『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[9]
(9)馬上試合を巡る価値観
A.騎士・トルバドゥール・号令者・遍歴詩人らは「馬上試合の意義が勇気・忠誠心の養成にある」として賛美し、さらに「キリスト教的価値の鏡」と見なして「十字軍の訓練,海外遠征のために一致団結するチャンス」として示そうとした。実際、試合の進行中or終わってから、多くの騎士は「異教徒に対する戦争へ出発する」という誓いを立てている
B.ところで教会は長い間、馬上試合に対して冷淡だった(教皇インノケンティウス2世による弾劾:1130年)のだが、ちょうどその頃に馬上試合は西洋・十字軍国家・(さらには)ビザンティン・イスラム世界にいたるまで爆発的に流行していた
C.ラテラノ公会議(1139年)では「馬上試合中に死亡した者は聖所に葬られる権利を奪われた」はずだったのだが、騎士修道会(教皇直轄以外は広い自治権を有していた)は試合中での死者を所属する墓地で引き受けた。加えて「説教師,神学論・道徳論の作者,聖者伝の作者」はこぞって馬上試合を非難した
【女性と馬上試合】
D.馬上試合で身に付けられる“愛のしるし”(婦人に気に入られようとして、試合に際して婦人のリボン・ベール・袖を付け、それが兜の羽飾り・旗の代わりになる)は、戦闘競技に参加する騎士の特徴となるしるしだった(その他:盾に描かれた家紋,上着,装飾馬具)
E.年代記作者は馬上試合によって生じる、癒しがたい恨みを語ることが多く、また試合そのものが復讐の口実であったとも伝える。その動機は愛のライバル関係が最もありふれていたようだ
★「拘束的贈り物」のメカニズム:
婦人は主人公に対して、特定しないで贈り物をねだる。相手が承諾すると、彼女はその内容を打ち明けるのだが、それは決まって難しい試練である、というもの
〈例〉婦人は騎士に向かって「試合のとき重い護身具の代わりに彼女の下着だけを着て戦う」ように言いつける。それが叶えられたら、彼女はこの一騎打ちの後の饗宴において「その騎士の血に染まった自分の下着をつけて現れる」ことにより、騎士道的献身のお返しをする
【騎士の人生】
F.馬上試合が広く文化に浸透していたのは間違いない。「a.騎士の一騎打ちの模倣・パロディは無数に存在した」「b.最も有名な“馬上試合賞金稼ぎ”のギヨーム(イングランドのヘンリ3世の摂政にまでなった)は例外としても、馬上試合によって新人騎士たちは立身出世し、結婚していった」という
G.騎士はひとたび叙任されると永久に騎士である。この点は聖職者に少し似ているが、騎士の叙任式は秘蹟のような「刻印」は必要ではない点が決定的に異なる。ところが、叙任式をもっと荘厳に執り行って秘蹟に近づくようにする場合もあった。加えて、騎士が「神に,領主に,王に,婦人に」献身的に使える“世俗的な聖職者”だと主張する理論家も多く存在した
H.しかし騎士として活動する期間は短かった(新人集団の時期=馬上試合に参加しまくる冒険の時期、と一致していた)。というのも、もし好機に恵まれて有利な結婚ができるなら、立派な戦士ですら喜んで剣帯・剣・金の拍車を壁に掛け(儀式の時くらいは取り出すかも知れないが)、結婚で獲得した財産を管理する道へと切り替えるのだった
【馬上試合の進化】
I.教会からの激しい弾劾と君主の勅令は、馬上試合を止めさせることはなかったものの、少なくとも試合の危険性・激烈さを減らすには役立った
1.「各種の勅令によって、騎士の一騎打ちの間に反感・復讐が発生したり表に出るのを防止しようとした」
2.「実戦用の武器の使用に制限を加え、代わりに試合時には娯楽用の武器(宮廷風の武器)仕様とした」
〈例〉剣は刃が切れないよう加工された。槍の先には「冠状or玉or逆さの盃のようなもの、を付ける」もしくは「丁寧に包み込む」かして、突いても槍先が相手を傷つけずに、相手の盾を壊すこともないように工夫された
3.「とりわけ不祥事の可能性が減ったのは、混戦に代わって組ごとに対抗する選手の一騎打ちへ、徐々に代わっていったことだった」
★重装備化が進んだことは確かに防御力を高める一方で、落馬によるダメージを大きくするマイナス面もある
J.馬上試合は貴族階級の大切なつき合いであった。またあまり危険ではなくなり、戦闘のシミュレーションとして競技会・見せ物としての役割を果たすようになった。加えて騎士の側も、馬上試合が信仰と一致していることをことさらに強調するようになっていった
K.「競技はまず十字架を強調するようになり、宗教的セレモニーから始まるようになった」ことから、一般に聖職者が、教会の禁止令をそれほど重視していなかったことがわかる。また以前の反対論者は「馬上試合には悪魔がやって来ている」と強調していたのが、今や「聖母マリアが試合の場所に現れる」といった伝説まで創作されるようになっていた。こうして、教会としても禁止を続けるわけにはいかなくなり、最終的に教皇ヨハネス22世は馬上試合禁止令を解除した(1316年)
【馬上試合の派生文化】
L.馬上試合の盛んな時期の間に「韻文で書かれた真実の報告,それを専門として書く詩人,号令者(競技審判:競技規則と参加者のしるしに通じた専門家であった)」、これらがひとまとめになった特殊な文学が出現していた
〈例〉ジョヴァンシーで開催(1258年)とされた祭典を祝して書かれた『ジョヴァンシー馬上試合』という文書から。祭典のうち丸2日が一騎打ちに当てられ、次いで1日が馬上試合大会に当てられていた。中身は「解説,試合,紋章の色や形の詳細な目録」だった
M.さらに馬上試合を道徳的に正当化しようとするアレゴリー文学も現れた(戦士に対して同じことを試みるのは、十字軍に関して先行して行われている)。ロマネスク建築の正面や柱頭に「美徳と悪徳の戦い」がアレゴリー風に表現されている(例:戦士同士の対戦,騎士と怪物の戦い)が、文学においても同様だった
〈例〉『反キリストの騎馬試合』:
キリストは盾に鮮紅色の十字架を付け、聖母に貰ったリボンを着けている。キリストはサタンと決闘をするが、サタンの目印はプロセルピナのチュニカの裾だった(プロセルピナはローマ神話に登場する女神だが、キリスト教では女悪魔の女王と見なされていた)。キリストの傍では大天使たちが戦っているが、大天使は「勇猛,寛大,献身,温厚」(いずれも騎士の美徳)である。戦いの場に援軍として降りてくるのは「円卓の騎士」たちである
N.この種のアレゴリーは単なる象徴に止まらず、時には馬上試合における見せ物としても表現されている
〈例1〉キプロス(1223年)において、ベイルートの男爵であるイブラン家の若い領主の叙任式典に際して、アーサー王物語の登場人物に扮した騎士たちの馬上試合が行われた光景がある作品で描かれている
〈例2〉騎士ウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタインは2度にわたるヨーロッパ一周の旅(1227年,1240年)で有名だった。最初の旅ではヴィーナスの衣装を身に着け、次いでアーサー王に扮して、城から城へ、町から町を訪ね歩き、馬上試合を申し込まれると相手構わず応戦する
〈例3〉ボローニャ(1490年)では騎士が2つの集団に分かれ、一方は「英知」を標榜して青い衣装をつけ、他方は「幸運」を示す緑色の衣装をつけて戦った
O.特に「演劇的な見せ物と馬上試合の結合した」ものが行われていた(百年戦争時代のフランス,フェラーラの騎士団〔16世紀〕)。舞台設定として「攻防戦を行う城,防御用の塔,橋,泉,幽閉から救出される姫」などを想定し、その場面に適当な扮装をした騎士の間で試合が展開されたのであった。この時期(13~15世紀)には「町で一般人が見物をするもの」として開催していた
★その他の設定・構成としては「鳥の喧嘩,聖職者vs騎士の試合,修道士vs修道女の試合」などが語られている。民俗領域では「冬の終わりを告げるカーニバルvs四旬節の試合」が有名であった
P.観衆は上記の騎士たちによる見せ物を「多くの滑稽なパロディ風の試合(市民・ならず者・社会的周縁人らによって演じられていた)」と同様に評価していた。こうした現実は、中世盛期から後期にかけて騎士文化が「軍事的・社会的な価値を失っていった」事実の一端でもあった
(10)騎士団
A.騎士団の権威(そこに所属することが叙任式によって認められた)は徐々に社会・文化において重視され始め、騎士はそれまでの「首領の周りに集まる武装集団の自由で友誼関係によるもの」から「封建制における制度としての集まり」へと変化していった(中世盛期)
B.この過程で君主たちは、仲間同士による叙任の仕組みを抑制し、剣帯を授与された者を入団させるのを制限しようとした。このような「閉鎖」措置は、最初にはイングランドとノルマン朝シチリア、さらにドイツ・シュヴァーベン地方で発生した(12世紀)。その中身は「家族のうち(or直系の祖先のうち)に騎士がいなければ、騎士の剣帯と拍車を受ける権利がない」というものだった(騎士の世襲化)
C.実際のところ、義務の方が騎士となるには重荷となった。それは叙任式が「沐浴,騎士徹宵」といった儀式に加えて「贈り物(とくに装束),参加者全員に振る舞わねばならない饗宴」があり、新任の騎士には経済的に耐え難いほど金がかかったからだった。こうした義務から除外されるのは「戦闘の前日や翌日」「君主がどこかを通過する」というようなチャンスを掴んだ場合だけだった
D.こうした重荷のために(特にイングランドにおいて)、たとえ有資格者であっても騎士になるのを避けて「準騎士=騎士志願者,郷士」に留まった者が多かった(13世紀)。彼らは「a.騎士に次ぐ身分である」「b.いつかは金の拍車を狙っているものの、身分による義務を避けようとして生涯志願者でいる方を選んだ」のだった。イングランドでは「c.彼らは下級貴族の典型的な代表」であった
E.こうした変化の間に「騎士団」の地域的・国民的な特色に差が現れた(13~14世紀の経済・社会変動期において)。フランスでは制限にとらわれることなく、低い身分の者を騎士の地位につけ、紋章(=貴族身分に相応しい基本的な証明書)を選べる許可を与えた
F.イタリアでは騎士の権威が各都市政府から認められていなかったにもかかわらず、北部・中部では「新興商人たちの野心の標的」となった(彼らは土地や城に投資し、フランスやドイツの貴族の生活様式を真似し、さらに「庶民の騎士」として武装した)。またフィレンツェ(1378年:チオンピ一揆)では、梳毛工(羊毛の下級職人)までが尊大に騎士を真似していた。ただし騎士の位そのものは、何らかの高位職(例:他都市の行政長官,隊長)を目指す者にとっては必要な資格だった
G.しかし時代が下るとともに、騎士の称号の価値は低下し「騎士としての権威を有する者」を指すには不十分となっていく(騎馬試合は騎士の権威とは無関係に行われるようになったことが影響している)。単なる騎士と「金の拍車を付けた騎士」というように区別することが必要になった
H.騎士としての権威を正当に有する者は「都市において,領主として,傭兵を主力とする軍隊の構成において」高い報酬を受ける権利があった(当然、権利の濫用も多かった)
(11)中央集権化と騎士
A.中世後期においてもなお、騎士団は軍隊の中枢と見なされていた。上級貴族として「バナレット騎士(旗騎士:旗は領地管轄権の象徴であり、供の者を従えていた)」が、下級貴族として「バシュリエ」が存在していた。両者の格差はその後拡大していき、騎士は徐々に低い階層を形成するようになる
[例外:素性が卑しい場合,貴族でなくても国王のひいきによって騎士身分に取り立ててもらった者]
B.騎士階級の危機は、権力・権威の基盤が中央集権化されていく傾向により生じていた。また銀行家・商人・起業家たちが新たに騎士になるのは「騎士の華麗さ(そこから得られる市民としての優越性),騎士の紋章」といったものを求めるためでしかなかった
【騎士の落ちぶれ】
C.フランスではバシュリエ騎士(=わずか1人の戦士に武装させるのがやっと、という程度の封地所有者)は、百年戦争の間はそれなりのやり方で働き口を見つけた
D.ドイツでは、不自由身分の騎士(ミニステリアーレ)は常に高級貴族とはっきり差別されており、時には本当に貧しい土地で生計を立て、公認の馬上試合に参加するのが慰めであった。しかし困窮と負債に押し潰されることがあまりにも多く、彼らは略奪者に転じ、商人たちを襲った。対して商人たちも「懲罰隊を編成して城に攻め込む」or「貧困に苦しみ、見捨てられるほど落ちぶれた貧乏騎士を雇う」かして対抗した。このように、絶望的にもかかわらず傲慢な騎士は戦うことしか知らなかったから、傭兵に加わる(傭兵隊は商業的組織だった)ことが多かった
E.スペインの騎士たちは、剣で生きることを唯一の生き甲斐だと信じて、どうにか裕福になれる道である農民への転身を拒んだ(この点が他のヨーロッパ諸地方と異なる)。イベリア半島での戦争が終わった時、彼ら貴族出身者には「カルロス1世(ハプスブルク家のカール5世)自慢の歩兵隊に身を寄せる」or「新大陸に向けて騎士的冒険を試みる」しか生き残る道は残っていなかった
【近世の幕開けと騎士団】
F.騎士文学の世界とはことなり、実際の騎士団(中世後期)は「売買可能な虚飾」「社会における昇格の手段」「身分を自慢しても貧困なため、絶えず体裁を繕うための手段を漁っている戦士の寄せ集め」でしかなかった。しかし近世に入ってこれとは異なるトレンドも生じた
〈例〉ポーランドの小貴族(=領主階級〔シュラハタ〕)は「この国の恒常的な不安定状態(=戦士が必要)」と「西洋での物価変動(=彼らのもつ土地価格が高騰した)」により、社会的に持続可能となった
G.中央集権化されたヨーロッパ諸国の君主たちは、騎士社会の危機に面して再編成を行った:
1.「下級貴族から(時と場所によっては上級貴族から)騎士としての権力と法的特権を奪おうとした。これは緩やかな過程であり、停滞することも時には逆行することもあった」
2.「他方で貴族階級を手懐ける目的で、貴族のために多くの『宮廷序列』を設けた。これはかつての騎士修道会や騎士道文学(典型例:『円卓の騎士』)を真似て、豪華な儀式・華麗な紋章・贅沢な装束を導入した。もちろんこれらは宮廷用以外には何の意味もない」
3.「精神性においては、キリスト教信仰と婦人への奉仕(後者は世俗的騎士の一般“神話”という位置付けである)を、国王への忠誠心に結び付けていた」
(最後の点において、王朝の周りに集められなかった貴族の存在が1つの圧力となり、君主制の強化に役割を果たした)
(12)軍事技術の進化に取り残される騎士
A.まず第一波として「クロスボウ(弩)」の登場があった(12世紀)。この兵器ははステップから到来したらしく、破壊力ゆえに教会から使用禁止とされた。さらにイギリスの長弓も効果が抜群だった。こうした投射兵器に対して、騎士はかなり装備を重くして対抗するしかなかった-鎖帷子の要所要所(脛・胸・背中・手首・膝など)に鉄製のプレートを着けた-
B.護身具の補強によって盾の必要性が減少した(騎士は正面への攻撃において、脇下と右腕の間に重い槍を抱え、左手で馬を操らねばならないので、盾は邪魔になった)。盾は消えゆく運命にあったが、しかし紋章の台として重要だった。そこで「大きなアーモンド形(11~12世紀)」をしていたのが「もっと小型の三角形(13世紀)」へと変わった。見た目に美しく飾り付けられたものの、野外や馬上試合では全く採用されなくなった
C.やがて装備は完全に金属製となる(15世紀)。騎士は頭の上から足の先まで鋼鉄に包まれ、投射兵器に当たっても倒れなかった。ところが包囲されて横倒しにされたらもうおしまいであり、さらにこのような状況はクールトレ(1302年)以来よく発生した(この時には市民の兵が騎士をひどい目に遭わせた)
【騎士団敗北の時代(14世紀)】
1.「時にはクレシーで見られたように、騎士は『馬から下り、突撃用の槍の後部を折り、敵に対して重装歩兵のように防戦しなければならない』ようになる」
2.「防具の重さによって、長い時間馬上にいることはできなくなり、馬の品種も『頑強で耐久力はあるが、早く走れないもの』を選ばねばならなくなった」
3.「馬のスピードの低下は、以前よりも長い時間にわたって騎士を敵の射程下に晒すことになった。そこでやむを得ず突撃の時間を短縮するために、敵と接触するまでの距離を短縮しなければならなかった」
4.「ところが正面に弓・弩の射手が並び、それを長方形の大きい盾で守っている敵には攻撃は無駄だった(惨敗することもあった)」
5.「疾走する騎士が市民の歩兵・(後には)傭兵の長槍が構成する戦列の前で止まろうとしても同じだった。スイス人傭兵と南ドイツの傭兵は、いずれも方陣による槍兵の密集部隊となって攻撃を仕掛けることで有名だった」
6.「騎士団には華麗さ・馬上試合・一騎打ちの挑戦しか残らなかった。火器の発達は、馬上で戦う騎士たちの軍事的機能に対してとどめの一撃を加えた」
(9)馬上試合を巡る価値観
A.騎士・トルバドゥール・号令者・遍歴詩人らは「馬上試合の意義が勇気・忠誠心の養成にある」として賛美し、さらに「キリスト教的価値の鏡」と見なして「十字軍の訓練,海外遠征のために一致団結するチャンス」として示そうとした。実際、試合の進行中or終わってから、多くの騎士は「異教徒に対する戦争へ出発する」という誓いを立てている
B.ところで教会は長い間、馬上試合に対して冷淡だった(教皇インノケンティウス2世による弾劾:1130年)のだが、ちょうどその頃に馬上試合は西洋・十字軍国家・(さらには)ビザンティン・イスラム世界にいたるまで爆発的に流行していた
C.ラテラノ公会議(1139年)では「馬上試合中に死亡した者は聖所に葬られる権利を奪われた」はずだったのだが、騎士修道会(教皇直轄以外は広い自治権を有していた)は試合中での死者を所属する墓地で引き受けた。加えて「説教師,神学論・道徳論の作者,聖者伝の作者」はこぞって馬上試合を非難した
【女性と馬上試合】
D.馬上試合で身に付けられる“愛のしるし”(婦人に気に入られようとして、試合に際して婦人のリボン・ベール・袖を付け、それが兜の羽飾り・旗の代わりになる)は、戦闘競技に参加する騎士の特徴となるしるしだった(その他:盾に描かれた家紋,上着,装飾馬具)
E.年代記作者は馬上試合によって生じる、癒しがたい恨みを語ることが多く、また試合そのものが復讐の口実であったとも伝える。その動機は愛のライバル関係が最もありふれていたようだ
★「拘束的贈り物」のメカニズム:
婦人は主人公に対して、特定しないで贈り物をねだる。相手が承諾すると、彼女はその内容を打ち明けるのだが、それは決まって難しい試練である、というもの
〈例〉婦人は騎士に向かって「試合のとき重い護身具の代わりに彼女の下着だけを着て戦う」ように言いつける。それが叶えられたら、彼女はこの一騎打ちの後の饗宴において「その騎士の血に染まった自分の下着をつけて現れる」ことにより、騎士道的献身のお返しをする
【騎士の人生】
F.馬上試合が広く文化に浸透していたのは間違いない。「a.騎士の一騎打ちの模倣・パロディは無数に存在した」「b.最も有名な“馬上試合賞金稼ぎ”のギヨーム(イングランドのヘンリ3世の摂政にまでなった)は例外としても、馬上試合によって新人騎士たちは立身出世し、結婚していった」という
G.騎士はひとたび叙任されると永久に騎士である。この点は聖職者に少し似ているが、騎士の叙任式は秘蹟のような「刻印」は必要ではない点が決定的に異なる。ところが、叙任式をもっと荘厳に執り行って秘蹟に近づくようにする場合もあった。加えて、騎士が「神に,領主に,王に,婦人に」献身的に使える“世俗的な聖職者”だと主張する理論家も多く存在した
H.しかし騎士として活動する期間は短かった(新人集団の時期=馬上試合に参加しまくる冒険の時期、と一致していた)。というのも、もし好機に恵まれて有利な結婚ができるなら、立派な戦士ですら喜んで剣帯・剣・金の拍車を壁に掛け(儀式の時くらいは取り出すかも知れないが)、結婚で獲得した財産を管理する道へと切り替えるのだった
【馬上試合の進化】
I.教会からの激しい弾劾と君主の勅令は、馬上試合を止めさせることはなかったものの、少なくとも試合の危険性・激烈さを減らすには役立った
1.「各種の勅令によって、騎士の一騎打ちの間に反感・復讐が発生したり表に出るのを防止しようとした」
2.「実戦用の武器の使用に制限を加え、代わりに試合時には娯楽用の武器(宮廷風の武器)仕様とした」
〈例〉剣は刃が切れないよう加工された。槍の先には「冠状or玉or逆さの盃のようなもの、を付ける」もしくは「丁寧に包み込む」かして、突いても槍先が相手を傷つけずに、相手の盾を壊すこともないように工夫された
3.「とりわけ不祥事の可能性が減ったのは、混戦に代わって組ごとに対抗する選手の一騎打ちへ、徐々に代わっていったことだった」
★重装備化が進んだことは確かに防御力を高める一方で、落馬によるダメージを大きくするマイナス面もある
J.馬上試合は貴族階級の大切なつき合いであった。またあまり危険ではなくなり、戦闘のシミュレーションとして競技会・見せ物としての役割を果たすようになった。加えて騎士の側も、馬上試合が信仰と一致していることをことさらに強調するようになっていった
K.「競技はまず十字架を強調するようになり、宗教的セレモニーから始まるようになった」ことから、一般に聖職者が、教会の禁止令をそれほど重視していなかったことがわかる。また以前の反対論者は「馬上試合には悪魔がやって来ている」と強調していたのが、今や「聖母マリアが試合の場所に現れる」といった伝説まで創作されるようになっていた。こうして、教会としても禁止を続けるわけにはいかなくなり、最終的に教皇ヨハネス22世は馬上試合禁止令を解除した(1316年)
【馬上試合の派生文化】
L.馬上試合の盛んな時期の間に「韻文で書かれた真実の報告,それを専門として書く詩人,号令者(競技審判:競技規則と参加者のしるしに通じた専門家であった)」、これらがひとまとめになった特殊な文学が出現していた
〈例〉ジョヴァンシーで開催(1258年)とされた祭典を祝して書かれた『ジョヴァンシー馬上試合』という文書から。祭典のうち丸2日が一騎打ちに当てられ、次いで1日が馬上試合大会に当てられていた。中身は「解説,試合,紋章の色や形の詳細な目録」だった
M.さらに馬上試合を道徳的に正当化しようとするアレゴリー文学も現れた(戦士に対して同じことを試みるのは、十字軍に関して先行して行われている)。ロマネスク建築の正面や柱頭に「美徳と悪徳の戦い」がアレゴリー風に表現されている(例:戦士同士の対戦,騎士と怪物の戦い)が、文学においても同様だった
〈例〉『反キリストの騎馬試合』:
キリストは盾に鮮紅色の十字架を付け、聖母に貰ったリボンを着けている。キリストはサタンと決闘をするが、サタンの目印はプロセルピナのチュニカの裾だった(プロセルピナはローマ神話に登場する女神だが、キリスト教では女悪魔の女王と見なされていた)。キリストの傍では大天使たちが戦っているが、大天使は「勇猛,寛大,献身,温厚」(いずれも騎士の美徳)である。戦いの場に援軍として降りてくるのは「円卓の騎士」たちである
N.この種のアレゴリーは単なる象徴に止まらず、時には馬上試合における見せ物としても表現されている
〈例1〉キプロス(1223年)において、ベイルートの男爵であるイブラン家の若い領主の叙任式典に際して、アーサー王物語の登場人物に扮した騎士たちの馬上試合が行われた光景がある作品で描かれている
〈例2〉騎士ウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタインは2度にわたるヨーロッパ一周の旅(1227年,1240年)で有名だった。最初の旅ではヴィーナスの衣装を身に着け、次いでアーサー王に扮して、城から城へ、町から町を訪ね歩き、馬上試合を申し込まれると相手構わず応戦する
〈例3〉ボローニャ(1490年)では騎士が2つの集団に分かれ、一方は「英知」を標榜して青い衣装をつけ、他方は「幸運」を示す緑色の衣装をつけて戦った
O.特に「演劇的な見せ物と馬上試合の結合した」ものが行われていた(百年戦争時代のフランス,フェラーラの騎士団〔16世紀〕)。舞台設定として「攻防戦を行う城,防御用の塔,橋,泉,幽閉から救出される姫」などを想定し、その場面に適当な扮装をした騎士の間で試合が展開されたのであった。この時期(13~15世紀)には「町で一般人が見物をするもの」として開催していた
★その他の設定・構成としては「鳥の喧嘩,聖職者vs騎士の試合,修道士vs修道女の試合」などが語られている。民俗領域では「冬の終わりを告げるカーニバルvs四旬節の試合」が有名であった
P.観衆は上記の騎士たちによる見せ物を「多くの滑稽なパロディ風の試合(市民・ならず者・社会的周縁人らによって演じられていた)」と同様に評価していた。こうした現実は、中世盛期から後期にかけて騎士文化が「軍事的・社会的な価値を失っていった」事実の一端でもあった
(10)騎士団
A.騎士団の権威(そこに所属することが叙任式によって認められた)は徐々に社会・文化において重視され始め、騎士はそれまでの「首領の周りに集まる武装集団の自由で友誼関係によるもの」から「封建制における制度としての集まり」へと変化していった(中世盛期)
B.この過程で君主たちは、仲間同士による叙任の仕組みを抑制し、剣帯を授与された者を入団させるのを制限しようとした。このような「閉鎖」措置は、最初にはイングランドとノルマン朝シチリア、さらにドイツ・シュヴァーベン地方で発生した(12世紀)。その中身は「家族のうち(or直系の祖先のうち)に騎士がいなければ、騎士の剣帯と拍車を受ける権利がない」というものだった(騎士の世襲化)
C.実際のところ、義務の方が騎士となるには重荷となった。それは叙任式が「沐浴,騎士徹宵」といった儀式に加えて「贈り物(とくに装束),参加者全員に振る舞わねばならない饗宴」があり、新任の騎士には経済的に耐え難いほど金がかかったからだった。こうした義務から除外されるのは「戦闘の前日や翌日」「君主がどこかを通過する」というようなチャンスを掴んだ場合だけだった
D.こうした重荷のために(特にイングランドにおいて)、たとえ有資格者であっても騎士になるのを避けて「準騎士=騎士志願者,郷士」に留まった者が多かった(13世紀)。彼らは「a.騎士に次ぐ身分である」「b.いつかは金の拍車を狙っているものの、身分による義務を避けようとして生涯志願者でいる方を選んだ」のだった。イングランドでは「c.彼らは下級貴族の典型的な代表」であった
E.こうした変化の間に「騎士団」の地域的・国民的な特色に差が現れた(13~14世紀の経済・社会変動期において)。フランスでは制限にとらわれることなく、低い身分の者を騎士の地位につけ、紋章(=貴族身分に相応しい基本的な証明書)を選べる許可を与えた
F.イタリアでは騎士の権威が各都市政府から認められていなかったにもかかわらず、北部・中部では「新興商人たちの野心の標的」となった(彼らは土地や城に投資し、フランスやドイツの貴族の生活様式を真似し、さらに「庶民の騎士」として武装した)。またフィレンツェ(1378年:チオンピ一揆)では、梳毛工(羊毛の下級職人)までが尊大に騎士を真似していた。ただし騎士の位そのものは、何らかの高位職(例:他都市の行政長官,隊長)を目指す者にとっては必要な資格だった
G.しかし時代が下るとともに、騎士の称号の価値は低下し「騎士としての権威を有する者」を指すには不十分となっていく(騎馬試合は騎士の権威とは無関係に行われるようになったことが影響している)。単なる騎士と「金の拍車を付けた騎士」というように区別することが必要になった
H.騎士としての権威を正当に有する者は「都市において,領主として,傭兵を主力とする軍隊の構成において」高い報酬を受ける権利があった(当然、権利の濫用も多かった)
(11)中央集権化と騎士
A.中世後期においてもなお、騎士団は軍隊の中枢と見なされていた。上級貴族として「バナレット騎士(旗騎士:旗は領地管轄権の象徴であり、供の者を従えていた)」が、下級貴族として「バシュリエ」が存在していた。両者の格差はその後拡大していき、騎士は徐々に低い階層を形成するようになる
[例外:素性が卑しい場合,貴族でなくても国王のひいきによって騎士身分に取り立ててもらった者]
B.騎士階級の危機は、権力・権威の基盤が中央集権化されていく傾向により生じていた。また銀行家・商人・起業家たちが新たに騎士になるのは「騎士の華麗さ(そこから得られる市民としての優越性),騎士の紋章」といったものを求めるためでしかなかった
【騎士の落ちぶれ】
C.フランスではバシュリエ騎士(=わずか1人の戦士に武装させるのがやっと、という程度の封地所有者)は、百年戦争の間はそれなりのやり方で働き口を見つけた
D.ドイツでは、不自由身分の騎士(ミニステリアーレ)は常に高級貴族とはっきり差別されており、時には本当に貧しい土地で生計を立て、公認の馬上試合に参加するのが慰めであった。しかし困窮と負債に押し潰されることがあまりにも多く、彼らは略奪者に転じ、商人たちを襲った。対して商人たちも「懲罰隊を編成して城に攻め込む」or「貧困に苦しみ、見捨てられるほど落ちぶれた貧乏騎士を雇う」かして対抗した。このように、絶望的にもかかわらず傲慢な騎士は戦うことしか知らなかったから、傭兵に加わる(傭兵隊は商業的組織だった)ことが多かった
E.スペインの騎士たちは、剣で生きることを唯一の生き甲斐だと信じて、どうにか裕福になれる道である農民への転身を拒んだ(この点が他のヨーロッパ諸地方と異なる)。イベリア半島での戦争が終わった時、彼ら貴族出身者には「カルロス1世(ハプスブルク家のカール5世)自慢の歩兵隊に身を寄せる」or「新大陸に向けて騎士的冒険を試みる」しか生き残る道は残っていなかった
【近世の幕開けと騎士団】
F.騎士文学の世界とはことなり、実際の騎士団(中世後期)は「売買可能な虚飾」「社会における昇格の手段」「身分を自慢しても貧困なため、絶えず体裁を繕うための手段を漁っている戦士の寄せ集め」でしかなかった。しかし近世に入ってこれとは異なるトレンドも生じた
〈例〉ポーランドの小貴族(=領主階級〔シュラハタ〕)は「この国の恒常的な不安定状態(=戦士が必要)」と「西洋での物価変動(=彼らのもつ土地価格が高騰した)」により、社会的に持続可能となった
G.中央集権化されたヨーロッパ諸国の君主たちは、騎士社会の危機に面して再編成を行った:
1.「下級貴族から(時と場所によっては上級貴族から)騎士としての権力と法的特権を奪おうとした。これは緩やかな過程であり、停滞することも時には逆行することもあった」
2.「他方で貴族階級を手懐ける目的で、貴族のために多くの『宮廷序列』を設けた。これはかつての騎士修道会や騎士道文学(典型例:『円卓の騎士』)を真似て、豪華な儀式・華麗な紋章・贅沢な装束を導入した。もちろんこれらは宮廷用以外には何の意味もない」
3.「精神性においては、キリスト教信仰と婦人への奉仕(後者は世俗的騎士の一般“神話”という位置付けである)を、国王への忠誠心に結び付けていた」
(最後の点において、王朝の周りに集められなかった貴族の存在が1つの圧力となり、君主制の強化に役割を果たした)
(12)軍事技術の進化に取り残される騎士
A.まず第一波として「クロスボウ(弩)」の登場があった(12世紀)。この兵器ははステップから到来したらしく、破壊力ゆえに教会から使用禁止とされた。さらにイギリスの長弓も効果が抜群だった。こうした投射兵器に対して、騎士はかなり装備を重くして対抗するしかなかった-鎖帷子の要所要所(脛・胸・背中・手首・膝など)に鉄製のプレートを着けた-
B.護身具の補強によって盾の必要性が減少した(騎士は正面への攻撃において、脇下と右腕の間に重い槍を抱え、左手で馬を操らねばならないので、盾は邪魔になった)。盾は消えゆく運命にあったが、しかし紋章の台として重要だった。そこで「大きなアーモンド形(11~12世紀)」をしていたのが「もっと小型の三角形(13世紀)」へと変わった。見た目に美しく飾り付けられたものの、野外や馬上試合では全く採用されなくなった
C.やがて装備は完全に金属製となる(15世紀)。騎士は頭の上から足の先まで鋼鉄に包まれ、投射兵器に当たっても倒れなかった。ところが包囲されて横倒しにされたらもうおしまいであり、さらにこのような状況はクールトレ(1302年)以来よく発生した(この時には市民の兵が騎士をひどい目に遭わせた)
【騎士団敗北の時代(14世紀)】
1.「時にはクレシーで見られたように、騎士は『馬から下り、突撃用の槍の後部を折り、敵に対して重装歩兵のように防戦しなければならない』ようになる」
2.「防具の重さによって、長い時間馬上にいることはできなくなり、馬の品種も『頑強で耐久力はあるが、早く走れないもの』を選ばねばならなくなった」
3.「馬のスピードの低下は、以前よりも長い時間にわたって騎士を敵の射程下に晒すことになった。そこでやむを得ず突撃の時間を短縮するために、敵と接触するまでの距離を短縮しなければならなかった」
4.「ところが正面に弓・弩の射手が並び、それを長方形の大きい盾で守っている敵には攻撃は無駄だった(惨敗することもあった)」
5.「疾走する騎士が市民の歩兵・(後には)傭兵の長槍が構成する戦列の前で止まろうとしても同じだった。スイス人傭兵と南ドイツの傭兵は、いずれも方陣による槍兵の密集部隊となって攻撃を仕掛けることで有名だった」
6.「騎士団には華麗さ・馬上試合・一騎打ちの挑戦しか残らなかった。火器の発達は、馬上で戦う騎士たちの軍事的機能に対してとどめの一撃を加えた」