『中世の死』N・オーラーから[6]
(7)死に際
【美しい死】
A.死者が「至福の世界へ入る」or「永劫の罰を受ける」かについて「臨終の様子から結末が分かる」と考えられていた。だから年代記作家は著作の中で、死の醜悪な・惨たらしい部分には口を閉ざしていた
⇒人物が臨終の床で痛みに身体をよじらせても、それは“断末魔の苦しみの中で”“死神と闘って”といった簡潔な表現で流した。一方で「地獄に墜ちるべき人々(敵・裏切り者など)」の死の場面では、苦痛の詳細や絶望感が好んで表現された
【死に際の誘惑】
B.臨終の時には聖人ですら悪魔からの誘惑を受けたが、人々はとにかく立ち向かわねばならなかった:
「a.周囲の人々は言葉・身振りで正統信仰を表面した」「b.瀕死の者もできる限り信仰告白に声を合わせた。無理なら代わりの者が彼のために祈った」「c.詩篇その他の祈りが唱えられる」「d.瀕死の者(or死者)に聖水がかけられる」「e.胸の上で腕を組み、両手を合わせて蝋燭を持つ」→「悪魔は遠ざけられ、天国への道が開かれる」という
【死に際にて】
C.死に際に「f.顔と眼差しを天に向けると救われるが、壁に向けると絶望(=神への疑いを示すこと)となり、惨めな死を遂げる」という。また「g.聖人のような敬虔な人物が傍にいてくれる」のも、悪しき敵を追い払うのに役立った
〈例〉教皇ステファヌス9世はクリュニー修道院長ユーグに、臨終を見守ってもらえるように頼んだ
D.また「h.大祭日(とりわけ聖金曜日と〔その2日後の〕復活祭)に死ねれば、それは特別な恩寵と見なされた」「i.簡単な身振りによって、信仰告白の代わりになりえた(例:溺れて水に沈んだある若者は、最後の力を振り絞って、胸の上に親指で十字を切った)」
【最後の言葉】
E.死にゆく者に対して、周りの者は愛のこもった行為(顔の汗を拭き取り、額や唇に接吻する)を与えた。彼はそれを受けながら(喋ることが出来るのならば)信頼に満ちた言葉で感謝を述べた
F.さらに「この世の生への倦怠,天なる故郷への郷愁,長い巡礼の疲れ,この世からの解放への期待」といった、悟りの言葉を漏らすことも度々あった。中世西洋においても「肉体と魂の二元論,肉体の牢獄からの魂の解放」というプラトン哲学の概念は、広く知られていた
G.多くの人間は瀕死の床で幻視力を使えたという。それは単なる「伝記作家による創作」というのではなく、伝えられるところでは「昔の人間は死ぬ間際になって、日常のめまぐるしさに縛り付けられている者には与えられない才能=『本質的なものとそうでないものを区別する力』を手にした」という
【ケルン大司教アンノの最後の言葉】
H.多くの人々にとって失敗・罪は、たとえとっくに(懺悔の時に)告白していたとしても、最期の瞬間まで「魂にのしかかっていた」と思われる:
1.「彼はケルンの有力商人に賦役を課したことから、都市(指導者を構成する商人層)と激しく対立した」
2.「商人たちは賦課を不当として立ち上がり、武装して対決した。アンノは暴動を鎮圧し、首謀者を体刑に処し、財産を没収した。後に彼の列聖のために記録された奇蹟譚の中ですら“治した目よりもくり抜かせた目の方が多かった”と非難された」
3.「しかもケルンのみならず、その後も他の政敵と長く対立関係にあった」
4.「そんな彼は死の間際、両手を高く上げて繰り返し都市の平和を祈った。“聖母マリアよ、哀れな者を救いたまえ、間もなく没落するであろう都市を救いたまえ”」
5.「少し休んだところでアンノは『恐ろしい光景』を目にし、改めてマリアに“このような災いを我が目に見せることなかれ”と祈った。さらにしばしの沈黙の後、彼はペトロをはじめとする聖人たちにも、ケルンのための助力を求めた」
6.「そしてため息をつき、ほとんど聞こえない声で最後の言葉を諸聖人に向けた。“最高位の王と交わりを結び、有り難くも一体となる聖人たちよ、あなた方の代願の、幸運をもたらすその力がケルンを救わんことを”」
7.「彼の最後の言葉(4.~6.)は、彼が創建したジークブルク修道院の修道士たちが伝えたものである」
8.「しかしこの言葉とは反対に、彼はケルンとは和解していなかったと考えられる。彼はケルンの司教座教会ではなくジークブルク修道院に葬られることを望んだが、これはケルンとの関係が修復されていなかったことを示している」
【本物?創作?】
I.何度も伝えられている最後の言葉はかなり様式化されていたようだ。しかしそれは「敬虔さが生み出した捏造」というものでは決してない。それは「『かくかくしかじかの言葉をこのように口にして死にたい』という故人の生前の発言があって、伝記作家がそれを引用した」という
〈例〉アッシジのフランチェスコは死の床で、自分が作詞した『太陽の賛歌』を歌ってもらった。最後の詩節の前に、彼は数行を付け加えた
J.最後の言葉を本物と考えてよいケースは「それが普通とは違っている」場合である
〈例1〉尊者ベーダ
彼は臨終の床で、ヨハネによる福音書の翻訳を完成させることができた。ベーダの下で働いていた書記ウィルベルトが“師よ、まだ訳していない文が1つあります”と言うと、ベーダは“記しなさい”と答えた
しばらくしてウィルベルトが“訳し終えました”と言うと、ベーダは“よろしい、全てが終わった。お前は本当のことを申した”と言い、そして最後に“父と子と聖霊に栄光あれ、云々(etc.)”と祈りを唱えてから、息を引き取った。ベーダが言えなかった「云々」の部分は「始まりがかくありしごとく、今も常に永遠にそうあれかし、アーメン」という文言である
〈例2〉レーゲンスブルク(994年)
同司教ヴォルフガンクはお気に入りの弟子タギーノ(後のマクデブルク大司教)を呼び寄せ「そなたはレーゲンスブルク司教かもしくはそれ以上の高位に就くだろう」と語った(←ここまでは年代記によく出てくるパターン)。通常と異なるのは、この「予言」に先立ってヴォルフガンクが“愛する息子よ、そなたの口をわが口に重ね、神よりわが魂の息を受けよ”と告げる部分である
☆この話の記録者は、ザクセン司教ティートマール(彼は死に関することなら何にでも興味を持った)
〈例3〉エラスムス
ロッテルダム生まれの彼の最後の言葉はラテン語ではなく母国語だった。この場合も本物の最後の言葉と考えられる
(8)イングランド王の死(1087年)
A.上記(1)~(7)の内容は、死ぬ直前にしては穏やか過ぎて、歴史的な事実に即していないと言える。確かに年を重ねて円熟の境地に達した人もいたが、多くの場合には死は「やっかいだが順調に来ていた(これまでの)状態を破壊する」という結果をもたらすのだった
【ウィリアム1世の最期】
B.彼は59or60歳で死の床に伏した。乱暴者・略奪者たちは喜び、反対の者は“平和を愛する王”の死に恐れおののいた。年代記作家オルデリクス・ウィターリス(王の死の時には12歳だった)は、この時に起こった多くの出来事を、後の陰惨な事件と結びつけて記述した
C.ウィリアム王はルーアンで6週間病状にあったものの、最後まで意識も物言いもしっかりしていた。ルーアンの町の喧騒を煩わしく思い(市門の前の丘の上にある)サン=ジェルヴェ教会に移り、そこで悪行を悔いて罪を告白した。司教・修道院長・修道士たちが枕元に集まり、瀕死の王に「いかにすれば永遠の生命が得られるか」を説き聞かせた
D.王は「マントの町の教会を焼失させてしまったこと」をどうしても償いたいと思い、贖罪者として教会再建のために多額の金をマントに送った。他にも、聖職者・貧者には遺産が分け与えられ、その額は公証人によって正確に記載するように命じられた
E.そして王は、集まった人々に「誠実・公正・平和を守り、神の掟に従い、教会の特権・神父たちの命令を尊重するよう」に懇願した。続いて涙ながらに、幼年期からの行いについて、自身・居合わせた人々・神に弁明した(あるいは罪を認めた)
F.さらに「現在or過去の政敵を弾劾した,臣下の者たちの長所・短所について述べた,ノルマン人には賞賛・非難の双方を贈った」のだった。そして“幼少の頃から好ましからざる状況(父親の他界,反乱,侵略)のため、戦争を余儀なくされてきた”と振り返る
G.“国内外の敵(イングランド人・スコットランド人・ノルウェー人・デンマーク人)に常に勝利したのも神のご加護があればこそである”“それを感謝して修道院を建立し、教会を庇護し、高位聖職者たちに贈与を行ったが、当然のことである”と言い、後継者たちにも同じことをするように求めた
【イングランド征服と後継者問題】
H.著者オルデリクスはウィリアムのイングランド征服について「継承権をもって王冠を手にしたのではない」「“不実な”ハラルド王はウィリアムに多くの血を流させた」とした上で、ウィリアムを辛辣に批判している→彼に自らの行為を悔いるセリフを与えた:
“私は土地の人々を度を超えて憎んだ。身分高きも低きも残忍に責めさいなんだ。不法に父祖の土地を奪ったこと数知れず、とりわけヨークシャーにおいて無数の人々を飢えと剣によって死に追いやった”
I.憤怒に駆られたウィリアムは、北方のアングル族に襲いかかった。そんな征服戦争についてのセリフ:
“私は彼らの家・収穫その他、彼らが持っているもの全てをすぐさま焼き払わせた。家畜の大群を全て殺させた。敵も味方も構わず、多くの者を刃で罰した。そうして私は-ああ、呪われたこの身よ-あのいとも麗しき種族の者、数千あまりの老いも若きをも葬り去ったのだ”
[※アングル族の表現をからして、著者はノルマン人ではないのだろうか?]
J.後継者問題でウィリアムはまず、嫌々ながらも長子ロバートをノルマンディーの支配者と認めた。さらに“多くの罪を犯しながら得たイングランド王国の支配権を人に譲るようなことはしない。(生前の悪行が死後さらに罰となって返ってくるのを恐れて)王国は神の御手に委ねよう”と口にした
K.ところがこれだけ弁舌を振るった末に、彼は後継者わ指名した。“神の御意志にかなうなら、常変わらず忠実だった息子ウィリアムが(イングランド)王位を継承すべし”と。集まった人々は狼狽し、末子ヘンリーは涙ながらに“それでは一体、自分には何が残っているのか”を尋ねた
⇒王は「銀5,000ポンドを与える」と約束した。するとヘンリーは「後継者が約束を果たすかどうか、分かったものじゃない」と考えたのか、急いで銀を受け取り、信頼できる仲間を集めて財を保管するための堅固な家屋(※城?)を手に入れた
【赦し】
L.そうこうしていると、他の者たち(王に付きっきりの看病をしている医師,官吏,忠誠心を伝えたいと控えている有力者たち)は囚人たちのための取りなしをし始めた。“王よ、どうか彼らをお解き放ちください。赦しを請い、またそれを与えるというのは、真にキリスト教徒に相応しい死に方です”と
M.年代記作家は続いて1人1人の囚人の名を出し、それぞれの釈放に賛成か反対か(=作家自身の反対)を、王の言葉として表す(例:何某はすぐさま謀叛を起こすだろう,誰某は前よりももっとひどい悪事を犯すだろう)
⇒それでも王は「神が自分に対してより寛大であって欲しい」という願いから、囚人を解き放つことを決める
“我は今死に瀕しており、神のお慈悲をもって罪を赦され、救われることを願っている”“それゆえ直ちに全ての牢獄の門を開け、我が弟バイユー司教を除く囚人全員を解き放つことを命じる”
N.釈放された者たちは「イングランドとノルマンディーにおいて、平和を守り平和の敵に力の限り勇敢に立ち向かう、と厳かに誓わねばならない」のだった。獄中で虐待し(しばしば不当に!)たので、その復讐を恐れなければならない囚人に対しては「復讐断念誓約」をさせた
O.人々は「バイユー司教もお赦し下さい」と懇願し始めた。王は最初は拒否したものの、やむを得ず承諾した。年代記作家は王に予言めいたセリフを吐かせる
“我が息絶えるや否や、激しい動乱が起きるであろう”“弟の釈放で多くの者は、死ぬとまではいかないものの、多大な苦難を味わうであろう”
(この後に国事に関する幾つかの指示を、はっきりとした意識で明瞭に与えた)
【最後の瞬間】
P.9月9日の早朝に、王は大聖堂の鐘の音を聞いた。問われた下僕は「聖母マリア教会で第1時課(朝の祈祷)が始まりました」と答える。そして年代記作家は、王に対して麗しい最後の言葉を用意した:
王は敬虔さをたたえた目で天を見つめ、手を差し上げて語った。“神を産み給いし聖母マリアにこの身を捧ぐ。その聖なる嘆願によりて我を、何にもまして愛しき御子・我らが主イエス・キリストに、お取りなし給わんことを”。こう語るや、王は息を引き取った
(7)死に際
【美しい死】
A.死者が「至福の世界へ入る」or「永劫の罰を受ける」かについて「臨終の様子から結末が分かる」と考えられていた。だから年代記作家は著作の中で、死の醜悪な・惨たらしい部分には口を閉ざしていた
⇒人物が臨終の床で痛みに身体をよじらせても、それは“断末魔の苦しみの中で”“死神と闘って”といった簡潔な表現で流した。一方で「地獄に墜ちるべき人々(敵・裏切り者など)」の死の場面では、苦痛の詳細や絶望感が好んで表現された
【死に際の誘惑】
B.臨終の時には聖人ですら悪魔からの誘惑を受けたが、人々はとにかく立ち向かわねばならなかった:
「a.周囲の人々は言葉・身振りで正統信仰を表面した」「b.瀕死の者もできる限り信仰告白に声を合わせた。無理なら代わりの者が彼のために祈った」「c.詩篇その他の祈りが唱えられる」「d.瀕死の者(or死者)に聖水がかけられる」「e.胸の上で腕を組み、両手を合わせて蝋燭を持つ」→「悪魔は遠ざけられ、天国への道が開かれる」という
【死に際にて】
C.死に際に「f.顔と眼差しを天に向けると救われるが、壁に向けると絶望(=神への疑いを示すこと)となり、惨めな死を遂げる」という。また「g.聖人のような敬虔な人物が傍にいてくれる」のも、悪しき敵を追い払うのに役立った
〈例〉教皇ステファヌス9世はクリュニー修道院長ユーグに、臨終を見守ってもらえるように頼んだ
D.また「h.大祭日(とりわけ聖金曜日と〔その2日後の〕復活祭)に死ねれば、それは特別な恩寵と見なされた」「i.簡単な身振りによって、信仰告白の代わりになりえた(例:溺れて水に沈んだある若者は、最後の力を振り絞って、胸の上に親指で十字を切った)」
【最後の言葉】
E.死にゆく者に対して、周りの者は愛のこもった行為(顔の汗を拭き取り、額や唇に接吻する)を与えた。彼はそれを受けながら(喋ることが出来るのならば)信頼に満ちた言葉で感謝を述べた
F.さらに「この世の生への倦怠,天なる故郷への郷愁,長い巡礼の疲れ,この世からの解放への期待」といった、悟りの言葉を漏らすことも度々あった。中世西洋においても「肉体と魂の二元論,肉体の牢獄からの魂の解放」というプラトン哲学の概念は、広く知られていた
G.多くの人間は瀕死の床で幻視力を使えたという。それは単なる「伝記作家による創作」というのではなく、伝えられるところでは「昔の人間は死ぬ間際になって、日常のめまぐるしさに縛り付けられている者には与えられない才能=『本質的なものとそうでないものを区別する力』を手にした」という
【ケルン大司教アンノの最後の言葉】
H.多くの人々にとって失敗・罪は、たとえとっくに(懺悔の時に)告白していたとしても、最期の瞬間まで「魂にのしかかっていた」と思われる:
1.「彼はケルンの有力商人に賦役を課したことから、都市(指導者を構成する商人層)と激しく対立した」
2.「商人たちは賦課を不当として立ち上がり、武装して対決した。アンノは暴動を鎮圧し、首謀者を体刑に処し、財産を没収した。後に彼の列聖のために記録された奇蹟譚の中ですら“治した目よりもくり抜かせた目の方が多かった”と非難された」
3.「しかもケルンのみならず、その後も他の政敵と長く対立関係にあった」
4.「そんな彼は死の間際、両手を高く上げて繰り返し都市の平和を祈った。“聖母マリアよ、哀れな者を救いたまえ、間もなく没落するであろう都市を救いたまえ”」
5.「少し休んだところでアンノは『恐ろしい光景』を目にし、改めてマリアに“このような災いを我が目に見せることなかれ”と祈った。さらにしばしの沈黙の後、彼はペトロをはじめとする聖人たちにも、ケルンのための助力を求めた」
6.「そしてため息をつき、ほとんど聞こえない声で最後の言葉を諸聖人に向けた。“最高位の王と交わりを結び、有り難くも一体となる聖人たちよ、あなた方の代願の、幸運をもたらすその力がケルンを救わんことを”」
7.「彼の最後の言葉(4.~6.)は、彼が創建したジークブルク修道院の修道士たちが伝えたものである」
8.「しかしこの言葉とは反対に、彼はケルンとは和解していなかったと考えられる。彼はケルンの司教座教会ではなくジークブルク修道院に葬られることを望んだが、これはケルンとの関係が修復されていなかったことを示している」
【本物?創作?】
I.何度も伝えられている最後の言葉はかなり様式化されていたようだ。しかしそれは「敬虔さが生み出した捏造」というものでは決してない。それは「『かくかくしかじかの言葉をこのように口にして死にたい』という故人の生前の発言があって、伝記作家がそれを引用した」という
〈例〉アッシジのフランチェスコは死の床で、自分が作詞した『太陽の賛歌』を歌ってもらった。最後の詩節の前に、彼は数行を付け加えた
J.最後の言葉を本物と考えてよいケースは「それが普通とは違っている」場合である
〈例1〉尊者ベーダ
彼は臨終の床で、ヨハネによる福音書の翻訳を完成させることができた。ベーダの下で働いていた書記ウィルベルトが“師よ、まだ訳していない文が1つあります”と言うと、ベーダは“記しなさい”と答えた
しばらくしてウィルベルトが“訳し終えました”と言うと、ベーダは“よろしい、全てが終わった。お前は本当のことを申した”と言い、そして最後に“父と子と聖霊に栄光あれ、云々(etc.)”と祈りを唱えてから、息を引き取った。ベーダが言えなかった「云々」の部分は「始まりがかくありしごとく、今も常に永遠にそうあれかし、アーメン」という文言である
〈例2〉レーゲンスブルク(994年)
同司教ヴォルフガンクはお気に入りの弟子タギーノ(後のマクデブルク大司教)を呼び寄せ「そなたはレーゲンスブルク司教かもしくはそれ以上の高位に就くだろう」と語った(←ここまでは年代記によく出てくるパターン)。通常と異なるのは、この「予言」に先立ってヴォルフガンクが“愛する息子よ、そなたの口をわが口に重ね、神よりわが魂の息を受けよ”と告げる部分である
☆この話の記録者は、ザクセン司教ティートマール(彼は死に関することなら何にでも興味を持った)
〈例3〉エラスムス
ロッテルダム生まれの彼の最後の言葉はラテン語ではなく母国語だった。この場合も本物の最後の言葉と考えられる
(8)イングランド王の死(1087年)
A.上記(1)~(7)の内容は、死ぬ直前にしては穏やか過ぎて、歴史的な事実に即していないと言える。確かに年を重ねて円熟の境地に達した人もいたが、多くの場合には死は「やっかいだが順調に来ていた(これまでの)状態を破壊する」という結果をもたらすのだった
【ウィリアム1世の最期】
B.彼は59or60歳で死の床に伏した。乱暴者・略奪者たちは喜び、反対の者は“平和を愛する王”の死に恐れおののいた。年代記作家オルデリクス・ウィターリス(王の死の時には12歳だった)は、この時に起こった多くの出来事を、後の陰惨な事件と結びつけて記述した
C.ウィリアム王はルーアンで6週間病状にあったものの、最後まで意識も物言いもしっかりしていた。ルーアンの町の喧騒を煩わしく思い(市門の前の丘の上にある)サン=ジェルヴェ教会に移り、そこで悪行を悔いて罪を告白した。司教・修道院長・修道士たちが枕元に集まり、瀕死の王に「いかにすれば永遠の生命が得られるか」を説き聞かせた
D.王は「マントの町の教会を焼失させてしまったこと」をどうしても償いたいと思い、贖罪者として教会再建のために多額の金をマントに送った。他にも、聖職者・貧者には遺産が分け与えられ、その額は公証人によって正確に記載するように命じられた
E.そして王は、集まった人々に「誠実・公正・平和を守り、神の掟に従い、教会の特権・神父たちの命令を尊重するよう」に懇願した。続いて涙ながらに、幼年期からの行いについて、自身・居合わせた人々・神に弁明した(あるいは罪を認めた)
F.さらに「現在or過去の政敵を弾劾した,臣下の者たちの長所・短所について述べた,ノルマン人には賞賛・非難の双方を贈った」のだった。そして“幼少の頃から好ましからざる状況(父親の他界,反乱,侵略)のため、戦争を余儀なくされてきた”と振り返る
G.“国内外の敵(イングランド人・スコットランド人・ノルウェー人・デンマーク人)に常に勝利したのも神のご加護があればこそである”“それを感謝して修道院を建立し、教会を庇護し、高位聖職者たちに贈与を行ったが、当然のことである”と言い、後継者たちにも同じことをするように求めた
【イングランド征服と後継者問題】
H.著者オルデリクスはウィリアムのイングランド征服について「継承権をもって王冠を手にしたのではない」「“不実な”ハラルド王はウィリアムに多くの血を流させた」とした上で、ウィリアムを辛辣に批判している→彼に自らの行為を悔いるセリフを与えた:
“私は土地の人々を度を超えて憎んだ。身分高きも低きも残忍に責めさいなんだ。不法に父祖の土地を奪ったこと数知れず、とりわけヨークシャーにおいて無数の人々を飢えと剣によって死に追いやった”
I.憤怒に駆られたウィリアムは、北方のアングル族に襲いかかった。そんな征服戦争についてのセリフ:
“私は彼らの家・収穫その他、彼らが持っているもの全てをすぐさま焼き払わせた。家畜の大群を全て殺させた。敵も味方も構わず、多くの者を刃で罰した。そうして私は-ああ、呪われたこの身よ-あのいとも麗しき種族の者、数千あまりの老いも若きをも葬り去ったのだ”
[※アングル族の表現をからして、著者はノルマン人ではないのだろうか?]
J.後継者問題でウィリアムはまず、嫌々ながらも長子ロバートをノルマンディーの支配者と認めた。さらに“多くの罪を犯しながら得たイングランド王国の支配権を人に譲るようなことはしない。(生前の悪行が死後さらに罰となって返ってくるのを恐れて)王国は神の御手に委ねよう”と口にした
K.ところがこれだけ弁舌を振るった末に、彼は後継者わ指名した。“神の御意志にかなうなら、常変わらず忠実だった息子ウィリアムが(イングランド)王位を継承すべし”と。集まった人々は狼狽し、末子ヘンリーは涙ながらに“それでは一体、自分には何が残っているのか”を尋ねた
⇒王は「銀5,000ポンドを与える」と約束した。するとヘンリーは「後継者が約束を果たすかどうか、分かったものじゃない」と考えたのか、急いで銀を受け取り、信頼できる仲間を集めて財を保管するための堅固な家屋(※城?)を手に入れた
【赦し】
L.そうこうしていると、他の者たち(王に付きっきりの看病をしている医師,官吏,忠誠心を伝えたいと控えている有力者たち)は囚人たちのための取りなしをし始めた。“王よ、どうか彼らをお解き放ちください。赦しを請い、またそれを与えるというのは、真にキリスト教徒に相応しい死に方です”と
M.年代記作家は続いて1人1人の囚人の名を出し、それぞれの釈放に賛成か反対か(=作家自身の反対)を、王の言葉として表す(例:何某はすぐさま謀叛を起こすだろう,誰某は前よりももっとひどい悪事を犯すだろう)
⇒それでも王は「神が自分に対してより寛大であって欲しい」という願いから、囚人を解き放つことを決める
“我は今死に瀕しており、神のお慈悲をもって罪を赦され、救われることを願っている”“それゆえ直ちに全ての牢獄の門を開け、我が弟バイユー司教を除く囚人全員を解き放つことを命じる”
N.釈放された者たちは「イングランドとノルマンディーにおいて、平和を守り平和の敵に力の限り勇敢に立ち向かう、と厳かに誓わねばならない」のだった。獄中で虐待し(しばしば不当に!)たので、その復讐を恐れなければならない囚人に対しては「復讐断念誓約」をさせた
O.人々は「バイユー司教もお赦し下さい」と懇願し始めた。王は最初は拒否したものの、やむを得ず承諾した。年代記作家は王に予言めいたセリフを吐かせる
“我が息絶えるや否や、激しい動乱が起きるであろう”“弟の釈放で多くの者は、死ぬとまではいかないものの、多大な苦難を味わうであろう”
(この後に国事に関する幾つかの指示を、はっきりとした意識で明瞭に与えた)
【最後の瞬間】
P.9月9日の早朝に、王は大聖堂の鐘の音を聞いた。問われた下僕は「聖母マリア教会で第1時課(朝の祈祷)が始まりました」と答える。そして年代記作家は、王に対して麗しい最後の言葉を用意した:
王は敬虔さをたたえた目で天を見つめ、手を差し上げて語った。“神を産み給いし聖母マリアにこの身を捧ぐ。その聖なる嘆願によりて我を、何にもまして愛しき御子・我らが主イエス・キリストに、お取りなし給わんことを”。こう語るや、王は息を引き取った