『ワインの文化史』ジルベール・ガリエから[1]


○ブドウ栽培を守った人たち
 [大修道院長,司教,王侯貴族]


(1)蛮族とブドウ畑とワイン

 A.ゲルマン民族の怒涛のような大移動(5~6世紀)に晒されても、ガリアでのブドウ栽培は完全に途絶えなかった
〈大移動の内訳〉
「1.サリ・フランク人やライン・フランク人(リプアリア族)のように、ローマと同盟関係を結んでローマの文化に一部同化した」者たち。「2.アラン人やスエビ人や(特に)ヴァンダル人のように、足早にガリアを駆け抜けた」者たち。「3.ブルグンド人や西ゴート人のように、ガリアに定着した」部族
 B.彼らは通常「a.水・乳・セルヴォワーズ(大麦などを原料とするビールの祖先)を飲んだ」。しかし「b.ワインも飲み、酒蔵を空にしてもブドウ畑には手を出さなかった」という。侵入者たちは「c.ワイン生産者から(身代金代わりに)ワインを分捕った」

【ヴァイキング】
 C.侵略を繰り返した彼ら北方ゲルマン人の場合。「d.祝勝の宴・死者を称える宴で飲む大量のワインを分捕った」「e.宴席では、青銅製の杯・牛の角に金銀で象眼した杯で飲み回した。女性も共に飲んだ」「f.死んだ首領の供としてあの世へ旅立たせられる女召使いにも、最後の情けとしてほろ酔い気分を味わう機会が与えられた」
〈略奪例1〉
 セーヌ川からヨンヌ川へと遡ったヴァイキングはオセールに達したが、酒蔵が空だったので帰途にパリのサン=ドニ修道院の酒蔵を荒らした(865年)
〈略奪例2〉
 シャルル禿頭王は「ワイン,小麦,銀貨4,000リーヴルを差し出す」ことで、ヴァイキングの来襲を思いとどまらせることができた(866年)
 D.大西洋を渡ったヴァイキングは、現在のニューファンドランド島北西部に上陸した(11世紀初頭)。たわわに実った野生ブドウを発見した彼らはワインを作り、そこを“ヴィンランド(ブドウの国)”と名付けた


(2)高徳の司教のブドウ畑

 A.キリスト教の聖職者にとってもワインは、大きな象徴的意味を有するものとなった。(ローマ帝国崩壊前において)初期の司教のほとんどは「ガリアでワインを嗜み、ブドウ畑の保護に注力していた」貴族階級出身だったので、自ら率先してブドウ栽培に取り組んだ
 B.その後メロヴィング期・カロリング期を通じて、司教はブドウを維持し続けた。猫の額ほどでも土地が空いていれば(司教館の中でも城壁の直下でも)、都市内部でブドウ畑を開いた。ブドウ栽培に尽力した司教の名を挙げればキリがない
〈例1〉聖メダルドゥス(6世紀)は、ノワイヨン(ピカルディー地方)を司教座都市として選んだ。理由は「この地がブドウ栽培に適している」「ワインを運ぶオワーズ川の水運に恵まれている」から
〈例2〉リヨン大司教レイドラディウス(バイエルン出身)とアゴバルドゥス(スペイン出身)は、サン=ジャン教会とサン=テティエンヌ教会の改修費&司教館の建設費を、ワインを売ってまかなった
〈例3〉カオール司教デシデリウス(在任630~655年)は、カオールを中心とするケルシー地方とアルビ一帯に88もの荘園を有し、うち20ばかりでブドウを栽培していた

【ワインが必要な理由】
 1.「信者の聖体拝領に大量に用いた(~13世紀)」。教会は聖職者だけでなく、一般信徒にも広く「パンとワインの両形態により聖体の秘蹟」を授けていた
 2.「巡礼・旅人を受け入れ、病人に救いの手を差し伸べるのも教会・修道院の役目だった」。ここでもワインは消費された
 3.「王侯貴族・皇帝が司教館に旅の宿を求めることが多くなり、もてなしのためにワインを用意する必要があった」。修道院には「酒蔵の管理を任された修道士が存在する」ようになり、彼は客のために司教のとっておきのワインを選んで用意した

【司教座とワイン】
 D.上記のような用途に充てて残ったワインは販売された。つまり司教こそが、中世都市に現れた(7世紀)最初のワイン商人だった
 E.司教の職務を補佐したのは司教座聖堂参事会である。「a.司教座聖堂ごとに聖職者からなる参事会が置かれる」「b.参事会員は修道院的な共同生活を送る」ことが定められた(アーヘンの教会会議:816年)。このために「c.司教座聖堂の隣には修道院が建てられ、そこには必ず酒蔵が備わっていた」。そして「d.多方面からブドウ畑が寄進されたので、聖堂参事会は大所有者となっていった」
〈例〉リヨンの丘は、3つの司教座聖堂参事会(サン=ジャン,サン=ジュスト,サン=ポール)のブドウ畑で覆い尽くされた。やがて畑は、同市北郊のモン・ドールの斜面にまで広がる(11世紀)


(3)高徳の大修道院長のブドウ畑

 A.修道士は(世俗の風刺文学にずっと描かれてきたような)飲んだくれでもなければ、禁欲生活の慰めを酒に求めたわけでもない。このようなイメージは、近世以降の反宗教的気運の中で誇張されてしまったものである
 B.司教とともに、修道士も「ブドウ畑の保護・開発に努め、そのワインを活用した」。その表れとして、西洋の修道院創設期(6世紀)に関する諸「伝説」の中に、ブドウとワインが大きな位置を占めている
〈例1〉
 聖ベネディクトゥス(修道院でのワインの飲み方を始めて規定した)は、自らの修道院の畑を東ゴート族の略奪から守った、という
〈例2〉
 聖マルティヌス(ポワティエ近郊のリギュジェやトゥール近郊のマムルティエに修道院を設立)は、この地域のブドウ栽培の草分けだった。彼の食いしん坊のロバがブドウの新芽を食べたおかげで、ブドウを短く低く剪定することの利点が知られるようになった、という

【ベネディクトゥスの会則とワイン】
 C.この修道生活の規則は、イタリアからイングランドへ(7世紀)、さらにゲルマニアへ(8世紀)と広まった。さらにマインツ(813年)とアーヘン(816年)の教会会議を経て、カロリング帝国全域で採用されるようになった
 D.73章からなる会則には『酒の飲み方について』という1章があり、そこには「酒は慎むにこしたことはないが、常にそうもいかないから、水をむさぼり飲むくらいなら必要に応じてワインを少し飲む方がましだ」とされている
 E.修道院の日々の肉体労働のきつさが酒を必要としたので、修道士には「a.1日につき1ヘミナ(=約270ml)のワイン」が認められていた。これは最低量で「b.伐採・開墾・耕作などの力仕事をした日には、当然追加されることもあった」
 F.他には「c.普段の食事がつましい分、宴会の機会を増やすとよい」と聖ベネディクトゥスはアドバイスしている。これによって「d.聖俗の大きな祝祭日には、肉・ワインがふんだんに食卓に並び、修道士に慰めと力の源をもたらした」のだ。規則は禁欲を重んじたが、それを極端に厳格には要求しなかった!
 ★年間平均で150日の宴会日=「“主の日”である日曜日,各地に共通した主要な聖人の祝日,土地ごとの聖人の祝日,王族の結婚・誕生,戴冠式,司教や王侯貴族の訪問・逗留」があった、という

【修道院でのワイン消費】
 G.次の収穫を控えた8月・9月、残っているワインは酸っぱくなっていても捨てたりはしなかった。酒蔵担当の修道士が、蜂蜜・セージの粉末を加えて誤魔化し、修道士・助修士に分配したのだ
 H.規則の適用は大修道院長ごとに(or状況によって)まちまちだった。寛大だった時期(9~10世紀)の後に、クリュニー大修道院と(次いで)シトー大修道院によって「禁欲を旨とする」修道院改革運動が推進され(11世紀~)、ワインの個人割り当て量は減った
 I.修道院には多量のワインが必要だった:「院内での消費,聖体拝領に頻繁に用いる,病人・老人に飲ませる,訪れた巡礼・旅人に売る」。一方で供給サイドでは「所領外でのワイン販売,物々交換」が、修道院の自給自足体制を支えた
 ☆大修道院の建設に先立って「まずブドウを栽培する」→「それが成功してから建設に着手する」例は少なくない

【ブドウ栽培・ワイン生産の拡大】
 A.ラングドック地方沿岸部:アニアーヌの聖ベネディクトゥス(750~821年頃)と仲間の力で、ブドウ栽培が大きく発展した。ベネディクトゥスたちはこの地域にベネディクト会修道院を次々に建てた
 B.ロワール川流域:河口に位置するナント近郊アンドルから、上流に向かってアンジェ→ソミュール→ブルグイユ→サン=ブノワ=シュル=ロワール→ラ・シャリテ=シュル=ロワールまで、ベネディクト会修道院のブドウ畑が開かれた
 C.アルザス地方:マルムティエ修道院
,ブルターニュ地方,レオン修道院,ノルマンディー地方:ジュミエージュ修道院など、の畑があった
 D.パリのサン=ジェルマン=デ=プレ大修道院:カロリング朝下における最大のブドウ栽培者&ワイン産出者だった。「a.パリとその周辺の10ヶ所以上にブドウ畑を所有した」「b.毎年50~100klのワインを産出していた」「c.聖ヴァンサン(4世紀にスペインで殉教)に奉献されたこの修道院では、ワインと血を簡単に連想できる名(フランス語でワインはヴァン・血はサン)も巧みに利用した」という
 E.サン=ドニ大修道院:「d.現在のパリ市内・近郊のイヴリにブドウ畑があった」「e.産出したワインはセーヌ川・オワーズ川の関税を免除されたので、イングランド・フランドル地方でも販売された」「f.サン=ドニ大市の開始日を10月9日とする許可を受け、その新酒は完全な優先販売権を認められた」


(4)カロリング王家とワイン

 A.カロリング朝の諸王も(メロヴィング朝の王)と同じく、宮廷を1ヶ所に固定せずに荘園から荘園へと移動(例外:シャルルマーニュの最晩年)し、そこの物資を消費した。そこで荘園には「a.必ずワインを蓄えるようにした,可能な限りブドウを栽培した」「b.重臣の中には酒蔵係(ワインの管理・調達担当)と酌人頭(宴会でのサービスを担当)がいた」
 B.シャルルマーニュ大帝は時には大酒を飲んだが、決して酔いつぶれないように心掛けていた。そもそも「狩り・乗馬・水泳をよくする,色を好む,身の丈2m近い偉丈夫だった」ので、酔いなどすぐに吹き飛んだ、という…
 C.荘園のブドウ畑・酒蔵管理への目配りをシャルルマーニュは怠らなかった。御料地令には、家令に対する事細かな指示が記されている:「c.ワインは『然るべき容器』に蓄え『断じて変質させる』べからず」「d.余剰ワインがあれば必ず大帝に報告し、売るべきか・誰に売るかの判断を仰ぐ」という
 D.さらに大帝は「e.毎年秋に新酒販売優先権を行使した」ので、他の産出者よりも先にワインを販売した(その例外は上記のサン=ドニ大修道院)
 E.王家のブドウ畑は「f.ロワール川流域(アンジェ)~ブルゴーニュ地方(コルトン)~ライン川流域(ヨハニスベルク)」にまで及んでいた。「g.領地ごとに配置された家令(計600名)に、毎年資産&必要経費を報告させ」、さらに「h.桑酒・ブドウ酒を煮詰めた甘口ワイン・蜂蜜酒・酢・新酒・古酒のそれぞれの、量・品質まで報告させた」
『ハム・ソーセージ図鑑』(財団法人 伊藤記念財団)から


(1)ヨーロッパの基礎的要因

 A.ヨーロッパを起源とする作物は「エンドウ豆,ソラ豆」程度しかない。食用作物となる植物資源に恵まれなかったこともあって、ヨーロッパでは人類最初の文明は誕生できなかった
 B.ヨーロッパは「夏は乾燥し雨に乏しく、比較的気温が高くても雨が少ない」ので、植物はそれほど育たない。一方で、寒い冬には冷たい雨が降る。このため「今でも牧場・牧草地としてしか利用できない農地が40~80%を占める」「同じ麦畑で毎年麦を連作できない」
 ★連作障害を防ぎながら生産を最大化するために「三圃制農法」が行われた。それでも農業生産性は、現在よりもはるかに低い(=ヨーロッパは元々農業に適していないのだ)
 ⇒そうした中世ヨーロッパでは、とてもパンは主食になりえない!
 C.反対に「元々穀物栽培に不適な地域」だからこそ、食肉を食べる食文化が成立する。そこでは、人間が食べることのできない自然の草類を、反芻家畜(例:牛・羊・山羊)に食べさせて飼育し、人間はその畜産物を食用とすることができた
 D.一般に「畜産物を多く食べる食文化は、豊かで生活水準が高い」と考えられがち。しかしヨーロッパでは、上記の「直接食べられる植物が少ないのでそれを補う」という理由だけでなく、その食用作物を少しでも多く生産するために「貴重な肥料=糞尿を生産してくれる家畜が必要だった」という事情があった


(2)乳製品が必要な事情

 A.ヨーロッパの気候を大きく分けると「地中海沿岸は乾燥気候であり、冬に雨が降るものの雨量は少ない」「アルプスを越えれば乾燥は和らぐものの温度は低くなる」「イギリス・デンマークにもなればさらに寒さは厳しくなる」。このために家畜の飼料となる草も、北に行くほど生産力は低くなる
 B.1頭の家畜を屠畜して食肉を得たならば、これを補充するために子畜を育てるのに「多くの時間・経費・飼料」が必要となる(もちろん子畜を生産するための繁殖用家畜も確保しなければならない)
 C.暖かければ草の成長も早く、飼料を確保しやすいし、繁殖用家畜を飼う余裕もできる。しかし気候が厳しければその余裕は少なくなる
 ⇒家畜の命を奪うことなくそこから食料を得ようとするならば、肉ではなく乳を利用することになる。このためヨーロッパでは、北に行くほど乳製品が多くなる


(3)豚を食べる

 A.アルプス以北のヨーロッパでは、かつては広大な森林に覆われていて、人々が切り開いて農地としてもその周囲には依然として森林が広がっていた。しかもその森を形成するのは広葉樹で、楢・樫のように秋になると多くの実(ドングリ)を付けた。そして木の実を有効に使える家畜は豚であった
 B.そこで「森の中で春から初秋にかけて、豊富な実を豚に食べさせる」「あとは収穫残渣や、収穫物の中でも品質の悪い部分を飼料に振り向けた程度」により、豚を育てた。さらに秋の深まった頃に木の実をたっぷりと食べて太らせた
 C.実は豚には、家畜としては重大な欠点=「反芻動物ではないので草類で飼育できない。周辺の樫・ブナの森林に放牧しておけばドングリで自然に成長出来るが、冬場は餌が不足するので、どうしても冬を越すことができない」があった。そこで晩秋から冬にかけて(繁殖用の豚を除けば)、全て屠畜して保存しなければならなかった
 D.一方で豚には「1回に1頭しか出産しない牛・羊と違って多産(1度に10頭くらい)」という利点がある。加えて、牛は「草だけで飼育すると食べ頃になるのに5~6年かかる」が、豚は(上記のように)「生後6~10カ月で食べ頃になる」という飼育のしやすさがある
 E.畜産物を単に食べるだけでなく「乾燥,塩漬け,薫製すること」によって長期保存が可能となるが、これはかなり昔から発見されていた。こうした技術によって「1年を通じて食肉が供給できる」「この技術が発展して、やがてハム・ベーコン・ソーセージ作りへと繋がる」ようになった


(4)古代から中世へ

【ハム・ソーセージの歴史】
 A.古代ローマには既に食肉店があり、ハム・ソーセージを販売していた。一般的に多くの種類のソーセージが、カエサルの時代で幅広い階層のローマ人・ギリシア人に人気があった。ローマ人は「新鮮な豚肉,白い松の実,クミンシード,ベイリーフ,黒コショウ」から作ったソーセージを特に好んでいた
 B.このソーセージがとても広まり、ルーペルカリア祭・フロラリア祭と儀式的な関係を持つようになったので、初期のキリスト教会から非難された。このため、キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世はソーセージを食べることを禁じた(ただし後の時代に人々の抵抗&密売のために廃止された)
 C.古代ローマ帝国滅亡後、ハム・ソーセージ作りの技術はヨーロッパ各地に伝わった(例:11世紀頃には作っていたドイツ人,種類・範囲を発展させたフランス人)。そこに十字軍遠征によってスパイスが持ち込まれたことの意義は大きかった
 ⇒それまで人々は「味も素っ気もない肉を大喰いすることが唯一のご馳走」と考えていたのだが、そこに調味料としてスパイスを用いたことによって、ハム・ソーセージの味覚は一変した
 D.豚は村落の主な収入源の1つとなり、加工・保存技術はますます発展していく(中世盛期)。ソーセージはルネッサンスの頃には今日の原型が出来上がり、発祥地にちなんだ製品が次々と誕生した

【ベーコンの歴史】
 E.ベーコンの起源は(一説によると)、ヴァイキングが活動していたデンマークで「長い航海用の食料として豚の塩漬け肉が用いられていた」ことにあるという。塩漬け肉は船上では調理しづらいので、火で炙って貯蔵されるようになった。ところがある時「薪が湿っていてよく燃えないまま炙られた」塩漬け肉が「程良く煙で燻されて良い味がする,以前より長く保存できる」ことが分かって
 ⇒この塩漬け豚肉を煙で燻したのが、今日のベーコンの原型という
 F.デンマークでは「豚の頭・足・内臓を除いて縦割りにした半丸枝肉を塩漬け燻煙した」。これが北欧各地に伝わり様々な型のものへと発展したのだが、中世の間はこの製品に特定の名称はなく、単に“豚肉の薫製品”とされていた
 ★ベーコンの名称がフランシス・ベーコンに由来する、という説も確定ではないようだ
 G.イソップ寓話『都会のネズミと田舎のネズミ』の中には「恐怖を感じている時のケーキとエールよりも、平和な時の豆とベーコンの方が良い」とある。中世ヨーロッパでは“貧しい人の肉”であった。フランソワ・ラブレーは「逃げさせろ、そしてベーコンを蓄えよ」というフレーズを作品中で使った(1540年)
 H.イングランド北部のダンモウ修道院では、修道士が「教会のドアの前で跪く人」「“1年と1日の間、決して家庭で口論はしないし『独身だったら』と願ったりもしない”と誓う人」には誰にでも、塩漬けにした豚の脇腹肉(ベーコン)を与えていたという
『中世の死』N・オーラーから[19]


○ペスト大流行


(1)中世後期ペストについて

 A.ペスト大流行(1348~50年)では、各地の人口の1/8~2/3を死に至らしめたようだ。全く被害を受けなかった地域も多かったが、その理由は分からない(単に記録が残っていないだけの可能性もある)
 B.化学療法が導入される以前では「腺ペスト:30~80%,肺ペスト:ほぼ100%」の死亡率だった。中世後期ヨーロッパでは「a.(オリエントのペストとは異なり)前兆としての鼻血は見られない」「b.男性でも女性でも、鼠径部&腋窩に腫瘍ができた(大きさはリンゴ大~鶏卵大まで)」→「c.その後全身に黒色・茶色の斑点ができたので『黒死病』と呼ばれた」

【予防措置は正しかったが…】
 C.フィレンツェでは「a.市内から汚物が一掃された」「b.患者は健常者に近づくことを禁じられた」し、アヴィニョンの教皇は「c.自室の前で常に火を焚かせた(そして生き延びた)」。これらの予防措置は正しいものだった。特に「d.港湾都市において罹病が疑われる者を、場合によっては40日間隔離した」(これによって海路経由で感染が拡大するのを防ぐ)ことは、確実に功を奏していた
 D.人々は恭しく祈り、厳かな祈願の行列を行った。しかし当局は、病気伝染のメカニズムが分かってくると「e.病原体を撒き散らすだけの行列を禁止した」
 E.これらの事実は、近代以前においても「医術に心得のある者たちの中に、卓越した診断学者・治療士がいた」ことを示している。しかしこのような努力にもかかわらず、ペストは患者から健常者へとあっという間に広まった


(2)人々の反応

 A.健常な者は生き延びたいと思い、病に倒れた者を避けて社会から身を引いた:
「a.同じ考えを持つ者同士で、質素な生活によって身体の抵抗力を高め、難を避けようとした」
「b.良質の食事・選り抜きのワイン・音楽をほどほどに楽しんだ者もいた」
「c.ありとあらゆる方法で、自分の欲望を満たそうとする者もいた。あまりの無節度ぶりは、ボッカチオから『家畜並み』と批判されている」
「d.禁欲と享楽の間の方法として、花・香草・香辛料などの香りをたびたび嗅ぐ者もいた。というのは『どこもかしこも死体の腐臭・病や薬の臭いで満ちていて、息が詰まりそうだった』から」
 B.いつの時代でも人々は、流行から逃げ出した。いろんな口実を作って逃避した(例:以前から「商売相手を訪問したかったのだ」「巡礼の誓いを立てていたのだ」から、今こそ約束を果たそう!)。伝染病はこうした人々を経由しても広まったと考えられる

【社会秩序の崩壊】
 C.所有権やモノに対する影響も大きかった:「a.一族には総領が不在となった」「b.名だたる財宝には相続人が居なくなった」「c.宮殿も掘っ建て小屋も空になり、たまたま通りかかったよそ者が家主のように振る舞った」「d.かつての社交花咲く暮らしぶりは、住人とともに死に絶えた」「e.物価が上がり、財産が再配分された」
 D.悲惨だったのは、法が持つ威信が破壊されてしまったこと(使用人も役人も皆、倒れるか死んでしまった)。このため、誰もが欲するがままに行動した:
「f.婦人は日夜を分かたずに、男性に無遠慮に付きまとわれた」「g.修道士も修道女も、服従の掟を放り出して肉の喜びに身を委ねた」
 E.最も悲惨な結果をもたらしたのは、生き延びたいという欲望から、誰もが人付き合いを避けたことである:
「h.市民同士が避け合い、隣人の面倒を見る者がいなくなり、社会的義務が潰えた」「i.見捨てられて飢えに苦しむ病人もいたし、もし誰かが面倒を見ていれば生き延びたかもしれない人間も死んだ」
 F.さらには「j.家族の絆が崩壊し、兄弟さらには夫婦の間柄でも、互いに見殺しにした。父母は子供たちを訪問したり面倒を見たりするのを拒んだ」。ごく少数の者だけが、頼りになる友人たちの思いやりに与ることができた

【見捨てられるのは嫌!】
 G.ペストはどの階級の人間をも容赦なく襲ったが、とりわけ貧者&中産階級の者が酷い目に遭った。彼らは逃げることも出来ないし、ちょっとした世話を受けるだけの金も無かったので、昼夜関係なく路上で死んでいった。隣人・親族・友人から見捨てられた病人にとっては「誰かが哀れみを掛けてくれれば、それだけで幸せだ」と思えた
 H.ひとたび病に罹れば「高貴&貞淑な美しい女性ですら、男性を(若者でも年寄りでも)自分に仕えさせるのを憚らなくなった」→「病のために必要とあらば、まるで婦人部屋での事のように(何らの恥じらいも見せずに)肉体のどの部分でも、男たちの目に晒す」という、前代未聞の習慣が定着したという

【匿名での埋葬】
 I.疫病沈静化からすぐ、かつての習慣が復活した:「a.近隣・親戚の女性たちが集まって、死者の邸内で近親者と共に死者を悼んだ」「b.男性遺族と他の市民たちは家の前に集まった」「c.聖職者の到着を待って、葬列が組まれる」「d.死者に近しい男たちが、遺体を肩に載せて教会まで運ぶ」「e.残りの者たちは手に蝋燭を持って続いた」
 J.ところが、疫病が猛威を振るっている期間中には「f.多くの人間が、女性たちに囲まれることなく死んでいった」「g.誰1人看取る者なくこの世を去る者も多かった」「h.近親の嘆き・涙で送られる者はごく僅かだった」。その代わりに「i.(女性たちの)哄笑・諧謔・嘲弄が聞こえた」という(誰もが生き延びたかったのだ!)
 K.家の中で人が死ぬと、隣人は「j.遺体の腐敗によって立ち上る悪臭によって、初めて気づく」有り様だった。そして感染への恐怖から「k.遺体を家から路上に引きずり出した」し、さらに「l.市民によって遺体が教会へ運ばれなくなった」
 L.親交のあった隣人の代わりに「m.下層民出身の“死体運び”によって、時には1枚の板切れに数体の遺体を載せて運ばれた」。そうした運び手は手近な葬列の後に連なって行った
 ⇒埋葬する死者が1人だけ、と聖職者が思っていたところ、6人以上も続いて運び込まれたというケースもある
 M.こんな感じだから、棺台も(予め死者が決めておいた教会ではなく)「n.行き当たりばったりの教会に急いで持ち込まれた」。続いて死体が「o.ちょうど開いていた墓穴に投げ込まれた」。もちろんそんな時には「p.弔いの儀式をする者など誰もいなかった」
 N.遺体の数が多過ぎて、清められた場所に1人1人墓所を確保するのが無理だった。そこで「q.深い溝を掘って、その中に新たに運ばれてきた死体を数百と投げ込んだ。遺体は積み重なって、層ごとにわずかな土を盛り、それを溝が一杯になるまで続けた」という

【安全な田舎への逃避】
 O.ボッカチオによると、散在する農場でも「a.農夫が身内の者と共に、医者の手当ても世話も受けずに、人間ではなくほとんど家畜のように死んでいった」「b.皆がしたい放題に暮らし、自分の仕事に構わなくなった」「c.家畜たちは気の向くままに、穀類が収穫されなかった畑をさまよい歩いた」という
 P.ボッカチオの記録は、経済史家によって他のデータと関連付けられた:「d.パン・ワインの価格は上がった(農業労働力が足らなくなったので)」「e.不動産価格は下がった(供給が需要を上回ったから)」「f.開拓されたばかりの農地は放棄された(人々は田舎から、荒廃した都市に移り住んだので)」
 Q.ペストが田舎に引き起こした被害にもかかわらず、ボッカチオは『デカメロン』において、田舎の安全な世界と、ペストによる大量死の跡が刻み込まれた都市とを対比させている。そこでは「新しいエゴイズム:他人の権利を侵害しない限り、自分の生命に執着する『自然の権利』」が登場している
 ☆そうしたエゴイズムとバランスを取るために、ボッカチオは「愛・慈悲・克己心などを義務として、やむを得ず賞賛していた」ようだ、という


(3)スケープゴードとしてのユダヤ人

 A・シュトラスブルクでも、黒死病がもたらしたのは上記のフィレンツェと変わらなかった:「a.特定の部位にできる腫瘍」「b.高い感染力(どこか1軒で死者が出たら、その家だけで終わることはまずない)」「c.あっという間の死」「d.高い死亡率(ここでら他都市より低かった)」「e.共同墓地or新しい墓地の設置」「f.死者の夜間家内放置&教会内埋葬の禁止」「g.だれも葬儀に参列しようとしない」「h.死体を墓場へ運ぶ、下層民出身の“運び屋”の登場(or運ぶために下男を雇う)」
 B.しかしこの都市では、ユダヤ人が「ユダヤ人墓地に置かれた木組みの上で火炙りにされた」(1349年2月14日)。ユダヤ人虐殺はライン河畔の他都市でも発生した。それらの場所では、ユダヤ人は「判決を受けて火刑に処された」「自ら火に飛び込んだ」という
 C.ペスト襲来以前から、ユダヤ人は繰り返し虐殺されていた。ほとんどは火刑,時には車裂き・生き埋め・溺殺刑・沼に沈めるなど「重罪を罰するための処刑法」によって殺された。彼らは「泉に毒を入れた、と告発された」「ホスチアを冒涜した」「儀式殺人を行った」など、濡れ衣を着せられたりするのはいつものことだった
 ⇒そうしたところに、ペストによって撒き散らされた恐怖・黒死病に対する恐れが重なり、人々の抑制力を(再び)取り去ってしまった

【当局の関与】
 D.都市当局は、ユダヤ人が激昂した群集の手に落ちるのを良しとしなかった-それは慈悲の心によるものではない-。最悪なのは「ユダヤ人が自宅に火を付けて自殺するのを看過し、それによって町全体が火の海になること」である(→実入りが少なくなる!)
 ⇒バーゼルでは「ライン川の小島にわざわざ小屋を造り、そこにユダヤ人を押し込めて火を付けた」。このような「効率的な」大量処刑法により、犠牲者たちはほとんど跡形もなく根絶された
 E.シュトラスブルクでは、激昂した(扇動された?)民衆と市参事会との間に対立があった、という。市参事会は「市の印章が押された保護条約を示した上で、罪の証拠を示す“正しい判決”を要求した」。これについて、何人かのユダヤ人は拷問されて「自白」したものの、泉に毒を入れたことは認めなかった
 ⇒ にもかかわらず火炙りにされた。この日は土曜日(=ユダヤ教の祝日)だったが、全く配慮されなかった
 F.ユダヤ人の抵抗はなく、彼らはたいてい「犠牲を自ら受け入れることによって、神の御名を高めようとした」
〈例〉コンスタンツでは、踊ったり詩篇を歌ったり涙にかきくれながら、火刑場へと引き立てられていったという

【動機について】
 G.このような大量虐殺を「神の御心にかなう行為」と称した者(例:帝国都市ノルトハウゼンに対してユダヤ人を殺すように要求した、マイセン辺境伯=テューリンゲン方伯フリードリヒ2世)は、さすがに僅かだった
 H.「泉への毒物混入」(シュトラスブルクでの主要訴因)は直接は関係ない。年代記作者は「キリスト教の洗礼を受けたユダヤ人が(十字軍時代にはそうであったように)助けられた」と記録している。しかしバーゼルでは「鞭打苦行者とペストが町にやって来た後に、洗礼を受けたユダヤ人も火炙りにされた」という
 I.キリスト教徒は「ユダヤ人が自分たち(キリスト教徒)の借金の"かた"or証書を差し出さないか」「ユダヤ人からの借金が棒引きにならないか」を、虎視眈々と狙っていた。ユダヤ人の家でゲットした現金は「市参事会が職人組合に対して(頭数に応じて)配分した」。上記年代記作者は「物質的な財産こそユダヤ人を殺した毒だった」と、さらりと記している
 ☆ユダヤ人虐殺から2世代後には、別の年代記作者が「もしユダヤ人が貧乏だったら、君主たちがユダヤ人に借金していなかったら、彼らは火炙りにはされなかっただろう」と記している
 J.しかし残虐行為によって得した者たちも、その直後からやましい気持ちを抱いていたらしい。何人かの職人は「自分の取り分を(聴罪司祭の勧めにしたがって)“聖母の御社”に寄進した」という
 ⇒それがシュトラスブルク大聖堂の建設資金の一部となっている!


(4)鞭打苦行団

 A.教会組織の外において、人々が救済を求める動きとしての「鞭打苦行」が繰り返されるようになる(12世紀~)。これは「男たち(後には女性・子供も)が、旗・十字架・蝋燭を持った者たちに守られながら、2列になって国中を行進し、人前で贖罪をする」というもの
 B.ペストが一段と多くの鞭打苦行団を呼び覚ました(14世紀半ば):「シュタイアーマルク(1348年9月)→ドイツ帝国全域を席巻した→ポーランド・オランダ・フランスとイングランドの一部で確認されている→突然終結した(1349年晩秋)」
〈例〉シュトラスブルクでは、最初に現れて(1349年7月8日)から、その後の四半期に相次いでやってきた

【活動内容】
 C.信心会として構成されていた鞭打苦行団は「a.贖罪をしたい者に対して、33日半(イエスの享年の数)の参加を義務付けていた」「b.行列,祈り(十字の形になるように腕を広げ、地に伏して行うことが多い),罪の告白と贖罪(鐘の音と共に野原に出て公に行う)が繰り返された」「c.針が編み込まれた革の鞭で、裸の背中と腹を血みどろになるまで打ち据える」「d.すると俗人の(!)師が、贖罪者の罪に赦免を与えた」
 D.さらに、贖罪が終わっていない者に対しては「悪魔がお前の腹に、硫黄・ピッチ・胆汁を注ぎ込むぞ」と脅した。それで「殺人者,追い剥ぎ,高利貸し,金曜日の断食を守らなかった者,日曜日の安息の掟を破った者」は、地獄で永遠の劫罰を受けるのでは、と恐れおののいた
 E.それから、1通の長い手紙が読み上げられた。それは天使が天上から運んできたものとされ「最近起こっている災害は全て世界の週末の予兆であるから、人々は回心しなければならない」といった内容だった。この“天の手紙”でも贖罪・日曜日の安息・金曜日の断食を勧めている。手紙では“地獄の民”であるユダヤ人は辛辣に皮肉られている
 F.苦行団の中で読み書きの出来る者は、この“手紙”を広めるべく力を注いだ。そして鐘が鳴り響く中、行列は再び市内に戻って、大聖堂で更なる祈祷を行った

【反応と実態】
 G.苦行団を取り巻く観衆は、これまでに見たこともないほど感涙にむせんでいた。さらに人々は旗・蝋燭を買おうと、お金を寄進したという
 H.しかし苦行者の中には、明らかな悪漢も混じっていた。「怠け者は親切なお宅に招かれて33日半も楽して暮らすために、行列に何度も加わった」「悪い者・前よりも悪くなった者は多かった」「真面目な者もいたが、多くはかった」という
 I.鞭打苦行団は人々に回心・贖罪を呼びかけていたが、人々が期待していたのは「ペスト禍から逃れること」だった。実際には「彼らの滞在期間中にも人は死に、彼らが去ると死人は減った」。つまり鞭打苦行団はかえってペスト蔓延を助長していたようだ
『中世の死』N・オーラーから[18]


○私闘と戦争


(1)中世の戦争と“平和”

 A.中世では何千人もの男子が戦死したものの、成年男子の死因の中で最多のものではない。直接戦争に参加する兵士の多くは「空腹,喉の渇き,疲労,病,事故」などによって、戦場に到達する前に亡くなった。男女バランスで見ると「妊娠期,産褥期における合併症による女性の死者数」とのバランスをもたらした

【戦争のきっかけ】
 B.戦争が始まるには「武装できる者が“自分たちの権利or名誉が傷付けられた”と感じる」だけで充分だった。喜んで戦争に参加する輩(下記☆に例)どもに対して、年代記作家(修道士,後には都市の市民)は嫌悪の情けを隠そうとしなかった
 ☆例:ベルトラン・デ・ボルン〔1140頃‐13世紀初頭〕は抒情詩人&戦士&策士であり、復讐・寝返り・略奪の機会は見逃さず、自分のために戦争を賛美した

【神の平和・ラント平和令】
 C.ゲルマン人は戦場で倒れた戦士を讃えた。キリスト教は国家宗教になってから、神学者たちは戦争を特定の条件下=「弱者保護のため,防衛のための戦争,正義を再構築するための戦争,正統信仰を外れた者に対する武力行使」では正しい、とした
 D.直接関係ない多くの人々を巻き込む戦争は「自然現象」と捉えられていた。ところで教会改革が進められる時代(10・11世紀)、自らの利益のために武力闘争に明け暮れる武装集団のボス・地方領主たちの振る舞いに、厳しい目が向けられ始める。彼らの行動を掣肘するために、ドイツ帝国統治下の地域だと「神の平和(11世紀末)」「ラント平和令(12世紀半ば)」が施行された
 ☆神の平和:1つ(or複数)の司教区に公布され「特定の時間:週後半の木曜日~日曜日,数々の祝祭期(待降節・四旬節・聖霊降臨祭など)」「集団:女性,修道士,農民など」「場所:教会,墓地など」を、教会の特別保護下に置く
 ☆ラント平和令:こちらも集団・アジール(保護地)を保護するもの。対象エリアは「ある支配者に平和維持が委ねられた国」となる
 E.神の平和が施行された時代には、ミサ典礼の冒頭に平和への願望が取り入れられた。神の子羊に対する呼びかけ(3回orそれ以上)には“我らを憐れみ給え”という祈願文が対応していたのだが、やがて(10・11世紀~)3回目の呼びかけの後に“我らに平和を与え給え”が続くようになる

【ルール?】
 F.戦争は主に、外なる敵に対して行われた。騎士と武装集団(ここには都市も含まれる)には私闘(フェーデ)が認められていた
 ☆フェーデ:決められた規則(確固とした理由,戦いの宣言など)にしたがって、武器を取って行われる正規の訴訟のこと。我が身に対して行われた(と感じた)不正は、相手に損害を与えることで償われた
 G.私闘・戦争ではリーダーとしての資質が問われるから、ごく幼い頃から計画的にトレーニングが行われた。そのメニューは狩猟(後には馬上槍試合)であり、どちらも娯楽と真剣勝負を兼ね備えていた
 H.戦争と「真剣での決闘」は、どちらも「神判」と見なされていた点が共通していた。どちらが正しいのか判断する手段が無い場合には「当事者2人が、多くの場合には生死をかけて、聖なる空間と見なされた決闘場に現れる」「どちらか一方が、降参or命を落とすことで、神の審判は下される」のだ。敗者は時には赦されることもあったが、多くの場合は殺された

【犠牲者-無防備な民衆-】
 I.民衆(とりわけ人口の大半を占める農民)は、戦闘の最大の犠牲者であった。彼らは「a.訓練も組織化もされていない」「b.農場&畑に縛り付けられている」「c.槍・剣を手にする権利も剥奪された(中世盛期~)」ので、身を守ることがほとんど出来なかった
 ⇒戦争が起こると農民は、家族&家畜(最も貴重な動産である)を守るために、森・墓地・隣町に逃げ込んだ
 J.都市は様々な防御(塁壁・壕・門・塔)を持ち、農村より守りは堅い。しかし焦土作戦や包囲戦によって危機に陥った。特に「何ヶ月もの包囲戦の挙げ句攻略された」or「憔悴しきって降伏を余儀なくされた」時などは、籠城側は待ち受ける運命を楽観視できなかった

【開城は悲惨】
 K.攻撃側の損害が大きければ大きいほど、籠城側は過酷な報復が与えられた。無条件降伏とは「婦女子は強姦される,町は(完全な破壊とまでは行かなくでも)数日間に渡る略奪を受ける」のだった。住民全員が虐殺されることも稀ではなかった(例:7歳までの幼児のみが命を助けられる)
 L.攻城側に慈悲の気持ちを起こさせるのは難しく、多くの者が死を選ぶのも無理はなかった。しかし歴史上、極めて例外的な自己犠牲も記録されている
〈例1〉女性の覚悟
 イスラム教徒によって包囲されたある十字軍の軍勢の陣営には、臨月間近のフランス王妃マルグリットもいた(1250年)
 出産の3日前に彼女は、夫であるルイ9世が捕らわれたという知らせを受けた。出産間際に彼女は、臣下である80歳の老騎士を呼び寄せ「イスラム教徒がこの町を占領した暁には、彼女が捕らえられる前にその首を切る」ことを、彼に誓約させた
〈例2〉無慈悲の例
 シュトラスブルク近郊にあったシュヴァーナウ(危険な盗賊の根城だった)が陥落した際には、籠城側は粘り強い交渉によって7人の命を助けられた。残りの48人(一説には53人)は斬首された(1333年)
 処刑人は犠牲者のうち2人に(「1/10税として」)恩赦を与えることができた。彼が選んだのは「害のない老人,まだ子供に過ぎない馬番」だった
〈例3〉歴史上の例外
 百年戦争の最中、11ヶ月の籠城の末にカレーは降伏を余儀なくされた(1347年)。他の住民たちを虐殺から救うために、6人の市民が処刑を覚悟でイングランド軍に赴いた。ところがイングランド軍は、都市も人質の6人も許した

【別離】
 M.戦争に行く者は誰しも、自分の生命を危険に晒すことを知っていた。それに呼応するように、出陣の儀式はドラマチックに行われた(文献にも近親者の悲しみが伝えられている)
〈例1〉十字軍その1
 テューリンゲン方伯エリーザベトは、夫ルートヴィヒの衣服に「十字軍参加を誓った証」=十字の印を見つけ、気を失った
〈例2〉王の出征
 フランスのルイ9世が重い病に倒れた時(1244年)のこと。看病している婦人の1人が「王はもうお亡くなりになった」と、その顔にシーツを被せようとした。するともう1人の婦人がそれを止め「王の魂はまだお体の中にある」と主張した。ところが婦人たちの争う声に、王は目を覚ました。母后の喜びは大きかった
 ところが、この予期せぬ回復を、ルイは奇蹟と受け取った。そして十字軍に参加することによって神に感謝を捧げることにしたが、それを知った母后は「まるで死んだ息子を目にしたかのように、深い悲しみに沈んだ」という
〈例3〉出征の前に
 ジョアンヴィルはルイ9世に従って十字軍に出発するに先立って「a.遺言を残して厳かに別れを告げた」「b.臣下の1人1人に対し、彼等が蒙ったかも知れない不正行為について許しを乞うた」
“主よ、私は海の向こうへ参ります。帰還の可否は分かりませぬ。私に不当に扱われたという者は、前へ出よ。償いをしよう”

【戦場での死】
 N.勝者は戦場で「a.神に感謝し、自軍の戦死者を讃えた」。一方で敗者が支払わねばならない代価は大きい=「b.勝者は武器・宝飾品・高価な衣装など(死者が身に着けているもの,敵陣にあったもの)を手に入れようとした」
〈例1〉惨い状態
 死者は「生まれたばかりの赤子のように裸で」戦場に横たわっていた(ある年代記作者による)
〈例2〉スイス軍に破れる・その1
 ブルゴーニュのシャルル突進侯(1477年1月5日に戦死)の遺体は、その2日後に「15人ほどの、ほとんど完全に身ぐるみを剥がされた死体に混じって」発見された。遺体は「顔の片方が氷にはまって凍っていて、もう片方は狼に喰われていた」「頭頂から顎までがハルバードの一撃で切り裂かれていた,胴体には槍でえぐられた穴が2つ開いていた」という
 O.ここで「c.従軍司祭が死者に罪の許しを与える(戦闘前の赦免を補う形となる),他に読み書き出来る者がいないなら死者の名を書き留める」。ちなみに報告される死傷者数は、数字にゼロが付けば付くほど疑わしくなる(特に敵方)。そして戦死者は地位・身分に従って葬られた
 ⇒「d.1兵卒は皆、その場で共同墓地に投げ込まれた」「e.身分ある者は近くの(修道院)教会に運ばれ、そこで厳かな死者ミサを挙げてもらった上で葬られた」。さらに「f.多くの遺体は後に(1年後も稀ではない)掘り出され、故郷に運ばれて永眠の地を得た」のだ
 ⇒「万が一死んでも鳥のエサにはならない,きちんとお清めされた土に葬られる」と、兵士たちは戦闘前に自らを納得させた。反対に「異国の地で腐っていく」と思っただけでも、誰しも身の毛がよだつのだった
〈例3〉スイス軍に破れる・その2
 ゼムパッハで戦死したオーストリア公レオポルト3世と騎士たち(1386年)は、ケーニヒスフェルデン(スイスのブルッグ近郊に、ハプスブルク家の墓所として建立されたフランチェスコ会修道院)に眠ったいる

【捕虜の運命】
 P.身分の低い捕虜たちは大量虐殺され、身代金を払える者だけが生き長らえることができた。ただし、復讐心が物欲に勝ることもあった
〈例〉首を引きずり回す
 ハッティンの戦い(1187年7月4日)では、十字軍の1隊がサラディン(サラーフッディーン)の軍勢の前に、前例ない程の大敗を喫した。捕虜の中に含まれていたトランス・ヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨンはサラディンから極めつけに憎まれており、彼は自ら剣を手にしてルノーの首を刎ねた
 それからサラディンは「その首をあらゆる町&城塞で引きずり回す」よう命じ、それは実行された


(2)キリスト教の戦争

【十字軍】
〈例〉戦闘前の激励
 レヒフェルトの戦い(955年)を前にしたオットー1世は、部下の戦士たちに「死ねば永遠の報いを,勝てばこの世での喜びを」約束したという。年代記では“これ以上ハンガリー人の恥ずべき帝国侵入を許すくらいなら、死んだ方がましだ”という台詞を与えられている
 A.ヨーロッパ全土を巻き込んだ十字軍熱を駆り立てたのは「永遠の報い&この世での戦利品」だった。元々は、聖地で巡礼者を(盗賊団の襲撃から)守ることのみを目的としていたが、第1回十字軍で既に「略奪・殺戮・征服のための遠征」へと姿を変えていた

【聖地への途上にて】
 B.イェルサレムへ向かう途上の略奪者の大群が、ライン・ドナウ河畔の諸都市でユダヤ教徒を皆殺しにした(1096年)
〈例〉マインツ
 この都市のユダヤ教徒は「司教による助力の誓い,高額な支払い,寄せ手(エミーヒョ伯とその部下)のために用意した他のユダヤ教徒宛て推薦状」などを頼りに、虐殺から逃れようとした
 しかし伯と部下たちは市内に乱入し「十字架で流されたキリストの血の復讐を行う」と宣言した(5月27日)。ユダヤ人たちは司教館の中庭に立て籠もったが、敵が戸口を占拠するのを阻止できなかった
 最終的には司教館内部に逃げ込んだ人々が、自ら死を選んだ(「婦人たちは死出の旅支度をし、息子や娘を殺すと己の命も絶った。男たちは腹ごしらえをすると妻・子・奉公人を殺した…」)
 略奪者たちは「殺された者を身ぐるみ剥いで窓から投げ捨てた。死体は山のようにうずたかく積まれた」。多くの者には「また息があったが、新たに何度も剣で突かれてとどめを刺された」
 C.十字軍兵士たちはイェルサレム占領(1099年)後に市民(イスラム教徒・ユダヤ教徒のみならずキリスト教徒をも)を虐殺した

【死ねば殉教者】
 D.クレルモン公会議(1095年)では、十字軍参加によって「教会が科した贖罪刑(例:共同体からの一時的追放)の免除をもたらすだけだ」と明確に告知していた。ところが、それがあっという間に「免罪の約束」へと変わっていったのだった。シャルトル司教イヴォ(その著作が世論に影響を与えた)は「サラセン人との戦いで命を落とした者は、天国に迎え入れられる」と明言した
 E.教皇ウルバヌス2世は十字軍と共に「神の平和」を布告した(1096年)。そこでは「盗賊→神の戦士(Christi milites)となる」「同族同士争っていた者→正当な権利として野蛮な輩と戦う」「傭兵となり金を手に入れた→永遠の報いを手に入れる」「最悪の行いに走った者→2重の栄誉のために戦う」べきである、と言った
 F.『ロランの歌』の内容は、十字軍熱の産物なのか、逆に十字軍熱を誘発したのかは判断できない。それは「シャルルマーニュとその甥ロランが、スペイン北部でイスラム教徒相手に戦う遠征で、敵対する者は悪魔の烙印を押される」というもの。作中ではありとあらゆる敵性プロパガンダが用いられている:
「a.そこでは、互いに対峙しているのは(戦士たちではなく)世界観と宗教そのものだった」「b.悪魔はサラセン人の魂を地獄へさらっていく」「c.天使たちが戦場で倒れたフランク人を天国に連れて行く」「d.そこで彼らは、無垢な子供たちと共に永遠の至福を楽しむ」
 ☆作中での大司教トゥルパンが味方を鼓舞する台詞:“さあ、罪劫を懺悔して神に祈ろう!君たちの霊を救うためにお清めしよう。死ねば殉教者となり、尊い天国に席を得られるだろう”

【異端迫害】
 G.第4ラテラノ公会議(1215年:公会議としては通算12回目)は、異端者に対する戦いを「不信心者と異教徒に対する戦い」と同列に位置付けた。異端撲滅のために戦う者は、聖地を守るために旅立った者(=十字軍兵士)と同じ特権を得られる、というのだ
 H.ところがこの宣言は、福音書の文言を完全に無視したものであった。『マタイによる福音書』では、現世での異端撲滅などを奨励していないどころか、それは世界の終わりの時に神の御使いによって行われるもの、とされているようだ。加えて使徒パウロも「様々な意見があることが救済には不可欠だ」と述べている!
 J.このラテラノ公会議の宣言にはもちろん伏線があった。教皇インノケンティウス3世は(異教徒ではなく)、ヨーロッパのキリスト教徒に対する「聖戦思想」を適用していた(1209年)のだ。それがアルビジョワ十字軍である

【悪名高きベジエ攻略(1209年)】
1.「現実的に危機を判断した町の司教は『自分のリストに載っている222人の異端者を、近づいてくる十字軍に引き渡す』ことを進言したが、1人のコンスルがこれを拒否した」
2.「攻囲軍は(町から逃げ出した者たちによって)『ベジエでは正統信仰者も異端信仰者も共に暮らしている』ことを知り、これからの行動に関して意見が分かれた」
3.「宗教顧問としてこの遠征を指揮していたシトー修道院長アルノー・アマルリックにお伺いが立てられた。異端が正統信仰を装って攻撃の手を逃れるのを恐れていたのだった」
4.「ここで修道院長は『容赦なく打ち倒せ』と命じたので、正統信仰の者も含めて殺されたと伝えられている」
 ⇒しかし実際には、修道院長の言葉を伝えた人物(ハイステルバッハのカエサリウス)は戦場から遠く離れた場所にいたので、その信憑性は疑わしいと言える
5.「ただしその背後には、何らかの事実があったと考えられる。少なくともアルノー・アマルリックは以前からアルビ派の武力討伐を主張していたし、南フランスの教会関係者・十字軍騎士たちの心情も、アルビ派討伐に伴い正統信仰者が巻き添えを食うのを容認していたと思われる」
 ⇒そうすることによって「計画的に恐怖を広め、恐ろしい見せしめを行って、反抗の気力を打ち砕く」ことを企図した
6.「ベジエっは死者ミサのように鐘が鳴り響く中、約7,000人が大聖堂や聖マグダレーナ教会へ逃げ込んでいた。教会の庇護権は(イェルサレム〔1099年7月10日〕と同じく)全く顧慮されなかった。聖職者・婦人・子供の誰もが殺され、1人として助からなかった」
『中世の死』N・オーラーから[17]


(4)殺人に関連して

 A.正当防衛は(たとえ襲撃者が死んだとしても)無罪とされた。しかしそのためには「行為の一切を速やかに公にして、全容解明のために必要なこと全てを行う」必要があった
 B.突然の死に襲われた者と同じく、殺人の被害者は死を迎えるに相応しい準備ができなかった→「臨終の際の告解・聖体拝領・とりなしの祈りが無いまま、神の審判に向かわねばならない」という大変な不都合が生じる。そのため殺害者には、さらなる贖罪が言い渡されることが多かった
〈例〉道行く人に「神が被害者の魂に御慈悲を下さるよう」に祈ってもらえるように、犯行現場に贖罪の十字架を立てる
 ☆身分の高い人の場合には、もっと程度の高い贖罪が必要だと感じていた(例:修道院の建立)
 C.人を殺す理由は様々で、中には極めて特異なものも存在した
〈例〉グントラムン王の妃アウストリギルデは「医師たちが自分の死を早めた」と恨んで、夫である王に「自分が死んだらすぐさま医師たちの首を刎ねる」と誓わせた→誓いは実行された

【権力による殺害と抑止】
 D.カール大帝は10年もの苦しい戦いの末にザクセン人を屈服させた。そしてキリスト教に改宗させるべく「教会に力ずくで押し入った者,教会に火を放った者,“キリスト教を愚弄するために”断食を破った者,司教・司祭・助祭を殺した者,魔法使い・魔女の肉を喰らった者,死者を火葬した者」などを死刑に処した
 E.その他に「a.審理は極めて短期間で終わることが多かった」「b.決闘裁判で負けた側は縛り首になった」「c.条約遵守の担保として差し出された人質たちは、情け容赦なく殺された」「d.国境地帯でスパイの嫌疑をかけられ、首をくくられたケースもあった」
 F.中世では復讐は(法的措置として)広く認められていた。しかし復讐は治安を乱すし、復讐の連鎖が数世代に及ぶこともある→聖俗の権力はこれを食い止めようと努力した
 ☆「賠償金の取り決め」「庇護権(アジール)」がきっかけとなって、血で血を洗う抗争を繰り広げる氏族同士の交渉が始まったりする


(5)処刑方法について

【注意すべき点】
「a.1つの犯罪が何種類もの罰によって報いられた(a.~z.のリストでは、最多で4種類対応している」
「b.死刑はたいてい、斬首・絞首・車裂き・火炙り・(車裂き+火炙り)のいずれかによって執行された」
「c.女性が絞首刑になるのは珍しい。普通は溺死・生き埋め・火炙りのいずれかによった」
「d.処刑方法の多くは罪状を反映する」
〈例〉偽証罪→舌を引き抜かれる,誓いを立てた手を切断される,子供を溺れ死にさせた女性→溺殺刑
「e.時代・場所・被告の性別によって、多様な証言が伝えられている」

【斬首刑】
 A.斬首は“名誉ある”死とされた。絞首刑だと自分自身&子孫が恥辱にまみれるので、それを恐れた者は恩赦が得られるように手を尽くした。死が免れ得ないのなら「せめて絞首台ではなく、剣の1振りで殺してくれるよう」頼んだ
 B.盗賊騎士は「騎士」という地位から、基本的には“名誉ある”斬首刑に処せられるのだが、同業者に対する見せしめを最大の理由として“不名誉な”絞首刑にされることもあった
 C.殉教者の最期を伝える図像・テクストには「跪き・背を伸ばし・手も縛られずに、泰然として剣が振り下ろされるのを待つ姿」が描かれる。「死刑執行人の手下は手持ち無沙汰の様子」である
〈例1〉ナポリ(1268年10月29日)
 後にメルカト広場となる場所で、皇帝フリードリヒ2世の最後の孫コンラーディンが、シャルル・ダンジューの差し金によって何人かの忠実な部下とともに斬首された。コンラーディンは16歳半(当時の刑法で成年と認められるのは12歳~)
〈例2〉ローマ(1354年8月29日)
 カピトリーノの丘で元ヨハネ騎士団修道院長フラ・モンレアーレが処刑された。彼は同時代人からカエサルになぞらえられ、イタリアで最も有力な人物へとのし上がり、配下の武装兵をヴェネツィアに貸与したほどだった。しかしコーラ・ディ・リエンツォの仕掛けた罠にうかうかとはまってしまったのだ(しかしそのコーラ自身もその後間もなく、処刑場から程遠くない場所で不名誉な死を遂げた)
 モンレアーレは悪事を悔いはしなかったが、拷問と恥ずべき処刑法を恐れた。「茶色に金の縁取りを施した高価なビロード」に身を包んだ彼は、弔鐘を聞いて丘に集まったローマの人々に軽蔑のこもった眼差しを向けた。そして「自分が剣で処刑される」のを知って胸をなで下ろした
 首切り台の前に跪いた彼は、2・3度座り直して、ようやくちょうど良い位置を見つけると、侍医を呼んで「剣を打ち下ろすべき場所」を死刑執行人に教えさせた。最初の1振りで首は落ちた

【溺殺刑】
 D.これが適用されたのは身分の高い女性で、罪状は「子殺し,窃盗など」だった:「a.死刑囚は手足を縛られて水に投げ込まれた」「b.息絶えるまでに処刑人が、熊手・棹を使って水中に押さえつけることもあった」「c.刑をいっそう苦しいものにする方法もあった」→「死刑囚を犬or蛇(orその両方)と共に袋に入れ、それから水に投げ込む」
〈例3〉シャロン=シュル=ソーヌ
 ロタール1世はシャロン攻略時、町に火を放ち貴族を処刑させた。彼は敵の姉妹にあたる修道女を「樽に入れ、ソーヌ川に投げ込んで溺死させた」
〈例4〉ドナウ川(1435年10月12日)
 アグネス・ベルナウアーがバイエルン=ミュンヘン公国のエルンスト公によって溺死させられた
 彼女はアウクスブルクで湯女として働いていたが、公国の王子アルプレヒト3世に見初められた。これ自体は貴族社会ではありがちなことで、たとえ関係が長続きしても理解を得られたのだが、この場合「秘密裏であっても、アルプレヒトが身分違いの相手と結婚してしまった」→許容されうる一線を越えてしまった!
 エルンスト公は「この結婚が、自分の子孫による公国の維持に重大な支障となる」と考え、公はアグネスをシュトラウビンク近郊でドナウ川に突き落とした(ひょっとしたら「恋の魔法をかけた」と弾劾したかもしれない)
 このうら若き女性の美しさ・彼女の哀れな死の記憶は、民謡に歌い継がれた。シュトラウビンクの聖ペトロ墓地にある“ベルナウアー礼拝堂”は、エルンスト公が贖罪のために寄進したものである
 ★政治的犯罪が後から「見せ物的やり方」で償われるのは、これ以前にも以降にもあった

【絞首刑】
 E.窃盗犯は主に絞首刑に処せられた。「a.執行には木と縄があればこと足りた」「b.斬首刑になった者は普通は立派な墓に葬られるが、絞首刑になった者は何ヶ月もの間、絞首台に吊されたままになることも多かった」「c.遺体は徐々に腐敗してボロボロと崩れ落ちるが、これも刑の一部だった」「d.したがって、身内の者がコッソリと遺体を絞首台から下ろすのは禁じられていた」「e.遺体は墓地ではなく、絞首台の下に穴を掘って埋められた」
〈例〉アウクスブルクでそのような穴を掘り返すと、処刑された250人の頭蓋骨が見つかった。その時絞首台にはまだ32人もの泥棒が吊されていた(1471年)
 F.刑の執行方法は様々だった。「f.梯子から受刑者が突き落とされると、しっかりと結ばれた輪の中に入った首の骨はあっという間に折れ、死は瞬時に訪れる」「g.首に縄を掛けてゆっくりと釣り上げると、受刑者は苦しんだ挙げ句に死を迎える」「h.一番きついのは足を縛って逆さまに吊る方法で、断末魔の苦しみは数日に及ぶこともあった」
 G.恥ずべき絞首刑の中でも「i.他の犯罪者よりも一段高い位置に吊される名誉」が、刑場で土壇場に与えられる。逆に「j.犬と一緒に吊られる(ユダヤ人はよくこの目に遭った)」と恥辱は倍増した

【生き埋めの刑】
 H.犯罪者がゆっくりと窒息死させられるこの刑について:「a.対象は主に女性」「b.罪状は殺人など」「c.男性がこの刑に処せられるのは『境界線の破棄or無断移動に対する反映刑』としてである」「d.獣姦罪の場合には、使われた動物も一緒に埋められた」「e.雇われ暗殺者・身内殺し犯は、穴に逆立ちにして入れられた」
〈例5〉奴隷の生き埋め(6世紀末)
 ラウキング公が所有する奴隷の中に、愛し合う若い男女がいた(これはよくあること)。「奴隷の身分同士の結婚は決して許されないだろう」と考えた2人は、教会に逃げ込んだ
 公は本心を偽って、司祭の前で手を祭壇にのせて「2人を永遠に結ばせる」ことを誓ったにもかかわらず、2人を取り戻すや否や「墓穴と棺を用意させ、棺の中に死体のように女を横たえ、その上に男を乗せた」→「蓋が閉められ、土が掛けられて、2人は生きながら埋葬された」
 司祭はこの極悪非道を知ると、すぐに墓を開けさせた。男はまだ生きていたが女は窒息死していた
 ☆法的には「奴隷は物」なので、公の行いに異議は唱えられない。しかも「永遠に結ばせる」という誓いを破ってはいない!

【串刺しの刑】
 I.古代には「地面に垂直に立てた杭に生きながら串刺しにされる」という方法を採った。しかし中世では「1.犯罪者は絞首台の下に掘られた穴に、手足を縛られて横たえられた」→「2.口に筒を差し込まれた場合もある(呼吸用ではなく、魂が肉体を去るための出口)」→「3.穴が埋められると、先の尖った杭が地面とその下の死刑囚めがけて打ち込まれた」。この方法は苦しみを早く終わらせ、また蘇生を防ぐためでもある
 J.子殺し・強姦がこの刑によって殺される場合があった。後者の場合には「被害者の女性に最初の杭打ちをする権利が与えられ」その後は死刑執行人に任された

【車裂きの刑】
 K.この処刑方法は「a.古代ゲルマン時代から18世紀まで好まれた」「b.最も恥辱的で不名誉である」「c.途方もない苦しみを伴う」「d.適用された罪:殺人,辻強盗,不敬罪」であった
 L.手順として「1.犯罪者はまず地面に横たえられ、手足の特定部位が剥き出しになるように固定される」→「2.死刑執行人は決められた数の幅を持つ新品の車輪で、決められた順番を守りながら四肢を砕いていく」→「3.この時、死刑囚が失神しないよう、また息絶えぬように注意が払われる」(∵この後に第2の、より長い苦悶が始まるから)→「4.骨が砕かれて肉・筋でぶら下がっている死刑囚の手足は、引き延ばされて車輪にくくりつけられる」→「5.車輪は死刑囚ごと高い柱の上に水平にして載せられ、死刑囚はそこで死が苦痛から救ってくれるのを待つ」→「6.(絞首刑と同じく)遺体は数ヶ月の間、車輪上に放置されて鳥のついばむに任せられる」
 M.死刑囚に温情が与えられる場合もあり「e.首の辺りに下される最初の一撃で息の根を止められる」or「f.先に斬首・絞首される」or「g.死刑執行人の(場合によっては秘かな)心臓への一刺しで、長引く苦しみを免れる」のだった。逆に刑をより過酷にする場合もある:「h.死刑囚を刑場まで馬で引きずっていく」or「i.死刑執行人が胸・腕・腰の予め決められた箇所を、灼熱した鉗子で引き裂く」

【釜茹での刑】
 N.詐欺師・偽造者・異端者は「湯・油・ワインでの釜茹で」にされた
〈例6〉ケルン(1474年6月28日)
 7人の司教が(祭壇or教会の聖別式でもあるかのように)正装してケルンに集まった。大聖堂中庭において、彼らは1人の司祭を「a.度重なる詐欺・その他悪行ゆえに聖職剥奪」したのだ。この司祭は「b.長年告解を行わないにもかかわらず、ミサを挙げていた」。彼は「c.懺悔なしで、銅製の釜の中で茹で殺された」のだ(これは地獄の責め苦を先取りした、と言われた)
 このような恥辱的な処刑は、聖職者であろうと容赦されなかった
 ★ただし聖職者に対しては「短期裁決が許されない」=「教会裁判を受ける権利を有していた」。これによって聖職者は、とりあえず死刑執行人の手を逃れることができた。教会裁判が「複数回の審理,(結局は徒労に終わる)教皇への訴え」などを経て被告を釈放して、初めて世俗の司直は行動を起こせた

【火炙りの刑】
 O.もうもうと煙を上げる薪の山のイメージが強いこの刑は、近世になってからの方が執行件数は多かった
「執行対象者:魔女・異端者・妖術使いだと“立証された”者,放火犯,偽造師,(女性の)殺人者,裏切り者など」
 P.(呪術的には)「火が犯罪者&犯罪に関係した者を焼き尽くすことで、大地は再び浄化される。悪行は煙となって追い払われる」と考えられた。このためとりわけ魔女については「風通しのよい高台で火炙りにされた」「残された灰はまだ危険と考えられたので、川に撒いて流した」
 Q.異端者は組織的に迫害され、何千人も火刑に処された。一方で卑しい物欲のために、異端の疑いを掛けられることがままあった
〈例7〉テンプル騎士修道会は財産をフランス国王フィリップ4世に狙われ、法的根拠を全く欠いた「拷問による自白の強要→火刑」により殺された(1307年)
[※ヤン・フスとジャンヌ・ダルクの火刑については省略]

【四つ裂きの刑】
 S.この刑でも、死刑囚の苦痛を引き延ばす措置がなされ、生きながらに切り刻まれた者は、苦しみに悶えながら死んだ
〈例8〉フランク王国(613年)
 辣腕を振るっていた王妃ブルニヒルトは捕らえられると、3日間の拷問を受けた後、ラクダに乗せて軍中を引き回された(これはビザンティンで敵の名誉を剥奪するやり方だった)。彼女の最期を伝えるある記録によると「彼女の髪・片足・片手が1頭の荒馬の尻尾に繋がれ、蹄に踏みしだかれ、引きずり回されて散り散りになった」という。別の記録では「荒れ狂う数頭の馬の足に繋がれ、四肢が飛び散って死んだ。遺体は燃やされた」という


(6)死刑執行に関連して

【複数刑の執行】
 A.1人の犯罪者が死刑に相当する罪を幾つか犯していた場合、複数の刑が執行されることも多かった(例:泥棒として絞首刑,偽造師として火刑)。これは、当時の人々にとって「様々な罪に問われた犯罪者が1回の処刑で済むのは不当だ」と思われたから
 ☆とはいっても「斬首+4つ裂き」の場合には、先に首を斬られてから4つ裂きにされるので、少しは寛大な措置になった
〈例8〉ブレシア(1311年)
 皇帝ハインリヒ7世は、皇帝戴冠のためのローマ行軍途上にこの都市を包囲したが、多くの部下と時間を失った。ある日、囲みを破って出撃してきた籠城軍の指揮官テオバルドが皇帝軍の捕虜となった
 ハインリヒはテオバルドにブレシア市民との仲介を頼んだが、彼は逆に牢獄から抵抗を呼び掛けたので、裁判が始まった:
「大逆罪:生きながら牛革に縫い付けて陣中を引き回した上で絞首」+「多数の人間の死を引き起こした罪:斬首」+「その他の罪:内臓を焼いた上で4つ裂き」+「四肢を車輪に縛り付けて晒し刑」
 ★テオバルドが裸で杭に縛り付けられている場面を描いた連作画があるが、裸であることがすでに辱めであった

【目潰しへの減刑】
 B.寛大な権力者だと、敵に死刑を宣告してから恩赦を与えた。普通は「終身の修道院預かりを条件に、死刑を免除された」のだが、被告を終生権力から遠ざけるために更なる措置が取られた
〈例9〉フランク王国(873年)
 カール禿頭王の息子カールマンは聖職者の道を歩むように決められていたが、政治的な混乱(9世紀末)に乗じて仲間を集め、世俗の権力を握ろうとした
 その行状のため、彼には死刑が宣告されたが“贖罪の機会・時間を与え、なおかつかつて企てたような悪事を犯さぬように減刑するため”に、目が潰された
 目を潰された者はたいていその後すぐに亡くなったが、カールマンは約3年間命長らえた

【処刑という見せ物】
 C.処刑は度々「祭りのように準備され、誰も(老いも若きも・貴族も平民も・聖職者も俗人も)がこぞって見に来るようになった」(中世後期~)。死刑囚が主役として自分の死を演出してくれると(例:フラ・モンレアーレ)ますます良い見せ物となった
 D.多くの都市は、死刑執行のショーを演出する権利を買い取った。人々が(刑吏の仕事の邪魔をすることなく)よく見物できるように、刑場には処刑台が設けられて、たいてい布が張り巡らされた。だから十分なスペースは必須だった
「1.鐘の音に誘われて人々が出てくる頃には、罪人は告解&聖体拝領を済ませていた」→
「2.豪華な職務服(まるで祝祭の行列のよう)に身を包んだ有力者たち・裁判官・参審人・罪人・司祭(托鉢修道会士の場合も)・刑吏・その助手が、厳かに刑場へ進む」→
「3.蝋燭(普通に死ぬのと同じように置かれた)・見えるように置かれた棺があるのを目にして、多くの罪人は気力を失う」→
「4.拷問・拘禁で心身がボロボロになっていれば尚更であり、その場合には処刑台の階段を登る手助けが必要だった」→
「5.壇上では刑吏・助手・公の証人が待っていた。(恩恵が拒否されていなければ)聴罪司祭が磔刑像を手に、毅然として名誉ある振る舞いをするように促す」→
「6.この時点では、自白して『教唆者・共犯者の名を告げる,不当に捕らわれている者の疑いを晴らす』時間がまだ残されている」→
「7.トランペットの音が『有罪判決読み上げ』の時を告げると、罪人は観衆に対して『この刑罰を自業自得として受ける』or『自分は無実である』などと訴える。そして『自分は正統信仰を持つ者である』と強調し、皆に『神へのとりなし』を頼んだ」→
「8.助手が襟をはだける。刑吏はこれからしなければならない事に関して、許しを乞う。罪人は跪き、聴罪司祭も傍らに控える」→
「9.刑吏(たいてい仮面を付けている:中世後期~)は剣を振り下ろし、頭は胴体から切り落とされる。遺体は用意した棺に入れられ、墓地に埋葬された」
 E.全てが規則通りに執行されると「正義が取り戻された」と感じて、興奮した群集は落ち着きを取り戻し、勝訴した側は枕を高くして眠れるのだった

【死刑執行人(拷問も行う)】
 F.ドイツで死刑執行人が最初に記録に登場するのはアウクスブルク(1276年)だが、それ以前から死刑を執行する専門家はいた。彼らは大型家畜の畜殺に携わっていたことから“肉屋”と呼ばれた
 G.期待に満ちた群衆は、首が一刀両断にされれば拍手喝采をしようと待ち構えていた。そのための技術は必要不可欠なので、求職時に腕前を証明しなければならない。「1回で首を刎ねるのに失敗し、死刑囚を苦しませた下手くそ」は、群衆のリンチを覚悟しなければならなかった
 H.少なからぬ数の死刑囚が長年に渡って職務を務め、さらに1日に幾つもの刑を執行した(最多記録はベルンの死刑執行人が、兵士72名を一度に処刑した)。そして都市では、年ごとに何人もの人間が処刑されている
 ★ただし専属の死刑執行人を雇える都市は少なく、場合によっては他都市から借りてきた
〈例〉フランクフルト:135人(1366~1400年),ブレスラウ:454人(1456~1525年)。後者の内訳は「絞首刑:251,斬首刑:103,車裂きの刑:25,火刑:39,溺殺刑:31,生き埋め刑:3,四つ裂き:2」だった
 I.死刑執行人は労働&経費(例:梯子,縄)に対して、他の市の職人と同様に報酬を得ていた:「a.現物支給・薪・市所有の牧場(or果樹園)の使用権、などが多い」「b.処刑の1つ1つに対して報酬が支払われた」「c.罪人の衣服が与えられるのは多かったか、所持金はそう簡単にはいかなかった」
 J.彼らは「神の秩序&司法を守る道具」として高い評価を受けていたが、後には卑しい職業の1つとされるようになった→「人々は彼だけでなく、その妻子とも交わりを避けた」

【最後の瞬間の恩赦の例】
「a.大量処刑の場合、死刑執行人は(時に)10人に1人の罪人を助けてやることが許された」
「b.戦争時には、仲間を処刑することを条件に、1人or複数の捕虜が解放された」
「c.死刑執行人は、罪を犯した女性に結婚を申し込むことができ、それを承諾すれば彼女には恩赦が与えられた」→「d.しかし女性の多くは死を選んだ(不名誉は甘受できない!)」
「e.『神の審判』と解釈されたアクシデントも、恩赦をもたらした」→「f.この場合には終身の追放刑などに処せられた」
〈例〉絞首刑の歳に縄が切れる,同じく木の枝が折れる,絞首台が壊れる,斬首した剣が逸れる