『中世の死』N・オーラーから[6]


(7)死に際

【美しい死】
 A.死者が「至福の世界へ入る」or「永劫の罰を受ける」かについて「臨終の様子から結末が分かる」と考えられていた。だから年代記作家は著作の中で、死の醜悪な・惨たらしい部分には口を閉ざしていた
 ⇒人物が臨終の床で痛みに身体をよじらせても、それは“断末魔の苦しみの中で”“死神と闘って”といった簡潔な表現で流した。一方で「地獄に墜ちるべき人々(敵・裏切り者など)」の死の場面では、苦痛の詳細や絶望感が好んで表現された

【死に際の誘惑】
 B.臨終の時には聖人ですら悪魔からの誘惑を受けたが、人々はとにかく立ち向かわねばならなかった:
「a.周囲の人々は言葉・身振りで正統信仰を表面した」「b.瀕死の者もできる限り信仰告白に声を合わせた。無理なら代わりの者が彼のために祈った」「c.詩篇その他の祈りが唱えられる」「d.瀕死の者(or死者)に聖水がかけられる」「e.胸の上で腕を組み、両手を合わせて蝋燭を持つ」→「悪魔は遠ざけられ、天国への道が開かれる」という

【死に際にて】
 C.死に際に「f.顔と眼差しを天に向けると救われるが、壁に向けると絶望(=神への疑いを示すこと)となり、惨めな死を遂げる」という。また「g.聖人のような敬虔な人物が傍にいてくれる」のも、悪しき敵を追い払うのに役立った
〈例〉教皇ステファヌス9世はクリュニー修道院長ユーグに、臨終を見守ってもらえるように頼んだ
 D.また「h.大祭日(とりわけ聖金曜日と〔その2日後の〕復活祭)に死ねれば、それは特別な恩寵と見なされた」「i.簡単な身振りによって、信仰告白の代わりになりえた(例:溺れて水に沈んだある若者は、最後の力を振り絞って、胸の上に親指で十字を切った)」

【最後の言葉】
 E.死にゆく者に対して、周りの者は愛のこもった行為(顔の汗を拭き取り、額や唇に接吻する)を与えた。彼はそれを受けながら(喋ることが出来るのならば)信頼に満ちた言葉で感謝を述べた
 F.さらに「この世の生への倦怠,天なる故郷への郷愁,長い巡礼の疲れ,この世からの解放への期待」といった、悟りの言葉を漏らすことも度々あった。中世西洋においても「肉体と魂の二元論,肉体の牢獄からの魂の解放」というプラトン哲学の概念は、広く知られていた
 G.多くの人間は瀕死の床で幻視力を使えたという。それは単なる「伝記作家による創作」というのではなく、伝えられるところでは「昔の人間は死ぬ間際になって、日常のめまぐるしさに縛り付けられている者には与えられない才能=『本質的なものとそうでないものを区別する力』を手にした」という

【ケルン大司教アンノの最後の言葉】
 H.多くの人々にとって失敗・罪は、たとえとっくに(懺悔の時に)告白していたとしても、最期の瞬間まで「魂にのしかかっていた」と思われる:
1.「彼はケルンの有力商人に賦役を課したことから、都市(指導者を構成する商人層)と激しく対立した」
2.「商人たちは賦課を不当として立ち上がり、武装して対決した。アンノは暴動を鎮圧し、首謀者を体刑に処し、財産を没収した。後に彼の列聖のために記録された奇蹟譚の中ですら“治した目よりもくり抜かせた目の方が多かった”と非難された」
3.「しかもケルンのみならず、その後も他の政敵と長く対立関係にあった」
4.「そんな彼は死の間際、両手を高く上げて繰り返し都市の平和を祈った。“聖母マリアよ、哀れな者を救いたまえ、間もなく没落するであろう都市を救いたまえ”」
5.「少し休んだところでアンノは『恐ろしい光景』を目にし、改めてマリアに“このような災いを我が目に見せることなかれ”と祈った。さらにしばしの沈黙の後、彼はペトロをはじめとする聖人たちにも、ケルンのための助力を求めた」
6.「そしてため息をつき、ほとんど聞こえない声で最後の言葉を諸聖人に向けた。“最高位の王と交わりを結び、有り難くも一体となる聖人たちよ、あなた方の代願の、幸運をもたらすその力がケルンを救わんことを”」
7.「彼の最後の言葉(4.~6.)は、彼が創建したジークブルク修道院の修道士たちが伝えたものである」
8.「しかしこの言葉とは反対に、彼はケルンとは和解していなかったと考えられる。彼はケルンの司教座教会ではなくジークブルク修道院に葬られることを望んだが、これはケルンとの関係が修復されていなかったことを示している」

【本物?創作?】
 I.何度も伝えられている最後の言葉はかなり様式化されていたようだ。しかしそれは「敬虔さが生み出した捏造」というものでは決してない。それは「『かくかくしかじかの言葉をこのように口にして死にたい』という故人の生前の発言があって、伝記作家がそれを引用した」という
〈例〉アッシジのフランチェスコは死の床で、自分が作詞した『太陽の賛歌』を歌ってもらった。最後の詩節の前に、彼は数行を付け加えた
 J.最後の言葉を本物と考えてよいケースは「それが普通とは違っている」場合である
〈例1〉尊者ベーダ
 彼は臨終の床で、ヨハネによる福音書の翻訳を完成させることができた。ベーダの下で働いていた書記ウィルベルトが“師よ、まだ訳していない文が1つあります”と言うと、ベーダは“記しなさい”と答えた
 しばらくしてウィルベルトが“訳し終えました”と言うと、ベーダは“よろしい、全てが終わった。お前は本当のことを申した”と言い、そして最後に“父と子と聖霊に栄光あれ、云々(etc.)”と祈りを唱えてから、息を引き取った。ベーダが言えなかった「云々」の部分は「始まりがかくありしごとく、今も常に永遠にそうあれかし、アーメン」という文言である
〈例2〉レーゲンスブルク(994年)
 同司教ヴォルフガンクはお気に入りの弟子タギーノ(後のマクデブルク大司教)を呼び寄せ「そなたはレーゲンスブルク司教かもしくはそれ以上の高位に就くだろう」と語った(←ここまでは年代記によく出てくるパターン)。通常と異なるのは、この「予言」に先立ってヴォルフガンクが“愛する息子よ、そなたの口をわが口に重ね、神よりわが魂の息を受けよ”と告げる部分である
 ☆この話の記録者は、ザクセン司教ティートマール(彼は死に関することなら何にでも興味を持った)
〈例3〉エラスムス
 ロッテルダム生まれの彼の最後の言葉はラテン語ではなく母国語だった。この場合も本物の最後の言葉と考えられる


(8)イングランド王の死(1087年)

 A.上記(1)~(7)の内容は、死ぬ直前にしては穏やか過ぎて、歴史的な事実に即していないと言える。確かに年を重ねて円熟の境地に達した人もいたが、多くの場合には死は「やっかいだが順調に来ていた(これまでの)状態を破壊する」という結果をもたらすのだった

【ウィリアム1世の最期】
 B.彼は59or60歳で死の床に伏した。乱暴者・略奪者たちは喜び、反対の者は“平和を愛する王”の死に恐れおののいた。年代記作家オルデリクス・ウィターリス(王の死の時には12歳だった)は、この時に起こった多くの出来事を、後の陰惨な事件と結びつけて記述した
 C.ウィリアム王はルーアンで6週間病状にあったものの、最後まで意識も物言いもしっかりしていた。ルーアンの町の喧騒を煩わしく思い(市門の前の丘の上にある)サン=ジェルヴェ教会に移り、そこで悪行を悔いて罪を告白した。司教・修道院長・修道士たちが枕元に集まり、瀕死の王に「いかにすれば永遠の生命が得られるか」を説き聞かせた
 D.王は「マントの町の教会を焼失させてしまったこと」をどうしても償いたいと思い、贖罪者として教会再建のために多額の金をマントに送った。他にも、聖職者・貧者には遺産が分け与えられ、その額は公証人によって正確に記載するように命じられた
 E.そして王は、集まった人々に「誠実・公正・平和を守り、神の掟に従い、教会の特権・神父たちの命令を尊重するよう」に懇願した。続いて涙ながらに、幼年期からの行いについて、自身・居合わせた人々・神に弁明した(あるいは罪を認めた)
 F.さらに「現在or過去の政敵を弾劾した,臣下の者たちの長所・短所について述べた,ノルマン人には賞賛・非難の双方を贈った」のだった。そして“幼少の頃から好ましからざる状況(父親の他界,反乱,侵略)のため、戦争を余儀なくされてきた”と振り返る
 G.“国内外の敵(イングランド人・スコットランド人・ノルウェー人・デンマーク人)に常に勝利したのも神のご加護があればこそである”“それを感謝して修道院を建立し、教会を庇護し、高位聖職者たちに贈与を行ったが、当然のことである”と言い、後継者たちにも同じことをするように求めた

【イングランド征服と後継者問題】
 H.著者オルデリクスはウィリアムのイングランド征服について「継承権をもって王冠を手にしたのではない」「“不実な”ハラルド王はウィリアムに多くの血を流させた」とした上で、ウィリアムを辛辣に批判している→彼に自らの行為を悔いるセリフを与えた:
“私は土地の人々を度を超えて憎んだ。身分高きも低きも残忍に責めさいなんだ。不法に父祖の土地を奪ったこと数知れず、とりわけヨークシャーにおいて無数の人々を飢えと剣によって死に追いやった”
 I.憤怒に駆られたウィリアムは、北方のアングル族に襲いかかった。そんな征服戦争についてのセリフ:
“私は彼らの家・収穫その他、彼らが持っているもの全てをすぐさま焼き払わせた。家畜の大群を全て殺させた。敵も味方も構わず、多くの者を刃で罰した。そうして私は-ああ、呪われたこの身よ-あのいとも麗しき種族の者、数千あまりの老いも若きをも葬り去ったのだ”
[※アングル族の表現をからして、著者はノルマン人ではないのだろうか?]
 J.後継者問題でウィリアムはまず、嫌々ながらも長子ロバートをノルマンディーの支配者と認めた。さらに“多くの罪を犯しながら得たイングランド王国の支配権を人に譲るようなことはしない。(生前の悪行が死後さらに罰となって返ってくるのを恐れて)王国は神の御手に委ねよう”と口にした
 K.ところがこれだけ弁舌を振るった末に、彼は後継者わ指名した。“神の御意志にかなうなら、常変わらず忠実だった息子ウィリアムが(イングランド)王位を継承すべし”と。集まった人々は狼狽し、末子ヘンリーは涙ながらに“それでは一体、自分には何が残っているのか”を尋ねた
 ⇒王は「銀5,000ポンドを与える」と約束した。するとヘンリーは「後継者が約束を果たすかどうか、分かったものじゃない」と考えたのか、急いで銀を受け取り、信頼できる仲間を集めて財を保管するための堅固な家屋(※城?)を手に入れた

【赦し】
 L.そうこうしていると、他の者たち(王に付きっきりの看病をしている医師,官吏,忠誠心を伝えたいと控えている有力者たち)は囚人たちのための取りなしをし始めた。“王よ、どうか彼らをお解き放ちください。赦しを請い、またそれを与えるというのは、真にキリスト教徒に相応しい死に方です”と
 M.年代記作家は続いて1人1人の囚人の名を出し、それぞれの釈放に賛成か反対か(=作家自身の反対)を、王の言葉として表す(例:何某はすぐさま謀叛を起こすだろう,誰某は前よりももっとひどい悪事を犯すだろう)
 ⇒それでも王は「神が自分に対してより寛大であって欲しい」という願いから、囚人を解き放つことを決める
“我は今死に瀕しており、神のお慈悲をもって罪を赦され、救われることを願っている”“それゆえ直ちに全ての牢獄の門を開け、我が弟バイユー司教を除く囚人全員を解き放つことを命じる”
 N.釈放された者たちは「イングランドとノルマンディーにおいて、平和を守り平和の敵に力の限り勇敢に立ち向かう、と厳かに誓わねばならない」のだった。獄中で虐待し(しばしば不当に!)たので、その復讐を恐れなければならない囚人に対しては「復讐断念誓約」をさせた
 O.人々は「バイユー司教もお赦し下さい」と懇願し始めた。王は最初は拒否したものの、やむを得ず承諾した。年代記作家は王に予言めいたセリフを吐かせる
“我が息絶えるや否や、激しい動乱が起きるであろう”“弟の釈放で多くの者は、死ぬとまではいかないものの、多大な苦難を味わうであろう”
(この後に国事に関する幾つかの指示を、はっきりとした意識で明瞭に与えた)

【最後の瞬間】
 P.9月9日の早朝に、王は大聖堂の鐘の音を聞いた。問われた下僕は「聖母マリア教会で第1時課(朝の祈祷)が始まりました」と答える。そして年代記作家は、王に対して麗しい最後の言葉を用意した:
 王は敬虔さをたたえた目で天を見つめ、手を差し上げて語った。“神を産み給いし聖母マリアにこの身を捧ぐ。その聖なる嘆願によりて我を、何にもまして愛しき御子・我らが主イエス・キリストに、お取りなし給わんことを”。こう語るや、王は息を引き取った
『中世の死』N・オーラーから[5]


(5)罪・懺悔・苦行・回心

【贖罪について】
 A.人は自身のことを「己の罪深さのあまり救済を必要としている存在だ」と考えていたので、進んで贖罪を行った(例:祈る,善行を施す,苦行をする-靴を買うお金があるにもかかわらず裸足で巡礼に赴く-)。その中でも「不幸・災難を“神から与えられたもの”として受け入れる」のが最も効果的な贖罪と解された(例:夭折)
 B.イエスは断食をする時には、これ見よがしではなく神の目だけに留まるようにせよ、と命じた。そのため「イエスの弟子として生きよう」とした人々は、周囲の者には分からないような贖罪をした
〈例〉シュレジェン公妃ヘドヴィヒは、死後初めて明らかになったのだが「素肌の上に『極めて固い懺悔服と馬の毛で編まれた帯』をまとっていた」
 C.俗人も天に召されることは出来たが、一般には「聖職者の方がその可能性は高い」と考えられていた。そこでこの世の生を終えるにあたっては「徹底的な回心の証を見せよう」とした→「清貧・従順・貞潔の誓いを立てて修道士・修道女になった」。しかしそのための時間が残されていないこともしばしばあった
〈例〉フリードリヒ2世は臨終の床で、シトー会修道士の服を身にまとってその代わりとした

【地べたで死ぬこと】
 D.ベッドで死を迎えた者は多かったが、それが当然というわけではない(贖罪行の最中に息を引き取る者も少なくなかった)。ところで、この世での生での最高のものは「信者がキリストのために殉教して他者を回心させること」だと考えられた
 ⇒これを得られなかった者は「ベッドで死ぬこと(→快適な死)」を拒絶した(例:トゥールのマルタンは灰の上で、アッシジのフランチェスコは地べたの上で裸で、それぞれ死ぬことを望んだ)
 E.最初は意識的な謙譲の行為だったものが、往々にして習慣となる。人々は「死期が近づいた患者をベッドから下ろして、藁を敷いただけの地べたに寝かせた」。これによって患者は、自分の命に見切りがつけられたことをはっきり悟った
 ☆この行為の裏には「人の死によってベッドが汚される」という呪術的イメージがある

【罪の告白と赦し】
 F.あまりに贖罪が過ぎるのは、自分自身とその生涯の否定にもなるので、多くの人々にとっては耐え難いことであったと思われる。そこで“良き死”を迎えたいと願う者は「これまで他人を傷つけてきたことを、居合わせた者にもそうでない者にも謝罪する」「他人のそういった行為には赦しを与える」のだった
〈例〉ファルファ修道院(中部イタリア)
 ここはベネディクト会に属するが、次のようなクリュニー修道士の慣習が行われていた:「1.瀕死の修道士は院長と修道士全員の前で、地面に大の字になる」→「2.彼は自分が犯した全ての不注意・罪の赦しを乞う」→「3.今度は院長と修道士たちが、件の修道士の前に身を投げ、自分たちが彼に対して犯した罪への赦しを願った」
 ☆支配者にとって「赦しを与える」とは「国事犯に特赦を与える」ことだ
 G.瀕死の者は「個人的な告解の場で罪を告白した」のだが、修道院では告解は多くの場合「公の場でなされた(=さらなる贖罪)」。司祭は罪の告白の後に“我、汝を罪より解き放つ。父と子と聖霊の御名において”という言葉で赦しを与え、居合わせた人々は瀕死の者とともに“アーメン(かくあれかし)”と唱えて、この判決を保証した
 H.罪の赦しは「戦争が終わってから,埋葬時」などのタイミングで、死者に対しても与えることができた。また従軍司祭の数が少ないので、出征中に全ての兵士が聖職者に罪の告白を出来たわけではない→「最高位の司祭が総赦免を宣言する」
〈死後の赦しの例〉
 哲学者アベラールは、波瀾万丈の人生の最後に安住の地をクリュニーに見出した。修道院長の尊者ピエールはアベラールを修道士として迎えただけでなく、彼の死後に遺体を秘かにパラクレ女子修道院へ移送した。そこの院長こそ、アベラールのかつての生徒・恋人・妻・人生のパートナーであったエロイーズである!
 そして尊者ピエールはエロイーズと修道女たちに、アベラールをパラクレの墓地に埋葬する許可を与えた。“全能なる神と諸聖人の名において、私に委ねられた職務権限に基づき、私は彼をその全ての罪から解き放つ”

【破門解除】
 I.破門は、世俗においても広い影響を与える(例:支配権の喪失にもつながる)のだが、叙任権闘争時や対立教皇の時期(お互いのシンパを含めて破門し合った)には乱発し過ぎたために「教会の科す刑罰としては重みを失った」。しかし近世に至っても恐ろしい罰として理解されていた
 J.破門された者は遅くとも臨終の床で、天国へ召される者の仲間に再び入れてもらえるように務めねばならなかった。というのも、破門の呪いの言葉は恐ろしいもので、そこにはイエスの教えの欠片も読み取れなかったから

【破門宣告の場面について】
“呪われし者ども、呪われし者ども…”
 蝋燭の炎で不気味に照らされた場で、たいていは欠席者に対して次から次へと宣告が下される。
“追放された者は町の内外にかかわらず、野原でもどこでも呪われてあれ”“彼らの肉体が生む子、彼らの畑が生む作物は呪われてあれ”“彼らのものは何であれ呪われてあれ”“彼らのもとに出入りする者は呪われてあれ”
 このような呪いの1つ1つに、列席者は厳かなる「アーメン」をもって同意する。したがって以下のようになる
“主が彼らを早くこの地上から根絶やしにされんことを、アーメン”“主が彼らを飢え・渇き・貧困・寒さ・熱で襲い、破滅させられんことを…、アーメン”“空の鳥・野の獣が彼らの屍を喰らわんことを、アーメン”“主が彼らにおぞましい腫れ物・疥癬・痒み・錯乱・失明を与えんことを、アーメン”
 「罪人が回心し、その罪に相応しい贖罪を行うなら」「神がその者から災いを取り除かれるなら」破門を与えた者は罪人を迎え入れ、彼のために祈ることを拒まなかった。しかし贖罪を完成していない者は永遠に呪われた
“その者の前で神の教会は閉ざされ、平和と教徒との連帯は拒まれるべし”“息を引き取るその日でさえ、聖体拝領を禁ずるべし”“塵芥のごとく忘れ去られるべし”“悪魔とその手下と共に地獄の劫火に投げ込まれ、この蝋燭のごとく燃え尽きるべし”(この時、同席している司祭たちは蝋燭を地面に投げ捨て、踏み消す)
“彼らが魂は地獄の腐臭の中で滅すべし、アーメン”


(6)聖体拝領,病者の塗油,祈り

【聖体拝領】
 A.可能であれぱ「病人はミサに与り、俗人もパンとワインの形で聖体拝領を受けた」。聖体拝領の際に語られる言葉は彼岸を指し示していた:“我らが主イエス・キリストの肉(or血)が、汝の魂を守り、永遠の生へと導かれんことを、アーメン”
 B.蝋燭が灯っていなければ、ここで聖体拝領のために火が点けられた。当時の「窓が少なく相当に暗い住居」に暮らす人々にとって、臨終の床に点けられた蝋燭の火は「その場の厳粛な雰囲気を強調した」「炎は“世の光”と名乗っていたイエスその人と解釈された」のだ
 C.瀕死の者は(力が残っていれば)右手に蝋燭を持った。その他の蝋燭は彼を丸く取り囲むように配置された。これは“人々の祈り・光の鎖が、死者を悪霊の魔の手から守る”と、後に解釈された

【塗油】
 D.この秘蹟は聖職者のみならず、死に瀕している全ての信者に授けられるべきものであった:
「a.司祭は聖油で、病人の身体の指定された部位(頭・目・耳・鼻・唇・喉・胸・心臓・肩・手・足)&とりわけ痛む箇所の上に、十字を印す」
「b.その際に唱えられる祈りは、それぞれの器官がこれまでに犯してきた過ちと関連したもので、その場で作文される」
“父と子と聖霊の御名において、われこの唇を聖油にて清めん。神の善意とお慈悲のおかげをもってこの塗油により、汝が余計な、いや災いをもたらすお喋りによって犯してきた罪が洗い流されんことを”
“父と子と聖霊の御名において、われこの手を聖油にて清めん。この手が為した許されざる、もしくは害をなす行いが消し去られんことを”
 E.この秘蹟はさほど文献に登場しない。その理由は「財力の無い者にとって、司祭に対する謝礼を工面するのが難しかった」から。これは「聖職売買だ」「キリストの教えに相容れない」として繰り返し問題とされ、教会法学者は「恩寵の施し(例:洗礼,病者の塗油)は金払いに左右されてはならない」と警告した
 ☆しかし司祭とて生きていかねばならないから、他に収入源が無ければ、確実な報酬を彼らに認めるのは当然だった
〈様々な形の謝礼〉
 司祭は「秘蹟を授ける時,埋葬の時」にストラ(首から左右の胸に垂らす帯)を身に付ける。その度ごとに報酬が要求された

【死と祈り】
 F.家庭では家族・隣人が、修道院では修道士・修道女が祈りを唱え、死者を神に委ねた。大天使ミカエルに同行を頼むことも多かった
 ★ミカエルは竜退治で知られ「悪魔の誘惑に晒されている去りゆく魂を助け、さらに悪魔の手に落ちた魂を奪い返してくれさえする」と信じられていた
 G.死に際して唱えられる祈りとしては、7篇の「改悛詩篇」(旧約聖書詩篇第6,32,38,51,102,130,143)が好まれた。後悔に打ちひしがれた罪人は神に慈悲を請い、慰めを得る。とりわけ“深き淵より”に始まる第6改悛詩篇(詩篇第130)は、埋葬の典礼に取り入れられた(これは“深き淵より”という言葉が、墓の中から響いてくる死者の声を思わせたから)
 ☆詩篇作者の訴えはとても控えめとは言えない。しかし病人はその詩句に己を重ね合わせ、慰めを見出したのだった
 H.周囲の祈りに、瀕死の者もできる限り唱和した。そして「日頃から願掛けをしている聖人」に呼びかけて“今こそご助力を”“最期の旅に同伴くださり、神の御前で仲介を”と願った
〈例〉聖王ルイは黄泉路の供として、聖ヤコブ・聖ディニオニシウス・聖ジュヌヴィエーヴを指名し、神へのとりなしも頼んだ
 I.死の不安に駆られた人々はもちろん「救難聖人(困難に際して信者がその名を唱え、代願を求める14人の聖人)」に嘆願した。中でも聖女バルバラは「良き死を助ける者」として、中世後期にとりわけ信仰を集めた
 J.死に瀕した者は聖遺物(とくに十字架)を信仰した。衰弱している・麻痺している・縛られているなどの場合には、周りの人の手で十字架に接吻させてもらった
〈例〉ジャンヌ・ダルクは処刑直前に“いとも恭順に”十字架を所望した。“そこに立っていたあるイングランド人はそれを聞くと、木片で十字架を作ってジャンヌに渡した。彼女は恭しくそれを受け取ると接吻し、我らを救わんがため十字架に掛けられた神に嘆願した”(1431年)
『中世の死』N・オーラーから[4]


○死に直面して


(1)来るべき死の時を知る

 A.文献によると、多くの人々が「肉体の苦痛,前兆,幻」などによって、自分の地上における生に終わりが近づいたのを悟っていた。人々は自らの死を自覚しつつ、威厳を持って死ぬために、その意思を書き記した(例:シュレジェン公妃ヘドヴィヒ,ビンゲンのヒルデガルド)
 B.威厳を持って死ぬ=「慈悲深い神と天国での永遠の生を信じて、運命に泰然と身を委ねること」。死期を決めるのは神であるが、死に様は人間が決めたいと人々は考えた。ただし職業上の義務は、最後まできちんと果たしていた
〈例〉尊者ベーダ(735年没)にとってそれは「門弟への授業,詩篇詠唱,聖書翻訳」であった


(2)異国での死

 A.旅の途上で死に瀕した者は「親しい人々の間で死ぬために、家路を急いだ」or「教会を探し、そこに眠る聖人を代願者とした」
〈例1〉カール大帝の父ピピン(768年)
 サントに滞在するうちに病にかかった。王は帰路トゥール付近を通過し、そこで聖マルタンに祈りを捧げた。さらにパリ北方サン=ドニで聖ディオニシウスに詣で、そこで亡くなった(9月24日)
〈例2〉オットー・フォン・フライジングはシトー派修道会の総会に向かう途中、以前に院長を5年間務めたモリモン修道院で死を迎えた(1158年)
 B.巡礼者が聖地への途上で死に襲われることもあるが、それを悲運と考えることは少なかった。むしろ彼らは「つらく厳しい旅をしてまで崇めようと思った聖人が、自分を天国へ導いてくれる」と確信して死んでいった。中世初期のイェルサレム巡礼は「そこで死ぬ」のを目的としていた
 C.権力者が故郷を遠く離れて死なねばならなかった場合には「どこで永眠したいのか」を指示した
〈例〉ハインリヒ4世はリエージュで死の床につきながら、シュパイアーの大聖堂に眠る先祖の傍らへの埋葬を望んだ
 D.異国の人々が訪れ・滞在することの多い、巡礼地・権力者のいる場所・経済の中心地には、異国人たちの団体が「彼らの教会の横に、固有の墓地を所有」していた。それは生者・死者にとって、故郷の一角のようなものであった
〈例〉聖ピエトロ大聖堂の陰にあるカンポサント・トイトニコ(ドイツ人墓地)


(3)死に直面した人々の反応

 A.日頃大病を患ってこなかった者は、肉体の衰えに気付く術を心得ている。ところが、死期が近いと悟ったことを周囲の人間に話しても(今も昔も)すぐには信じてくれない。それどころか皆、衰弱した者を元気づけようとする
 B.身近な人物の突然の死に直面した人は(これも今と変わらない)全く違った反応を見せる。これも運命と諦めることはとても出来ず、両親・親族・隣人たちは「愛する者にもう一度命を与えてくれるよう」神に祈る。さらに聖人が祀られている所へ押し掛けて、必死に神へのとりなしを頼む

【知識人の死生観】
 C.年代記作家たちは、聖者と崇められる「円熟した敬虔な苦行者」の他界を好んで語る。このような人々は「長い人生を過ごした後、肉体のくびきから解放され、イエスと一体となることを切望する」のであった。というのは実際のところ、長い老年期障害に苦しむ者は、死を「友人として,長引く苦痛からの解放者として」喜んで迎えただろうから
 D.中世の著述家たちは明らかに人生を愛しており、花の盛りにおける死を「恵みと捉えて無条件に賛同する」ことはしなかった(例:死神とボヘミアの農夫との論争)。「良き死」に対する賛美が知られる一方で、そうした態度があったことは注目に値する

【徴候の観察】
 E.様々な奇蹟譚(怪我の奇跡的な治癒・死者の蘇生の記録)からは、人々が「死の訪れの徴候を見極める術」を心得ていたことが分かる
「a.体温を測る・目の表情を読む・顔色を見る・皮膚を押したりつねったりする」
「b.これによって、病人と健常者・瀕死の者と臨終した者、をはっきりと区別した」
「c.人間が死にかけているのか・既に死んでしまったのか・死んだと思われていた人間が生き返ったのか。これは口の動き・脈拍の状態から判断された」
「d.母親は子供がいつ天に召されたのか分かった。救貧院の院長は、少女が間もなく死ぬであろうほど弱っていることを、一目で見て取った」

【共同体の中での死】
 F.中世では孤独に死ぬ人はおらず、死の床の回りには家族・親族・友人・隣人・同胞・ツンフト(or信心会)の仲間が集まった。だから人々は(自分が生涯所属してきた)「共同体の一員であることを確信しながら」死んでいけた
 G.死者にとって大切な人々には知らせが行った。「待ち焦がれていた人が到着するまで息があった」ことが、回りの人々にとってどれほど不思議なことだったであろう(←文献は繰り返し伝えている)。これは事実に基づいた証言だったようだ
 H.死を前にした仲間の恐怖を和らげようとする人々の態度は、病気の感染を容易にした。伝染病が蔓延している時に死者を墓地に運んでいけば、感染の危険が生じる
 ⇒誰もが自分のことしか考えなくなれば「死につつある者に手を差し伸べ、慰めを与えられる」人間がいなくなる。ペストが恐れられたのは、こうして人々の社会的な結びつきを引き裂くからでもあった

【別れ】
 I.言葉と仕草(抱擁・接吻・思いを込めた眼差)で、死にゆく者は集まってくれた人々に別れを告げた。自分の人生体験を伝えようとする感動的な言葉は、必ずしも後世の伝記作家が考えたものとは言い切れない。「女子修道院長は預かっている修道女たちに,父は子供たちに」訓戒を与えた
 J.言葉・ちょっとした仕草(手を当てるなど)で、集まった人々は死者の祝福を切望し、逆にその呪いを恐れた。そして死者の側も、最後に求めるものとして「周囲の人々との和解」があった
〈例〉トゥールのマルタンやマルティン・ルターは、最期の瞬間に「同胞の和解」を気遣っていたという
 K.聖俗諸侯(息のあるうちに後継者を決めようとして苦慮した)も和解を望んでいた。もし正当な後継者がいなければ、尊敬を集めている高官の言葉が重みを持った。前任者による“臨終の際の後継者指名(国王,修道院長)”は、有権者たちの選挙権を無効にするものではないにせよ、彼らは指名された人物を新国王・新修道院長に指名した


(4)死の場面

 A.死に際しては「懺悔を聞く司祭,遺言書を整える書記,配偶者,子供」たちが、入れ替わり立ち替わり死にゆく者と2人きりで会話を交わした。ここから死に臨んでのキリスト教的な儀式が始まる
 B.典礼儀式は形骸化していたようにも見えるが、関係者は結構これに助けられていた。というのも「悲しみに沈み、徒歩に暮れて胸が締め付けられている時」には、皆で唱えるお祈りは心の支えとなっていた。たとえ声が詰まっても、儀式の身振りが意味を示していた
 C.人々は「ごく幼い頃から他人の最期を見届けてきた」し、また「絵画・文章に残されたキリスト・聖人たちの死」を知っていたので、人の臨終の場面ですべきことなどをよく分かっていた
〈例〉マリアの死を描いた絵には、人々が「臨終の床の周りで何か仕事を見つけようとしている」ことが分かる。「本を開いて詩篇を唱える(もちろんこれがメイン),灯りを点ける,聖水をたたえた鉢を持つ」などして役目を果たしている
 D.続いて、別れの贈り物の瞬間がやって来る。尊者ベーダの場合:「自分の修道院の修道士たちに“神が私に贈って下さったように”幾ばくかの胡椒とお香を与えた」→「自分の魂の救済のためにミサを挙げて祈ってくれるよう、修道士たちに懇願した」
 E.瀕死の者は遅くともこの時には、身辺を整理し遺言書を作成した。そのため「a.書記を呼ばなくてはならない」「b.友人・親族・知人は遺言の証人となる」「c.場合によっては遺言執行者として行動してくれるよう頼まれる」のだった。さらに「d.自分が喋れなくなったら・手で合図することもできなくなったら・意識を失ったら、何をすべきか」まで指示した
〈例〉どの祈りを唱えるべきか,いつ経帷子を着せるべきか,死後何が行われるべきか,葬列のこと,葬儀後の会食のこと…
『中世の死』N・オーラーから[3


(6)教会と遺言権

〈中世後期の遺言の例〉
 リューベック市民ヨハネス・ヒルゲは、財産の中から100リューベック・マルク(≒雄牛25頭or長靴150足)を特別に取り分けて遺言した(1413年)。それによると「遺言執行者はこの資金によって代理巡礼者をイェルサレムへ送ること」「キリストの墓所&記載の墓地には、それぞれ1デュカーテン金貨を奉納すること」としていた

【古代ローマからゲルマン人の支配へ】
 A.遺言権=「『自分の財産を自由に処分すること』『相続候補者の中から1人を指名する(他を排除する)こと』を遺贈者に認めている」遺言権は、古代ローマの遺産の1つである。帝国内に入り込むにつれて、教会は「遺言権を教会の利益のために拡大する」よう力を尽くした→「生前も死後も、信者は困窮者を助けねばならない」とした!
 B.当初は「喜捨」は乞い願われたのだが、時とともに当然の権利として要求されるようになる。信徒たちは慈善の使命=「貧者・病人・孤児・巡礼などに食事を与える,一時の住まいを与える,世話をする」を果たさねばならない、とされていたからである
 C.信者は「イエスを相続人の1人に指名しなければならない」とされた。「1.相続人が1人なら財産を二分・5人なら六分する」→「2.イエスに信託をされるという形式をとる」→「3.教区民は前者のケースでは遺産の半分・後者なら1/6を受け取る」のだった
 D.相続とは「死後にも影響を及ぼし続ける命令によって、死者が親族の生者を束縛する」のであり、この考え方はゲルマン人には馴染みが無かった。彼らからすれば「a.死者は相応しい葬儀を要求できる」「b.来世で身分相応の暮らしができるように供えられた副葬品は、死者のものであり続ける」「c.しかしその他の財産は親族のものとされる」のだった

【ゲルマン人支配下にて】
 E.やがてゲルマン人がローマ帝国の広域を征服する。遺言に関して両者の考え方は衝突したので、教会はローマの遺言権を修正した。これがゲルマン人に受け入れられると、彼らの社会において「部族財産の崩壊=個人財産の成立」に繋がった→「家長は選別された財産を自由に処分できるようになる(時には部族の意思に反して)」
 F.魂の救いのために行われた寄進は、経済に影響を及ぼした。異教時代には「死者の副葬品」として経済循環から失われていた貴金属が、寄進を受けた教会を通じて「貧者に食べ物を与える,修道院・教会建設という『公共投資』となる」ことによって、経済の活性化に使われるようになる
 G.教会(とりわけ地中海沿岸諸国)は遺言に関する主張を通していたのだが、やがて遺言書の利用が少なくなり、代わりに贈与が主流となる(8世紀~)。これは「ひとたび贈与してしまえば撤回はできない」ものの、贈与した対象物の「利用権は贈与者が生きている限りは認められる」利点があったため
 H.ローマ法の復活(12世紀)により、再び遺言書が好んで書かれるようになる。遺言書は「いつでも破棄できた,効力を発するのは死後のこと,死ぬまでは心置きなく財産を使える」というべんりさがあったためである

【遺言に対する教会の大きな影響力】
 I.教会による遺言書の法的規制の緩和には、次のようなものがある:
「a.遺言書に遺言者の印&署名しかない(=証人がいない)場合にも、遺言書の法的能力を認める」「b.証人が十字を書いて署名とした(=字が書けない)場合も同様」「c.女性にも男性と同等の遺言書作成能力を認める」「d.ある人物が遺言書無しで死亡した場合に、近親者or友人がその人物の名で遺言書を起草するのを許可する」「e.遺言書の正当性を保証するのには(ローマ法に定められた7人ではなく)、2・3人の証人で足りる」「f.ただしこの場合には、証人の中に『死者が最後に告解をした司祭を含む』場合に限る」など
 J.上記f.のように「遺言が告解の延長線上にある」ケースもまま有ったようだ。告解の場では罪人は「過ちを告白し、力の及ぶ限り自分が引き起こした不正の埋め合わせをする」義務を負った。臨時前の告解で、司祭が「教会に十分な遺贈をしなければ“地獄の劫火”が待っている」と脅したこともあったようだ
 K.異端者に対して教会は、有無を言わさず強圧手段を用いた。異端者は「遺言書作成能力が無いとされた(禁治産者・不自由民・精神病患者・未成年者と同じ)」「教会方式に埋葬してもらえなかった」
 L.教会の厳しい懲罰は異端者だけに止まらない。「死者が『お布施する』と約束していた財産」を引き渡さない相続人は、公会議によって破門されることも覚悟しなければならなかった。それゆえ、少なくとも正しい信仰の証として「十字の印が施された自筆の遺言書を開封する」のが望ましかった
 ★破門状態で死んだ者は「永劫の罰を受けて地獄に墜ちるとされた」「臨終に際しては教会による慰めを得られない」「死んでは教会方式の埋葬を拒否される」のであった

【遺言と人々】
 M.寄進に関する主張のような考え方は聖職者・知識人のみならず、説教・(分かりやすい)説話集などを通じて、俗人信者たち(大多数が読み書きのできない)にも共有されていた。彼らは自らの魂のために神への寄進を怠らなかった
 N.片寄った遺産配分ではなく、近親者を完全に無視することがないよう、公正さ・隣人愛が望まれた(→子供:1/4,妻:3/4が適当とされたこともある)。また、但し書き付きの遺言書も数多くあった
〈例〉ある人物が「順調に育つ」「結婚する(or修道院に入る)」などの条件を満たした場合にのみ、指定された遺産が与えられる、というもの
 O.遺言書作成にあたって。「信仰告白の後に『遺言者が健全な理性・よき忠告のもとに、また健康な身体の状態で、この遺言書を作成した』ことを、司祭&書記(orそのどちらか)を含む同席者が、署名によって確認した」という趣旨の文言が、遺言内容本体に続くのが(古代からの)習慣だった
 P.遺言書を巡る争いを避けるには「a.有効な形式が使われているか,最低限の公正さが保たれているか」に注意しなければならない。「b.適切な遺言執行人を選ぶ」のもよい方法だった
 Q.しかし相続人が不当さを感じたなば、教会との間に軋轢が生じるのは当然だった。だから「c.遺言書に少しでも異議を申し立てそうな輩は、相続人から完全に排除すべき」と、繰り返し言われた
 R.死者の意思を無視しようという誘惑は大きくなり得た。だから聖俗の当局は遺言を守ることに尽力した:「d.遺言書の偽造者は死刑」「e.遺言書を隠した息子は相続人から外された」

【人生の精算としての遺言書】
 S.自分の死と「魂の救い」への思いが、死に備えて人々に準備を促したはずである。それでも、遺言書の多くは死に瀕して初めて作成された。ここで遺言者は「自分の考え・願い」を、身近な人間に釈明した
 T.敬虔な気持ちに個人的な好悪の感情が勝ることも珍しくない。「気に喰わない親族には借金の取り立てがなされた」「病床で尽くしてくれた者に感謝の気持ちを示す」などもあった


(7)市民の遺言と商人魂

 A.遺言書の利用は、最初は有力者に限られていたのがどんどん拡散していく。中世後期には「男女,職人・商人,上流・中流,さらには下層階級(例:下僕)」まで、動産・不動産を有していれば意思を書面にした(数千通が現存する)
 B.ローマ法では単独相続人の指名を許していたのだが、中世後期の遺言書は「遺産配分が細分化されている」のが特徴である(10or20orそれ以上に分けて寄進されているのも珍しくない)
 C.遺言書のポイント:「a.遺産配分の根拠は何か」「b.誰orどの修道院が遺言者の魂のために祈るのか」「c.どのような困窮者(貧者・病人)、どのような社会施設(救貧院・レプラ患者収容所)が遺贈されているか」「d.遺言者は誰を家族と見なしているのか」「e.子供たちは何を貰うのか」「f.遠縁の者は何を手にするのか」「g.どのような関係(血縁・婚姻・姻戚・名親など)が登場するのか」「h.対象となる財産はどのようなものか(金銭・貴金属・装飾品・衣服・不動産・商業出資など)」

【その背景にある思考】
 D.遺言を書くにあたっても、商人たちには「永遠の至福を求めるにあたってもリスク分散を図る」経済的思考が強く働いていた:
「a.まず親族・友人・聴罪司祭・奉公人など、その怒り・呪いが自分に向けられたくない人物のことを考慮の対象とした」
「b.ミサ・貧者への給食・典礼具・教会建築・アーヘンの聖母マリアへの嘆願・コンポステラの聖ヤコブへの嘆願、などのために寄進が行われた」
「c.これだけ分散して寄進しておけば、万が一『給食のための資金が横領された』『代理巡礼者が役を果たすのに値しない』としても、全体ではあの世での生のために準備された、ということ」
 E.こうした行動のベースになっているのは「生者は死者のために善行を行える」という思想があった
〈善行の例〉
 「d.死者のために祈る」「e.死者の名において慈善活動をする」「f.死者の代わりに禁欲的な贖罪行為をする」「g.死者がある聖人を信仰していた場合、その聖人にとりなしをしてもらうために、聖人の墓所への巡礼を決行する」など
 F.遺言書では、永遠の至福の問題をあたかも収支決算のように扱っている。日常生活での毎回の懺悔の意味とは「自分の行状を神に対して釈明する(神だけでなく隣人にも、自分自身に対しても)」のであり、それらの総決算が人生の最後になされたのである
 G.聖書において、神と富とに同時に仕えることはできなかった(富を得た者は永遠の至福を得られない)。ならば順番に仕えたらよいのではないか?となる:
「1.資本・装飾品・不動産などは可能な限り、自分自身と商売のために使う」→「2.気力・体力の衰えを感じ始めたなら、不正な富(法を遵守していては財を築けない!)を“永遠の住居”への入居費として使う」←「3.老後を養老院で過ごすためにお金を払うのと同じ」


(8)生者と死者の共同体

 A.生者による死者に対する追憶の祈りは、時空を越えて生者・死者を1つの共同体に結びつける、と考えられた。聖職者だけでなく俗人の男女も参加していた祈祷兄弟団は、それが具体化された形である
 B.死者が世代を越えて心から偲ばれるような社会では、生者は「死=不可解なもの,恐るべきもの」をずっと泰然と待ち受けることができた。「死後も自分は忘れられないだろう,生者たちの共同体は年に一度、命日に思い出してくれるだろう」と期待して生き、そして死んだ
 C.「ミサで名を挙げること,祈祷を続けること,慈善事業を行うこと」は一体であった。死者の命日に死者の名で、貧者に対して行われる給食は必要最低限の行為であり、遺言書の中で「遺産管理人は、貧者が死者のための追悼ミサで祈りを捧げた後に食事を与えるべし」と指示されることも多かった
 ☆貧者が「死者のために祈る」というのが重要だった。給食と祈りが引き替えである(=“救済の経済学”)。教皇グレゴリウス1世は「貧者への施しは、贈与ではなく双方による取引である」という趣旨を書いている
 D.生者と死者の共同体は、この世の終わりまでお互いに代願しあうことが想定されていた。生者が(祈祷を必要としている)死者を思うだけでなく「既に聖人たちのもとで暮らしている死者」は「生者のために神の玉座に向かって嘆願する」という

【影響を受けた聖職者たち】
 E.遺言と関連して、司祭の需要はますます高まっていく(中世初期~)。修道院では死者への祈祷に対する需要によって、付属教会の建築にまで影響が現れていた(例:ザンクト・ガレン修道院の設計図には19もの祭壇が描かれている)
 F.修道院は仕事の1つとして「死者台帳のその日のページに記されている死者の数と、少なくとも同数」は、貧者に食事を与えることになっていた。その数は度々1,000にも及んだ(伝えられている死者台帳の中で最多のものは30,000人を越える)
 G.多くの修道院は、その構成員をはるかに上回る数の貧者の面倒を見なければならず、ついには経済的に疲弊していった。修道士たちは少ない食事・水で薄められたワインに不満たらたらであり、ついには制限策が採られた
 ☆クリュニー修道院長ピエールは「クリュニー修道院では食事を与える貧者を50人/日に止めるべし」とした(12世紀前半:修道士は300~400人だった)

【変容する生命】
 H.死者典礼の1つの中に「生命は奪われるのではなく、変容せられるのである」という慰めの言葉がある。この思想(確信といってもよい)は、死にゆく者に希望の光を与え、死がもたらす恐怖のかなりを消し去った
 I.修道院でもどこでも、死者の名を『生命の書』に書き入れる。人々はこの瞬間に「天国で記されている『生命の書』に神が死者の名を書き留めた」と考えていた
『中世の死』N・オーラーから[2]


○働き盛りに行う備え


(1)至る所で -死を思え!-

 A.教会・城・家屋・橋・市門のよく見える場所には「不意を襲う死に対する守護聖人クリストフォルス」が描かれていた。この聖人は「神を敬う者が生命の危険にさらされた時、必ず救いの手を差し伸べるように」と、神から依頼されたという
 B.朝に「この聖人の図像を思いを込めてみつめた者」は、その日1日ぽっくりと死ぬことはない、と信じられた。そして人々は「礼拝と懺悔のうちに、臨終の秘跡を受けながら心静かに死を待つ」=良き死を求めて祈った
 C.多くの人々は「突然予期せずに死ぬ」ことを望んだが、中世であってもそう滅多にあることではなかった。多数の人間は段階を踏んで死んでいったのである
〈例〉農業・商工業を営む者は、力・センスの衰えを感じ、もはや自分がその職業に適さないことを悟る。ついには息子の1人が実権を握って年寄りを養うようになる
 D.人々は頻繁に「死・死者を忘れるな!」という警告を受け取っていた
〈例1〉「a.ミサではいつも死者に思いを馳せた」「b.特定の死者のためのミサ・万霊節の祝祭日には特にそうだった」「c.教会・墓地・十字路にあるキリストの磔刑像が死を思い起こさせた」「d.灰の水曜日には司祭が、儚さの象徴である灰を信者の頭に降り注いだ」「e.教会への道すがら墓地を横切ると、髑髏・骨が積み重ねられた納骨堂の側を通る」
〈例2〉新婚夫婦が初夜を迎えた後、夫が妻に贈る「朝の贈り物(モルゲンガーベ)」とは、夫に先立たれても妻が身分相応の生活を続けるためのものである
 E.人々にとって死は子供の頃から身近な存在であり「f.家族の死に目に遭う」「g.異端者・罪人の公開処刑を見る」のが日常的だったから、感覚は麻痺していった(←死ぬ度にいちいちショックを受けていられない)。それでも「次はお前か」と自問することは多かっただろう
〈例〉埋葬の際には、参列者の中で次に「土に還る」者のために「主の祈り」を唱える。この風習は中世にまで遡る


(2)霊魂の救いを求めて

 A.若い頃から死に備えた適切な措置を人々は講じた。彼らは「死後も生き長らえる魂のこと」をきちんと考えておかねばならない。すなわち「まっとうな生き方をし、福音の規範と教会の教えによって行動を正してきた」者は、より平静な死・来たるべき審判を待ち受けることができた
 B.誰もが自分のことを「神の慈悲にすがらねばならない罪人」と考えており「ひたすら祈り願って、厳格な裁き手の心を和らげることができれば」と期待していた。そして神への祈りだけでなく、神と人間(=罪人)との間をとりなしてくれる仲介者(=聖母・聖人たち)に頼った

【祈りの共同体】
 C.こうしたことから、多くの人が「修道士共同体:死者のための礼拝に力を注いでいた」に入会した。追憶の祈りは修道院に属する人々(生死を問わず)に向けられたものである
〈例〉トイトブルクの森の外れにあるイーブルク修道院の修道士は、修道院の創設者ベンノ(1088年没)のために「休むことなく祈りを捧げるべし」と記した(1090年頃)。これは死んだ者の魂のためであった
 D.さらに、互いに遠く離れた場所にある修道院同士で、そこに所属する修道士たちが祈祷兄弟団(複数の修道院・教会が、相互の救霊を祈るために結成したもの)を結成し、そのネットワークは西洋キリスト教世界を覆い尽くした。修道士だけではなく、高級貴族から庶民まで男女問わず、祈祷兄弟団への入会を希望した(←修道士による代願が効力を持つ、と信じられていたから)
 E.誰の記憶にも残らない(=個別に名前をあげて祈ってもらえない)者も多数存在したので、クリュニー修道院長オディロ(994-1048年)はこのような人々を救おうと考えた。彼は「クリュニーとクリュニー配下の修道院・教会により、全ての死者のために11月2日(万聖節の翌日)にミサをあげ・詩篇を詠唱し・喜捨を行う」ようにした。これが「万霊節」の祭りとなり、ヨーロッパの教会に急速に広まった

【同職組合・信心会】
 F.ギルド・ツンフトは経済的利益のためだけでなく「共同体の構成員(特に死者)のために祈る」という機能があった。ギルドに加入した者は「a.病気の時には援助を受ける」「b.死んだら立派な葬式を出してもらい」「c.ギルドの仲間たちが定期的に礼拝で彼のことを偲ぶ」「d.場合によっては未亡人を助け、幼い子供たちの面倒を見てくれる」ことを期待できた
 G.b.c.d.の機能は、ベスト大流行以降に数多く設立された「信心会」にとってはさらに重要な勤めだった
〈例〉ローマの聖ピエトロ大聖堂の裏に、中世初期以来多数のドイツ人が埋葬された墓地がある。信心会が設立され(1450年頃)、この“カンポサント・トイトニコ”(ドイツ人墓地)の法的代理人となった


(3)寄進

 A.魂の救いを求めて無数の寄進が、長年にわたって行われてきた。寄進は「命日に寄進者の名を挙げて祈る(これによって寄進者に神の善意が与えられることを期待した)」ことを条件として、さまさな資産が修道院付属教会・司教座教会・教区教会・救貧院に寄進された
 B.寄進財産には「ブドウ畑,水車,装身具,貴金属(鋳造されたものも、されていないもなも)」まで対象とされた。ただし寄進した財産の用益権or収益の一部は、死ぬまで留保しておけた(=寄進者が死んでから寄進された側に帰属する)。配偶者・子供が契約に加えられることもあった
 C.動乱が迫った時には、寄進によって財産(少なくともその一部)を守ることができた
〈例〉ザンクト・ガレン修道院:
 フランク族が勝利を収めた後、アレマン地方(南西ドイツ)の貴族は勝者による土地の差し押さえを逃れるため、この修道院に土地を寄進した。こうして「彼らは修道院長・修道士たちの好意を得た,さらに修道院の創設者=聖ガルスを共とした(と彼らは確信した)」「修道院は南西ドイツに広大な土地を所有できた」のだった
 一方で新たな権力者=フランク族は、聖ガルスを敵とすることを恐れて、寄進された財産の返還請求をしなかった

【寄進者の願望】
 D.首尾がどうなるか分からない計画を実行するのは、自らの将来を賭け金とすることである。そのため「魂を救いを得るために寄進をするのが良い」とされた
〈例〉巡礼行・十字軍参加を誓った者は、無事に帰還する可能性を判断して、出発前に「家を片付ける,教会が典礼用具を購入するために寄進する,教会の屋根の葺き替えに寄進する」などして、自分の魂の救いに心を配った
 E.多くの寄進の背後には(あからさまにor秘かに)「困難な状況に陥った時、神or聖人たちのご加護を得たい」という願いがあった
〈例〉ハインリヒ4世はエルスター河畔の戦いの前日に、戦陣でシュパイアーの司教座教会に寄進した(1080年)。その「奉納文書」によれば、国王は聖母マリアにご加護を願った


(4)忘却との闘い

 A.代願・寄進という気配りは「人々と(とりわけ)神に忘れられたくない」という願望の現れであった。これは初期教会以来、ミサの奉献文で明らかである
 B.教会において、司祭と会衆は献金箱が回る前に「神にとりなして人間を守ってくれるとされる人々の名」を厳かに唱え,さらに現司教(or教皇)・全会衆の名を唱えた。そして献金の後に“神よ、信仰の徴もて我らに先んじ、安らかなる眠りに就きし汝が下僕誰々を思い給え”と唱えた
 ☆ここで唱えられる死者or生者の名・性別・数は極めて重要だった。神への嘆願が持つ意味を、人々は重く捉えていた
 C.人々の「忘れられたくない,他の人を偲びたい」という欲求は様々な形で表現された:
「a.死者の名前は(最初は板片・後には本に記されて)共同祈願の際に朗読された」
「b.記載者の数が多くなり過ぎて、1人1人の名を挙げることが出来なくなると、名前を記した本を祭壇の上に置き、記載者全員を神の手に委ねた」
「c.ミサ典礼の最中に特別な形でその名を登場させたい者は、祭壇板に名前を彫り込んだ」
「d.『足元に自分の紋章をあしらった祭台の布』『聖杯(カリス)』などを寄贈する者もいた」
〈例1〉カタロニアのローダ修道院
 回廊アーチの内側面に「死者の名前・命日・職業」を記し、後世に伝えた。ここを通る者は、名前を手掛かりにその人物のことも祈ってあけよう、という気になった
〈例2〉バイエルン大公タッシロ3世
 カール大帝は彼に死刑を宣告し、後に減刑して「クレムミュンスター修道院(タッシロ自身が設立した:777年)に終生預かり」とした。しかしカールとて、修道士たちによるタッシロへの追慕を消してしまうことはできなかった。タッシロの没年のみならず命日(12月11日)も伝わっており、今なお寄進者を偲んでいる
〈例3〉ニコラ・ロラン
 ブルゴーニュの宰相であった彼は、ボーヌに壮大なオデル=デュー(救貧院)を設立した(1443年)。ここでは500年以上も病人の看護が行われていた(~1971年)
〈例4〉ロベール・ド・ソルボン
 パリ大学の名称(ソルボンヌ)は、司教座教会参事会員だったロベールが、貧しい神学生のために創設した(1253年)学寮に由来する
〈例5〉ヨハネス・ケラー
 フライブルク大学の最初の教師であった彼は、この地に“コレギウム・サピエンティアエ(賢者協会)”を設立した(1497年)。ケラーは自らこの学生寮の規則を取り決めた。かくして「学寮は幾星霜を乗り越え、大講堂の次の間には彼の名が黒色の大理石に金字で彫り込まれている」「大学は毎年厳かにミサを挙げ、ケラーその他の寄進者全てを偲ぶ」のだった


(5)墓地での配慮

 A.聖俗の有力者たちは「いつの日か自分の、さらには子孫たちの最後の憩いの場とする」ために、教会・修道院・救貧院・司教区を寄進した。「修道士・修道女・司教座教会参事会員たちが、寄進者とその家族の名を挙げて祈りを代願するならは、一族の個人個人は忘却から救われ、家系は存続する」というわけである
〈例〉カール大帝→聖母マリア修道院(アーヘン),オットー1世→マクデブルク司教区&大聖堂,ハインリヒ2世→バムベルク司教区&大聖堂,ハインリヒ3世と4世→シュパイアー大聖堂の改装・改築に出資
 B.多くの人々にとって豪華な墓所は「質素謙譲」という神の掟に反するものであった。そこで多くの俗人が「最後の眠りを修道士たちと共にしたい」と願った
〈例〉シュレジェン公妃ヘドヴィヒ
 彼女は、自分が設立したトレプニッツ修道院(シトー派修道会)の墓地or「教会内の最も質素な場所」に埋葬されることを望んだ。そしていずれにせよ、夫とは長い間夫婦の営みが無かったので、夫の傍らに葬られるのを拒んだ
 ★夫に先立たれた妻には(普通)夫と同じ権利が与えられた。少なくとも死んでしまえば夫と同様に扱われた(これはキリスト教以前の時代からそうだった)
 C.司教の中には(自分が勤めた司教座教会ではなく)「墓地として創設された修道院」に葬られたいという者が珍しくなかった
〈例〉マインツ大司教ボニファティウス(754年没):エヒテルナッハ修道院orフルダ修道院へ,ヒルデスハイム司教ベルンヴァルト(1022年没):同市の市門前にある聖ミヒャエル修道院にて,ケルン大司教アンノ(1075年没):自分が創設したジークブルク修道院を墓所とする
 ☆上記B.C.は皆、修道士としての誓いに従って生きてきた人々に混じることによって「『最後の審判』の恐怖に打ち克つことができる」と期待していた

【墓】
 D.多くの者は「場所,墓の形,墓碑銘(信仰告白を含意していた)」まで決めていた。墓碑に刻まれた名前・身分、そして個人史によって、生者は死者のことを思い出したのだ。遺族は墓碑銘によって慰められたし、また代願の祈りを促された
 ☆「銘を読む」ことで、そこに名指しされた人物を忘却から救うことができた。中世の考え方では、思い出されることは「生きていることと同じ」だった