『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[33]


(8)聖者の機能~非凡な死者~

 A.中世の大半の人々にとって、聖者とは「名だたる死者である」「その人のエピソードは正確には知られていない」「しかし生前において、神への愛のために迫害・苦痛を忍んだ人物であることは分かっている」存在だった
 B.そこでは身体が基本的に重要視されていた。というのは聖者の身体は「異教徒の残忍さにより死刑執行人の手によって」or「聖者の禁欲主義による自己破壊的な情熱によって」手足を切り取られズタズタにされるが、その死後に聖者の精神は神秘的な完成に達するのであった

【聖遺物とその移転】
 C.したがって、中世における聖性とはまず「身体が語る言葉」である。民衆は「a.死後も清らかな身体は神の僕にふさわしい」と考えており、聖者の遺体は「b.無傷で芳香を漂わせる」「c.聖別されたパンと同じく、奇蹟を引き起こす能力を備えている」「d.切断されても神から賜っている威力を決して失わない」と考えていた。こうして民衆は「生命の泉」=聖遺物として理解した
 D.この理解が、中世の聖遺物にまつわる移動・盗難の背景にあった。時には人々は不正・暴力を用いてまで、聖遺物を移転させた。当時の社会において、聖なる身体をできるだけ多く所有することは、世俗社会・聖界・共同体において絶対に必要であった
 E.聖者自身もそのことを意識していて、自分の生地or遺体の存在が好ましい影響を与えそうな土地を選んで死ぬことが多かった。中世の伝説には「ある聖者の遺体を移転しようとすると、突然重くなって運べなくなった。これは死者が移転を拒否したためである」という逸話が多くある
〈例〉イタリア人の隠者ジョヴァンニ・ボーノ(1249年没)は、生涯の大半をロマーニャ地方のチェセナで過ごしたが、死期が近いことを悟ると生地マントヴァに戻った。理由は「故郷に忠実だった,その地で隠然たる勢力を持つ異教徒を(自分の遺体の影響力で)倒してくれることを願った」からである
 F.聖遺物の移転・盗難の絶対的な基準は「成功か失敗か?」であり、それは(身体の持ち主であった神の僕の当初の意図に関わらず)実行者によって常に正当化された。というのは「聖遺物を生地に保存している人々は、不名誉な土地に埋もれさせている」と思われ、逆に移転させた人々は「非難どころかむしろ称賛すべき敬虔さの表れ」とされた
[※上記の「遺体が重くなって運べず失敗した」というのは、移転失敗の事実を仕掛けられた側から正当化した、ということだろうか?]
 G.信者たちにとって「充分な崇敬を受けていない(と思い込んだ)聖者の遺物を、隠れた所から移してくる」のは当然の権利だった。教皇庁は最低限の規律を定めた(13世紀)ものの、結果は期待通りにはいかなかった

【民衆から見た聖者・聖女】
 H.彼らは死後に時を経て、聖者伝の中で不変の偉人として描かれた。彼らは「元々から全てを神から授かり、神の恵みによって永遠に生きる」「現世で生きた時間は、徳と奇蹟の顕示によって聖者と認めさせるためにある」とされた。このような聖者伝では、作者たちは彼らの非凡さ・超人的要素を強調している
 I.作者たちは聖者をいくら敬っても飽きたらずに、いわば話をどんどんと盛っていく(例:人々に当たり前の喜びを一切諦めて、極度の純潔・禁欲を実践する。身体は裸同然で、諦念のうちに生きる)。これに対して民衆は、聖者の近づき難い完成度を前にして「その人が犠牲になってくれているので、罪深く悩める人々に恵みを垂れてくれる」ことを期待した
 J.聖者は何よりもまず「神と人々との仲介者」「祈願する者を守ってくれる」存在と信じられた。そして聖職者も同じ信念を抱いて、聖者伝や「奇蹟の説話」を書いた。それは聖所の評判を知らせて、民衆の信仰心を強めるためであった


(9)かなえられる救い

 A.やがて(宗教改革まで継続する)聖遺物崇拝と並んで、民衆は馴染み深い同時代の人物の聖性に対して興味を抱くようになる。反対に「遙か遠い時代・神秘の彼方の地方で生涯を終えた、有名無名の仲介者」は崇拝の対象ではなくなった(12世紀~:イタリアでは11世紀~)
 B.特に地中海沿岸諸国で現れたこの傾向は、殉教者の身体(=聖遺物)ではなく「禁欲主義者・改宗者の厳しい生き方」に聖性を見出したのだった。イタリアの聖ロムアルドゥスや聖ジョヴァン・グアルベルトなど、新しいトレンドの対象となった人の生き方は「聖アントニウス,砂漠の教父たち,マグダラのマリア,東方世界の贖罪女性たち」といった人物(いずれも殉教者ではない!)の伝統と、歴史的に結びついていた
 C.新しい聖者は、生き方として「本能を抑制している」という事実を基本とする。そして「超自然的な力を有している」(例:住まいの傍に泉を湧かせる,枯れ木に花を咲かせる,火の中をくぐっても火傷を負わない,身振り1つで儀式を妨げる小鳥のさえずりを沈黙させる)

【新しい聖者たちの機能】
 D.聖者たちはまず、不自由な人々(例:病人,捕虜)のために超自然的な力を発揮したので、民衆からは「神との仲介者として成功を収めた」ように見える。彼らは「a.祓いによって悪魔を追い払う」のだが、それだけではなく「b.周縁人・除け者たちを元の集団へと復帰させる」。社会における様々な対立には「c.彼らに備わった威光・彼らが感じさせる恐怖によって『復讐を中止させる,敵同士を和解させる,憎悪と分裂が存在するところに協調をもたらす』」のだった
 ☆注意しなければならないのはc.について、聖者たちは単なる「紛争を鎮める腕利きの巧みな仲裁者」ではない!
 E.聖者たちが持つ威光・権威は「彼らの生き方そのもの」と「(彼らに仲裁を頼む)社会の人々から離れた立ち位置にいる」ことから生じる。彼らは「貴族・聖職者(=エリート階級)の出であり、普通の人ではない」上に「苦行のおかげで『人間離れ』している」ので、いっそう一般人とかけ離れた存在である
 F.さらに彼らは「家族との絆・経済的繋がりを一切断ち切り、女性関係を避ける」ことで、逆に一定の場所に腰を落ち着かせずに済む。このことが、内紛・矛盾によって機能が麻痺しやすい中世社会にあって、聖者たちが人々の「最後の頼みの綱」となりやすい背景だった。彼らは「生死を賭けた信頼できる人物である」→「彼らがいるだけで不安を取り除き、頼ってきた人の信頼に答えて勇気づける」のだった
 G.彼らがこのように期待されたのは(彼らが持つと信じられた)上記C.のような超自然的エネルギーゆえである。「世界の正常な秩序は悪魔によって乱されているが、それを元に戻すのは奇蹟によるしかない」と信じられた。諸悪の根底に存在する人々の過ちは、聖者の霊的な明晰さによってのみ糺しうるのだった
 ☆もしその罪があまりにも根深ければ、聖者は罪によって引き起こされるはずの破局を予言するにとどめた(※糺すことが無理だから!)

【近づきやすい存在として】
 H.こうして中世盛期に入ると、民衆が聖者の力に頼るには「a.生きている聖者には会いに行けばよい」「b.死んだ聖者には墓へ参るだけでよい」というように、聖職者からの介入無しに近づける(にもかかわらず神聖な)存在となる。やがては聖者の力にすがりつきたい時、その聖所まで赴かなくとも「c.奉納の約束込みで祈願するだけで、守護聖者は信者をとりなしてくれる」というようになる(13世紀~:大嵐で死を覚悟した際のコロンブス一行の祈願が好例)
 I.ただしa.について(特に地中海沿岸諸国では頻繁になるものの)、頼まれる側の聖者が「頼まれた治療・援助に応じるだけでなく、それ以上の口出しをする」ことが多かった。一般に信者はそこまでちょっかいを出されるのを嫌がった
〈例〉ある公証人が聖ピエトロ・ディ・モローネ(後の教皇ケスティヌス5世)を、アブルッツォにある隠遁所まで訪ねて行った時:
 公証人は“私がここまでやって来た理由だけを聞いていただきたい”と、素っ気なく隠者に言った。というのも隠者は、相手が有名な放蕩者だと知っていたので、相手の生活ぶりを問題にし始めたから
 この請願者からすれば「聖者の仕事は治療することであり、改心させることではない」「神から奇蹟を託された者(=聖者)の力はあくまで神から授かったのであり、聖者の個人的特権ではない」のである。聖者からは恵みを貰いたいのであり、道徳的問題には触れて欲しくない!


(10)教会への支持・信者への模範

 A.ローマ・カトリックにとって、聖者は「単に奇蹟を行う」だけではないし、聖遺物は「各地の聖所を有名にした」だけでない。教会の歴史的流れで見れば、中世初期にはある殉教者(or司教)が死後、教会公認の守護聖者となる
 B.やがて中世盛期になると、教会はヨーロッパ世界全体をカバーし、教皇は「キリストの代理として教会を指導し、聖別の権限も専管事項とした」。ところでこの時期になると、ヨーロッパ内における教会の「教義上の敵」も増えた
〈例〉カタリ派の教えやワルドー派の説教師に従って「教会が使命に背いている」と批判する者が増加した
 C.そこで教皇庁は、西洋全域において新しい殉教者への崇拝を普及させようとする(★)。彼らは“新しい福音史家”と見なされた
〈★の例〉聖トマス・ベケット(1170年没:カンタベリー大司教であり、大聖堂にてヘンリー2世の手下に殺害された),聖ピエトロ・マルティーレ(1226年没:ミラノの近くで聖務中に殺されたドミニコ会の調査官)
 D.そして多くのキリスト教徒(聖俗問わず)は聖フランチェスコと聖ドミニコを、現行の聖職者制度の改革者、もしくはそれ以上の存在=「新しい時代の到来,(福音の使命と結びつくことによる)救済の歴史における最終段階への到達,キリスト教の聖性の革新者」と見た。ドミニコ会内紛においても、聖フランチェスコを“新しいキリスト”と呼ぶのをためらう者はいなかった

【グッドタイミングに登場した聖者たち】
 E.中世の図像において、教皇インノケンティウス3世が夢に見たという幻覚(崩壊に瀕したラテラノ大聖堂を独力で支える宗教家:聖フランチェスコか聖ドミニコか?)がしばしば表現された。これ以来、聖者伝は「生きている時代の要請を察知・指導するという『歴史的使命』が、どの聖者にもある」という考えを持ち上げた
〈例〉フランチェスコ修道会の“清貧”の最終的な意味とは「新しい世界(都市・商業経済の世界)の貪欲・傲慢に対抗する、寄贈・財産放棄の重要性の再確認」である
 F.聖フランチェスコの初期の伝記を原型として多くの新しい聖者伝(例:ベギン会修道女マリー・ドワニー〔1213年没〕の『伝記』)が作られる(13世紀~)。そこでは、聖者が行った奇蹟ではなく、むしろ“神の僕”としての生涯に力点が置かれる。それまでの聖者に対する「畏怖すべき崇拝」から「見習うべき存在とする観念」が徐々に優勢となる
〈例〉聖フランチェスコの死後、修道会の指導者たちが「彼の奇蹟の説話集」を出版しようとしたので、彼の古い同伴者たちは「奇蹟が聖性を生むのではない」と主張し(いわば聖者の魔術性を取り除こうとした)、計画に反対した(1245年)


(11)守護者と加護

 A.しかし「聖者を模範者とする見方」は、信者には馴染めないものだった。大半の信者(中世後期)にとって、聖者とは「馴染みやすく、親しみやすく、頼れる人物」であり、聖者と信者自身が「同じ共同体に属している、と感じられる」ような絆で結ばれていた
 B.神の僕の聖遺物が収められている場所には「特別の加護がある」という考え方が広まっていた(中世初期~)。各司教座都市は「都市・住民にとって専属の守護者」を戴いていた。殉教者が担っていたその役目を、やがては司教が演じるようになる
 ☆司教は「都市の守護者・貧しい人々の保護者」として地域の教会を代表していたので、彼の死後にはその遺物を介して特別な守護者となるのは必然だった
 C.やがて守護者への熱望は増大し、どんな小さな町やささやかな同業組合でも、独自の守護者を祀るようになる(13世紀~)。これはイタリア・南ドイツなど、都市に対する愛郷心か際立って強くなった地方では激しく現れた。また、歴史が浅く聖者・聖遺物に恵まれないキリスト教の周辺地域でも熱烈に求められた

【都市共同体の守護聖者】
 D.市民が熱中した聖者崇拝の発達には、その都市が政治的自治に恵まれていることが条件だった。以下はニュルンベルクの場合:
[11世紀半ば]
 皇帝ハインリヒ3世によってニュルンベルクが建設された時には、その地方に住んでいた隠者の遺体が小さな礼拝堂に祀られた。やがて教会堂へ移され、商人・職人たちから敬われていたものの、礼拝は全く受けていなかった(ニュルンベルクは司教座都市ではなく、バムベルク司教区の祭典を祝うだけであった)
[13世紀]
 セバルドが自由・都市の発展の象徴となり始める。皇帝フリードリヒ2世から特権を受ける(1219年)。都市当局はセバルドを祀るために大きな教会堂を建て、聖セバルドの祝日(8月19日)は毎年盛大に祝賀されるようになる
[1280年頃]
 聖職者によってラテン語のリズミカルな祈祷文が作られる。重要なのは、聖セバルド信仰が一般大衆的なものではなく、ニュルンベルクの富裕支配階級によって「都市の偉大さと独立の擁護者」として仕立て上げられたという点にあり、祈祷文にも表れている
 ★セバルドは「貴族であり、親・城を見捨てて清貧と隠遁のうちに生涯を過ごした」or「デンマークの王子だったが、お忍びでこの土地に来て亡くなった」とされる。伝説における身分は、聖セバルド信仰を持ち上げた支配者階級を反映している
[1350年頃]
 職人たちが都市行政に加わるようになる。この時初めて、聖セバルドは大衆的な存在となった。彼ら新興階級は古い支配者層と対立していたので、進んで地域の守護聖者の下に結集し、それによって「都市の真の利益を守るため」という大義名分を掲げることができた(それによって自分たちの本当の要求を隠そうとした)
[14世紀末]
 聖セバルド信仰はニュルンベルク全体において飛躍的に重要となる。「a.セバルドを祀った教会堂は大きくなる」「b.それまでには見られなかった、彼を表現する像・ステンドグラスが作られた」「c.伝記がドイツ語に訳された」「d.ニュルンベルクの貨幣に鋳造された(15世紀初)」
[1425年]
 ニュルンベルクは聖セバルドの列聖を教皇マルティヌス5世から認可してもらう。実はこれまでは、聖職者は「聖セバルド崇拝に異議を唱え、典礼を拒否していた」からである

【仲介者が果たしたもの】
 E.ニュルンベルクの聖セバルドへの措置は例外的であった。イタリア諸都市では、市民による崇拝が起こった人物の列聖(例:トレヴィーゾのベアト・エンリコ・ダ・ボルツァーノ〔1315年没〕に対するもの)が、教皇庁によってたいてい却下された
 F.それでも諸都市は、その人物を正規の守護聖者のように変わらず崇拝した。それほどまでに都市の運営者たちは「神との仲介者のおかげで都市の繁栄が確保され、市民の間の強調が保たれている」と固く信じていた

【王家の守護聖者から国民全体へ】
 G.崇拝された聖者or聖女は、後年に支配者の家系と何らかの関係づけが行わた。君主制に基づいた国民国家の意識が発達するにつれ、王家の守護者は国民全体の守護者になりやすかった
〈例〉聖ドニの遺物はパリ近くの大修道院に祀られ、カペー朝期にフランスの象徴となる。聖王ルイでもその威光を越えられなかった
 H.百年戦争は諸国間の軋轢を激化させ、こうした傾向を助長した。古くから「ヴェネツィアは聖マルコとその獅子に同化していた」が、同様に「イングランドは聖ジョージ」「ブルゴーニュは聖アンドレ」をそれぞれ信奉した。聖者の名は国民の命名に多く利用されるようになる(例:スウェーデンでのエリック)

【中世後期から近世へ】
 I.識者たちの中には、都市や国家での聖者崇拝による弊害を指摘する者もいた。古い聖者への普遍的な信仰が、新しい聖者への地域レベルでの偏狭な信仰に取って変わられることを心配する者もいた。あるいは「教会の聖者祝日表に挙げられた偉大な人々(福音史家・使徒・紀元初期の殉教者たち)」への信仰に背を向け、代わりに「(時には疑わしい聖者も含めた)弱小信仰に分散している」と批判する者もいた
 J.確かに中世後期の聖者崇拝は社会での日常生活に深く同化していたので、世俗的になりすぎていた。しかしそれこそが、市民生活での信仰の枠内における「世俗‐神聖」「政治‐宗教」の複雑な絡み合いであった。そのおかげでキリスト教は(宗教改革以降の)カトリック諸国において維持されてきたのだった
 K.反対にアルプスの北側では、南側よりずっと「典礼的・伝統的な形式が保存されてきた」ので、プロテスタントの改革が勝利した場所では、都市のブルジョワジーにより「迷信的な信仰と実践の全て」が一挙に抹殺された(16世紀)。彼らにとってそうしたことは「聖職者が群衆への影響力を保つための迷信に過ぎない」と思われたのだ
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[32]


(5)聖王と天使の如き修道士

【中世初期】
 A.中世初期から盛期にかけての状況下=「貴族社会か確立される途中である」「世俗権力と教会との密接な連携がなされている」において、初期の聖王が現れた…が、これは特殊な場合である
〈中世初期の例〉
 ブルグント族の王である聖ジギスムント(523年没:アリウス主義を棄ててヴァリス地方のサン・モリス・ダゴーヌ修道院を設立した),東アングリア王の聖エドモンド(839年没:デーン人に殺されてキリスト教信仰の殉教者と見做された)
 B.しかし基本的には、聖性の威光に対してゲルマンの諸君主はあまり興味を示さなかった。というのも、彼らは(キリスト教的では全くない)異教的・魔力的な威光(例:メロヴィング王の長髪のような、権力者らしい外見)に依存していたから
 C.だがその後(8~10世紀)に樹立された新しい王朝(カロリング朝・オットー朝・カペー朝)は、正当性を求めて教会に頼った。これらの王朝は、ビザンティンに引き継がれたキリスト教的帝国の伝統を回復する(塗油と戴冠の儀式によってそれは完成する)。その際に受ける列聖の儀式によって、王は「世俗的貴族から離れて一種の『外郭司教』となり、その行動を教会から指導・教化される」ようになる
 ⇒大陸ヨーロッパでもイギリスでも、国王の機能について(明らかに旧約聖書の影響を受けた)“正当な王”のイデオロギーが発展した
〈例〉カペー朝ロベール2世(敬虔王:1031年没)の伝記。王があまり称賛できない夫婦生活を送ったことに触れながらも、王=聖職者としての儀礼の側面を強調している
 D.伝記では、ロベールは聖者として扱われてはいないが、人間と神との間を仲介し奇蹟を起こす(彼が手を触れただけで、ライ病が治癒する)→フランスにおいて「治療者としての王」の伝統の始まり

【ヨーロッパ周辺諸国にて】
 E.この時代に新しくキリスト教化された西洋周辺の諸国では、王権神聖化の過程は「君主が個人的に成聖する」という形をとる(特に劇的な状況下で非業の死を遂げた君主の場合)。これらの人物が持つ崇拝される要素について、異教的神聖さと教会の介入により生み出された部分を識別するのは困難である
〈例〉ボヘミアの聖ウェンツェスラウス(929年没:母と兄弟の命令で暗殺された),ノルウェーの聖オラフ(1030年没:シュティックレシュタットの戦いで殺される)
 F.聖オラフは(神の子孫だとする)イングリンガ王朝最後の子孫であったが、ノルウェーにおけるキリスト教伝道の代表者であった。彼は聖界からは殉教者と見なされ(血にまみれた死・それに続く奇蹟により)キリスト並に扱われ、やがてノルウェーの国民的聖者となり、中世末には“永遠の王”と見なされる。これに類似したケースは多く見られる(~13世紀)
 G.ハンガリーでは、アルパド王朝がキリスト教に改宗してからも、異教時代に存在した神聖な威力が信じられていた。教会はイシュトヴァーン王(1038年没:国民に洗礼を受けさせた)を聖者と認める(1083年)。その後には聖王の息子エメリ、さらにはラスロー王も加えた
 H.イングランドでは、アングロ・サクソンのエドワード証聖王(1066年没)への崇拝が広がる(12世紀~)。やがてプランタジネット王朝はフランスの例にならって「神聖&奇蹟を起こす王権」の観念を植え付けた

【10・11世紀】
 I.西洋では聖王は例外的であったが、女王に対して聖性の「兆候」を見つけようとする努力が行われ、いくつかは成功した
〈例〉オットー朝時代のザクセンにおいて、ハインリヒ1世の妻マティルデ(968年没)に2編の「伝記」が捧げられた。オットー1世の未亡人アデライデ女帝(999年没)は、教皇ウルバヌス2世から聖別された(1097年)
 J.これらの崇拝は「権力の頂点に達した王朝による、自分たちの家系を称賛したいという意思」と「修道士・修道女が恩恵を与えてくれた者に対して、示さずにはいられなかった感謝の気持ち」が重なって生じた。さらに教会による「王家の祖先を神聖化する→正当性の擁護」は、封建システムが強力となり権力が脅かされている状況において、権力の強化のために行われた

【聖者の集団としての修道士】
 K.こうした一方では「修道院の使命を高め、天国への待合所とする」理想の高揚があった。この概念は以前から存在したが、ベネディクト会がその修道生活を自ら改革しようと試みたことから、現実的に信用を持つようになる
 L.修道士たちは「常に祈っている&純潔である」→すなわち“聖者の集団”とされた。彼らは天使のような存在として、その生活は信者から高い評価を受けた(在俗司祭の生き方が決して模範的とは言えないのとは対照的だったから)
 M.聖ベルナールのようなクリュニーの偉大な修道院長たちは、人々の中でも著しく宗教性の高い者ら全てを受け入れようと務めた。だから、時には教皇・司教にとって「教会が必要とする優秀なキリスト教徒が、現世を捨てて修道院へ入る」のが、非常に残念なことであった
 N.この時代に人々の注目を集めた人物は、修道院制度の改革者であった
〈例〉ジェラール・ド・ブーローニュ(959年没)はその名を付けた修道院をエノーで再興した。クリュニーの偉大な修道院長たち=「聖オディロン(1048年没),聖ユーグ(1108年没)」の在任中、ブルゴーニュ地方のこの修道会は頂点に達した
 O.著名で突出した指導者たちに加えて、10人ほどの男性とそれに劣らない数の女性が、熱烈な宗教生活によって各修道院の特徴を作り上げた。キリスト的生活の在り方について、彼らは司教から信者に至るまで異常な衝撃を与えたという
 P.この時代におけるベネディクト会修道会は、社会の中で異様な成功を収めた、といえる。人々は「ベネディクト会の修道士だけが『聖性における専門家』である」と考え、他の信者・在俗の聖職者たちは一時的にしか宗教人として振る舞えなかった。人々は「自分たちが聖性を追求する資格はない」と信じていたので「天国と地上との仲介」は彼ら修道士に委ねたのだった(しかもこの仲介が無ければ、どんな社会も生き残れないと信じられた)


(6)キリストにならう

 A.中世盛期となり、長い停滞の時代から脱して人口・経済・文化における急成長を遂げた社会は、多様な宗教的経験を求めるようになった。このため、伝統的なベネディクト会修道士の生活様式が厳しく批判される時が来る(11世紀)。また、もっと過激な者は成聖へと至る別の道を求めるようにもなった
 B.この頃になると、人々にとっての「聖性」の性質そのものが変化していた。従来の「近寄り難い別世界の神の神秘を追い求めた結果」としての聖性から「見えざる神の見えるイメージ(=キリスト)を見習うことで、いつしか永遠の至福に辿り着ける」聖性になっていった
 C.人々が「生活の内面を追求する」この道を発見したことは、修道生活にも影響を与えた。特にクリュニーの修道士たちは「宗教生活の儀式的な部分を追い求め過ぎ、現世での任務を放棄した」として非難された。こうして聖ベルナールは、聖ベネディクトゥスの戒律の精神に立ち帰るだけでなく、禁欲主義を「神へと向かう宗教家の精神」の第一歩に据えた

【深い変化】
 D.この時代の修道院制度そのものは不変であったが、しかし西洋世界での聖者の数は著しく増加する(12・13世紀)。これはこの時代の人々がより精神的な高みに達したということではなく、以前は列聖に際して「身分の要件」が存在したのだが、新しい基準として「個人の内面性」に重点が置かれるようになる
 E.こうした変化の影響として、シトー会・プロモントレ会ではもはや、子供・オブラ(献身者)を修道院に受け入れなくなり、代わって「キリストにならう道を選んだ者」だけを受け入れる
 F.ジョヴァンニ・グアルベルト(イタリア:1073年没)やロベール・ダルブリッセル(フランス:1116年没)は「a.無一物と苦行に行きた」「b.貧しい人々のために献身した」「c.売春婦を更正させようとした」のだった(いわば「熱心な貧しいボランティア」である)
 G.グレゴリウス7世の教皇庁は、世俗権力の有害性を指摘し「皇帝・国王たちがキリスト教徒に相応しくない行動をしている」として非難した。世俗権力は「叙任権闘争」の末に非神聖化され(全ての聖職者が大胆に切り替えができたのではないが)、今後は「教会活動を優遇し、敬虔さと個人的道徳において模範となる君主」だけが、教会から聖者と認められた(例:聖王ルイ9世)
 ☆カール大帝の列聖はフリードリヒ1世の懇請によって対立教皇から認可された(1166年)ものの、ローマ教皇庁からは一度も追認されなかった
 H.列聖の手続きは教皇の専権事項となる(13世紀初)が、これは単に「教皇庁の中央集権化,聖界の規律の問題」だけではなく、列聖のプロセスがきちんと定められたことに意義がある。以降は「列聖訴訟という形式で、目撃者or取りなしの恩典に浴した人々の証言によって、ローマ教皇庁の慎重な審査を受ける」ようになる
 ⇒2種類の聖者:「1.教皇から聖者と認められて、典礼的崇拝の対象とされた人々」「2.それ以外の、地域的な崇拝を受けるだけに止まった人々」が現れる

【聖者の地域的特色】
 I.ローマ教皇庁は「キリストにならう」という理想に基づいて、使徒的・福音的な聖性の新しい模範(例:アッシジの聖フランチェスコ,聖ドミニクス〔ドミニコ会の創設者〕)を広めようと努力した(13世紀)。この理想を体現する人物には、地域的特色が明瞭に現れる
 J.アルプスの北側では、中世初期以来の「貴族身分&権力と聖性の結びつき」は強固に残っていた。もちろん、祭壇に祀られる栄光に浴することができた世俗人・女性の数は増えたものの、貴族優遇ははっきりしている
〈例〉ハインリヒ2世の未亡人クニグンデ(1200年に列聖),テューリンゲンの聖女エリザベート(ハンガリー王アンドレ2世の娘:1231年没),ポーランド公の妻ヘドウィーゲ(1243年没)
 K.新しい宗教的価値観=「謙譲と貧困」が托鉢修道会によって広められ、決定的となっても、貴族優遇の偏見は存続した(極端なエリート主義は変わらず)。このため聖者伝の作者は、曖昧・不確かな出自の神の僕を「名門の出身である」と書くように努めた
 L.ところが同時代の地中海沿岸諸国では全く異なり、特にイタリアでは支配者階級が聖者に占める比率は非常に減少する。聖者司教(フランス・イングランドに多い:13世紀)は消滅した。新たなトレンドは、ほとんど専らが“民の声”で選ばれた男女は、顕著な役目・名門の出自ではなく「a.神と隣人への愛のために試練に耐えたことにおいて優れていた」のだった
 M.さらに、例外を除いて「b.劇的な死or流血は問題ではなくなる」。精神性に完成の評判が立つのは「c.神の僕として進んで忍んだ窮乏・苦痛である」。この地域での聖性とは、貧困と諦念に基づいた生活・行動の模範としてである
 N.そして「d.禁欲主義がポイントとなる」が、その代表はアッシジの聖フランチェスコ。彼の生涯は「身をもってキリストの受難を再現するぼど、生涯において徹底した努力を行った」。それは新しい聖性の概念(“憐れみ深く苦しむキリスト”との一体化)を完璧に表していた
 O.地中海沿岸諸国での新しい聖性は「隠者,修道女,神を求めてさ迷う途上で亡くなった巡礼,救済院・施療院の創設者,貧しい人々へ恩恵を与えた者(例:クレモナの聖オモボノは、貴族でない俗人で最初に聖別を受けた〔1199年〕)」といった人々にはダイレクトに感じられた。また慈善事業を通じて、多くの俗人富裕層が地域レベルで崇拝された

【聖性の変化-アルプスの北側でも】
 P.聖マーガレット(スコットランド王妃:1093年没)の伝記は、修道士テュルゴによって書かれた(1105年)。作者は彼女を「妻として・母として・王妃として模範的で、崇拝されるに相応しい」と判断した。そして彼女が「夫・子供たちに与えた忠告,教会に対して惜しまなかった援助」について称賛している
 Q.聖エリザベート(テューリンゲンの領主ルートヴィヒ4世の妻:1231年没)はドイツ全体で有名になり、さらに慈善事業においてもいっそう評判を高めた
[※彼女の夫の行軍と死については、拙blog内記事『中世の旅人たちの様々な節目』も参照のこと]
1.「彼女の場合、高貴な家柄である以外には聖マーガレットとの共通項はない。さらには修道院も教会も建ててはおらず、ただ貧しい人々のために施療院を建設しただけである」
2.「彼女は未亡人となる前に、領主の妻として相応しい生き方を過ごした。しかしこれは外見的な部分でしかない」
3.「彼女は饗宴に出席しても何も食べず、残り物をコッソリ頂いて貧しい人々に分けた。この行動は側近の者たちからひどい顰蹙をかったので、彼女は(領主権に基づいて)領地から受け取る食料には一切手をつけなかった」
4.「夫の死後、彼女は頻繁にヴァルトブルクにある親族が有する城を出て、病人・レプラ患者と一緒に暮らした。そしてこの人々のために財産を使い果たし、亡くなるまで看護に従事した」
 ⇒新しい聖性の内面:「身分の違いを越えてキリスト教徒のために献身すること」「キリストにならい、キリストに追従しようとする願望に基づいていること」


(7)霊感を受けた言葉(14~15世紀)

【信徒から離れていく教皇庁】
 A.創設以来数十年間、托鉢修道会によって体現されてきた福音主義的傾向が、教会と対立するようになる(13世紀末~)。フランチェスコ会修道士は、異端的運動をも含む理想から転じた反抗を、教皇庁に向けた
 B.教皇庁のアヴィニョン移転とともに「教会の聖職者万能主義」「権力機構の中央集権化」がいっそう著しくなるが、そうした制度は信者たちの宗教的願望にはますます応じられなくなっていた。それら制度の周辺において、聖性の新しい形式が現れた。神秘主義神学の発展(13世紀後半~)にはこのような背景がある
 C・新しい神学はドイツ・フランドル地方・イタリアにおいて確立され、やがて信徒全体へと広がる(1300年頃)。また特に「幻覚を伴う予言活動」が台頭し、教会大分裂(1378年)によって生じた危機を煽るような形で発展していく

【新しい動きに女性の占めた地位】
 D.幻覚能力のある聖女の最古の例として、マルゲリータ・ダ・コルトナ(1297年没)、クララ・ダ・モンテファルコ(1308年)、アンジェーラ・ダ・フォリーニョ(1309年没)が挙げられる。彼女らは1人も中世の間は聖別されていない
 E.ウンブリアにおいて聖クララの列聖訴訟が行われた時に、神秘的現象としての幻覚が初めてローマ・キリスト教会によって考慮され、特別の審査を受けることになった。これが成功しなかったのは、恐らく聖職者の側に「女性に対する不信感」があったせいだと思われる。そして、彼女らは「愛によって全ての意思を融合させれば、現世において神との一致が可能だ」と主張していたのだが、これは「この世とあの世の仲介者」としての聖職者の役割を奪う恐れがあった
 F.女性の聖性と関連した予言(14世紀を通じて強調された)としては、スウェーデンの聖女ビルイタ(1373年没:教皇のローマ帰還の緊急必要性・教会改革・異教徒改宗についての、神の啓示を発表した)やシエナの聖女カテリーナ(1380年没:聖女ビルイタと同じ目標を熱心に追求した)がある。こうした女性の予言の共通項は「社会全体ではなく、上層部の改革を図ろうとした」ことにある
 G.彼女らの予言による改革は「社会的エリート主義」と言える。それは、教皇をはじめとする現世の権力者・君主に向かって口頭or文書で呼びかけられたものだった。たいていこれらの“幻覚者”は「a.現世の制度の欠点を批判するが、それを重大視しない」「b.逆にそれらの制度には、本来しかるべき役割を果たすよう求める」「c.つまり教会・社会の構造はさて置き、階級制の頂点を転覆させようと働きかける」のだった
〈例〉教皇は政治・世俗の事柄に首を突っ込んではならない。フランス国王は(悪い顧問団から反対されようとも)神聖な使命を片時も忘れてはならない
 H.彼女らは教皇・君主に対して、到底不可能と思われる教会改革をもたらすような、霊的な飛躍を求めた。そのための武器としては「人間の罪・聖職者の裏切りによって逆上した神の怒りの脅威」「人類の救いのために血を流して死んだ『子羊』の、無限にして憐れみ深い愛の喚起」しか用いなかった

【説教師の活動】
 I.聖性が(教会のコントロールできない)周りで発展し、しかも時には教会の不備を批判する。この新たな聖性を敵に回すのは教会にとっては危険であった。そこで予言者・幻覚者の活動領域(★)において、聖職者の中でも最も活発な人々が世論の挽回を図ろうとした
 ★街角で飛び交う発言の領域。一般大衆は読み書きができないので、この領域は社会できわめて重要だった
 J.中世後期の主要な聖者の一覧に占める、当時の偉大な説教師たちが占める割合は相当なものである。ヴァンサン・フェリエ(1419年没)、ベルナルディーノ・ダ・シエナ(1444年没)、ジョヴァンニ・ダ・カペストラノ(1456年没)、ジャコモ・デラ・マルカ(1476年没)らはいずれも托鉢修道会の出身である
 K.彼らには前例がある(フランチェスコ修道会から聖アントニオ・ダ・パドヴァ,ドミニコ修道会から聖ピエトロ・マルティーレ:どちらも13世紀の聖者)。しかし西洋全体(15世紀)において、若干の隠者以外で大衆の感激を引き起こしたのは、生涯&全精力を「言葉の聖務」に捧げた説教師たちである
1.「彼らはアラゴンからブルターニュ、イタリアからクロアチアやポーランドに至るまで西洋を駆け巡った」
2.「信者に馴染みの深い一般の聖職者とははっきりと区別された。彼らは極貧の状態で都市から都市へと移動したが、反対に聴衆の注目を集めるだけの時間的余裕があった(例:四旬節の期間を通じて説教を続けた)。そのおかげで彼らは、都市とその住民の様々な問題に馴染むことができた」
3.「説教というよりはむしろ、彼ら説教師の介入によって組織された『大きな催事』or『ミーティング』or『ハプニング的な講座』となる。もちろんその花形は説教師自身である」
4.「彼らは普通、野外で臨時に作られた木造の演壇の上から説教を行った。その際(司教or教皇から委ねられた赦免の権限を持つ)告解司祭や、時には悔悛者の群れ(一種の贖罪的な巡礼をしようとする者たち)を伴っていた。後者は説教が始まる前に、鞭打ち苦行・祈祷の勤めに励んだ」
5.「説教師は通常、教義ではなく道徳の角度から救いに不可欠な真理を話した。彼らは大勢の聴衆を把握し・感動させたかったので、何よりもまず信者に己の罪を理解させ、後悔させるように努めた」
6.「それが成功した時、説教師は自分の影響によって生じた精神的変化について、はっきりとした証拠を示すように要求した。さらに彼らの伝道は、薪の上で賭博の道具・婦人たちの虚栄的な装飾品を“火刑に処する”ことで終わる場合が多かった」
7.「彼ら聖者の心で燃える意欲は、(個人の道徳の域を越えて)社会生活の中に福音書を導入しようと務めるようになった。彼らは積極的に『仲介者』の役割を演じた(例:敵対し争い合う家・党派を和解させる)」
8.「さらに彼らは、貧しい人々・社会的周縁人が耐えている苦難を救おうと努力した。説教の後に(病人を受け入れる)施療院が建設され、また(高利貸しに対抗して)質屋が開設された」
9.「彼らは生活安定の保証を図るために、公権力を巻き込むことが多かった(例:都市当局に新しい規則を設けさせる,キリスト教の倫理にいっそう適した都市の条例を作らせる)。その目的は特に、金持ちの傲慢な奢侈・実業家の不正な商業慣習に反対するためである」
 ⇒中世の最後において、キリスト教における聖性は「修道院的な理想が幅を利かせた何世紀にも渡って目立たなかった」中世初期の福音的活動の伝統に立ち返った

【中世後期の聖性に関する1つの問題】
 L.この時代には、聖職者のヒエラルキー制と一般信徒との間な深刻な不一致が生じていた。教皇庁は「列聖の栄光を受ける人を厳選した」ものの、そうした聖者に対する崇拝は期待されたほど効果を上げなかった
 M.一方で一般信徒は「非業の死を遂げた」という実績があれば当然のごとく、男女子供を問わず崇拝した。そのような殉教者は、特にイングランドをはじめゲルマン世界に多く見られた。しかし教皇庁は一般的に、流血に関係する聖性を一切拒否した
〈例〉ヴェルネル・フォン・バカラ(1287年没)は、ライン川流域地方とネーデルラントで大変評判が高かった(14・15世紀)。シモーネ・ダ・トレント(1475年没)への崇拝は、アルプス地方や北イタリアに広く普及した
 N.また教皇庁は、巡礼で奇蹟を行う人物への、聖者に対するような人々の篤信をも無視した
〈例〉聖ロックは、ペスト治療の聖者としてペストの際に盛んに祈願の的とされた(15世紀半ば~)。さらに彼のために至る所で教会堂・礼拝堂が建立された。しかし教皇庁が彼を聖者と認めるのは近世になってから(17世紀)
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[31]


○聖者


(1)はじめに

 A.聖者を研究するにあたって頼らねばならない史料(=「聖者伝」「奇蹟説話集」)は、現実の歪曲化・画一化の危険を増やしてしまう。というのは、こうした史料の著者は「神の僕たち(=聖者)を、何としてでもキリスト教的模範者(例:殉教者,童貞,告解者)-さらにはキリストの姿に一致させよう」とするからである
 B.実際のところ、聖者・聖女に相応しい人物は誰でも、生前には(神の子の人格と一致しないまでも)少なくともキリスト教的模範者としての絶対基準に最も近づこうと努力していた。この点では彼ら全員が類似しているし、奇蹟と見做される彼らの業績(パンの奇蹟から死者蘇生にいたるまで)も同様である
 C.こういう訳なので、現実の彼らの姿を想像するのは難しく、結局は紋切り型のエピソードの寄せ集めになりがちである。聖者伝(さらには各種の正史)では、彼らは例外的人物としてのみならず、反復的人物像(定まった型の聖者が歴史上繰り返し登場してしまう!)となってしまう。こうなると彼らの違いとは「彼らが生きた時間的・空間的な背景」だけとなる(しかしそれすらも図式化されてしまう)


(2)キリスト教における聖者の地位

 A.聖者崇拝は全て殉教者崇拝に由来していて、彼らだけがキリスト教徒から敬われる。古代ギリシア・ローマの英雄と、新しく登場した聖者(=キリスト教徒の模範者)には全く共通点はない。というのは、古代においての「死」は、人間と神々との間の越えられない境界だったから
 B.反対にキリスト教の立場からすれば、殉教者は「キリストに倣い、キリストの教えに従って死んだから、天国の栄光&永遠の生命に到達できた」人物なので「天国と地上を結びつける人間=“仲介者”」である。そして「殉教者の記念日」とは「死を越え、神の傍で生まれた日を祝う」キリスト教的な祭典である
 ★殉教者崇拝は、新興勢力たるキリスト教の最もオリジナリティな部分である
 C.しかし殉教者崇拝は1から創り上げられたのではない。そのベースとして「どの個人にも、守護してくれる霊(守護霊・天使・精霊など:現実を越えた存在)がいる」という、一般に信じられていた観念があった(古代末)
 D.これを殉教者崇拝へと転換したのは、ミラノのアンブロシウスやノラのパウリウスなどの偉大な司教であった(4世紀)。彼らは(それ以前から存在した)超自然的存在に近いタイプの聖者を「人間的な存在」へと移し替え、彼らを「神との仲介者」と見なすように信者たちに勧めた
 ⇒これによって殉教者と信者は「守られた方は恩義を感じ、頼られた方は守護する義務が生じる」という、一種の「保護関係」となった。こうして、信者に対して日常的に救いを与える存在としての「守護聖者」となる
 E.歴史的な見解として、上記と反対のプロセス=「1.殉教者崇拝は個人レベルで生まれた」→「2.それを取り込んだ地域教会の責任者に委ねられた」ということもあり得る。それでも、殉教者崇拝の一般的な普及に司教たちが大きな役割を果たしたことは間違いない
〈例〉ミラノ(358年)において、聖ジェルヴァンシオと聖プロタンシオの遺物が「作られ」、直ちにアンブロシウスがそれを手に入れて司教座教会で利用した

【都市の守護聖者として】
 F.聖者は大聖堂・都市の「守護聖者」となることで、この地上世界における継承者=司教の威光を顕揚した。暦の上の祝日をきっかけに遺物の威光はますます高まり、都市共同体に影響を与えた:
1.「祝日をわざわざずらすことで、都市住民の統一を図る」→「社会的周縁人・農民・異国人をも同化させる機会を作る」
2.「宗教行列によって市壁の内と外(墓地,殉教者の遺物を祭った小さな聖所)との新たな絆を作る」
3.「盛大な儀式に大きな役割を担う婦人たちが、孤独な生活から出てくる(※これは売春婦のこと?それともベギン会のような修道女のこと?)」
 G.貧しい人々は危機的な隷属状態から解放されて「聖者の保護下に置かれ(14世紀~)、やがて聖者のfamiliaに入れられた」。また、権力者の義務として「神の僕たちの遺物を、墓所から祭壇へと移すための教会堂を建立する」ようになる


(3)オリエントからの禁欲主義

 A.西洋での迫害が止まった後、殉教者崇拝から(人々の現実的守護者で殉教者の世話人である)司教への崇拝に移行していった。その一方でオリエントからきわめて異なった影響力が及ぼされた
 B.オリエントでは新しいタイプの聖者が、以前の殉教者に並んで登場した。それは「a.信仰告白者(例:アレクサンドリア教会をアリウス派異端に対する闘争の先鋒とした聖アタナシウス)」「b.禁欲主義者(表面的なキリスト教化にとどまる社会に居ては到達しえない、福音精神の完成を求めて俗世間から逃避した)」である
 C.b.の人物たちは、自ら文化的生活を棄てて自然の中(砂漠)へ行った。そこでは「もっぱら生の植物を食し、体の健康には全く関心を持たない」窮乏生活を実践した。彼らはカリスマ性を隠そうと努力したものの、その生活ゆえにあまりにも早く有名になった
 D.彼らは栄養・睡眠といった点で人間の条件を越えていたので、同時代人には非凡な人間と思われた。彼らは社会的周縁人とは違い「祈りにふけって神と親しんでいるので、狂乱に陥ることはなかった」→人々からは「偉大な超自然的な威光を備えた」ように思われた

【禁欲主義の伝播】
 E.オリエント的な聖性はローマ世界全体においていち早く知られた。そしてエジプト・シリアから伝わった禁欲主義は「ポワティエの聖ヒラリウス,聖ヒエロニムスのアキテーヌ地方の仲間たち,マルセイユのカッシアヌス,レランの修道士」らによって西洋に導入され、成功を収めた(4世紀後半)
 F.上記の成功を示すものとして、この時期における最も重要な聖者伝『トゥールの聖マルティヌス伝』(中世の聖者伝に深い影響を及ぼした)には、ガリア・ローマ人の禁欲主義の理想が示されている:
1.「パンノニアの行政官マルティヌスは、ポワティエのヒラリウスから苦行の仕方を教えられ、共同修業の隠遁生活を送った」
2.「彼はトゥール司教となり(371年)没する(397年)まで、あらゆる悪(アリウス派異端,農村の多神教,地域住民から慕われた偽殉教者への崇拝)と精力的に戦った」
3.「しかも彼の布教は数々の奇蹟に恵まれた。この点においてオリエントの先駆者たちよりも上であった」
4.「聖マルティヌスが実践したのは、孤独に浸った修道士としてのみならず、司教として活動する『混合的な生活』である。さらに彼はロワール河畔にマルムティエ修道院を創設し、そこから多くの司教が生まれた。これらの事実を聖マルティヌス伝の作者は強調する」
5.「オリエントの聖者伝には聖職者はほとんど登場しない。ところがこの聖マルティヌス伝によって、西洋における聖性は聖職者と深く関わるようになった点が決定的に異なる」
6.「オリエントでは若干の聖職者を除けば、一般に聖職者はカリスマ的存在とは見做されなかった」


(4)新しい聖者像

【民衆守護としての聖者】
 A.西ローマ帝国崩壊後、宗教的権威の担い手は東西において異なる。東方では「(キリスト教的な)人民の元首としての皇帝の神聖なる権威」が、隠者・修道士の権威と並行して発展する
 B.しかし西洋(ゲルマン人の侵入によって多くの異教徒たちの王国に分割された)では、司教が「聖遺物の保管者,都市の守護者」として活動し、キリスト教勢力の中心人物となる。司教は地域教会の主導者として、生前は政治・社会・宗教の舞台において前面に登場し、死語も感謝の対象となる(例:ローマの聖レオ,オルレアンの聖エニャン,カオールの聖ディディエ)
 C.こうして殉教者の時代は過ぎ「オリエント型の隠者は西洋では文学における風潮にしか過ぎなくなる」「孤独で貧しい贖罪者はやがて、ヒエラルキー制のカトリック教会から冷遇される」ようになる。禁欲主義は修道院制度でしか認められない

【権力と中世初期西洋の聖者】
 D.中世初期には、教会は(主として)都市における社会的指導者となっており、聖者の顔ぶれもそれを反映していた。立派な司教たちは国王・その代理人の横暴に対して熱心に住民を守り「活動的・効果的な慈悲の人物」と見做された
 E.彼らは弱気を助け、抑圧と権利侵害者に反抗した(例:現世の権力者を天罰で脅すことも辞さない)。ここには教会の「アジール権」が認められたことからも裏付けされる(=逃亡者は崇拝されている聖者の聖遺物の保護下に置かれた)。さらに、都市における「社会福祉」事業(施療院,救済院,養護施設といったもの)が教会に移されたことからも、このような流れは促進された

【聖職者層=支配者層】
 F.しかし聖者が介入した主な分野は「奴隷状態に落とされた捕虜への援助」であり、その慈悲心は聖性に相応しいものとされた。また対象は戦争捕虜に限らなかった
〈例1〉アルルの聖セゼールやパリの聖ジェルマンは、高価な皿・聖職者の装飾品まで売って、捕虜の身代金を支払った
〈例2〉カオールの聖ディディエ(655年没)は、牢獄の扉を開いて有罪の者も無罪の者も差別することなく釈放した。さらに彼らに社会復帰させるべく「洗礼を受けていなかった者には洗礼を施し、その上で教会・修道院において働かせた」
〈例3〉聖アマン(679年没)は解放された奴隷を教育し、聖職者or修道士にすることを躊躇しなかった
 G.しかし同時代において、修道院長・司教は最も多くの奴隷serviを抱える身分だったが、その矛盾に当時は誰も気づかなかった。さらに聖者は「相続権を奪われた者,不正行為の犠牲者」から頼られる場合であっても、そのために世俗権力に対して積極的には対抗しなかった
 H.この点について、中世初期の政治構造は「教会の指導者層と世俗の指導者層との間に、密接な関係があった」ことが影響している。“聖者政治”(6世紀末~8世紀末)と呼ばれるほど、権力と密着した聖者が多かった(例:ローマの聖グレゴリウス1世は、崩壊した皇帝の権威に代わって都市の防衛・行政を担った)

【ゲルマン諸部族国家にて】
 I.しかしアルプスの北側では全く事情が異なっている:「a.権力の座に就くのはフランク族(などゲルマン諸部族)の貴族階級である」「b.彼らが教会を掌握した」「c.キリスト教化されていない農村地帯への伝道活動(例:聖ボニファティウスや聖コルビニアヌスの伝道)を支援した」
 J.聖職者と支配者の密接な連携によって「貴族が他の諸身分全てに対して有する優位な社会的地位」が宗教的に正当化され、さらに「聖者は貴族でなければならない」という通念が成立する。この通念はそもそも「古代末期のキリスト教やゲルマン人の多神教に共通して(支配者にも被支配者にも)存在した、純血貴族に対する1種の『信仰』」に基づいていた=“貴族聖者”の確立
 K.その結果、身分の卑しい人々は「聖性を帯びるようになる道」から排除された。今後貧しい人々(貴族から見れば「思考力も自由もない存在」である)は、隠遁生活(西洋ではあまり普及しなかった)を選ばない限りは教会の名誉ある地位(=聖者)に達することはできなくなった(~11世紀)。この時代には「貧困」「極端な禁欲」は社会的に疎外されていた

【貴さの証明】
 L.ところで死後も敬われた聖者たちとは、特に「教会堂・修道院の創設者」であった。そうした行動に対すて、聖職者・修道士たちは「伝記を書く」「記念の祝日を定める」ことによって感謝のしるしを残した
 M.また貴族は熱心な信仰心から、名高い家族の遺物を配ることもあった
〈例〉メッツ司教聖アルヌルフ(640年頃没:カロリング王朝の祖先),メロヴィング朝の宮宰大ピピン(640年没)の娘である聖ゲルトルート・ド・ニヴェル(659年没)
 N.上記L.M.の人物は、聖性の新しい概念:「a.著名な家柄であること(=権威が及ぶには富裕であることが必要)」「b.(時には)肉体的な美貌・人物としての柔和さ」を示している。これは禁欲主義の理想(5世紀)だけでなく、教会の聖者からも大いに違っている
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[30]


(7)子供と母親を襲う死

 A.中世の母子関係は点線のようなものであり、母親が生んだ子供のうち同じ屋根の下で暮らせる者は少ない。洗礼後にすぐ子供を他家の乳母に預ける母親は「もしその子が生きていても」1年半~2年後でなければ呼び戻さない。その間にこの子の兄・姉は、周期的に襲いかかる疫病・ペストによって死んでいく
 ⇒10~15人という1家族の子供の数は、計算によって求められるものでしかない。中世後期の家庭は(当時の人口調査では)せいぜい2人ちょっとしか子供がいない
 B.記録によると商家では「a.フィレンツェの子供数の1/4以上が乳母のところへ送られる」「b.裕福な家庭に生まれた子供でも45%が20歳までに死ぬ」という
 C.さらに出産した母胎にも死が襲う。「c.妊娠中よりも分娩後の方が危険:どんなに富裕な家族であっても、出産時と産後が一番危険な時期である」「d.長生きしても、子宮病を長く患う女性もいる」「e.全体で見て、しっかりした家庭でも母親の7・8人に1人は出産の犠牲になって消える」「f.新生児を道連れにして死亡することも極めて多い」

【親の愛情】
 D.子供の2人に1人しか成人まで育てられないのだから、何度も子供を亡くした親たちの「キリスト教的な諦め」がどうしても強調される(←それは後世から見れば子供に対する愛情が無いようにも見える)。実際、生まれてすぐの乳児を遠い乳母の家へ送るので親の愛情は育ちにくく、子供の死亡を知らされても親心を引き裂くことにはならなかった
 E.しかし、毎日の子供の成長を見るようになり、そうした子供が亡くなった時の嘆きを見ると、親心はきちんと育っていることが分かる
〈例1〉“この子は天国へ飛び去ったに違いない”“この清らかな小鳩が、我々のために慈悲深い神と優しい聖母マリアに祈ってくれるように”(3歳の子を失った父親の嘆き:1503年)
〈例2〉“神が私の子を死なせることで、私と子供を引き離すとは予想もできないことだった。全く余りにも非道い痛手だ”(10歳の息子を亡くした父親:1406年)
〈例3〉“1390年8月11日、彼、ルカのことは神に任そう。神の祝福と私の祝福で神に迎えられますように”(乳母の所で亡くなったという通知に対する、慣例的な追悼の書き込み)
〈例4〉“今月、乳母が…あの子の死亡を知らせてきた。恐らくあの乳母が窒息死させたのだろう。あの子はサン・ジャコポ墓地へ埋葬された。我が家の故人と同様に神の祝福あれ”


(8)新生児の捨て子現象

 A.人口の大半では母親が新生児に授乳しているが、それでも多くの母親が貧困・病気のせいで遅かれ早かれ子供を捨てる選択をした。しかし「中世後期以前の捨て子の比率を調査すること」「捨て子と嬰児殺しの区別を付けること」は、史料上難しい
〈例〉カロリング期の各地に点在する大領地では、明らかな男女別人数のアンバランスが見られる。これについて「余計な女児を選んで殺す」差別行為があったかどうかについて、議論が繰り返された
 B.都市には嬰児殺し対策を任務の1つとする救済院が登場した(13世紀~)。キリスト教の教義において「洗礼を受けられずに亡くなった子供は永遠に天国へ行けない」とされたので、嬰児殺しはより重大な罪とされた。そこでこの施設は、貧しい人々・巡礼者とともに「産褥の女性,孤児,捨て子」を受け入れることになった
 C.中世都市において「新生児の捨て子はかなり広がっていた」と考えられる。原因は「女中(自由身分or奴隷身分)の懐妊,慢性的貧困と食糧危機」が主である。悲惨な人々は「都市の救済院に嫡子を預け、その後に返してもらう(その間は救済院で死から守ってもらう)」という希望を持つしかない場合もある
 D.ところが初期の特殊な救済院(例:フィレンツェのイノチェンティ救済院)では死亡率が恐ろしく高い。結局子供を捨てる→「子供を早く死なせてしまう」ことになる(=嬰児殺しの先延ばし)
 ⇒親にとってみれば「地上での赤ん坊の救いを、神と他人の慈悲に委ねる」ことによって、少しでも子供を長生きさせ、さらに「永遠の生を保証してもらう」望みしかなかった
 E.捨て子の中で女児は男児より多く、差別は間違いなく存在する。しかしそこに潜んだ動機を掴むのは困難である
[※「一族の世継ぎを残したい」という考えは貧困層には無関係、ということか?]

【教会による子育て意識の強化】
 F.教会は「授乳期間中の禁欲を信者に勧告する」ことで、乳児に対する親たちの責任感に働きかけた。こうした節制への呼びかけもあり、親たちは子供の将来に注意を向けるようになる
 ⇒聖職者は避妊を阻止する一方で、節度ある生活の実践を通じて親たちに出産間隔を伸ばすよう働きかけることで、子供の将来にプラスの影響を与えた!
 G.もう1つ、司祭や(告解を受ける)聴罪司祭は「両親or乳母の寝床で圧死させられる乳児『虐待』を非難」した。そこに「両親の過失による犯罪or計画的犯罪」の容疑があるとして、両親に自覚を促した。それまで両親・乳母はこのような不祥事を大目に見ていたのだが、教会からの働きかけによって初めて、このことに関する赤ん坊の生存に配慮するようになった


(9)夫婦関係

 A.多くの性的な掟・禁制によって、夫婦は何よりもまず節制を学んだ(中世末)。医学の権威者たち(古代~)も同じように、健全な子孫を増やそうと望む者たちに同じことを勧告している
 B.それらは性的な放縦について言っているのではなく、夫婦関係全般に対して適切さを求めていた。あるフィレンツェ人にの表現では“あなたの妻を適切に扱いなさい、そして限度を越えるようなことは慎みなさい”ということ(息子たちへの忠告であった)。自分で「不快・恥辱・メランコリー・悲哀…」の中で暮らすようなことにならないよう、という配慮であった
 C.妻の上手な扱い方について:
「妻の要求を絶えず警戒する」「家系存続に必要な妻の体は、あまりにも不安定な自然本能に支配されている」「この体は女性固有の不完全な理性に動かされるので、夫である主人は勝手な快感にふけることなく、欲情を慎重に・規則的に満足させなければならない」「でなければ夫の権威そのものが失われるだろう…」

【夫の権威と妻の地位】
 D.夫婦関係への男性サイドのビジョンを左右するのが「権威」である。そこには「女性より完全で強い性質としての男性(神のイメージに最も近いもの)は、女性を支配しなければならない」という主題があり、これが家庭生活全般に投影され「夫に対する妻の隷属,家事の分担」を正当化した(これは極めて多くの思想の根拠となっていた:中世後期)
 E.家庭とは「保護されると同時に閉ざされた空間」である。何らかの儀式を必ず伴って花嫁として迎えられた女性は、外界から隔離される。「女性の脆さ・弱さには保護と監視が必要」とされていたからだ。さらに妻が外界への行き来する際の経路・場所も常に限定されていた
〈例〉教会,共同洗濯場,共同パン焼き窯,水くみ場,その他(社会階級によって違うが)はっきり定められた場所
 F.それらの場所は夫たちの好奇心・心配をかき立てるが、そこで流される噂は夫の監視から逃れていたようだ
〈例〉『糸巻き棒の福音書』『結婚15の喜び』という作品では、集まったおばさんたちの恐るべき知恵が凝縮されているという。これらの作品では「産婦を囲んで,一緒に巡礼に出かけて,至る所で」亭主の破滅を企てる妻たちのおしゃべりを前にした、亭主らの怖じ気・非難が呼び起こされる
 G.そんなわけで、一般的な夫の理想は以下の通り(中世の家政書による)。「a.家の中に妻を閉じ込め独占すること」にある。妻の役割は夫が稼ぐならば「b.夫が稼ぎ貯える産物を必要に応じて保存・加工する」ことにある。つまり「c.食料の日常的な管理,食料消費の監視とプランニング,調理のための準備」である。そのために「d.思慮深く・優しく・節度ある=良妻」が求められる。上記の役割を完璧に果たす妻は「e.うまく機能する社会の重要で欠かせない要素であり、夫の産物を適切に消費していく」という
 ⇒消費活動に無駄遣いがあれば、共同体全体と社会の交換活動に悪影響を与えるとされた(例:奢侈禁止令は社会秩序の傾向を監視し、そこから女性が逸脱するのを攻撃した)。虚栄・大食・贅沢は主婦たるもの、それを抑制しなければならない
 H.さらに妻は家庭の秩序・平和に関する女主人である。「f.夫が疲れて帰宅する時には、急速・熱い風呂・ご馳走・整えられたベッドを用意しておく」「g.召使いに指図し(必要ならば)罰を与え、一家のために働かせる」「h.子供にとっては初等教育よりも、敬虔・従順を学ばせることが大事である」という

【女性に対する非難】
 I.しかし女性は、男性から「a.きわめて不実・軽薄・欺瞞的である」「b.ひどい汚名・恥・罪・浪費に陥りやすい」「c.激しい憎悪は女性が原因であり、熱い友情も女性によって失われる」と執拗に非難されるが、これは男性の「いつも女性に騙される」という気持ちから生じている
 J.さらに「d.女性のお喋りは家庭の静けさを破り、一家の秘密を外部へ漏らす」「e.女性の喧嘩好きは狂気じみた自己中な浪費癖に助長され、男性の理性を心配へと散らしてしまう」と、女性は男性から苦情を受けている。これは中世後期の男性が熱望した「家庭の安定」と、自らの権威という幻想によって生まれる深い挫折感から生じている
 K.女性の反抗は社会から非難されただけでなく、社会から懲罰も受けた。「再婚する未亡,(一般的に)人何度も結婚する個人」に対する、若者たちの「不相応だ、無節操だ」という憤激が、象徴的に与えられる罰へとつながった
[※これが「シャリヴァリ」と呼ばれる]
〈例〉“ロバ乗せ”の慣行:
もし妻が「夫を尻に敷いて、ガミガミ言ったりこき使ったり」すれば、その夫が後ろ向きにロバに乗せられ、ロバの尻尾を掴みながら村を一周させられる
 L.夫婦関係のひどい倒錯は罰せられた(ヨーロッパ全体で)。それは「妻の反抗は秩序を危うくする」として、このように共同体から嘲笑を受けて償わされたのだった。個人生活の領域に対する外部からの干渉は当たり前であり、個人同士で争いを解決できるようなプライベートな領域は存在しなかった

【親子の対立の場合には】
 M.それに反して、子供の反抗・偽善に対しては共同体からの介入はなかった。息子が父の権威・立場を危うくするのは悲劇の原因となり、当然そのような悶着には相続問題も含まれる。そうした場合には友人・親戚が忠告するだけである(他人が口出しする権利はない)
 N.夫婦間の問題(→妻がいかに夫を欺くか)を扱うファブリオーは、甘酸っぱいか朗らかなコントとなっているのに対して、世代間の問題を扱うファブリオーには非常に暗い調子がある
〈例〉作者は登場人物に「子供を信用してはいけない、子供は薄情だから」or「息子は父が一家とその財産の管理者である限り父に服従するが、父が財産の権利を息子に譲ると、息子は父を監視し憎み“もう邪魔されないように早く死んで欲しい”と願って止まない」と繰り返し言わせている


(10)女性の仕事と活動

 A.中世社会のあらゆる階級の女性が、上記(9)のように家庭に縛り付けられたり夫に服従していた、のではない:「農家の女性は厳しい畑仕事に従事した」「職人の妻は夫の死後も家業を受け継ぐ」「領主・ブルジョワ階級の家庭でも、娘・妻はただ遊んでいたのではない」
 B.教育者たち(※中世後期の都市市民出身か?)は、針仕事・糸紡ぎの役割について説く:
1.「女性の体を仕事に縛り付け、その思考力を鈍らせる」→「これによって女性が名誉(自分も家も)を傷付ける恐れのある危険な夢想に耽るのを阻止できる」
2.「幼い時から遊ぶ暇もなく『糸を紡ぐ,機を織る,縫い物をする,刺繍をする』ように教え、さらに家柄が良ければ『遊ぶ・笑う・踊る暇』は少なくなる」→「貴族の娘は、祭服・祭壇飾りの刺繍作業で手を休めたり気まぐれを起こしたりしない」
3.「しかし彼女たちは忙しいこの仕事の報酬として『煉獄にいる期間を短縮してもらえる』くらいでしかない」
4.「中世の女性観に基づいた配慮として『不安定で脆い女性の性質を、絶えず休みなく仕事に縛り付けておくことで、不活性にする(≒安定させる)』効果がある」
5.「こうした手作業を正当化するためのロジックとして、貧困に落ちた時のために技芸を学んでおく、としている」

【現実としての女性労働の必要性】
 C.織物作業にはもちろん経済的な機能もある。「家庭内での消費に充てられる」「貧しい家庭の多くは、女性(妻&娘)の手仕事による製作物・糸紡ぎの報酬で家計を助ける」というもの
 D.多くの女性は家庭の外で(~14世紀の経済危機)自立的に活動していた。「貧しい家庭の娘は、持参金・嫁入り支度の金を稼ぐために奉公に出ていた(時には子供の頃から、しばしば思春期になって)」

【女性と社会的な枠】
 E.未亡人もそうである。特に中世社会では、富裕層であっても「亡夫の遺産相続人から権利を認めてもらえない場合」には、急激に落ちぶれて貧困になる
〈例〉クリスティーヌ・ド・ピザンは3人の子供を抱えて25歳で未亡人になった。ペンで生きた最初の女性として、有名なバラードで“友もなく、独りぼっちの暮らし”と彼女は嘆いた
 F.そんな彼女たちを見捨てるのは夫の親類縁者だけではない。彼女たちは「家なき女」であり(※この場合の「家」とは家族共同体のこと)、社会から女性に対して定めた「自然な環境」の埒外に置かれた→彼女たちの評判は一気に悪くなる
 G.「孤立した未亡人」「糸紡ぎをしながら生計を立てる貧しい女」「下女」は、宗教共同体からのけ者にされ、品行を疑われ(売春婦として非難を受けやすい)、まさに「社会的周縁人」であった
 ☆ロベール・ダルブリッセルが設立(11世紀末)したフォントヴロー修道院は、男女の聖職者が別に住み、その管理は1女性に委ねられた。そこに頼っていった女性たちは根無し草そのものである
 ☆鞭打ち苦行者の行列(14世紀)に自ら加わっていった女性たちも、社会的周縁人のカテゴリーに加えられた
 H.女性に関する道徳(悪徳と美徳・務め・態度)が論じられたのは「夫を中心とする家庭」という枠と関連してのことである。中世末において女性が一定の自律性を獲得したのは、結婚を通じて繋がる縁者集団の中においてである。女性は「家族再生に隷属しなければならない歯車」にとどまった
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[29]


(4)夫婦の結びつきと教会

 A.教会は結婚に関して様々な介入を行う=「いとことの結婚を阻止しようとする」「結婚には夫婦の了解が必要であり、同意に効力を持たせられない年齢では結婚できないようにする(11世紀~)」。後者の考え方(契約者同士〔夫婦〕の自由な合意を尊重してこそ結婚は成立する)は、結婚の秘蹟の授与においては男女同権となることを(理論的には)意味した!
 B.中世初期には「強引に女性を獲得すること」は頻繁に起こったが、後期になると少なくなるし、社会的・宗教的承認も難しくなる。それでも駆け落ち(両家の同意を取り付けるためによく起こった)や「女性の沈黙」についてよく見ると、女性に発言権があったとは言い難い
 ★史料は「心ならずも夫の家(or修道院)に送られる娘たちの哀れな物語」で満たされている!

【儀式】
 C.結婚の儀式は短いこともあったが、基本は長ったらしかった。「新婦は父親or後見人の手から新郎へ移される(ノルマンディー地方)」儀礼は、教会によって場所を(個人の家から)教区教会の玄関へと移された。この場所で「聖職者は許嫁者両人を迎え、若い2人は聖職者の面前で結婚の同意を交換した」のだった
 D.儀礼の厳粛さ(会場,立会人の協力,聖職者の出席が生み出す)は、女性の声にただならぬ重みを加える筈である。にもかかわらず、これだけ条件が整っていても、女性からの証言は一言も伝わっていない。聖職者の影響力が及ばなければ尚更であった
〈例〉イタリア(~16世紀の直中)では、勢力者・金持ちの婚礼は「1人の公証人を前に、身内だけで行った」
 ⇒キリスト教の現実的影響力は、家族が行動と管理の自由を必死に保持しようとする前には限界があった
 E.当時の教会が定めた結婚の目的は「無鉄砲な肉欲を結婚生活で包み込む」というものだった(例:聖パウロは“燃え上がるよりも結婚する方がましである”と言った)。結婚生活で“燃える”ことも、正当な子孫を作るという目的によって何とか許された
 F.仮に「立会人の前で表明される夫婦の同意(誓約)に基づいているものの、動機が肉欲によるものであり、しかも儀式の形式が教会の定めを無視している」としても、教会は結婚の秘蹟という概念によって「結婚は正当であり解消できない」と宣言せざるを得なかった
 G.若い男女が公然と表明する誓約は、様々なアイテム(グラスのワイン,分け合う果物,細かな贈り物の交換)によって堅くされるので、誓約は(教会が定める宗教的な婚儀と同じほど)強力な「結婚契約」となる。司教裁判所に出された訴訟では「民間での結婚式で互いに結ばれただけで結婚契約を完結させた」多くの男女が登場している
 ⇒こうした婚礼を利用して「子供らを不意打ちに結婚させる」事例もある。このような家族権の濫用を教会は憎んだが、それはいわば「自らが仕掛けた罠にはまった」のであり、正当化する以外にどうしようも無かった(これが食い止められるのは16世紀のこと)

【性行為】
 H.このように当人の意思を尊重する方式を用意したとはいえ、恋愛結婚は教会によって生み出された(or考え出された)のではない、という。大胆な若者たちは、真剣な儀式的振る舞い・言葉によって、自分たちの熱情を承認させたのである。肉体的情熱は(聖職者がどんなに警戒しようとも)こっそりと入り込んだ
 I.聖職者は性行為の監督者になろうとした(例:中世初期から理論的な暦によって夫婦の交わり回数を制限しようとした)。しかし中世盛期においては、禁欲日を見張るよりもむしろ「夫婦の性愛の行為・体位・時間が適正かどうか」に目を光らせていた
 ★信者は少なくとも年に1度は、聴罪司祭の前で(制限を破ったことがあれば)釈明しなければならない(13世紀~)
 J.こうした審判者(=聖職者)は独身でなければならないし、グレゴリウス改革以降は「絶えず自らの純潔と性的潔白の誓約を繰り返さなければならない」(11世紀~)。しかしながら、妾を囲い子供を持つ聖職者は頻繁に見られた(13世紀)
 ☆聖職者が性行為の深みにのめり込んだり妻帯することは、ファブリオー(中世の落語でかなり卑猥)やコントの中で、からかったり面白おかしく描かれた
 K.フィクションである文学においては、気ままな恋愛関係を牛耳るのは女性であり、家族がその遊びを大目に見てくれているのだった
〈例〉「恋愛法廷」「主君の下で軍事教練を学ぶ若い家臣が、主君の奥方の側で愛の甘美さ・悩ましさを経験する」「疲れ果てた騎士を森の中の見知らぬ館に迎えるような宮廷小説の姫が、騎士を寝台に乗せて、ただ1つの行為を除いてあらゆる恋の戯れに身を委ねる」「あちらこちらで若い農夫らが男女の組になって、妊娠することなく家畜小屋の心地よい床で同衾する」
 L.ところが、こうした話は純粋に空想のものではない。というのは「家族は女性の身体・財産を他家へ投資すること(結婚戦略)」を最終的に決定するのだが、それ以外のことに関しては「恋愛・性経験・性交渉は排斥しなかった」という
[※女性の結婚年齢が早いので、そもそも現代で言うところの“青春を謳歌する”時期は極めて短いのではないか?]


(5)結婚年齢など

 A.立派な相続人を作ることが、恐るべき死に襲われるケースが多かった時代の家族にとっては重要だった。この時代の嫁については「家の中心の部屋にいて、そこで仕事をし・妊娠し・出産し・死ぬ」のだが、彼女が果たした機能とその作用については僅かなことしか分かっていない

【女性の結婚年齢:黒死病以前】
 B.中世初期においては、若者の初婚についての傾向は「ある程度成熟した同年齢同士」だったという。ただし貴族階級の娘は、明らかに若すぎる時に嫁いでいる
 C.しかし中世盛期に入ると、ヨーロッパ全域で「娘は思春期になったばかりで、かなり年長の男性に嫁いでいる」。貴族・都市支配層は年頃になったばかりの娘を嫁がせていた(フランドル地方,イギリス,イタリア,フランス:1200年頃)。聖女伝の作者によると、彼女たちは12・13歳で嫁がされ、大半は良家出身である
 ★12・13歳になると(教会法では)結婚でき、宗教的な誓約ができるようになる
 D.農民・庶民の結婚年齢の情報(~14世紀)はかなり少ないが「初婚はだいたい17・18歳を越えない」ようだ

【男性の結婚年齢:黒死病以前】
 E.男性の場合には以前よりも遅くなる(12世紀末~)。騎士階級の子息は「封土を貰って落ち着く,遺産を相続する,女相続人を追い出して居座る」といった事例を残している。それ以外の階級について(~14世紀)はやはり情報は少ないが、ファブリオーには「年寄りと若い娘の不釣り合いな結婚」というモチーフがある

【フィレンツェ(15世紀)】
1.「女性の結婚年齢は平均で18歳以下。貧しい階級(農家・都市のプロレタリア)ではこれより1・2年遅れるが、富裕層では15歳以下に早まる」
2.「別の情報源によると、フィレンツェのブルジョワ階級では136人の女性が平均17.2歳で結婚している(1340~1530年)。ただし少しずつ結婚を遅らせる傾向が出ている(例:1500年頃には1400年以前よりも平均で1年遅くなる)。死亡率が高い時期の直後には動きが出るものの、全体としてここでは女性の結婚年齢は安定している」
3.「商業ブルジョワジーの男子は、初婚の平均年齢は27歳を越える。しかも女性と異なり変動が激しく、女性と反対に若くなっていく(1470年~)」
4.「基本として、男性の結婚年齢は女性よりもたっぷり10歳は遅れているという不釣り合いな状況にあった」

【結婚年齢の男女差について】
 F.「30歳になろうとする成人男子が思春期になったばかりの娘を妻に迎える」という中世後期の一般的な状況は、古代ローマの習慣と一致している。そこには「a.男は結婚できるほど“熟した年齢”になるまで待つ」「b.女は結婚を待つ間に堕落してはならないので、逆に若いうちに嫁がせる」「c.なぜなら女は『自然の本能』の欲求が満たされないならば淫乱になるから」という訓戒が働いていたようだ
 G.一部の人々は、娘をますます早く嫁がせる傾向を嘆いていた。しかし一般的な考え方として「男性が家庭での権威を保ち、かつ立派な子供をつくるためには、結婚の時期を遅らせる方がよい」とされていた。結婚年齢を遅らせるのは男性側だけの習慣であることが、中世と近代の大きな違いである


(6)出産について

 A.フィレンツェの家庭では「婚礼後8ヶ月以内に最初の出産をする割合がほぼ0に近い」=「若い娘に対する家庭の監視の厳しさ」を示している。若い娘たちは、結婚指輪を受け取るまでは相手の男性に会っていない、ということもある
 B.一般に「婚礼から最初の出産までの間隔が長かった」=「若すぎる新妻全てがすぐに子供を産めるほどには成熟していなかった」ことを示している。それでも夫が、妻をすぐに結婚生活に馴染ませられなかった訳ではない
 C.しかし最初の出産後には「妊娠と出産が早いリズムで続いている」。極めて若い娘を結婚させることによって、出産率の水準と出産総数には相当な影響を与えた(←死亡率の高さを埋め合せになった)。少なくとも、裕福な都市家庭の女性は多産だった(14・15世紀)
〈例1〉アラスのある女性は29歳で未亡人となった(1461年)が、13年間の夫婦生活で12人の子供を出産した
〈例2〉フィレンツェの良家の女性は「17歳で結婚し、閉経年齢までに夫を無くしていないとすれば、37歳までに平均10人の子供を出産した」
 D.ただし上記の2例は最大限の見積もりでしかない。最も豊かな都市のブルジョワジー家庭(生活条件は一番恵まれている)であっても、多くの結婚は配偶者との死別によって早い目に終わったので、出産する子供の数も少なくなる(例:フィレンツェでは平均7人)。しかも親よりも長生きできる子供の数は少ない!
 E.いずれにせよ、人妻としての人生(結婚~40歳)の半分近くを妊娠期間が占めていた。しかも夫が仕事で家を留守にする場合を含めての計算である
〈例〉リムーザン地方の有力者の家族では、出産と出産の間の平均間隔は20ヶ月しかない。夫婦だけの自然な生殖期間を考えれば(夫が留守の期間を除外するなど)「女性の日常生活18ヶ月のうち、妊娠→分娩→床上げは9ヶ月にも及んだ」という!

【宗教的禁欲と夫婦】
 F.夫婦は夫婦生活の半分の期間は(胎児を傷つけないために)性関係を持たなかったはずである(これは教会により禁制とされていた)。このタブーを破ることは実は微罪に過ぎないとされるようになった(13世紀半ば~)のだが、罪であることは変わりない
 G.さらには、もし母親が授乳していたならば、それだけで夫婦は満足しなければならなかった筈である(次の子供の出産によって離乳が早まり、乳児の命を危険に晒してしまうから)
[※ただしこの問題は、乳母の導入によって回避できる]
 H.中世の夫婦に、性関係を持たない期間を設けさせたもう1つのタブーとして、当時信じられていた「女性の月経期間中の性関係は危険性を持つ」というのがある。説教師ベルナルディーノ・ディ・シエナは「もし月経期間中の性関係によって子供を作ったならば、怪物かレプラ患者のような子が産まれる」と警告していた(その過失は父親にあり、彼にも大変な災いを招くかも知れない、と脅している)
 I.宗教的禁欲としてもう1つ「忌避期間=(待降節と四旬節の期間中の)婚礼禁止,禁欲の勧告」がある。これが結婚数・妊娠数に明らかに影響を及ぼしており、婚礼・妊娠数は実際に減っている。都市住民は説教師によって教会の命令を守らされた
 J.避妊に関しては、出産数の記録を見る限り(リムーザン地方とトスカーナ地方の)夫婦は、特別の手立てを講じてまで避妊しなかったようだ。避妊の手段(堕胎薬・軟膏・避妊具・麻薬)を用いたのは「売春婦,魔法・魔術で告発された女たち」だった(彼女たちの客の証言・彼女たちを裁いた裁判官の判決によると)
 K.史的な流れとしては、公会議(中世初期~12世紀の全て)において「出産の予防・中絶を試みる行為に対する禁止・罰則の強化」が続いていた。しかし「アラブ人医師の論文やオウィディウスの流行」は、一部の階層に避妊法を普及させた(13世紀)。やがて神学者は、それまでの禁制を緩和せざるを得なかった
 ⇒ある神学者は「生殖能力の無い者同士の結婚」を禁止しなくなった。またある者は「生殖を伴わない快楽をのみ追求した性交を容認するようになった」。他の神学者は「避妊を嬰児殺しとを同一視しなくなった」

【“自然に反する性行為”をめぐって】
 L.規制緩和にもかかわらず、ベルナルディーノをはじめとする説教師は絶えず「子供を作らない性関係は“大罪である”」と繰り返し説教した(中世末)。また“神の命令に背く”ような体位を「夫が妊娠を避けながら、女性を獣のように変えるもの」として認めなかった(もちろん肛門性交も対象である)
 M.しかし説教師たちの主張は、歴史的事実とは反している。というのも(上記のように)出産から次の出産までの平均間隔は短く安定している=「多くの夫婦が生殖の義務に違反しなかった」。ただしこれもリムーザン地方とトスカーナ地方でしか断定できない(=他の全てのヨーロッパに当てはまるかどうかは不明)

【乳母】
 N.出産の連続を遅らせる正当な方法は(上記のように)乳飲み子を抱えた母親に授乳させておくことである。しかし乳母(中世盛期の武勲詩・騎士道物語になじみ深いが)は、中世後期になると領主階級の特権ではなくなる
〈例〉フィレンツェ:
 都市の支配階級の家庭で乳母が導入され(14世紀)、やがてブルジョワ層一般で当たり前になる(15世紀)。乳母となるのは田舎の女性である(貧しい女性はしばらくの間自分の子供に授乳し、その子が死ぬと母乳を売る)
 これによって「a.乳母は報酬を貰い、その上自分の次の出産を遅らせることができる」「b.後継者を欲しがる富裕層は妻の多産を望むので、授乳を乳母に任せて妻に子供の出産を急がせることができる」「c.結果として、最も富裕な家庭が最も子供の数は多くなり、貧しい家庭では多産ではなくなる」