『為替手形発達史』R・ローヴァーから[5]
○16世紀貨幣市場の転換
(1)貨幣市場の拡大と貿易の伸張
A.公信用は新たな盛り上がりを示し、取引領域を拡大した。イングランドでは足場を固め、まだ国家破産に至っていなかったポルトガル・カスティーリャ・アンダルシア・ドイツでも揺るぎない地位を占めていた(16世紀)
B.国際的な貨幣取引においてはカスティーリャやフランクフルト大市は大きな役割を果たしたが、その上アントウェルペンでは驚異的な発展があった(この町はカール5世治世下で、数年のうちに西欧の中心的銀行都市となった
C.この時点での為替手形の流通はローマ教会の範囲を超えては流通していなかった。モスクワ・イスラム諸国・新大陸には為替都市はまだ存在していなかった
【新興の取引参加者】
D.中世での為替取引はほとんどイタリアの大商会が独占していたが、それを打ち破ったのはライバルとして登場したアウクスブルクの強力な金融業者(例:フッガー家)だった(16世紀)しかしイタリア商人も依然として活力を示していた
〈その他の業者の例〉
スペインの銀行家(例:シモン・ルイス,ホアン・ロペス・ガーロ)、フランドルのエラスムス・シェッツ、イングランドのトーマス・グレシャム卿など
【依然強力なイタリアの業者】
E.ジェノヴァのベネディット・スピノーラは、エリザベス女王治世下のロンドンで取引所の中心的銀行家の1人であり続け、イングランド政府から財政顧問として頼りにされていた。ウィリアム・セシル(国務卿)は超極秘事項(例:貨幣改革,ポンド・スターリングの通用価値変更)についても、スピノーラの意見を求めるほどだった
F.アントウェルペン取引所でも、イタリアの銀行商会(複数)は大きな権威と豊富な資金量を有していた。彼らは公債に応募するシンジケートを組織し、市場を独占しようとしてカルテルを結成していた。また、長年「アッファイターディ家は胡椒の取引,グリマルディ家は明礬の取引」をそれぞれ支配していた
☆明礬の国際的カルテルは、被害を受けた買い手サイドの抗議を受けたブリュッセルの裁判所から起訴されている(1536年)。グリマルディのアントウェルペン代理人は、政府と「価格と市場への供給量を規制する契約」を結んでいる(1554年)
☆アントウェルペン取引所は、ガスパール・ドゥッチらが仕組んだ投機売買により“最悪の”賭博場という忌まわしい評判がつきまとった
G.リヨンでも主要な銀行家はフィレンツェ人(例:アルビッツィ商会,サルヴィアーツィ商会,ストロッツィ商会,ナッシ商会など)。カスティーリャやブザンソンの大市では、ジェノヴァ人が大きな役割を担っていた
☆ブザンソン大市はカール5世によって設立された(1534年)。ジェノヴァ元老院の政令によって、まずはピアツェンツァに(1579年)、次にはジェノヴァに近いノーヴィに移された(1624年)が、引き続いてブザンソン大市という名で呼ばれていた
H.ジェノヴァの銀行は共同してカール5世に貸し付けており、その影響力はスペイン帝国内を拡大していく。やがて2度の国家破産(1557年,1575年)によりフッガー家が衰退すると、ジェノヴァ人銀行家の勢力はヨーロッパ第一となる(17世紀初)。しかしスペインの衰退(17世紀)は、ジェノヴァ人銀行家に再起不能な打撃を与え、やがて新大陸からの貴金属はジェノヴァではなく(新興の金融中枢)アムステルダムへと送られるようになる(ルイ14世・15世の時代)
☆スペイン・ポルトガルとの交易で獲得した貴金属は、ダラー貨の形でアムステルダムから「バルト海地域,レヴァント地方,モルッカ諸島」に向けて再輸出された
【資金移動が政治と経済を左右する】
I.この時代(16世紀)の際立った特徴は「a.対国家貸付の意義が増大したこと」「b.新大陸から貴金属が流入したこと」だった。この2つによってスペインは「c.イタリアを牛耳り、フランスに干渉し、ネーデルラントで80年間も戦争を遂行できた」のだった
J.これによって「明らかに商品取引に基づかない国際的な資金移動」が発生し、貨幣市場は大きな大きな影響を受けた。スペイン国王による「フランドルとイタリア駐留軍への兵士・糧食を補給するための、巨額の遠隔地間資金移動」(スペイン政府勘定により規則的に送金が行われていた)は、国際的な資金バランスを決定する主動力となっていた。これは、為替手形の逆の流れ(=ヨーロッパ諸国からスペインへの資金流入)が無かったので、スペインは国際収支の赤字基調を新大陸から入手した貴金属を放出することど賄っていた
★ヨーロッパ諸国家への資金再分配(新大陸→スペイン→ヨーロッパ諸国家)は、かなりの部分を戦争と政治による資金振替によって決まっていた
(2)16世紀の経済知見
A.中世後期から急速な発達を遂げていた印刷技術は、商業・製造業だけでなく「芸術,科学,文学,宗教思想」にとって、思想の宣伝・技術の伝播に大いに貢献した。やがて経済に関係する論説(商業通信,簿記,経済地理,銀行業,為替を対象とする)も出版されるようになった
B.中世後期から近世に入っても「徴利禁止の教義」に関する問題はホットな論題であり続けた。フィレンツェやシエナの3人の聖職者が発表した論説(15世紀)は、いずれも銀行業の中心地で暮らしていたこともあって、商業の実態をよく理解していた。彼らは「詐欺と欺瞞のない真正の手形は合法である」と認めたが「為替手形に偽装された貸付は徴利である」と非難し、これが神学者や大学にも受け入れられた
C.教皇庁の立場も不変であり、ピオ5世の教皇令(新暦の1571年2月1日発布)では、金利の支払いを含むあらゆる為替手形を禁止した。違反者には「カトリックの法規集に規定された徴利への厳しい罰則」が課せられることになっていた。さらには人為的な貨幣市場の逼迫を引き起こす者には破門で臨む、とした(=市場の自由な働きで相場が決まることを重視していた)
【出版物の急増とその特徴】
D.印刷技術の発明により、中世の商人必携の公刊が始まった。さらには為替や銀行業務に関する書物が新たに普及した
〈例〉フランシスコ会修道士のルカ・パチョーリが書いた『算術・幾何・比および比例総覧』(1494年)から始まる。続いてトーマス・デ・ヴィノによる「公営質屋(1498年),為替(1499年),徴収(1500年)」に関する小冊子がそれぞれ出版された
E.商業や為替に関する書物には、大きく分けて2タイプあった:
「商人・一般大衆の教育のために日常的な言葉で書かれたもの」(総じて簡潔・明瞭な中身であり、往々にして職業と教育目的が上手くかみ合っている)
「修道会・大学・裁判所に属する人々に向けて、神学者・法律家によってラテン語で書かれたもの」(ほとんどは曖昧&饒舌&退屈極まりない考証学のような知見を並べたもの)
F.これらの中には優れた考察を記しているものが少なくない:
〈例1〉為替実務を鮮やかに描写し、図表を用いて考察を加えたベルナルド・ダヴァンツァーチ(1529‐1606)
〈例2〉“ナヴァロの博士衆”として知られていたスペイン人たちの論説では「貨幣量増大によって起こるインフレ」を原因として、各国貨幣に購買力の違いが生じることについて正確に見通していた
〈例3〉ネーデルラントの3人の著者は「ユーザンスや為替の建て方,裁定取引の方法」について情報を伝えている(これはそれぞれの著者により、イタリア語・オランダ語・英語で書かれた)
(3)中世からの継続
A.この時期には金融取引は規模がはるかに増大していたにもかかわらず、貨幣市場の構造や実際の取引には未だに根本的な変化は生じていない(16世紀):
1.「銀行業務・為替取引はマーチャント・バンカーらに握られていて、彼らはヨーロッパ中に張り巡らした支店&コルレスのネットワークにより、業界を支配していた」
2.「彼らは非常に大きな資本を自由に動かせたから、それを商品取引に投じるよりも、他の商人や王侯・君主らに貸し付けることを好んだ」
3.「若干の者は統治者と結託し、1つor複数の産物の取引を独占した(or頻繁にカルテルを結んだ)。マーチャント・バンカーたちは取引所を自由に操作する力を持っていたので、統治者は(彼らから借入するたもに)そうした行為を許した」
4.「このようなことは、かつてメディチ家・ペルッツィ家も行っていた。中世との違いは、取引量が大きくなったというだけだった」
B.あらゆるマーチャント・バンカーはコルレス先を保持していたから、遠隔地間取引における場所と貨幣の違いは、何らの障害にならなかった。それどころかこの違いを利用して、完全に合法である為替取引に貸付を紛れ込ませることに相変わらず成功しており「前貸金を違う場所で返済することを見越した契約である」という本質は何ら変わっていない
C.徴利にまつわる「不名誉,恥,汚名」は全て、庶民に少額を貸し付けて金利を徴収する高利貸しに向けられていた。為替取引に従事し、王侯・君主に多大な信用を供与する銀行業者にはそのような非難は無意味だった
○16世紀貨幣市場の転換
(1)貨幣市場の拡大と貿易の伸張
A.公信用は新たな盛り上がりを示し、取引領域を拡大した。イングランドでは足場を固め、まだ国家破産に至っていなかったポルトガル・カスティーリャ・アンダルシア・ドイツでも揺るぎない地位を占めていた(16世紀)
B.国際的な貨幣取引においてはカスティーリャやフランクフルト大市は大きな役割を果たしたが、その上アントウェルペンでは驚異的な発展があった(この町はカール5世治世下で、数年のうちに西欧の中心的銀行都市となった
C.この時点での為替手形の流通はローマ教会の範囲を超えては流通していなかった。モスクワ・イスラム諸国・新大陸には為替都市はまだ存在していなかった
【新興の取引参加者】
D.中世での為替取引はほとんどイタリアの大商会が独占していたが、それを打ち破ったのはライバルとして登場したアウクスブルクの強力な金融業者(例:フッガー家)だった(16世紀)しかしイタリア商人も依然として活力を示していた
〈その他の業者の例〉
スペインの銀行家(例:シモン・ルイス,ホアン・ロペス・ガーロ)、フランドルのエラスムス・シェッツ、イングランドのトーマス・グレシャム卿など
【依然強力なイタリアの業者】
E.ジェノヴァのベネディット・スピノーラは、エリザベス女王治世下のロンドンで取引所の中心的銀行家の1人であり続け、イングランド政府から財政顧問として頼りにされていた。ウィリアム・セシル(国務卿)は超極秘事項(例:貨幣改革,ポンド・スターリングの通用価値変更)についても、スピノーラの意見を求めるほどだった
F.アントウェルペン取引所でも、イタリアの銀行商会(複数)は大きな権威と豊富な資金量を有していた。彼らは公債に応募するシンジケートを組織し、市場を独占しようとしてカルテルを結成していた。また、長年「アッファイターディ家は胡椒の取引,グリマルディ家は明礬の取引」をそれぞれ支配していた
☆明礬の国際的カルテルは、被害を受けた買い手サイドの抗議を受けたブリュッセルの裁判所から起訴されている(1536年)。グリマルディのアントウェルペン代理人は、政府と「価格と市場への供給量を規制する契約」を結んでいる(1554年)
☆アントウェルペン取引所は、ガスパール・ドゥッチらが仕組んだ投機売買により“最悪の”賭博場という忌まわしい評判がつきまとった
G.リヨンでも主要な銀行家はフィレンツェ人(例:アルビッツィ商会,サルヴィアーツィ商会,ストロッツィ商会,ナッシ商会など)。カスティーリャやブザンソンの大市では、ジェノヴァ人が大きな役割を担っていた
☆ブザンソン大市はカール5世によって設立された(1534年)。ジェノヴァ元老院の政令によって、まずはピアツェンツァに(1579年)、次にはジェノヴァに近いノーヴィに移された(1624年)が、引き続いてブザンソン大市という名で呼ばれていた
H.ジェノヴァの銀行は共同してカール5世に貸し付けており、その影響力はスペイン帝国内を拡大していく。やがて2度の国家破産(1557年,1575年)によりフッガー家が衰退すると、ジェノヴァ人銀行家の勢力はヨーロッパ第一となる(17世紀初)。しかしスペインの衰退(17世紀)は、ジェノヴァ人銀行家に再起不能な打撃を与え、やがて新大陸からの貴金属はジェノヴァではなく(新興の金融中枢)アムステルダムへと送られるようになる(ルイ14世・15世の時代)
☆スペイン・ポルトガルとの交易で獲得した貴金属は、ダラー貨の形でアムステルダムから「バルト海地域,レヴァント地方,モルッカ諸島」に向けて再輸出された
【資金移動が政治と経済を左右する】
I.この時代(16世紀)の際立った特徴は「a.対国家貸付の意義が増大したこと」「b.新大陸から貴金属が流入したこと」だった。この2つによってスペインは「c.イタリアを牛耳り、フランスに干渉し、ネーデルラントで80年間も戦争を遂行できた」のだった
J.これによって「明らかに商品取引に基づかない国際的な資金移動」が発生し、貨幣市場は大きな大きな影響を受けた。スペイン国王による「フランドルとイタリア駐留軍への兵士・糧食を補給するための、巨額の遠隔地間資金移動」(スペイン政府勘定により規則的に送金が行われていた)は、国際的な資金バランスを決定する主動力となっていた。これは、為替手形の逆の流れ(=ヨーロッパ諸国からスペインへの資金流入)が無かったので、スペインは国際収支の赤字基調を新大陸から入手した貴金属を放出することど賄っていた
★ヨーロッパ諸国家への資金再分配(新大陸→スペイン→ヨーロッパ諸国家)は、かなりの部分を戦争と政治による資金振替によって決まっていた
(2)16世紀の経済知見
A.中世後期から急速な発達を遂げていた印刷技術は、商業・製造業だけでなく「芸術,科学,文学,宗教思想」にとって、思想の宣伝・技術の伝播に大いに貢献した。やがて経済に関係する論説(商業通信,簿記,経済地理,銀行業,為替を対象とする)も出版されるようになった
B.中世後期から近世に入っても「徴利禁止の教義」に関する問題はホットな論題であり続けた。フィレンツェやシエナの3人の聖職者が発表した論説(15世紀)は、いずれも銀行業の中心地で暮らしていたこともあって、商業の実態をよく理解していた。彼らは「詐欺と欺瞞のない真正の手形は合法である」と認めたが「為替手形に偽装された貸付は徴利である」と非難し、これが神学者や大学にも受け入れられた
C.教皇庁の立場も不変であり、ピオ5世の教皇令(新暦の1571年2月1日発布)では、金利の支払いを含むあらゆる為替手形を禁止した。違反者には「カトリックの法規集に規定された徴利への厳しい罰則」が課せられることになっていた。さらには人為的な貨幣市場の逼迫を引き起こす者には破門で臨む、とした(=市場の自由な働きで相場が決まることを重視していた)
【出版物の急増とその特徴】
D.印刷技術の発明により、中世の商人必携の公刊が始まった。さらには為替や銀行業務に関する書物が新たに普及した
〈例〉フランシスコ会修道士のルカ・パチョーリが書いた『算術・幾何・比および比例総覧』(1494年)から始まる。続いてトーマス・デ・ヴィノによる「公営質屋(1498年),為替(1499年),徴収(1500年)」に関する小冊子がそれぞれ出版された
E.商業や為替に関する書物には、大きく分けて2タイプあった:
「商人・一般大衆の教育のために日常的な言葉で書かれたもの」(総じて簡潔・明瞭な中身であり、往々にして職業と教育目的が上手くかみ合っている)
「修道会・大学・裁判所に属する人々に向けて、神学者・法律家によってラテン語で書かれたもの」(ほとんどは曖昧&饒舌&退屈極まりない考証学のような知見を並べたもの)
F.これらの中には優れた考察を記しているものが少なくない:
〈例1〉為替実務を鮮やかに描写し、図表を用いて考察を加えたベルナルド・ダヴァンツァーチ(1529‐1606)
〈例2〉“ナヴァロの博士衆”として知られていたスペイン人たちの論説では「貨幣量増大によって起こるインフレ」を原因として、各国貨幣に購買力の違いが生じることについて正確に見通していた
〈例3〉ネーデルラントの3人の著者は「ユーザンスや為替の建て方,裁定取引の方法」について情報を伝えている(これはそれぞれの著者により、イタリア語・オランダ語・英語で書かれた)
(3)中世からの継続
A.この時期には金融取引は規模がはるかに増大していたにもかかわらず、貨幣市場の構造や実際の取引には未だに根本的な変化は生じていない(16世紀):
1.「銀行業務・為替取引はマーチャント・バンカーらに握られていて、彼らはヨーロッパ中に張り巡らした支店&コルレスのネットワークにより、業界を支配していた」
2.「彼らは非常に大きな資本を自由に動かせたから、それを商品取引に投じるよりも、他の商人や王侯・君主らに貸し付けることを好んだ」
3.「若干の者は統治者と結託し、1つor複数の産物の取引を独占した(or頻繁にカルテルを結んだ)。マーチャント・バンカーたちは取引所を自由に操作する力を持っていたので、統治者は(彼らから借入するたもに)そうした行為を許した」
4.「このようなことは、かつてメディチ家・ペルッツィ家も行っていた。中世との違いは、取引量が大きくなったというだけだった」
B.あらゆるマーチャント・バンカーはコルレス先を保持していたから、遠隔地間取引における場所と貨幣の違いは、何らの障害にならなかった。それどころかこの違いを利用して、完全に合法である為替取引に貸付を紛れ込ませることに相変わらず成功しており「前貸金を違う場所で返済することを見越した契約である」という本質は何ら変わっていない
C.徴利にまつわる「不名誉,恥,汚名」は全て、庶民に少額を貸し付けて金利を徴収する高利貸しに向けられていた。為替取引に従事し、王侯・君主に多大な信用を供与する銀行業者にはそのような非難は無意味だった