『15世紀西欧の為替手形の為替レートと利子率に関する1考察』松岡和人から
○15世紀西欧の通貨制度と金融
(1)為替レート
A.西欧各国で相次いで金貨が鋳造され始め、それまでの銀本位制から金銀複本位制へと移行していった(14世紀)。しかし貿易決済は相変わらず定期的な大市でなされ、それはフィレンツェのフローリン金貨を中心に行われていた
⇒為替取引には少数の為替レートしか必要でなかった
B.やがて金銀複本位制が定着し、大市が衰退して代わりにブリュッヘなどが商・金融取引の中心地となる(15世紀)。金融市場での為替取引の発展により「貿易量は増大し、貿易に参加する国・地域の数が増えた」ものの、同時に必要とされる為替レートの数が急増した
C.こうした状況において、イタリア諸都市出身の金融業者=“銀行家”たちが台頭してきた。彼らは外国のコルレス先の銀行などとの為替取引を日常的に行った。さらに、貿易業者たちは為替取引の発展により、為替レートの重要性を認識するようになった
[為替手形の為替レート]:
2国間(A,B)で為替手形を売買する際の為替レート。為替契約が信用供与の偽装手段となっていたので、為替手形の決済までの期間が生み出す利子が為替レートに埋め込まれている。A・B両国で成立するこの為替レートは、信用供与者が利益を得られるように一定額のズレがある
[鋳貨為替レート]:
現在における為替レートと同義の、為替手形を介在しない為替レート。A・B以外の第三国C(通貨はA・Bのどちらでもない)において、A・Bの通貨を(量目や通用価値を)比較して成立する、利子を含まないリアルマネーの為替レートである
【重金主義とイングランド】
D.イングランドは外国との為替取引を管理して、貿易黒字を維持しようと努めた。その背後には「重金主義」(=国外への金銀流出を阻止しようとする)あった
〈例〉成文法(1390年)において、イタリア商人などに対して、イングランドの産品で儲けた見返りにその販売収入によって、イギリスの産品を購入するように命じた
E.しかし大陸ヨーロッパの金銀の価値がイングランドの金貨・銀貨の額面価格を上回り(15世紀)、イングランドから金貨・銀貨が(溶解して地金を手に入れる目的で)国外へと流出した。対策として金貨・銀貨の量目を落とすなどをした(1411年)ものの流出は続いた
⇒金貨・銀貨の鋳造量を大幅に減らさざるを得なくなった=マネーサプライが管理不能となった(15世紀半ば)
[※量目を落とせば、イングランドで同じ金額を払って手に入れられる金・銀の量は減る。それでも流出が止まらず、さらに額面金額を引き上げる(額面と内在金属との差を広げる)ために鋳造量を大幅に減らしたということか?]
(2)利子(13~15世紀)
A.教会によって利子"usury"を取ることは禁止されていたのだが、利子という単語の元になった"usura"は"use"という意味で「借りたお金を使用する」という意味に理解されていた。そして、利子をとることは「“貨幣が貨幣を生む”という、自然に反した貨殖手段だ」として非難されてきた
B.一方で創られた新しい概念である"interest"は「お金を貸す人に対して支払われる代償」と解されて「商業の発展には利子"interest"を認める必要がある」という考え方の根拠となった
〈例〉フランス(1311年)では「一般の高利貸しと大市で行われる貿易金融とを区別した」「年数回開催される大市の次の開催までの期間において、最大2.5%の利子を取ることを認めた」のだった。最大の恩恵を受けるのは、大市の中心的存在であるイタリア商人たちだった
[※イタリア商人の為替手形を用いた信用供与については一切省略。当blog内記事の『中世の為替手形取引の事例から(前・後)』を参照のこと]
【利子率の格差】
C.各国の商業貸付の利子率はバラついていた。地域別にみると「イタリア諸都市:5%,オランダ:10%,フランス:15%(いずれも14世紀後半)」「イタリア諸都市:5%,オランダ:8%(どちらも15世紀)」というように差があった
D.利子率の格差が存在した、ということは「金利差を利用した裁定取引」が発生しなかった可能性が高い。これは「高利禁止法,経済の仕組み,金融市場の発展度合い」の違いが、利子率の格差を生んでいた原因だった
E.近世に入ると、イタリア諸都市とオランダがフランスと比較して低金利の金融市場となる(16世紀)。後には低金利国はオランダとイングランドになる(17世紀)
(3)銀行の登場と国際金融システム
A.銀行の中ではメディチ銀行(隆盛期:1420~80年代)とフッガー銀行(隆盛期:15世紀末~16世紀中葉)が有名である。この世紀に誕生した各地の為替市場ではイタリアの銀行が活躍していたが、中でもメディチ銀行は西欧各都市(その中でも為替市場が成立した場所)に支店を張り巡らせていた
★為替手形による取引手法の発達は「技術水準はその後500年間、ほとんど変わらなかった」とも言われる
【数字を現代に置き換えてみると…】
B.「a.為替手形の為替レートは1ドル=100円と1ドル=101円」「b.自国の方が必ず高くならなければ成立しないので、1ドルは日本では100円(円高)・米国では101円(ドル高)」「c.ユーザンス(支払期限)は1ヶ月」「d.取引中に為替レートは変動しなかった(実際には中世において為替レートは変動していたので、為替契約に偽装した信用供与を行う銀行家は、変動リスクを抱えている)」
以上のように仮定する:
1.「邦銀は1ドル=100円で、日本の借り手から額面100ドルの為替手形を買う。借り手は10,000円を借りたことになる(第1の為替契約)」
2.「1ヶ月後に邦銀は、米国に運んだ為替手形によって100ドルを受け取る。この場所の支払者(=手形振宛人)は為替手形に記載されており、手形振出人(=借り手)の代理商である」
3.「邦銀は即座に額面100ドルの為替手形を買う。為替レートは米国内なので1ドル=101円となる(第2の為替契約)」
4.「さらに1ヶ月後、邦銀は日本に運び込んだ2枚目の手形を10,100円で売る」
5.「これによって邦銀は、差し引き100円の利益を得た。2ヶ月間なので利益率は6%となる」
6.「ちなみに、手形振出人(=借り手)は輸出業者であり、代理商である手形振宛人(=支払者)に対して輸出商品の債権を持つ。輸出業者は為替契約によって輸出債権を早期に現金化できた。為替手形の支払いはこの債権・債務を相殺する方向にある」
【実情】
C.ヴェネツィアでのドゥカート金貨の¨為替手形の為替レート¨は、ブリュッヘでのそれよりも高かった(15世紀)。ロンドンでのポンド・スターリングの¨為替手形の為替レート¨は、アントウェルペンでのそれよりも高かった(16世紀)
D.為替契約に組み込まれた信用供与の利子率は、場合によっては10%を越えた。しかし為替変動リスクの存在から、教会は「不確定な利子率は高利ではない」として容認していた
E.二国間での¨為替手形の為替レート¨の差が開くことは、当然ながら利子率の上昇を意味する(反対の動きは利子率の下落)。高利禁止法などで商業貸付の利子率は規制されていたものの、為替契約に組み込まれた信用供与ならば利子率はある程度自由に決まっていたようだ
⇒利子率は2つ(商業貸付のもの,為替契約のもの)が存在していた
(4)理論通りにいかない為替相場の変動
【商業貸付の利子率の影響】
A.ある国で商業貸付の利子率が何らかの理由で上昇した場合、資本移動が自由な場合であれば2種類の為替レート(¨為替手形の為替レート¨と¨鋳貨の為替レート¨)は「その国の通貨高」となる。しかし資本移動が不自由(あるとしても銀行の為替取引によるもののみ)な世界であり、資本移動を原因とする2種類の為替レートへの通貨高圧力は限定的だった
B.ところが、利子率上昇の影響を受けて(何らかの理由で)市場での金銀比価が変化すると、資本移動なしに通貨高となる可能性が存在した。いずれにしても、もし通貨高となって¨為替手形の為替レート¨の差が広がれば、為替契約に組み込まれた利子率が影響を受けた
【¨鋳貨の為替レート¨に関する問題】
C.しかし¨鋳貨の為替レート¨が¨為替手形の為替レート¨に影響を与える可能性は小さかった。そもそも、この影響を減らすために「計算単位通貨で表示された為替手形取引」が増加したのだった(フローリン金貨の増価が続いていたことが背景にある)。その上鋳貨による支払には(鋳貨の削り取りなど)リスクのカバー分が加算されしていたから、2つの為替レート同士は乖離しやすかった
D.貿易収支が¨鋳貨の為替レート¨に深く関係しているものの、(貿易赤字解消のための)輸入制限の実施によって貿易収支は制御できる場合もあったことに注意しなければならない。貿易収支を通じて統制可能な¨鋳貨の為替レート¨は、為替市場で自由に決まる¨為替手形の為替レート¨とは別個に動いた
E.マネーサプライと¨鋳貨の為替レート¨の関係が狂ってしまう場合もあり得る
〈例〉国外への金銀流出を理由とした、イングランドの量目切り下げ=¨鋳貨の為替レート¨切り下げ(1411年)は、最終的には貨幣供給量を激減させざるを得なくなった(15世紀半ば)
F.金銀複本位制は3種類あるので、他国が異なる仕組みに変えてしまうと¨鋳貨の為替レート¨の決まり方も変わってしまうことも起こった
○15世紀西欧の通貨制度と金融
(1)為替レート
A.西欧各国で相次いで金貨が鋳造され始め、それまでの銀本位制から金銀複本位制へと移行していった(14世紀)。しかし貿易決済は相変わらず定期的な大市でなされ、それはフィレンツェのフローリン金貨を中心に行われていた
⇒為替取引には少数の為替レートしか必要でなかった
B.やがて金銀複本位制が定着し、大市が衰退して代わりにブリュッヘなどが商・金融取引の中心地となる(15世紀)。金融市場での為替取引の発展により「貿易量は増大し、貿易に参加する国・地域の数が増えた」ものの、同時に必要とされる為替レートの数が急増した
C.こうした状況において、イタリア諸都市出身の金融業者=“銀行家”たちが台頭してきた。彼らは外国のコルレス先の銀行などとの為替取引を日常的に行った。さらに、貿易業者たちは為替取引の発展により、為替レートの重要性を認識するようになった
[為替手形の為替レート]:
2国間(A,B)で為替手形を売買する際の為替レート。為替契約が信用供与の偽装手段となっていたので、為替手形の決済までの期間が生み出す利子が為替レートに埋め込まれている。A・B両国で成立するこの為替レートは、信用供与者が利益を得られるように一定額のズレがある
[鋳貨為替レート]:
現在における為替レートと同義の、為替手形を介在しない為替レート。A・B以外の第三国C(通貨はA・Bのどちらでもない)において、A・Bの通貨を(量目や通用価値を)比較して成立する、利子を含まないリアルマネーの為替レートである
【重金主義とイングランド】
D.イングランドは外国との為替取引を管理して、貿易黒字を維持しようと努めた。その背後には「重金主義」(=国外への金銀流出を阻止しようとする)あった
〈例〉成文法(1390年)において、イタリア商人などに対して、イングランドの産品で儲けた見返りにその販売収入によって、イギリスの産品を購入するように命じた
E.しかし大陸ヨーロッパの金銀の価値がイングランドの金貨・銀貨の額面価格を上回り(15世紀)、イングランドから金貨・銀貨が(溶解して地金を手に入れる目的で)国外へと流出した。対策として金貨・銀貨の量目を落とすなどをした(1411年)ものの流出は続いた
⇒金貨・銀貨の鋳造量を大幅に減らさざるを得なくなった=マネーサプライが管理不能となった(15世紀半ば)
[※量目を落とせば、イングランドで同じ金額を払って手に入れられる金・銀の量は減る。それでも流出が止まらず、さらに額面金額を引き上げる(額面と内在金属との差を広げる)ために鋳造量を大幅に減らしたということか?]
(2)利子(13~15世紀)
A.教会によって利子"usury"を取ることは禁止されていたのだが、利子という単語の元になった"usura"は"use"という意味で「借りたお金を使用する」という意味に理解されていた。そして、利子をとることは「“貨幣が貨幣を生む”という、自然に反した貨殖手段だ」として非難されてきた
B.一方で創られた新しい概念である"interest"は「お金を貸す人に対して支払われる代償」と解されて「商業の発展には利子"interest"を認める必要がある」という考え方の根拠となった
〈例〉フランス(1311年)では「一般の高利貸しと大市で行われる貿易金融とを区別した」「年数回開催される大市の次の開催までの期間において、最大2.5%の利子を取ることを認めた」のだった。最大の恩恵を受けるのは、大市の中心的存在であるイタリア商人たちだった
[※イタリア商人の為替手形を用いた信用供与については一切省略。当blog内記事の『中世の為替手形取引の事例から(前・後)』を参照のこと]
【利子率の格差】
C.各国の商業貸付の利子率はバラついていた。地域別にみると「イタリア諸都市:5%,オランダ:10%,フランス:15%(いずれも14世紀後半)」「イタリア諸都市:5%,オランダ:8%(どちらも15世紀)」というように差があった
D.利子率の格差が存在した、ということは「金利差を利用した裁定取引」が発生しなかった可能性が高い。これは「高利禁止法,経済の仕組み,金融市場の発展度合い」の違いが、利子率の格差を生んでいた原因だった
E.近世に入ると、イタリア諸都市とオランダがフランスと比較して低金利の金融市場となる(16世紀)。後には低金利国はオランダとイングランドになる(17世紀)
(3)銀行の登場と国際金融システム
A.銀行の中ではメディチ銀行(隆盛期:1420~80年代)とフッガー銀行(隆盛期:15世紀末~16世紀中葉)が有名である。この世紀に誕生した各地の為替市場ではイタリアの銀行が活躍していたが、中でもメディチ銀行は西欧各都市(その中でも為替市場が成立した場所)に支店を張り巡らせていた
★為替手形による取引手法の発達は「技術水準はその後500年間、ほとんど変わらなかった」とも言われる
【数字を現代に置き換えてみると…】
B.「a.為替手形の為替レートは1ドル=100円と1ドル=101円」「b.自国の方が必ず高くならなければ成立しないので、1ドルは日本では100円(円高)・米国では101円(ドル高)」「c.ユーザンス(支払期限)は1ヶ月」「d.取引中に為替レートは変動しなかった(実際には中世において為替レートは変動していたので、為替契約に偽装した信用供与を行う銀行家は、変動リスクを抱えている)」
以上のように仮定する:
1.「邦銀は1ドル=100円で、日本の借り手から額面100ドルの為替手形を買う。借り手は10,000円を借りたことになる(第1の為替契約)」
2.「1ヶ月後に邦銀は、米国に運んだ為替手形によって100ドルを受け取る。この場所の支払者(=手形振宛人)は為替手形に記載されており、手形振出人(=借り手)の代理商である」
3.「邦銀は即座に額面100ドルの為替手形を買う。為替レートは米国内なので1ドル=101円となる(第2の為替契約)」
4.「さらに1ヶ月後、邦銀は日本に運び込んだ2枚目の手形を10,100円で売る」
5.「これによって邦銀は、差し引き100円の利益を得た。2ヶ月間なので利益率は6%となる」
6.「ちなみに、手形振出人(=借り手)は輸出業者であり、代理商である手形振宛人(=支払者)に対して輸出商品の債権を持つ。輸出業者は為替契約によって輸出債権を早期に現金化できた。為替手形の支払いはこの債権・債務を相殺する方向にある」
【実情】
C.ヴェネツィアでのドゥカート金貨の¨為替手形の為替レート¨は、ブリュッヘでのそれよりも高かった(15世紀)。ロンドンでのポンド・スターリングの¨為替手形の為替レート¨は、アントウェルペンでのそれよりも高かった(16世紀)
D.為替契約に組み込まれた信用供与の利子率は、場合によっては10%を越えた。しかし為替変動リスクの存在から、教会は「不確定な利子率は高利ではない」として容認していた
E.二国間での¨為替手形の為替レート¨の差が開くことは、当然ながら利子率の上昇を意味する(反対の動きは利子率の下落)。高利禁止法などで商業貸付の利子率は規制されていたものの、為替契約に組み込まれた信用供与ならば利子率はある程度自由に決まっていたようだ
⇒利子率は2つ(商業貸付のもの,為替契約のもの)が存在していた
(4)理論通りにいかない為替相場の変動
【商業貸付の利子率の影響】
A.ある国で商業貸付の利子率が何らかの理由で上昇した場合、資本移動が自由な場合であれば2種類の為替レート(¨為替手形の為替レート¨と¨鋳貨の為替レート¨)は「その国の通貨高」となる。しかし資本移動が不自由(あるとしても銀行の為替取引によるもののみ)な世界であり、資本移動を原因とする2種類の為替レートへの通貨高圧力は限定的だった
B.ところが、利子率上昇の影響を受けて(何らかの理由で)市場での金銀比価が変化すると、資本移動なしに通貨高となる可能性が存在した。いずれにしても、もし通貨高となって¨為替手形の為替レート¨の差が広がれば、為替契約に組み込まれた利子率が影響を受けた
【¨鋳貨の為替レート¨に関する問題】
C.しかし¨鋳貨の為替レート¨が¨為替手形の為替レート¨に影響を与える可能性は小さかった。そもそも、この影響を減らすために「計算単位通貨で表示された為替手形取引」が増加したのだった(フローリン金貨の増価が続いていたことが背景にある)。その上鋳貨による支払には(鋳貨の削り取りなど)リスクのカバー分が加算されしていたから、2つの為替レート同士は乖離しやすかった
D.貿易収支が¨鋳貨の為替レート¨に深く関係しているものの、(貿易赤字解消のための)輸入制限の実施によって貿易収支は制御できる場合もあったことに注意しなければならない。貿易収支を通じて統制可能な¨鋳貨の為替レート¨は、為替市場で自由に決まる¨為替手形の為替レート¨とは別個に動いた
E.マネーサプライと¨鋳貨の為替レート¨の関係が狂ってしまう場合もあり得る
〈例〉国外への金銀流出を理由とした、イングランドの量目切り下げ=¨鋳貨の為替レート¨切り下げ(1411年)は、最終的には貨幣供給量を激減させざるを得なくなった(15世紀半ば)
F.金銀複本位制は3種類あるので、他国が異なる仕組みに変えてしまうと¨鋳貨の為替レート¨の決まり方も変わってしまうことも起こった