『中世の死』N・オーラーから[16]
○刑法による暴力的な死
(1)刑罰を司る権力
A.戴冠ミサで、司教は国王に対して「厳かな祈祷のうちに支配の徴を授ける」のだが、その際司教は「裁き手としての役割」を強調する
“神意により汝に付与されたこの剣を受けるべし”“汝が正義の気高き守護者として、汝がその名のうちに持つ救世主と共に、永遠に支配するに相応しくあるように”
B.この祈祷は、全体として「防御的指針:教会・信者・寡婦・孤児の保護」&「攻撃的指針:信仰の敵の根絶」を含んでいる。中世においては恒久平和の概念は無く、王は剣を正しく用いることによって、自ら平和を創出しなければならなかった(=必要とあれば悪人の首を落とす)
【剣=裁判権】
C.王は「法の保証人,滞在中の土地での最上位の裁判官」であった。王が不在の土地では「伯が王の名の下に」or「侯が独自の法に基づいて」裁判を行っていた。図像には“抜き身の剣を膝の上に置いて座っている”伯がよく描かれている
★共同体には「罪人に対して死刑を宣告する権利」が認められていた
D.福音書で触れられた『剣2振り』という言葉によって、教皇ゲラシウス1世(492‐496年)以降に「教皇と王の支配権双方を正当化する理論:王には俗世の・教皇には霊界の、それぞれ剣が付与される」が作り上げられた
⇒やがて教皇庁は両方の剣に対する権利を主張する(中世盛期)。それは「俗世の剣は教皇によって皇帝に渡され、皇帝はその剣を教会に奉仕するために振るわねばならない」とするもの
(2)刑法と刑罰
A.刑罰を正当化する理論(中世初期)は「a.適当な償いによって神の怒りは和らげられ、傷つけられた秩序・破られた平和が埋め合わされる」「b.刑罰への恐怖によって、あらゆる人間に平和・神の慈悲・王の恩寵の中での平和を保障する」「c.悪事への誘惑に駆られる者も、恐怖で思いとどまるだろう」「d.少数を懲らしめることで、多数を真っ当な世界に引き留めるだろう」というもの
☆ただし実際には、期待されたほどの効果は無かったと推測される
B.刑罰は著しく変化し「時代,場所,加害者と被害者の社会的地位,性別,年齢」によって、同じ犯行に対して異なる罰が与えられた。中世初期の刑法は人道的とすら言える。というのは、魔術的な人肉食ですら罰金刑で贖われるケースもあった
⇒ところが中世盛期に入ると、かつては害がないとされていた罪にも死刑が科せられた。それは犯罪がたかだか数ペニヒで贖えたから、犯罪者は金ですぐに自由を買い戻せた→人名軽視の風潮が広まる
C.当局は犯罪の増大に対して、厳しい体刑で阻止しようとした(12世紀~)が、実際には使える権力手段は限られていた。それは「a.普遍的に拘束力を持つ法の不在(例外もあるが)」「b.国家権力は萌芽的に過ぎない」「c.法に敬意が払われるようにするための裁判機関・行政機関の欠如」による
D.統一された法の適用をいち早く達成したのは帝国直属都市だった(身分への配慮が要らなかったから)。“罰せられる者には、金・懇願・親族友人の数・国家における権力、どれも役立たない。どの犯罪もそれに相応しい罰を要求する”のだ(1434年:バーゼルからの手紙)
【犯罪と刑罰】
E.死刑に値する犯罪と処刑法の関係について(下記a.~z.)。ただし場所・時代についての多様性は無視しているし、犯罪の細かい分類についても省略している点に注意。さらに中世において犯罪の多くは、下記の罪名では知られていないという
F.性犯罪の多くは申し立てがあった場合にのみ訴追された。また「同じ犯罪でも(普通は)女性の方が男性より厳しく罰せられた」。これは法廷に男性しかいなかったことが原因と考えられる
「a.暴動:斬首」
「b.詐欺:絞首or釜茹で」
「c.重婚:斬首or溺殺」
「d.近親相姦:斬首or溺殺or絞首or釜茹で」
「e.放火:斬首or絞首or車裂きor釜茹で」
「f.窃盗:斬首or溺殺or絞首or生き埋め」
「g.姦通:斬首or串刺しor釜茹で」
「h.婦女誘拐:斬首」
「i.涜神:斬首or溺殺or釜茹でor四つ裂き」
「j.境界線の無断移動:斬首or生き埋め」
「k.家宅侵入:斬首or車裂き」
「l.魔術:釜茹で」
「m.大逆罪:斬首or絞首or釜茹で」
「n.異端:釜茹でor火炙り」
「o.子殺し:斬首or溺殺or生き埋めor串刺し」
「p.度量衡詐欺:斬首or絞首or釜茹で」
「q.殺人(謀殺):斬首or生き埋めor車裂きor釜茹で」
「r.貨幣偽造:絞首or釜茹でor火炙り」
「s.強姦:斬首or生き埋めor串刺し」
「t.強盗:斬首or絞首or車裂きor釜茹で」
「u.自殺未遂:溺殺or釜茹で」
「v.殺人(故殺):斬首or絞首」
「w.ユダヤ教への改宗:溺殺or釜茹で」
「x.裏切り:斬首or溺殺or絞首or車裂きor釜茹でor火炙り」
「y.変態的猥褻行為:生き埋めor釜茹でor沼に沈める」
「z.妖術:溺殺or釜茹で」
(3)犯罪と対応する刑罰の解説
A.「a.暴動」「m.大逆罪」は、支配権力に対する犯罪であり、厳しく罰せられた。しかし恩赦を受けて再び迎え入れられる者の方が多かった時期もある(少なくとも9・10世紀は)。その後“封建君主に対する忠誠義務違反”は、特に非難される犯罪となる(11世紀~)。また「r.貨幣偽造」は、貨幣には支配者の像が刻まれている→大逆罪と同様に処罰された
B.「b.詐欺(いかさま,証書偽造,商品詐欺なども)」「j.境界線の無断移動」などは、それらが秘密裏に行われることもあり、非難されるべき犯罪とされた
【女性への攻撃と盗み】
C.「h.婦女誘拐(結婚の了解あり/なしで少女を連れ去ること)」には、そこに強姦を伴わなくとも死刑が科せられた(そもそも全ての略奪は“重大な平和侵害”と見なされたから)。フリースランドでは女性が「略奪者を取れば一件落着」「家族の許へ戻るなら、犯人は高額の罰金を支払わねばならない」とする
D.「s.強姦」は時に身分に応じて罰せられた。「自由民:百叩き+陵辱された女性への隷属,奴隷:火炙り」(西ゴート族の法から)。ザクセン法鑑では、犯行現場に居合わせた動物たちも殺された(犯罪を目撃したにもかかわらず、救いの手を差し伸べなかったから!)
E.「t.強盗」は「f.窃盗」と違ってコソコソと行われなかったという理由で、より軽い犯罪とみなされた→「窃盗犯は“恥ずべき”絞首刑」「」強盗犯は“名誉ある”斬首刑」。ただし国王の管理下にある(公)道での強盗は、特に厳しく罰せられた
F.「f.窃盗」は基本として「盗んだ品物の価値によって罰せられた」。ラント平和令(フリードリヒ1世公布:1152年)では「5シリング(≒羊1頭)以上を盗む:絞首刑,それ以下:枝鞭&やっとこで痛めつけられて毛を剃られる」とされた
☆窃盗の中でも特に悪質とされたのは「押し込み強盗,再犯強盗,夜盗,(特に)教会強盗,水車小屋と鍛冶屋での強盗(時として教会強盗と同等とみなされた)」だった
G.「k.家宅侵入罪」はもともと、徒党を組んで行われた場合に成立するものであったから、集団犯罪と見なされた
【家族関係の犯罪】
H.「c.重婚」は実際には、仕事の都合で長期間故郷を離れる男性によって、記録されているよりもずっと多く行われていた、と考えられる
I.「d.近親相姦」の定義は「実の娘との性的関係は死に値する」と考えられていた。ところで、婚姻関係を結ぶことが許される親等の範囲について、教会法と世俗法の範囲は違っていた
★実は貴族の結婚の多くは(それぞれの家系が親密に結びつき過ぎていたので)教会法によれば無効だった。そこで教会法は「離婚の口実」として利用された-特に巨額の持参金付きの若い娘が現れた場合などには-
J.「g.姦通」が厳しく罰せられたのは、別にキリスト教のせいではない。キリスト教化される以前の法でも、性的犯罪は基本的により厳しく罰せられていたようだ
〈例1〉ザクセン(8世紀前半)では、姦通を犯した女性は自ら首をくくるように強要された
〈例2〉スラヴ人地域(11世紀初)では、女性は「石で打ち殺される」or「溺死させられる」。男性は「市場の橋の上に連れて行かれ、そこに陰嚢を釘打ちされてから鋭いナイフを渡される」→「死か去勢か?の選択を迫られた」
⇒後に姦通犯は様々な方法で罰せられるようになり「現行犯のみ男女ともに罰せられる」「女性のみが罰せられる」などした。バーゼル(1457年)では「女性は追放,男性は罰金刑」であった
★中世の物語では「少なからぬ婦人が(とりわけ夫が彼女よりもかなり高齢の場合に)他の男と床を共にしている」。これが「実情」だったようだ
【信仰・モラルに関係する犯罪】
K.「i.涜神(さらには聖人に対する誹謗,悪意ある誓い,呪い)」には厳しい罰が下された。神が冒涜に対して「破滅をもって報いる,戦争・飢饉・疫病から人々を守ってくれなくなる」ことを恐れたためである
L.「n.異端」信仰・誤った教義の説法(後にはそれを信じただけでも罰せられた)について。当初から(※いつ頃だろう?)教会は異端者を「正統信仰を守る人々の共同体から追放する」ことで罰し、世俗法もそれを踏襲した(※共同体からの追放は実質的死刑に等しい!)。それでも中世初期の処罰は寛大であった
〈例〉ある修道士は司教会議で異端の罪を宣告されて引き立てられ「公の場で鞭打ちの刑を受けた,自説を書いた書物を火に投げ入れねばならなかった」ことで済んだ(849年)
⇒やがて異端は世俗法で裁かれた(遅くとも13世紀~)。そして「異端者は真の教えを改竄したのだから、偽造者と同じ」「異端者は魂を殺したのだから、殺人者と同じ」といった理由から、死刑が科せられた
M.「l.魔術」について。魔女は犯したとされる罪(←拷問によって白状させられた!)が不気味であればあるほど、過酷な刑罰を科された(例:「悪魔と性交した,子供を生贄に捧げた,人・家畜に魔法をかけて病気(or障害)にした」者は、この世から抹殺されねばならなかった)。このことは「z.妖術」にもあてはまる
N.「w.ユダヤ教への改宗」は「i.涜神」「n.異端」と同様に取り扱われた。ユダヤ人と肉体関係を持つことも、キリスト教の教えに背く行為とされた(→1種の獸姦として火炙りにされた:シュヴァーベン法鑑)
O.「y.変態的猥褻行為(相手が人間であれ、動物であれ)」に対して、ゲルマン人は泥炭地に沈めた。後にキリスト教時代になると、宗教に対する重大な犯罪として処断した
【特別な殺人】
P.「o.子殺し」(特に秘密裏になされる新生児殺し)は、一般の殺人と同じく罰せられが、もしくは「生存者でその権利を侵害された者がいない場合(未婚の母による子殺し)は訴追さえされなかった」
★特に長期間に渡る食糧不足の時代には、女児は生後すぐに殺される事例が多かったと考えられている。また未婚の母が容認されるようになると、女性は安心して妊娠できる(→赤子殺し・中絶が減る)
〈例〉アウクスブルク(14世紀)の「破門一覧」に記載された約3,000人の犯罪者のうち、子殺しの母は1人しかいなかった(≒未婚の母が容認されていた)
Q.「u.自殺」が犯罪とされたのは、自殺を試みる者が「神の権利(&死刑執行人の職務領域)を侵した」と考えられたからで、遺体が罰せられた
〈例〉ケルンでは、男が家の中で首を吊った場合「1.死刑執行人が縄を切って遺体を下に落とす」→「2.呪いが家に残らないように、遺体は戸口の敷居の下をくぐって外に出される」→「3.死刑執行人は遺体を“不名誉な”黒の石炭車(※!?)に載せて絞首台まで運び、そこに埋葬する」。市内はもちろん、清められた土地への埋葬も許されなかった
★ただし「絶望的な運命から逃れようとする人々」に対して、年代記作者が理解を示した事例は多い(※つまりいくらでも例外がある、ということ)
〈例〉キリスト教が弾圧されていた頃「辱めを受けることを恐れて身投げした者,剣を胸に突き立てた高貴な女性」たちは「残酷な拷問に屈せず辱めに耐えた人々」と同様に賞賛された
【意図的な殺害】
R.「q.謀殺」「v.故殺」は区別されないことが多かった。しかし謀殺は「保護された人物:聖別された国王・司教・司祭,全く無防備な者,他国からの使者」「保護された場所(アジール):教会,墓地など」「平和を定められた日:重要な祝日なづ」に行われた場合には、特に忌むべき犯罪とされた
S.短剣・棍棒はすぐに振るわれたことから窺えるように、社会のあらゆる階層において、人命は恐ろしく軽視されていた。権力者は自分の犯行を、法を方便として取り繕おうとすらしなかった
〈例〉フランク王クローヴィスは、ライバルのラグナハル王が捕縛されて引き立てられて来た時、彼の頭を斧で叩き割った。ついでに彼の弟に向かい“そなたが兄に加勢していたなら、兄も捕らわれることは無かったろう”と言って、弟も打ち殺した
【毒殺】
T.文献には頻繁に毒薬が登場するが、実際に命取りになったのは(多くの場合)傷んだ食事・飲み物だと推測される。下記リスト中のハインリヒ7世の場合には、本当はマラリアが原因だった
★こっそり毒を盛られた(とされた)多数の人物リスト:ヌルシアのベネディクトゥス(命を取り留めた),アベラール(左同),皇帝カール2世(877年没),皇帝ハインリヒ7世(1313年没:ドミニコ修道会士による毒殺、との噂が流れた),トマス・アクィナス(1274年に47歳で死亡、シャルル・ダンジューが毒殺させたものとされる)
U.中央or北ヨーロッパ出身で、古来「毒殺者が横行する」とされるイタリアの言語・習慣に慣れていない者たちは、誰かがイタリアで(マラリアなどを)発病後すぐに死亡すると、すぐに「毒が絡んでいる」と信じてしまった
★そんなわけで、皇帝フリードリヒ2世は「粗悪で害をもたらす薬,人を死に至らしめる媚薬・食品」を製造する者を、殺人罪と同じく死刑に処した。「許可無しに毒薬を所持・販売する」者も死刑だった
【事故死と故殺、その他】
V.狩猟に熱を上げすぎて事故死する権力者は後を絶たなかった。狩猟中の事故に見せかけた暗殺も少なからずあったと考えられる
〈頻発した故殺の1例:ウォルムス〉
「聖ペトロ大聖堂では、些細なことでor酔っ払ってor傲慢さのゆえに、人々は常軌を逸した怒りに駆られ、野獣の群れでもあるかのように、日々殺しが起こっている」「そのために聖ペトロ大聖堂付きの従者が、1年間に35人も罪無くして同僚に殺害されたほどである。しかし殺害者は後悔するそぶりも見せず、むしろそのことわ誇り、吹聴して回っている」
⇒ウォルムス司教は抑止的措置を講じた(1024/25年)ものの、罰金刑・烙印刑はあったが死刑は科されなかった。この時期には他の場所では、故殺は死刑だった
W.故殺(一時の激情によって殺意を生じ、人を殺すこと)の状況としては「ビール・ワインで気持ちが大きくなって始まる喧嘩,農作業中の些細な争い」が、あっという間に死者を出す結果につながるといったケース。しかし(普通)故殺は謀殺よりも刑が軽かった(※これは上記例とは時代の違いがあると思われる。中世初期か?)
〈例〉「犯人は犯行後40日間、教会への出入りが禁止されて聖体拝領を受けられない」だけで済む(フランス)。さらに後には「罰金刑or追放刑or贖罪のための巡礼」に減刑されることも多かった
X.「妊婦にぶつかるor怪我をさせることで流産させてしまった者」に対して、アレマン地方の法の規定では「流れた子の性別がまだ分からない:12シリング,男の子:12シリング,女の子:24シリング」の贖罪金支払いが命じられた
○刑法による暴力的な死
(1)刑罰を司る権力
A.戴冠ミサで、司教は国王に対して「厳かな祈祷のうちに支配の徴を授ける」のだが、その際司教は「裁き手としての役割」を強調する
“神意により汝に付与されたこの剣を受けるべし”“汝が正義の気高き守護者として、汝がその名のうちに持つ救世主と共に、永遠に支配するに相応しくあるように”
B.この祈祷は、全体として「防御的指針:教会・信者・寡婦・孤児の保護」&「攻撃的指針:信仰の敵の根絶」を含んでいる。中世においては恒久平和の概念は無く、王は剣を正しく用いることによって、自ら平和を創出しなければならなかった(=必要とあれば悪人の首を落とす)
【剣=裁判権】
C.王は「法の保証人,滞在中の土地での最上位の裁判官」であった。王が不在の土地では「伯が王の名の下に」or「侯が独自の法に基づいて」裁判を行っていた。図像には“抜き身の剣を膝の上に置いて座っている”伯がよく描かれている
★共同体には「罪人に対して死刑を宣告する権利」が認められていた
D.福音書で触れられた『剣2振り』という言葉によって、教皇ゲラシウス1世(492‐496年)以降に「教皇と王の支配権双方を正当化する理論:王には俗世の・教皇には霊界の、それぞれ剣が付与される」が作り上げられた
⇒やがて教皇庁は両方の剣に対する権利を主張する(中世盛期)。それは「俗世の剣は教皇によって皇帝に渡され、皇帝はその剣を教会に奉仕するために振るわねばならない」とするもの
(2)刑法と刑罰
A.刑罰を正当化する理論(中世初期)は「a.適当な償いによって神の怒りは和らげられ、傷つけられた秩序・破られた平和が埋め合わされる」「b.刑罰への恐怖によって、あらゆる人間に平和・神の慈悲・王の恩寵の中での平和を保障する」「c.悪事への誘惑に駆られる者も、恐怖で思いとどまるだろう」「d.少数を懲らしめることで、多数を真っ当な世界に引き留めるだろう」というもの
☆ただし実際には、期待されたほどの効果は無かったと推測される
B.刑罰は著しく変化し「時代,場所,加害者と被害者の社会的地位,性別,年齢」によって、同じ犯行に対して異なる罰が与えられた。中世初期の刑法は人道的とすら言える。というのは、魔術的な人肉食ですら罰金刑で贖われるケースもあった
⇒ところが中世盛期に入ると、かつては害がないとされていた罪にも死刑が科せられた。それは犯罪がたかだか数ペニヒで贖えたから、犯罪者は金ですぐに自由を買い戻せた→人名軽視の風潮が広まる
C.当局は犯罪の増大に対して、厳しい体刑で阻止しようとした(12世紀~)が、実際には使える権力手段は限られていた。それは「a.普遍的に拘束力を持つ法の不在(例外もあるが)」「b.国家権力は萌芽的に過ぎない」「c.法に敬意が払われるようにするための裁判機関・行政機関の欠如」による
D.統一された法の適用をいち早く達成したのは帝国直属都市だった(身分への配慮が要らなかったから)。“罰せられる者には、金・懇願・親族友人の数・国家における権力、どれも役立たない。どの犯罪もそれに相応しい罰を要求する”のだ(1434年:バーゼルからの手紙)
【犯罪と刑罰】
E.死刑に値する犯罪と処刑法の関係について(下記a.~z.)。ただし場所・時代についての多様性は無視しているし、犯罪の細かい分類についても省略している点に注意。さらに中世において犯罪の多くは、下記の罪名では知られていないという
F.性犯罪の多くは申し立てがあった場合にのみ訴追された。また「同じ犯罪でも(普通は)女性の方が男性より厳しく罰せられた」。これは法廷に男性しかいなかったことが原因と考えられる
「a.暴動:斬首」
「b.詐欺:絞首or釜茹で」
「c.重婚:斬首or溺殺」
「d.近親相姦:斬首or溺殺or絞首or釜茹で」
「e.放火:斬首or絞首or車裂きor釜茹で」
「f.窃盗:斬首or溺殺or絞首or生き埋め」
「g.姦通:斬首or串刺しor釜茹で」
「h.婦女誘拐:斬首」
「i.涜神:斬首or溺殺or釜茹でor四つ裂き」
「j.境界線の無断移動:斬首or生き埋め」
「k.家宅侵入:斬首or車裂き」
「l.魔術:釜茹で」
「m.大逆罪:斬首or絞首or釜茹で」
「n.異端:釜茹でor火炙り」
「o.子殺し:斬首or溺殺or生き埋めor串刺し」
「p.度量衡詐欺:斬首or絞首or釜茹で」
「q.殺人(謀殺):斬首or生き埋めor車裂きor釜茹で」
「r.貨幣偽造:絞首or釜茹でor火炙り」
「s.強姦:斬首or生き埋めor串刺し」
「t.強盗:斬首or絞首or車裂きor釜茹で」
「u.自殺未遂:溺殺or釜茹で」
「v.殺人(故殺):斬首or絞首」
「w.ユダヤ教への改宗:溺殺or釜茹で」
「x.裏切り:斬首or溺殺or絞首or車裂きor釜茹でor火炙り」
「y.変態的猥褻行為:生き埋めor釜茹でor沼に沈める」
「z.妖術:溺殺or釜茹で」
(3)犯罪と対応する刑罰の解説
A.「a.暴動」「m.大逆罪」は、支配権力に対する犯罪であり、厳しく罰せられた。しかし恩赦を受けて再び迎え入れられる者の方が多かった時期もある(少なくとも9・10世紀は)。その後“封建君主に対する忠誠義務違反”は、特に非難される犯罪となる(11世紀~)。また「r.貨幣偽造」は、貨幣には支配者の像が刻まれている→大逆罪と同様に処罰された
B.「b.詐欺(いかさま,証書偽造,商品詐欺なども)」「j.境界線の無断移動」などは、それらが秘密裏に行われることもあり、非難されるべき犯罪とされた
【女性への攻撃と盗み】
C.「h.婦女誘拐(結婚の了解あり/なしで少女を連れ去ること)」には、そこに強姦を伴わなくとも死刑が科せられた(そもそも全ての略奪は“重大な平和侵害”と見なされたから)。フリースランドでは女性が「略奪者を取れば一件落着」「家族の許へ戻るなら、犯人は高額の罰金を支払わねばならない」とする
D.「s.強姦」は時に身分に応じて罰せられた。「自由民:百叩き+陵辱された女性への隷属,奴隷:火炙り」(西ゴート族の法から)。ザクセン法鑑では、犯行現場に居合わせた動物たちも殺された(犯罪を目撃したにもかかわらず、救いの手を差し伸べなかったから!)
E.「t.強盗」は「f.窃盗」と違ってコソコソと行われなかったという理由で、より軽い犯罪とみなされた→「窃盗犯は“恥ずべき”絞首刑」「」強盗犯は“名誉ある”斬首刑」。ただし国王の管理下にある(公)道での強盗は、特に厳しく罰せられた
F.「f.窃盗」は基本として「盗んだ品物の価値によって罰せられた」。ラント平和令(フリードリヒ1世公布:1152年)では「5シリング(≒羊1頭)以上を盗む:絞首刑,それ以下:枝鞭&やっとこで痛めつけられて毛を剃られる」とされた
☆窃盗の中でも特に悪質とされたのは「押し込み強盗,再犯強盗,夜盗,(特に)教会強盗,水車小屋と鍛冶屋での強盗(時として教会強盗と同等とみなされた)」だった
G.「k.家宅侵入罪」はもともと、徒党を組んで行われた場合に成立するものであったから、集団犯罪と見なされた
【家族関係の犯罪】
H.「c.重婚」は実際には、仕事の都合で長期間故郷を離れる男性によって、記録されているよりもずっと多く行われていた、と考えられる
I.「d.近親相姦」の定義は「実の娘との性的関係は死に値する」と考えられていた。ところで、婚姻関係を結ぶことが許される親等の範囲について、教会法と世俗法の範囲は違っていた
★実は貴族の結婚の多くは(それぞれの家系が親密に結びつき過ぎていたので)教会法によれば無効だった。そこで教会法は「離婚の口実」として利用された-特に巨額の持参金付きの若い娘が現れた場合などには-
J.「g.姦通」が厳しく罰せられたのは、別にキリスト教のせいではない。キリスト教化される以前の法でも、性的犯罪は基本的により厳しく罰せられていたようだ
〈例1〉ザクセン(8世紀前半)では、姦通を犯した女性は自ら首をくくるように強要された
〈例2〉スラヴ人地域(11世紀初)では、女性は「石で打ち殺される」or「溺死させられる」。男性は「市場の橋の上に連れて行かれ、そこに陰嚢を釘打ちされてから鋭いナイフを渡される」→「死か去勢か?の選択を迫られた」
⇒後に姦通犯は様々な方法で罰せられるようになり「現行犯のみ男女ともに罰せられる」「女性のみが罰せられる」などした。バーゼル(1457年)では「女性は追放,男性は罰金刑」であった
★中世の物語では「少なからぬ婦人が(とりわけ夫が彼女よりもかなり高齢の場合に)他の男と床を共にしている」。これが「実情」だったようだ
【信仰・モラルに関係する犯罪】
K.「i.涜神(さらには聖人に対する誹謗,悪意ある誓い,呪い)」には厳しい罰が下された。神が冒涜に対して「破滅をもって報いる,戦争・飢饉・疫病から人々を守ってくれなくなる」ことを恐れたためである
L.「n.異端」信仰・誤った教義の説法(後にはそれを信じただけでも罰せられた)について。当初から(※いつ頃だろう?)教会は異端者を「正統信仰を守る人々の共同体から追放する」ことで罰し、世俗法もそれを踏襲した(※共同体からの追放は実質的死刑に等しい!)。それでも中世初期の処罰は寛大であった
〈例〉ある修道士は司教会議で異端の罪を宣告されて引き立てられ「公の場で鞭打ちの刑を受けた,自説を書いた書物を火に投げ入れねばならなかった」ことで済んだ(849年)
⇒やがて異端は世俗法で裁かれた(遅くとも13世紀~)。そして「異端者は真の教えを改竄したのだから、偽造者と同じ」「異端者は魂を殺したのだから、殺人者と同じ」といった理由から、死刑が科せられた
M.「l.魔術」について。魔女は犯したとされる罪(←拷問によって白状させられた!)が不気味であればあるほど、過酷な刑罰を科された(例:「悪魔と性交した,子供を生贄に捧げた,人・家畜に魔法をかけて病気(or障害)にした」者は、この世から抹殺されねばならなかった)。このことは「z.妖術」にもあてはまる
N.「w.ユダヤ教への改宗」は「i.涜神」「n.異端」と同様に取り扱われた。ユダヤ人と肉体関係を持つことも、キリスト教の教えに背く行為とされた(→1種の獸姦として火炙りにされた:シュヴァーベン法鑑)
O.「y.変態的猥褻行為(相手が人間であれ、動物であれ)」に対して、ゲルマン人は泥炭地に沈めた。後にキリスト教時代になると、宗教に対する重大な犯罪として処断した
【特別な殺人】
P.「o.子殺し」(特に秘密裏になされる新生児殺し)は、一般の殺人と同じく罰せられが、もしくは「生存者でその権利を侵害された者がいない場合(未婚の母による子殺し)は訴追さえされなかった」
★特に長期間に渡る食糧不足の時代には、女児は生後すぐに殺される事例が多かったと考えられている。また未婚の母が容認されるようになると、女性は安心して妊娠できる(→赤子殺し・中絶が減る)
〈例〉アウクスブルク(14世紀)の「破門一覧」に記載された約3,000人の犯罪者のうち、子殺しの母は1人しかいなかった(≒未婚の母が容認されていた)
Q.「u.自殺」が犯罪とされたのは、自殺を試みる者が「神の権利(&死刑執行人の職務領域)を侵した」と考えられたからで、遺体が罰せられた
〈例〉ケルンでは、男が家の中で首を吊った場合「1.死刑執行人が縄を切って遺体を下に落とす」→「2.呪いが家に残らないように、遺体は戸口の敷居の下をくぐって外に出される」→「3.死刑執行人は遺体を“不名誉な”黒の石炭車(※!?)に載せて絞首台まで運び、そこに埋葬する」。市内はもちろん、清められた土地への埋葬も許されなかった
★ただし「絶望的な運命から逃れようとする人々」に対して、年代記作者が理解を示した事例は多い(※つまりいくらでも例外がある、ということ)
〈例〉キリスト教が弾圧されていた頃「辱めを受けることを恐れて身投げした者,剣を胸に突き立てた高貴な女性」たちは「残酷な拷問に屈せず辱めに耐えた人々」と同様に賞賛された
【意図的な殺害】
R.「q.謀殺」「v.故殺」は区別されないことが多かった。しかし謀殺は「保護された人物:聖別された国王・司教・司祭,全く無防備な者,他国からの使者」「保護された場所(アジール):教会,墓地など」「平和を定められた日:重要な祝日なづ」に行われた場合には、特に忌むべき犯罪とされた
S.短剣・棍棒はすぐに振るわれたことから窺えるように、社会のあらゆる階層において、人命は恐ろしく軽視されていた。権力者は自分の犯行を、法を方便として取り繕おうとすらしなかった
〈例〉フランク王クローヴィスは、ライバルのラグナハル王が捕縛されて引き立てられて来た時、彼の頭を斧で叩き割った。ついでに彼の弟に向かい“そなたが兄に加勢していたなら、兄も捕らわれることは無かったろう”と言って、弟も打ち殺した
【毒殺】
T.文献には頻繁に毒薬が登場するが、実際に命取りになったのは(多くの場合)傷んだ食事・飲み物だと推測される。下記リスト中のハインリヒ7世の場合には、本当はマラリアが原因だった
★こっそり毒を盛られた(とされた)多数の人物リスト:ヌルシアのベネディクトゥス(命を取り留めた),アベラール(左同),皇帝カール2世(877年没),皇帝ハインリヒ7世(1313年没:ドミニコ修道会士による毒殺、との噂が流れた),トマス・アクィナス(1274年に47歳で死亡、シャルル・ダンジューが毒殺させたものとされる)
U.中央or北ヨーロッパ出身で、古来「毒殺者が横行する」とされるイタリアの言語・習慣に慣れていない者たちは、誰かがイタリアで(マラリアなどを)発病後すぐに死亡すると、すぐに「毒が絡んでいる」と信じてしまった
★そんなわけで、皇帝フリードリヒ2世は「粗悪で害をもたらす薬,人を死に至らしめる媚薬・食品」を製造する者を、殺人罪と同じく死刑に処した。「許可無しに毒薬を所持・販売する」者も死刑だった
【事故死と故殺、その他】
V.狩猟に熱を上げすぎて事故死する権力者は後を絶たなかった。狩猟中の事故に見せかけた暗殺も少なからずあったと考えられる
〈頻発した故殺の1例:ウォルムス〉
「聖ペトロ大聖堂では、些細なことでor酔っ払ってor傲慢さのゆえに、人々は常軌を逸した怒りに駆られ、野獣の群れでもあるかのように、日々殺しが起こっている」「そのために聖ペトロ大聖堂付きの従者が、1年間に35人も罪無くして同僚に殺害されたほどである。しかし殺害者は後悔するそぶりも見せず、むしろそのことわ誇り、吹聴して回っている」
⇒ウォルムス司教は抑止的措置を講じた(1024/25年)ものの、罰金刑・烙印刑はあったが死刑は科されなかった。この時期には他の場所では、故殺は死刑だった
W.故殺(一時の激情によって殺意を生じ、人を殺すこと)の状況としては「ビール・ワインで気持ちが大きくなって始まる喧嘩,農作業中の些細な争い」が、あっという間に死者を出す結果につながるといったケース。しかし(普通)故殺は謀殺よりも刑が軽かった(※これは上記例とは時代の違いがあると思われる。中世初期か?)
〈例〉「犯人は犯行後40日間、教会への出入りが禁止されて聖体拝領を受けられない」だけで済む(フランス)。さらに後には「罰金刑or追放刑or贖罪のための巡礼」に減刑されることも多かった
X.「妊婦にぶつかるor怪我をさせることで流産させてしまった者」に対して、アレマン地方の法の規定では「流れた子の性別がまだ分からない:12シリング,男の子:12シリング,女の子:24シリング」の贖罪金支払いが命じられた