『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[4]
○修道士(古代末期~中世初期)
(1)概観
A.修道院最盛期(12世紀)には、クリュニー会・シトー会・カルトゥジオ会・カマルドリ会・ヴァロンブローサ会はヨーロッパ各地に幾千も増加した。また制度化された修道院世界の周辺では「隠者」たちがアルプスの辺境や森林地帯にうずもれており、定期的に人間の住む世界に現れ、死の脅威などを説いて回っていた。しかし修道院制の衰退はこの時より始まる
B.修道院制が頂点に達するまで(=ヨーロッパのキリスト教化が進む過程において)、修道院は決定的・独占的な性格を有した。古代末期の修道院文化の中から次第に現れてきた彼ら修道士の自己意識において「真のキリスト教徒は修道士だけ」だったのだ
C.中世初期の間に修道院においてゆっくりと成熟していた経験・文化・制度は、カロリング朝後のヨーロッパの政治的・社会的に困難な現実において、強力な修道院復興の波の基礎となった(10~11世紀)。真のキリスト教は修道院生活の中にあった
D.この時期の人々の記憶は、もっぱら修道士(or修道士の影響を深く受けた聖職者)によって伝えられている。修道士以外の歴史上の主役たちの活動・事業は、修道院文化という判断基準を物差しとして、今日に伝えられている
(2)古代末期~中世初期
【起源(5世紀に記されたものから)】
A.共同生活修道士という生活様式は、使徒たちの説教時代へ遡る。イェルサレムでは全ての信者が群れを成して生活しており「何もかも共同で使った」「自分の土地・資産を売った代金を各自の必要に応じて配分した」「彼らの中には貧困者は1人もいなかった」という
B.しかし使徒たちはが亡くなった後には、信者の群れの熱意も冷め始めた(特にキリスト信仰のために各地から押し寄せていた人々がそうだった)。指導者たちは「彼らの信仰の浅さ,異教的習慣」を考慮して、ただ「偶像に供え物を捧げること,蒸し肉を食べること,血を飲むこと」に限って慎むように求めた
C.しかしこうした妥協は、イェルサレムでのキリスト教会の完成を阻害した。一方で新しい信者の数は日に日に増えていった。こうした中で、キリスト教会の指導者たちの間でも、昔の厳しさは少しずつ緩んでいった
D.このような状況においても、なお以前の使徒的熱意を持って生きる人たちは、弛緩した信者たちから決別して「町外れや僻地で暮らし始める,自己の責任においてかつての厳しい規則を実践し始める」ようになった。彼ら熱心な弟子たちのおかげで「戒律」が確立された
E.彼らは一般信徒の群れから離れ、また結婚を諦め、両親や世俗から隔たっていたので「修道士」と呼ばれた。彼らの部屋や住まいは「共同修道院」と呼ばれた
[上記の話は、5世紀はじめにジャン・カシアヌス(サン・ヴィクトル修道院の創立者)によってまとめられたもの。彼は、ガリア南部において修道院を組織しそれを運営する修道士のために、これを用意した]
【与えられた指針】
F.実際には、オリエントにおける修道院制(4世紀)と西洋における修道院の激増(4~5世紀)との間には、全く別の複雑さ・特徴があった。エジプトではD.E.の試みが成功したが、それは貴族的な方法(=社会からきっぱりと絶縁し、個人の内面で省察を行う)であった
G.ギリシアの教父たち(4世紀)の教え(のラテン語訳)は、中世西洋の修道院文化に豊かな思考を提供した。そしてカシアヌスが作った歴史的な図式がもたらす“修道士たちの自己意識”=「修道院が真のキリスト教を独占し、同じくキリスト教であるはずの在俗の聖職者たちに強く抗議している」は、修道院の驚異的な発展(11~12世紀)にとって決定的なものとなった
(3)修道院制度の整備
【修道院会則】
A.トゥールのグレゴリウスが、マルセイユの修道院設立のために書いた「会則」は、オリエントで作られたものを手本にしていた。そもそも自発的な意思によって修道士となるのだが、彼が「俗世を捨て、さらにその魅力や個人的な性癖と戦い続ける」ために、修道士は自分の意思を諦めて上司の指導・監視下に置く-それが「服従と規律の基準」であった-
B.次々と新しい修道院が開設された(5~6世紀)が、当時の暮らしにくく憎しみあう社会において、修道士になることを望んだのは「祈りと孤独によって神を求める魂」だけではなかった。明らかに「平穏と平和を求めてきた」人間もいた。さらには最初の女子修道院が設立されたが、そこでも男子修道院を手本とした“従属性”が常に強調されていた
C.上記のような状況では、服従と規律を定めた「会則」の作成がますます重要であった。30種を下らない会則が見直され、調整され、手直しされ、新規に作られたので、原形が見つかりにくいほどとなっている(5~7世紀)。禁欲の指導は修道院ごとによって変化に富み、修道院の条件は各地で様々であったにもかかわらず、修道院の共通点として「a.自給自足的で全ての面において規制される空間へと向かう」「b.祈りと労働の中心となる」「c.文化の中心となる」があった
D.聖ベネディクトゥスの会則(6世紀中葉に作成された)は何世紀かの間に、教皇からの強い支持とカロリング朝の主導下によって西洋における大部分の修道院の模範的規則となった。普及の理由は、修道士の共同生活を「修道院長に任された幅広い自由裁量権によって統括できる」点にある
【文化の拠点】
E.西洋における伝統的な規則では一般に、修道士に対して「1日につき2・3時間を霊的読書に当てていた」。そうした宗教的生活のために、修道士に読み方を教える義務が一般的に規則化されていた
☆「遅くとも50歳までに」と明記されているのは、修道院生活を選ぶ人がまだ「文盲の壮年者だった」ことを示している
F.また、この義務教育は「丸暗記した聖書の文言を口頭で繰り返す」のに必要な勉強だった。この教育のために、修道院には常に教育手段=「図書館,学校,筆耕室」が用意された
G.陸の孤島のような存在となった修道院は、規則で定められているように「貧しい人々に宿泊と援助を提供すること」が義務づけられた。さらにその目的のために、多くの財産を修道士の日常生活用に確保することができた。修道院の規則では一般に「修道士はいかなる形であっても個人的所有を禁じられている」のだが、集団的所有は排除されていなかった
(4)社会と修道院
【修道士は世間から隔離される】
A.修道士が自らを完成させ、救済しようとする問題について。カシヤヌスは、修道士を在俗のキリスト教会の衰微・堕落から隔離すべきと考えた。したがって、彼らが「他人を改宗させ、指導すること」を否定し(なぜなら日常的関心事や俗生活に関わってしまうから)、自らを厳格に守ることが大事だとした
B.修道院は貴族的・エリート的な体制となり、修道士は俗世の現実的問題(深刻化する危機)に対して自己を閉ざした。その結果、彼らは「神の恩寵を受けた人格上の優越性を持つ」ようになり、それが身分としての優越性につながった
【聖者崇拝と修道院】
C.波乱に満ちた隠者たちの登場と、広く普及した修道院関係の伝記チックな(人々にとっての)“お手本”の最初の創生(4~5世紀)によって「修道士という姿-人格的な聖性-カリスマ的・超自然的な力の保有」の3つの事実が密接に結びついて、中世の信仰のかたちが形成される。これが聖者崇拝であった
D.その拡大と普及は、隠者と修道士だけに対象が限られたのではなく、他の人物(特に聖職者-まず司教を先頭に-)をも含んでいる。彼らは「生涯を通じてカリスマ的で霊験のある人物であった,全て聖性を備えていた,死後にも力を発揮することができる(それは増大するほどだった)」と理解されていた
E.(彼らに補助・仲介してもらわねばならなかった)修道院の現実とは、単に「師匠の思い出を保つ弟子の集団,共同体としての修道院」だけでなく、そうした聖者たちまでも含んでいた。彼らは世俗の人々からは「現時点でも再生力・救済力を保持している」と感じられていた。そして聖者が「信仰の篤さによって神から特別に選ばれ、豊かな恩恵と大きな力を与えられた」人間であるとするならば、修道士たちは修道院での生活により特権的に聖性と結びついていくと理解されるようになる
F.古くから残る「礼拝,墓,痕跡,カリスマ的事物」によって神聖化された場所は永続し、そこに新しい礼拝の場所が重なりって、修道院共同体の現実生活となる。単なる思い出の場所から「神聖な生活の中心」にまで昇華した修道院は、そこに接触する人々に恩恵・恩寵・安心・救いを与えるようになった。修道院は「一般からは敬われる場所、冒涜する者にとっては恐ろしい場所、篤志家には祈りと恩寵が保証される場所」となった
【権力者と修道院】
G.さらに修道院創設者(君主・貴族)と修道院との間には「修道士たちの共同生活のための物質的援助(贈り物&寄進)」-「俗人には果たせない祈りと悔悛を行う」によって、互いに恩恵を与えあう特権的な関係が成立していたように見える。寄進した者の救済を強調するこの考え方は、異教的要素が残っていた権力者たちに修道院建設の熱意を呼び起こすことに成功した
H.しかし現実的な側面として「(司教をはじめ)有力者たちは修道院建設を口実として、自らの領土拡張を国王に認めてもらう」目的があった(これによって領地と修道院と併せて世襲財産にするため)。一方で、そのような環境は修道院を「富と権力の拠点」にした。そして修道士自身も、大半の人間には望めないほどの宗教的・文化的・社会的恩恵に浴して深く満足していたのだ
〈例〉ロンバルディア地方(7世紀)では、王・高位貴族たちがカトリックに改宗した後、修道院発展に多大な貢献をした。修道院建設は「より安定した経済・行政の組織を彼らの領地にもたらした」のだが、それは彼らが望むような精神的利益とも結びついていた
(5)修道院激増期(7~9世紀)
A.ヨーロッパ大陸に上陸したアイルランド人やアングロ・サクソン人の修道士たちは、諸国の君主とローマからの援助によって多数の修道院を建設した(6世紀末~8世紀)。この波はカロリング朝覇権の数十年間の内に頂点に達した
B.皇帝・王が建設した大修道院において、大勢の修道士たちは支配者のために祈りを捧げ、君主の事業への天の加護を確実にした。また修道院は支配者の統治に文化的基礎を与えた
C.支配者は修道士たちに、共通した堅固な規律を与えようと配慮し、このために聖ベネディクトゥスの会則の適用が一般化された。これにはアニアーヌのベネディクトゥスが主役を演じた。彼は「修道院生活の日課を厳密に規定し、組織化する」ことに成功したのだが、そこにはカロリング朝による強力な後押し(修道院建設のための財政援助,勅令による会則採用の命令)は不可欠だった
【「神聖都市」の出現】
D.大修道院の傍には大規模な集落が形成された。町は区割りされ、軍隊によって守られる
〈例〉サン・リキエ修道院(788年)では、三角形の囲いにおいて3つの大教会堂が3頂点に位置し、少なくとも300人の修道士が暮らしていた。周囲には人口約7,000人の町が発展し、住民は職業or「修道院への奉仕の役割」によって各地区(例:軍人,指物師,織物職人,鞣し皮職人,靴屋,皮革品製造業者,パン屋,居酒屋,葡萄作り,商人)に住み着いた
E.アニアーヌのベネディクトゥスによって典礼を最重視した修道院は「a.禁欲主義,個人的悔悛,軍人社会の残酷な習慣からの避難」の場所となるが、何よりも「b.集団的&公共の祈りの場所」だった(それが社会において必要とみなされた)。“祈りの砦”としての修道院は、社会全体の利益のために機能(神を熱愛し、神の恩恵・恩寵をいただき、人間の敵と戦う)を果たした
○修道士(古代末期~中世初期)
(1)概観
A.修道院最盛期(12世紀)には、クリュニー会・シトー会・カルトゥジオ会・カマルドリ会・ヴァロンブローサ会はヨーロッパ各地に幾千も増加した。また制度化された修道院世界の周辺では「隠者」たちがアルプスの辺境や森林地帯にうずもれており、定期的に人間の住む世界に現れ、死の脅威などを説いて回っていた。しかし修道院制の衰退はこの時より始まる
B.修道院制が頂点に達するまで(=ヨーロッパのキリスト教化が進む過程において)、修道院は決定的・独占的な性格を有した。古代末期の修道院文化の中から次第に現れてきた彼ら修道士の自己意識において「真のキリスト教徒は修道士だけ」だったのだ
C.中世初期の間に修道院においてゆっくりと成熟していた経験・文化・制度は、カロリング朝後のヨーロッパの政治的・社会的に困難な現実において、強力な修道院復興の波の基礎となった(10~11世紀)。真のキリスト教は修道院生活の中にあった
D.この時期の人々の記憶は、もっぱら修道士(or修道士の影響を深く受けた聖職者)によって伝えられている。修道士以外の歴史上の主役たちの活動・事業は、修道院文化という判断基準を物差しとして、今日に伝えられている
(2)古代末期~中世初期
【起源(5世紀に記されたものから)】
A.共同生活修道士という生活様式は、使徒たちの説教時代へ遡る。イェルサレムでは全ての信者が群れを成して生活しており「何もかも共同で使った」「自分の土地・資産を売った代金を各自の必要に応じて配分した」「彼らの中には貧困者は1人もいなかった」という
B.しかし使徒たちはが亡くなった後には、信者の群れの熱意も冷め始めた(特にキリスト信仰のために各地から押し寄せていた人々がそうだった)。指導者たちは「彼らの信仰の浅さ,異教的習慣」を考慮して、ただ「偶像に供え物を捧げること,蒸し肉を食べること,血を飲むこと」に限って慎むように求めた
C.しかしこうした妥協は、イェルサレムでのキリスト教会の完成を阻害した。一方で新しい信者の数は日に日に増えていった。こうした中で、キリスト教会の指導者たちの間でも、昔の厳しさは少しずつ緩んでいった
D.このような状況においても、なお以前の使徒的熱意を持って生きる人たちは、弛緩した信者たちから決別して「町外れや僻地で暮らし始める,自己の責任においてかつての厳しい規則を実践し始める」ようになった。彼ら熱心な弟子たちのおかげで「戒律」が確立された
E.彼らは一般信徒の群れから離れ、また結婚を諦め、両親や世俗から隔たっていたので「修道士」と呼ばれた。彼らの部屋や住まいは「共同修道院」と呼ばれた
[上記の話は、5世紀はじめにジャン・カシアヌス(サン・ヴィクトル修道院の創立者)によってまとめられたもの。彼は、ガリア南部において修道院を組織しそれを運営する修道士のために、これを用意した]
【与えられた指針】
F.実際には、オリエントにおける修道院制(4世紀)と西洋における修道院の激増(4~5世紀)との間には、全く別の複雑さ・特徴があった。エジプトではD.E.の試みが成功したが、それは貴族的な方法(=社会からきっぱりと絶縁し、個人の内面で省察を行う)であった
G.ギリシアの教父たち(4世紀)の教え(のラテン語訳)は、中世西洋の修道院文化に豊かな思考を提供した。そしてカシアヌスが作った歴史的な図式がもたらす“修道士たちの自己意識”=「修道院が真のキリスト教を独占し、同じくキリスト教であるはずの在俗の聖職者たちに強く抗議している」は、修道院の驚異的な発展(11~12世紀)にとって決定的なものとなった
(3)修道院制度の整備
【修道院会則】
A.トゥールのグレゴリウスが、マルセイユの修道院設立のために書いた「会則」は、オリエントで作られたものを手本にしていた。そもそも自発的な意思によって修道士となるのだが、彼が「俗世を捨て、さらにその魅力や個人的な性癖と戦い続ける」ために、修道士は自分の意思を諦めて上司の指導・監視下に置く-それが「服従と規律の基準」であった-
B.次々と新しい修道院が開設された(5~6世紀)が、当時の暮らしにくく憎しみあう社会において、修道士になることを望んだのは「祈りと孤独によって神を求める魂」だけではなかった。明らかに「平穏と平和を求めてきた」人間もいた。さらには最初の女子修道院が設立されたが、そこでも男子修道院を手本とした“従属性”が常に強調されていた
C.上記のような状況では、服従と規律を定めた「会則」の作成がますます重要であった。30種を下らない会則が見直され、調整され、手直しされ、新規に作られたので、原形が見つかりにくいほどとなっている(5~7世紀)。禁欲の指導は修道院ごとによって変化に富み、修道院の条件は各地で様々であったにもかかわらず、修道院の共通点として「a.自給自足的で全ての面において規制される空間へと向かう」「b.祈りと労働の中心となる」「c.文化の中心となる」があった
D.聖ベネディクトゥスの会則(6世紀中葉に作成された)は何世紀かの間に、教皇からの強い支持とカロリング朝の主導下によって西洋における大部分の修道院の模範的規則となった。普及の理由は、修道士の共同生活を「修道院長に任された幅広い自由裁量権によって統括できる」点にある
【文化の拠点】
E.西洋における伝統的な規則では一般に、修道士に対して「1日につき2・3時間を霊的読書に当てていた」。そうした宗教的生活のために、修道士に読み方を教える義務が一般的に規則化されていた
☆「遅くとも50歳までに」と明記されているのは、修道院生活を選ぶ人がまだ「文盲の壮年者だった」ことを示している
F.また、この義務教育は「丸暗記した聖書の文言を口頭で繰り返す」のに必要な勉強だった。この教育のために、修道院には常に教育手段=「図書館,学校,筆耕室」が用意された
G.陸の孤島のような存在となった修道院は、規則で定められているように「貧しい人々に宿泊と援助を提供すること」が義務づけられた。さらにその目的のために、多くの財産を修道士の日常生活用に確保することができた。修道院の規則では一般に「修道士はいかなる形であっても個人的所有を禁じられている」のだが、集団的所有は排除されていなかった
(4)社会と修道院
【修道士は世間から隔離される】
A.修道士が自らを完成させ、救済しようとする問題について。カシヤヌスは、修道士を在俗のキリスト教会の衰微・堕落から隔離すべきと考えた。したがって、彼らが「他人を改宗させ、指導すること」を否定し(なぜなら日常的関心事や俗生活に関わってしまうから)、自らを厳格に守ることが大事だとした
B.修道院は貴族的・エリート的な体制となり、修道士は俗世の現実的問題(深刻化する危機)に対して自己を閉ざした。その結果、彼らは「神の恩寵を受けた人格上の優越性を持つ」ようになり、それが身分としての優越性につながった
【聖者崇拝と修道院】
C.波乱に満ちた隠者たちの登場と、広く普及した修道院関係の伝記チックな(人々にとっての)“お手本”の最初の創生(4~5世紀)によって「修道士という姿-人格的な聖性-カリスマ的・超自然的な力の保有」の3つの事実が密接に結びついて、中世の信仰のかたちが形成される。これが聖者崇拝であった
D.その拡大と普及は、隠者と修道士だけに対象が限られたのではなく、他の人物(特に聖職者-まず司教を先頭に-)をも含んでいる。彼らは「生涯を通じてカリスマ的で霊験のある人物であった,全て聖性を備えていた,死後にも力を発揮することができる(それは増大するほどだった)」と理解されていた
E.(彼らに補助・仲介してもらわねばならなかった)修道院の現実とは、単に「師匠の思い出を保つ弟子の集団,共同体としての修道院」だけでなく、そうした聖者たちまでも含んでいた。彼らは世俗の人々からは「現時点でも再生力・救済力を保持している」と感じられていた。そして聖者が「信仰の篤さによって神から特別に選ばれ、豊かな恩恵と大きな力を与えられた」人間であるとするならば、修道士たちは修道院での生活により特権的に聖性と結びついていくと理解されるようになる
F.古くから残る「礼拝,墓,痕跡,カリスマ的事物」によって神聖化された場所は永続し、そこに新しい礼拝の場所が重なりって、修道院共同体の現実生活となる。単なる思い出の場所から「神聖な生活の中心」にまで昇華した修道院は、そこに接触する人々に恩恵・恩寵・安心・救いを与えるようになった。修道院は「一般からは敬われる場所、冒涜する者にとっては恐ろしい場所、篤志家には祈りと恩寵が保証される場所」となった
【権力者と修道院】
G.さらに修道院創設者(君主・貴族)と修道院との間には「修道士たちの共同生活のための物質的援助(贈り物&寄進)」-「俗人には果たせない祈りと悔悛を行う」によって、互いに恩恵を与えあう特権的な関係が成立していたように見える。寄進した者の救済を強調するこの考え方は、異教的要素が残っていた権力者たちに修道院建設の熱意を呼び起こすことに成功した
H.しかし現実的な側面として「(司教をはじめ)有力者たちは修道院建設を口実として、自らの領土拡張を国王に認めてもらう」目的があった(これによって領地と修道院と併せて世襲財産にするため)。一方で、そのような環境は修道院を「富と権力の拠点」にした。そして修道士自身も、大半の人間には望めないほどの宗教的・文化的・社会的恩恵に浴して深く満足していたのだ
〈例〉ロンバルディア地方(7世紀)では、王・高位貴族たちがカトリックに改宗した後、修道院発展に多大な貢献をした。修道院建設は「より安定した経済・行政の組織を彼らの領地にもたらした」のだが、それは彼らが望むような精神的利益とも結びついていた
(5)修道院激増期(7~9世紀)
A.ヨーロッパ大陸に上陸したアイルランド人やアングロ・サクソン人の修道士たちは、諸国の君主とローマからの援助によって多数の修道院を建設した(6世紀末~8世紀)。この波はカロリング朝覇権の数十年間の内に頂点に達した
B.皇帝・王が建設した大修道院において、大勢の修道士たちは支配者のために祈りを捧げ、君主の事業への天の加護を確実にした。また修道院は支配者の統治に文化的基礎を与えた
C.支配者は修道士たちに、共通した堅固な規律を与えようと配慮し、このために聖ベネディクトゥスの会則の適用が一般化された。これにはアニアーヌのベネディクトゥスが主役を演じた。彼は「修道院生活の日課を厳密に規定し、組織化する」ことに成功したのだが、そこにはカロリング朝による強力な後押し(修道院建設のための財政援助,勅令による会則採用の命令)は不可欠だった
【「神聖都市」の出現】
D.大修道院の傍には大規模な集落が形成された。町は区割りされ、軍隊によって守られる
〈例〉サン・リキエ修道院(788年)では、三角形の囲いにおいて3つの大教会堂が3頂点に位置し、少なくとも300人の修道士が暮らしていた。周囲には人口約7,000人の町が発展し、住民は職業or「修道院への奉仕の役割」によって各地区(例:軍人,指物師,織物職人,鞣し皮職人,靴屋,皮革品製造業者,パン屋,居酒屋,葡萄作り,商人)に住み着いた
E.アニアーヌのベネディクトゥスによって典礼を最重視した修道院は「a.禁欲主義,個人的悔悛,軍人社会の残酷な習慣からの避難」の場所となるが、何よりも「b.集団的&公共の祈りの場所」だった(それが社会において必要とみなされた)。“祈りの砦”としての修道院は、社会全体の利益のために機能(神を熱愛し、神の恩恵・恩寵をいただき、人間の敵と戦う)を果たした