『為替手形発達史』R・ローヴァーから[5]


○16世紀貨幣市場の転換


(1)貨幣市場の拡大と貿易の伸張

 A.公信用は新たな盛り上がりを示し、取引領域を拡大した。イングランドでは足場を固め、まだ国家破産に至っていなかったポルトガル・カスティーリャ・アンダルシア・ドイツでも揺るぎない地位を占めていた(16世紀)
 B.国際的な貨幣取引においてはカスティーリャやフランクフルト大市は大きな役割を果たしたが、その上アントウェルペンでは驚異的な発展があった(この町はカール5世治世下で、数年のうちに西欧の中心的銀行都市となった
 C.この時点での為替手形の流通はローマ教会の範囲を超えては流通していなかった。モスクワ・イスラム諸国・新大陸には為替都市はまだ存在していなかった

【新興の取引参加者】
 D.中世での為替取引はほとんどイタリアの大商会が独占していたが、それを打ち破ったのはライバルとして登場したアウクスブルクの強力な金融業者(例:フッガー家)だった(16世紀)しかしイタリア商人も依然として活力を示していた
〈その他の業者の例〉
 スペインの銀行家(例:シモン・ルイス,ホアン・ロペス・ガーロ)、フランドルのエラスムス・シェッツ、イングランドのトーマス・グレシャム卿など

【依然強力なイタリアの業者】
 E.ジェノヴァのベネディット・スピノーラは、エリザベス女王治世下のロンドンで取引所の中心的銀行家の1人であり続け、イングランド政府から財政顧問として頼りにされていた。ウィリアム・セシル(国務卿)は超極秘事項(例:貨幣改革,ポンド・スターリングの通用価値変更)についても、スピノーラの意見を求めるほどだった
 F.アントウェルペン取引所でも、イタリアの銀行商会(複数)は大きな権威と豊富な資金量を有していた。彼らは公債に応募するシンジケートを組織し、市場を独占しようとしてカルテルを結成していた。また、長年「アッファイターディ家は胡椒の取引,グリマルディ家は明礬の取引」をそれぞれ支配していた
 ☆明礬の国際的カルテルは、被害を受けた買い手サイドの抗議を受けたブリュッセルの裁判所から起訴されている(1536年)。グリマルディのアントウェルペン代理人は、政府と「価格と市場への供給量を規制する契約」を結んでいる(1554年)
 ☆アントウェルペン取引所は、ガスパール・ドゥッチらが仕組んだ投機売買により“最悪の”賭博場という忌まわしい評判がつきまとった
 G.リヨンでも主要な銀行家はフィレンツェ人(例:アルビッツィ商会,サルヴィアーツィ商会,ストロッツィ商会,ナッシ商会など)。カスティーリャやブザンソンの大市では、ジェノヴァ人が大きな役割を担っていた
 ☆ブザンソン大市はカール5世によって設立された(1534年)。ジェノヴァ元老院の政令によって、まずはピアツェンツァに(1579年)、次にはジェノヴァに近いノーヴィに移された(1624年)が、引き続いてブザンソン大市という名で呼ばれていた
 H.ジェノヴァの銀行は共同してカール5世に貸し付けており、その影響力はスペイン帝国内を拡大していく。やがて2度の国家破産(1557年,1575年)によりフッガー家が衰退すると、ジェノヴァ人銀行家の勢力はヨーロッパ第一となる(17世紀初)。しかしスペインの衰退(17世紀)は、ジェノヴァ人銀行家に再起不能な打撃を与え、やがて新大陸からの貴金属はジェノヴァではなく(新興の金融中枢)アムステルダムへと送られるようになる(ルイ14世・15世の時代)
 ☆スペイン・ポルトガルとの交易で獲得した貴金属は、ダラー貨の形でアムステルダムから「バルト海地域,レヴァント地方,モルッカ諸島」に向けて再輸出された

【資金移動が政治と経済を左右する】
 I.この時代(16世紀)の際立った特徴は「a.対国家貸付の意義が増大したこと」「b.新大陸から貴金属が流入したこと」だった。この2つによってスペインは「c.イタリアを牛耳り、フランスに干渉し、ネーデルラントで80年間も戦争を遂行できた」のだった
 J.これによって「明らかに商品取引に基づかない国際的な資金移動」が発生し、貨幣市場は大きな大きな影響を受けた。スペイン国王による「フランドルとイタリア駐留軍への兵士・糧食を補給するための、巨額の遠隔地間資金移動」(スペイン政府勘定により規則的に送金が行われていた)は、国際的な資金バランスを決定する主動力となっていた。これは、為替手形の逆の流れ(=ヨーロッパ諸国からスペインへの資金流入)が無かったので、スペインは国際収支の赤字基調を新大陸から入手した貴金属を放出することど賄っていた
 ★ヨーロッパ諸国家への資金再分配(新大陸→スペイン→ヨーロッパ諸国家)は、かなりの部分を戦争と政治による資金振替によって決まっていた


(2)16世紀の経済知見

 A.中世後期から急速な発達を遂げていた印刷技術は、商業・製造業だけでなく「芸術,科学,文学,宗教思想」にとって、思想の宣伝・技術の伝播に大いに貢献した。やがて経済に関係する論説(商業通信,簿記,経済地理,銀行業,為替を対象とする)も出版されるようになった
 B.中世後期から近世に入っても「徴利禁止の教義」に関する問題はホットな論題であり続けた。フィレンツェやシエナの3人の聖職者が発表した論説(15世紀)は、いずれも銀行業の中心地で暮らしていたこともあって、商業の実態をよく理解していた。彼らは「詐欺と欺瞞のない真正の手形は合法である」と認めたが「為替手形に偽装された貸付は徴利である」と非難し、これが神学者や大学にも受け入れられた
 C.教皇庁の立場も不変であり、ピオ5世の教皇令(新暦の1571年2月1日発布)では、金利の支払いを含むあらゆる為替手形を禁止した。違反者には「カトリックの法規集に規定された徴利への厳しい罰則」が課せられることになっていた。さらには人為的な貨幣市場の逼迫を引き起こす者には破門で臨む、とした(=市場の自由な働きで相場が決まることを重視していた)

【出版物の急増とその特徴】
 D.印刷技術の発明により、中世の商人必携の公刊が始まった。さらには為替や銀行業務に関する書物が新たに普及した
〈例〉フランシスコ会修道士のルカ・パチョーリが書いた『算術・幾何・比および比例総覧』(1494年)から始まる。続いてトーマス・デ・ヴィノによる「公営質屋(1498年),為替(1499年),徴収(1500年)」に関する小冊子がそれぞれ出版された
 E.商業や為替に関する書物には、大きく分けて2タイプあった:
「商人・一般大衆の教育のために日常的な言葉で書かれたもの」(総じて簡潔・明瞭な中身であり、往々にして職業と教育目的が上手くかみ合っている)
「修道会・大学・裁判所に属する人々に向けて、神学者・法律家によってラテン語で書かれたもの」(ほとんどは曖昧&饒舌&退屈極まりない考証学のような知見を並べたもの)
 F.これらの中には優れた考察を記しているものが少なくない:
〈例1〉為替実務を鮮やかに描写し、図表を用いて考察を加えたベルナルド・ダヴァンツァーチ(1529‐1606)
〈例2〉“ナヴァロの博士衆”として知られていたスペイン人たちの論説では「貨幣量増大によって起こるインフレ」を原因として、各国貨幣に購買力の違いが生じることについて正確に見通していた
〈例3〉ネーデルラントの3人の著者は「ユーザンスや為替の建て方,裁定取引の方法」について情報を伝えている(これはそれぞれの著者により、イタリア語・オランダ語・英語で書かれた)


(3)中世からの継続

 A.この時期には金融取引は規模がはるかに増大していたにもかかわらず、貨幣市場の構造や実際の取引には未だに根本的な変化は生じていない(16世紀):
1.「銀行業務・為替取引はマーチャント・バンカーらに握られていて、彼らはヨーロッパ中に張り巡らした支店&コルレスのネットワークにより、業界を支配していた」
2.「彼らは非常に大きな資本を自由に動かせたから、それを商品取引に投じるよりも、他の商人や王侯・君主らに貸し付けることを好んだ」
3.「若干の者は統治者と結託し、1つor複数の産物の取引を独占した(or頻繁にカルテルを結んだ)。マーチャント・バンカーたちは取引所を自由に操作する力を持っていたので、統治者は(彼らから借入するたもに)そうした行為を許した」
4.「このようなことは、かつてメディチ家・ペルッツィ家も行っていた。中世との違いは、取引量が大きくなったというだけだった」
 B.あらゆるマーチャント・バンカーはコルレス先を保持していたから、遠隔地間取引における場所と貨幣の違いは、何らの障害にならなかった。それどころかこの違いを利用して、完全に合法である為替取引に貸付を紛れ込ませることに相変わらず成功しており「前貸金を違う場所で返済することを見越した契約である」という本質は何ら変わっていない
 C.徴利にまつわる「不名誉,恥,汚名」は全て、庶民に少額を貸し付けて金利を徴収する高利貸しに向けられていた。為替取引に従事し、王侯・君主に多大な信用を供与する銀行業者にはそのような非難は無意味だった
『為替手形発達史』R・ローヴァーから[4]


(5)為替相場と利子について

【神学者たちの認識の限界】
 A.神学者たちは為替の価格について「『自由競争で決まったもの』or『大市の当局が決定したもの』だけが“公正な価格”である」と考えていた。そして市場価格と異なる価格での手形売買を非合法とみなしていた
 B.さらに彼らは、為替業者(=銀行業者など)の「為替相場を操作し、貨幣市場に人為的逼迫を引き起こすあらゆる共謀」を、独占であるとして厳しく糾弾していた
〈例〉トーマス・グレシャムですら、ポンド・スターリング貨の相場下落を意図する大きな陰謀(スペインのカトリック教徒が企て、アントウェルペンのマーチャント・バンカーたちが共謀している)の存在を信じていたようだ
 C.実は中世では、貨幣市場は季節的性格を持ったリズミカルな変動を示しており、さらには循環的な変動もしていた。神学者たちはこれを観察し、為替相場は「貨幣の多寡によって(=貨幣市場の逼迫or緩和によって)」変動すると考えた。しかし彼らは、そうした変動を律する要因を突き詰めることはできなかった
→為替手形の価格は「‘2地点間の距離’などの要因によって決まる」&「利子率は要因に含まれない」と結論づけ、為替契約の中に「為替取引だけでなく、信用の供与も含まれている」ことを見落とした

【貨幣市場の変動例(ヴェネツィア)】
〈2月半ば~4月末〉
 一般に潤沢だった
〈6月〉
 ガレー船が現金を持って7月にコンスタンティノープルに出港するために逼迫する
〈9月初〉
 アレキサンドリアのガレー船が帰港することで、逼迫は解消される
〈9~11月〉
 この期間は海が荒れるので、通常は為替相場は落ち着く
〈11月~〉
 コンスタンティノープルからガレー船が帰港するこの時期に、取引が再開される。ヴェネツィアに香辛料を買いにやってくるドイツ人が現金を持参するので、為替への影響はニュートラルとなる(※?)
〈12月15日~1月15日〉
 綿花の購入のためにかなりの正貨を持ち出すガレー船の出港により、貨幣は逼迫するのが通常だった

【為替の基準】
 D.中世では2都市間で為替が建てられる際、どちらかの都市がもう一方に対して為替の基準となる。現在のドルが他通貨の基準となっているように、イタリア-ブリュッヘ間の為替(15世紀)はイタリア側が基準となり「1フローリン(or1ドゥカート)あたり、フランドル貨何グロート」というように建てられていた。後にはリヨン大市が、ライバルのブザンソン大市を除いて全ての都市に対して為替の基準となった(16世紀)
 E.2都市で同じ貨幣が使われている時には、為替相場は「両都市の平価に対するプレミアム(orディスカウント)」によって表示された

【為替の決定について】
(ブリュッヘ-ヴェネツィア間の相場を1ドゥカート=50グロート〔15世紀半ばのだいたいの水準〕とし、利子率を考察対象から外して考える)
 F.手数料・手形の発送費用を考慮しないならば、両都市間で出された支払い指図がその日に届けば、為替は(現在と同様に)上記の水準となる。しかし中世ではそれは有り得ないから、基本的には為替相場は「ユーザンス払いのレート」が適用される
 ★ユーザンスは距離に応じて異なる。「ブリュッヘ-パリ間:1ヶ月」「ブリュッヘ-イタリア間:2ヶ月」「ロンドン-イタリア間:3ヶ月」だった
 G.ヴェネツィアに居住する為替業者が2ヶ月後にブリュッヘで受け取る金額は、50グロートに加えてこの間の利子(1~2グロート)の上乗せを求めた
〈例〉ヴェネツィアの為替業者が、利子を上乗せした「1ドゥカート=51グロート」の相場で、ブリュッヘで支払われる「額面100ドゥカート」の為替手形を買った。この場合ブリュッヘでフランドル貨5,100グロート=21リブラ5スー(のグロート貨)を入手する

【為替契約による損益】
 H.信用供与による利子の取得だけでなく、為替につきものの変動リスクが潜在していた。為替手形を買った資金提供者は、為替による変動リスクが(得られる利子を上回るほどの)大きな損失をもたらす場合もあった
[※利子以外の変動リスクは、次の(6)で取り扱う]
 I.(上記例の続き)ヴェネツィアの為替業者は、その資金をヴェネツィアに戻してフランドルのグロート貨建ての貨幣をヴェネツィアのドゥカート貨に転換するまでは、この取引による損益が幾らになるのかは確定できなかった。そのための方法は「1.正貨による送金」「2.商品を購入・発送する」「3.ヴェネツィアでフランドルのグロート貨を買う(orブリュッヘ宛てに為替手形を振り出す)」「4.ブリュッヘでヴェネツィア宛ての為替手形を買わせて送金させる(戻し為替)」
 J.この中で4.の方法が3.よりも利益が多く、2.よりもリスクが少なかった。正貨や地金での送金は極めて例外的な状況でしか使われない
 K.戻し為替によって資金回収が行われるならば、上記例では「1ドゥカート=50グロート」では取引しない(それでは2ヶ月後に1ドゥカートしか受け取れないから)。そこで利子分を差し引いた相場である「1ドゥカート=49グロート」を用いる。これによってフランドルで得た21リブラ5スーは、さらに2ヶ月後に104ドゥカート2グロッソ・ド・イン・オーロとなって、ヴェネツィアの為替業者の手に戻ってくる
 L.こうして彼は、100ドゥカートにつき約4ドゥカートの利益を得たことになる。貨幣市場が均衡している場合には、為替相場は「相場の基準となる都市(ヴェネツィア)」の方が、常に「基準でない都市(ブリュッヘ)」よりも高くなる
[※この為替業者は、割高なドゥカートをヴェネツィアで売りつけ(=為替手形の購入)、割安なドゥカートをブリュッヘで買う(=為替手形の売却)ことによって、必ずその差額を得られた]
 M.ここで利子率を考慮に入れる。利子率が上がると、基準となる都市での為替相場は必ず上がり、そうでない都市の為替相場は下がるので、両相場の開きが大きくなる(信用を供与する為替業者の利幅は大きくなる)。利子率が小さくなると反対のことが起こり、2つの相場の開きは狭まる(信用供与による利益は小さくなる)
 N.支払い期日の長短に応じても、この相場の開きは広がったり狭まったりする。ダブル・ユーザンス手形(支払い期日が通常のユーザンスの2倍)の相場の開きは、ユーザンス手形よりも大きくなり、半ユーザンス手形の場合は逆となる


(6)為替相場変動の他の要因

 A.もし為替相場が利子率だけで決まるのならば、資金提供者は必ず利益を得られる。しかし実際には他の強力な要因によっても相場は変動し、資金提供者は損失を被ることも起こり得た。ところがこの不確実性により、為替契約は「純粋な貸付ではなく冒険的な契約であり、教会が禁じる徴利には当たらない」と主張しえたのだった
 B.しかし、為替業者もリスクをできる限りコントロールしようと試みた。彼らは「裁定取引の専門家である」上に「コルレス先は常に、ヨーロッパ世界のあらゆる為替都市の貨幣市場の動向を把握していた」のだ。これにより、為替業者(=資金提供者)は「為替の均衡が大きく崩れた」ケースでしか損失を被らなかった(それはめったに無かった)
〈例〉大マーチャント・バンカーの収益は、手形割引からではなく為替の売買から得ていた。彼らの元帳には「利子,手形割引」に関係する勘定項目は見られない

【為替相場の変動要因】
1.貨幣の通用価値の変更によるもの
2.各都市間の国際収支の状況
3.投機
4.為替を管理して市場の自由を奪おうとする公権力の(しばしば機宜を失した)介入

【貨幣価値の変更について】
 C.相場はだいたい安定しているのだが、そこに突然の貨幣価値(本位)の変更がもたらされると、為替市場に暴力的なリアクションを引き起こした。このため、フランドルでの貨幣の貶質は「ブリュッヘでもイタリアでも、フローリンやドゥカートの相場を高騰させた」「ブリュッヘやバルセロナでも22グロートのエキュの相場を低下させた」
 D.逆にフランドルでの貨幣価値の引き上げは、反対のリアクションを引き起こす
〈例〉30%価値の高い新しい貨幣の採用〔1390年〕により、バルセロナの為替相場は、旧エキュ貨幣=6スー6デナリ→新エキュ貨幣=9スー6デナリへ上昇した
 E.マーチャント・バンカーらはこの突発的要因を熟知しており、貨幣価値が変更されると、すぐに外地のコルレス先に特別の飛脚を出した。とは言っても、大きな銀行商会ともなれば政府内に「当局の意向をすぐに知らせてくれる者」を配置していたから、変更の不意打ちを食らうことはめったに無かった(むしろそうした情報を利用して為替投機を行い、情報に疎い連中を餌にして大儲けした)
〈例〉メディチ銀行ブリュッヘ支店の総支配人でパートナーだったトマーゾ・ポルティナーリは、ブルゴーニュ公の顧問だった

【16世紀英貨ポンドの場合】
〈1538~44年〉
 アントウェルペン取引所におけるポンド相場は「1ポンド=28スー11デナリ(高値),25スー3デナリ(安値)」の幅で推移していた
〈ヘンリー8世の大悪鋳〉
 これにより、ポンド相場は「1ポンド=13スー4デナリ(のグロート貨)」まで下落した
〈エリザベス1世の貨幣改革(1560年)〉
 これによってアントウェルペン取引所で「1ポンド=22スー6デナリ(のグロート貨)」まで上昇した
〈1571年〉
 「1ポンド=24スー1+1/2デナリ(のグロート貨)」になる
〈1576年~〉
 ネーデルラントの混乱により、グロートの相場は一貫して下落し、それにつれてポンド相場は上昇に向かった

【変動の制限幅:正貨現送点】
 F.為替相場の変動は「正貨現送点」によって制限されていた。為替手形を使っての資金移転が、正貨現送(鋳貨や地金の現物を送ること)よりも有利である範囲内で、相場は変動していた。中世は輸送コストの問題や、正貨の輸出そのものが政府により禁止されていた(したがって全て密輸)ので、正貨現送点の幅はかなり大きかった
 G.神学者たちは「正貨現送のリスクを取り除く」「国際商業を促進する」というメリットを強調し、為替取引を正当化していた。しかし彼らは正貨現送点の原理をほとんど理解していなかったようだ
 H.マーチャント・バンカーたちはきちんと理解しこの点を利用していた。しかし、正貨現送点を実際に利用した事例は極めて少ないという
〈例〉アントウェルペンでヴェネツィア・ドゥカート貨の相場が下落した(1543年秋)。同地のコミッション・マーチャントだったファン・デル・モレン商会は、マントヴァの顧客宛の書簡(1543年10月13日付け)で「ヴェネツィアでアントウェルペン宛為替手形を買うよりも、正貨を現送する方が有利である」と書き送った。この助言に従って、マントヴァの顧客は金貨で223エキュの小包を郵送した


(7)為替相場と国際収支

【為替調査委員会報告(1564年)から】
 A.この報告は、ポンド相場とイングランドの国際収支との関係を分析したものだった:
1.「ポンド相場がアントウェルペンよりもロンドンの方がほとんど高いのは、為替相場に利子が隠されているからだった」
2.「アントウェルペンやベルヘン・オプ・ゾームの大市でのイングランド産毛織物の売れ行きが好調だと、イングランド商人がロンドンに振り替える手形をアントウェルペン取引所で入手する」
3.「ロンドンで資金を受け取る手形の需要が増えると、アントウェルペン取引所でポンド相場は上昇し、次いでロンドンにも波及する」
4.「逆に、イングランド側に「大陸宛に返済しなければならない債務がある」時には、フランドル貨に対する需要が通常より多くなり、ポンド相場は下落する。その変動はアントウェルペンにも波及する」

【大陸の場合】
 B.イングランドにとってアントウェルペンは、大陸における主要な取引口(それ以前にはブリュッヘが同じ役割を果たしていた)であり、上記のように取引関係は単純であった。しかし大陸の場合には、主要市場は全て連なっているので、事態は複雑となる
 C.ブリュッヘに香辛料が到着すると、ヴェネツィア・ドゥカート貨は上昇する(※対価として支払うために需要されるのだろうか?)が、この上昇はその他の為替相場にも影響する。なぜならドゥカートは、ブリュッヘで建てられるあらゆる他の為替相場と無縁では有り得ないからだった
 D.マーチャント・バンカーたちは、相場変動を好機ととらえ「相場の裁定取引から儲けよう」と虎視眈々と狙っていた。こうして、均衡水準からのあらゆる乖離は彼らの裁定取引によって修正されるので、彼らの存在が為替相場の均衡維持に役立っていた


(8)為替相場と為替投機

 A.上記イングランドの報告は、ポンド相場の下落に悩むイングランド王国が作成させたものだった。彼らはポンド相場の変動を陰謀論的に解釈し、共謀して投機を仕掛けている(と彼らは込んでいた)マーチャント・バンカーを忌避していた
 B.しかし実際には、相場師ガスパール・ドゥッチが仕掛けたような「市場を混乱させるような投機」は例外であり、投機家たちにしても市場の基本的な傾向(※現代風に言えばファンダメンタルズ)の前には無力だった。為替業者は、ファンダメンタルズを基に相場騰落の予想に努力していた
〈例1〉メディチ商会のヴェネツィア支店(16世紀)は、フランドル貨の下落に向けた投機を行い、ドゥカートの高騰によって発生する損失を避けようとした。彼らは「ヴェネツィアでフランドルのグロート貨を売る」「その後にブリュッヘの取引所で、その日の相場でグロート貨を買い戻す」取引を行った
〈例2〉イングランド・ネーデルラント間の商業取引が、一連の報復キャンペーンによって何度か停止した(1564年)。しかし取引再開が知らされただけでポンド相場は急騰した(12月29日)
〈例3〉女王メアリーに対するトマス・ワイアット卿の反乱の知らせがアントウェルペン取引所に伝わると、ポンド相場は大暴落した(同年1月)。しかし、反乱の失敗・首謀者の逮捕が伝わると、相場はすぐに回復した


(9)中世貨幣市場の一般的特徴

【為替利子説】
 A.「為替相場の基準通貨を持つ都市の為替相場」と「それを基準に建てる相方都市での為替相場」(例:ヴェネツィアとブリュッヘのドゥカート相場,ロンドンとアントウェルペンのポンド相場)との開きは、利子率によって決まっていた
 B.為替相場が均衡水準のままであれば、資金の貸し手は利子率分の利益を必ず得られる。しかし為替相場は常に変動しており、貸し手には相場変動による損益が加わったから、貸し手はトータルで必ず儲かるわけではない。この「為替利子説」は、利子が為替相場に隠されていた時代(1200~1789年)の全てに妥当する

【簡単な例】
 フランドル貨でのドゥカート相場:
〈ある時点〉
 ヴェネツィア:51グロート
 ブリュッヘ:49グロート
〈2ヶ月後〉
 ヴェネツィア:54グロート
 ブリュッヘ:52グロート
[貨幣取引の場は、ヴェネツィアではリアルト橋(銀行家たちが店を出している場所)、ブリュッヘではブルス広場(こちらも同じく銀行家が集まっている場所)だった]
1.「2ヶ月後には、どちらも3グロートずつドゥカートは高くなった(フランドル貨は下落した)が、ドゥカート相場同士の開き(=2グロート)には変わりがない」
2.「ブリュッヘに住む銀行家は、最初にヴェネツィア宛手形を49グロートで買い、2ヶ月後にヴェネツィアで1ドゥカートを受け取ってからそれで54グロートの戻し手形を手に入れて資金を回収するので、差し引き5グロートの儲けになる」
3.「このうち利子率の分は2グロートの利益(相場変動がなければ、51グロートの価格でドゥカートを手放したはずだから)であり、残りの3グロートが為替変動による利益だった」
4.「反対にヴェネツィアの銀行家は、最初にブリュッヘ宛手形を1ドゥカートで買い、2ヶ月後にブリュッヘで51グロートを受け取ってからそれで1ドゥカート(=52グロート)の戻し手形を手に入れて資金を回収するので、差し引き1グロートの損失」
5.「このうち利子率の分は2グロートの利益(相場変動がなければ、49グロートの価格でドゥカートを買い戻したはずだから)であるが、為替変動による3グロートの損失が差し引かれた」

【為替取引と貸付の結びつき】
 C.マーチャント・バンカーの元帳によれば、為替手形の額面金額がほとんどの場合「100,200,300,500ドゥカート(orエキュorフローリン)」といったきれの良い数字だった。つまり、商取引の実際額に合わせてではなく、貸付のために振り出されたことが示されている
 D.中世の国際商業は「外国のコルレス先or代理人の仲介によって行われる委託売買」で、為替取引と同様に極めて投機的だった。商品は売買契約成立後に輸送されるのではなく「外地の代理人が有利な販売価格での売却に務める」ものであり、当然ながら上手く行かないことも度々あった
 E.本国にいる輸出商は流動資金が必要になると、委託商品の売却を見越して、為替手形を振り出していた(上記のバルベリのように)。このため、マーチャント・バンカーの元帳に記載された数字がきれの良い数字になった
 F.したがって、為替手形の動向は必ずしも商取引の動きとは一致しない
〈例〉アンドレア・バルバリゴは「ダマスクスで綿花,スペインで羊毛」を買い付けるための資金調達に、ロンドン宛やブリュッヘ宛の手形を振り出していた

【資金の運用と需要】
 G.既に中世において銀行家は(純粋に投機目的からか?)、他地に持つ彼の債権を増減させるために、銀行家宛に手形を振り出して為替取引を行っていた(これは日常的に行われていた)。さらに、為替契約に関わる当事者の全てが銀行家であるケースも見られた
 ★つまり銀行家たちは、ただ商業の必要にのみ合わせている(=受動的)のではなく、能動的に自ら、彼らの資金に利益を結ばせようとしていた
 H.為替手形を売却する人は、今いる場所で資金を入手するためであり、外地のクレジットを自由にするためではなかった。(度々)手形は、振宛人の手元にその手形額面を支払う資金が無くても、振り出されていた。その際に手形支払人(=振宛人)は、最初の手形振出人(=資金需要者)によって支払われる戻し手形を売却することによって、決済に必要な資金を入手して手形を決済していた
〈例〉アンドレア・バルバリゴは、為替と戻し為替の手段によって手形をヴェネツィア-ロンドン間で行き来させ、流動資金をうまく増大させていた
 ★これは為替契約の合法性の本質的条件=「場所の違い」を遵守するために、わざわざ面倒くさいことをやっていた

【特殊な手法】
 I.3都市が介在する三角為替取引の事例も、会計帳簿の中には多数見られる。この場合には3枚の為替手形が必要となる
〈例〉1枚目は「ブリュッヘ→バルセロナへ資金送付」,2枚目は「バルセロナ→ジェノヴァへ資金振替」,3枚目は「資金回収のためにジェノヴァ→ブリュッヘへ振り出す」のだった
 J.さらに言えば、資金振替は常に直接行われていたのではなく、しばしば「中継地点を介して間接的にも行われていた」のだった。下記の例の背景にあったのは「ブリュッヘはバルセロナに対して収支は順調だったが、イタリアに対してはそうではなかった」という資金の流れの構造だった
〈例〉ブリュッヘに居住していたマーチャント・バンカーは、イタリア宛債務をバルセロナ宛債権で支払っていた(1400年頃)
 K.メディチ商会もしばしば、ヴェネツィアや他のイタリア都市宛に資金を「ジュネーヴ大市を経由して」送っていた(15世紀)。ドゥカートはブリュッヘにおいては供給不足のために高かったので、ジュネーヴ宛のエキュ・ドゥ・マルク建て為替を買い、ジュネーヴでドゥカートに交換した方が有利だった
『為替手形発達史』R・ローヴァーから[3]


○14~15世紀の為替手形と貨幣市場の発展


(1)為替手形
 [為替手形=「為替契約を確認・実行する」機能を持つ証書]

 A.為替契約とは「a.資金提供者から資金受領者にある金額が渡る」代わりに「b.一定期間の後(=信用の供与)に違う場所で、異なる通貨(為替取引)での返済を約束する書類を受け取る」契約だった。つまり「c.全ての為替契約は、為替取引と信用取引を伴っている」のだった
 B.為替手形やそれ以前の“為替を原因とする契約証書”は、振替手段であると共に信用供与手段でもあった。そして「資金振替,信用供与」はどちらも必要条件だった。また「為替と戻し為替の逆の資金移転」によって、いつでも最初の資金移転を取り消せた
 C.全ての為替契約は「ある場所での前貸,別の場所での資金の返済」を伴い、そして「為替契約の締結に2名,為替契約の遂行に2名」と計4名の者が関与した:
「資金供給者,資金受領者=手形振出人,為替手形に明記された金額の受取人,手形の金額の支払人」

【4名が揃っていないケース】
 D.しかし“為替を原因とする契約証書”(13世紀)では、シャンパーニュ大市で返済する旨をジェノヴァで約束して借り入れた商人の場合のように、手形金額の受取人=支払人ということもある。また、時には「旅人・学生・巡礼者のために発行された信用状」のように、資金の出し手が受取人となる場合もある
 E.為替取引において、手形金額受取人=支払人というケースは、商人が「a.外地において、支払うべき債務と受け取るべき債権を持っている」場合に発生した。この場合には商人は「自分の所在地にいる債務者宛に為替手形を振り出す(=手形金額を受け取る)ことで、同じく自分の所在地にいる自らの債権者に支払う」のだった
 F.もう1つ「b.手形振出人とその手形の受領者がともに、他の場所に同一人物をコルレス先(=代理)」としている場合にも発生した。この為替手形は、共通のコルレス先(=手形金額支払人&受取人)となっている者の帳簿上において、勘定振替により決済された

【場所の違い・通貨の違い】
 G.為替契約は場所・貨幣が異なることを前提にしていた。場所の違いは、神学者たちによって「為替契約の合法性に必要不可欠な条件」と見なされていた。銀行家たちは教会にあえて逆らうことはできなかったので、場所の違いを「一般に遵守する」or「遵守しているかのように装う(例:乾燥手形,虚偽為替)」のだった
〈例〉ブザンソンの大市は(ジェノヴァではなく)ピアチェンツァに移された(1579年)のだが、ジェノヴァの銀行家(当時ヨーロッパ第一の金融業者だった)はしばしばピアチェンツァ大市と行き来していた
 H.これに対して、貨幣の違いは「互いに取引する2つの場所で同じ貨幣が流通する場合」には例外が認められていた。パリ-モンペリエ間のように、市況に応じて「2つのフランにプレミアム(orディスカウント)付き」で為替が建てられていた


(2)為替取引の典型的な事例
 [ダチーニ文書から(1399年)]

【取引の当事者】
a.「イタリア商人バルベリ」:
 手形振出人(ブリュッヘ在住)で、フランドルの織物輸出商。定期的にカタロニアやバレアス諸島と取引していた
b.「リカルト・アルベルティ」:
 同じくブリュッヘ在住で、フィレンツェの有力なマーチャント・バンカー。バルベリに手形金額を渡すことの引き換えに為替手形を受け取っていた。為替手形の売買・教皇庁の資金の移送に関わっていた
 ★この会社は互いに競い合う幾つかの支店に分割されており(14世紀末頃)、この時点では少なくともブリュッヘに3社が存在していた
c.「F.マルコ・ダチーニ商会」:
 バルセロナ・ヴァレンシア・マジョルカ島パルマに商館を持ち、バルベリ(a.)の代理店として(=両者はコルレス関係にある)、彼から委託販売を受けていた。今回の手形には、バルセロナの商館が手形振宛人として登場し、手形呈示人(d.)に手形代金を支払った(委託商品の販売代金の前払いとして)
d.「ブルナチオ・ヒド商会」:
 バルセロナにおいて為替手形を送付され、手形代金の受取人となる。アルベルティ商会(b.)をコルレス先としていた

【為替取引の流れ】
 A.まずはバルベリが、代理人のダチーニ商会(c.)宛てに手形を振り出す(1399年12月18日)。これによって彼は、販売委託した商品が実際に売却されるのを待つことなく資金を回収していた(商品の売却代金を当てにしている)
 B.彼がアルベルティ商会(b.)から受領した金額は900エキュ。これを「1エキュにつき10スー6デニエ」の相場で換算したバルセロナ貨472リブラ10スーを、手形を受け取ったブルナチオ・ヒド商会(d.)に対してダチーニ商会が支払う
 C.手形はユーザンス払い(一覧後一定期間の後に支払われる)だった。ブリュッヘ-バルセロナ間のユーザンスは「一覧後30日」だったので、手形の支払期日は手形呈示日(1400年1月12日)の30日後(2月11日)である
 D.ただしこの支払いは正貨(本位貨幣)ではなく、銀行口座の預金振替で行われていた。支払期日(2月11日)にダチーニ商会は両替商ピエロ・ブルネットに対して「ブルナチオ・ヒド商会の勘定に472リブラ10スーを記入するよう」指図した

【ダチーニ商会の負ったリスク】
 E.委託された商品の販売代金が手に入る前に、呈示された手形の金額を支払うことはしばしばだった。これはバルベリが、販売代金をなるべく早く欲しがったためだが、しばしば「手形の金額>販売代金」となることがあった。その場合にはブリュッヘのバルベリ宛てに振り出した為替手形を換金して、立て替え金を回収した
 F.こうした無理がたたったのか、為替と戻し為替の損失が大きくなり、バルベリは結局破産に追い込まれた。ダチーニ商会のバルセロナ店も、これによって1年分の利益を失った


(3)帳簿への記入と注意点

 A.ダチーニ商会の会計係はこの手形取引において、手形を引き受けた時点(1400年1月12日)で、手形金額を「手形金額受取人(d.)勘定の貸方」に記入する。同じく手形金額を「手形振出人(a.)勘定の借方」に記入する
 B.一般に為替手形は手形金額支払人(c.の手形振宛人)が、手形振出人勘定(a.)の借方に「自発的に」記入した。この記入において、手形振出人が手形振宛人の帳簿に勘定を1つしか持っていなければ全く単純(バルベリの場合がそうだった)。しかしマーチャント・バンカーの場合は度々、外国のコルレス先に向けて次の2つの異なる勘定を開いていた
「当方勘定」:
 外貨建てと邦貨建てで記帳され、外貨建てが調整の役割を担っていた。邦貨建てとの為替金額の差額は、帳簿を付ける側(手形振宛人)の損益となった
「先方勘定」:
 常に邦貨建てで記帳され、為替での収益は対応するコルレス先(手形振出人)の損益となった
 C.商品委託販売の関係において、もし委託者(つまりバルベリ)が勘定を2つ開いていたならば、先方勘定に記入される為替手形の為替リスクは(受託者ではなく)委託者にかかってきた

【遡及して支払いを求める際の注意】
 D.手形振出人であるバルベリは“金額を受領済み”という文言を為替手形に記載していた。この文言は債務の承認を意味し、暗に手形振出人による「債務の返済約束」を含んでいた。もし手形振宛人の事情で手形金額の支払い約束が履行されない場合には、資金提供者は(この文言に基づいて)資金提供相手である手形振出人に遡及して支払いを求める権利を有した
 ★中世の為替手形は「資金振替の手段」&「信用供与の手段」であり、このため「支払指図書」&「債務の承諾書」であった
 E.中世においてこの遡及の権利は、資金提供者にのみ与えられていた。(彼の代理人たる)手形金額受取人には遡及権はなく、商慣習上は「手形振出人によって支払われる戻し手形」を振り出すことのみ認められていた


(4)為替相場

 A.中世の為替手形には、しばしば(受領した金額の傍に)為替相場が記入されていた。記入が無くても、必ずしも契約が損なわれたわけではない
 B.上記の例では(a.)は900エキュの為替手形を「1エキュ=バルセロナ貨10スー6デニエ」で(b.)売却している。このエキュは実際の取引には用いられない「計算貨幣」だった。そして1エキュ(=ブリュッヘの22グロート:1グロート=1スー)を基準として、ブリュッヘ-バルセロナ間の為替相場が建てられていた(上記のように、カタロニアのスーとデニエが変数だった)
 C.(a.)は為替手形の売却によって「900×22=19,800グロート」、すなわち計算貨幣で82リブラ10スーを手に入れた。そしてこれと引き換えに彼は、バルセロナでバルセロナ貨472リブラ10スーを返済することを約束した

【為替相場の形成】
 D.為替手形はブローカーを介して取引されていたので、為替相場は需給関係によって(為替取引の当事者の意思とは無関係に)決定していた。そして幾つかの都市で仲介手数料が設定されており、規則的に組織された為替市場が存在していた
 E.マーチャント・バンカーたちは、コルレス先に書き送る手紙の末尾に「為替相場を引用し書き記す」ことを習慣としていた(例:プラートのダチーニ商会の手紙,フィレンツェのメディチ家の手紙)。さらに、諸商会が送った商業通信にはしばしば「為替相場の騰落,貨幣市場の一般的な状況」に関するたいへん有益な情報が記載されていた
 F.為替相場が建つ主要な都市は「ボローニャ,ジェノヴァ,ミラノ,ナポリ,パレルモ,ピサ,ヴェネツィア,ローマ教皇庁」だった。ただしこの場合における教皇庁は、教皇の遍歴とともにローマ・ボローニャ・ピサ・フィレンツェへ移動した
 G.アルプス以北では「アヴィニヨン,モンペリエ,パリ,バルセロナ,ヴァレンシア,ブリュッヘ,ロンドン」だった。ただしパリが為替相場が建つ資格を失う(15世紀初)ことにより、ジュネーヴ大市→リヨン大市(1465年~)へと機能は引き継がれた
 H.コンスタンティノープルはヴェネツィアとジェノヴァのための為替相場が建つ都市だった(~1453年)。西ヨーロッパ以外では、こことリューベックを除けば、組織的な為替市場はほとんど存在しなかった
 I.リューベックを除いたこれら全ての都市において、為替取引はイタリアの銀行商会に独占されていた
『為替手形発達史』R・ローヴァーから[2]


○14世紀における為替手形の起源


(4)貨幣市場の生成

 A.ジェノヴァでもシャンパーニュ大市でも、為替相場は常に「プロヴァン貨の12デニエ=1スーを基準として建てられた」「ジェノヴァ貨でのデニエによって表示された」。つまり、シャンパーニュ大市が「イタリア諸都市の為替の基準」となっていたことを示したいる

【1252年10月31日付の公正証書から】
1.シエナのR・ブラマンツォーニは「ジェノヴァ貨で1,416リブラ13スー4デニエ」を、G・オルツレマーレから“為替を理由として”受領した
2.返済については、その等価=「プロヴァン貨1,000リーヴル」を、トロワの次回の(冬の)大市での決済期間が終了するまでをに返済することを約束した
3.もしトロワで返済されなければ、債務者はジェノヴァに戻って、聖母マリアの御潔めの祝日(1253年2月2日)以前に、プロヴァン貨1スーあたりジェノヴァ貨19デニエで債務者に支払われねばならない
4.もしその支払い期日にも支払いができなければ、債務者は(慣習にしたがって)彼が持つ諸権利を放棄し、全財産を担保として、債務額の2倍を支払う

【為替相場に組み込まれた利子率】
 B.この証書には「a.ジェノヴァからシャンパーニュ大市宛の、ジェノヴァ貨をプロヴァン貨に両替する為替」と「b.プロヴァン貨からジェノヴァ貨への戻し為替」の2つの取引が組み込まれている
 C.a.に用いられた為替相場(※計算は下記)は「プロヴァン貨1スー(=12デニエ)=ジェノヴァ貨17デニエ」、またb.に用いられた為替相場は「プロヴァン貨1スー=ジェノヴァ貨19デニエ」だから、プロヴァン貨はb.(=返済)の方が割高な相場を設定されていた。債権者はこの2つの取引によって、3ヶ月間(10月31日~翌年2月2日)で自動的にプロヴァン貨1スーにつきジェノヴァ貨2デニエの利ざやを得られた(債務者は同額を失った)
[※「1,416リブラ13スー4デニエ(=340,000デニエ)」:「1,000リーヴル(=240,000デニエ)」=17:12となる]
 D.おそらく、プロヴァンス貨12デニエの実際の基準相場はジェノヴァ貨18デニエあたりだったと考えられる。ジェノヴァに住む借り手は「シャンパーニュで支払われる1スーごとに、基準相場より少なくしか受け取っていない」し、反対に「返済の際には基準相場より1スー余分に支払わねばならない」のだった
 E.銀行家(13世紀)の利益は、手形割引(=直接の利子)によるのではなく、為替を装った貸付(擬制為替)によってもたらされていた(それに気づいた教会サイドから非難されている)。その利益率は上記事例では年率46%にも達していたが、ただしb.に基づき、大市で外貨により返済された場合には利子は無いから、この高利は「債務者に対して期日通りの返済を促すためのもの」という理解もできる
[※b.の返済でもプロヴァン貨は1スー=18デニエであるから、1スーあたりジェノヴァ貨で1デニエの利ざやは取っていると考えられる。ただし為替相場変動のリスクも存在するので、銀行家はプロヴァン貨建ての債務を作るかしてリスクをヘッジしなければならないはず。c.の場合には「為替予約」がされているから、為替相場変動のリスクは無い]
 ★この利子率は次第に低下していき、20%→15%→10%となる(14世紀中)

【R・ブラマンツォーニについて】
 F.上記契約の債権者は、シャンパーニュ大市や(さらには)イングランドとすら活発な取引を行っていたようだ。彼はジェノヴァで1ヶ月間(1253年3月)だけで少なくとも12契約を結んでいる
 G.このうち10契約の総額はプロヴァン貨で4,700リーヴル、シャンパーニュで支払われた。1為替契約は100スターリング・マルクで、ロンドンで返済されるものだった。最後の1為替契約はボローニャ貨282リブラ3スー7デニエで、20日後にボローニャで支払われるものだった


(5)同一地での期限付き為替

 A.上記ジェノヴァでの為替契約は一般に「ジェノヴァで貸付られ、他の場所で返済される」内容となっていて、少なくとも外見上は場所の違いが守られていた。しかしシエナ(13世紀初)の証書には「同一の場所で締結・履行される為替契約」が幾つか存在する。これもまた「為替という法的形式(外貨を即座に供与し、その後に等価のシエナ貨での支払いを行う)で偽装された貸付」に他ならなかった
 B.債務者は「ある金額の外貨を受領した=“買った”」ことを認め、ある期間の後にその“価格”をシエナ貨幣で返済する。債務者は小商人や親方たち、債権者はほとんどが銀行商会であった
[※こうした債務者はそもそも外貨を必要としない点に注意]

【ある公証人の公正証書原本綴から】
 C.為替契約に関わる44の契約(1221年と23年)のうち「41契約が同一地の為替,2契約が遠隔地間の為替,1契約が為替のみならず未鋳造の銀購入に関する」ものだった
 D.41契約について、1取引平均シエナ貨で23リブラ(最小:4リブラ,最高額の2契約:シエナ貨で100リブラと92リブラ9スー)だった。主要な資金供給者は「M・マッコリーニ:10契約,I・ヴィンチェンティ:6契約,A・ベヌッチ:4契約,F・ヴェンチェカステッリ:3契約,L・ベランテと彼の商会:3契約」で、これらの商会全てが遠隔地取引や貨幣取引に従事していた

【別の公証人の公正証書から】
 E.32の為替契約(1227年11月27日~1229年4月2日に登記)のうち「26契約がその地での為替,3契約が遠隔地間の為替,3契約は貴金属取引に関する」ものだった。貴金属取引は「セネガルからの砂金,銀地金の信用売り」であり、当然ながら売り手・買い手ともに銀行商会だった
 F.遠隔地間の為替に関する3契約も銀行家同士で結ばれたものであり、金融シンジケートの存在を推測させる:
「a.シエナでシエナ貨によって貸付られ、シャンパーニュ大市にてプロヴァン貨で返済される」
「b.債務者に与えられた返済猶予は約3ヶ月~6ヶ月」
「c.3つの為替のうち2つは同一日(1227年12月8日)に契約され、金額は合計でシエナ貨で495リブラ16スー8デニエ、これはラニュイの次回の大市で支払われるプロヴァン貨200リブラに等しい」
(為替相場はプロヴァン貨1スー(=12デニエ)=シエナ貨29.75デニエ)
「d.どちらもピストイアの同じマーチャント・バンカーが資金供給者であった。借り手はサリンベーネ商会とレイネリオ・デ・フォルカルケリオ商会で、この2つの銀行商会は借入額を折半する取り決めを結んでいたようだ」
 G.シエナで履行される26の為替契約について、1契約あたり平均40リブラだった(480リブラという特大の1契約を除く)。貸し手はマーチャント・バンカー(その中ではサリンベーネ商会が11契約を占める)、借り手は中位の商人たちだった。信用は短期であり、3ヶ月を超えることはめったになかった

【その後の展開につながること】
 H.シエナの銀行家たち(13世紀初)による法的擬制は、まだ為替の合法性を満たしていなかった。一方で教会サイドはこのような擬制を非難するようになり、そして法的に合法な為替を論ずるようになった。やがてマーチャント・バンカーたちは、そうした合法な為替の要件を満たした迂回手段を見出していった
 I.ジェノヴァやマルセイユに伝わる公正証書は、シャンパーニュ大市との為替取引においてシエナ人・ピアツェンツァ人のかなりの役割を明らかにしている(1225年頃)。にもかかわらず、当のシエナの公正証書にはそうした記録がない。つまり、シエナのマーチャント・バンカーたちは「公証人事務所に頼ることなく、私署証書で為替取引を清算していた」ようだ


(6)為替手形の誕生

【商業方式の変化】
 A.ジェノヴァ・マルセイユ・シエナの公正証書は「シャンパーニュ大市(13世紀前半)に組織的な貨幣市場が存在していた」「そこでは為替相場が需要と供給の法則にしたがって変動していた」ことを示している
 B.しかしヨーロッパ商業で「隊商的商業」が後退し「定住型商業」が発展するにつれてシャンパーニュ大市は危機に陥り(13世紀末)、やがては完全に衰退した。商人たちは大市に出向くかわりに、主要都市に支店・代理店を設置するようになったのだが、実はこうした改革は(ジェノヴァ・ヴェネツィアのような海港都市よりも)「内陸都市=シエナ,フィレンツェ,ルッカ」から発達していった
 C.商業方式の転換は為替契約にも影響した。それまで用いられた公正証書は、単なる急送商用状=為替手形に取って代わられた
 D.取引は量を増すとともに複雑さが増大し、商人たちは通信と簿記の整備の必要に迫られていた(13世紀~)。取引が増大したことで、しばしば公証人無しで済ませることも許されるようになったと思われる(いつの時代も商人は急いでいる!)。したがって、正式な手続きを止めて公正証書を簡単な借用証に代えることには大きなメリットがあった
 ★公正証書の作成には常に多くの時間が必要だった。契約当事者は「公証人のもとに出頭する,証人を招致する,公正証書の起草や朗読などに立ち合わなければならない」のだった。しかも紛失した場合には、公正証書の取り替えは困難だった
 E.あらゆる場所で信用を得ていた銀行商会の代理人の署名は、公証人の署名に価していた。それを活かして、改革の採用により迅速だったトスカーナの諸都市によって為替手形が採用されたのは自然な流れだった(守旧的・伝統的な商業中心地であるジェノヴァやヴェネツィアではなく)
〈例〉保険契約(14世紀中)においても、ジェノヴァでは「公証人を使って保険証書をラテン語で起草し、さらに保険を“貸借”or“売買”で偽装していた」。しかしピサやフィレンツェでは保険証書を「イタリア語によってブローカーが作成していた」

【支払指図の問題】
 F.商人たちは旅商を止め、自分の帳場から諸取引を指揮するのが一般化すると、外地ではそこに定住する者を代表(コルレス先)とした。しかしコルレス先は契約の当事者ではないので(彼が債務者の同じ組合員でない限り)、それまで用いられた公正証書とは決して結びつかない。そこで支払指図が必要となる(13世紀中葉)
〈例〉ジェノヴァ(1259年12月15日)で同時に結ばれた2つの契約から:
[公正証書1]
 「a.ジェノヴァのイード・レルカーリオと彼の仲間は、オットボーノ・ピッカミーリオ兄弟からジェノヴァ貨である金額を受領したことを認めた」「b.ラニュイの次回の大市において、その等価(プロヴァン貨900リーヴル)を返済する」「c.もしb.の返済が行われなければ、ジェノヴァでプロヴァン貨1スー(=12デニエ)あたり19デニエの相場で返済する」
[公正証書2]
 「d.a.の債務者は、シャンパーニュにいるコルレス先のグリエルモ・ブックチオに対して、上記のプロヴァン貨900リーヴルの支払いを指図した」
 G.この場合、c.はそれまでの擬制為替(=貸付における利子を誤魔化すためのもの)ではなく、b.の返済に対応するd.の支払指図に関する保証条項だった(=d.が履行されなければc.が必要となる)
 H.上記例(13世紀中葉)ではd.の支払指図は「公正証書による支払命令状」だった。しかしこれは間もなく「私文書である信書」に取って代わられた。フィレンツェの大商会アッチアイウォーリの事例(1330年3月30日)では、「公正証書の紛失を避けるために」公正証書の原本を支払地であるブリュッヘに送付せず、支払指図の通知状だけが同地にいる支払人に届けられた
 ☆この信書(支払指図の通知状)は、債権者にではなく「振出人によって支払人宛に送付されている」ことから、まだ為替手形ではない

【為替手形との中間に】
 I.しかしフィレンツェやシエナでは、上記F.よりも前から為替手形(“支払命令状”とも呼ばれていた)を用いていたらしい(13世紀末)。一方でジェノヴァの人々(14世紀)は“為替を原因とする契約証書”を使い続けたし、ヴェネツィアの人々は依然として公証人に公正証書を作成してもらっていた(1351年)
 J.上記F.で為替手形ではなく通知状が用いられたのは、債権者とその代理人(フランドル在住)がジェノヴァ人だったことが原因のようだ。債務者とその代理人はフィレンツェ人だから、本来ならば為替手形でもよかったはずだが、そこにはフィレンツェ人とジェノヴァ人の方式の違いが背景にあった
『為替手形発達史』R・ローヴァーから[1]


○14世紀における為替手形の起源


(1)銀行と為替の誕生

 A.中世における銀行業務の始まりは信用機関である点に求められる。しかしその起源は貸付業務ではなく「為替」にあり、貸付業務は最初から為替業務と結合していた。つまり、中世の為替手形は「単なる資金移送のために用いられる『のではない』」
 B.為替取引を行っていた人々は最初、ただ“商人”と呼ばれていた。ジェノヴァや地中海沿岸都市では“銀行家”というのは「両替のテーブルを持つ両替商」を意味していた
 C.その後フィレンツェ(14~15世紀)での“銀行家”とは「質屋も含めて、貨幣を取り扱う者全て」を区別なく示していた
 D.さらに近世に入って大陸では“銀行家”という名称は、次第に為替業者=「両替商,為替手形を取り扱う者」だけに与えられた(17・18世紀)。ただしイングランドだけは異なった

【最初の銀行】
 E.両替業者の活動の最古の記録はジェノヴァ(12世紀)に存在する。ジェノヴァの両替商は、最初は「1.もっぱら貨幣の両替を行っていた」のが、次に「2.要求払預金を受け入れ、顧客の指図に従って勘定振替によって決済する」ようになり、ついには「3.当座勘定で顧客に前貸しする」ようになった。つまり活動領域を早くから拡張していき、両替商が業務に用いたテーブル(=事務所)は、徐々に預金振替銀行となった(12世紀末までには完成していた)
 F.当時ジェノヴァには、債務者と債権者が別々の両替業者に口座を有している場合においても、振替による支払いを認める(相殺による決済システム)ようになっていた。つまり、彼ら“銀行家”は、信用を供与し利子を受け取っていたのだが、一方で外国貿易における為替業務にはあまり関与していなかったという
 G.両替業者の取引は地域レベルに止まっており、遠隔地間での為替業務には、取引を国際的に展開していた商人の領域だった。すなわち、ここでは「『貨幣の両替』から『為替取引』へ」という発展の図式は成り立っていない点に注意!

【マーチャント・バンカー】
 H.やがてジェノヴァでは、内陸の諸都市(特にピアツェンツァ,シエナ,フィレンツェ)からやって来た“マーチャント・バンカー”達が「シャンパーニュなどの大市で支払われる債務証書を引き受けて、他の商人たちにファイナンスする」役割を担った(13世紀~)。この発展はマルセイユ(13世紀)とブリュッヘ(14世紀)でも同じだった。これらの銀行は「組織を数カ国に広げていた」同族的・恒久的な企業に属していた
 I.彼らのうちから、商品取引と為替取引の両方を行う強力な商業・銀行商会が出現する(14世紀~)。こうした業務展開の仕方は近世に入ってもむしろ一般的だった(例:メディチ家,フッガー家)
 J.ヨーロッパのほとんどの場所(14世紀~)において、両替業者の事務所はその地の預金・振替銀行へと転換していった(例:バルセロナ,ミラノ,ピアツェンツァ,リエージュ,シュトラスブルク,コンスタンティノープル)。反対に為替手形取引は、あらゆる場所でマーチャント・バンカーによる事実上の独占となっており(上記のように)為替業務と銀行業務は結合していた
 ☆例外はフィレンツェとヴェネツィアであり、ここでは両替業者と為替業者との境界は曖昧だった


(2)初期の為替契約

【一般的傾向】
 A.ジェノヴァの公証人による初期の証書(12世紀)は「a.そのほとんどが海上貸付・会社設立に関係していた」一方で「b.遠隔地間取引に関わる為替契約はほとんど見られない」点に特徴がある。その理由は、当時の輸出入が「c.商人が自ら商品を運んで販売し、その販売代金で新たな商品を現地で購入して持ち帰る」やり方に止まっており、為替が不要だったことにある
 B.やがて為替契約が増加していき、日常的な契約事項となる(13世紀中葉)。こうした変化の背景には「d.輸出入の増加と両者の分離」「e.資金の主要な貸し手である大商人が、海外に常在の代理人を持つようになっていった」ことがあった。特にイタリア-シャンパーニュ大市間の陸路での貿易には、e.が影響していた

【ごく初期の為替契約に潜むもの】
 C.公証人ジョバンニ・スクリーバの公正証書(1156年6月8日付)から:
「ライモンドとリバルドの兄弟は、リバルド・ボレートから、ジェノヴァ貨115リーヴルを受領した」
「彼らはコンスタンティノープル到着の1ヶ月後に、受領した対価として460ビザンチウムを返済する約束をした」
(ジェノヴァ貨1リーヴル=4ビザンチウム=ジェノヴァ貨20スー)
「もし返済が予定通り行われなければ、万聖節(11月1日)にレヴァントで500ビザンチウム支払われる」
「さらにこの日にも返済されなければ、翌冬の8月1日までに、ジェノヴァで『1ビザンチウム=ジェノヴァ貨10スー(契約時の5スーではなく!)』の相場で支払われなければならない」
 D.最後の場合、債権者が受け取るのはジェノヴァ貨で230リーヴル(つまり最初の貸付額の2倍)となる(=14ヶ月で2倍なので月利5%)。つまり、債務者が契約通りコンスタンティノープルで支払うよう、為替相場を債務者に不利に設定していた

【例外的な為替契約】
 E.ユダヤ人ソリマーノとその息子(いずれもサレルノ在住)が、オゲリオ・ヴェント(アレクサンドリア在住)との間に結んだ契約(1156年8月20日付)の場合:
「ソリマーノはエジプトへ向かって出発するにあたって、ヴェントの息子に『ジェノヴァ貨1リーヴル=2.75ビザンチウム』の比率で、15リーヴルの対価を送金する」
「さらにソリマーノは、手綱付きの銀製の轡とサフラン(10ポンド2オンス分)を一緒に送付する」
 F.この取引は「ヴェントの息子に対してソリマーノが資金と品物を届ける」ことが基本的な目的のようだ。そこに信用取引が問題となっているだけ

【その他の公証人の公正証書から】
 G.2名のローマ人と2名のルッカ人との間で、ジェノヴァで結ばれた為替契約(1186年12月13日付)では「a.ジェノヴァのデナリウス貨でお金を受領する」「b.謝肉祭の前にパリで、イギリス貨4マルク半を返済する」「c.それが出来なければ、復活祭前にローマで、同じく5マルクを返済する」となっている。債務者のローマ人はこれに連帯して誓約した(誓約は福音書に手を載せて公式に行われた)
 H.別の公証人による為替契約(1190~92年の複数のもの)は、一般に「a.ジェノヴァにおいてジェノヴァ貨で貸付が行われる」「b.次のシャンパーニュの大市でプロヴィノワ貨(プロヴァンの貨幣)で返済される」前貸しに関連していた。もし予定通り支払いが行われなければ「c.大市に参加した商人が、隊商とともにジェノヴァに戻ってから債務が支払われる」「d.この場合にはb.のプロヴィノワ貨をジェノヴァ貨へ再両替するのだが、その相場は予め決めている」のだった

【文言の問題】
 I.貸付による利子徴収を問題視していた神学者たちの目は常に光っていた。したがって商人たちは、契約において「貸付」という語を使用するのは差し控えなければならなかった。あくまで為替契約の肝心の目的は「資金の移転」であって貸付は「為替契約の付随である」というように、口うるさい神学者たちに見せかけなければならなかった
 J.そこで“為替を理由とする貸借”という表現は、ジェノヴァの公証人の用語から速やかに消えていった。代わりに“為替を原因として”“為替または売却を理由として”“交換または為替を原因として”といった新しい表現が登場する。これは法学者にとっても納得がいくものだった(彼らは為替契約を『外貨と邦貨の売買or交換』と考えていたから)』)


(3)“為替を原因とする”契約証書

 A.ある公正証書(1206年4月28日付)から:
「ランスのE・デ・コジノは、ペルチェッリ(イタリア北部の都市)の2人からジェノヴァ貨で何デナリか(金額が公正証書には明示されていない)を“為替を理由として受領する”」
「次のプロヴァンの大市において、コジノは両債権者(orどちらか1名or彼らの使者)に対して、プロヴァン貨30リーヴルを返済する」
「もしプロヴァン貨が重量・品位の低落に見舞われていた場合には、銀12.5マルクを支払う」など
 B.この契約は「ジェノヴァ貨で貸付され、シャンパーニュ大市で返済を行う」「ジェノヴァ貨からプロヴァン貨への為替取引を伴っている」、すなわち「為替と信用の融合」した為替契約だった
[債務者]
 ランスの商人で、商用で自ら(隊商を組んで)ジェノヴァへ来て、それからシャンパーニュの大市を経てランスへと帰る。商品を追加で仕入れるためにジェノヴァで借入し、それをプロヴァンでの大市での売上によって返済する考えだった
[債権者のリスクヘッジ]
 債務者が破産してしまう以外のリスクは限られていた。というのは、プロヴァン貨が突然価値を下落させてしまう可能性に対しても、取引約款が現物の銀(価値が安定している)による返済を保証したから
[債権者]
 2名の債権者はおそらく組合員で、ともにプロヴァンの大市に行くのでなければ、1名はジェノヴァに残り、もう1名が大市に出向いたと考えられる。あるいはシャンパーニュに信頼できる人物がいて「債権を取り立てて商品とともに送付する」or「戻為替を組む」により、ジェノヴァに手形代金を送付する責任を負った

【支払いの問題】
 C.上記の契約では、債務者は「債権者自身に支払う」or「債権の証書を携えた代理人に支払う」ように取り決めがなされており、それ以外の者への支払いは想定されていない(=「指図人払条項」ではない)。さらに、たとえ債務者が支払いを拒否したとしても、証書の持参人が元の債権者に対して支払い要求を遡及させることは認めていない
 D.こうした特殊な契約の背景には「証書を呈示する者が『債権者の一族の者』or『組合員』or『代理人』として商人間で知られていた」ことが存在した。そうした債権者の『代理人』に対して支払えるので、この“為替を原因とする契約証書”は、大市の隊商によるニーズに相当マッチしていた