『為替手形発達史』R・ローヴァーから[10]
(3)為替相場と利子
A.中世の銀行家たちは「為替相場の中に紛れ込ませた利子」と「相場の変動」から利益を上げていた。彼らは利益を上げることにのみ関心があったので、両者を区別することをしなかった。そしてマーチャント・バンカーたちの収益の源泉は為替相場にあり、決して割引や利子ではなかった
〈例〉ルイス商会(16世紀)の帳簿には、近代の意味での割引取引は存在しない。さらにフィレンツェの銀行ガッリー商会(17世紀)の会計帳簿でも同様だった
【銀行家の収益の事例】
B.ロンドンに居住する銀行家が「スターリング貨で総額2,300ポンドになる、アムステルダム宛為替手形」数枚を購入し、アムステルダムのコルレス先に送金したケース:
1.「為替相場はスターリング貨1ポンドあたり、グロ貨で34スー6デナリ~35スーの間を変動していた」
2.「アムステルダムでの受け取り額は、グロ貨で総額4,010リブラになる」
3.「送金した2,300ポンドは、コルレス先が複数の為替レートで取引した何枚かの戻し為替によって送り返される。その総額は3,881リブラ5スー」
[※つまり、割安なグロ相場でグロ貨を買い(より多くのグロ貨が手に入る)、割高なグロ相場でグロ貨を売った(より少ないグロ貨で元手のポンド貨を手に入れた)]
4.「これによってグロ貨で128ポンド15スーの利益を得た。21ポンド4スー8デナリの仲買手数料を差し引き、スターリング貨1ポンドあたり33スー10デナリの為替レートでスターリング貨に戻して、利益は63ポンド11シリングだった」
5.「この利益は割引から発生したのではなく、ロンドン・アムステルダム間の為替レートの差から生まれた」
【為替取引の収益】
C.最初は、為替契約の必要条件とは「場所の違い,通貨の違い」であった。しかし内国為替手形(の出現)によって、場所の違いだけが問題となり「為替が振出される場所の相場によって決まる」とされた(17世紀)。つまり「手形が振出される場所」と「手形が支払われる場所」が存在している
D.商事王令(1673年)の1規定によると、為替の価格は支払い地の貨幣の相場(=取引所or市場の相場)によって決まった。もし相場水準以上のものを要求するならば、それは(不公正な価格としての)一種の徴利と考えられた
E.さらに割引慣行は、そもそも商事王令とは相容れなかった。それは「為替手形の中には利子が含まれている」ので、割引をハッキリと禁止していた(手形を再び割引するのは利子の二重取りになり、これこそ不公正であるから)ためである
☆このため(アンシャン・レジーム期には)、為替手形は取引所で取引されていても割引されることはなかった
F.こうした規制があったので「為替の収益に利子は入り込んでいない」という一種のフィクションを用いざるを得なかった。でなければ、銀行家と全ての為替取引は徴利という非難を免れ得なかった
【パリ・リヨン間の為替の事例から】
1.「同じ王国内の都市なので、正貨の違いは何の役割も果たさない」
2.「国際収支(商品と資金の流出入の総計)はリヨンが+・パリが-だとすると、リヨン宛手形はパリ宛手形よりも品薄となり、プレミアムが付く」
3.「(相場がディスカウント1%だとすると)パリで1,000リーヴル払い込んだら、リヨンでの受け取りは990リーヴルとなる。リヨンでの支払いが必要(=割高なリヨン宛手形を需要する)な商人は、パリから正貨をリヨンに現送しない限り、10リーヴルの損失を回避できない」(現送しても費用はかかるが)
4.「ところが、手形を買って貨幣を投資に回す銀行家の場合だと“戻し為替”によって利益を確保できる。最初のリヨン宛手形の購入により1%の損失を被るのは同じ」
5.「もしリヨン宛手形がパリで品薄となっている状況ならば、逆にパリ宛手形はリヨンで豊富となっている。この時には(かなり高い確率で)パリ宛為替手形に対して貨幣にプレミアムが付いている(パリ宛手形が割安になっている)」
6.「そこでリヨンからパリへの“戻し為替”によって収益が上げられる(その程度は相場変動によって異なる)。もしこれで2%の利益が得られるなら、パリ・リヨン間の往復為替取引で1%の収益が上がることになる」
[※この収益は、両都市の国際収支バランスの崩れを利用した裁定取引である]
(4)割引と銀行制度の構造
A.中世の銀行所在地には「早くから預金・振替業務を行ってきた両替業者」と「ほとんどイタリア人であるが、国際貿易を為替手形取引と結びつけてきたマーチャント・バンカー」の、2種類の銀行家が存在した
★これには地域ごとの違いもある。フィレンツェでは両替業者とマーチャント・バンカーとの区別はあまりハッキリしておらず、それぞれの名前で呼ばれていても、どちらも“外貨両替商組合”に属していた
B.両替商は「a.顧客に当座勘定で貸付を行った」「b.自分たちが自由にできる資金の一部を商業活動にも投じた」が、しかし「c.他都市に広範な代理店(コルレス先)のネットワークを持っていなかった(例外はヴェネツィア)」ために「d.(常に他都市での支払いを伴う)為替手形取引は制約されていた」。さらに「e.帳簿には今日の(信用供与に用いられる)割引取引の痕跡は全くない」
C.したがって両替商の職務は「f.地域の通貨流通を司る銀行業務」だった。彼らは「g.公衆と貨幣の間を仲介する役割を果たし、振替によって顧客の諸支払いを引き受けた」。事実、両替商は「h.『要求払いで支払われる債務金額が、彼らの金庫にある金属貨幣で完全には裏付けられない程度まで』信用貨幣の創造も行っていた」
D.そして、このような信用の拡張はそもそも両替商の活動こそが起源であった。これによって流通に新たな支払い手段が加わるために、インフレを引き起こす特質を持っていた。実際“銀行券(=信用を当てにした銀行の約束書)”と“預金者の要請によって自由に振替可能な預金”との間には、全く違いはない
[※現代で言うところの“M1”と“M2”の違いでしかなく、どちらも同じマネーサプライである]
【中世の信用創造】
E.シャンパーニュ大市での支払いは正貨で決済するのは不可能であり、商人たちは「債権・債務の振替or帳簿記入」で取引していた。これは、大市にやって来る商人たちは商品を携えては来ても、正貨を持参しなかったためである
F.ヴェネツィア政府は対トルコ戦争の費用をファイナンスするために、リアルト橋の銀行家たちに「対政府貸付,食料・武器・資材の供給」について、当座勘定への記帳で済ますことを強制した(15世紀末)。これによってほどなく「当座預金は正貨での引き出しを停止した,(政府が紙幣を発行したかのように)預金は正貨に比べて減価した」のだった。そして多数の両替商が破産して公衆の信頼は無くなった
【当局の介入】
G.ヴェネツィアや他の都市では、銀行業を営む者は「保証人を入れ、危険な投機取引を差し控えること」を義務付けられた(例:ヴェネツィアではリアルト橋の銀行は、とりわけ鉄・銅・錫の投機取引を禁止された〔1374年〕)。バルセロナでは「破産した両替商は、債権者へのせめてもの慰めとして首をはねられた」。ネーデルラントでは、ブルゴーニュ公は「両替商が商人から預金を受け入れて振替での支払いを行うこと」そのものを禁止してしまった
H.しかし、預金振替の銀行を抑制しても解決にはならなかった。というのは、正貨での決済は非常に大きな困難を伴ったので、商人社会は預金振替機能なしには巧くやっていけなかったのだ。挙げ句の果てには両替商は、貨幣恐慌の際には「通貨の増発(=通貨価値の下落)を引き起こした」として非難されるに至った(この非難に理由がなかった訳ではないのだが)
I.民間の銀行が様々な混乱を引き起こしたので、公立銀行が設立された(最初の例:バルセロナ市立銀行〔1401年〕)。しかし公立銀行の設立は集中した期間に見られた(パレルモ〔1552年〕,ジェノヴァ〔1586年〕,ヴェネツィア〔1587年〕,ミラノ〔1597年〕,ローマ〔1605年〕,アムステルダム〔1609年〕,ミッデルブルフ〔1616年〕,ハンブルク〔1619年〕,ニュルンベルク〔1621年〕)
☆この中で最も有名なのは『アムステルダム振替銀行』と『バンコ・デル・ジロ』(ヴェネツィアの振替銀行:1619年)である。ヴェネツィア振替銀行は先に設立されていたリアルト銀行とは別であるが、後者を吸収合併した
【預金振替銀行】
1.「これら公立の預金振替銀行では、そ支払いは「書式or口頭により指図で行われる、預金口座への記入」によって行われた」
2.「一般的にこれらの銀行は厳しく規制されていて、特定の者への与信は出来なかった。ただし例外的に、公的機関(例:公設質屋)や若干の民間会社(例:オランダ・東インド会社)に信用を供与した」
★アムステルダム振替銀行は、貴金属を担保に商人たちに対して大いに貸し付けていた。イタリアでは複数の公立銀行が公設質屋と結びついていた(例:公的に設立された〔1584年〕ナポリの主要銀行の1つは、公設質屋から直接発展した)
3.「多くの場合、公立銀行は危険性の高い政府への貸付を強要された。これによって幾つかの銀行は『支払い停止』or『(一時的な)預金の正貨への転換を停止』する羽目に陥った」
4.「しかし公立銀行は危機を乗り越えて、アンシャン・レジームの終わりまで存続し続けた」
〈例1〉バルセロナ市立銀行は特に2度の深刻な危機に直面した(1468年,1641年)
〈例2〉パレルモ銀行は何度も支払い停止を余儀無くされた(1609年,1635年,1647年,1671年,1709年,1799年)。だがどれも耐え抜き、廃止は近代に入ってから(1855年)だった
〈例3〉バンコ・デル・ジロですら、カンディア戦争(対トルコのクレタ島防衛戦)によって生まれた危機の時代(1650年頃)に、当座預金を正貨へ転換する相場を規制せざるを得なかった
5.「公立銀行は割引業務を行っておらず、為替手形取引にも関与していなかった」
【大陸ヨーロッパの状況(18世紀)】
J.為替手形取引は公立銀行ではなく、未だにマーチャント・バンカーの業務であった。商品取引と為替手形取引は銀行の業務であり、銀行と為替は同義だった。銀行は「隔地間の為替相場における投機的取引」から成り立っていて、商業手形の割引は話にもならなかった
K.イタリアでは“カンビスト”と呼ばれた銀行家が、他方では公立銀行が存在していた。公立銀行は今日のような発券銀行ではなかったのだが「国際担保or民間機関への貸付によって当座預金へ記帳(=預金を創造)する方法」によって、通貨発行銀行として機能していた
【イングランドの銀行制度】
L.ロンドンの金匠は「a.貴金属取引と、そこから銀行としての活動を拡大していた(17世紀初~)」のだが、さらに「b.内国為替手形(=“イングランド・ビル”)の割引を導入していった」。イングランドの法律は利付き貸付を公認していたので、手形割引には(大陸ヨーロッパと異なり)何の障害も無かった
★イングランド銀行(1694年設立)は、商業手形や国庫証券の割引を主要な収益源としていた
M.イングランドの銀行制度は「貴金属取引,預金受け入れ,商業手形の割引」を基盤としており、為替手形取引に立脚する大陸の銀行とは著しく異なっていた。為替手形取引に集中している人を、フランス・イタリアでは“銀行家”と呼んだ(しかも多数存在した)が、ロンドンのシティでは“送金業者”と呼んだ(こちらでは少数だった)。イングランドでは内国銀行業務に従事する者が“銀行家”と呼ばれた
N.「イングランド銀行が持参人払いの銀行券を発行している」のは、内外の銀行制度の大きな違いだった。これによるメリット:
1.「『当座預金口座への記帳による支払い』は、振替銀行所在の町の人々しか利用できないが、銀行券は偽造されやすい欠点があっても、近くにも遠くにも流通することができる」
2.「ヴェネツィアやアムステルダムの国立銀行では、帳簿記入だけで支払いが可能である。一方でイングランド銀行では『帳簿記入or銀行券or現金』で可能であり、しかもその選択は個人が行える」
【大陸ヨーロッパへの普及】
O.イングランド銀行の成功は、ヨーロッパのエコノミストたちに印象付けた。フランスではJ.ローの失敗にもかかわらず、イングランド銀行を模倣した国立の発券割引銀行を創設する企画が進み、テュルゴーの協力もあって『割引銀行』の創設へと至った(1776年)
P.この銀行の目標は「a.いかなる場合でも4%を超えない金利での商業手形の割引」「b.金銀地金取引」「c.無利子の当座預金口座の管理」「d.流通をまずはパリに制限した『一覧払いの銀行券』発行」であった。慎重な運営によってこの新しい銀行は十分に成功したが、a.の利子制限によって「(イングランド銀行のように)割引利子率を上下させて貨幣市場を規制する」ことが出来なかったから、恐慌期には信用を遮断してしまった
Q.スペインでは『サン・シャルル国立銀行』が設立され(1782年)、やがて『スペイン銀行』へと改組された(1856年)。この銀行の主要な機能の1つは「4%の利子率での商業手形or指図人払手形の割引」だった
R.この2行の設立によって、割引と発券に基づいたイングランドの銀行制度が大陸ヨーロッパにも根付いた。フランス革命以降に『フランス銀行』や他国で発券銀行が設立されたことにより、旧来の預金振替公立銀行は解体されていった。「割引,再割引」が商業銀行の本質的機能となったので、古い公立銀行の存在は理論・実務ともにそぐわなくなっていた
(5)手書きの為替手形から印刷された手形の使用へ
A.中世の為替手形は「a.完全に手で書かれた肉筆の証書である」「b.大商会や銀行では、共同経営者・代理人のみが為替手形を作成する権限を与えられている」「c.筆跡がまだ知られていない人物ならば、彼らの名前・筆跡の見本が全てのコルレス先に送られる」という方式に依った
B.ダチーニ文書やメディチ文書の中の手形は「商会の名前で作成され、作成者の名前が見られない」ものもある。しかし例外として、若干の為替手形は(自筆証書ではなく)代書人の見事な筆跡で作成されている。後者の為替は、手形の下部に(振出人である商会のメンバーである)権限のある者によって“記載されているように支払われたし”という文言が書き込まれていた(そのうち1枚は1400年の日付がある)
【近世における転換】
C.為替手形は自筆証書の性格を維持していた(16世紀中)が、やがて「振出人の筆跡よりも署名を重視するようになる」(1600年~)。やがて印刷された手形の使用が次第に多くなっていく(18世紀)が、フランスは例外で「為替手形・約束手形・銀行券・受領証は全て、署名者の自筆のものでなければならなかった」(勅令による:1730年)
(3)為替相場と利子
A.中世の銀行家たちは「為替相場の中に紛れ込ませた利子」と「相場の変動」から利益を上げていた。彼らは利益を上げることにのみ関心があったので、両者を区別することをしなかった。そしてマーチャント・バンカーたちの収益の源泉は為替相場にあり、決して割引や利子ではなかった
〈例〉ルイス商会(16世紀)の帳簿には、近代の意味での割引取引は存在しない。さらにフィレンツェの銀行ガッリー商会(17世紀)の会計帳簿でも同様だった
【銀行家の収益の事例】
B.ロンドンに居住する銀行家が「スターリング貨で総額2,300ポンドになる、アムステルダム宛為替手形」数枚を購入し、アムステルダムのコルレス先に送金したケース:
1.「為替相場はスターリング貨1ポンドあたり、グロ貨で34スー6デナリ~35スーの間を変動していた」
2.「アムステルダムでの受け取り額は、グロ貨で総額4,010リブラになる」
3.「送金した2,300ポンドは、コルレス先が複数の為替レートで取引した何枚かの戻し為替によって送り返される。その総額は3,881リブラ5スー」
[※つまり、割安なグロ相場でグロ貨を買い(より多くのグロ貨が手に入る)、割高なグロ相場でグロ貨を売った(より少ないグロ貨で元手のポンド貨を手に入れた)]
4.「これによってグロ貨で128ポンド15スーの利益を得た。21ポンド4スー8デナリの仲買手数料を差し引き、スターリング貨1ポンドあたり33スー10デナリの為替レートでスターリング貨に戻して、利益は63ポンド11シリングだった」
5.「この利益は割引から発生したのではなく、ロンドン・アムステルダム間の為替レートの差から生まれた」
【為替取引の収益】
C.最初は、為替契約の必要条件とは「場所の違い,通貨の違い」であった。しかし内国為替手形(の出現)によって、場所の違いだけが問題となり「為替が振出される場所の相場によって決まる」とされた(17世紀)。つまり「手形が振出される場所」と「手形が支払われる場所」が存在している
D.商事王令(1673年)の1規定によると、為替の価格は支払い地の貨幣の相場(=取引所or市場の相場)によって決まった。もし相場水準以上のものを要求するならば、それは(不公正な価格としての)一種の徴利と考えられた
E.さらに割引慣行は、そもそも商事王令とは相容れなかった。それは「為替手形の中には利子が含まれている」ので、割引をハッキリと禁止していた(手形を再び割引するのは利子の二重取りになり、これこそ不公正であるから)ためである
☆このため(アンシャン・レジーム期には)、為替手形は取引所で取引されていても割引されることはなかった
F.こうした規制があったので「為替の収益に利子は入り込んでいない」という一種のフィクションを用いざるを得なかった。でなければ、銀行家と全ての為替取引は徴利という非難を免れ得なかった
【パリ・リヨン間の為替の事例から】
1.「同じ王国内の都市なので、正貨の違いは何の役割も果たさない」
2.「国際収支(商品と資金の流出入の総計)はリヨンが+・パリが-だとすると、リヨン宛手形はパリ宛手形よりも品薄となり、プレミアムが付く」
3.「(相場がディスカウント1%だとすると)パリで1,000リーヴル払い込んだら、リヨンでの受け取りは990リーヴルとなる。リヨンでの支払いが必要(=割高なリヨン宛手形を需要する)な商人は、パリから正貨をリヨンに現送しない限り、10リーヴルの損失を回避できない」(現送しても費用はかかるが)
4.「ところが、手形を買って貨幣を投資に回す銀行家の場合だと“戻し為替”によって利益を確保できる。最初のリヨン宛手形の購入により1%の損失を被るのは同じ」
5.「もしリヨン宛手形がパリで品薄となっている状況ならば、逆にパリ宛手形はリヨンで豊富となっている。この時には(かなり高い確率で)パリ宛為替手形に対して貨幣にプレミアムが付いている(パリ宛手形が割安になっている)」
6.「そこでリヨンからパリへの“戻し為替”によって収益が上げられる(その程度は相場変動によって異なる)。もしこれで2%の利益が得られるなら、パリ・リヨン間の往復為替取引で1%の収益が上がることになる」
[※この収益は、両都市の国際収支バランスの崩れを利用した裁定取引である]
(4)割引と銀行制度の構造
A.中世の銀行所在地には「早くから預金・振替業務を行ってきた両替業者」と「ほとんどイタリア人であるが、国際貿易を為替手形取引と結びつけてきたマーチャント・バンカー」の、2種類の銀行家が存在した
★これには地域ごとの違いもある。フィレンツェでは両替業者とマーチャント・バンカーとの区別はあまりハッキリしておらず、それぞれの名前で呼ばれていても、どちらも“外貨両替商組合”に属していた
B.両替商は「a.顧客に当座勘定で貸付を行った」「b.自分たちが自由にできる資金の一部を商業活動にも投じた」が、しかし「c.他都市に広範な代理店(コルレス先)のネットワークを持っていなかった(例外はヴェネツィア)」ために「d.(常に他都市での支払いを伴う)為替手形取引は制約されていた」。さらに「e.帳簿には今日の(信用供与に用いられる)割引取引の痕跡は全くない」
C.したがって両替商の職務は「f.地域の通貨流通を司る銀行業務」だった。彼らは「g.公衆と貨幣の間を仲介する役割を果たし、振替によって顧客の諸支払いを引き受けた」。事実、両替商は「h.『要求払いで支払われる債務金額が、彼らの金庫にある金属貨幣で完全には裏付けられない程度まで』信用貨幣の創造も行っていた」
D.そして、このような信用の拡張はそもそも両替商の活動こそが起源であった。これによって流通に新たな支払い手段が加わるために、インフレを引き起こす特質を持っていた。実際“銀行券(=信用を当てにした銀行の約束書)”と“預金者の要請によって自由に振替可能な預金”との間には、全く違いはない
[※現代で言うところの“M1”と“M2”の違いでしかなく、どちらも同じマネーサプライである]
【中世の信用創造】
E.シャンパーニュ大市での支払いは正貨で決済するのは不可能であり、商人たちは「債権・債務の振替or帳簿記入」で取引していた。これは、大市にやって来る商人たちは商品を携えては来ても、正貨を持参しなかったためである
F.ヴェネツィア政府は対トルコ戦争の費用をファイナンスするために、リアルト橋の銀行家たちに「対政府貸付,食料・武器・資材の供給」について、当座勘定への記帳で済ますことを強制した(15世紀末)。これによってほどなく「当座預金は正貨での引き出しを停止した,(政府が紙幣を発行したかのように)預金は正貨に比べて減価した」のだった。そして多数の両替商が破産して公衆の信頼は無くなった
【当局の介入】
G.ヴェネツィアや他の都市では、銀行業を営む者は「保証人を入れ、危険な投機取引を差し控えること」を義務付けられた(例:ヴェネツィアではリアルト橋の銀行は、とりわけ鉄・銅・錫の投機取引を禁止された〔1374年〕)。バルセロナでは「破産した両替商は、債権者へのせめてもの慰めとして首をはねられた」。ネーデルラントでは、ブルゴーニュ公は「両替商が商人から預金を受け入れて振替での支払いを行うこと」そのものを禁止してしまった
H.しかし、預金振替の銀行を抑制しても解決にはならなかった。というのは、正貨での決済は非常に大きな困難を伴ったので、商人社会は預金振替機能なしには巧くやっていけなかったのだ。挙げ句の果てには両替商は、貨幣恐慌の際には「通貨の増発(=通貨価値の下落)を引き起こした」として非難されるに至った(この非難に理由がなかった訳ではないのだが)
I.民間の銀行が様々な混乱を引き起こしたので、公立銀行が設立された(最初の例:バルセロナ市立銀行〔1401年〕)。しかし公立銀行の設立は集中した期間に見られた(パレルモ〔1552年〕,ジェノヴァ〔1586年〕,ヴェネツィア〔1587年〕,ミラノ〔1597年〕,ローマ〔1605年〕,アムステルダム〔1609年〕,ミッデルブルフ〔1616年〕,ハンブルク〔1619年〕,ニュルンベルク〔1621年〕)
☆この中で最も有名なのは『アムステルダム振替銀行』と『バンコ・デル・ジロ』(ヴェネツィアの振替銀行:1619年)である。ヴェネツィア振替銀行は先に設立されていたリアルト銀行とは別であるが、後者を吸収合併した
【預金振替銀行】
1.「これら公立の預金振替銀行では、そ支払いは「書式or口頭により指図で行われる、預金口座への記入」によって行われた」
2.「一般的にこれらの銀行は厳しく規制されていて、特定の者への与信は出来なかった。ただし例外的に、公的機関(例:公設質屋)や若干の民間会社(例:オランダ・東インド会社)に信用を供与した」
★アムステルダム振替銀行は、貴金属を担保に商人たちに対して大いに貸し付けていた。イタリアでは複数の公立銀行が公設質屋と結びついていた(例:公的に設立された〔1584年〕ナポリの主要銀行の1つは、公設質屋から直接発展した)
3.「多くの場合、公立銀行は危険性の高い政府への貸付を強要された。これによって幾つかの銀行は『支払い停止』or『(一時的な)預金の正貨への転換を停止』する羽目に陥った」
4.「しかし公立銀行は危機を乗り越えて、アンシャン・レジームの終わりまで存続し続けた」
〈例1〉バルセロナ市立銀行は特に2度の深刻な危機に直面した(1468年,1641年)
〈例2〉パレルモ銀行は何度も支払い停止を余儀無くされた(1609年,1635年,1647年,1671年,1709年,1799年)。だがどれも耐え抜き、廃止は近代に入ってから(1855年)だった
〈例3〉バンコ・デル・ジロですら、カンディア戦争(対トルコのクレタ島防衛戦)によって生まれた危機の時代(1650年頃)に、当座預金を正貨へ転換する相場を規制せざるを得なかった
5.「公立銀行は割引業務を行っておらず、為替手形取引にも関与していなかった」
【大陸ヨーロッパの状況(18世紀)】
J.為替手形取引は公立銀行ではなく、未だにマーチャント・バンカーの業務であった。商品取引と為替手形取引は銀行の業務であり、銀行と為替は同義だった。銀行は「隔地間の為替相場における投機的取引」から成り立っていて、商業手形の割引は話にもならなかった
K.イタリアでは“カンビスト”と呼ばれた銀行家が、他方では公立銀行が存在していた。公立銀行は今日のような発券銀行ではなかったのだが「国際担保or民間機関への貸付によって当座預金へ記帳(=預金を創造)する方法」によって、通貨発行銀行として機能していた
【イングランドの銀行制度】
L.ロンドンの金匠は「a.貴金属取引と、そこから銀行としての活動を拡大していた(17世紀初~)」のだが、さらに「b.内国為替手形(=“イングランド・ビル”)の割引を導入していった」。イングランドの法律は利付き貸付を公認していたので、手形割引には(大陸ヨーロッパと異なり)何の障害も無かった
★イングランド銀行(1694年設立)は、商業手形や国庫証券の割引を主要な収益源としていた
M.イングランドの銀行制度は「貴金属取引,預金受け入れ,商業手形の割引」を基盤としており、為替手形取引に立脚する大陸の銀行とは著しく異なっていた。為替手形取引に集中している人を、フランス・イタリアでは“銀行家”と呼んだ(しかも多数存在した)が、ロンドンのシティでは“送金業者”と呼んだ(こちらでは少数だった)。イングランドでは内国銀行業務に従事する者が“銀行家”と呼ばれた
N.「イングランド銀行が持参人払いの銀行券を発行している」のは、内外の銀行制度の大きな違いだった。これによるメリット:
1.「『当座預金口座への記帳による支払い』は、振替銀行所在の町の人々しか利用できないが、銀行券は偽造されやすい欠点があっても、近くにも遠くにも流通することができる」
2.「ヴェネツィアやアムステルダムの国立銀行では、帳簿記入だけで支払いが可能である。一方でイングランド銀行では『帳簿記入or銀行券or現金』で可能であり、しかもその選択は個人が行える」
【大陸ヨーロッパへの普及】
O.イングランド銀行の成功は、ヨーロッパのエコノミストたちに印象付けた。フランスではJ.ローの失敗にもかかわらず、イングランド銀行を模倣した国立の発券割引銀行を創設する企画が進み、テュルゴーの協力もあって『割引銀行』の創設へと至った(1776年)
P.この銀行の目標は「a.いかなる場合でも4%を超えない金利での商業手形の割引」「b.金銀地金取引」「c.無利子の当座預金口座の管理」「d.流通をまずはパリに制限した『一覧払いの銀行券』発行」であった。慎重な運営によってこの新しい銀行は十分に成功したが、a.の利子制限によって「(イングランド銀行のように)割引利子率を上下させて貨幣市場を規制する」ことが出来なかったから、恐慌期には信用を遮断してしまった
Q.スペインでは『サン・シャルル国立銀行』が設立され(1782年)、やがて『スペイン銀行』へと改組された(1856年)。この銀行の主要な機能の1つは「4%の利子率での商業手形or指図人払手形の割引」だった
R.この2行の設立によって、割引と発券に基づいたイングランドの銀行制度が大陸ヨーロッパにも根付いた。フランス革命以降に『フランス銀行』や他国で発券銀行が設立されたことにより、旧来の預金振替公立銀行は解体されていった。「割引,再割引」が商業銀行の本質的機能となったので、古い公立銀行の存在は理論・実務ともにそぐわなくなっていた
(5)手書きの為替手形から印刷された手形の使用へ
A.中世の為替手形は「a.完全に手で書かれた肉筆の証書である」「b.大商会や銀行では、共同経営者・代理人のみが為替手形を作成する権限を与えられている」「c.筆跡がまだ知られていない人物ならば、彼らの名前・筆跡の見本が全てのコルレス先に送られる」という方式に依った
B.ダチーニ文書やメディチ文書の中の手形は「商会の名前で作成され、作成者の名前が見られない」ものもある。しかし例外として、若干の為替手形は(自筆証書ではなく)代書人の見事な筆跡で作成されている。後者の為替は、手形の下部に(振出人である商会のメンバーである)権限のある者によって“記載されているように支払われたし”という文言が書き込まれていた(そのうち1枚は1400年の日付がある)
【近世における転換】
C.為替手形は自筆証書の性格を維持していた(16世紀中)が、やがて「振出人の筆跡よりも署名を重視するようになる」(1600年~)。やがて印刷された手形の使用が次第に多くなっていく(18世紀)が、フランスは例外で「為替手形・約束手形・銀行券・受領証は全て、署名者の自筆のものでなければならなかった」(勅令による:1730年)