『中世の死』N・オーラーから[1]


○基本事項


A.名前:
 受洗者に聖人の名を与えるのは、彼らキリストの傍らで生きている神のご加護を乞い願うため=「クリスティアン・ネーム」
 これらの名前には「子供のためにその名を選んだ者が、熟知してはいなくとも聞きかじっていた」「名を与えられた者が、成長するにつれて理解したりする」ようなイメージがつきまとう

B.誕生:
 生年月日を示すのに星印が用いられるのは、古代において「人間の人生はその誕生日を司る星により(決定されるとまではいかないものの)影響を受ける」と考えられていたことによる
 このイメージはキリスト教にも根を下ろし「イエスは常ならぬ星のしるしの下に生まれた」「3賢者はその星を頼りにベツレヘムを訪れて、新たに生まれたユダヤ人の王に拝謁した」とされた
 キリスト教の祝祭カレンダーには、誕生日は3つしかない(イエス:12月25日,マリア:9月8日,ヨハネ:6月24日)
 キリスト教は生の始まりを故意に軽視したので、中世の人々の生誕年(ましてや誕生日)が伝わっているのは稀

C.死:
 これを示すのに十字架マークが用いられるが、これはローマ人が行っていた残忍な処刑法を想起させる。イエスは月並みな犯罪者として十字架に架けられた
 十字架は本来恥ずべき処刑のしるしであるのだから、それをイエスの信奉者たちが信仰のシンボルとして祭り上げたのは不可解なことである
 紀元前から「死と眠り」は兄弟のようなものと考えられてきた。「眠る」という言葉からは「死者がまだ生きている」ことを連想させる(それも記憶の中と“神の御許”で)

D.記録:
 教区台帳や戸籍といった登録簿が作成されるようになったのは近代になってから。少数の例外を除いて、教区の洗礼/死亡台帳は近世から(16世紀~)。戸籍の整備はもっと後(19世紀)

E.墓地と名前:
 死者たちの埋葬にあたって紀元前から、さながら「死者の都市」を築くように埋葬されている。この“ネクロポリス(死者の都市→古代ギリシア・ローマの共同墓地)”にも身分差が存在する
 墓石には名前が「父→子へ,祖母→孫娘へ」受け継がれていくことが語られているが、これは「死を克服する」ための1つの手段だった。個々人は死を免れないが、その名を残すことによって「一族の中に生き続ける」と考えられた
〈例〉カロリング朝・オットー朝には、祖先の力を後の世代に伝えるべき、特別な名前があった。フランスは1500年にも渡って「ルイ(古形はクロードヴィヒ)」という名の王に統治されている
 中世に作られた墓地は数千ヶ所が調査・研究の対象となっているが、そのほとんどが無名墓地である

F.埋葬:
 紀元前には火葬も行われていたが、キリスト教化が行わた時代には「火葬は異教徒によって行われ、死者を荼毘に付す者はその復活を信じない者である」として、教会・権利者から非難された

G.墓地の多機能性
 現代でも墓地は憩いの場となっているが、中世・近世では「市が開かれ、祭りが行われ、人々は踊り回った」。戦時には避難場所となったので、備蓄品が置かれた



○人口史から


(1)調査について

 A.中世には国勢調査は行われていない(必要な行政機構はなく、そもそも関心が無かったから)。また、史料の中に「何千人死亡」と書かれていても、それは「とてもたくさん死んだ」という意味でしかない。当時の人々の意識では「死者の数を数えても彼らが生き返るわけでもないし、いずれにせよ神様はご存知でいらっしゃる」ということになる
 B.しかし人の数を数えなければならない場面はあり、その幾つかは現代に伝わっている。「a.竈の数(世帯数)」「b.納税・兵役義務者の数」など。それは「c.籠城時にどれだけの人数を食わせなければならないのか」「d.ローマ教皇への献金額」「e.市民権を持つ人間の名のリスト」に際して必要であった
 ⇒記録に残る住民数と「集落or集会所の数・面積」を関連付けると、人口構成・規模のより正確な数値が得られる
 C.中世の墓地からは、平均寿命・死因に関するより正確な答えが得られるようになっている。「骨格標本は、過去の人間の年齢・性別病歴・死因の史料となる」「恥骨の変化の特徴から、この女性が何人子供を生んだかを推定できる」

【人口の推定(単位=万人)】
300年 600年 1000年 1340年 1440年
イベリア半島:
 [400→360→700→900 →700]
フランス:
 [500→300→600→1900→1200]
イタリア:
 [400→240→500→930 →750]
イギリス:
 [30 →80 →170→500 →300]
ドイツ+スカンジナビア:
 [350→210→400→1160→750]
合計:
 [1680→1190→2370→5390→3700]
 D.ヨーロッパの人口が中世に増加した(とりわけ盛期において)のは「乳幼児死亡率の低下,餓死する人間の減少,出産可能人口の増加」によって、単純に「生まれた人間の数>死んだ人間の数」となったことによる


(2)疫病・病気

 A.中世ヨーロッパでの、2度にわたる人口激減期(542~750頃,1348~1440頃)の原因はペストであった。この病は「何人をも容赦せず、一目でそれとわかり、元気だった人が死ぬまでにほんの数時間しかかからない程突然襲いかかった」
 B.ペストほどセンセーショナルではないが、度々ずっと多くの人命を奪った病は数多い:「コレラ,ジフテリア,発疹チフス,インフルエンザ,百日咳,レプラ,マラリア,麻疹,おたふく風邪,天然痘,赤痢,狂犬病,結核,チフス,破傷風など」
 C.中世の人々は(古代の医師たちの著述などのおかげで)様々な病気をかなり正確に知っていて、感染から身を守るための適切な予防策を講じていた(例:病気の疑いのある者〔とりわけ他国者・新参者〕はしばらく隔離された)。人々は病人をしばらくor生涯隔離することで、健常者を守るすべを発達させたものの、殆どの病に対して無力であった
〈例1〉結核:
 “白い大ペスト”と呼ばれ、15~35歳の人間の生命を奪った。女性も多く罹っており、テューリンゲン方伯夫人エリーザベトの死因(24歳で死去)もこのようだ
〈例2〉マラリア:
 中世ヨーロッパは一時的に温暖な気候に恵まれていたので、アルプス以北の地でもマラリアの病原体を運ぶ蚊は、沼地・じめじめした谷間で繁殖できた
 マラリアの特徴は「患者はすぐには死なないものの、ひどく体力を消耗する」ことにある。これによって、患者は健常者ならば何ということもない病気を併発して死にいたる。神聖ローマ帝国の3皇帝(オットー2世・オットー3世・ハインリヒ7世)はマラリアで死亡したようだ
 D.レプラ患者は「生涯、居住区外の収容所で暮らさねばならない」「ガラガラを身につけるor特別な衣服をまとい、健常者が遠くから見て気付くようにしなければならない」とされた。彼らが生計を立てられるように、収容所は交差点or三叉路に設けられた(今日でも“善人通り”という名称がのこる)
 ☆収容所のそばを通りかかった者は「不幸な者に施しを与え、その報いとして自分がこの病に見舞われないよう神に願った」のだった。他方で、健康であるにもかかわらず(病院に入るようにお金を払い)「自ら進んで収容所に入り、レプラ患者と共に暮らす」者もいた

【伝染の問題】
 E.感染の危険性は、人間が固まって暮らせば暮らすほど高くなる。それゆえペストの犠牲者は「森の隠者<修道士や修道女」「田舎の村<都市」であった。人口激減(14世紀)の一因は、当時すでに多くの人間が都市に集中していたことによる可能性がある
 F.都市の死亡者数はかなり高く、地方からの絶え間ない人口流入によって規模を維持していた(~19世紀)。不衛生な環境(例:トイレが泉の隣にある)が細菌をあっという間に伝染させた
 ⇒効果的な防衛策として「墓地を集落から遠ざける=市壁の外に出す」ような措置が、中世ではすでにあちらこちらで実行された。これは「ペスト犠牲者の合葬墓でひどい目にあった」経験が生かされたのかも知れない
 G.ヨーロッパには有史以来、アジア・アフリカから持ち込まれま病気と繰り返し接触していたので、数々の病原体に対して比較的免疫を持っていた(中南米のインディオとの違い!)


(3)栄養不良と飢餓

 A.慢性的な栄養不良状態にあった者(時には人口の大部分であった)は、規則的に健康な食事が取れる者より“小児病”or結核で死ぬ確率が高かった。しかし金持ちは逆に、ともすれば子供に食事を与えすぎていた。「脂肪・肉・ワインの取りすぎ」は成人の寿命を縮めた
 ★ビタミン不足・偏った食習慣によって、人口増加はブレーキを掛けられていた(病気と同じ位の意味があった)

【自然要因】
 B.飢餓の要因は「農作物の収穫率の悪さ,長い冬,夜の寒気,洪水,高潮,夏期の小雨or多雨,ネズミ・イナゴ・甲虫による農作物被害」など様々である。おまけに満足する出来であっても「a.川が普段より長く凍れば水車を回せない」「b.小麦粉を貯蔵できる期間は限られる」「c.農作業に必要な家畜が流行り病で倒れると被害は甚大」といった要因もある
 ☆上記の要因の1つでもあれば、地域的な飢餓が起こり得た。さらに、広域にわたる気候の変動が相まって、幾つかの災害が同時にやってくることもあった
 C.気温が低下すると、人間と自然のバランス(危うく保たれていた)を脅かした。年間平均気温か1℃でも下がると、イングランドでは「作物の成長期間は2~3週間短くなる」→「果物の多くは熟さない」ことを覚悟しなければならなくなる
[西暦1000年頃]
 気候が温暖となり、ヨーロッパ北部でのワイン収穫のみならず、農作物一般に好影響が出た
[14世紀初期]
 凶作・厳冬・夏期の多雨・洪水などを嘆く記録が数多く残っている

【備蓄の問題】
 D.まあまあの収穫があった年でも、保管しておける分は残らなかった。「a.農民は余剰があれば売って、借金の返済・税金支払いに充てなくてはならない」「b.倉庫を建てて有能な管理人をおく余裕があるのは、修道院・都市・貴族くらいしかいない」のだった
 E.b.は国内での収穫見込みについて、より詳しい情報を得ていることが多かった。特に都市は、割安な時期に備蓄をしておくことに関心を持っていた。収穫が悪くて物価が上昇した時には、保管していた穀物を困窮者に程よい値で売り出した

【追い込まれた人々】
 F.飢饉が頻繁すると(元から社会の流動性が高まっているところへ)人々をさらに移動させた。貧しい者も貧しくなってしまった者も「無事だ」という場所へ、噂を頼りに歩いていった。そうした場所には何百人も集まってきた
〈例〉十字軍(1095年,1145~47年)の前に飢餓が発生したのは偶然ではない。裕福なフルダ修道院が腹をすかせた暴徒たちに略奪された(1145年)
 G.凶作が続いた人々には「a.翌年の種蒔きのために取っておくべき分を食べる」「b.木の皮・草・動物の死肉を食べる」「c.死者の肉を食べる」かという、厳しい選択に迫られた。a.は(上手く行けば)破滅を1年先延ばしできた。b.は重い疾病が予想された。c.について、史料には繰り返し「人喰い」が登場する…


(4)戦争

 A.戦争での野蛮さは、キリスト教徒も異教徒も変わりは無かった。確かに「民間人は寛大な扱いを受けた」「特に剣を持って戦えない(or戦うことが許されない)人々は手厚く保護された」(←『神の平和』運動)。しかし一旦包囲されれば、聖職者・修道士・女性・ユダヤ人も飢えと渇きに苦しんだ
 B.古代末から中世初頭にかけての民族大移動期には、ゲルマン人・スラヴ人はほとんど(or全く)抵抗に遭わなかったので、敵対した民族を復讐のために虐殺することもなかった。しかしモンゴル人がハンガリーに侵入した(1241年)時には、人口が半分になってしまったようだ
 ⇒戦死しなかった者は処刑or捕虜にされ、逃げた者も飢えた(そして凍死した)
 C.戦争・私闘によって引き起こされる二次的損害は、しばしば直接的損害を大きく上回った。それらの影響は数年に及んだ(栄養状態が悪化し、粗末な家に住まわざるをえなくなった人間は、より容易く伝染病の犠牲となったから)
〈二次的損害の例〉
 傭兵による家畜の没収,ならず者の群れによる治安の悪化,農民が森・都市へ逃げ込み畑は耕されることなく放置される,収穫物を根絶やしにする,果樹を倒す,ブドウ畑を荒らす,水車小屋を破壊する
 ★ただし荒くれ兵士たちの破壊行為を過大評価してはいけない。年代記作家は戦争・私闘の影響を誇張したがった(←虫の好かない貴族たちにペンで仕返しした)


(5)平均寿命

 A.時代・場所・社会階層などによる平均寿命の違いは小さかった。「500年~1500年の平均寿命は、人口変動と同じ動きで延び縮みした」のである
〈例〉ハンガリーでは「33歳→26歳」(10世紀初頭→12世紀初頭)へと低下した。イングランドでは「35歳→27歳」(13世紀半ば→14世紀前半)へと低下した

【子供】
 B.乳幼児死亡率は極めて高かった(近世も同じ)。「最初の1週間・生後1年間・離乳期が危険」であり、少数しか生き残れなかった。病気だけでなく事故による死亡も繰り返し伝えられる
〈様々な要因〉
 不適当な栄養摂取,衣服,すきま風が吹き煙が立ち込める部屋,湿ったベッド用品,働きすぎの母親たち(親が目配りをする余裕にかけているので、さほど年の離れていない兄・姉がお守りをしなければならない!)

【大人】
 C.近代とは違い「女性が男性よりも早死にした」。母屋・家畜小屋・庭園・畑での重労働で疲れ切っており、数多くの病に冒される危険は、男性と変わりがなかった。その上結婚年齢が低く、ほとんど子供と言っていい時期に妊娠・出産を経験することもあった(当然、分娩・産褥の不衛生さによって多くの女性が命を落とした)
 D.女性は危険な年代(15~40歳辺り)を生き延びれば、男性同様に「あと15~20年は生きることができた」。しかし、総じて年老いた女は年老いた男より少なかった。いずれにしても、老人が少ないので3世代家族はほとんど無い
 E.男性の平均寿命は女性よりも高かったものの、男性優位社会ではその地位ゆえの代償を支払わねばならなかった
〈典型例としての支配者〉
 王たちは「私闘・決闘,雨風に曝された絶え間ない移動」によって、若くして死んでいった。子供のうちに王位を継承しなければならなかった者も多く、後見人が補佐したとはいえ、彼らには健やかに成長する時間など無かった
 F.王朝は後継ぎのいない王の死で途絶える(オットー3世)のは当然だが、新興の一族構成員が後を継いでも「その人物が子供を持たずに死んでしまえば、王朝として成立すらしない」のだった(ハインリヒ2世)。帝国などの支配体制の継続・維持には「権力下にある司教区・修道院」の重要性はとてつもなく大きかった。逆に、王朝にきちんとした世継ぎが準備されていれば、とてつもなく幸運であった
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[37]


(11)社会的な排斥について

 A.排斥された職業活動の大部分は「タブーに触れる(or時にははっきりと犯している)」のだったが、ある個人の生き方・物質的な地位が周縁人化を決定づけた(上記の売春婦の地位の差はまさにそう)
 B.『高利貸し』は道徳的に非難されたものの「担保を取って金を貸す者(※=質屋)」は周縁人とは見なされなかった。しかも教会法理論が「煉獄での贖罪理論」を発展させたので、高利貸しにも救いを願わせる方向へと巧みに動機付けた。かくして彼らの地位は安定した
 C.周縁人化のプロセスは「社会的な絆の欠如」or「絆からの離脱」により生じた。共同社会の日常生活に参加しない人々は「非社会的人間=軽蔑され危険視されるべき人間」と見なされた

【特徴的な例:羊飼い】
 D.この仕事は「通常の季節労働,農業の一部,中世では礼賛されていた」にもかかわらず、人々の態度は反感的で疑い深かった。この不信感は、山へ移動する羊飼い(長い間人気の無い場所へ羊を連れて行き、人の住む地域から遠く離れて孤独な生活をする)に対しては強烈であった
 ☆当時の人々にとってみれば「移動生活(→放浪)と孤独」は、周縁で暮らす人々の決定的条件であった
 E.上記の不信に加えて、羊飼いが家畜を屠殺する役割を果たし(=血・生肉に触れる)、時には死体にも関わった(民間医術の長い伝統を受け継いでいたから)ので、彼らに対する人々の恐怖を生じさせた
 F.その上、彼らがただ家畜と一緒に暮らしていたので、様々な異常性交(獣姦,同性愛)が疑われ非難の対象になった。この仕事には「精神的に遅れた人々が雇われた」こともあり、羊飼いに対する軽蔑は決定的となる
 ★ゲルマン諸国では彼らへの蔑視はきわめて長い間続いたが、ヨーロッパの他の国々ではそれほどひどくはなかった

【レプラ患者の場合】
 G.社会的な非難はたいていの場合「身体」「肉」の概念に触れる仕事に関連していた。中世の人々の「身体障害者・病人に対する嫌悪,そのような人々の周縁化」も同じ観念から来ていた。中世の共同体意識には「身体障害者・病人への慈善義務」と「恐怖,嫌悪感,軽蔑」が並存していた
 H.教会や公的機関は、レプラ患者を社会から隔離するためにできる限りのことをした。この疾患にかかったと思われた者は「a.準・葬儀的な宗教儀式を受けなければならない」「b.それに伴い民事上の死(追放刑)に等しい措置が講じられ、人里離れたハンセン病院へ送られた」のだった
 I.一方で中世の人々の想像において「c.人間の罪深い魂を蝕む壊疽が肉体に移ったのがレプラであり、したがってレプラ患者は永遠の魂の救いを祈願することができる」と観念されていた。そして、患者が社会との交流を禁じられたのは身体の壊疽のためであるが「d.代わりに社会からは援助を惜しまなかった」→「e.レプラ患者のための共同募金はかなりの金額となり、おかげでハンセン病院は贅沢に経営されている場合もあった」
 J.しかし社会との交流禁止はきわめて厳しかった。「f.レプラ患者には健康な人間のために作られた物に触れる権利は無い」「g.遠くからでも居場所が分かるよう、鳴り物を鳴らさなければならない」「h.レプラ患者の子供までも特別区域で暮らし“不名誉”or“不純”と見なされる仕事にしかつけなかった」
 K.社会のレプラ患者に対する態度には、一種の憎悪に恐怖が混じっていた。彼らは「i.性的放蕩者として非難された,健康な人々の社会を害するために陰謀を企てたと非難された」し、さらに「j.人々はレプラ患者を隔離しなければならない、と信じていた」→彼らを“追放された人”と呼ぶこともあった

【患者に対する態度を決めたもの】
 L.このように、レプラは特別に恐れられた疾患ではあった。しかしそれだけを理由に「一方では同情,他方では社会から追放したいという願望」という、相反する感情が引き起こされたのではない!
 M.この2つの感情は、いずれか一方が優勢だったと考えるべきである。それは患者の社会的・物質的な条件によっても左右されていたた
[金持ち]
 発病しても家族と一緒に暮らせたし、必要な看護も受けられた。レプラ患者になっても隔離されないことがあった
[劣悪な社会環境の人々]
 自分の腕だけで生計を立てている人々だと、病気になれば周縁人となるしか一般に道はなかった。彼らは他人の慈悲にすがるべく「物乞いをする,施しを受ける,施療院へ身を寄せる」のだった

【慈善】
 N.慈善に関してキリスト教の教義では「a.身体障害者・病人に対して施しを求める権利を認めた」。さらに中世を通じて、神学者はその権利を「b.社会的身分が原因で、生計を立てるための肉体労働が認められない落伍者(※身分の高い落伍者)」に対しても認めた
 O.b.は援助を受けても「社会的対面は少しも傷つけられなかった」「慈善のおかげで、懇願につきものである屈辱感を味わうことがなかった」ので、品格を損なわなかった。しかし庶民階級の出の物乞いだと、援助を受けるためには「自らの身体障害・虚弱・困窮を白日の下にさらけ出さなければならなかった」


(12)物乞い

 A.周縁人に至る2つの要因=「生活共同体から離れた孤独な生活(強制or自ら選んで)」「世間から非難された職業」が、中世社会には存在した。しかし物乞いはこの基準とは異なり「中世のキリスト教徒が慈悲深さを示す対象として」社会にとって有用な存在であった(=互いに共存すべきものである)。物乞いたちは社会から逃避することなく、共存の基準を守った
 B.もちろん物乞いと貧困は、人々の「無為徒食への反感」‐「献身的な美徳の礼賛」という2つの反する感情の間で揺れ動いた。それでも一般的に中世社会は、物乞いの存在を容認していた(社会構造における特定の機能を持っている、ということ)
 C.しかし中世後期において経済危機が頻繁・深刻化し、幅広い階層で一時的or決定的な貧困化が生じ(時には貧窮者の数が増加して労働市場の均衡が完全に崩れるほどであった)、社会の態度は徐々に(やがて決定的に)変化した
 D.これと連動して、慈善に関するキリスト教の教義も「貧しい者に対してあまりにも厳しく,物乞いに対してますます抑圧的に」変わっていく。社会政策は貧しい者の社会的排除へと向かっていったが、教義の変化はイデオロギー上の支持を与えた
 E.物乞いの活動は、本人の道徳的な低下を伴うことが多かった
〈例〉悲惨と弱さを必要以上に示して慈悲の心を煽った。時には身体障害・疾患の擬態も躊躇わなかった。このように振る舞いの事例は、中世初期のアラビア文学から中世後期の語り物(ユスタシャ・デシャンのバラード)にまで幅広く見られる
 F.物乞いのごく一部には、本当に安定した生活を送った者すらいた。また絶えず移動することによって、もっと稼ごうとする者もいた。彼らの流浪生活には物乞いだけでなく「偶然の仕事,盗み」などの活動も含まれた
 ★転々と職を変えるのは、中世において周縁化していく人々の兆候であった


(13)中世社会と周縁の人々

【異教徒】
 A.中世社会において「よそ者」「人々とは異なった存在」と見なされるには、キリスト教の正統教義を否定するだけで充分だった。そしてキリスト教徒の共同体は「異端者,異教徒,不信心者」を社会の構造から排除した
 B.ユダヤ人についての共通の否定的見解は「キリスト教徒を殲滅しようとしている,流行病を伝染させようとする,高利貸しを平然と行っている」というものだった。彼らは教徒共同体の絆・文化の外側に留まっていたから、危険な存在と見なされたのだ。おまけに彼ら自身が固有の相違を意識しており、それはあらゆる周縁的人々の中でもずっと強烈な意識であった

【個人と集団】
 C.周縁的人々の中には、社会的に排除された者たちと並んで、自ら進んで周縁人になることもあった。それは「現行の社会組織を拒否する」or「孤独となり霊的な完成を追求する」結果としてである(この2つの動機は重なっているケースも多い)
 D.周縁人化のプロセスにおいて、周縁的立場に立つ人が「自分の特殊さを理解している,社会との違いを感じている」一方で、社会には共存の基準と秩序があり「ここから逸脱しようとする人々は全て非難された」。つまり中世社会では、個人の態度と集団の態度の衝突が起こっていた

【しるし】
 E.中世社会における個人の条件・ポジション(=身分)は、外見的な特徴で示されていた。「a.少数民族固有の明らかな自然的特徴として『皮膚の色・言語』がある」「b.物乞いをを表すことが多かった特徴として『外見的な身体障害・疾患』がある」「c.『職業』も身分のしるしである」「d.『切られた耳,盗人の烙印』は犯罪履歴を象徴するものである」
 F.そして「e.『衣服,身に着ける物』は社会のどの範疇に属しているかを示す主要なしるしであった」。これはしるしを着けた者の相手側にとってみれば、自身を客観視するために強制し、抑圧・排除の手段として烙印代わりとなったのだった
〈例1〉『裸に近い身にまとったボロ着』は物乞いを表した(通行人の同情を引くためのテクニックである)
〈例2〉ユダヤ人も『とんがり帽』(ゲルマン諸国において)など特徴的な衣服で簡単に見分けられたが、第4ラテラノ公会議(1215年)で『記章をつけること』が義務付けられ、中傷としての性質を帯びた
〈例3〉売春婦に対しては多くの国で『記章をつけること』『厳しい服装規制』が課せられた
〈例4〉異端者は悔悛のしるしとして『服の前後に十字架の印を付けさせられた』。ある罰則では『彼らにとんがり帽を被らせ、Hの文字をつけて公衆の面前に晒した』

【抑圧の意味】
 G.中世社会は周縁の人々に対して「不名誉という事実」を思い知らせるために、様々な手段で彼らを侮辱した(とりわけユダヤ人に対して)。それは「一方の者を辱める」ことで「他の者の威厳を明らかにする」意味があった。そこにこそ周縁の人々の「中世社会における役割」があったと言える
〈例1〉ペリグーでは四旬節直前のカーニバル祭において『ならず者競争会』があった(1273年)。これは周縁の人々を特に侮辱する行事であった
〈例2〉イタリアではこの競争に「売春婦,ならず者,詐欺師」が加えられて流行し、各都市の対抗を助長した(16世紀)。イタリアの『競争(馬乗り競争・ラバの背競争)』には、下層民の男女や放浪者までもが集められた

【周縁人の中での違い】
 H.周縁世界を構成した全ての住民の中において、時にはきわめて大きい違いがあった(=社会からの排除・隔離には段階が存在した)。社会から落伍したとしても、騎士と農民とでは結果が異なっていた
 I.当然ながら、周縁の人々全てが社会から完全に排除されたのではない(レプラ患者のような厳密な措置はかなり稀である)。そうした中で周縁の人々全てに共通する要素とは「社会に認められたのとは異なる生き方をし、社会の基準に従わない」「社会は彼らを拒否し、時には憎悪に変わった」という点である
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[36]


(8)不名誉の問題

 A.裁判記録では、犯罪者は「a.汚辱と不名誉にまみれた」人間と記されることが多いが、そうした見解は「彼らの生き方に関する容疑・評判から生じる」→「やがて裁判を通じて『証拠物件』として扱われる」。これによって「b.被告の犯罪が常習的であり、社会における共存の原則に違反している」と決めつけられた
 B.中世においては不名誉の概念はきわめて広義であり、そこには「c.法的においても社会の集団意識においても、不法・不正・破廉恥と見なされる多くの職業」が含まれる。そして「d.そのような稼業を営む者は、子孫に至るまで名誉が剥奪された」のだった
 ★「不名誉」は、カースト制社会における集団を排斥するメカニズム(例:日本の差別待遇民)によく似ている

【その価値判断】
 C.中世では「祈る人・戦う人・耕す人」という仕事分担に基づく社会秩序を礼賛する(職業に対する)価値判断が、はっきりと表に出ている。しかしそれ以外にも「特定の職業を言葉によって非難する」ことからも、人々の価値判断が明らかとなる
〈例〉初期の教父であるテルトゥリアヌスは「宗教画を制作する芸術家・占星術師・教育家・商人らの仕事」を、道徳的に疑わしい・容認できないものと見なした。彼によれば「商人は贅沢趣味を広めるし、そうした贅沢品を製造する職人の仕事も不正である」という
 D.非難される・軽蔑される・恥ずべきとされる職業のリストは、中世を通じて変化する。まずは教会サイドからの判断について:
1.「早い時代からまず第一に『高利貸し,売春,見せ物稼業』を糾弾する傾向が次第に強くなっていく」
2.「教会法における“不名誉な仕事,卑しい奉仕”リストに載った仕事は、聖職者身分とその特権に相応しくないとされた」
3.「ただし教会法上での2.の数は徐々に減り、やがては教会法ではなく、教区会議で定められるようになっていく」
4.「教区会議で非難された職業の筆頭は(相変わらず)『大道芸人,曲芸師,売春婦,売春斡旋,高利貸し』であり、さらには『血・動物の肉・死体を扱う仕事全て』にまで及んだ」
 E.教区会議だけでなく、慣習法の規定においても『宿屋,“魔術師・魔法使い”,都市清掃人(特に便所掃除夫)』が不名誉とされた。また、全く普通の仕事であっても『“汚い”と見なされた職』の者は、聖職の道を志願できなかったし、都市の公職に就くことも認められなかった(そのような規定は多くの都市に見られる)
 F.ドイツの同職組合では“不名誉な職業”の概念が特に重要となる。それはリストがきわめて長いというだけでなく「ある組合に加入したい者は、親の“名誉ある”過去を証明しなければならない」という規定に見られる。そして『私生児,農奴の子息,“不名誉な仕事”についている者の子息』が組合から排除された
 ★不名誉な仕事リスト(一部):
『死刑執行人,病死した家畜の解体者,都市の警備人,清掃人,墓堀人,肉屋(or屠殺人),公衆浴場の下男,ひげ剃り人,売春婦,売春斡旋人,遍歴の楽士,綱渡り,道化役者,織物工,皮なめし工,羊飼い,…』

【価値判断から現実への作用】
 G.中世の人々の意識は、必ずしも「不名誉な仕事に就いている者を社会の周辺へ追放する」というのではない。こうした基準(教会法・都市法・職人の慣習的規則)と社会の現実には、ある程度のズレがある。非難された職業のうちあるものはやがて是認され、完全に名誉ある職業となる
 H.しかしこのような基準は常に社会での生活に影響を与えていた。その中でも教会法は「中世社会における行動・思考規範を定めたのが教会であった」から、果たした役割は特別であった
 I.中世における“不名誉な仕事”の規定はローマ法にまで遡る。ローマ法の規定は“不法”の問題については、何世紀にも渡って形成された伝統的態度=「“純粋”or“不潔”の基準によって各種の仕事を評価する」にしたがっていた。その基準によって“不潔”な仕事に就いている人々が、しばしば周縁人化された(例:見せ物・娯楽に関する職)


(9)娯楽の仕事

 A.見せ物・娯楽を職とすることは、裁判においては常に「容疑者に対する不利な証拠」として提出された。ゲルマン人の慣習法でも同じく『遍歴の楽人,競技に雇われる者』は“身分が正当でない者”として、私生児と同等に扱われた
 B.そうした人々は常に、神学者の文書では「悪の権化,悪魔の仲間」と指摘されたし、もちろん公会議・教区会議でも敵意を示されてきた。法・神学文献では『曲芸師,大道芸人,旅役者』と形容されて非難され、住民の中でも最下等の部類に置かれた(『物乞い,浮浪者,身体障害者』と同じ扱い)
 C.ところが時代が下るとそうした攻撃は幾らか和らぐ(13世紀~)が、非難されたことには変わりがない。近代になっても古い伝統の名残は(※ヨーロッパにおいても)存続している
〈例〉『曲芸稼業』は昔ほどは厳しく非難されない)。トマス・アクィナスによると『楽器の演奏者,大道芸人,語り手,喜劇役者』は劫罰を受けねばならないが『(聖者の生涯・君主の武勲を伴奏付きで語る)旅芸人』は魂を救われるチャンスがある、という
 D.中世の大道芸人・曲芸師の全てが周縁人であったのではなく、それは彼らの生き方次第だった。ある者はそのような生き方を好んで選んだが、大部分の者は安定した生活に憧れた。それでも『縁日芸人』の身分は依然として浮浪者に近く、彼らの仕事は裁判記録において「浮浪者に特徴的な活動」と同じ扱いであった
〈例〉大道芸人の組合が結成され、彼らは地域の結婚式・祭りに規則正しく出演した。ある大道芸人は貴族に抱えられ、城に定住した
 E.結局のところ教会は、自分たちの排除権の及ばない文化領域の職業に関しては、古代からの道徳的不信感を正当化しようとしただけ、と言える。こうして、社会の仕事分担に加わらない部類の住民に対して「住所不定」→「非社会的な生き方だ」と主張した


(10)売春婦

 A.この職業も中世の道徳家たちの攻撃対象とされたのだが、中世を通じて、排斥は徐々に緩和されていった。確かに売春行為に伴う汚辱は消えなかったものの、売春婦は都市生活の構造に(部分的に)組み込まれ、同化していたためである
 B.中世では売春は都市には限定されていない。農村社会でも、売春婦は「a.人の集まる場所・時間(定期市,祭り,居酒屋)に出入りした」「b.村から村へと渡り歩いた」「c.移動に際しては刈り入れ人夫・日雇い労働者・商人らを連れて行った」
 C.しかし彼女たちが最も安定した生活を送れるのは都市であった。商品経済が発展していたので、ある意味では「金で身を売る」のとは相性が良かった。都市当局も売春宿を認可した:「d.時には当局が公娼施設を作って個人に賃貸した」「e.公衆浴場も娼家になった」「f.都市によっては売春街も存在した」
 D.売春婦の社会的な地位は、彼女たちの生活スタイルによって決まった。最高の地位を得たヴェネツィア・フィレンツェでは「g.堂々と暮らして有名となり、存在や人柄は場合によっては美術の発展を画した」のだった
 E.しかしその地位は、都市の売春宿の娼婦(生活は比較的安定していた)や、売春婦の多数を占める街娼=「h.女工・庶民女性で、普段の仕事の他に売春をする」「i.しかし売春斡旋人や仲介女(下記参照)の食い物にされていた」には望めないものであった
 F.売春婦は安定した生活を送ったものの、彼女たちは所帯を持てなかったことから、社会の埒外に取り残された。彼女たち“罪深い女たち”を描いた中世の物語では、奇蹟の助けにより悔悛した女たちは魂を救われるものの、そこには「死んで魂が天国へ運ばれる」「罪を償うために修道院に閉じこもる」の2つの結末しかない(当時はどちらもハッピーエンドと見なされた)

【売春婦の周囲にて】
 G.フランスのある物語(12世紀):
1.「リシューという女が所帯らしいものを持とうとして、子供を産んだ。ただしそれは将来役立つと思ったからに過ぎない」
2.「その子が生まれた後、彼女は必要な全ての儀式(例:出産感謝式,教会への奉納)を尊重しようと努力した」
3.「その子は洗礼を受け、その際には代父・代母も頼まれて列席した。洗礼の儀式に招待された人の中には売春婦や売春斡旋人もいた。それからリシューはその子の父親を、一番信じうる出席者の中から選んだ」
4.「彼女はその子が大きくなると、売春斡旋業へと送り込んだ。さらにできる限りの援助も行い、忠告も与えた」
5.「その子のことを彼女は相棒と見なしたので、そのように扱った。またその子が自分よりもずる賢くなろうとしたら、よそ者のように扱った」
 H.売春界では多くの男女が結びついたものの、売春婦と売春斡旋人との“結婚(誓約で固めること)”は、一般に夫婦と呼ばれるものとは全く似ていなかった(むしろほとんど「職業上の契約」であった)
 I.逆に、所帯持ちの売春婦は本当の専門ではなく、零落して売春に身を落とし(臨時であれ常時であれ)家族の生活の面倒を見ていた
 J.上記E.の『仲介女』の身分は、浮浪者・犯罪者とほぼ同じであった。それが互いを引きつけ合い(生き方も似ているし、運命も同じ)仲間になった
 K.当局から「売春婦とその斡旋人の業界を取り締まる」ように命じられた監督者は“売春婦の王者”“放蕩者の王者”と呼ばれて軽蔑されたが、役人という身分によって保護された。同じく『娼家の監督者』は不名誉な職であり『都市警備人,清掃人,死刑執行人』の中から選ばれ、彼らは教会・世俗の裁判官から容認された
 L.こうした公認措置の代わりに、それ以外の非公認の売春については、世論や当局から憎まれた。『仲介女』とポン引き(これらの者は違法行為もしていたから、法廷に引き出されることが多かった)は非社会的人間の典型と見なされた
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[35]


(5)周縁の人々を映す史料

 A.周縁の人々は「契約に署名しない,財産も相続しない,その行動は歴史上の大事件に名を残さない」から、年代記をはじめ史料にほとんど足跡を残していない。さらに、古文書から得られる情報には「その時代の精神性」が表されており、周縁の人々のシルエットそのものは浮かんでこない
 B.彼らがどんな人間だったかを追うには、裁判記録に“投影”されるイメージで満足するしかない。ところが裁判記録上のイメージとは、組織された社会の側の正義から作られているので「周縁の人々に対する不安・憎悪」に満ちている。おまけに裁判記録は中世初期の何世紀にも渡って欠乏している
 C.これを埋め合わせるのに、慣習法の解釈を用いなければならない(=強制的な禁止令と、それを適用した中世の社会のやり方について)。周縁人化は、個人が地域社会から追放されて生じるが、それは慣習法に基づいて「不名誉の烙印を押す(この手段はかなり稀)」or「村・都市から追放する」ので、刑罰による裁判記録には残らなかった
 D.後年になって「記録を取る慣行が普及し、慣習法が裁判手続きに置き換えられていった」ものの、様々な紛争は法律外で処理されることが多かった。しかし裁判記録が司法において重要な位置を占め、普及するようになる(12世紀~)。こうなって初めて「中世社会での犯罪の通念,周縁人と見なせる人々の様子」を推測できるようになる


(6)犯罪者についての情報から

【一般的だった暴力行為】
 A.現代において参照できる裁判記録の大半は、争い・乱闘・喧嘩に関するものである。暴力はこの時代の特色であり、日常茶飯事だった(特に都市部)。都市住民の日常生活は絶えず乱闘・暴力沙汰で乱されていたが、これらはたいてい「社会的エリート層の若者たち」によって引き起こされ「それが彼らの生き様になっていた」と思われる
〈例〉アントウェルペン(14世紀)では、暴力行為に対する処罰の件数は、盗みに対する判決の数の3倍。ブレシア(15世紀)では判決の50%が傷害・侮辱関係で、盗みは僅かに7%
 B.ただてさえ裁判記録による情報は一般には少ないのに、農村社会での犯罪となるとますます乏しくなる。しかしパターンとしては都市での犯罪とはあまり差がなく、たいていは「共同体内部での紛争,局部的・偶発的な襲撃事件,普段は安定している生活態度の一時的な錯乱」である。盗みの件数はインフレ期と一致している
〈例〉イングランドでは飢饉(1315~17年)時には、それ以前と比べて盗みが3倍に増えている

【犯罪と周縁人】
 C.しかし犯罪は庶民階級の特徴的現象とは言い切れない。むしろ受刑者の中には聖職者・貴族も多く、貴族は特に犯罪行為へ走りやすかった
〈例〉イングランドの裁判記録(13世紀末)では「貴族階級の総数」に対する比率で、貴族の名前があまりにも多いという
 D.中世社会では、周縁人と犯罪行為が自動的に結びつくのではない。犯罪行為が「階級の落伍,反社会化」を引き起こす場合にのみ、個人・家族・集団の周縁人化を招いた
 E.ダントンで起こった流血事件(1272年4月28日)の場合:
1.「2人の男と2人の女がこの地にやって来て、まず毛皮を売ろうとして失敗し、次に泊まる場所を求めたが断られた」
2.「やがて2人の男同士の間で口論が始まり、それが乱闘に発展して1人が刃物で刺され、瀕死の重傷を受けた」
3.「そこで女の1人が教会堂へ駆け込み、そこに落ち着き、そして検死官に今までの盗みを白状した。というのも、仲間全てが盗人だったからである」
4.「刺した男は絞首刑の判決を受けた。その理由は“彼が浮浪者である”こと」
[これはベッドフォードシャーの記録簿に残された事件だった]
 F.この4人とも明らかにイングランドの各地方出身の放浪者で「絶えず移動していた,盗み・物乞いをした,時には猟をした,時には日雇い仕事にありついた」以外には分からない
 G.彼らがグループを作ったのも恐らく偶然の接触がきっかけだったと思われる(例:道中での出会い,宿での会食,犯罪の共謀)。しかし一般に浮浪者は孤独な生き方を好み、もしパートナーがいるとしてもそれは配偶者だった。4人組の中にも夫婦がいる
 H.判決文では、被告の特徴として「いかなる村落にも所属しない男」としている。彼は社会的な絆の外で生きており、それが死刑を正当化するための被告に不利な証拠とされた
 I.トスカーナ地方の記録簿(1375年)には、サンドロ・ディ・ヴェンニ(またの名をペスチオーネ)という、フィレンツェの農村部(コンタード)出身の男がいる:
1.「彼は10件ほどの告訴を受けており、たいていは盗み(特に衣類・財布)であったが、詐欺も多い(行商人or物乞いの姿をして)」
2.「当然、絶えず移動して“稼ぎ場”を変えるのだが、彼はかなり狭い範囲に限っていた(常にトスカーナ地方を離れることはなく、規則的にフィレンツェorピサに戻ってきて獲物を売り、冬を過ごした)」
 J.裁判記録には、容疑者の逮捕の原因となった犯罪行為しか記録されないので、容疑者の経歴について正しいイメージを与えてくれない。ところが例外として「a.保護を要求した犯罪者が裁判官に供述する」「b.指定された港から出航してイングランド王国を去る」「c.指定された港へ行く際には十字架を両手で抱え、定められた道順から離れてはならない」という条件で、法廷での裁判を免除される措置があった
 ⇒ベッドフォードシャーの女浮浪者は、検死官に過去の犯罪を語る決心をしてこの措置に頼った
 K.また、フランスには「赦免状」という仕組みがある。これは「d.恩赦を受けた人物の犯罪と、過去に犯した全ての罪状が書面に記載されている」「e.もし罪状リストに欠落しているものが見つかれば、赦免状は無効になった」「f.この仕組みにより、犯罪者を包み隠さず罪状を白状させる気にする」というもの
 ☆ただしこれらの史料とて、複雑な経歴の詳細(例:生地,社会的素性,親・本人の職業,滞在地の移動)は伝えてくれない
 ★これらの史料によれば、犯罪者の中には犯罪界出身の「専門的」犯罪者もいて、彼らはひとたび成人すると放浪生活の道へと入る(これについては下記参照)

【周縁人への道】
 L.しかしたいてい「被疑者の周縁性は一時的・偶然的」であり、正常な生活との境界線ギリギリの所に留まっている。裁判記録に最も多く見られるのは普通の個人であり、その生活も様々な絆(職業・家族・近隣関係)に根差している。ところがそういった人物が、徐々にor突然にその絆を断ち切るのである
 M.パリ(1416年)において、カルメル会修道士であったが脱落した聖職者が、殺人・盗みにより告発され裁かれた:
1.「彼は私生児であり、若い頃から賭博にふけり、その後に修道服を捨てて軍隊に入った」
2.「加えて彼は、大貴族の奥方の宮廷で召使いとして働き、また逮捕されるまではパリの中央市場で“笑劇公演”に出演していた」
3.「彼の人生には紛争が多く、逸脱と安定の間を行き来していた。聖職者→兵隊→放浪者→喜劇役者という経歴の間に、盗人になる時もあった(例:この裁判以前にも4度投獄されている)」
4.「それでもこの男には、長い期間に渡って規律ある生活をし・働き・主人に仕えた、という前歴があったようだ」
5.「彼が法に触れることをしたのは偶然のようであり、それが彼の生き方を決定づけたという根拠にはならない。ただ社会の側から『彼が放浪者で周縁人だ』と見なされた、という事実しか分からない」

【職業との関係】
 N.彼の罪状からは、周縁人としてのイメージというよりもむしろ「職業不定,従事した仕事が社会的に認められるか否かギリギリの線にある」という点が重視される
〈例〉あるパリの吟遊詩人は、パリで生計を立てるにはあまりにも老齢になったので、ノルマンディー地方へ行く決心をした。そこで彼はちょっとした盗みを働いた(家に忍び込んで錫の皿を盗んだ)のだが、それによって絞首刑にされた(1392年)
 ⇒彼が周縁人に転落したのは老齢のためであるが、それ以前の生活が(社会的な素性もあり)既に周縁人となる運命にあった。というのも、若い時にも幾度か盗みをしていたから
 O.都市における被告人の大半は「同職組合の厳しい掟にしたがうべき職業」の外で、様々な仕事に雇われていた労働者の間から出ていた(※中世の非正規労働者!)。彼らの極めて不安定な生活条件では、日雇い労働・物乞い・盗みが混じり合う
〈例1〉ある雑役労働者(耕作人で石工見習い)は「a.ある時は都市で、ある時は田舎で働く」「b.常に季節労働者である」「c.パリの牛乳売り女と一緒になって、パリやその近郊で盗みを働く」のだった
〈例2〉1の共犯者となった男は「d.元肉屋で、戦場で手を失ったので(渾名は“短い手の男”だった)元の仕事に復帰できなくなった」「e.そこで担ぎ人夫として働きながら、仕事が無い時には物乞いをした」「f.それから盗人になった」のだった
〈例3〉ある日雇い人夫が、預かり物の道具類を盗んだとして告発された(1390年)。彼は(供述によると)「h.多年に渡って荷車曳きとして働き、ブールジュのワイン樽を積んだ荷車を曳いてフランドル地方やピカルディ地方、さらにはドイツまで出かけた」。さらには「i.他にもちょと盗みを働いていた」ことを自白し、絞首台へ送られた。裁判官はこの人夫も浮浪者と見なしたことは間違いない
 P.3の人夫のように「放浪の告発」(季節労働者は親族・地域共同体・同職組合との絆がなく、保証を得られなかった)は、判決の宣告にあたって本質的な役割を果たした。この者らの犯罪が常習でなかったとしても「世間のよけい者」と見なされて、一般の不信を招いていた。この偏見の存在が、現行犯で捕まった者に対する裁判官の過酷な判決の原因となった
 Q.彼らのような「仕事と犯罪の間を行き来する」住民(一定割合で存在した)は、中世を通じて増加し続けた。彼らの生き方は「都市‐田舎,放浪‐定住,まじめさ‐犯罪」が常に隣り合っていた

【専門的犯罪者】
 R.中世にもこの「働くことなく専ら不正行為を重ねながら暮らしていた」人々は確実に存在した。しかし彼らも「仕事の世界と犯罪世界の境界線上に位置する」ことが多く、彼らの存在を明確にするのは難しいという。盗賊の一味に加わることですら、個人の生涯の1コマでしかない
〈例〉アミアン(1460年)で「定期市と祭りの時に盗みを重ねた」&「売春宿を開いた」放浪者一味が裁判官により告発されたものの、証拠不十分で追放刑にされた
 彼らの一部が判明しており「26歳の私生児で、ランス‐アン‐アルトワ生まれ」「グラモン(フランドル地方)近くの村の出身で30歳の男」「ルーヴァンのひげ剃り人(32歳)」「トゥルネー近郊から来た土木作業員(28歳)」「ヴァランシエンヌのセイエテ(絹を混ぜたサージ)織物工(16歳)」。彼ら全員はアミアンの地域社会においてはよそ者である

【戦争の影響】
 S.中世後期に周縁人現象を拡大させたのは、戦争の影響が大きかった。戦争のおかげで農民・職人は「軍隊生活によって」「私利私欲に動かされて」通常の生活圏を離れることができた。兵士となっても、規則的な任務と略奪行為の境界は極めて曖昧なことが多い
〈例1〉ある男(20or22歳)について:
 百年戦争の際に、荷車曳きの仕事を捨てブルゴーニュ派の軍隊に入った。彼とその仲間の兵士たちはプロヴァンとモーの間で、たまたま道を尋ねた外国語を話す修道士から金品を強奪した(これは赦免状による証言:1418年)
〈例2〉アミアンの若い鍛冶工:
 就労して2年後に仕事仲間の若者たち15人と共に出奔し、パリに行って軍隊に入った。こうした行動が“若者らの間の流行だった”という。この一味はパリへ向かう途上で2人の家畜商人を襲い金品を強奪した(1415年)
〈例3〉狂暴な者同士の喧嘩(1420年):
 2人の武器所持者が口論の末に喧嘩となり、片方が殺された。1人は「貴族の私生児でひげ剃り人となった」者で、もう1人は「ブドウ栽培の作業人で“モネイユール(貨幣作り)”と名乗り、凶器を使って強盗を働きながらくらしていた」者。この名は本名かも知れないが“フォー・モネイユール(贋金作り)”という渾名もあるので断定できない。ちなみに後者は、相棒が貴族出身だと言い張るのを信じようとせず「もし本当ならひげ剃り人になるはずがない」とやり返した
〈例4〉3人の兵士(1407年):
 フランス各地で戦った後、ギュイエンヌから帰る途中で3人とも無一文になって再会し、自己流に金を稼ごうと決めた。彼らは盗賊に身を落とし、ボース地方を荒らすことにした

【戦争は周縁人を生む】
 T.戦争(とそれが撒き散らす兵士という生き方)は、社会・家族・職業といった絆を弛緩させた。さらにその残酷さは道義的堕落を生み、人々を異常な行動へ走らせ、結果として「様々な社会階層(職人・商人・貴族の子息・日雇い労働者・放浪者・聖職者)に属する個人の大量ドロップアウト」を引き起こした
 U.彼らは「既成の社会規範から逃れたい」と思い「戦争のおかげで安易な生活ができ、社会における役割分担から逃れられる」という幻想を抱いた。その後、社会復帰できるような情勢となっても、社会規範に戻る&「戦争仲間と周縁人としての生活に決別する」のは、しばしば困難だった
〈例5〉ある馬具職人:
 彼はディジョンで投獄された(1457年)が、かつてサヴォイア公の軍隊にいて(ロンバルディアでフランチェスコ・スフォルツァの軍と対戦した)、兵役が終わるとディジョンに戻って都市の警備員となったのだ。しかしこの職は不法行為の隠れ蓑でしかなかった。
 彼がロンバルディアで知り合った兵士はガスコーニュ出身で、贋金作りが巧く、また盗みで生活していた。この男の紹介で元馬具職人は犯罪者連中と知り合い、ついには少なくとも60人ほどの悪党一味である“コキヤール盗賊団”に加わった。この一味の活動範囲はフランスの大部分に及んだ。
 この元馬具職人の住処が捜索され、偽造された2枚のフィオリーノ金貨と5個の万能合い鍵(“鈎棒”)が見つかった。これは疑いもなく専門的犯罪行為の証拠である
〈例6〉フィレンツェの元兵士:
 彼はサンタ・マリア・マジョーレ教区の1住民で、略奪・殺人・反逆の罪で絞首刑を宣告された(1391年)。その判決文にある犯罪リストによると「単独or多数の共犯者(彼らも元兵士である)で、凶器を使って路上で強盗殺人を起こした」「人を誘拐して身代金を要求した」
 ★このような行動は、中世盛期までは「騎士のギャング行為」だったのが、中世後期には「兵士のギャング行為」へと延長・拡大した

【周縁の人々を巻き込む戦争】
 V.戦争は周縁人化へ通じる、一種の通過儀礼であった。しかし周縁の人々に対しては逆の作用を果たしたことも忘れてはならない。「元は放浪者で、家庭も住処もなく“よけい者”と見なされていた」人々でも、軍隊に入ることで組織的社会生活に組み込まれたのだった
 W.しかし「非周縁人化」は長続きしないのが普通であった。彼らは軍人稼業を終えると元の生き方に戻り、今度は今までに増して社会秩序にとって危険な存在となっていた


(7)盗み

 A.盗賊団はフランス・ゲルマン語地域ではあまりにも多くなったが(15世紀)、その原因は必ずしも戦争ではなく、動機は個人的なものだった。加えて盗み方・略奪方法がますます専門化していった

【ポーランドの事例から(15世紀)】
 B.盗賊が使用した道具は「万能合い鍵」「鈎棒(衣類を盗むのに役立つ)」「ナイフ(戸・金庫を開けるのに使う)」など(15世紀:ヴロツワフ〔ブレスラウ〕の裁判記録から)
 C.この都市で捕まった(1469年)盗賊の1人は「盗賊の大集団に加わっていた」「仲間のうち4人がポズナン(ポーゼン)で絞首刑になり、3人がルブリンで処刑された」。この3都市は互いに数百kmも離れている上に、ポズナンもヴロツワフもポーランド王国の国境外にある→盗賊一味の組織網の広大なこと!
 D.しかしたいていの盗人は「個別に行動する」or「共犯者はいても1人だけ」だった。ある盗人のケース:「教会堂荒らしを専門とし、1晩の内に4ヵ村の教会堂を荒らした」「それぞれの土地にて共犯者に手伝ってもらっている」「4番目の村で住民に取り押さえられ、火刑に処せられた(1454年)」

【フィレンツェの事例から】
 E.犯罪のプロと呼べそうなポーランド系犯罪者がいた。バルトロメオ・ディ・ジョヴァンニ(またの名をグリフォーネ)は下層民の出で悪評の高い男だった
[1441年]
 ポーランドから来た子分2人を連れヴェネツィアへ行き、ギリシア人聖職者から金品を略奪した(被害額はフィオリーノ金貨12枚相当)。彼は逮捕・拘留されたが、裁判を受ける前に他の囚人らと一緒に上手く脱走した
[1444年8月]
 ローマで2人のポーランド人共犯者とサン‐ジョヴァンニ‐イン‐ラテラノ大聖堂の役員の家から金品(フィオリーノ金貨4枚相当)を、サンタ・マリア・マジョーレの教会役員の家から銀杯(フィオリーノ金貨18相当)をそれぞれ盗んだ
[同年10月]
 フィレンツェでハンガリー人・ポーランド人の仲間と共に旅館で強盗をはたらく
[その後]
 「ボローニャで多くの盗みをはたらく(合計でデュカ金貨3枚相当)」→「新たなハンガリー人の相棒と共にフィレンツェへ向かい、道中で同宿の農夫から金品を巻き上げる」→「フィレンツェでは相棒が借りた家に落ち着き、ドイツ人から『フランチェスコス・フォルツァ直筆の手紙』を盗み、自分宛ての手紙に偽造する(★)」→「シエナで通過中の巡礼から金品を巻き上げる」→「フィレンツェで最終的に逮捕されて裁判にかけられ、絞首刑を宣告された」
 ★動機は「そんな立派な書類があれば気楽に移動できるし、罪を犯しても罰せられずに済むと思った」から。その手法は「馬の尿で本物の手紙のスフォルツァ家の印璽を剥がし、それを偽造の手紙に蝋を使って封印する」というもの
 F.このポーランド人がどうしてイタリアに来て犯罪者になったのかは不明だが、同じように盗みをしながら生きている多くのポーランド人・ハンガリー人・イタリア人と仲間になったということは「彼がイタリアの犯罪界に上手く潜り込んだ」証拠となる。彼は「多くの隠蔽者とコネがあり、上手く犠牲者をチョイスする能力に恵まれていた」のは間違いない
 ★このポーランド人浮浪者がイタリアにやって来た背景には、中世後期における住民大移動があった(例:巡礼,生活手段を求める集団移住)
『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[34]


○周縁の人々


(1)周縁の人々の定義

 A.社会における周縁の人々は、中世の人々の集団意識を映す史料では一度もはっきりと示されたことはない(例:中世盛期の“身分論”や中世後期の“死の舞踏”にも姿が見られない)。しかし周縁の人々の境遇は、中世社会の日常生活に必ず存在する現象であった
 B.彼らは「a.既成の組織から排除された個人・集団」「b.社会集団が服従している、共通の基準・法・原則に順応しない人々」である。彼らの空間は「c.社会から見れば別世界」であり、社会からは「d.別人種と見なされている」。別人種たる特色は「e.仕事・職業の違い,社会秩序から離脱していること」である
 C.彼ら周縁の人々の姿は「文学作品・芸術」「神学者・道徳家の文章」に現れることがある。一方では「警察・法廷の古文書」には至る所で見いだされる


(2)故郷から離れて

【身内とよそ者】
 A.周縁の人々の状況を示す言葉として“土地の外:exilium”がある。流刑とは「自分の土地・故郷・祖国の“外”にいる人々の運命」であるが、exiliumの概念は地理的な意味を越えて「伝統社会とその文化の領域の外」ということになる
 ★人間の自然な生活は生まれ育った土地で暮らすことである。そこには先祖代々の墓が歴史を表し、親族や近隣との固い絆に根差した生活環境を形成する
 B.ところが実際には、中世社会の特徴は安定性の反対であり、巨大な人間集団が移住・植民の波にさらわれたのだ。農村住民は絶えず都市へ流入したが、小都市から大都市への人口移動も大きかった(このため最盛期の中世都市は、人口超過に苦しんだ)
 C.それでも中世の人間のメンタリティにおいては、定住は「故郷と共同体への愛着の証」として、格別に貴重な価値があった。これは人々の秩序・安定感が、主として血の繋がりに依存しているためである
 D.キリスト教の教義や価値観において、よそ者(≒旅する人)への評価は統一されていない。教皇グレゴリウス1世はよそ者を“失楽の天使”としたものの、一方で聖書は「地上のキリスト教徒は旅人であり、巡礼であるから、絶えず出かけて自分の本当の祖国=“神の国”を見つけようとする」とされている。
 ☆キリスト教における禁欲主義の生き方の中には「放棄」というテーマが含まれている。地上の祖国からの離脱とは「故郷との絆を棄てる」ことを指し示している

【旅人の恐怖】
 E.「故郷から離れた人」のことをキリスト教がどんなに良い方向に解釈しようとも、旅には「周縁の人々が持っている要素」が付きまとい「自身の周縁化」の危険があった。どの旅人も家を出た瞬間から危険に曝された。彼らは見知らぬ人々と関係し、自然の災難に出くわす
 F.中世社会は生活空間を拡大することにより、旅の安全を確保していく。道路上には宿泊施設(例:宗教的宿泊施設,宿屋,居酒屋)が点在するようになり、休憩場所を提供した。旅の途上では、旅人は自身の共同体との関係が途切れないように注意していた(例:いとこ・友人・召使いを連れる,隊商のような団体となる)
 G.どんなに努力しても、旅人である限りは周縁人と化してしまう危険から逃れられなかったが、その危険性はかなり減らせた。本当に周縁人化してしまうのは「旅が放浪となり、それを生き方とした」時からである


(3)流浪の人々

 A.共同体生活から排除された流浪の人々とは「共同体の決定or裁判での判決により、一定の土地での居住権を奪われた」「追放を宣告された」人々である。ローマ法での流刑には「a.一定の土地での居住禁止」「b.流謫(るたく)地を定めた追放」「c.島流し」に分かれている。b.c.の違いは、追放された土地が陸続きか否か、という点にある
 B.a.の居住禁止の解釈は幅が広い。「指定された土地での“火と水の禁止”と表現される(=渇きを癒す・体を暖める・食料を手に入れることの禁止)」の場合には、彼は他の土地に行って正常に生活を送れた(居住地を離れるだけで、一種の無処罰である)。しかし「民事上の死亡(※下記)」を重ねて受けると、かなり厳しいものとなる(ローマ法における解釈の曖昧さは未調査とのこと)
 C.中世初期における「民事上の死亡」=追放刑は、社会秩序を乱した代償として「全ての権利を剥奪され、もはや人間に属さない者と見なされる」ので、事実上は死と同じ効力を持つ。サリカ法典では「流人は狼のように扱われ、人間の集団から除け者にされるべきであり、その人を打ち殺しても罪にならず、正当防衛となる」とされた
 D.あらゆる社会的な絆から逃れ、野生の土地で暮らさねばならない者は狼に等しい(→狼人間)。伝説に登場する狼男と「法律・慣習に背いたために共同体から追放された」非社会的人間との間には、類似点がある

【破門】
 E.破門とは教会による「信徒共同体からの追放」であり、追放刑とよく似ている。破門に関する典礼儀式と、破門を言い渡す執行者の演説の厳しさは特に恐ろしいものだった。しかし教会がこの処罰を行使するのはかなり稀なことであった(特に教会の利益が脅かされる場合のみ)
 F.しかし破門されると(理論上は)「秘蹟への参加,聖所への立ち入り,教会堂への出入り,礼拝への出席」が禁じられたので、対象者(or対象集団)は信徒共同体から締め出され、霊的に「周縁の人々」と化した。後にはグレゴリウス9世によって「小破門」と「大破門」に分け、大破門のみが完全に信徒共同体から排除された(13世紀)
 G.もちろん異教徒は全て社会の周縁へ放逐されたが、それでも彼らは「信仰を同じくする信者同士の共同社会で暮らし、さらに民族的な絆で結ばれてもいた」点が、破門された者と決定的に異なる
 H.破門の実際的な効果については、それは罪人の社会的地位次第であり、ある者は破門から逃れやすかったり、決定が取り消されることもあった。ただしきちんと執行された場合には「a.社会だけでなく家族からも完全に絶縁された(家族との接触も破門によって禁じられたから)」「b.魂は救いを期待されない、罪人と見なされた」


(4)周縁化の過程

 A.追放・破門において問題となるのは、制度上の側面ではなく、周縁化することによる効果である。しかも興味深いことに、中世を通じてこの処罰は「慣習化してしまい、社会的排除手段としての当初の役割の大半が失われた」のである
 B.流浪人は社会とは根本的に異なる個人である。ところが中世の人々にとって、共同体との絆を緩めるような生き方は「当人に対する社会的不信を呼び起こす」「法的制裁を与えうるもの」でしかない
〈例〉キルペリク勅令(574年)では、犯罪者は「悪人・住所不定者・無産者(法的賠償としての金銭的報復措置を講じれない)・森に住む者」とされている。さらには「無一文(定収がない)」ともある
 C.放浪者だけでなく、巡礼に対しても不信・敵意が向けられた。カール大帝の法令では、不法行為を犯した者には「自宅に足止めされ、他人のために働き・悔悛する」or「贖罪服をまとって歩き回りながら罪を償う」とされており、後者に対する人々の視線を表している。後に教会は、巡礼の勝手な行動を厳しく取り締まるようになる

【安定への脅威】
 D.中世の社会・共同体にとって、安定はこの上なく貴重な価値と思われた。中世を通じて、社会全体の流動性に変化はあったが、移動そのものは既存の社会秩序にとっての脅威と考えられた
 E.時代が下るにつれ、絶えず移動しながら生活する人々に対して、不利な判決が適用されることがますます多くなる。それは貧民階級の個人・集団のみならず、彷徨える騎士・商人もまた放浪者と見なされることが多くなる。また修道院の規則でも、放浪癖のある巡回説教師は非難の対象にされた
 F.中世の人々の想像力によると「野生のままの土地には不吉な力が棲息している」という(どんな恐怖が襲うのだろう…という感覚)。流浪・遍歴の人生を過ごす人は、比較的整備された地方を離れて未開の土地へ赴かざるを得ない場合が多く、そうした「野生のままの」土地に住むことも少なくない。それが流浪の人々との違いを際だたせた
 ★ちなみにそのような土地は、孤独のうちに魂の救いを求めんとする世捨て人の隠遁地でもある
 G.中世の人々にとっての世界概念は「内部‐外部」or「中心‐周縁」からなる(※同心円のイメージ)。「中心」とは組織化された社会であり、各種共同体が存在する、キリスト教徒の居住地である。「周縁」とは流浪人・犯罪者・反体制者・異教徒・異常者の空間であり、イメージとしては「キリスト教徒の居住地から排除される怪物・野蛮人・不信心者が住まう土地」である
 H.しかし人々にとって「周縁人化」とは、主として日常生活や共同体の規則に適合しない行動(例:倫理的・法的基準への違反,行動規範や価値体系に従わない)から生まれた。そして「社会の周縁に存在する」=「都市・村落から追放される,都市における『不名誉な地区』に住むことを余儀なくされる」ことであった
 I.人々の想像においては、このような二分法があった。しかし中心と周縁がはっきりと断絶していたかどうかは断定できない。というのは「共同体の規則に従っている人々」と「それに背いている人々」との境界線は柔軟であり、変動することが多かったためである