『中世の死』N・オーラーから[11]
○死者の場所
(1)埋葬場所
A.死者たちは「彼らのために用意された場所で、平和のうちに眠る」権利を(多くの場合刑法によって)与えられていた。死者の共同体のための特別な場所は“Friedhof”(ドイツ語)“cimetiere”(フランス語)“Nekropole”(死者の町:ギリシア語)と呼ばれている。Friedhofは「法律の保護下にある、柵で囲われた空間」を意味する
B.cimetiereはギリシア語の「眠る」に由来する単語である。つまり、ギリシア人もローマ人も、墓地を「死者が眠る場所」と考えており、このイメージがキリスト教の教え(霊魂の不滅・死者の復活を説く)と一致していた
C.居住地域の外にある墓地は、南・東ドイツでは“Gottesacker”(神の畑)め呼ばれる。これは“campnsanto”(聖なる畑:イタリア語)に相応している。この表現は『麦の粒の喩え』のようなキリスト教説話(★)を想起させる
★1粒の麦は、地に落ちて死ななければ、1粒のままである。しかしもし死ねば、多くの実を結ぶ
【紀元前:市外での埋葬】
D.ローマの12表法では「死者を市内で埋葬or火葬してはならない」と定めた。しかしこの禁令は何度も繰り返し出された(→禁令は効果が無かった)。ユスティニアヌスの時代には、都市の発展によって禁令はとっくに無効となっていた
【キリスト教から見た埋葬】
E.紀元前の地中海文明では「死後埋葬なしに放置されるのは恥」とされた(ゲルマン人・スラヴ人もそうだった)。しかし多くのキリスト教徒はこの考え方を捨てた→「殉教後に鳥・犬の餌として死体を投げ与えられた人物」を、聖人として崇めた
F.キリスト教徒にとって、埋葬されたか否かという事実はあの世においては何の意味もない。実際、教父アウグスティヌスは『神の国』において「遺体の世話・埋葬の手配・葬送の式典は、死者に対する奉仕というよりも“生者にとっての慰めである”」と述べている
G.ただしこのような見解(原理主義的?)は、紀元前からの伝統的な考え方を押しのけて主張されたのではない。伝統の支配下にあった人々にとって「祈り・善行によって死者を気遣う方がもっともである」。さらにキリスト教徒は、もし「信者の遺体が異教徒の横に埋葬される」のなら、ひょっとしたら「墓が汚される,信者の復活が妨げられる」かも、と恐れた
⇒この考え方は近世まで残り、カトリックとプロテスタントの墓地は分離された
★墓が隣となる(=死者の共同体)から除外されたのは「他宗派の人間」「教説によって至福に与れないとされた人々全て:ユダヤ人,犯罪者,自殺者,異端者,未洗礼の子供たち」である
【聖人の傍らへの埋葬】
H.キリスト教徒はローマ帝国の慣習を受け継ぎ、死者は市外に葬られた(例外:場所の不足,被迫害時代のカタコンベでの埋葬)。墓が市外であっても、市街地の中心からの放射状道路近くにある(例:ローマではアッピア街道の両脇)のなら、訪れるのも簡単だった
I.この墓に、死後「3日目,7日目,9日目,30日目,40日目,年に一度の命日」に墓参りする習慣は広まっていく。これら“記念日”は現代ても大事にされている
J.ローマ帝国のキリスト教化によって、多くの者が「聖人の傍らへの埋葬」を希望するようになる。そうすれば、聖人を「あの世での強力な代願者にできる」と信じられたからである。その殉教者の墓の上には「いわゆる『墳墓教会』が建てられた」「信者たちはここで礼拝を行い、殉教者を追慕した」
K.さらに一歩進んで、人々は生きているうちから聖人の側で暮らすことを望むようになる。そのため、ローマ時代の市壁の外に建てられた墳墓教会が新興集落の中心となる→都市の郊外となった(例:ローマ,トゥールーズ,アルル,ケルン,トリーア)
☆逆にこの新しい住宅地のために、古くからの集落が完全に捨て去られてしまうケースもある(例:ライン川下流の都市クサンテン)
L.ブラガでの教会会議(536年)によって、死者を教会の外(=市内)に埋葬することが認められ、古代地中海地域に特徴的だった「生者と死者の棲み分け」は廃止へと向かう
【教会内への埋葬】
M.人々の「死後もできるだけ聖人の側にいたい」という欲求は、墳墓教会(or墓の上に建てられた礼拝堂)の存在によって「できることならば教会内に葬られたい」という願いへと変わった(聖職者も俗人も)。これに対して、教会サイドはナントの教会会議(7世紀)で「教会内への埋葬はダメ。せいぜい中庭or回廊まで」という禁令を出した
N.しかしそのような禁令は、人々の動きを止められなかった:
「1.まず最初に司教・修道院長が、自分が出した禁令を無視した」→「2.王や高位貴族が、自分の墓所にするために建設した教会内に葬られるのを、拒否できなかった」→「3.例外は拡大し、修道士・司祭だけでなく『教会のために貢献したor特に信心深かった』俗人にも認められた」
O.3.まで拡大されれば、人々は教会内に葬られたいのだから「自分は信心深かった」と主張するようになる。こうして「4.本人or家族が願い出さえすれば、全ての俗人に教会内への埋葬が許されるようになった(12世紀)」
P.特に人気のある教会(例:ローマの聖ピエトロ大聖堂)は、望む者全てを受け入れることができなくなり、新たな規則が必要となる。そして教会は常に財政難に悩まされていた→「金持ちの優遇」に繋がる(「金持ちを優遇してはならない」と繰り返し警告が出されている)
(2)異民族の墓地(ローマ帝国外)
A.ローマ帝国に侵入する以前のゲルマン人・スラヴ人・フン族・アヴァール人は「法・城壁によって周辺地域から隔てられた都市」にではなく「郊外に緩やかな集落を形成して暮らしていた」
⇒生者/死者に割り当てられた領域は、ギリシア人・ローマ人ほどはっきりと分かれていない
★考古学での調査において、彼らの集落の存在証拠は墓地しかない、という場合も多い。彼らは「住居を木・籐(とう)・粘土で作った」ので、痕跡が残っていない(科学技術によって検出可能な残余物を除いて)
B.ゲルマン人・スラヴ人は、死者を葬るやり方が部族ごとに違っていて、それらは様々な「流行」の影響を受けた。民族大移動期においては「キリスト教と異教の要素がじかに接触し、共存していた」「死者は(以前と変わらず)たいてい墓地に葬られていた」
C.墓地には死者の社会的階層が見事に反映されている。後に貴族と呼ばれることになる者たち(名声・権力・財力・家来の数が抜きん出ていた)は、死者に豪華な墓を与えた。その特徴は「a.一般の墓地から離れた場所にある」「b.土を盛り上げて古墳になっている」「c.副葬品が豪華である」など
D.この地域においては文献資料はほとんど残されておらず、考古学において発掘品は貴重である
〈例〉アレマン人の列状墓:
南西ドイツ地方史(5~8世紀初)で最も重要な資料である。そこでは「重要な個々の墓or集団墓地の状態」から「その地域の入植が継続的だったかor断続的だったか」が分かる。さらに発掘された骨からは「被埋葬者の年齢,身長,性別,健康状態,病気,当時の医師の能力」までもが判定できる
(3)副葬品など
【一般論】
A.副葬品が存在する=「遺された者たちが死後の生命の存在を確信していた」ことを示している。彼らは「あの世での身分相応の生活を保証する品々」を、死者のために墓の中へ入れた
B.墓・副葬品・その他の状況からは「手工業の技量,農業,産業,貿易,交通,男女関係,法,宗教観,死者の社会的地位」などを推測できる
〈例〉「男性と女性は一緒に埋葬されているか?」「副葬品は男女同程度の価値を持っているか?」「夫と共に埋葬されるために『未亡人が殺された』or『自ら命を絶った』形跡があるか?」
C.女性の墓からよく見つかるのは「指輪,首飾り,ブローチ,食器,家事道具(ナイフ・コップ・陶製〔orガラス製〕の瓶&水差し・糸巻き棒),お手入れ用品(鏡・櫛・ヘアピン・毛抜き)」などである。男性の墓に入れられたのは「硬貨,武器,装飾品」である
☆ただし男性の墓の装飾品は「細工に必要な道具(例:金細工用,精密細工用)のおまけ」という色合いが濃い
D.死者のために墓の中に馬を埋葬することも、時には行われた(これはキリスト教化前も、その後も)。その意味は「戦士に相応しくヴァルハラに入城するため?」or「死者と彼が所属する部族の卓越した地位を示すため?」。結論は出せないという(補足する文献資料が無いから)
【キリスト教化後】
E.キリスト教徒は土葬を好んだ。彼らは「死者を仰向けに寝かせて、顔を天上に、頭をイェルサレム(東方にある、と考えられていた)に向けて」葬った。イェルサレムには「いつの日が世界の裁き手が現れる」のだ
F.副葬品にはキリスト教のシンボル・銘が付けられるようになる
〈例1〉“願わくは君、神の内に生きんことを”という言葉は、死後の生命への確信を表している
〈例2〉「十字の印が付いた」or「十字架の形に作られた」副葬品には、永遠の至福への願いが込められていた
〈例3〉金葉十字(薄い金属片から切り出されたor2枚の金属の帯を十字に組み合わせたもの)は、使われた形跡の無いものが裕福な人物の墓に入れられた(7世紀前半の墓から)。縁に小さい穴が開いている→「死者の顔を覆った布(薄いベールのようなもの?)に縫い付けられていた」ようだ
★キリスト教化によっても副葬品の習慣は廃止されなかった。このため、中世の芸術文化や日常/祝祭について、後世の人々は知ることができた
★ローマ帝国時代には、高位高官が亡くなると「湯灌(ゆかん)を受け、香油を塗られた後で、職務服を着せられた」。その他の人々も、その階級にふさわしい衣服を着せられた
H.トリーア大司教ルオドベルト(在位931‐956年)の棺から見つかった「黄金の杯」は、墓から見つかった物としてはは最古の杯である。この杯を入れた動機は不明:「旅に持ち歩く道具?」or「“永遠の旅路”のための物?」or「裁き手=神の前で、自分の業績を説明できる証拠品?」
I.中世初期の世俗の権力者は「支配権の印,財宝の一部」とともに葬られた。以下はトゥールネで発見(1653年)されたヒルデリヒ1世(482年没)の墓から(ただし発見品の大部分は19世紀に盗難に遭ったという):
「a.王の胸像を彫った印章付きの黄金の指輪」「b.緋色の豪華な衣装」「c.キリスト教の十字架が付いたローマ風の黄金のマント留め」「d.剣を持つ手の手首に着けられていた金の輪」「e.黄金の牛頭(部族と関係した護符のようなもの?)」「f.装飾豊かな黄金の蝉(意味はよく分かっていない)」「g.武器,硬貨」「h.遺体は木棺に納められている」
J.やがて副葬品は簡素になっていく(フランス:8世紀~,イングランド:9世紀~)が、副葬品が無くなったのではない。聖俗の権力者の墓には(引き続いて)支配の印が入れられた
〈例〉カール大帝は「宝石を象嵌された黄金の冠,純金から作られた王笏・剣」だった。コンラート2世とその妻ギゼーラの埋葬用冠は「さほど貴重ではない金属で作られた質素な物」である
【巡礼の記念品】
K.巡礼者は「貝殻(サンティアゴ・デ・コンポステラから),金属で鋳造された記念品(他の巡礼地から),棕櫚の枝(イェルサレムから)」を記念に持って帰った。これは「生前に巡礼を行った証拠となる」「あの世への旅路の助けとなる」のだった(もちろん聖人による神へのとりなしを期待してのこと)
(4)墓泥棒
【墓のジレンマ】
A.墓はそれと分からなければならないし、未来の人々に強い印象を与えねばならない。しかし一方で、泥棒は閉め出さねばならない。そこで墓泥棒に対する厳しい罰によって「死者の安息を脅かしてはならない」という禁令を裏打ちした(古代エジプト~)
〈例〉アレマン人の法は「殺人者に40~50シリングの罰金(犠牲者が鉄工or金工のケース)」を課していたが、墓泥棒には80シリングの罰金刑を与えている
B.「神の裁き」も引き合いに出して、墓泥棒に警告を発していた
〈例〉ヘローナ(スペイン)にある聖ナルキススの墓を暴いた泥棒は、蚊に殺されたという(1286年)
C.荒らされていない(or少ししか略奪されていない)墓があったなら、それには幾つかの理由が考えられる:「禁令が実際に奏効した,死者が復讐すると信じられていた,墓掘り人夫が墓完成の暁に殺された…etc.」
D.墓泥棒も簡単ではなかった:「簡単な道具を使って、1人で墓室まで掘り進むには長い時間がかかった」「掘り当てた古墳に高価な副葬品があるとは限らない。もしかしたら自分より先に誰かが来ているかも知れない」のである
E.墓は慎重に隠されることが多い
〈例1〉(伝説によると)西ゴート族の長アラリック1世(410年没)は、コセンツァ(カラブリア地方)付近で迂回するブセント川の河床に葬られた
〈例2〉カール大帝の墓はアーヘン大聖堂の中で、ノルマン人侵入(882年)を前にして、場所が分からないようにされていた。皇帝オットー3世の家臣たちはさんざん探してようやく見つけた(1000年)
F.「墓泥棒」を定義するのは難しい場合がある。というのも、君主・聖人の墓は掘り返されることがあるから
〈例〉上記皇帝オットー3世は「生きているかのように見えるカール大帝の爪を切り取り、口から歯を抜いた」「遺体の首に引っかかっていた黄金の冠、まだ朽ちていない衣服の一部を取り、その他のものは畏敬の念を込めて元に戻した」という。しかし皇帝は、時を経ずして「永遠の裁き手の罰を受けた」(→1002年に亡くなった)
(5)中世初期の墓地
【私有教会への埋葬】
A.新たな支配者となったゲルマンの権力者たちは、征服した広大な土地(旧ローマ帝国の民が耕している)を私有地とした。キリスト教化の後に、彼ら支配者は(かつてローマ帝国の大土地所有者がしたように)自腹を切って私有教会を建立した:
「a.その多くは、英雄と崇められた先祖の墓・教会建立者の墓の上に建てられた」「b.臣下の中から雇われ司祭を選んだ」「c.司祭は主人に忠実で、生者・死者の魂の安寧を祈った」
B.アレマン人は死者を列状墓に葬らなくなる(700年~)。代わりに「君主・夫人・子供たちは教会の中」「広い意味での家構成員(家臣・農奴)は教会の中庭」に葬られるようになった
C.このような私有教会の多くは(数世紀の内に)教区教会が持つ権利=「子供の洗礼,結婚の祝福,死者の埋葬:これらは教区主任司祭が持つ特権である」を失った
【支配と規律の手段として】
D.カール大帝は数十年間にわたってザクセンの征服戦争を繰り広げた。彼は異教徒であるザクセン人をキリスト教の支配体制に組み込むために、戦いの手段として死者の埋葬を利用した:
「a.異教の慣習に従って遺体を火葬にした者は死刑とする」「b.キリスト教徒となったザクセン人の遺体は“異教徒の古墳”ではなく、教会墓地に運ぶこと-これによってキリスト教徒と見なす」
E.この命令によって「c.古くからの部族の慣習に忠実な者は『帝国法に抵触する』=『法の保護外に置かれる』ことになった」。一方で「d.カール大帝の命令を聞き入れた(保護下に置かれた)ザクセン人は、そのことがキリスト教徒への改宗を意味した」。しかしそれは「e.多くの部族民から『先祖代々の慣習・信仰に対する裏切り者』と見られた」のだ
F.それ以降、教会は信者に「良き振る舞い」を要求した。そうしなければ「本人・親族を教会に埋葬させないぞ」という脅しも使われた
☆教会への埋葬を拒否されれば「1.死の床・教会・墓の傍らで捧げられる祈りの恩恵に浴することができない」のだ。「2.運が良ければ、墓地を囲む塀の向こう側にでも埋めてもらえる」が「3.皮を剥がれた動物と一緒に穴に投げ込まれる」こともあったと思われる
○死者の場所
(1)埋葬場所
A.死者たちは「彼らのために用意された場所で、平和のうちに眠る」権利を(多くの場合刑法によって)与えられていた。死者の共同体のための特別な場所は“Friedhof”(ドイツ語)“cimetiere”(フランス語)“Nekropole”(死者の町:ギリシア語)と呼ばれている。Friedhofは「法律の保護下にある、柵で囲われた空間」を意味する
B.cimetiereはギリシア語の「眠る」に由来する単語である。つまり、ギリシア人もローマ人も、墓地を「死者が眠る場所」と考えており、このイメージがキリスト教の教え(霊魂の不滅・死者の復活を説く)と一致していた
C.居住地域の外にある墓地は、南・東ドイツでは“Gottesacker”(神の畑)め呼ばれる。これは“campnsanto”(聖なる畑:イタリア語)に相応している。この表現は『麦の粒の喩え』のようなキリスト教説話(★)を想起させる
★1粒の麦は、地に落ちて死ななければ、1粒のままである。しかしもし死ねば、多くの実を結ぶ
【紀元前:市外での埋葬】
D.ローマの12表法では「死者を市内で埋葬or火葬してはならない」と定めた。しかしこの禁令は何度も繰り返し出された(→禁令は効果が無かった)。ユスティニアヌスの時代には、都市の発展によって禁令はとっくに無効となっていた
【キリスト教から見た埋葬】
E.紀元前の地中海文明では「死後埋葬なしに放置されるのは恥」とされた(ゲルマン人・スラヴ人もそうだった)。しかし多くのキリスト教徒はこの考え方を捨てた→「殉教後に鳥・犬の餌として死体を投げ与えられた人物」を、聖人として崇めた
F.キリスト教徒にとって、埋葬されたか否かという事実はあの世においては何の意味もない。実際、教父アウグスティヌスは『神の国』において「遺体の世話・埋葬の手配・葬送の式典は、死者に対する奉仕というよりも“生者にとっての慰めである”」と述べている
G.ただしこのような見解(原理主義的?)は、紀元前からの伝統的な考え方を押しのけて主張されたのではない。伝統の支配下にあった人々にとって「祈り・善行によって死者を気遣う方がもっともである」。さらにキリスト教徒は、もし「信者の遺体が異教徒の横に埋葬される」のなら、ひょっとしたら「墓が汚される,信者の復活が妨げられる」かも、と恐れた
⇒この考え方は近世まで残り、カトリックとプロテスタントの墓地は分離された
★墓が隣となる(=死者の共同体)から除外されたのは「他宗派の人間」「教説によって至福に与れないとされた人々全て:ユダヤ人,犯罪者,自殺者,異端者,未洗礼の子供たち」である
【聖人の傍らへの埋葬】
H.キリスト教徒はローマ帝国の慣習を受け継ぎ、死者は市外に葬られた(例外:場所の不足,被迫害時代のカタコンベでの埋葬)。墓が市外であっても、市街地の中心からの放射状道路近くにある(例:ローマではアッピア街道の両脇)のなら、訪れるのも簡単だった
I.この墓に、死後「3日目,7日目,9日目,30日目,40日目,年に一度の命日」に墓参りする習慣は広まっていく。これら“記念日”は現代ても大事にされている
J.ローマ帝国のキリスト教化によって、多くの者が「聖人の傍らへの埋葬」を希望するようになる。そうすれば、聖人を「あの世での強力な代願者にできる」と信じられたからである。その殉教者の墓の上には「いわゆる『墳墓教会』が建てられた」「信者たちはここで礼拝を行い、殉教者を追慕した」
K.さらに一歩進んで、人々は生きているうちから聖人の側で暮らすことを望むようになる。そのため、ローマ時代の市壁の外に建てられた墳墓教会が新興集落の中心となる→都市の郊外となった(例:ローマ,トゥールーズ,アルル,ケルン,トリーア)
☆逆にこの新しい住宅地のために、古くからの集落が完全に捨て去られてしまうケースもある(例:ライン川下流の都市クサンテン)
L.ブラガでの教会会議(536年)によって、死者を教会の外(=市内)に埋葬することが認められ、古代地中海地域に特徴的だった「生者と死者の棲み分け」は廃止へと向かう
【教会内への埋葬】
M.人々の「死後もできるだけ聖人の側にいたい」という欲求は、墳墓教会(or墓の上に建てられた礼拝堂)の存在によって「できることならば教会内に葬られたい」という願いへと変わった(聖職者も俗人も)。これに対して、教会サイドはナントの教会会議(7世紀)で「教会内への埋葬はダメ。せいぜい中庭or回廊まで」という禁令を出した
N.しかしそのような禁令は、人々の動きを止められなかった:
「1.まず最初に司教・修道院長が、自分が出した禁令を無視した」→「2.王や高位貴族が、自分の墓所にするために建設した教会内に葬られるのを、拒否できなかった」→「3.例外は拡大し、修道士・司祭だけでなく『教会のために貢献したor特に信心深かった』俗人にも認められた」
O.3.まで拡大されれば、人々は教会内に葬られたいのだから「自分は信心深かった」と主張するようになる。こうして「4.本人or家族が願い出さえすれば、全ての俗人に教会内への埋葬が許されるようになった(12世紀)」
P.特に人気のある教会(例:ローマの聖ピエトロ大聖堂)は、望む者全てを受け入れることができなくなり、新たな規則が必要となる。そして教会は常に財政難に悩まされていた→「金持ちの優遇」に繋がる(「金持ちを優遇してはならない」と繰り返し警告が出されている)
(2)異民族の墓地(ローマ帝国外)
A.ローマ帝国に侵入する以前のゲルマン人・スラヴ人・フン族・アヴァール人は「法・城壁によって周辺地域から隔てられた都市」にではなく「郊外に緩やかな集落を形成して暮らしていた」
⇒生者/死者に割り当てられた領域は、ギリシア人・ローマ人ほどはっきりと分かれていない
★考古学での調査において、彼らの集落の存在証拠は墓地しかない、という場合も多い。彼らは「住居を木・籐(とう)・粘土で作った」ので、痕跡が残っていない(科学技術によって検出可能な残余物を除いて)
B.ゲルマン人・スラヴ人は、死者を葬るやり方が部族ごとに違っていて、それらは様々な「流行」の影響を受けた。民族大移動期においては「キリスト教と異教の要素がじかに接触し、共存していた」「死者は(以前と変わらず)たいてい墓地に葬られていた」
C.墓地には死者の社会的階層が見事に反映されている。後に貴族と呼ばれることになる者たち(名声・権力・財力・家来の数が抜きん出ていた)は、死者に豪華な墓を与えた。その特徴は「a.一般の墓地から離れた場所にある」「b.土を盛り上げて古墳になっている」「c.副葬品が豪華である」など
D.この地域においては文献資料はほとんど残されておらず、考古学において発掘品は貴重である
〈例〉アレマン人の列状墓:
南西ドイツ地方史(5~8世紀初)で最も重要な資料である。そこでは「重要な個々の墓or集団墓地の状態」から「その地域の入植が継続的だったかor断続的だったか」が分かる。さらに発掘された骨からは「被埋葬者の年齢,身長,性別,健康状態,病気,当時の医師の能力」までもが判定できる
(3)副葬品など
【一般論】
A.副葬品が存在する=「遺された者たちが死後の生命の存在を確信していた」ことを示している。彼らは「あの世での身分相応の生活を保証する品々」を、死者のために墓の中へ入れた
B.墓・副葬品・その他の状況からは「手工業の技量,農業,産業,貿易,交通,男女関係,法,宗教観,死者の社会的地位」などを推測できる
〈例〉「男性と女性は一緒に埋葬されているか?」「副葬品は男女同程度の価値を持っているか?」「夫と共に埋葬されるために『未亡人が殺された』or『自ら命を絶った』形跡があるか?」
C.女性の墓からよく見つかるのは「指輪,首飾り,ブローチ,食器,家事道具(ナイフ・コップ・陶製〔orガラス製〕の瓶&水差し・糸巻き棒),お手入れ用品(鏡・櫛・ヘアピン・毛抜き)」などである。男性の墓に入れられたのは「硬貨,武器,装飾品」である
☆ただし男性の墓の装飾品は「細工に必要な道具(例:金細工用,精密細工用)のおまけ」という色合いが濃い
D.死者のために墓の中に馬を埋葬することも、時には行われた(これはキリスト教化前も、その後も)。その意味は「戦士に相応しくヴァルハラに入城するため?」or「死者と彼が所属する部族の卓越した地位を示すため?」。結論は出せないという(補足する文献資料が無いから)
【キリスト教化後】
E.キリスト教徒は土葬を好んだ。彼らは「死者を仰向けに寝かせて、顔を天上に、頭をイェルサレム(東方にある、と考えられていた)に向けて」葬った。イェルサレムには「いつの日が世界の裁き手が現れる」のだ
F.副葬品にはキリスト教のシンボル・銘が付けられるようになる
〈例1〉“願わくは君、神の内に生きんことを”という言葉は、死後の生命への確信を表している
〈例2〉「十字の印が付いた」or「十字架の形に作られた」副葬品には、永遠の至福への願いが込められていた
〈例3〉金葉十字(薄い金属片から切り出されたor2枚の金属の帯を十字に組み合わせたもの)は、使われた形跡の無いものが裕福な人物の墓に入れられた(7世紀前半の墓から)。縁に小さい穴が開いている→「死者の顔を覆った布(薄いベールのようなもの?)に縫い付けられていた」ようだ
★キリスト教化によっても副葬品の習慣は廃止されなかった。このため、中世の芸術文化や日常/祝祭について、後世の人々は知ることができた
★ローマ帝国時代には、高位高官が亡くなると「湯灌(ゆかん)を受け、香油を塗られた後で、職務服を着せられた」。その他の人々も、その階級にふさわしい衣服を着せられた
H.トリーア大司教ルオドベルト(在位931‐956年)の棺から見つかった「黄金の杯」は、墓から見つかった物としてはは最古の杯である。この杯を入れた動機は不明:「旅に持ち歩く道具?」or「“永遠の旅路”のための物?」or「裁き手=神の前で、自分の業績を説明できる証拠品?」
I.中世初期の世俗の権力者は「支配権の印,財宝の一部」とともに葬られた。以下はトゥールネで発見(1653年)されたヒルデリヒ1世(482年没)の墓から(ただし発見品の大部分は19世紀に盗難に遭ったという):
「a.王の胸像を彫った印章付きの黄金の指輪」「b.緋色の豪華な衣装」「c.キリスト教の十字架が付いたローマ風の黄金のマント留め」「d.剣を持つ手の手首に着けられていた金の輪」「e.黄金の牛頭(部族と関係した護符のようなもの?)」「f.装飾豊かな黄金の蝉(意味はよく分かっていない)」「g.武器,硬貨」「h.遺体は木棺に納められている」
J.やがて副葬品は簡素になっていく(フランス:8世紀~,イングランド:9世紀~)が、副葬品が無くなったのではない。聖俗の権力者の墓には(引き続いて)支配の印が入れられた
〈例〉カール大帝は「宝石を象嵌された黄金の冠,純金から作られた王笏・剣」だった。コンラート2世とその妻ギゼーラの埋葬用冠は「さほど貴重ではない金属で作られた質素な物」である
【巡礼の記念品】
K.巡礼者は「貝殻(サンティアゴ・デ・コンポステラから),金属で鋳造された記念品(他の巡礼地から),棕櫚の枝(イェルサレムから)」を記念に持って帰った。これは「生前に巡礼を行った証拠となる」「あの世への旅路の助けとなる」のだった(もちろん聖人による神へのとりなしを期待してのこと)
(4)墓泥棒
【墓のジレンマ】
A.墓はそれと分からなければならないし、未来の人々に強い印象を与えねばならない。しかし一方で、泥棒は閉め出さねばならない。そこで墓泥棒に対する厳しい罰によって「死者の安息を脅かしてはならない」という禁令を裏打ちした(古代エジプト~)
〈例〉アレマン人の法は「殺人者に40~50シリングの罰金(犠牲者が鉄工or金工のケース)」を課していたが、墓泥棒には80シリングの罰金刑を与えている
B.「神の裁き」も引き合いに出して、墓泥棒に警告を発していた
〈例〉ヘローナ(スペイン)にある聖ナルキススの墓を暴いた泥棒は、蚊に殺されたという(1286年)
C.荒らされていない(or少ししか略奪されていない)墓があったなら、それには幾つかの理由が考えられる:「禁令が実際に奏効した,死者が復讐すると信じられていた,墓掘り人夫が墓完成の暁に殺された…etc.」
D.墓泥棒も簡単ではなかった:「簡単な道具を使って、1人で墓室まで掘り進むには長い時間がかかった」「掘り当てた古墳に高価な副葬品があるとは限らない。もしかしたら自分より先に誰かが来ているかも知れない」のである
E.墓は慎重に隠されることが多い
〈例1〉(伝説によると)西ゴート族の長アラリック1世(410年没)は、コセンツァ(カラブリア地方)付近で迂回するブセント川の河床に葬られた
〈例2〉カール大帝の墓はアーヘン大聖堂の中で、ノルマン人侵入(882年)を前にして、場所が分からないようにされていた。皇帝オットー3世の家臣たちはさんざん探してようやく見つけた(1000年)
F.「墓泥棒」を定義するのは難しい場合がある。というのも、君主・聖人の墓は掘り返されることがあるから
〈例〉上記皇帝オットー3世は「生きているかのように見えるカール大帝の爪を切り取り、口から歯を抜いた」「遺体の首に引っかかっていた黄金の冠、まだ朽ちていない衣服の一部を取り、その他のものは畏敬の念を込めて元に戻した」という。しかし皇帝は、時を経ずして「永遠の裁き手の罰を受けた」(→1002年に亡くなった)
(5)中世初期の墓地
【私有教会への埋葬】
A.新たな支配者となったゲルマンの権力者たちは、征服した広大な土地(旧ローマ帝国の民が耕している)を私有地とした。キリスト教化の後に、彼ら支配者は(かつてローマ帝国の大土地所有者がしたように)自腹を切って私有教会を建立した:
「a.その多くは、英雄と崇められた先祖の墓・教会建立者の墓の上に建てられた」「b.臣下の中から雇われ司祭を選んだ」「c.司祭は主人に忠実で、生者・死者の魂の安寧を祈った」
B.アレマン人は死者を列状墓に葬らなくなる(700年~)。代わりに「君主・夫人・子供たちは教会の中」「広い意味での家構成員(家臣・農奴)は教会の中庭」に葬られるようになった
C.このような私有教会の多くは(数世紀の内に)教区教会が持つ権利=「子供の洗礼,結婚の祝福,死者の埋葬:これらは教区主任司祭が持つ特権である」を失った
【支配と規律の手段として】
D.カール大帝は数十年間にわたってザクセンの征服戦争を繰り広げた。彼は異教徒であるザクセン人をキリスト教の支配体制に組み込むために、戦いの手段として死者の埋葬を利用した:
「a.異教の慣習に従って遺体を火葬にした者は死刑とする」「b.キリスト教徒となったザクセン人の遺体は“異教徒の古墳”ではなく、教会墓地に運ぶこと-これによってキリスト教徒と見なす」
E.この命令によって「c.古くからの部族の慣習に忠実な者は『帝国法に抵触する』=『法の保護外に置かれる』ことになった」。一方で「d.カール大帝の命令を聞き入れた(保護下に置かれた)ザクセン人は、そのことがキリスト教徒への改宗を意味した」。しかしそれは「e.多くの部族民から『先祖代々の慣習・信仰に対する裏切り者』と見られた」のだ
F.それ以降、教会は信者に「良き振る舞い」を要求した。そうしなければ「本人・親族を教会に埋葬させないぞ」という脅しも使われた
☆教会への埋葬を拒否されれば「1.死の床・教会・墓の傍らで捧げられる祈りの恩恵に浴することができない」のだ。「2.運が良ければ、墓地を囲む塀の向こう側にでも埋めてもらえる」が「3.皮を剥がれた動物と一緒に穴に投げ込まれる」こともあったと思われる