『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[4]


○修道士(古代末期~中世初期)


(1)概観

 A.修道院最盛期(12世紀)には、クリュニー会・シトー会・カルトゥジオ会・カマルドリ会・ヴァロンブローサ会はヨーロッパ各地に幾千も増加した。また制度化された修道院世界の周辺では「隠者」たちがアルプスの辺境や森林地帯にうずもれており、定期的に人間の住む世界に現れ、死の脅威などを説いて回っていた。しかし修道院制の衰退はこの時より始まる
 B.修道院制が頂点に達するまで(=ヨーロッパのキリスト教化が進む過程において)、修道院は決定的・独占的な性格を有した。古代末期の修道院文化の中から次第に現れてきた彼ら修道士の自己意識において「真のキリスト教徒は修道士だけ」だったのだ
 C.中世初期の間に修道院においてゆっくりと成熟していた経験・文化・制度は、カロリング朝後のヨーロッパの政治的・社会的に困難な現実において、強力な修道院復興の波の基礎となった(10~11世紀)。真のキリスト教は修道院生活の中にあった
 D.この時期の人々の記憶は、もっぱら修道士(or修道士の影響を深く受けた聖職者)によって伝えられている。修道士以外の歴史上の主役たちの活動・事業は、修道院文化という判断基準を物差しとして、今日に伝えられている


(2)古代末期~中世初期

【起源(5世紀に記されたものから)】
 A.共同生活修道士という生活様式は、使徒たちの説教時代へ遡る。イェルサレムでは全ての信者が群れを成して生活しており「何もかも共同で使った」「自分の土地・資産を売った代金を各自の必要に応じて配分した」「彼らの中には貧困者は1人もいなかった」という
 B.しかし使徒たちはが亡くなった後には、信者の群れの熱意も冷め始めた(特にキリスト信仰のために各地から押し寄せていた人々がそうだった)。指導者たちは「彼らの信仰の浅さ,異教的習慣」を考慮して、ただ「偶像に供え物を捧げること,蒸し肉を食べること,血を飲むこと」に限って慎むように求めた
 C.しかしこうした妥協は、イェルサレムでのキリスト教会の完成を阻害した。一方で新しい信者の数は日に日に増えていった。こうした中で、キリスト教会の指導者たちの間でも、昔の厳しさは少しずつ緩んでいった
 D.このような状況においても、なお以前の使徒的熱意を持って生きる人たちは、弛緩した信者たちから決別して「町外れや僻地で暮らし始める,自己の責任においてかつての厳しい規則を実践し始める」ようになった。彼ら熱心な弟子たちのおかげで「戒律」が確立された
 E.彼らは一般信徒の群れから離れ、また結婚を諦め、両親や世俗から隔たっていたので「修道士」と呼ばれた。彼らの部屋や住まいは「共同修道院」と呼ばれた
[上記の話は、5世紀はじめにジャン・カシアヌス(サン・ヴィクトル修道院の創立者)によってまとめられたもの。彼は、ガリア南部において修道院を組織しそれを運営する修道士のために、これを用意した]

【与えられた指針】
 F.実際には、オリエントにおける修道院制(4世紀)と西洋における修道院の激増(4~5世紀)との間には、全く別の複雑さ・特徴があった。エジプトではD.E.の試みが成功したが、それは貴族的な方法(=社会からきっぱりと絶縁し、個人の内面で省察を行う)であった
 G.ギリシアの教父たち(4世紀)の教え(のラテン語訳)は、中世西洋の修道院文化に豊かな思考を提供した。そしてカシアヌスが作った歴史的な図式がもたらす“修道士たちの自己意識”=「修道院が真のキリスト教を独占し、同じくキリスト教であるはずの在俗の聖職者たちに強く抗議している」は、修道院の驚異的な発展(11~12世紀)にとって決定的なものとなった


(3)修道院制度の整備

【修道院会則】
 A.トゥールのグレゴリウスが、マルセイユの修道院設立のために書いた「会則」は、オリエントで作られたものを手本にしていた。そもそも自発的な意思によって修道士となるのだが、彼が「俗世を捨て、さらにその魅力や個人的な性癖と戦い続ける」ために、修道士は自分の意思を諦めて上司の指導・監視下に置く-それが「服従と規律の基準」であった-
 B.次々と新しい修道院が開設された(5~6世紀)が、当時の暮らしにくく憎しみあう社会において、修道士になることを望んだのは「祈りと孤独によって神を求める魂」だけではなかった。明らかに「平穏と平和を求めてきた」人間もいた。さらには最初の女子修道院が設立されたが、そこでも男子修道院を手本とした“従属性”が常に強調されていた
 C.上記のような状況では、服従と規律を定めた「会則」の作成がますます重要であった。30種を下らない会則が見直され、調整され、手直しされ、新規に作られたので、原形が見つかりにくいほどとなっている(5~7世紀)。禁欲の指導は修道院ごとによって変化に富み、修道院の条件は各地で様々であったにもかかわらず、修道院の共通点として「a.自給自足的で全ての面において規制される空間へと向かう」「b.祈りと労働の中心となる」「c.文化の中心となる」があった
 D.聖ベネディクトゥスの会則(6世紀中葉に作成された)は何世紀かの間に、教皇からの強い支持とカロリング朝の主導下によって西洋における大部分の修道院の模範的規則となった。普及の理由は、修道士の共同生活を「修道院長に任された幅広い自由裁量権によって統括できる」点にある

【文化の拠点】
 E.西洋における伝統的な規則では一般に、修道士に対して「1日につき2・3時間を霊的読書に当てていた」。そうした宗教的生活のために、修道士に読み方を教える義務が一般的に規則化されていた
 ☆「遅くとも50歳までに」と明記されているのは、修道院生活を選ぶ人がまだ「文盲の壮年者だった」ことを示している
 F.また、この義務教育は「丸暗記した聖書の文言を口頭で繰り返す」のに必要な勉強だった。この教育のために、修道院には常に教育手段=「図書館,学校,筆耕室」が用意された
 G.陸の孤島のような存在となった修道院は、規則で定められているように「貧しい人々に宿泊と援助を提供すること」が義務づけられた。さらにその目的のために、多くの財産を修道士の日常生活用に確保することができた。修道院の規則では一般に「修道士はいかなる形であっても個人的所有を禁じられている」のだが、集団的所有は排除されていなかった


(4)社会と修道院

【修道士は世間から隔離される】
 A.修道士が自らを完成させ、救済しようとする問題について。カシヤヌスは、修道士を在俗のキリスト教会の衰微・堕落から隔離すべきと考えた。したがって、彼らが「他人を改宗させ、指導すること」を否定し(なぜなら日常的関心事や俗生活に関わってしまうから)、自らを厳格に守ることが大事だとした
 B.修道院は貴族的・エリート的な体制となり、修道士は俗世の現実的問題(深刻化する危機)に対して自己を閉ざした。その結果、彼らは「神の恩寵を受けた人格上の優越性を持つ」ようになり、それが身分としての優越性につながった

【聖者崇拝と修道院】
 C.波乱に満ちた隠者たちの登場と、広く普及した修道院関係の伝記チックな(人々にとっての)“お手本”の最初の創生(4~5世紀)によって「修道士という姿-人格的な聖性-カリスマ的・超自然的な力の保有」の3つの事実が密接に結びついて、中世の信仰のかたちが形成される。これが聖者崇拝であった
 D.その拡大と普及は、隠者と修道士だけに対象が限られたのではなく、他の人物(特に聖職者-まず司教を先頭に-)をも含んでいる。彼らは「生涯を通じてカリスマ的で霊験のある人物であった,全て聖性を備えていた,死後にも力を発揮することができる(それは増大するほどだった)」と理解されていた
 E.(彼らに補助・仲介してもらわねばならなかった)修道院の現実とは、単に「師匠の思い出を保つ弟子の集団,共同体としての修道院」だけでなく、そうした聖者たちまでも含んでいた。彼らは世俗の人々からは「現時点でも再生力・救済力を保持している」と感じられていた。そして聖者が「信仰の篤さによって神から特別に選ばれ、豊かな恩恵と大きな力を与えられた」人間であるとするならば、修道士たちは修道院での生活により特権的に聖性と結びついていくと理解されるようになる
 F.古くから残る「礼拝,墓,痕跡,カリスマ的事物」によって神聖化された場所は永続し、そこに新しい礼拝の場所が重なりって、修道院共同体の現実生活となる。単なる思い出の場所から「神聖な生活の中心」にまで昇華した修道院は、そこに接触する人々に恩恵・恩寵・安心・救いを与えるようになった。修道院は「一般からは敬われる場所、冒涜する者にとっては恐ろしい場所、篤志家には祈りと恩寵が保証される場所」となった

【権力者と修道院】
 G.さらに修道院創設者(君主・貴族)と修道院との間には「修道士たちの共同生活のための物質的援助(贈り物&寄進)」-「俗人には果たせない祈りと悔悛を行う」によって、互いに恩恵を与えあう特権的な関係が成立していたように見える。寄進した者の救済を強調するこの考え方は、異教的要素が残っていた権力者たちに修道院建設の熱意を呼び起こすことに成功した
 H.しかし現実的な側面として「(司教をはじめ)有力者たちは修道院建設を口実として、自らの領土拡張を国王に認めてもらう」目的があった(これによって領地と修道院と併せて世襲財産にするため)。一方で、そのような環境は修道院を「富と権力の拠点」にした。そして修道士自身も、大半の人間には望めないほどの宗教的・文化的・社会的恩恵に浴して深く満足していたのだ
〈例〉ロンバルディア地方(7世紀)では、王・高位貴族たちがカトリックに改宗した後、修道院発展に多大な貢献をした。修道院建設は「より安定した経済・行政の組織を彼らの領地にもたらした」のだが、それは彼らが望むような精神的利益とも結びついていた


(5)修道院激増期(7~9世紀)

 A.ヨーロッパ大陸に上陸したアイルランド人やアングロ・サクソン人の修道士たちは、諸国の君主とローマからの援助によって多数の修道院を建設した(6世紀末~8世紀)。この波はカロリング朝覇権の数十年間の内に頂点に達した
 B.皇帝・王が建設した大修道院において、大勢の修道士たちは支配者のために祈りを捧げ、君主の事業への天の加護を確実にした。また修道院は支配者の統治に文化的基礎を与えた
 C.支配者は修道士たちに、共通した堅固な規律を与えようと配慮し、このために聖ベネディクトゥスの会則の適用が一般化された。これにはアニアーヌのベネディクトゥスが主役を演じた。彼は「修道院生活の日課を厳密に規定し、組織化する」ことに成功したのだが、そこにはカロリング朝による強力な後押し(修道院建設のための財政援助,勅令による会則採用の命令)は不可欠だった

【「神聖都市」の出現】
 D.大修道院の傍には大規模な集落が形成された。町は区割りされ、軍隊によって守られる
〈例〉サン・リキエ修道院(788年)では、三角形の囲いにおいて3つの大教会堂が3頂点に位置し、少なくとも300人の修道士が暮らしていた。周囲には人口約7,000人の町が発展し、住民は職業or「修道院への奉仕の役割」によって各地区(例:軍人,指物師,織物職人,鞣し皮職人,靴屋,皮革品製造業者,パン屋,居酒屋,葡萄作り,商人)に住み着いた
 E.アニアーヌのベネディクトゥスによって典礼を最重視した修道院は「a.禁欲主義,個人的悔悛,軍人社会の残酷な習慣からの避難」の場所となるが、何よりも「b.集団的&公共の祈りの場所」だった(それが社会において必要とみなされた)。“祈りの砦”としての修道院は、社会全体の利益のために機能(神を熱愛し、神の恩恵・恩寵をいただき、人間の敵と戦う)を果たした
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[3]


(9)中世の人間の長い期間での変化

 A.中世の人間の原型は、キリスト教によって変形された古い遺産にある
〈例〉修道士の原点は紀元1世紀に遡る。中世の騎士はローマ的起源を持つ
 B.しかし中世の人間は「機能の専門化,世俗人の重要さ」という要因によって、紀元1000年を境に変化する。とりわけ社会が複雑化し、各種の「身分」が増え、人間像もいっそう多様化し、ますます宗教が俗世を容認するようになって価値観も多様化する(13世紀~)。それでも中世の人間は信心深く、救いを求めて止まなかった
 C.中世後期の大災厄(14~15世紀)によってもたらされた「封建制の危機と、構造的・価値観的に新しい世界」によって、中世の人間も変化した
「古典的な中世の騎士道が、見せ物として誇張された騎士道へと替わる」
「都会人はお祭り・行列・カーニバルに舞い上がる『派手好み』へと変わる」
「知識人は政治に熱中してラテン語を放棄し、大学以外のところ(会合,学術団体,中庭)で意見を述べるようになる。やがて古典学者や宮廷の知識人に席を譲る」
「商人はますます金儲けにうつつを抜かし『時間は金だ』と思い、ルネサンスの『金儲け主義的悲観論』にとりつかれながら、生まれかけの資本主義へと移っていく」
「ダンテの『煉獄』には、芸術家の誕生と人々の認知という意味があった」


(10)中世の人間が持つ特殊な想念

 A.中世のあらゆる人間は、類似したものを信じ、幻想し、それにとりつかれていた。もちろんそれはその人の「社会的身分,教養のレベル,文化的遺産,地理・歴史的な領域」によって違いはある。しかしその中でも共通したものが存在し、表面化していた

【悪徳】
 B.中世の人間は罪の意識につきまとわれている。その罪とは、人間が「悪徳」に敗北することで犯しているものだった。悪徳は7つ=「傲慢,貪欲,大食,色欲,怒り,妬み,怠惰」だった(12世紀)
〈アレゴリーの例〉
 社会の諸身分に嫁いだ悪魔の娘たちは、危険な誘惑者だった。というのも悪魔は娘を次のように嫁がせた
「聖職売買」を 在俗聖職者へ
「偽善」を   修道士へ
「略奪」を   騎士へ
「冒涜」を   農民へ
「偽装」を   執行役人へ
「高利貸し」を ブルジョワへ
「虚飾」を   れっきとした婦人へ
「色欲」は嫁がせられなかったので、全ての男の共通の情婦として提供された

【見えるもの・見えざるもの】
 C.中世の人間にとって、見えるものは「見えるものの痕跡である」だけでなく「超自然のものがいつでも日常生活に入り込んで来る」のだった
1.中世の人間は絶えず“幻”に囲まれる
2.この世とあの世との間に断絶はなく、ましてや仕切り壁もない
3.煉獄の存在は“幻”で証明され、地面の大穴がそこへ通じる(例:シチリアの噴火口,アイルランドの洞穴)
4.不正な死者、異教と伝説に登場する幽霊も悪魔に唆されて出現する
5.“幻”は怖がらせるが、襲わない

【あの世】
 D.中世の人間にとって、来世はすぐそばにある。たとえ“最後の審判”が近づいていることが次第に信じられなくなっていくとしても、その可能性はあるので拒否できない。しかも聖者たちは既に天国にいるし、(反対に)確かに地獄へ落ちた者(無数である)もそこに留まっている
 E.あの世の空間的組織は合理的のものに想定されていた(12~13世紀)。本質的な3ヶ所=「地獄,天国,煉獄(両者の中間的&一時的なあの世)」と補完的な2ヶ所=「2つのリンボ(辺獄)」である
 F.煉獄では「赦される小罪を犯した死者,まだ贖罪が未完全な死者」がいて、多少なりとも長い期間をそこで過ごすことになっていた。最終的な“復活”と“最後の審判”の時には、煉獄は消滅してそこに残っている者は全て天国へ送られる(=煉獄は天国への待合室)。煉獄が決定的に形作られたのは比較的遅かった(12世紀末)
 G.リンボのうちの1つは“族長たち”のリンボである。イエスは地上の“死”の間に地獄へ下る時、リンボにいた人々を解放した。そこにいた族長たちは、旧約聖書では正しい人々であるが「“キリストの受肉”以前に生きていたので洗礼を受けられなかった」だけだから、彼らは天国に行くことができた。こうして空になったリンボは永久に封印された
 H.もう1つのリンボは、洗礼を受ける前に死んだ子供たちを永遠に迎え入れる場所である。この子供たちは「体刑を受けることはない」が「最上の悦楽・至福直感を永久に奪われ、神を凝視することもできない」とされた

【奇跡と神明裁判】
 I.世界秩序に対して神は頻繁に、直接・間接の手段によって介入する。介入者には階級があり「1.聖母マリアが最も強力であり、神から全ての奇跡を任されている」→「2.偉い聖者にも同じく神を仲介できる大きな力がある」→「3.ある種の聖者(とりわけ地域的な聖者)には多少狭い権限しかない」とされる
 J.中世の人間において最も弱い部分には、特に多くの奇跡が見られる。身体の中でも具合の悪い部位には、奇跡的な治癒が無数に発生した。また、産褥にある女と子供たちは、中世の医学・生理学の未発達による典型的な犠牲者であった
 K.自称で「奇跡を起こすことができる」と主張する怪しい人物の行動を食い止めるために、教会は「聖者がその死後において及ぼせる力」を制限しようとした(13世紀初~)。その結果として「聖遺物礼拝」を復活させた(=それに触れると奇跡が起こる)
 L.神は直接任される裁きにおいて、場合によっては自然の法則に背くこともある(神明裁判の例:火試し,水試し,一騎打ち)。教会はこうした神明裁判を第4ラテラノ公会議(1215年)で禁じ、代わりに口頭or文書での証言が採用された

【記憶力】
 M.中世の多くの世俗人は文盲であり(~13世紀)、彼らの間では口頭の言葉が特別の力で響き渡った。中世の人間は説教を聞いて、知識・逸話・道徳的教え・宗教的教えを学んだ。中世は説教が重要な影響力を持つ社会だったのだ(だから教会から内容を厳しく監視されていた)
 ★反対に文字は聖職者のものであり、たいへんな威厳を帯びた
 N.言葉はコミュニケーションの重要な伝達手段であり、それを保存するための手段として記憶力は尊重された(中世の人間は記憶力が優れていた)。また、平均寿命の短い社会において、訴訟など様々な紛争時には、長く記憶している老人たちの証言が特別扱いを受けた
〈例〉「約束を守る」人は、その誠実さが人々の記憶によって証明されることで、貴重な人物とされた

【象徴的な精神性】
 O.中世の人間にとって、世界は様々な象徴に満ちていた。「真の現実」がどこかに存在するものの、人間にはその徴(しるし)しか掴めない。そうした象徴を解読するのが中世の人間であり、その作業は象徴の学者(=聖職者)に強く依存していた
[※象徴については、次の【数】を参照]
〈例〉象徴は芸術(特に建築)を支配するので、教会堂は何よりもまず象徴的な建造物としての意味があった

【数】
 P.中世の人間は数に魅了されており、象徴的な数が最大の魅惑となっていた(~13世紀)。黙示録では象徴的な数字の世界(1,000:Millennium)が表されており、そこには人類の秘められた存在理由と運命が書き込まれている
[3]:三位一体の数
[4]:福音書の数,天国の川・枢要徳・基本方位の数
[7]:キリスト教において“7つの大きいもの”を表す(例:神の7賜物,7秘跡,7つの大罪)
[10]:十戒を表す
[12]:使徒の数,1年の月数など
 Q.そこから次第に、社会の発展や数学の普及(例:ユークリッドの『幾何学原論』の概論的ラテン語訳である、フィボナッチの『算術の書』〔1202年〕)によって、加減乗除により科学的に扱える正確な数字がそれまでの「象徴としての数」に取って代わる
 R.中世後期の人間の間で「算術の流行や算術への熱中」が起こり、信心の世界においても算術狂が現れた。それは、遺言書において「何百・何千回単位でミサを行うことによって、贖罪が計算されて煉獄での滞在期間を出来るだけ短くする」よう、計算することだった

【形象と色彩】
 S.文盲の人々に対しては、形象によって感覚・精神に大きな作用を及ぼすことができるから、教会は形象を使って知らせ、教えた。絵・彫刻の価値は美学的なものではなく、教育的・イデオロギー的な役目にあった
 T.自然の模倣と遠近法に基づく写実主義の登場(14世紀~)までは、対象の持つ意味を浮き上がらせるために描き手は「形を歪める,必要以上に大きく描く」ことに頼った。手法の変化は、中世の人間が芸術的表現の対象を「天から地上へと移した」ことを示している
 U.中世の人間は、世界を色彩的に見たり考えたりするようになる。また色彩は「象徴」であり、それは「変化していく価値体系」をも形成していた
〈例〉
・皇帝のカラーとしての‘赤色’の優位は、聖母マリアとフランス王家のカラーとしての‘青色’の前に失墜する
・‘白色/黒色’はイデオロギー的になる
・‘緑色’は「曖昧,誘惑的,危険な青春」を表すので、中世の人間はこの色を前にするとためらう
・‘黄色’は裏切りを表すので、黄色い人物像や外見に悪を見る習慣もある
・特に縞模様と混色は道徳的な危険を示す
・色であって色でない‘金色’は最高の価値として君臨する

【夢】
 V.中世の人間は「観想と象徴的思考の人間である」「見えるものと見えざるもの,自然と超自然が混じり合う世界に生きている」ので、夢の大家となる傾向があった。しかしキリスト教はこの夢幻の活動を厳しく取り締まろうとした
 W.古代ギリシア・ローマの人々は常に自分の夢に解釈を与えようとし、夢の学者・占い師に従った。正夢/逆夢という区別もそこにはあった。ところが教会(4世紀~)はこうした考えを一掃した
[1] 夢には3つの根源がある:
「神は幸運をもたらす夢の提供者である,人間の身体はよこしまな夢の創作者である,悪魔は人を惑わせる危険な夢をたくさん送ってくる」
[2] それゆえに教会は信者に対して「夢を追い払い、夢の意味を探らないことで、罪を犯さない」ように求めた
[3] ただし特権者として「国王,高官,(特に)修道士」には、夢から効力を引き出すことを認めた。それは「夢の中に神からのメッセージを見つける」or「悪魔の試練に打ち勝つ」ためだった
[4] このようにして中世初期の人間は、夢を根拠に考えることをストップさせられた
[5] ただし修道院の史料には、夢のことがおびただしく書かれている。修道士の悩める心は奇妙で、幻想的なビジョンとして表現されている
 X.中世盛期に入ると、とうとう夢の圧力が教会の躊躇と不安に勝った。教会は「良い夢や普通の夢が悪魔的な夢に勝つ」ことを認めたのだった。こうして中世の人間は、しきりに夢を見てその内容に魅了されたり、熱心に夢を解読してもらおうとした


(11)社会的・政治的な想念

【階級制】
1.中世の人間の義務は「神によって置かれた地位に満足すること」。それより向上しようとするのは傲慢のしるし、低下するのは恥ずべき罪、であった
2.神が望んだ社会の構成(階級制の原則)を尊重しなければならない
3.その社会とは天国を手本にして作られており「天使と大天使の細かい階級制を再現している」はずだった(偽ディオニュシオスの著書に拠る)
4.中世の人間はそれぞれの教養の程度によって(学識的or通俗的な形で)、世界の構造の階級的概念を支持していた
5.しかし社会の変化(12・13世紀~)によってこれも変化していく。社会における「身分(※階級よりもいっそう細かい分類?)」が現れる

【権威】
 A.社会において中世の人間は、目上の人に従わねばならない(例:普通の聖職者は高位聖職者に従う,俗人は国王・領主・共同体の指導者に服従する)
 B.知的・精神的な面では、権威(とりわけ最も重要な権威聖書)に忠実でなければならない。神学において歴史的に受け継がれてきた権威(古代の終わり頃の教会教父)と、大学時代(13世紀~)における教授に従わねばならない。中世の人間に要求された高い美徳とは「宗教における服従」だった

【反逆者】
 C.やがて中世の人間のあいだで、上流階級・当局の支配を盲目的に受け入れない者の数が次第に多くなる(紀元1000年頃~,13世紀~)。次に反乱が盛んとなり(14世紀)、イギリス・フランドル・トスカーナ・ローマなどで起こった
 D.長い間、反抗・反逆は主として宗教的なもの(=異端)だった。次いで封建制の下で、横暴or怠惰な領主に対する家来の反逆が起こり、大学では知的な抗議が起こった。最後に社会的反乱が都会・地方で発生した(労働者・農民のストライキ・暴動・反乱として)

【自由】
 E.自由は反乱を促進するが、その口火を切ったのは教会だった。教皇を先頭として教会は「封建制に支配された世俗界」からの独立を要求したが、その旗印は“キリスト教会の自由”だった
 F.その後、農民と新都会人は自力を自覚し、経済発展の障害になるものを取り除こうとして、様々な自由を要求し獲得する。しかし問題となるのは、諸々の負担を回避できる複数の自由(=多くの特権)であった。一般的自由(近代的な意味での自由)は、中世後期になって漠然と登場するだけだった
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[2]


(4)それ以外の人々

【祈る人(修道士以外)】
 A.「司教,修道院に所属しない聖職者,托鉢修道会の修道士(例:説教師・ドミニコ会士・フランチェスコ会士・アウグスティヌス会士・カルメル会士)」。彼らは修道士と違って、世俗の人々の近くで出会える

【戦う人(騎士以外)】
 B.「傭兵,有給の戦闘員,職業軍人」。彼らの登場時代は遅く、また無軌道な略奪者・徒党・私兵へと変質してからだった。社会的な周縁人のカテゴリーに入る

【働く人(農民以外)】
 C.職人・労働者は「都会人」の間に現れる。医者は「都会の医者の多くはユダヤ人」であり「田舎では、特に伝承的知識や特殊能力を持つとされた素人たち(老婆・接骨医・薬草家・経験を積んだ助産婦たち)」から成っていた。医者の身分はあいまいだった(科学者と手工業職人の中間にある)
 D.中世の終わり頃に国家が誕生し、官僚制度が整備されて司法・財政業務の専門化が進むにつれ「裁判官と司法関係者,王領所轄役人と地方役人」が出現した
 E.中世の人々はケルト人やヴァイギングを除いて海を恐れ、さらに海を多少なりとも制するのに長い時間がかかった。貴重な発明(13~14世紀)がようやく状況を変えた。船乗りは長い間、社会における周縁人だった
〈例〉ルイ9世は十字軍に参加する船の上で、あまり礼儀もわきまえず、信仰も持たない船乗りたちに接して驚いた
 F.社会的な周縁人の中で「貧しい人,異端者」は、中世社会でのとりわけ大きな問題(貧困と異端)であった。貧困は中世の最も厳しい社会的・イデオロギー的現実の一面である。異端はいろいろな形で多少とも波及し、根強く慢性的に存続していた


(5)都市に密着した新しいタイプの人々

 A.都市の発達は中世における頂点に達した(13世紀)が、そこでの生活は中世の人間を変えた。「a.人間の家庭環境を狭める」一方で「b.人間が所属する共同体の組織網を拡大する」のだった。さらに「c.取引と金銭を人間の物質的欲望の中心に置いていた」「d.人間の視野を広げる・学ぶ・教養を身につける手段を与えた」「e.新しい娯楽の場を提供した」のだった
 B.孤独を求める修道士にとって都会は、バビロンであり悪徳の巣であり不敬虔が君臨する空間だった。学問と議論を求める聖職者にとって、教会と礼拝を愛するキリスト教徒にとって、都会はエルサレムであった
 C.都会人のたいていは、昨日までは農民だった新しい移住者からなる。だから彼らは都会を見習い、うまく異文化に同化しなければならない。さらに都会人は二重の空間=「住居空間(狭い上に共同生活は多かった)」「都会そのものが壁に取り囲まれた、限られた空間」に住む人間であった

【都会の多様性と変化】
 D.都会には「大きいもの/中間のもの/小さいもの」「太ったもの/痩せたもの」「太いもの/細いもの」がある。そこでは金が王者であり、商人の精神(利欲の精神)が支配していた。領主の世界での悪徳は“傲慢”だったが、都会の悪徳は“貪欲”だった。ここでは人々は「労働と時間の値打ち」を知ることになる
 E.しかしそれ以上に絶えざる変化(物価変動,社会の状態の変化)を知った。都会の人間は、回り続ける運命の歯車の回転(※都会の人生に流転は付き物!)にいつも振り回された(たとえブルジョワでも)から、都会での「良心の問題」は難しいことだった
 F.そして都会は犯罪を招くので、絶えず暴力から身を守らねばならなかった。都会人には様々な市民的暴力が見せ物に供された…晒し刑・鞭打ち刑・死刑として

【対人関係】
 G.都会の人間関係といえばまず、隣人・友人であった。都会人の日常は町内生活(=家並みの中で暮らす)であり、付き合いの機会は多い(例:居酒屋,墓地,小広場)。都会の婦人には「井戸端,共同パン焼き窯,洗濯場」がある。彼らは小教区にまとめられ、そこで「範囲の狭い私生活」を営んだ
 H.もし近隣の存在を煩わしく感じる時には、人は町を徘徊することができた。都会における余所はすぐ近くにあった
[※上記の“都会の二重空間性”は、こうした文脈で捉えられる]
 I.都会人は信心会の会員になることで、それが持つ「死を手懐け、耐えやすくする」鎮静的・保護的な機能を享受できた。そのような都会人を目当てにするのが托鉢修道会の効果的な伝道戦略だった。彼らは「個人の家へ、仕事場へ、心の中にまで」不躾に入り込んで、良心と救いの世話を焼いた

【ポジティブな側面】
 J.都会には「固有の暮らし方」があった。もしお金が有るならば多くの食事の楽しさを味わえるし、性欲を満たすのも容易になる(売春稼業が次第に黙認されるようになるから)し、出世しても恥ではない(都会では仕事が尊重されるから)し、高利貸しは非難されても“まともな”財産は称賛される。これらの波及効果として、都会人には「子供を学校へ通わせて立派な将来を確保してやれる」道があった
 K.都会人は「気取った市民」として楽しめるチャンスが多く、洗練されていた。それはやがて礼節(or礼儀)と呼ばれる(1350年~)。都会は節度・秩序・慇懃が守られて全てが田舎よりも整然としており、動作・礼儀作法の学校となった。少しずつ機会仕掛けの時計が時間を刻むようになる
 L.都会人は「市民的行列,愉快な祭り,宗教行列,“市民祭”」を見物し、参加できる。元気な者は「笑いがあり、カーニバルや騒動で体制批判もできる」し、病人・貧困者のためには施療院もあった。町そのものがお祭りになることもきわめて多い


(6)知識人

 A.中世において現代的な知識人は存在しない。しかし「手を使わず、言葉と精神を使って仕事をする人たち」は確かに存在した。彼らを指す名称として「教授,博士,哲学者,(特にラテン語に精通した)学者」があった
 B.このタイプには聖職者がいる。彼らは(下級の品級から出ないとしても)聖職を失うことなく特権を享受しながら、とりわけ都会の教職者となった。それゆえに彼らは、衰微していく教会の学校・都市の学校から大学へと移った(12・13世紀)
 C.大学は「専門家としての大学人による同業者団体」だった。それまで存在していた「無償の学問」という障害が取り除かれ、彼ら大学人は「神の恵みとして学生・都市・教会」から報酬を受けられるようになったことが重要だった。しかし知識人の生活は必ずしも楽なものではない
 D.パリ大学に托鉢修道会の教授たちが就任した時には重大な危機を招いた。というのも、これらの教授は新知識をもたらしたゆえに学生たちから高く評価されたのだが、彼らは修道会の会士なので集団活動に参加しない。アヴェロエス(アラビアの哲学者)の思想は危機を招き、パリ司教エティエンヌ・ダンピエの弾劾を引き起こした

【中世盛期知識人の特徴】
1.国際人であり、学校・大学から他校へと旅行する(ラテン語に通じているからこれが可能だった)
2.独身である
3.聖書をはじめ文献の権威である。ただしそれに盲従するのではなく、比較・批判を通じて合理的な探求を行う


(7)商人

 A.彼らの立場は曖昧だった。というのは、経済的・社会的・イデオロギー的に身分が向上(10世紀~:商人の有益性が認められた)しても、商人への不信感(古代から続く)はキリスト教によって深められていたから
 B.商人はのけ者の地位から抜けられなかった。托鉢修道会士は商人を正当化しようと務め、商人のために煉獄をあてがった。それでもトマス・アクィナスは「商い自体に何か恥ずべきことがある」と書いた
 C.商人と(憎むべき)高利貸しの境界は曖昧だった。商人がイタリアの多くの都会で王者となっていても、イタリア以外の土地ではイタリア商人(=ロンバルディア人)は蔑視されていた。さらに「憎いユダヤ人」のイメージが商人のイメージにまで及んでいた

【商人が築いたプラスの要素】
 D.古くから称賛されてきた“散財者”“配分者”という倫理に加えて、商人が生み出した“蓄財者”という倫理も登場する(14世紀)。彼らは自力成功者であり、しかもクレモナの聖オモボノ(12世紀末)のような商人聖者も現れる
 E.商人は教養人であり、個性・人格という概念の形成に寄与した。彼らは文書の人間であり、各国の俗語の普及に貢献した(最も古いイタリア語の文書はシエナ商人の勘定書きの断片:1211年)。さらに「外国語の習得,計量システムの形成,通貨使用」の先駆者であった


(8)中世的な社会範疇の周辺において

【女性】
 A.女性は「妻,未亡人,処女」として定義され、長いあいだ婚姻関係・家族関係に束縛された犠牲者であった。したがって職業的分類によっては定義されえない。男性支配の社会を反映している中世の史料において、女性の声は稀にしか記録されていない(それもたいていは上層階級の女性だった)
 B.封建的貴族社会における女性は「a.婚姻取引の対象」であった。「b.結婚を通じて女性は夫に社会的昇格の機会を与える」が、一方で「c.自分は結婚によって(一般に)格下げにされる」のだった。女性を通じて資産が移転するのだが、持参金のインフレは中世を通じて女性の価値低下を招いた
 C.しかし教会の努力によって、結婚に際して夫婦間の同意がますます厳しく義務付けられるので、女性の地位向上が起こった。これは「若者たちの圧力によって、徐々に自由結婚が確立されていくのを教会が助ける」のと同様だった
 D.非常に若い女性が30歳に近い男と結婚する、といったように、夫婦の歳は10歳ほど違う。女性は「単なる出産母体,家族再生産の道具」であり、高い出生率の犠牲となった(平均寿命の40歳まで人生の半分を妊娠のうちに過ごしていた)。女性は妻としての義務に服し、夫とその権威に素直に従うが「子供への愛」という限られた代償しか貰えない
 E.しかしその子供も、幼いうちは乳母に預けられるが、恐ろしい小児死亡率のために多くの幼い命が奪われる。おまけに中世初期には、自然死に加えて嬰児殺しが多かった。それ以後は新生児の捨て子がずっと多くなり、教会で孤児が増加していく(中世盛期~後期)

【無名の芸術家たち】
 F.中世初期の芸術家は「手仕事職人全体に対する社会の蔑視」と「自分の誇り・名声,少なくとも限られた愛好家たちの間では著名になりたいという願望」との板挟みになっていた。古代で見つかった芸術作品への署名は、中世の早い時期に消滅している
 G.最初の芸術家の伝記は聖エロア伝(7世紀)だが、彼は司教でありフランク国王ダゴベルトの顧問だった。彼の伝記が書かれたことに、彼の芸術は貢献しなかったようだ。というのも、教会では宝物・金銀細工がしばしば溶かされていた(=芸術家の作品の価値はゼロと評価されていた)
 H.上記の「知識人」と同じく「芸術家」を指す言葉も存在しない(~14世紀)。ラテン語のarsの持つ意味は、科学・技術よりも技法・手仕事に近い。しかし呼び方が無い芸術家にも階級は存在し、金銀細工師と並んで建築家が頂点にいた
 I.芸術家の署名・記入は、自由学芸と並ぶまで手工芸が評価されることによって、多く見られるようになる(12世紀)。ところが一度、署名・記入は稀となる(13世紀)。やがて芸術家の評判は、古代復興に押されてイタリアで向上した。各都市から争って招聘を受ける芸術家の栄光が高まったのだが、これは人々に「美の観念と感覚」が育ち始めたことの反映であった

【両極端-社会的周縁人と聖者】
 J.最初の周縁人は犯罪を理由に追放された人々だった。中世初期の追放刑(=住み慣れた環境からの放逐)は「死刑に代わる刑罰」であり、空間的に社会の周縁へ追いやられる極刑だった
 ★ちなみに、聖務停止・破門は「一種の内面的・精神的な追放」という意味を持つ。秘跡の恵みを受けられなくなり、救いの日常的手段を奪われ、教会堂から引き離されることだった
 K.やがて空間的な追放の場所は変わり、都会の特殊地域(いかがわしい界隈?)へ住まわせるようになる(中世末)。一方で「弾圧文書」が登場するようになり、そこでは「都市内での暴力」の噂が記されている(13世紀~)。他方でフランス(14・15世紀)では「赦免状」で赦された罪人に社会復帰の道が開かれる
 L.しかし労働の世界と犯罪の世界の境界線は曖昧だった。社会の周縁へ流れ込むのは「巡礼者,仕事を求める流れ者」の成れの果てであることも多い。周縁人の多くは「極悪人」となり、彼らは徒党を組み、さらに放浪者・盗賊・略奪者・殺人者らを集めた(14・15世紀)
 M.犯罪のみならず「不名誉」もまた周縁人を生み出した。職業としてそうしたもの(=違法・破廉恥なもの)は次第に減っていく(12世紀~)。残ったのは「卑劣漢,追放者,見せ物師(=旅芸人),高利貸し(煉獄で浄められるとしても)」だった
 N.病人と身体障害者も周縁人となった。とりわけ「最も危険で、最も醜悪で、最も悲惨」なのはレプラ患者であり、彼らは明らかに排斥された(たとえイエスを真似て聖王ルイがレプラ患者を世話し、接吻を与えても)。ユダヤ人と異端者は極端な周縁人であった

【聖者とは?】
 O.聖者とは、中世において「人間を最高度に具現した人物」だった。聖者は「a.例外的な死者である」「b.苦痛を感じない肉体の証拠である」「c.神と人間の仲介を成し遂げる人物である」のだった。その墓・身体・遺物の回りでは礼拝が行われ、教会の支え・信者への手本となり、全ての共同体(様々な職業・都市など)の守護者となり、さらに同じ名を持つ中世の男女の個人的な守護者にもなった
 P.中世の聖者が持つ聖性は超現実的なものではない(=古代の異教の神々の継承者ではない)。彼らは最初は「殉教者」の中から選ばれ、次に中世初期には極端な禁欲主義者として登場し、その後多くは権勢者(司教,修道士,国王,貴族)の内から現れた
 Q.聖者は「男・成人・貴族が(機能的に)優れている」という思想を、中世の人間の理想像に示していた。しかしその後は、機能的聖性から次第に「キリストを模倣する」ことによる精神的な聖性へと移っていった(12・13世紀~)。聖者は普通の人々からも輩出するようになり、奇跡を起こすことよりも優れた徳性によってキリスト教的理想の生き方を実践した人が聖者となった
 ☆このため、中世後期において聖者となる男女には「神秘主義者,預言者,説教師,霊感者」の場合が多かった
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[1]


○中世の人間

「歴史の基準としての人間が唯一の基準であり、歴史の存在理由である」
「『多様な機能,様々な行動,変化に満ちた活動と能力』を備えた人間である」
「それらの要素が混じり合い、ぶつかり合い、対立しあい、最後はに互いに妥協的な平和=『生き方』を決定するような人間である」


(1)人間たち-対象-

【修道士】
 A.「プロヴァンスの修道士(4~5世紀に“砂漠の隠遁修道士”という東方のモデルに影響を受けた)とクリュニーの修道士(10世紀~)」「アイルランドの修道士(7~8世紀)とシトー会修道士(12世紀)」「聖ベネディクトゥスとフィオーレのヨアキム」との間に存在する大きな相違について
1.孤独な生活か伝道生活か?
2.肉体労働か知的労働か?
3.祈りと典礼の勤めによって神に仕えるか、(十字軍から生じた)修道士-兵隊という軍籍において教団に奉仕するか?
4.隠遁生活か修道院生活か?
 B.あらゆる修道士たちは「神との特権的関係を生きるため」に、社会の一般人とは離れていた。さらに“泣く人”とも形容された(自分の罪・世の人の罪を嘆いて泣く)。また、祈り・瞑想・贖罪の生活によって自分と世の人の救済に努めた

【都会人】
 C.中世の都会人とは「農民とは対照的だった」という点がキーポイントとなる。「a.人口密度の高い小世界に集まり、田舎には存在しない都会性(=特殊な生き方)を押し付けられる」「b.日常から貨幣を用いる」「c.ある人々は世間全体を理解しなければならない」

【女性】
 D.中世の後ろ半分(11~15世紀)の間に、女性の地位は緩慢だが格段に向上した。しかし中世の潜在的イデオロギーに常にぶつかっていた
 ★女は「男を騙し誘惑する存在,悪魔の片腕,マリアに救われなかった永遠のイヴ,目を離せない危険な存在,生活・家庭の営み・出産・(キリスト教徒男性の)性欲の管理に必要な悪」である、とされた


(2)中世の人間とは?

 A.中世の人たち(11~15世紀)は「人間」という普遍的な存在を、神学を通じて認識していた。裏を返せば、中世で「人間でない」人とは、根っからの不信心者(後世からは自由思想家・無神論者と呼ばれる)であった
 B.文献史料においては、神の存在を否定する者の数は極めて少ない。そうした例外的存在もたいていは「文献の誤読」「狂気の瞬間に発せられた言葉の上での冒涜を、伝達者が短絡的に解釈した」事例のようだ。中世では不信心者(“彼らよそ者”の部類に入れられるユダヤ人・異教徒)はあまりにも少なく曖昧であり、社会的周縁の人々にすら属さない

【中世キリスト教にとっての人間】
 C.「神によって、神の姿に倣って作られた者」「神は創造の6日目に人間を作り、明示的に自然の支配者とした」。しかし原罪を犯して楽園から追放され、苦痛(男は手の労働,女は出産の苦しみ)を担わされ、恥辱(性器の露出のタブーで象徴される)と死を運命づけられる
 D.ある時期には、人間の否定的なイメージ=「罪深い存在として、常に誘惑に負けやすく、神を否定しようとして、永遠に天国を失い永劫の死に陥るべき存在」を強調する(4~10世紀)。一方でまた、ある時期において中世の教会は、人間の肯定的なイメージ=「神によって神になぞらえて作られ、神の創造に参加する(アダムは全ての動物に名を与えた)」を強調した(12・13世紀~)
 E.中世における労働(『創世記』から)にも「辛苦:働かねばならない不幸と償いの性質」と「贖罪と救済の手段としての効果」の対立する概念があった。ここにもやはり、中世盛期から「罰と辛苦に打ちのめされたアダム」→「創造的労働のできるアダム」というイメージの変化があった

【人間像の変化】
 F.中世初期の典型的な人間像はおそらく(多くの苦しみの中で神への信仰を貫いた)ヨブだった。反対に中世盛期(特に13世紀末~)の芸術で描かれる人間像は、この世に勢力を有する者=「教皇,皇帝,国王,高級聖職者,大貴族,富裕なブルジョア」の、自信にあふれ誇らしげな姿を、できるだけ美しく描いたものとなる(or個性の豊さで見る人を感嘆させる,or醜さ以上に堂々として描かれる)
 G.人間像の変化の影響は、芸術におけるイエスが次第に「受難,苔刑,侮辱,磔刑,嘆く聖母」のキリストになっていく(12・13世紀~)という形に反映されている。「なぜ神が人間になるのを承知し、決心し、キリストの中に身を落としたのか」という(中世の神学者たちにとっての)歴史上の神秘に、神が苦しみを引き受けるという答えを用意したようだ
 H.しかし、中世キリスト教神学の人間が向かい合うのは神だけではなかった。キリスト教は(カタリ派のような)善悪二元論を排除したが、サタン=「唯一の神に必ず敗れる存在ではあるものの人間への強い力(=誘惑)を持つ」という存在を置いた。さらに、誘惑(=罪)に負けて断罪されるか、抵抗して救済の恩寵に与れるか、それは人間の問題となった。そして「人間の魂を標的とし、罪へ誘おうとする」悪魔チームへのカウンターパートとして、天使チームの役割が与えられた

【概念の形成】
 I.キリスト教的人間学から生まれた概念はの1つは「旅人としての人間:永遠に生or死へと向かっている」だった。中世の人間は本質的に旅人→巡礼者であり、人々は多くの巡礼地へと旅立った。しかし旅とは「安定した生活を失うもの」であり、安定性こそが「道徳性と救済の条件」だから、過度の旅志向は中世の人間に道を誤らせることにも繋がった
 J.もう1つは「悔悛者としての人間」だった。中世の人間は「キリスト教に教え込まれた罪の概念にとらわれ、魂の救いは悔悛にある」と信じていた。それが極端な形として現れたのが「個人的な自己鞭打ち,悔悛の苦行」だった。第4回ラテラノ公会議(1215年)以降、全てのキリスト教徒は「少なくとも年1回は告解を行って悔悛しなければならない」として、悔悛が制度化された
 K.人間とは「魂と身体の葛藤を伴う結合」とされた。中世キリスト教は身体的な要素を軽蔑(反対に精神的な要素を称揚)していたが、魂に緊張をもたらすことができるのは、肉体の復活の教義=「苦痛・恐怖という身体的感覚」だった
 L.魂・身体に加えた第三の要素として「精神」が登場し、古代キリスト教的な哲学の要素を与えた(魂・身体・精神の三位一体)。さらに魂と精神の間に「心」が入り、愛と感情の領域(どんどん広がっていく)に関わっていく
 M.人間の身体は象徴的なイメージを社会に提供し「社会の王(or教皇)は頭の部分,職人・農民は脚部」と見なされるようになった。これによって人間と社会団体の連帯性(人間の社会的性質)を確認し、人間が単なる「魂と身体の統合」に止まらないことを示していた


(3)修道士・騎士・農民-社会の図式-

 A.キリスト教が善悪二元論を放棄したにもかかわらず、中世社会は明らかに二元論的対立=「良いタイプ/悪いタイプ,高級なタイプ/低級なタイプ」が影響を及ぼしていた。「聖職者/俗人」は最も一般的で重要だったが、さらに「勢力者/貧者(中世初期)」→「金持ち/貧者(13世紀~)」という対立が社会における重要な区切りラインとなっていた
 B.しかし社会の複雑さが意識されるようになると、単純な二元の図式よりもずっと明確な図式が好まれた。そのうちの1つに「中間を設定する:majores-mediocres-minores」というのがあった。都市のブルジョワの出現(13世紀)はまさにこれに当てはまった
「世俗貴族,聖職者の貴族」-「都市のブルジョワ」-「農民,都市の一般民」
 C.中世の聖職者の間に見られ、さらに今日において最も通用している図式は「祈る人-戦う人-働く人」である。これはランの司教アダルベロンによる(1030年頃)で、神話学から見て機能的には「魔法のような法的支配力」「物質力」「繁殖力」とされる
「聖職者(特に修道士)」:
 これらの人の仕事は祈りであり、それによって神の世界と結ばれ、また地上における大きな霊的権力を授かっている
「戦士」:
 とりわけ騎馬戦士という新しい社会層である。彼らは新しい貴族となり、武器によって他の2つの身分を守る
「労働する人々(代表は農民)」:
 農民の法的・社会的な条件は次第に統合されていく。彼らの生産物は他の2つの身分をも養う
 D.この3身分論は一見するとそれぞれが対等に見える(農民は少なくとも論理上は、地位の向上を達成している)のだが、実際には聖書の図式=「ノアの3人の息子:セム,ヤペテ,ハム」を適用する事によって、農民は他の2つの身分に従属するという現実(社会的不平等)を反映させていた(父に対していちばん不敬なハムは、他の2人の兄弟の召使いとなった)

【修道士】
1.社会的主導権とエリート主義的精神を追求する彼らは、原始キリスト教の正当な相続者を自称した
2.「隠遁修道士(孤立し独立していた)」よりも厳しい規則の下で暮らし、服従・規律の理想を達成する
3.祈りと孤独のうちにひたすら神を求め、平穏・平和をも祈念する。他の全ての人の救いのために祈るのだが、まず第一に自らの完成・救いを追求する
4.修道院は精神的なオアシスであるが、同時に自治都市・神聖都市でもある
5.神に向かうように悪魔とも対峙し、とりわけ奴らの格好の餌食にされる。修道士は「悪魔の攻撃に対する専門家」として、奴ら「古来の敵」から他の人々を守る
6.修道士は、死者のために祈り続けるための過去帳(修道院が保管している)によって「死の専門家」となった
7.貴族を筆頭とする人々の助言者・仲介者でもあった
8.「教養ある者,古代古典文化の保存者,読書と筆耕の専門家」であった
9.修道院は天国への待合所であり、修道士は聖者になれる最有力者である

【騎士】
1.「暴力/平和,流血/神,略奪/貧者の保護」のうちに生きているが「キリストの騎士」とも持ち上げられる
2.レコンキスタと十字軍活動は、騎士の「冒険精神,信仰,創造的世界」において広大なる活動分野を拓いた。『ロランの歌』『シッドの歌』のような、俗語で書かれた初期文学作品の主人公となる
3.自らを鍛え、騎士的倫理を叩き込まれる
4.近代的な恋愛を創り出すことに重要な役割を演じ、性的態度は「みだらな暴力/愛の“悦楽”」の間で揺れ動く
5.若者の地位向上の主役となる。古い異教的儀式(武器の授与)をキリスト教化することで「騎士叙任式」という通過儀礼が生み出された
6.「騎士=軍職の修道士」という理念とともに、騎士は修道士のように「悪魔との戦いの英雄」ともなる
7.ペルスヴァルとともに騎士は神秘的なものにもなり、騎士の冒険は宗教的な聖杯探求に変わった
8.騎士的想像の世界は「神秘的な征服者」であり、それは「狩り,紋章,獣との戦い,(特に)馬上試合」で展開された

【農民】
1.彼らは「食料の安定,自足自給」を求めて、多角的同時栽培に専念しながらも、小麦栽培に重点を置いていた
2.単なる農耕者に止まらず「葡萄,オリーブ,栗の木」の専門的栽培を行うことができ、また非占有地を利用することもできた(例:移動牧畜をする羊飼い,木こり)
3.農民の女はまず糸を紡ぎ、織物をした
4.野外活動人なので、冬場は「豚を殺して炉端でその肉を少しずつ消費する」ことで凌いだ
5.領主から賦役負担を押し付けられ、使用料金を支払わされた。彼らは圧迫を受けると闘争者となる。たいていの場合は消極的な反抗に止まるが、時には激烈な反乱を起こした
6.農民は中世の人々の中でも、野生の動物(狼・熊・狐)との戦いの第一線にいる
7.読み書きの出来ない農民は軽蔑や憎しみまで受けていたようで、人間と獣の中間に位置付けられていたようだ。しかし農民も領主・ブルジョワ・都市民を嫌悪していた
8.庶民的な信仰(教会から迷信と決めつけられた)の担い手は農民だった。彼らは「魔術的な」信仰と典礼の信奉者だった。とはいえ一方で、村の教会堂へ熱心に通っていた
『16世紀における西欧の為替レート決定と外国為替理論の胎動』松岡和人から


○16世紀西欧の金融と為替レート


(1)国際金融の環境

【取引センター】
 A.近世に入る頃から、それまで「商品取引と為替手形取引の場を提供してきた」西欧各地の年市が衰退し始めた(16世紀)。代わって常時開催されるブリュッヘとアントウェルペンの国際金融市場が登場した B.アントウェルペンでは商品取引所が開設され(1531年)、中世における年市の役割を完璧に引き受けた。しかしスペインによるアントウェルペン占領(1585年)によって、国際金融の中心地はアムステルダムへ移る。やがてロンドンが君臨した(17世紀半ば)

【金融機関の登場と衰退】
 C.中世から近世初頭にかけて繁栄した“銀行家”たち(例:メディチ,フッガー,パッツィ)だが、彼らが衰退していくのに代わり、各地で「公営の振替銀行」が設立されていく。ここでは「預金と為替手形の引き受けた,債権・債務の口座間の振替」が行われた
〈例〉ヴェネツィアのリアルト銀行(1587年),(前者をモデルとした)アムステルダム市立振替銀行(1609年)
 D.アムステルダムでは振替銀行と並んで、保険院(1598年)・株式取引所(東インド会社の株式などを売買する:1608年)が設立された。こうした結果「アムステルダムにはヨーロッパ世界の資本の半分が集中した」(17世紀半ば)と言われる

【国際通貨】
 E.カロリングの貨幣システム(755年)からスタートした西欧の銀本位制は「1リーヴル(仏),1リラ(伊),1ポンド・スターリング(英),1マルク(独)」の¨純銀¨を「計算単位」として、それを20等分・240等分した銀貨を鋳造していた
 F.これをベースとして発展した金銀複本位制(14世紀)が西欧諸国に相次いで導入された。これは金貨=「フラン金貨・エキュ金貨(仏),フローリン金貨(フィレンツェ),3ノーブル金貨(英)」などを、銀本位制の計算単位である¨純銀¨1単位(リーヴルなど)にリンクさせた仕組みだった
 ○○金貨=純銀1単位(計算単位)
     =銀貨(スーなど)20枚
     =銀貨(デニエなど)240枚
 G.“中世のドル”とも呼ばれるフローリン金貨(3.54g,24金=純金)は国際通貨として通用していた(16世紀)が、重量・純度が同じヴェネツィアのドゥカート金貨の台頭があった。ドゥカート金貨は「イスラム圏諸国がこれと同じ基準の金貨を使っていた」ので、東方貿易に強い国際通貨とされた(2ドゥカートの価値を持つ“ドッピーノ金貨”もしばしば用いられた)
 H.フランスのエキュ金貨も相変わらず評価が高く、これに対抗する国際通貨を模索していたイングランドは“リール金貨”を国際通貨にした(1520年)
 I.さらに、ドゥカート金貨と同じ「額面価値」を持った、通称“ターレル銀貨(約30g)”が各国で鋳造され、貿易などで広く使用された。また通称“テストン銀貨(約9g)”も流通していた


(2)為替レートの決定

 A.この世紀の金融の基本として「a.実質的に金銀複本位制が継続していた」が、しかし「b.国王への貸付の場合などを除いて、国内取引・貿易などにはターレル銀貨やテストン銀貨などを用いることが多かった」。また、貿易などでは「c.為替手形を計算単位建てで取引し、実際の支払いを銀貨で行う」のが通常だった

【貨幣供給量の増加】
 B.貨幣の悪鋳は貨幣供給量を増やすだけでなく、金銀比価・物価にまで影響を及ぼした。以下はイングランド(16世紀)の事例から:
1.「“大悪鋳”と呼ばれる数回の悪鋳はヘンリー8世・エドワード4世によって軍事費などの調達を目的として行われた」
2.「銀貨の純度が92.5%→(一時的には)33.3%まで引き下げられた(1542~51年)。これによって、銀貨鋳造におけるシニョレッジ比率(貨幣発行益の割合)は急上昇し、一時は100%を越えた」
3.「銀貨では『悪鋳→シニョレッジ比率上昇→貨幣供給量増加→国王の純利益増加』という経過となっていた」
4.「しかし同時期の金貨では、純度の引き下げは僅かに行われただけであり、シニョレッジ比率も少ししか上昇しなかった」

【“大悪鋳”の金銀比価への影響】
 C.イングランドでの金銀複本位制は「交替本位制」(=金銀の法定比価を設定し、さらにそれを操作する)を目指していた。したがって貨幣供給量増加による影響が出るのは法定比価であった点に注意
 D.銀貨の純度を大幅に下げたので「銀が割高,金が割安」になり、大陸との金銀比価の格差が広がった(フランスは1:12を少し下回る程度だが、イングランドは一時1:5まで法定金銀比価が下がった)。このため金が大陸ヨーロッパと比べて相対的に安くなり、金貨の流出は深刻化した
 ☆結局、国王の目的(資金調達)は達成されず、フッガー銀行からやアントウェルペン国際金融市場での借入に頼った

【物価・為替レートへの影響】
 E.純度が最低となり、貨幣供給量がピークに達した(1546年)から少し遅れて、物価上昇・為替レート下落はピークを迎えた(1551年)
 F.2国間の金銀比価に差が出ると、為替レートにも影響を与えた:
1.「イングランド内で銀地金を鋳造所へ運び込んで銀貨を手に入れ、それを金貨と交換する」
2.「手に入れた金貨を(銀行などの仲介で)外国金貨と交換し、外国で銀地金を購入すれば利益が得られる」
3.「しかし仲介した銀行は『イングランド金貨の余剰,外国金貨の不足』に見舞われるので、結局は裁定取引が成り立たなくなる水準にまで、イングランド金貨の外国金貨に対する為替レートを引き下げる」
 ★歴史的に西欧各国は「小規模の悪鋳・改鋳」を繰り返していた。これによって発生した2国間の金銀比価の差を利用した裁定取引、さらに「裁定取引を打ち消す方向での為替レートの変動」もしばしば発生したようだ。ただし、個々の銀行による為替レート変更は「市場全体に波及するには時間がかかった」可能性はある

【為替レートへの金利の影響】
 G.商業活動の活発化とともに「a.金利の種類が増加した(それ以前は¨為替契約に組み込まれた金利¨&¨国内商業貸付の金利¨の2種類だった)」「b.国際的な貸付にも金利が徴収できるようになった」。さらに「c.国王による国際金融市場からの借入が増大した」(16世紀)
 H.国王への貸付は(それまでのような個人的な借入ではなく)公的な資金調達であった。それらの中には「銅山・銀山の採掘権」を担保にしたものまであった。しかしその金利は1つに収斂するようなものではなく「d.銀行家と国王との関係でその都度決まった」のだった
 I.上記d.は通常の商業貸付においても同様であり、市場金利は大きな幅を持っていた(例:フランスの金利は5~12%の幅を持っていた〔16世紀前半〕)。一方で、当時の西欧は「e.イタリア商人に支配された単一の貨幣市場を形成していた」ので「f.各国間の為替契約を用いる¨為替手形の為替レート¨にはほとんど差がなく、為替契約に偽装した貸付の場合には金利差がほとんど無い」という特徴があった
 ⇒商業貸付では体系的な金利は存在せず、為替契約に偽装した貸付は統一貨幣市場となっていたので、金利差が為替レートに与える影響は考えにくい


(3)為替レート決定に影響する諸要因

【資本移動】
 A.アントウェルペンは「a.貿易業者と仲介業者(為替手形などを扱うイタリア商人)を中心に人が集まり、100,000人を超える(1565年)大都市に成長した」「b.元々はイングランド産羊毛を大陸へ輸出する中継地として栄えていた」「c.そこへ西欧の新大陸・アジアとの貿易拡大が重なり、商品取引の場として成長した」「d.アジアからの香辛料・絹・薬を輸入する代わりに、フローリン金貨・ドゥカート金貨が支払われた」「e.委託貿易が行われ、中小の業者も手数料を支払って貿易に参加できるようになった」「f.貿易保険も登場した」のだった
 B.ポイントは「g.為替手形が貿易目的以外にもしばしば売買されるようになった」ことであった。為替手形の満期日前の売買が増えたことによって、為替手形の相場そのものが安定し、取引市場の拡大に繋がった
〈例1〉ヤコプ・フッガーはカール5世の皇帝選挙費用を賄うために、外国為替市場の操作を行った(1519年)
〈例2〉トマス・グレシャムは「イングランド政府の外国からの借金返済の負担」を軽くするために、外国為替手形を売買した(1550年)
 C.この都市には「h.新大陸から西欧に流入した銀が集まった」。スペイン領アメリカからの銀はいったんスペインに流入したものの「毛織物の輸入代金支払い,スペイン王から南ドイツの金融業者への借金支払い」のために、アントウェルペンへと流入してきた
[※ただし銀の流入拠点としての役割は、ネーデルラントでの戦争開始とともに海上輸送をイングランドに妨害され、ジェノヴァへと移っていく(1568年~)]
 D.上記の要因が資本移動の拡大(16世紀)を推進した。さらに特徴的なのは「i.国王による国際貨幣市場からの借入が、資本移動を促進する」作用を果たしたことである
〈例〉上記例のような「外国為替手形の売買」による軍事費などの捻出,アシエント(スペイン王の財務証券による貸借契約)のような債券による資金調達
 E.こうした政府による資金調達・返済による資本移動は、もちろん為替レートに影響を与えた。しかしこの流れは一方向だけに向かっていくものではなかったので、為替レートへの影響は限定的だった

【外国為替の政策】
 F.イングランド(16世紀中頃)が行った「悪鋳によって外国との金銀比価を変更する」政策は昔からあった。これは「金貨・銀貨(or金銀の地金)の流出防止,戦費捻出」のために行われ
 ⇒相手国の対抗策は「自国鋳貨の流出,外国鋳貨の流入」を禁止することだった
 G.さらに「経済政策として為替レートを変動させよう」とするアイデアが生まれた(16世紀)。その背景には「国際貨幣市場が発達し、為替操作が容易になったこと」「金利が公式に認められる(イングランド:1571年)など、教会が為替操作に対する態度を緩めた」ことがあった
 I.貿易業者は為替レートの変動リスクに曝されるようになり、それに対してリスク・ヘッジを行うようになる。それは「“賭け”の形をとった為替レートの予想投機」であり、当局から禁止されたものの続けられた。これは予想レートと実際のレートの差額だけを受け渡しするので「先駆的な為替先物取引」と考えられる

【物価】
 J.この時代に西欧諸国の人々は、歴史上はじめて物価に注目した。貨幣需要の増大(原因:人口増,貿易による東方への地金流出)と貨幣供給の急増(原因:スペイン領アメリカからの金・銀流入,中欧での鉱山開発)が同時に生じ、その綱引きの結果はインフレに傾いた
〈例〉スペインでは物価上昇がいち早く始まり、やがて貿易における国際競争力を失っていった(16世紀後半)
 K.西欧諸国が同時にインフレとなったので、1国だけが悪鋳によるインフレで為替レートを下落させた場合と異なり、個別の国に対する為替レートの影響は判断しにくい。ただし、各国・地域別インフレ率に継続して明らかな差があるのなら、為替レートに影響を与えうる
〈例〉イングランドでは“良貨”の国外流出を防ぐために悪鋳を続けた(1526年~)結果、好況(16世紀)をもたらしたという


(4)外国為替理論の萌芽(16世紀後半)
【為替市場で決まる為替レート】
 A.国際貨幣市場では巨大金融業者が独占的に活躍していたので、1銀行家が為替レートをコントロールする余地があった(16世紀)。論者たち(16世紀前半)は為替レートに関して「貨幣の需給or為替手形の需給」によって決まると主張していたが、現代のような自由な市場が確立していたのでは全くない

【市場を介さない為替レート】
 B.この為替レート(鋳貨の為替レート)は「1.各国の鋳貨同士の間に成立する為替レート」「2.計算単位(一定の純度・重さを持つ架空通貨単位)と各国の鋳貨との間の為替レート」の2種類からなる。各国の鋳貨の純度がしばしば変更されるので、1.のように直接為替レートを求めるには不便があった。2.のように、不変の計算単位を基準に置く方が都合が良かった
 A国鋳貨a単位=1計算単位
        =B国鋳貨b単位
(この時)
 A国鋳貨=B国鋳貨b/a単位となる

【貿易収支と物価-グレシャム】
 C.彼はフランドルにおけるイングランドの王立代理人となって(1511年)以降、政府の財政顧問などを歴任した。その間に彼は「イングランドの為替レートを上昇させる」ことによって「貨幣の流出は収まる,外国からの借金の負担も軽くなる」と考えた
 D.この考えをもとに実行した政策(1552年)は「1.輸出業者が手に入れた外貨(フランドル通貨)を政府が為替手形と引き換えに買い取る」ことにより「2.輸入業者が輸入代金支払いに充てる外貨を手に入れる」のを防いだ。さらに政府は「3.アントウェルペン国際貨幣市場で外貨を売り、目標であるポンド高を作り出した」
 ⇒これによって国王の対外債務は支払いが軽くなったが、輸入が増えたので結局はポンド相場は下落した
 E.そこでグレシャムは「イングランドの貿易収支を黒字にすることで為替レートをポンド高にできる」と主張した(1559年)。彼の計算によれば「輸出額が輸入額の4/3倍以上になれば為替レートが上昇する」という

【貨幣数量説と物価】
 F.政治学者ホーダンは「(16世紀の)物価上昇の原因は、新大陸からの大量の金銀の流入にある」とし、そして政策目標を「貨幣の価格=為替レートの引き上げ」に設定することを主張した