『中世の死』N・オーラーから[1]
○基本事項
A.名前:
受洗者に聖人の名を与えるのは、彼らキリストの傍らで生きている神のご加護を乞い願うため=「クリスティアン・ネーム」
これらの名前には「子供のためにその名を選んだ者が、熟知してはいなくとも聞きかじっていた」「名を与えられた者が、成長するにつれて理解したりする」ようなイメージがつきまとう
B.誕生:
生年月日を示すのに星印が用いられるのは、古代において「人間の人生はその誕生日を司る星により(決定されるとまではいかないものの)影響を受ける」と考えられていたことによる
このイメージはキリスト教にも根を下ろし「イエスは常ならぬ星のしるしの下に生まれた」「3賢者はその星を頼りにベツレヘムを訪れて、新たに生まれたユダヤ人の王に拝謁した」とされた
キリスト教の祝祭カレンダーには、誕生日は3つしかない(イエス:12月25日,マリア:9月8日,ヨハネ:6月24日)
キリスト教は生の始まりを故意に軽視したので、中世の人々の生誕年(ましてや誕生日)が伝わっているのは稀
C.死:
これを示すのに十字架マークが用いられるが、これはローマ人が行っていた残忍な処刑法を想起させる。イエスは月並みな犯罪者として十字架に架けられた
十字架は本来恥ずべき処刑のしるしであるのだから、それをイエスの信奉者たちが信仰のシンボルとして祭り上げたのは不可解なことである
紀元前から「死と眠り」は兄弟のようなものと考えられてきた。「眠る」という言葉からは「死者がまだ生きている」ことを連想させる(それも記憶の中と“神の御許”で)
D.記録:
教区台帳や戸籍といった登録簿が作成されるようになったのは近代になってから。少数の例外を除いて、教区の洗礼/死亡台帳は近世から(16世紀~)。戸籍の整備はもっと後(19世紀)
E.墓地と名前:
死者たちの埋葬にあたって紀元前から、さながら「死者の都市」を築くように埋葬されている。この“ネクロポリス(死者の都市→古代ギリシア・ローマの共同墓地)”にも身分差が存在する
墓石には名前が「父→子へ,祖母→孫娘へ」受け継がれていくことが語られているが、これは「死を克服する」ための1つの手段だった。個々人は死を免れないが、その名を残すことによって「一族の中に生き続ける」と考えられた
〈例〉カロリング朝・オットー朝には、祖先の力を後の世代に伝えるべき、特別な名前があった。フランスは1500年にも渡って「ルイ(古形はクロードヴィヒ)」という名の王に統治されている
中世に作られた墓地は数千ヶ所が調査・研究の対象となっているが、そのほとんどが無名墓地である
F.埋葬:
紀元前には火葬も行われていたが、キリスト教化が行わた時代には「火葬は異教徒によって行われ、死者を荼毘に付す者はその復活を信じない者である」として、教会・権利者から非難された
G.墓地の多機能性
現代でも墓地は憩いの場となっているが、中世・近世では「市が開かれ、祭りが行われ、人々は踊り回った」。戦時には避難場所となったので、備蓄品が置かれた
○人口史から
(1)調査について
A.中世には国勢調査は行われていない(必要な行政機構はなく、そもそも関心が無かったから)。また、史料の中に「何千人死亡」と書かれていても、それは「とてもたくさん死んだ」という意味でしかない。当時の人々の意識では「死者の数を数えても彼らが生き返るわけでもないし、いずれにせよ神様はご存知でいらっしゃる」ということになる
B.しかし人の数を数えなければならない場面はあり、その幾つかは現代に伝わっている。「a.竈の数(世帯数)」「b.納税・兵役義務者の数」など。それは「c.籠城時にどれだけの人数を食わせなければならないのか」「d.ローマ教皇への献金額」「e.市民権を持つ人間の名のリスト」に際して必要であった
⇒記録に残る住民数と「集落or集会所の数・面積」を関連付けると、人口構成・規模のより正確な数値が得られる
C.中世の墓地からは、平均寿命・死因に関するより正確な答えが得られるようになっている。「骨格標本は、過去の人間の年齢・性別病歴・死因の史料となる」「恥骨の変化の特徴から、この女性が何人子供を生んだかを推定できる」
【人口の推定(単位=万人)】
300年 600年 1000年 1340年 1440年
イベリア半島:
[400→360→700→900 →700]
フランス:
[500→300→600→1900→1200]
イタリア:
[400→240→500→930 →750]
イギリス:
[30 →80 →170→500 →300]
ドイツ+スカンジナビア:
[350→210→400→1160→750]
合計:
[1680→1190→2370→5390→3700]
D.ヨーロッパの人口が中世に増加した(とりわけ盛期において)のは「乳幼児死亡率の低下,餓死する人間の減少,出産可能人口の増加」によって、単純に「生まれた人間の数>死んだ人間の数」となったことによる
(2)疫病・病気
A.中世ヨーロッパでの、2度にわたる人口激減期(542~750頃,1348~1440頃)の原因はペストであった。この病は「何人をも容赦せず、一目でそれとわかり、元気だった人が死ぬまでにほんの数時間しかかからない程突然襲いかかった」
B.ペストほどセンセーショナルではないが、度々ずっと多くの人命を奪った病は数多い:「コレラ,ジフテリア,発疹チフス,インフルエンザ,百日咳,レプラ,マラリア,麻疹,おたふく風邪,天然痘,赤痢,狂犬病,結核,チフス,破傷風など」
C.中世の人々は(古代の医師たちの著述などのおかげで)様々な病気をかなり正確に知っていて、感染から身を守るための適切な予防策を講じていた(例:病気の疑いのある者〔とりわけ他国者・新参者〕はしばらく隔離された)。人々は病人をしばらくor生涯隔離することで、健常者を守るすべを発達させたものの、殆どの病に対して無力であった
〈例1〉結核:
“白い大ペスト”と呼ばれ、15~35歳の人間の生命を奪った。女性も多く罹っており、テューリンゲン方伯夫人エリーザベトの死因(24歳で死去)もこのようだ
〈例2〉マラリア:
中世ヨーロッパは一時的に温暖な気候に恵まれていたので、アルプス以北の地でもマラリアの病原体を運ぶ蚊は、沼地・じめじめした谷間で繁殖できた
マラリアの特徴は「患者はすぐには死なないものの、ひどく体力を消耗する」ことにある。これによって、患者は健常者ならば何ということもない病気を併発して死にいたる。神聖ローマ帝国の3皇帝(オットー2世・オットー3世・ハインリヒ7世)はマラリアで死亡したようだ
D.レプラ患者は「生涯、居住区外の収容所で暮らさねばならない」「ガラガラを身につけるor特別な衣服をまとい、健常者が遠くから見て気付くようにしなければならない」とされた。彼らが生計を立てられるように、収容所は交差点or三叉路に設けられた(今日でも“善人通り”という名称がのこる)
☆収容所のそばを通りかかった者は「不幸な者に施しを与え、その報いとして自分がこの病に見舞われないよう神に願った」のだった。他方で、健康であるにもかかわらず(病院に入るようにお金を払い)「自ら進んで収容所に入り、レプラ患者と共に暮らす」者もいた
【伝染の問題】
E.感染の危険性は、人間が固まって暮らせば暮らすほど高くなる。それゆえペストの犠牲者は「森の隠者<修道士や修道女」「田舎の村<都市」であった。人口激減(14世紀)の一因は、当時すでに多くの人間が都市に集中していたことによる可能性がある
F.都市の死亡者数はかなり高く、地方からの絶え間ない人口流入によって規模を維持していた(~19世紀)。不衛生な環境(例:トイレが泉の隣にある)が細菌をあっという間に伝染させた
⇒効果的な防衛策として「墓地を集落から遠ざける=市壁の外に出す」ような措置が、中世ではすでにあちらこちらで実行された。これは「ペスト犠牲者の合葬墓でひどい目にあった」経験が生かされたのかも知れない
G.ヨーロッパには有史以来、アジア・アフリカから持ち込まれま病気と繰り返し接触していたので、数々の病原体に対して比較的免疫を持っていた(中南米のインディオとの違い!)
(3)栄養不良と飢餓
A.慢性的な栄養不良状態にあった者(時には人口の大部分であった)は、規則的に健康な食事が取れる者より“小児病”or結核で死ぬ確率が高かった。しかし金持ちは逆に、ともすれば子供に食事を与えすぎていた。「脂肪・肉・ワインの取りすぎ」は成人の寿命を縮めた
★ビタミン不足・偏った食習慣によって、人口増加はブレーキを掛けられていた(病気と同じ位の意味があった)
【自然要因】
B.飢餓の要因は「農作物の収穫率の悪さ,長い冬,夜の寒気,洪水,高潮,夏期の小雨or多雨,ネズミ・イナゴ・甲虫による農作物被害」など様々である。おまけに満足する出来であっても「a.川が普段より長く凍れば水車を回せない」「b.小麦粉を貯蔵できる期間は限られる」「c.農作業に必要な家畜が流行り病で倒れると被害は甚大」といった要因もある
☆上記の要因の1つでもあれば、地域的な飢餓が起こり得た。さらに、広域にわたる気候の変動が相まって、幾つかの災害が同時にやってくることもあった
C.気温が低下すると、人間と自然のバランス(危うく保たれていた)を脅かした。年間平均気温か1℃でも下がると、イングランドでは「作物の成長期間は2~3週間短くなる」→「果物の多くは熟さない」ことを覚悟しなければならなくなる
[西暦1000年頃]
気候が温暖となり、ヨーロッパ北部でのワイン収穫のみならず、農作物一般に好影響が出た
[14世紀初期]
凶作・厳冬・夏期の多雨・洪水などを嘆く記録が数多く残っている
【備蓄の問題】
D.まあまあの収穫があった年でも、保管しておける分は残らなかった。「a.農民は余剰があれば売って、借金の返済・税金支払いに充てなくてはならない」「b.倉庫を建てて有能な管理人をおく余裕があるのは、修道院・都市・貴族くらいしかいない」のだった
E.b.は国内での収穫見込みについて、より詳しい情報を得ていることが多かった。特に都市は、割安な時期に備蓄をしておくことに関心を持っていた。収穫が悪くて物価が上昇した時には、保管していた穀物を困窮者に程よい値で売り出した
【追い込まれた人々】
F.飢饉が頻繁すると(元から社会の流動性が高まっているところへ)人々をさらに移動させた。貧しい者も貧しくなってしまった者も「無事だ」という場所へ、噂を頼りに歩いていった。そうした場所には何百人も集まってきた
〈例〉十字軍(1095年,1145~47年)の前に飢餓が発生したのは偶然ではない。裕福なフルダ修道院が腹をすかせた暴徒たちに略奪された(1145年)
G.凶作が続いた人々には「a.翌年の種蒔きのために取っておくべき分を食べる」「b.木の皮・草・動物の死肉を食べる」「c.死者の肉を食べる」かという、厳しい選択に迫られた。a.は(上手く行けば)破滅を1年先延ばしできた。b.は重い疾病が予想された。c.について、史料には繰り返し「人喰い」が登場する…
(4)戦争
A.戦争での野蛮さは、キリスト教徒も異教徒も変わりは無かった。確かに「民間人は寛大な扱いを受けた」「特に剣を持って戦えない(or戦うことが許されない)人々は手厚く保護された」(←『神の平和』運動)。しかし一旦包囲されれば、聖職者・修道士・女性・ユダヤ人も飢えと渇きに苦しんだ
B.古代末から中世初頭にかけての民族大移動期には、ゲルマン人・スラヴ人はほとんど(or全く)抵抗に遭わなかったので、敵対した民族を復讐のために虐殺することもなかった。しかしモンゴル人がハンガリーに侵入した(1241年)時には、人口が半分になってしまったようだ
⇒戦死しなかった者は処刑or捕虜にされ、逃げた者も飢えた(そして凍死した)
C.戦争・私闘によって引き起こされる二次的損害は、しばしば直接的損害を大きく上回った。それらの影響は数年に及んだ(栄養状態が悪化し、粗末な家に住まわざるをえなくなった人間は、より容易く伝染病の犠牲となったから)
〈二次的損害の例〉
傭兵による家畜の没収,ならず者の群れによる治安の悪化,農民が森・都市へ逃げ込み畑は耕されることなく放置される,収穫物を根絶やしにする,果樹を倒す,ブドウ畑を荒らす,水車小屋を破壊する
★ただし荒くれ兵士たちの破壊行為を過大評価してはいけない。年代記作家は戦争・私闘の影響を誇張したがった(←虫の好かない貴族たちにペンで仕返しした)
(5)平均寿命
A.時代・場所・社会階層などによる平均寿命の違いは小さかった。「500年~1500年の平均寿命は、人口変動と同じ動きで延び縮みした」のである
〈例〉ハンガリーでは「33歳→26歳」(10世紀初頭→12世紀初頭)へと低下した。イングランドでは「35歳→27歳」(13世紀半ば→14世紀前半)へと低下した
【子供】
B.乳幼児死亡率は極めて高かった(近世も同じ)。「最初の1週間・生後1年間・離乳期が危険」であり、少数しか生き残れなかった。病気だけでなく事故による死亡も繰り返し伝えられる
〈様々な要因〉
不適当な栄養摂取,衣服,すきま風が吹き煙が立ち込める部屋,湿ったベッド用品,働きすぎの母親たち(親が目配りをする余裕にかけているので、さほど年の離れていない兄・姉がお守りをしなければならない!)
【大人】
C.近代とは違い「女性が男性よりも早死にした」。母屋・家畜小屋・庭園・畑での重労働で疲れ切っており、数多くの病に冒される危険は、男性と変わりがなかった。その上結婚年齢が低く、ほとんど子供と言っていい時期に妊娠・出産を経験することもあった(当然、分娩・産褥の不衛生さによって多くの女性が命を落とした)
D.女性は危険な年代(15~40歳辺り)を生き延びれば、男性同様に「あと15~20年は生きることができた」。しかし、総じて年老いた女は年老いた男より少なかった。いずれにしても、老人が少ないので3世代家族はほとんど無い
E.男性の平均寿命は女性よりも高かったものの、男性優位社会ではその地位ゆえの代償を支払わねばならなかった
〈典型例としての支配者〉
王たちは「私闘・決闘,雨風に曝された絶え間ない移動」によって、若くして死んでいった。子供のうちに王位を継承しなければならなかった者も多く、後見人が補佐したとはいえ、彼らには健やかに成長する時間など無かった
F.王朝は後継ぎのいない王の死で途絶える(オットー3世)のは当然だが、新興の一族構成員が後を継いでも「その人物が子供を持たずに死んでしまえば、王朝として成立すらしない」のだった(ハインリヒ2世)。帝国などの支配体制の継続・維持には「権力下にある司教区・修道院」の重要性はとてつもなく大きかった。逆に、王朝にきちんとした世継ぎが準備されていれば、とてつもなく幸運であった
○基本事項
A.名前:
受洗者に聖人の名を与えるのは、彼らキリストの傍らで生きている神のご加護を乞い願うため=「クリスティアン・ネーム」
これらの名前には「子供のためにその名を選んだ者が、熟知してはいなくとも聞きかじっていた」「名を与えられた者が、成長するにつれて理解したりする」ようなイメージがつきまとう
B.誕生:
生年月日を示すのに星印が用いられるのは、古代において「人間の人生はその誕生日を司る星により(決定されるとまではいかないものの)影響を受ける」と考えられていたことによる
このイメージはキリスト教にも根を下ろし「イエスは常ならぬ星のしるしの下に生まれた」「3賢者はその星を頼りにベツレヘムを訪れて、新たに生まれたユダヤ人の王に拝謁した」とされた
キリスト教の祝祭カレンダーには、誕生日は3つしかない(イエス:12月25日,マリア:9月8日,ヨハネ:6月24日)
キリスト教は生の始まりを故意に軽視したので、中世の人々の生誕年(ましてや誕生日)が伝わっているのは稀
C.死:
これを示すのに十字架マークが用いられるが、これはローマ人が行っていた残忍な処刑法を想起させる。イエスは月並みな犯罪者として十字架に架けられた
十字架は本来恥ずべき処刑のしるしであるのだから、それをイエスの信奉者たちが信仰のシンボルとして祭り上げたのは不可解なことである
紀元前から「死と眠り」は兄弟のようなものと考えられてきた。「眠る」という言葉からは「死者がまだ生きている」ことを連想させる(それも記憶の中と“神の御許”で)
D.記録:
教区台帳や戸籍といった登録簿が作成されるようになったのは近代になってから。少数の例外を除いて、教区の洗礼/死亡台帳は近世から(16世紀~)。戸籍の整備はもっと後(19世紀)
E.墓地と名前:
死者たちの埋葬にあたって紀元前から、さながら「死者の都市」を築くように埋葬されている。この“ネクロポリス(死者の都市→古代ギリシア・ローマの共同墓地)”にも身分差が存在する
墓石には名前が「父→子へ,祖母→孫娘へ」受け継がれていくことが語られているが、これは「死を克服する」ための1つの手段だった。個々人は死を免れないが、その名を残すことによって「一族の中に生き続ける」と考えられた
〈例〉カロリング朝・オットー朝には、祖先の力を後の世代に伝えるべき、特別な名前があった。フランスは1500年にも渡って「ルイ(古形はクロードヴィヒ)」という名の王に統治されている
中世に作られた墓地は数千ヶ所が調査・研究の対象となっているが、そのほとんどが無名墓地である
F.埋葬:
紀元前には火葬も行われていたが、キリスト教化が行わた時代には「火葬は異教徒によって行われ、死者を荼毘に付す者はその復活を信じない者である」として、教会・権利者から非難された
G.墓地の多機能性
現代でも墓地は憩いの場となっているが、中世・近世では「市が開かれ、祭りが行われ、人々は踊り回った」。戦時には避難場所となったので、備蓄品が置かれた
○人口史から
(1)調査について
A.中世には国勢調査は行われていない(必要な行政機構はなく、そもそも関心が無かったから)。また、史料の中に「何千人死亡」と書かれていても、それは「とてもたくさん死んだ」という意味でしかない。当時の人々の意識では「死者の数を数えても彼らが生き返るわけでもないし、いずれにせよ神様はご存知でいらっしゃる」ということになる
B.しかし人の数を数えなければならない場面はあり、その幾つかは現代に伝わっている。「a.竈の数(世帯数)」「b.納税・兵役義務者の数」など。それは「c.籠城時にどれだけの人数を食わせなければならないのか」「d.ローマ教皇への献金額」「e.市民権を持つ人間の名のリスト」に際して必要であった
⇒記録に残る住民数と「集落or集会所の数・面積」を関連付けると、人口構成・規模のより正確な数値が得られる
C.中世の墓地からは、平均寿命・死因に関するより正確な答えが得られるようになっている。「骨格標本は、過去の人間の年齢・性別病歴・死因の史料となる」「恥骨の変化の特徴から、この女性が何人子供を生んだかを推定できる」
【人口の推定(単位=万人)】
300年 600年 1000年 1340年 1440年
イベリア半島:
[400→360→700→900 →700]
フランス:
[500→300→600→1900→1200]
イタリア:
[400→240→500→930 →750]
イギリス:
[30 →80 →170→500 →300]
ドイツ+スカンジナビア:
[350→210→400→1160→750]
合計:
[1680→1190→2370→5390→3700]
D.ヨーロッパの人口が中世に増加した(とりわけ盛期において)のは「乳幼児死亡率の低下,餓死する人間の減少,出産可能人口の増加」によって、単純に「生まれた人間の数>死んだ人間の数」となったことによる
(2)疫病・病気
A.中世ヨーロッパでの、2度にわたる人口激減期(542~750頃,1348~1440頃)の原因はペストであった。この病は「何人をも容赦せず、一目でそれとわかり、元気だった人が死ぬまでにほんの数時間しかかからない程突然襲いかかった」
B.ペストほどセンセーショナルではないが、度々ずっと多くの人命を奪った病は数多い:「コレラ,ジフテリア,発疹チフス,インフルエンザ,百日咳,レプラ,マラリア,麻疹,おたふく風邪,天然痘,赤痢,狂犬病,結核,チフス,破傷風など」
C.中世の人々は(古代の医師たちの著述などのおかげで)様々な病気をかなり正確に知っていて、感染から身を守るための適切な予防策を講じていた(例:病気の疑いのある者〔とりわけ他国者・新参者〕はしばらく隔離された)。人々は病人をしばらくor生涯隔離することで、健常者を守るすべを発達させたものの、殆どの病に対して無力であった
〈例1〉結核:
“白い大ペスト”と呼ばれ、15~35歳の人間の生命を奪った。女性も多く罹っており、テューリンゲン方伯夫人エリーザベトの死因(24歳で死去)もこのようだ
〈例2〉マラリア:
中世ヨーロッパは一時的に温暖な気候に恵まれていたので、アルプス以北の地でもマラリアの病原体を運ぶ蚊は、沼地・じめじめした谷間で繁殖できた
マラリアの特徴は「患者はすぐには死なないものの、ひどく体力を消耗する」ことにある。これによって、患者は健常者ならば何ということもない病気を併発して死にいたる。神聖ローマ帝国の3皇帝(オットー2世・オットー3世・ハインリヒ7世)はマラリアで死亡したようだ
D.レプラ患者は「生涯、居住区外の収容所で暮らさねばならない」「ガラガラを身につけるor特別な衣服をまとい、健常者が遠くから見て気付くようにしなければならない」とされた。彼らが生計を立てられるように、収容所は交差点or三叉路に設けられた(今日でも“善人通り”という名称がのこる)
☆収容所のそばを通りかかった者は「不幸な者に施しを与え、その報いとして自分がこの病に見舞われないよう神に願った」のだった。他方で、健康であるにもかかわらず(病院に入るようにお金を払い)「自ら進んで収容所に入り、レプラ患者と共に暮らす」者もいた
【伝染の問題】
E.感染の危険性は、人間が固まって暮らせば暮らすほど高くなる。それゆえペストの犠牲者は「森の隠者<修道士や修道女」「田舎の村<都市」であった。人口激減(14世紀)の一因は、当時すでに多くの人間が都市に集中していたことによる可能性がある
F.都市の死亡者数はかなり高く、地方からの絶え間ない人口流入によって規模を維持していた(~19世紀)。不衛生な環境(例:トイレが泉の隣にある)が細菌をあっという間に伝染させた
⇒効果的な防衛策として「墓地を集落から遠ざける=市壁の外に出す」ような措置が、中世ではすでにあちらこちらで実行された。これは「ペスト犠牲者の合葬墓でひどい目にあった」経験が生かされたのかも知れない
G.ヨーロッパには有史以来、アジア・アフリカから持ち込まれま病気と繰り返し接触していたので、数々の病原体に対して比較的免疫を持っていた(中南米のインディオとの違い!)
(3)栄養不良と飢餓
A.慢性的な栄養不良状態にあった者(時には人口の大部分であった)は、規則的に健康な食事が取れる者より“小児病”or結核で死ぬ確率が高かった。しかし金持ちは逆に、ともすれば子供に食事を与えすぎていた。「脂肪・肉・ワインの取りすぎ」は成人の寿命を縮めた
★ビタミン不足・偏った食習慣によって、人口増加はブレーキを掛けられていた(病気と同じ位の意味があった)
【自然要因】
B.飢餓の要因は「農作物の収穫率の悪さ,長い冬,夜の寒気,洪水,高潮,夏期の小雨or多雨,ネズミ・イナゴ・甲虫による農作物被害」など様々である。おまけに満足する出来であっても「a.川が普段より長く凍れば水車を回せない」「b.小麦粉を貯蔵できる期間は限られる」「c.農作業に必要な家畜が流行り病で倒れると被害は甚大」といった要因もある
☆上記の要因の1つでもあれば、地域的な飢餓が起こり得た。さらに、広域にわたる気候の変動が相まって、幾つかの災害が同時にやってくることもあった
C.気温が低下すると、人間と自然のバランス(危うく保たれていた)を脅かした。年間平均気温か1℃でも下がると、イングランドでは「作物の成長期間は2~3週間短くなる」→「果物の多くは熟さない」ことを覚悟しなければならなくなる
[西暦1000年頃]
気候が温暖となり、ヨーロッパ北部でのワイン収穫のみならず、農作物一般に好影響が出た
[14世紀初期]
凶作・厳冬・夏期の多雨・洪水などを嘆く記録が数多く残っている
【備蓄の問題】
D.まあまあの収穫があった年でも、保管しておける分は残らなかった。「a.農民は余剰があれば売って、借金の返済・税金支払いに充てなくてはならない」「b.倉庫を建てて有能な管理人をおく余裕があるのは、修道院・都市・貴族くらいしかいない」のだった
E.b.は国内での収穫見込みについて、より詳しい情報を得ていることが多かった。特に都市は、割安な時期に備蓄をしておくことに関心を持っていた。収穫が悪くて物価が上昇した時には、保管していた穀物を困窮者に程よい値で売り出した
【追い込まれた人々】
F.飢饉が頻繁すると(元から社会の流動性が高まっているところへ)人々をさらに移動させた。貧しい者も貧しくなってしまった者も「無事だ」という場所へ、噂を頼りに歩いていった。そうした場所には何百人も集まってきた
〈例〉十字軍(1095年,1145~47年)の前に飢餓が発生したのは偶然ではない。裕福なフルダ修道院が腹をすかせた暴徒たちに略奪された(1145年)
G.凶作が続いた人々には「a.翌年の種蒔きのために取っておくべき分を食べる」「b.木の皮・草・動物の死肉を食べる」「c.死者の肉を食べる」かという、厳しい選択に迫られた。a.は(上手く行けば)破滅を1年先延ばしできた。b.は重い疾病が予想された。c.について、史料には繰り返し「人喰い」が登場する…
(4)戦争
A.戦争での野蛮さは、キリスト教徒も異教徒も変わりは無かった。確かに「民間人は寛大な扱いを受けた」「特に剣を持って戦えない(or戦うことが許されない)人々は手厚く保護された」(←『神の平和』運動)。しかし一旦包囲されれば、聖職者・修道士・女性・ユダヤ人も飢えと渇きに苦しんだ
B.古代末から中世初頭にかけての民族大移動期には、ゲルマン人・スラヴ人はほとんど(or全く)抵抗に遭わなかったので、敵対した民族を復讐のために虐殺することもなかった。しかしモンゴル人がハンガリーに侵入した(1241年)時には、人口が半分になってしまったようだ
⇒戦死しなかった者は処刑or捕虜にされ、逃げた者も飢えた(そして凍死した)
C.戦争・私闘によって引き起こされる二次的損害は、しばしば直接的損害を大きく上回った。それらの影響は数年に及んだ(栄養状態が悪化し、粗末な家に住まわざるをえなくなった人間は、より容易く伝染病の犠牲となったから)
〈二次的損害の例〉
傭兵による家畜の没収,ならず者の群れによる治安の悪化,農民が森・都市へ逃げ込み畑は耕されることなく放置される,収穫物を根絶やしにする,果樹を倒す,ブドウ畑を荒らす,水車小屋を破壊する
★ただし荒くれ兵士たちの破壊行為を過大評価してはいけない。年代記作家は戦争・私闘の影響を誇張したがった(←虫の好かない貴族たちにペンで仕返しした)
(5)平均寿命
A.時代・場所・社会階層などによる平均寿命の違いは小さかった。「500年~1500年の平均寿命は、人口変動と同じ動きで延び縮みした」のである
〈例〉ハンガリーでは「33歳→26歳」(10世紀初頭→12世紀初頭)へと低下した。イングランドでは「35歳→27歳」(13世紀半ば→14世紀前半)へと低下した
【子供】
B.乳幼児死亡率は極めて高かった(近世も同じ)。「最初の1週間・生後1年間・離乳期が危険」であり、少数しか生き残れなかった。病気だけでなく事故による死亡も繰り返し伝えられる
〈様々な要因〉
不適当な栄養摂取,衣服,すきま風が吹き煙が立ち込める部屋,湿ったベッド用品,働きすぎの母親たち(親が目配りをする余裕にかけているので、さほど年の離れていない兄・姉がお守りをしなければならない!)
【大人】
C.近代とは違い「女性が男性よりも早死にした」。母屋・家畜小屋・庭園・畑での重労働で疲れ切っており、数多くの病に冒される危険は、男性と変わりがなかった。その上結婚年齢が低く、ほとんど子供と言っていい時期に妊娠・出産を経験することもあった(当然、分娩・産褥の不衛生さによって多くの女性が命を落とした)
D.女性は危険な年代(15~40歳辺り)を生き延びれば、男性同様に「あと15~20年は生きることができた」。しかし、総じて年老いた女は年老いた男より少なかった。いずれにしても、老人が少ないので3世代家族はほとんど無い
E.男性の平均寿命は女性よりも高かったものの、男性優位社会ではその地位ゆえの代償を支払わねばならなかった
〈典型例としての支配者〉
王たちは「私闘・決闘,雨風に曝された絶え間ない移動」によって、若くして死んでいった。子供のうちに王位を継承しなければならなかった者も多く、後見人が補佐したとはいえ、彼らには健やかに成長する時間など無かった
F.王朝は後継ぎのいない王の死で途絶える(オットー3世)のは当然だが、新興の一族構成員が後を継いでも「その人物が子供を持たずに死んでしまえば、王朝として成立すらしない」のだった(ハインリヒ2世)。帝国などの支配体制の継続・維持には「権力下にある司教区・修道院」の重要性はとてつもなく大きかった。逆に、王朝にきちんとした世継ぎが準備されていれば、とてつもなく幸運であった