『為替手形発達史』R・ローヴァーから[10]


(3)為替相場と利子

 A.中世の銀行家たちは「為替相場の中に紛れ込ませた利子」と「相場の変動」から利益を上げていた。彼らは利益を上げることにのみ関心があったので、両者を区別することをしなかった。そしてマーチャント・バンカーたちの収益の源泉は為替相場にあり、決して割引や利子ではなかった
〈例〉ルイス商会(16世紀)の帳簿には、近代の意味での割引取引は存在しない。さらにフィレンツェの銀行ガッリー商会(17世紀)の会計帳簿でも同様だった

【銀行家の収益の事例】
 B.ロンドンに居住する銀行家が「スターリング貨で総額2,300ポンドになる、アムステルダム宛為替手形」数枚を購入し、アムステルダムのコルレス先に送金したケース:
1.「為替相場はスターリング貨1ポンドあたり、グロ貨で34スー6デナリ~35スーの間を変動していた」
2.「アムステルダムでの受け取り額は、グロ貨で総額4,010リブラになる」
3.「送金した2,300ポンドは、コルレス先が複数の為替レートで取引した何枚かの戻し為替によって送り返される。その総額は3,881リブラ5スー」
[※つまり、割安なグロ相場でグロ貨を買い(より多くのグロ貨が手に入る)、割高なグロ相場でグロ貨を売った(より少ないグロ貨で元手のポンド貨を手に入れた)]
4.「これによってグロ貨で128ポンド15スーの利益を得た。21ポンド4スー8デナリの仲買手数料を差し引き、スターリング貨1ポンドあたり33スー10デナリの為替レートでスターリング貨に戻して、利益は63ポンド11シリングだった」
5.「この利益は割引から発生したのではなく、ロンドン・アムステルダム間の為替レートの差から生まれた」

【為替取引の収益】
 C.最初は、為替契約の必要条件とは「場所の違い,通貨の違い」であった。しかし内国為替手形(の出現)によって、場所の違いだけが問題となり「為替が振出される場所の相場によって決まる」とされた(17世紀)。つまり「手形が振出される場所」と「手形が支払われる場所」が存在している
 D.商事王令(1673年)の1規定によると、為替の価格は支払い地の貨幣の相場(=取引所or市場の相場)によって決まった。もし相場水準以上のものを要求するならば、それは(不公正な価格としての)一種の徴利と考えられた
 E.さらに割引慣行は、そもそも商事王令とは相容れなかった。それは「為替手形の中には利子が含まれている」ので、割引をハッキリと禁止していた(手形を再び割引するのは利子の二重取りになり、これこそ不公正であるから)ためである
 ☆このため(アンシャン・レジーム期には)、為替手形は取引所で取引されていても割引されることはなかった
 F.こうした規制があったので「為替の収益に利子は入り込んでいない」という一種のフィクションを用いざるを得なかった。でなければ、銀行家と全ての為替取引は徴利という非難を免れ得なかった

【パリ・リヨン間の為替の事例から】
1.「同じ王国内の都市なので、正貨の違いは何の役割も果たさない」
2.「国際収支(商品と資金の流出入の総計)はリヨンが+・パリが-だとすると、リヨン宛手形はパリ宛手形よりも品薄となり、プレミアムが付く」
3.「(相場がディスカウント1%だとすると)パリで1,000リーヴル払い込んだら、リヨンでの受け取りは990リーヴルとなる。リヨンでの支払いが必要(=割高なリヨン宛手形を需要する)な商人は、パリから正貨をリヨンに現送しない限り、10リーヴルの損失を回避できない」(現送しても費用はかかるが)
4.「ところが、手形を買って貨幣を投資に回す銀行家の場合だと“戻し為替”によって利益を確保できる。最初のリヨン宛手形の購入により1%の損失を被るのは同じ」
5.「もしリヨン宛手形がパリで品薄となっている状況ならば、逆にパリ宛手形はリヨンで豊富となっている。この時には(かなり高い確率で)パリ宛為替手形に対して貨幣にプレミアムが付いている(パリ宛手形が割安になっている)」
6.「そこでリヨンからパリへの“戻し為替”によって収益が上げられる(その程度は相場変動によって異なる)。もしこれで2%の利益が得られるなら、パリ・リヨン間の往復為替取引で1%の収益が上がることになる」
[※この収益は、両都市の国際収支バランスの崩れを利用した裁定取引である]


(4)割引と銀行制度の構造

 A.中世の銀行所在地には「早くから預金・振替業務を行ってきた両替業者」と「ほとんどイタリア人であるが、国際貿易を為替手形取引と結びつけてきたマーチャント・バンカー」の、2種類の銀行家が存在した
 ★これには地域ごとの違いもある。フィレンツェでは両替業者とマーチャント・バンカーとの区別はあまりハッキリしておらず、それぞれの名前で呼ばれていても、どちらも“外貨両替商組合”に属していた
 B.両替商は「a.顧客に当座勘定で貸付を行った」「b.自分たちが自由にできる資金の一部を商業活動にも投じた」が、しかし「c.他都市に広範な代理店(コルレス先)のネットワークを持っていなかった(例外はヴェネツィア)」ために「d.(常に他都市での支払いを伴う)為替手形取引は制約されていた」。さらに「e.帳簿には今日の(信用供与に用いられる)割引取引の痕跡は全くない」
 C.したがって両替商の職務は「f.地域の通貨流通を司る銀行業務」だった。彼らは「g.公衆と貨幣の間を仲介する役割を果たし、振替によって顧客の諸支払いを引き受けた」。事実、両替商は「h.『要求払いで支払われる債務金額が、彼らの金庫にある金属貨幣で完全には裏付けられない程度まで』信用貨幣の創造も行っていた」
 D.そして、このような信用の拡張はそもそも両替商の活動こそが起源であった。これによって流通に新たな支払い手段が加わるために、インフレを引き起こす特質を持っていた。実際“銀行券(=信用を当てにした銀行の約束書)”と“預金者の要請によって自由に振替可能な預金”との間には、全く違いはない
[※現代で言うところの“M1”と“M2”の違いでしかなく、どちらも同じマネーサプライである]

【中世の信用創造】
 E.シャンパーニュ大市での支払いは正貨で決済するのは不可能であり、商人たちは「債権・債務の振替or帳簿記入」で取引していた。これは、大市にやって来る商人たちは商品を携えては来ても、正貨を持参しなかったためである
 F.ヴェネツィア政府は対トルコ戦争の費用をファイナンスするために、リアルト橋の銀行家たちに「対政府貸付,食料・武器・資材の供給」について、当座勘定への記帳で済ますことを強制した(15世紀末)。これによってほどなく「当座預金は正貨での引き出しを停止した,(政府が紙幣を発行したかのように)預金は正貨に比べて減価した」のだった。そして多数の両替商が破産して公衆の信頼は無くなった

【当局の介入】
 G.ヴェネツィアや他の都市では、銀行業を営む者は「保証人を入れ、危険な投機取引を差し控えること」を義務付けられた(例:ヴェネツィアではリアルト橋の銀行は、とりわけ鉄・銅・錫の投機取引を禁止された〔1374年〕)。バルセロナでは「破産した両替商は、債権者へのせめてもの慰めとして首をはねられた」。ネーデルラントでは、ブルゴーニュ公は「両替商が商人から預金を受け入れて振替での支払いを行うこと」そのものを禁止してしまった
 H.しかし、預金振替の銀行を抑制しても解決にはならなかった。というのは、正貨での決済は非常に大きな困難を伴ったので、商人社会は預金振替機能なしには巧くやっていけなかったのだ。挙げ句の果てには両替商は、貨幣恐慌の際には「通貨の増発(=通貨価値の下落)を引き起こした」として非難されるに至った(この非難に理由がなかった訳ではないのだが)
 I.民間の銀行が様々な混乱を引き起こしたので、公立銀行が設立された(最初の例:バルセロナ市立銀行〔1401年〕)。しかし公立銀行の設立は集中した期間に見られた(パレルモ〔1552年〕,ジェノヴァ〔1586年〕,ヴェネツィア〔1587年〕,ミラノ〔1597年〕,ローマ〔1605年〕,アムステルダム〔1609年〕,ミッデルブルフ〔1616年〕,ハンブルク〔1619年〕,ニュルンベルク〔1621年〕)
 ☆この中で最も有名なのは『アムステルダム振替銀行』と『バンコ・デル・ジロ』(ヴェネツィアの振替銀行:1619年)である。ヴェネツィア振替銀行は先に設立されていたリアルト銀行とは別であるが、後者を吸収合併した

【預金振替銀行】
1.「これら公立の預金振替銀行では、そ支払いは「書式or口頭により指図で行われる、預金口座への記入」によって行われた」
2.「一般的にこれらの銀行は厳しく規制されていて、特定の者への与信は出来なかった。ただし例外的に、公的機関(例:公設質屋)や若干の民間会社(例:オランダ・東インド会社)に信用を供与した」
 ★アムステルダム振替銀行は、貴金属を担保に商人たちに対して大いに貸し付けていた。イタリアでは複数の公立銀行が公設質屋と結びついていた(例:公的に設立された〔1584年〕ナポリの主要銀行の1つは、公設質屋から直接発展した)
3.「多くの場合、公立銀行は危険性の高い政府への貸付を強要された。これによって幾つかの銀行は『支払い停止』or『(一時的な)預金の正貨への転換を停止』する羽目に陥った」
4.「しかし公立銀行は危機を乗り越えて、アンシャン・レジームの終わりまで存続し続けた」
〈例1〉バルセロナ市立銀行は特に2度の深刻な危機に直面した(1468年,1641年)
〈例2〉パレルモ銀行は何度も支払い停止を余儀無くされた(1609年,1635年,1647年,1671年,1709年,1799年)。だがどれも耐え抜き、廃止は近代に入ってから(1855年)だった
〈例3〉バンコ・デル・ジロですら、カンディア戦争(対トルコのクレタ島防衛戦)によって生まれた危機の時代(1650年頃)に、当座預金を正貨へ転換する相場を規制せざるを得なかった
5.「公立銀行は割引業務を行っておらず、為替手形取引にも関与していなかった」

【大陸ヨーロッパの状況(18世紀)】
 J.為替手形取引は公立銀行ではなく、未だにマーチャント・バンカーの業務であった。商品取引と為替手形取引は銀行の業務であり、銀行と為替は同義だった。銀行は「隔地間の為替相場における投機的取引」から成り立っていて、商業手形の割引は話にもならなかった
 K.イタリアでは“カンビスト”と呼ばれた銀行家が、他方では公立銀行が存在していた。公立銀行は今日のような発券銀行ではなかったのだが「国際担保or民間機関への貸付によって当座預金へ記帳(=預金を創造)する方法」によって、通貨発行銀行として機能していた

【イングランドの銀行制度】
 L.ロンドンの金匠は「a.貴金属取引と、そこから銀行としての活動を拡大していた(17世紀初~)」のだが、さらに「b.内国為替手形(=“イングランド・ビル”)の割引を導入していった」。イングランドの法律は利付き貸付を公認していたので、手形割引には(大陸ヨーロッパと異なり)何の障害も無かった
 ★イングランド銀行(1694年設立)は、商業手形や国庫証券の割引を主要な収益源としていた
 M.イングランドの銀行制度は「貴金属取引,預金受け入れ,商業手形の割引」を基盤としており、為替手形取引に立脚する大陸の銀行とは著しく異なっていた。為替手形取引に集中している人を、フランス・イタリアでは“銀行家”と呼んだ(しかも多数存在した)が、ロンドンのシティでは“送金業者”と呼んだ(こちらでは少数だった)。イングランドでは内国銀行業務に従事する者が“銀行家”と呼ばれた
 N.「イングランド銀行が持参人払いの銀行券を発行している」のは、内外の銀行制度の大きな違いだった。これによるメリット:
1.「『当座預金口座への記帳による支払い』は、振替銀行所在の町の人々しか利用できないが、銀行券は偽造されやすい欠点があっても、近くにも遠くにも流通することができる」
2.「ヴェネツィアやアムステルダムの国立銀行では、帳簿記入だけで支払いが可能である。一方でイングランド銀行では『帳簿記入or銀行券or現金』で可能であり、しかもその選択は個人が行える」

【大陸ヨーロッパへの普及】
 O.イングランド銀行の成功は、ヨーロッパのエコノミストたちに印象付けた。フランスではJ.ローの失敗にもかかわらず、イングランド銀行を模倣した国立の発券割引銀行を創設する企画が進み、テュルゴーの協力もあって『割引銀行』の創設へと至った(1776年)
 P.この銀行の目標は「a.いかなる場合でも4%を超えない金利での商業手形の割引」「b.金銀地金取引」「c.無利子の当座預金口座の管理」「d.流通をまずはパリに制限した『一覧払いの銀行券』発行」であった。慎重な運営によってこの新しい銀行は十分に成功したが、a.の利子制限によって「(イングランド銀行のように)割引利子率を上下させて貨幣市場を規制する」ことが出来なかったから、恐慌期には信用を遮断してしまった
 Q.スペインでは『サン・シャルル国立銀行』が設立され(1782年)、やがて『スペイン銀行』へと改組された(1856年)。この銀行の主要な機能の1つは「4%の利子率での商業手形or指図人払手形の割引」だった
 R.この2行の設立によって、割引と発券に基づいたイングランドの銀行制度が大陸ヨーロッパにも根付いた。フランス革命以降に『フランス銀行』や他国で発券銀行が設立されたことにより、旧来の預金振替公立銀行は解体されていった。「割引,再割引」が商業銀行の本質的機能となったので、古い公立銀行の存在は理論・実務ともにそぐわなくなっていた


(5)手書きの為替手形から印刷された手形の使用へ

 A.中世の為替手形は「a.完全に手で書かれた肉筆の証書である」「b.大商会や銀行では、共同経営者・代理人のみが為替手形を作成する権限を与えられている」「c.筆跡がまだ知られていない人物ならば、彼らの名前・筆跡の見本が全てのコルレス先に送られる」という方式に依った
 B.ダチーニ文書やメディチ文書の中の手形は「商会の名前で作成され、作成者の名前が見られない」ものもある。しかし例外として、若干の為替手形は(自筆証書ではなく)代書人の見事な筆跡で作成されている。後者の為替は、手形の下部に(振出人である商会のメンバーである)権限のある者によって“記載されているように支払われたし”という文言が書き込まれていた(そのうち1枚は1400年の日付がある)

【近世における転換】
 C.為替手形は自筆証書の性格を維持していた(16世紀中)が、やがて「振出人の筆跡よりも署名を重視するようになる」(1600年~)。やがて印刷された手形の使用が次第に多くなっていく(18世紀)が、フランスは例外で「為替手形・約束手形・銀行券・受領証は全て、署名者の自筆のものでなければならなかった」(勅令による:1730年)
『為替手形発達史』R・ローヴァーから[9]


○手形割引慣行


(1)割引の用語の歴史
 ~単なる値引きか、信用供与か~

 A.中世における“割引”とは「支払期日以前に債務を支払った場合に、債権者から債務者に与えられる債務金額の値引き」という意味だった。シエナのトロメイ商会の会計帳簿に見られる“割引”の用語は、この意味だった(13世紀末~)
〈例〉フランチェスコ・デル・ベーネ商会の会計帳簿から(日付は14世紀初期)
1.「債務額:計算貨幣であるフィオリーノで122リブラ5スー2デナリ」
2.「返済期日:1319年10月12日」
3.「これが6月28日(=返済期日の3ヶ月半前)に返済された」
4.「年利10%だったので、返済総額の3ヶ月半の利子である3リブラ9スー3デナリが差し引かれ、債務者は(フィオリーノで)118リブラ15スー11デナリしか返済していない」
5.「割引の計算は最終的な債務額ではなく、実際の返済総額に対して行われたので、少し割引は小さくなる(この事例の場合は2スーだけ)」

【帳簿にみる割引の役割】
 B.フランチェスコ・デル・ベーネ商会の帳簿上では、割引は羊毛・毛織物の掛け売りと関連して現れている。これはメディチ家の支店(毛織物の製造に関わっていた)の勘定帳簿でも同様だった。つまり“割引”とは「商品の配達後、速やかに支払いを行うように仕向ける、売り手が買い手に与える特別手当」であった
 ★為替手形の取引に関連した“割引”(=資金調達という意味)は、中世のマーチャント・バンカーの会計帳簿や、近世初頭における会計の論説にはほとんど登場しない。(近代の用語としての)「為替手形の割引」を意味するようになるのは後(18世紀~)のことだった

【割引をめぐって】
 C.神学者たちは掛け売りの場合に「現金売りよりも高く販売するのは合法的なのか?」「支払い期日よりも先に支払いが行われた場合、売り手が買い手に“割引”を与えるのは合法的なのか?」を大いに議論していた(※どちらの場合にも、割引率の算出には利子の概念が潜んでいるから)。この“割引”は先払いを理由とする値引きであり(資金調達を目的とする)為替手形の割引を意味することは全くなかった
 ☆多くの辞書・百科全書が与えている“割引”の定義(17~18世紀)も同様だった。為替手形の割引とは「債務者が支払い期日以前な支払った場合に、債権者から与えられるリベート」とされていた
 D.大陸ヨーロッパの状況(18世紀後半)は、商取引と銀行に関して記された2冊の書物(どちらも当時非常に評判が良く、価値ある情報の源泉だった。著者はJ.ブッシュとC.G.ルトヴィッヒ)から明らかにできる:
1.「“為替手形”を支払い期日以前に割引させることは、商人たちにとって恥ずべきことであり、彼らは期日到来までは支払いを求めないことを優先していた」
2.「商人たちは“為替手形”をコルレス先に送り、債務決済のために手形を裏書していただけである」
3.「しかし“為替手形”の割引取引が『一時的に自由な資金を有する金持ち・商人たちにとって好ましい投資先として広がった』(18世紀中頃~)ので、商人たちは資本を遊ばせないようになった」(※信用供与の手段としての割引のこと!)
[以上はブッシュの、以下はルトヴィッヒの見解]
4.「手形割引とは『満期前の手形金額を先払いすることで与えられる値引き』(債務者が、債務を期限前に支払って払い戻しを受けること)である」
5.「あるいは『手形期日までの利子を差し引く』(債権者が資金を入手する目的で、手形金額よりも少ない金額で手形を売却すること)という条件での“為替手形取引”である」
 E.上記5.の取引が、今日的に理解される“信用供与としての割引取引”である。この形態の(近代的な)商業手形割引が大陸ヨーロッパにおいて登場する(1750年頃)までの“手形割引”とは「先払いによる手形金額と実際の受取額との差額」のことを指していた
 F.しかしイングランドでの展開はずっと早かったようだ。手形はシティの銀行家によって一般に割引されており、手形割引業務はイングランド銀行(1694年設立)の収益の大きな源泉の1つですらあった。(信用供与としての)手形割引の定着は、前近代の銀行業と近代の銀行業を区別するポイントであった


(2)徴利と割引をめぐって

 A.教会が主張する教義によれば「a.貸付によって利子を取り決めることが徴利」であり「b.貸付契約とは別の根拠によって補償を請求すること」は、徴利には該当しないとされた。神学者たちはb.を“発生する損害”と定義し、これを根拠にして債権者が(債務者の支払いの遅れなどによる損害を理由に)損害賠償を求めることを認めていた
 B.一方でa.は“免失利益”と定義され、貨幣を一時的に手放した(貸し付けた)だけで補償を請求する権利を債権者に与えていた。この補償とは(経済学で)“機会費用”と定義されるもので、これを認めれば「債権者が貸付・投資から利子を徴収すること」の合法化につながるとして、神学者たちは警戒していた
 C.こうしたカトリック教会の見解に対する、ビジネスを完全に合法化し契約の自由を達成したい銀行家サイドからの攻撃は激しくなっていく(18世紀)。「市民法」を根拠としたり「皇帝の権威」を引き合いにする方法によって利子の合法化が図られた(やがてナポレオン法典は利付き貸付を合法化し、カトリック教会も容認へと転じることになる〔19世紀〕)

【ネーデルラントの場合の徴利】
 D.君主であったカール5世によって公布された勅令(1540年)は「乱用を抑える」という名目で、利子の徴収に好意的だった。年利12%の上限利子を決めるとともに、利子は「商人たちが商業に貨幣を投じて上げる収益を超えてはならない」とした(これはまさに“免失利益”の概念である)
 E.一方で、商人でない者たちにはこの勅令は適用されなかった。彼らが「固定的収入(=“確実な利益”)のために商人に出資すること」を禁じたから、彼ら商人でない者たちは預金することを認められなかった。ただし彼らが商人たちとともに会社へ出資するのは認められた
 F.やがてネーデルラント連邦共和国(オランダ)では、利子率は契約書たちの裁量に委ねられるようになった(1658年)。アムステルダムのカルヴァン派の商人たちは、利子付きでの貨幣の貸借にいかなる躊躇いも感じていなかったのだ。自由な契約に基づくようになったアムステルダムの貨幣市場の利子率は3%まで下がり、ヨーロッパのどこよりも低くなった(17~18世紀中)

【イングランド】
 G.ヘンリー8世治下では法によって「それまで禁止されていた利子は10%に定められた」のだった(1545年)。エドワード6世の時代に一旦廃止された(1552年)が、エリザベス1世の治下で商人・弁護士たちの支持のおかげで、再び公認された(1571年)
〈法廷利子率の引き下げ〉8%(1624年)→6%(1661年)→5%(1714年)

【イタリア】
 H.原則的にはイタリアでの利付き貸付は、アンシャン・レジーム終了まで禁止されたままだった。ところが中世では、商人たちは利付き貸付を一般に行っており、彼らは多かれ少なかれ、徴利取引をうまい具合に隠していたのだった。若干の商会に至っては、利子の受け取りを隠す工夫すらしていなかった。
〈隠匿の例〉
 フィレンツェの毛織物商人ギルドの規約では「ギルドに加わっている商会の会計係に対して、利子として受け取ったものを“無料の贈り物”として会計帳簿に記入する」ように義務付けていた
 I.銀行家たち(特にその頂点に君臨するメディチ家)は、受け入れた定期預金に対する固定金利を公然と支払っていた。教皇庁は“邪な金利”を禁じることはできたが、銀行家たちが贈り物をすることは止めようがなかった
 J.反宗教改革(16世紀)によって、銀行家たちへの締め付けは強められた。にもかかわらず、ストロッツィ銀行商会の文書には5%の金利を公然と示している為替契約が数多く見いだされる(16~17世紀)。ただし金利を取ることが原則となったことは決してない

【フランス】
 K.フランス国王はシャンパーニュ大市に通う商人たちに、15~20%に達する利子の徴収を許していた(14世紀初)。しかしこの法規は、大市の衰退とともに恐らく廃止され、その後は利付き貸付は公式には禁止されていた(~1789年)。裁判で利子を取り立てるのは不可能であり、また(規則に反して)債権者に利子を支払った債務者は、債権者に利子返還訴訟を起こすことすらできなかった
 L.ところがやがて、この規則の適用はそれほど厳格なものではなくなっていった(18世紀)。仮に「為替手形(利子を含めて振出されている)を全く認めない厳格な裁判官」だとしても「手形の額面金額に利子が含まれているかを詮索しない」のが、当時の裁判の状況だった(経済学者テュルゴーによる)
 M.さらにテュルゴーによると、法の厳格さは時代の勢いに譲歩し「手形貸付,割引,商人間のあらゆる種類の貨幣取引」は公然と許されるようになったという。フランスの経済学者たちは、徴利を禁止する教会の教義(とそれに従う神学者たち)を極めて否定的に見ていた(18世紀)

【神学者】
 N.教会の教義が未だに引きずっていた過ちの1つに「為替レートに利子が隠されていること」を否定し続けていた点があった(ただし利子率が低下し続けていたので、その額はあまり気にされなかったのだが)。一方で銀行技術の専門家(例:上記J.ブッシュ)は「“割引料(=利子)”が期限付き為替の相場に常に含まれている」点を容易く示していた(18世紀末)。イングランドでは2世紀も早くから指摘されていたにもかかわらず、大陸ヨーロッパの経済思想に入り込むことはなかった
 O.教会の論者の中には、商人間に限った貸付には「消費貸借ではないので、邪な利子は存在しない」として、貸付や手形割引を容認する論者もいた。しかし、神学者や法律は(基本的には相変わらず)手形割引の慣行に否定的だったので、カトリック諸国ではなかなか確立しにくかった(一定の影響力を保持していた)
 P.フランス(18世紀)でも手形割引は実用化されていたのだが、それは商事裁判所判事(自らも商人だったので、法律の適用に真剣ではなかった)の黙認により見逃されていただけだった。さらに為替手形取引により生まれた収益は“為替”と呼ばれ、決して“割引”or“利子”と言われなかった
『為替手形発達史』R・ローヴァーから[8]


(4)イタリアでの裏書の起源

【裏書を持つ最古の為替手形(1519年)】
 A.この為替手形は「額面:50ドゥカート・ドール」「1519年8月6日にナポリからフィレンツェ宛に振出された」もの。通常の4名の当事者の名が手形に記載されている。為替手形はユーザンス払いでBにより引き受けられ、カルロ・ジノーリ銀行での預金振替により支払われた(9月3日)
「振出人a:ナポリ在住」
「資金の貸し手b:ナポリ在住」
「手形金額受取人c(bとコルレス関係にある):フィレンツェ在住」
「手形振宛人d(手形金額支払人):フィレンツェ在住」
[※名前は省略したが、a・c・dはストロッツィ家の人物である]
 B.問題の裏書は「cのために50ドゥカートを、毛織物業者(e)に支払って下さい」という趣旨のもの。裏書をした手形金額受取人cが、毛織物業者eに支払うように指図を与えていたのだった。これによってcは自分の債権をeに譲渡し、eの商会が代わって為替手形の金額を入手したのだった
 C.幾つかの為替手形が残っている中で、裏書されたのはこの1件だけだった。したがって、ストロッツィはフィレンツェ最大の銀行の1つであったが「裏書慣行を試験的に導入しただけで、未だに確固としたものにはなっていない」というのが真相のようだ。他のイタリア諸都市を見渡しても、ボローニャの法令(1550年)において「持参人払いのけ為替手形」について言及しているだけだった

【小切手と裏書慣行】
 D.為替手形とは別に、ストロッツィ家文書には一種の小切手も存在している。これは「1519年5月7日付,金額は僅かに13+1/3フローリン,ピストイア在住のfからフィレンツェ在住のg宛に振出されたもの」で、手形金額受取人hによって別の人物iに振替られた。振替指図は証書の表面に書かれている
 E.この時期には、あらゆる種類の信用証書が「表or裏に指図を書き込む方法で振替される」のは珍しくなくなっていた。これはまずは小切手から始まり、やがて為替手形でも行われるようになったようだ
 ☆小切手の裏書に用いられた“私のために何某に支払われたし”という用語は、顧客が銀行に与えた振替指図の中に見られる(14世紀末~)
 ★通常、銀行の預金振替は口頭で行われていた。しかし「顧客が町の外にいる場合,銀行へ自ら出向けない場合」には、書いたもので指図することも時には行われていたようだ
 F.南イタリアの人々は、小切手と関連した証書である“信用証書”を使っていた。これは他に類似したものが無い「a.一種の預金証書」で、これによって銀行は「b.預金者が銀行に対する(証書の)額面の債権者であることを証明」し「c.証書を提示すればその金額の返済を約束する」というものだった(ただしc.の約束が伴わない信用証書も存在する)。さらにこれは「d.『裏書』『単なる手渡しによる譲渡』だけで公衆の間に流通していた(16世紀~)」「e.裏書人の署名は公証人によって公認された」のだった
〈例〉発行者であるナポリの“モンテ・デ・ピエタ”(公営質屋)銀行は、証書の下に受取人によって指名された人物への額面金額の返済義務を表明している(1574年)
 G.そして“信用証書”とともに、南イタリアの人々は小切手も使っていた。その振替(=裏書)は、証書の裏ではなく下部に記されていた
〈例〉シチリアのトラパーニ銀行の帳簿によると、この小切手は早くから譲渡されていた(1530年以前~)。ナポリのモンテ・デ・ピエタ銀行宛の小切手は、小切手金額受取人による第三者への支払指図が行われている(1573年のもの)

【トスカーナの場合】
 H.トスカーナ地方の3つの銀行都市(ピサ,リヴォルノ,フィレンツェ)では、裏書は一般的な慣行になっていた(遅くとも1600年頃)。手形には「指名された手形金額受取人」or「手形の下部に記された、受取人に指図された者」に支払うように記されている。やがて下部ではなく、商業手形の裏面に裏書として記載されるようになる(フィレンツェ:17世紀末)
 I.マッテオ・ロレンツォ・ガッリ銀行商会の場合、ピサやリヴォルノのイングランド人居住区に住むメンバーが顧客となっていた。当時ピサに住んでいたトーマス・マン(有名なイングランドの重商主義者)が署名or裏書した何枚かの手形が残されており、そのうちの1枚は3度も裏書されている
〈上記の手形について〉
1.「手形はピサで振出され(1601年6月30日)、額面金額は80ドゥカートだった」
2.「資金の貸し手はアレッサンドロ・メレッロ,手形振出人はトーマス・マン,マンはフィレンツェの銀行家ガッリ商会に『80ドゥカートをジュリアーノ・カスタニョーラの指図した人に支払うように』と指示した」
3.「カスタニョーラは手形をジョヴァンニ・プレーヴに裏書譲渡した(1回目)」
4.「プレーヴはヘンリエッタ・デ・ドメニコに裏書譲渡した(2回目)」
5.「ドメニコはアヴェラルド&アントニオ・サルヴィアーティ商会に裏書譲渡した(3回目)」
 J.ガッリ銀行商会の手形の中には、ベルナールド・ダヴァンツァーティ(為替についての論説を記した有名な人物)のために振出された手形があった(1601年12月14日付)。これは(他の手形と同様に)「支払いはブザンソン大市の開催時期」となっている。若干の手形は、正貨での支払いではなく「銀行振替で決済するように」契約されている
 K.このようにイタリアでも、人々は商業手形を譲渡しようとした(16世紀~)。裏書慣行は上記A.で見たようにフィレンツェで誕生したようだが、他都市での普及は緩慢なものでしかなかった。イタリアの様々な都市の法・商慣行は多様であり、場所によっては(下記のように)裏書が追放されてしまった

【裏書きに対するナポリのスタンス】
 L.ナポリでは、裏書きは1回だけ認める(=複数の裏書を禁止する)という内容の勅令が公布された(1607年)。つまりこの時点のナポリでは裏書慣行が知られていたことになる
 ☆この勅令は「正貨の輸出を予防することによってナポリの通貨が下落するのを防ぎ、外国為替相場を安定させる」目的を持つ一連の計画のうちにあった、という。しかしこの計画は上手く行かずに2度も延長された(1609年,1617年)
 M.やがて「今後は為替手形の支払いは正貨ではなく、銀行振替により行われるべき」と規定した勅令が出された(1632年)。その上最終的には裏書は完全に禁止された(1690年)が、政府が関係する裏書手形は例外だった(発行される鋳造銀貨が国外に流出するのを防ぐ、という意図だった)
 ☆為替の統制には銀行の統制が不可欠だったにもかかわらず、実際にはそのようにされなかった(17世紀)

【ヴェネツィアのスタンス】
 N.ここでは裏書慣行は禁止されていた(これは貴族的共和国崩壊〔18世紀末〕まで続いた)。裏書に関する最初の布告(1593年)がもたらしたもの:
1.「リアルト橋(銀行業者の所在地)の銀行でも、アントウェルペンやリヨンを見習って裏書による第三者への債権譲渡(=銀行外での振替)が行われていた」
2.「これを布告によって禁止し、銀行振替での手形金額支払を強制した」
3.「他の都市で契約されヴェネツィアで返済される為替はもちろんのこと、ヴェネツィアで契約され他都市で返済される為替にも、銀行の口座記入による決済が強制された」
 O.その後に元老院は「預金振替銀行の会計係に対して、裏書された為替手形の支払いを目的とする預金振替を行うこと」を禁止する措置に出た(1652年)。これによって裏書はリアルト橋の取引所から追放された。当時「アントウェルペン・オランダ・フランスから送られてくる裏書された為替手形」が問題視されており、この転々と譲渡される商業手形の流通が「振替による銀行貨幣の流通」を妨げないよう、前者を禁止したのだった


(5)スペインでの裏書(16世紀)

 A.この時期(~1600年)の為替手形の大部分は常に「手形に記載された人物」or「彼が不在の場合にはその代理人」に支払われていた。裏書は極めて珍しく、確かに知られてはいたものの慣習としては十分に浸透していなかったようだ
 B.「1537年9月10日にリヨンからセビーリャ宛に振出された、額面100エクーの為替手形(為替レート:1エクー=378マラヴェディス)」の場合。通常の為替手形と同じく「リヨンに手形振出人と資金の貸し手、セビーリャに手形振宛人(資金の返し手)と手形受取人(その資金の受取人)」の計4名が登場する。この手形の裏面に書かれた内容によると「手形受取人は資金を、クリストファーノ&マルティネス銀行での振替(=預金口座記入)で受け取った」ようだ
 ☆つまりこの裏書は「所有権の移転」という意味ではなく、銀行への手形の現金化依頼の意味しかなかった(=手形金額支払人に正貨ではなく銀行振替で行われたことを認める、一種の領収書である)
 C.同じような例として「アントウェルペンのフッガー家がスペインの出先に振出した手形(額面4,000ドゥカート,スペインのメディナ・デル・カンポ大市で返済された)」がある。この手形の裏面への書き込みは、為替銀行の勘定での支払いを承認する内容であり、裏書ではない(=指図人に支払うという文言が無い!)
 D.幾つかの裏書は受領書の形になっており、また裏書の中には“私または何某のために”という文言(よく小切手に用いられていた)がある。どちらも“振替指図”(=手形金額or銀行預金を第三者に譲渡する)であった。また「裏書人が『手形を譲り受ける人』に対して負っている債務の返済」に転用するのを、明確に記している手形もある
 E.あるいは「単なる取り立ての委任」でしかない裏書もある
〈特殊な例〉ヴァリャドリード跣足(せんそく=裸足)女子カルメル会修道院の修道院長を受取人としている為替手形:
1.「修道女は門外に出ることを許されないから、彼女は手形金額を現金化することが出来ない」
2.「そこで別の男に手形を裏書譲渡して困難を回避した。つまり第一の裏書は単なる現金化の委任だった」
3.「この男は手形金額を、為替勘定(※銀行商会にあるこの男のもの)に入金してくれるように依頼した。第二の裏書はその受領書のようなものだった。男は自らの名前と権利で行動している訳ではなかった(修道院長の名前と権利を委任されただけ)ので、このように措置する必要があった」

【スペインの特殊な事情】
 F.この王国内では(特にカスティーリャ大市-セビーリャ間で)内国為替手形が発展していた(16世紀)。同じ貨幣が(為替手形の)振出地と支払場所で別々に相場が立つこの仕組みを神学者たちは厳しく非難し、その合法性は否定された。やがて勅令により「平価から乖離した相場で振り出される内国為替」は禁止された(1552年)
 G.スペインの状況は実際には、ネーデルラントやイタリアと大きくは異なっていなかった。商人たちは裏書を「事業に便利だから」ということで、法的な影響を考えずに導入していたようだ。しかしその法的仕組みを整えるのは法律家の仕事だった(17世紀)


(6)イングランドの特殊な事情

[※この部分に関しては『イギリスにおける商事法の発展』(弘文堂)を参照しなければならないので注意]

 A.この国でも中世の法律は、商業手形の流通性に対してはマイナスに作用したのだが、他国と比べるとその期間は長かった(コモン・ロー〔普通法〕の原理は厳格だったため)
 B.準則に従い「無体財産は譲渡されない(=債権・債務は譲渡性を持たない)」とされており、加えて「債務証書の持参人は原債権者の委任状が無ければ、訴訟のあらゆる手段を与えられない」のだった。ところが実際には、中世イングランドでも債権の譲渡性はある程度は存在していた
 C.商取引に関係する訴訟の大部分は、コモン・ロー裁判所に移送されるのではなく「市長法廷,海事裁判所,定期市で開かれたパイ・パウダー・コート」といった商人裁判所の管轄にあった。そこではコモン・ローに則ることなく、商慣習法に則って裁判が行われていた。特に「外国人宛に振出される,支払われる」為替手形は、全くコモン・ローの支配下になかった
 ☆この状況が悪化するのは、コモン・ロー裁判所が全ての訴訟を受理しようとした時期(16世紀)であった

【中世での状況】
1.「中世では、近代的な意味での商業手形の流通性は(他国と同様に)イングランドでも知られていなかった」
2.「しかし債権の譲渡性が全く無かったのではなく、商人間では債権譲渡はよく知られていた」
3.「特に『署名した者が支払能力のある人物』として商人間でよく知られている場合には、債務証書は一般に売買されていた」
4.「大部分の取引は裁判に訴えることもなく、清算されていた。信用のある者と取引する場合、イングランド商人は(大陸の同業者と同じく)法律の形式に拘ることはなく、特に事務上の考慮を優先していた」
5.「どうしても商人裁判所に持ち込む必要のある訴訟もあったが、裁判所は『委任状を持たずに支払請求を行おうとする、為替手形や債務証書の持参人』に対して門前払いを喰らわすことはなかった」
 ☆「持参人の法的地位が保証されていた」のではない。イングランドの判事は法の原則によるよりもむしろ「衡平(エクイティ)の原則」に従って物事を決定する能力を持っていたし、持っていることが重視されていたためだった
6.「債務証書・手形に持参人払い文言が記されていても、コモン・ロー法廷での訴訟ならば、委任状が免除されていたわけではない。しかし商人間での譲渡ならば、持参人払い文言が欠けていても、必ずしも問題視されなかった」

【イングランドの為替手形】
 D.為替手形をこの地に導入したのは、イングランドに定住するようになった(13世紀末頃)トスカーナやロンバルディアのイタリア商人だった。彼らは中世の全期間を通じてロンドンに居住し、そこでの銀行業務を事実上、独占していた
 E.やがて、イングランド商人はイタリア商人を模倣して、為替手形(=イタリアの支払指図書)に似た証書を使用するようになる(14世紀末頃)。しかし彼らはこれを、イタリア商人と同じようには用いなかった
〈その背景〉
1.「イングランド商人の行動範囲は(羊毛のステープル市場である)カレーやフランドルをめったに超えなかった。対してイタリア商人はヴェネツィア・フィレンツェと直接取引を行っていた」
2.「イタリア商人とは逆に、イングランド商人は自分たちの手形を売って資金を入手する資金の借り手であった」
 ★このためにイングランド商人は、為替取引では彼らの利潤の一部を確実に奪われていた。このことは、彼らとイタリア人マーチャント・バンカーとの間に存在した敵意の原因の1つであった
3.「イングランドの為替手形は一般に『ファクターによって彼の主人宛に』(あるいは逆方向に)振出されていた。これはイタリアの為替手形とは文言が異なっており、ハンザ商人たちが使っていた信用証書により近いものであった」

【裏書の導入】
 F.イングランド商人もアントウェルペンにおいて(イタリア方式の)為替手形を導入しようとしており、ハンザ商人とともにそれを債務証書と同じように使おうとしていた(16世紀)。そうした動きに対して「債務証書と違い、為替手形は持参人に支払われる証書ではない」と抗議したのはイタリア商人(ルッカ人)だった
 G.裏書のイングランドへの導入(1622~51年の間)に先立って、商人たちの間では確実に認知されていた
〈例1〉ピサ・リヴォルノに足繁く通うイングランド商人により裏書された手形(1599年)の存在
〈例2〉ロンドン在住のルッカのマーチャント・バンカーが、アントウェルペン宛に振出した為替手形(1611年3月18日付)。手形受取人(サー・ウィリアム・セルビー)は資金提供者でもあり、この手形は信用状のようなものだった(※手形振出人はセルビーの主要取引金融機関のようなものか?)。この手形は指図人には支払われずに裏書譲渡された(裏書文言によれば、セルビーは受領書を作成して手形金額の受領を委任する意向だった)


(7)フランスとドイツの状況

【フランス】
 A.この国での情報は曖昧でしかないが、他国と同様に導入されていたようだ(1620年頃)。さらに、ある著書(1656年)において「指図人払いの文言を含んだ手形の事例が記載されている(しかも複数)」ことから、この間に普及が進んだようだ

【ドイツ】
 B.多くの為替手形が、フッガー家その他の商会の文書中に伝わっている。にもかかわらず、裏書に関する情報は少ない。ただし公証人は、手形の文言を書き写した拒絶証書を作成する(オリジナルは拒絶証書そのものに添付する)ので、何枚かの重要な情報を伝えるドイツの手形にアクセスできるという(例:アントウェルペン〔16世紀〕のもの)
 C.ブリュッヘで作成された拒絶証書(日付は1447年7月10日)には、ハンザ商人が取引で用いた信用手段の典型例=“債務証書”が見られる。イタリア商人とは慣習が異なっている点に注意:
1.「ロンドンのスティールヤードのハンザ商人(と思われる)ゲルラッハ・デ・ベルケンローデは、在ロンドン・メディチ商会の支配人から10,908グロ(フランドル貨)を受領した」
[10,908÷240=45リブラ9スー(=45.45リブラ)]
2.「受領者は次回のアントウェルペン大市で、ブリュッヘ在メディチ銀行代理人に対してその等価の返済を約束した」
3.「デ・ベルケンローデはアントウェルペン大市を自ら訪れる予定だったので、手形(1447年3月24日付)は彼自身に振出された種類のものだった。手形の裏に記載された住所は、穀物市場にある『鵞鳥亭』(彼が定宿にしていた旅籠)だった」
4.「しかし彼は手形の約束を履行しなかった。拒絶証書の作成を引き受けた公証人は旅籠に出掛け、宿の亭主は公証人の質問に答えた。曰わく『デ・ベルケンローデは何時も鵞鳥亭に泊まるが、今回は町に到着しても投宿せずに馬を厩に預けただけで、朝早くに馬を取りに来て、鞍を着けて見知らぬ所に出かけていった』と」

【ハンザの商業との関係】
 D.ハンザ商人たちが利用する為替手形は、しばしば支払約束書として作成され「受取人自身or手形の持参人への支払いを認める(選択的な)文言」を含んでいた(16世紀)。為替手形が近代的な形式でドイツに定着するには、まだしばらく時間が必要だった(16世紀末~)。また裏書の登場・普及は、フランスとほぼ時期が同じだったようだ
 E.ハンザの商業は地中海商業のようなコルレス関係の発達には至らず、商人(orその代理人)が自ら旅商として出掛けていく必要があった:
1.「彼らは海外に短期間だけ滞在する」
2.「そこに継続的な店舗は持っていなかったので、通常は旅籠に投宿し、宿屋の主人(ブローカーのような機能を担う)の仲介で、しばしば取引を決済した」
3.「手形の(選択的な)文言は、同業者や宿屋の主人に、未だに満期の到来していない手形を委ねることが出来るようにするためだった」
4.「こうすることで、帰国や別の六合への出立のために満期に間に合わない場合でも、手形の取り立てが可能だった」
〈例〉公正証書(1549年6月5日)によると、ドイツ商人C・スネーペルはアントウェルペンを通過する際に、為替手形の受取のためにネーデルラント人に委任状を与えた。手形金額は1,980エキュ・ドゥ・ソレイユ=627リブラ・グロ(為替レート:1エクー=フランドル貨76グロ)で、当時としては非常に大きな金額だった
[1,980エクー×76グロ/エクー=627リブラ×240グロ/リブラ]
『為替手形発達史』R・ローヴァーから[7]


○手形裏書の発生


(1)商業手形の流通することの意味

 A.手形が流通するようになるには「手形の裏面or下段に書かれた簡単な指図」によって「a.手形の額面金額を取り立てる権利」が譲渡されねばならない(裏面へ書き込む慣行が最もよく使われた)
 B.しかし裏書の意味はそれに止まらず「b.譲渡人&裏書した全ての者に対する遡及の権利」を、手形を譲り受けた人に与えなければならない。さらに「c.債務者は最初の債権者や裏書人の1人1人に抗弁できたとしても、支払いを求めて最後に現れた善意の手形持参人には抗弁できない」のである
 C.つまり(まだ支払期日が到来していない)商業手形の流通が首尾よく行われるには「裏書署名した全ての当事者の連帯保証」抜きにはありえないのだが、この概念が中世には欠けていたので、商業手形の流通はなされなかったのだった。しかし商人たちが、自ら持つ債権を現金化しようと試みる(=正貨を紙券に置き換えようとする動き)ことで、裏書は新たな支払い手段として発明された
 D.中世において債務を支払う商人たちは、帳簿上において振替を記帳するよりも、債権証書そのものに振替の事実を記入する(手形への裏書も一種の振替である)ことによって、証書が簡単に流通するように改善しようとした。しかしこうしたイノベーションには、中世における「債権譲渡,訴訟の代理」双方への制限が邪魔となっていた


(2)中世における債権譲渡

 A.中世の債務証書・借用証書(手形ではない)では「a.何某あるいは“持参人”に支払われたし」という文言が使われていた。また史料では「b.記載された債権者あるいは“彼が指名し、証書を持参した者に”支払われたし」というように述べられている。実際には「証書の持参者」が「支払いの受け取りを指図された者」を意味するのは当然と考えられていた(「持参人払い≒指図された人払い」となっている)
 ★商人の間では持参人(=メッセンジャー)は、債権者の正当な代理人として通用していた。持参人は「同じ会社・事業組合の人間,従者,ファクター(=代理商),家族の一員」であった
 B.したがって、中世には指図払いの証書は相当稀にしか存在しなかった(必要がないから!)。この時期には債務証書だけが重要なのであるが、これは自署の証書として一般に「公証人or参審人or陪審員の立ち会いの下で作成された」公正証書であり、単なる私署証書よりも正式なものだった
 C.そして上記A.の“持参人”という言葉は、中世の債務証書には非常によく登場するものの、これが現在のような意味を持つには法律が障害となっていた。というのは、ローマ法でもゲルマン法でも「a.未だ支払期日が到来していない債務証書を第三者へ譲渡すること」が認められていなかった。さらに「b.代理人は単なる委任された者にすぎない(ゲルマン法では裁判で代理を認めていない!)」ので「c.代理人による取立てに対して債務者が抗弁を申し立てる」こともできた
 ☆中世の“持参人”(=代理人)は、近代法が為替手形や指図手形の持参人に与えている特権的な地位を何ら有していない

【規制の緩和】
 D.しかし法律上は上記のような制約があったにもかかわらず「何某あるいは持参人に支払われたし」という文言によって、実務的には「持参人に対する債務者の善意の支払いは有効である」と認められていた
 E.とりわけ、最も著名な法律家の1人(14世紀において)であったJ.ブティリエは、商人に配慮して「本人以外の者に代理させることができる権利」を商人に与えた(代理人による訴訟が受理されるようにした)。さらに証書持参人が(中世の意味での)代理人ではなく、当事者本人として裁判に臨むことも認めていた。かなり持参人寄りのこの理論は、カール5世の枢密顧問であるデ・ダンフレーデによっていっそう発展した

【発展を制約するもの】
 F.だが法学者が“自分の利益のための”代理人(近代的な意味での代理人)と、(中世における)持参人を同一に扱うようになるまでは長い時間がかかった。イタリアはローマ法の影響下にあり、債権譲渡への法学者の反対は他国よりも厳しく、持参人が(近代的な)代理人となったのは遅かった(17世紀)。フランス・ドイツ・イングランドでも、債権譲渡の発展に対する法的制約は健在だった
 G.しかしこれは法学者たちの反対だけが問題だったのではない。実は人々のメンタリティにも大きな障害が存在した。それは「中世の取引は『非人格的性格』を未だ持っておらず、商業手形の流通によって契約当事者以外の第三者が権利を持つことに対する抵抗があった」ということ(最大の抵抗は商人・銀行家の間にあった)
 H.持参人払い条項はほとんどが債務証書で使われており、為替手形(14・15世紀)ではほとんどが「指名された者(or商会)」に支払われていた(=流通性が無い)。例外的なものは「旅行者・学生・巡礼者のために発行された」信用状だった(これが“為替手形”と呼ばれていたからややこしい!)
 ★信用状は一般的に「商人でない者に代金受領の上で、銀行によって発行される」点で、為替手形とは異なる。支払われる金額は常に決まっているわけではなく、時には「受取人が自由にしうる金額の最高限度を決めている」ようなこともあった

【中世の特殊な事情】
 I.公正証書による初期の為替契約(に偽装した貸付:12~13世紀)には、借り手が「貸し手自身or貸し手の正当な代理人」に返済を約束する文言が含まれていた。ところがこの「公正証書による為替契約」の使い勝手を向上させた仕組みである為替手形には、こうした文言は記載されていない
 J.上記の文言は、当時の商業の中心だった旅商の必要にたいへん都合が良かったから採用されたのだった。こうした方法が「シャンパーニュ大市の衰退」「コルレス関係に基づいた新しい商業組織の登場」「各地に支店・代理店を置いて取引を行う商会の発展」によってその存在意義を失ってしまったことは、証書へのこうした文言の必要性を失わせた
 K.法律の領域でもこのような変化と発展に促されて、会社or商会とは「個々のパートナーとは分離された別な存在である」というように、徐々に認識されていった。したがって、為替手形を関係者の誰かが現金化する場合には「会社or商会に支払われれば十分である」という認識へと変わっていった。また、為替手形の不渡りの際に作成される拒絶証書は度々、為替手形の中で受取人と指名された「その商会のファクターor使用人」の訴訟によって作成されもしていた
 L.しかし(債務証書とは異なり)為替手形が第三者への譲渡が許されなかった最重要の理由は、中世の為替手形が貸付の偽装であったことによる。為替契約(=貸付契約)の当事者は「手形振出人,資金の貸し手」の2人であり、手形の名宛人(借り手のコルレス先)と手形の受取人(貸し手のコルレス先)は契約遂行の代理人でしかない。不渡りの場合には、手形の受取人は引受人(=貸し手)を訴えることはできたが、手形振出人(=借り手)に直接訴えることはできなかった(これができるのは、振出人と為替契約を結んだ資金の貸し手のみ)
 ☆手形が流通するようになるには「手形金額受取人(=持参人)に対して、振出人を含めて手形への署名者全てに対する遡及した請求権を認める」「手形に記された支払いの指図が取り消し不能である」という2つの原則が必要だが、中世の商業手形にはどちらも欠いていた(※後者については下記O.を参照)
 M.為替契約において通常「手形名宛人-振出人」「手形受取人-資金の貸し手」はそれぞれコルレス関係にあり、そこには互いの信頼関係が重要な役割を果たしていた。それが、もし手形の裏書によって第三者が介入するとなれば、イタリア商人が極めて重視していたコルレス関係に混乱をもたらすのは必然であった
 N.アントウェルペンの慣習法(16世紀)においてもこの点ははっきりしており、手形受取人は「為替手形の額面金額を提供したのが実際には自分である」のが証明できない限り、償還請求権は有していなかった。つまり「資金の貸し手が手形受取人の代理人でしかない」ケースでしか、手形受取人は手形振出人に対する請求権を持たなかった
 O.為替契約の取り消し可能性について。アントウェルペンの慣習法ではハッキリと、資金の貸し手は「手形名宛人(借り手のコルレス先)が引き受けた後でも、為替手形の支払いに反対する権利」を留保していた
 ☆いずれにせよ、もし「手形受取人(貸し手のコルレス先)が支払期日以前に破産した」場合には、そのことによって「為替手形に記載されている指図は無効になる」とされていた(これによって名宛人は、満期が到来していない為替手形金額を支払うことになる)


(3)ネーデルラントでの裏書の先行事例

 A.ブリュッヘ(16世紀)の法律は未だに中世の伝統下にあり、債権の譲渡を促す仕組みにはなっていなかった
〈例〉大部分の都市(メヘレン,アールスト,ブリュッセル,ルーヴァンなど)では、たとえ債務証書に「証書を提示する者に支払われうる」とハッキリ契約されていても、慣習法上は(委任状or譲渡証書なしには)証書の持参人は裁判を起こす権利を有していなかった(債権を現金化する権利だけを有していた)
 B.しかし大商業都市(ブリュッヘ,アントウェルペン)の慣習法は、大部分の小都市のそれよりもずっと法の適用は緩やかであり、持参人が委任状を必要とせずに裁判を起こすことができた。しかもこれは長年行われてきた慣行だった
 C.アントウェルペンの場合、市の総督が「持参人による訴訟は受理される」と言明した(1507年)。その背景には「外国商人が他の都市に移り住んでしまわないよう、できるだけ彼らの要望に応える」という姿勢があった
 ★外国人嫌いはロンドンではよく見かけることだが、ネーデルラントではほとんど見られず、反対に「あらゆる手段を使って外国人との取引を取り込もう」としていた(ただしこれは外国商人居留地への政治スタンスであり、一般に軋轢・紛争がほとんど起こらなかったわけではない)
 D.債務証書の持参人は(委任状or譲渡証書なしで)債務証書を持って判事の下に出てくれば、自分の名で訴訟を申し立てることが出来るようになる(慣習法:1569年)。その後には、訴訟を行う持参人は「債権者の代理人でも委任された者でもなく、人格的に元の債権者そのものである」というように発展した(慣習法:16世紀末)
 ☆こうした規定は債権の譲渡を保証し、やがては商業手形の流通性へと繋がる

【布告の狙い】
 E.ネーデルラント全体に一般適用された布告(1537年)で、債務証書の持参人に関するアントウェルペンの規定は確固たるものとなった。しかし現地にこれと異なる慣習がある(上記A.のように)場所にも規定が実施されたかどうかは疑わしい
 F.この布告は「外国商人居留民団(特にイングランド商人)が使う詭弁・乱用にとどめを刺すこと」を目的としていた。というのも悪意の債務者は、訴訟を長引かせて債務支払いを回避しようと、あらゆる逃げ口上を使っていた。そこで布告は、持参人に裁判への出廷を認めることで、悪意の債務者の引き延ばし手段を禁止した
 ☆債務者は、自分の名前が記載されている債務証書に偽りがないことを認めざるを得ない。抗弁するには前もって担保を入れる必要があった。「署名が自分のものではない、偽造されたものだ」と主張する者には重い罰金が課せられた
 G.布告の時点で「債務証書・約束手形が譲渡証書の作成なしに、単なる引き渡しだけで商人間を転々と流通していた」という現実があった。しかし為替手形についてはそのようなことはなく、従来通りのままであった。確かにイングランド商人・ハンザ商人らは「債務証書・約束手形に認められていた譲渡性を為替手形にも適用せよ」と求めていたが、ルッカ商人たち(=旧来からのコルレス関係を用いるマーチャント・バンカー)は、アントウェルペン総督に「それは有害である」と告発している(1560年頃)

【2つの取引手法】
 H.イタリアや南ドイツに本店を持つ大商社は、支店・コルレス先と協働して取引を行う仕組みを完成させていた。対してイングランドやハンザの商人たちは「a.商品の売り買いをするため、規則的にアントウェルペンやベルヘン・オプ・ゾームの大市を訪れていた」「b.大市がいったん終わると急いで国へ帰る」という、一段遅れた段階(イタリア商人が既に通過した巡回商業のステージ)にあった
 I.時には彼らもその地に代理人を置いていた(目的:債権の現金化,次回の大市取引の地ならし)が、それは必ずしも一般的ではなかった。基本的には「c.マーチャント・アドヴェンチャラーたちは常に旅に出ており、イングランド-ネーデルラント間をしきりに往来していた」「d.北の商人は商品を運んでは来るが、正貨はほとんど持参しなかった」。そのために「e.持参人払いの債務証書の形で債権を流通させ、債権を貨幣化することは非常に好都合だった」のだ(=物々交換の最高の制度!)
 ★イングランドの重商主義者たちはその著書の中で、イタリア生まれの債権・債務決済の方法の効率性を賞賛し、イングランドで未だにこの方法が認められていないことを嘆いていた
 J.北の商取引では「f.何事もおおらかで、債務証書と為替手形の区別も曖昧だった」から、為替手形を債務証書と同じように使おうという誘惑が大きかった(イタリアや南ドイツ商人にはこれが許せない)。しばしば「g.為替手形は約束手形として作成された(=商人は一定の金額を受け取り、他地での同額の返済を約束した)」

【異なる形式の為替契約】
 K.上記g.は「場所の違い,時には貨幣の違い」を伴う為替契約であり、これを為替手形(orその類似)と見なすことに問題はない。北ドイツではこれを“為替債務証書”と呼んでおり、その起源は中世にまで遡ることができる。この時期にはハンザ商人たちも「外国で手に入る貨幣に関わる取引」を取り扱うようになっていた
 L.しかしこの取引は、イタリア商人が「為替手形取引に築き上げた高度なメカニズム」の次元までは至らなかった。リューベックやフランクフルトは“銀行所在地”と呼ばれるまで至らなかったのは「取引は頻繁ではないし、銀行業者もいなかった」から
 M.それでもハンザ商人は、為替手形に支払約束のフォームを与えていた(~16世紀末)。この手形には持参人払いを認める文言が記載されているが、(イタリア商人が用いている債務証書の譲渡と同じような)保証は与えられていない。したがって「手形を持参する最後の人は、もし手形不渡りが発生した場合には、先行する人に何ら遡及の権利を行使できない」という問題があった

【裏書の発生に向かう】
 N.この最後の問題点ゆえに、多くの商人たちは「債権譲渡,銀行外での振替による債権支払い」を選好した。アントウェルペンでこの方法が広がったのは、この地に預金振替銀行が存在していないからだった。というのは、ブルゴーニュの政府当局はこの種の機関に極めて敵対的で「預金を受け入れて、預金振替により支払いを行うこと」を、両替商であろうと誰であろうと厳しく禁止していた(15世紀~)
 O.銀行預金が無いからには、別の方法に頼るしかない。なぜなら、アントウェルペンやベルヘン・オプ・ゾームの大市に集まってくる商人たちは、商品を運んで来るが正貨はほとんど持参しなかったから
 P.布告(1541年)によれば「為替手形は現金払いが原則であるが、受取人が債権譲渡に同意するのであれば、支払人はその取引の善意の保証人として残る」とされた(アントウェルペンの慣習法でも同様の趣旨がある)。すなわち、支払いが実際に行われるまで、債務者は債務から解き放たれることはない(=債権者は債務者に遡及する権利を事実上保持した)のだった。この原理を裏書に拡大すれば、商業手形の一般的流通に辿り着くことができる
 Q.アントウェルペンでの最古の裏書の事例(1610年の日付をもつ)は、スペインで振出されたものだった。ルッカの銀行家によってロンドン宛に振出されたイタリア手形(1611年の日付をもつ)は、受取人のイングランド人によって裏書譲渡された。これら初期の事例は、実際の譲渡というよりも「単なる現金化の委託」だった可能性が高い
『為替手形発達史』R・ローヴァーから[6]


(4)大市での手形取引

【大市の役割は不変】
 A.リヨン大市(15世紀中葉には繁栄していた)やジュネーヴ大市(1440年頃には大量の貨幣取引が行われていた)の存在、貨幣市場の重要な役割はシャンパーニュ大市にまで遡ることからもわかるように、ここにも中世からの継続性が存在していた。アントウェルペン取引所はヨーロッパの金融センターとして半世紀もの間、常設の大市を組織していた
 B.他方で、銀行所在地としてのアントウェルペンが衰退し、ブザンソン大市が興隆したことの理由の1つは「ブザンソン大市がスペインの貴金属輸出の新たな仕向け地となった」ためだった(貨幣の代替手段である商業手形はもちろん重要だが、最後の拠り所としての貴金属の役割が強く活きていたことによる)
 C.この貴金属輸出は「ビスケー湾や英仏海峡を横切ってアントウェルペンへ向かう」航路を取らなくなり、代わりに「バルセロナから地中海を通ってジェノヴァへ向かう」ようになる(1568年~)。この変化の理由は「イングランド人やユグノーらの私掠船が跋扈して英仏海峡が危険になったこと」「ジェノヴァの銀行家がスペインにおいて優勢になったこと」などがあった
 ★イギリスは、フランスの私掠船の追撃を逃れてプリマス港に避難してきたスペインのガレー船を捕獲し、積荷である400,000ドゥカート超の財宝(=英貨で120,000ポンド)を奪った。財宝はネーデルラントに駐留するアルバ公の軍隊に支払われることになっていたが、法的にはそれらはジェノヴァの銀行家所有であった。したがって銀行家たちは実際には賠償されるであろうが、アルバ公は「待ちかねていた傭兵への俸給支払いに必要な金」を強奪されたのだった(1568年)
 ★輸送ルート変更以後は、貴金属はロバの背中に積んで陸路バルセロナまで運ばれ、そこからジェノヴァまでは通常は同共和国のガレー船によって輸送された。しかしこれとて決して安全ではなく、ロバのキャラバンがレリダ(カタルーニャ地方)近くで盗賊の一団に襲われ、200,000ドゥカートのレアル銀貨と地金が奪われた(1614年)
 D.その結果、ヨーロッパでの貴金属の配分は、ブザンソン大市での市場動向と為替相場の変動に左右されることになる。そして、それまではアントウェルペン取引所において行われてきた「支払い決済のための国際的手形交換所の機能」は、ブザンソン大市によって引き継がれた(1570年~)
 E.リヨン大市やブザンソン大市では「当事者間の相殺や振替による決済」が、非常に広範囲に行われていた。大市では銀行家たちが数百万エキュにものぼる債権・債務を、取引所も無しに単なる帳簿記入の方法で清算していた。この方式は中世の為替業者たちにより「商人たちができるだけ正貨で支払わないで済むように」当座勘定において処理できるように採用された会計上の工夫だった

【計算貨幣:エキュ・ド・マルク】
 F.これは一般に「不変の計算貨幣」として見なされているが、元々は実際にジュネーヴ大市で流通していた現実の貨幣であった(しかも以下に見るように、計算貨幣としての価値は変動している):
1.「ジュネーヴ大市の繁栄期(15世紀前半)において、エキュ貨は2種類=『64マルク・ドゥ・トロワ』『66マルク・ドゥ・トロワ』が、どちらも区別無しに流通していた」
[※1トロワ・マルク(重量245g)から64枚のエキュ貨を作るか66枚作るかはかなりの違いだと思うが…。違いは名前の上だけで、実際にはどちらも65枚だったのだろうか?]
2.「フランス国王はジュネーヴ大市に対抗する大市をリヨンに設立した(1444年2月の勅令による)時に、この2つのエキュ貨はジュネーヴからリヨンに移植された。これにより、エキュ・ドゥ・マルクは現実に流通する貨幣から『観念的な貨幣(=計算貨幣)』へと変わった」
3.「やがて(1500年までに)リヨン大市に足繁く通っていたフィレンツェの銀行家たちにより、この(観念的な)エキュは『金1フィレンツェ・マルク(重量226g)の1/65』と等価の新しいエキュに置き換えられた(重さ3.48gということ)」
[※この1フィレンツェ・マルクの品位は23+1/8カラットだろうか?純金だと計算が合わなくなる]
 ★マルクにはトロワ〔重量245g〕とフィレンツェ〔重量226g〕というように、幾つものマルクがあった
4.「これによって新しいエキュは、現実に流通していたコイン=“エキュ・オ・ソレイユ”とほぼ一致した。このコインは1トロワ・マルクから70枚作られ、品位は23+1/8カラットであった(コインの重さ3.5g,純金の価値3.37g,発行期間は1475~1519年)。両者の価値は計算貨幣で33スー・トゥルノワに等しかった(1514年時点)」
5.「ところがフランソワ1世は『1マルクを71+1/6に分割する,品位を23カラットに落とす』という“エキュ・オ・ソレイユ”の貶質(へんしつ)を行った(コインの重さ3.44g,純金の価値は3.30g)。他方で観念的な貨幣であるエキュ・ドゥ・マルクは貶質されずにそのままであり、2つの間に価値のズレが生じた(1519年)」
6.「その後に銀行家たちが実効相場にしたがって、エキュ・ドゥ・マルクに45スー・トゥルノワ(=“エキュ・オ・ソレイユ”の公定相場)を与えることを決めたので、法定平価が回復した(1533年)」
[※“エキュ・オ・ソレイユ”は貶質にもかかわらず、公定相場が上昇していたことになる]
7.「ところがアンリ2世は“エキュ・オ・ソレイユ”の鋳造を停止し『1トロワ・マルク(重量245g)を67片に分割し、品位23カラットとした』“アンリ・ドール”貨に置き換えた(1549年)。このコインは重さ3.656g、純金の価値は3.50gとなる」
8.「次にシャルル9世は“エキュ・オ・ソレイユ”を復活させた。その際に『品位は23カラットで維持したが、分割枚数を72+1/2として重量を減らした(コインの重さ3.38g,純金の価値は3.24g)』のだった(1561年)。このため、かつてのエキュ・ドゥ・マルクとの一致(~1519年,1533~1549年)が回復したのではなかった」
9.「こうしてエキュ・ドゥ・マルクは新しい“エキュ・オ・ソレイユ”と等価でなくなった(後者は46スー・トゥルノワとなったから。こちらの相場は52スー〔1561年〕→54スー〔1573年〕と変動した)」
 G.そして「65エキュのマルク」(これも純粋に観念的な貨幣である)は、常に146リーヴル5スー・トゥルノワとなった(※45スー×65エキュ=〔146×20〕スー+5スー)。しかし金のプレミアムの存在により、この数字に1.5%が加算されたので、65エキュのマルクの固定価格は148リーヴル8スー10+1/2デニエ(=2968.875スー・トゥルノワ)となる
 H.この相場はしばらく維持された(~1575年復活祭の大市)が、リヨン大市に出入りする銀行家はとうとうエキュ・ドゥ・マルクを放棄し、新しい“エキュ・オ・ソレイユ”を採用した(=60スー・トゥルノワ=3リーヴル・トゥルノワ)。この決定によってしばらく安定した時期が続き、今度は“エキュ・オ・ソレイユ”が計算貨幣となった(=60スー)
 I.この時期にはリヨン大市の貨幣は「為替相場の基準通貨」となっていた。為替は常にエキュ・ドゥ・マルクを基準に建てられ(※対ポンドを除く現在のドルと同じ)、相手方通貨(=外貨)は変数であった(この例外はライバルの大市であるブザンソン大市とピアツェンツァ大市である)。決済残高の計算にエキュ・ドゥ・マルクが用いられ、債権・債務を相殺して決済した

【複数のエキュ・ドゥ・マルク】
 J.カール5世(スペイン王カルロス1世)が帝国内にあったブザンソンにおいて大市を開設した時(1534年)、銀行家たちは「為替相場と勘定記帳のための貨幣単位」として、すでにリヨン大市で使われていた「1/65マルクのエキュ」をブザンソンに導入した。ところでこちらのエキュ・ドゥ・マルクはリヨンのそれよりも品位が劣っていた(22カラットだった)
 K.実はカール5世はこの品位で「スペインとナポリで(リアルコインの)エキュ・ドゥ・マルクを鋳造していた」のだった(1535年~)。そこで(観念的貨幣の)エキュ・ドゥ・マルクは、重量については「ローマン・マルク(=226g)の1/65」と考えられるので、これが表していたのは「品位22カラット,重量3.48g,純金の価値3.19g」ということになる
 L.他方でスペインのエキュ貨は「カスティーリャ・マルク(=230g)の1/68」であり、重量3.38gだった(上記のように品位は同じだから、純金の価値3.10g)。正貨のコインはシニョリッジ(貨幣を発行することによって発行主体が得る、原価との差益)によって過大評価されていたから、観念的貨幣のエキュ・ドゥ・マルクは(リアルコインの)スペインのエキュ貨に対応していたと考えられる
 ★ちなみにナポリのエキュ貨は「アラゴン・リーヴル(=318g)の1/94」だった(重量3.38g)
 ★銀行家たちは5種類の100エキュ・ドゥ・マルク貨のコイン(スペイン,ナポリ,ジェノヴァ,フィレンツェ,ヴェネツィア)を、常に101エキュ・ドゥ・マルクとして数えていた(~1600年)
 M.ブザンソン大市はヴェネツィアに対抗したジェノヴァによって「サヴォワ→ピエモンテ→ピアツェンツァと順次設立され、そしてノーヴィに移された」歴史がある。対抗してヴェネツィアはヴェローナに大市を開設した(1631年)が、実はどちらの大市も大成功したわけではない。ジェノヴァに運ばれてきた貴金属の流入がほぼ全て停止する(1631年~)と“いわゆる”ブザンソン大市は衰退し、エキュ・ドゥ・マルクの役割も弱まった

【大市の機能と通貨】
 N.「為替の基準通貨を提供する」という大市の機能は「安定した貨幣」によりもたらされる。したがって、必ずしもエキュ・ドゥ・マルクのような観念的貨幣である必要はない(事実、リヨン大市はリアルコインである“エキュ・オ・ソレイユ”を採用していた)。貨幣は観念的であろうがリアルであろうが、為替相場を決めるのに役立っていたのだった
 O.エキュ・ドゥ・マルクの相場は、他都市でよりも大市の方が高かった。これは「利子の存在を埋め込まれている」がゆえの一般的な法則であり、どの都市の為替相場でも同じような乖離が発生していた。さらには「大市の開催日付がより先ならば、他都市でのエキュ・ドゥ・マルクの相場はいっそう低くなる」のだった
 P.エキュ・ドゥ・マルクはどの国籍であろうが、大市に出入りする全ての銀行家たちにとって「a.価値基準として受け入れられた国際通貨&契約通貨」であった。そのことが大市に取引の集中をもたらし、銀行家たちは「b.容易く裁定取引を行うことができる」「c.最もリーズナブルな金利で資金調達ができる」「d.ヨーロッパの全ての都市間の勘定を有効に調整できる」のだった
 Q.アントウェルペン大市では時々、パニックを引き起こす投機的取引が行われていたが、ブザンソン大市では難しかったと考えられる。これは、銀行家委員会が「活動規則の遵守,自由競争の維持」に気遣って監視していたためである。寄り集まった為替業者は「小さな手帳への簡単な記帳だけ」で、全ヨーロッパの債権・債務を相殺できた

【大市での為替手形の事例】
1.「フィレンツェの為替業者Aはリヨン宛の手形(額面100エキュ・オ・ソレイユ)を、104+2/3フィレンツェ・エキュで購入した」
2.「この手形の支払い期日には、Aのコルレス先(リヨン在)Bは規則通りに為替手形代金を受け取り、その金額でフィレンツェ宛の第2の手形購入に充てる。その価格は額面100エキュ当たり106+2/3フィレンツェ・エキュであった」
3.「この方法により、AはBへの手数料も含めて100エキュ・オ・ソレイユにつき2フィレンツェ・エキュの利益を得た」
4.「この取引は利子を徴収したことには該当しない。というのは、取引が同じ当事者間で行われたのではなく、別々の2つの契約だったから(A・Bにはそれぞれの取引相手方が存在する。その相手方同士も互いにコルレス関係にあった)」
5.「ただし第2の取引における為替レートは前もって確定しえないから、投機的な性格を持つ」

【“戻し為替”付き為替の事例】
(為替手形に偽装された貸付から、為替レートの変動によるリスクを取り除くために考案された手段…というよりも計略)
1.「この場合には“戻し為替”が前もって決められたレートで振り出されているから、為替取引の投機的性格は消失している(※為替予約のようなもの)」
2.「ブザンソンの銀行家AはBに対して1,000エキュ・ドゥ・マルクを貸し付け、両者は次回の大市において1.6%の利子付での返済を約束した(=期間は3ヵ月であり、年利は6.4%になる)」
3.「1エキュ=163ソルディ・ディ・インペリアリの為替レートで、1,000エキュ・ドゥ・マルク(=8,150リブラ・ディ・インペリアリ)の為替手形が形だけミラノ宛に振り出された」
4.「Aのミラノ代理人Cはこの手形を受け取ると、A・Bに対応する勘定にいったん記入するが、すぐに逆の記帳によって取り消す」
5.「さらにCは次回のブザンソン大市で支払われる“戻し為替”を振り出して、1エキュ=160スー5+1/5デニエ・インペリアリの架空相場で、8,150リブラ・ディ・インペリアリをエキュ・ドゥ・マルクに両替する(金額はちょうど1,016エキュとなる)」
[※1016エキュ×(160+26/60)スー/エキュ≒8150リブラ×20スー/リブラ]
6.「1.6%の利子が上乗せされたこの金額が、BがAに返済する額である」