『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[26]


○交通制度


(1)悪路だらけの中世

 A.道幅が“3頭の馬が並んで歩くことができる”“新郎新婦の馬車が葬式の馬車を避けることができる”ならば、立派なものだと見なされるような状況だった
 B.ヨーロッパの陸上での貨物輸送はどこでも駄馬・騾馬・ロバによって行われ、毎晩積み荷を降ろさねばならなかった。商人は次第に自分で歩くことは無くなっていったが、その場合も馬車(2輪馬車)ではなく馬を使うのが常だった。というのも、比較的大きな車(めったに通行しない)はイタリアを除けば「ちょっと踏みならされただけの森の小径,耕土だった路上」では、転覆する危険があまりにも大きかった
 C.道路は毎年新たに踏みならされなければならなかったし、それでも夏の好天時しか利用できなかった(冬や悪天候時には通行すらできなかった)。イングランドでは「旅行中の事故による犠牲者の検死の記録」が非常に多く、これは「劣悪な路上で馬車が転覆して、車両がめちゃくちゃに壊れる・水中に投げ出される」などして命を失った者たちだった

【為政者の対策例】
 D.皇帝ジギスムントの法令では、罰金を公共の目的に使用するとして「娼婦&犯罪者から都市に入ってくる収入は道路の修繕に用いられるべき」だった
 E.低地ドイツの諸都市(例:リューベック,ハンブルク,ダンツィヒ,エルピング,ヴィスマール,グライフスヴァルト)では「a.遺言の中で道路の整備・維持に寄進するのが習慣だった」のが、後には「b.義務化され、遺産の5~10%を遺贈しない遺言は無効とされた。ただし道路はしばしば指定できた」。さらに「c.しばしば婚約の際にも道路補修のための貢租が徴収された」

【馬車】
 F.シャルル・ダンジューのナポリ入城(1266年)の際、婦人たちは“カレーテン”と呼ばれる4輪幌馬車を使った。特に「内外ともに黄金の百合を刺繍した、淡い青色のビロードで覆われた王妃の馬車」は、年代記作家から傑作だと賞賛された。貴婦人が乗るこのような馬車は“シャール”と呼ばれて他国にも流行したが、フィリップ美男王によって禁止された(1294年)
 G.しかしこの贅沢馬車は、当時の技術的限界から「車体が車軸の上に直接載っている」ので、乗客は絶えず振動に苦しんだ。また馬車は非常に高く、背後からハシゴを使って乗車しなければならなかった。1度馬車に乗って出掛けるのは丸1日の労働に匹敵し、しかもある程度補修された道路しか走れなかった

【橋】
 H.架橋は「神慮にかなった事業」として教会の賞賛を受け、免罪をうけることができたものの、その数は微々たるものに過ぎず、しかもほとんどが木造だった
1.「橋は徒渉可能な浅瀬が無い場所にのみ架けられた(=浅瀬があれば架けられなかった)」
2.「馬車が通行できない橋がしばしば存在した(=馬車のために架橋したのではない)」
3.「アヴィニヨンには10年の歳月を費やして、長さ900mの橋が建設された(12世紀)。ローヌ河に長さ1,000mの橋が架けられた(13世紀)が、こちらには30年かかった」
4.「莫大な費用をかけて建設された石造の橋は、特筆に値するものと認められた。しかしミンデンの石造の橋ですら、氷が流れてきたことで破壊された。モーゼル地方でらローマ人によって建設された石造橋が、唯一のものだった(~14世紀)」
5.「例外は北イタリアで、ここでは橋は整備されていたようだ」


(2)陸上交通を悪化させる要因

 A.交通路を補修することは、交通の頻繁な道路が通っている地域の住民の利益には(全く)ならなかった。というのは、道路が悪ければ悪いほど「替え馬の必要が大きい,馬車修繕・装蹄などの仕事が鍛冶屋に来る,旅行者はやむを得ない旅の中断時にお金を落としていく」からだった

【悪路を好む領主】
 B.“接地物接収権”によって「車軸が折れた・馬車が転覆したために地面の上に落ちた物」は全て領主の物となった。だから領主は自ら道路や橋の補修・新設には関心がなく、むしろその状態を悪くしたり破壊したのだった。もちろん悪い道路は、領主にとって襲撃・略奪を容易にした
 C.商人たちは対策として「大市に行く場合には車輪の小さい馬車を使う」ようにした。これなら、徐行していれば道路の凹凸によってほとんど平衡を失うことが無かったから

【護衛料金支払いの強制】
 D.旅行が長ければ長いほど「旅行者とその所持品の護送・保護に対する謝礼」は、領主にとって儲かるものとなった。これは、旅行者が料金を支払うことによって“護衛料金支払い証書”(=護衛状)が手に入るのだった
 E.しかし護衛状が確実な安全を保障したわけではなく、結果として単なる領主による強請の手段でしかなかった。というのは、領主が確実な護衛を約束したとしても「a.しばしば彼に仕える家人(ミニステリアーレ)に襲撃・略奪された」「b.互いに相争う領邦君主は、他の領邦君主が交付した護衛状に何の考慮も払わなかった(交付者が皇帝であっても)」事情があったから

【道路利用の強制】
 F.所々に設けられた税関からの収入を最大化しようと、領主はしばしば「道路をわざと車馬の通行がし難いようにする」「河川の利用を鎖・杭などで妨げる」ことで、特定ルートの利用を強制した
 G.さらに“道路強制”=「通行困難であろうと時間がかかろうと、領主が定めた以外の道路の通行を禁止する」ことも行われた
〈例〉ポーランドからライプツィヒの大市への旅行にはグロガウ(クウォグフ)~ポーゼン(ポズナン)の道路を利用するように定められていた。しかしこのルートは大きく湾曲していて、直線ルートの3倍もあった

【税関】
 H.ライン河の税関は67,エルベ河の税関は35,ドナウ河の税関(低地オーストリア地方だけ)は77もあった(14世紀末)。ニュルンベルク周辺の税関は24、そのうち10は都市の入口に設けられていた。また徴収された関税の額は「ビンゲン~コブレンツでのライン河税関を通過するだけで、税込み商品価格の53~67%に達した」という
 I.商業都市にとっては、このような商品価格の高騰を避けるのは死活問題であって、実際多くの主要商業都市がこれに成功した。ただしそれは中世経済における例外に過ぎなかった
〈例〉ニュルンベルクとケルンは達成できた。シュトラスブルク,マインツ,ジュネーヴ,ヴェネツィア,ミラノは一部分これを達成した。これはたいてい互恵主義に基づいていてフランドル諸都市とブラバント都市は「相互の関税徴収免除の協定」を結んだ
 J.中世(とりわけ初期)におけるこうした関税徴収は、利用料・謝礼といった性格とは全く異なり「封建領主による形を変えた継続的な略奪」に他ならなかった。カロリング王権はこうした関税徴収を止めさせようとしたが、失敗に終わった
〈略奪である証拠〉
「馬車の車輪で道端の草が痛めつけられることに対する関税が、岸に繋いである船からも徴収された」「橋の通行人に対する関税が、橋の下を通る船からも徴収された」


(3)ゆっくりとした移動

 A.1日の平均輸送速度は5マイル(アルプス山中のように替え馬が使用されれば7マイル)だったという
〈手紙の到達に要した時間〉
1.[ダンツィヒ~ブリュッヘ]では10日で届いた場合もあれば(※早馬を用いた?)37日かかったケースもある
2.[リガ~ブリュッヘ]では39~52日、最長で77日かかった(※おそらく船便で悪天候が絡んだのだろう)
3.[ケルン~ブリュッヘ]の場合「速達:3日,通常:6~8日,遅延の場合:15~17日」かかった
 B.ブリュッヘにいたヒルデブラント・ヴェッキンフーゼンは、不便な交通事情にもかかわらず様々な商品の投機を試みた。「塩がリーブラントに全く輸送されないだろう」という報告を受けた彼は、リーブラントにある塩の在庫全てを買い占める計画を思い立ったのだ(1420年):
[1月14日]彼は使者にこの指令を携えて現地の取引先に派遣しようとし、使者は馬でブリュッヘを出発した
[2月8日]使者はケルンとドルトムントを経由してダンツィヒに到着。そこからさらにドルパート(タルトゥ)とリガに向かった
 C.使者が目的地にいつ到着したかは不明だが、道中どこでも取引先から歓迎され、剣・拍車・良い馬・衣服・小遣い銭を与えられた。投機の成否も不明…というのも、他の商人たちも常に商況に通じていたし、同様の指令を携えた使者が(4日遅れではあるが)急行していた