『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[33]


○信用(Credit)の形態


(1)商業向け信用

 A.中世の信用は諸侯・都市の公信用であれ、ほとんどが消費信用であった点に特徴がある。これに反して商業信用(商取引向けの貸付)ははるかに小さな割合でしかなく、これが十分に発達したのは地中海商業においてだけだった
 B.イタリア・南フランスの商人の間では、商品供給の売買契約に信用を咬ませるのは日常的な現象であり、その期間は「8日~3ヵ月半」の間で決められた

【ドイツ商人たちの信用事情】
 C.ハンザ商人は「外国人に商品を掛け売りする,外国人の商品を掛けで買う」ことは認めていなかった。しかしこの規定を守り通すのは、ロシアやバルト海沿岸諸都市との商取引ですら無理であり、ましてや他の商業地ではいっそう不可能だった(ハンザ商人は掛けでの取引を強制された)
 D.こうした商行為が広く行われていたことは、フランスやドイツの商人たちの営業帳簿により明らかとなっている。というのは「a.帳簿に記入されるのはそもそも信用供与を前提としていた」「b.現金取引の際の記入は不要と見なされていた-なぜならそれ以上の支払い義務は発生しないから」という背景が存在したからだった
 E.南ドイツ諸都市-オーストリア間の商取引では、南ドイツの商人サイドからオーストリアの顧客に信用を供与するのが一般的な現象だった
 F.しかし「a.未回収の債務が発生すれば自ら取り立てのために旅行しなければならない」し、また往々にして「b.現金ではなく商品による支払いを受け取らねばならない」といった事情によって、商取引はかなり阻害された

【支払い期間などの設定】
1.支払い期間は「1ヶ月~6ヶ月の間」で定められたが、信用はしばしば1年まで延長された(唯一の例外として1年半という期間も存在する)
2.教会の大祭(例:復活祭,聖霊降臨祭,聖ミカエルの日,クリスマス)や、重要な大市(例:フランクフルトの大市)を支払い期日として定めることが、特に好まれていた
3.しばしば支払いは特定の日ではなく、おおよその期間だけが規定された(例:航海の再開後,春期,復活祭と聖霊降臨祭の間,秋期)
4.場合によっては、債権者が「自分の考えで、早い期日or遅い期日に支払いを要求できる」権利を持っていた


(2)商業と貸付業務

 A.イタリア商業では、商品の信用供与のみならず純粋な貸付業務も利用された。その形式は「a.大市に往来する商人が無事帰郷した場合に、貸し付けられた金額と利子をまとめて返済する義務を有する」というものと「b.債務者が為替手形を振り出す」ものがあった
 B.a.の場合は「陸海の商業旅行において債務者が無事でなければ返済が滞る」リスクがあったが、b.だと「あらゆる不慮の災害とは無関係に返済を保証する支払い約束だった」という点が異なる
 C.さらにb.は、中世の為替手形の特徴(貸金の受取場所と返済場所が異なる)を有したまま「商品取引の際の支払い猶予,貸金提供の際に利用された一般的な手段」となっていった


(3)銀行と金融業者

 A.信用業務の形式は「銀行が預託された預金を商品取引に用いる」ことであったから、預金者から預金の返還請求が行われた場合には困難が生じた。したがって、銀行が払い戻しそのものを回避しようと努力したことも稀ではなかった
 B.さらに商品取引の失敗はしばしば銀行を破産に導いた。その場合には預金者は預金を全て失った
〈例〉ヴェネツィアでは103の銀行中96が、たいていは商品取引に手を出したために、払い戻し請求に応じられなくなり破産した(14世紀)
 C.こうしたことから、銀行に対して「金属・織物・サフラン・その他諸々の商品取引を禁止する」条令が発布された(1374年)。後には「銀行は預金ではなく、自己の資本をもってのみ商品取引を行ってよい」ということが定められた。しかし実際には銀行は、預金を「自らが運用を決定しても差し支えない貸金」とみなし続けた

【資金力ある宗教団体】
 D.聖界の諸団体は借り入れを行うものがあった一方で、保有する資金を貸し付て莫大な利益を得たものもあった。教会・修道院は早くから貸金業者として活動しており、彼らは特に「自由農民と半自由農民に対して、その土地を担保に貸し付けた」のだった(10世紀)。皇帝ハインリヒ3世と4世は修道院から巨額の貸付を受けた(11世紀)
 E.彼らが貸付の元手とした資金の源泉は「a.信者から奉納された莫大な寄進の集積」と「b.唯一の安全な場所であった教会・修道院に、人々が莫大な財産を預けた」ものだった
 F.中世盛期には「テンプル騎士団:イェルサレムの神殿・聖地巡礼者の保護を目的として創設(1119~1312年)」「ドイツ騎士団:戦闘的な宗教騎士団(1190年設立)」「ヨハネ騎士団:第1次十字軍の頃にイェルサレムで設立」「フランシスコ修道会:聖フランシスコにより創立(1209年)」とともに、銀行としての聖界施設の活動はいっそう発展した

【特筆すべきテンプル騎士団の活動】
1.パリとロンドンに本店を、フランスと東方諸国の諸都市に支店を持つ、この時期のヨーロッパで最も主要な銀行だった
2.イングランドとフランスの国王・修道院・大領主たちは「彼らの資産をテンプル騎士に投資した」「租税・土地所有からの収益を委託した」「為替手形の取り立て・金銭の委託・終身年金の払い渡しを委任した」。さらに「貸金,保証に立つこと」を求めた
3.「十字軍1/10税,教皇献金,その他十字軍のために定められた諸貢租の徴収」を引き受けた
4.必要な金額のヨーロッパからオリエントへの送金業務にも従事した
5.多数のフランス領主や諸国王(例:ジョン失地王,アラゴン王,ナポリ王,とりわけ歴代フランス王-フィリップ2世・ルイ9世・フィリップ3世・フィリップ4世-)の財政を管理した
6.騎士団の“本店”は国王の国庫となり「国家の歳入はそこに流れ込んだ」「国王に代わってそこから支払いが行われ、俸給・恩給が払い渡され、債務が返済され、外交官に貨幣が引き渡され、団体への補助金が支払われた」のだった


(4)金額業者としてのユダヤ人

 A.彼らの営む信用業務は著しく発展し(11~12世紀)、多くの顧客は「借り入れをした」「債務の保証と返済のために、関税・租税を抵当に入れた」「しばしば財政の管理さえも委託した」のだった
☆顧客リスト:
 国王ハインリヒ2世,ハンガリー国王,シュレージェン公,カンタベリー大司教,バムベルク司教,コンスタンツ司教,フランス・イングランドの諸修道院,レスター伯,モンペリエ伯,トゥールーズ伯
 B.ドイツではユダヤ人貸金業者の債務者リストの中に、とりわけ手工業者(例:靴屋,仕立屋,馬具工)が登場する(15世紀)。彼らは原料を抵当に入れて低利の短期貸付を受けた。ニュルンベルクでは手工業者に対して「原料を抵当に入れて『原料品の価値+加工のための労賃』以上の貸付を受けること」を禁じた
★これに対して農民は、主として修道院やイタリア人・ドイツ人の商人から借金した

【業務の記録】
1.コブレンツの大司教領(トリーア大司教)では、ユダヤ人財務官が彼の書記とともに国庫を管理し、帳簿をヘブライ語で記入した
2.アルル司教のためにロンバルディアの船から、1隻につき輸入関税として20ソリドゥスを徴収した。また、ユダヤ人のために4ソリドゥスが徴収された。輸出関税として商品価格の1/13が司教に納付されたが、そのうち1/9がユダヤ人のものとなった
3.ザクセン大公はあるユダヤ人に貨幣鋳造を委ね、鋳貨の刻印はヘブライ文字と大体似通ったものだった
4.トリーア大司教領でもヴュルツブルク司教領ても、ユダヤ人が鋳貨親方として活躍していた(12世紀)
5.ユダヤ人シモン・ジークブルクが絞首刑に処された(1377年)が、彼に対してはライン下流域の騎士・領邦君主たちは合計27,000マルクの債務を負っていた
6.ユダヤ人シモン・ゼルゲンシュタットは、ライン諸都市に火器購入のために莫大な金額を貸し付けた。更にフランクフルトとも10,000グルデン以上の貸付契約を結んだ
7.スペインでは租税徴収・財政管理はユダヤ人の手中にあった(~15世紀末)。フェルディナンドとイザベラの治世下の大蔵大臣は、ユダヤ人ドン・イサク・アブラヴァネルだった


(5)イタリア人金融業者の活躍

 A.ピアツェンツァ・ボローニャ・ローマからやって来た商人たちによる、フランス・イングランドでの金融業務(12世紀末~)に続いて、アスティ・ルッカ・シエナ・フィレンツェの銀行業者が登場した。フィレンツェからはまず三大商事会社(バルディ,ベルッツィ,アッキアジュオリ)が、更にアルベルティ家が、後にメディチ家が加わった(15世紀後半~)
 B.フィレンツェの商事会社はそれぞれ「10~20人の社員を数え、社員の出資財産・局外者の預金が結合した莫大な資本を有していた」
〈例〉バルディ商事会社(1310年)には社員15人がおり、彼ら代表者のうち「5人はイングランド,6人はフランドル,4人はフランスとシャンパーニュ」に居住していた。その債務者リスト:
「イングランド国王,ナポリ国王,キプロス国王,ロードス騎士団長,教皇ヨハネス22世のいとこ,オルシニ枢機卿,スポレト司教,ファマグスタ司教,イングランドの高位聖職者・修道院・世俗の有力者,ユダヤ人,ピアツェンツァの道化役者,アントウェルペンの仲買人,ヘントとブリュッセルの宿屋の主人」までがいた
 C.イングランド(エドワード1世・3世治下)・フランス(フィリップ4世と彼の後継者治下)・ナポリ王国・フランドルにおいて、フィレンツェの金融業者は「貨幣鋳造所の賃借,租税の徴収,預金の管理」を引き受けた。また諸侯の銀行業者としても活動した

【経営破綻(14世紀)まで】
 D.しかしフィレンツェの商事会社の活動は短期間にとどまった。商品取引において与えられた特権を享受し続け、さらに新たな特権を手に入れるためには、国王・諸侯に莫大な貸付を行うしかなかった。その際商事会社は他人資本をこれに充てており(例:バルディ会社の貸金総額は自己資本の8倍以上だった)、財務は全く不健全だった
 E.一方で預金の受け入れは、イタリアの広範囲にわたって行われた。人々は高金利に惹き付けられて預金をしたので、銀行の破産は広範囲にわたって巻き添えを喰らわせる結果となった

【預金について】
 F.利子付きの預金はヴェネツィア(13世紀初)で知られており、フィレンツェの商事会社もこの業務を行った。特殊なものとして「大市から大市までで6%(=年に36%)の利子が支払われた、シャンパーニュ大市での預金」があった
 G.諸侯など世俗の有力者・聖界の有力者(枢機卿,騎士団長,修道院長)もフィレンツェの会社に投資をした人々だった。それは「利益配当を受けられる預金」or「8~12%の確定利子預金」だった
 H.イタリアの商事会社がイングランド・フランス・両シチリア王国において「1/10税,その他教皇に納付すべき貢租,関税の徴収」を引き受けたことによって、預金の金額は急増した。これらの業務によって流れる莫大な金額が商事会社に預金されたのだった
〈例〉スピニ商事会社には教皇の貨幣が137,000金貨フローリンも預金された(1300~03年)
 I.預金の中から商事会社によって、教皇や国王の債権者に対する支払いか必要に応じて行われた
〈例〉教皇庁の命によって10ヶ月間(1323~24年)で230,000金貨フローリンが、アッキアジュオリ商事会社からボローニャ副枢機卿ベルトラネオに支払われた

【破産の連続と新勢力】
 J.国王の債務不払いの結果として大商事会社の破産は避けられなかった。フィレンツェの有名な商会(モッチ,スピニ,フレスコバルディ,ケルキ・ネリ,ケルキ・ビアンキ)に続いて、フランス国王の宮廷銀行家グイド・フランツェシの破産が起こった(1308年)。さらに三大商事会社が破産を宣告される(14世紀中葉)
 K.やがてフィレンツェのメディチ家が台頭し「広範な商品取引,あらゆる銀行所在地との金融取引,預金の受け入れ,諸侯・封建領主・商人・手工業者に対する貸付」を行った
 L.ジェノヴァの銀行業者は代表者・代理商をフランス・スペイン・コンスタンティノープル・パレスチナへと派遣していた(12・13世紀~)。しかしジェノヴァとヴェネツィアの銀行の発展は、フィレンツェに比べて遅かった(14・15世紀~)
〈例〉ヴェネツィアの有名な銀行ソランツォ,ジェノヴァの銀行ケントゥリオーニ。特に後者には教皇冠が動産抵当として質入れされたほどだった(後にロレンツォ・メディチによって買い戻されたが)

【サン・ジョルジョ銀行】
 M.ジェノヴァに最初の公立銀行であるサン・ジョルジョ銀行が設立された(1407年)。これは都市国家ジェノヴァに対する多数の債権者団体が、1つの統一された組織に結合して生まれたものだった。これによって既存の高利の債務は7%の配当に固定されたが、時の経過とともに別に配当が支払われた(例:1416年)
 N.常に貨幣が欠乏していたジェノヴァ共和国にとって、この銀行によって必要な金額が用立てられることになった。一方で共和国の責任で必要な利払いが行われたが、その際に「国家の様々な財源,植民地」が委託されていき、間もなく共和国の特権・植民地のほとんど全てがこの銀行の手に渡った
 O.相場の変動によって、サン・ジョルジョ銀行の配当は活発な投機対象となった(15世紀)。これは後世のイングランドの整理公債の相場のような特色を有していたという


(6)利子の徴収

 A.利付きの貸出は、教会から“高利貸し”として声高に非難され、教会法においても否定された(利子を徴収した聖職者には聖職剥奪,後者には破門が規定されていた)。だが、高利禁止はずっと維持されていた(中世後期においても)にもかかわらず、その法の網をくぐった様々な方策が存在していた

【1つの抜け道】
 B.「a.支払い期日を守らないことに対する、債権者の損害に対して認められている利子(※いわば延滞利息)」と「b.貸付を行った結果として失う利益に対して要求できる利子(※いわば機会利益)」が、きちんと区別されていた。トマス・アクィナスはb.を容認しなかったものの、a.の賠償については債権者と債務者は協定することができる、と認めた
 C.そこでこの区別を利用して、貸付時にとても短い返済期限を設定し(もちろんこの期間内は利子徴収は許されない)、それ以降の期間についての「全ての利子を延滞利息として計算する」という手段が採られた

【その他の抜け道】
1.債務契約の締結時に貸出と返済を異なる鋳貨で行う方法。これは「鋳貨交換の際に得られる相場の差」として、利子が徴収された
2.単純に、証書に記入する金額を実際の貸出高よりも大きくする
3.しばしば「債権者が負った費用に対する謝礼」という名目でも認められた
4.往々にして単刀直入に「利子」を条件としたこともある

【利子徴収に対する意識】
 D.確かに金融業者は、徴利に対して「罪深い」という意識を持っており、多くの商人は良心の呵責に苦しんでいた。そのために「a.臨終の床で債務者に対する利子の返還を遺言する」「b.遺言によって貧民に貨幣を分配する」「c.貸付業務によって得られた財産の全てを教会に寄進する」などした
 E.様々な慈善施設は教皇から「貸付行為に基づいた財産の寄進を受け付ける特権」を与えられていた。有名な銀行業者は教会の怒りを避けるべく、また自身の霊魂の救済への配慮から「d.毎年収入の一定部分を修道院・宗教団体に寄付する」のを常とした

【浸透していた利子徴収】
 F.このような利子により蓄積された財産からの寄進を受け付けたことはともかくとしても、教皇庁自らが「フィレンツェの金融業者からの貸付に対して利子を支払っていた」ほどだったから、教会が利子の徴収を廃止するのはなおさら不可能だった
 G.“モンテス・ピエターティス”(慈善の山)という名の下に、教会によって「公共の目的に役立ち、民衆が貸金業者によって奴隷に落とされるのを守るべきもの」として設けられた質屋でさえ、貸付を行う場合には「8~15%の利子」を要求した
 H.このような事情だったので、イタリア商人は本国で一般的に行われていた貸付利子を(他地域で)公然と唱えたとしても、それは不思議ではなかった
〈例〉イタリアの算術教科書には利息計算の例題がのっている(13世紀初)。聖イヴェッタ(13世紀)は、子供たちのために父親が現金を利子付きで貸すことを承認した

【利子徴収への対抗と結果】
 I.利子禁止は実生活において実行不可能なのだが、教会法によって利子付きの債務契約が無効とされている以上、これを引き合いに出して元利払いを拒否する口実とする債務者がしばしば現れた。そこでジェノヴァの貸金業者は、貸付契約の際に「債務者が高利に対してあらゆる抗議を行わないことを約束させる」手段を採った
 J.国王は教会法を利用し、彼の債権者を“高利貸し”として告訴した。しかしこの手段に訴えたリチャード2世はあらゆる信用を失った。さらにこのことによって、金銭貸付に伴う債権者のリスクが増大したため、貸付利率はいっそう上昇した

【実際の利率】
 K.シャンパーニュの大市で勅令(1311年)により認可された利率は20%だった。この利率はヴェネツィアとジェノヴァ(どちらも12~13世紀)で支配的だったようだ
 L.しかし多くの場合において、一般の貸付には20~50%(時にはそれ以上)が適用された。商人の貸付信用(遠隔地商業に伴うリスクがある)に適用された一般的な利率は、これよりもはるかに高かった
〈例〉ヴェネツィアでは2~3ヶ月の商用旅行1件に対して25~50%,フィレンツェでは同じく20~30%。したがって年利率は100%を優に越える
 M.一方でユダヤ人金融業者には規制がかけられた。ユダヤ人がフィレンツェに告訴した(1430年)ことにより、彼らの貸付には20%の利率が認められたものの、これは15%に引き下げられた
『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[32]


○信用(Credit)


(1)定期金売買

 A.これは中世で最も重要な与信業務だった。都市の不動産所有者はその不動産を抵当に借り入れ、その返済までは「抵当不動産から上がる収入を債権者に譲渡しなければならない」(※普通に不動産担保借入する際の利子代わり)。これが定期金「売買」とされるのは「債務者が地代を売却する-債権者が地代を購入する」という形式だったから
 B.定期金売買の対象とされた不動産の占有は、中世初期においては債権者の手に移った。しかし後には「債務者が不動産の占有を続け、債権者には代わりに(物件引き渡しを象徴する)債務証書だけが渡される」ようになる。中世都市において、定期金売買は「永続的な収入が利子としてもたらされる」有利な投資対象として富裕層に好まれた

【仕組みの基本】
1.一定期間経後の債務者による定期金の買い戻し(債務返済)は、普通は許されなかった。特に教会は、定期金購入による収入が教会財政にとっての大きな基礎となっていたから、定期金の買い戻しに反対した
2.定期金は債務証書の売買によって換金可能であった
3.債権者からの一方的な解約も、債務者を困難な状態に陥れることから認められていなかった
4.定期金の利回りは10%が通例だった(12~15世紀)。ただし地方ごとに見れば、5%にまで低下したケースもある

【永続的定期金と債務管理】
 C.永続的な定期金はしばしば「高利率の終身年金」へと変換された。都市は「投資をしようとする人々:(特に)都市周辺の土地所有者,市民,寡婦,孤児」に対して、都市の収入から支出される終身年金を売却しようとした
[※これは返済期間・利率の異なる2つの債務をスワップしたという経済効果を持つのだろう]
 D.収入が欠乏している都市は「様々な収入源(=都市にとって永続的な利回りがもたらされる物件)の管理を都市の債権者に委託する」方法で、既存の債権者に対して諸物件から上がる収入を利払いに充てた。特にイタリア諸都市がこの方法を採った
〈例〉ジェノヴァ(1164年)では、7人からなる債権者団体に対して「都市の一定部分の収入を11年間委ねる」ことによって債務を返済した。債権者団体の持ち分は7等分され「2人が2個ずつ,さらに2人が1個ずつ,1人は1/2個,最後の2人は1/4個」を持ち分とした。この持ち分は世襲・譲渡が可能だった


(2)都市が発行する公債と信用

 A.都市の発行する公債は、まず第一に外国人と契約が結ばれ、その際に各市民が(いわば)債務保証人となった
〈例〉ブリュッヘでは都市公債に関する債務証書に、300人以上の市民が同時に署名した。もしも都市が返済を履行できなければ、外国に滞在している彼ら市民が逮捕され、その商品が差し押さえられた
 B.一方で地元の市民も、所有する不動産を用いた定期金売買によって、都市に資金を用立てた(これは都市の強制ではなく自発的動きだった)
〈例〉ヴェネツィアでは市が公示した公債割当(1353年,1398年)を受けるために、市民は家屋を売却した
 C.あるいは市民や聖界諸施設は、求められていないにもかかわらず市庁舎で納金し「場合によって市に全く用途がない場合ですら、都市は受納を拒めない」というケースもあった。これは「都市は市民に対して信認を裏切ってはならない」という原則により、市民に対して有利な投資可能性を提供しなければならないからだった(例:ユーバーリンゲン市と市内にある修道院)
[※これがあったからこそ、市民は自発的に資金を用立てたと考えられる]
 D.都市は信用によって獲得した資金を元手に、封建領主と並んで様々な高権=「取引税を徴収する権限,裁判権,貨幣鋳造権,ユダヤ人・ロンバルディア人への課税権,など」を買い入れた。さらに都市共同体の必要=「市区の拡大,市壁・その他建物の建設,戦争遂行」のためにも信用は必要であり、都市にとって最も強力な武器だった
〈例〉ケルンでは市の歳出総額の82%が、戦争と外交に用いられた(この比率はニュルンベルク:90%,マインツ:3/4以上だった)
 E.もちろん都市の巨額の債務(14~15世紀)は「都市予算の執行に欠陥があった」ことによってもたらされた結果だった。都市行政を担う者は、しばしば当該年度における市の歳出能力を知らない(!)ので、都市の財政が許す以上に支出した。その際に彼らは、共同体の利益の保護よりも自らの利益を考慮したのだった
 F.資金が不足した場合には、彼らは(既存の租税を重くする・新税を設けるよりも)公債発行という手段を選んだ。なぜなら増設や新税は常に住民の不満を買い、都市財政の運用への疑念を呼び起こしたからだった
[※上記(1)-Dも参照]

【独・仏諸都市の場合】
 G.都市財政において公債発行は通常の財源だった(中世後期)。そして過度の債務の行き着く先は、多くの場合は支払い停止であった。また利払い・債務返済のための新税の採用は、往々にして「都市住民の公然たる暴動,都市行政の政治的変革」を誘発した
〈例1〉ケルン財政における公債収入の占める割合は、45%(1378年)・50%(1392年)に達した。この都市では度々政治的な変革が起こった
〈例2〉バーゼル(1361~1482年)で公債が全く発行されなかったのはわずか3ヵ年だった。さらに歳入の1/4は公債によってまかなわれ、一方で都市住民の全財産の25%は公債が占めていた(1361~1501年)
〈例3〉ニュルンベルクでは公債は歳入全体の1/3に達した
 H.フランスの諸都市(例:アミアン,ノワイヨン,ソワソン,ルーアン)では、国王による都市に対する絶え間ない要求のために莫大な債務を背負っていた(13世紀)。ここでも往々にして支払いが停止された(例:ノワイヨン,サンリ)


(3)諸侯による信用の利用

 A.諸侯は「戦争の遂行,贅沢品の購入」のために資金が必要であり、信用を利用した。ところが彼らの債務は諸侯自身の個人的義務でしかなく、その臣下は債務に対して何の責任も持たなかった。加えて、後継者は前任者の債務を認めて支払うことをしばしば拒絶したから、諸侯に対する信用供与は資金供給者にとって非常にリスクを伴った
 B.外国の金貸業者が諸侯への信用供与(しばしば当時の状況からして莫大な金額とだった)を決める際、判断基準となったのは「a.彼らに委託される国家の特定財源から保証を得られるか」「b.有利な特権を新たに手に入れることで、貸した金を取り返せるか」だった
 C.しかし貸付が強要される場合もある。直接的に「強制公債」が割り当てられるか、間接的に「公債を拒絶することによるデメリット」への脅えによって貸付が行われたのだった。デメリットとは「彼らの特権(貨幣鋳造権,鉱山の賃借権,租税徴収権など)が没収され、彼ら自身がその国から追放されてこれまで貸し付けた資金が返済されなくなる」といったこと

【イングランドの場合】
 D.イングランド国王は絶えず財政難に直面していた。議会が「戦争の遂行や兵士への給与支払いに必要な金額を承認しない」or「臨時税の採用への同意を拒絶した」場合には、国王は(主に)イタリアの貸金業者に(一部は)国内の修道院・商人に資金を乞わねばならなかった。その際に「王冠の宝石,礼服,聖遺物」までも抵当に入れる必要があった
 E.しかし国王が債務を支払わないことによって、彼らに信用供与していたフィレンツェの金融業者(商人)は破産した
〈例〉バルディ会社が破産した時(1345年)のイングランド国王に対する未回収の債権は、900,000金貨フローリンに達していた。ペルッツィ会社の国王に対する債権は650,000金貨フローリンもあった

【フランスの場合】
 F.国王がアヴィニョンの商人から100,000リーヴルを借りた時(1371年)には、王太子・廷臣・パリ市民合わせて22人が、国王のために保証人を引き受けなければならなかった
 G.国王シャルル7世は武器・織物の購入に莫大な金額を支出したので、至る所で(料理番にさえ)少額の金銭を貸すように強制していた。おまけに必要な食料品を掛けで買っていた。あまりの困りっぷりに商人ジャック・クールはある時、国王のためにローストチキン2羽と羊のモモ肉を提供する労をとった


(4)聖界領主による信用の利用

 A.司教職に就くにあたって、彼は(その前とその後において)莫大な金額を支出しなければならず、それが聖界領主の債務を増大させる第一の原因となっていた。就任時から彼らは多額の債務を負っていた
〈例〉コンスタンツ司教座聖堂(15世紀後半)の債務総額は150,000フローリンに達していた。司教の所領からの収入は全て利払いに費やされた
 B.司教は教皇による叙任に対して、御礼として納付しなければならないもの=“セルヴィティア・コムニア”(通常は司教区の年間収入の1/3)と、地位に応じて教皇の膝下に「自発的に」奉呈された贈り物=“セルヴィティア・ミヌタ”があった
 C.さらに司教職を争う者同士は、空位が生じた際に任命されるよう、教皇の側近の助力を得るために惜しみなく金品を贈与していた


(5)債務保証

 A.貸金が提供される際には、保証人の連帯責任と担保による保証が同時に要求された。支払いが行われなければ「保証人には債権者が指定する場所に出頭する義務があり、そこで禁固された」。動産抵当としては高価な有形財産の引き渡しが行われ、国王はその王冠を・教皇はその教皇冠を抵当に入れた
〈例〉皇帝フリードリヒ2世は動産抵当によってジェノヴァで手形を振り出した(1251年)
 B.債務者が支払い期日に支払うことができなければ、取り決められた利子以外にも「延滞利子,債権者に支出させた諸費用」を支払わねばならなかった
 C.債権者は債務者を拘引して監禁することができ、それは往々にして貴族であっても甘受しなければならなかった(例:フランドル伯夫人)。債務者は債務を支払うまで「自分自身が一定の土地に留まる」or「代わりに“下僕と馬を有する者”を1~数人を留まらせる」義務があった。国王・諸侯ですらこの義務から逃れられず、彼らは「3~8人の騎士を同数の下僕・馬と共にその土地に送り込み、一行の住居費・食料費を負担しなければならない」のだった

【契約の締結】
 D.特に債務者が市民でなければ、債務契約を締結するに際して「2人orそれ以上の証人の面前」で行わ、さらに保証人(通常は債務者の同郷人)が求められた。債務者が上流階級ならば「彼が振り出した債務証書の発行」or「市の債務帳簿への契約登録」によっても保証された
 E.保証人と抵当が無い場合で支払い期日が守られなかったならば「債権者が住居を持つ都市の参事会が、債務者が住んでいる都市の参事会に、債務者の支払いを求める“斡旋状”を送る」のだった。しかしこれも効果が無ければ、都市内に住む「債務者の同郷人」を監禁した
 F.高位聖職者と締結した債務契約は、貸手(普通はイタリア商人)は通常の保証人の習慣の他に「a.債務者が支払不能となった場合には、所属する教会の長に請求」し、さらには「b.教皇の保証すらも要求」した。実際、債務を負う司教・修道院長はしばしば教皇の破門の威嚇により「c.債務全額を直ちに返済できなくても、少なくとも返済額・支払期日について債権者との折り合いを着ける」ように強制された
『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[31]


○貨幣取引


(1)両替商

 A.貨幣制度が混沌としていた中世では、支払が常に特定の鋳貨と結びついていなければならず、両替&鋳貨の売買に従事した「両替商」「銀行業者」という特別な職業が必要となった
 B.この営業は当時「a.非常に難しく深い専門知識を必要とした」ものの「b.確実に儲かる仕事」だった。両替商は「c.差し出されたあらゆる金貨・銀貨全ての金銀含有量を確実に知っていなければならない」のだが、長年にわたってこの実務に携わってきた熟練の両替商は「d.鋳貨をいちいち秤に架けなくてもこれを鑑定でき、一瞥するだけで十分」だった。さらに彼らは「e.種々様々な鋳貨を、それと等価値の他の通貨に躊躇なく換算しなければならない」のだった

【歴史】
 C.シチリア島のパレルモ(10世紀)には両替商が存在した。やがてイタリアのほとんど全ての都市に、ギルドとして結びついた両替商が登場している(12世紀:彼らは教会前の広場に両替店を設けていた)。イタリア人両替商は、西欧・オリエントの諸都市における両替商の代表的存在だった
 D.振替業務は、両替商・銀行業者が両替と同時に営んでいた。銀行業者のある顧客から他の顧客に支払いが必要な場合、それは「銀行業者の帳簿に記入されている支払人の口座」から「受取人の口座」へと「支払い相当額を書き替える」ことで済ませられた
 E.この振替の仕組みはシャンパーニュの大市で著しい発展を遂げていた(13世紀初)。「a.大市に到着した商人たちは、まず両替商に持参金を委託する」「b.支払いと受け取りは大市の終了後に、両替商の帳簿の上で相殺されていく」「c.最後に残った差額のみ現金で決済する」のだった

【その業務について】
1.両替商は常に「顧客の要求に応じるのに必要な多種多様な鋳貨,金銀の地金」を用意しておく必要があったから、鋳貨・貴金属地金の購入も行っていた
2.振替業務には「預金が存在している」=両替商に金銭の保管を委託していることが前提だった
3.諸侯&都市は両替商に貨幣を預託した。両替商は彼らに代わって「支払事務を司る」「財政管理も引き受ける」のだった
4.両替商は同時に銀行業務にも関係し、預金の引受のみならず資金の貸出も行った
5.「しばしば鋳貨親方でもあった」
6.「都市の割引銀行も、両替だけでなく預金・貸付業務を営んだ」


(2)大市によって発展した為替手形

 A.中世における貨幣の交換には2つの意味があった。「a.両替:2種類の異なる鋳貨を、ある場所で両替商が交換する(=別の鋳貨で払い込むのと引き換えに、ある特定の鋳貨でその払い出しを受ける)」「b.手形:両替する金額の払込場所と『異なる場所,異なる時期』に払い出しが行われる」

【為替手形の必要性】
 B.イタリア・プロヴァンス・その他の商人は、毛織物その他の商品購入のためにシャンパーニュの大市へ旅行する際「莫大な経費を要する(鋳貨を運ぶには多数のラバが必要)」「途中で略奪・襲撃される危険がある」大金の携帯を避けようとした
 C.さらに大市開催地では、その地の通貨を両替によって手に入れる必要があったから「この両替を予め出発前に本国で済ませておく」ことを好んだ。しかし両替による現地通貨の支払いをすぐに(出発地で)受け取ろうとはせずに「証券1枚を受け取り、大市開催地に到着してから証券を提示し、本国で払い込んだ額に相当する現地通貨を受け取る」ようにした
 D.教会の1/10税徴収者も、イングランドで徴収した金額を(道中での略奪を恐れて)ローマに持参はしなかった。代わりに「a.これを多種多様な鋳貨のままで、ロンドンに滞在している両替商の1人に払い込む」「b.両替商は徴収者に対して『ローマにおいてフィレンツェ通貨でそれに相当する金額を支払う』旨の証書を交付した」のだった。この手形は「c.委託された特別の使者によってローマ教皇庁に送付された」
 E.上記の為替手形は「振出手形:振出人から第三者に宛てられた支払い委託」である。これは実際の経過としては「a.ある銀行がある金額を払い込んだ顧客に対して」「b.手形受取人に表記金額を払い出すことを指定された、在外国支店宛ての手形を振り出す」のだった
 F.イープルで古文書として発見された約7,000もの手形(1249~91年のもの)は、公的文書(証拠力と履行力を有していた)だった。これらは「a.イープル市の参審人の面前で署名され、手形の受領と同時に裏書きされ、公示された」ものだった。証書は「b.ノコギリの歯形に切り取られて、片方は債権者に手渡され、もう片方は市の文書館に保存された」
[証書に書かれた文言:“今日であれ将来であれ、本契約状を一覧し所持する者は、XがYに対して、○○の額の支払義務を負うことをしるべし”]


(3)初期の手形から為替手形へ

 A.ジェノヴァの最古の手形(1155年発行のもの)は「a.振出手形のような支払命令を何ら含まず、自分の支払約束のみを示している」簡単な約束手形だった。これは「b.公証人の証明を得て作成された(公正証書作成)」のだった
 B.初期におけるその支払いは、手形振出人『自ら』が支払履行地で行った。この業務の本質的な部分は「両替商(or銀行業者)がこの金額について、彼自身が危険を引き受けた上で、手形の支払いが行われる指定地に輸送してそこで支払いを履行する」という点にあった。しかし彼ら引受者もまた商品取引に従事しており、大市(支払い履行地)において商品代金を取り立てていたから、貨幣を全く携行せずに大市へ赴くことがしばしばだった(=取り立てた商品代金で支払いを履行できるから)
 C.こうして初期(13世紀初~)の約束手形に「支払いは銀行業者(=手形振出人自身)もしくは、彼に指名されて支払地に到着した者によって行われねばならない」という条件が登場する。指名された者は手形振出人からの「支払状」によって支払いの通知を受けた。この通知(簡単な委託証券)自体は最初は手形ではなかったのだが、やがて「手形を振り出した銀行業者が支払義務を負った」きちんとした為替手形にまで発展した

【14世紀の発展】
 D.この時期に『手形引受』が制度化された。手形振出人は「要求に応じて支払う意思がある」ことを明示しており、この文言は無条件で手形に必ず記入されなければならなかった
 E.さらに『手形拒絶証書』も一般化した。これは「手形を正当に呈示したにもかかわらず引受を拒絶された」ことを公的に示すものであり、手形支払人が手形振出人に全く債務を負っていないがゆえに支払いを拒んだのだった
〈例〉ヴェネツィアからロンドンに振り出された為替手形に関する、ロンドンでの手形拒絶証書が幾つも記録されている(15世紀)
 F.支払いの期日・場所としては、普通はシャンパーニュの大市が定められていた(13~14世紀)

【手形の普及】
 G.手形は(おそらく)最初に海上貿易で用いられ、後に国内商業にも使用された。「商人が証書によって行った支払約束」として、南ヨーロッパ・西南ヨーロッパ・全域(=イタリア人が金貸し&商人として活躍した場所ならどこでも)広く普及した(13世紀中)
[為替手形の利用例(1291年)]
1.フィレンツェの会社の在ロンドン代理人は「為替手形によってシャンパーニュの大市から資金を受け取る」
2.イングランドで取引するフィレンツェ商人は、イングランドから(商事会社の仲介によって)本国へ送金する
3.フィレンツェにいる債権者は、イングランドに滞在しているフィレンツェ人の債務を取り立てる
4.イングランドの修道院の代理人は、ローマ滞在に必要な金額を手に入れることを保証される

【普及度の違い】
 H.やがて手形取引はイタリア・フランス・イングランド・スペイン・フランドルの主要商業地間で広く活用されるようになる(14~15世紀)
〈例〉ペゴロッティの商業手引では、種々異なった場所が記入されている手形の支払期限分類を行っている(14世紀前半)
 I.ドイツでの手形の導入は遅かった(14世紀)。さらにドイツでは、たとえ手形が「フランドルとの商取引に利用され、ドイツ各地間の商業に支払い手段一般として行われた(15世紀)」としても、手形取引の重要性はイタリア商業でのそれよりもまだ低かった


『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[30]


(4)流通鋳貨の改悪

【改悪の例】
1.エルフルトにおいて、1マルクから鋳造されたペニヒ(ブラクテアート貨)の数の推移:
[1150年頃]260~270個
[1200年頃]320~330個
[1250年頃]430~440個
[1300年頃]600~700個
2.ブランデンブルクで1マルクから鋳造されたペニヒの数は270個→380個へ増加し、それに含まれた銀の純分は15Lotから12Lotへ低下した
(※「Lotは半オンスの重量」とあるが、金のKaratと同じく純分を示していると思われる、もしくは半オンスとは異なる可能性もある)
3.プラハのグロッシェン貨の改悪:
[ヴェンツェル2世治下]
 1マルクから純分16Lotのもの60個
[カール4世治下]
 1マルクから純分14Lotのもの70個
[ヴェンツェル4世治下]
 1マルクから純分12Lotのもの96個
[ゲオルク,ヴラディスラヴ2世治下]
 150個に細分された
4.イングランドでは1ポンド銀から、20シリング(1344年)→34シリング(1464年)が鋳造された
5.ドイツのグルデン金貨の純分は、23.5Karat(1354年)→19Karat(1432年)に低下した

【悪貨が生まれた技術的な背景】
 A.各種の鋳貨は多少は正確さに違いがあるにせよ、他の場所でも模倣され始める。それらは最初「原型とされた鋳貨」と同じ価値を有していたものの、やがては『著名な刻印を使った劣悪な商品が出回る』ようになり、重量・品質が低下していく。こうして、かつて賛美されていた「原型とされた鋳貨」までも人々から嫌われるようになる
 B.『劣悪な鋳貨を生む』=品質低下の原因は、特に「刻印用具,検査,秤量」の不完全さにあった。このため「a.均斉のとれた円形を作れなかった」「b.刻印は鋳貨を完全には覆われず、縁の方には刻印がされていなかった」「c.個々の鋳貨は最初から平均重量からかなり違っていた(例:ペニヒ貨では往々にして平均重量の40%にも及んだ!)」のだった
 C.これらの鋳貨は損傷が速く、しかも簡単に切り取ることができた。削損者の手順は「a.最初は(誘惑するかのように突き出ている)縁・角・端を巧みに切り取った」。しかし鋳貨を丸っぽくするだけでは満足せずに「b.鉗子を使って鋳貨のその他の部分も切り取った」。これによって刻印までも損なわれた。実際、切削された大量の鋳貨片が発掘されている
 D.良質の鋳貨が各地で流通し始めると、鋳貨削損者はこれを買い占めて“改鋳”してしまい、結果として悪貨のみが流通するようになる。貨幣は長く流通すればするほど、それだけ損なわれ削り取られた
 E.おまけに、削損は(往々にして)鋳貨発行時に既に行われていた。このために諸侯(鋳貨鋳造権者)は「a.新たに鋳造する鋳貨を、前もって重量を減らして鋳造する」ことで「b.前に鋳造されて既にかなり削り取られた貨幣と均等にし」、このようにして「c.さもなくば他人が新鋳貨の削損から得るであろう利益を自分のものにしよう」という誘惑に駆られる結果となった。このため、年末に鋳造された鋳貨が「年頭に流通していた鋳貨よりもはるかに計量とかる」現象が起きた
〈例〉ブラウンシュヴァイク(14世紀)において、1年の半ば頃には「銀1マルクから29シリング」が鋳造されたが、次の数ヶ月には「銀1マルクから31~33シリング」、さらには「同じく35シリング」が鋳造されていた

【シニョレッジ(貨幣発行益)】
 F.国庫は上記の鋳貨改悪のみならず、政策的な改悪によってシニョレッジを追求した。貨幣鋳造権者は毎年、それどころか年に2~4回(大市が開かれる毎に)新貨幣を発行した
☆ザクセンシュピーゲルやシュヴァーベンシュピーゲルでは、新ペニヒは「新しい君主が即位する場合にのみ」鋳造されるべき、とされていたのだが…
 G.新貨幣発行の度に旧貨幣は回収によって住民から取り上げられ、強制的に新貨幣と両替された。その際人々には通常「旧貨幣16デナリ毎に新貨幣12デナリしか支払われない」ので、その度に25%の損失を被った。ところが、改鋳には莫大な費用が必要だったから、実際に国庫が得た利益は極めて僅かでしかなかった
[※流通過程で磨耗・削損した貨幣は、実際に取引に使われる場合にはその額面通りの価値で受け取られることは無かったと思われる。したがって実際には、改鋳の度に住民が被った損失はそれ程でもなかったのではないだろうか?]
〈例1〉フランス国王、特にフィリップ4世(ダンテは彼を“贋金造り”と呼んで地獄に堕とした)は好んでこの手段を用いた。ジャン2世は14年間に86回銀貨の純重量を変更した
〈例2〉スペイン国王・ドイツの選帝侯・都市は競って鋳貨改悪を行った。アスカニア家のベルンハルトは32年間の治世で約100回、ブラクテアート貨の改鋳を行った

【貨幣の改悪は国王特権】
 H.個人による贋金造りに対しては、残酷な刑罰をもって対処した(例:熱湯の釜の中に投げ込まれる,溶解した鉛を喉に注ぎ込む)。ところが貨幣鋳造権者は「勝手気ままに鋳貨の重量・品位を変更する権利」を国王に要求していた
 I.というのは、国王による通貨政策は国王の必要に応じて行われたが、この特権は本来国王のみに留保され、伯にはこれが禁止されていた。彼らがこの禁令を犯した場合には厳罰に処せられたが、それは「悪貨を作り出して臣民に損害を与えた」からではなく「国王が独占する特権を侵した」ことに対してであった!
 J.通常、貨幣の純分は次第に低下していった。しかしこれ以上下げられないところまで到達し、臣民に不満が沸騰する程度にまで至ると(フランス)国王は「臣民の要求と苦情を容れて」純分度を新たに高めたのだった。これは支払取引に相当な混乱を引き起こしたが、しかし国王には鋳貨価値の改悪を再び行い始める可能性が与えられたのだった

【止まらない鋳貨改悪】
 K.中世を通じて人々は「(年中しばしば行われる)貨幣品位の変更が全くない鋳貨」を求めた。鋳貨改悪は“ベストや敵軍よりもいっそう大きい”と非難され、改悪に関係した諸侯は“盗人,略奪者”とすら呼ばれた
 L.多くの場合、鋳貨制度を漣年いじくらないことを貨幣鋳造権者に要求すれば、それは認められた(例:アウクスブルクとフライブルクは「4年毎に1回」に抑えさせた)が、それには代償が伴った。貨幣鋳造権者は、鋳貨制度をいじくることによる利益を放棄することに対する補償を求めたからだった。それは他の収入源=新規の「売上税,かまど税,財産税,入市税,飲料税」(これらは“鋳貨税”“間接税”と呼ばれていた)の導入だった
 M.それでも鋳貨の金属含有量低下は中世後期においても続き、しばしば「物価の激変,暴動,一揆」の原因となった
〈例〉ケルンのデナリ貨(13世紀の最良の鋳貨だった)でさえ「1280~1380年において毎年2.8%」改悪された


(5)鋳造所と鋳造権者

 A.中世の鋳貨制度の混乱は、鋳貨権の無茶苦茶な分裂=「多数の貨幣鋳造権者,自分の貨幣を鋳造する鋳造所を鋳造権者それぞれが所有している」という事情が影響を与えていた

【ドイツの場合】
 B.最悪の状態にあったのはドイツであり、オットー朝・ザリエル朝期(919~1125年)には160の貨幣鋳造所があった。この時期には「皇帝の肖像と名前を刻んだデナリ貨」が貨幣鋳造の大部分をなしていたのだが、その他に「帝国の部族太公,諸侯,大司教と司教,約30の修道院」も貨幣鋳造権者として現れた。彼らのある者は「皇帝の名と並んで自身の名も刻んだ」が、またある者は「完全に自分の肖像・名を刻んで鋳造させた」のだった
 C.皇帝権の衰退とともに国王の貨幣鋳造権は徐々に狭められていった。これにより「a.国王は聖俗領主の鋳造所で鋳造することを断念しなければならなくなった」「b.王権侵害に対して予防しなければならないにもかかわらず、貨幣鋳造権者の数はとてつもなく増加した」のだった。結局残されたのは、彼らの世襲領(王領)における貨幣鋳造権だけだった
 D.この鋳造権者数の増加は、鋳造権の譲渡(無償貸与,購入,賃貸,抵当から質流れ〔or債務償却〕:期限は有期or無期)により、様々な有力者(宮中伯,辺境伯,司教,修道院長とそのフォークト,貴族,ユンカー)の手に渡ったことによる
 E.大空位時代(1254~73年)以降、多数の小君主までもが貨幣鋳造権を簡単に強奪し、厚顔無恥な“貨幣偽造者”として彼らの“贋金鋳造所”で「評判のよい良質の鋳貨を出来るだけ低品位のものに改鋳する」ことによって、簡単に利益を得た。これを阻止しようとする勅令(13世紀末)は失敗に終わった
 F.一方では多数の都市が、諸侯から貨幣鋳造権を主として購入によって獲得した。しかし都市は購入した権利を乱用せずに、むしろ商業のために良貨を維持しようと尽力した
〈鋳造権を購入した都市〉
 リューベック(1226年),ハンブルク・ロストック・ブラウンシュヴァイク・ウルム・ニュルンベルク(以上は14世紀),シュトラスブルク・マクデブルク・ケルン・フライブルク・ベルン(以上は15世紀)

【フランスの場合】
 G.フランスでは最初、貨幣鋳造権は完全に国王の手から離れており、封建大諸侯(例:ブルターニュ公,ノルマンディー公,ガスコーニュ公)・伯権力・司教の手に移っていた。貨幣鋳造所は約300も存在し、これにより「品位の低下,鋳型の固定化」が発生していた
 H.国王が鋳造するデナリ貨は、他の鋳貨よりも高い地位になく、またより広範囲での流通も無かった(王領地内でしか流通しなかった)ので、その他の封建諸侯の貨幣と全く同列であった。パリでの貨幣鋳造も、国王ユーグ・カペーはブシャール公と競合していた
 I.しかし王権の強化により、貨幣鋳造権は集中していった(13世紀~)。30人存在していた(1315年)のが、1世紀後には「ブルゴーニュ公,アキテーヌ公,ブルターニュ公,フランドル伯,ナヴァラ伯,ベアルン伯,プロヴァンス伯」だけが貨幣を鋳造し続けていた

【その他ヨーロッパにおいて】
 J.ネーデルラントにおいても、貨幣鋳造権所有者は50以上存在していた。イタリアでも多数の都市共和国が貨幣鋳造権を獲得していた
〈例〉ジェノヴァ,ヴェネツィア,フィレンツェ,ボローニア,教皇領,ヴェロナ,ミラノ,フェララ,パドヴァ,ウルビノ諸侯国,マントヴァ,ラヴェンナ,レジオ,ヴォルテラ
 K.イングランドの鋳貨制度は強力な王権により、比較的良好な秩序を保っていた(※それゆえ中世イングランドの貨幣に対する信頼は相対的に高かった)。多数の貨幣鋳造所があった時代でもそうであり、大司教の邸宅(鋳造の収益の一部が譲渡され、かつ特別の貨幣鋳造職人が働いていた)にも国王の鋳造所があった。後には貨幣鋳造所の数も制限された(40→16→12:13世紀末)


(6)鋳貨の流通圏

 A.鋳貨流通の原則=「ペニヒ貨は鋳造された所においてのみ通用し、よそで造られた貨幣は使用してはならない」(例:ライン諸選帝侯は国王の鋳貨の採用すら拒絶しようとした)のだが、実際には様々な地方のペニヒ貨が互いに流通していた
 B.フランスでは(封建諸侯が造る鋳貨の地域的限定性とは対称的に)、国王の鋳貨には一般的な流通効力が認められていた(1262年~)。さらには『含まれている銀の重さと価値に応じて』外国での鋳貨の流通が許されていた。後者の規定は他国にも見られるが、必ずしも実効力を持っていたわけではない

【広域で通用する貨幣】
1.フランス(13~14世紀)では「アラビア,シチリア,ビザンツ,フィレンツェ」の鋳貨が流通していた
2.南仏では「ミラノのリブリ貨,ヴェネツィアのドゥカート貨」が流通していた
3.シャンパーニュでは「スペインのレアル貨,ブルゴーニュやイングランドのノーブル貨,ネーデルラントのクローネ貨」が流通していた
4.「リューベックとケルンの鋳貨,イングランドのスターリング貨,フランスのトゥールノワ貨」も一般的な効力を持っていた。「ヴェネツィアのグロッシ貨とドゥカート貨,フィレンツェのフィオリニ貨」は、最も流通していた
 C.商業都市の鋳貨が普遍的に支払手段として機能したのは、単に都市の経済力を漠然と証明するだけではなく「他の鋳貨の貨幣品位は毎年変更されたの」のに対して「とりわけヴェネツィアのドゥカート貨の場合、400年間も貨幣品位が全然変更されなかった」点にあった
 D.上記のような最もよく流通している鋳貨の模造は、多数の貨幣鋳造権者が行った。しかし当時は模造と貨幣悪鋳が一緒に行われるのが一般的だったから、それは単に「その鋳貨がヨーロッパ世界規模で流通していた」という意味でしかない

【模造の例】
1.スターリング貨の模造例は85以上もある
2.フローリン貨もほとんど同様であり、教皇も模造させていた
3.ラインラント一帯・ヴェストファーレン地方・ネーデルラントでは、ケルンのペニヒ貨が模造されていた
4.東部ドイツやポーランドでは、マクデブルクのペニヒ貨が模造されていた
5.フランドルの“Botdrager”貨は、24人もの伯たちによって繰り返し模造された(14世紀)


(7)鋳貨流通の実際

 A.領邦君主や都市が相互に「鋳貨条約」を定めて鋳貨制度を統一しようとしたが、混乱状況を解消することはできなかった
〈例〉ライン鋳貨同盟:
 11人の諸侯・74の都市を包含し「a.ライン地方のグルデン貨(フィオリニ貨の模造)をドイツの国内通貨に高める」「b.他の通貨はライン地方のグルデン貨と一定の価値関係の下におく」ことを目指したが、成功しなかった
 B.当時の人々はこのような通貨の混乱に対して、装飾品(例:指輪,杯)・銀塊・銀の延べ棒を利用するという手段を採った。金銀の地金は取引に登場し、多額の支払いとなると通常はその重さにより定められた。たいてい問題となるのは鋳型銀だったが、地金は「鋳貨親方や都市の刻印を押してあっても、これは銀の含有量を保証しているに過ぎない」のだから、実際に重量は秤で確定しなければならなかった
☆文書の中で銀に関して記述されている場合には、重要なのは地金による支払いだった。この方法は中世いっぱいは行われた
 C.貨幣鋳造権者は「貨幣鋳造による自分の利益,両替手数料」に損失を与えるから、鋳貨の代わりに地金で支払いをする慣習を禁止した。これと連動して「a.地金の銀を購入する行為を“貨幣鋳造所が独占する”ことも宣言した」。さらに「b.金銀の鋳貨を支払い時に秤で量ることも禁止した」のだった
[※多額の取引時にしばしば行われた「鋳貨に秤を使う」ことは、地金での取引と実質的には変わらないから]

【支払貨幣と計算貨幣:人々の努力】
 D.中世の人々は2つを区別しており、支払いの際には、実際に流通している支払貨幣(=国内鋳貨:その信頼性はきわめて低い)を「基準となる計算貨幣(本位貨幣)の相当額に換算した」のだった
〈例〉当時の商業帳簿の記入から:
1.「支払貨幣212リーヴル18スー=本位貨幣106リーヴル9スー(つまり半額)が支払われるべき」であり、本位貨幣以外で支払ったならばその通貨の種類が明記された
2.有力なエキュ貨で計算された場合、この鋳貨は1年間のうちにスー貨が引き続き下落したので「同じ年でも月が変わるごとに20,30,40,50,…80スーに換算された」
 E.国庫に対する債権者(&御用商人)は、もちろん「地方で鋳造された価値の低い鋳貨を、その額面通りに受け取る」ことを強要された。しかしそうした人々以外は皆、鋳貨価値低下による不利益には「鋳貨を受け取る際にはその実際の価値だけを顧慮する」というやり方で対処しようとした
〈例〉特に商人の間では「古い(良い)鋳貨や外国鋳貨で支払う義務とする」一般的だった。商業に従事しない人々は、古い鋳貨であっても改鋳に用いた
 F.このような努力にもかかわらず、種々の鋳貨変更に伴う価格変動は経済生活に再三影響を与えた。つまり努力が必ずしもよい結果に繋がったわけではない点に注意!
『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[29]


○貨幣制度と鋳貨制度


(1)中世における貴金属不足

 A.貴金属総貯蔵高(15世紀末)の推定値は(最大値で)「銀:7,000,000kg,金:500kg」という(最小値はこの1/3~1/4程度)。いくつかの銀山(ザクセン,ボヘミア,ティロル,ハンガリー,ザルツブルクに存在した)が激増した時期(15世紀後半)を考えると、中世末期に至るまでの貴金属総貯蔵高は上記推定値よりもはるかに少なかったことは確実
[銀産出量(推計値)]
 27,000kg(1260~1450年の年平均値)→44,000kg(1450~1500年の年平均値)。これによって貴金属の産出総額は「年平均で25%弱増加した」と推計される
 B.ただし注意しなければならないのは、商業(ひいては経済活動)にとって問題なのは「流通する鋳造貨幣である」という点。上記の貴金属総貯蔵高の大半は「装飾品,食器,その他の高価な商品」という形で、鋳造貨幣は小さな部分に過ぎなかった。おまけに多数の鋳造貨幣が取引に用いられることなく、個人や団体が蓄え込んでいた
 C.こうした宝物・退蔵貨幣はしばしば「土中に埋蔵された(特に百年戦争中のフランスにおいて)」「教会・修道院に保管を委託する」などして隠されていた
〈例〉テンプル騎士団・ヨハネ騎士団・ドイツ騎士団といった聖界騎士団の金庫には、地金・鋳貨・金銀製の様々な装飾品からなる巨額の財産が集積された

【支払いに困って貴金属かき集め】
 D.流通貨幣が不足していたから、とりわけ多額の支払いはかなり困難だった
〈例〉リチャード1世・獅子心王の身代金=銀150,000マルク(ケルンの重量で)の調達には、教会の什器(特に聖餐用器)までも貨幣に改鋳しなければならなくなった(それ以前に、十字軍に必要な資金を集めるために1/10税を課していたから、担税力は限界だった)
 E.鋳貨不足に対応すべく、中世では多数の条令が発布された。それによれば「各人は自分が有している金銀製品の1/3を鋳造所に提供して、鋳貨に改鋳しなければならない」とされたのだが、作られた鋳貨は「一定期間の経過後にはじめて住民に渡される」ことも稀ではなかった(=実質的な強制借上,フランス:1313年と1332年)
 F.金細工匠は装飾品を製作する際に「a.法律で定められた最高重量を越えてはならない」とされ、時には「b.営業停止すら命じられることもあった」

【代用貨幣】
 G.鋳貨の欠乏は"皮幣"の発行の原因ともなった(これは後の紙幣の先駆けと見なしうる)。また"穀物"も依然として支払手段に使用されるのは稀ではなかった(中世初期にはそうしたケースはもっと多い)。さらには、国際的商取引においてすら、様々な商品が支払手段に用いられた
〈例〉
1.「マルク・ブランデンブルク地方では穀物・めんどり・胡椒が、ある一定の率で“貨幣の一部”と呼ばれた」
2.「フリースラントでは、人々はビール樽に従って計算していた」
3.「モラヴィアの国有鋳造所を借りる際に国王に納付しなければならない貢租が、緋色の毛織物で納付されていた(13世紀)」
4.「イタリアのある商人(12世紀)は、借金の1/3を胡椒・1/3を蘇芳・1/3を明礬と乳香でそれぞれ支払う義務を有していた。胡椒以外の商品を調達できない時、これも専ら胡椒で返済を行わねばならなかった」
5.「ジェノヴァが公使を派遣するにあたって大金が必要となった時(1378年)に“胡椒公債”の募集が告示された。この返済は債権者の希望によって、金or胡椒により行われた」

【貨幣流出に対する禁令】
 H.地金・鋳貨・什器とどんな形であれ「金銀の流出禁止」はしばしば繰り返された。また「手形支払いの際にこれらの支払手段を使うことは、常に国王の特許を必要とする」という規定もあった(※特許だから、特定の商人に対する優遇措置を意味する)。これらの措置の原因は鋳貨不足にあった
 I.加えて国王・諸侯は「支払手段(=通貨)の輸出権」の特許を売却することで、財源として利用しようと企てた
〈例〉イングランドではヘンリー7世が発布した支払手段輸出禁止令は、王自らが売却した特許により全く意味をなさなくなった。王は特許売却によって国庫を満たすことができた
 J.このような禁令は「完全な価値を持つ(=改悪されていない)鋳貨の流出防止」を目的としている場合もあった。この場合は鋳貨改悪がセットになっていた
〈例〉フランスのフィリップ4世・美男王は、鋳貨の純度を2年毎に引き下げた(13世紀末~14世紀初)。それと同時に「金銀の地金と什器,外国の良質の鋳貨」の輸出禁止令をしばしば出したが、反対に「新しい悪貨を自由に輸出すること」は許されていた


(2)鋳貨(銀貨)と貨幣制度

【数量ポンド】
 A.最も主要な鋳貨について、その価値を理論的に規定したのは、カール大帝による「純銀1ポンド=240ペニヒ(デナーレ,デナリウス)」の公式だった(中世盛期~後期においても)。ところが度重なる悪鋳によって、ずっと以前から240ペニヒには純銀1ポンドを含まなくなっていたから、このポンドは(重量ではなく)数量の観念になってしまっていた
 B.こうして「重量ポンド」から「数量ポンド」となり、しかもその際に幾種類かの異なったポンドが作られた。パリのポンド(リーヴル)とトゥールのポンド(リーヴル)は「最初は68:100→後には4:5」となった(※これは数量比であり、価値はパリ貨の方が25%高い)

【マルク】
 C.スカンディナヴィアから出たマルク(=古代ローマの8ウンツェ=218.3g)は、ポンドとは違う第二の、より小さい鋳貨重量だった。ドイツの文書に登場し(1015年)、やがてポンドを駆逐していく(12世紀~)。フランスでもマルクが用いられるようになる(12世紀中葉~)
 D.時と場所によって様々なマルクが登場する。最も重要なのは「フランスのトロワのマルク(鋳貨条令の率の基礎となる)」&「ドイツ最古の最も著名なケルン・マルク」だった
 E.これは一般に「1ケルン・マルク=233.85g」と規定されたが、やがて「鋳造マルク:1マルク=12シリング(or144ペニヒ)=210.24g」「重量マルク:1マルク=215.5g」「商人マルク:1マルク=約200g」に分裂する。後には、多数の異なった“ケルンのマルク”が成立していた

【少額貨幣】
 F.西ヨーロッパの至る所で、まず最初にペニヒ(デナリ)が鋳造された。これも早くから時と場所によって著しい違いがあり、重量・価値の変動は不規則で非常に大きかった。同時に現れた“半ペニヒ”(“オボル”)はたいていは鋳造されず、ペニヒ貨を2つに切断して使用した
 G.ペニヒ貨以外の小型・計量の貨幣は長い間ドイツやフランスで採用された。それらは“メーユ”(フランスにて)・“クェプフェン”(ネーデルランドにて)・“シュッペ”(フリースラントにて)と呼ばれた。“メーユ”はだいたい“オボル”と同価値だった

【特殊な少額貨幣】
 H.ホーヘンシュタウフェン期の特徴的な"現象"として「凹型鋳貨」があった。これは「貨幣の鋳造を簡単にするために鋳貨板を薄くした結果として発生した」ものだった。そのため、全く廃棄されないうちに、両面の刻印が分からなくなってしまうほどに損耗してしまう、という結果になった
 I.この鋳造方法がイタリアから南ドイツに伝わることで「両面に刻印された厚い小型ペニヒ貨」が「“半ブラクテアート”と呼ばれた薄い幅広いペニヒ貨」によって(一時的に)駆逐された。その鋳造はやがて一面の刻印を止め、ただ単に鉄槌で打刻しただけのものとなる。こうして「一面だけ刻印された、薄く幅広い小鋳貨」=“ブラクテアート貨”が出現した
 J.この鋳貨は割れやすかったから多くの破片が伝わっており、当然ながら流通期間もごく短かった。さらに“ブラクテアート貨”が両面刻印の鋳貨を完全に駆逐するのは常に一時的であり、しかも個々の町村に限られていた。このため凹型鋳貨と厚型の両面刻印鋳貨はしばしば互いに交替する、という現象が発生した

【良質の少額貨幣】
 K.ペニヒ貨は次第に品位を下げていったが、良質(両面刻印)の鋳貨も出現した。“ヘラー貨”(シュヴァーベンの都市ハル・アム・コッヘルで生まれたので、その名に因んで名付けられた)は登場(1230年)後に間もなくシュヴァーベン以外にも伝わった(例:ヴュルテンベルク,テューリンゲン)
 L.イングランド(12世紀末~)では大ペニヒ貨=“スターリング貨”が鋳造された。この名称はハンザ商人を“オスターリンゲ”と呼んだことに由来する(なぜドイツ人商人なのか?は下記)。価値を落としていた古いスターリング貨は、1世紀後に新しいスターリング貨に取って代えられ、新貨がイングランドの常用貨幣となった
 M.スターリング貨の信用は高く、まもなく「スペイン(デナリの3倍),ポルトガル,ノルウェー,ライン河畔(マインツとケルン),ヴェストファーレン地方」でも模造された(ドイツ西部での流通は、ケルンの鋳貨が改悪され始めたことがきっかけだった)。こうして「カロリング時代のペニヒ貨は、かつてドイツ人商人によってイングランドへと運ばれていった」のが、時を経て再び故郷へと戻ったことになる
 N.都市ハンザの主要鋳貨“ヴィッテン”=“白ペニヒ貨”もスターリング貨に由来するようだ。これは“アルブス貨”〔西部ドイツ〕・“ブラン貨”〔フランス〕・“ブランコ貨”〔スペイン〕と同種であった。ペニヒはこの1/4だった

【世界鋳貨としてのグロッシェン貨】
 O.重要性のきわめて高かったのはグロッシェン貨だった。ヴェネツィアで登場(1192年)し、間もなくミラノ・ジェノヴァ・フィレンツェをはじめ全てのイタリア諸都市で様々な模造鋳貨が現れた
 P.フランスでも同型の鋳貨がルイ9世の時代に作られ(1266年)、ペニヒ貨が唯一の鋳貨だった時代は終わりを告げた。そして“グロス・トゥルノワ貨”or“グロッシェン貨”はヨーロッパ中の他の場所でも模造されていく
〈例〉
1.「モーゼル地方(1276年)やケルン(1295年)で、支払いに用いられたことが立証されている」
2.「ボヘミア国王ヴェンツェルは、イタリア風大型銀貨を鋳造させるために、フィレンツェの鋳造親方を招聘した(1300年)。これによって“プラハ・グロッシェン”が登場した
3.「“プラハ・グロッシェン”がマイセン辺境伯のグロッシェン貨(登場は14世紀初)の模範となる。最初は純銀1マルクから64個が鋳造されたのが、80個(1360年)→175個(1432年)も鋳造されている」
4.「マイセンとボヘミアのグロッシェン貨は大量に鋳造されて全ドイツへ流入し、今度は再びザクセン・テューリンゲン・ヘッセン・ブラウンシュヴァイク・アンハルトなどで模範となった。北ドイツでは“シリング貨”が相応する」
5.「イングランドでもグロッシェン貨(“グロアート”)=4スターリングが出現した(14世紀初~)」


(3)鋳貨(金貨)と貨幣制度

【イタリア】
 A.中世における金貨鋳造はイタリアの都市共和国に始まり、ヨーロッパ全土へと伝播していった
1.「ジェノヴァ(1149年)では“ジェノフィノ・ドーロ”金貨と“クァルタローロ”金貨(名前のとおり1/4金貨)が発行されていた」
2.「ヴェネツィア(1252年)では“フィオリノ・ドーロ”貨(市の紋章と洗礼者ヨハネの立像を刻んでいた)が作られた」
3.「“フローリン貨”(1ポンドのペニヒ貨の価値を重量3.5gで示した金貨)は、まず最初にヴェネツィアの“ツェチーノ”貨と“ドゥカート”貨の模範となる。続いて全ヨーロッパで模造され、かつ存在した鋳貨の中で最も長命の型となった」

【ドイツ】
 B.このフローリン貨とドゥカート貨は、他のイタリア諸国・ボヘミア(1325年~)・ハンガリー・スペインに普及した。さらに教皇庁の収税官によってドイツにももたらされ、ここでは“グルデン”貨と呼ばれた。
4.「グルデン貨はラインラント・オーストリア・リューベックでも模造された(1330年~)。ほかにも“国王のグルデン貨”(フランクフルト,ネルトリンゲン,ドルトムント,バーゼルで鋳造された)、ブレーメン・ミュンスター・オスナブリュックの各司教の金貨、ドイツ騎士団長の金貨などがあった(15世紀にかけて)」
5.「ライン諸選帝侯の間で金貨と銀貨の共同鋳造に関する協定が結ばれている(1354年~)が、そこではライン・グルデンは価値を失っていた。やがてフローリン貨の3/4と定められた(1419年~)」
 C.ドイツのどんな地域・領邦においても、グルデン金貨は「商人が使用するだけの貨幣,計算用の貨幣」にしか過ぎなかったので、地位としてはグロッシェン貨だけでなくペニヒ貨・ヘラー貨よりも低かった。しかも取引に使用された貨幣の価値は下落し続けたから、しばしば混乱&不安を引き起こした

【仏・英・蘭】
 D.ドイツとは異なり、フランス・イングランド・ネーデルランドの金貨ははるかに重要性を持った
 E.フランスの金貨鋳造の特徴は、最初はイタリアを模倣したと思われる(ルイ9世の“ドニ・ドール”貨)のが、やがて「大きさ・重量ともにフローリン貨に比べて増大し、長く独自の道をいった」点にある。こうして重量・価値の異なる多数の鋳貨が生産され、それらは刻印から名前を取って呼ばれた
〈例〉“エク・ドール”貨(国王と百合の紋章),“シェーズ・ドール”貨 (国王の王冠),“ムートン・ドール”貨or“アニェル・ドール”貨(神の仔羊),“アンジュ・ドール”貨(大天使ミカエル)
 F.イングランドの金貨鋳造はフローリン貨に始まり(一部分フランスの紋章風)、次いで“ノーブル”貨(最初は船印ノーブル、次いでバラ印ノーブル)によって補われた。このノーブル貨は、フローリン金貨と並んで中世で最も好まれた金貨であり、イングランドではエリザベス朝期まで最も主要な金貨だった
 G.一般にイングランドでは(フランスやスペインと同様に)多種多様かつ重い金貨を発行していた。その中でも、バラ印ノーブル貨の2倍の重量で鋳造された“ソヴリン金貨”(1489年~)が特に優れていた
 H.中世ヨーロッパの人々が金貨を使用したのは「比較的多額の支払い時,債務の弁済時,結婚に際して持参金をもたせるとき」だった(フランス,ドイツ〔ラインラントにおいて〕,とりわけイタリアにおいて)。さらに金貨の大きな決済となると、今度は金貨を「唯一の支払い手段にしよう」と務めた。しかし(上記のように)大半のドイツはこの傾向から外れていた