『15世紀西欧の為替手形の為替レートと利子率に関する1考察』松岡和人から


○15世紀西欧の通貨制度と金融


(1)為替レート

 A.西欧各国で相次いで金貨が鋳造され始め、それまでの銀本位制から金銀複本位制へと移行していった(14世紀)。しかし貿易決済は相変わらず定期的な大市でなされ、それはフィレンツェのフローリン金貨を中心に行われていた
 ⇒為替取引には少数の為替レートしか必要でなかった
 B.やがて金銀複本位制が定着し、大市が衰退して代わりにブリュッヘなどが商・金融取引の中心地となる(15世紀)。金融市場での為替取引の発展により「貿易量は増大し、貿易に参加する国・地域の数が増えた」ものの、同時に必要とされる為替レートの数が急増した
 C.こうした状況において、イタリア諸都市出身の金融業者=“銀行家”たちが台頭してきた。彼らは外国のコルレス先の銀行などとの為替取引を日常的に行った。さらに、貿易業者たちは為替取引の発展により、為替レートの重要性を認識するようになった
[為替手形の為替レート]:
 2国間(A,B)で為替手形を売買する際の為替レート。為替契約が信用供与の偽装手段となっていたので、為替手形の決済までの期間が生み出す利子が為替レートに埋め込まれている。A・B両国で成立するこの為替レートは、信用供与者が利益を得られるように一定額のズレがある
[鋳貨為替レート]:
 現在における為替レートと同義の、為替手形を介在しない為替レート。A・B以外の第三国C(通貨はA・Bのどちらでもない)において、A・Bの通貨を(量目や通用価値を)比較して成立する、利子を含まないリアルマネーの為替レートである

【重金主義とイングランド】
 D.イングランドは外国との為替取引を管理して、貿易黒字を維持しようと努めた。その背後には「重金主義」(=国外への金銀流出を阻止しようとする)あった
〈例〉成文法(1390年)において、イタリア商人などに対して、イングランドの産品で儲けた見返りにその販売収入によって、イギリスの産品を購入するように命じた
 E.しかし大陸ヨーロッパの金銀の価値がイングランドの金貨・銀貨の額面価格を上回り(15世紀)、イングランドから金貨・銀貨が(溶解して地金を手に入れる目的で)国外へと流出した。対策として金貨・銀貨の量目を落とすなどをした(1411年)ものの流出は続いた
 ⇒金貨・銀貨の鋳造量を大幅に減らさざるを得なくなった=マネーサプライが管理不能となった(15世紀半ば)
[※量目を落とせば、イングランドで同じ金額を払って手に入れられる金・銀の量は減る。それでも流出が止まらず、さらに額面金額を引き上げる(額面と内在金属との差を広げる)ために鋳造量を大幅に減らしたということか?]



(2)利子(13~15世紀)

 A.教会によって利子"usury"を取ることは禁止されていたのだが、利子という単語の元になった"usura"は"use"という意味で「借りたお金を使用する」という意味に理解されていた。そして、利子をとることは「“貨幣が貨幣を生む”という、自然に反した貨殖手段だ」として非難されてきた
 B.一方で創られた新しい概念である"interest"は「お金を貸す人に対して支払われる代償」と解されて「商業の発展には利子"interest"を認める必要がある」という考え方の根拠となった
〈例〉フランス(1311年)では「一般の高利貸しと大市で行われる貿易金融とを区別した」「年数回開催される大市の次の開催までの期間において、最大2.5%の利子を取ることを認めた」のだった。最大の恩恵を受けるのは、大市の中心的存在であるイタリア商人たちだった
[※イタリア商人の為替手形を用いた信用供与については一切省略。当blog内記事の『中世の為替手形取引の事例から(前・後)』を参照のこと]

【利子率の格差】
 C.各国の商業貸付の利子率はバラついていた。地域別にみると「イタリア諸都市:5%,オランダ:10%,フランス:15%(いずれも14世紀後半)」「イタリア諸都市:5%,オランダ:8%(どちらも15世紀)」というように差があった
 D.利子率の格差が存在した、ということは「金利差を利用した裁定取引」が発生しなかった可能性が高い。これは「高利禁止法,経済の仕組み,金融市場の発展度合い」の違いが、利子率の格差を生んでいた原因だった
 E.近世に入ると、イタリア諸都市とオランダがフランスと比較して低金利の金融市場となる(16世紀)。後には低金利国はオランダとイングランドになる(17世紀)


(3)銀行の登場と国際金融システム

 A.銀行の中ではメディチ銀行(隆盛期:1420~80年代)とフッガー銀行(隆盛期:15世紀末~16世紀中葉)が有名である。この世紀に誕生した各地の為替市場ではイタリアの銀行が活躍していたが、中でもメディチ銀行は西欧各都市(その中でも為替市場が成立した場所)に支店を張り巡らせていた
 ★為替手形による取引手法の発達は「技術水準はその後500年間、ほとんど変わらなかった」とも言われる

【数字を現代に置き換えてみると…】
 B.「a.為替手形の為替レートは1ドル=100円と1ドル=101円」「b.自国の方が必ず高くならなければ成立しないので、1ドルは日本では100円(円高)・米国では101円(ドル高)」「c.ユーザンス(支払期限)は1ヶ月」「d.取引中に為替レートは変動しなかった(実際には中世において為替レートは変動していたので、為替契約に偽装した信用供与を行う銀行家は、変動リスクを抱えている)」
 以上のように仮定する:

1.「邦銀は1ドル=100円で、日本の借り手から額面100ドルの為替手形を買う。借り手は10,000円を借りたことになる(第1の為替契約)」
2.「1ヶ月後に邦銀は、米国に運んだ為替手形によって100ドルを受け取る。この場所の支払者(=手形振宛人)は為替手形に記載されており、手形振出人(=借り手)の代理商である」
3.「邦銀は即座に額面100ドルの為替手形を買う。為替レートは米国内なので1ドル=101円となる(第2の為替契約)」
4.「さらに1ヶ月後、邦銀は日本に運び込んだ2枚目の手形を10,100円で売る」
5.「これによって邦銀は、差し引き100円の利益を得た。2ヶ月間なので利益率は6%となる」
6.「ちなみに、手形振出人(=借り手)は輸出業者であり、代理商である手形振宛人(=支払者)に対して輸出商品の債権を持つ。輸出業者は為替契約によって輸出債権を早期に現金化できた。為替手形の支払いはこの債権・債務を相殺する方向にある」

【実情】
 C.ヴェネツィアでのドゥカート金貨の¨為替手形の為替レート¨は、ブリュッヘでのそれよりも高かった(15世紀)。ロンドンでのポンド・スターリングの¨為替手形の為替レート¨は、アントウェルペンでのそれよりも高かった(16世紀)
 D.為替契約に組み込まれた信用供与の利子率は、場合によっては10%を越えた。しかし為替変動リスクの存在から、教会は「不確定な利子率は高利ではない」として容認していた
 E.二国間での¨為替手形の為替レート¨の差が開くことは、当然ながら利子率の上昇を意味する(反対の動きは利子率の下落)。高利禁止法などで商業貸付の利子率は規制されていたものの、為替契約に組み込まれた信用供与ならば利子率はある程度自由に決まっていたようだ
 ⇒利子率は2つ(商業貸付のもの,為替契約のもの)が存在していた


(4)理論通りにいかない為替相場の変動

【商業貸付の利子率の影響】
 A.ある国で商業貸付の利子率が何らかの理由で上昇した場合、資本移動が自由な場合であれば2種類の為替レート(¨為替手形の為替レート¨と¨鋳貨の為替レート¨)は「その国の通貨高」となる。しかし資本移動が不自由(あるとしても銀行の為替取引によるもののみ)な世界であり、資本移動を原因とする2種類の為替レートへの通貨高圧力は限定的だった
 B.ところが、利子率上昇の影響を受けて(何らかの理由で)市場での金銀比価が変化すると、資本移動なしに通貨高となる可能性が存在した。いずれにしても、もし通貨高となって¨為替手形の為替レート¨の差が広がれば、為替契約に組み込まれた利子率が影響を受けた

【¨鋳貨の為替レート¨に関する問題】
 C.しかし¨鋳貨の為替レート¨が¨為替手形の為替レート¨に影響を与える可能性は小さかった。そもそも、この影響を減らすために「計算単位通貨で表示された為替手形取引」が増加したのだった(フローリン金貨の増価が続いていたことが背景にある)。その上鋳貨による支払には(鋳貨の削り取りなど)リスクのカバー分が加算されしていたから、2つの為替レート同士は乖離しやすかった
 D.貿易収支が¨鋳貨の為替レート¨に深く関係しているものの、(貿易赤字解消のための)輸入制限の実施によって貿易収支は制御できる場合もあったことに注意しなければならない。貿易収支を通じて統制可能な¨鋳貨の為替レート¨は、為替市場で自由に決まる¨為替手形の為替レート¨とは別個に動いた
 E.マネーサプライと¨鋳貨の為替レート¨の関係が狂ってしまう場合もあり得る
〈例〉国外への金銀流出を理由とした、イングランドの量目切り下げ=¨鋳貨の為替レート¨切り下げ(1411年)は、最終的には貨幣供給量を激減させざるを得なくなった(15世紀半ば)
 F.金銀複本位制は3種類あるので、他国が異なる仕組みに変えてしまうと¨鋳貨の為替レート¨の決まり方も変わってしまうことも起こった
『14世紀における西欧の金銀複本位制と為替レート決定』松岡和人から


○14世紀西欧の通貨制度


(1)金本位制と金銀複本位制の仕組み

【近代の金本位制】
 A.各国が「金と紙幣の兌換レート」を保っている限りは、各国間の為替レートは金を重しとしてある固定レートへと自動的に決まり、それは維持され続ける
 B.もし貿易によって金が流出(流入)しても、その国で流通する紙幣量が減り(増え)て物価が下落(増大)し、全体の輸出が増加(減少)することによって金の量は自動的に元の水準を回復する、と考えられてきた
[※つまり価格調整メカニズムを完全に信頼しているということ。さらに「貨幣数量説」が前提になっている]

【金銀複本位制ver.1】
 C.「金と銀の法定交換レート(=法定比価)」が設定された、最も典型的なタイプのもの。もし市場での実勢の金銀比価が法定比価から乖離した場合には、裁定取引が働いて市場比価は法定比価へと戻る(割安になった方を購入して、鋳造所へ持ち込めばよい)。「鋳貨・地金の自由な輸出入,鋳貨の自由な溶解」が金銀複本位制の基本条件だった
〈例〉中世ではフィレンツェとジェノヴァ(どちらも13世紀)においてうまく機能していた
 D.しかし、市場での銀が割安となった時に「銀貨の鋳造だけが進んで、金貨が流通しなくなる(退蔵される)」ケースもある。『グレシャムの法則』が働いたわけだが、こうなると銀本位制と変わらなくなり、経済への影響は大きい。次の例のように、比価の変化によっては銀本位制(or金本位制)ともなるので、これは“交替本位制”とも呼ばれる
〈例〉アメリカ(18~19世紀)では、金銀の「法定比価=15:1,市場比価=15.5:1」だったが、銀貨のみが流通し金貨が流通しなくなった。結局議会が「法定比価=16:1」にして(実質的な)銀本位制から金本位制へと移行した
 E.金銀比価の差が生み出す裁定取引は、国境を跨がった場合にも起こり得る(例:14世紀前半)。そうした資金は主に“貿易金融”という形で国境を越えていた。もちろん重い刑罰を伴った法的規制は各国で行われたが、それでも密輸は後を絶たなかったという
〈法的規制の例〉
 フランスでは“王国以外で鋳造された貨幣は通用しない”と定めた(勅令:1329年)。対象は主にイングランドの貨幣だった。イングランドでは『ステップニー法』(1299年)以降に強く規制された

【金銀複本位制ver.2】
 F.金銀の法定比価を定めないのが特徴で“平行本位制”とも呼ばれる。金貨・銀貨は自由に鋳造され、金・銀それぞれに法定価格と市場価格が存在している
 G.もし金の供給が減って〔市場価格>法定価格〕となれば、金貨はその額面(=法定価格に基づく)で使用するよりも金として使用した方が有利となり、金貨は市場から減って物価が下落する。このため、金や銀の市場価格の変化は経済(と為替レート)に影響を与えるが、交替本位制よりそれは小さい
 ∵金価格が変わっても銀価格が変わらなければ、銀貨の流通量も変わらないから

【金銀複本位制ver.3】
 H.金準備が不足した銀本位制国が「金本位制へと移行する前に採用する」制度。この仕組みは“跛行本位制”と呼ばれ「a.銀貨の自由鋳造を禁止するので〔市場価格≠額面価格〕となる」「b.このため銀貨は補助貨幣となる」「c.金貨は貿易に用いられるので、金本位制と同じ機能を示す」特徴を有していた


(2)イタリア(14世紀)

 A.北・中部イタリア諸都市は「大型銀貨,金貨」を西欧で最も早く鋳造し始めた。その原因は「貿易量が拡大し、高額面の貨幣が必要になった」「オリエントとの貿易には金貨が不可欠だった」ことが挙げられる
〈例〉大型のグロッソ銀貨が各都市で鋳造され始めた(12世紀)。フィレンツェでフローリン金貨が鋳造された(1252年)。ヴェネツィアでドゥカート金貨(フローリン金貨と等価)が鋳造された(1284年)
 ⇒これらの金貨鋳造を引き金として、西欧(14世紀前半)ではそれまでの銀貨中心から「金への回帰」現象が起こった
 B.この時期のイタリア諸都市は金融業を中心に栄えたが、その舞台は主に外国(ブリュッヘ〔14世紀〕→アントウェルペン〔15世紀末〕)だった。金融業を支えたのは諸々の金貨(特にフローリン金貨とドゥカート金貨)だった
 ★特にフローリン金貨はイタリア内での使用よりも「イタリア外での国際通貨,(場合によっては)計算貨幣」としての役割が重要だった

【フィレンツェの貨幣体系】
 C.最初は「a.1フローリン=1リラ=20ソルディ=240デニエ」というカロリング方式(銀本位制:755年~)の計算体系に結びつけられていた。しかしすぐに金・銀の交換レートが変動し「b.20フローリン=29ア・フィオリーノ(計算単位)」で固定された
 D.フローリン金貨は銀貨の体系とも結びつけられ「c.1フローリン=24グロート銀貨」「d.1グロート銀貨=32小デニエ銀貨」となった。実はd.の銀貨同士の交換レートが変動したので、c.のフローリン金貨と銀貨の交換レートも変動した
 ⇒フローリン金貨とフィレンツェ内の銀本位制は互いに独立していた(つまり“平行本位制”だった)
 E.金の含有量を変えなかったことで有名なフローリン金貨は、その安定性ゆえに国際通貨となった(14世紀)。やがてフィレンツェでは、フローリン金貨は銀貨に比べて7倍の価値になったと言われる(15世紀)が、それは「銀貨の度重なる切り下げ」が原因だった
 ★フローリン金貨は一度だけ金の含有量を減らした(1402年)。翌年には元に戻したが、このことが原因で国際通貨の座をドゥカート金貨に脅かされた

【ヴェネツィアの貨幣体系】
 F.こちらは「e.1ドゥカート=24グロート銀貨」「f.1グロート銀貨=32小デニエ銀貨」という貨幣システムであった。こちらもフィレンツェと同じく“平行本位制”であったが、ただしドゥカートは計算単位とは結びつけられてはいない


(3)フランスの金銀複本位制(14世紀)

 A.フランスは(ブリュッヘの台頭などの要因により)国際的な貿易拠点であるシャンパーニュ大市の機能を失った(14世紀)。さらに増税・貨幣の悪鋳(金属の含有量を落とす)が続く
 B.国際通貨であるフローリン金貨に対抗してエキュ金貨が鋳造された(1337年)が、百年戦争の開始によって財政危機は一層深刻化し、悪鋳は繰り返された。その回数はフィリップ6世期(金貨:33回,銀貨:31回)・ジャン2世期(金貨:18回,銀貨:86回)にも及んだ
 C.こうした状況で国内の貨幣改革が喫緊の課題となり、そこで登場したのがフラン金貨だった(1360年)。これによって「1フラン=1リーヴル=20スー=240ドゥニエ」に固定化した。フラン金貨はリーヴル(=カロリング方式の計算単位)と等価となり、さらに「カロリング方式のスー,ドゥニエ」に固定的にリンクされた。これは金銀の法定比価を設定したことになる
 D.フラン金貨はシャルル5世期(1364~80年)まで鋳造されたが、実際の取引ではフラン金貨はあまり用いられずに「リーヴルやスーなどの計算単位で表示してドゥニエ銀貨などで支払う」or「エキュで表示して支払い」のが一般的だった
 ⇒エキュ金貨はフランスを代表する国際通貨になりつつあったことから、この世紀のフランスの貨幣システムは、実質的には「エキュ金貨等による国際金本位制,国内銀本位制」の“平行本位制”であった

【基本的なこと】
 E.スーは計算単位だが、ドゥニエは計算単位であるだけでなく、銀貨も鋳造される現実貨幣でもあった
 F.計算単位であるリーヴル(スー,ドゥニエも)は2種類=「リーヴル・トゥルノワ」「リーヴル・パリジ」が存在した(関係式:5デニエ・トゥルノワ=4デニエ・パリジ)。これはトゥールの貨幣鋳造所とパリの貨幣鋳造所で、異なる計算単位を使っていたことによる。国内為替レートが2つある状態は長く続いた(~1667年)が、実際にはフランス国内での為替レートはさらに多かった
 G.国際金融市場の中心地となるブリュッヘとアントウェルペン(つまりフランドル全体)は、フランスと同じ通貨圏を形成していた
 ★それ以外の地域では「ドイツ諸邦はエキュ金貨と同じ規格(純度,重さ)の金貨」「アラゴンやハンガリーなどはフローリン金貨と同じ規格の金貨」を鋳造したりしていたが、新しい1つの貨幣システムにまでは発展しなかった

【維持されない含有量】
 H.「(計算単位)リーヴルと等価だが、金含有量の異なる」金貨が次々と鋳造されていた。フィリップ6世のエキュ金貨(1349年:金含有量が違う)・シャルル6世のムートン金貨(1380年)がそうであり、どちらも一時的にリーヴルと等価とされたものの、どの金貨もその関係を維持できなかった
 I.金貨(銀貨)の金(銀)含有量は、上下に変動の激しかった時期(~1330年)の次には激減の時期が訪れた(1340年)。その後、金貨は一足先に回復を始めた(1350年)が、銀貨の回復は遅れた(1360年)


(4)イングランドの金銀複本位制(14世紀)

【金貨】
 A.イングランドでの「金への回帰」は、エドワード3世によるレパード金貨の鋳造(1344年)。フローリン金貨とエキュ金貨に対抗して鋳造されたわけだが、金銀の法定比価(14.8:1)が市場比価を上回っていたのですぐに中止された
 B.続いて法定比価を変更してノーブル金貨が登場した(1344年)。これによって貨幣体系は「a.1ノーブル=6シリング8ペンス=80ペンス」「b.1ポンド=3ノーブル=240ペンス」となる
 C.ノーブル金貨の重量は1枚=136.7グレインとした(1グレイン=0.0648gなので、1枚=8.858gとなる)。金地金1タワー・ポンド(=5,400グレイン)からは39.5枚のノーブル金貨が鋳造されるので「1タワー・ポンドの金地金は、額面で13ポンド3シリング4ペンス(=3,160ペンス)」となる
 ★グレインは正確には“トロイ・グレイン”で、その名は小麦1粒に由来する。「480トロイ・グレイン=1トロイ・オンス」「5760トロイ・グレイン=1トロイ・ポンド」となる
 ★銀本位制下にあった時代のイングランドでは、君主が独自のポンド重量を決めることがあった。タワー・ポンドもその1つで「ウィリアム1世がロンドン塔の中に鋳造所を設立し、採用したポンドをタワー・ポンドと名付けた」とされる。1タワー・ポンドは1トロイ・ポンドよりも6%あまり軽い

【銀貨と法定比価】
 D.ペニー銀貨は1枚=20.30グレインとしたので、1タワー・ポンド(=5400グレイン)の銀地金から266枚のペニー銀貨が鋳造された
 E.ノーブル金貨は計算単位を挟むことなく、直接にペニー銀貨と結びつけられた。これによって金銀の法定比価は「11.9:1」となった(3,160:266=11.9:1)。しかし外国よりも金が過小評価だったので、法定比価を「12.0:1」に変更した(1351年~15世紀初)


(5)金銀比価と裁定取引

【市場比価変動の影響】
1.「イタリア諸都市(平行本位制)では、金銀の法定比価が設定されていなかったので、市場比価が変化しでも裁定取引は発生せず、為替レートへの影響も無い」
2.「イギリス(交替本位制)では、市場比価の変動により法定比価の変更を余儀なくされた」
3.「フランス(名目的には交替本位制・実質的には平行本位制)では、計算単位リーヴルと等価の金貨を変えていくことで、法定比価の変更と同じ効果を得た」

【為替レートへの影響】
 A.自国の法定比価と外国の市場比価が乖離した場合、以下のプロセスで為替レートの変更が発生する
〈例〉外国の市場比価が12:1、自国の法定比価が11:1のケース
・ステップ1…「自国内で割高となった銀地金を鋳造所へ持ち込み、自国の金貨と交換する」
・ステップ2…「手に入れた自国金貨を、両替商などの仲介によって外国金貨と交換する。法に触れないよう、見掛け上は為替手形取引の形をとる」
・ステップ3…「これを使って外国の市場で銀地金を購入すれば、利益を得られる」
 B.しかし仲介する両替商は、金貨の需給バランスをとるために為替レートを変更するはず。結局、裁定取引で利益が上がらないような水準まで、外国金貨の価格は上昇する(=為替レートは上昇する)。ただし手数料や輸送費があるので、完全に価格が一致することはない


(6)為替レートの決定要因(14世紀前半)

[14世紀初頭]
 ほとんどの国際貿易がフローリン金貨を用いて行われ、諸国王もイタリアの銀行から借金をしていた。為替レートもフローリン金貨を中心に成立していたが、英仏各都市では為替レートは乱高下していた
[1330年代]
 国際的な金銀比価の差を利用した裁定取引が活発となるが、為替レートは前の時期よりも安定していた(裁定取引の影響は不明)。フローリン・エキュの両金貨のみが国際通貨であり、諸国通貨の為替レートは自動的に両金貨に結びつけられていた
[1340年~]
 イングランドによる「ノーブル金貨の鋳造,金銀の法定比価などのコントロール」によって、裁定取引が減少し為替レートも安定していた
[1380年~]
 再び為替レートは変動し始める

 A.イングランドは典型的な“交替本位制”であったので裁定取引が発生しやすく、為替レートの変動確率は大陸ヨーロッパの各国よりも高かった。イングランド国内での金銀の市場比価は「17:1」とかなり高かった(フランスでは12:1~15:1)
 B.イングランドは銀貨中心の経済だった(~1343年)が、一方で銀貨の悪鋳が続いていたので、金貨の魅力は高まっていた。にもかかわらず鋳貨・地金は輸出入が禁止されており(実効性はまだそれなりにあった)、国内での金価格は高く保たれた
 ☆逆にイングランドの銀貨は安かったので、1フローリン=3シリング4ペンス~4シリングという「フローリン高・イングランド銀貨安」の為替レートが実勢だった(1310年代)
 C.イングランドでの地金輸出禁止の法律は効果が弱まり(1330・40年代)、割安なイングランドの銀(鋳貨も地金も)は流出し、反対に金貨が流入した(国際的な裁定取引の発生)。にもかかわらず、為替レートの変化はあまり無かったし、フローリン金貨などはむしろ安定していた
〈例〉アヴィニョンなどフランス諸都市では、フローリン金貨は非常に安定していた(1330~80年代)

【金の内在価値から比較する】
 D.イングランドで外国金貨の為替レートが固定された(1330・40年代)。ロンドンでは通常「1フローリン(54グレイン=3.5g)=3シリング」に固定された。このレートは元々は「エドワード3世が外国からの借金に用いられたレート」だったのが、金融市場全体のレートとして固定されるという極端なケースだった
 ☆イタリア商人は国際貿易の主導権を握っていたので、フローリン金貨で貿易支払いを行うことを要求できた(しかもフローリン高の相場で)はずである。ところが、エドワード3世からの返済を受けるためには「あえて実勢よりもフローリン安の相場に設定せざるを得なかった」可能性もある
[※下記に見るようにフローリン金貨はエキュ金貨と比べて割高であったが、実勢はもっと割高だったかもしれない、ということか?]
 E.またエキュ金貨(約71グレイン=約4.6g)は、通常「1エキュ=4シリング6ペンス」に固定されていたのが「1エキュ=3シリング4ペンス」に下落した(1342年)。その後にノーブル金貨(136.7グレイン=8.858g)が鋳造された(1344年)
 F.1グレイン当たりのイングランド銀貨で上記3金貨を比較すると、
[エキュ金貨]:
 40ペンス÷71グレイン=0.563
[ノーブル金貨]:
 80ペンス÷136.7グレイン=0.585
[フローリン金貨]:
 36ペンス÷54グレイン=0.667
となり、フローリン金貨が過大に評価されていたことがわかる(エキュ金貨に比べて約18.5%も)


(7)為替レート決定要因(14世紀後半)

 A.各国は「金の法定価格,銀の法定価格」を持つので“金銀の法定比価”が存在し、加えて取引実勢である“金銀の市場比価”が別に存在する(1国内で互いに影響しあう)
 B.さらに鋳貨・地金の自由移動が可能ならば、国家間での裁定取引も起こるが、もし自国からの貴金属流出を防ごうとするならば、金貨と銀貨の鋳造価格の比=“鋳造比価”が問題となる

【裁定取引を妨げる要因】
 C.鋳造比価は2つ存在する:
「1タワー・ポンドの金地金を鋳造所に持ち込んだ際に受け取れる金貨(金貨鋳造手数料が割り引かれる)を、全く磨り減っていない銀貨と交換した場合の比価」(※鋳造所で金が割り引かれた分だけ、銀が割高になる)
「1タワー・ポンドの銀地金を鋳造所に持ち込んだ際に受け取れる銀貨(銀貨鋳造手数料が割り引かれる)を、全く磨り減っていない金貨と交換した場合の比価」(※鋳造所で銀が割り引かれた分だけ、金が割高になる)
 D.イングランド(14世紀後半)では、金銀の法定比価が市場比価に合わせるように設定されていたので両者はかなり接近していたものの、鋳造比価は(鋳造手数料の分だけ)かなり離れて推移していた。このため、外国の市場比価が相当変動しなければ、裁定取引によって利益は得られない
 E.加えて様々なリスクがあった:
「鋳貨の削り取りが頻繁に行われていた(5%以上か?)」「非公式の鋳造手数料を取るケースもあった」「鋳造まで日数がかかった」「鋳貨に純度・重さのバラつきがある」「輸送費」「輸送時に略奪される危険性」
 ★当時の鋳造は手打ち式だったので、1タワー・ポンドの地金から鋳造される鋳貨の枚数が決まっていても、個体差が必ず発生した。そのために純度・重さについては「公差(=誤差)」が認められていた
 F.上記のような障害が存在したので、為替レート(14世紀後半)は裁定取引から影響を受けることなく、安定的に推移していた。しかしその後に再び変動の時期へと突入する
『中世・近世の貨幣市場』R・ローヴァーから[3]


(8)16世紀の変化

 A.徴利に関する教会の教義が未だに影響力を失っていなかったから、貨幣市場の構造は基本的には変化がなく、外国為替市場と結びついたままだった。そこで“合法的な為替”と“非合法的な為替”に関する神学上の論争は激しく交わされたが、教義に原理主義的な論者もいれば銀行家に好意的な論者もおり、論争は全く収集がつかなかった
 B.一方で、為替手形は(以前にもまして)「国際的決済を行い、正貨の現送を排除するためのより重要な手段」となったから、為替の取引量は急増した。さらに支払手段としてよりも、信用手段としての役割が重きをなしていた
 C.北ヨーロッパでの為替手形は、ライバルとして「(約束手形の先駆的な形態である)債務証書」が存在した。債務証書はアントウェルペンやベルヘン・オプ・ゾームの大市に度々出向く(とりわけ)イングランド商人に好まれていた

【銀行所在地の変化】
 D.この世紀に銀行所在地の数は増えたものの、以前からの銀行所在地であった幾つかの都市が、新興都市に地位を譲るケースもあった
〈フランドル〉
 ブリュッヘは急速に衰微(1500年頃)してその地位をアントウェルペンに譲り渡した。繁栄したアントウェルペンは取引所の堂々たる建物を落成した(1531年)
 ★アントウェルペン取引所はその後、ロンドン・アムステルダム・コペンハーゲンの取引所のモデルとなった
〈イベリア半島〉
 セヴィーリャ・リスボン・カスティーリャの各大市は、バルセロナやパルマの相対的衰退の恩恵に浴した(これは国際商業の中枢が地中海から大西洋岸へと移った影響である)。ヴァレンシアは首尾良くその地位を守り通すことに成功した
〈ライン河以東〉
 アウクスブルクとニュルンベルクが、何人かの市民(例:フッガー家)の金融力のおかげで銀行所在地へと上昇し、それほどの困難もなくその地位を維持し続けた
〈北ドイツ〉
 ドイツ・都市ハンザの(時代遅れの)商業方法の変革は緩慢で、ハンブルクに為替相場が建つようになったのは「イングランド商人が毛織物指定市場をシュターデ(エルベ河西岸)に移した」後のことだった(1587年)
〈フランス〉
 ルーアンとパリ(100年ぶりの復帰)が銀行所在地となったが、その地位は二流であってリヨン大市に遠く及ばなかった


(9)大市の飛躍的発展(16世紀)

 A.カスティーリャ大市は毎年「メディナ・デル・カンポ→メディナ・ディ・リオセコ→ヴィリャロン」の順で開催され、四大大市に数えられた。しかしフェリペ2世による大市開催日の勝手気ままな延期は、大市を大混乱に陥れた
 B.フランクフルト大市は当初はもっぱら商品取引に限られていたが、やがて為替業者を引きつけ始め(15世紀末~)、何よりもアントウェルペンから振出された為替手形の満期支払地となった

【リヨン大市】
 C.この大市は(かつてシャンパーニュ大市が引き受けていた)国際手形交換所の役割を担うようになった(16世紀)。そこでは勘定決済は(正貨での支払を最少化すべく)当事者間の振替により行われていた
 D.為替市場の銀行家は主にフィレンツェ人(カッポーニ,ゴンディ,マネッリ,マルテッリ,ストロッツィ)かルッカ人(バルバーニ,ボンヴィージ,ブルラマッキ,グイニージ)であった。ここはフランス領内であり、フランス国王は「大市から利益を引き出す」&「宿敵の皇帝カール5世のファイナンスに大市が利用されるのを阻止する」ために、皇帝に融資していたジェノヴァ人銀行家たちをリヨンから追放した
 ⇒ジェノヴァ人銀行家はモンリューイ(サヴォワ公の領地でリヨン北東20km)やシャンベリに退いが、結局そこからも放逐され、帝国内にあるブザンソンに身を落ち着けた(1535年の大市~)

【ブザンソン大市】
 E.当初から商品取引の流れがほとんど無かったので国際的決済の大市となり、為替手形の回路を繋ぐことに用いられた。為替契約が教会法上は合法であるための条件(2つの異なる場所での取引)を守るために「ピエモンテ→ピアツェンツァ(1579年)→ノーヴィ(ジェノヴァの港:1622年)」へと移った
 F.移転後も“ブザンソン大市”と呼ばれたが、これにはジェノヴァ人(スペインへの貸付契約・スペイン国王への金融に深く関与していた)が特に出入りしていた。彼らは為替業者のほんの一握りであったが、ヨーロッパの債権債務の半分を彼らの“大市手帳”上での相殺により決済していた

【大市の通貨】
 G.リヨン大市やブザンソン大市は、勘定単位として「エキュ・ド・マルク」を持っていた(ただしリヨンにおいてのみ「エキュ・オ・ソレイユ」に変えられた〔1575年〕)。この勘定単位の通貨は安定性ゆえに、他の通貨が為替相場の変数となっている(=外部に基準通貨を求めた)全都市において相場の記事となった
 H.大市が近づくと、基準ではない通貨の都市においては、為替手形の相場は上昇する傾向があった(為替相場の中に利子が隠れているから)。さらに「大市からの戻し為替」は通常「大市宛の最初の為替」よりも高い相場で作成された
〈例〉リヨンの次の大市で支払われる為替手形の場合:
 「1エキュ・ド・マルク=72グロ」で買った銀行家が「同じく74グロ」の戻し為替で最初の貨幣を手に入れれば、1エキュ当たり2グロの利益が得られる


(10)16世紀の構造的変化

 A.教会による送金(15世紀)は、北ヨーロッパの国際収支の不均衡を悪化させた。ところがこの送金の絶対的意義が相当縮小し、代わって「低地諸国・イタリアに駐屯していたスペイン軍を維持するために行われる、スペイン国王による送金」が重要となった(16世紀)
 B.新たな送金の流れは国際的決済機構の円滑な働きを保障した(前世紀の教会による送金とは正反対だった)。しかもカスティーリャにいる国王の臣下たちの出費によって、新大陸の貴金属がヨーロッパ中へ拡散させていくことを促進した
 ★ちなみに、地中海東部地方に対する西ヨーロッパの貿易収支は赤字だった(16世紀)。中世の商人提要には「ヴェネツィアを出港するベイルートやアレキサンドリアからのガレー船が運び出す貴金属」が、それとなく示されている
 C.これらの送金は“アシエントス”(=銀行家とスペイン国王間の契約)を生み出した。この契約は一般に「低地諸国その他での資金送付」と、時には「国王の歳入源に対する支払命令」「インド艦隊が持ち帰った(or持ち帰るであろう)貴金属の輸出許可書による、スペインでの返済」からなっていた
 D.アシエントス契約の際の為替レートは、常に市場のレートに等しいとは限らず「利子,銀行家の(時には非常に高額となる)手数料」込みのレートだった。その実態はかなり複雑であり、多額のアシエントス契約となると「金融業者のシンジケートが組織され、数社(or幾つかの銀行所在地)が一丸となった」非常に複雑な協定が結ばれた
 E.中世の国際銀行業(=為替手形取引)は、事実上イタリア人のほぼ独占だった。やがて新たな参入者として「ドイツ人,スペイン人,ポルトガルのキリスト教に改宗したユダヤ人,フランドル人,イングランド人」が登場する(16世紀)
 ⇒フッガー家はスペインの破産によって厳しい打撃を被り、活動舞台から消え去った(1600年頃)
 ⇒その後継者であるジェノヴァ人はヨーロッパ最大の銀行家となった。それは「彼らが建てた豪華な建築物,彼らの肖像画(ルーベンスやファン・ダイクに描かせた)」が示している。彼らの中から何人かはスペインの高官になった


(11)商業手形の流通性

 A.中世の為替手形は、例外なく「a.裏書の方法では譲渡されることなく、手形文言の中に記載された受取人に支払われた」。しかも「b.為替手形の不渡りの場合ですら、受取人は振出人に対して遡及した請求権を全く持たない」「c.(不渡りのままで)手形満期日に支払を受ける代わりに、拒絶証書作成費用・手数料を元の手形金額に加えて、その時点での為替レートで戻し為替を計算する」「d.そして最初の為替での貸し手のために、戻し為替を振出する」という方法しか無かった
 ☆中世の法律では、もし為替手形が手形振宛人によって支払われない場合には、手形振出人に対する遡及した請求権は、資金の貸し手しか有していなかった
 B.ちなみに当時の「裏書」は、実際には必ずしも譲渡の指図が為替手形の裏に記入されていたのではなく、表面の下部や(時には)“補箋”(=手形に添付された補足の紙片)にすら記されていた

【初期の“裏書”】
 C.プラートにあるダチーニ商会の古文書中の5,000枚もの為替手形の中に、たった2つだけ裏書の事例が存在する(裏書された為替手形〔1410年〕,補箋に書かれた裏書〔1394年〕)
 D.しかし中世の“裏書”は、それによって為替手形が「流通する証券」とする性質のものではない。その理由は、裏書が被裏書人に与える権限は「支払人が善意であるor重大な過失がない」ならば「被裏書人=譲受人が『手形文言の中で指名されている受取人』のために手形金額を受け取ることが有効である」でしかない点にある
 ☆被裏書人はせいぜい受取代理人でしかない。もし不渡りとなると被裏書人は「遡及の権利も、自分の名前で訴訟を起こす能力も」決して与えられなかった
〈例1〉裏書が記入された補箋(1386年)の場合には「為替手形はヴェネツィアに住む受取人の都合によって、銀行所在地ではないザラ宛に振出された」のだった。受取人はヴェネツィアに住む新たな受取人を“裏書”によって指名する必要があった
〈例2〉アラゴン国王アルフォンソ5世宛に、彼の聴罪司祭によって振出された為替手形(1430年)の場合には、手形はバルセロナ支払であったが、国王はヴァレンシアの宮廷に滞在するために既にバルセロナを出発していた。やはり受取人には“裏書”が必要である

【近代的な裏書の登場】
 E.裏書の一般化はより遅い(1600年or10年~)。この時代の為替手形には多数の裏書された手形があり、若干は数回裏書されていた(アントウェルペンやフィレンツェには多数裏書の証拠がある)。一方で幾つかの都市は後(18世紀)になっても裏書を禁止していた(例:ヴェネツィア)
 F.銀行振替による支払では、振替後に「(たとえば)銀行が倒産したために債権者が自らの債権を手に入れられなかった」としても、債務は既に支払済として債務者は完全に免責された。しかし銀行振替による支払でなければ、債務者は完全には免責されない。この原理は久しく受け容れられていたのだが、法学者たちはここから「商業手形の流通性の原理」を展開し始めた(17世紀~)
 ⇒これによって手形持参人は「手形振出人や全ての裏書人に対して(それまでは決して有していなかった)遡及した請求権」を与えられるようになった。振出人と全ての裏書人は、持参人に対して連帯して責任を負うようになる
 G.この法原理によって、ただちに為替手形は「商人間を広く流通する一種の信用貨幣」となった。手形の広がりはかなりの範囲だったようだ。一方で、手形に流通性が備わったことにより、為替手形と為替契約を結んでいた絆は徐々に断ち切られ、ついに為替手形は単なる「支払指図書」となった(19世紀末葉に完了)
 H.アントウェルペン(16世紀)では、債権譲渡による支払が広く行き渡っていて、債務証書(イングランド商人やハンザ商人によって為替手形よりも好まれていた)が転々と流通し、度々持参人に支払われていた。この事実は近代的な裏書の急速な普及(17世紀初)の鍵のようだ
『中世・近世の貨幣市場』R・ローヴァーから[2]


(3)中世後期の展開

 A.シエナやピアツェンツァの巨大マーチャント・バンカーは、パリに恒常的な支店を持つようになる(~1300年)。彼らの代理人はここから近くにあるシャンパーニュ大市に出向いていたようだ
〈マーチャント・バンカーの例〉
 ブオンシニョーリ商会(1209年設立)は早くからフランス・イングランドに支店を開設した(13世紀中葉)。しかし政府融資の焦げ付き(13世紀後半)とフィレンツェとの競争から経営危機に陥り、資本増加によって商会の基盤を拡大して危機を克服しようとした(1289年)が、結局は破産した(1304年)
 B.支店開設は大市の中心をパリに転換させる傾向を持っていた。シャンパーニュ大市は商品取引がかなり減退しながらも、西ヨーロッパの手形交換所であり続けたのだが、やがて大市が危機的状況に陥り始めると(14世紀初)この転換は加速した。これはパリだけでなく、ブリュッヘ・ロンドンにも利をもたらした(どちらもイタリアの商会が支店を開いていた)

【為替手形の登場】
 C.それまで用いられてきた“公正証書形式の為替契約”は、甚だ冗長でやっかいな証書だったので人気を失った。そして為替手形(横長の小さな紙片に書かれ、短い書式で作成された簡単な書翰)に取って代わられた。手形の書式も画一化されて法律上の意味を持つようになる
 D.早い時期に(時として)作成されていた「支払人を名宛人として、資金の貸し手に手渡しされる公正証書」だが、この原本そのものの損失を警戒するのは当然だった。(全て同等の証拠能力を持つ複製を簡単に作成できる)何枚かの為替手形には、原本は付されなかった
 ⇒さらに商人たちは、その何枚かの為替手形にも数枚の複製を作成し(第一号手形,第二号手形,さらには第三号手形でさえも)、それらを別々の飛脚によって振宛地に発送する警戒措置を取った
 E.中世の為替手形は支払指図書だったので「引き受けられることにより、はじめて名宛人の支払約束証となる」のだった
 F.為替手形は「割引されない,流通性も持たない」にもかかわらず、非常に大きな弾力性を持った「信用と為替の手段」だった。さらに(隔地間の支払いを決済するための)正貨or地金の輸送を不要にすることで、貨幣代替機能を果たしていた

【金融の拠点】
 G.シャンパーニュ大市の消滅により、ブリュッヘ・ロンドン・パリが銀行所在地となることで、経済の重心はより拡散した。中世では、銀行業・両替商の所在地とは「組織された貨幣市場を有し、各地の通貨の為替相場が規則的に建てられている、商業の中心地」と定義できる
 H.以下のイタリアの主要都市(14・15世紀)=「ボローニャ,フィレンツェ,ジェノヴァ,ルッカ,ナポリ,パレルモ,ピサ,ローマ,シエナ,ヴェネツィア」は既に上記の機能を果たしていた。ただしローマ教皇庁の所在地は定まっておらず(ローマにあるのは教皇が滞在している時)、教皇庁は教皇の巡幸につれて半島を移動した
〈例〉マルティヌス5世とエウゲニウス4世がフィレンツェに滞在していた時(1419~20年と1434~37年,1439~43年):
 フィレンツェの銀行区域がすぐ近くの“メルカート・ヌオヴァ(新市場)”広場の周りに決められていたのに、ローマ教皇庁所在地は“サンタ・マリア・ノヴェラ”広場に据えられた。教皇はドミニコ修道会の修道院に居室を持っていた
 I.アルプス以北では為替相場の建つ都市=「アヴィニヨン,モンペリエ,パリ,ブリュッヘ,ロンドン,バルセロナ,パルマ(マジョルカ島),ヴァレンシア,セヴィーリャetc」は(面積に比べて)はるかに少なかった。またコンスタンティノープルはそこに出向いていたジェノヴァ人・ヴェネツィア人のためだけだが、為替が建っていた(~1453年)
 ★ところが、地中海東部沿岸地方と活発な取引を持っていたにもかかわらず、マルセイユは銀行所在地ではなかった。パリ宛為替手形の取引さえも、アヴィニヨン経由or(止むを得なければ)モンペリエ経由が好都合であった
 J.上記のあらゆる都市でイタリア人は「主要な銀行家or両替商」だった。ずっと後からカタロニア人も追って登場した
 K.ライン河の向こう(中欧・スカンディナヴゥを含む)では、そもそも商業の方法が遅れていたことにより、銀行所在地は存在しなかった。フィレンツェは「リューベックを銀行所在地にしよう」とメディチ家の支援を受けたにもかかわらず、都市ハンザの組織的反対(バルト海へのイタリア勢の侵入と、自らの独占喪失を危惧した)により、完全に頓挫した
 L.しかしコンスタンツ(1414~18年)とバーゼル(1431~43年)は、この期間だに改革大公会議が開催されていたので、一時的な銀行所在地となった。この事実は、大公会議に伴う資金移動の規模(聖職者とそのお供がかなり滞在していた)を示している

【思惑と局地的な変動】
 M.パリはしばらくの間(14世紀中)は銀行所在地としての地位を守っていた。しかしシャルル6世治下(1380~1422年)で起こった災難と、イングランド軍による占領(1422~37年)のために、その地位を失った(1400年)
 N.パリの衰退によって生じた空白は、ジュネーヴの4つの大市によって埋められた。ジュネーヴはサヴォワ公を宗主とする司教都市であり「南ドイツ~スペイン,ブルゴーニュ~イタリア」間の交通の十字路にあたっていた。しかしルイ11世の巧みな策略により、大市はジュネーヴからリヨンへと移った(1466年頃)
 O.以降、リヨン大市はフランスの中枢的所在地となる。これはスペイン継承戦争(1701~14年)において、サミュエル・ベルナールの策略でリヨン決済が消滅するまで、その地位を維持していた

【銀行所在地の個別的機能】
 P.パリやロンドンは「ブリュッヘの軌道を回る衛星」的存在でしかなかったことからも分かるように、銀行所在地全てが等しく重要だったのではない。特にパリはブリュッヘに完全に依存していたので、ブリュッヘで起こるあらゆる動きはすぐさまパリに影響した
 ☆パリ在住のマーチャント・バンカーは、イタリアのコルレス先に送る書翰の中にパリで建てられた相場に加えて「(しばしば)ブリュッヘで建てられた相場の最新情報」をも書き添えていた
 Q.銀行所在地の全てが相互に規則的な関係を持っていたのではない
〈例1〉パリの場合:
1.「ブリュッヘ・モンペリエ・ピサ・ジェノヴァ・ヴェネツィアの為替相場だけを建てていた」
2.「加えて、フランス王やブルゴーニュ公の金融業者であった幾つかかのルッカの大銀行が存在したことから、時折ルッカの為替相場も建てられた」
3.「しかしパリは、バルセロナやロンドンと関係を持っていなかったので、バルセロナに送金するにはモンペリエを経由せねばならなかった。ロンドンに資金を送るのに最も利用されたのは、ブリュッヘの銀行家宛に為替を組むことだった」
4.「ジャン2世がイングランドに拘禁された(ポワティエの戦い:1356年)時、バリからの身代金の送金は、イングランドの司教の送金相手方を務めていたアヴィニヨンの仲介を使った。送金ルートはアヴィニヨン→ブリュッヘ→ロンドンで、金額は9,500小フローリン(=英貨1,337ポンド18シリング4ペンス)」
〈例2〉ロンドンの場合:
 フランチェスコ・ダチーニの通信によると、ロンドン(14世紀末頃)はブリュッヘとジェノヴァとしか規則的な関係を持っていなかった。しばらくしてから、ロンバード街でヴェネツィアのドゥカート貨の相場が建てられた
〈例3〉ブリュッヘの場合:
 この都市は広範なコルレス網を持っていて、ブリュッヘ取引所(1400年頃)は「バルセロナ,ジェノヴァ,ロンドン,パリ,ヴェネツィア」向けの為替相場を建てていた。後にフィレンツェも加わる

【貿易との関係】
 R.為替手形の回路の基礎には、貿易の流れが当然あった。しかし金融と貿易がきわめて密接に結びついていた、と断言することはできない
〈例〉ヴェネツィアの商人がダマスクス(中東)との貿易向けにファイナンスするために、ロンドン宛手形を振出することもあり得た
 S.ダチーニやメディチ銀行の通信からは「為替手形取引が商品取引をはるかに超えていた」印象を与える、という。為替手形は信用供与の手段でもあったから「輸出入取引に全く関係ない外国との『為替-戻し為替』取引の方法で、内国商業にファイナンスする」ことも可能だった
 T.教会による送金(中世では商品取引の規模と比較してかなり大きかった)は、商業取引をベースに持たない一方通行の支払いだった


(4)為替相場の建て方

【一般的に】
 A.通常2つの都市で相互に取引される場合、一方の貨幣が多忙の相場を示す基準となった(※ここまで現代と同じ)。まず、幾つかの都市はいつも同じ方式で為替相場を建てていた
〈例〉バルセロナは全て他都市の貨幣を相場の基準としていた
 B.ところがブリュッヘの場合だと、対バルセロナ・対ロンドンでの為替相場は「ブリュッヘ貨(22グロートのエク)」を基準に建てていた。しかし他の都市(パリとイタリア全都市)に対しては、為替相場は相手方都市の貨幣を基準としていた
[※相場の数値が動く向きは逆になる。円が対ウォンと対その他通貨では数値が逆方向に動くのと同じ]

【基準の鋳貨】
 C.為替相場は時には「現実の鋳貨(例:ヴェネツィアのドゥカート貨)を基礎に建てられる」場合もあれば、時には「計算貨幣を基礎に建てられる」こともある
〈計算貨幣の例〉
 ジェノヴァのフィオリーノ貨(ジェノヴィーニ〔ジェノヴァ古貨〕の25ソルディに強制的に一致させられていた),フィリップ・ド・ヴァロアのエキュ貨(ブリュッヘで22グロートのフランドル貨に等しかった:15世紀)
 D.フィレンツェ-ヴェネツィア間の為替相場は「ヴェネツィア計算貨幣のア・グロッソ・マンカ1リラ(=10ドゥカート金貨)」当たりの「フィレンツェ計算貨幣のア・フィオリーノ(=20/29フィオリーノ金貨)」の相場で建てられていた
〈例〉為替相場はア・グロッソ1リラ=16リブラ・ア・フィオリーノあたりを変動していた(15世紀初)

【フィレンツェとフィオリーノ貨】
 E.フィレンツェでは「品位約24カラット,重量3.53g」を1フィオリーノとする、金貨フィオリーノ・ドーロが創設され(1253年1月)、国際貿易における決済貨幣に用いられるようになる。この金貨は都市当局の商業政策によってその品位が維持されたので、貨幣制度として長く安定した
 F.しかし一方で、フィレンツェの小額貨幣銀貨(ソルド,デナロなど)は依然として同市の庶民生活に用いられ、織元の賃金支払手段として機能した(フィレンツェは中世随一の毛織物生産都市である)。そして都市当局は賃金政策・財政政策のために、ピッチョロ銀貨をその都度悪鋳した。 ⇒法定の「1リブラ=20ソルディ=240デナリ」の貨幣体系は、貨幣の数量を計算するための名目的な呼び方になってしまい、金貨-銀貨の比率は法定比率から乖離し、実勢相場で変動するようになる
 G.この現実は商人の会計実務に大きな混乱をもたらした。そこでフィレンツェの有力ギルドであるカリマーラ(毛織物商組合)は混乱を防ぐために、法定比率(1リブラ=240デナリ)に関係なく「金貨1フィオリーノ=銀貨348デナリ」と規定した。商人たちはこの規定の主旨に沿って「彼らが受け取った金貨を銀貨基準に換算」して、これを“イン・フィオリーノ”として帳簿上の金額欄に記入した」

【最も複雑だったパリ】
 H.この地での為替相場は「金貨フランとほぼ等価になる外貨」が「平価(パリティ=1:1))からどの程度乖離しているか(=「フラン高orフラン安」のパーセント)によって計算されていた。モンペリエも同じ方法を使っていた
〈例1〉ヴェネツィア・ドゥカート相場は平価に対して「ドゥカート高,フラン安」が通常であり、パリで100フランを支払ってもヴェネツィアでは100ドゥカート未満しか受け取れなかった(1400年頃)
〈例2〉ジェノヴァのフィオリーノ相場が暴落する(1397年)までは、フィオリーノ相場は平価以上を保っていた。ある為替手形(1395年)では「パリで847フラン3スーを受け取る」が「ジェノヴァで827フィオリーノ17ソルディしか返済しなくてもよい」のだった。手形の文言には「振出人に2+1/3%有利(=平価と比べてフィオリーノ高・フラン安)」と記載されている
 I.パリはブリュッヘとの間でも同じ方法によっていた。ところが、ブリュッヘのフランは「1フラン=33グロート」となる計算貨幣であり、通常の相場はフランス・フランに対して平価を割っていた(※ブリュッヘのフランが小さい)。反対にブリュッヘ・フランの為替相場は「パリのフランス・フランを基準として」建てられた
[※恐ろしく複雑!]
 J.パリでこの方式が行われたのは、トゥルノワ貨の「度重なる重量・品位の変更がもたらす影響」を緩和する目的を持っていた。煩雑さを避けるために、銀行家は安定した貨幣(=フラン)での取引を行っていた


(5)為替と利子

【ユーザンス】
 A.中世・近世の為替相場は(特別な約定が無い限り)、商慣習で決められているユーザンス払為替手形(一定期日後払い)に適用されていた
 B.この時代の一般に認められていたユーザンスは、商人たちが使っていた商人提要に記されている。しかしこれが必ず信用できるとは限らない
〈例〉ある提要には「パリ-ブリュッヘ間のユーザンス期間は一覧後10日(ほとんどは15日になる)」と記述しているが、別の提要には「1ヶ月」となっている。これの合理的な説明は「理論上のユーザンスは15日だったが、実際には大部分の為替手形は2ユーザンス(=一覧後1ヶ月)で支払われた。そして実務上の期間が大勢となった」というもの
 C.(上記のように)ユーザンスは商慣習によって決まり、長期間不変であった(時には1世紀orそれ以上)。ユーザンス期間は距離に応じて変わったのだが、実際には「距離とユーザンス期間の関係」がかなり曖昧になっていった
〈例〉パリ-ジェノヴァ間のユーザンス期間は2ヶ月だった。しかし手形が実際に届くのには「真冬でも平均で約3週間」に過ぎなかった。この事実には、ユーザンスに別の意味が隠されていたことが現れている

【利子の存在】
 D.中・近世の貨幣市場は、確定日払いの外国為替手形市場と一体であった。銀行家は為替手形の形式で外国為替を取引し、隠された信用供与によって利子収入を得ようとした
〈その証拠〉
 「a.現在手元にない貨幣よりも、現在手元にある貨幣を高く評価していたこと(利子率による現在価値への割引)」「b.基準通貨国での為替相場が、相手方通貨国での相場よりもほぼ常に高い」「c.ブリュッヘのメディチ銀行の帳簿」といったことが挙げられる
 E.しかし中・近世の銀行家は「a.ある場所で建てられた為替相場で為替手形を組む」→「b.その後に戻し為替を組むことで収益が確定する」のだが、将来であるb.の時点での為替相場はa.の時点では知り得ないので、収益は事前に確定できなかった。その点で「近代の銀行家が商業手形を割り引くことで、その収益は確定する」という、重要な違いが存在する
 F.銀行家は何とか相場変動を正確に予測しようと試みたが、それが常に当たるとは限らなかった。もし為替が非常に不利な変動を示すと、銀行家は損失を被ることすらあり得た(この不確実性は、神学者たちをして「確実な収益ではないから為替は金利ではない」と考えさしめた)。しかし為替相場の中に隠された金利収入のおかげで、銀行業は決して投機的性格をそのまま有していたのではなかった

【為替の例】
1.「メディチ銀行ヴェネツィア支店は『1ドゥカート=スターリング貨47ペンス』でポンド手形を買い(1463年7月20日)、6ヶ月後に『1ドゥカート=44ペンス』でポンドをドゥカートに戻した(1464年1月20日)」
2.「500ドゥカートを6ヶ月間投資することで34ドゥカート2グロッシィの収益を得られる」
3.「しかし実際には、最初のヴェネツィアからロンドン宛のポンド手形は3ヶ月のユーザンス後(1463年10月20日)、すぐにヴェネツィア宛戻し手形が組まれたのではなかった。というのは、最初の手形は不渡りとなって、支払い期日の2日後に公証人により拒絶証書が作成されたのだ」
4.「その後に商人の慣習にしたがって、手形金額受取人は戻し為替を作成した。この手形額面はヴェネツィア貨で535ドゥカート5グロッシィとなった。本来はスターリング貨97ポンド18シリング4ペンス(534ドゥカート2グロッシィ)だったが、ここに『拒絶証書作成費用+手数料+その他費用=4シリング』が加わったので、元の借り手は余分に1ドゥカート3グロッシィを支払った」
5.「かくして、元の借り手は500ドゥカートの6ヶ月間の借り入れで約35ドゥカート(年利14%)を支払ったことになる」


(6)貨幣について

 A.為替相場は、自国通貨・外国通貨どちらでも「貨幣の重さ・品位の変更」に極めて敏感であり、変更される時には突然の急騰or急落を引き起こした。ただし通貨収縮(貨幣のプラス方向への改鋳・良貨への復帰)はいつも難しい操作であり、為替はゆっくりとしか反応しなかった。銀行家たちも少なくとも“新貨幣”の首尾がハッキリするまでは、しばらく“旧貨幣”で為替相場を建てていた
[※首尾がハッキリした段階で急に動いた、ということだろうか?逆に悪鋳は頻繁であり、銀行家も心得ていたのでめったに不意を突かれなかった、ということか?]
〈例〉フランドルの22グロートのエキュ貨は、一連の改鋳によって「バルセロナ貨6スー6デナリ→同9スー6デナリ」へと跳ね上がった
 B.しかし、中世の貨幣制度は常に混沌としていたので「平価」(貨幣が含んでいる金属の価値によって決まる均衡価値)を定めるのは簡単ではないし、平価によって決まる為替相場はより複雑だった

【複雑さの中身】
 C.西欧の幾つかの国(例:フランス)の貨幣制度は「三貨制=金貨,銀貨(白い貨幣),銅貨(非常に低品位で含んでいる金属価値に比べてかなり過大評価されていた)」であった
 D.フィレンツェ・ヴェネツィアなどでは複本位制であった。金貨は「銀行家・大商人が、契約を結んだり勘定を計算するのに用いられた」のに対して、銀貨(orよりましなピッチョロ貨)は「小売商業や市民の日常取引に使われていた」のだった
 E.さらに「貨幣鋳造税」が鋳貨ごとに様々であったことが事態を厄介にしていた。最後に「国家ごと(or地方ごと)の鋳貨発行の度に、外貨との換算率は度々改定されていた」のも理由だった
 F.為替の平価を決定しようにも、ポンド貨の場合だと「ロンドン塔で平価決定のために試金・秤量されたが、計られた貨幣ごとに得られた数値が異なっていて、一定の平価を確定できなかった」という事実もる
 G.上記パリの為替相場では、フラン・フィオリーナ・ドゥカートの「平価」(パリティ)を持ち出していたが、そもそもこれらの重量・品位は等しくない。したがって「平価」という言葉そのものがきわめて曖昧にしか受け取られていなかった

【相場の決定】
 H.しかし基本として、為替相場と「貨幣が含んでいる金属の価値」には一定の直接的な繋がりがあった、と結論できる。貨幣が通用する相場は「公定相場」として貨幣法令で度々明らかにされていた。しかし貨幣法令には過大or過小評価が少なくなかったので、公定相場はまれにしか市場での相場に一致しなかった
 I.外国為替市場は(現在と同じく)自国内でのあらゆる統制を免れている、外国で建つ相場に影響を受けた。したがって当局がいかに統制を試みても(例:通貨を取引する為替業者・商人の不正を告発)、遅かれ早かれ(実勢から乖離した)公定相場は市場の相場に追随するしかなかった
〈連動した動きの例〉
 ブリュッヘ取引所でフィオリーナ(フィレンツェ)やドゥカート(ヴェネツィア)が騰貴すると、動きはそこだけに止まらず、必ずフランドルで流通している金貨(しばしばフィオリーノ金貨やドゥカート金貨の模造金貨も)まで騰貴した


(7)貿易収支と為替相場

【国際的決済機構の混乱(15世紀)】
 A.北部ヨーロッパからイタリアへの主要輸出商品(イタリア商人がまとめて買い付けするほどの量となるもの)は、ほとんどがイングランド産羊毛であった。このため、北部ヨーロッパはイタリアに対する貿易収支の赤字を埋めるのが困難だったと考えられる(特にフランドル)
 B.一方で「ブリュッヘ在住のイタリア人マーチャント・バンカーたちが、バルセロナに持つ彼らの債権をイタリア向け債務の支払いに充てていた」ことから、スペイン・カタロニア地方とフランドル間の貿易収支は、フランドルの黒字だったようだ
 C.ここにローマ教皇庁の送金が加わり、事態は一層悪化させていた(これは当然、イタリアへの一方通行である)。貿易収支のアンバランスを補うために、鋳造された正貨の現送すら行われた
〈例〉メディチ銀行のジュネーヴ支店は、毛織物の積荷の中に正貨を隠してイタリアに発送していた
 D.こうした事態はますます悪化し、ついには危機を引き起こした(1465~90年頃)。この危機は(経営のまずさも手伝った)メディチ銀行閉鎖の主な原因の1つとなった。ロレンツォ・デ・メディチ(1449~92年)によると「フランドルに88,000ドゥカート以上も投資しながら、イングランド産羊毛で12,500ドゥカートしか回収できなかった」という(フランドルの産物は問題にもならなかった)

【貨幣市場の逼迫と緩和】
 E.貨幣市場は逼迫期と緩和期を交互に繰り返していた。逼迫期とは「貨幣供給が需要に対して不足し、為替相場が高騰する」状況にあり、反対に緩和期とは「貨幣供給が需要に対して過剰であり、為替相場が低落する」(貨幣供給が豊富なのではなく、支払い能力を持つ買い手が不足していて投資家が気に入る投資案件が見出せない:要は不況期)状況であった
 F.逼迫期と緩和期の交替には季節的性格があり、その規則的な循環は商人提要に記述されていた。銀行家もよく知っていて、その動きを相場予測に使っていた
〈例〉パリの貨幣市場は、6月後半の“ランディの大市”の期間や、12月初の“聖アンドレの大市”の期間には一般に逼迫していた
『中世・近世の貨幣市場』R・ローヴァーから[1]


○中世から近世の短期金融市場の展開


(1)為替契約の持っていた大きな意義

 A.経済学の定義として「貨幣市場:短期信用を取り扱う市場」「金融市場(=資本市場):長期投資を取り扱う市場」がある。中世・近世の商業資本主義制度の下では、実際のところ資本市場はほとんど存在しなかった
〈例外〉主にイタリアの共和国諸国において行われていた公債売買(15世紀~)
 B.しかし十分に組織された貨幣市場は、間違いなく存在していた。ただしそれは「a.今日の市場と取引量が全く異なる」のみならず「b.教会によって“徴利”(金利の徴収)を禁じられていた」点が著しく異なっている
 C.利子率の高低は問題ではなく、どんなに僅かでも、貸付から生まれた全ての収益は“金利”であった。だから貸付が無ければ“金利”は存在しないので「契約が貸付ではない」ことを証明できれば“金利”が発生する余地は無かった
 D.この逃げ道は「銀行の発展,貨幣市場の構造」に重大な結果をもたらした。徴利を非難する神学者たちは「為替契約を貸付とは見なさなかった」(例外は貸付を隠すためだけに用いられた『乾燥為替』『架空為替』)ので、為替契約は“金利”を生まなかった。したがって為替で利を求めるのは正当だったのだが『為替手形割引』は“徴利”とされた

【銀行家の存在余地】
 E.このことから中世の銀行家は、手形割引ではなく為替取引(両替,隔地間の為替)に立脚していたので「銀行家=為替業者,両替商」と考えられていた。おまけに銀行家たちは、自らを“高利貸し”と見なすどころか、大胆にも“ローマ教皇の為替御用達”を自称していた
 F.実際に教会からすれば、為替業者は社会の有用な成員であり、敬意を払って対処するだけの理由を持っていた。かくして銀行家たちは、為替取引に業務を限っているのであれば(利付貸付を行わないならば)、教会から存続・繁栄を認められていた

【為替契約】
 G.現金取引である単なる貨幣の両替は、何ら非難を受けなかったが、隔地間の為替は「為替契約の曖昧さ」ゆえに、少し問題があった。為替契約とは「異なる場所・異なる通貨をまたがった貸付」であったが、前近代におけるコミュニケーションのスピードが緩慢だったので「契約の締結」と「別の場所での契約の執行」には(多から少なかれ)一定の期間があった
 ☆つまり「場所の隔たりが必ず時間の猶予を生む」ので、信用供与と不可避的に結びついていた!(神学者たちはこの点をスルーした)
 H.為替契約のための証書が為替手形だったが、これは「常に場所と貨幣の違いを伴う為替取引」を基礎としていたので、単なる支払い委託書などではない。為替手形は「ある時には隔地間の資金移転のために,またある時には信用供与のために」利用された

【為替契約の完全なスタイル】
1.「4人の当事者を前提とする」
2.「うち2人は契約の締結に、他の2人は別の場所での契約の執行に関係する。4人の当事者は為替手形の文言の中に記されていた」
3.「為替での貨幣の受取人:為替手形を振出・売却し、資金をその地で入手する借り手のこと」
4.「為替での貸し手:為替手形と引き換えに貨幣を与える」
5.「手形の支払い手:手形振宛人」
6.「手形の受取り手:支払いを受け取る」


(2)為替契約と為替相場

 A.中世では手形割引は“徴利”を禁止する教会の教義に引っ掛かるので、為替手形は(割引の代わりに)為替相場で決まる価格で売買されていた。これによって貨幣市場は「(近代のように)割引率の上下によってコントロールされる」かわりに「外国為替の相場変動」に結びついていた
 B.貨幣市場の起源は中世盛期(12世紀)にあり、シャンパーニュの大市の飛躍的発展とともに成長していったようだ(ジェノヴァの公証人の略注の中にある為替契約の数が増加している:1200年~)

【諸特徴】
1.「初期には為替手形は使われておらず、その先駆形態である『公証人作成による為替契約』が用いられていた」
2.「一般に債務者は『ジェノヴァである金額を受け取ったことを認める』『シャンパーニュ大市か別の場所(例:ミラノ,ピアツェンツァ)での同額の返済を約束する』ように約定していた」
3.「為替相場は『明示されている』or『契約中に明記された数字から簡単に計算できる』場合もあれば、手掛かりが一切書かれていない場合もしばしば存在する」
4.「契約の数多くは、最初の為替と戻し為替の操作がセットになっている」

【海上為替】
 C.ジェノヴァの公証人の略注の中には(特に)シチリアや非キリスト教諸国との数多くの“海上為替契約”が存在する:
1.「これらの契約は、貸付の返済が『船舶or積荷の無事な帰港にかかっている』点が通常の為替と異なる」
2.「海上為替契約での為替相場には(利子だけでなく)予測しえない危険のための補償までもが含まれていた」
3.「海上為替の人気は、冒険貸借契約を禁止した教皇令の発布(1234年)による部分がある」

【為替相場と隠された利子】
 D.ジェノヴァ-シャンパーニュ大市間での為替相場は常に「プロヴァン貨のスー(=トゥルノワ貨のスー)を基準」に「ジェノヴァのデナリ貨を変数」として定められた。スーの相場は通常、ジェノヴァでよりもシャンパーニュ大市での方が高いので、自動的に資金の貸し手に収益がもたらされる仕組みになっていた
[※割安な通貨を貸し出し、割高な通貨で返済を受け取るから、差し引きでほぼ利ざやを抜くことができる]
 E.神学者たちはこの仕組み(利子が為替相場の中に隠されている)に気づいて、ジェノヴァ-シャンパーニュ大市間の為替を“偽装された貸付”と非難し始めた。この非難はアレッサンドロ・ロンバルド(1314年没)が「為替契約は貨幣の転換であって、貸付ではない」という論理を広めることで、ようやく緩和された
 F.教会にとっても、ヨーロッパ各地から教皇庁への資金移送に銀行家たちが必要だったから、道徳家たちはロンバルドの論理(高利貸を糾弾する動きから銀行家たちを目こぼしさせ得る)を素早く採用した。以降、為替契約の範囲内で銀行業の自由な発展が保障された

【為替相場の不変】
 G.ジェノヴァ-シャンパーニュ大市間の為替相場は絶えず変動していたのではなく、実は「数ヶ月、それどころか数年も不変だった」。下記の〈理由〉はあくまで仮説でしかない、という
〈例〉
 シャンパーニュ大市からジェノヴァへの戻し為替の相場(1200年)は「ジェノヴァ貨1ソルディ=プロヴァン貨16デナリ」であった。その後「16デナリのまま(1248年)→18デナリ(1250年)→20デナリ(1251年)→16.6デナリ(1252年)」と変動した
〈変動しなかった理由〉
1.「契約が予め正貨での決済を決めていたから、相場は貨幣改鋳(中世には頻発した)の影響を受けなかった」
2.「シャンパーニュ大市と北イタリア間の貿易収支が均衡していた(12~13世紀)ので、貨幣市場が安定した」
3.「貨幣市場を牛耳っていたピアツェンツァやシエナのマーチャント・バンカーは、資金移転よりも信用供与のために為替契約を利用していたので、実際の為替相場との開きに対するよりも僅かにしか相場の水準に対して関心が低かった」