『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[28]


○航海の危険


(1)危険の種類と対策

 A.自然現象に起因するものとして主に「暴風雨,無風,岩礁,浅瀬」、人間・技術の限界が原因となるものとして「船長が未熟なために正しい航路を発見できない」「航海に耐えられない船の建造」「船の衝突を引き起こした信号の欠如」、さらには「航海中の食料品・良い飲料水の不足」が挙げられる
 B.(お決まりの)海賊はせいぜい、航海者を略奪して身代金の支払いを要求したに過ぎなかった
 C."報復拿捕制度"によって「犯罪者と同郷の人は、自分の船が抑留・拿捕される」危険があった。また"海浜漂着物取得権"によって「他国の人を無権利者とみなし、自国の海岸に残された難破船の貨物を略取する」行為に晒される危険もあった

【対策】
1.「手抜き造船をなくすための監視」
2.「船に喫水線を定め、荷主のはっきりした許可なしに貨物を積み過ぎた場合には、積み過ぎた貨物の価値に相当する処罰(※罰金?)を船長に課した
3.(公権力による規制)「冬季航海の禁止,航海時間の一定,輸送の護衛,灯台の火・航海信号の維持,など」
4.「羅針盤・鉛垂・船火の使用」
5.「各国間で条約を結ぶことによる"海浜漂着物取得権"の廃止」
〈例〉イタリアの都市共和国間(12世紀),イングランドにおけるハンザの船(1228年~),フランドルにおけるハンザの船(1253年),デンマーク国王に対する権利放棄の強要,オレロン法での追加条項=「海浜漂着物を強奪・隠匿する領主は破門され、略奪&殺人の刑に処せられる」

【神頼み】
1.「人々は船名に聖者の名を選ぶことで、聖者によってその船を特別に保護してもらおうと考えた」
2.「旅に出る前に、聖職者に頼んで船を祝福してもらった」
3.「商業航海による収益の一部を寄進することは当然だった」
4.「航海中に暴風雨に見舞われた際には聖者に祈り、かつ巡礼を行うことを誓った。無事帰還した折りには、クジに当たった1人が全員を代表して誓約を果たさねばならない(巡礼費用は共同分担)」


(2)大海損と相互扶助

【大海損】
 A.これは「航海中に損害が発生した場合には、船or積荷に関係していた者全てがそれぞれ自己の割り当て分を負担しなければならない」という原則のこと(※上記の「巡礼費用は共同分担」もその例)。いわば強制の相互扶助(相互保険)である
 B.航海中においては、全体を維持するために個人の利益を犠牲にしなければならないケースがしばしば発生した(例:船の沈没を防ぐために「積荷を海中に投げ棄てる,マストや錨綱を切断する」)。また「座礁した時に艀で陸揚げする費用」「航海の継続に必要と見なされた修理」「海賊に対する身代金支払い」も、大海損として取り扱われた

【相互扶助の原則】
 C.中世の兄弟団・ギルド・ツンフトその他の団体では「その成員の誰かが病気・死亡・家屋焼失に見舞われた際には、成員同士で互いに助け合う」=相互扶助の原則が必ず存在していた。特殊な団体として「難破の際には成員がお互いに救助しあう義務を持つ」というのもあった
 D.この場合には、上記(1)にある予防策ではなく「既に発生した損害をいかにしてカバーしあうか」が問題だった。というのは「船と商品に関与した人々は、いわば兄弟である」と見なされたからだった


(3)損害保険の誕生

 A.団体的な相互扶助(成員全てが保険者であり被保険者だった)とは別に、本来の「保険料支払いの保険(保険者と被保険者は別)」が登場した。最初は海上保険として制度化され、続いて陸上での商品輸送の保険も登場した

【海上貸付】
 B.古代から存在した"海上貸付"が起源だった。これは「船が無事に航海を終えられなかった場合には、借り手は利子だけでなく元本の返済義務も負わない」というもので、これによって貸し手が航海中の様々なリスクを負担していた
 C.もし航海が無事成功した場合、貸し手は(元本返済に加えて)通常受け取ることができる以上の利子を手に入れた。この利子の中には「リスク引受に対する保険料」が含まれていた

【損害保険への進化】
 D.保険契約者(事業者)が資金を必要としない場合には、海上貸付における「貸付」の要素は明らかに余分だった。過渡期を経てこの部分が無くなり「不幸な結果となった場合にのみ、保険契約者に保険金を支払う」純粋な保険の誕生となる(14世紀後半)
 E.しかし純粋な保険の初期においては「保険業者が幾つもの保険契約を受け、大数の法則によってリスクを管理する」方式は全く欠けていた。きわめて僅かな義務しか行わなかった保険業者は、基本のリスク分散が出来なかったから「保険義務はある種の投機的な性質を帯び、保険料もきわめて高いものとならざるを得なかった」。いわば「契約者(被保険者)の事業が成功することに賭ける、一種の博打」であった(成功時には被保険者が保険料を支払い、失敗時には保険業者が保険金を支払う)。それでもこの「博打」は契約として法律上有効だった
 F.やがてイタリア諸都市において「リスクが多数の(5~15人)保険業者に割り当てられ、各業者の投機度合いが相当軽減されている」保険契約も出現した(14世紀末~)。この時期以降のイタリアでは、多数の保険契約を締結した個人(or団体)も登場する

【保険の普及】
 G.保険契約は故郷であるイタリアからネーデルランドへと広がり、ジェノヴァ人・フィレンツェ人・ヴェネツィア人が保険業者として登場した(15世紀)。イベリア半島にも広がる一方で、中世ドイツでは全く知られていなかった
 H.ハンザ商人は「ある地から海上輸送されるべき貨物を何隻もの船に分散して運び、全てがダメになる危険を避ける」方式に拘った(もちろんこの基本的な習慣はよそでも長い間、海上保険と並んで用いられていた)
 I.大ラーフェンスブルク会社の場合、陸上輸送では貨物に対する保険は使われなかったようだ。貨物は(荷馬車の御者or貨物を背負ったラバの御者が責任を全く負わなかった限りでは)会社の危険分担で運ばれた。海上輸送ではジェノヴァ~アントウェルペンのルートにおいて、後世になると貨物に対して険が掛けられたが、これは自然災害よりも海賊による損害を恐れていたからだった
「損害が生じないよう、常に一切の物に保険を掛ける。というのは、つい最近もドイツ人はブルターニュの海岸でリスボンから香辛料を積んできた船を失い、莫大な損害を受けたからである。ウェルザー家は胡椒60袋、ホッホシュテッター家も60袋、レーリンガー家は20袋を有していたので、まことに大打撃である。神は正直な人々に損害を補償する。彼らは…常に保険は愚行である、と考えていた」(1517年の記事から)
『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[27]


○船の利用


(1)商人と船

 A.商人は本来「自分の商品を自分の所有船に積み込んで、自ら操舵して運ぶ(つまり船主=荷主)」スタイルで活動していた。あるいは「船と積み荷の多数の共同所有者である商人たちが皆乗り込む」のだった(※単独所有よりも共有の方が圧倒的に多かったようだ)。やがて「船主と荷主が別」となり、さらには「船主ではない航海指揮者(=船長)が雇われる」形へと発展した

【船の所有形態】
 B.船は「商人,船の艤装に参加した船大工・手工業者」からなる多数の船舶共有者の所有物だった。所有者のかなりの部分は商人が占めていたが、彼らは各自何隻もの船に持ち分を有するのが通常だった
 C.ハンザ地域ではほとんど全ての船が共有であり、1個人が何隻もの船を単独所有していた事例はない。ドイツ騎士団の全盛期ですら、ほんの僅かな船しか所有しておらず、極めて多数の持分(1/2,3/8,1/4,3/16など)を有していた
 D.地中海地域では1/16の持分が多かったが、中には1/50,1/70といった極めて小さな持分も存在した。これらは相続・売却・質入れの対象となった

【運営】
 E.「商人(or他の船舶共有者)の1人が、船の管理を引き受けている」or「彼らによって船長が任命される」ことで、船は運営された。ただしこの船長も商人である点に注意しなければならない
 F.船長は「a.貨物の輸送に加えて、目的地での商品販売も行わねばならなかった(当然、販売利益の一部は彼のものとなる)」。また「b.自分のリスクで仕入れ・販売するための商品を、無料で船に積み込む権利をも有する」。さらには「c.船長は販売受託だけでなく、その売上金で目的地において新しい商品を購入しなければならない」のだった。船長は「d.たいていは船舶所有の持分(1/4,1/8など)も譲与されていた」
 G.荷主(当然しばしば船主でもある)と船員の間には組合関係があった。また船長と船員との間に厳密な区分は無く、両者の間にも組合関係があった。これは「重要な航海規則は、船長・船員・乗船した荷主が会議を開いて共同で審議決定した」という事実からわかる
〈各地の海法に見る組合関係〉
1.「場合によっては、船員の賃金は荷主から支払われた〔ハンブルク船舶法〕」
2.「見習い船員(“水夫”と呼ばれた)も取引に参加できた。もし船主が荷積みに関して能力不十分な場合には、船長が船主に代わって荷積みを行った〔リューベック船舶法〕」
3.「営業の一般形式(12世紀)は、船主と船員が積荷出資者とともに『共同の利益で運行する』コロンナ形式だった〔アマルフィ〕」
4.「船員の賃金は“荷積みは賃金の母なり”の原則に基づいて変動した。賃金は船主が請け負った貨物の輸送が正確に実行された場合にのみ支払われ、額そのものも積荷の増減とともに変動した〔カタロニアの法律慣例集〕」
 H.ただしピサ(12世紀)では既に、船員が一定の賃金で船主に雇われる(=利益分配には与れない)方式も始まっていた。またカタロニアの法律慣例集でも雇用契約で働く船員が存在している
☆カタロニアの法律慣例集(13世紀頃に成立した)は“Consolat del mar”の名称で広く普及し、少なからず普及していたオレロン法とともに数百年間も適用された
★オレロン法:
 オレロン島(ビスケー湾のシャラント河口にある島)で作成された海商法のこと。ここにある海事裁判所の判決を収録したものに始まる。最古のオレロン法(12世紀か?)は24ヶ条からなるが、次第に追加されていき、新しいオレロン法では47ヶ条からなる。海商法に関して全フランスに承認されただけでなく、西欧・北欧において何世紀にもわたり、国際的に通用した


(2)船の運行

 A.船舶は公海を避けて海岸沿いに航行し、しばしば寄港した。当時は風に逆らって操船する技術はまだ知られていなかった。天候が怪しい場合には、船は「出帆せずに待つ」or「風向きが変わるのを待って、追い風の時に出航した港へ引き返す」しかなかった
 B.バルト海・北海での冬期航海は「11月11日~2月2日(or22日)の3ヶ月間(or3ヶ月と3週間)」中止された。ヴェネツィアとジェノヴァの船団も、冬の間中ずっと晩春に至るまで、東方の港に停泊していた

【海図と羅針儀】
 C.磁石が北を指す特性は、地中海だけでなく北欧・西欧の海でも知られていた(1200年頃)。アレクサンダー・ネッカム(パリの教授:1180-87)は「磁針を航海に使用すべきである」と教え、ギヨー・ド・プロヴァンスは羅針儀のことを「鉄の針を短いストローに横に突き通して水鉢に浮かせ、北を指させる道具である」と詩に書いた(13世紀初)。当時の人々はこれを特に「フリースラント,ギリシア,アッコン,ヴェネツィア」への航海に利用した
 D.アラビアの1著述家は「インド洋を航海する船員は“空洞鉄製の小魚”を使ったが、それは水中に投じると水面に浮遊して、頭と尾で両極を指し示す性質を持っている」と報告している(1242年)。磁針は箱の中に固定されたので、そこから「羅針盤」という名称がおこった。海図・羅針儀・磁石・指示板は1目録(1286~95年)の中に挙げられている
 E.航海用羅針儀は、その補完用具として必要不可欠な海図とリンクして、地中海方面で急速に普及した(14世紀初~)
 F.反対に中世の北海・バルト海水域では、海図は全く知られておらず、羅針儀も航海用としてはそれほど使用されてはいない(羅針儀はあってもそれは「測時器,方位儀」として用いられていた)。というのは、北海や運河の浅い場所では測鉛を使うことができたからだった。また、最古の北方海図は近世に入ってからであった(16世紀中葉)

【航路図・灯台は北方でよく用いられた】
 G.航路・港湾・海流などの記録は、北海地域でも早くから登場した。「ジブラルタルからフィンランドに至るまでの航路の記録を含んだ航路図」は、おそらく「最初に西フランスで作成された→これをフランドルで改良した→ハンザによってバルト海・北海に関して増補された」ようだ
 H.灯台はズント海峡入口のファルステルボェーに近いトラーヴェ河口に建設され(13世紀)、続いてエルベ・ウェーゼル・マースの各河口にも建設された。ただしそれらは常に点火されていたわけではない
 I.ハンザ地域以外では、フランス海岸・地中海・大西洋に灯台が特に多かった。それらは高さ15~19mで、航海者は15~17kmの遠方からこれを視認できた
〈例1〉コルドヴァ岬の灯台〔12世紀〕(古代における聖火が斎女〔いつきめ:神に奉仕する未婚の女性のこと〕によって守られたのと同様に、灯台の火は隠遁者によって守られた)
〈例2〉南欧の代表的な灯台:エーグ=モルト,マルセイユ,バヨンヌの灯台(建設は13世紀)
〈例3〉ラ・ロシェルの港に灯台が建設され(1468年)、その維持は都市の支出によって賄われた
〈例4〉北フランスの代表的な灯台:シェフ・ド・コー(ノルマンディー地方)のサン・アドレス灯台,カレーやダンケルクの灯台(いずれも14世紀中頃)


(3)船について

 A.陸路での輸送速度は1日5マイルを越えなかったが、船は1日に18~20マイル(直線コースをとれば24~32マイル)にも達した。しかし大きな船は珍しかった
〈例1〉ロンドンの市民階級は、120t以上の積載力を有する船を4隻しか所有していなかった(15世紀)
〈例2〉ハンザの船も通常は200~250tを越えるクラスの船は所有せず、その価格も3,000金貨マルク(に換算した価格)を越えなかった
〈例3〉ドイツ騎士団支配下のプロイセン諸都市やリガでは、400tやそれ以上の積載力がある大型船も建造されたが、これらの船は大きすぎたために多くの港(とりわけネーデルランド)には入港できなかった
〈例4〉イタリアのNevenと称する船は「1,000~1,500人を収容し、さらに甲板の下には250tを積載可能」だった
〈例5〉カタロニアにはもっと大きな船があり、420~630tを積載できた

【ナウ船】
 B.これは中世で最も普及した帆船で「a.高い船首と船尾を有した」「b.多くの男たちを必要とする、巨大で幅広い“ラテン帆”を備え、高甲板を有した」重い貨物船だった。やがて1本マストではなく、中央の大マストと並んで「c.上甲板の船首と船尾に各1本の小マストを立てる」のが普通となる(15世紀)
 C.ナウ船の大きな欠点は、航行をほとんど風に依存することだった。船は風が船尾から目的地の方向に直接吹き付けた場合にのみ、順調に進んだ。どうしても航行が時間的に不正確となるので、帆以外に櫂も備えられ、帆は追い風の時だけ利用された

【ガレー船】
 D.これは最も重要な櫂船で、軍艦と商船を兼ねる、まさに地中海商業都市を代表する船だった
 E.ガレー船は「a.1本or2本のマストを持ち、その帆桁には絵を描いた強力なラテン帆を付けていた」。しかし「b.主要動力は25の座席の漕ぎ手であり、各座席で3人の漕ぎ手が交替して櫂を取った」から、当然ながら「c.帆船より多くの乗組員が必要だった」。また、ガレー船の航行能力をより帆走に適したものにしようとする努力が新型船の発達を促し、大型ガレー船や3本帆のガレー船が建造された
 F.ガレー船はヴェネツィア人の造船技術の誇りであり、彼らは櫂の能力を最大限に生かした。国家の手によって(orその指導下に)艤装されて、ジブラルタル~フランドル~イングランドまで航海したヴェネツィアの船団(14世紀初~)はガレー船から構成されていた
 G.ガレー船はその後フィレンツェによって、一部はナポリによっても模倣され、さらにフランスでもジャック・クールの奨励によって模倣された。彼はフランスに「ガレー船の奴隷制度」を採用した最初の人物だった

【コッゲ船】
 H.北方のこの弓型の船型をした船は、構造上地中海のナウ船に似た、やはり重い輸送帆船だった。これは最もよく知られて普及していた(13~14世紀)ハンザの大船で、主として遠洋航海に使用された
 I.コッゲ船は「巨大な『方形』(三角帆ではない)の帆を有するマストが1本だけ船体の中央にある」点が特徴だった。ロマンス語の諸民族からは“カラク船”と呼ばれていた
 J.やがて「船首と船尾を備えた(どちらもコッゲ船には無い)いっそう大型の商船」である“ホルク船”が出現し(15世紀)、遠洋航海においてコッゲ船を圧倒するようになる

【カラヴェル船】
 K.この船はまずスペインとポルトガルに、やがてイタリアにも登場した(15世紀)。これは「a.元来は小型~中型船であり、巨大で動かしにくいナウ船やカラク船よりもはるかに容易に入港できた」(大型船は自力で埠頭に横付けできない)。この船の名称と建造法は[イベリア半島→西フランス→ネーデルランドとドイツ]へと伝わり、この間に大きさは増大した
 L.また「b.ホルク船やその他のハンザの船型にならって、3本マストと索具を装備した」。帆が増えること(帆面の分割)によって、突風時に大帆が受ける危険を少なくするだけでなく、操縦に必要な人数が少なくて済むメリットがあった
 M.南方のナウ船もカラヴェル船にその地位を譲った。コロンブスの艦隊はナウ船の“サンタ・マリア”号の他にカラヴェル船の“ピンタ”号と“ニーナ”号から構成されていた。またガレー船の時代を終わらせる役目も果たした

『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[26]


○交通制度


(1)悪路だらけの中世

 A.道幅が“3頭の馬が並んで歩くことができる”“新郎新婦の馬車が葬式の馬車を避けることができる”ならば、立派なものだと見なされるような状況だった
 B.ヨーロッパの陸上での貨物輸送はどこでも駄馬・騾馬・ロバによって行われ、毎晩積み荷を降ろさねばならなかった。商人は次第に自分で歩くことは無くなっていったが、その場合も馬車(2輪馬車)ではなく馬を使うのが常だった。というのも、比較的大きな車(めったに通行しない)はイタリアを除けば「ちょっと踏みならされただけの森の小径,耕土だった路上」では、転覆する危険があまりにも大きかった
 C.道路は毎年新たに踏みならされなければならなかったし、それでも夏の好天時しか利用できなかった(冬や悪天候時には通行すらできなかった)。イングランドでは「旅行中の事故による犠牲者の検死の記録」が非常に多く、これは「劣悪な路上で馬車が転覆して、車両がめちゃくちゃに壊れる・水中に投げ出される」などして命を失った者たちだった

【為政者の対策例】
 D.皇帝ジギスムントの法令では、罰金を公共の目的に使用するとして「娼婦&犯罪者から都市に入ってくる収入は道路の修繕に用いられるべき」だった
 E.低地ドイツの諸都市(例:リューベック,ハンブルク,ダンツィヒ,エルピング,ヴィスマール,グライフスヴァルト)では「a.遺言の中で道路の整備・維持に寄進するのが習慣だった」のが、後には「b.義務化され、遺産の5~10%を遺贈しない遺言は無効とされた。ただし道路はしばしば指定できた」。さらに「c.しばしば婚約の際にも道路補修のための貢租が徴収された」

【馬車】
 F.シャルル・ダンジューのナポリ入城(1266年)の際、婦人たちは“カレーテン”と呼ばれる4輪幌馬車を使った。特に「内外ともに黄金の百合を刺繍した、淡い青色のビロードで覆われた王妃の馬車」は、年代記作家から傑作だと賞賛された。貴婦人が乗るこのような馬車は“シャール”と呼ばれて他国にも流行したが、フィリップ美男王によって禁止された(1294年)
 G.しかしこの贅沢馬車は、当時の技術的限界から「車体が車軸の上に直接載っている」ので、乗客は絶えず振動に苦しんだ。また馬車は非常に高く、背後からハシゴを使って乗車しなければならなかった。1度馬車に乗って出掛けるのは丸1日の労働に匹敵し、しかもある程度補修された道路しか走れなかった

【橋】
 H.架橋は「神慮にかなった事業」として教会の賞賛を受け、免罪をうけることができたものの、その数は微々たるものに過ぎず、しかもほとんどが木造だった
1.「橋は徒渉可能な浅瀬が無い場所にのみ架けられた(=浅瀬があれば架けられなかった)」
2.「馬車が通行できない橋がしばしば存在した(=馬車のために架橋したのではない)」
3.「アヴィニヨンには10年の歳月を費やして、長さ900mの橋が建設された(12世紀)。ローヌ河に長さ1,000mの橋が架けられた(13世紀)が、こちらには30年かかった」
4.「莫大な費用をかけて建設された石造の橋は、特筆に値するものと認められた。しかしミンデンの石造の橋ですら、氷が流れてきたことで破壊された。モーゼル地方でらローマ人によって建設された石造橋が、唯一のものだった(~14世紀)」
5.「例外は北イタリアで、ここでは橋は整備されていたようだ」


(2)陸上交通を悪化させる要因

 A.交通路を補修することは、交通の頻繁な道路が通っている地域の住民の利益には(全く)ならなかった。というのは、道路が悪ければ悪いほど「替え馬の必要が大きい,馬車修繕・装蹄などの仕事が鍛冶屋に来る,旅行者はやむを得ない旅の中断時にお金を落としていく」からだった

【悪路を好む領主】
 B.“接地物接収権”によって「車軸が折れた・馬車が転覆したために地面の上に落ちた物」は全て領主の物となった。だから領主は自ら道路や橋の補修・新設には関心がなく、むしろその状態を悪くしたり破壊したのだった。もちろん悪い道路は、領主にとって襲撃・略奪を容易にした
 C.商人たちは対策として「大市に行く場合には車輪の小さい馬車を使う」ようにした。これなら、徐行していれば道路の凹凸によってほとんど平衡を失うことが無かったから

【護衛料金支払いの強制】
 D.旅行が長ければ長いほど「旅行者とその所持品の護送・保護に対する謝礼」は、領主にとって儲かるものとなった。これは、旅行者が料金を支払うことによって“護衛料金支払い証書”(=護衛状)が手に入るのだった
 E.しかし護衛状が確実な安全を保障したわけではなく、結果として単なる領主による強請の手段でしかなかった。というのは、領主が確実な護衛を約束したとしても「a.しばしば彼に仕える家人(ミニステリアーレ)に襲撃・略奪された」「b.互いに相争う領邦君主は、他の領邦君主が交付した護衛状に何の考慮も払わなかった(交付者が皇帝であっても)」事情があったから

【道路利用の強制】
 F.所々に設けられた税関からの収入を最大化しようと、領主はしばしば「道路をわざと車馬の通行がし難いようにする」「河川の利用を鎖・杭などで妨げる」ことで、特定ルートの利用を強制した
 G.さらに“道路強制”=「通行困難であろうと時間がかかろうと、領主が定めた以外の道路の通行を禁止する」ことも行われた
〈例〉ポーランドからライプツィヒの大市への旅行にはグロガウ(クウォグフ)~ポーゼン(ポズナン)の道路を利用するように定められていた。しかしこのルートは大きく湾曲していて、直線ルートの3倍もあった

【税関】
 H.ライン河の税関は67,エルベ河の税関は35,ドナウ河の税関(低地オーストリア地方だけ)は77もあった(14世紀末)。ニュルンベルク周辺の税関は24、そのうち10は都市の入口に設けられていた。また徴収された関税の額は「ビンゲン~コブレンツでのライン河税関を通過するだけで、税込み商品価格の53~67%に達した」という
 I.商業都市にとっては、このような商品価格の高騰を避けるのは死活問題であって、実際多くの主要商業都市がこれに成功した。ただしそれは中世経済における例外に過ぎなかった
〈例〉ニュルンベルクとケルンは達成できた。シュトラスブルク,マインツ,ジュネーヴ,ヴェネツィア,ミラノは一部分これを達成した。これはたいてい互恵主義に基づいていてフランドル諸都市とブラバント都市は「相互の関税徴収免除の協定」を結んだ
 J.中世(とりわけ初期)におけるこうした関税徴収は、利用料・謝礼といった性格とは全く異なり「封建領主による形を変えた継続的な略奪」に他ならなかった。カロリング王権はこうした関税徴収を止めさせようとしたが、失敗に終わった
〈略奪である証拠〉
「馬車の車輪で道端の草が痛めつけられることに対する関税が、岸に繋いである船からも徴収された」「橋の通行人に対する関税が、橋の下を通る船からも徴収された」


(3)ゆっくりとした移動

 A.1日の平均輸送速度は5マイル(アルプス山中のように替え馬が使用されれば7マイル)だったという
〈手紙の到達に要した時間〉
1.[ダンツィヒ~ブリュッヘ]では10日で届いた場合もあれば(※早馬を用いた?)37日かかったケースもある
2.[リガ~ブリュッヘ]では39~52日、最長で77日かかった(※おそらく船便で悪天候が絡んだのだろう)
3.[ケルン~ブリュッヘ]の場合「速達:3日,通常:6~8日,遅延の場合:15~17日」かかった
 B.ブリュッヘにいたヒルデブラント・ヴェッキンフーゼンは、不便な交通事情にもかかわらず様々な商品の投機を試みた。「塩がリーブラントに全く輸送されないだろう」という報告を受けた彼は、リーブラントにある塩の在庫全てを買い占める計画を思い立ったのだ(1420年):
[1月14日]彼は使者にこの指令を携えて現地の取引先に派遣しようとし、使者は馬でブリュッヘを出発した
[2月8日]使者はケルンとドルトムントを経由してダンツィヒに到着。そこからさらにドルパート(タルトゥ)とリガに向かった
 C.使者が目的地にいつ到着したかは不明だが、道中どこでも取引先から歓迎され、剣・拍車・良い馬・衣服・小遣い銭を与えられた。投機の成否も不明…というのも、他の商人たちも常に商況に通じていたし、同様の指令を携えた使者が(4日遅れではあるが)急行していた
『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[25]


(9)会社

 A.企業の形態としての会社は中世イタリアに多数出現しており、地中海地域でのイタリア商人の商取引は会社形態で行われた。ドイツでも中世後期には「1~数年間の期限で、ある一定の商用旅行のために結成された」当座的な会社が支配的となった。当座方式の場合、1人の商人が「異なった土地で取引する複数の会社に、同時に加入している」こともしばしばあった

【2方式の当座的会社“コムメンダ”】
 B.どちらの方式でも「a.社員は資本(現金でも商品でも船舶でも)をもって企業に加わった」が、異なるのは企業への関与の仕方だった
 C.1つは「b.実際の商取引は参加者の一方(“貨物取扱人”or“運送人”)によって行われ、他の人々(“社員”)は本国に留まる」「c.“貨物取扱人”は労働を提供した分だけ出資割合は低くなったが、利益分配は平等に行われる」形態だった
 D.もう1つは「d.出資は“社員”のみが行い、“貨物取扱人”は全く出資せずに輸送貨物を委託されるだけ」という形態。こちらの場合の“貨物取扱人”は「e.多数の商人や委託者から、外国で販売するための商品を委託された船長」だった。彼の権利は「f.商業航海で得た利益に対して一方の配当を要求できる」「g.自分の損益計算に基づいて販売するために、船に自分の商品を積み込める」にとどまった
〈例〉ジェノヴァ人書記ヨハンの記録(1155~64年)の約1,000通の取引契約書のうち、400通以上はコムメンダに関するものだった。マルセイユの公証人アマルリックも、コムメンダ契約約560通を作成した(13世紀)。ハンザ・南ドイツ(14~15世紀)には一般的となり、かなり早い時期としてはヴェストファーレン(12世紀)がある

【継続的企業】
 E.これは現在の合名会社とほぼ同じであり「家族の成員によって構成された共同態」をベースとして「全ての出資者=社員による資本提供と商業活動」を前提とした
1.「多数の商業地・様々な地方で同時に商取引を行うには、このような社員が多数参加して活動することが必要不可欠だった」
2.「交通路・商取引上の様々な慣習・各地の複雑な関税率について、詳細な知識を持つ者はなくてはならないものだった」
3.「営業地域を区分することは、商品の流通・販売に都合が良かった。ヒルデブラント・ヴェッキンフーゼンは『干し鱈をケルンに送り、そこで売れ行きが思わしくなければ、さらにシュトラスブルク・シュパイエル・マインツへと送った』『ハンブルクで拒絶された無花果の実を、リューネブルクやリューベックへと送った』のだった」4.「上記3.のような商業活動には、各地で商品の荷造り・運送・販売・購入に従事する者が存在することが前提だった」
 F.こうした必要から、商業に継続的な会社形態が誕生した。個々の社員は別の商業地に住んで、そこで会社の費用で取引に従事した
〈例〉フィレンツェの大商事会社(14世紀)の社員数は「9人,13人,19人,37人〔スピニ会社〕」といった数だが、これらは主に家族成員であり、純然とした家族企業だった。例外はペルッツィ商会(社員19人中家族成員は9人だけ)
 G.参加社員の出資によって会社財産が形成され、これが往々にして局外者の出資によって増大した結果、会社は「より大量の商品を購入し、場合によっては買い占めも実行する」ことができるようになる。中世の商品は取引規模が小さかっただけに、買い占めの可能性はいっそう大きくなった。そして大商事会社にとっては価格支配も容易だった
 H.合名会社の重要性は絶えず増していき(14世紀~)、当時としては巨大な規模(社員数,資本額)となり経済活動を押さえた
〈例〉南ドイツ-イタリア諸都市間の商取引は、わずかに2・3の商事会社(例:大ラーフェンスブルク会社)の手に移った
 I.実は個々の「会社契約」はごく短期的(1~5年)に限って結ばれただけであった。大ラーフェンスブルク会社ですら6年間の契約を認めたに過ぎないのだが、しかしこの契約を25回も更新することによって、会社は1世紀半も存続した


(10)会社の活動について

 A.会社の発展に伴う商業の独占に対する苦情は高まっていった(15世紀)。こうした独占的性格は、やがてルターやツヴィングリの怒りを買うことになる
〈例1〉ハンザ商人は「ブリュッヘで価格の釣り上げを企てたフランドルとイタリアの商事会社」に対して、さらに「ライデンの織布工によって生産された全ての織物を買い占めた会社」に対して、それぞれ苦情を申し込んだ(15世紀中頃)
〈例2〉アウクスブルク年代記には、ヴェネツィアで商品を買い占めた独占的シンジケートについて言及している

【大ラーフェンスブルク会社】
 B.中世最大のこの商事会社は“ヨゼフ・フンピス会社(最初の支配人の名から)”“ラーフェンスブルク会社”“ドイツ人の大会社”と呼ばれた
 C.会社の資産は132,000フローリン(15世紀末)に達した。社員数は80人に上り、各人の営業持分は1,625フローリンに制限された
〈参考〉フッガー家の基本財産:213,000フローリン(16世紀初),ニュルンベルクのウェルザー家の基本財産:66,000フローリン
 D.南ドイツとスイス出身(特にコンスタンツ,ラーフェンスブルク,ニュルンベルク,リンダウ,ザングト・ガレン生まれ)の100以上の異なる家族の成員が、150年間のうちの様々な時期に会社に出資・加入した。彼らの大部分は会社の営業活動にも積極的に参加し、残りの者は出資だけにとどまった。そうした社員の相続者による出資の継続も認めていたが、外国人の出資だけはごく小規模に限定されていた
 E.会社の営業活動の中心地はラーフェンスブルク・メミンゲン・コンスタンツであった。さらに各々に支店長を持つ13の支店があり、その他に2・3の代理商もいた
〈支店と代理商の所在地〉イタリア(特にジェノヴァ,ミラノ)・スイス(ジュネーヴ,ベルン)・フランス(リヨン,アヴィニヨン,マルセイユ近郊のブーク)・アラゴン王国(バルセロナ,サラゴーサ,ヴァレンシア)・フランドル(ブリュッヘ,後にはアントウェルペン)・ケルン・ニュルンベルク・ウィーン・ベスト(ブダペストの東側)
 F.社員はフランクフルトの大市も、イタリア・スペイン・フランドル各地の大市も熱心に訪問した。また海上でも陸上でも商業を営み、ヴェネツィア・ジェノヴァからブリュッヘまで海上輸送を活用した
 G.営業帳簿(単式簿記)が用いられた。支店は本国から“お前たちの帳簿を十分にきれいに、かつ秩序正しくせよ”と忠告されているが、これは必ずしも十分に実行されなかったようだ。加えて支配人は“(綺麗な)書き方に務めよ、さもなければ我々はお前たちの書類を十分に読むことができないから”と、悪筆を戒めている
 H.社員と代理商の他に、多くの都市には多数の奉公人・徒弟がいた(23~47人)。彼らの待遇は低く「a.徒歩で最長スペインまで旅行しなければならないことも珍しくなかった」「b.滞在した商館の設備はしばしば劣悪だった」という。徒弟は「c.勘定書の作成・書類の書き方を教わった(勉強は祭日に行うよう命じられていた)」
★南ドイツの若い商人たちの「学校」としては、ヴェネツィアだけでなくスペイン・フランドル・ミラノも機能していたことが、会社の書類から明らかとなっている
 I.大ラーフェンスブルク会社の営業活動の特徴:
1.「商品取引のみを営み、貨幣取引・金融取引は営まなかった(この点は中世の他の諸会社・商人とは異なる)」
2.「信用で買うことはごく稀だったが、しかし会社が手形債務のことを心配していた場合でさえ、信用貸しは大量に行われた」
3.「中世の特色である卸売業と小売業の一手集中も、この会社にはほとんど存在しない。例外的にサラゴーサやジェノヴァに小売りのための酒場を設置していただけだった」
4.「世界商業の大変動(16世紀初)は、この会社には何の変化も及ぼさなかった。ドイツ商人がインド航海に参加した時にも関与しなかったし、リスボンやセヴィリアにも支店は設立されなかった」

【商事会社とギルドの相違】
 J.商事会社は「資本を共有して利潤を成員間で分配する、財産法上の団体」なのに対して、ギルドは「参加する各商人が自分の計算により自分の営業に従事し、その上に仲間の商業保護のために人的な団体を結成していた」点が異なる。しかし「一定の地方or都市との取引のために結成された」商人ギルドの内部に、個々の成員が商事会社を作ることも可能だった
〈例1〉ヴェネツィアでは多数の南ドイツ出身商人が、様々な商人ギルドを結成していた。これらのギルドは「ヴェネツィアのフォンダコ,そこに駐在するドイツ領事」により統括されていた。これら商人ギルドの枠内で、次第に独占的となっていった商事会社(フンピス,ウェルザーなど)が生まれた
〈例2〉ハンザ諸都市に存在した多数の商船ギルドの内部に、2~数人のハンザ商人が契約することによって商事会社が結成された

【2種類のギルドと販売権の問題】
 K.上記のような商人ギルド(イングランド・ファーラー,ノヴゴロド・ファーラー,各地の大市を訪れるイタリア人の商業交易団体,フランドルのハンザのような共同体,商船ギルド)とは「a.入国を自由に許され、ある特定の外国への商業旅行を目的として設立された団体」である。これは「b.都市(or地方)における小売商業の独占権を与えられていた都市内の商人ギルド」とは、完全に区別しなければならない
 L.イングランド諸都市では(小売商の)商人ギルドが生まれ(12世紀~)、成員は大部分が"店舗開設""商品小売"の独占権を持っていた。特に毛織物取引の独占権(しばしば葡萄酒取引に関しても)を得ていた
 M.しばらく後にはドイツ諸都市でも、手工業ツンフトのようなまとまった団体となった商人ツンフトが結成された。海外貿易に活躍してa.に加わっていた商人たちも、卸売商業に限定されることを望まなかったから、彼らはb.にも属していた
 N.このb.の団体は“商人のツンフト”と“雑貨商のツンフト”に分かれていた。商人のツンフトは「c.主要な特権が外国産(フランドルとイングランド)の毛織物の小口販売にあり、しばしば“毛織物商ギルド”と呼ばれた。しかし毛織物商はしばしば他の商品(特に香辛料・外国産葡萄酒)を販売したから“毛織物商”と“雑貨商”の区別は厳密ではなく、両者は商品の取り扱い範囲をめぐってしばしば争った
 O.南ドイツ諸都市では、雑貨商が「“ヴェネツィア商品”(ヴェネツィア産でなくともこう呼ばれた)と特に呼ばれた、輸入品全般」の小売権を持っていたのに対して、毛織物商の活動は毛織物の切り売りがメインだった。彼ら以外にも「食料品を筆頭に、その都市で製造された特定の商品を販売する権利を持つ」低級な“小売商人”がいた
1.「雑貨商の取扱い商品:香辛料,熱帯果実,芳香性の自然商品,染料,その他の安い品々,あらゆる小商品(小鉄器類・ガラス製品・木工品・革紐・リボン・帽子・手袋・絹織物・ビロード地・綿織物)など。いずれもイタリアからの輸入品」
2.「雑貨商は外国の大市を訪れ、ヴェネツィアにも往来した」
 P.多くの都市では、雑貨商には都市の手工業製品(特に金属製品)の小売権も認められていた。これに対して手工業者も、自分で作った製品の『独占販売権』だけでなく、輸入された工業製品の販売権も要求していたケースがある。こうした都市では当然、雑貨商と手工業者との間の販売権争
『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[24]


(4)商館と代理店

 A.商業旅行の目的地においても、商人たちは互いに密接な結合を保ち、現地の住民からはキッチリと(物理的にも)遮断された団体を形成していた。「a.商人の代理店・支店は特別の道路を囲んでいた」「b.(しばしば現地住民の襲撃防止用に囲壁を巡らせていた)1つの市区を形成し、市区内に支店or商館が存在した」

【歴史的な展開】
 B.イタリア商人はこのような支店を、東方の諸都市にも西欧においても至る所に所有していた。代理店はシチリア島・シリア(12世紀中)、キプロス島・サルディニア島・マジョルカ島・アラゴン・カタロニア・南フランス・ネーデルラント・シャンパーニュの大市(いずれも13世紀中)に存在した。代理店は「領事の邸宅,商館,教会,雨と太陽の灼熱を防ぐためのアーケード付きのロビー(ここで商人の集会が開かれる)」から成っていた。通常は各“ネイション”(ジェノヴァ人,ピサ人,ヴェネツィア人,フィレンツェ人)は、彼ら自身の支店と特別のフォンダコを有していた
 C.カタロニア・プロヴァンス・ラングドック各地方の諸都市(例:サン・ジル,モンペリエ,マルセイユ,バルセロナ)の商人たちの場合、人数があまりに少なくて(イタリア商業都市とは異なり)出身都市ごとに個別の団体を作れなかった。そこで「6~7人の領事による統一的な管理下に、共同裁判所を持つ共同団体を形成した(例:ティルス〔12世紀末〕)」。ちなみにシャンパーニュの大市でもこのような共同団体が成立していた
 D.ハンザ商人たちは主要な代理店or商館を4箇所に有していた=「ノヴゴロドとロンドン(12世紀~),ブリュッヘ(13世紀~),ベルゲン(14世紀中葉~)」。その他に多数の小代理店も存在していた
〈例〉ベルゲンのハンザ商人居住地には彼らに属する建物・教会が30あり“ドイツの橋”と記された。コペンハーゲンでは“ドイツ人街”に居住していた。ブリュッヘでは彼らの代理店は“ケープマンス・ハウス”として知られ、その中に“ハンザ商人居住地区”があった
 E.ハンザ商人は、現地住民の襲撃の可能性に備えるべく常に武器・甲冑を準備していた。その他に規制として「a.都市の住民はドイツ人の住宅に宿泊してはならない」「b.逆にハンザ商人も割り当てられた市区の外で宿泊してはならない」「c.多くの都市では、教会内でその都市住民といかなる商取引も結んではならない」とされていた
 F.上記c.の教会が果たした役割について。ノヴゴロドの聖ペテロ教会は『ほとんど商品倉庫のようだ』と言われるほどで、壁際に梱が積み上げられ、葡萄酒樽はまず祭壇に置かれた。ブリュッヘのカルメル会修道院は「a.ドイツ商人の集会が開かれた」「b.重い匣が置かれた」「c.彼らの所有物が貯蔵された」という
 G.やがて商人たちは、彼らに割り当てられた一定の商館に集中するようになった(例:ヴェネツィアのドイツ人商館“フォンダコ・デイ・テデスキ”)。あるいは、商人たちは一定の市区=隔離された代理店に滞在した(例:コヴノ〔カウナス〕のハンザ商人,ウィーンとプラハの南ドイツ商人)
 H.商館は「a.商品置き場として」「b.外国人の宿泊場所として」「c.税関として」機能したが、これは『販売所』(地域的な小売商業に用いられ、その起源も機能も全く異なっている)とは区別しなければならない。外国人はここに滞在することによって、その都市から活動を厳しく監視・制限された
〈例〉マインツ・フランクフルト・ケルン・フライブルク・バーゼル・シュトラスブルク(以上は14世紀),ウォルムス・コンスタンツ・ウルム(以上は15世紀)


(5)大市において

 A.上記(4)のような措置は、各国の住民が異邦人に対して抱いていた(もちろんその逆も)不信感の現れだった。同じ要素は、当時の普通法の除外例だった「様々な大市の慣習&自由」の基礎となっていた
 B.中世の交換取引は主として大市に集中していた。確かに国際的な特色を持つ大市の他は、限定された局地的な意義しか持たなかったのだが、それでも大市の数は極めて多かった。最も有名な国際的大市とは、独特の新しい商業慣習法が形成された場所でもあった

【大市の特殊な商慣習】
 C.ここでは外国人は、それ以外の場所で適用される外国人法によって影響されることなく、自由に売買ができた
 D.大市開催地は1つの避難所(アジール)と見なされたので「a.何人もここでは、他所で行われた犯罪に対して弁明を求められなかった」。このため「b.債務者は抑留されるor商品を差し押さえられることはなかった」「c.報復する権利は無効とされた」「d.共同責任は適用されないので、大市を訪れた商人は、同国人の債務・犯罪に対して責任を負うことはなかった(ただし大市の開催地で行われた法律違反に関しては、共同責任が適用された)」。逃亡した債務者についても「e.ある都市が彼の引き渡しを拒絶した場合には、一般とは異なりこの都市の商人の逮捕・その商品の押収は許されなかった」
 E.大市期間中に死亡した外国人の財産は、その土地の領邦君主に帰属することなしに、遺言によって彼の相続人に(相続人がいなければ同国人に)引き渡された
 F.大市では「速成略式の訴訟手続きによる、特別の大市裁判所」が設置された。これはイングランドで“パイパウダー・コート(埃まみれの裁判所)”と呼ばれるもので、審理は「できる限り即座に、形式にとらわれずに」行われた

【商取引には迅速な判決が必要】
★「商人裁判所,商人ギルドの裁判所,海外貿易ギルド裁判権(ヴェネツィア,ジェノヴァ,フィレンツェ,ルッカ,ピストイア,バルセロナの領事によって執行された)」は、同様の迅速&略式の訴訟手続の点で優れていた。「a.審理の期間は2・3日に限定された」「b.しばしば書面主義は一切禁じられた」のが特徴だった。判決は次第に完全されていき、法典に編纂された商人慣習法となる(=商人は例外法を有していた)
★ドイツの都市法においても“外国人裁判所”は「即座にいつでも行われるべきである」と定められた。しばしば公判は「夜間だけでなく休日にさえも」開かれ、しかも教会・浴場・飲食店以外の任意の場所で(路上でも!)開かれたという。そしてこれらの規定の対象となるのは「債務に関する事件,動産(とりわけ商品)に関するもの」だったから、これはまさに商取引を主眼としていた
★ハンザ商人もイングランドやフランドル等において、ドイツ商人に対しては「迅速な判決を行う」旨を規定していた

【大市の慣習など】
 G.大市は常に一定の開催期間(1ヶ月,6週間,40日)が定められ、その経過後には外国人商人は大市区域を退去しなければならなかった。大市期間は通常、教会の祭日にしたがって定められていた
 H.大市はたいてい数期に分かれていた(以下はシャンパーニュの大市の場合)
1.「大市開催の前の週は、商人が到着して彼らの荷を解く期間だった」
2.「まず毛織物の大市が開かれる」
3.「次に皮革の大市“コルドバ・メッセ”、これと並行して東方物産(香辛料,芳香性の自然商品,染料)の大市が開かれた」
4.「最後には支払い期間があり、これをもって大市は終わった」
 I.大市の上記各期間の終了は、大市役員の喚声「ハーレ!ハーレ!」によって告げられた。これは通常は「助けを求める声」として、隣人を呼び寄せる場合に叫ぶ喚声だった

【ウィンチェスターの大市】
 J.これは中世イングランドにおいて最も重要な大市の1つだった。最初は3日間の開催期間だったのが、時がたつうちに16日間にまで延長された
 K.8月31日午前、丘の頂から大市の開始が大市裁判官によって厳かに布告された。次に彼らは「a.町を騎行して市門の鍵を受け取る」「b.町の羊毛市場にある秤を差し押さえ(大市期間中にそれが使用されないように)」「c.市長Mayorsと執行吏Bailiffsを伴って、丘の上に設置された大きなテント(or仮設の建物)に引き返し、そこで市長・執行吏・検死官各1名を大市期間中の都市管理に任命した」のだった
 K.丘の上には木造の小屋には木造の小屋が立ち並んでおり、そこでは「第1列:フランドル商人」「第2列:カーンとその他ノルマンディーの諸都市の商人」「第3列:ブリストルの商人」が取引した。また「ある列の小屋の中には金細工匠が、他の列の小屋には毛織物商が(※それぞれ集まって?)」座っていた
 L.全体の周囲には、監視付きの入り口を備えた木造の垣が巡らされており、それは「大市関税の脱税・着服を防ぐため」だったが、しかしその目的を達成できないケースも少なくなかった
 M.ウィンチェスターはもちろんその周囲7マイルにわたって「大市期間中その土地の住民の取引は全て停止しなければならない」とされた。都市領域の境界(=橋や城門)には歩哨が置かれて、ウィンチェスター示教の諸権利に損害を与えないように監視された
 N.関税や(大市期間中に徴収される)その他の貢租は、徴収を厳密に区別されていた。「a.商人たちは最初の8日間は輸入税を免除された」「b.この期間の後に到着した者は関税を支払った。ただし、ウィンチェスターの商人ギルドの成員だけは免除された」「c.その他に、羊毛1梱に対して4ペンスを“司教の秤の使用料”として徴収し、加えて売り手・買い手は1ペンスずつを計量官に支払った」
 O.ウィンチェスターでは“パイ・パウダー・コート”が、あらゆる訴訟問題を解決した。この裁判所が「入市税,パン・葡萄酒・ビールの公定価格」を決定し(公定価格の違反者は晒し台の刑に処された)、商人間で発生した債務の争いは毎日、割り符の比較に基づいて裁決された


(6)商人の代表

 A.商人ギルドの首長は、商業旅行中や大市or市場滞在中の商人の代表者だった。後に常設の代理店が設立されるような時代になると、首長はそうした所在地での同郷出身商人団の常任代表=“アルダーマン”“コンスル”“コンスーレス”(と呼ばれた)になった。彼らには「参事会,公証人,書記,代書人,商館と倉庫の監督人」がその下についた
 B.ジェノヴァ人とヴェネツィア人の“領事”は、東方ではある程度重要な商業地ならばどこでも見られた。シャンパーニュの大市を訪れたプロヴァンス商人・ラングドック商人・イタリア商人のそれぞれの首長、ハンザの商館の“長老”も同じ役割だった
 C.彼らは現地商人の中から選ばれたが、後には本国都市からも任命された。フィレンツェ本国の条令によると、外国商業地の“領事”選挙には、12名のフィレンツェ商人の出席で十分だった。この人数は都市によって異なる
〈例〉マルセイユ:少なくとも10~20名,ピサ:5名,ピアツェンツァ:3名
 D.これら領事・長老は「a.代理店の義務を監督する」のを義務とした。彼らは商人団体に対して強制的な命令を出し、また彼に従っていた参事会・陪審員とともに「b.商人団体の構成員で(一時的or常時とを問わず)その土地に滞在している者に対して、民事・刑事の裁判権を行使した」
☆この裁判は「母国の法律,外国人商人の慣習」にしたがって行われ、滞在している土地の法律に拠るのは例外だった(例:ジェノヴァ,ヴェネツィア,フィレンツェ,アンコナ,バルセロナの条令)
 E.他方で領事・長老は「c.滞在している都市の住民との取引において、外国人商人代表として活躍した」「d.代理店の名において、外国人商人の権利と自由を規定する諸条約を結んだ」。こうした取り決めの数は、ヨーロッパ世界でも非ヨーロッパ世界でも「新国王or大公orスルタンの即位の度に新たに批准され直した」ので、異常な数に上った
〈例〉たいした規模ではない都市クレモナですら、302を下らない条約が結ばれた(12~13世紀)


(7)仲買人

 A.彼らは外国の代理店を代表していた領事・長老とは違い「a.滞在国の住民」であり、彼ら「b.仲買人の仲介によって外来商人はその国の住民と取引関係に入る」ことができた
 B.元来は外来商人に関して「滞在する都市の市民の所に投宿し、客としての厚遇を受けることで保護を受けられる」という、古くからの習慣があった。外来商人はそもそも無権利であり、滞在先の住民の不信と敵意に曝されていたから、投宿先の主人は彼の保護者&取引の仲介者として機能する必要があった。そこから次第に外来商人の補助者となっていき、外来商人の滞在中には商業活動をサポート(例:通訳として)した
 C.仲買人たちは「c.商取引における仲買人の役割を独占」する団体を形成した。外来商人が仲買人の手を経ない商取引の契約を結ぶのは、たいてい禁止されていた。さらに仲買人は「d.様々な査定のの鑑定人となり、商品の価値・性質に関する争いが起こった場合に登場した」「e.契約の際には証人となった」。一方で彼らは以前は自ら商業を営んでいたのだが、その権利を喪失した
 D.大市期間中と商館には、常にたくさんの仲買人がやって来た。彼らは様々な商業部門に特化して活動した
〈例〉葡萄酒仲買人,馬仲買人,呉服仲買人(毛織物計量人),結婚仲介人,船舶仲買人,保険仲買人,積荷仲立人
 E.彼らの活動はイタリア諸都市において重要であり、やはり特別な団体を結成していた
〈例〉ルッカの仲買人条令〈1275年〉,ほぼ同時期に存在したピアツェンツァやバルセロナの仲買人法,ピサの仲買人の数の推移「100人(1286年)→160人(1323年)」,ジェノヴァの最初の仲買人料金表(1204年)
 F.ブリュッヘの商業においても仲買人は少なからぬ役割を果たしていた。都市の仲買人ギルドは全てのギルド中第2位だった(13世紀末:この時点のトップは織布工ギルド)のが、第1位へ上昇した(14世紀)。彼らは「旅籠屋の主人,埠頭の倉庫の所有者」も兼ねていた


(8)代理商

 A.中世の商人の基本スタイルは「自ら商品を携えて、一定の順序で開かれる大市をできるだけ多く訪れるために、大市から大市へと旅する」というものだった
〈例〉イタリア商人の場合:
 ラニュイの大市(シャンパーニュの大市:年初)→イープル→ブリュッヘ(復活祭後)→イングランド(5月)→リール→プロヴァンス→シャンパーニュ(1年の最後の大市:11月)→年の改まる頃に帰郷
 B.しかし、ほとんど全ての商業地に往来して様々な遠隔地との取引関係を維持するために、やむを得ず商人は「特殊な商品運送者(車曳き,運搬人,ロバ追い)のサービスを受け、代理商・商業補助者(使用人,徒弟,下僕,丁稚,管理人)を雇う」ことを余儀なくされた。また商人が営業するのに徒弟がいたし、その下には身の回りを世話する下女もいた
 C.代理商・商業使用人は「a.一定期間雇われて、商取引地から外国の都市or地方へ、時には海を越えて商品輸送にお供した」。彼らは往々にして「b.利益の分配にも与った」

【幾つかの事例から】
 D.ハンザ商館に出入りする者の大部分は補助の店員であり、彼らに仕事を委託した委託者は本国に留まっていた
〈例〉イープル(1276~1391年)の文書19通には、15人の従者or書記が登場する。彼らは11or12人の商人に雇われていた
 E.大ラーフェンスブルク会社は23~47人の使用人を雇い入れていた。ヒルデブラント・ヴェッキンフーゼンが雇った店員は毎年「賃金12~16シリング,15シリングもする服を1着か2着」貰っていた
 F.フィレンツェの大商会は多数の代理商(例:アルベルティ家は15人,フレスコバルディ家はもっと多い)の他に「自前の公証人,代書人(or書記),出納係,記帳係」を持っていた
☆代理商の収入(1307年):
 アルベルティ家の場合、毎年生活費とは別に25リーヴルが支払われ、加えて「各人の業績・商会の収益に応じた」利益配当が行われた(その変動幅は約14~220リーヴルに及んだ)。さらにこのように好待遇を受けていた代理商から、容易に社員に出世できた