『ワインの文化史』ジルベール・ガリエから[1]


○ブドウ栽培を守った人たち
 [大修道院長,司教,王侯貴族]


(1)蛮族とブドウ畑とワイン

 A.ゲルマン民族の怒涛のような大移動(5~6世紀)に晒されても、ガリアでのブドウ栽培は完全に途絶えなかった
〈大移動の内訳〉
「1.サリ・フランク人やライン・フランク人(リプアリア族)のように、ローマと同盟関係を結んでローマの文化に一部同化した」者たち。「2.アラン人やスエビ人や(特に)ヴァンダル人のように、足早にガリアを駆け抜けた」者たち。「3.ブルグンド人や西ゴート人のように、ガリアに定着した」部族
 B.彼らは通常「a.水・乳・セルヴォワーズ(大麦などを原料とするビールの祖先)を飲んだ」。しかし「b.ワインも飲み、酒蔵を空にしてもブドウ畑には手を出さなかった」という。侵入者たちは「c.ワイン生産者から(身代金代わりに)ワインを分捕った」

【ヴァイキング】
 C.侵略を繰り返した彼ら北方ゲルマン人の場合。「d.祝勝の宴・死者を称える宴で飲む大量のワインを分捕った」「e.宴席では、青銅製の杯・牛の角に金銀で象眼した杯で飲み回した。女性も共に飲んだ」「f.死んだ首領の供としてあの世へ旅立たせられる女召使いにも、最後の情けとしてほろ酔い気分を味わう機会が与えられた」
〈略奪例1〉
 セーヌ川からヨンヌ川へと遡ったヴァイキングはオセールに達したが、酒蔵が空だったので帰途にパリのサン=ドニ修道院の酒蔵を荒らした(865年)
〈略奪例2〉
 シャルル禿頭王は「ワイン,小麦,銀貨4,000リーヴルを差し出す」ことで、ヴァイキングの来襲を思いとどまらせることができた(866年)
 D.大西洋を渡ったヴァイキングは、現在のニューファンドランド島北西部に上陸した(11世紀初頭)。たわわに実った野生ブドウを発見した彼らはワインを作り、そこを“ヴィンランド(ブドウの国)”と名付けた


(2)高徳の司教のブドウ畑

 A.キリスト教の聖職者にとってもワインは、大きな象徴的意味を有するものとなった。(ローマ帝国崩壊前において)初期の司教のほとんどは「ガリアでワインを嗜み、ブドウ畑の保護に注力していた」貴族階級出身だったので、自ら率先してブドウ栽培に取り組んだ
 B.その後メロヴィング期・カロリング期を通じて、司教はブドウを維持し続けた。猫の額ほどでも土地が空いていれば(司教館の中でも城壁の直下でも)、都市内部でブドウ畑を開いた。ブドウ栽培に尽力した司教の名を挙げればキリがない
〈例1〉聖メダルドゥス(6世紀)は、ノワイヨン(ピカルディー地方)を司教座都市として選んだ。理由は「この地がブドウ栽培に適している」「ワインを運ぶオワーズ川の水運に恵まれている」から
〈例2〉リヨン大司教レイドラディウス(バイエルン出身)とアゴバルドゥス(スペイン出身)は、サン=ジャン教会とサン=テティエンヌ教会の改修費&司教館の建設費を、ワインを売ってまかなった
〈例3〉カオール司教デシデリウス(在任630~655年)は、カオールを中心とするケルシー地方とアルビ一帯に88もの荘園を有し、うち20ばかりでブドウを栽培していた

【ワインが必要な理由】
 1.「信者の聖体拝領に大量に用いた(~13世紀)」。教会は聖職者だけでなく、一般信徒にも広く「パンとワインの両形態により聖体の秘蹟」を授けていた
 2.「巡礼・旅人を受け入れ、病人に救いの手を差し伸べるのも教会・修道院の役目だった」。ここでもワインは消費された
 3.「王侯貴族・皇帝が司教館に旅の宿を求めることが多くなり、もてなしのためにワインを用意する必要があった」。修道院には「酒蔵の管理を任された修道士が存在する」ようになり、彼は客のために司教のとっておきのワインを選んで用意した

【司教座とワイン】
 D.上記のような用途に充てて残ったワインは販売された。つまり司教こそが、中世都市に現れた(7世紀)最初のワイン商人だった
 E.司教の職務を補佐したのは司教座聖堂参事会である。「a.司教座聖堂ごとに聖職者からなる参事会が置かれる」「b.参事会員は修道院的な共同生活を送る」ことが定められた(アーヘンの教会会議:816年)。このために「c.司教座聖堂の隣には修道院が建てられ、そこには必ず酒蔵が備わっていた」。そして「d.多方面からブドウ畑が寄進されたので、聖堂参事会は大所有者となっていった」
〈例〉リヨンの丘は、3つの司教座聖堂参事会(サン=ジャン,サン=ジュスト,サン=ポール)のブドウ畑で覆い尽くされた。やがて畑は、同市北郊のモン・ドールの斜面にまで広がる(11世紀)


(3)高徳の大修道院長のブドウ畑

 A.修道士は(世俗の風刺文学にずっと描かれてきたような)飲んだくれでもなければ、禁欲生活の慰めを酒に求めたわけでもない。このようなイメージは、近世以降の反宗教的気運の中で誇張されてしまったものである
 B.司教とともに、修道士も「ブドウ畑の保護・開発に努め、そのワインを活用した」。その表れとして、西洋の修道院創設期(6世紀)に関する諸「伝説」の中に、ブドウとワインが大きな位置を占めている
〈例1〉
 聖ベネディクトゥス(修道院でのワインの飲み方を始めて規定した)は、自らの修道院の畑を東ゴート族の略奪から守った、という
〈例2〉
 聖マルティヌス(ポワティエ近郊のリギュジェやトゥール近郊のマムルティエに修道院を設立)は、この地域のブドウ栽培の草分けだった。彼の食いしん坊のロバがブドウの新芽を食べたおかげで、ブドウを短く低く剪定することの利点が知られるようになった、という

【ベネディクトゥスの会則とワイン】
 C.この修道生活の規則は、イタリアからイングランドへ(7世紀)、さらにゲルマニアへ(8世紀)と広まった。さらにマインツ(813年)とアーヘン(816年)の教会会議を経て、カロリング帝国全域で採用されるようになった
 D.73章からなる会則には『酒の飲み方について』という1章があり、そこには「酒は慎むにこしたことはないが、常にそうもいかないから、水をむさぼり飲むくらいなら必要に応じてワインを少し飲む方がましだ」とされている
 E.修道院の日々の肉体労働のきつさが酒を必要としたので、修道士には「a.1日につき1ヘミナ(=約270ml)のワイン」が認められていた。これは最低量で「b.伐採・開墾・耕作などの力仕事をした日には、当然追加されることもあった」
 F.他には「c.普段の食事がつましい分、宴会の機会を増やすとよい」と聖ベネディクトゥスはアドバイスしている。これによって「d.聖俗の大きな祝祭日には、肉・ワインがふんだんに食卓に並び、修道士に慰めと力の源をもたらした」のだ。規則は禁欲を重んじたが、それを極端に厳格には要求しなかった!
 ★年間平均で150日の宴会日=「“主の日”である日曜日,各地に共通した主要な聖人の祝日,土地ごとの聖人の祝日,王族の結婚・誕生,戴冠式,司教や王侯貴族の訪問・逗留」があった、という

【修道院でのワイン消費】
 G.次の収穫を控えた8月・9月、残っているワインは酸っぱくなっていても捨てたりはしなかった。酒蔵担当の修道士が、蜂蜜・セージの粉末を加えて誤魔化し、修道士・助修士に分配したのだ
 H.規則の適用は大修道院長ごとに(or状況によって)まちまちだった。寛大だった時期(9~10世紀)の後に、クリュニー大修道院と(次いで)シトー大修道院によって「禁欲を旨とする」修道院改革運動が推進され(11世紀~)、ワインの個人割り当て量は減った
 I.修道院には多量のワインが必要だった:「院内での消費,聖体拝領に頻繁に用いる,病人・老人に飲ませる,訪れた巡礼・旅人に売る」。一方で供給サイドでは「所領外でのワイン販売,物々交換」が、修道院の自給自足体制を支えた
 ☆大修道院の建設に先立って「まずブドウを栽培する」→「それが成功してから建設に着手する」例は少なくない

【ブドウ栽培・ワイン生産の拡大】
 A.ラングドック地方沿岸部:アニアーヌの聖ベネディクトゥス(750~821年頃)と仲間の力で、ブドウ栽培が大きく発展した。ベネディクトゥスたちはこの地域にベネディクト会修道院を次々に建てた
 B.ロワール川流域:河口に位置するナント近郊アンドルから、上流に向かってアンジェ→ソミュール→ブルグイユ→サン=ブノワ=シュル=ロワール→ラ・シャリテ=シュル=ロワールまで、ベネディクト会修道院のブドウ畑が開かれた
 C.アルザス地方:マルムティエ修道院
,ブルターニュ地方,レオン修道院,ノルマンディー地方:ジュミエージュ修道院など、の畑があった
 D.パリのサン=ジェルマン=デ=プレ大修道院:カロリング朝下における最大のブドウ栽培者&ワイン産出者だった。「a.パリとその周辺の10ヶ所以上にブドウ畑を所有した」「b.毎年50~100klのワインを産出していた」「c.聖ヴァンサン(4世紀にスペインで殉教)に奉献されたこの修道院では、ワインと血を簡単に連想できる名(フランス語でワインはヴァン・血はサン)も巧みに利用した」という
 E.サン=ドニ大修道院:「d.現在のパリ市内・近郊のイヴリにブドウ畑があった」「e.産出したワインはセーヌ川・オワーズ川の関税を免除されたので、イングランド・フランドル地方でも販売された」「f.サン=ドニ大市の開始日を10月9日とする許可を受け、その新酒は完全な優先販売権を認められた」


(4)カロリング王家とワイン

 A.カロリング朝の諸王も(メロヴィング朝の王)と同じく、宮廷を1ヶ所に固定せずに荘園から荘園へと移動(例外:シャルルマーニュの最晩年)し、そこの物資を消費した。そこで荘園には「a.必ずワインを蓄えるようにした,可能な限りブドウを栽培した」「b.重臣の中には酒蔵係(ワインの管理・調達担当)と酌人頭(宴会でのサービスを担当)がいた」
 B.シャルルマーニュ大帝は時には大酒を飲んだが、決して酔いつぶれないように心掛けていた。そもそも「狩り・乗馬・水泳をよくする,色を好む,身の丈2m近い偉丈夫だった」ので、酔いなどすぐに吹き飛んだ、という…
 C.荘園のブドウ畑・酒蔵管理への目配りをシャルルマーニュは怠らなかった。御料地令には、家令に対する事細かな指示が記されている:「c.ワインは『然るべき容器』に蓄え『断じて変質させる』べからず」「d.余剰ワインがあれば必ず大帝に報告し、売るべきか・誰に売るかの判断を仰ぐ」という
 D.さらに大帝は「e.毎年秋に新酒販売優先権を行使した」ので、他の産出者よりも先にワインを販売した(その例外は上記のサン=ドニ大修道院)
 E.王家のブドウ畑は「f.ロワール川流域(アンジェ)~ブルゴーニュ地方(コルトン)~ライン川流域(ヨハニスベルク)」にまで及んでいた。「g.領地ごとに配置された家令(計600名)に、毎年資産&必要経費を報告させ」、さらに「h.桑酒・ブドウ酒を煮詰めた甘口ワイン・蜂蜜酒・酢・新酒・古酒のそれぞれの、量・品質まで報告させた」