『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[33]
○信用(Credit)の形態
(1)商業向け信用
A.中世の信用は諸侯・都市の公信用であれ、ほとんどが消費信用であった点に特徴がある。これに反して商業信用(商取引向けの貸付)ははるかに小さな割合でしかなく、これが十分に発達したのは地中海商業においてだけだった
B.イタリア・南フランスの商人の間では、商品供給の売買契約に信用を咬ませるのは日常的な現象であり、その期間は「8日~3ヵ月半」の間で決められた
【ドイツ商人たちの信用事情】
C.ハンザ商人は「外国人に商品を掛け売りする,外国人の商品を掛けで買う」ことは認めていなかった。しかしこの規定を守り通すのは、ロシアやバルト海沿岸諸都市との商取引ですら無理であり、ましてや他の商業地ではいっそう不可能だった(ハンザ商人は掛けでの取引を強制された)
D.こうした商行為が広く行われていたことは、フランスやドイツの商人たちの営業帳簿により明らかとなっている。というのは「a.帳簿に記入されるのはそもそも信用供与を前提としていた」「b.現金取引の際の記入は不要と見なされていた-なぜならそれ以上の支払い義務は発生しないから」という背景が存在したからだった
E.南ドイツ諸都市-オーストリア間の商取引では、南ドイツの商人サイドからオーストリアの顧客に信用を供与するのが一般的な現象だった
F.しかし「a.未回収の債務が発生すれば自ら取り立てのために旅行しなければならない」し、また往々にして「b.現金ではなく商品による支払いを受け取らねばならない」といった事情によって、商取引はかなり阻害された
【支払い期間などの設定】
1.支払い期間は「1ヶ月~6ヶ月の間」で定められたが、信用はしばしば1年まで延長された(唯一の例外として1年半という期間も存在する)
2.教会の大祭(例:復活祭,聖霊降臨祭,聖ミカエルの日,クリスマス)や、重要な大市(例:フランクフルトの大市)を支払い期日として定めることが、特に好まれていた
3.しばしば支払いは特定の日ではなく、おおよその期間だけが規定された(例:航海の再開後,春期,復活祭と聖霊降臨祭の間,秋期)
4.場合によっては、債権者が「自分の考えで、早い期日or遅い期日に支払いを要求できる」権利を持っていた
(2)商業と貸付業務
A.イタリア商業では、商品の信用供与のみならず純粋な貸付業務も利用された。その形式は「a.大市に往来する商人が無事帰郷した場合に、貸し付けられた金額と利子をまとめて返済する義務を有する」というものと「b.債務者が為替手形を振り出す」ものがあった
B.a.の場合は「陸海の商業旅行において債務者が無事でなければ返済が滞る」リスクがあったが、b.だと「あらゆる不慮の災害とは無関係に返済を保証する支払い約束だった」という点が異なる
C.さらにb.は、中世の為替手形の特徴(貸金の受取場所と返済場所が異なる)を有したまま「商品取引の際の支払い猶予,貸金提供の際に利用された一般的な手段」となっていった
(3)銀行と金融業者
A.信用業務の形式は「銀行が預託された預金を商品取引に用いる」ことであったから、預金者から預金の返還請求が行われた場合には困難が生じた。したがって、銀行が払い戻しそのものを回避しようと努力したことも稀ではなかった
B.さらに商品取引の失敗はしばしば銀行を破産に導いた。その場合には預金者は預金を全て失った
〈例〉ヴェネツィアでは103の銀行中96が、たいていは商品取引に手を出したために、払い戻し請求に応じられなくなり破産した(14世紀)
C.こうしたことから、銀行に対して「金属・織物・サフラン・その他諸々の商品取引を禁止する」条令が発布された(1374年)。後には「銀行は預金ではなく、自己の資本をもってのみ商品取引を行ってよい」ということが定められた。しかし実際には銀行は、預金を「自らが運用を決定しても差し支えない貸金」とみなし続けた
【資金力ある宗教団体】
D.聖界の諸団体は借り入れを行うものがあった一方で、保有する資金を貸し付て莫大な利益を得たものもあった。教会・修道院は早くから貸金業者として活動しており、彼らは特に「自由農民と半自由農民に対して、その土地を担保に貸し付けた」のだった(10世紀)。皇帝ハインリヒ3世と4世は修道院から巨額の貸付を受けた(11世紀)
E.彼らが貸付の元手とした資金の源泉は「a.信者から奉納された莫大な寄進の集積」と「b.唯一の安全な場所であった教会・修道院に、人々が莫大な財産を預けた」ものだった
F.中世盛期には「テンプル騎士団:イェルサレムの神殿・聖地巡礼者の保護を目的として創設(1119~1312年)」「ドイツ騎士団:戦闘的な宗教騎士団(1190年設立)」「ヨハネ騎士団:第1次十字軍の頃にイェルサレムで設立」「フランシスコ修道会:聖フランシスコにより創立(1209年)」とともに、銀行としての聖界施設の活動はいっそう発展した
【特筆すべきテンプル騎士団の活動】
1.パリとロンドンに本店を、フランスと東方諸国の諸都市に支店を持つ、この時期のヨーロッパで最も主要な銀行だった
2.イングランドとフランスの国王・修道院・大領主たちは「彼らの資産をテンプル騎士に投資した」「租税・土地所有からの収益を委託した」「為替手形の取り立て・金銭の委託・終身年金の払い渡しを委任した」。さらに「貸金,保証に立つこと」を求めた
3.「十字軍1/10税,教皇献金,その他十字軍のために定められた諸貢租の徴収」を引き受けた
4.必要な金額のヨーロッパからオリエントへの送金業務にも従事した
5.多数のフランス領主や諸国王(例:ジョン失地王,アラゴン王,ナポリ王,とりわけ歴代フランス王-フィリップ2世・ルイ9世・フィリップ3世・フィリップ4世-)の財政を管理した
6.騎士団の“本店”は国王の国庫となり「国家の歳入はそこに流れ込んだ」「国王に代わってそこから支払いが行われ、俸給・恩給が払い渡され、債務が返済され、外交官に貨幣が引き渡され、団体への補助金が支払われた」のだった
(4)金額業者としてのユダヤ人
A.彼らの営む信用業務は著しく発展し(11~12世紀)、多くの顧客は「借り入れをした」「債務の保証と返済のために、関税・租税を抵当に入れた」「しばしば財政の管理さえも委託した」のだった
☆顧客リスト:
国王ハインリヒ2世,ハンガリー国王,シュレージェン公,カンタベリー大司教,バムベルク司教,コンスタンツ司教,フランス・イングランドの諸修道院,レスター伯,モンペリエ伯,トゥールーズ伯
B.ドイツではユダヤ人貸金業者の債務者リストの中に、とりわけ手工業者(例:靴屋,仕立屋,馬具工)が登場する(15世紀)。彼らは原料を抵当に入れて低利の短期貸付を受けた。ニュルンベルクでは手工業者に対して「原料を抵当に入れて『原料品の価値+加工のための労賃』以上の貸付を受けること」を禁じた
★これに対して農民は、主として修道院やイタリア人・ドイツ人の商人から借金した
【業務の記録】
1.コブレンツの大司教領(トリーア大司教)では、ユダヤ人財務官が彼の書記とともに国庫を管理し、帳簿をヘブライ語で記入した
2.アルル司教のためにロンバルディアの船から、1隻につき輸入関税として20ソリドゥスを徴収した。また、ユダヤ人のために4ソリドゥスが徴収された。輸出関税として商品価格の1/13が司教に納付されたが、そのうち1/9がユダヤ人のものとなった
3.ザクセン大公はあるユダヤ人に貨幣鋳造を委ね、鋳貨の刻印はヘブライ文字と大体似通ったものだった
4.トリーア大司教領でもヴュルツブルク司教領ても、ユダヤ人が鋳貨親方として活躍していた(12世紀)
5.ユダヤ人シモン・ジークブルクが絞首刑に処された(1377年)が、彼に対してはライン下流域の騎士・領邦君主たちは合計27,000マルクの債務を負っていた
6.ユダヤ人シモン・ゼルゲンシュタットは、ライン諸都市に火器購入のために莫大な金額を貸し付けた。更にフランクフルトとも10,000グルデン以上の貸付契約を結んだ
7.スペインでは租税徴収・財政管理はユダヤ人の手中にあった(~15世紀末)。フェルディナンドとイザベラの治世下の大蔵大臣は、ユダヤ人ドン・イサク・アブラヴァネルだった
(5)イタリア人金融業者の活躍
A.ピアツェンツァ・ボローニャ・ローマからやって来た商人たちによる、フランス・イングランドでの金融業務(12世紀末~)に続いて、アスティ・ルッカ・シエナ・フィレンツェの銀行業者が登場した。フィレンツェからはまず三大商事会社(バルディ,ベルッツィ,アッキアジュオリ)が、更にアルベルティ家が、後にメディチ家が加わった(15世紀後半~)
B.フィレンツェの商事会社はそれぞれ「10~20人の社員を数え、社員の出資財産・局外者の預金が結合した莫大な資本を有していた」
〈例〉バルディ商事会社(1310年)には社員15人がおり、彼ら代表者のうち「5人はイングランド,6人はフランドル,4人はフランスとシャンパーニュ」に居住していた。その債務者リスト:
「イングランド国王,ナポリ国王,キプロス国王,ロードス騎士団長,教皇ヨハネス22世のいとこ,オルシニ枢機卿,スポレト司教,ファマグスタ司教,イングランドの高位聖職者・修道院・世俗の有力者,ユダヤ人,ピアツェンツァの道化役者,アントウェルペンの仲買人,ヘントとブリュッセルの宿屋の主人」までがいた
C.イングランド(エドワード1世・3世治下)・フランス(フィリップ4世と彼の後継者治下)・ナポリ王国・フランドルにおいて、フィレンツェの金融業者は「貨幣鋳造所の賃借,租税の徴収,預金の管理」を引き受けた。また諸侯の銀行業者としても活動した
【経営破綻(14世紀)まで】
D.しかしフィレンツェの商事会社の活動は短期間にとどまった。商品取引において与えられた特権を享受し続け、さらに新たな特権を手に入れるためには、国王・諸侯に莫大な貸付を行うしかなかった。その際商事会社は他人資本をこれに充てており(例:バルディ会社の貸金総額は自己資本の8倍以上だった)、財務は全く不健全だった
E.一方で預金の受け入れは、イタリアの広範囲にわたって行われた。人々は高金利に惹き付けられて預金をしたので、銀行の破産は広範囲にわたって巻き添えを喰らわせる結果となった
【預金について】
F.利子付きの預金はヴェネツィア(13世紀初)で知られており、フィレンツェの商事会社もこの業務を行った。特殊なものとして「大市から大市までで6%(=年に36%)の利子が支払われた、シャンパーニュ大市での預金」があった
G.諸侯など世俗の有力者・聖界の有力者(枢機卿,騎士団長,修道院長)もフィレンツェの会社に投資をした人々だった。それは「利益配当を受けられる預金」or「8~12%の確定利子預金」だった
H.イタリアの商事会社がイングランド・フランス・両シチリア王国において「1/10税,その他教皇に納付すべき貢租,関税の徴収」を引き受けたことによって、預金の金額は急増した。これらの業務によって流れる莫大な金額が商事会社に預金されたのだった
〈例〉スピニ商事会社には教皇の貨幣が137,000金貨フローリンも預金された(1300~03年)
I.預金の中から商事会社によって、教皇や国王の債権者に対する支払いか必要に応じて行われた
〈例〉教皇庁の命によって10ヶ月間(1323~24年)で230,000金貨フローリンが、アッキアジュオリ商事会社からボローニャ副枢機卿ベルトラネオに支払われた
【破産の連続と新勢力】
J.国王の債務不払いの結果として大商事会社の破産は避けられなかった。フィレンツェの有名な商会(モッチ,スピニ,フレスコバルディ,ケルキ・ネリ,ケルキ・ビアンキ)に続いて、フランス国王の宮廷銀行家グイド・フランツェシの破産が起こった(1308年)。さらに三大商事会社が破産を宣告される(14世紀中葉)
K.やがてフィレンツェのメディチ家が台頭し「広範な商品取引,あらゆる銀行所在地との金融取引,預金の受け入れ,諸侯・封建領主・商人・手工業者に対する貸付」を行った
L.ジェノヴァの銀行業者は代表者・代理商をフランス・スペイン・コンスタンティノープル・パレスチナへと派遣していた(12・13世紀~)。しかしジェノヴァとヴェネツィアの銀行の発展は、フィレンツェに比べて遅かった(14・15世紀~)
〈例〉ヴェネツィアの有名な銀行ソランツォ,ジェノヴァの銀行ケントゥリオーニ。特に後者には教皇冠が動産抵当として質入れされたほどだった(後にロレンツォ・メディチによって買い戻されたが)
【サン・ジョルジョ銀行】
M.ジェノヴァに最初の公立銀行であるサン・ジョルジョ銀行が設立された(1407年)。これは都市国家ジェノヴァに対する多数の債権者団体が、1つの統一された組織に結合して生まれたものだった。これによって既存の高利の債務は7%の配当に固定されたが、時の経過とともに別に配当が支払われた(例:1416年)
N.常に貨幣が欠乏していたジェノヴァ共和国にとって、この銀行によって必要な金額が用立てられることになった。一方で共和国の責任で必要な利払いが行われたが、その際に「国家の様々な財源,植民地」が委託されていき、間もなく共和国の特権・植民地のほとんど全てがこの銀行の手に渡った
O.相場の変動によって、サン・ジョルジョ銀行の配当は活発な投機対象となった(15世紀)。これは後世のイングランドの整理公債の相場のような特色を有していたという
(6)利子の徴収
A.利付きの貸出は、教会から“高利貸し”として声高に非難され、教会法においても否定された(利子を徴収した聖職者には聖職剥奪,後者には破門が規定されていた)。だが、高利禁止はずっと維持されていた(中世後期においても)にもかかわらず、その法の網をくぐった様々な方策が存在していた
【1つの抜け道】
B.「a.支払い期日を守らないことに対する、債権者の損害に対して認められている利子(※いわば延滞利息)」と「b.貸付を行った結果として失う利益に対して要求できる利子(※いわば機会利益)」が、きちんと区別されていた。トマス・アクィナスはb.を容認しなかったものの、a.の賠償については債権者と債務者は協定することができる、と認めた
C.そこでこの区別を利用して、貸付時にとても短い返済期限を設定し(もちろんこの期間内は利子徴収は許されない)、それ以降の期間についての「全ての利子を延滞利息として計算する」という手段が採られた
【その他の抜け道】
1.債務契約の締結時に貸出と返済を異なる鋳貨で行う方法。これは「鋳貨交換の際に得られる相場の差」として、利子が徴収された
2.単純に、証書に記入する金額を実際の貸出高よりも大きくする
3.しばしば「債権者が負った費用に対する謝礼」という名目でも認められた
4.往々にして単刀直入に「利子」を条件としたこともある
【利子徴収に対する意識】
D.確かに金融業者は、徴利に対して「罪深い」という意識を持っており、多くの商人は良心の呵責に苦しんでいた。そのために「a.臨終の床で債務者に対する利子の返還を遺言する」「b.遺言によって貧民に貨幣を分配する」「c.貸付業務によって得られた財産の全てを教会に寄進する」などした
E.様々な慈善施設は教皇から「貸付行為に基づいた財産の寄進を受け付ける特権」を与えられていた。有名な銀行業者は教会の怒りを避けるべく、また自身の霊魂の救済への配慮から「d.毎年収入の一定部分を修道院・宗教団体に寄付する」のを常とした
【浸透していた利子徴収】
F.このような利子により蓄積された財産からの寄進を受け付けたことはともかくとしても、教皇庁自らが「フィレンツェの金融業者からの貸付に対して利子を支払っていた」ほどだったから、教会が利子の徴収を廃止するのはなおさら不可能だった
G.“モンテス・ピエターティス”(慈善の山)という名の下に、教会によって「公共の目的に役立ち、民衆が貸金業者によって奴隷に落とされるのを守るべきもの」として設けられた質屋でさえ、貸付を行う場合には「8~15%の利子」を要求した
H.このような事情だったので、イタリア商人は本国で一般的に行われていた貸付利子を(他地域で)公然と唱えたとしても、それは不思議ではなかった
〈例〉イタリアの算術教科書には利息計算の例題がのっている(13世紀初)。聖イヴェッタ(13世紀)は、子供たちのために父親が現金を利子付きで貸すことを承認した
【利子徴収への対抗と結果】
I.利子禁止は実生活において実行不可能なのだが、教会法によって利子付きの債務契約が無効とされている以上、これを引き合いに出して元利払いを拒否する口実とする債務者がしばしば現れた。そこでジェノヴァの貸金業者は、貸付契約の際に「債務者が高利に対してあらゆる抗議を行わないことを約束させる」手段を採った
J.国王は教会法を利用し、彼の債権者を“高利貸し”として告訴した。しかしこの手段に訴えたリチャード2世はあらゆる信用を失った。さらにこのことによって、金銭貸付に伴う債権者のリスクが増大したため、貸付利率はいっそう上昇した
【実際の利率】
K.シャンパーニュの大市で勅令(1311年)により認可された利率は20%だった。この利率はヴェネツィアとジェノヴァ(どちらも12~13世紀)で支配的だったようだ
L.しかし多くの場合において、一般の貸付には20~50%(時にはそれ以上)が適用された。商人の貸付信用(遠隔地商業に伴うリスクがある)に適用された一般的な利率は、これよりもはるかに高かった
〈例〉ヴェネツィアでは2~3ヶ月の商用旅行1件に対して25~50%,フィレンツェでは同じく20~30%。したがって年利率は100%を優に越える
M.一方でユダヤ人金融業者には規制がかけられた。ユダヤ人がフィレンツェに告訴した(1430年)ことにより、彼らの貸付には20%の利率が認められたものの、これは15%に引き下げられた
○信用(Credit)の形態
(1)商業向け信用
A.中世の信用は諸侯・都市の公信用であれ、ほとんどが消費信用であった点に特徴がある。これに反して商業信用(商取引向けの貸付)ははるかに小さな割合でしかなく、これが十分に発達したのは地中海商業においてだけだった
B.イタリア・南フランスの商人の間では、商品供給の売買契約に信用を咬ませるのは日常的な現象であり、その期間は「8日~3ヵ月半」の間で決められた
【ドイツ商人たちの信用事情】
C.ハンザ商人は「外国人に商品を掛け売りする,外国人の商品を掛けで買う」ことは認めていなかった。しかしこの規定を守り通すのは、ロシアやバルト海沿岸諸都市との商取引ですら無理であり、ましてや他の商業地ではいっそう不可能だった(ハンザ商人は掛けでの取引を強制された)
D.こうした商行為が広く行われていたことは、フランスやドイツの商人たちの営業帳簿により明らかとなっている。というのは「a.帳簿に記入されるのはそもそも信用供与を前提としていた」「b.現金取引の際の記入は不要と見なされていた-なぜならそれ以上の支払い義務は発生しないから」という背景が存在したからだった
E.南ドイツ諸都市-オーストリア間の商取引では、南ドイツの商人サイドからオーストリアの顧客に信用を供与するのが一般的な現象だった
F.しかし「a.未回収の債務が発生すれば自ら取り立てのために旅行しなければならない」し、また往々にして「b.現金ではなく商品による支払いを受け取らねばならない」といった事情によって、商取引はかなり阻害された
【支払い期間などの設定】
1.支払い期間は「1ヶ月~6ヶ月の間」で定められたが、信用はしばしば1年まで延長された(唯一の例外として1年半という期間も存在する)
2.教会の大祭(例:復活祭,聖霊降臨祭,聖ミカエルの日,クリスマス)や、重要な大市(例:フランクフルトの大市)を支払い期日として定めることが、特に好まれていた
3.しばしば支払いは特定の日ではなく、おおよその期間だけが規定された(例:航海の再開後,春期,復活祭と聖霊降臨祭の間,秋期)
4.場合によっては、債権者が「自分の考えで、早い期日or遅い期日に支払いを要求できる」権利を持っていた
(2)商業と貸付業務
A.イタリア商業では、商品の信用供与のみならず純粋な貸付業務も利用された。その形式は「a.大市に往来する商人が無事帰郷した場合に、貸し付けられた金額と利子をまとめて返済する義務を有する」というものと「b.債務者が為替手形を振り出す」ものがあった
B.a.の場合は「陸海の商業旅行において債務者が無事でなければ返済が滞る」リスクがあったが、b.だと「あらゆる不慮の災害とは無関係に返済を保証する支払い約束だった」という点が異なる
C.さらにb.は、中世の為替手形の特徴(貸金の受取場所と返済場所が異なる)を有したまま「商品取引の際の支払い猶予,貸金提供の際に利用された一般的な手段」となっていった
(3)銀行と金融業者
A.信用業務の形式は「銀行が預託された預金を商品取引に用いる」ことであったから、預金者から預金の返還請求が行われた場合には困難が生じた。したがって、銀行が払い戻しそのものを回避しようと努力したことも稀ではなかった
B.さらに商品取引の失敗はしばしば銀行を破産に導いた。その場合には預金者は預金を全て失った
〈例〉ヴェネツィアでは103の銀行中96が、たいていは商品取引に手を出したために、払い戻し請求に応じられなくなり破産した(14世紀)
C.こうしたことから、銀行に対して「金属・織物・サフラン・その他諸々の商品取引を禁止する」条令が発布された(1374年)。後には「銀行は預金ではなく、自己の資本をもってのみ商品取引を行ってよい」ということが定められた。しかし実際には銀行は、預金を「自らが運用を決定しても差し支えない貸金」とみなし続けた
【資金力ある宗教団体】
D.聖界の諸団体は借り入れを行うものがあった一方で、保有する資金を貸し付て莫大な利益を得たものもあった。教会・修道院は早くから貸金業者として活動しており、彼らは特に「自由農民と半自由農民に対して、その土地を担保に貸し付けた」のだった(10世紀)。皇帝ハインリヒ3世と4世は修道院から巨額の貸付を受けた(11世紀)
E.彼らが貸付の元手とした資金の源泉は「a.信者から奉納された莫大な寄進の集積」と「b.唯一の安全な場所であった教会・修道院に、人々が莫大な財産を預けた」ものだった
F.中世盛期には「テンプル騎士団:イェルサレムの神殿・聖地巡礼者の保護を目的として創設(1119~1312年)」「ドイツ騎士団:戦闘的な宗教騎士団(1190年設立)」「ヨハネ騎士団:第1次十字軍の頃にイェルサレムで設立」「フランシスコ修道会:聖フランシスコにより創立(1209年)」とともに、銀行としての聖界施設の活動はいっそう発展した
【特筆すべきテンプル騎士団の活動】
1.パリとロンドンに本店を、フランスと東方諸国の諸都市に支店を持つ、この時期のヨーロッパで最も主要な銀行だった
2.イングランドとフランスの国王・修道院・大領主たちは「彼らの資産をテンプル騎士に投資した」「租税・土地所有からの収益を委託した」「為替手形の取り立て・金銭の委託・終身年金の払い渡しを委任した」。さらに「貸金,保証に立つこと」を求めた
3.「十字軍1/10税,教皇献金,その他十字軍のために定められた諸貢租の徴収」を引き受けた
4.必要な金額のヨーロッパからオリエントへの送金業務にも従事した
5.多数のフランス領主や諸国王(例:ジョン失地王,アラゴン王,ナポリ王,とりわけ歴代フランス王-フィリップ2世・ルイ9世・フィリップ3世・フィリップ4世-)の財政を管理した
6.騎士団の“本店”は国王の国庫となり「国家の歳入はそこに流れ込んだ」「国王に代わってそこから支払いが行われ、俸給・恩給が払い渡され、債務が返済され、外交官に貨幣が引き渡され、団体への補助金が支払われた」のだった
(4)金額業者としてのユダヤ人
A.彼らの営む信用業務は著しく発展し(11~12世紀)、多くの顧客は「借り入れをした」「債務の保証と返済のために、関税・租税を抵当に入れた」「しばしば財政の管理さえも委託した」のだった
☆顧客リスト:
国王ハインリヒ2世,ハンガリー国王,シュレージェン公,カンタベリー大司教,バムベルク司教,コンスタンツ司教,フランス・イングランドの諸修道院,レスター伯,モンペリエ伯,トゥールーズ伯
B.ドイツではユダヤ人貸金業者の債務者リストの中に、とりわけ手工業者(例:靴屋,仕立屋,馬具工)が登場する(15世紀)。彼らは原料を抵当に入れて低利の短期貸付を受けた。ニュルンベルクでは手工業者に対して「原料を抵当に入れて『原料品の価値+加工のための労賃』以上の貸付を受けること」を禁じた
★これに対して農民は、主として修道院やイタリア人・ドイツ人の商人から借金した
【業務の記録】
1.コブレンツの大司教領(トリーア大司教)では、ユダヤ人財務官が彼の書記とともに国庫を管理し、帳簿をヘブライ語で記入した
2.アルル司教のためにロンバルディアの船から、1隻につき輸入関税として20ソリドゥスを徴収した。また、ユダヤ人のために4ソリドゥスが徴収された。輸出関税として商品価格の1/13が司教に納付されたが、そのうち1/9がユダヤ人のものとなった
3.ザクセン大公はあるユダヤ人に貨幣鋳造を委ね、鋳貨の刻印はヘブライ文字と大体似通ったものだった
4.トリーア大司教領でもヴュルツブルク司教領ても、ユダヤ人が鋳貨親方として活躍していた(12世紀)
5.ユダヤ人シモン・ジークブルクが絞首刑に処された(1377年)が、彼に対してはライン下流域の騎士・領邦君主たちは合計27,000マルクの債務を負っていた
6.ユダヤ人シモン・ゼルゲンシュタットは、ライン諸都市に火器購入のために莫大な金額を貸し付けた。更にフランクフルトとも10,000グルデン以上の貸付契約を結んだ
7.スペインでは租税徴収・財政管理はユダヤ人の手中にあった(~15世紀末)。フェルディナンドとイザベラの治世下の大蔵大臣は、ユダヤ人ドン・イサク・アブラヴァネルだった
(5)イタリア人金融業者の活躍
A.ピアツェンツァ・ボローニャ・ローマからやって来た商人たちによる、フランス・イングランドでの金融業務(12世紀末~)に続いて、アスティ・ルッカ・シエナ・フィレンツェの銀行業者が登場した。フィレンツェからはまず三大商事会社(バルディ,ベルッツィ,アッキアジュオリ)が、更にアルベルティ家が、後にメディチ家が加わった(15世紀後半~)
B.フィレンツェの商事会社はそれぞれ「10~20人の社員を数え、社員の出資財産・局外者の預金が結合した莫大な資本を有していた」
〈例〉バルディ商事会社(1310年)には社員15人がおり、彼ら代表者のうち「5人はイングランド,6人はフランドル,4人はフランスとシャンパーニュ」に居住していた。その債務者リスト:
「イングランド国王,ナポリ国王,キプロス国王,ロードス騎士団長,教皇ヨハネス22世のいとこ,オルシニ枢機卿,スポレト司教,ファマグスタ司教,イングランドの高位聖職者・修道院・世俗の有力者,ユダヤ人,ピアツェンツァの道化役者,アントウェルペンの仲買人,ヘントとブリュッセルの宿屋の主人」までがいた
C.イングランド(エドワード1世・3世治下)・フランス(フィリップ4世と彼の後継者治下)・ナポリ王国・フランドルにおいて、フィレンツェの金融業者は「貨幣鋳造所の賃借,租税の徴収,預金の管理」を引き受けた。また諸侯の銀行業者としても活動した
【経営破綻(14世紀)まで】
D.しかしフィレンツェの商事会社の活動は短期間にとどまった。商品取引において与えられた特権を享受し続け、さらに新たな特権を手に入れるためには、国王・諸侯に莫大な貸付を行うしかなかった。その際商事会社は他人資本をこれに充てており(例:バルディ会社の貸金総額は自己資本の8倍以上だった)、財務は全く不健全だった
E.一方で預金の受け入れは、イタリアの広範囲にわたって行われた。人々は高金利に惹き付けられて預金をしたので、銀行の破産は広範囲にわたって巻き添えを喰らわせる結果となった
【預金について】
F.利子付きの預金はヴェネツィア(13世紀初)で知られており、フィレンツェの商事会社もこの業務を行った。特殊なものとして「大市から大市までで6%(=年に36%)の利子が支払われた、シャンパーニュ大市での預金」があった
G.諸侯など世俗の有力者・聖界の有力者(枢機卿,騎士団長,修道院長)もフィレンツェの会社に投資をした人々だった。それは「利益配当を受けられる預金」or「8~12%の確定利子預金」だった
H.イタリアの商事会社がイングランド・フランス・両シチリア王国において「1/10税,その他教皇に納付すべき貢租,関税の徴収」を引き受けたことによって、預金の金額は急増した。これらの業務によって流れる莫大な金額が商事会社に預金されたのだった
〈例〉スピニ商事会社には教皇の貨幣が137,000金貨フローリンも預金された(1300~03年)
I.預金の中から商事会社によって、教皇や国王の債権者に対する支払いか必要に応じて行われた
〈例〉教皇庁の命によって10ヶ月間(1323~24年)で230,000金貨フローリンが、アッキアジュオリ商事会社からボローニャ副枢機卿ベルトラネオに支払われた
【破産の連続と新勢力】
J.国王の債務不払いの結果として大商事会社の破産は避けられなかった。フィレンツェの有名な商会(モッチ,スピニ,フレスコバルディ,ケルキ・ネリ,ケルキ・ビアンキ)に続いて、フランス国王の宮廷銀行家グイド・フランツェシの破産が起こった(1308年)。さらに三大商事会社が破産を宣告される(14世紀中葉)
K.やがてフィレンツェのメディチ家が台頭し「広範な商品取引,あらゆる銀行所在地との金融取引,預金の受け入れ,諸侯・封建領主・商人・手工業者に対する貸付」を行った
L.ジェノヴァの銀行業者は代表者・代理商をフランス・スペイン・コンスタンティノープル・パレスチナへと派遣していた(12・13世紀~)。しかしジェノヴァとヴェネツィアの銀行の発展は、フィレンツェに比べて遅かった(14・15世紀~)
〈例〉ヴェネツィアの有名な銀行ソランツォ,ジェノヴァの銀行ケントゥリオーニ。特に後者には教皇冠が動産抵当として質入れされたほどだった(後にロレンツォ・メディチによって買い戻されたが)
【サン・ジョルジョ銀行】
M.ジェノヴァに最初の公立銀行であるサン・ジョルジョ銀行が設立された(1407年)。これは都市国家ジェノヴァに対する多数の債権者団体が、1つの統一された組織に結合して生まれたものだった。これによって既存の高利の債務は7%の配当に固定されたが、時の経過とともに別に配当が支払われた(例:1416年)
N.常に貨幣が欠乏していたジェノヴァ共和国にとって、この銀行によって必要な金額が用立てられることになった。一方で共和国の責任で必要な利払いが行われたが、その際に「国家の様々な財源,植民地」が委託されていき、間もなく共和国の特権・植民地のほとんど全てがこの銀行の手に渡った
O.相場の変動によって、サン・ジョルジョ銀行の配当は活発な投機対象となった(15世紀)。これは後世のイングランドの整理公債の相場のような特色を有していたという
(6)利子の徴収
A.利付きの貸出は、教会から“高利貸し”として声高に非難され、教会法においても否定された(利子を徴収した聖職者には聖職剥奪,後者には破門が規定されていた)。だが、高利禁止はずっと維持されていた(中世後期においても)にもかかわらず、その法の網をくぐった様々な方策が存在していた
【1つの抜け道】
B.「a.支払い期日を守らないことに対する、債権者の損害に対して認められている利子(※いわば延滞利息)」と「b.貸付を行った結果として失う利益に対して要求できる利子(※いわば機会利益)」が、きちんと区別されていた。トマス・アクィナスはb.を容認しなかったものの、a.の賠償については債権者と債務者は協定することができる、と認めた
C.そこでこの区別を利用して、貸付時にとても短い返済期限を設定し(もちろんこの期間内は利子徴収は許されない)、それ以降の期間についての「全ての利子を延滞利息として計算する」という手段が採られた
【その他の抜け道】
1.債務契約の締結時に貸出と返済を異なる鋳貨で行う方法。これは「鋳貨交換の際に得られる相場の差」として、利子が徴収された
2.単純に、証書に記入する金額を実際の貸出高よりも大きくする
3.しばしば「債権者が負った費用に対する謝礼」という名目でも認められた
4.往々にして単刀直入に「利子」を条件としたこともある
【利子徴収に対する意識】
D.確かに金融業者は、徴利に対して「罪深い」という意識を持っており、多くの商人は良心の呵責に苦しんでいた。そのために「a.臨終の床で債務者に対する利子の返還を遺言する」「b.遺言によって貧民に貨幣を分配する」「c.貸付業務によって得られた財産の全てを教会に寄進する」などした
E.様々な慈善施設は教皇から「貸付行為に基づいた財産の寄進を受け付ける特権」を与えられていた。有名な銀行業者は教会の怒りを避けるべく、また自身の霊魂の救済への配慮から「d.毎年収入の一定部分を修道院・宗教団体に寄付する」のを常とした
【浸透していた利子徴収】
F.このような利子により蓄積された財産からの寄進を受け付けたことはともかくとしても、教皇庁自らが「フィレンツェの金融業者からの貸付に対して利子を支払っていた」ほどだったから、教会が利子の徴収を廃止するのはなおさら不可能だった
G.“モンテス・ピエターティス”(慈善の山)という名の下に、教会によって「公共の目的に役立ち、民衆が貸金業者によって奴隷に落とされるのを守るべきもの」として設けられた質屋でさえ、貸付を行う場合には「8~15%の利子」を要求した
H.このような事情だったので、イタリア商人は本国で一般的に行われていた貸付利子を(他地域で)公然と唱えたとしても、それは不思議ではなかった
〈例〉イタリアの算術教科書には利息計算の例題がのっている(13世紀初)。聖イヴェッタ(13世紀)は、子供たちのために父親が現金を利子付きで貸すことを承認した
【利子徴収への対抗と結果】
I.利子禁止は実生活において実行不可能なのだが、教会法によって利子付きの債務契約が無効とされている以上、これを引き合いに出して元利払いを拒否する口実とする債務者がしばしば現れた。そこでジェノヴァの貸金業者は、貸付契約の際に「債務者が高利に対してあらゆる抗議を行わないことを約束させる」手段を採った
J.国王は教会法を利用し、彼の債権者を“高利貸し”として告訴した。しかしこの手段に訴えたリチャード2世はあらゆる信用を失った。さらにこのことによって、金銭貸付に伴う債権者のリスクが増大したため、貸付利率はいっそう上昇した
【実際の利率】
K.シャンパーニュの大市で勅令(1311年)により認可された利率は20%だった。この利率はヴェネツィアとジェノヴァ(どちらも12~13世紀)で支配的だったようだ
L.しかし多くの場合において、一般の貸付には20~50%(時にはそれ以上)が適用された。商人の貸付信用(遠隔地商業に伴うリスクがある)に適用された一般的な利率は、これよりもはるかに高かった
〈例〉ヴェネツィアでは2~3ヶ月の商用旅行1件に対して25~50%,フィレンツェでは同じく20~30%。したがって年利率は100%を優に越える
M.一方でユダヤ人金融業者には規制がかけられた。ユダヤ人がフィレンツェに告訴した(1430年)ことにより、彼らの貸付には20%の利率が認められたものの、これは15%に引き下げられた