『中世の死』N・オーラーから[16]


○刑法による暴力的な死


(1)刑罰を司る権力

 A.戴冠ミサで、司教は国王に対して「厳かな祈祷のうちに支配の徴を授ける」のだが、その際司教は「裁き手としての役割」を強調する
“神意により汝に付与されたこの剣を受けるべし”“汝が正義の気高き守護者として、汝がその名のうちに持つ救世主と共に、永遠に支配するに相応しくあるように”
 B.この祈祷は、全体として「防御的指針:教会・信者・寡婦・孤児の保護」&「攻撃的指針:信仰の敵の根絶」を含んでいる。中世においては恒久平和の概念は無く、王は剣を正しく用いることによって、自ら平和を創出しなければならなかった(=必要とあれば悪人の首を落とす)

【剣=裁判権】
 C.王は「法の保証人,滞在中の土地での最上位の裁判官」であった。王が不在の土地では「伯が王の名の下に」or「侯が独自の法に基づいて」裁判を行っていた。図像には“抜き身の剣を膝の上に置いて座っている”伯がよく描かれている
 ★共同体には「罪人に対して死刑を宣告する権利」が認められていた
 D.福音書で触れられた『剣2振り』という言葉によって、教皇ゲラシウス1世(492‐496年)以降に「教皇と王の支配権双方を正当化する理論:王には俗世の・教皇には霊界の、それぞれ剣が付与される」が作り上げられた
 ⇒やがて教皇庁は両方の剣に対する権利を主張する(中世盛期)。それは「俗世の剣は教皇によって皇帝に渡され、皇帝はその剣を教会に奉仕するために振るわねばならない」とするもの


(2)刑法と刑罰

 A.刑罰を正当化する理論(中世初期)は「a.適当な償いによって神の怒りは和らげられ、傷つけられた秩序・破られた平和が埋め合わされる」「b.刑罰への恐怖によって、あらゆる人間に平和・神の慈悲・王の恩寵の中での平和を保障する」「c.悪事への誘惑に駆られる者も、恐怖で思いとどまるだろう」「d.少数を懲らしめることで、多数を真っ当な世界に引き留めるだろう」というもの
 ☆ただし実際には、期待されたほどの効果は無かったと推測される
 B.刑罰は著しく変化し「時代,場所,加害者と被害者の社会的地位,性別,年齢」によって、同じ犯行に対して異なる罰が与えられた。中世初期の刑法は人道的とすら言える。というのは、魔術的な人肉食ですら罰金刑で贖われるケースもあった
 ⇒ところが中世盛期に入ると、かつては害がないとされていた罪にも死刑が科せられた。それは犯罪がたかだか数ペニヒで贖えたから、犯罪者は金ですぐに自由を買い戻せた→人名軽視の風潮が広まる
 C.当局は犯罪の増大に対して、厳しい体刑で阻止しようとした(12世紀~)が、実際には使える権力手段は限られていた。それは「a.普遍的に拘束力を持つ法の不在(例外もあるが)」「b.国家権力は萌芽的に過ぎない」「c.法に敬意が払われるようにするための裁判機関・行政機関の欠如」による
 D.統一された法の適用をいち早く達成したのは帝国直属都市だった(身分への配慮が要らなかったから)。“罰せられる者には、金・懇願・親族友人の数・国家における権力、どれも役立たない。どの犯罪もそれに相応しい罰を要求する”のだ(1434年:バーゼルからの手紙)

【犯罪と刑罰】
 E.死刑に値する犯罪と処刑法の関係について(下記a.~z.)。ただし場所・時代についての多様性は無視しているし、犯罪の細かい分類についても省略している点に注意。さらに中世において犯罪の多くは、下記の罪名では知られていないという
 F.性犯罪の多くは申し立てがあった場合にのみ訴追された。また「同じ犯罪でも(普通は)女性の方が男性より厳しく罰せられた」。これは法廷に男性しかいなかったことが原因と考えられる
「a.暴動:斬首」
「b.詐欺:絞首or釜茹で」
「c.重婚:斬首or溺殺」
「d.近親相姦:斬首or溺殺or絞首or釜茹で」
「e.放火:斬首or絞首or車裂きor釜茹で」
「f.窃盗:斬首or溺殺or絞首or生き埋め」
「g.姦通:斬首or串刺しor釜茹で」
「h.婦女誘拐:斬首」
「i.涜神:斬首or溺殺or釜茹でor四つ裂き」
「j.境界線の無断移動:斬首or生き埋め」
「k.家宅侵入:斬首or車裂き」
「l.魔術:釜茹で」
「m.大逆罪:斬首or絞首or釜茹で」
「n.異端:釜茹でor火炙り」
「o.子殺し:斬首or溺殺or生き埋めor串刺し」
「p.度量衡詐欺:斬首or絞首or釜茹で」
「q.殺人(謀殺):斬首or生き埋めor車裂きor釜茹で」
「r.貨幣偽造:絞首or釜茹でor火炙り」
「s.強姦:斬首or生き埋めor串刺し」
「t.強盗:斬首or絞首or車裂きor釜茹で」
「u.自殺未遂:溺殺or釜茹で」
「v.殺人(故殺):斬首or絞首」
「w.ユダヤ教への改宗:溺殺or釜茹で」
「x.裏切り:斬首or溺殺or絞首or車裂きor釜茹でor火炙り」
「y.変態的猥褻行為:生き埋めor釜茹でor沼に沈める」
「z.妖術:溺殺or釜茹で」


(3)犯罪と対応する刑罰の解説

 A.「a.暴動」「m.大逆罪」は、支配権力に対する犯罪であり、厳しく罰せられた。しかし恩赦を受けて再び迎え入れられる者の方が多かった時期もある(少なくとも9・10世紀は)。その後“封建君主に対する忠誠義務違反”は、特に非難される犯罪となる(11世紀~)。また「r.貨幣偽造」は、貨幣には支配者の像が刻まれている→大逆罪と同様に処罰された
 B.「b.詐欺(いかさま,証書偽造,商品詐欺なども)」「j.境界線の無断移動」などは、それらが秘密裏に行われることもあり、非難されるべき犯罪とされた

【女性への攻撃と盗み】
 C.「h.婦女誘拐(結婚の了解あり/なしで少女を連れ去ること)」には、そこに強姦を伴わなくとも死刑が科せられた(そもそも全ての略奪は“重大な平和侵害”と見なされたから)。フリースランドでは女性が「略奪者を取れば一件落着」「家族の許へ戻るなら、犯人は高額の罰金を支払わねばならない」とする
 D.「s.強姦」は時に身分に応じて罰せられた。「自由民:百叩き+陵辱された女性への隷属,奴隷:火炙り」(西ゴート族の法から)。ザクセン法鑑では、犯行現場に居合わせた動物たちも殺された(犯罪を目撃したにもかかわらず、救いの手を差し伸べなかったから!)
 E.「t.強盗」は「f.窃盗」と違ってコソコソと行われなかったという理由で、より軽い犯罪とみなされた→「窃盗犯は“恥ずべき”絞首刑」「」強盗犯は“名誉ある”斬首刑」。ただし国王の管理下にある(公)道での強盗は、特に厳しく罰せられた
 F.「f.窃盗」は基本として「盗んだ品物の価値によって罰せられた」。ラント平和令(フリードリヒ1世公布:1152年)では「5シリング(≒羊1頭)以上を盗む:絞首刑,それ以下:枝鞭&やっとこで痛めつけられて毛を剃られる」とされた
 ☆窃盗の中でも特に悪質とされたのは「押し込み強盗,再犯強盗,夜盗,(特に)教会強盗,水車小屋と鍛冶屋での強盗(時として教会強盗と同等とみなされた)」だった
 G.「k.家宅侵入罪」はもともと、徒党を組んで行われた場合に成立するものであったから、集団犯罪と見なされた

【家族関係の犯罪】
 H.「c.重婚」は実際には、仕事の都合で長期間故郷を離れる男性によって、記録されているよりもずっと多く行われていた、と考えられる
 I.「d.近親相姦」の定義は「実の娘との性的関係は死に値する」と考えられていた。ところで、婚姻関係を結ぶことが許される親等の範囲について、教会法と世俗法の範囲は違っていた
 ★実は貴族の結婚の多くは(それぞれの家系が親密に結びつき過ぎていたので)教会法によれば無効だった。そこで教会法は「離婚の口実」として利用された-特に巨額の持参金付きの若い娘が現れた場合などには-
 J.「g.姦通」が厳しく罰せられたのは、別にキリスト教のせいではない。キリスト教化される以前の法でも、性的犯罪は基本的により厳しく罰せられていたようだ
〈例1〉ザクセン(8世紀前半)では、姦通を犯した女性は自ら首をくくるように強要された
〈例2〉スラヴ人地域(11世紀初)では、女性は「石で打ち殺される」or「溺死させられる」。男性は「市場の橋の上に連れて行かれ、そこに陰嚢を釘打ちされてから鋭いナイフを渡される」→「死か去勢か?の選択を迫られた」
 ⇒後に姦通犯は様々な方法で罰せられるようになり「現行犯のみ男女ともに罰せられる」「女性のみが罰せられる」などした。バーゼル(1457年)では「女性は追放,男性は罰金刑」であった
 ★中世の物語では「少なからぬ婦人が(とりわけ夫が彼女よりもかなり高齢の場合に)他の男と床を共にしている」。これが「実情」だったようだ

【信仰・モラルに関係する犯罪】
 K.「i.涜神(さらには聖人に対する誹謗,悪意ある誓い,呪い)」には厳しい罰が下された。神が冒涜に対して「破滅をもって報いる,戦争・飢饉・疫病から人々を守ってくれなくなる」ことを恐れたためである
 L.「n.異端」信仰・誤った教義の説法(後にはそれを信じただけでも罰せられた)について。当初から(※いつ頃だろう?)教会は異端者を「正統信仰を守る人々の共同体から追放する」ことで罰し、世俗法もそれを踏襲した(※共同体からの追放は実質的死刑に等しい!)。それでも中世初期の処罰は寛大であった
〈例〉ある修道士は司教会議で異端の罪を宣告されて引き立てられ「公の場で鞭打ちの刑を受けた,自説を書いた書物を火に投げ入れねばならなかった」ことで済んだ(849年)
 ⇒やがて異端は世俗法で裁かれた(遅くとも13世紀~)。そして「異端者は真の教えを改竄したのだから、偽造者と同じ」「異端者は魂を殺したのだから、殺人者と同じ」といった理由から、死刑が科せられた
 M.「l.魔術」について。魔女は犯したとされる罪(←拷問によって白状させられた!)が不気味であればあるほど、過酷な刑罰を科された(例:「悪魔と性交した,子供を生贄に捧げた,人・家畜に魔法をかけて病気(or障害)にした」者は、この世から抹殺されねばならなかった)。このことは「z.妖術」にもあてはまる
 N.「w.ユダヤ教への改宗」は「i.涜神」「n.異端」と同様に取り扱われた。ユダヤ人と肉体関係を持つことも、キリスト教の教えに背く行為とされた(→1種の獸姦として火炙りにされた:シュヴァーベン法鑑)
 O.「y.変態的猥褻行為(相手が人間であれ、動物であれ)」に対して、ゲルマン人は泥炭地に沈めた。後にキリスト教時代になると、宗教に対する重大な犯罪として処断した

【特別な殺人】
 P.「o.子殺し」(特に秘密裏になされる新生児殺し)は、一般の殺人と同じく罰せられが、もしくは「生存者でその権利を侵害された者がいない場合(未婚の母による子殺し)は訴追さえされなかった」
 ★特に長期間に渡る食糧不足の時代には、女児は生後すぐに殺される事例が多かったと考えられている。また未婚の母が容認されるようになると、女性は安心して妊娠できる(→赤子殺し・中絶が減る)
〈例〉アウクスブルク(14世紀)の「破門一覧」に記載された約3,000人の犯罪者のうち、子殺しの母は1人しかいなかった(≒未婚の母が容認されていた)
 Q.「u.自殺」が犯罪とされたのは、自殺を試みる者が「神の権利(&死刑執行人の職務領域)を侵した」と考えられたからで、遺体が罰せられた
〈例〉ケルンでは、男が家の中で首を吊った場合「1.死刑執行人が縄を切って遺体を下に落とす」→「2.呪いが家に残らないように、遺体は戸口の敷居の下をくぐって外に出される」→「3.死刑執行人は遺体を“不名誉な”黒の石炭車(※!?)に載せて絞首台まで運び、そこに埋葬する」。市内はもちろん、清められた土地への埋葬も許されなかった
 ★ただし「絶望的な運命から逃れようとする人々」に対して、年代記作者が理解を示した事例は多い(※つまりいくらでも例外がある、ということ)
〈例〉キリスト教が弾圧されていた頃「辱めを受けることを恐れて身投げした者,剣を胸に突き立てた高貴な女性」たちは「残酷な拷問に屈せず辱めに耐えた人々」と同様に賞賛された

【意図的な殺害】
 R.「q.謀殺」「v.故殺」は区別されないことが多かった。しかし謀殺は「保護された人物:聖別された国王・司教・司祭,全く無防備な者,他国からの使者」「保護された場所(アジール):教会,墓地など」「平和を定められた日:重要な祝日なづ」に行われた場合には、特に忌むべき犯罪とされた
 S.短剣・棍棒はすぐに振るわれたことから窺えるように、社会のあらゆる階層において、人命は恐ろしく軽視されていた。権力者は自分の犯行を、法を方便として取り繕おうとすらしなかった
〈例〉フランク王クローヴィスは、ライバルのラグナハル王が捕縛されて引き立てられて来た時、彼の頭を斧で叩き割った。ついでに彼の弟に向かい“そなたが兄に加勢していたなら、兄も捕らわれることは無かったろう”と言って、弟も打ち殺した

【毒殺】
 T.文献には頻繁に毒薬が登場するが、実際に命取りになったのは(多くの場合)傷んだ食事・飲み物だと推測される。下記リスト中のハインリヒ7世の場合には、本当はマラリアが原因だった
 ★こっそり毒を盛られた(とされた)多数の人物リスト:ヌルシアのベネディクトゥス(命を取り留めた),アベラール(左同),皇帝カール2世(877年没),皇帝ハインリヒ7世(1313年没:ドミニコ修道会士による毒殺、との噂が流れた),トマス・アクィナス(1274年に47歳で死亡、シャルル・ダンジューが毒殺させたものとされる)
 U.中央or北ヨーロッパ出身で、古来「毒殺者が横行する」とされるイタリアの言語・習慣に慣れていない者たちは、誰かがイタリアで(マラリアなどを)発病後すぐに死亡すると、すぐに「毒が絡んでいる」と信じてしまった
 ★そんなわけで、皇帝フリードリヒ2世は「粗悪で害をもたらす薬,人を死に至らしめる媚薬・食品」を製造する者を、殺人罪と同じく死刑に処した。「許可無しに毒薬を所持・販売する」者も死刑だった

【事故死と故殺、その他】
 V.狩猟に熱を上げすぎて事故死する権力者は後を絶たなかった。狩猟中の事故に見せかけた暗殺も少なからずあったと考えられる
〈頻発した故殺の1例:ウォルムス〉
 「聖ペトロ大聖堂では、些細なことでor酔っ払ってor傲慢さのゆえに、人々は常軌を逸した怒りに駆られ、野獣の群れでもあるかのように、日々殺しが起こっている」「そのために聖ペトロ大聖堂付きの従者が、1年間に35人も罪無くして同僚に殺害されたほどである。しかし殺害者は後悔するそぶりも見せず、むしろそのことわ誇り、吹聴して回っている」
 ⇒ウォルムス司教は抑止的措置を講じた(1024/25年)ものの、罰金刑・烙印刑はあったが死刑は科されなかった。この時期には他の場所では、故殺は死刑だった
 W.故殺(一時の激情によって殺意を生じ、人を殺すこと)の状況としては「ビール・ワインで気持ちが大きくなって始まる喧嘩,農作業中の些細な争い」が、あっという間に死者を出す結果につながるといったケース。しかし(普通)故殺は謀殺よりも刑が軽かった(※これは上記例とは時代の違いがあると思われる。中世初期か?)
〈例〉「犯人は犯行後40日間、教会への出入りが禁止されて聖体拝領を受けられない」だけで済む(フランス)。さらに後には「罰金刑or追放刑or贖罪のための巡礼」に減刑されることも多かった
 X.「妊婦にぶつかるor怪我をさせることで流産させてしまった者」に対して、アレマン地方の法の規定では「流れた子の性別がまだ分からない:12シリング,男の子:12シリング,女の子:24シリング」の贖罪金支払いが命じられた
『中世の死』N・オーラーから[15]


○不慮の死


(1)事故・災害

 A.子供たちは特に危険に晒されていたが、それをもたらしていたのは小児病(子供に特有の様々な病気)だけではない。母親・乳母がベッドに連れ込んだ(楽な自分で授乳しよう,暖かくしてあげようとして)結果、多くの子供が窒息死した。そこには故意が疑われるケースもある
 B.這い這いするようになると、大人の注意不足が危険をもたらす。何せ両親は「畑・家の中・家畜小屋・工房で必死に働かねばならない」→「子供の面倒を見る時間はほとんど無い」→「ほんのちょっとだけ年上の兄・姉が面倒を見る」のだ

【聖人伝に記された奇蹟から】
〈例1〉
 ある母親は子供を沼に連れて行き、洗濯物を取り込むその子を岸辺に下ろした。子供はあちこちへと這い回り、水へ落ちた。帰ってきた母親は子供がいないのに気づくと大声で泣き叫んだが、結局子供は流されて、沼から遠く離れた場所で遺体となって見つかった
 ところが、母親が故ケルン大司教アンノ(聖者と崇拝された)に危急の祈り(射祷)を捧げ、さらに両親と共に隣人たちも祈ったことが功を奏し、子供は息を吹き返したという
〈例2〉
 ある女性は妹の家を訪ねた。1歳くらいの妹の子供を、火の周りに巡らせた溝の中に入れた(火傷をしないように)のだが、火にかけられていた鍋の取っ手が突然壊れて、熱湯が溝の中の子供にザアっとかぶった。母親と叔母はすでに息絶えた子供を見つけ、家中に悲鳴が響き渡った
 2人はアンノに助けを求めると、子供は何事も無かったかのように元気になった
[その後日談]
 数日後に叔母は「威厳ある顔付きで修道服をまとった男に、暗く恐ろしい沼に投げ込まれそうになる」夢を見た。男が言うには「キリストが従者アンノをして為さしめた奇蹟を、そなたが語らずに伏せているためである」と。2人は子供を連れてアンノの墓に駆けつけ、集まった修道士・民衆に一部始終を告げたので、皆喜んだ
〈例3〉
 ある男の子が復活祭の日に聖体拝領を受け、その日1日羽目を外して遊び回ったあげく、夕方頃に「神の裁きが下り」転んで致命傷を負った。しかしアンノの名を呼ぶと、綺麗に治ってその子は立ち上がった

【上記から読み取れること】
 C.膨大な子供の事故死のうちの3例にしか過ぎない。「A.母親が事故に気付くや否や、わき上がる悲痛な感情を大声で訴えていること」。近代以前には子供に対する愛情が欠けていた、という主張に対する反証となる
 ☆ただし注意すべきは「1.特に危機的な時代においては、子供に対する無関心も存在していた」「2.子供の生命が危険に晒された時、監督責任者はすぐさま助けをよばなければ、子殺しの疑いをかけられてしまう」ことである
 D.さらに「B.死者は幻視・夢の中に現れて生者と会話する」。その上で「C.罪を犯した者は、暗く恐ろしい沼の中で罪を償わねばならない」のを、〈例2〉の女性が幻視の中ですぐに理解している(※当時の人々にとってこのことの意味は自明だった、ということ)
 E.奇蹟譚の中で、罰を下すために神が登場するが、死を与えた対象が子供である。この厳しさは「D.当時の人々の特徴的な意識として、聖体拝領をたいへん神聖視していた」ことが背景にある。聖体は「それを受けるのに相応しい人間がほとんど存在しない」と思われるほど、崇敬されていた(※だから子供に罰が当たった)
 ★アンノ奇蹟譚が記された1世代後に、第4回ラテラノ公会議(1215年)で「キリスト教徒は少なくとも年1回(復活祭)に聖体拝領を受けるべし」と定めた

【自然の力によって倒れる】
1.「多くの人が山で凍え死んだ。後から遺体が見つかり、慈悲の気持ちの表れとして墓に葬られるケースもあった」
2.「橋は少ないし、船はたいてい過積載だったので、川での溺死は多かった」
3.「大雨・急な雪解けによる洪水で、流域住民が何百人も命を落とすこともあった」
4.「オランダ・北ドイツの海抜が低い土地では、数世紀に渡って数え切れないほどの人間が洪水によって死んだ」
 ★災害はそれが発生した日の守護聖人にちなんで名付けられた(例:ユリアヌス洪水〔1164年〕,マルケルス洪水〔1219年〕,クレメンス大洪水〔1334年〕)。中世の堤防は(あった場所での話だが)多くの場合は低く脆弱であり、洪水が起きればほとんど常に決壊した
 ★大洪水(上記以外にも1362年・1377年・1509年に発生した)によって、ドイツ北海沿岸の干潟が造成され(ヤーデブーゼン,ドラート)、拡張された(ライブフト)
5.「仕事上・必要・冒険心によって中世の人々は海に乗り出し、多くの人が難破・海賊・軽率な行動の犠牲となった」
〈例〉イングランド王ヘンリー1世の船団の1隻である“白船”は、酔っ払っていた乗組員が他の船を追い越そうとして岩礁に接触・沈没し、300人の乗員の中で助かったのはルーアン出身の肉屋1人だけだった(1120年11月)。死者の中には王太子ウィリアムが含まれ、しかもヘンリーには他に正当な跡継ぎがいなかったので、後継者問題は深刻となった

【不作為による事故】
 F.サン・ドニ修道院長シュジェールによると「(彼の子供の頃)祭りの際に聖遺物を拝もうと巡礼者たちが修道院にどっと押し寄せ、死者が出るほどの押し合いへし合いとなった(恐怖に駆られた修道士が窓から逃げ出したほどであった)」。そこで彼は修道院長となってから「巡礼者たちの列がうまく流れるよう、教会の改築を構想した」(→後に『ゴシック』と呼ばれる新様式である)という
 G.シュジェールは上記のような報告を、内陣の献堂式の後に書いた(1144or45年)。ひょっとしたらこれは、彼の教会建築構想への反対意見を抑えるための誇張である可能性もある
 H.現代から見れば不作為による事故でしかないが、こうした死亡事故は自然災害と受け止められた
〈例〉ローマ(14世紀前半)で最も有名だったヴェロニカの聖顔布は、毎日曜日&金曜日に聖ピエトロ大聖堂で公開されていた。しかし凄まじい混雑で、巡礼者が窒息死するという事故が繰り返し発生した


(2)情死

 A.名高い恋人たちの死は、文学において様々な形で語られている。ところで、強い愛情が死によって断ち切られた時、残された者はもはや生き続ける術も意欲も失ってしまうことが多かったようだ
〈例〉ルートヴィヒ2世・ドイツ人王(876年没)とその妻ヘンマは時を経ずして亡くなったので、人々は「愛する妻の死が王の生命力を叩きのめした」と語った
 B.中世文学作品においても、愛のドラマの基本的なモチーフとして「嫉妬or復讐による殺人,叶わぬ恋を儚んでの自殺」などが用いられていた
〈例〉『トリスタンとイゾルデ』は特に有名。この物語の死についての特徴は「神の救済の仲介者としての教会が全く登場しない」点にある。しかし奇蹟を起こす神はしっかりと存在している!


(3)犠牲としての死

 A.人身御供は紀元前&(紀元後には)キリスト教以外の宗教で、よく行われていた。これに対してキリスト教は当初から否定していた。ただしキリスト教も「戦争を正統化する,魔女・異端者を迫害する」ので、どっちもどっちではあるが…
 B.キリスト教で特殊なポジションにあるのが「犠牲としての死」で、これは聖書で正当化されている。このような死を遂げたのは「他人のために自由(さらには命)を差し出した者,自ら人質になることを申し出た者」など
〈例〉『哀れなハインリヒ』
 ハルトマン・フォン・アウエによるこの作品(12世紀末)では、不治の病であるレプラに罹った富貴な貴族ハインリヒを救うために、彼の荘園管理人の娘が自発的な犠牲を申し出ている
 ★中世では「レプラ患者は子供たちを殺してその血を浴びることによって、恐ろしい病を癒そうと望んでいる」と言われた
 そこでこの作品では、ハインリヒを救うのは「適齢期に達した処女が自ら差し出す心臓の血である」というようにし、一方で娘は「自らを犠牲に差し出すことで天国行きを確実にしよう」と望む
 ちなみに物語の結末は「無垢な子供が犠牲を捧げようとする決然とした態度を前にハインリヒが回心し、病を神から与えられた運命として受け入れようとする」→「天国行きを諦めなければならなくなった娘は絶望し、ハインリヒを非難するも彼の意志は固い」→「その時ついに神の恩寵が働き、病は奇蹟によって治癒する」→「ハインリヒは娘を妻に迎える」というもの

【中世の人身御供】
 C.本当の人身御供を伝える唯一の目撃証言が、アラビアからの客人アハメド・イブン・ファドランの旅行記(932年執筆)にある。彼はルーシ(ドニエプル川中流域の東スラヴ人初の国家)の首長埋葬の際の儀式を伝えている
[※P224~P226参照:人身御供となる少女は、自分が天国に行くことを信じて自ら名乗り上げたようだ。それでも最後の場面では躊躇い・ひるんでいる様子が見られる]
 D.異教徒に対するキリスト教の布教が成功したのは「キリスト教が異教の神々への人身御供を全面的に拒絶した」ことが原因となった可能性もある。次の2例は年代記ティートマール・フォン・メルゼブルクが書き残したもの
〈例1〉デーン人
 キリスト教改宗以前において「a.デーン人は9年毎の1月7日に、本拠地のシェラン島のライアに集結した」「b.神々に99人の人間と、同数の馬・犬・雄鳥(オオタカの代用)を犠牲に捧げた」「c.犠牲となった人・動物は『冥界の者たちのもとで彼らのために尽力し、悪事が為された時には冥界の者たちの気持ちを和らげてくれる』と信じられていた」という。この“忌まわしき慣習”を止めさせたのは、ドイツ王ハインリヒ1世だった
〈例2〉リウティツ族(スラヴ人)
 彼らは「a.エルベ川とオーデル川に挟まれた地域に居住し、ザクセンの支配下に入らずに異教を奉じていた」「b.彼らは崇める神たちの憤怒を、人間・獣の血で宥めようとしていた」という。彼らがキリスト教徒を犠牲として捧げていた(しかもそれを同盟者である皇帝ハインリヒ2世も了解していた)可能性もある


(4)口減らし

【中絶】
 A.中絶は殺人と同等(初期の公会議)とされていたが、後には「妊娠40日未満の中絶は殺人には当たらない」ということになった。この時期までの胎児は「まだ形成されていない,生命を与えられていない,魂を与えられていない」と見なされたためによる
 B.教会の禁止にもかかわらず、医学の教科書には「中絶の方法,その道具」が紹介されていた。しかし実際にその処置が広く用いられていたかどうかは分からない

【子殺し】
 C.アイルランド人はキリスト教を受け入れるにあたって「子供を遺棄する権利を保持する」ことを条件の1つにしていた。子殺しが行われるのは、母親が(宗教的な理由から)子供に食事を与えない場合であった(例:カタリ派の生後2・3ヶ月の子供が重病に陥った場合)

【社会の影響】
 D.私生児・未婚の母が受け入れられる社会であれば、それによって罰せられる・差別されるのを覚悟しなければならない社会よりも、女性は安心して子を身ごもることができる。そして中絶・秘密の赤子殺しの頻度も下げる
 E.私生児が高い地位に登りつめたことは、社会に寛容の精神が行き渡っていたことを窺わせる
〈中世初期の著名な私生児の例〉
 カール・マルテル,イングランド王ウィリアム1世,メッツ大司教ドロゴ(カール大帝の私生児で、皇帝ルートヴィヒ敬虔帝の宮廷で権力を振るった)

【老人殺し】
 F.紀元前から「老人,社会の“役に立たない”構成員」が追放され、しばしば死の手に委ねられてきた
〈例1〉アイスランドでは公開の民族集会において、厳寒期・飢饉の際に「年老いた人,身体の不自由な人,病気の人」を餓死させると定められた
〈例2〉かつてプロイセンでは「父親は盲目・斜視・奇形の子供を」「息子は年を取り弱った両親を」殺したという(※これはスラヴ人の風習か?)
 G.しかし中央ヨーロッパにおいては、キリスト教導入がこうした習俗に明確な転換をもたらした。それ以降、危機の際に子供が自らの命を救うために親を殺害した、という記録は途絶える
 H.もちろん、親殺しの前に予め相続が為されていた。殺されなくとも、年を取った親は「a.実権を奪われて隠居させられる」「b.あたかも死んだごとくに扱われる」「c.それ以降は、生きていくのに必要なもの(食事・住居・火)を要求できるのみとなる」のだ


(5)人食い(カニバリズム)

 A.「面倒を見ないで死なせる」のと「相手を殺して食べる」のとは話が違う。後者はどうやら、異教の社会でより多く行われたらしい
〈例〉カール大帝の特別法:
 「悪魔に惑わされ、異教徒のしきたりに従って、ある男orある女が“魔女であり人肉を喰らっている”と思い込み、その人間を火炙りにして、その肉を他人に与えたor自ら食べた」ザクセン人を死刑に処す、と脅した
 B.年代記作者たちは「籠城中に人食いが行われた」と記録している。ただし記録にあやふやな点があるのは「作者が実際に体験はしていない」or「あまりにもおぞましい出来事ゆえに、信じるのに躊躇いがあった」からのようだ
 C.人食いはその忌まわしさのゆえに、敵側が行ったこととされ、敵性プロパガンダのステレオタイプとなる(中世~)。しかし一方で「キリスト教が深く関与したおかげで、この非道は行われなくなった」とは考えられない!
 ★多くの者が父母を殺害した社会で、人が苦境に陥った時に「人肉を喰らうくらいならいっそのこと死ぬ方がまし」と思うとは考えづらい!

【中世の怪談話?】
 D.ルドルフ・グラーバーという修道士は、あちこちの修道院を渡り歩き、その間ありとあらゆる種類の噂話を熱心に聞いて回った。そして当時(900~1044年)までの時代像を、実際にあった恐ろしい話と、彼にとって負けず劣らず本当と思われる怪談をとりまとめて『歴史』という書物を書き出した
[その1]
 ある年(1033年とされる)の窮乏は大変なもので、多くの人間が飢餓から故郷を捨てた。夜になると彼らは、宿の亭主に首を絞められ、細切れにされ、茹でて食べられた。果物or卵1個で人気の無い場所に連れられた子供たちの運命も同様だった。至る所で死体はほじくり返されて喰らわれた
 トゥルニュ(フランス中部)の市場で「人肉の焼いたものを、獣の肉であるかのように装って売った」男が捕らわれたが、彼は罪を否認せず、火炙りの形に処された。その際に押収された肉を夜半に掘り出して食べた男がいたが、これも火炙りとなった
[その2]
 マコン(ブルゴーニュ地方)近郊の森に男が1人で棲み着いていて、通りがかりの者を殺して食べていた。ある日この男のところに1組の夫婦が宿を求めてきた。しかし小屋の中で夫が何かの拍子にたくさんの首(後に48人もの男女子供のものだと判る)を見つけ、妻の手を取って近くの町まで逃げて急を知らせた。犯罪者は町まで連行されて火炙りとなった
 ★『ヘンゼルとグレーテル』を思わせる2のエピソード。メルヘンの成立時代・場所は明確に特定できないが、それは集団的経験(森=野生の獣・魔女・悪人が潜む恐ろしい場所である)を反映している
 E.ダンテの『神曲』にも登場するウゴリーノ・デッラ・ゲラールデスカ伯爵の場合。彼は祖国ピサを裏切ったとして、宿敵のピサ大司教ルッジェーリによって息子共々投獄され、餓死した(1288/89年:息子が投獄されたのは連座制による)。この牢獄の中では、父による子の人肉食いが発生したという
『中世の死』N・オーラーから[14]


(4)地獄

 A.1修道士の幻視にも登場するが、中世の神学者の見解によると「a.重い罪を犯して償いを済まさないうちに死んだ者が地獄に堕ちる」のだった
 B.聖書では、地獄の決定的要素は「熱,炎」だった。そして「魂が熱の作用で苦痛を与えられるor浄化される」→「b.煉獄は地獄の前庭のようなものと想像される」となる
〈例〉1修道士の幻視では「炎の竪穴の底が本来の地獄」「竪穴の地表に近い部分が、天国に行く予定の魂が罪を償う場所=煉獄」と考えられている
 C.人々は「c.地獄の主は地の奥底深くに君臨している」と信じていた→「d.地獄は地表から遠ざかるほど暗くなる」となる。しかし熱が増せば明るくなるのでは?
 ☆キリスト教では「光は神の属性→天国に行く者に与えられる」ので、地獄に堕ちた者は「炎から出るほのかな光による慰めすら与えられない」という

【フライジングのオットーの見解】
 D.歴史神学者&司教だったオットー・フォン・フライジング(1158年没)によると、地獄の炎については「神は炎を創られたのだから、その特性をコントロールすることもできる」(例:ネブカドネツァルの炉の中で若者たちは無傷だったのに、彼らを縛っていた縄は燃え落ちた-ダニエル書-)」とする。そして「e.地獄に堕ちた者の肉体は本物の火で、魂は良心の痛みで苦しめられる」という
 E.地獄では熱・寒さに苦しめられるという想像は、広く人々に共有されていた。このことについてオットーは、旧約聖書からイメージを引用し「f.熱・寒さ・悪臭の3つの苦痛が加えられる」と考えた。ほかに6つの苦痛を加えて9つとする者もいる、という(天上の9つの階層と数を対応させていた)
 F.オットーは「旧約聖書の言葉を新約聖書の解釈に援用する」というやり方(中世の聖書釈義家の方法論)をそのまま用いている。さらに「天国と地獄は対応関係にある」→「両者は鏡像のように、細部まで一致しなければならない」という『型』を示したものである

【地獄・煉獄のイメージの発展】
 G.煉獄の魂は(最悪の場合のみ)最後の審判の日まで苦しまねばならない。しかし地獄に堕ちた者には、俗世で犯した罪の報いとしての苦痛に終わりがない。この点について長らく神学者たちは「これが“愛に満ち溢れた羊飼いの姿”と両立しうるのか?」と問い続けていた
 H.この問題についてオットーは「神に見捨てられた者たちの罰は永遠である」と考えた(『ヨハネの黙示録』では“この火の池は第二の死である”としている)
 ⇒こうした考えを引用したダンテは、地獄の入り口には“我を過ぎれば憂いの都あり…汝等ここに入る者は一切の望みを棄てよ”と記した(『地獄篇』)
 I.洗礼を受けずに死んでしまった(=原罪の汚れを背負っている)子供たちは、地獄の奥底に突き落とされるのか?これには様々な解釈があった:「a.子供たちは旧約聖書の祖父(族長)たちのように、ただ暗闇に留め置かれるだけ」「b.軽いがきちんとした罰を課される」
 J.オットーは「c.(最後の審判の後で)魂が浄化される場所が、小さな子供たちと小悪人に割り当てられる」と考えた(=地獄の分割。この発想はダンテが発展させることになる)。もう1つ「d.神は未洗礼の子供・小悪人の魂を、地獄の炎の中でも傷つかないように守ってくれる(orさほど傷つかないようにする)」という考えもある。オットーの時代にはこの疑問について、まだ権威ある答えは出されていない

【中世盛期以降のイメージ】
 K.中世初期の造形芸術では、慰めに満ちたテーマ(例:良き羊飼い)が主流だった。やがて、恐怖心をかき立てる審判・地獄の描写がどんどん増え始める(11・12世紀)。神学者たちの論議がある程度収束した後での教会サイドの宣言(☆)は、この流れをいっそう強めた
 ☆第13回リヨン公会議〔1245年〕では『大罪を犯し悔いることなく死んだ者は、疑いの余地なく、永遠に地獄の炎で苦しめられる』とした
 L.中世の芸術家たちは(煉獄の描写には抑制が必要だが)地獄の描写となると、誰はばかることなく想像の翼を自由に広げた。彼らは「地獄で責め苦を受ける人々に情け容赦なく、思うがままに苦痛を与えた」のだ(例:ロマネスク・ゴシック教会のタンパンのレリーフ,後のヒエロニムス・ボスの絵画)
 M.地獄に堕ちた者を描く筆には、醜悪さに対する(あからさまな)嗜好が込められていた:
1.「悪or悪人は『獅子・蛇・多頭有翼竜』など、現実と空想が入り混じった危険な動物の姿で描かれた」
2.「オットーの引用する“滅亡したバビロンの幻視”によると、そこは野犬・フクロウ・駝鳥・牡山羊・ハイエナ・ジャッカルらが群れている」
3.「オットーは野生動物・毛むくじゃらの動物・竜・セイレーン・フクロウ・羽を持つ小動物を『不純な霊の汚らわしい群れ』と解釈した」
4.「地獄図には、人間の顔をした生き物の他に『醜くねじ曲がった姿』も描かれた。それらの身体のプロポーション(特に悪人の顔のバランス)は、古代からの理想美とは全く相容れない」
5.「悪魔は人間と似た姿で描かれるが、これは悪魔が『聖書に出てくるサタン』と同一視されていたから。一方では悪は神の対極の存在なので、人々が反感を覚えるような姿で悪魔を描く必要があった」
6.「怪物レビヤタンについてのヨブ記の記述は、芸術家たちにインスピレーションを与えた:『歯は恐ろしく、口は火花を発して炎を吐き、鼻の穴からは煙が出てきて、息は火を起こす』など」
7.「地獄の主ルシフェルの住まいは、天上のイェルサレムと対をなして、城のように描かれる:『館は悪魔たちが守り、あるいは閂・錠で固められている』『そこは幾つかの空間に仕切られ、その1つ1つで責め苦が行われる』など」

【ダンテのイメージ】
 N.何層にも分かれた地獄の壮大なヴィジョンの中で、極悪非道な輩はひどい苦しみを受けるようになっている(各層ごとに以下のように割り当てられた):
「第1層:キリスト教布教以前の古代の賢人(例:ソクラテス)と、洗礼を受けずに死んだ子供」「第2層:官能に溺れた者(例:クレオパトラ,トリスタン)」「第3層:美食家が氷の雨に打たれている」「第4層:吝嗇家たち(ここには聖職者も多くいる)」「第5層:怒りに身を任せた者」「第6層:異端者(フリードリヒ2世もここにいる)」「第7層:暴力を振るった者,殺人者(例:フン族のアッティラ王),自殺者」「第8層:詐欺師,女衒,おべっか使い,高利貸し,誘惑者」「第9層:裏切り者が氷の海に首まで浸かって凍えている」。最後の3層は地獄の中心である
 O.これらの地獄の描写(幻視報告・芸術・文学)は相互に影響しあっていたらしく、ダンテの表現(以下の例)が「それを絵でいきいきと表現しよう」という意欲をかき立てた
〈例〉“角を生やした悪魔が地獄に堕ちた人々の背を鞭打っている”“沸き立つタールの中で喘ぐ詐欺師を、悪魔が熊手で何度も沈めている”“地獄の主は(三位一体の神と対称な存在なので)3つの顔を持っている”
 P.ダンテは性別・身分を問わず、あらゆる人間に地獄で報いを受けさせている(修道士・司教・教皇・王・皇帝などなど)。同様に図像でも「修道士も修道女も,皇帝冠・司教冠・教皇冠を被った人々も」地獄だけでなく天国にも描かれている
 ☆これらの背景にあったのは「死神&世界の審判者の前では、誰もが平等である」という、人々の確信である
 Q.中世法・聖書では反映刑(=人間は犯した罪と同様の罰を受ける)がお馴染みであるが、これは繰り返し描かれている
〈例〉吝嗇家の口には灼熱する黄金が流し込まれる,美食家はむかつくような獣を食い尽くさねばならない,肉欲に溺れた者たちは罰として「1匹の蛇がその尾を男根に絡ませ、頭を女性の陰部に突っ込んでいる」


(5)死者の復活

 A.キリスト教の核である「イエスの復活,死者はいつの日にか新たな生を得て甦る」という確信は、歴史的に疑念に晒されてきた(例:第16回トレド公会議〔693年〕では論争があったようだ)

【肉体の“再生”】
 B.人々が抱く復活のイメージについて。「イエスが復活後弟子たちに、自分に触るように促した」ことから、キリスト教徒は真の肉体を持って復活することを信じていた
 ☆全ての人間の肉体は、生きていた頃と同じ形態で戻ってくる(溺死でも、焼死でも、獣に喰われようとも、切り刻まれて地に撒き散らされようとも)と、オットー・フォン・フライジングは確信していた

【復活した時の姿は?】
 C.「神が土から創ったのは男性だけであって、女性は男性から創られた」とされていたので、多くの者は「女性は(女性としてではなく)男性として復活する」と考えていた
 D.この点についてオットーは、アウグスティヌスに依拠して「男女両方が復活する」と考えていた。ポイントは「復活によって身体は『過ち』から解き放たれるが『自然の性質』は保たれる」というロジックにある。『過ち』とは欠点と言い換えることができ、その基準は「天国にいる理想的な容姿を持つ者」にある
 ☆古代ギリシア・ローマ世界の人々が追求した「理想的な身体の美」のこと
 E.このロジックによれば、神が女性を創ったのは「男女両性の調和を保つため」である(男の欲望をかき立てるためではない:創造直後と復活後には欲望は存在しないから)だから、女性は『自然の性質』である。ゆえに男女ともに復活する、という結論になる
 F.容姿の『過ち』とされたのは「巨人・小人→大きすぎず小さすぎずの姿となる」「エチオピア人(黒人)→“醜い黒い肌”でなくなる」というもの。上記☆にしたがって創造主が調節する、という。また「奇形の人,早産で亡くなった子供」は、それが“理性を与えられた、死するべき生き物”である限りは復活する
 G.地獄に堕ちた者は論ずる必要はない。また「猿」「悪魔が人間を愚弄するために作り出した生き物(※=怪物)」は復活しない

【図像での表現】
 H.画家・彫刻家は「聖書の比喩,教会の教え」に通じていた。その上「復活に関するオットーの記述,理想美に関するアウグスティヌスの言葉」は、芸術家にとってのいわば手引書であった。聖俗の芸術作品の注文主は、こうした知識・イメージをベースに、芸術家と作品制作について議論したようだ
 I.細部にあからさまな執着を示しながら、復活の場面は芸術家によって繰り返し描写された。それというのも「この場面(&天国図)でしか人間の裸体を描けなかったから」だという
 J.多くの芸術家は、復活の「段階」を様々な人物像で描き出した。だし下の例のように「死者にゆっくりと服を着せる」のは珍しかったらしい
〈例〉フライブルク大聖堂正面入口の上にあるタンパンは、死者を「徐々に見繕いさせた」。つまり「最初は恐ろしい骸骨姿→骨に腱が付く→肉と皮で覆われる→男女ともに(芸術家が望む)美しい身体を得る」のだ
 K.ルネッサンス期になると、人体は解剖学的な細部に至るまで注意深く造形されるようになった(例:オルヴィエト大聖堂にあるルカ・シニョレリによる復活図)


(6)最後の審判

 A.コンスタンティノープルの公会議(381年)に参集した教父たちは、キリストが「いつの日にか栄光に包まれて再来し、生者・死者を裁く」ことを信じる、とハッキリ告白した
 B.この審判は「時間のある世界(=歴史)と永遠をつなぐ蝶番」となり、歴史を完結させる→「その時にはまだ人間は生きている」ことになる。イエスの弟子たちはこの審判を受ける(=世界の終末の到来)ことを予想していたが、それを目撃しないまま皆永眠してしまった
 C.それ以降ずっとキリスト教徒は、最後の審判についての思索を積み重ねてきた(「それはいつのことか?」「生者・復活者はどこに集められるのか?」)。イエス自身が「それは神しか知らない」と言っているにもかかわらず、人々はイエスの生前からずっと考え続けてきた
 ⇒後には「黙示録の一語一句に何かが隠されているかも知れない」と信じられた。サタンは1000年間は鎖に繋がれているはずだが、しかし1000年になっても何も起こらなかった
 D.イエスは「戦争・内乱・飢饉・地震は終末の兆しだが、それらは全て陣痛の始まりに過ぎない」と答えた。その他の終末の兆しとしては「弟子たちの追放,戒律違反の蔓延,聖地での残虐行為,筆舌に尽くしがたい悲惨」も含まれる
 ⇒上記の苦しみは多かれ少なかれ、どの世代の人間も味わったにもかかわらず、世界は存続した。それでも数多くの災禍・災害を審判の前触れと受け取った人々は「世界の終末は近づいている。聖なる審判者の寛容さはあまりにも試され過ぎた」と、繰り返し叫んだ

【その時は来て欲しい?】
 E.イエスの信奉者たちは、神の国が近いと確信していたようだ(例:『主の祈り』の中で“御国の来たらんことを”と確信して唱えられている。黙示録は“主イエスよ、来たり給え”という願いで終わる)。一方では、教会は現世において堅固に存続し続けた
 F.何だかんだ言って、中世の人々は現世に執着していたし、さらに厳しい審判を恐れてもいた。それゆえ人間は、イエスの再来を早めようとは試みないどころが、できるだけ審判の時を先延ばしにしようとしてきた
〈例〉“最後の帝国”と考えられていた神聖ローマ帝国を維持しようとした。イエスの教えに従って生きてきた(これによって審判者の到来を先延ばしできる、と信じていた)。修道士は「祈祷・兄弟愛・禁欲生活によって神の怒りを宥められる」と信じていた

【時が来ると…】
 G.「イエスがどこに再来するのか」について思いを巡らせてきた人々は“その日その時、万国の民を集め…ヨシヤパテの谷にくだり”(ヨエル書)という言葉に飛びついた。そこでキリスト教徒(中世初期)は、聖地に巡礼してイェルサレム近郊にあるこの谷に埋葬されることで、イエスの到来を待とうとした
 H.最後の審判の様子は何度も描かれた。「a.天使が神の左右&教会の塔の傍らに立って、四方にトランペットを吹き鳴らしている」「b.飢える者・渇く者・見知らぬ者・裸の者・病の者・囚われの者、に対する振る舞いが、至福or劫罰を決めた」
 I.さらに『ヨハネの黙示録』によると「c.天使・長老・4つの生物に囲まれて、神が玉座に座る」「d.天使がトランペットを吹き、イナゴ・炎・煙・硫黄などの災いが人々を襲う」「e.激しい戦いの末に、ミカエルとその配下の天使たちが、ドラゴンを天から突き落とす」「f.ありとあらゆる悪の化身たる“獣”は、永遠に炎・硫黄・煙で苦しめられる」「g.審判者の玉座の前に万人がたち“生命の書”が開かれる。ここに記載の無い者は、炎の海に投げ込まれる」という
 J.『ヨハネの黙示録』を描いた図像は、明らかに最後の審判の場面に結びついている。しかしそれ以外の場面・イメージも、芸術家にインスピレーションを与えた
〈例1〉「ドラゴンと天使の戦い」は(通常)人類創造以前の時代の出来事とされる
〈例2〉“4つの生物”
1.「鷲(マタイ)・雄牛(ルカ)・獅子(マルコ)・人間(ヨハネ)からなり、福音書記者のシンボルと解釈された」
2.「これらは『楕円形の聖域(マンドラ=大輪光)』の中で、玉座に着く審判者を囲んで描かれることが多い」
3.「審判者はたいてい、右手を祝福のために上げ、左手には書物を持つ。ここには人間の行状が記されていて、これを基に各人が裁かれる」
〈例3〉審判の場面
 計量作業として描かれることが多い。「a.天使(ミカエルと思われる)が天秤を持つ」「b.片方の皿には魂が小さな人間の姿で座り、もう片方の皿にはその行状が載せられる」「c.中には、天使が皿に本を1冊載せているものもある(この本は死者の最大の業績であった→文字文化を賞賛している)」「d.天使のすぐ傍で、悪魔が堂々としていることも珍しくない」「e.悪魔は片方の皿をわざと押し下げて、魂が『軽いと見なされ』て自分たちの手に渡るようにしている」「f.このような悪魔のインチキを防ぐために、天使は怠りなく警戒しなければならない」


(7)天国

 A.地獄と天国は隣り合っている(教会入口のタンパンでも、教会堂内に描かれた絵でも)。しかし芸術家にとって、文学・芸術であの世を描写する際、天国図よりも地獄図の方が描きやすかったようだ-天国にはドラマチックな事件は何もない・何も起こらないから-
 B.天国についての様々な表現・イメージ:「a.欠乏・苦難・悪・飢え・渇き・灼熱・涙・死・悲しみ・嘆き、が一切存在しない」「b.その代わりに喜びがある」「c.永遠の祖国」「d.天使と一緒にキリストと在る生活」「e.天国での喜びの1つに、人々は不快な記憶に悩まされずに済む」「f.皆は労働時間がまちまちにもかかわらず、同じ報酬を得られる。ただしどのような貢献を為したかにより、異なり住処が与えられる」「g.神を見ることができる」
 C.天国の描写は地獄の描写とは完全に対称形となっている。しかしその唯一の例外が肉欲だった(地獄では性器までも含めてあらゆる感覚器で苦しみを感じるが、天国には愛の喜びはないから)-そもそも肉欲は原罪だ!-
 D.ダンテによれば「キリストの冥府行きによって救い出された未受洗者(例:アダムなど旧約聖書の長老たち)がいる」。また「ヘロデ王によって殺された罪無き子供たち(幼子殉教者の日:12月28日)は“血の洗礼”を受けた」とされた。他には殉教者・証聖者・その他の聖人たちはもちろん、煉獄での浄化が済んだ者たちも天国について
 E.未洗礼のまま死んだ子供たちについて。教皇インノケンティウス3世は「神は人間の破滅を望まず慈悲深いので、そうした子供たちを救済する手段にも配慮して下さっているはず」と確信していた
『中世の死』N・オーラーから[13]


○通過点としての死


(1)我は信ず(クレド)

 A.神学者たちは激烈な論争を経て、紀元後最初の数世紀の間で信仰の基礎を定めた。第2回全体公会議(コンスタンティノポリス:381年)で宣言された「信条(ニカイア・コンスタンティンポリス信条)」は、信者にとっての基本として受け継がれていく
 ☆ここでは信者は「キリストが栄光の内に再来し、生者と死者を裁く」と信仰告白する。そして信条は「死者はいつの日にか甦るだろう」という期待で締め括られる
 B.この信条での約束事には「因果応報」への欲求が反映されている(これは紀元前の地中海地域の諸宗教・ユダヤ教・イスラム教も同じ)。「いつの日にか悪は懲らされ、善が報いを受ける」と信じることで、死者の遺族は慰められた
 ☆生が「死によって失われる」のではなく、死によって「違う形の生に変化するだけ」→「いつか死者に再会できる」
 ☆違う形の生:「神のお慈悲に与れる人間(=義人)ならば、天上で永遠の生命を得て甦る」ということ
 C.この「審判・至福の約束」がもたらすものとは「a.この世で労苦以外を経験できなかった不幸な人々を慰める」「b.金持ち・支配者には責任を全うするように促す」「c.(死者の復活・最後の審判を信じることで)残された者たちの精神的負担を軽くする」である

【疑問‐俗説と教説‐】
 D.信仰告白の文言の中には、幾つかの突っ込まれる要素がある:「死から最後の審判までの間、魂はどうなるのか?」「キリスト教徒になる前に(=洗礼前に)死んでしまった子供は?」
 ⇒権威ある文書は答えを返してくれなかったので、いろいろな「正解」が人々によって想像された
〈例〉死から最後の審判までの間は、至福に与れると定まった人間の魂も、中間状態(「光」「安らぎ」「清涼」などと表現される)に留まる、と考えられた
 E.教義については、教会の権威者が「発言or承認or容認した範囲」を超える考え方がいつの時代にも存在した。実際には教会サイドからの発言は「現実の展開を後追いする」格好であり、しかもそれは人々が勝手に次々と生み出していく「謬説」との闘いであった
 F.リヨンでの第14回全体公会議(1274年)では、キリスト教徒の信仰として次のように告知された。これは「初めて体系的にまとめられ、西洋世界に広まっていた見解(12世紀)を承認したもの」である
1.「『洗礼を受けてからこのかた罪を犯していない者』&『生前or死後に罪を贖った者』の魂は『間もなく天国に受け入れられる』」
2.「『大罪を置かしたor原罪を背負ったまま死んだ者』の魂は『間もなく地獄に墜ちて、そこで相応の責め苦を受ける』」
3.「いずれにせよ最後の審判の日には『全ての人間が肉体を伴ってキリストの裁きの庭に現れる』→『おのが行為について釈明しなければならない』」

【幻視】
 G.教説と数多の俗説との間は、多くの人々が「尋常じゃないものを見た!(=幻視)」と証言することで埋められるケースが少なくない:
1.「幻視を見たのは、教育を受けていない人・百姓・修道士など『非凡なものを持っている、と思われようの無い人』の場合が多い」
2.「死後の生についての幻視は、実はキリスト教の伝統(聖書〔ことに黙示録とダニエル書〕・『シビュラの託宣』など)に則っている」
3.「教導職(magisterium:キリスト教の信仰・道徳に関して正しく教えを導く、教会の権威とそれを担う機関)は“私的”な幻視には懐疑的だった」
4.「なぜなら、最後の使徒の死,聖書正典の起草によって、啓示は完結したものとされていたから」
5.「にもかかわらず幻視者(ビンゲンのヒルデガルドを初めとする女性も多く含まれていた)は、全ての幻視が認められたのではないが、教会から承認された」


(2)ある1修道士の幻視(8世紀)

【要点】
 A.これは(後に聖ボニファティウスとなる)アングロサクソン人の修道士ウィンフリートによって記録された、ウェンロック修道院の1修道士が見た幻視の中身で、あの世のイメージに関する(中世初期の)具体的証言である
 B.この幻視の記録はところどころ辻褄が合わない箇所がある。しかし記録の特徴として「a.中世における彼岸のイメージが頻繁に現れている」「b.数世紀にわたって人間の思考・不安を決定づけたディテールを備えている」「c.2つの世界が常に対峙している」
 ☆「天国/地獄」「良き天使/悪しきデーモン」「選ばれし者/呪われし者」「天使は輝いて美しい声で歌い、至福に与る者たちの側に立つ/デーモンは黒く、2種類の魂を支配下に置く
 ☆デーモンが支配する魂は「永遠にそこに留まるもの:永劫の罰を受けた者で、嘆き・呻き・嘆息している」「その他:罪の浄化が済むまで、それぞれの時間を過ごさねばならない」である
 C.この幻視では、各々の魂の行いが「帳簿があるかのように」正確に記されているおかげで、天使・悪霊にとって魂の行為の論証が簡単に行える。その前提となる罪の計算可能性は、アイルランド=スコットランド教会(~12世紀:ローマ教会から独立して存在していたアイルランドの修道院教会)が「中世初期に実践していた贖罪の行」と同じ

【“法廷”にて】
1.「肉体の苦痛から解放されて、幻視者は全世界とその住人を眺めた。天使たちが彼を迎えてくれた。彼らは目を向けられないほどの輝きを放っていて、その歌は魅惑的な響きだった」
2.「しかし世界の周りでは激しい炎が燃え盛っており、幻視者がかろうじて傷つかずに済んだのは、天使に守られていたためである」
3.「彼は肉体から抜け出た魂たちを見た。それらを巡って天使の軍勢と悪霊の集団との間で戦いが起こっていた。悪霊(デーモン)たちは死者の魂を告発し、罪の重荷を増やそうとしていた。対する天使たちは魂を弁護しようと努めていた」
4.「幻視者も攻撃を受けているのに気づいた。悪行・罪・過ちが全て、人間のように声を与えられ、彼に向かって恐ろしい叫びを上げる。『子供の頃から懺悔を怠っていた,すっかり忘れていた,その罪深さに気付かないでいた』悪事。それらが彼の前に現れては叫ぶ」-“私はお前の欲望である。お前は私の力を借りて神の掟とは相容れない、許されない行いを度々した”“お前は私の虚栄心である”-
 ☆次から次へと現れるのは、修道士(8世紀)を襲う誘惑の数々(例:嘘,罪深い眼差し,不従順,怠惰,注意散漫,寝坊,無為,だらしなさ,投げやり)の擬人化である
5.「ここで幻視者が見たのは、彼が修道士になる前に傷を負わせた男であった。彼はまだ生きているにもかかわらず、その事件を証言するために呼んで来られたのだ」
6.「悪事の1つ1つについて、それが行われた場所・日時を証明してみせる悪事たちは、明らかに綿密な帳簿を付けていた。幻視者の罪業を並べ、数えた後で悪霊たちは主張した」-“この罪深い修道士は証明された罪に鑑みて、疑うべくもなく我々に引き渡されるべきである”-
7.「今度は弁護側の番であり、修道士の「魂のささやかな美徳たち」が大声(これは悪霊と同じ)で叫ぶ」-“私は彼が修道の師に示した従順です”“私は断食です”“私は祈祷です”“私は苦しむ人に奉仕する気持ちです”…etc.-
8.「幻視者は美徳の1つ1つが、自分(幻視者)を許しつつ天使の助けを受けながら、敵対している罪をなじるのを見聞きした。魂を天秤に掛けられた修道士の印象は『自分が為してきた善行が、弁護人には実際よりもずっと大きく見えている』というものであった」

【修道士の幻視(他人の法廷)】
1.「幻視者はある修道院長に対する裁判の証人にもなる。院長の魂はことのほか美しい姿をしていたにもかかわらず、悪霊たちはそれを奪い取って『我々のものだ』と主張した」
2.「しかし告訴人(=悪霊)たちは突然、大勢によって押し止められた。それは院長を長として・師として仰いだ人々で、院長は自ら手本を示すことで、彼らに神の道を歩ませたのだ!
3.「彼ら修道士たちは証人として呼ばれたのだが、彼らは既に裁判所の権威を振りかざしていた」-“この功績によりこの者は救済されており、汝等に属さないことは明白である”-
4.「さらに幻視者は(当時まだ生きていた筈である)マーシア王セオルレッド(在位709‐716)の『筆舌に尽くしがたい、恥ずべき所業の数々』を見た。悪霊たちは王に地獄で永劫の苦しみを与えることにし、王を様々な拷問道具で引き裂いた」
 ★このように幻視文学は「個人の人格,不都合な状況」を弾劾するのに有効だった

【修道士の幻視(あの世の構図)】
1.「奥底には炎を吐き出す竪穴があり、その炎の中を、黒い鳥に姿を変えた不幸な人間たちが泣き叫びながら漂っている。ほんの少しの間だけ、彼らは竪穴の縁にしがみつくが、再び悲鳴とともに落ちていく」
 ☆天使の説明:短い休息は、神が審判の日にこの魂に『罪の浄化』&『永遠の休息』をお与えになるだろうことを示している
2.「炎の竪穴の底(あたかも地獄の奥底)から恐ろしげな声が聞こえてきて、修道士は身震いする」
 ☆天使の説明:奥底から聞こえてくる呻き・泣き声は、主のお慈悲に決して与ることのない魂たちのものだ。彼らは消えることのない炎に永遠に苦しめられる
3.「修道士は恐ろしい有り様で湧き上がるタールの川を見る。『聖なる、名高き魂たち』が審判を受けた後、木の小橋を渡って向こう岸へ向かっている。ある者はしっかりとした足取りで渡り、ある者は躓いて地獄の川に落ち、それぞれ違った深さにまで沈む。しかしタールの川から向こう岸に上がった時には、堂々とした姿である」
 ☆天使の説明:あれは現世に別れを告げた後、お慈悲深き神の懲らしめを必要としていた者たちの魂である。彼らは幾つか小さな過ちを犯し、まだ完全に清められてはいなかった
4.「向こう岸で修道士を待ち受けていたのは、驚くほど長く・測り知れぬほど高く・目も眩むばかりに輝く壁だった」
 ☆天使の説明:これこれ名高い聖なる都・天上のイェルサレム。ここで聖なる魂は永遠の至福に与る
5.「最後に天使たちは修道士に『自分の肉体に帰って、ここで見聞きしたことを、謙虚に尋ねてくる者に明らかにする』ように命じた」
6.「さらに発言の信憑性を裏付けるため『ある女性に対し、彼女が犯した罪を指摘して、贖罪の行いによって神のお心を宥めるよう諭すこと』『彼自身も悪霊に咎められた罪を懺悔し、償うこと』を命じた」

【魂の浄化(修道士の幻視から)】
 D.聖ボニファティウスに情報提供をした修道士は「永遠に至福から遠ざけられているのではないが、しばしの苦しみを受ける魂」を、あの世の2ヶ所(世界の奥底にある恐ろしい炎の竪穴,天上のイェルサレムを目前とした地獄の川)で見た
 ★この川の名前=“タルタロス”は、紀元前の想像の産物である。ホメロスによると「ゼウスは自分の権力に逆らった者を、決して陽の差し込むことのない、青銅の門で閉ざされた、深い奈落の底タルタロスへ落とした」という
 E.幻視者の修道士は、これらを自分の力では解釈できなかった。そこで天使たちが必要な解説を行った
〈例〉旧約聖書の預言者・黙示録の著者は、彼らの幻影を解釈するのに助けが必要だった。ダンテもベテランの案内人(ウェルギリウス,ベアトリーチェ)に導かれた
 F.炎の竪穴や地獄の川は、浄化の役割を果たしていた。それぞれに異なった程度に汚れた魂は「a.炎の中で定められた浄化の時間を過ごす」「b.多くの贖罪が必要な者は、ベトベトとした煮えたぎるタールを全身に浴びるが、それほどの罪を犯していない者は、耐え難い熱さを足に感じるだけ」だという
 ☆地獄の川では「c.魂は向こう岸へ近づける」「d.川から上がってきた時には、落ちた時よりもずっと清らかに美しくなっている」という(=禊ぎ)


(3)禊ぎと煉獄

 A.中世の人々(神学者から俗人まで)は、煉獄の在処・外観・作用に関して、数世紀にわたって頭を悩ませてきた。煉獄は上記修道士の幻視の中には登場しないが、そこでは多くの魂が「禊ぎ」を必要としていることがハッキリしている
 B.煉獄の具体的イメージは(最後の審判と同様に)「人々が求めていた因果応報」を現したものである。そこには「公正な裁き」&「慈悲」が両立している(矛盾した要求である)ことが重要であった
 ⇒「a.罪人は皆、永遠に断罪されるべきなのか?」「b.償いの済んでいないが、ちょっとした罪を抱えたまま死んでしまった者も断罪されるのか?」「c.償う気はあったけど、ぐずぐずしている内に死にせき立てられてしまった罪人は?」「d.愛に溢れておいでになる神は、犯してしまった罪を『期間限定の罰を受けることによって』死後に償うチャンスを、罪人にお与えにならないのだろうか?」
 C.煉獄(Fegefeuer)という言葉に含まれる動詞:fegenには「(強く磨くことによって)綺麗にする,こすって綺麗にする」という意味がある(=刀鍛冶がヤスリ掛け・ブラシ掛け・研磨によって鋼鉄を光らせる)
 D.教会は(カタリ派など)考えを異にする人々との論争の中で「魂は死後に浄化されなければならない」という論調を強めた(中世盛期~)。そして「信者は、煉獄で苦しむ“哀れな魂”のために、祈祷・ミサ・喜捨・断食などの敬虔な行為にによって善行を施すことができる」とした
 E.ところで(修道士の幻視に見られるように)魂が死後すぐに直面する危険について、人々はよく知っていた。そこで、死につつある者・残される者は、魂を「キリスト,聖母,天使(特に大天使ミカエル),洗礼者ヨハネ,(とりわけ)自ら信仰していた聖人」に委ねた
 ⇒じきに人々は「特別な祈祷などによって、生前から自分の“守護天使”の好意を得ておかねばならない」と信じるようになる。守護天使は「死後に魂に付き添う」「もし罪の浄化のために苦しまねばならないのなら、傍にいて慰めてくれる」という
『中世の死』N・オーラーから[12]


(6)墓地の管理

【都市・村・教会・墓地の建設】
 A.地域開発の過程で町・村は建設されていったが、普通は計画段階から既に「a.教区教会・墓地のための特別な場所が確保された」。また「b.都市の全ての教会が教区としての権利を持っているわけではない」ので、多くの都市では「c.住民が長らく市外の教区教会に所属していた」
 B.都市の中で1つの教区と理解されていた修道院・救貧院は、普通はそれぞれ独自の墓地を持っていた
〈例〉アヴィニョン(中世後期)には、キリスト教墓地が21・ユダヤ教墓地が1つ存在した

【墓地のお清め】
 C.ガリア(6世紀)において既に、墓地のお清めが行われていた(これを欠けばそこには埋葬できない)。『典礼書』(10世紀に成立)には、司教が墓地を清める際の祈りが載っている:
「1.改悛詩編7篇が歌われる」→「2.墓地の上に架かる十字(※?)の4端の位置に燭台を置き、火を灯す」→「3.司教は墓地に聖水を撒いて、信仰告白を唱える」→「4.最後に祈る(※P170に文言あり)」
 D.キリスト教墓地が無い場所に誰かを埋葬する時にも、同様の祈りが唱えられた。とにかく、死者を地中に寝かせる前には、1つ1つの墓(“小さな家”と呼ばれた)を祝福しなければならなかった
 E.悪霊(異教の神々がデーモンと呼ばれたもの)は、信者にとって危険な性質を持つ。お清めをした墓地でも悪事を働き、特に「夜になると生者も死者も悩ませる、悪霊の身の毛もよだつ物語」は広く語り継がれている

【洗礼/未洗礼と墓地】
 F.「未洗礼者はキリスト教墓地への埋葬を許されない」という祈祷書の最後の祈りに示された条件がある。しかし実際には「祈祷書が司教のために編纂された中央ヨーロッパ(10世紀)では、事実上全ての成人は洗礼を受けていなければならなかった」「ユダヤ人(当然洗礼を受けていない)は独自の墓地を持っていた」
 ⇒祈祷書のこのくだりは「親が洗礼に連れて行く前に死んでしまった子供たち」のことである
 ★近代になってもこのような子供たちは“無垢な墓地”(教会の雨樋の下・墓地の囲壁の近く)に葬られた。ここには「産褥で死んだ女性」も埋葬されていた。教会の屋根から滴り落ちる雨水によって「子供たちに洗礼を授ける」「産褥婦を清める」のだった
 G.往々にして、未洗礼の子供たちは「墓地の塀の外(ただしすぐ近く)」に埋葬された。そのような場所に身内が葬られているのは恥ずべきことだったので(例えば)「難産の場合には、母胎の中の子供に洗礼を施す」ことまでなされた。子供がキリスト教徒に相応しい埋葬に与れるように、という願いがあったのだ
 ☆この願いは「死んで生まれた子供が両親の祈願によって息を吹き返し、洗礼を受けてから安らかに息を引き取った」という奇蹟譚に反映されている

【信者/非信者と墓地】
 H.カトリック信仰を守った者のために墓地はあるので、それに疑いの念を持たれた者(例:臨終の際に懺悔を拒んだ)は、キリスト教の埋葬を期待できなかった。もちろん教会の共同体から閉め出された者(異端者・破門を受けた者)も、清めの土から遠ざけられた
〈例〉皇帝ハインリヒ4世
 彼はリエージュで亡くなった時(1106年8月7日)には破門された身であった。そのためシュパイアーに運ばれた遺体は(当初は大聖堂ではなく)「お清めはされていないものの、大聖堂に隣接していた」アフラ礼拝堂に葬られた(=遺族は敬虔な振る舞いによって、破門の罰を自ら引き受けたようだ)
 数年後にハインリヒ5世は「父を聖別された地に葬る許可を与えるよう」に、教皇に圧力をかけた。そして5度目の命日にハインリヒ4世は、自らが建設に力を尽くした大聖堂に、名誉をもって賑々しく永眠の地を得た
 I.死後に人間は罪を許されるだけではない。逆に「生前に正しい信仰を離れた」などを理由に、死して有罪を宣告される場合もある
〈例〉ウィクリフ(1384年没)
 生前から彼は教会サイドから批判されていたが、それは死後いっそう激しくなる。彼の教えは教会会議で否定され、著作はオックスフォードとプラハで焚書された。さらにコンスタンツ公会議で教えが再度否定され(1415年)ただけでなく「ウィクリフの遺体を掘り返し、ヤン・フスと同じく火刑に処す」ように命じた
 ⇒リンカーン司教(ウィクリフのかつての同士だった)は拒絶したものの教会は引き下がらず(それほどウィクリフとフスの思想を問題視していた)、結局実行されてテムズ川に捨てられた(1428年)
 J.もちろん自殺者も、教会への埋葬を拒絶された。キリスト教の教義によれば、自殺者は「生と死に関して神の御手に委ねられるべき事柄(=死の時を決定すること)」を不遜にも自ら行った、ということになる


(7)墓地の管理~死者のための平穏?~

 A.村でならば「死者は1人1人埋葬された」かも知れない。しかし都市でそれができるのは金持ちだけだった。貧乏人の死体は「大きな溝に投げ込まれ、ほんの少し土を掛けられるだけ」だった
 ☆生きている時すら暮らす場所に事欠いた人々が、自分の墓を持てるはずなど無かった!
 B.溝がいっぱいになると、遺体の上にさらに土を掛けた(それには隣に穴を掘る時に出た土砂を使った)。それでも地面のあちこちから手足が突き出していたので、死体が沈んだためにその位置が変われば“生きた死体”についての身の毛もよだつ物語のネタになった
 ⇒そこで「溝の深さに・死体を埋める深さ」についての規程が繰り返し出された
〈例〉「遺体は少なくとも深さ1エレの土で覆われねばならない」「大人も子供も、自分の背の高さと同じだけ深い位置に埋められねばならない」

【隔離】
 C.伝染病が流行した時には、金持ちですら集落外にある共同墓穴に放り込まれた(非常時には格式高い埋葬など望めなかった)。ペストを筆頭とする伝染病予防の闘いの中(中世後期~)で、まずペスト時のみ生者/死者の領域の分離が行われた:
「集落中心から離れた所に新たな墓地が建設された」→「集落内への墓地建設が禁止された」
 D.墓地は「徘徊する動物が溝から死体を引きずり出し、喰らい、骨をまき散らす」ことがないように、囲いが作られた。しかし柵・塀は最低限の高さしかなく、入り口には「有蹄類を遠ざけるための鉄格子=“骨砕き”」が設けられた(少なくとも墓地を描いた絵にはある)が、犬・猫・狐の障害にはならなかったようだ

【墓地の使用法】
 E.市内にある墓地は繰り返し使用された。(理想的には)肉が完全に腐ってから骨を拾い上げ、骨は墓地の塀際に建てられた納骨堂に積み上げられた(これが不気味な光景をさらした)。こうした処理にもかかわらず、墓地の位置はどんどん高くなっていった
〈例〉サンジノサン墓地(パリ中心)
 この墓地はパリの22の教区から、推定7,000,000体もの遺体を収容し(1186~1785年)、この間に土地は周囲より2.5mほど高くなった

【埋葬時】
 F.個別に埋葬される場合、金持ちは棺を調達することもあった。木棺は「板を接ぎ合わせる」or「木の幹をくり抜いて作る」かした
 G.貧乏人は「使い回し可能な共同体が所有する棺の中(これは金持ちも使った)」or「板の上」に載せられ、墓地に運ばれた。遺体はたいてい経帷子にくるまれただけで、土に返された
 H.岩場の場合には、少数の墓が石の中に彫り込まれたのだが、この仕事は骨が折れるし道具代は高かった。穴の大きさはできるだけ平均的な体格に合わせてあり、頭の位置には小さな“アプシス”が付いていた。後に骨は納骨堂に納められた(新たな死者のための場所を確保するのだ)
 I.貴族たちは石棺に葬られることが多くなる(2世紀~):
「a.最初は石棺には、花飾り・冠・別れの挨拶が刻まれた」+「b.キリスト教化の後には、良き羊飼いイエス・使徒・救済のシンボルとしての十字架・死後の生命を示唆する図柄がラインナップに加わる」
「c.簡素な石棺から、一族の墓所(教会内or墓地に家のように建設された)へはスムーズに移行した」
「d.石棺に穿たれた穴から体液が地中へと流れ出るので、遺体はミイラ化し、場合によっては後に地中に埋めることもできた」→「e.このため何回も使用できた」
 J.しかしd.のような改葬に対しては「死者の安眠を妨げることになる」という躊躇いがあった。確かに人間は墓地でやりたい放題のことをしてきたが、それでも「生者の義務/死者の権利、に対する感覚」を持っている者は多かった
 ☆「他の死者のため場所を空けるべく、遺体を墓から掘り出す」のは、厳格な良心には認め難かった

【誰のための平穏か?(11世紀の例)】
1.「メルゼブルク司教ティートマール(在任期間:1009~18年)は、著作の年代記の中で自分が犯したいくつかの罪を告白している。うち1つは聖職売買(当時既に禁止されていたが、広く行われていた)だが、他の1つは埋葬された死者についてのことであった」
2.「彼の前任者である尊者ウィリギスの墓があったのだが、彼は兄から『自分の妻をそこに埋葬して欲しい』と頼まれた。そして催促に根負けしてしまった」
3.「彼は神と前任者の怒りを感じるようになり、ウィリギスの墓から見つかった(副葬品の)銀の杯を、喜捨として貧しい人に送ろうとした」
4.「しかし他人の財産で善行をしても良いのだろうか?そうこうするうちに、杯は跡形もなく消え去った。彼は『ウィリギスが自分の物を手元に引き寄せたに違いない!』と考えるようになった」
5.「その後病にかかった彼は、自分の罪を再認識し、回復するとケルンへの巡礼の旅に出た」
6.「ある夜、彼は大きな物音を聞いたので『何事だ』と問うと『私ウィリギスはここにいる。そなたの罪故に、私は安らぎなく彷徨わねばならないのだ』と返ってきた。それ以降、震えながら罪を悔やまねばならなくなった」

【結論~生者のため~】
 K.死者の「安息」それ自体は大した問題ではなかった。特に貴人用の墓に葬られた人は、最も安息を期待できなかった(遺体を盗まれなかったとしても、他人に場所を譲るために撤去される危険が常に存在した)。それ以外のほとんどの人間は、せいぜい「頭蓋骨を納骨堂に積み重ねて貰えるだけ」だった
 L.ティートマールの告白から見えるのは「平穏に安息を」という願いは、実は生者の安息を求めるものだった、ということ。生者は至る所(特に就寝時・墓場にて)で「声や霊によって人間を震え上がらせることができる、恐ろしい死者から守られて生きていたい」と願っていた
 M.教父アウグスティヌスは「どんな埋葬方法でも死後の生命にとっては些細なことだ」と確信していたが、どうやら人々は「死者が安らぎを得られずに彷徨い、生者を驚かし、時には破滅させうる」(=ゲルマン的信仰)と信じていたようだ
 N.屈辱的に処刑された数多くの遺体が文字通り「祭壇の栄誉」へと高められた(もちろん彼らを祀る人々の願望である)。あるいは死者の発掘によって復讐の欲望を鎮めたという例も1つある
〈例〉ポルトガル王アルフォンソ4世に、自分の恋人(後に妻となった)を殺された(1355年)王の息子ペドロは、王位を継承する(1357年)と、まず殺人犯を残虐に処刑した
 それから「妻の遺骸に香油を塗る」→「王家の権威を示すあらゆる象徴(王冠・緋衣・宝飾品)を付けて、玉座に座らせるように命じた」→「身の毛もよだつ光景の中、国の貴族・議会の人々は死者に敬意を表し、その強張った手に口づけをした」→「死者は荘厳な行列を組んで、アルコバサのシトー派修道院に運ばれて埋葬された」


(8)多目的空間としての墓地

 A.墓地は教区教会の近くになくてはならないので“教会の庭”と呼ばれた。集落・墓地が互いに近いので、墓・死者の面倒を見るには好都合だった
 B.人々は「教会へ通う道において,ミサの共同祈願の場で」生者/死者の共同体を意識した。死者と墓は「先祖と子孫を結びつけた」→「氏族意識を作るのに貢献した」のだ
 ★死者の共同体は生者の共同体と同じように構成されていた:「聖職者は別格」「金持ち/貧乏人,大人/子供,既婚者/未婚者はそれぞれ分けられていた」「夫婦は(普通は)一緒に葬られた」
 C.墓地にはたいてい死者崇拝のための礼拝堂があり、大天使ミカエルor聖ニコラウスに守護されていた。ミカエルは「死後に魂を天国へ連れて行く,その道中悪霊から守ってくれる,最後の審判では救いの手を差し伸べてくれる」と信じられた。聖ニコラウスは「真の救難者として生者・死者ともに助けた」
 D.墓地は「清められた場所として」「2つの世界の接点として」囲われた空間だった。象徴的意味のみならず、物理的にも「柵・塀によって周囲から際立った」場所であった
 E.墓地は教会と(ほぼ)同じ平和が適用され、近世にはアジール権が墓地にまで拡張されていた。リンチを加えられそうになっている者は、墓地に辿り着くと「まずは助かった」と考えた
 ☆聖人伝によれば「時には死者までが墓から出てきて、無実の罪で追われている者を救った」という
 F.墓地の囲壁が角櫓・門櫓で補強されていれば、それは村の防御拠点となった(その場合には平時から安全対策を怠らなかった)。壁の内側の空間には小屋が建てられることも多く、農民は貴重な財産・蓄えをそこに隠した。村の共用施設(例:ビール醸造所,パン焼き小屋)もここに建てられた
 G.墓守が墓地に住むのは当然だが「戦争で家を失い、墓地に避難した者」も、そのまま住み着く傾向があった。もし墓守がそれを禁止しないのなら、他の者も拒否しようがなかった
 H.教会・墓地が集落の中心地となるにつれて、世俗の共同体にとってもその意義は大きくなっていく:
「a.裁判が教会の正面入口で行われる。教会のタンパンに描かれた『最後の審判』の図が、裁判官に責任を思い出させた」「b.墓地は集会所となる(説教がなされる,遺言書が読み上げられる,共同体に関係するお触れが出される)」「c.墓地の塀には公式の物差しが埋め込まれていた」「d.謀反人たちの格好の集結場所になった!」
 ★(d.について)墓地にはあちこちに常明灯が灯っていた。加えてたいていの人は日が暮れると、不気味な場所として恐れて墓地には近づかなかったから
 I.墓地は経済的にも利用された:「a.果樹栽培をする」「b.家畜に草を食べさせる・草を刈る(その権利をめぐって司祭と教区民との間で争いが繰り返された)」「c.市・展示会・ダンスが行われた(教会は禁止したが…)」
 J.清められた墓地で殺人が行われた場合、贖罪が必要とされていた。その原因となる行為は流血だけでなく、射精も対象であった


(9)ユダヤ人墓地

 A.ユダヤ人にとっての墓地は、キリスト教徒にとってよりもさらに大きな意味合いを持っている。シナゴーグ建設以前には、ユダヤ人は墓地用の土地を購入していた(死者のためには確固たる場所が必要である!)。彼らはその場所を“永遠の家”“墓の家”“死の庭”“永遠の生の庭”と呼んでいる
 B.広い地域内で墓地が1つしかない場合もままあり、その際には「墓地のある集落=その地域の中心」として、裁判などが行われた。神聖ローマ帝国では世俗権力もこの地域区分を利用した
〈例〉ドイツ王ループレヒト1世(在位1400‐10)は、ユダヤ人を効率的に管理し彼らから速やかに徴税するために、彼らを「墓地」と呼ばれた地域に分割させた
 C.危機が迫った時にはユダヤ人は墓地へ行き、死者にすがった。そんな時に墓(特に親族のもの)は、訪問者が心の内をさらけ出す祈りの場所となった
〈例〉スペインからユダヤ人が追放された時(1492年)、彼らはスペインでの最後の時を先祖の墓で過ごした

【墓】
 D.死者は「(多くが)顔をイェルサレムの方に向けて葬られた」or「(そうでなければ)自分の活動場所の方を向いているようだ」
 E.墓石には「名前,没年」に加えて「神の祝福を祈る言葉,被埋葬者の人生の特別な出来事」が刻まれた場合が多い。また「人物についての叙述」は時代が下るほど詳しくなる(これはキリスト教徒の墓碑銘と同じ)
〈例〉“これなる祈念碑は我らが師、ラビ・ヤカールの息子ラビ・ヤコブに捧げしもの。師は数えて824の年(西暦1064年)、エデンの園に旅立てり。師の魂よエデンにあれ”。締めくくりの祈願文は“かの者の安息が栄誉に包まれてあれ”or“かの者の安息が生命の木の下にあれ”
 F.ユダヤ人は墓石の上に小石を載せる習慣がある。また同じユダヤ人でも「アシュケナージ(中央ヨーロッパ,特にドイツのユダヤ人)の墓石は垂直に立ったいる」のに対して「セファルディ(スペイン系ユダヤ人)の墓石は地面に平らに置かれる」という違いがある