『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[10]


○農民と農作業(13~15世紀)


(1)ヨーロッパでの農耕の多様性

 A.大半の農民は一次産業の生産者(小生産者)であったが、その様相は地域によってかなり違っている。農業技術が低いレベルだったので「地理的な環境(土壌・気候),人口密度,農地の開発度」といった要因は、農民の活動と生活に大きな影響を及ぼしていた

【地形から見た2つのヨーロッパ】
 B.農業開発が可能だった第1の地帯の「イタリア・スペインの大部分,フランドル通貨の東南地方,ギリシア,カルパティア山脈の手前のバルカン半島」である。この地帯は海抜500m以上に位置し、広大な山岳地域を含んでいる(例外:ポー河流域の平野とドナウ河流域)
 C.第2の地帯は「イギリス中部・フランス西海岸からウラル山脈・カフカス山脈の地域」まで広がる。この地帯は広大な低い平野が横たわり、標高も200mを越える場所は稀である

【自然要因】
 D.年間降水量の分布は、ヨーロッパ大平野(第2の地帯)の西部・中部では「かなり規則的」である。対して地中海沿岸地域(第1の地帯)では「きわめて不規則でとりわけ秋・春に集中する,時には夏の終わりに豪雨と洪水をもたらす場合がある」
 E.標高を見ると、第1の地帯の山岳部では「ある標高から上は農耕は不可能」である
 F.土壌は、ヨーロッパ中部・西部の高地の土は(ロシアの“黒土”と同じく)「地中海沿岸地方の土壌より肥沃」だった。その地中海沿岸地方は(潜在的にはきわめて生産性の高い平野もあるが)「中世ではまだ沼地であり、農耕活動はまだ行われていなかった」(例:ポー河流域平野の最も低い地域,キアーナ流域〔トスカーナ〕,マレンマ地域〔トスカーナ〕)

【人々の活動について】
 G.「農業の役割,森林・未開地,定住,半定住,季節移動的な牧畜活動」の重さは、地方によって様々だった
 H.ある地方での農業開発は排他的(よそ者抜き)orもっぱら国内からの入植だった。しかし他の地方での農地開発(=スラヴ地域へのドイツ人進出,スペインでのキリスト教徒によるレコンキスタ)には、政治的進展を伴っていた。また別の地方では「人の住んでいる地域から、さらに標高の高い無人の森林地帯へ」移動していった
〈例〉ノルウェーのフィヨルドの沿岸や、スウェーデン南部の平野からの移動
 I.農業生産活動は全ての土地において、必ずしも「都市住民の需要を満たせるよう努力する」とは限らなかった
 J.地方によっては異民族の農民が隣り合って生活していた(例:シチリア,スペイン,ドイツ化されたスラヴ地域)が、その影響は明らかではない


(2)総人口の推移と証拠

 A.緩慢な人口増加がピークに達した(14世紀初)が、黒死病(1347~50年)は急速に蔓延し(ただし人口減少の前兆はそれ以前から現れていた)、人口はピーク時の2/3にまで減少し(15世紀半ば)そこから緩やかに回復していく
 ★人口の絶対数:
  73,000,000人を越えない(ピーク時)
  50,000,000(15世紀半ば)

【地理的に分けて見る】
 B.南ヨーロッパ(ギリシア・バルカン半島・イタリア・イベリア半島)の人口:
  25,000,000人(1340年)
  19,000,000人(1450年)
 C.西欧・中欧(フランス・ベネルクス・イギリス諸島・ドイツ・スカンディナヴィア)の人口:
  35,500,000人(1340年)
  22,500,000人(1450年)
 D.これらの地域以外の人口は少なく、ロシア(全体で60,000,000人)・ポーランドとリトアニア(全体で20,000,000人を越えない)だった。しかしヨーロッパの人口が多い地域でも、地域ごとの差は大きい(下記の中でもスカンディナヴィア諸国は特に少ない)
〈例〉
・スペイン:
  9,000,000人(1340年)
  7,000,000人(1450年)
・イタリア:
  10,000,000人(1340年)
   7,500,000人(1450年)
・フランス+ベネルクス:
  19,000,000人(1340年)
  12,000,000人(1450年)
・ドイツ+スカンディナヴィア:
  11,500,000人(1340年)
   7,500,000人(1450年)
 E.人口密度は地方ごとにかなり違う(イル・ド・フランスの人口密集地→中欧→ノルウェー→アイスランドという順で低くなる)だけでなく、同じ地域内でも隣接地どうしでも「自然環境,農業開発の可能性」によって著しく違った

【自然との闘い】
 F.中世盛期における人口増加(10~11世紀)の間接的証拠は「都市人口と都市の絶対数の増加」「未開地(森林・沼地など)の減少」「開墾地の拡張」「農民の移住(単独でor農家が集団でor農村共同体全体で)の増加」がある。さらに、新しい土地への移住によって「教会堂が建てられ、村落が創設される」「家・家族が細分化される」のだった
 G.自然に対する人々の闘い(健気な個人的努力もあれば、領主・修道院・都市による事業もあった。都市の場合は特にポー河流域)がヨーロッパ中で行われた。開墾の証拠は多くの村の名に残されている
〈例〉フランス西部の“villeneuves”、同東部の“abergements”(特にブルゴーニュ地方)、同南西部の“bastides”、ドイツ語圏では人名や“-berg,-dorf,-feld,-rode,-reuth”という語尾を持つ地名
 H.水域・海・沼地に対する闘いはいっそう困難だった。その中でも最も重要なのは「フランドル地方とゼーラント地方の干拓地事業」がある。その他には「イギリス農民vs沼沢地」「ブルターニュとポアトゥでの海との闘い」「イタリア農民のポー河流域全体での活動」「内陸部での河川氾濫・沼地との闘い」があった

【人口変動】
 I.人口の減少した事業・地域では、辺境地で生産性の低い耕地が見捨てられ、村全体が消滅した。そうした場所では農業に代わって牧畜活動が現れた
 J.大きな人口変動はあったが、中世末期ヨーロッパは「強力な都市化が進んだ拠点(例:フランドル地方,トスカーナ中央・北部,パリ盆地)の出現」の一方で「依然として農村的世界のままであり、人口の9割は農村で暮らしていた」のだった


(3)農民が住む環境

 A.都市の市壁内にも、農業に関係する人(地主・賃金で雇われる農業労働者)は住んでいた。農業労働者は「あまり大きくなく、経済的にも遅れている都市」に集まっている場合が多い(例:中央イタリアの幾つかの都市)。反対に手工業・商業の大中心地(例:フィレンツェ,シエナ,ピサ,ヘント)では全く知られていない
 B.農村住民の大半は村に集まって生活していた(もちろん分散していたケースもある)が、村は城壁ではなく何らかの防護壁で守られていた。農民は朝になれば村を出て「近くの畑で作業をする,森で木の実を拾う,家畜を牧草地へ連れて行く,狩りをする,釣りをする」のだった
 C.農家の家族はたいていの場合、核家族or拡大した核家族=「1~3人の子供,祖父・祖母,親」からなり、多人数の家族は珍しかった。農家の生活は「耕地が広くなる,家畜(特に役畜)が多くなる」につれて、ますます豊かになった


(4)自然環境の相違と作物

 A.山岳地帯(ピレネー山脈・フランス中央高地・アルプス山脈・アペニン山脈・バルカン半島)では、平野部と比べて「穀物栽培地の比率が低い,森林で覆われ牧草地が広大である」ことは対称的だった
 B.もっと低い土地=沼沢地(マレンマ湿地帯・サルディーニャの1地方)はやはり人口が少ない
 C.上記A.B.以外のその他の地方(例:メセタ・シチリア内陸・ヨーロッパ中央の広大な地域)は、小麦・その他の穀物を豊かに産出した
 D.トスカーナの丘陵地帯やイタリア北・中部では「穀物・ブドウ・果樹の集約的な同時栽培」が定着した(中世後期)。しかし他の地方(特に地中海の環境下)では「灌木(低木)の単作」が定着した
〈例〉セビーリャ・プーリア・前アルプスのイタリア湖沼地帯・リグリアでのオリーブ栽培,コンカドーロ=“黄金の谷”(パレルモ)の果樹園(まだ柑橘類は多くない),カラブリア・カンパーニアの多くの村の周辺でのブドウ栽培
 E.ヴァランス・セビーリャ・パレルモの近くでは、灌漑法の進んでいたアラブ農業の痕跡が存在する
 F.気候がオリーブ栽培に適さない(ある緯度より北ではどうしても不可能)場合には、クルミの木の栽培が発達した。この木は「保存できる貴重な実をつける(一般的には干しイチジクがある),油が食用・灯油になる」というメリットがあった
 G.多くの農業的な景観には、季節的移動式の牧畜活動のためにバランスが破綻した痕跡が残った(例:プロヴァンス,メセタ,プーリア,トスカーナとラティウムのマレンマ湿地帯)