『中世の死』N・オーラーから[18]


○私闘と戦争


(1)中世の戦争と“平和”

 A.中世では何千人もの男子が戦死したものの、成年男子の死因の中で最多のものではない。直接戦争に参加する兵士の多くは「空腹,喉の渇き,疲労,病,事故」などによって、戦場に到達する前に亡くなった。男女バランスで見ると「妊娠期,産褥期における合併症による女性の死者数」とのバランスをもたらした

【戦争のきっかけ】
 B.戦争が始まるには「武装できる者が“自分たちの権利or名誉が傷付けられた”と感じる」だけで充分だった。喜んで戦争に参加する輩(下記☆に例)どもに対して、年代記作家(修道士,後には都市の市民)は嫌悪の情けを隠そうとしなかった
 ☆例:ベルトラン・デ・ボルン〔1140頃‐13世紀初頭〕は抒情詩人&戦士&策士であり、復讐・寝返り・略奪の機会は見逃さず、自分のために戦争を賛美した

【神の平和・ラント平和令】
 C.ゲルマン人は戦場で倒れた戦士を讃えた。キリスト教は国家宗教になってから、神学者たちは戦争を特定の条件下=「弱者保護のため,防衛のための戦争,正義を再構築するための戦争,正統信仰を外れた者に対する武力行使」では正しい、とした
 D.直接関係ない多くの人々を巻き込む戦争は「自然現象」と捉えられていた。ところで教会改革が進められる時代(10・11世紀)、自らの利益のために武力闘争に明け暮れる武装集団のボス・地方領主たちの振る舞いに、厳しい目が向けられ始める。彼らの行動を掣肘するために、ドイツ帝国統治下の地域だと「神の平和(11世紀末)」「ラント平和令(12世紀半ば)」が施行された
 ☆神の平和:1つ(or複数)の司教区に公布され「特定の時間:週後半の木曜日~日曜日,数々の祝祭期(待降節・四旬節・聖霊降臨祭など)」「集団:女性,修道士,農民など」「場所:教会,墓地など」を、教会の特別保護下に置く
 ☆ラント平和令:こちらも集団・アジール(保護地)を保護するもの。対象エリアは「ある支配者に平和維持が委ねられた国」となる
 E.神の平和が施行された時代には、ミサ典礼の冒頭に平和への願望が取り入れられた。神の子羊に対する呼びかけ(3回orそれ以上)には“我らを憐れみ給え”という祈願文が対応していたのだが、やがて(10・11世紀~)3回目の呼びかけの後に“我らに平和を与え給え”が続くようになる

【ルール?】
 F.戦争は主に、外なる敵に対して行われた。騎士と武装集団(ここには都市も含まれる)には私闘(フェーデ)が認められていた
 ☆フェーデ:決められた規則(確固とした理由,戦いの宣言など)にしたがって、武器を取って行われる正規の訴訟のこと。我が身に対して行われた(と感じた)不正は、相手に損害を与えることで償われた
 G.私闘・戦争ではリーダーとしての資質が問われるから、ごく幼い頃から計画的にトレーニングが行われた。そのメニューは狩猟(後には馬上槍試合)であり、どちらも娯楽と真剣勝負を兼ね備えていた
 H.戦争と「真剣での決闘」は、どちらも「神判」と見なされていた点が共通していた。どちらが正しいのか判断する手段が無い場合には「当事者2人が、多くの場合には生死をかけて、聖なる空間と見なされた決闘場に現れる」「どちらか一方が、降参or命を落とすことで、神の審判は下される」のだ。敗者は時には赦されることもあったが、多くの場合は殺された

【犠牲者-無防備な民衆-】
 I.民衆(とりわけ人口の大半を占める農民)は、戦闘の最大の犠牲者であった。彼らは「a.訓練も組織化もされていない」「b.農場&畑に縛り付けられている」「c.槍・剣を手にする権利も剥奪された(中世盛期~)」ので、身を守ることがほとんど出来なかった
 ⇒戦争が起こると農民は、家族&家畜(最も貴重な動産である)を守るために、森・墓地・隣町に逃げ込んだ
 J.都市は様々な防御(塁壁・壕・門・塔)を持ち、農村より守りは堅い。しかし焦土作戦や包囲戦によって危機に陥った。特に「何ヶ月もの包囲戦の挙げ句攻略された」or「憔悴しきって降伏を余儀なくされた」時などは、籠城側は待ち受ける運命を楽観視できなかった

【開城は悲惨】
 K.攻撃側の損害が大きければ大きいほど、籠城側は過酷な報復が与えられた。無条件降伏とは「婦女子は強姦される,町は(完全な破壊とまでは行かなくでも)数日間に渡る略奪を受ける」のだった。住民全員が虐殺されることも稀ではなかった(例:7歳までの幼児のみが命を助けられる)
 L.攻城側に慈悲の気持ちを起こさせるのは難しく、多くの者が死を選ぶのも無理はなかった。しかし歴史上、極めて例外的な自己犠牲も記録されている
〈例1〉女性の覚悟
 イスラム教徒によって包囲されたある十字軍の軍勢の陣営には、臨月間近のフランス王妃マルグリットもいた(1250年)
 出産の3日前に彼女は、夫であるルイ9世が捕らわれたという知らせを受けた。出産間際に彼女は、臣下である80歳の老騎士を呼び寄せ「イスラム教徒がこの町を占領した暁には、彼女が捕らえられる前にその首を切る」ことを、彼に誓約させた
〈例2〉無慈悲の例
 シュトラスブルク近郊にあったシュヴァーナウ(危険な盗賊の根城だった)が陥落した際には、籠城側は粘り強い交渉によって7人の命を助けられた。残りの48人(一説には53人)は斬首された(1333年)
 処刑人は犠牲者のうち2人に(「1/10税として」)恩赦を与えることができた。彼が選んだのは「害のない老人,まだ子供に過ぎない馬番」だった
〈例3〉歴史上の例外
 百年戦争の最中、11ヶ月の籠城の末にカレーは降伏を余儀なくされた(1347年)。他の住民たちを虐殺から救うために、6人の市民が処刑を覚悟でイングランド軍に赴いた。ところがイングランド軍は、都市も人質の6人も許した

【別離】
 M.戦争に行く者は誰しも、自分の生命を危険に晒すことを知っていた。それに呼応するように、出陣の儀式はドラマチックに行われた(文献にも近親者の悲しみが伝えられている)
〈例1〉十字軍その1
 テューリンゲン方伯エリーザベトは、夫ルートヴィヒの衣服に「十字軍参加を誓った証」=十字の印を見つけ、気を失った
〈例2〉王の出征
 フランスのルイ9世が重い病に倒れた時(1244年)のこと。看病している婦人の1人が「王はもうお亡くなりになった」と、その顔にシーツを被せようとした。するともう1人の婦人がそれを止め「王の魂はまだお体の中にある」と主張した。ところが婦人たちの争う声に、王は目を覚ました。母后の喜びは大きかった
 ところが、この予期せぬ回復を、ルイは奇蹟と受け取った。そして十字軍に参加することによって神に感謝を捧げることにしたが、それを知った母后は「まるで死んだ息子を目にしたかのように、深い悲しみに沈んだ」という
〈例3〉出征の前に
 ジョアンヴィルはルイ9世に従って十字軍に出発するに先立って「a.遺言を残して厳かに別れを告げた」「b.臣下の1人1人に対し、彼等が蒙ったかも知れない不正行為について許しを乞うた」
“主よ、私は海の向こうへ参ります。帰還の可否は分かりませぬ。私に不当に扱われたという者は、前へ出よ。償いをしよう”

【戦場での死】
 N.勝者は戦場で「a.神に感謝し、自軍の戦死者を讃えた」。一方で敗者が支払わねばならない代価は大きい=「b.勝者は武器・宝飾品・高価な衣装など(死者が身に着けているもの,敵陣にあったもの)を手に入れようとした」
〈例1〉惨い状態
 死者は「生まれたばかりの赤子のように裸で」戦場に横たわっていた(ある年代記作者による)
〈例2〉スイス軍に破れる・その1
 ブルゴーニュのシャルル突進侯(1477年1月5日に戦死)の遺体は、その2日後に「15人ほどの、ほとんど完全に身ぐるみを剥がされた死体に混じって」発見された。遺体は「顔の片方が氷にはまって凍っていて、もう片方は狼に喰われていた」「頭頂から顎までがハルバードの一撃で切り裂かれていた,胴体には槍でえぐられた穴が2つ開いていた」という
 O.ここで「c.従軍司祭が死者に罪の許しを与える(戦闘前の赦免を補う形となる),他に読み書き出来る者がいないなら死者の名を書き留める」。ちなみに報告される死傷者数は、数字にゼロが付けば付くほど疑わしくなる(特に敵方)。そして戦死者は地位・身分に従って葬られた
 ⇒「d.1兵卒は皆、その場で共同墓地に投げ込まれた」「e.身分ある者は近くの(修道院)教会に運ばれ、そこで厳かな死者ミサを挙げてもらった上で葬られた」。さらに「f.多くの遺体は後に(1年後も稀ではない)掘り出され、故郷に運ばれて永眠の地を得た」のだ
 ⇒「万が一死んでも鳥のエサにはならない,きちんとお清めされた土に葬られる」と、兵士たちは戦闘前に自らを納得させた。反対に「異国の地で腐っていく」と思っただけでも、誰しも身の毛がよだつのだった
〈例3〉スイス軍に破れる・その2
 ゼムパッハで戦死したオーストリア公レオポルト3世と騎士たち(1386年)は、ケーニヒスフェルデン(スイスのブルッグ近郊に、ハプスブルク家の墓所として建立されたフランチェスコ会修道院)に眠ったいる

【捕虜の運命】
 P.身分の低い捕虜たちは大量虐殺され、身代金を払える者だけが生き長らえることができた。ただし、復讐心が物欲に勝ることもあった
〈例〉首を引きずり回す
 ハッティンの戦い(1187年7月4日)では、十字軍の1隊がサラディン(サラーフッディーン)の軍勢の前に、前例ない程の大敗を喫した。捕虜の中に含まれていたトランス・ヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨンはサラディンから極めつけに憎まれており、彼は自ら剣を手にしてルノーの首を刎ねた
 それからサラディンは「その首をあらゆる町&城塞で引きずり回す」よう命じ、それは実行された


(2)キリスト教の戦争

【十字軍】
〈例〉戦闘前の激励
 レヒフェルトの戦い(955年)を前にしたオットー1世は、部下の戦士たちに「死ねば永遠の報いを,勝てばこの世での喜びを」約束したという。年代記では“これ以上ハンガリー人の恥ずべき帝国侵入を許すくらいなら、死んだ方がましだ”という台詞を与えられている
 A.ヨーロッパ全土を巻き込んだ十字軍熱を駆り立てたのは「永遠の報い&この世での戦利品」だった。元々は、聖地で巡礼者を(盗賊団の襲撃から)守ることのみを目的としていたが、第1回十字軍で既に「略奪・殺戮・征服のための遠征」へと姿を変えていた

【聖地への途上にて】
 B.イェルサレムへ向かう途上の略奪者の大群が、ライン・ドナウ河畔の諸都市でユダヤ教徒を皆殺しにした(1096年)
〈例〉マインツ
 この都市のユダヤ教徒は「司教による助力の誓い,高額な支払い,寄せ手(エミーヒョ伯とその部下)のために用意した他のユダヤ教徒宛て推薦状」などを頼りに、虐殺から逃れようとした
 しかし伯と部下たちは市内に乱入し「十字架で流されたキリストの血の復讐を行う」と宣言した(5月27日)。ユダヤ人たちは司教館の中庭に立て籠もったが、敵が戸口を占拠するのを阻止できなかった
 最終的には司教館内部に逃げ込んだ人々が、自ら死を選んだ(「婦人たちは死出の旅支度をし、息子や娘を殺すと己の命も絶った。男たちは腹ごしらえをすると妻・子・奉公人を殺した…」)
 略奪者たちは「殺された者を身ぐるみ剥いで窓から投げ捨てた。死体は山のようにうずたかく積まれた」。多くの者には「また息があったが、新たに何度も剣で突かれてとどめを刺された」
 C.十字軍兵士たちはイェルサレム占領(1099年)後に市民(イスラム教徒・ユダヤ教徒のみならずキリスト教徒をも)を虐殺した

【死ねば殉教者】
 D.クレルモン公会議(1095年)では、十字軍参加によって「教会が科した贖罪刑(例:共同体からの一時的追放)の免除をもたらすだけだ」と明確に告知していた。ところが、それがあっという間に「免罪の約束」へと変わっていったのだった。シャルトル司教イヴォ(その著作が世論に影響を与えた)は「サラセン人との戦いで命を落とした者は、天国に迎え入れられる」と明言した
 E.教皇ウルバヌス2世は十字軍と共に「神の平和」を布告した(1096年)。そこでは「盗賊→神の戦士(Christi milites)となる」「同族同士争っていた者→正当な権利として野蛮な輩と戦う」「傭兵となり金を手に入れた→永遠の報いを手に入れる」「最悪の行いに走った者→2重の栄誉のために戦う」べきである、と言った
 F.『ロランの歌』の内容は、十字軍熱の産物なのか、逆に十字軍熱を誘発したのかは判断できない。それは「シャルルマーニュとその甥ロランが、スペイン北部でイスラム教徒相手に戦う遠征で、敵対する者は悪魔の烙印を押される」というもの。作中ではありとあらゆる敵性プロパガンダが用いられている:
「a.そこでは、互いに対峙しているのは(戦士たちではなく)世界観と宗教そのものだった」「b.悪魔はサラセン人の魂を地獄へさらっていく」「c.天使たちが戦場で倒れたフランク人を天国に連れて行く」「d.そこで彼らは、無垢な子供たちと共に永遠の至福を楽しむ」
 ☆作中での大司教トゥルパンが味方を鼓舞する台詞:“さあ、罪劫を懺悔して神に祈ろう!君たちの霊を救うためにお清めしよう。死ねば殉教者となり、尊い天国に席を得られるだろう”

【異端迫害】
 G.第4ラテラノ公会議(1215年:公会議としては通算12回目)は、異端者に対する戦いを「不信心者と異教徒に対する戦い」と同列に位置付けた。異端撲滅のために戦う者は、聖地を守るために旅立った者(=十字軍兵士)と同じ特権を得られる、というのだ
 H.ところがこの宣言は、福音書の文言を完全に無視したものであった。『マタイによる福音書』では、現世での異端撲滅などを奨励していないどころか、それは世界の終わりの時に神の御使いによって行われるもの、とされているようだ。加えて使徒パウロも「様々な意見があることが救済には不可欠だ」と述べている!
 J.このラテラノ公会議の宣言にはもちろん伏線があった。教皇インノケンティウス3世は(異教徒ではなく)、ヨーロッパのキリスト教徒に対する「聖戦思想」を適用していた(1209年)のだ。それがアルビジョワ十字軍である

【悪名高きベジエ攻略(1209年)】
1.「現実的に危機を判断した町の司教は『自分のリストに載っている222人の異端者を、近づいてくる十字軍に引き渡す』ことを進言したが、1人のコンスルがこれを拒否した」
2.「攻囲軍は(町から逃げ出した者たちによって)『ベジエでは正統信仰者も異端信仰者も共に暮らしている』ことを知り、これからの行動に関して意見が分かれた」
3.「宗教顧問としてこの遠征を指揮していたシトー修道院長アルノー・アマルリックにお伺いが立てられた。異端が正統信仰を装って攻撃の手を逃れるのを恐れていたのだった」
4.「ここで修道院長は『容赦なく打ち倒せ』と命じたので、正統信仰の者も含めて殺されたと伝えられている」
 ⇒しかし実際には、修道院長の言葉を伝えた人物(ハイステルバッハのカエサリウス)は戦場から遠く離れた場所にいたので、その信憑性は疑わしいと言える
5.「ただしその背後には、何らかの事実があったと考えられる。少なくともアルノー・アマルリックは以前からアルビ派の武力討伐を主張していたし、南フランスの教会関係者・十字軍騎士たちの心情も、アルビ派討伐に伴い正統信仰者が巻き添えを食うのを容認していたと思われる」
 ⇒そうすることによって「計画的に恐怖を広め、恐ろしい見せしめを行って、反抗の気力を打ち砕く」ことを企図した
6.「ベジエっは死者ミサのように鐘が鳴り響く中、約7,000人が大聖堂や聖マグダレーナ教会へ逃げ込んでいた。教会の庇護権は(イェルサレム〔1099年7月10日〕と同じく)全く顧慮されなかった。聖職者・婦人・子供の誰もが殺され、1人として助からなかった」