て縁者であった
D.初期に成長した都市(10~12世紀)の都会人と比べて、高い成長段階を達成した都市(15世紀)の都会人には「自らの生活様式(=都市文化)に自信が花開いていた」点が異なる。しかしどの時代でも、都会人は都市で生まれ育つよりも、若い頃に都市へ行くのが多かったことは変わりない
(2)都市世界への入り口(12世紀)
A.ある田舎人が都市で働き口を得て定住するつもりで都市の門をくぐったとする(1150年頃)。そこは彼にとってみれば「特権に守られた世界」であった。しかしそれはよく使われた法諺=“都市の空気は人を自由にする”ということではなかった
〈例〉リールは私生児・移住者を受け入れなかった。ボローニャとアッシジは非自由民に重税を課した(1200年頃)。どこであれ、都市領主は農奴を自由にするまで1年間こき使った
B.そもそも都市が持つ自由とは、君主からの特許状や法律で認められた特権などではない。それは「奪い取る,獲得する,取引する,同意させる,むしり取る」かして手に入れた権利・慣習の積み重ねだった。(自由を定めた)法に実効性を持たせるのは、共同体がそれを守らせる実力を持っているかにかかっていたが、都市には金・住民の数・団結力があった
〈例〉“自治都市”という言葉は、ピカルディ・フランドルではきわめてエモーショナルな力を持っていた(1200年頃)
C.市民(とりわけ商人)は、至る所で経済活動に必要な自由を獲得し、反対に抑圧的or侮辱的な慣例(領主支配の名残)はあちこちで相当減っていた(12世紀末)。都市での裁判権が領主に属していても、住民の主だった人々から託された裁判は判例を積み重ねて、個人とその財産に関する権利や条件を統一する傾向にあった
D.事業主たち(手工業の親方)は、事業を麻痺させるような形式主義から解放されていった。これによって「彼らは束縛なしに(作業場で)必要な職人を雇えた」だけでなく「度量衡・市場・定期市に関して」「雇用と仕事の規制について」定められた。さらに「盗難・不法監禁の犠牲になった市民のため」の効果的な介入もあった
E.上記のような集団的連帯による恩恵を受けられる、ということは、逆に市民権の獲得が難しかったことを推測させる。市民権を得るには「保証,認可,一定の滞在期間(おおむね1年以上),定職を持つ,不動産所有」といったことが必要だった
⇒市民になるのは簡単ではなく、大半の貧しい住民はそうした障壁(排他的な少数派=市民権取得者が築いた)を越えられなかった
F.市民権取得への高い障壁にもかかわらず、都市に住むことは何らかの期待を抱かせた(それゆえ、障壁の存在は実は重要ではなかった)。外から見た、都市居住のメリット:
1.「略奪者や軍人を寄せ付けない城壁に守られ、比較的安全に暮らせる」
2.「都市には蓄えや穀物を集荷する力がたるので、飢え死にしない」
3.「失業し悲惨な時でも生き延びられる希望がある。都市には配給があり、権力の慈善による残りかすを得られるから」
【都市の内外を二分する城壁】
G.西欧ではイングランドを除いて、どの都市にも城壁があり、それは「都市共同体or都市領主の事業」の象徴であって都市と融合していた。どの都市も城壁で閉ざされ、また拡大発展とともに更に増築していった(例:ヘントは5回・フィレンツェは3回増築した〔1150~1300年〕)。市民の誇りであるが当然、金食い虫である(例:ランス〔14世紀〕では100,000~150,000リーヴルを要した)
H.城壁は「(分担して壁と門を警備し安全を図る)住民を構造化する」「日常の時を刻む(日が暮れると門は閉ざされる)」「閉じ込めた住民を大事にする」「中にある景観に独自性を与える」ことによって、都市生活を¨封印¨していた
I.ただし、城壁によって都市の内外が完璧に仕切られるのではない。というのは「都市周辺の田舎は都会人の資本によって支配され、ブルジョワの邸宅も散在している」。さらに農民は都市の市場へ規則正しくやって来るが「市内にも少なからずいる耕作者と途中ですれ違い、城壁内で庭園・ブドウ畑を横切り、家禽類や豚(城壁の下で生まれ、太っている)を追い払う」のだった
(3)都市の中
【異なる土地利用形態】
1.「農業は大きな村よりも集約されて用いられる(※作物も違うはず)が、そもそも都市の主要産業ではない」
2.「都市の土地は周辺の田舎よりずっと地価が高い(例:ミラノ〔12世紀〕では36倍!)。ヘント・ジェノヴァ・ピサでの土地投資は、ブルジョワの富を表していた」
3.「都市内部での建築物の堆積は、特に地中海沿岸都市で高度に発達している」
〈例〉鐘楼の集中,大聖堂の巨大さ,貴族たちの城館・塔,中心部の高さを競う家並(パリ・フィレンツェ・ジェノヴァ・シエナでは5・6階建ての家も珍しくない)
4.「都市の内部は、くぼみ・内部分割・樹枝状にめぐらされた狭い道・中庭・路地のために、初めて訪れた者にとっては、奇妙で魅惑的な世界だった」
【住環境】
1.「貧しい人が都市に住むなら、まずは2・3人で『高い階上の部屋,窓の無いあばら屋,屋根裏部屋』で暮らすことになる」
2.「同様に、少し金があれば居酒屋に下宿するし、金持ちならばそこで1・2の部屋を取る」
3.「ただしいずれにしても『井戸・料理場はいつも他人と共同使用』だった」
4.「手工業者はもちろん自分の家に住み、そこには地下倉・屋根裏部屋があり、召使いや見習いも一緒に住んでいる」
5.「ほとんどの人は、身分も職業も様々な隣人に囲まれて生活することに慣れなければならない。その必要が無いのは、ごく少数の裕福な人だけである」
6.「都市の住民の3人に2人は、1年中(orその一部)を市場に頼ってパン・ワイン・おかずを買うことになる」
6.「時には井戸が汚染され、飲み水がなくなることもある。城壁内の生活の不便さとはそういうものだった」
7.「都市が包囲されたりして何年も封鎖された場合には、頻尿の中で暮らすことになる。溜まった汚物が汚染・疫病の温床となった」
8.「都市当局はレプラ患者を城壁の外に建てた施療院に隔離して、保険衛生を実行することもあった」
9.「しかしペストは気候条件が整えば、都市の中心部・工場の多い町外れを電撃的に襲うので、当局は効果的に戦えない」
10.「何ヶ月も何年も、包囲・戦争・ペスト流行が続いたならば、住民の精神は内向的となる。流言飛語に惑わされ、疫病のように不安に感染する。群集を襲う恐怖や閉鎖的強迫感が、動揺・パニック・集団的残忍性を生むことが多い」
11.「また群集は、和平の成立や王の逝去を知って、歓喜の声を上げたり悲痛な叫びを上げる」
【移民】
A.どんな都市文化でも、よそ者にとってまず必要なのは「都市の習慣と言葉,雑居での暮らし方」を学ぶことだった。都市の発展を促したのは、明らかに田舎からの移民だった
B.当初、周辺から都市を目指して行ったのは、裕福な人々であった(例:アミアン,マコン,トゥールース,フィレンツェ)。彼らは自由と地位の向上に惹かれて移り住んだ。フィレンツェ(13世紀初)では市内の「田園地区」に見られるのだが、しかし彼らのように都市で成功するのは少数派だった
C.しかし裕福な者と前後して、都市の発展に伴って貧しい人の移民が多くなった(12世紀~)。都市の職場には「村の余剰者,分家農家の子息,破産した農民(農地は都市市場の支配力によって牧場とされた:ピサ,ボーケール,サン・ジルの周辺)」たちが集まってきた
D.やがて都市の人口吸引範囲は、ますます離れた場所にある農村にまで及んだ(都市が活発であるほど広い)。中でも政治都市・商業都市・大学所在都市には、さらに遠くからの多数のよそ者が集まっていた。至る所で移住者の数が地元民を上回るようになる
〈例〉ピサの小教区の中には、移住者が全体の50~66%を占めている所があった(1260年頃)
E.移住地域の拡大・移住者の増加は人口の不均衡をもたらしたが、これは大災害の世紀(14世紀)によっていっそう激しくなった
〈例〉フィレンツェでは(ローヌ川流域の都市と同様に)、農村での労賃が都市に比べて下落したことにより、遠くからの貧しい移住者の集団(婦人も含む)が増え続けた(1450年頃)
F.しかし彼らは同化に関しては必ずしも大きな問題とはならなかった(問題となる度合いは数と出身地によって影響された)。小都市ならば発展していた時期であっても、到来者は同じ言語を話し類似した習慣を示したので、あまり問題なく対処できた
G.これが人口流入が1,000人を越えるよえな場所では事情が変わる(下記例のようになる)が、どの地方人も長い間「それぞれの出身地の特性を保持し、同郷のよしみ・結合・郷里との連絡」を維持していた
〈例〉アヴィニョン(1370年)では、同じ小教区内に西ヨーロッパ中の人々が隣り合っていた。ディジョンでは「フランシュ‐コンテ人,ピカルディ人,ブルゴーニュ人,ロレーヌ人」が並びあっていた
【移民への障壁】
H.都市社会の上層部(最も安定し豊かな少数者,行政者)にとって、新しい移住者は必要であると同時に危険な存在でもあった。事業主の中でも、食料販売者にとっては問題なかったのだが、手工業者だと「少しでも景気が悪くなれば、古い敵意が燃え出して移住者とそうでない者との隔たりが大きくなりがち」だった。金は同化を容易にしたものの、全ての問題を解決できはしなかった
I.たとえ同じ生活水準であっても、移住者は「知人関係,職業の受け入れ,政治参加の可能性」に恵まれなかった。これは元からの市民たちが政治を抑えており、移住者に対して法的障壁や目に見えない壁を多く築いたためだった
〈例〉かのダンテも、フィレンツェの道徳低下を招いたのは「貪欲な移住者の臭気,人々の混ざり合い」だと主張した。そうした非難をした知識人は数多い
○都会人と都市生活
(1)人口と都市の文化について
A.産業革命以前のヨーロッパの都市網がほぼ完成した時代(1250年頃)における都市人口と都市の成長について:
1.「巨大都市パリで人口100,000人を越える程度、その他6大都市(ヘント以外はイタリアの都市)が50,000人を超えている」
2.「ヨーロッパ全体で人口10,000人を越える都市は60~70、千人単位の都市は数百が存在していた」
3.「都市の配置は不均衡であり、密度の高い成長地域では、全人口の3~4人に1人が都市住民だった。発達の遅れた地域では10人に1人だった」
4.「農村世界の大きな中心地=都市は、人間を材料のように際限なく消費していくものの、たちまち補充される」
5.「都市の勢いは人口増加以上であった:学校が建つ,托鉢修道会士が定着する,君主が都市を首都に定める,工芸が多様化する,市場経済が絶えず領域を広げる」
6.「都市には複雑な社会が発展した。この社会は領主制とその様式に適応する一方で、都市固有の階層を育てた」
【都市文化という共通項】
B.だが重要なのは、都会人が田舎人に対してより多くの値打ちを持つのではない、ということである。両者の間には文化的相違があるだけだった。都会人は「農村で知られていないような社会性(身分が違う人々どうしが普通にすれ違う),特殊な生き方,貨幣の日常的使用」が必要となり、人によってはより広い世界を理解しなければならない、というだけだった
C.文化の発展の程度だけが都市ごとに違うだけだった。どの都市でも様々な関係者(例:聖職者,商人,手工業者)全体によって動かされ、発展度合いの高い主要都市を手本として(人の交流を通じて)見習う。したがって各都市は全て縁者であった
D.初期に成長した都市(10~12世紀)の都会人と比べて、高い成長段階を達成した都市(15世紀)の都会人には「自らの生活様式(=都市文化)に自信が花開いていた」点が異なる。しかしどの時代でも、都会人は都市で生まれ育つよりも、若い頃に都市へ行くのが多かったことは変わりない
(2)都市世界への入り口(12世紀)
A.ある田舎人が都市で働き口を得て定住するつもりで都市の門をくぐったとする(1150年頃)。そこは彼にとってみれば「特権に守られた世界」であった。しかしそれはよく使われた法諺=“都市の空気は人を自由にする”ということではなかった
〈例〉リールは私生児・移住者を受け入れなかった。ボローニャとアッシジは非自由民に重税を課した(1200年頃)。どこであれ、都市領主は農奴を自由にするまで1年間こき使った
B.そもそも都市が持つ自由とは、君主からの特許状や法律で認められた特権などではない。それは「奪い取る,獲得する,取引する,同意させる,むしり取る」かして手に入れた権利・慣習の積み重ねだった。(自由を定めた)法に実効性を持たせるのは、共同体がそれを守らせる実力を持っているかにかかっていたが、都市には金・住民の数・団結力があった
〈例〉“自治都市”という言葉は、ピカルディ・フランドルではきわめてエモーショナルな力を持っていた(1200年頃)
C.市民(とりわけ商人)は、至る所で経済活動に必要な自由を獲得し、反対に抑圧的or侮辱的な慣例(領主支配の名残)はあちこちで相当減っていた(12世紀末)。都市での裁判権が領主に属していても、住民の主だった人々から託された裁判は判例を積み重ねて、個人とその財産に関する権利や条件を統一する傾向にあった
D.事業主たち(手工業の親方)は、事業を麻痺させるような形式主義から解放されていった。これによって「彼らは束縛なしに(作業場で)必要な職人を雇えた」だけでなく「度量衡・市場・定期市に関して」「雇用と仕事の規制について」定められた。さらに「盗難・不法監禁の犠牲になった市民のため」の効果的な介入もあった
E.上記のような集団的連帯による恩恵を受けられる、ということは、逆に市民権の獲得が難しかったことを推測させる。市民権を得るには「保証,認可,一定の滞在期間(おおむね1年以上),定職を持つ,不動産所有」といったことが必要だった
⇒市民になるのは簡単ではなく、大半の貧しい住民はそうした障壁(排他的な少数派=市民権取得者が築いた)を越えられなかった
F.市民権取得への高い障壁にもかかわらず、都市に住むことは何らかの期待を抱かせた(それゆえ、障壁の存在は実は重要ではなかった)。外から見た、都市居住のメリット:
1.「略奪者や軍人を寄せ付けない城壁に守られ、比較的安全に暮らせる」
2.「都市には蓄えや穀物を集荷する力がたるので、飢え死にしない」
3.「失業し悲惨な時でも生き延びられる希望がある。都市には配給があり、権力の慈善による残りかすを得られるから」
【都市の内外を二分する城壁】
G.西欧ではイングランドを除いて、どの都市にも城壁があり、それは「都市共同体or都市領主の事業」の象徴であって都市と融合していた。どの都市も城壁で閉ざされ、また拡大発展とともに更に増築していった(例:ヘントは5回・フィレンツェは3回増築した〔1150~1300年〕)。市民の誇りであるが当然、金食い虫である(例:ランス〔14世紀〕では100,000~150,000リーヴルを要した)
H.城壁は「(分担して壁と門を警備し安全を図る)住民を構造化する」「日常の時を刻む(日が暮れると門は閉ざされる)」「閉じ込めた住民を大事にする」「中にある景観に独自性を与える」ことによって、都市生活を¨封印¨していた
I.ただし、城壁によって都市の内外が完璧に仕切られるのではない。というのは「都市周辺の田舎は都会人の資本によって支配され、ブルジョワの邸宅も散在している」。さらに農民は都市の市場へ規則正しくやって来るが「市内にも少なからずいる耕作者と途中ですれ違い、城壁内で庭園・ブドウ畑を横切り、家禽類や豚(城壁の下で生まれ、太っている)を追い払う」のだった
(3)都市の中
【異なる土地利用形態】
1.「農業は大きな村よりも集約されて用いられる(※作物も違うはず)が、そもそも都市の主要産業ではない」
2.「都市の土地は周辺の田舎よりずっと地価が高い(例:ミラノ〔12世紀〕では36倍!)。ヘント・ジェノヴァ・ピサでの土地投資は、ブルジョワの富を表していた」
3.「都市内部での建築物の堆積は、特に地中海沿岸都市で高度に発達している」
〈例〉鐘楼の集中,大聖堂の巨大さ,貴族たちの城館・塔,中心部の高さを競う家並(パリ・フィレンツェ・ジェノヴァ・シエナでは5・6階建ての家も珍しくない)
4.「都市の内部は、くぼみ・内部分割・樹枝状にめぐらされた狭い道・中庭・路地のために、初めて訪れた者にとっては、奇妙で魅惑的な世界だった」
【住環境】
1.「貧しい人が都市に住むなら、まずは2・3人で『高い階上の部屋,窓の無いあばら屋,屋根裏部屋』で暮らすことになる」
2.「同様に、少し金があれば居酒屋に下宿するし、金持ちならばそこで1・2の部屋を取る」
3.「ただしいずれにしても『井戸・料理場はいつも他人と共同使用』だった」
4.「手工業者はもちろん自分の家に住み、そこには地下倉・屋根裏部屋があり、召使いや見習いも一緒に住んでいる」
5.「ほとんどの人は、身分も職業も様々な隣人に囲まれて生活することに慣れなければならない。その必要が無いのは、ごく少数の裕福な人だけである」
6.「都市の住民の3人に2人は、1年中(orその一部)を市場に頼ってパン・ワイン・おかずを買うことになる」
6.「時には井戸が汚染され、飲み水がなくなることもある。城壁内の生活の不便さとはそういうものだった」
7.「都市が包囲されたりして何年も封鎖された場合には、頻尿の中で暮らすことになる。溜まった汚物が汚染・疫病の温床となった」
8.「都市当局はレプラ患者を城壁の外に建てた施療院に隔離して、保険衛生を実行することもあった」
9.「しかしペストは気候条件が整えば、都市の中心部・工場の多い町外れを電撃的に襲うので、当局は効果的に戦えない」
10.「何ヶ月も何年も、包囲・戦争・ペスト流行が続いたならば、住民の精神は内向的となる。流言飛語に惑わされ、疫病のように不安に感染する。群集を襲う恐怖や閉鎖的強迫感が、動揺・パニック・集団的残忍性を生むことが多い」
11.「また群集は、和平の成立や王の逝去を知って、歓喜の声を上げたり悲痛な叫びを上げる」
【移民】
A.どんな都市文化でも、よそ者にとってまず必要なのは「都市の習慣と言葉,雑居での暮らし方」を学ぶことだった。都市の発展を促したのは、明らかに田舎からの移民だった
B.当初、周辺から都市を目指して行ったのは、裕福な人々であった(例:アミアン,マコン,トゥールース,フィレンツェ)。彼らは自由と地位の向上に惹かれて移り住んだ。フィレンツェ(13世紀初)では市内の「田園地区」に見られるのだが、しかし彼らのように都市で成功するのは少数派だった
C.しかし裕福な者と前後して、都市の発展に伴って貧しい人の移民が多くなった(12世紀~)。都市の職場には「村の余剰者,分家農家の子息,破産した農民(農地は都市市場の支配力によって牧場とされた:ピサ,ボーケール,サン・ジルの周辺)」たちが集まってきた
D.やがて都市の人口吸引範囲は、ますます離れた場所にある農村にまで及んだ(都市が活発であるほど広い)。中でも政治都市・商業都市・大学所在都市には、さらに遠くからの多数のよそ者が集まっていた。至る所で移住者の数が地元民を上回るようになる
〈例〉ピサの小教区の中には、移住者が全体の50~66%を占めている所があった(1260年頃)
E.移住地域の拡大・移住者の増加は人口の不均衡をもたらしたが、これは大災害の世紀(14世紀)によっていっそう激しくなった
〈例〉フィレンツェでは(ローヌ川流域の都市と同様に)、農村での労賃が都市に比べて下落したことにより、遠くからの貧しい移住者の集団(婦人も含む)が増え続けた(1450年頃)
F.しかし彼らは同化に関しては必ずしも大きな問題とはならなかった(問題となる度合いは数と出身地によって影響された)。小都市ならば発展していた時期であっても、到来者は同じ言語を話し類似した習慣を示したので、あまり問題なく対処できた
G.これが人口流入が1,000人を越えるよえな場所では事情が変わる(下記例のようになる)が、どの地方人も長い間「それぞれの出身地の特性を保持し、同郷のよしみ・結合・郷里との連絡」を維持していた
〈例〉アヴィニョン(1370年)では、同じ小教区内に西ヨーロッパ中の人々が隣り合っていた。ディジョンでは「フランシュ‐コンテ人,ピカルディ人,ブルゴーニュ人,ロレーヌ人」が並びあっていた
【移民への障壁】
H.都市社会の上層部(最も安定し豊かな少数者,行政者)にとって、新しい移住者は必要であると同時に危険な存在でもあった。事業主の中でも、食料販売者にとっては問題なかったのだが、手工業者だと「少しでも景気が悪くなれば、古い敵意が燃え出して移住者とそうでない者との隔たりが大きくなりがち」だった。金は同化を容易にしたものの、全ての問題を解決できはしなかった
I.たとえ同じ生活水準であっても、移住者は「知人関係,職業の受け入れ,政治参加の可能性」に恵まれなかった。これは元からの市民たちが政治を抑えており、移住者に対して法的障壁や目に見えない壁を多く築いたためだった
〈例〉かのダンテも、フィレンツェの道徳低下を招いたのは「貪欲な移住者の臭気,人々の混ざり合い」だと主張した。そうした非難をした知識人は数多い