『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[2]
(4)それ以外の人々
【祈る人(修道士以外)】
A.「司教,修道院に所属しない聖職者,托鉢修道会の修道士(例:説教師・ドミニコ会士・フランチェスコ会士・アウグスティヌス会士・カルメル会士)」。彼らは修道士と違って、世俗の人々の近くで出会える
【戦う人(騎士以外)】
B.「傭兵,有給の戦闘員,職業軍人」。彼らの登場時代は遅く、また無軌道な略奪者・徒党・私兵へと変質してからだった。社会的な周縁人のカテゴリーに入る
【働く人(農民以外)】
C.職人・労働者は「都会人」の間に現れる。医者は「都会の医者の多くはユダヤ人」であり「田舎では、特に伝承的知識や特殊能力を持つとされた素人たち(老婆・接骨医・薬草家・経験を積んだ助産婦たち)」から成っていた。医者の身分はあいまいだった(科学者と手工業職人の中間にある)
D.中世の終わり頃に国家が誕生し、官僚制度が整備されて司法・財政業務の専門化が進むにつれ「裁判官と司法関係者,王領所轄役人と地方役人」が出現した
E.中世の人々はケルト人やヴァイギングを除いて海を恐れ、さらに海を多少なりとも制するのに長い時間がかかった。貴重な発明(13~14世紀)がようやく状況を変えた。船乗りは長い間、社会における周縁人だった
〈例〉ルイ9世は十字軍に参加する船の上で、あまり礼儀もわきまえず、信仰も持たない船乗りたちに接して驚いた
F.社会的な周縁人の中で「貧しい人,異端者」は、中世社会でのとりわけ大きな問題(貧困と異端)であった。貧困は中世の最も厳しい社会的・イデオロギー的現実の一面である。異端はいろいろな形で多少とも波及し、根強く慢性的に存続していた
(5)都市に密着した新しいタイプの人々
A.都市の発達は中世における頂点に達した(13世紀)が、そこでの生活は中世の人間を変えた。「a.人間の家庭環境を狭める」一方で「b.人間が所属する共同体の組織網を拡大する」のだった。さらに「c.取引と金銭を人間の物質的欲望の中心に置いていた」「d.人間の視野を広げる・学ぶ・教養を身につける手段を与えた」「e.新しい娯楽の場を提供した」のだった
B.孤独を求める修道士にとって都会は、バビロンであり悪徳の巣であり不敬虔が君臨する空間だった。学問と議論を求める聖職者にとって、教会と礼拝を愛するキリスト教徒にとって、都会はエルサレムであった
C.都会人のたいていは、昨日までは農民だった新しい移住者からなる。だから彼らは都会を見習い、うまく異文化に同化しなければならない。さらに都会人は二重の空間=「住居空間(狭い上に共同生活は多かった)」「都会そのものが壁に取り囲まれた、限られた空間」に住む人間であった
【都会の多様性と変化】
D.都会には「大きいもの/中間のもの/小さいもの」「太ったもの/痩せたもの」「太いもの/細いもの」がある。そこでは金が王者であり、商人の精神(利欲の精神)が支配していた。領主の世界での悪徳は“傲慢”だったが、都会の悪徳は“貪欲”だった。ここでは人々は「労働と時間の値打ち」を知ることになる
E.しかしそれ以上に絶えざる変化(物価変動,社会の状態の変化)を知った。都会の人間は、回り続ける運命の歯車の回転(※都会の人生に流転は付き物!)にいつも振り回された(たとえブルジョワでも)から、都会での「良心の問題」は難しいことだった
F.そして都会は犯罪を招くので、絶えず暴力から身を守らねばならなかった。都会人には様々な市民的暴力が見せ物に供された…晒し刑・鞭打ち刑・死刑として
【対人関係】
G.都会の人間関係といえばまず、隣人・友人であった。都会人の日常は町内生活(=家並みの中で暮らす)であり、付き合いの機会は多い(例:居酒屋,墓地,小広場)。都会の婦人には「井戸端,共同パン焼き窯,洗濯場」がある。彼らは小教区にまとめられ、そこで「範囲の狭い私生活」を営んだ
H.もし近隣の存在を煩わしく感じる時には、人は町を徘徊することができた。都会における余所はすぐ近くにあった
[※上記の“都会の二重空間性”は、こうした文脈で捉えられる]
I.都会人は信心会の会員になることで、それが持つ「死を手懐け、耐えやすくする」鎮静的・保護的な機能を享受できた。そのような都会人を目当てにするのが托鉢修道会の効果的な伝道戦略だった。彼らは「個人の家へ、仕事場へ、心の中にまで」不躾に入り込んで、良心と救いの世話を焼いた
【ポジティブな側面】
J.都会には「固有の暮らし方」があった。もしお金が有るならば多くの食事の楽しさを味わえるし、性欲を満たすのも容易になる(売春稼業が次第に黙認されるようになるから)し、出世しても恥ではない(都会では仕事が尊重されるから)し、高利貸しは非難されても“まともな”財産は称賛される。これらの波及効果として、都会人には「子供を学校へ通わせて立派な将来を確保してやれる」道があった
K.都会人は「気取った市民」として楽しめるチャンスが多く、洗練されていた。それはやがて礼節(or礼儀)と呼ばれる(1350年~)。都会は節度・秩序・慇懃が守られて全てが田舎よりも整然としており、動作・礼儀作法の学校となった。少しずつ機会仕掛けの時計が時間を刻むようになる
L.都会人は「市民的行列,愉快な祭り,宗教行列,“市民祭”」を見物し、参加できる。元気な者は「笑いがあり、カーニバルや騒動で体制批判もできる」し、病人・貧困者のためには施療院もあった。町そのものがお祭りになることもきわめて多い
(6)知識人
A.中世において現代的な知識人は存在しない。しかし「手を使わず、言葉と精神を使って仕事をする人たち」は確かに存在した。彼らを指す名称として「教授,博士,哲学者,(特にラテン語に精通した)学者」があった
B.このタイプには聖職者がいる。彼らは(下級の品級から出ないとしても)聖職を失うことなく特権を享受しながら、とりわけ都会の教職者となった。それゆえに彼らは、衰微していく教会の学校・都市の学校から大学へと移った(12・13世紀)
C.大学は「専門家としての大学人による同業者団体」だった。それまで存在していた「無償の学問」という障害が取り除かれ、彼ら大学人は「神の恵みとして学生・都市・教会」から報酬を受けられるようになったことが重要だった。しかし知識人の生活は必ずしも楽なものではない
D.パリ大学に托鉢修道会の教授たちが就任した時には重大な危機を招いた。というのも、これらの教授は新知識をもたらしたゆえに学生たちから高く評価されたのだが、彼らは修道会の会士なので集団活動に参加しない。アヴェロエス(アラビアの哲学者)の思想は危機を招き、パリ司教エティエンヌ・ダンピエの弾劾を引き起こした
【中世盛期知識人の特徴】
1.国際人であり、学校・大学から他校へと旅行する(ラテン語に通じているからこれが可能だった)
2.独身である
3.聖書をはじめ文献の権威である。ただしそれに盲従するのではなく、比較・批判を通じて合理的な探求を行う
(7)商人
A.彼らの立場は曖昧だった。というのは、経済的・社会的・イデオロギー的に身分が向上(10世紀~:商人の有益性が認められた)しても、商人への不信感(古代から続く)はキリスト教によって深められていたから
B.商人はのけ者の地位から抜けられなかった。托鉢修道会士は商人を正当化しようと務め、商人のために煉獄をあてがった。それでもトマス・アクィナスは「商い自体に何か恥ずべきことがある」と書いた
C.商人と(憎むべき)高利貸しの境界は曖昧だった。商人がイタリアの多くの都会で王者となっていても、イタリア以外の土地ではイタリア商人(=ロンバルディア人)は蔑視されていた。さらに「憎いユダヤ人」のイメージが商人のイメージにまで及んでいた
【商人が築いたプラスの要素】
D.古くから称賛されてきた“散財者”“配分者”という倫理に加えて、商人が生み出した“蓄財者”という倫理も登場する(14世紀)。彼らは自力成功者であり、しかもクレモナの聖オモボノ(12世紀末)のような商人聖者も現れる
E.商人は教養人であり、個性・人格という概念の形成に寄与した。彼らは文書の人間であり、各国の俗語の普及に貢献した(最も古いイタリア語の文書はシエナ商人の勘定書きの断片:1211年)。さらに「外国語の習得,計量システムの形成,通貨使用」の先駆者であった
(8)中世的な社会範疇の周辺において
【女性】
A.女性は「妻,未亡人,処女」として定義され、長いあいだ婚姻関係・家族関係に束縛された犠牲者であった。したがって職業的分類によっては定義されえない。男性支配の社会を反映している中世の史料において、女性の声は稀にしか記録されていない(それもたいていは上層階級の女性だった)
B.封建的貴族社会における女性は「a.婚姻取引の対象」であった。「b.結婚を通じて女性は夫に社会的昇格の機会を与える」が、一方で「c.自分は結婚によって(一般に)格下げにされる」のだった。女性を通じて資産が移転するのだが、持参金のインフレは中世を通じて女性の価値低下を招いた
C.しかし教会の努力によって、結婚に際して夫婦間の同意がますます厳しく義務付けられるので、女性の地位向上が起こった。これは「若者たちの圧力によって、徐々に自由結婚が確立されていくのを教会が助ける」のと同様だった
D.非常に若い女性が30歳に近い男と結婚する、といったように、夫婦の歳は10歳ほど違う。女性は「単なる出産母体,家族再生産の道具」であり、高い出生率の犠牲となった(平均寿命の40歳まで人生の半分を妊娠のうちに過ごしていた)。女性は妻としての義務に服し、夫とその権威に素直に従うが「子供への愛」という限られた代償しか貰えない
E.しかしその子供も、幼いうちは乳母に預けられるが、恐ろしい小児死亡率のために多くの幼い命が奪われる。おまけに中世初期には、自然死に加えて嬰児殺しが多かった。それ以後は新生児の捨て子がずっと多くなり、教会で孤児が増加していく(中世盛期~後期)
【無名の芸術家たち】
F.中世初期の芸術家は「手仕事職人全体に対する社会の蔑視」と「自分の誇り・名声,少なくとも限られた愛好家たちの間では著名になりたいという願望」との板挟みになっていた。古代で見つかった芸術作品への署名は、中世の早い時期に消滅している
G.最初の芸術家の伝記は聖エロア伝(7世紀)だが、彼は司教でありフランク国王ダゴベルトの顧問だった。彼の伝記が書かれたことに、彼の芸術は貢献しなかったようだ。というのも、教会では宝物・金銀細工がしばしば溶かされていた(=芸術家の作品の価値はゼロと評価されていた)
H.上記の「知識人」と同じく「芸術家」を指す言葉も存在しない(~14世紀)。ラテン語のarsの持つ意味は、科学・技術よりも技法・手仕事に近い。しかし呼び方が無い芸術家にも階級は存在し、金銀細工師と並んで建築家が頂点にいた
I.芸術家の署名・記入は、自由学芸と並ぶまで手工芸が評価されることによって、多く見られるようになる(12世紀)。ところが一度、署名・記入は稀となる(13世紀)。やがて芸術家の評判は、古代復興に押されてイタリアで向上した。各都市から争って招聘を受ける芸術家の栄光が高まったのだが、これは人々に「美の観念と感覚」が育ち始めたことの反映であった
【両極端-社会的周縁人と聖者】
J.最初の周縁人は犯罪を理由に追放された人々だった。中世初期の追放刑(=住み慣れた環境からの放逐)は「死刑に代わる刑罰」であり、空間的に社会の周縁へ追いやられる極刑だった
★ちなみに、聖務停止・破門は「一種の内面的・精神的な追放」という意味を持つ。秘跡の恵みを受けられなくなり、救いの日常的手段を奪われ、教会堂から引き離されることだった
K.やがて空間的な追放の場所は変わり、都会の特殊地域(いかがわしい界隈?)へ住まわせるようになる(中世末)。一方で「弾圧文書」が登場するようになり、そこでは「都市内での暴力」の噂が記されている(13世紀~)。他方でフランス(14・15世紀)では「赦免状」で赦された罪人に社会復帰の道が開かれる
L.しかし労働の世界と犯罪の世界の境界線は曖昧だった。社会の周縁へ流れ込むのは「巡礼者,仕事を求める流れ者」の成れの果てであることも多い。周縁人の多くは「極悪人」となり、彼らは徒党を組み、さらに放浪者・盗賊・略奪者・殺人者らを集めた(14・15世紀)
M.犯罪のみならず「不名誉」もまた周縁人を生み出した。職業としてそうしたもの(=違法・破廉恥なもの)は次第に減っていく(12世紀~)。残ったのは「卑劣漢,追放者,見せ物師(=旅芸人),高利貸し(煉獄で浄められるとしても)」だった
N.病人と身体障害者も周縁人となった。とりわけ「最も危険で、最も醜悪で、最も悲惨」なのはレプラ患者であり、彼らは明らかに排斥された(たとえイエスを真似て聖王ルイがレプラ患者を世話し、接吻を与えても)。ユダヤ人と異端者は極端な周縁人であった
【聖者とは?】
O.聖者とは、中世において「人間を最高度に具現した人物」だった。聖者は「a.例外的な死者である」「b.苦痛を感じない肉体の証拠である」「c.神と人間の仲介を成し遂げる人物である」のだった。その墓・身体・遺物の回りでは礼拝が行われ、教会の支え・信者への手本となり、全ての共同体(様々な職業・都市など)の守護者となり、さらに同じ名を持つ中世の男女の個人的な守護者にもなった
P.中世の聖者が持つ聖性は超現実的なものではない(=古代の異教の神々の継承者ではない)。彼らは最初は「殉教者」の中から選ばれ、次に中世初期には極端な禁欲主義者として登場し、その後多くは権勢者(司教,修道士,国王,貴族)の内から現れた
Q.聖者は「男・成人・貴族が(機能的に)優れている」という思想を、中世の人間の理想像に示していた。しかしその後は、機能的聖性から次第に「キリストを模倣する」ことによる精神的な聖性へと移っていった(12・13世紀~)。聖者は普通の人々からも輩出するようになり、奇跡を起こすことよりも優れた徳性によってキリスト教的理想の生き方を実践した人が聖者となった
☆このため、中世後期において聖者となる男女には「神秘主義者,預言者,説教師,霊感者」の場合が多かった
(4)それ以外の人々
【祈る人(修道士以外)】
A.「司教,修道院に所属しない聖職者,托鉢修道会の修道士(例:説教師・ドミニコ会士・フランチェスコ会士・アウグスティヌス会士・カルメル会士)」。彼らは修道士と違って、世俗の人々の近くで出会える
【戦う人(騎士以外)】
B.「傭兵,有給の戦闘員,職業軍人」。彼らの登場時代は遅く、また無軌道な略奪者・徒党・私兵へと変質してからだった。社会的な周縁人のカテゴリーに入る
【働く人(農民以外)】
C.職人・労働者は「都会人」の間に現れる。医者は「都会の医者の多くはユダヤ人」であり「田舎では、特に伝承的知識や特殊能力を持つとされた素人たち(老婆・接骨医・薬草家・経験を積んだ助産婦たち)」から成っていた。医者の身分はあいまいだった(科学者と手工業職人の中間にある)
D.中世の終わり頃に国家が誕生し、官僚制度が整備されて司法・財政業務の専門化が進むにつれ「裁判官と司法関係者,王領所轄役人と地方役人」が出現した
E.中世の人々はケルト人やヴァイギングを除いて海を恐れ、さらに海を多少なりとも制するのに長い時間がかかった。貴重な発明(13~14世紀)がようやく状況を変えた。船乗りは長い間、社会における周縁人だった
〈例〉ルイ9世は十字軍に参加する船の上で、あまり礼儀もわきまえず、信仰も持たない船乗りたちに接して驚いた
F.社会的な周縁人の中で「貧しい人,異端者」は、中世社会でのとりわけ大きな問題(貧困と異端)であった。貧困は中世の最も厳しい社会的・イデオロギー的現実の一面である。異端はいろいろな形で多少とも波及し、根強く慢性的に存続していた
(5)都市に密着した新しいタイプの人々
A.都市の発達は中世における頂点に達した(13世紀)が、そこでの生活は中世の人間を変えた。「a.人間の家庭環境を狭める」一方で「b.人間が所属する共同体の組織網を拡大する」のだった。さらに「c.取引と金銭を人間の物質的欲望の中心に置いていた」「d.人間の視野を広げる・学ぶ・教養を身につける手段を与えた」「e.新しい娯楽の場を提供した」のだった
B.孤独を求める修道士にとって都会は、バビロンであり悪徳の巣であり不敬虔が君臨する空間だった。学問と議論を求める聖職者にとって、教会と礼拝を愛するキリスト教徒にとって、都会はエルサレムであった
C.都会人のたいていは、昨日までは農民だった新しい移住者からなる。だから彼らは都会を見習い、うまく異文化に同化しなければならない。さらに都会人は二重の空間=「住居空間(狭い上に共同生活は多かった)」「都会そのものが壁に取り囲まれた、限られた空間」に住む人間であった
【都会の多様性と変化】
D.都会には「大きいもの/中間のもの/小さいもの」「太ったもの/痩せたもの」「太いもの/細いもの」がある。そこでは金が王者であり、商人の精神(利欲の精神)が支配していた。領主の世界での悪徳は“傲慢”だったが、都会の悪徳は“貪欲”だった。ここでは人々は「労働と時間の値打ち」を知ることになる
E.しかしそれ以上に絶えざる変化(物価変動,社会の状態の変化)を知った。都会の人間は、回り続ける運命の歯車の回転(※都会の人生に流転は付き物!)にいつも振り回された(たとえブルジョワでも)から、都会での「良心の問題」は難しいことだった
F.そして都会は犯罪を招くので、絶えず暴力から身を守らねばならなかった。都会人には様々な市民的暴力が見せ物に供された…晒し刑・鞭打ち刑・死刑として
【対人関係】
G.都会の人間関係といえばまず、隣人・友人であった。都会人の日常は町内生活(=家並みの中で暮らす)であり、付き合いの機会は多い(例:居酒屋,墓地,小広場)。都会の婦人には「井戸端,共同パン焼き窯,洗濯場」がある。彼らは小教区にまとめられ、そこで「範囲の狭い私生活」を営んだ
H.もし近隣の存在を煩わしく感じる時には、人は町を徘徊することができた。都会における余所はすぐ近くにあった
[※上記の“都会の二重空間性”は、こうした文脈で捉えられる]
I.都会人は信心会の会員になることで、それが持つ「死を手懐け、耐えやすくする」鎮静的・保護的な機能を享受できた。そのような都会人を目当てにするのが托鉢修道会の効果的な伝道戦略だった。彼らは「個人の家へ、仕事場へ、心の中にまで」不躾に入り込んで、良心と救いの世話を焼いた
【ポジティブな側面】
J.都会には「固有の暮らし方」があった。もしお金が有るならば多くの食事の楽しさを味わえるし、性欲を満たすのも容易になる(売春稼業が次第に黙認されるようになるから)し、出世しても恥ではない(都会では仕事が尊重されるから)し、高利貸しは非難されても“まともな”財産は称賛される。これらの波及効果として、都会人には「子供を学校へ通わせて立派な将来を確保してやれる」道があった
K.都会人は「気取った市民」として楽しめるチャンスが多く、洗練されていた。それはやがて礼節(or礼儀)と呼ばれる(1350年~)。都会は節度・秩序・慇懃が守られて全てが田舎よりも整然としており、動作・礼儀作法の学校となった。少しずつ機会仕掛けの時計が時間を刻むようになる
L.都会人は「市民的行列,愉快な祭り,宗教行列,“市民祭”」を見物し、参加できる。元気な者は「笑いがあり、カーニバルや騒動で体制批判もできる」し、病人・貧困者のためには施療院もあった。町そのものがお祭りになることもきわめて多い
(6)知識人
A.中世において現代的な知識人は存在しない。しかし「手を使わず、言葉と精神を使って仕事をする人たち」は確かに存在した。彼らを指す名称として「教授,博士,哲学者,(特にラテン語に精通した)学者」があった
B.このタイプには聖職者がいる。彼らは(下級の品級から出ないとしても)聖職を失うことなく特権を享受しながら、とりわけ都会の教職者となった。それゆえに彼らは、衰微していく教会の学校・都市の学校から大学へと移った(12・13世紀)
C.大学は「専門家としての大学人による同業者団体」だった。それまで存在していた「無償の学問」という障害が取り除かれ、彼ら大学人は「神の恵みとして学生・都市・教会」から報酬を受けられるようになったことが重要だった。しかし知識人の生活は必ずしも楽なものではない
D.パリ大学に托鉢修道会の教授たちが就任した時には重大な危機を招いた。というのも、これらの教授は新知識をもたらしたゆえに学生たちから高く評価されたのだが、彼らは修道会の会士なので集団活動に参加しない。アヴェロエス(アラビアの哲学者)の思想は危機を招き、パリ司教エティエンヌ・ダンピエの弾劾を引き起こした
【中世盛期知識人の特徴】
1.国際人であり、学校・大学から他校へと旅行する(ラテン語に通じているからこれが可能だった)
2.独身である
3.聖書をはじめ文献の権威である。ただしそれに盲従するのではなく、比較・批判を通じて合理的な探求を行う
(7)商人
A.彼らの立場は曖昧だった。というのは、経済的・社会的・イデオロギー的に身分が向上(10世紀~:商人の有益性が認められた)しても、商人への不信感(古代から続く)はキリスト教によって深められていたから
B.商人はのけ者の地位から抜けられなかった。托鉢修道会士は商人を正当化しようと務め、商人のために煉獄をあてがった。それでもトマス・アクィナスは「商い自体に何か恥ずべきことがある」と書いた
C.商人と(憎むべき)高利貸しの境界は曖昧だった。商人がイタリアの多くの都会で王者となっていても、イタリア以外の土地ではイタリア商人(=ロンバルディア人)は蔑視されていた。さらに「憎いユダヤ人」のイメージが商人のイメージにまで及んでいた
【商人が築いたプラスの要素】
D.古くから称賛されてきた“散財者”“配分者”という倫理に加えて、商人が生み出した“蓄財者”という倫理も登場する(14世紀)。彼らは自力成功者であり、しかもクレモナの聖オモボノ(12世紀末)のような商人聖者も現れる
E.商人は教養人であり、個性・人格という概念の形成に寄与した。彼らは文書の人間であり、各国の俗語の普及に貢献した(最も古いイタリア語の文書はシエナ商人の勘定書きの断片:1211年)。さらに「外国語の習得,計量システムの形成,通貨使用」の先駆者であった
(8)中世的な社会範疇の周辺において
【女性】
A.女性は「妻,未亡人,処女」として定義され、長いあいだ婚姻関係・家族関係に束縛された犠牲者であった。したがって職業的分類によっては定義されえない。男性支配の社会を反映している中世の史料において、女性の声は稀にしか記録されていない(それもたいていは上層階級の女性だった)
B.封建的貴族社会における女性は「a.婚姻取引の対象」であった。「b.結婚を通じて女性は夫に社会的昇格の機会を与える」が、一方で「c.自分は結婚によって(一般に)格下げにされる」のだった。女性を通じて資産が移転するのだが、持参金のインフレは中世を通じて女性の価値低下を招いた
C.しかし教会の努力によって、結婚に際して夫婦間の同意がますます厳しく義務付けられるので、女性の地位向上が起こった。これは「若者たちの圧力によって、徐々に自由結婚が確立されていくのを教会が助ける」のと同様だった
D.非常に若い女性が30歳に近い男と結婚する、といったように、夫婦の歳は10歳ほど違う。女性は「単なる出産母体,家族再生産の道具」であり、高い出生率の犠牲となった(平均寿命の40歳まで人生の半分を妊娠のうちに過ごしていた)。女性は妻としての義務に服し、夫とその権威に素直に従うが「子供への愛」という限られた代償しか貰えない
E.しかしその子供も、幼いうちは乳母に預けられるが、恐ろしい小児死亡率のために多くの幼い命が奪われる。おまけに中世初期には、自然死に加えて嬰児殺しが多かった。それ以後は新生児の捨て子がずっと多くなり、教会で孤児が増加していく(中世盛期~後期)
【無名の芸術家たち】
F.中世初期の芸術家は「手仕事職人全体に対する社会の蔑視」と「自分の誇り・名声,少なくとも限られた愛好家たちの間では著名になりたいという願望」との板挟みになっていた。古代で見つかった芸術作品への署名は、中世の早い時期に消滅している
G.最初の芸術家の伝記は聖エロア伝(7世紀)だが、彼は司教でありフランク国王ダゴベルトの顧問だった。彼の伝記が書かれたことに、彼の芸術は貢献しなかったようだ。というのも、教会では宝物・金銀細工がしばしば溶かされていた(=芸術家の作品の価値はゼロと評価されていた)
H.上記の「知識人」と同じく「芸術家」を指す言葉も存在しない(~14世紀)。ラテン語のarsの持つ意味は、科学・技術よりも技法・手仕事に近い。しかし呼び方が無い芸術家にも階級は存在し、金銀細工師と並んで建築家が頂点にいた
I.芸術家の署名・記入は、自由学芸と並ぶまで手工芸が評価されることによって、多く見られるようになる(12世紀)。ところが一度、署名・記入は稀となる(13世紀)。やがて芸術家の評判は、古代復興に押されてイタリアで向上した。各都市から争って招聘を受ける芸術家の栄光が高まったのだが、これは人々に「美の観念と感覚」が育ち始めたことの反映であった
【両極端-社会的周縁人と聖者】
J.最初の周縁人は犯罪を理由に追放された人々だった。中世初期の追放刑(=住み慣れた環境からの放逐)は「死刑に代わる刑罰」であり、空間的に社会の周縁へ追いやられる極刑だった
★ちなみに、聖務停止・破門は「一種の内面的・精神的な追放」という意味を持つ。秘跡の恵みを受けられなくなり、救いの日常的手段を奪われ、教会堂から引き離されることだった
K.やがて空間的な追放の場所は変わり、都会の特殊地域(いかがわしい界隈?)へ住まわせるようになる(中世末)。一方で「弾圧文書」が登場するようになり、そこでは「都市内での暴力」の噂が記されている(13世紀~)。他方でフランス(14・15世紀)では「赦免状」で赦された罪人に社会復帰の道が開かれる
L.しかし労働の世界と犯罪の世界の境界線は曖昧だった。社会の周縁へ流れ込むのは「巡礼者,仕事を求める流れ者」の成れの果てであることも多い。周縁人の多くは「極悪人」となり、彼らは徒党を組み、さらに放浪者・盗賊・略奪者・殺人者らを集めた(14・15世紀)
M.犯罪のみならず「不名誉」もまた周縁人を生み出した。職業としてそうしたもの(=違法・破廉恥なもの)は次第に減っていく(12世紀~)。残ったのは「卑劣漢,追放者,見せ物師(=旅芸人),高利貸し(煉獄で浄められるとしても)」だった
N.病人と身体障害者も周縁人となった。とりわけ「最も危険で、最も醜悪で、最も悲惨」なのはレプラ患者であり、彼らは明らかに排斥された(たとえイエスを真似て聖王ルイがレプラ患者を世話し、接吻を与えても)。ユダヤ人と異端者は極端な周縁人であった
【聖者とは?】
O.聖者とは、中世において「人間を最高度に具現した人物」だった。聖者は「a.例外的な死者である」「b.苦痛を感じない肉体の証拠である」「c.神と人間の仲介を成し遂げる人物である」のだった。その墓・身体・遺物の回りでは礼拝が行われ、教会の支え・信者への手本となり、全ての共同体(様々な職業・都市など)の守護者となり、さらに同じ名を持つ中世の男女の個人的な守護者にもなった
P.中世の聖者が持つ聖性は超現実的なものではない(=古代の異教の神々の継承者ではない)。彼らは最初は「殉教者」の中から選ばれ、次に中世初期には極端な禁欲主義者として登場し、その後多くは権勢者(司教,修道士,国王,貴族)の内から現れた
Q.聖者は「男・成人・貴族が(機能的に)優れている」という思想を、中世の人間の理想像に示していた。しかしその後は、機能的聖性から次第に「キリストを模倣する」ことによる精神的な聖性へと移っていった(12・13世紀~)。聖者は普通の人々からも輩出するようになり、奇跡を起こすことよりも優れた徳性によってキリスト教的理想の生き方を実践した人が聖者となった
☆このため、中世後期において聖者となる男女には「神秘主義者,預言者,説教師,霊感者」の場合が多かった