『中世の死』N・オーラーから[7]


○眠りの兄弟=死


(1)死

【死と眠り】
 A.多くの人は、いつと気付かれないままに眠りから死へと移行していったので「何某は永眠した」と伝えられるのは、単なる婉曲表現ではない。ヨーロッパではキリスト教化以前から「死と眠りは兄弟」というイメージがよく知られ、中世にも引き継がれた
〈例1〉ヘシオドスは、眠りと死を「夜を母とする双子」と見ていた。イエスもパウロも、死者のことを「眠っている」と表現していた
〈例2〉キフホイザー伝説
 一度死んだ支配者(当初はフリードリヒ2世が、後にはフリードリヒ1世バルバロッサが想定された)が長い眠りの後、平和と正義の王国を築くために甦る、という物語を伝えている
 B.「死と眠りは兄弟」というイメージは、死にゆく者・残される者双方を慰めた。なぜなら「ある一定の期間が過ぎると蘇りの日が来て、新たに永遠の生命を授かる」と期待しながら死んでいくから
 ☆この考え方は死者典礼のコンセプト=「生命は奪われるのではなく、死へと変容される」とも共通している

【死ぬこと】
 C.「この人は死んでしまった」と疑われた場合には「年配の者を呼んだ」→「彼らは様々な徴候(例:心臓・呼吸が止まっている,身体が冷たくなっている,筋肉が硬直している,肌の色が変わっている,死臭がする)によって死を確認した」
 D.奇蹟物語が伝えるように、死亡の判断が間違っていた(死者と思われていた者が息を吹き返す!)ことが分かるのも度々あった(例:溺れてからかなり時間が経過した後に)
 E.さらに難しいのは「この人は命を失い、死を迎えた」とは簡単には言い切れないこと(=死は経過として現れることが多かった)にある。「肉体が衰え、髪・歯が抜け落ちていくにつれ、死は死者を手中に収めていく」のであり、呼吸・脈が途絶えることで死がその人間全てを支配するのではない(←呼吸停止後も髪・爪は伸び続けるから)
 ★これにより、髪・爪はいわば「生の担い手」となり、聖遺物として尊ばれた。「心臓が動いている死体」が存在するのか?という脳死の議論は、中世には有り得ない
 F.古代より人間にとって、死は謎であった。死とは何者でもない:「生きておらず、実体も姿形も持っていない,目に見えず、手で触れることもできないが、霊でもない」。しかし何者かである:「生命の終わり,存在の終わり,不在の始まり,その両者のはざま」
 G.殉教者の死亡日は「永遠の生命の誕生日」と見なされ、後には全てのキリスト教徒がこれに倣った。後世には、肉体が誕生した日よりも死亡した日が伝えられていることが多い


(2)死者への配慮

 A.聖者という評判もない、聖俗の「大物」でもない人間であっても、自分の亡骸が「キリスト教徒の間で普通行われているように扱われるだろう」という期待はできた。死者も奉仕を受け、敬意を表された

【配慮の一覧】
1.「目と口を閉じることが、残された親族に第一に課せられた崇敬の義務である」
2.「死体を洗ったのはたいていは女性である。死体洗浄も礼拝のためのお清め(★)であった-なぜなら死者は間もなく教会へ運ばれるのだから-」
 ★「洗礼(「再生の沐浴」と解釈される),繰り返し注がれる聖水,巡礼が聖地入りを前に行う湯浴み」も同じく、礼拝のためのお清めである
3.「健康な者も病の者も、ベッドには通常は裸で寝た。例外は修道士(足まである修道服で眠った)。そのためもあり、死者には衣服を着せねばならなかった」
4.「経帷子(死装束)は少なからぬ人が、人生の花の盛りに用意していた。ある者はその経帷子を持って巡礼に行き、聖遺物に接触させた。またある者は聖地イェルサレムへ出掛けて、経帷子をヨルダン川の水に浸した」
5.「湯灌(遺体の入浴・洗浄)を施されて経帷子を着せられた遺体は、棺台の上で顔を天に向けて横たえられた。ここで初めて人々は、彼に別れを告げることができた」
6.「南の国々・暑い時期においては、死者はできる限り早く、亡くなった日に埋葬された。腐敗がそれほど早く進まない地域では、通常は翌日まで棺台に安置された(3日以上の安置は稀)」
7.「死者の周りには(鐘の音と同じく)悪魔を祓うために蝋燭が灯された」
8.「死者は王侯貴族のように香煙を焚いてもらった。死の前後で香を焚くのは、寝床に染み付く人間の排泄物の臭い・棺台の上での腐敗臭、を隠すためでもある」
9.「より重要なのは、香によって死者が崇められるというもの」
 ★香煙は「キリスト教以前には神々」「キリスト教の礼拝において磔刑図・供え物・福音書・典礼を行う司祭・会衆」にのみ許されていた

【クリュニー修道院と救貧院にて】
 B.クリュニー修道院での慣行:
「a.瀕死の人間の枕元に呼ばれた司祭が、いざ臨終となると神に“汝の下僕の魂を迎え入れ給え”と祈る」→「b.助修士たちが全ての鐘を鳴らす」→「c.湯灌を施すのは死者が聖職者の場合は聖職者が、俗人の場合には俗人」→「d.死骸は帷子・修道服・履き物・屍衣を着せられ、手を合わせて棺台に横たえる」→「e.修道服のフードを顔を覆うように引き上げ、修道士たちが代わる代わる縫い合わせる」。ここまでの準備を終えてから「f.死者に香煙を焚き、聖水をかけ、全ての鐘が鳴り響く中教会へ運ぶ」「g.そこでは修道士が寝ずの番をする」
 C.中世の救貧院の図版には「生者と死者が何のこだわりもなく同居している」様子が描かれている(P97)。1つ広間の中で「a.見舞い客が患者と会話している」「b.司祭が寝たきりの患者に聖体を授けている」「c.女性が死者を屍衣でくるんで縫い合わせる」

【喪を隠す】
 D.高位高官の死は度々秘密にされた
〈例1〉アルル大司教(869年)
 サラセン人は大司教ロトランを捕らえて、彼の友人たちと身代金の交渉に入ったが、その途中に彼が死んでしまった。サラセン人はさも急いでいるようなふりをして支払いをせき立てた
 彼らは身代金(銀150ポンド,外套150着,刀剣150振り,奴隷150人など)を手に入れると、大司教が捕らわれた時に身にまとっていた修道服を遺骸に着せ、椅子に腰掛けさせると、恭しく船から陸へ下ろした。友人たちは解放された祝いを述べようとして初めて、大司教が死んでいるのを知った
〈例2〉皇帝オットー3世(1002年)
 マラリア(“イタリア病”と呼ばれた)がもとでイタリアで亡くなった。家臣たちは「急使を出して近辺に宿営している部隊を集めるまで」その死を隠した。この慎重な配慮によって、軍は皇帝の遺骸と共に無事ドイツへ帰還した


(3)通夜の気晴らし

 A.親族・隣人たちは「人・獣・悪霊が『遺体に安易に触れる,遺体を持ち去る』ことによって、死者の安息を乱してしまう」ことを防ぐために、死者の傍らで「祈り、賛美歌を歌い、不寝番をする」ことで夜を過ごした
 B.教会とは関係ない、キリスト教以前からの習俗・迷信・伝統・信仰心に対しては、常に教会が疑惑の目を向けていた。様々な教会関係者の著作・教会会議の規約にも、通夜における「呪術禁止」を狙った諸規則が見られる(上記A.もその1つ)
 ⇒しかしこうした規制が繰り返し強調されているのは、それがたいした効果を上げていなかった証拠である
 C.教会による様々な戒告にもかかわらず「a.死人の周りはたいそう賑やかな騒ぎになることがままあった」「b.男女が死体を囲んで、踊り・歌い・ふざけ合った」「c.棺台の周りで陽気にやっても構わない、と聞いて驚く者はあまりいなかった」「d.遺言書に『守番の楽しみのために、しかじかの金額を』という項目があるくらいだった」という


(4)葬儀

【葬列】
 A.朝になると「死者のために詩篇その他の祈りが捧げられる」→「遺体は司祭によって聖水をかけられて教会へ運ばれる」。ここにも様々な慣習・しきたりが当然存在していた:
1.「運び手は同僚(修道士・助祭・司祭の場合)or同職(ツンフトのメンバー)or同身分の者」
2.「葬列の先頭では、聖職者とミサの侍者が十字架を掲げて、聖水盆・香炉・蝋燭を持って進む」
3.「金持ちはその時々のしきたりに合わせて、遺言書の中で(荘重な)葬列のいちいちを細かく決めていた」
〈例〉修道士・泣き女(賛美歌を歌う修道女、蝋燭を持つベギン会修道女でもよい)の人数,松明・蝋燭の数,死骸を覆う布地の品質・色,歌・祈りの種類…etc.
4.「この場合、仕事ぶりによって支払いも異なったので、修道士・修道女・泣き女たちは死者に付き添う間、ずっと祈っていなければならなかった」
5.「乱暴狼藉は厳しく禁じられた。異なる修道院に属する修道士たちの間で、争いになることも多かった(争点:誰が死者の一番近くに立つか,誰が前を歩くのか…etc.)」
6.「葬列の最中、陰気な音が鳴り響いた」

【教会にて】
 B.棺は燭台に囲まれ、教会の中央or内陣に安置される。明かりは「希望の担い手」→「死後も続く生を表すもの」である。続く「死者のためのミサ」により、参列者は死者との連帯を意識し、説教によってあの世での生が説かれた:
“神の命によりこの世を去る下僕の魂を、聖人の供となし給わんことを”
 C.ミサでは「マカバイ記からの朗読,書簡朗読の後に行われる答唱(昇階唱)と福音書,聖体拝領の1節」が読み上げられ、参列者の心に「死者のための祈り」「ラザロと(慈悲が永遠の生に至るとした)イエスの言葉の想起」「キリスト教的な救済に対する確信」を伝える習慣だった
 D.古代末期~中世初期の典礼は「死んだ人の魂がキリスト&聖人たちと合体することを祝う」内容だったのだが、中世盛期以降の典礼では「最後の審判」がより強調されるようになった
 ⇒この2つの内容は『怒りの日』という詩の中で合体され、死者のためのミサ・万霊節のミサで唱えられるようになった

【怒りの日】
 E.福音書の朗読の前に人々はこれを唱えた(or歌った)。この歌の最初の数行では「この世の終わり・最後の審判」を描いている:
“審判者の怒りには裁かれし者のおののきこそがふさわしい。ラッパが鳴り響く。懼れに死さえその身をこわばらせる”
“被造物はすべからく申し開きをせねばならぬ。審判者の前には1冊の書物が開かれており、そこには全てが書き記され、世の一切が裁かれる。隠れたること全て顕れ、報いられざること1つとしてなし…”
 F.詩の中にあるモチーフの1つ1つは、預言書・詩篇を通じて信者たちに知られていたようだ。“死さえも懼れおののく”というような大胆な表現(ウェルギリウスからの借用)は、キリスト教作家たちに特に高く評価された
 G.『怒りの日』の中身は「ロマネスク教会の正面玄関に描かれた『最後の審判』をテキスト化したもの」と言える(成立は12世紀末?)。中世のラテン語詩の中で「最も荘厳で文化的影響が大きく、最も有名」と言われる
〈例〉中世において数多くの母国語訳が行われ、広く伝わった。モーツァルトの『レクイエム』、ゲーテの『ファウスト』、ベルリオーズの『幻想交響曲』をはじめ、ヨーロッパの文学・音楽文化に超民族的な影響を与えている
 H.身の毛もよだつ出だし部分の描写は、死者典礼のイメージを陰鬱なものとした。ところがこの恐ろしい幻想の後には、1人称の形式で祈りが表され、そこでは希望が強調されている:
「神が正義のみによって判断するなら、魂に助かる見込みはない」→「そこでイエスの慈悲にすがる」→「しかし罪の多さゆえに法のみで裁かれるのなら、救いは望めない」→罪人の嘆願が入る
 I.最後に教会(生者と死者の共同体)が代願者として登場し、審判者=神と罪人を仲介する:“人、罪ありて暴かれるべき者なれば、願わくば神よ、それを憐れみ給え、慈悲深きイエスよ、彼らに安息を与え給え!”

【永遠の安息の願い】
 J.“主よ、彼らに永遠の安息を与え、絶えざる光を以て照らし給え”というのは、典礼の冒頭に見られる。この願いは、葬式の日の聖体拝領前にも『神の小羊』の中で3回繰り返される:“世の罪を除きたもう神の小羊、彼らに安息を与え給え”。この日の葬送典礼全体が『レクイエム』と呼ばれた
 K.これらに共通する「安息」という言葉は、眠りのイメージを起こさせる。この世の多忙な生活の後に、死者はやっと最終的な安息に到達する(=悪霊・悪魔に苦しめられずに済む)のであった:“神よ、死者に永遠の安息を与え給え”


(5)埋葬

 A.普通、死者はミサ典礼の後に埋葬され(ミサ前に埋葬が行われる地方もある)、この時にも「家から教会まで付き添って、死者とその家族に連帯の情を示してくれた人々」が立ち会った。事情がある場合にのみ、死者は3日間教会内に安置された
 B.それ以上の猶予が特別に許されるのは、身分の高い列席者を待つ必要がある場合のみだった。この時には遺体の腐敗が進まないよう「遺体から内蔵を取り出すorバルサムを擦り込む」などを施した
 C.墓穴に入れられた遺体には「a.最後の聖水が注がれ、香煙が焚かれた」。遺体に「b.まず司祭が土を1すくい掛けてから、参列者がこれに倣った」。さらに「c.遺言状があれば、墓地で公式に読み上げられた」→「d.死者に貸しがある者・死者から贈与を受けた者は、ここで誰に相談すべきかを知った」「e.遺言執行者も明らかにされた」
 D.死者を埋葬するのは慈悲の行い(→死者の世話をして恭しく葬る義務)である。これは聖書に直接の根拠があるのではなく、聖ベネディクトゥスが修道士たちに「愛をもって死者に接する」ように命じ、そこからベネディクト会修道士たちによってアルプス以北に広められたようだ

【埋葬後の会食】
 E.この慣習もキリスト教化以前からのものである。死は(数十年来の馴染みだった)共同体を破壊してしまう。そこで残された者は、彼らの連帯を繰り返し確認した:「死者が眠るベッドの傍らにて,通夜の席にて,死者ミサにて,会食にて」
 F.会食では古い秩序(死者の席が空けられている・死者のことが偲ばれている)とは無関係に、新しい序列が示される。「妻は寡婦になる,未成年の子供は孤児(or片親の子)となる」ことは、社会的・法的な変化である。たいていは長男が家長となり、寡婦も彼の後見を受けることになる