『中世の死』N・オーラーから[11]


○死者の場所


(1)埋葬場所

 A.死者たちは「彼らのために用意された場所で、平和のうちに眠る」権利を(多くの場合刑法によって)与えられていた。死者の共同体のための特別な場所は“Friedhof”(ドイツ語)“cimetiere”(フランス語)“Nekropole”(死者の町:ギリシア語)と呼ばれている。Friedhofは「法律の保護下にある、柵で囲われた空間」を意味する
 B.cimetiereはギリシア語の「眠る」に由来する単語である。つまり、ギリシア人もローマ人も、墓地を「死者が眠る場所」と考えており、このイメージがキリスト教の教え(霊魂の不滅・死者の復活を説く)と一致していた
 C.居住地域の外にある墓地は、南・東ドイツでは“Gottesacker”(神の畑)め呼ばれる。これは“campnsanto”(聖なる畑:イタリア語)に相応している。この表現は『麦の粒の喩え』のようなキリスト教説話(★)を想起させる
 ★1粒の麦は、地に落ちて死ななければ、1粒のままである。しかしもし死ねば、多くの実を結ぶ

【紀元前:市外での埋葬】
 D.ローマの12表法では「死者を市内で埋葬or火葬してはならない」と定めた。しかしこの禁令は何度も繰り返し出された(→禁令は効果が無かった)。ユスティニアヌスの時代には、都市の発展によって禁令はとっくに無効となっていた

【キリスト教から見た埋葬】
 E.紀元前の地中海文明では「死後埋葬なしに放置されるのは恥」とされた(ゲルマン人・スラヴ人もそうだった)。しかし多くのキリスト教徒はこの考え方を捨てた→「殉教後に鳥・犬の餌として死体を投げ与えられた人物」を、聖人として崇めた
 F.キリスト教徒にとって、埋葬されたか否かという事実はあの世においては何の意味もない。実際、教父アウグスティヌスは『神の国』において「遺体の世話・埋葬の手配・葬送の式典は、死者に対する奉仕というよりも“生者にとっての慰めである”」と述べている
 G.ただしこのような見解(原理主義的?)は、紀元前からの伝統的な考え方を押しのけて主張されたのではない。伝統の支配下にあった人々にとって「祈り・善行によって死者を気遣う方がもっともである」。さらにキリスト教徒は、もし「信者の遺体が異教徒の横に埋葬される」のなら、ひょっとしたら「墓が汚される,信者の復活が妨げられる」かも、と恐れた
 ⇒この考え方は近世まで残り、カトリックとプロテスタントの墓地は分離された
 ★墓が隣となる(=死者の共同体)から除外されたのは「他宗派の人間」「教説によって至福に与れないとされた人々全て:ユダヤ人,犯罪者,自殺者,異端者,未洗礼の子供たち」である

【聖人の傍らへの埋葬】
 H.キリスト教徒はローマ帝国の慣習を受け継ぎ、死者は市外に葬られた(例外:場所の不足,被迫害時代のカタコンベでの埋葬)。墓が市外であっても、市街地の中心からの放射状道路近くにある(例:ローマではアッピア街道の両脇)のなら、訪れるのも簡単だった
 I.この墓に、死後「3日目,7日目,9日目,30日目,40日目,年に一度の命日」に墓参りする習慣は広まっていく。これら“記念日”は現代ても大事にされている
 J.ローマ帝国のキリスト教化によって、多くの者が「聖人の傍らへの埋葬」を希望するようになる。そうすれば、聖人を「あの世での強力な代願者にできる」と信じられたからである。その殉教者の墓の上には「いわゆる『墳墓教会』が建てられた」「信者たちはここで礼拝を行い、殉教者を追慕した」
 K.さらに一歩進んで、人々は生きているうちから聖人の側で暮らすことを望むようになる。そのため、ローマ時代の市壁の外に建てられた墳墓教会が新興集落の中心となる→都市の郊外となった(例:ローマ,トゥールーズ,アルル,ケルン,トリーア)
 ☆逆にこの新しい住宅地のために、古くからの集落が完全に捨て去られてしまうケースもある(例:ライン川下流の都市クサンテン)
 L.ブラガでの教会会議(536年)によって、死者を教会の外(=市内)に埋葬することが認められ、古代地中海地域に特徴的だった「生者と死者の棲み分け」は廃止へと向かう

【教会内への埋葬】
 M.人々の「死後もできるだけ聖人の側にいたい」という欲求は、墳墓教会(or墓の上に建てられた礼拝堂)の存在によって「できることならば教会内に葬られたい」という願いへと変わった(聖職者も俗人も)。これに対して、教会サイドはナントの教会会議(7世紀)で「教会内への埋葬はダメ。せいぜい中庭or回廊まで」という禁令を出した
 N.しかしそのような禁令は、人々の動きを止められなかった:
「1.まず最初に司教・修道院長が、自分が出した禁令を無視した」→「2.王や高位貴族が、自分の墓所にするために建設した教会内に葬られるのを、拒否できなかった」→「3.例外は拡大し、修道士・司祭だけでなく『教会のために貢献したor特に信心深かった』俗人にも認められた」
 O.3.まで拡大されれば、人々は教会内に葬られたいのだから「自分は信心深かった」と主張するようになる。こうして「4.本人or家族が願い出さえすれば、全ての俗人に教会内への埋葬が許されるようになった(12世紀)」
 P.特に人気のある教会(例:ローマの聖ピエトロ大聖堂)は、望む者全てを受け入れることができなくなり、新たな規則が必要となる。そして教会は常に財政難に悩まされていた→「金持ちの優遇」に繋がる(「金持ちを優遇してはならない」と繰り返し警告が出されている)


(2)異民族の墓地(ローマ帝国外)

 A.ローマ帝国に侵入する以前のゲルマン人・スラヴ人・フン族・アヴァール人は「法・城壁によって周辺地域から隔てられた都市」にではなく「郊外に緩やかな集落を形成して暮らしていた」
 ⇒生者/死者に割り当てられた領域は、ギリシア人・ローマ人ほどはっきりと分かれていない
 ★考古学での調査において、彼らの集落の存在証拠は墓地しかない、という場合も多い。彼らは「住居を木・籐(とう)・粘土で作った」ので、痕跡が残っていない(科学技術によって検出可能な残余物を除いて)
 B.ゲルマン人・スラヴ人は、死者を葬るやり方が部族ごとに違っていて、それらは様々な「流行」の影響を受けた。民族大移動期においては「キリスト教と異教の要素がじかに接触し、共存していた」「死者は(以前と変わらず)たいてい墓地に葬られていた」
 C.墓地には死者の社会的階層が見事に反映されている。後に貴族と呼ばれることになる者たち(名声・権力・財力・家来の数が抜きん出ていた)は、死者に豪華な墓を与えた。その特徴は「a.一般の墓地から離れた場所にある」「b.土を盛り上げて古墳になっている」「c.副葬品が豪華である」など
 D.この地域においては文献資料はほとんど残されておらず、考古学において発掘品は貴重である
〈例〉アレマン人の列状墓:
 南西ドイツ地方史(5~8世紀初)で最も重要な資料である。そこでは「重要な個々の墓or集団墓地の状態」から「その地域の入植が継続的だったかor断続的だったか」が分かる。さらに発掘された骨からは「被埋葬者の年齢,身長,性別,健康状態,病気,当時の医師の能力」までもが判定できる


(3)副葬品など

【一般論】
 A.副葬品が存在する=「遺された者たちが死後の生命の存在を確信していた」ことを示している。彼らは「あの世での身分相応の生活を保証する品々」を、死者のために墓の中へ入れた
 B.墓・副葬品・その他の状況からは「手工業の技量,農業,産業,貿易,交通,男女関係,法,宗教観,死者の社会的地位」などを推測できる
〈例〉「男性と女性は一緒に埋葬されているか?」「副葬品は男女同程度の価値を持っているか?」「夫と共に埋葬されるために『未亡人が殺された』or『自ら命を絶った』形跡があるか?」
 C.女性の墓からよく見つかるのは「指輪,首飾り,ブローチ,食器,家事道具(ナイフ・コップ・陶製〔orガラス製〕の瓶&水差し・糸巻き棒),お手入れ用品(鏡・櫛・ヘアピン・毛抜き)」などである。男性の墓に入れられたのは「硬貨,武器,装飾品」である
 ☆ただし男性の墓の装飾品は「細工に必要な道具(例:金細工用,精密細工用)のおまけ」という色合いが濃い
 D.死者のために墓の中に馬を埋葬することも、時には行われた(これはキリスト教化前も、その後も)。その意味は「戦士に相応しくヴァルハラに入城するため?」or「死者と彼が所属する部族の卓越した地位を示すため?」。結論は出せないという(補足する文献資料が無いから)

【キリスト教化後】
 E.キリスト教徒は土葬を好んだ。彼らは「死者を仰向けに寝かせて、顔を天上に、頭をイェルサレム(東方にある、と考えられていた)に向けて」葬った。イェルサレムには「いつの日が世界の裁き手が現れる」のだ
 F.副葬品にはキリスト教のシンボル・銘が付けられるようになる
〈例1〉“願わくは君、神の内に生きんことを”という言葉は、死後の生命への確信を表している
〈例2〉「十字の印が付いた」or「十字架の形に作られた」副葬品には、永遠の至福への願いが込められていた
〈例3〉金葉十字(薄い金属片から切り出されたor2枚の金属の帯を十字に組み合わせたもの)は、使われた形跡の無いものが裕福な人物の墓に入れられた(7世紀前半の墓から)。縁に小さい穴が開いている→「死者の顔を覆った布(薄いベールのようなもの?)に縫い付けられていた」ようだ
 ★キリスト教化によっても副葬品の習慣は廃止されなかった。このため、中世の芸術文化や日常/祝祭について、後世の人々は知ることができた
 ★ローマ帝国時代には、高位高官が亡くなると「湯灌(ゆかん)を受け、香油を塗られた後で、職務服を着せられた」。その他の人々も、その階級にふさわしい衣服を着せられた
 H.トリーア大司教ルオドベルト(在位931‐956年)の棺から見つかった「黄金の杯」は、墓から見つかった物としてはは最古の杯である。この杯を入れた動機は不明:「旅に持ち歩く道具?」or「“永遠の旅路”のための物?」or「裁き手=神の前で、自分の業績を説明できる証拠品?」
 I.中世初期の世俗の権力者は「支配権の印,財宝の一部」とともに葬られた。以下はトゥールネで発見(1653年)されたヒルデリヒ1世(482年没)の墓から(ただし発見品の大部分は19世紀に盗難に遭ったという):
「a.王の胸像を彫った印章付きの黄金の指輪」「b.緋色の豪華な衣装」「c.キリスト教の十字架が付いたローマ風の黄金のマント留め」「d.剣を持つ手の手首に着けられていた金の輪」「e.黄金の牛頭(部族と関係した護符のようなもの?)」「f.装飾豊かな黄金の蝉(意味はよく分かっていない)」「g.武器,硬貨」「h.遺体は木棺に納められている」
 J.やがて副葬品は簡素になっていく(フランス:8世紀~,イングランド:9世紀~)が、副葬品が無くなったのではない。聖俗の権力者の墓には(引き続いて)支配の印が入れられた
〈例〉カール大帝は「宝石を象嵌された黄金の冠,純金から作られた王笏・剣」だった。コンラート2世とその妻ギゼーラの埋葬用冠は「さほど貴重ではない金属で作られた質素な物」である

【巡礼の記念品】
 K.巡礼者は「貝殻(サンティアゴ・デ・コンポステラから),金属で鋳造された記念品(他の巡礼地から),棕櫚の枝(イェルサレムから)」を記念に持って帰った。これは「生前に巡礼を行った証拠となる」「あの世への旅路の助けとなる」のだった(もちろん聖人による神へのとりなしを期待してのこと)


(4)墓泥棒

【墓のジレンマ】
 A.墓はそれと分からなければならないし、未来の人々に強い印象を与えねばならない。しかし一方で、泥棒は閉め出さねばならない。そこで墓泥棒に対する厳しい罰によって「死者の安息を脅かしてはならない」という禁令を裏打ちした(古代エジプト~)
〈例〉アレマン人の法は「殺人者に40~50シリングの罰金(犠牲者が鉄工or金工のケース)」を課していたが、墓泥棒には80シリングの罰金刑を与えている
 B.「神の裁き」も引き合いに出して、墓泥棒に警告を発していた
〈例〉ヘローナ(スペイン)にある聖ナルキススの墓を暴いた泥棒は、蚊に殺されたという(1286年)
 C.荒らされていない(or少ししか略奪されていない)墓があったなら、それには幾つかの理由が考えられる:「禁令が実際に奏効した,死者が復讐すると信じられていた,墓掘り人夫が墓完成の暁に殺された…etc.」
 D.墓泥棒も簡単ではなかった:「簡単な道具を使って、1人で墓室まで掘り進むには長い時間がかかった」「掘り当てた古墳に高価な副葬品があるとは限らない。もしかしたら自分より先に誰かが来ているかも知れない」のである
 E.墓は慎重に隠されることが多い
〈例1〉(伝説によると)西ゴート族の長アラリック1世(410年没)は、コセンツァ(カラブリア地方)付近で迂回するブセント川の河床に葬られた
〈例2〉カール大帝の墓はアーヘン大聖堂の中で、ノルマン人侵入(882年)を前にして、場所が分からないようにされていた。皇帝オットー3世の家臣たちはさんざん探してようやく見つけた(1000年)
 F.「墓泥棒」を定義するのは難しい場合がある。というのも、君主・聖人の墓は掘り返されることがあるから
〈例〉上記皇帝オットー3世は「生きているかのように見えるカール大帝の爪を切り取り、口から歯を抜いた」「遺体の首に引っかかっていた黄金の冠、まだ朽ちていない衣服の一部を取り、その他のものは畏敬の念を込めて元に戻した」という。しかし皇帝は、時を経ずして「永遠の裁き手の罰を受けた」(→1002年に亡くなった)


(5)中世初期の墓地

【私有教会への埋葬】
 A.新たな支配者となったゲルマンの権力者たちは、征服した広大な土地(旧ローマ帝国の民が耕している)を私有地とした。キリスト教化の後に、彼ら支配者は(かつてローマ帝国の大土地所有者がしたように)自腹を切って私有教会を建立した:
「a.その多くは、英雄と崇められた先祖の墓・教会建立者の墓の上に建てられた」「b.臣下の中から雇われ司祭を選んだ」「c.司祭は主人に忠実で、生者・死者の魂の安寧を祈った」
 B.アレマン人は死者を列状墓に葬らなくなる(700年~)。代わりに「君主・夫人・子供たちは教会の中」「広い意味での家構成員(家臣・農奴)は教会の中庭」に葬られるようになった
 C.このような私有教会の多くは(数世紀の内に)教区教会が持つ権利=「子供の洗礼,結婚の祝福,死者の埋葬:これらは教区主任司祭が持つ特権である」を失った

【支配と規律の手段として】
 D.カール大帝は数十年間にわたってザクセンの征服戦争を繰り広げた。彼は異教徒であるザクセン人をキリスト教の支配体制に組み込むために、戦いの手段として死者の埋葬を利用した:
「a.異教の慣習に従って遺体を火葬にした者は死刑とする」「b.キリスト教徒となったザクセン人の遺体は“異教徒の古墳”ではなく、教会墓地に運ぶこと-これによってキリスト教徒と見なす」
 E.この命令によって「c.古くからの部族の慣習に忠実な者は『帝国法に抵触する』=『法の保護外に置かれる』ことになった」。一方で「d.カール大帝の命令を聞き入れた(保護下に置かれた)ザクセン人は、そのことがキリスト教徒への改宗を意味した」。しかしそれは「e.多くの部族民から『先祖代々の慣習・信仰に対する裏切り者』と見られた」のだ
 F.それ以降、教会は信者に「良き振る舞い」を要求した。そうしなければ「本人・親族を教会に埋葬させないぞ」という脅しも使われた
 ☆教会への埋葬を拒否されれば「1.死の床・教会・墓の傍らで捧げられる祈りの恩恵に浴することができない」のだ。「2.運が良ければ、墓地を囲む塀の向こう側にでも埋めてもらえる」が「3.皮を剥がれた動物と一緒に穴に投げ込まれる」こともあったと思われる
『中世の死』N・オーラーから[10]


(13)高位聖職者の死

【豪華な葬儀】
 A.トゥールのマルタンの葬儀の様子を記録した伝記によると「ものすごい数の人間が押しかけた」「“天上の賢者”とともに、百姓・市民・乙女・(マルタンによって神に仕える身となった)修道士たちが、故人に付き添った」という。この伝記作家は、マルタンの葬儀を「敗者に先頭を歩かせる、異教徒の君主の凱旋式」と比較するのだが、より大きな勝利を得たのは(当然のことながら)マルタンであった
 B.聖職者の多くは質素に埋葬されたが、ケルン大司教アンノ(生前ケルン市民と泥沼の争いを繰り広げた)の場合には違った。「アンノの遺体は約1週間(1075年11月4日~11日)ケルンの教会から他の教会へ運ばれた」だけでなく「初日にアンノは、司教衣を身にまとった豪華絢爛たる姿」で「ミンデン司教と“高貴なる”聖職者たちの立ち会いのもと、教区司祭・修道司祭・あらゆる身分の老若男女に付き添われ、鐘の鳴り響く中で」「遺体ではなく凱旋将軍のように大聖堂へと運ばれ、その中央の沢山の蝋燭で飾られた豪華なシャンデリアの下に恭しく安置された」という
 ★この葬列は、古代ローマ帝国の葬儀祭礼を真似たものであり、しかも教会はその効果をいっそう高めようとした!

【教皇の遺体毀損】
 C.教皇戴冠の際に「棒の上の麻くずの束に3度火を着ける」という習慣(11世紀~?)では、麻くずは焼き尽くされて3度“聖なる父よ、この世の栄華はかく滅びる”と唱える。キリストの代理人として世俗君主の上に君臨した瞬間に、現世での名声の儚さがこれほどハッキリと伝えられる
 D.この劇的な行為により、多くの教皇は「前任者たちの運命」を思い起こしたと思われる。キリスト教徒では「死の床にあっても同志に尊敬される,死ねば恭しく埋葬される」というのが当然であるべき筈だが、教皇にとっては必ずしも当然ではなかった
〈例1〉ジャック・ド・ヴィトリが聖地にあるアッコンの司教に任命され、任地に赴く途中でペルージャにおいて目にしたのは「(中世で最も権勢を振るった)教皇インノケンティウス3世(1216年没)の遺体が、まだ埋葬が済まされないまま、ほとんど裸で悪臭を放ちながら、教会に放置されていた」光景だった。豪華な衣裳(教皇が身にまとって葬られる筈だった)は夜のうちに剥ぎ取られてしまっていた!
 ☆そのインノケンティウス3世も、教皇就任以前にローター枢機卿であった時期に、人間存在の儚さについて文章を記した(あたかも中世後期の「メメント・モリ」を100年以上も先取りしたかのような!)
 E.しかしこのような、教皇の遺体から身包みを剥ぐ(それも息を飲むような早さで!)行為は、中世において繰り返し発生している
〈例2〉息を引き取った教皇シクストゥス4世に香油を塗るため、遺体を別室へと運んだ。するとあっと言う間に、臨終の部屋にあった物は全て消え失せた(1484年)。この動機が「単なる物欲」なのか「聖遺物or思い出の品が欲しかった'だけ'」なのかは不明である
 F.上記のような遺体に対する情け容赦ない仕打ちは「高位聖職者の遺体から略奪してはならない」という禁令を繰り返し発さねばならないほど、多発していた。文献資料にも日常茶飯事に登場するこの悪行は“習慣”“彼ら(ローマ人)がしていたように”と表現されている→ほとんど慣習法のようだ!
 G.そもそも法律家の意見は「死者からの略奪は許されない」と明確であった。にもかかわらずこの習慣が存在していたのは明らかである。こんな訳で、教皇は「通夜の祈りを捧げてもらう」ことも期待できなかった
〈例3〉教皇が故郷から連れてきた(=ローマの支配体制に組み込まれていない)従者たちが早い目に警備を敷いたおかげで、略奪を阻止できたケースもある
〈例4〉教皇インノケンティウス4世の遺体は“最期の時を迎えたローマ教皇にありがちなように”藁の上に独りぼっちで裸で寝かされていた(ナポリ:1254年)
〈例5〉クレメンス5世の遺体の周りには、ともかく蝋燭が灯されていた。ところが夜になってそれが倒れ、遺体の一部が焼けてしまった←遺体の側には誰もいなかった!(1314年)
 H.全ての教皇が墓に安眠できたわけではない。政治的に葬られ、遺体を罪人のごとく扱われた教皇フォルモスス(896年没)のような極端なケースもある
[1.ローマの教会会議(897年)]
 教皇ステファノ6世が座長を務めたこの会議では、前任者のフォルモススが裁かれた。ステファノはフォルモススの遺体を棺から引き出し、教皇の正装をさせて教会会議の場へ運び、教皇座に座らせた。複数の告訴人・1名の弁護人も選出されて、あたかもフォルモススが生きているかのように裁判が始まった
[2.判決の執行]
 裁判の結果「a.フォルモススは退位させられた」「b.彼が与えた聖職位を始め、彼の全ての職務行為の無効が宣言された」「c.聖職剥奪は、死者から教皇衣が(下着に至るまで)剥ぎ取られ、俗人の衣服が着せられた」「d.右手の指2本が切り落とされたのは、退位させられた彼が『2度と再び教皇として祝福を与える・聖職叙任を行うなどができない』ということを象徴として示すためである」
[3.遺体投棄]
 辱めを受けた遺体は「e.汚らわしい侵入者のように教会の外に引きずり出され、ローマで死んだ巡礼者たちの墓に投げ込まれた」が、それだけでなく「f.後にステファノはもう一度死体を墓から掘り起こし、ティベレ川に投げ込ませた」。死体は流されて岸辺に打ち上げられ、発見したある修道士が秘かに埋葬した
[4.因果応報]
 しかし半年後には、ステファノはローマ人たちに捕らえられ、退位させられて、牢獄で絞首刑になった。人々は「因果応報だ」と噂しあった

【遺産への請求権】
 I.司教・枢機卿ですら死後の略奪を免れなかった。当時の人々は(上記F.のように)死後の略奪を犯罪ではなく慣習と捉えていたようで、死んだ司教の財産を略奪するのが慣例となっていた(古代末期~)
 J.しかし「司教の遺産は誰の物か?」という問題が存在する。司教は正式な結婚が出来ないのだから、相続権のある子供はいない。この場合、強奪・略奪は「請求権」に転化する
 ⇒教会の歴史の中で、様々な機関が請求権を主張した。「古代末期:聖職者・都市住民」「中世初期:世俗領主」「13世紀~:教皇」
 K.空位期間(=教皇・司教の死後にその座が埋められない期間)の「権力を誰が担うのか」という問題は重大であった。中世後期では「教皇はキリストの代理人・ペトロの後継者・絶大な権力の持ち主として唯一無二である」→「その空位期間中は枢機卿団といえども、その代役を務めることはできない」(枢機卿団に与えられているのは、特別な緊急時における制限付きの権利のみ)
 ⇒教皇位の空位期間が訪れる度に、権力の空白が生じた。このために「教皇の遺骸からの略奪」が「国王の遺骸からの略奪」よりも多発した、と考えられる

【世俗権力による叙任権】
 L.中世ドイツ帝国では(少数の例外を除いて)司教・修道院長は「帝国教会」を形成し「帝国からの保護と引き換えに、帝国へ奉仕する義務を負っていた」。それゆえに国王は「帝国内の修道院長・司教に対する任命権」を保持し続けようとした
 M.帝国から任命された司教・修道院長の動産は、さほど魅力的ではなかった(それがいかに価値あるものであっても)。むしろ国王にとって「後継者を任命するまでの期間に『国王が帝国のためにその職務を代行する』という名目で要求する収入」の方が大きかった
 ⇒この収入を目当てに、多くの支配者が新司教・新修道院長の任命を先延ばしにした。このことは修道院・司教区での生活に(たいていの場合)悪影響をもたらした


(14)王の死

 A.教皇が死んだ場合の略奪は普通のことであったが、国王の場合は例外的なケースである。その中でもイングランド王&ノルマンディー公ウィリアム1世(1087年没)の例について
[1.王の死とともに]
 取り巻きの貴族たちは馬に跨がって、自分の財産を守るために領地へ帰った。主人たちの振る舞いを見た従者たちは、あらゆる王家の家財道具を奪った。王の遺体を裸に剥いて広間に転がし、彼らは逃げていった。これを報告したオルデリークス・ウィターリス曰く“まず最初に人々は、盗みを罰したその人から盗むのだ”
[2.ルーアンにて]
 領主(ノルマンディー公)を失った市民は激しい不安に駆られ、貴重品を安全な場所へ隠した。最初に聖職者・修道士が平静を取り戻し、彼らは「正装して十字架・高炉を持ち市外へ行進した」→「サン=ジェルヴェ教会でキリスト教の慣習に則り、王の魂を神に委ねた」。この後にルーアン大司教がイニシアティヴを取り、王の遺体をカンに送らせた。王はカンにある聖ステファノ・バジリカに埋葬されることとなった
[3.王の取り巻きたちの動き]
 弟を初めとする親族は去ってしまい、従者たちも王を見捨て、家臣の中にも死者っその埋葬に心を砕く者は1人もいなかった。ついにある騎士が憐れみ、自腹を切って必要なもの全てを手配した
[4.カンにて]
 修道院長・修道士・聖職者・俗人が、荘厳な行列で王の遺体を迎えた。そこに突然大火事が発生し、誰もが右往左往した後に消火に走った。修道士たちだけが、始まった礼拝を最後まで続け、詩篇を歌いながら遺体を修道院付属教会へと運んでいった。王国内でも司教・修道院長たちは、死者のためのミサに集まった
[5.弔辞]
 棺台に横たえられた遺体を前にして、エヴルー司教ジルベールが「高潔」をテーマとした弔辞を読み上げた。その中では死者の人となりと業績が讃えられた。最後に、すすり泣く民衆に向けて「死すべき運命にある者で、この世で罪を犯さぬ者はなく、亡くなった公も代願の祈りを必要としている。ウィリアムに害を受けた者は、快く彼を許すように」と要請がなされた
 ★(一般論として)弔辞の中で、死者の人生における光の部分だけでなく、影の部分を指摘することは可能であったが、多くの弔辞は真実だけでなく、配慮・礼儀にも重きを置いていた。なぜなら、故人を悪く言えば「一族の名誉が汚されたとして、激昂した親族が復讐にやって来る」かも知れなかったから
 ★文献に残っている弔辞は、実際に読み上げられたものでない場合が多い。それは死者の業績を後世に伝えるためのイメージ戦略であった(≒伝記)
[6.死者の告発]
 司教の言葉を受けて周りでは大騒ぎとなった。ある男が「公は自分の父から、この土地を力ずくで奪った。公はこの行為への補償を拒否し、この土地に教会を建立してしまった」と告発した。男は「神の名にかけて、盗人の死体を自分の土で覆い、自分が受け継いだ土地に埋葬することを禁じる!」としたのだ
 司教を初め有力者たちは茫然自失となった。さらに証人が供述を保証すると「出来るだけ速やかに争いを収拾しよう」とした→友好的な言葉・高額の補償で、告発者は宥められた
[7.最後の災難]
 王の遺体を下ろしてみると、棺は長さも幅も小さいことが分かった(石工の仕事の杜撰なこと!)。人々は遺体を無理やり棺に押し込もうとすると、太った遺体はパックリと割れ、耐え難い悪臭が列席者を包んだ。香煙も(香炉にふんだんにくべられた)香料も、吐き気を催す臭いに太刀打ちできなかった。司祭たちは葬儀を急いで終わらせた

【王死して国残る】
 B.しかし(聖界とは違い)世俗権力の世界においては、早いうちから「官職不滅の観念」が作り上げられていた(=個々の王が死んでも官職は存続する)。そのため、ウィリアム1世の遺骸からの略奪という出来事は例外だった
 C.ただしこの観念とて最初から成立していたのではない。利害関係者の反対を押し切って実例を作り、法学者たちによって「君主に属する財産の譲渡不可能」という理論が厳密に形成されていった(中世盛期~後期)
〈パヴィアでの実例〉
 皇帝ハインリヒ2世の死後にパヴィアの住民は、市内にある「古く威厳に満ちた、防備の手薄な王宮」を土台に至るまで破壊した。後継者であるコンラート2世から釈明を求められると、パヴィアからの使者は「皇帝の死後、私どもはいかなる王も戴いてはおりませんので『王の館を破壊した』との訴えは当たりません」と返答した
 コンラート2世は彼らの主張を認めつつも「王宮は私的な建物ではなく、国家の所有物である」「それはパヴィア市ではなく他者の権限の下にあり、他者の財産に乱暴を働く者は王の処罰の対象となる」として、使者を退けた
 D.こうして「皇帝・王・公その他権力者たちの資産は、後継者がいかなる事情でその地位を得たにせよ、その後継者に与えられるべきものである」という原則が成立した。例外として君主の“お家の宝”は「彼が即位して持ち込み、君主の地位にある間帝国の財産と同様に守ってきた」のならば、王朝交替時には「前任者の属する“家”に返還する」というのがある
 ☆ただし歴代のドイツ王は始終財政難に悩まされていたので、前任者が“お家の宝”として持ち込んだ財産を“国家財産”に移行させたい、という欲望を常に持っていた


(15)哀悼,悲しみ,慰め

 A.放蕩者・犯罪者・暴君が死ねば、とりあえず安堵感が広がった。尊敬すべき教皇・偉大な君主であっても、必ずしも悲しまれはしなかった。年代記作者は人の死に際しては「哀悼」の意を示すのが相応しい、と考えていたようだ
 B.教会の権威を担う者たちにとって「a.涙は『罪人が悔恨するきっかけになる』場合に肯定された」「b.激しい哀悼はタブーとされた」。さらに「c.キリスト教徒にとっての死は『本当の』生命の始まりであり、喜ばしいものである」「d.厳格な教会人は、自然に湧き上がる悲しみの感情を昇華させることを求めた」
 ☆しかしd.に成功した人は「愛すべき身内の死を喜んでいる」と人々から非難されるのを避けられなかった。それが人々の当たり前の感情であった

【表現の手段】
 C.人々は悲しみを内に秘めることはしなかった。男女ともに哀悼の意を「目に見え、耳に聞こえる形で」表現した。その証拠に、中世の文献には「嘆息,嘆き,すすり泣き,大泣き」が頻繁に登場する
 D.哀悼の表現は(美術作品に見られるように)激しい言葉・身振り、服装、その他の行為によって表現された:
「a.泣き、両手をよじり、衣服を引き裂き、頬・胸をかきむしった」「b.女性は髪をほどいた」「c.男性は頭部を覆った,髪・髭を伸ばしっ放しにした」「d.衣服は(骸骨を思わせる)青ざめた色or黒であった」
 ★黒い布地は高価だったので、黒が喪の色となったのは中世後期以降である
 E.哀悼は単なる個人的感情の表現に止まらず、時代・社会階層・宗教の影響を受けた儀式である。古代から「プロの泣き女を雇う」風習が存在した
〈例〉セヴィリアではキリスト教・ユダヤ教の一家は、死者を悼むのにユダヤとイスラムの女性を雇った
 F.死者に良くしてもらった人は、葬儀で感謝の意を表した。「e.死者に触れる」のは好意を表現する身振りの1つである(例:抱擁する,手に接吻する)。また「f.死者の側で不寝番を務める」「g.祈りを捧げる」などした
 ★抱擁は「占有の行為」、手への接吻は「死者に対する敬意・別れ」を意味し、不寝番は「忠誠」、祈りは「死後の生に対する信仰の表れ」であった

【不安・悲しみと慰め】
 G.人の死が悲しいのは、やはりそれが将来への不安と結びついている場合が多いためであった
〈例〉片親が亡くなれば、子供たちは義父or義母が来ることを覚悟しなければならない。敬愛を受けた女子修道院長・父親のごとき修道院長に死なれた修道女・修道士たちも、同じような不安を抱えていた(←次の院長はどうなるのだろう?)
 H.親族・隣人・ギルド仲間たちも哀悼に加わるためにやってきた:
「a.弔問客は助力(大黒柱を失った人々には助言,親を失った子供たちには援助)を申し出た」「b.悲しみに打ちひしがれる遺族を思い出話などで慰めたり、ちょっとした償いも行われただろう」「c.弔問客同士で旧交を温める機会となる」「d.遺族は弔問客に死者を賞賛してもらうことで、身内を失い何か罰を受けたように思う気持ちを取り除くことができた」
 I.悲しみは遺族を死者から解き放つ役割を果たした。中世の人々も「悲しみ→哀愁→平静」へと気持ちが変わっていくのを知っていた。死後「3日,7日,30日,1年,その後は年に1回命日」に死者を追悼するのは、別れを告げるための一歩一歩を意味していた
 J.服喪の期間について。ポーランドのボレスワフ1世勇敢王(1025年没)は、死後1年間「国家規模での服喪の栄に浴した」という。年代記作者による型通りの報告ではこの間「公式の祝宴は取り止められた,貴族は正装しなかった,酒場には手拍子・音楽が無かった,通りでも少女たちの歌声・楽しげな声は聞かれなかった」
 ☆この年代記作者は「服喪は1年間が適切である」と考えていたようだ


(16)お悔やみ状

 A.棺台の側で泣くことのできない教養人たちは(古代の人々がしたように)お悔やみ状で「遺族と悲しみを共にする」と記した。以下は人文主義者エネア・シルヴィオ・ピッコロミーニ(後の教皇ピウス2世)のお悔やみ状から。彼は友人のカスパー・シュリック(皇帝の重要な顧問官・政治家であった)が妻を亡くした(産褥が理由)際に書き送った:
“私はあなたのご不幸を前に深く悲しみに暮れ、あなたのお力になりたいと思うものであります”
“妻・息子・両親・親戚を亡くして大きな打撃を受けている人が、友人の言葉や手紙に慰められることがなかったら、多くの人が悲しみのあまり死んでしまうでしょう”
“私は悲しみ、涙しており、心臓が締め付けられそうです。私も共に悲しみ、慰めを必要としています。私の同情の気持ちを癒やしの薬としてお受け下さい。私が助けを惜しまないことを、覚えておいて下さい”
“あなたの損失の大きさを、私ほど理解できる人間はいません。私は奥方が高貴なお生まれであるにもかかわらず、礼儀正しさ・賢さ・控え目さにおいて右に出る者が無いお方であったことを知っています。あなたは奥方と食卓・財布・寝台を共にされ、喜び・慰め・名誉を得られました。…私はあなたと悲しみを分かち合うことしか出来ません”

“妻を地理的な隔たり・欺き・人間の手によってではなく、神の御意志によって失う者を、私は幸せだと思います。…もちろん、ともに白髪となるまで、礼儀正しく、多産で、愛すべき妻と連れ添う者の方が幸せでありますが”
“愛しい妻は永遠に権利を有する所有物ではなく、借り物に過ぎないのです。あなたの奥方は天上の故郷に迎え入れられ、そこで地上にあった頃より一段と輝き・美しさを増して、あなたを待っているのです”

【共通する言葉・観念】
 B.ほとんどのお悔やみ状に「死に対する厳しい弾劾の言葉」が見られる。それによると、死は情け容赦なく残酷に「兄弟たちを引き裂き、愛情で結ばれた絆を解き、幸福な結婚を破滅させ、秩序を破壊する」。しかし「残された者も、先に亡くなった者とはいずれ再会できる」と説く
 C.死者が「今や良い世界にいる」という言葉は、残された者の慰めとなった。「死者は生者のために昼夜を問わず神にとりなしをすることによって、その世界から救いの手を伸ばしてくれる」「キリストと共に、支配を行うために復活する」という望みがあった
『中世の死』N・オーラーから[9]


(9)死せる王による救済:遺体の価値

[1.支配者の死]
 皇帝コンラート2世はユトレヒトにて病に伏していた(1039年の聖霊降臨祭)。彼は「司教らを呼び寄せた」→「パンとワインの聖体拝領を行った」→「聖なる十字架と聖人の聖遺物に拝礼した」→「涙溢れる中で祈り、罪を告白した」→「最後の訓戒を受け、息子(ドイツ王ハインリヒ3世)と皇后に別れを告げて息を引き取った」
[2.遺体の移送]
 内臓はユトレヒトで埋葬され、後継者となったハインリヒは墓所に贈与(土地その他)をした。そして皇后と息子は、豪華な衣裳に包まれた遺体に付き添って「ケルン→マインツ→ヴォルムス→シュパイアー(コンラート2世はここの司教座教会を墓所と定め、その増築〔1024~33年〕を支援していた)」へ向かった
[3.道中にて]
 全ての民が祈りながら葬列に加わったという。そこにはローザンヌ司教&他のブルグント人たちも連なった。遺体は葬列が通った町々において各々の修道院に立ち寄り、そこで「死者の魂の救済のための祈りが捧げられた,施しがなされた」
[4.王ハインリヒの振る舞い]
 彼はあらゆる教会の入り口で、そして最後には埋葬の場で、父皇帝の遺体を肩に担いだ。亡き父親に対して「極めて注意深く、子としての全ての義務を果たした」&「主君に対して従者が抱く、心からの畏敬の念をも示した」と、年代記作者は伝える

【王の遺体をめぐって】
 A.王による救済=「幸運を仲介する,人間・動物・耕地に豊饒をもたらす」という呪術的な観念があったので、王の遺体についても聖遺物のように扱われた(例:スカンジナビアでは「国内の諸部族がその祝福に与れるように」と、王の遺体を解体する)
 B.一方では政治的シンボルの意味合いもあった。王冠への道を開く要素には「国家のシンボル(王冠・剣・王笏)の所持,国王の選出場所(or戴冠場所)の領有,前国王の遺体を支配下に置く」があった
〈例1〉
 皇帝オットー3世の遺体は、厳粛な行列によってイタリアからアーヘンへと運ばれた。遺体は帝国内の重要な場所で安置されたが、それには「死者に対する崇敬の念を示す」「皇帝が自身の帝国に対して別れを告げる」「通過する諸地域に救済を分け与える」といった意味があった
 皇帝は子供を持たぬまま、後継者を指名することも無かった。そこでバイエルン公ハインリヒは「あわよくば帝冠を自分の頭上に」と考え、葬列が自分の領地に入って来た時、護衛の抵抗をものともせず遺体を奪った
〈例2〉
 皇帝ハインリヒ4世は教会に破門されたままリエージュで亡くなった(1106年)。同市の市民は「王の棺台に触れるだけで祝福される」と信じており、ある者は「墓の土を手で掻き取り、自分の畑・家の中を祝福するために撒いた」、別の者は「播種用の種を持って来て棺台に載せ、それを他の種に混ぜると豊かな実りが得られる、と信じていた」という
 後継者ハインリヒ5世の使者から遺体の引き渡しを求められると、市民は「亡き皇帝を運び去れば、それが町の危機・荒廃を意味する」として拒否した


(10)支配者の死と葬送

 A.皇帝カール4世の事例(1378年)は、ブルクハルト・ツィンクによる『アウクスブルク年代記』によって伝えられている。それは、この帝国都市にとって「死者への追悼」が「自分たちの記録」と結びついていたから
[1.皇帝の死と追悼]
 聖アンデレ祭(11月30日)の前夜にプラハで死去した。皇帝を送るために賛美歌が11日間に渡って行われ、都市内の小教区と修道院が担当した。締め括りには12人の司教が列席する中、大司教が聖ファイト大聖堂にて「死者ミサ」を執り行った
[2.諸身分による送り出し]
 死者ミサの前に皇帝は、プラハに別れを告げていた。帝国の構成員たち(とりわけ市民・騎士・貴族・修道士)は死者に付き添い、葬儀を「自らも参加する総合芸術」へと作り上げた
[3.葬式は芸術だ]
 ツィンクによると「a.30人の黒服を身にまとったプラハ市民が遺体を担いで歩いた(彼は道筋も記録している)」。さらに「b.棺の詳細(長さ・幅・高さ・材質・色)や遺体の上の天蓋」「c.遺体が身に着けた装束と装飾品」について解説している
 他に伝えているところでは「d.蝋燭は墓の側だけでも、昼夜を問わず500本が灯された」「e.随員は7,000人余り(徒弟・司教座聖堂参事会会員・修道士・学生など)」「f.彼らが携行する君主のシンボル:帝冠・帝国宝珠・剣・王笏」「g.皇后・王妃を初めとする貴婦人たち・100人ほどの侍女たち・女性市民のたちが、黒服をまとって46台の馬車で進んだ」「h.馬に乗っている騎士・貴族は500人余り」という
 旗・紋章・盾が「皇帝が支配していた国々,皇帝が所有していた諸権利」の標章である。死後17日目に皇帝は、君主の象徴&黄金の衣とともに埋葬された

【帝国構成員と亡き皇帝】
 B.帝国の構成員は、このような儀式への参加を求められた。それは後世からすれば強制にも見えるが、当人たちはそれを拒否することを考えもしなかったようだ
〈例〉ある修道院長の場合
 皇帝ジークムントが死去(1437年12月初旬)し、ハイルスブロン(アンスバハ近郊)にあるシトー派修道院の院長ウルリヒのもとに「祭服持参で1月6・7日にニュルンベルクへ来られたし」という文書が届いた(文書の日付:1438年1月1日)
 文書は「亡くなった皇帝を慣習に則って、徹夜課とミサで偲ぶためである」「神を讃えて皇帝の珠を慰め、帝国の名誉となるように、ウルリヒは助力せよ」「申し出を拒否したり欠席してはならない」という内容であった
[葬儀の会計]
 ニュルンベルク市の会計帳簿には、葬儀の供物関係で97ポンド10シリング8ヘラーの支出が記されている。さらに典礼には(古くからの慣習に従って)会食も付け加えられたが、そのために招待されたウルリヒのその他の修道院長が「何を飲み食いしたか」まで、官吏は詳細に記録した


(11)墓碑銘板

 A.亡き君主を偲ぶ手段には、祈祷・典礼・会食の他に「墓の上に置く墓石板(青銅・石・大理石)」or「墓の中に入れる銘板(たいてい鉛)」があった
 B.墓石板には最初「(おそらく)信仰告白としての意味を持つ、十字架が刻まれているだけ」であった。やがて「死者のスケッチ」、さらに「浮彫りor丸彫り(※の死者の図像?),名前・称号・在位期間・紋章」が加わった。称号と位階の印は「請求権」を示すこともあった
〈例〉メルゼブルク大聖堂にあるシュヴァーベン公ルドルフの墓碑銘板に記された'rex'〔国王〕の文字
 C.この銘板には初めて「死者の肖像が彼の支配権を示しているアトリビュートととに描かれた」。この肖像は、職人がモデルに似せようと努力していることが見て取れる。中世芸術は(どちらかと言えば)「国王・司教・修道士・戦士などをタイプ的に描こうとする」のであり、この肖像における努力は新しい未来を予見させるものであった
〈例1〉鉛の銘板
 シュパイアー大聖堂に埋葬(1039年)された皇帝コンラート2世の頭の下から鉛の板が見つかり、そこには入念に碑文が刻まれていた
「十字架,“主が受肉されてより”(=紀元後),没年月日,名前,称号,国王(&皇帝)としての在位期間,“皇帝は幸せに亡くなった”(その幸せの内容の一部も記された),“息子ハインリヒ3世が国王として彼の支配を受け継いだ”」という順で刻み込まれている。さらに埋葬の日付も記されている
〈例2〉最大の鉛の銘板
 コンラート2世の皇后ギゼーラ(1043年没)の墓で見つかった物(62×40cm)。ここでは「日付・日数が極めて正確に記載されている」「生年月日だけでなく、彼女が皇后を務めた期間が、年・月・日数に至るまで計算されて記されている」
 銘板では“極めて敬虔なる王ハインリヒ3世の母”と呼び、さらに“3年8ヶ月と10日未亡人として神に仕えた後、幸いにもこの世の辛苦から逃れ、主のもとに召され、息子の見守る中、シュパイアー司教によって埋葬された”とある
〈例3〉人物像
 シュパイアー大聖堂にあるドイツ王ルドルフ1世(1291年没)の墓石板にある王の姿は「踝まで届く衣装を身にまとっている,胸の前に帝国の鷲を描いた楯を構えている,頭上に王冠を被る,手に王笏と帝国宝珠を持つ,自分の紋章動物=獅子の上に立っている」。このルドルフは「力強く自信に満ち溢れた生者」として描かれている
 その周囲には順に「名前と出自(ハプスブルク家のルドルフ)→称号(ローマ人の王)→在位期間→没年月日」が記された
〈例4〉横臥像
 ハイデルベルクの聖霊教会には、ドイツ王ループレヒト・フォン・デア・プファルツ(1410年没)と妻エリーザベト・フォン・ホーエンツォレルンが、やはり若々しく表現されている
 王は「支配権を示すアトリビュート」を持ち、王妃は両手を胸の上に祈るように組んでいる。その姿勢で彼らは寄り添い、豪華なクッションの上に頭を載せて眠っている。ただし衣装の襞は立っている人のように見えるが…
〈例5〉カップル
 アルコバサ(ポルトガル)の修道院付属教会には、ポルトガル王ペドロ1世(1367年)の石棺が南の翼廊に、イネス・デ・カストロ(1355年没)の石棺が北の翼廊に、それぞれ安置されている。この配置の意味は「最後の審判のラッパが死者たちを起こす時、2人は互いを最初に目にする」ということ(ポルトガルの歴史上、最も有名なカップルである)

【儚き生】
 D.中世後期になると、それまでのように「被埋葬者をその盛年期の姿で」描くのではなく、かといって「単なる死者」としても描かない、という習慣が現れた
〈例6〉メメント・モリ?
 ラ・グランジュ枢機卿(1402年没)が生前アヴィニョンで作らせた墓標(1389~97年頃の間)には「全ての存在の儚さ」を表すために、虫・ヒキガエルなど気味の悪い生き物に食い尽くされている腐乱死体が描かれている
 墓碑銘:“我は世人の見せしめなり。身分の高きも低きも、我と我姿をとくと見よ。この運命を逃れる者はなく、地位も出自も齢も役には立たぬ。憐れむべき者どもよ、しかしてなぜ、汝は驕り高ぶるか。汝等は灰にして、悪臭を放つ死体となり、蛆の餌となって、再び灰になればなり。我の如くに”


(12)君主の埋葬

 A.君主の墓には豪華な副葬品(例:剣,宝石を散りばめた冠)が入れられた。埋葬に用いられた材質が、埋葬者の富・権力を反映していることもある
〈例1〉ハインリヒ6世(1197年没)のパレルモにある墓は、棺の本体・丸く膨らんだ蓋がどちも班岩の1枚岩でできている
〈例2〉若い時期から墓のデザイン
 フリードリヒ2世は自分と先祖の墓の構想に早くから取り掛かっていた(1215年)。「班岩でできた棺はパレルモの大聖堂内にあり、それは獅子をかたどった4本足に支えられている」「棺の上には6本の柱に支えられた天蓋がある」「屋根の形をした蓋の側面には、半身像を描いた3つの大きな円形牌(メダイヨン)がある」。また「福音書記者のシンボル獅子‐鷲に挟まれた全能の主」&「天使と雄牛の間にマリア」が描かれている
 B.教会は「支配者の墓所」としてかなり計画・建築されてきたが、とりわけ複製の君主が埋葬された教会は、特別な聖地となった。「そこに眠っている君主の霊力が積み重なっていく」「キリストは典礼において現前し、埋葬された聖人の存在も感じ取れる」「聖人に保護・とりなしを頼むことができる」からである
 C.王墓がある都市(例:アーヘン,クラカウ,パヴィア,サン=ドニ,シュパイアー,ウェストミンスター,ヴィーン)は、それぞれの王朝にとって重要なのは勿論のこと、1人の王を超えた「統治の観念」が成立した。それによって民の生活の連続性が生じるのを手助けしている
 D.フランス(サン=ドニ)・イギリス(ウェストミンスター)では、王墓がそこに隣接している「首都」の格を高め、かなり早くから国家意識が生成され発達した。対照的にドイツでは、そのように継続した君主の墓所は無く、王・皇帝たちはパレルモ・アーヘン・プラハの間の教会に永眠の地を求めた。ただしヴィーンは、ハプスブルク家の君主・妃たちが埋葬されたからこそ「誰もが認める首都」へと昇格できたと言える
『中世の死』N・オーラーから[8]


(6)遺産分与

 A.相続にあたって、寡婦が貰えたのは「結婚時の持参金+“朝の贈り物”の使用権」程度であった。しかし中世盛期には、女性がずっと良い社会的・法的地位を獲得していたこともあった(例:マグナ・カルタ〔1215年〕)
 B.子供たちに対する分与はたいてい「1.不動産は全て長男or末子に丸ごと贈与され、彼が他の兄弟姉妹に対して相続分を与える」「2.寡婦・債権者・教会が要求する財産を除いた上で、残りの財産を相続者に等分する」のどちらかで行われた。財産分与によって「土地の細分化が助長される」→「効率的な開墾が不可能となる」弊害が現れた

【最良の家畜,最良の衣服】
 C.きわめて多くの人間が不自由民であったが、彼らを支配する主人は(本来)「自分の支配下の人間が死んだ場合には、その財産の全てを要求できた」。この権利は時代が下るにつれて弱められ、主人は「最も良い家畜(男性死亡時)or最も良い衣服(女性死亡時)'のみ'が与えられる」ようになった
 D.しかしこれは重大な結果を招いた。というのは「たった1頭しかない、荷車引き・乳搾りに欠かせない家畜」か没収されたらどうなるか?「たった1着しかない、何代にもわたって着続けてきた衣服を没収されたらどうなるか?」
 ★たった1着の上着しか母親と娘が持っていない場合もある。この時には「寒い日・雨の日には一緒に外出できない」。中央ヨーロッパでは「1着の衣服を何世代にもわたって、しかも同時に何人もが着用する家族」が存在していた(20世紀!)
 E.たとえこのような状況であったとしても、主人は「たびたび支配下の人間に対して、考えられないほど容赦なく接した」のだ。しかしその一方で彼らは「命ある時には心からの信心を,死の床では悔悟を」表すのであった
 F.長い目で見れば「最良の家畜を差し出す義務」はプラスの結果ももたらした。というのは「主人の家畜小屋に(比較的)良質の馬・牛・山羊が集まった」ことによって、ヨーロッパの家畜は時代とともに「より能力に富み、より病気に強い種へ品種改良された」のである


(7)死と聖性

 A.聖人たちの死後についての“証言”は「眠り」のイメージとぴったりであった。度々伝えられる報告には「死の直後に(or埋葬後時間が経過してから)墓を開いた際、ひどい腐敗臭がするかと思いきや“芳ばしい”“天国のような”芳香が漂った」「遺体は腐っておらず、死者はまるで眠っているかのようだった」というものがある ⇒これは聖人たちの伝記作家にとっては、来るべき栄光の明確な徴であった。というのは「彼(彼女)が神のお側近くに侍っているから」と考えられたから
 B.偉大な人物の死後(or直前に)特筆すべき現象が認められるのも、上記⇒と同じ発想であった。「イエスが死んだ時には『暗闇があたりを覆い、大地が揺らいだ』」と伝えられることから、人々は「イエスの教えに従って生きてきた人々の死に際して、天変地異の徴を予期した」のも当然であった
〈例〉ビンゲンのヒルデガルド(1179年没)の死後には「2本の(非常に明るい色とりどりの)虹が天空で東西南北を指し示した」「天頂には(月の形をした)明るい光が輝いた」「その光の中にどんどん大きくなりながら赤い輝きを放つ十字架が見えた」「天空には色とりどりの輪と十字架が現れ、彼女が眠る館の上に傾かんとした」「山全体をまばゆい光で包んだ」という
 ⇒聖人が死ぬと天変地異が起こるのなら、逆に「ある人間が死んだ時に驚くべき現象が起きれば、その人は選ばれし者である」というように解釈された

【遺骸をめぐる争い】
 C.聖人に相応しい生涯を送った者にとって、普通の人々とは異なり悪霊は危険な存在ではない(卓越した信心深さ・十分な贖罪行動により、悪霊は死の床にあるうちに追い払われていた)。危険はむしろ、その遺骸を手に入れようとする人間によってもたらされた→聖人が死ぬ前から、遺骸の争奪戦は始まっていた
〈例1〉
 81歳のトゥールの聖マルタンは、カンドという村(トゥールとアンジェの中間,ヴィエンヌ川がロワール川に注ぐ場所)で病に倒れた。その死に立ち会うために、トゥールとポワティエから人々が押し寄せてきた
[ポワティエの人々の主張]:
 マルタンは自分たちの所で修道士、さらに修道院長を務めた。しかしトゥールの人々は『数十年間もマルタンを司教とし、彼の説教を聞いた・食事を共にできた・マルタンの祝福によって力づけられた・その奇蹟を享受した』。それで取り分は十分ではないか?
[トゥールの人々の主張1]:
 マルタンは自分たちの所でよりも、ポワティエでより多くの奇蹟を行ったはず。ポワティエでは2人の死人を生き返らせたが、こちらではたった1人。マルタン自身が「司教就任以前の方がより大きな奇蹟を起こした」と認めている
[トゥールの人々の主張2]:
 マルタンは死後も、生前自分たちのために行えなかった任務を果たさなければならない。神はマルタンをポワティエの人々から取り上げて、自分たちに与えた。そもそも司教の墓は、彼が叙任された場所に設けられるというのが神の意思である。それに何よりも、マルタンはまずミラノで修道士となっている
[言い争いの果てに]:
 夜がやって来たが、トゥールとポワティエの人々は遺骸を挟んで対峙した。「もし神のお力添えがなければ、ポワティエの人々は遺骸を我が物としただろう」(トゥールのグレゴリウスのコメント)。しかし真夜中に、ポワティエの人々は「残らず睡魔に襲われた(←神の御意志!)」ので、これを見たトゥールの人々は「素早く聖人の遺骸をひっつかみ、窓から外へ放り出すと、待ち構えていた者たちが受け止めた」
[遺骸はトゥールへ]:
 トゥールの人々は遺骸を船に載せてヴィエンヌ川を下り、ロワール川を遡って「賛美歌・頌歌の声も高らかに」トゥールを目指して進んだ。その声にポワティエの人々は目を覚ましたが、時既に遅かった
〈例2〉
1.「ユトレヒト司教アンスフリートは聖人に相応しい生涯を、彼自身が創立した修道院(アメルスフォート近郊)で閉じた(1010年)」
2.「それを聞いたユトレヒトの人々が、裸足だが武装を整えてやって来た」
3.「彼らは“我らか牧者であるアンスフリートを、彼が司教を務めたユトレヒトに埋葬するために、神の御名において遺骸をお引き渡し下され”と懇願した」
4.「それに対して修道士は、アンスフリートを修道院に葬ると主張した」
5.「一通りのやり取りの後、双方はにらみ合った。もし1人の女子修道院長が仲裁に入らなければ、またユトレヒトの人々が後に策略をもって遺骸を奪わなかったら、この争いで多くの者が命を落としただろう」
(5.の最後の言葉は、記録者であるザクセンの年代記作家ティートマール・フォン・メルゼブルクのもの)

【棺台での奇蹟】
 D.生前から聖人と崇められている人の棺台では、奇蹟の治癒が発生した(例:病人は癒やされた,不具の者が歩けるようになった)。そのような奇蹟は後になって「墓を詣でた人」「亡くなった聖人に対して(遠方から)助力・神のもとでのとりなしを頼んだ人」の身にも起こった

【聖遺物の獲得】
 E.聖遺物に関して、聖人伝は当時にあってありふれた出来事を伝えている。髪・・爪・乳房の切断は「紀元前に存在した異教の、繁殖・豊穣祈願の儀式の名残」である可能性がある(ピレネー地方では髪・爪が、死者の「幸運」の在処とされていた)
〈例1〉「修道女たちは間もなく歓喜に満ち溢れていそいそと集まり、誰もが聖遺物の何がしかを手に入れた。ある者は手の爪を、ある者は足の爪を、またある者は頭髪を」
〈例2〉安置されたテューリンゲン方伯エリーザベトの遺体から切り取られた・むしり取られたのは「彼女の顔を覆う布の一部,髪,爪,耳(!),乳房(!)」
〈例3〉アグネス・フォン・ベーメン(プラハの聖クララ会修道院の創立者)は、聖者の呼び声高い中で亡くなった(1282年)。修道女の1人が「彼女を敬い、その想い出として終っておく」ために、遺体から聖遺物を取ろうとしたのだが、足の親指の爪を切り取ろうとすると、そこから激しく出血した。「驚いた修道女は親指をリンネルの布で拭き取った。広く血のシミが付いた布は…多くの病人を癒やす救いの薬となった」という
 F.“聖遺物移送プロジェクト”を史上初めて実行したのはミラノ司教アンブロシウス(368年:自分の司教座教会へと送らせた)。ここから始まって「聖遺物窃盗,聖人の遺体切断・強奪」へとエスカレートしていった
〈例〉聖マルケリヌス&聖ペトロ
[1.事の始まり]
 顧問官アインハルト(カール大帝とルートヴィヒ敬虔帝の下で権力をふるった)は、ヘッセンにある自分の領地に「本物の聖遺物」を所有したいと考えていた。そんな折に彼はローマ出身の助祭から「ローマでは聖人の墓が放置されている」という話を聞いた(当時の人々の考え方によれば、こうした扱いは闇に紛れた「移送」を正当化した!)
[2.作戦決行]
 アインハルトの要請を受け、彼の公証人と件の助祭がローマへ向かい、幸運にも墓を探し当てた。「神のお力がこの企てに恩寵を与えて下さるように」彼らは、3日間の断食・神への嘆願を行うと、両殉教者への崇拝・畏敬に満ちた遺骨発掘を行った。彼らは「犯行」後に全ての痕跡を消し去り、搬送は用意周到に行われた
[3.聖遺物の奇蹟]
 アインハルトにとっては、聖遺物が本物かどうかが問題であるが、それは「埋葬場所,墓の中の両聖人の名」を記した大理石の板に加えて、実際に奇蹟が起こったことで証明された。聖遺物が運ばれてきて「お祭り騒ぎとなり、施し・癒やしを期待した貧民や病気の者がわらわらと集まった」→「盲目・麻痺・聾・唖などほとんど全ての病気が治った」のだ
[4.さらなる移送]
 さらに子供たちが「幻視」を与えられたのを受け、アインハルトは聖遺物を別の場所へ移した(828年)。そこはオーバーミュールハイムという名の町だったが、ゼーリゲンシュタット:“至福の町”と呼ばれるようになった(9世紀~)
 G.上記例では、聖遺物移送を企てたアインハルトと実行犯にとって「聖遺物移送が罪にならないのはそれが成功する場合」であった。というのは「事が上手く進まないのは、そもそも聖人自らが移居に反対している」と考えられたから
〈例〉ある巡礼案内人(中世後期?)によると、特定の聖人(大ヤコブ,マルタン,レオナルドゥス,アエギディウス)はそれぞれの墓のある場所に留まりたいと願っているので、その石棺から外に出すことはできない。もちろん「聖人が他の場所で崇拝され、その奇蹟の力を示すことはある」が、しかし「墓地から遠く離れた場所で上記の聖人の『遺骸を所有している』と称する者」は恥知らずである、という
 H.中世では幾千もの聖遺物移送が行われたが、ローマが特にターゲットとされた。初期キリスト教時代の墓はほとんど完璧に暴かれたので、現代の考古学者が「ローマで無傷のまま見つけた殉教者は、聖ヒュアキントゥスのものただ1つだった」
 I.合法的な聖遺物移送(何度も行われた)は、キリスト教圏内での結びつきを強める役割を果たした
〈例〉聖リボーリウスの聖遺物がルマンからパーダーボルンに運ばれた(836年)。これにより、新たにキリスト教に改宗したザクセン人を、既にキリスト教がしっかりと根を下ろしていたフランク王国西部と結びつける効果があった


(8)異国での死と遺体の処置法

 A.異国で死を迎えた場合の遺体については(通常は)「死んだ場所で(or同行者の仲間内で)行われていた慣習・儀式のもとで、すぐに埋葬された」。ただし偉大な人物が死んだ場合には、別の場所に遺体の一部を埋葬することがよくあった。この場合にはとりわけ尊い場所(教会の内陣など)に埋葬された
〈例1〉
 皇帝オットー3世はローマ近郊で亡くなった(1002年)が、内臓はアウクスブルクの聖アフラ教会に埋葬された
〈例2〉
 スコットランド王ロバート1世(ブルース:1329年没)の心臓は、スコットランド南部ロクスバーグシャーのメルローズにある修道院に埋葬された。彼は生前、聖地への巡礼を行いたかった(しかし出来なかった)ので「自分が死んだら心臓をイェルサレムへ運ぶように」と定めていた。しかし運搬の使者がスペインでムーア人(イスラム教徒)と戦って命を落とし、心臓はスコットランドへ送り返された
 ⇒以来、ダグラス家は心臓を描いた紋章を使用するようになった

【遺体の解体・煮沸】
 B.内臓の摘出は少なくとも中世後期ではごく普通であった(←死を擬人化する際には下腹部が切り裂かれた姿で描かれていることから)。しかし遺体を解体・煮沸してまで運ぶことについては、教皇からクレームが表明されている(1299年)。この翌年にも同じ内容が表明されている(→あまりにも一般化していて食い止めようが無かった!)
 ☆この背景には、少なくとも貴人の骨については「それ相応の手篤い扱いが見込まれる場所に保管したい」というニーズが強かったことがあった
[※これに関しては、当blog内記事『中世の旅人たちの様々な節目』も参照のこと]
〈例3〉ハインリヒ7世のケース
 皇帝はナポリへの進軍中に、中央イタリアでマラリアに倒れた(1318年8月)。死か迫った皇帝は「ジェノヴァに葬られている妻(1311年12月に死亡)の石棺に自分の心臓を入れる」ように命じた。死没の地ブオンコンヴェントから長い道程を運ぶために、死者たちはみるみる腐っていく遺体をピサ(帝国派の都市だった)で焼かねばならなくなった。この措置により一行は「道中吐き気を催す腐敗臭に苦しまずに済む,荷は軽くなる」メリットを受けた
『中世の死』N・オーラーから[7]


○眠りの兄弟=死


(1)死

【死と眠り】
 A.多くの人は、いつと気付かれないままに眠りから死へと移行していったので「何某は永眠した」と伝えられるのは、単なる婉曲表現ではない。ヨーロッパではキリスト教化以前から「死と眠りは兄弟」というイメージがよく知られ、中世にも引き継がれた
〈例1〉ヘシオドスは、眠りと死を「夜を母とする双子」と見ていた。イエスもパウロも、死者のことを「眠っている」と表現していた
〈例2〉キフホイザー伝説
 一度死んだ支配者(当初はフリードリヒ2世が、後にはフリードリヒ1世バルバロッサが想定された)が長い眠りの後、平和と正義の王国を築くために甦る、という物語を伝えている
 B.「死と眠りは兄弟」というイメージは、死にゆく者・残される者双方を慰めた。なぜなら「ある一定の期間が過ぎると蘇りの日が来て、新たに永遠の生命を授かる」と期待しながら死んでいくから
 ☆この考え方は死者典礼のコンセプト=「生命は奪われるのではなく、死へと変容される」とも共通している

【死ぬこと】
 C.「この人は死んでしまった」と疑われた場合には「年配の者を呼んだ」→「彼らは様々な徴候(例:心臓・呼吸が止まっている,身体が冷たくなっている,筋肉が硬直している,肌の色が変わっている,死臭がする)によって死を確認した」
 D.奇蹟物語が伝えるように、死亡の判断が間違っていた(死者と思われていた者が息を吹き返す!)ことが分かるのも度々あった(例:溺れてからかなり時間が経過した後に)
 E.さらに難しいのは「この人は命を失い、死を迎えた」とは簡単には言い切れないこと(=死は経過として現れることが多かった)にある。「肉体が衰え、髪・歯が抜け落ちていくにつれ、死は死者を手中に収めていく」のであり、呼吸・脈が途絶えることで死がその人間全てを支配するのではない(←呼吸停止後も髪・爪は伸び続けるから)
 ★これにより、髪・爪はいわば「生の担い手」となり、聖遺物として尊ばれた。「心臓が動いている死体」が存在するのか?という脳死の議論は、中世には有り得ない
 F.古代より人間にとって、死は謎であった。死とは何者でもない:「生きておらず、実体も姿形も持っていない,目に見えず、手で触れることもできないが、霊でもない」。しかし何者かである:「生命の終わり,存在の終わり,不在の始まり,その両者のはざま」
 G.殉教者の死亡日は「永遠の生命の誕生日」と見なされ、後には全てのキリスト教徒がこれに倣った。後世には、肉体が誕生した日よりも死亡した日が伝えられていることが多い


(2)死者への配慮

 A.聖者という評判もない、聖俗の「大物」でもない人間であっても、自分の亡骸が「キリスト教徒の間で普通行われているように扱われるだろう」という期待はできた。死者も奉仕を受け、敬意を表された

【配慮の一覧】
1.「目と口を閉じることが、残された親族に第一に課せられた崇敬の義務である」
2.「死体を洗ったのはたいていは女性である。死体洗浄も礼拝のためのお清め(★)であった-なぜなら死者は間もなく教会へ運ばれるのだから-」
 ★「洗礼(「再生の沐浴」と解釈される),繰り返し注がれる聖水,巡礼が聖地入りを前に行う湯浴み」も同じく、礼拝のためのお清めである
3.「健康な者も病の者も、ベッドには通常は裸で寝た。例外は修道士(足まである修道服で眠った)。そのためもあり、死者には衣服を着せねばならなかった」
4.「経帷子(死装束)は少なからぬ人が、人生の花の盛りに用意していた。ある者はその経帷子を持って巡礼に行き、聖遺物に接触させた。またある者は聖地イェルサレムへ出掛けて、経帷子をヨルダン川の水に浸した」
5.「湯灌(遺体の入浴・洗浄)を施されて経帷子を着せられた遺体は、棺台の上で顔を天に向けて横たえられた。ここで初めて人々は、彼に別れを告げることができた」
6.「南の国々・暑い時期においては、死者はできる限り早く、亡くなった日に埋葬された。腐敗がそれほど早く進まない地域では、通常は翌日まで棺台に安置された(3日以上の安置は稀)」
7.「死者の周りには(鐘の音と同じく)悪魔を祓うために蝋燭が灯された」
8.「死者は王侯貴族のように香煙を焚いてもらった。死の前後で香を焚くのは、寝床に染み付く人間の排泄物の臭い・棺台の上での腐敗臭、を隠すためでもある」
9.「より重要なのは、香によって死者が崇められるというもの」
 ★香煙は「キリスト教以前には神々」「キリスト教の礼拝において磔刑図・供え物・福音書・典礼を行う司祭・会衆」にのみ許されていた

【クリュニー修道院と救貧院にて】
 B.クリュニー修道院での慣行:
「a.瀕死の人間の枕元に呼ばれた司祭が、いざ臨終となると神に“汝の下僕の魂を迎え入れ給え”と祈る」→「b.助修士たちが全ての鐘を鳴らす」→「c.湯灌を施すのは死者が聖職者の場合は聖職者が、俗人の場合には俗人」→「d.死骸は帷子・修道服・履き物・屍衣を着せられ、手を合わせて棺台に横たえる」→「e.修道服のフードを顔を覆うように引き上げ、修道士たちが代わる代わる縫い合わせる」。ここまでの準備を終えてから「f.死者に香煙を焚き、聖水をかけ、全ての鐘が鳴り響く中教会へ運ぶ」「g.そこでは修道士が寝ずの番をする」
 C.中世の救貧院の図版には「生者と死者が何のこだわりもなく同居している」様子が描かれている(P97)。1つ広間の中で「a.見舞い客が患者と会話している」「b.司祭が寝たきりの患者に聖体を授けている」「c.女性が死者を屍衣でくるんで縫い合わせる」

【喪を隠す】
 D.高位高官の死は度々秘密にされた
〈例1〉アルル大司教(869年)
 サラセン人は大司教ロトランを捕らえて、彼の友人たちと身代金の交渉に入ったが、その途中に彼が死んでしまった。サラセン人はさも急いでいるようなふりをして支払いをせき立てた
 彼らは身代金(銀150ポンド,外套150着,刀剣150振り,奴隷150人など)を手に入れると、大司教が捕らわれた時に身にまとっていた修道服を遺骸に着せ、椅子に腰掛けさせると、恭しく船から陸へ下ろした。友人たちは解放された祝いを述べようとして初めて、大司教が死んでいるのを知った
〈例2〉皇帝オットー3世(1002年)
 マラリア(“イタリア病”と呼ばれた)がもとでイタリアで亡くなった。家臣たちは「急使を出して近辺に宿営している部隊を集めるまで」その死を隠した。この慎重な配慮によって、軍は皇帝の遺骸と共に無事ドイツへ帰還した


(3)通夜の気晴らし

 A.親族・隣人たちは「人・獣・悪霊が『遺体に安易に触れる,遺体を持ち去る』ことによって、死者の安息を乱してしまう」ことを防ぐために、死者の傍らで「祈り、賛美歌を歌い、不寝番をする」ことで夜を過ごした
 B.教会とは関係ない、キリスト教以前からの習俗・迷信・伝統・信仰心に対しては、常に教会が疑惑の目を向けていた。様々な教会関係者の著作・教会会議の規約にも、通夜における「呪術禁止」を狙った諸規則が見られる(上記A.もその1つ)
 ⇒しかしこうした規制が繰り返し強調されているのは、それがたいした効果を上げていなかった証拠である
 C.教会による様々な戒告にもかかわらず「a.死人の周りはたいそう賑やかな騒ぎになることがままあった」「b.男女が死体を囲んで、踊り・歌い・ふざけ合った」「c.棺台の周りで陽気にやっても構わない、と聞いて驚く者はあまりいなかった」「d.遺言書に『守番の楽しみのために、しかじかの金額を』という項目があるくらいだった」という


(4)葬儀

【葬列】
 A.朝になると「死者のために詩篇その他の祈りが捧げられる」→「遺体は司祭によって聖水をかけられて教会へ運ばれる」。ここにも様々な慣習・しきたりが当然存在していた:
1.「運び手は同僚(修道士・助祭・司祭の場合)or同職(ツンフトのメンバー)or同身分の者」
2.「葬列の先頭では、聖職者とミサの侍者が十字架を掲げて、聖水盆・香炉・蝋燭を持って進む」
3.「金持ちはその時々のしきたりに合わせて、遺言書の中で(荘重な)葬列のいちいちを細かく決めていた」
〈例〉修道士・泣き女(賛美歌を歌う修道女、蝋燭を持つベギン会修道女でもよい)の人数,松明・蝋燭の数,死骸を覆う布地の品質・色,歌・祈りの種類…etc.
4.「この場合、仕事ぶりによって支払いも異なったので、修道士・修道女・泣き女たちは死者に付き添う間、ずっと祈っていなければならなかった」
5.「乱暴狼藉は厳しく禁じられた。異なる修道院に属する修道士たちの間で、争いになることも多かった(争点:誰が死者の一番近くに立つか,誰が前を歩くのか…etc.)」
6.「葬列の最中、陰気な音が鳴り響いた」

【教会にて】
 B.棺は燭台に囲まれ、教会の中央or内陣に安置される。明かりは「希望の担い手」→「死後も続く生を表すもの」である。続く「死者のためのミサ」により、参列者は死者との連帯を意識し、説教によってあの世での生が説かれた:
“神の命によりこの世を去る下僕の魂を、聖人の供となし給わんことを”
 C.ミサでは「マカバイ記からの朗読,書簡朗読の後に行われる答唱(昇階唱)と福音書,聖体拝領の1節」が読み上げられ、参列者の心に「死者のための祈り」「ラザロと(慈悲が永遠の生に至るとした)イエスの言葉の想起」「キリスト教的な救済に対する確信」を伝える習慣だった
 D.古代末期~中世初期の典礼は「死んだ人の魂がキリスト&聖人たちと合体することを祝う」内容だったのだが、中世盛期以降の典礼では「最後の審判」がより強調されるようになった
 ⇒この2つの内容は『怒りの日』という詩の中で合体され、死者のためのミサ・万霊節のミサで唱えられるようになった

【怒りの日】
 E.福音書の朗読の前に人々はこれを唱えた(or歌った)。この歌の最初の数行では「この世の終わり・最後の審判」を描いている:
“審判者の怒りには裁かれし者のおののきこそがふさわしい。ラッパが鳴り響く。懼れに死さえその身をこわばらせる”
“被造物はすべからく申し開きをせねばならぬ。審判者の前には1冊の書物が開かれており、そこには全てが書き記され、世の一切が裁かれる。隠れたること全て顕れ、報いられざること1つとしてなし…”
 F.詩の中にあるモチーフの1つ1つは、預言書・詩篇を通じて信者たちに知られていたようだ。“死さえも懼れおののく”というような大胆な表現(ウェルギリウスからの借用)は、キリスト教作家たちに特に高く評価された
 G.『怒りの日』の中身は「ロマネスク教会の正面玄関に描かれた『最後の審判』をテキスト化したもの」と言える(成立は12世紀末?)。中世のラテン語詩の中で「最も荘厳で文化的影響が大きく、最も有名」と言われる
〈例〉中世において数多くの母国語訳が行われ、広く伝わった。モーツァルトの『レクイエム』、ゲーテの『ファウスト』、ベルリオーズの『幻想交響曲』をはじめ、ヨーロッパの文学・音楽文化に超民族的な影響を与えている
 H.身の毛もよだつ出だし部分の描写は、死者典礼のイメージを陰鬱なものとした。ところがこの恐ろしい幻想の後には、1人称の形式で祈りが表され、そこでは希望が強調されている:
「神が正義のみによって判断するなら、魂に助かる見込みはない」→「そこでイエスの慈悲にすがる」→「しかし罪の多さゆえに法のみで裁かれるのなら、救いは望めない」→罪人の嘆願が入る
 I.最後に教会(生者と死者の共同体)が代願者として登場し、審判者=神と罪人を仲介する:“人、罪ありて暴かれるべき者なれば、願わくば神よ、それを憐れみ給え、慈悲深きイエスよ、彼らに安息を与え給え!”

【永遠の安息の願い】
 J.“主よ、彼らに永遠の安息を与え、絶えざる光を以て照らし給え”というのは、典礼の冒頭に見られる。この願いは、葬式の日の聖体拝領前にも『神の小羊』の中で3回繰り返される:“世の罪を除きたもう神の小羊、彼らに安息を与え給え”。この日の葬送典礼全体が『レクイエム』と呼ばれた
 K.これらに共通する「安息」という言葉は、眠りのイメージを起こさせる。この世の多忙な生活の後に、死者はやっと最終的な安息に到達する(=悪霊・悪魔に苦しめられずに済む)のであった:“神よ、死者に永遠の安息を与え給え”


(5)埋葬

 A.普通、死者はミサ典礼の後に埋葬され(ミサ前に埋葬が行われる地方もある)、この時にも「家から教会まで付き添って、死者とその家族に連帯の情を示してくれた人々」が立ち会った。事情がある場合にのみ、死者は3日間教会内に安置された
 B.それ以上の猶予が特別に許されるのは、身分の高い列席者を待つ必要がある場合のみだった。この時には遺体の腐敗が進まないよう「遺体から内蔵を取り出すorバルサムを擦り込む」などを施した
 C.墓穴に入れられた遺体には「a.最後の聖水が注がれ、香煙が焚かれた」。遺体に「b.まず司祭が土を1すくい掛けてから、参列者がこれに倣った」。さらに「c.遺言状があれば、墓地で公式に読み上げられた」→「d.死者に貸しがある者・死者から贈与を受けた者は、ここで誰に相談すべきかを知った」「e.遺言執行者も明らかにされた」
 D.死者を埋葬するのは慈悲の行い(→死者の世話をして恭しく葬る義務)である。これは聖書に直接の根拠があるのではなく、聖ベネディクトゥスが修道士たちに「愛をもって死者に接する」ように命じ、そこからベネディクト会修道士たちによってアルプス以北に広められたようだ

【埋葬後の会食】
 E.この慣習もキリスト教化以前からのものである。死は(数十年来の馴染みだった)共同体を破壊してしまう。そこで残された者は、彼らの連帯を繰り返し確認した:「死者が眠るベッドの傍らにて,通夜の席にて,死者ミサにて,会食にて」
 F.会食では古い秩序(死者の席が空けられている・死者のことが偲ばれている)とは無関係に、新しい序列が示される。「妻は寡婦になる,未成年の子供は孤児(or片親の子)となる」ことは、社会的・法的な変化である。たいていは長男が家長となり、寡婦も彼の後見を受けることになる