『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[9]


(9)馬上試合を巡る価値観

 A.騎士・トルバドゥール・号令者・遍歴詩人らは「馬上試合の意義が勇気・忠誠心の養成にある」として賛美し、さらに「キリスト教的価値の鏡」と見なして「十字軍の訓練,海外遠征のために一致団結するチャンス」として示そうとした。実際、試合の進行中or終わってから、多くの騎士は「異教徒に対する戦争へ出発する」という誓いを立てている
 B.ところで教会は長い間、馬上試合に対して冷淡だった(教皇インノケンティウス2世による弾劾:1130年)のだが、ちょうどその頃に馬上試合は西洋・十字軍国家・(さらには)ビザンティン・イスラム世界にいたるまで爆発的に流行していた
 C.ラテラノ公会議(1139年)では「馬上試合中に死亡した者は聖所に葬られる権利を奪われた」はずだったのだが、騎士修道会(教皇直轄以外は広い自治権を有していた)は試合中での死者を所属する墓地で引き受けた。加えて「説教師,神学論・道徳論の作者,聖者伝の作者」はこぞって馬上試合を非難した

【女性と馬上試合】
 D.馬上試合で身に付けられる“愛のしるし”(婦人に気に入られようとして、試合に際して婦人のリボン・ベール・袖を付け、それが兜の羽飾り・旗の代わりになる)は、戦闘競技に参加する騎士の特徴となるしるしだった(その他:盾に描かれた家紋,上着,装飾馬具)
 E.年代記作者は馬上試合によって生じる、癒しがたい恨みを語ることが多く、また試合そのものが復讐の口実であったとも伝える。その動機は愛のライバル関係が最もありふれていたようだ
 ★「拘束的贈り物」のメカニズム:
 婦人は主人公に対して、特定しないで贈り物をねだる。相手が承諾すると、彼女はその内容を打ち明けるのだが、それは決まって難しい試練である、というもの
〈例〉婦人は騎士に向かって「試合のとき重い護身具の代わりに彼女の下着だけを着て戦う」ように言いつける。それが叶えられたら、彼女はこの一騎打ちの後の饗宴において「その騎士の血に染まった自分の下着をつけて現れる」ことにより、騎士道的献身のお返しをする

【騎士の人生】
 F.馬上試合が広く文化に浸透していたのは間違いない。「a.騎士の一騎打ちの模倣・パロディは無数に存在した」「b.最も有名な“馬上試合賞金稼ぎ”のギヨーム(イングランドのヘンリ3世の摂政にまでなった)は例外としても、馬上試合によって新人騎士たちは立身出世し、結婚していった」という
 G.騎士はひとたび叙任されると永久に騎士である。この点は聖職者に少し似ているが、騎士の叙任式は秘蹟のような「刻印」は必要ではない点が決定的に異なる。ところが、叙任式をもっと荘厳に執り行って秘蹟に近づくようにする場合もあった。加えて、騎士が「神に,領主に,王に,婦人に」献身的に使える“世俗的な聖職者”だと主張する理論家も多く存在した
 H.しかし騎士として活動する期間は短かった(新人集団の時期=馬上試合に参加しまくる冒険の時期、と一致していた)。というのも、もし好機に恵まれて有利な結婚ができるなら、立派な戦士ですら喜んで剣帯・剣・金の拍車を壁に掛け(儀式の時くらいは取り出すかも知れないが)、結婚で獲得した財産を管理する道へと切り替えるのだった

【馬上試合の進化】
 I.教会からの激しい弾劾と君主の勅令は、馬上試合を止めさせることはなかったものの、少なくとも試合の危険性・激烈さを減らすには役立った
1.「各種の勅令によって、騎士の一騎打ちの間に反感・復讐が発生したり表に出るのを防止しようとした」
2.「実戦用の武器の使用に制限を加え、代わりに試合時には娯楽用の武器(宮廷風の武器)仕様とした」
〈例〉剣は刃が切れないよう加工された。槍の先には「冠状or玉or逆さの盃のようなもの、を付ける」もしくは「丁寧に包み込む」かして、突いても槍先が相手を傷つけずに、相手の盾を壊すこともないように工夫された
3.「とりわけ不祥事の可能性が減ったのは、混戦に代わって組ごとに対抗する選手の一騎打ちへ、徐々に代わっていったことだった」
 ★重装備化が進んだことは確かに防御力を高める一方で、落馬によるダメージを大きくするマイナス面もある
 J.馬上試合は貴族階級の大切なつき合いであった。またあまり危険ではなくなり、戦闘のシミュレーションとして競技会・見せ物としての役割を果たすようになった。加えて騎士の側も、馬上試合が信仰と一致していることをことさらに強調するようになっていった
 K.「競技はまず十字架を強調するようになり、宗教的セレモニーから始まるようになった」ことから、一般に聖職者が、教会の禁止令をそれほど重視していなかったことがわかる。また以前の反対論者は「馬上試合には悪魔がやって来ている」と強調していたのが、今や「聖母マリアが試合の場所に現れる」といった伝説まで創作されるようになっていた。こうして、教会としても禁止を続けるわけにはいかなくなり、最終的に教皇ヨハネス22世は馬上試合禁止令を解除した(1316年)

【馬上試合の派生文化】
 L.馬上試合の盛んな時期の間に「韻文で書かれた真実の報告,それを専門として書く詩人,号令者(競技審判:競技規則と参加者のしるしに通じた専門家であった)」、これらがひとまとめになった特殊な文学が出現していた
〈例〉ジョヴァンシーで開催(1258年)とされた祭典を祝して書かれた『ジョヴァンシー馬上試合』という文書から。祭典のうち丸2日が一騎打ちに当てられ、次いで1日が馬上試合大会に当てられていた。中身は「解説,試合,紋章の色や形の詳細な目録」だった
 M.さらに馬上試合を道徳的に正当化しようとするアレゴリー文学も現れた(戦士に対して同じことを試みるのは、十字軍に関して先行して行われている)。ロマネスク建築の正面や柱頭に「美徳と悪徳の戦い」がアレゴリー風に表現されている(例:戦士同士の対戦,騎士と怪物の戦い)が、文学においても同様だった
〈例〉『反キリストの騎馬試合』:
 キリストは盾に鮮紅色の十字架を付け、聖母に貰ったリボンを着けている。キリストはサタンと決闘をするが、サタンの目印はプロセルピナのチュニカの裾だった(プロセルピナはローマ神話に登場する女神だが、キリスト教では女悪魔の女王と見なされていた)。キリストの傍では大天使たちが戦っているが、大天使は「勇猛,寛大,献身,温厚」(いずれも騎士の美徳)である。戦いの場に援軍として降りてくるのは「円卓の騎士」たちである
 N.この種のアレゴリーは単なる象徴に止まらず、時には馬上試合における見せ物としても表現されている
〈例1〉キプロス(1223年)において、ベイルートの男爵であるイブラン家の若い領主の叙任式典に際して、アーサー王物語の登場人物に扮した騎士たちの馬上試合が行われた光景がある作品で描かれている
〈例2〉騎士ウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタインは2度にわたるヨーロッパ一周の旅(1227年,1240年)で有名だった。最初の旅ではヴィーナスの衣装を身に着け、次いでアーサー王に扮して、城から城へ、町から町を訪ね歩き、馬上試合を申し込まれると相手構わず応戦する
〈例3〉ボローニャ(1490年)では騎士が2つの集団に分かれ、一方は「英知」を標榜して青い衣装をつけ、他方は「幸運」を示す緑色の衣装をつけて戦った
 O.特に「演劇的な見せ物と馬上試合の結合した」ものが行われていた(百年戦争時代のフランス,フェラーラの騎士団〔16世紀〕)。舞台設定として「攻防戦を行う城,防御用の塔,橋,泉,幽閉から救出される姫」などを想定し、その場面に適当な扮装をした騎士の間で試合が展開されたのであった。この時期(13~15世紀)には「町で一般人が見物をするもの」として開催していた
 ★その他の設定・構成としては「鳥の喧嘩,聖職者vs騎士の試合,修道士vs修道女の試合」などが語られている。民俗領域では「冬の終わりを告げるカーニバルvs四旬節の試合」が有名であった
 P.観衆は上記の騎士たちによる見せ物を「多くの滑稽なパロディ風の試合(市民・ならず者・社会的周縁人らによって演じられていた)」と同様に評価していた。こうした現実は、中世盛期から後期にかけて騎士文化が「軍事的・社会的な価値を失っていった」事実の一端でもあった


(10)騎士団

 A.騎士団の権威(そこに所属することが叙任式によって認められた)は徐々に社会・文化において重視され始め、騎士はそれまでの「首領の周りに集まる武装集団の自由で友誼関係によるもの」から「封建制における制度としての集まり」へと変化していった(中世盛期)
 B.この過程で君主たちは、仲間同士による叙任の仕組みを抑制し、剣帯を授与された者を入団させるのを制限しようとした。このような「閉鎖」措置は、最初にはイングランドとノルマン朝シチリア、さらにドイツ・シュヴァーベン地方で発生した(12世紀)。その中身は「家族のうち(or直系の祖先のうち)に騎士がいなければ、騎士の剣帯と拍車を受ける権利がない」というものだった(騎士の世襲化)
 C.実際のところ、義務の方が騎士となるには重荷となった。それは叙任式が「沐浴,騎士徹宵」といった儀式に加えて「贈り物(とくに装束),参加者全員に振る舞わねばならない饗宴」があり、新任の騎士には経済的に耐え難いほど金がかかったからだった。こうした義務から除外されるのは「戦闘の前日や翌日」「君主がどこかを通過する」というようなチャンスを掴んだ場合だけだった
 D.こうした重荷のために(特にイングランドにおいて)、たとえ有資格者であっても騎士になるのを避けて「準騎士=騎士志願者,郷士」に留まった者が多かった(13世紀)。彼らは「a.騎士に次ぐ身分である」「b.いつかは金の拍車を狙っているものの、身分による義務を避けようとして生涯志願者でいる方を選んだ」のだった。イングランドでは「c.彼らは下級貴族の典型的な代表」であった
 E.こうした変化の間に「騎士団」の地域的・国民的な特色に差が現れた(13~14世紀の経済・社会変動期において)。フランスでは制限にとらわれることなく、低い身分の者を騎士の地位につけ、紋章(=貴族身分に相応しい基本的な証明書)を選べる許可を与えた
 F.イタリアでは騎士の権威が各都市政府から認められていなかったにもかかわらず、北部・中部では「新興商人たちの野心の標的」となった(彼らは土地や城に投資し、フランスやドイツの貴族の生活様式を真似し、さらに「庶民の騎士」として武装した)。またフィレンツェ(1378年:チオンピ一揆)では、梳毛工(羊毛の下級職人)までが尊大に騎士を真似していた。ただし騎士の位そのものは、何らかの高位職(例:他都市の行政長官,隊長)を目指す者にとっては必要な資格だった
 G.しかし時代が下るとともに、騎士の称号の価値は低下し「騎士としての権威を有する者」を指すには不十分となっていく(騎馬試合は騎士の権威とは無関係に行われるようになったことが影響している)。単なる騎士と「金の拍車を付けた騎士」というように区別することが必要になった
 H.騎士としての権威を正当に有する者は「都市において,領主として,傭兵を主力とする軍隊の構成において」高い報酬を受ける権利があった(当然、権利の濫用も多かった)


(11)中央集権化と騎士

 A.中世後期においてもなお、騎士団は軍隊の中枢と見なされていた。上級貴族として「バナレット騎士(旗騎士:旗は領地管轄権の象徴であり、供の者を従えていた)」が、下級貴族として「バシュリエ」が存在していた。両者の格差はその後拡大していき、騎士は徐々に低い階層を形成するようになる
[例外:素性が卑しい場合,貴族でなくても国王のひいきによって騎士身分に取り立ててもらった者]
 B.騎士階級の危機は、権力・権威の基盤が中央集権化されていく傾向により生じていた。また銀行家・商人・起業家たちが新たに騎士になるのは「騎士の華麗さ(そこから得られる市民としての優越性),騎士の紋章」といったものを求めるためでしかなかった

【騎士の落ちぶれ】
 C.フランスではバシュリエ騎士(=わずか1人の戦士に武装させるのがやっと、という程度の封地所有者)は、百年戦争の間はそれなりのやり方で働き口を見つけた
 D.ドイツでは、不自由身分の騎士(ミニステリアーレ)は常に高級貴族とはっきり差別されており、時には本当に貧しい土地で生計を立て、公認の馬上試合に参加するのが慰めであった。しかし困窮と負債に押し潰されることがあまりにも多く、彼らは略奪者に転じ、商人たちを襲った。対して商人たちも「懲罰隊を編成して城に攻め込む」or「貧困に苦しみ、見捨てられるほど落ちぶれた貧乏騎士を雇う」かして対抗した。このように、絶望的にもかかわらず傲慢な騎士は戦うことしか知らなかったから、傭兵に加わる(傭兵隊は商業的組織だった)ことが多かった
 E.スペインの騎士たちは、剣で生きることを唯一の生き甲斐だと信じて、どうにか裕福になれる道である農民への転身を拒んだ(この点が他のヨーロッパ諸地方と異なる)。イベリア半島での戦争が終わった時、彼ら貴族出身者には「カルロス1世(ハプスブルク家のカール5世)自慢の歩兵隊に身を寄せる」or「新大陸に向けて騎士的冒険を試みる」しか生き残る道は残っていなかった

【近世の幕開けと騎士団】
 F.騎士文学の世界とはことなり、実際の騎士団(中世後期)は「売買可能な虚飾」「社会における昇格の手段」「身分を自慢しても貧困なため、絶えず体裁を繕うための手段を漁っている戦士の寄せ集め」でしかなかった。しかし近世に入ってこれとは異なるトレンドも生じた
〈例〉ポーランドの小貴族(=領主階級〔シュラハタ〕)は「この国の恒常的な不安定状態(=戦士が必要)」と「西洋での物価変動(=彼らのもつ土地価格が高騰した)」により、社会的に持続可能となった
 G.中央集権化されたヨーロッパ諸国の君主たちは、騎士社会の危機に面して再編成を行った:
1.「下級貴族から(時と場所によっては上級貴族から)騎士としての権力と法的特権を奪おうとした。これは緩やかな過程であり、停滞することも時には逆行することもあった」
2.「他方で貴族階級を手懐ける目的で、貴族のために多くの『宮廷序列』を設けた。これはかつての騎士修道会や騎士道文学(典型例:『円卓の騎士』)を真似て、豪華な儀式・華麗な紋章・贅沢な装束を導入した。もちろんこれらは宮廷用以外には何の意味もない」
3.「精神性においては、キリスト教信仰と婦人への奉仕(後者は世俗的騎士の一般“神話”という位置付けである)を、国王への忠誠心に結び付けていた」
(最後の点において、王朝の周りに集められなかった貴族の存在が1つの圧力となり、君主制の強化に役割を果たした)


(12)軍事技術の進化に取り残される騎士

 A.まず第一波として「クロスボウ(弩)」の登場があった(12世紀)。この兵器ははステップから到来したらしく、破壊力ゆえに教会から使用禁止とされた。さらにイギリスの長弓も効果が抜群だった。こうした投射兵器に対して、騎士はかなり装備を重くして対抗するしかなかった-鎖帷子の要所要所(脛・胸・背中・手首・膝など)に鉄製のプレートを着けた-
 B.護身具の補強によって盾の必要性が減少した(騎士は正面への攻撃において、脇下と右腕の間に重い槍を抱え、左手で馬を操らねばならないので、盾は邪魔になった)。盾は消えゆく運命にあったが、しかし紋章の台として重要だった。そこで「大きなアーモンド形(11~12世紀)」をしていたのが「もっと小型の三角形(13世紀)」へと変わった。見た目に美しく飾り付けられたものの、野外や馬上試合では全く採用されなくなった
 C.やがて装備は完全に金属製となる(15世紀)。騎士は頭の上から足の先まで鋼鉄に包まれ、投射兵器に当たっても倒れなかった。ところが包囲されて横倒しにされたらもうおしまいであり、さらにこのような状況はクールトレ(1302年)以来よく発生した(この時には市民の兵が騎士をひどい目に遭わせた)

【騎士団敗北の時代(14世紀)】
1.「時にはクレシーで見られたように、騎士は『馬から下り、突撃用の槍の後部を折り、敵に対して重装歩兵のように防戦しなければならない』ようになる」
2.「防具の重さによって、長い時間馬上にいることはできなくなり、馬の品種も『頑強で耐久力はあるが、早く走れないもの』を選ばねばならなくなった」
3.「馬のスピードの低下は、以前よりも長い時間にわたって騎士を敵の射程下に晒すことになった。そこでやむを得ず突撃の時間を短縮するために、敵と接触するまでの距離を短縮しなければならなかった」
4.「ところが正面に弓・弩の射手が並び、それを長方形の大きい盾で守っている敵には攻撃は無駄だった(惨敗することもあった)」
5.「疾走する騎士が市民の歩兵・(後には)傭兵の長槍が構成する戦列の前で止まろうとしても同じだった。スイス人傭兵と南ドイツの傭兵は、いずれも方陣による槍兵の密集部隊となって攻撃を仕掛けることで有名だった」
6.「騎士団には華麗さ・馬上試合・一騎打ちの挑戦しか残らなかった。火器の発達は、馬上で戦う騎士たちの軍事的機能に対してとどめの一撃を加えた」
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[8]


(5)宗教騎士団(騎士修道会)

【テンプル騎士団の結成】
 A.トマは「聖職改革の問題に心から共鳴し、新しい理想のために余生を送ろうと決心した」人々に属している。彼と同じ部類に属したのは、ブルゴーニュやシャンパーニュ出身の少数の戦士・小貴族たちだった。彼らはテンプル騎士団の設立者の1人となるユーグ・ド・パイヤンの周りに集まった
 B.当時のパレスティナは「a.住民は無差別に(十字軍兵士によって)殺戮され、続いて多数の生き残った難民たちが移ってきたので、かつての繁栄は失われ悲惨な状態にあった」「b.イスラム教徒勢は十字軍の打撃から立ち直り、再征服を準備していた」「c.十字軍兵士は聖墓への参拝を終えると故国に引き揚げた」のだった。こんな状況でパレスティナの防衛を考えなければならなかったのだ
 C.「d.攻略地と聖地を守る」「e.弱い者と病人を助ける」ために「f.十字軍計画を可能にした動員を永続化する」必要があった。そこで「修道士‐兵士」(=騎士的修道士)という身分が生まれた。これはヨーロッパの騎士世界の少なくとも一部を、教会の使命の下に完全に「改宗する」というものだった(グレゴリウス7世の“聖ペテロ軍隊”の完全な具現化!)
 D.こうしてトマ・ド・マルルのような軍人と、“貧しき騎士”の自由で自発的な信心会が、ユーグ・ド・パイヤンのによって統合された。パイヤンとその弟子たちはキリストの墓と巡礼を保護することに献身しながら、もともと“貧しきキリスト兵団”という呼び方をしていたという。しかしこの騎士団の規定がトロアでの教会会議(1128年)で正式に承認されて「信心会」から「修道会」となった(この間に「テンプル騎士団」と名乗るようになった)

【数々の騎士修道会】
 E.テンプル騎士団は聖地・イベリア半島・ヨーロッパ北東部にて結成された(12世紀を通じて)多くの騎士修道会の1つに過ぎない。これら騎士修道会がヨーロッパ全域に創立されたのは、聖地における最初の勝利とともに「多くの金・土地が寄付された,軍人貴族の家族を多く改宗させた」ことによる(これらの貴族は厳格・禁欲的熱意の名声に魅せられた)
 F.イェルサレムの聖ヨハネ騎士団(修道会の正式名称は「イェルサレムの聖ヨハネ病院兄弟会」)は、何よりもまず「巡礼に対する世話,援助」に奉仕した(後にロードス騎士団、さらにマルタ騎士団と呼ばれた)。ドイツ騎士修道会はドイツ出身者しか加入できなかったので「チュートン騎士団」とも呼ばれた
 G.スペインでは、サンティアゴ・デ・コンポステラへ行く巡礼者を世話し、さらにムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)征伐を当初の目的とした騎士団が出現した(例:サンティアゴ,カラトラーバ,アルカンタラの騎士団など)。ポルトガルにはモンテーサとアビスの騎士団があった。ヨーロッパ北東部には「リヴォニア帯剣騎士団」がいた
 H.これら騎士修道会は聖職者も俗人も受け入れられるが、俗人は騎士と奴隷の中間にあった。俗人を受け入れるに際して「戦う誓い」とともに「(修道院の伝統を特徴づける)純潔と貧困の誓い」を命じた。テンプル騎士団は特例として妻帯の騎士を受け入れた
 I.テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団は、他の団体には見られない超国家的構成を有し、ローマ教皇の直轄下にあった。つまり“国家の中の国家”を形成しており、後にこれが重大な問題を生んだ
 J.当初、各騎士団は「神の騎士」(世俗の兵士とは対照的な“キリストの兵士”)という理想を体現するかのように見えた。しかし教会の禁欲主義者と厳格主義者は、この騎士たちの勝手放題の「暴力,うぬぼれ,名誉追求,快楽追求」などをことあるごとに非難した。というのも、批判者はグレゴリウス7世を「教化のためではなく自分の政治闘争のために“キリストの兵士”を利用している」として告発し、グレゴリウス7の弟子たちと論争していたから

【クレルヴォーのベルナールの役割】
 K.彼はテンプル騎士団の擁護者&発案者であり、母方の叔父はユーグ・ド・パイヤンの初期の協力者の中に混じっていた。彼は修道士‐戦士からなる新しい騎士団の理想として「騎士たちは現世をすっかり捨て去り、異教徒との戦いとキリスト教徒の愛護に完全に献身する者たち」という像を打ち出した:
1.「世俗の兵士はキリスト教徒間の骨肉の争いに躍起になっている、という点で神を敬っていないばかりでない」
2.「彼らは戦士に必要な男らしさもない。なぜなら髪や着るものに凝っているから」
3.「これらの騎士は、柔らかい手に籠手を付け、髪に香料をふりかけ、彫刻で飾った兜を被り、鎖帷子をくるぶしまで垂らし、その帷子は色付きor刺繍のある贅沢な絹の上衣で覆われ(オリエントで知った習慣のようだ)、アーモンド形の大きい盾に極彩色を施し、そのような格好で永遠の劫罰へ向かって花咲く草原を駆けていく」
4.「テンプル騎士はこれとは対照的に、髪を気にすることなく、悔悛のしるしとして、また兜をしっかり被れるように髪を剃っている。顔をつるつるにしようなどとは思わず、無精髭を生やしたままであり(これはオリエントで流行していた習慣だが、当時はまだ西洋人の興味をひいていなかった)、色のついた衣服をまとわず、彫刻をほどこした武器も持たず、金細工・装飾を明確に禁じた規則に従っていた」
5.「テンプル騎士は猛獣以外の狩りをしない。というのは猛獣狩り(これも霊的闘争の象徴であった-当時のアレゴリーにおいて、猛獣は悪魔の表象にされることが多かった-)は実戦の訓練になるから」
6.「この騎士は敵=異教徒に対しては獅子のように恐ろしいが、キリスト教徒に対しては羊のようにおとなしい」
7.「テンプル騎士は修道士であるが、殺傷をする。それは悲しいことだが、武装した異教徒を抹殺するのはキリスト教徒を守るのに必要である。彼らは人間としての敵を抹殺するのではなく、人間の形の影に存在する悪を抹殺するように心掛けねばならない」
 L.ベルナールは修道士‐騎士の制度を称賛したが、それは決して世俗の騎士を正当化したのではない。彼は「戦う人」を「祈る人」のうちに解消させることによって、事実存在する「生活様式としての騎士的職業」に対する全面的糾弾を表明したのだった
[※「神の平和運動」によって軍人貴族をキリスト教の枠内で手懐けようとしたのと、方向性としてはよく似ている?]
 M.ところがこうしたベルナールの見解は、宮廷的な文化と詩の成立に大きな貢献を果たした。さらに聖母に対する彼の崇拝が「気高く近づきがたい婦人への滅私奉公」という騎士的概念の発展に対する手本となったのだ。もちろん「婦人への奉仕」には(精神性や滅私奉公性に隠されて)強烈なエロチシズムの影響があった。しかしそれても、ベルナールという偉大な神秘主義者の権威と、彼のイメージの魅惑によって「12世紀の宮廷世界の知的枠組み」が形成されたのは否定できない、という


(6)世俗の騎士世界と叙事詩

 A.この時期の騎士叙任式は「本当に秘蹟に準じた性格を帯びたわけでもなく、聖職者の出席の下で行われたわけでもない」のだが、次第に秘蹟の形式(特に洗礼)に似た形式をとるようになる
 B.世俗の著者の作品や、俗人を対象にした著者において「神秘主義的・神聖な性格を帯びた」テーマが登場する(12世紀,さらに13世紀の一部)
〈例〉作者未詳の作品『騎士団』(13世紀初)では、サラディン自身が「騎士団」に入りたがっているように描かれている:
1.「主人公である十字軍兵士ティベリアス公ユーグは、サラディンに『白いチュニカと鮮紅色のマントを着せ、茶色の長靴を履かせ、儀式用の綬をかけさせ、踵に黄金の拍車を着けてやる』のだった」
2.「さらに『清めの沫浴と復活の寝台』(天国は清められた者の到着を待っている)』を授ける」
3.「ただし『コレ』(右手で入団者の首筋or額を打つ)だけはしない。実はこの秘儀が騎士の“刻印”を与える根本的な所作と見なされている」
4.「サラディンは人間のうちで最も寛大で、最も高貴で、最も大胆な者かも知れない(その限りにおいてサラディンは騎士になる全ての資格を備えている)。しかしサラディンはキリスト教徒ではないゆえに、騎士叙任(という新しい洗礼)において、決定的・根本的な儀式を行うことを禁じられていた」
 C.(騎士の“あるべき論”から直接影響を受けていた)アレゴリー文学においては、騎士の「衣服,武器,動作」全てがキリスト教的美徳の象徴となっている(例:剣は精神の剣である,兜は信仰である)。「騎士団,騎士の武器」の倫理的・アレゴリー的な解釈は、近代に至るまでヨーロッパの貴族全体に影響を及ぼしていた
 D.世俗の騎士団に神秘主義的な意義を与えたのは『聖杯探求』(13世紀初)という文学作品であった(作者と思われているのはシトー修道会士)。それ以前に『ペルスヴァル』(12世紀第4四半世紀)において、作者クレティアン・ド・トロアはテーマとして「禁欲主義的な解決を受け入れること,神秘的な“聖杯”の存在を聖餐の象徴とみること」を素描した

【叙事詩に潜む現実】
 E.叙事詩は「婦人の獲得とその女性を通じた自己確認」という性的・精神的な緊張に満ちている。騎士は戦う英雄であるが、見失われがちな自己の認識と意識を求めるタイプの人間であった。彼の体験は「冒険と探求」という形式によって展開された(“彷徨える騎士”は森とヒースの茂る夢幻境において、不安におののき、孤独のまま、試練から試練へと駆け回らざるを得ない-この試練の根底には通過儀礼が存在する-)
 F.このような物語には「妖精,ドラゴン,怪物,魔法の城と庭園,小人,巨人」らが出現する。しかしそうした幻想の背後に、現実の隠喩があった
 G.ヨーロッパの小貴族の活動的な連中(特にフランス人,彼らを見習ったイングランド人とノルマンディー人,ドイツ人,スペイン人,イタリア人も)は、叙任式において武器を授与されたばかりの新人騎士が、ある程度の人数からなるグループを作り、住み慣れた土地を後にして散っていった(11~13世紀)
 H.彼らは「生活の安定,社会的名声」という現実的な夢を追った(その夢が必ずしも実現するとは限らないとしても)。彼らの目当ては「できるだけ自分より上の身分で金持ちの女性と結婚すること」であった。作品の中で「真の愛」がいかに巧みに論じられていようと、そこには結婚願望や社会的立身が隠しきれずに存在していたのだった


(7)騎士の精神と冒険

 A.騎士道の時代の頂点(12~13世紀)では「a.著述家・詩人・神学者・聖者伝作者は、騎士道の勝利を語っているように見える」「b.年代記作家や画家も騎士叙任式の華麗さを伝えている」「c.大貴族や王までも、立派な称号を捨てて単なる騎士を名乗りたがる」「d.騎士の称号は新興階級(特に都市の成金)からも熱望される」のだった。やがて騎士の紋章・習慣といったものが普及するにつれ、その価値も減少していくのだが
 B.騎士の冒険とは(結婚の可能性を除いて)「新しい富の源,自分が志願する可能性」を追求するもの=報酬ある軍事任務だった。これは広く普及するようになる(12世紀~)ずっと以前から存在していた
〈例1〉ノルマン人の騎士はプーリアやビザンティン方面へと拡散していき、最も多く支払ってくれる者に武力を提供した(11世紀)。その筆頭はビザンティン皇帝
 C.対異教徒戦役(スペイン,ヨーロッパ北東部:12~15世紀)における十字軍は、騎士的な特徴を持つ信心深さを成就させていた。この心情は十字軍参加の出発にあたって多くの詩で歌われているが、この詩人たちも領主や騎士だった
〈例〉ハルトマン・フォン・アウエ,フリードリヒ・フォン・ハウゼン,ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルワイデ,ティボー・ド・シャンパーニュ,コノン・ド・ベテュヌ
 ★世俗的な騎士団の感性の要素:
「聖母マリアへの奉仕,イェルサレム巡礼による神の国の追求,殉教の覚悟,戦友への忠実さ,称賛と名誉に相応しい敵に対する公正な賛美」。これらは十字軍の経験から生まれた「宗教的な戦士団の特殊なメンタリティ」に影響を受けていた

【遥か彼方の地への憧憬】
 D.遠い土地への冒険に対する騎士のあこがれ(まだ会ったこともないレバノンの女城主に恋するトルバトゥール、ジャウフレ・リュデル〔12世紀〕の言い方では“遥か彼方なる恋人”への憧れ)は、やがて聖地イェルサレムを越えて、遥か遠いオリエントの神秘・奇跡に対する魅惑として語られるようになった。中世の文化ルネサンス(12世紀)期には、かなりの数のギリシア語・アラビア語・ヘブライ語作品が流入し、それがたとえどれほど下手で杜撰な翻訳であっても、オリエント世界への興味と空想をかき立て始めていた
 E.十字軍後に初めて接触する“深遠なるアジア”とは、香辛料のアジアでもあった。“香辛料は地上の楽園からやってくる”とも言われていたが、それに絡んでインドは伝説的な土地と思われていたらしい。当時の宇宙論によれば「地上の楽園から異教の地の大河、すなわちガンジス川・ティグリス川・ユーフラテス川・ナイル川が流れていた」。さらに「国境もなく、怪物が住み、宝に満ち満ちた領土があり、さらにオリエントの奥地に孤立して地上の楽園そのものがある」というのが想像上のアジア地理だった(これに惹かれたのが、マルコ・ポーロを筆頭とする旅行者たちだった)
 F.叙事詩と騎士物語は想像上のアジアの魅惑から深い影響を受け「地上の楽園」「アマゾネスの国」「殺人集団の首領が潜む恐るべき国」など、数々の伝説を民間に普及させた。遥か遠い土地とそこの風習に対する魅力は、中世騎士道文学から発しているが、そもそもの素材は「古代の地理関係文献,十字軍のメンタリティ」から借用していた。この十字軍と騎士の冒険精神が、地理上の大発見と大航海時代まで繋がっている

【日常の冒険 ~狩りと馬上試合~】
 G.しかし冒険は、戦争や十字軍が無くとも「狩り」によって日常的に経験されていた。特にヨーロッパの森での野生の獣(鹿,猪,熊など)が対象だった。これらの獣は「紋章に用いられて象徴となる」「動物寓話や聖者伝のアレゴリーに現れる、神秘的で民俗的なバックグラウンドになる」のだった
 H.さらに日常的な冒険は物語の至るところに現れる。さらに通過儀礼的性質も帯び、特に競技・戦闘訓練は「貴族の社会的機能の脚色と自己表示」として意義を持つ。それが馬上試合だった
 I.囲い場において対抗する集団試合で、重い木製の槍を持った騎士たちの特殊な試合であることから“木槍試合”とも呼ばれている競技(相手を落馬させるのを目指す)が、いつ頃から生まれたのかは判然としない(早くから戦闘訓練として存在していたようだが)。起源としてはノルマンディ・イングランド的であり“ガリアの戦い”とも呼ばれる。これは馬上試合の最も典型的な「戦い」だが、混戦となるので危険だった
 J.一方、整った形式の馬上槍一騎打ちの危険はそれほどでもない。また、こちらもいつ現れたのかは定かではないが「囲い場で試合が行われること」「各『選手』同士の一騎打ち」というスタイルから、決闘裁判(=神の裁き)に近い形式であった
 K.馬上試合は突然、爆発的に流行したようだ(11世紀末~12世紀初)。古い歌物語には知られていなかったのが、その後の騎士道文学を「馬の蹄に舞う砂煙,参加者の雄叫び,観衆の声援,号令者の響き渡る声,打ち合う武器の響き,空中に舞う槍」という情景で染めていく。そしてこの時代から紋章の象徴性も急速に普及した(たとえそれが、混戦の中で選手を識別するためだけのものだとしても)
 L.何世紀かの間で、騎士は戦場でよりもむしろ試合の中で倒れていた。騎士は試合の中で相手を殺すつもりはなく、後で身代金を請求するために捕虜にしようとする。ところが集団試合でも個人試合でも死者はよく出た
〈例〉騎馬で疾走中に落馬して、もし鉄製の武具の下敷きにでもなれば致命的な結果を招いた


(8)戦場での騎士

 A.中世の真ん中あたり(10~13世紀)において、騎士は精鋭部隊であり戦闘の中核を成していて、他の兵士(歩兵,工兵,兵器係など)は補助要員だった。後者が本領を発揮できるようになるには、ビザンティンやオリエント(ここにはギリシア・ローマ世界の軍事技術が保存されていた)との接触を待たねばならなかった。あるいはヴェゲティウスの『戦術論』がヨーロッパ世界に広く普及する必要があった
 B.確かに戦術論・作戦論の必要が認められる時代の到来は遅かった(14・15世紀~)のだが、それまでの騎士が戦術・作戦に無知だったのではないし、体力と馬術だけに頼るような正面攻撃しか知らなかったのでもない。よく注意して歌や物語を見ると「敵を欺くための策略や戦術」が登場していることに気づく
 C.もっとも、ニコポリスの戦い(1396年)でヨーロッパの騎士軍はトルコの軽装騎馬弓兵による急襲の前に全滅したように、騎士は軍事力としては危機を迎えていた(14世紀)。このような時代になっても、年代記作家たち(例:フロワサール)は勇ましいエピソードを集めるのが好きだった
 D.逆に「騎士が栄えた時代こそ、彼らは戦術・戦略をよくわきまえていた」のだった。馬上試合はよく実戦の様相を反映しており、訓練のためのよいチャンスとなっていた。ロマンティックなイメージが一般的だが、実は「a.必ずしも騎士同士で争われたのではなく、騎士にはかなりの数の徒歩の配下がついている場合もあった」「b.“囲い場”と言っても、時には広大な地域(牧草地・森・森林の中の空き地)の場合もあれば、町中の場合もあった」のだ
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[7]


○戦士と騎士


(1)概観

 A.キリスト教社会での世俗の人々における「自由人-奴隷」という古い区分が事実上廃止され、代わりに「戦う人-耕す人」に二分された(10世紀)。これによって「a.武装して戦う特権を有し、そのために通常は課税されない人々」と「自然物を生産し、自分の需要に加えて他人(=b.の人々の労働の成果で暮らせる特権を持つ人)の需要を満たすように期待された人々」が区別された
 B.この区分が作られた時期は困難で危険だった。外からはヴァイキング・マジャール人・サラセン人が西洋を襲い、この侵略にともなって(やがては入れ替わって)貪欲・粗暴な貴族同士の争いが絶え間なく続いた
 C.彼ら貴族は「名目だけキリスト教徒である」「修道院を創設したことを自慢する」「各地から戦利品として持ち帰った多くの聖遺物を誇る(これらは展示され、魔法の力があるものとして尊重され崇められた)」のだった。一方で各地には城と防備された施設が林立し、侵略者や暴虐な貴族らが荒れ狂っている間、施設では避難民がひしめき合った
 D.この時代(10~12世紀)に、社会における「祈る人,戦う人,働く人」という3機能を分割する概念が生まれる。これによって「祈り,戦い,野良仕事」はキリスト教世界の3柱と見なされた。さらに聖職者たちは、平和の理想をキリスト教社会に実現するため、軍事行動を神聖化するロジックを練り上げた


(2)専門職としての戦士

 A.この「封建的無政府状態(9~11世紀)」と呼ばれる時代において、それまで「君主の周りに集まって武装集団」を表すのに用いられた幾つかの語(sicarius,buccellarius,gladiator)に取って代わり、戦士を指す言葉「miles」が主に使われるようになる
 B.古代ゲルマン人が用いた「comitatus」は「勇気,忠実な友情,君主に対する“首領”“親分”というニュアンスで親愛感を含んだもの」だった。「武器を携帯する価値がある」と判断された人々のサークル(もちろん男同士の環境)に入るには、加入儀式(厳しい体力検査,苦痛への耐久力,儀式的な負傷,教会から是認される範囲内での技能テスト)が尊重された。森林地帯やステップに住む若い戦士たちは、この種の試練を受けねばならない時期がある
 C.しかし「戦争での馬の利用の増大,重装備化」による武装費の高騰は、軍人の専門職化(その裏返しとしてローマ・異教的社会全般の武装解除)が必要となる。そうなると、貴族制君主の周りに集められるエリートとしての戦士団だけが古くからの伝統を受け継ぐようになる。厳粛な武器授与は、若い貴族を権力の世界へ送り出す儀式の要素となる(いわゆる「騎士叙任式」の基礎はここから来ている)
 D.こうして誕生した職業軍人はふつう「大貴族に率いられた軍隊」or「大貴族の住まいを防衛するために集められた戦士」に属していた(10~11世紀)。彼らは「a.家来として“首領”から財産を授かるか、一種の報酬として武器・馬・装束を受け取る」「b.習慣的に“首領”のそばで暮らすか、自分の土地(or拝領した土地)で暮らす」「c.個人的に自由な身分である場合もあれば、隷属した身分=『奉仕者の集団に属している』場合もある」のだった
 E.この時期に騎乗で戦う者の威光が増大したが、これは技術的な理由(鐙の発明)というよりもむしろ「d.ステップ文化における馬具一式の神聖さの不変性」「e.戦費と装備費の高騰」「c.武装者と非武装者を隔てる社会的・法的な格差増大と主従関係の拡大」による、と考えられる


(3)神の平和と聖なる戦士

 A.このような武装集団を抱えた(領主権を所有する)貴族同士の敵対関係は「公権力の崩壊・拡散,封建的無政府状態」の時代(10~11世紀)を特徴づける現実であった。無防備な人々(教会から“貧しき人々”と定義された全ての人々=聖職者,未亡人,孤児,自衛できず保護も全く受けられない人々)に対する暴力は、特に司教関係の史料の中でますます頻繁に告発されている
 B.ところが司教たちの中には、いち早く“平和”と“神の休戦”運動を起こし、貴族や戦士たちの賛同・援助や、暴力状態の慢性化を憂慮する低い身分の人々からの援助も得られる者が現れた:
1.「各地の聖所・救済施設・市場・川の浅瀬・道路を特別保護下に置き、これらの場所で暴力をふるった者全てを教会が破門した」
2.「この措置は全ての身分の人間(=弱いから“弱者”とみなされた人々)に効力があった」
3.「ついには戦闘行為は、週のうち何日かが禁止期間とされた。木曜日の午後~日曜日の午後までに犯された殺人は破門に値する、とされた」
 C.このように戦争をできるだけ制限することによって、社会的・経済的生活の回復と教会改革の要請に応じさせた。この背景には、当時ブルゴーニュのクリュニー大修道院に動かされた大々的な運動(聖職者・教会制度に対する世俗権力の重圧の排除を目指す)があった。しかしこの運動に戦士たちを巻き込み、暴虐で「休戦」協定違反を繰り返す貴族たちを従わせること必要であった
〈例〉イタリアでも同様の状況であり「司教叙任権闘争」において、改革派聖職者を支持する運動は必要に応じて武力に訴えた

【戦士たちを巻き込んで】
 D.ゲルマンの戦士集団の倫理は「勇気,首長への忠誠,戦友愛」からなっていたが、(中世盛期以降の)いわゆる「騎士団」の倫理は教会のロジック(=教会への奉仕,最も弱い人々への保護,自己犠牲も辞さない)に拠っていた。教皇グレゴリウス7世は“ペテロ聖戦士”という新しい概念を作り、戦士たちを神のために戦う兵士に仕立てたが、これは画期的なことだった
 E.というのは、従来の“キリストの兵士”とは(長い間)殉教者を指す言葉であった。その後「祈りと精神的なことに専念し、霊的闘争に挑む者(=修道士,禁欲主義者)」を指す言葉となった。教会は世俗君主からの干渉を逃れ、さらに新しい計画を支えるために力(=具体的な兵力)がどうしても必要だった
 ★だからこそグレゴリウス7世は、俗世を捨てて修道院に閉じこもろうとした貴族を激しく非難した。少し前までならばこれは尊い選択と称賛されたはずだが、いまでは戦線の放棄と見なされた
 F.こうして新しいタイプの“キリストの兵士”が誕生する。騎士叙任式は、それまでは「戦士集団内において新しい仲間を自由に選んで行う」完全に世俗的な儀式であったのが、今や教会サイドの宗教的な認知を含むようになっていた(例:聖職者が武器に祝福を与えるしきたり)
 G.改革を終えた教会は、暴虐者と略奪者には厳しかったが、教会のために優れた勇気・武力を発揮する人々に対しては好意を示した
〈例〉クリュニー修道院長オドの作による聖ジェロー・ドーリヤックの『伝記』では、ジェローは武器を使いながら教会へ献身している。それ以前の聖人伝では、回心の証は「武器よさらば」だったのだが…

【キリスト教世界の軍事的昂揚】
 H.このような教会の態度の一変は、全て「神の平和運動」や「司教叙任権闘争によって武力が必要とされた」ことに原因があるのではない。当時(11世紀)の地中海地域ではイスラム教徒の勢いが減衰し、今やキリスト教徒が反撃に移る番であった
〈例〉イスラム化されたスペインでは「レコンキスタ」が始まる。サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼が喧伝される(クリュニー修道院のかなりのプッシュがあった)。レオン・カスティーリャ・アラゴン諸地方のキリスト教徒貴族の傭兵隊に加わったフランス人騎士など(戦利品目当てだった)の冒険がある
 I.こうした激突の結果、文化的領域において「キリスト教的・国民的な叙事詩『わがシッドの歌』が生まれた」のをはじめ、多くの叙事詩・伝説が創作された。これによってキリスト教的信仰と奇蹟の意義が(頻出する亡霊の話・聖遺物と聖所への崇拝、に支えられながら)独創的な“戦うキリスト教”として表現された
 ★これが「軍事的勝利」と「キリスト教的霊性の高揚」を一致させ、聖母・聖ヤコブとともに“聖なる兵士たち”(=ゲオルギウス,メルクリウス,テオドルス,デメトリウス,マルティヌスたち)が「戦乱の中を白い戦旗の間に出現してキリスト教的を励まし、異教徒たちを震え上がらせる」光景が描かれた
 J.上記のような雰囲気が「ノルマン人のシチリア征服の記録,アル‐マディア攻略(1087年),バレアレス諸島攻略(1112年)におけるピサの船乗りたちの活躍,『ロランの歌』」にも窺える

【『ロランの歌』とキリスト教】
 K.ロランは実際にピレネー山脈のロンスヴォー峠において待ち伏せにより死んだ(8世紀)人物だが、早くからその死は叙事詩的伝統となり、ついには「信仰の殉教者」の基本モデルとして取り上げられた(11世紀)。『ロランの歌』で語られるロランの最後は「戦士たる神の、聖なる家来」としての死だった
 ★彼は目を閉じる前に「名剣デュランダルへ、心からかる愛の言葉を贈る(剣の柄の中には尊い聖遺物が入っているから)」「“忠実”の最期の仕草で、籠手を空へ投げて神へ差し出す」のだった。するとたちまち天が開き、その間から天使の群が降りてきてこの英雄を迎え、飛び上がって天国の入口へ運び去った
 L.ここでポイントとなるのは、ロランを天国まで連れて行く天使たちが「ワルキューレの写しではなく、間違いなくキリスト教的天使である」ということ。また「戦士たる神」の存在に見られるように、旧約聖書の影響を受けているという(この神は「恐るべきイスラエルの神=戦闘と復讐の王」だとする)
 M.しかし『ロランの歌』のベースにあったのは、世俗的文化の古い表現であった「武勲詩」だった。元々世俗の人々の間にあった武勲詩の人気に乗じて、教会が宗教的英雄主義というモチーフを持ち込んで変形させ、宣伝道具として用いたというのが実際のところらしい


(4)叙事詩の戦士像との食い違い

 A.『ロランの歌』にみえる騎士的倫理体系には“勇猛さ”と“賢明さ”のバランスがある。「勇者も賢人でなければ狂人になり、勇気のない賢人は卑怯者になる」というわけだが、当時の人が考えるに「騎士がこの2つの美徳をバランスよく兼ね備えるのは稀であり、それは戦友愛から生まれる」とされた。そして完全な騎士とは、個人である以上に「集団的・団体的な精神(=友愛)」を実践する者だった
 B.騎士道の最も特徴的要素である「歓喜」とは、性的意義・エロチシズムにより強調される「人生の若さと享楽の結合」ではなく「青春」と結びつけられる。青春は若い人々と密接な関係にあった。新たに叙任された騎士は、少し乱暴なグループを作り冒険を求めて動き回り、暴力・過ちを犯しやすいものだった
 ★武勲詩に見られる「歓喜」とは、楽しい楽天的な陶酔状態というよりもむしろ「強烈な興奮」「(異教的・ゲルマン的伝統の)激情に近い野性的な熱狂」に相当する
 C.このような要素を持つ様々な歌は、下層階級の世俗人(騎士たちの武勲詩を語るのが好きだった)の精神性によく通じていた。そのため一方で「真面目で熱心なキリスト教精神」とは相容れない部分があったことに注意しなければならない
〈例〉表現されるキリスト教は明らかに世俗的・民俗的要素が強く、教養に欠けており反聖職者チックなユーモアがかなり多く登場する。騎士職には特殊な神聖さがあり、聖職よりも優れていて主からより高く評価されている

【第1回十字軍において】
 D.史実におけるこの十字軍には“貧しき騎士”団の存在が大きかったことが明らかになっている(フランスでも、イタリアでも、スペインでも)。この“貧しき”という形容詞は、経済的・社会的に劣位にあった騎士を表しているのではなく(そうした騎士は現実に多かったが)、改革後の教会の禁欲的方針に従い、栄誉・富・冒険を諦めるという意味での「貧しさ」だった。これはその当時の多くの世俗的信心会と似た実践方針であった
 E.改革派集団が勝利を収めた直後のカトリック教会組織内部の雰囲気は、かなり複雑であったにせよ、上記のように騎士世界の多くの人々に影響を及ぼしていた。しかし叙事詩の世界では、それは全く反映されていない
〈例〉十字軍を主題とした作品の中で最も興味ある作品(といわれる)『イェルサレム攻略』の主人公である軍人トマ・ド・マルルは、典型的な軍人貴族の鑑であり、決して「ならず者としての弱者の集団を率いた“貧しき騎士”」ではなかった
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[6]


○修道院の組織とその危機


(1)修道院に入ることの意味

 A.修道院を選ぶこと=「神への願望,永遠なるものを先に味わいたいという願望」には、神との特権的な関係が要求された。その象徴はすなわち「現世を捨てる=自発的な貧困(キリストに従う)を選ぶ」ことだった。この自発的貧困こそが“修道院を生み、修道院を修道士で満たし、隠者の森を満たした”のだった
 B.注意しなければならないのは、この「貧困」とは、財産・保証・力を持たない身分の生活とは全く共通点がないことである。修道院的な意味での貧困とは「世俗社会・長らく住んでいた場所を捨てること」「日常性を拒否すること」だった。罪とサタンの罠によって「覆され、歪められた価値観と秩序」を回復するために“騒ぎから遠く離れ、辛抱強く悪魔の欺瞞的な魅惑を退け、聖書に没頭し、真っ先に服従し、慈善に励む”のであった
 C.このようなビジョンの下では「人間の労働によって得られるものや、歴史的に与えられた様々な手段・方法」を、上記B.の目的のために利用する仕方を知ることが修道士たちにとって重要だった。「修道院の力・富,修道院に付属する教会堂の偉容,典礼の華麗さ,宿泊施設の立派さ」がそうである。修道士が世俗の争いに介入することも、この文脈において問題ではなかった
 ☆「悪魔の絶え間ない侵略の餌食に晒され崩壊せんとする社会に、秩序と合理性の小さな点を生み出すことによって、混乱と暴力の及ばない人間性を歴史に示すこと」が大事だった
 D.修道院は、他の一般人の能力・認識では及ばない知的能力を備えた、優れた人間を養成する唯一の場であり、修道院へ入ることは絶好のチャンスであった。知的・道徳的な卓越性は人々から尊敬され感謝される
〈例1〉教皇シルヴェステル2世の教養は、新しい本・新しい師を求めるのが困難な時代において、大修道院での困難な修業の結実だった(10世紀末)
〈例2〉ランフランクがカンタベリー大司教となりローマへ赴いた時、教養アレクサンデル2世は彼を迎えようとして椅子から立ち上がった。これは「大司教に対する礼儀ではなく、勉学の師に対する時の表敬である」ことから、ローマ式作法を心得た人々を本当に驚くべきことだった

【修道士が持つ高い意識】
 E.貴族の子弟にとっては、戦士となる他に選択できる唯一の道であった。「幼い時期から子弟を修道院へ託し、修道院生活へ進ませる」という習慣は、長い学びの期間が必要であるというだけでなく「彼ら修道士の、その他の人々に対する連帯感の結実」でもあった
 F.というのは、修道士たちは人間の今ある生活と未来の運命に対して霊的責務を負っている。反対に修道院で暮らす者は「自分に衣食住を提供できる者,自分を守ってくれる者」が必要である。だから修道士の霊的生活とは、自分のためだけでなく全ての人々に関わっていることを知っているはずだった(もちろん世俗の人々も「霊的な人間による祈り」が絶対に必要、と意識しているはずだった)


(2)制度の問題

 A.上記のような宗教的・社会的均衡は見せかけの安定にすぎず、緊張と矛盾は「修道院内にも、修道院とそれを取り巻く社会との間にも」生じた。この問題の根源は「入会制度,養成方法,修道士たちの意識(=現世から孤立することによって救いを代表している)」にあった

【修道院の急増】
 B.修道院では独自の行動モデルを定め、修道士はそれにしたがって道を開くことによって完全なキリスト的生活を体現しようとする意図があった。修道士は幼い時から修道院へ送られ、生活規範にしたがって徐々に自己を形成していくのだが、そこでは服従と不可逆性(ひとたび修道院に入れば、完全に向けた道から逆戻りはできない)が要求された。そして修業の求めはできる限り受け入れることが正しい、と考えていた
 C.シトー修道会の方針は「大人の修道院入りを促進すること」によって「修道院での生活において悔悛と労働という要素を回復させよう」というのだった(この点はクリュニー修道院と異なる)。しかしできるだけ多くの者を受け入れて彼らを救済しようとする傾向(修道院は救いの王道だ、という確信から来る)は、ここでも広く見られた。それは修道院の激増として現れた
〈例〉クレルヴォー修道院長ベルナールは多くの点で非凡な人物であり、また激情は極端であり「修道院排他主義的」主張は一貫していた。彼は自らが20歳そこそこでシトー会に入ったというだけでは満足せず、家族全員(父・祖父・いとこ・姉妹)にも追従するように働きかけ、強要し、執拗に迫った
 D.さらに、中世の真ん中3世紀における修道院の異常な増加には「急激な人口増加の圧力に対する、社会的な対策として修道院を用いた」という背景があった。しかしもう1つの要因として、人々の心に心理的な圧力=「暴力・残酷さに満ちた不合理な社会に取って代わりうるのは修道院しかない」「それを見捨てた者は永遠の罪に落ちるべき存在となる」が繰り返し働いていたことも看過できないという
[※つまり、より多く受け入れようとする修道院に対して、経済問題と社会心理的不安の問題から入ることを希望する者が増えていたのだから、供給と需要は一致して増加したということか?]

【修道院生活の不安】
 E.修道院の教育制度は「もっぱら神を瞑想し、絶え間なく聖書を読み、繰り返すことによって神の言葉に深く同化すること」が主要目的だった。とするならば、修道士にとっての古代(異教時代)の著者は「言語的・文学的な学習テキスト」としてしか正当化されえなかった
 F.しかし、社会における文化生活(例:書物)を修道院に集中させる一方で、修道院の神学的・霊的な価値と対比する形で「全ての人間の価値・経験の劣等性」を主張ていたから、修道士のアタマの中で(ひっそりと)隔絶と対立を引き起こしていた
〈例1〉シトー会は「詩を書いた修道士を他の修道院へ移し、総会の承認が無い限りは元の修道院へ戻れない」と決定した(1199年)
〈例2〉シャロン・シュール・ソーヌのサン・マルセル修道院では、一部の修道士らがもっぱら異教的古代の作品を読んでいた。そこではウェルギリウスの古文書が規律堕落の原因とされた
〈例3〉ポンポーザ修道院では、修道院長が異教的著者の作品購入のために修道院の費用を充てたことで、聖職者からの非難を浴びた。この件はそこにあった図書館の目録作成者が記録したのだが、作成者は「ここの蔵書がローマの図書館より豊富だ」と感激し、さらに修道院長の行動を次のように擁護している:
「修道院長は各自が自ら大いに楽しみ、それぞれの性向や長所にしたがって精神を育成するようにはからった。しかも異教徒の本は、注意深く読まれるなら有益である」


(3)問題の昇華

 A.やがて市民生活の間で、信心・文化・教育・趣味という多様&複雑な部分での欲求が高まったことが、修道院の発展と入会にブレーキを掛けた。しかし修道院制度に生じたより根本的な亀裂は、修道院がひたすら「キリストにしたがう」を実現しようとした、その意図から生じていた
 B.クリュニー修道院が達した華麗さ(これも修道院が目指したものだった)は「修道院の改革運動,禁欲・悔悛の強化,ベネディクトゥス会則の文言・精神への忠実さを刷新する努力」を引き起こした。それでも、修道院制度の際立った側面の1つであった「文化的・社会的主導権」そのものを再検討することにはならない
〈例1〉「自発的貧困」の観念とその実践は、社会の支配階級(=貴族)に深く根を下ろし、そして人々の信仰度を測る試金石として「“貧しきキリスト教徒”に対する尊敬・威信・感謝を要求する」ようになる
〈例2〉シトー会はクリュニー修道院の豊かさを非難し設立されたが、その半世紀後には豊富な財を基礎として発展するようになる
 C.しかしこの「文化的・社会的主導権」の側面こそが、修道院制度を不充分なものとし、やがては崩壊へと向かわせる。その過程は緩慢ではあるが、中世盛期の段階ではまず2つの衝撃として現れた
 D.1つは修道院内から起こった。貴族的後退・エリート的閉鎖に抗議する修道士たちは、修道院を出て「説教師の軍団となる」or「『魂の世話』に参加する」かした
 E.もう1つは修道院外から起こった。在俗聖職者は自ら組織し、規律を守ることによって「使徒的生活」へと進んだ。一般信徒はもっと活発な聖職者を求めたが、修道院ではその要求に応えられない。経済の発達は恒常的貧困という現実を突き付けたのだが、それは援助や篤志ではなく、宗教的な贖い・償いの問題として捉えられ、その結果として聖フランチェスコと最初の仲間たちの活動に繋がる
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[5]


○修道士の「黄金時代」


(1)権力機構の再建に向けて

【前史】
 A.カロリング朝の政治的分裂や、各地の修道院に対するサラセン人・ハンガリー人・ノルマン人らの破壊活動は、多くの場合において修道院建設事業を阻害した。次の世代は、荒廃した状況から何とか再興しなければならなかったのだが、それまで築き上げてきたものに関する記憶と論理は継続していた
 B.ヨーロッパにおける権威の再建事業(10~11世紀)において、修道院は(司教や領主に動かされているとしても)確固たる地位を占めていた。「a.市民という広範な社会構造がひどく弱体化していた」「b.中央権力が消滅した」「c.地方権力者間の闘争に巻き込まれて司教の役割が低下した」という状況が、修道院に役割を与えた
 C.教会学校(カロリング朝による改革の最良の結実だった)の衰微or消滅により、修道院はその役割も引き受けた。そこには、緩やかな復興のための出発点となる。修道院は見事に組織され、文化形成力と経済的・市民的な組織力を保持し続けた

【復興へ】
 D.特に王・大貴族(もちろん司教・教皇も支援を惜しまないが)により、修道院は「祈りの中心として,農業開発と発展の拠点として,領地における政治権力の強化のために」修道院は強化され、そして頼りにされた。修道院創設事業は「カロリング朝期を通じて君主の特権となっていた」ので、広い領地を有する有力者たちは、創設事業の再開・続行により「自らの地位・権勢・独立的地位を証明できた」のだった
 E.しかし修道院のそうしたポジションは、領主・司教・修道院を攻撃してその財を略奪しようとする連中にとってみれば、格好の攻撃対象となる理由であった。少なくとも2世紀の間は、修道院をめぐる絶え間ない緊張と闘争(ただし、それは常に上向きの動きだったが)が続いた
 F.やがて一方では、修道院が周囲の権力に従属することから生じる「修道院の規律の弛緩」という意識が生じたが、権力の側では「修道院生活の自律と規則性を脅かさない」という機運が生じた。そして改革要求の機が熟したとき「修道院本来の制度の優越性を確立しよう」=「完全な修道院自治の要求」が高まってきた


(2)修道会の誕生

 A.権力機構の弱体化・消滅の時期(10世紀)において、修道院が地域的権力の指図・野心から自己を守るには、集中化と連携が必要だった。修道院は徐々に、個々に存続していく拠点ではなくなり「各教区の司教の管轄下に置かれる,聖俗の伯爵・領主から様々な形で抑制を受ける」ようになった
 B.そこで修道院は団結するようになり、大きな修道会を組織し、地域的な教区の長の管轄外に置いてもらうよう、ローマへ願い出た。こうして集中化運動が起きた-修道会は新しい修道院を引き寄せ、その強化は集団としての利益を増大させ、後には宗教的・政治的問題において影響力を発揮できるようになる-

【修道院と社会】
 C.クリュニー修道院はアキテーヌ公ギヨームの支持を得てベルノン院長により設立され(910年)、1世紀あまり後には「クリュニー修道会」となる。この修道会は西洋全域(イギリスからイタリアまで)の数百の修道院を統合し、最も重要で影響力のある宗教協会となった(11・12世紀)
 D.修道院の激増は、聖職者と市民の社会に深い影響を与えた。それは単に修道士の行動様式と人々によるその模範というだけでなく、修道院のスタッフの一部が教会の高位職へ移動する場合が多くなったことにもよる
〈例〉「わが修道士たちが司教になるのは、いささかも例外的ではなく、驚くべきことでもない」(クリュニー修道院長の尊者ペトルスの発言:1138年)。この時、クリュニーの修道士がラングル司教に選ばれた
 E.尊者ペトルスは「非合理性からなる歴史(暴力・悲惨・破滅の連続)に対して、修道院だけが対抗でき、世界に意義と視野を与えることができる」と主張した。また修道院文化から生まれた考察として、社会の3身分の図式=「祈る人,戦う人,耕す人」を、3つのレベル=「世俗人(善良である),聖職者(さらに善良である),修道士(立派である)」に構成し直す、というのがあった
 F.このように修道院文化は「物質に対する精神,身体に対する霊魂」の絶対的優位性を認めた。さらに独身でない人間にことさら否定性を当てたり、女子は「(本質的に)陰険,邪悪,常に官能と放埒な情念の餌食である,男子を肉欲でもって誘惑する」者である、とした


(3)祈り

【修道院での祈りと保護】
 A.修道院は地上での生を天国に繋げる役割を担った。祈りによって「この世に生きていながら何か功績があった者全てに助けと支えを保証し」、そこに住む人々は地上から天上への通過を確実とされていた
 B.修道院はその周りに様々な人々を集めた。「身分の低い人,あまりにも不安定な境遇で困窮している人」にとって、その都度の助けや避難を求めるだけでは済まなくなると、残された手段は「修道院に引き取ってもらうこと」だった。僅かな財産と少しの土地とともに身を捧げ、その代わりに保護・助け・祈りが得られるので、修道院へ人々が殺到した
 C.このような現実的動機が目立てば修道院の役割が変質しかねないので、修道会(例:ヴァンブローサ,シトー)では「助修道士」制を設けた。これは元々は「成年に達してから修道院に入った修道士を指していた」のだが、貴族出身者が多くなった期間(10~11世紀)には減少した(彼らは子供の時から修道院で育成された者と対立した)。こうして新しい「助修士制」が作られたが、こちらは「a.修道士として受け入れられた無学の俗人を表す」「b.彼らは祈祷席に座れず、雑役をさせられた」「c.あまり教育も受けられない」のだった
 D.新しい助修士制は、修道院に入る人々の範囲が社会的に広まったことを示している。並行して新しい宗教的要求も生まれ「多くの家庭・村全体が、より厳しい宗教的生活をあこがれて『兄弟会』を結成する」ようになった(兄弟会の絆は生者と死者をも繋ぐ)。社会全体の構図として、修道院内(修道士・助修道士たち)だけでなく、その周りを取り囲むように(宗教的生活を営む)様々な社会階層が存在するようになる。その広がりは明確に定義しえない

【現世利益と来世での保証】
 E.それと比べて、国王・大貴族たちの修道院との繋がりは密接・明瞭だった。その死が近づいた時に彼らが修道服をまとう習慣は、あの世での運命を二重に保証した(修道服・修道院の墓によるもの,祈りによるもの)。その対価として国王・大貴族たちは年金と財産を修道院に寄贈したが、その額は莫大だった
〈例〉カスティーリャの王アルフォンソはクリュニー修道会へ寄進したが、それは彼の死後の為に行われたのだった:
「3時課に詩篇の朗唱」
「大ミサでは集会の祈りをあげる」
「聖木曜日には30人の貧しい人が“彼のために”足を洗う(※彼らは幾ばくかの報酬を貰うのだろうか?)」
「復活祭には“彼のために”100人の貧しい人に食事を与える」
「修道院の食堂では毎日、彼のために席が設けられる。この食事は修道士に供することになる」
「寄進により建立された教会堂では、彼のために祭壇が1つ設けられ、毎日ミサが行われる」
「このような聖務には王妃も参加する。また王の死後にはいっそう多くなる」
 F.アルフォンソが行ったような事業は、世俗の大小様々な貴族たちが次々と模倣していった。どこかの修道院に寄進・恩恵・保護がもたらされ、そこで行われる「故人の追悼と過去帳」は修道士と寄進者の間を結びつけていった。これによって、修道院の日課の中で典礼に割り当てられる部分は、特にクリュニー修道会で膨張していく
 G.また、幼い子供が修道院に入るようになることで、修道院とその両親との関係が強化された。というのは「子供の1人を神へ献上する際には、子供の養育・教育のために一定の財産を添えられる」ことが多かったから
 H.関係強化はいっそうの利益をもたらし得た。ノルマンディー公ギヨームがイギリスを征服した後、自らが創設した修道院共同体を使って王国の司教団を組織した。さらに修道院のスタッフが、王室の財産をより巧み&慎重に管理するようになる


(4)卓越した修道士

 A.フランス最強の領主の1人である伯ティボーは、当時創設されたばかりのシトー修道会に多大な寄贈を行い、また聖ベルナールと親交があったことで有名だった。その伯に国王の軍隊が差し向けられた時に、、彼の味方をしたのは(過去の寄贈があったにもかかわらず)騎士や射手ではなく、修道士や助修道士たちだったという。祈りがそれほど役に立つとは、当時の人々も思っていなかった
 B.聖者伝作者が記したところによると、聖ベルナールは祈っただけでなく活発な介入を行い、双方を和解させることでティボーを危機から救った。実際(信仰上の誇張ではなく)政治的紛争において聖ベルナールが決定的な介入を行った痕跡はあまりにも多い
 C.聖ベルナールは例外的な人物だが、中世盛期の少なくとも2世紀間は、このような役割を演じた人物が多い。彼らは大事件における「相談役,仲介者,調停者」となった
〈例〉クリュニー修道院長ユーグは『カノッサの屈辱』事件において、ハインリヒ4世の赦免に大いに関わったが、彼はカノッサにおいてグレゴリウス7世の傍に座を占めていた。またハインリヒ4世は、後に自分の息子から攻撃され逃避していた時に聖ベルナールに同情と支援を願い出た

【彼らの徳性】
 D.彼らは「威光・権威・決断力がある」「畏怖感も与えていたと考えられる」上に「“無欲の厳しさ”という名声を発していた」「人徳,調査・分析力,心の動きの客観的解読力」といった要素により、他の者たちと比べて圧倒的な人間性と円熟度を備えるようになったと思われる
[※クリュニー修道院長ユーグ,サン・ドニ修道院長シュジェール,尊者ペトルス,大シャルトルーズ修道院創設者ブリュノの事例は省略]
 E.彼らの知的活力と情緒の豊かさは、感動・逸脱・繊細・秘かな配慮を表現できる「記述の英知」により生み出された。それは修道院世界の生み出した成果であり、そこで行われてきた体系的研究の価値であった。だからこそ仲介・和平・指導活動が可能だった

【卓越したポジション】
 F.そうした活動は「平和・兄弟的・秩序ある修道院」を、いわば修道院の外の世界へ押し広げようとするものであった。しかし彼ら修道士たちが政治に参加しようとしたのではないし、歴史的事件(=権力の再配分のための闘争)に加わるとしても審判役を果たしただけでもない。「修道士の自己意識の高さ,修道士自身の存在意義・象徴する意味に対する意識の強さ」が、世俗人の活動に対する予言的・決定的な判断権を要求しえたのだった
 G.同様に、富を漁る無規律な兵士や無節操で野心的な領主によって、修道士の生活&財産が攻撃・略奪されたならば、修道院文化によって必ず裁かれた。それは、こうした事実のごく一般的な結果として修道院年代記では「罪人に対して神or人間の手によってもたらされる不幸と懲罰」が記録されていることに示されている
 H.このような場合には(懲罰を下す)人間の手は神の正義を帯している。修道院は当時の(封建的で混沌とした)社会を引き裂く「利害と野心の錯綜・対立」から独立した、超越した地位を維持しようとしたのだった。しかし実際に様々な党派・集団が形成され対立した場合、修道院は特定の一族のための手段にとどまっていた(世俗サイドから見た「手段としての修道院の有用性」があったから、修道院は増加・発展してきた)
 I.中世の真ん中あたり(10~12世紀)において(特に修道士の大半が、きわめて若い頃から修道院に入った人々からなっていた時期である)、修道院世界は「一般の人々の記憶や期待に対して閉ざされ、受け付けないような」世界を構成するようになった。修道士の世界と一般の世界との間にはっきりとした境界があった。修道士たちは自らの任務や社会に対する「示し」としての立場から、エリート意識を抱いていた
 J.逆に修道院世界での生活(様式・動作・振る舞い・趣味・感動)は、一般の尺度とは異なる価値観によって統一されたものであり、一般の人々から尊敬・注目を浴びていた。しかし修道院と周囲の社会はコミュニケーションを行えなかった