『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[33]
(8)聖者の機能~非凡な死者~
A.中世の大半の人々にとって、聖者とは「名だたる死者である」「その人のエピソードは正確には知られていない」「しかし生前において、神への愛のために迫害・苦痛を忍んだ人物であることは分かっている」存在だった
B.そこでは身体が基本的に重要視されていた。というのは聖者の身体は「異教徒の残忍さにより死刑執行人の手によって」or「聖者の禁欲主義による自己破壊的な情熱によって」手足を切り取られズタズタにされるが、その死後に聖者の精神は神秘的な完成に達するのであった
【聖遺物とその移転】
C.したがって、中世における聖性とはまず「身体が語る言葉」である。民衆は「a.死後も清らかな身体は神の僕にふさわしい」と考えており、聖者の遺体は「b.無傷で芳香を漂わせる」「c.聖別されたパンと同じく、奇蹟を引き起こす能力を備えている」「d.切断されても神から賜っている威力を決して失わない」と考えていた。こうして民衆は「生命の泉」=聖遺物として理解した
D.この理解が、中世の聖遺物にまつわる移動・盗難の背景にあった。時には人々は不正・暴力を用いてまで、聖遺物を移転させた。当時の社会において、聖なる身体をできるだけ多く所有することは、世俗社会・聖界・共同体において絶対に必要であった
E.聖者自身もそのことを意識していて、自分の生地or遺体の存在が好ましい影響を与えそうな土地を選んで死ぬことが多かった。中世の伝説には「ある聖者の遺体を移転しようとすると、突然重くなって運べなくなった。これは死者が移転を拒否したためである」という逸話が多くある
〈例〉イタリア人の隠者ジョヴァンニ・ボーノ(1249年没)は、生涯の大半をロマーニャ地方のチェセナで過ごしたが、死期が近いことを悟ると生地マントヴァに戻った。理由は「故郷に忠実だった,その地で隠然たる勢力を持つ異教徒を(自分の遺体の影響力で)倒してくれることを願った」からである
F.聖遺物の移転・盗難の絶対的な基準は「成功か失敗か?」であり、それは(身体の持ち主であった神の僕の当初の意図に関わらず)実行者によって常に正当化された。というのは「聖遺物を生地に保存している人々は、不名誉な土地に埋もれさせている」と思われ、逆に移転させた人々は「非難どころかむしろ称賛すべき敬虔さの表れ」とされた
[※上記の「遺体が重くなって運べず失敗した」というのは、移転失敗の事実を仕掛けられた側から正当化した、ということだろうか?]
G.信者たちにとって「充分な崇敬を受けていない(と思い込んだ)聖者の遺物を、隠れた所から移してくる」のは当然の権利だった。教皇庁は最低限の規律を定めた(13世紀)ものの、結果は期待通りにはいかなかった
【民衆から見た聖者・聖女】
H.彼らは死後に時を経て、聖者伝の中で不変の偉人として描かれた。彼らは「元々から全てを神から授かり、神の恵みによって永遠に生きる」「現世で生きた時間は、徳と奇蹟の顕示によって聖者と認めさせるためにある」とされた。このような聖者伝では、作者たちは彼らの非凡さ・超人的要素を強調している
I.作者たちは聖者をいくら敬っても飽きたらずに、いわば話をどんどんと盛っていく(例:人々に当たり前の喜びを一切諦めて、極度の純潔・禁欲を実践する。身体は裸同然で、諦念のうちに生きる)。これに対して民衆は、聖者の近づき難い完成度を前にして「その人が犠牲になってくれているので、罪深く悩める人々に恵みを垂れてくれる」ことを期待した
J.聖者は何よりもまず「神と人々との仲介者」「祈願する者を守ってくれる」存在と信じられた。そして聖職者も同じ信念を抱いて、聖者伝や「奇蹟の説話」を書いた。それは聖所の評判を知らせて、民衆の信仰心を強めるためであった
(9)かなえられる救い
A.やがて(宗教改革まで継続する)聖遺物崇拝と並んで、民衆は馴染み深い同時代の人物の聖性に対して興味を抱くようになる。反対に「遙か遠い時代・神秘の彼方の地方で生涯を終えた、有名無名の仲介者」は崇拝の対象ではなくなった(12世紀~:イタリアでは11世紀~)
B.特に地中海沿岸諸国で現れたこの傾向は、殉教者の身体(=聖遺物)ではなく「禁欲主義者・改宗者の厳しい生き方」に聖性を見出したのだった。イタリアの聖ロムアルドゥスや聖ジョヴァン・グアルベルトなど、新しいトレンドの対象となった人の生き方は「聖アントニウス,砂漠の教父たち,マグダラのマリア,東方世界の贖罪女性たち」といった人物(いずれも殉教者ではない!)の伝統と、歴史的に結びついていた
C.新しい聖者は、生き方として「本能を抑制している」という事実を基本とする。そして「超自然的な力を有している」(例:住まいの傍に泉を湧かせる,枯れ木に花を咲かせる,火の中をくぐっても火傷を負わない,身振り1つで儀式を妨げる小鳥のさえずりを沈黙させる)
【新しい聖者たちの機能】
D.聖者たちはまず、不自由な人々(例:病人,捕虜)のために超自然的な力を発揮したので、民衆からは「神との仲介者として成功を収めた」ように見える。彼らは「a.祓いによって悪魔を追い払う」のだが、それだけではなく「b.周縁人・除け者たちを元の集団へと復帰させる」。社会における様々な対立には「c.彼らに備わった威光・彼らが感じさせる恐怖によって『復讐を中止させる,敵同士を和解させる,憎悪と分裂が存在するところに協調をもたらす』」のだった
☆注意しなければならないのはc.について、聖者たちは単なる「紛争を鎮める腕利きの巧みな仲裁者」ではない!
E.聖者たちが持つ威光・権威は「彼らの生き方そのもの」と「(彼らに仲裁を頼む)社会の人々から離れた立ち位置にいる」ことから生じる。彼らは「貴族・聖職者(=エリート階級)の出であり、普通の人ではない」上に「苦行のおかげで『人間離れ』している」ので、いっそう一般人とかけ離れた存在である
F.さらに彼らは「家族との絆・経済的繋がりを一切断ち切り、女性関係を避ける」ことで、逆に一定の場所に腰を落ち着かせずに済む。このことが、内紛・矛盾によって機能が麻痺しやすい中世社会にあって、聖者たちが人々の「最後の頼みの綱」となりやすい背景だった。彼らは「生死を賭けた信頼できる人物である」→「彼らがいるだけで不安を取り除き、頼ってきた人の信頼に答えて勇気づける」のだった
G.彼らがこのように期待されたのは(彼らが持つと信じられた)上記C.のような超自然的エネルギーゆえである。「世界の正常な秩序は悪魔によって乱されているが、それを元に戻すのは奇蹟によるしかない」と信じられた。諸悪の根底に存在する人々の過ちは、聖者の霊的な明晰さによってのみ糺しうるのだった
☆もしその罪があまりにも根深ければ、聖者は罪によって引き起こされるはずの破局を予言するにとどめた(※糺すことが無理だから!)
【近づきやすい存在として】
H.こうして中世盛期に入ると、民衆が聖者の力に頼るには「a.生きている聖者には会いに行けばよい」「b.死んだ聖者には墓へ参るだけでよい」というように、聖職者からの介入無しに近づける(にもかかわらず神聖な)存在となる。やがては聖者の力にすがりつきたい時、その聖所まで赴かなくとも「c.奉納の約束込みで祈願するだけで、守護聖者は信者をとりなしてくれる」というようになる(13世紀~:大嵐で死を覚悟した際のコロンブス一行の祈願が好例)
I.ただしa.について(特に地中海沿岸諸国では頻繁になるものの)、頼まれる側の聖者が「頼まれた治療・援助に応じるだけでなく、それ以上の口出しをする」ことが多かった。一般に信者はそこまでちょっかいを出されるのを嫌がった
〈例〉ある公証人が聖ピエトロ・ディ・モローネ(後の教皇ケスティヌス5世)を、アブルッツォにある隠遁所まで訪ねて行った時:
公証人は“私がここまでやって来た理由だけを聞いていただきたい”と、素っ気なく隠者に言った。というのも隠者は、相手が有名な放蕩者だと知っていたので、相手の生活ぶりを問題にし始めたから
この請願者からすれば「聖者の仕事は治療することであり、改心させることではない」「神から奇蹟を託された者(=聖者)の力はあくまで神から授かったのであり、聖者の個人的特権ではない」のである。聖者からは恵みを貰いたいのであり、道徳的問題には触れて欲しくない!
(10)教会への支持・信者への模範
A.ローマ・カトリックにとって、聖者は「単に奇蹟を行う」だけではないし、聖遺物は「各地の聖所を有名にした」だけでない。教会の歴史的流れで見れば、中世初期にはある殉教者(or司教)が死後、教会公認の守護聖者となる
B.やがて中世盛期になると、教会はヨーロッパ世界全体をカバーし、教皇は「キリストの代理として教会を指導し、聖別の権限も専管事項とした」。ところでこの時期になると、ヨーロッパ内における教会の「教義上の敵」も増えた
〈例〉カタリ派の教えやワルドー派の説教師に従って「教会が使命に背いている」と批判する者が増加した
C.そこで教皇庁は、西洋全域において新しい殉教者への崇拝を普及させようとする(★)。彼らは“新しい福音史家”と見なされた
〈★の例〉聖トマス・ベケット(1170年没:カンタベリー大司教であり、大聖堂にてヘンリー2世の手下に殺害された),聖ピエトロ・マルティーレ(1226年没:ミラノの近くで聖務中に殺されたドミニコ会の調査官)
D.そして多くのキリスト教徒(聖俗問わず)は聖フランチェスコと聖ドミニコを、現行の聖職者制度の改革者、もしくはそれ以上の存在=「新しい時代の到来,(福音の使命と結びつくことによる)救済の歴史における最終段階への到達,キリスト教の聖性の革新者」と見た。ドミニコ会内紛においても、聖フランチェスコを“新しいキリスト”と呼ぶのをためらう者はいなかった
【グッドタイミングに登場した聖者たち】
E.中世の図像において、教皇インノケンティウス3世が夢に見たという幻覚(崩壊に瀕したラテラノ大聖堂を独力で支える宗教家:聖フランチェスコか聖ドミニコか?)がしばしば表現された。これ以来、聖者伝は「生きている時代の要請を察知・指導するという『歴史的使命』が、どの聖者にもある」という考えを持ち上げた
〈例〉フランチェスコ修道会の“清貧”の最終的な意味とは「新しい世界(都市・商業経済の世界)の貪欲・傲慢に対抗する、寄贈・財産放棄の重要性の再確認」である
F.聖フランチェスコの初期の伝記を原型として多くの新しい聖者伝(例:ベギン会修道女マリー・ドワニー〔1213年没〕の『伝記』)が作られる(13世紀~)。そこでは、聖者が行った奇蹟ではなく、むしろ“神の僕”としての生涯に力点が置かれる。それまでの聖者に対する「畏怖すべき崇拝」から「見習うべき存在とする観念」が徐々に優勢となる
〈例〉聖フランチェスコの死後、修道会の指導者たちが「彼の奇蹟の説話集」を出版しようとしたので、彼の古い同伴者たちは「奇蹟が聖性を生むのではない」と主張し(いわば聖者の魔術性を取り除こうとした)、計画に反対した(1245年)
(11)守護者と加護
A.しかし「聖者を模範者とする見方」は、信者には馴染めないものだった。大半の信者(中世後期)にとって、聖者とは「馴染みやすく、親しみやすく、頼れる人物」であり、聖者と信者自身が「同じ共同体に属している、と感じられる」ような絆で結ばれていた
B.神の僕の聖遺物が収められている場所には「特別の加護がある」という考え方が広まっていた(中世初期~)。各司教座都市は「都市・住民にとって専属の守護者」を戴いていた。殉教者が担っていたその役目を、やがては司教が演じるようになる
☆司教は「都市の守護者・貧しい人々の保護者」として地域の教会を代表していたので、彼の死後にはその遺物を介して特別な守護者となるのは必然だった
C.やがて守護者への熱望は増大し、どんな小さな町やささやかな同業組合でも、独自の守護者を祀るようになる(13世紀~)。これはイタリア・南ドイツなど、都市に対する愛郷心か際立って強くなった地方では激しく現れた。また、歴史が浅く聖者・聖遺物に恵まれないキリスト教の周辺地域でも熱烈に求められた
【都市共同体の守護聖者】
D.市民が熱中した聖者崇拝の発達には、その都市が政治的自治に恵まれていることが条件だった。以下はニュルンベルクの場合:
[11世紀半ば]
皇帝ハインリヒ3世によってニュルンベルクが建設された時には、その地方に住んでいた隠者の遺体が小さな礼拝堂に祀られた。やがて教会堂へ移され、商人・職人たちから敬われていたものの、礼拝は全く受けていなかった(ニュルンベルクは司教座都市ではなく、バムベルク司教区の祭典を祝うだけであった)
[13世紀]
セバルドが自由・都市の発展の象徴となり始める。皇帝フリードリヒ2世から特権を受ける(1219年)。都市当局はセバルドを祀るために大きな教会堂を建て、聖セバルドの祝日(8月19日)は毎年盛大に祝賀されるようになる
[1280年頃]
聖職者によってラテン語のリズミカルな祈祷文が作られる。重要なのは、聖セバルド信仰が一般大衆的なものではなく、ニュルンベルクの富裕支配階級によって「都市の偉大さと独立の擁護者」として仕立て上げられたという点にあり、祈祷文にも表れている
★セバルドは「貴族であり、親・城を見捨てて清貧と隠遁のうちに生涯を過ごした」or「デンマークの王子だったが、お忍びでこの土地に来て亡くなった」とされる。伝説における身分は、聖セバルド信仰を持ち上げた支配者階級を反映している
[1350年頃]
職人たちが都市行政に加わるようになる。この時初めて、聖セバルドは大衆的な存在となった。彼ら新興階級は古い支配者層と対立していたので、進んで地域の守護聖者の下に結集し、それによって「都市の真の利益を守るため」という大義名分を掲げることができた(それによって自分たちの本当の要求を隠そうとした)
[14世紀末]
聖セバルド信仰はニュルンベルク全体において飛躍的に重要となる。「a.セバルドを祀った教会堂は大きくなる」「b.それまでには見られなかった、彼を表現する像・ステンドグラスが作られた」「c.伝記がドイツ語に訳された」「d.ニュルンベルクの貨幣に鋳造された(15世紀初)」
[1425年]
ニュルンベルクは聖セバルドの列聖を教皇マルティヌス5世から認可してもらう。実はこれまでは、聖職者は「聖セバルド崇拝に異議を唱え、典礼を拒否していた」からである
【仲介者が果たしたもの】
E.ニュルンベルクの聖セバルドへの措置は例外的であった。イタリア諸都市では、市民による崇拝が起こった人物の列聖(例:トレヴィーゾのベアト・エンリコ・ダ・ボルツァーノ〔1315年没〕に対するもの)が、教皇庁によってたいてい却下された
F.それでも諸都市は、その人物を正規の守護聖者のように変わらず崇拝した。それほどまでに都市の運営者たちは「神との仲介者のおかげで都市の繁栄が確保され、市民の間の強調が保たれている」と固く信じていた
【王家の守護聖者から国民全体へ】
G.崇拝された聖者or聖女は、後年に支配者の家系と何らかの関係づけが行わた。君主制に基づいた国民国家の意識が発達するにつれ、王家の守護者は国民全体の守護者になりやすかった
〈例〉聖ドニの遺物はパリ近くの大修道院に祀られ、カペー朝期にフランスの象徴となる。聖王ルイでもその威光を越えられなかった
H.百年戦争は諸国間の軋轢を激化させ、こうした傾向を助長した。古くから「ヴェネツィアは聖マルコとその獅子に同化していた」が、同様に「イングランドは聖ジョージ」「ブルゴーニュは聖アンドレ」をそれぞれ信奉した。聖者の名は国民の命名に多く利用されるようになる(例:スウェーデンでのエリック)
【中世後期から近世へ】
I.識者たちの中には、都市や国家での聖者崇拝による弊害を指摘する者もいた。古い聖者への普遍的な信仰が、新しい聖者への地域レベルでの偏狭な信仰に取って変わられることを心配する者もいた。あるいは「教会の聖者祝日表に挙げられた偉大な人々(福音史家・使徒・紀元初期の殉教者たち)」への信仰に背を向け、代わりに「(時には疑わしい聖者も含めた)弱小信仰に分散している」と批判する者もいた
J.確かに中世後期の聖者崇拝は社会での日常生活に深く同化していたので、世俗的になりすぎていた。しかしそれこそが、市民生活での信仰の枠内における「世俗‐神聖」「政治‐宗教」の複雑な絡み合いであった。そのおかげでキリスト教は(宗教改革以降の)カトリック諸国において維持されてきたのだった
K.反対にアルプスの北側では、南側よりずっと「典礼的・伝統的な形式が保存されてきた」ので、プロテスタントの改革が勝利した場所では、都市のブルジョワジーにより「迷信的な信仰と実践の全て」が一挙に抹殺された(16世紀)。彼らにとってそうしたことは「聖職者が群衆への影響力を保つための迷信に過ぎない」と思われたのだ
(8)聖者の機能~非凡な死者~
A.中世の大半の人々にとって、聖者とは「名だたる死者である」「その人のエピソードは正確には知られていない」「しかし生前において、神への愛のために迫害・苦痛を忍んだ人物であることは分かっている」存在だった
B.そこでは身体が基本的に重要視されていた。というのは聖者の身体は「異教徒の残忍さにより死刑執行人の手によって」or「聖者の禁欲主義による自己破壊的な情熱によって」手足を切り取られズタズタにされるが、その死後に聖者の精神は神秘的な完成に達するのであった
【聖遺物とその移転】
C.したがって、中世における聖性とはまず「身体が語る言葉」である。民衆は「a.死後も清らかな身体は神の僕にふさわしい」と考えており、聖者の遺体は「b.無傷で芳香を漂わせる」「c.聖別されたパンと同じく、奇蹟を引き起こす能力を備えている」「d.切断されても神から賜っている威力を決して失わない」と考えていた。こうして民衆は「生命の泉」=聖遺物として理解した
D.この理解が、中世の聖遺物にまつわる移動・盗難の背景にあった。時には人々は不正・暴力を用いてまで、聖遺物を移転させた。当時の社会において、聖なる身体をできるだけ多く所有することは、世俗社会・聖界・共同体において絶対に必要であった
E.聖者自身もそのことを意識していて、自分の生地or遺体の存在が好ましい影響を与えそうな土地を選んで死ぬことが多かった。中世の伝説には「ある聖者の遺体を移転しようとすると、突然重くなって運べなくなった。これは死者が移転を拒否したためである」という逸話が多くある
〈例〉イタリア人の隠者ジョヴァンニ・ボーノ(1249年没)は、生涯の大半をロマーニャ地方のチェセナで過ごしたが、死期が近いことを悟ると生地マントヴァに戻った。理由は「故郷に忠実だった,その地で隠然たる勢力を持つ異教徒を(自分の遺体の影響力で)倒してくれることを願った」からである
F.聖遺物の移転・盗難の絶対的な基準は「成功か失敗か?」であり、それは(身体の持ち主であった神の僕の当初の意図に関わらず)実行者によって常に正当化された。というのは「聖遺物を生地に保存している人々は、不名誉な土地に埋もれさせている」と思われ、逆に移転させた人々は「非難どころかむしろ称賛すべき敬虔さの表れ」とされた
[※上記の「遺体が重くなって運べず失敗した」というのは、移転失敗の事実を仕掛けられた側から正当化した、ということだろうか?]
G.信者たちにとって「充分な崇敬を受けていない(と思い込んだ)聖者の遺物を、隠れた所から移してくる」のは当然の権利だった。教皇庁は最低限の規律を定めた(13世紀)ものの、結果は期待通りにはいかなかった
【民衆から見た聖者・聖女】
H.彼らは死後に時を経て、聖者伝の中で不変の偉人として描かれた。彼らは「元々から全てを神から授かり、神の恵みによって永遠に生きる」「現世で生きた時間は、徳と奇蹟の顕示によって聖者と認めさせるためにある」とされた。このような聖者伝では、作者たちは彼らの非凡さ・超人的要素を強調している
I.作者たちは聖者をいくら敬っても飽きたらずに、いわば話をどんどんと盛っていく(例:人々に当たり前の喜びを一切諦めて、極度の純潔・禁欲を実践する。身体は裸同然で、諦念のうちに生きる)。これに対して民衆は、聖者の近づき難い完成度を前にして「その人が犠牲になってくれているので、罪深く悩める人々に恵みを垂れてくれる」ことを期待した
J.聖者は何よりもまず「神と人々との仲介者」「祈願する者を守ってくれる」存在と信じられた。そして聖職者も同じ信念を抱いて、聖者伝や「奇蹟の説話」を書いた。それは聖所の評判を知らせて、民衆の信仰心を強めるためであった
(9)かなえられる救い
A.やがて(宗教改革まで継続する)聖遺物崇拝と並んで、民衆は馴染み深い同時代の人物の聖性に対して興味を抱くようになる。反対に「遙か遠い時代・神秘の彼方の地方で生涯を終えた、有名無名の仲介者」は崇拝の対象ではなくなった(12世紀~:イタリアでは11世紀~)
B.特に地中海沿岸諸国で現れたこの傾向は、殉教者の身体(=聖遺物)ではなく「禁欲主義者・改宗者の厳しい生き方」に聖性を見出したのだった。イタリアの聖ロムアルドゥスや聖ジョヴァン・グアルベルトなど、新しいトレンドの対象となった人の生き方は「聖アントニウス,砂漠の教父たち,マグダラのマリア,東方世界の贖罪女性たち」といった人物(いずれも殉教者ではない!)の伝統と、歴史的に結びついていた
C.新しい聖者は、生き方として「本能を抑制している」という事実を基本とする。そして「超自然的な力を有している」(例:住まいの傍に泉を湧かせる,枯れ木に花を咲かせる,火の中をくぐっても火傷を負わない,身振り1つで儀式を妨げる小鳥のさえずりを沈黙させる)
【新しい聖者たちの機能】
D.聖者たちはまず、不自由な人々(例:病人,捕虜)のために超自然的な力を発揮したので、民衆からは「神との仲介者として成功を収めた」ように見える。彼らは「a.祓いによって悪魔を追い払う」のだが、それだけではなく「b.周縁人・除け者たちを元の集団へと復帰させる」。社会における様々な対立には「c.彼らに備わった威光・彼らが感じさせる恐怖によって『復讐を中止させる,敵同士を和解させる,憎悪と分裂が存在するところに協調をもたらす』」のだった
☆注意しなければならないのはc.について、聖者たちは単なる「紛争を鎮める腕利きの巧みな仲裁者」ではない!
E.聖者たちが持つ威光・権威は「彼らの生き方そのもの」と「(彼らに仲裁を頼む)社会の人々から離れた立ち位置にいる」ことから生じる。彼らは「貴族・聖職者(=エリート階級)の出であり、普通の人ではない」上に「苦行のおかげで『人間離れ』している」ので、いっそう一般人とかけ離れた存在である
F.さらに彼らは「家族との絆・経済的繋がりを一切断ち切り、女性関係を避ける」ことで、逆に一定の場所に腰を落ち着かせずに済む。このことが、内紛・矛盾によって機能が麻痺しやすい中世社会にあって、聖者たちが人々の「最後の頼みの綱」となりやすい背景だった。彼らは「生死を賭けた信頼できる人物である」→「彼らがいるだけで不安を取り除き、頼ってきた人の信頼に答えて勇気づける」のだった
G.彼らがこのように期待されたのは(彼らが持つと信じられた)上記C.のような超自然的エネルギーゆえである。「世界の正常な秩序は悪魔によって乱されているが、それを元に戻すのは奇蹟によるしかない」と信じられた。諸悪の根底に存在する人々の過ちは、聖者の霊的な明晰さによってのみ糺しうるのだった
☆もしその罪があまりにも根深ければ、聖者は罪によって引き起こされるはずの破局を予言するにとどめた(※糺すことが無理だから!)
【近づきやすい存在として】
H.こうして中世盛期に入ると、民衆が聖者の力に頼るには「a.生きている聖者には会いに行けばよい」「b.死んだ聖者には墓へ参るだけでよい」というように、聖職者からの介入無しに近づける(にもかかわらず神聖な)存在となる。やがては聖者の力にすがりつきたい時、その聖所まで赴かなくとも「c.奉納の約束込みで祈願するだけで、守護聖者は信者をとりなしてくれる」というようになる(13世紀~:大嵐で死を覚悟した際のコロンブス一行の祈願が好例)
I.ただしa.について(特に地中海沿岸諸国では頻繁になるものの)、頼まれる側の聖者が「頼まれた治療・援助に応じるだけでなく、それ以上の口出しをする」ことが多かった。一般に信者はそこまでちょっかいを出されるのを嫌がった
〈例〉ある公証人が聖ピエトロ・ディ・モローネ(後の教皇ケスティヌス5世)を、アブルッツォにある隠遁所まで訪ねて行った時:
公証人は“私がここまでやって来た理由だけを聞いていただきたい”と、素っ気なく隠者に言った。というのも隠者は、相手が有名な放蕩者だと知っていたので、相手の生活ぶりを問題にし始めたから
この請願者からすれば「聖者の仕事は治療することであり、改心させることではない」「神から奇蹟を託された者(=聖者)の力はあくまで神から授かったのであり、聖者の個人的特権ではない」のである。聖者からは恵みを貰いたいのであり、道徳的問題には触れて欲しくない!
(10)教会への支持・信者への模範
A.ローマ・カトリックにとって、聖者は「単に奇蹟を行う」だけではないし、聖遺物は「各地の聖所を有名にした」だけでない。教会の歴史的流れで見れば、中世初期にはある殉教者(or司教)が死後、教会公認の守護聖者となる
B.やがて中世盛期になると、教会はヨーロッパ世界全体をカバーし、教皇は「キリストの代理として教会を指導し、聖別の権限も専管事項とした」。ところでこの時期になると、ヨーロッパ内における教会の「教義上の敵」も増えた
〈例〉カタリ派の教えやワルドー派の説教師に従って「教会が使命に背いている」と批判する者が増加した
C.そこで教皇庁は、西洋全域において新しい殉教者への崇拝を普及させようとする(★)。彼らは“新しい福音史家”と見なされた
〈★の例〉聖トマス・ベケット(1170年没:カンタベリー大司教であり、大聖堂にてヘンリー2世の手下に殺害された),聖ピエトロ・マルティーレ(1226年没:ミラノの近くで聖務中に殺されたドミニコ会の調査官)
D.そして多くのキリスト教徒(聖俗問わず)は聖フランチェスコと聖ドミニコを、現行の聖職者制度の改革者、もしくはそれ以上の存在=「新しい時代の到来,(福音の使命と結びつくことによる)救済の歴史における最終段階への到達,キリスト教の聖性の革新者」と見た。ドミニコ会内紛においても、聖フランチェスコを“新しいキリスト”と呼ぶのをためらう者はいなかった
【グッドタイミングに登場した聖者たち】
E.中世の図像において、教皇インノケンティウス3世が夢に見たという幻覚(崩壊に瀕したラテラノ大聖堂を独力で支える宗教家:聖フランチェスコか聖ドミニコか?)がしばしば表現された。これ以来、聖者伝は「生きている時代の要請を察知・指導するという『歴史的使命』が、どの聖者にもある」という考えを持ち上げた
〈例〉フランチェスコ修道会の“清貧”の最終的な意味とは「新しい世界(都市・商業経済の世界)の貪欲・傲慢に対抗する、寄贈・財産放棄の重要性の再確認」である
F.聖フランチェスコの初期の伝記を原型として多くの新しい聖者伝(例:ベギン会修道女マリー・ドワニー〔1213年没〕の『伝記』)が作られる(13世紀~)。そこでは、聖者が行った奇蹟ではなく、むしろ“神の僕”としての生涯に力点が置かれる。それまでの聖者に対する「畏怖すべき崇拝」から「見習うべき存在とする観念」が徐々に優勢となる
〈例〉聖フランチェスコの死後、修道会の指導者たちが「彼の奇蹟の説話集」を出版しようとしたので、彼の古い同伴者たちは「奇蹟が聖性を生むのではない」と主張し(いわば聖者の魔術性を取り除こうとした)、計画に反対した(1245年)
(11)守護者と加護
A.しかし「聖者を模範者とする見方」は、信者には馴染めないものだった。大半の信者(中世後期)にとって、聖者とは「馴染みやすく、親しみやすく、頼れる人物」であり、聖者と信者自身が「同じ共同体に属している、と感じられる」ような絆で結ばれていた
B.神の僕の聖遺物が収められている場所には「特別の加護がある」という考え方が広まっていた(中世初期~)。各司教座都市は「都市・住民にとって専属の守護者」を戴いていた。殉教者が担っていたその役目を、やがては司教が演じるようになる
☆司教は「都市の守護者・貧しい人々の保護者」として地域の教会を代表していたので、彼の死後にはその遺物を介して特別な守護者となるのは必然だった
C.やがて守護者への熱望は増大し、どんな小さな町やささやかな同業組合でも、独自の守護者を祀るようになる(13世紀~)。これはイタリア・南ドイツなど、都市に対する愛郷心か際立って強くなった地方では激しく現れた。また、歴史が浅く聖者・聖遺物に恵まれないキリスト教の周辺地域でも熱烈に求められた
【都市共同体の守護聖者】
D.市民が熱中した聖者崇拝の発達には、その都市が政治的自治に恵まれていることが条件だった。以下はニュルンベルクの場合:
[11世紀半ば]
皇帝ハインリヒ3世によってニュルンベルクが建設された時には、その地方に住んでいた隠者の遺体が小さな礼拝堂に祀られた。やがて教会堂へ移され、商人・職人たちから敬われていたものの、礼拝は全く受けていなかった(ニュルンベルクは司教座都市ではなく、バムベルク司教区の祭典を祝うだけであった)
[13世紀]
セバルドが自由・都市の発展の象徴となり始める。皇帝フリードリヒ2世から特権を受ける(1219年)。都市当局はセバルドを祀るために大きな教会堂を建て、聖セバルドの祝日(8月19日)は毎年盛大に祝賀されるようになる
[1280年頃]
聖職者によってラテン語のリズミカルな祈祷文が作られる。重要なのは、聖セバルド信仰が一般大衆的なものではなく、ニュルンベルクの富裕支配階級によって「都市の偉大さと独立の擁護者」として仕立て上げられたという点にあり、祈祷文にも表れている
★セバルドは「貴族であり、親・城を見捨てて清貧と隠遁のうちに生涯を過ごした」or「デンマークの王子だったが、お忍びでこの土地に来て亡くなった」とされる。伝説における身分は、聖セバルド信仰を持ち上げた支配者階級を反映している
[1350年頃]
職人たちが都市行政に加わるようになる。この時初めて、聖セバルドは大衆的な存在となった。彼ら新興階級は古い支配者層と対立していたので、進んで地域の守護聖者の下に結集し、それによって「都市の真の利益を守るため」という大義名分を掲げることができた(それによって自分たちの本当の要求を隠そうとした)
[14世紀末]
聖セバルド信仰はニュルンベルク全体において飛躍的に重要となる。「a.セバルドを祀った教会堂は大きくなる」「b.それまでには見られなかった、彼を表現する像・ステンドグラスが作られた」「c.伝記がドイツ語に訳された」「d.ニュルンベルクの貨幣に鋳造された(15世紀初)」
[1425年]
ニュルンベルクは聖セバルドの列聖を教皇マルティヌス5世から認可してもらう。実はこれまでは、聖職者は「聖セバルド崇拝に異議を唱え、典礼を拒否していた」からである
【仲介者が果たしたもの】
E.ニュルンベルクの聖セバルドへの措置は例外的であった。イタリア諸都市では、市民による崇拝が起こった人物の列聖(例:トレヴィーゾのベアト・エンリコ・ダ・ボルツァーノ〔1315年没〕に対するもの)が、教皇庁によってたいてい却下された
F.それでも諸都市は、その人物を正規の守護聖者のように変わらず崇拝した。それほどまでに都市の運営者たちは「神との仲介者のおかげで都市の繁栄が確保され、市民の間の強調が保たれている」と固く信じていた
【王家の守護聖者から国民全体へ】
G.崇拝された聖者or聖女は、後年に支配者の家系と何らかの関係づけが行わた。君主制に基づいた国民国家の意識が発達するにつれ、王家の守護者は国民全体の守護者になりやすかった
〈例〉聖ドニの遺物はパリ近くの大修道院に祀られ、カペー朝期にフランスの象徴となる。聖王ルイでもその威光を越えられなかった
H.百年戦争は諸国間の軋轢を激化させ、こうした傾向を助長した。古くから「ヴェネツィアは聖マルコとその獅子に同化していた」が、同様に「イングランドは聖ジョージ」「ブルゴーニュは聖アンドレ」をそれぞれ信奉した。聖者の名は国民の命名に多く利用されるようになる(例:スウェーデンでのエリック)
【中世後期から近世へ】
I.識者たちの中には、都市や国家での聖者崇拝による弊害を指摘する者もいた。古い聖者への普遍的な信仰が、新しい聖者への地域レベルでの偏狭な信仰に取って変わられることを心配する者もいた。あるいは「教会の聖者祝日表に挙げられた偉大な人々(福音史家・使徒・紀元初期の殉教者たち)」への信仰に背を向け、代わりに「(時には疑わしい聖者も含めた)弱小信仰に分散している」と批判する者もいた
J.確かに中世後期の聖者崇拝は社会での日常生活に深く同化していたので、世俗的になりすぎていた。しかしそれこそが、市民生活での信仰の枠内における「世俗‐神聖」「政治‐宗教」の複雑な絡み合いであった。そのおかげでキリスト教は(宗教改革以降の)カトリック諸国において維持されてきたのだった
K.反対にアルプスの北側では、南側よりずっと「典礼的・伝統的な形式が保存されてきた」ので、プロテスタントの改革が勝利した場所では、都市のブルジョワジーにより「迷信的な信仰と実践の全て」が一挙に抹殺された(16世紀)。彼らにとってそうしたことは「聖職者が群衆への影響力を保つための迷信に過ぎない」と思われたのだ