『ワインの文化史』ジルベール・ガリエから[6]


(5)民衆のワイン

 A.中世社会では(パリのような巨大都市は例外として)都市/農村の線引きをするのは無理があった。フランスの南半分では「市壁に囲まれた小都市~大きめの村は、様々な取引・交流を通じて近隣農村とは、経済的・社会的に一体化していた」という現実があった
〈例〉カルパントラ(プロヴァンス地方)
 この町では農民・職人・聖職者・非聖職者を問わず、年間300~400Lものワインを消費していた。住民とワインの関わりの内訳(税の監査官が残した会計簿から)は以下の通り
「自分で作ったワインをそのまま酒蔵に貯蔵した(売り買いどちらもしていない):45%」
「売って残りのワインを貯蔵した:20%」
「自分で作ったワイン以外にいくらか貯蔵した:20%」
「ブドウを買って自分でワインを作った:3%(全てユダヤ人)」
「ワインを全く貯蔵していない:12%」
 B.この町では「住民はブドウを栽培するワイン算出者である」「大半は自家消費用で、少量が地元で取引された」ことが分かる。司教と15人ばかりの司祭(特権に与っていた)が最大の販売者であった(司教だけで5~12KL/年)
 C.カルパントラの生産者の顧客は「プロヴァンスの北・アルプスに近いガップ一帯の農民」だった。彼らはワインを小麦・羊・ラバと交換した
 D.このような例はフランス南部に多い(例:アルル,ニーム,カルカソンヌ,アルビ,ガイヤック,ロデーズ,ミョー)。小さな町では「周辺で産するワインを消費する」だけでなく「近隣地域で牧畜を行う農民にワインを売っていた」のだ

【ワイン消費と身分秩序】
 E.アルル大司教と食事を共にした高官は年間平均894KLものワインを飲んだのに対して、トレッツ(エクス=アン=プロヴァンス近郊)にある教皇庁学校の学生は220KL/年だった
 F.カルパントラでは「司教館では甘口ワイン(例:“マルヴォワジ”“ミュスカ”)・香辛料入りワイン(クラレイア,イポクラス)」「裕福な商人の館ではラングドック地方東部の地中海沿岸(例:サン=ジル,ボケール,リュネル)で産するクレレ・赤ワイン」「職人の家では地元の白ワイン・赤ワイン」「労働者・農民の家では“ピケット”」が、それぞれ飲まれていた
 G.“タヴェルヌ”ではたいてい、酸っぱくなったお粗末なワインを水で薄めたものが出された。したがってそこで飲むのは、貧乏人・旅人だけだった
 H.ワインを飲む器にも序列があった(公証人が作成した財産目録から)。「司教館:銀製のカップ,杯,ゴブレット(ミサにも用いた)」「商人・職人の家:主に錫の食器」「農家:土器,木製の酒坪orゴブレット」が使われた


(6)ワインと暴力

 A.中世でも「戦いを前にしてワインを飲むと、勇気が湧いて闘争心が高まる」と言われた。それゆえに、息が詰まりそうな甲冑・鎖帷子を装備した騎士・歩兵は、戦の前にも後にも「ワインを飲んで喉の渇きを癒やし、力を取り戻した」
〈例〉ブーヴィーヌの丘で戦ったフィリップ2世(1214年)にも、オルレアンの戦いに身を投じたジャンヌ・ダルク(1429年)にも「ワインに浸したスープ」が供された
 ★スープとはもともとは「ワインorスープに浸して食べる薄切りのパンのこと」
 B.領主の旗の下に集まった兵士(or国王の軍隊)が行軍する後には、ワインを積んだ荷車が続いた。ワインは隊長用だが、たいていは兵士たちに分配しないわけにはいかなかった。それでも町・城・修道院は略奪を受けたし、食料貯蔵庫・酒蔵はスッカラカンになった
 C.“タヴェルヌ”・旅籠屋では暴力沙汰はつきものだった。“会食者”とは「パンとワインを分かち合う者」を意味し、公に「友情の誓い・和解の接吻が交わされ、酒が酌み交わされた」のだが、その絆は同じくらい公然と断ち切られた
 D.相手の顔にグラスのワインをひっかけるのは「約束の破棄」を意味し、捨て台詞=勝手にしやがれ、金輪際貴様とは酒なんか飲むものか」が続いた。これは「騎士が戦いを挑む際に、籠手を地面に投げ捨てる」のと同じ意味しだった
 E.さらに乱闘へと発展する場合には、場所を通りへ移した。というのは「タヴェルヌはみんなが共有する友愛の場」であり、汚してはならない場所だったから


(7)ワインの贈り物

 A.国王・教会・諸侯・都市当局などお偉方は、都市の街路に繰り出した民衆が思う存分酒を飲む機会を、祝賀行事によって与えた。これによって「都市の威光」を高めようとしたのだが、この場合の主役は民衆だった
 B.中でも「王の入市」の祝いはとりわけ盛大であり、惜しみなくワインが振る舞われた。市参事会員は「王とその一行にはとっておきのワインを供した」「民衆のために噴泉から流れ出るワインを用意した」
〈例〉シャルル6世のリヨン入市(1389年),ルイ11世のオルレアン入市(1461年)&ブリーヴ入市(1463年),ジャン2世(1350年)&シャルル5世(1364年)のパリ入市
 C.しかしルイ11世のパリ入市(1461年)の場合には「両者の和解を身をもって示す」という、強い政治的意図が込められていた。これはパリが「ブルゴーニュ公家(1404年~)とイングランド王家(1420~36年)の覇権を公然と受け入れた」ので、フランス王との間に長く険悪な関係が続けていたためである
[※ジャン・ド・ロワの年代記が伝える、ルイ11世のパリ入市の様子は省略]
 D.民衆に酒を振る舞うのは大変な出費になるので、特別税が徴収されることもあった。それでも祝祭が催されたのは、そこに「社会の上下を1つに結びつける機能があり、ままならぬ日々の暮らしを一旦中断し、光輝を与える力がある」からだった。それは「ワインが持つ社会的・文化的機能」であった
〈例〉サン=トメールでは“王のワイン”の名のもとに徴収された。パリでは“慈愛の贈り物”という1種の特別債を使って集められた。しかし特別債が償還されることはなかった




○その他、中世のワインに関して


(1)中世のワイン関連の単位

【樽の容量】
1クー(約470L)=3ミュイ
1ミュイ(約156L)=16スティエ

【ワイン容器の容量】
1スティエ(約10L)=4カルト
1カルト(約2.5L)=2パント
1パント(約1.25L)=2ショピーヌ
1ショピーヌ(約0.62L)

【パリで用いられた単位】
1ミュイ(約160L)
1カルト(約1.86L)=2パント
1パント(約0.93L)

【同:重さ】
1リーヴル(約489.5g)=4カルトロン
1カルトロン(約122.4g)=4オンス
1オンス(約30.6g)=8ドラクマ
1ドラクマ(約3.82g)

【南仏では】
1リーヴル=12オンス


(2)利きワインについて

 新酒のワインの味利きをするには、ワインが他の時期よりも「混じり気がなく、澄んでいる」ので、北風が吹く頃がいい
 反対に南風は「ワインを揺さぶって目覚めさせ、どんなワインであるかがよくわかる」ので、専門家の中には南風が吹く頃に味利きする人もいる

 若い者は味利きをすべきではない
 さんざん飲み食いさたあとに味利きをするのも良くない。ボローニャでは「必ず空きっ腹で味利きをする」。味利きの前には「苦いもの,辛いもの,その他味の分からなくなるものを口にしてはならない」。ただし食べても少量で、きちんと消化できるのなら問題ない

 商人を騙すために「用意した新しい容器を、馥郁と香る古い上質のワインで湿らせてから、売り物のワインを入れる」者がいる。もっと巧妙なのは、味利きをする人に「クルミやチーズを出して食べさせる。すると、さっきまでしっかりしていた舌が狂って」誤魔化されてしまう

 こんな話をするのも一杯食わされないようにするためであり、人を騙すためではない。ワインの味を利いて値踏みするのが仕事の商人は、新しいワイン・古いワインを問わず度々味利きして、くれぐれも引っかからないようにする必要がある

※『農村がもたらす利益について』(14世紀初頭)の中で、著者であるイタリアの農学者ピエトロ・デ・クレッシェンツィはこのように説いている、という


(3)美味しい酢の作り方

 良質のワインを用意し、甕に半分まで入れる……。この甕に蓋をせずに温かい場所に置き、最初に酢をたっぷりかけておく……。こうして1ヶ月かもう少しそのまま発酵させれば、とても美味しい酢ができる

(さもなければ、前もって“酢職人のパン”と呼ぶ酢種を作った。これには「ミズキの実,野生の桑の実,野生ブドウの実,辛玉ネギの種子を使った)

 全ての材料を粉末状にする。強い酢を用意してこの粉末をとき、小さなパンのように丸めてよく乾かす。いざ使う時には、ワインが強ければこれを1オンス、弱ければもっとたくさん入れる。そうして1週間置いておくと、とても強い酢ができる

※これもクレッシェンツィの上記著作の中で記されている、という。さらに『酸味』(ミゼット・ゴダール著)の解説付き


(4)ワイン・酩酊を語る古い言葉

【ワインの色】
 白ワイン(中世のワインの大部分を占めた)はそのまま“白”と表現された。中でも“涙のように澄んだ”ワインは最高とされた
 中世には黄色いワインは評価されていなかったから“黄色い”という形容詞は使われていない
 黒ブドウを使い「1.すぐに圧搾する」or「2.皮・種が果汁に浸かったまま短時間発酵させる」と“クレレ”という種類の、色の薄いワインができた。クレレにはごく薄い色から、オレンジ色・ルビー色・赤ワインに近いものまであった
 2.でより長く発酵させたものは“黒いワイン”と呼ばれた

【ワインの味】
 ブドウがよく熟していない、醸造が上手くいかない場合には、白ワイン&クレレは“酸っぱく渋い”ものになった。中には“微かに泡立つ”と表現されるものがあった。“繊細な”ワインは少なく、ギリシア・イタリア・スペインからの輸入物は全て“強い”ワインだった

【ワインを飲む】
 ラブレーは「ワインをガブガブ飲む」という意味の動詞として“ショピネ:chopiner(容量単位ショピーヌから)”“マルティネ:martiner(ブドウ栽培の守護聖者の聖マルティンから)”“アントネ:entonner(原義:ワインを樽に詰める)”“デサンドル:descendre(原義:ワインを地下の酒蔵に降ろす)”“ランぺ:lamper(喉をランパという)”を使っている
 また“パンテ:pinter(容量単位パントから)”は「ワインを浴びるほど飲む」という意味だった。「鯨飲みする」には“肘を高々と上げる”という表現が用いられている(15・16世紀)
 “イングランド人のように”飲むとは「痛飲する」という意味だった(13世紀)。これが中世末には“ドイツ人のように”へと変わった
 “聖歌隊の歌上手は/大の飲み助”(16世紀の諺)と言われるように、飲めば飲むほど上手く歌えた。反対も真実であり“飲んだくれの聖歌隊員で酒場は溢れかえっている”のだった。“酒蔵のカエル”とは「折り紙付きの酒飲み」のことだった

【酔っ払う】
 ラブレーは“ツグミのように酔っ払う(この鳥が美味しく熟したブドウを好んで狙うから)”“あばずれ女(マルゴ)のように酔っ払う”と表現した
 ☆マルゴ←ピ(カササギ)の別名←ピ(ピヨ〔ワイン〕を飲んで酔っ払う)、という連想から
 また“酔っ払って酒樽になる(or酒を入れる革袋になる)”こともある。“酒蔵の聖水をみだりに飲むと、主のブドウ園に身を置く”は「えもいわれぬ酔い心地を味わう」ことだった


(5)ワインの嗜み方

 由緒正しき家柄の貴族の3人の奥方が“タヴェルス(居酒屋)”で席についている。料理に取りかかる前に飲んだのは“川”の白ワイン(マルヌ川沿いの産地のもの)だった

 かすかに泡立つ、
 澄み切ったこのワイン
 強くかつ繊細で、
 すがすがしく舌をくすぐる
 その飲み口のやさしく、
 なんと心地良いこと

 食事の締め括りには、菓子(コーフル,ウブリ)・ナッツ(アーモンド,クルミ)・香辛料入り糖菓といっしょに“ガルナッシュ(名前はグラナダに由来する)”を飲んだ。ガブガブはしたなく飲む姪を見咎めて、1人の奥方が正しい飲み方を指南する

 ワインは控えめに口に含み
 舌にのせてしばらく遊ばせる
 一口飲んだら、一息おいて
 やおら次を飲む
 これでほら、じっくり味わえるの
 口に心地良くも力強いワインを」

『パリの3人の奥方の物語』(1310年頃)から
『ワインの文化史』ジルベール・ガリエから[5]


○民衆もまたワインを飲む


(1)中世フランスの民衆の飲み物

 A.農民や都市の民衆は多くの場合、水を飲んでいた。しかし大抵は汚染された不衛生な水だったから「赤痢・腸チフスは風土病になっていた,コレラ・ペストが猛威を振るって夥しい人命を奪っていた」
 ☆後に(一応)飲むことのできる水が本格的にパリに引かれた(17世紀~)
 B.農村では“乳”“バターミルク(乳からバターを作った後に残る液体)”がよく飲まれた」が、これも傷みやすく食中毒の恐れがあった
 C.都市・農村ともにフランス北部では“セルヴォワーズ(ビールの祖先に当たる)”が飲まれた。これは「a.大麦だけを使った自家製のものが多いかった」「b.栄養価は高いがトロッと濁っていて、美味しいとは言い難い」「c.せめてもの風味付けにセージ・ニガヨモギ・ゲンチアナの葉や根を加えた」貧乏人の飲み物であった
〈例〉“メドン(蜂蜜入りセルヴォワーズ)”が飲まれていた(1600年)
 D.やがて、高価な“ビール(大麦とホップを使い、澄んで苦味があって強い)”がフランスの都市に、ドイツ・ハンザの北海沿岸の都市からもたらされるようになる(15世紀~)。呼び方は、輸出都市から取った“アンブルゲビーア”“ブレマール”(ハンブルク,ブレーメン)だった
 E.一方で農民の飲み物には“シードル(リンゴ果汁を発酵させて作る)”があった。これがブルターニュからピカルディーにもたらされる(14世紀)ようになる。実際には「リンゴの搾りかすに水を加えて作る」粗末なものが多かった


(2)農民の飲み物

 A.農民はほとんどワインを口にしなかったようだ。さすがにブドウ栽培農家だと、日常用に若干の自家消費分を取っておいたようだが(フォレ地方・リヨネ地方)、これも多くは“ピケット(ブドウの搾りかすに水を加えて作る、ワインの二番煎じ)”だった
 B.ピケットは最初「a.圧搾機を使わずに足でブドウを踏んでいた(圧搾機は貴族・教会の所有物)ので、汁を抜いた残りかすにも色素・タンニン・糖分がかなり含まれていた」。このため「b.水を加えると再び発酵し、いささか酸っぱいが爽やかなピケットができた」「c.ただし翌年の春まで保存が利いた」(~13世紀)
 C.後に圧搾機の使用が広まり、二番煎じのワインの量・質が低下した(14・15世紀)。そこで「d.アルコール度を高めるために(場合によっては)リンゴ・梨・野生の桑の実・ニワトコの実・ナナカマドの実」が加えられた。それでも「e.樽で保存するのは保証の限りではなかった」
 D.中世の農民は(古代の奴隷,ローマ軍団の兵士のように)“酢”もよく飲んだ。「f.水に酢を加えるとワインもどきの味になって泥臭さを抑えられる,それとは知らずに殺菌になる」というメリットがある

【農民とワイン】
 E.ブドウ栽培地域では(自作農でも、分益小作農でも、作男でも)必ず幾ばくかは、自分が飲むワインが手に入った。「重労働のために雇わた労働者」にはワインが出された。また農家であっても「葬儀に集まった人に敬意を表すべく、ワインを出した」(プロヴァンス地方)
 ☆式を賑やかに盛り上げ、さらに故人の思い出を刻みつけるためだった
 F.樽のワインが酸敗して酢のようになるのは、決して珍しいことではなかった。その酸味以上に嫌われたのが「ピッチ(木タール)の樹脂の味」であり、樽の内側にはピッチを塗らなくなっていく(カロリング期以降)


(3)都市住民とワイン

 A.都市では「a.新酒が到着して売り出される10月始めから数週間は、存分に飲むことができた」としても、翌年の夏になると「b.在庫は底をつくor酸っぱくなっている」ので、端境期を乗り切るのはたいてい簡単ではない
 ★中世都市の酒蔵の在庫一覧に“古い”ワインが登場することは決してない
 B.都市は急成長していった(12・13世紀)が、それでも変わらずに「c.市門を取り巻いてブドウ栽培地が広がっていた」。さらに成長した「d.都市ブルジョワが開発主体となり、ブドウ畑を所有した」。都市は労働力を提供し「e.日雇いの労働者が畑を手入れした」
 C.リヨン{“フランシーズ証書(特許状)”を取得(1320年)}では、ブルジョワが作ったワインは入市税を免除された。ブドウについて、赤ワインには“ガメ”“セリーヌ(シラー)”“ムリ(ピノ・モリヨン?)”などの、白ワインには“ブラン・ブラン(ピノ・フロマント?)”の品種が使われた

【メッツ(ロレーヌ地方)の事例】
 D.2つの小教区では「職人・労働者までもが、猫の額ほどの土地を借りてブドウを栽培した」ことから、彼らは“ブドウの支柱の破片”と呼ばれた。彼らが栽培したのは“ゴエ”種(頑強で収量が多い、黒い大粒の実をつける)だった。その他にはいくぶん上質な“ガメ”種(“ブルゴーニュの黒ブドウ”と呼ばれた)も、若干栽培していた
 E.このような小栽培者と、司教座聖堂参事会員・大修道院長たちとの間に争いは絶えなかった。というのは後者は「高級品種たる“フロマント”を栽培して良質の白ワインを作り、モーゼル川経由でドイツやフランドルに売ろうとしていた」から。後者の意を受けて市当局は「ゴエを引き抜くべし」と命令を何度も出したが、守られなかった
 F.市は消費されるワイン全てに“ドゥゾマージュ”という特別税を課した(1409年)。これは戦争による損害を埋め合わせ、市壁を再建するためであったのだが、以降も存続した(~1790年)
 G.この課税のおかげでワインの消費量が算出できる。年間1人当たりの消費量は「50~150L:1日あたり137~410cc(脱税の影響か、変動幅が大きい)」であった。ここには「多数の兵士が町に出入りしている」「ロレーヌ地方はビール産地である」という事情を考慮しなければならない


(4)中世パリとワイン

 A.中世後期のパリは人口150,000~200,000人(1350~1450年)を擁し、ワイン入市量は年間38,600~46,000KL(徴税額から算出)に及んだ
 B.ただしこの数字には「パリを通過するだけで、フランス北部・ヨーロッパ北東部へ運ばれたワインが含まれている」ので、優に半分は差し引かなければならない。反対に「特権によって免税扱いでパリ市内に運び込まれたワインは含まれていない」(例:パリ大学のワイン,市民が自分の畑で産したワインを運び込む場合,もちろん王のワイン)
 ⇒そこで間を採って20,000KLが消費されたと考えると「パリ市民1人あたりで年間100L」となる。女性・子供を除外すれば、250Lを超えていた
 C.これだけの供給があっても、3年に2回の割合で、5月末からパリのワインは底をついた。当然ながら不正行為が横行し「水で薄めたワインを売った酒屋が多数訴えられた」。白ワインよりもクレレ(薄い赤色orロゼ)・赤ワインに注文が集まると「桑の実・ニワトコで白ワインに色をつける」などもした
〈例〉詩人のユスタシャ・デシャン(ルーヴル宮で給仕長も務めた)は「誰もがロクデナシ葡萄を無闇に増やし/グエがモリヨンになり代わる」と嘆いた(14世紀末)
 D.価格は高騰し、庶民にとって多くのワインは高嶺の花となった。以下は1ミュイ樽(160L)の価格である
 2エキュ:“平地の白ワイン”(パリ近郊のコンフラン,ヴィトリ産)
 5~6エキュ:白ワイン(パリ近郊のイシ,ムドン産)
 7~8エキュ:白ワイン(パリ近郊のアルジャントゥイユ,シュレーヌ産)
 9~10エキュ:白(オーセール産,シャンパーニュ産=“川沿いのワイン”)
 10エキュ:オルレアン産のクレレ
 12エキュ:赤(サン=プルサン産)
 20エキュ:白ワイン(ボーヌ産)
このような価格の幅があった
 E.パリ産ワインももちろん飲まれた。急速な都市化によって、塀に囲まれた大規模なブドウ畑こそ市壁の外に追いやられたが「大邸宅・修道院の庭園や中庭にはブドウ棚があった」
〈例〉パリ4区には、サン=ポール館(シャルル5世が建てて住んだ:1365年)のブドウ棚(トレイユ)に因んで名付けられた“ボトレイイ(麗しのブドウ棚)通り”がある(1556年開通)
 F.パリへのワイン輸送には、陸路と(特に)セーヌ川が利用され「セーヌ河岸には産地別に何ヶ所かの荷揚げ場があった」。荷揚げされたワインは「全てグレーヴの船着場にあるワイン市に集められ、2度目の検査を受ける」ことが義務づけられた(1413年~)
〈例〉イル=ド=フランスとオセロワのワインは「グレーヴの船着場の“フランス浮き桟橋”と“ブルゴーニュ浮き桟橋”」で荷揚げされ、検査を受けた。ロワール川流域のワインは「テンプル騎士団修道院の水車近くの“バレスの船着場”」で荷揚げされた
 G.ワイン販売官(ジャン2世によって組合に組織された:1351年)が上記の検査&売買監督に当たった。補佐役である10名の検査長が「樽に不備が無いか,容量が正しいかを確認した」。さらに24名の“ワインと遺体の触れ役(☆)”が「ワインの販売場所・価格を市中に触れ回った」
 ⇒多数の役人が介在したことは、ワインの価格を押し上げた。ワインの税収は確保できたが、それは決してワインの品質を保証するものではなかった
 ☆ワイン販売の布告に加えて死亡告知も行ったので、このように呼ばれた。実入りが良くて人気の役職だった(15世紀)

【ワインが飲める場所】
 H.市民が「ブドウ畑を所有し、自分の家屋敷でワインを売る場合は免税だった」ただしこの免税特権には「a.半開きの戸口越しに量り売りをする」という条件が付いていた。「b.戸の下の部分は開かないが、上の部分は蝶番で下に倒れて、カウンター代わりになる」「c.客が持ってきた器をカウンターに載せ、目盛り入りのパント枡でワインを量って入れる」という流れだった
 ★パリの1パント=930ML相当
 I.この手の商い(14世紀~1759年に行われた)では、門番・召使いたちが売り子を務めて利益に与るケースが多かった。しかし彼らは客だけでなく、居酒屋(商売敵だった)としばしば派手に喧嘩をした
 J.上記の居酒屋とは“タヴェルヌ”のこと。“タヴェルヌ”では「持ち帰り用の量り売り」にの他に「テーブルを用意してそこで酒を飲ませた」。パリ(15世紀)には600~800軒あった。一般的に中世都市では「人口400人(うち潜在的男性飲酒人口150人)につき1軒」とされる
 ★パリでも他の町でも、居酒屋の意味で“キャバレ”を使うのは少し後のこと(15世紀初頭~)
 K.居酒屋以外にも旅籠屋があり、そこでも酒・食べ物を給仕した。違いは「旅籠屋は客を泊める,特に兵士・学生などの下宿人を置いていた」点にある。また旅籠屋は「市門近く,市壁に集中していた」
〈例〉リヨンのローヌ川に架かる橋を渡った両岸には旅籠屋地区があった。エクス=アン=プロヴァンスには“旅籠屋通り”、ペリグーにも旅籠屋地区があった
 L.“タヴェルヌ”や旅籠屋は(単に酒を飲む場ではなく)「出逢いの場」だった。「a.学寮・一軒家の合宿所に住む学生が集まり、賑やかに騒ぐ」「b.税金・賦課租の徴収者が仕事場とし、司法官も腰を据えて人々の訴えを聞いた」「c.建築請負師は居酒屋に職人を集めて支払いをし、時には特別手当てを弾んだ」「d.商取引も行われ、買い手は“取引成立の祝い酒”をおごった(特に15世紀~)」。とにかく取引が終われば、何はともあれ乾杯だった
〈c.について〉
 職人への給金には「パン,肉,チーズ,卵,ワインも含まれていた」。起工時・竣工時・宗教的祝祭・同職組合の守護聖人の祝日(石工は聖ミカエルなので9月29日)には、職人は近くの“タヴェルヌ”に招かれてワインを振る舞われた
『ワインの文化史』ジルベール・ガリエから[4]


(4)ワインの序列

 A.ブドウ畑を所有してワインを惜しみなく供するのは、貴族・王の務めだった。そしてワインは、まず何よりも“敬意の印”であり、敬意を表するのもそれを受けるのも規則があった
 ★最高の敬意を表したい場合には「甘口の白ワイン」を供するのが常だった

【良いワイン:キプロス産】
 B.地中海地域から運ばれてくる“ミュスカ”種のワインは、稀少でかなり高価だった。特にキプロス島産は「a.9月まで収穫を遅らせて、樹につけたまま日干しにしたブドウから作る」「b.アルコール度が高く(たぶん15~17度)て残留糖分も多かった」「c.よく輸送に耐え、小樽・細口大型ガラス瓶(柳などを編んだ覆いをつけたもの)の中で上手く熟成した」という特徴があった
 C.ヴェネツィア商人はこれを「d.すり合わせガラスの栓をしたクリスタルのカラフ(ワイン入れ)に入れ」て、さらに値を釣り上げた
 ★キプロス島はリチャード1世によって占領され(1191年)、イェルサレム王国の王だったフランス人ギ・ド・リュジニャンの手に帰してキリスト教徒の王国となって(1192年)以後、ワインが珍重された

【良いワイン:他の地中海地域産】
 D.ギリシア本土・エーゲ海の島々で産する“マルヴォワジ”、イオニア海のコルフ島やザキントス島などのヴェネツィア領の島々で産する“ロマニア”もあった。カンパニア地方(例:ラクリマ・クリスティ)やリグリア海沿岸(例:チンクエテッレのヴェルナッチャ)で産するものもあった
 ★“マルヴォワジ”はブドウとワインの名前(由来はギリシアのペロポネソス半島南部の港モネンヴァシアから)。いくらか“ミュスカ”に似ていて、ロードス島・サントリーニ島・クレタ島など、一帯に植えられていた
 ★“ロマニア”は“マルヴォワジ”より質の劣る甘口ワインで、ヴェネツィア人によって大量に輸出されていた
 E.イベリア半島南部はイスラム勢力の支配下にあったが“ミュスカ種”のワインを産していた。後にレコンキスタが進むにつれ(グラナダ周辺を除く全半島がキリスト教徒の支配下となって)、南部は一躍有力産地となる
 F.すぐに修道院によるブドウ栽培が始まり“オゾワ”などミュスカ系ワインに引き続き力を入れる一方で、“ガルナッシュ(グルナッシュ)種”(ミュスカほど甘くはないが強さでは肩を並べる赤ワインを生むブドウ)の栽培を特に進めた

【政治が序列に影響を与える】
 G.フィリップ2世尊厳王は「食べることも飲むことも人後に落ちなかった」と言われるが、そんな彼に捧げられた『ワインの闘い』(アンリ・ダンドリ作)という詩がある。そこで示されるワインの序列には、フィリップ2世の時代におけるフランスの政治的事情が色濃く反映されていた
 H.というのは、王の好みは明らかに白ワインに偏っていたが、加えて列挙されたワインを地図にプロットしてみると、王権の力が及ぶフランス北部が圧倒的に多い(イル=ド=フランス,シャンパーニュ,オルレアネ,オセロワ,ノルマンディー,オニス,サントンジュのワイン)
 ☆最後の3地域は、カペー王権の支配に服して間もない領域である
 I.逆にフランス南部のワインはほとんど取り上げられていない。この『ワインの闘い』が書かれた頃はちょうどアルビジョワ十字軍の時期に当たり「オック語(南仏の中世語)地域の優れた文化が破壊された,トゥールーズやアルビなどラングドック地方・ルシヨン地方のブドウ栽培も当分立ち直れないほどの痛手を負っていた」からである。(反対に)称えられているワインは、十字軍で勝利した北部の騎士たちの地元で産し、彼らが飲んだワインである
 ☆フランス宮廷が「イングランドとその支配下のギュイエンヌに対抗する」ために、南部地域との和解を図ってトゥールーズ周辺のワインを購入したのはずっと後である(1310年)

【純粋なランキング(14世紀)】
 J.最上位に位置付けられるのは“ボーヌ”の白だった。フランス王のランスでの戴冠式の聖別儀礼用に用いられ(1322年,1384年)、また“金持ちのワイン”とされていた。稀少&高価で、最も高い税(飲食品に対する間接税:エイド)を課された
 ☆他の高級なワイン(“サン=プルサン”“エペルネ”“シャブリ”“オセール”の白)を抑えて“ボーヌ”の白が、課税に関してトップの評価だった
 K.アヴィニョンに教皇庁が置かれた時代、歴代教皇もボーヌワインを買い、大金を費やして取り寄せた
〈例〉ブルゴーニュのフィリップ豪胆公は、一度ローマに戻った教皇庁が再びアヴィニョンに来たことを祝い、新教皇グレゴリウス11世にボーヌワインを贈った
 ☆アヴィニョンの教皇庁の酒蔵には白(“シャルドネ”か?)と赤(“ピノ・ノワール”)がともに収められていた
 L.パリのワインも評価が高かった。“グッド=ドール(黄金の滴)”の白ワインは“キプロスワイン”“マラガワイン”に次ぐ評価を得た(聖王ルイ9世の時代)。パリ市はこのワインを、王の戴冠式の度に4ミュイずつ献上した


(5)宴会のワイン

 A.中世の諸侯・高位聖職者はしょっちゅう宴会を開いた。写本装飾書・時祷書の挿画、韻文物語・ファブリオーにはそうした食事の場面が描かれているし、礼儀作法の指南書(宴席にふさわしい客の振る舞いを列挙している)も著された

【食事の様子】
 a.架台の上に細長い板を組み立て、それをU字形に並べる。客はその外側に座った。この配置は「料理・ワインをサービスする」「地位の順に上座から割り振る」のに便利だった
 b.客の前では「歌,楽器演奏,踊り,軽業などの余興」が演じられた
 c.食卓には食べきれないほどの料理が用意され、それをいかに立派に見せるかに工夫が凝らされた
 d.「皿代わりとなる錫の板(orパンの厚切り),幅広の肉切りナイフ,ブルエなどのスープを入れる鉢」がめいめいに用意された。しかし1人ずつのグラス(orゴブレット)はなく、貴金属製の大杯で回し飲みをした
 e.水差し(蓋付きor蓋無し,注ぎ口のある物or無い物)や、水差しに入れたワインを冷やす鉢が、ソムリエによってサイドテーブルに用意される。酌人・補佐役がそこからワインを取って、d.の大杯に注いだ
 f.杯を回す際の作法:「感謝を込めて隣の人から杯を受け取ったら、両手で持って酔わない程度にほんの少し飲む」「飲む前は口の中を空にし、唇を拭う」「親指を杯の縁に掛けないよう気をつけて、片手で反対側の人に差し出す」「人が飲んでいる時には言葉を掛けてはならない」
 g.1人ずつのグラス(orゴブレット)が出現(14世紀末)しても、回し飲みの習慣は後まで見られた(~17世紀初頭)

【食事とワイン】
 B.ワインを飲むシーンには2つある。「集団で一定の儀礼に従って飲む」のは、古代から受け継がれてきた飲み方で、キリスト教の普及によってさらに強化された。もう1つは「個人で飲むワイン」だが、こちらにもやはり礼儀作法があった
 C.オリヴィエ・ド・ラ・マルシュ(フィリップ善良公とシャルル突進公に使え、シャルルの首席給仕官だった)による:
「a.酌人は(水ですすいでソムリエにワインを注がせた)ゴブレットに蓋を被せ、公のところへ持っていく」
「b.予めソムリエによって、これ見よがしに水・ワインの毒見が行われている」
「c.公が手を伸ばすと、酌人はゴブレットの蓋を取って手渡した。そして公が飲み終わるまで、蓋をゴブレットの下に添えていた」
「d.グラス・ゴブレットは食卓に並べるのではなく、サイドテーブルに用意されていた(サイドテーブルにワインを置くのは前世紀と変わらない)」
「e.“ネフ”(銀製の大きな船形容器)を持っている大諸侯だと、専用皿・肉切りナイフ・スプーン・塩入れ・ナプキンなどと一緒に、ワインを入れておくこともある」
 D.現在のような「料理に合わせてワインを飲む」というのは考えられなかった。喉の渇きよりもしきたりに従わざるを得ず、料理(塩・香辛料が効いていた)を食べて喉がヒリヒリしたら、水で抑えた
 E.一番よく酒を飲むタイミングは「食事の最初と最後」だった。「誰かに敬意を表してみんなで恒例の乾杯をする(イギリスの“トースト”)」「隣の客と杯の数を競い合って、友誼を交わす」などした
 F.食後に部屋に引き取った客には、甘口ワインが出された。この時には“ミュスカ”や“マルヴォワジ”の他に、特に“イポクラス”(香辛料・砂糖を加えたワイン)が一般的だった。ここで一緒に出された「甘い菓子,香辛料入りの“糖菓(ドラジェ)”」を食べると、さらに酒が進んだ
 G.宴席で飲んだワインの量は正確に掴めないが、1人平均2Lというところだという。「ラニュイ(パリ東方)の大修道院長が、パリ司教と王国の高官を迎えて宴会を催すために用意させた量(1379年)」が、これだけだった

【ワインを飲む行為の意味】
 H.ワインを飲むというのは、象徴的行為であるばかりでなく「宣伝行為」である
〈例〉バイユータペストリー(11世紀)に描かれた「水差しのワインと杯を司教が祝別する」場面,ブルゴーニュのフィリップ善良公によって創設された金羊毛騎士団の贅を尽くした宴会(15世紀)
 I.宣伝である以上、王たるものは「キリスト教徒としての模範を示して節酒に努める」&「ことさらに目をひく豪華絢爛な宴会を催す」という、矛盾した役割を果たさねばならなかった。そして、国王たる地位は、威厳を損なうような醜態を晒すことを許さなかった。(フィリップ2世のような)健啖家で酒豪の王たちも、決して酔っ払うことはなかった
〈例〉聖王ルイ9世は(年代記作者ジョワンヴィルによると)禁欲的で酒もほとんど飲まなかった。にもかかわらず、惨憺たる結果に終わった十字軍遠征から帰還してから、イングランド王ヘンリー3世のために「溢れんばかりの美酒,数限りない料理」で宴会を催した(1254年)
 J.宴会を開くと「後で召使いが食べてもなお大量の残り物が出る」→「教会の管理下で病人・貧しい人に配られた」。このため教会も、贅沢過ぎる宴会に対してはたいてい目を瞑っていた(教皇庁が置かれたアヴィニョンでも同じ)


(6)アヴィニョンの教皇のワイン

 A.教皇庁がローマにある時期でも、フランス生まれの教皇たちは好んで故郷のワインを飲んだ
〈例〉ウルバヌス2世(シャンパーニュ地方出身:11世紀末),マルティヌス4世(トゥーレーヌ出身:13世紀末)
 B.アルビジョワ十字軍後のパリ条約(1229年)で「コンタ・ヴネサン(ヴナスク伯爵領:アヴィニョン近く)とともにアヴィニョンが教皇に譲渡された」後には、教皇は(陰謀渦巻く)ローマを離れ、宮廷の面々を引き連れてアヴィニョンで過ごすことが少なくなかった
 ⇒しかしそれは、フランス王家の陰謀の渦近くに身を置くことを意味した!
 C.クレメンス5世(ガスコーニュ地方出身)が教皇庁をアヴィニョンに移すことを決断(1309年)してから、7人のフランス人教皇がアヴィニョンに相次いで立った(~1377年:教皇のアヴィニョン捕囚)

【会計の記録から】
 D.ヨハニス22世(クレメンス5世の次:カオール出身)は、自分が建てた“新しい離宮(シャトー・ヌフ)”の周りにブドウ畑を開いた。さらに(彼の意を受けた)教皇庁会計院が残した会計簿は「教皇宮殿で消費された物品全ての、性状・産地・量・価格・品質についてつぶさに分かる」ようになっている(約50年間分)。そこには日常用/ハレの日用の区別もあった
 E.ハレの日とは「新教皇の登位の大祭」「王・皇帝の歓迎の宴」があった日のことである
〈例1〉クレメンス6世の登位(1342年)の祝いには、ワイン160KLを消費した。この時には「教皇宮殿の応接間で供された」だけでなく「通りの噴泉からも4週間に亘ってワインが流れ出ていた」
〈例2〉インノケンティウス4世の登位(1352年)ては、前教皇に劣らぬワインが消費され、加えて10年前の倍の食器を購入した。内訳=[水差し:2,000個,ガラス製ゴブレット:5,000個,脚付きグラス:3,000個,貴顕用のグラス:数百個]
〈例3〉ウルバヌス5世が皇帝カール4世を歓迎する宴を催した(1365年)際には「およそキリスト教世界が有する、名酒という名酒」を供した、という
 F.日常用の酒の出入りの記録は“教皇庁司酒部”によって綿密になされた。司酒部は「良質のワインを探して買い付けたものを受領し、酒蔵に保管して用途別に振り分ける」だけでなく、サービスも担当した。そこには「司酒官3~4名(非聖職者も居た),書記1名,従者10数名」がいた
 G.祝祭・接待が無い普段には、合計10~10.5KLのワインが用意された。その内訳=[教皇の食卓:1KL,慈善のための施し物として:1.5KL,関係者・客の召使いに:8KL]
 H.司酒官と従者は、下記の調達したワインに「香辛料を加えて、教皇・枢機卿・高官・来客が寝室で飲むための酒」を作ることもあった。医者から「消化を促す」とのお墨付きを貰っただけでなく、舌も楽しませてくれるものだった
〈例〉「白ワイン・蜂蜜・香辛料で作るクラレイア(クラレ)」「白ワイン・蜂蜜・ショウガ・シナモンで作るネクタル」「クレレのワインとセージで作るサルウィアクム」

【調達したワインについて】
a.[アヴィニョンに近いサン=ジル,リュネル,ニーム,ボケールなど:ラングドック地方東部(地中海沿岸)の赤・クレレ]
b.[マルセイユやエグ=モルトの港を経由して、地中海一円で産する高価な甘口白ワイン]
c.[ローヌ川を下って運ばれてきた、サン=プルサンやボーヌのワイン:ボーヌワインは次第に好まれるようになっていく]

【繁栄するアヴィニョン】
 I.この時期にアヴィニョンの人口は6倍に増え、30,000人の大都市に成長していった。地元住民は「職人仕事・商いを独占していた」が、コンタ・ヴネサンやプロヴァンスなどから「奉公人,兵士,乞食,泥棒,娼婦などが流れ込んできた」。さらに「若い見習い書記も、働き口・うまい話を当て込んで続々と集まった」
 J.“ピニョット(教皇庁の施物分配所)”では連日、200~300人分のパン・ワインが配られていた。居酒屋・旅籠屋・浴場・淫売屋は客で溢れかえっていた。それは“当代のバビロン”と非難された
『ワインの文化史』ジルベール・ガリエから[3]


○敬意の印としての王侯ワイン


(1)カペー王のブドウ栽培

 A.カペー朝(987~1328年)歴代のフランス王は、王国のワインに絶えず格別の関心を払っていた。フランスのブドウ栽培は北部が圧倒的に優勢だった(~16世紀)のは「修道院の空前の隆盛,都市の発展,歴代フランス王の強い思い入れ」の結果だった
 B.初代ユーグ・カペーの支配力はパリとその周辺に限られていた(ほぼイル=ド=フランス地方に相当)。そこでは「王の畑が、船の航行可能な川が近くにある、日当たりの良い東・南向き斜面を選んで開かれた」「そこで“フロマント”(別名“ブロ”“オセロワ”,つまりピノ・グリ種)を栽培した」。そうやって産したワインは、ほとんどが『フランスもの』だった
 ☆セーヌ川のさらに下流のヴェルノンのワインは『ノルマンディーもの』だった。ヨンヌ川のより上流で産するワインは『ブルゴーニュもの』だった
 C.王家の畑は「パリのシテ島とサント=ジュヌヴィエーヴの丘,近郊のアルジャントゥイユとイヴリ,遠くはボヴェ・ラン・マント・ムランの諸都市」にあった。オルレアン(王領地としてカペー朝の中心都市だった)にも、王家の畑は広がっていた
 D.カペー王は広大なブドウ畑の所有者であるばかりでなく、商才にも長けていた。「a.パリではワイン優先販売権を行使して、王家の畑で産したワインを他に先駆けて市場に出した」「b.フランドル地方・ドイツ・(特に)イングランド向けの貿易にも参加した」のだった。さらに「c.王も司教や修道院長と同じく、注意して自分の畑・酒蔵から粗悪なブドウ(例:黒or白の大きな実をつける“グエ”)を締め出した」
 E.カペー朝の王権が及ぶ範囲が拡大する(12~13世紀)と『ブルゴーニュもの』、さらにはアンジュー・ベリー・ポワトゥー・オニスの諸地方のワインも輸出されるようになった。“フロマント”“シュナン”を使った白ワインに加えて、赤ワインも輸出されるようになった
〈例〉ピノ・ノワール種(当時は“モリヨン”“オヴェルナ”と呼ばれていた)を使ったワインは、イングランド人にことのほか好まれた(11世紀~)


(2)ワインの君主:ブルゴーニュ公

 A.歴代のブルゴーニュ公は、修道会(ベネディクト会,次いでシトー会)に惜しみなくブドウ畑の寄進を行った。彼らは「喜捨のつとめ」を果たすことで、私心を捨てて改悛した罪人にも約束されていた「永遠の生命に至る可能性」を高めたのだった
〈例〉ウード2世はシトー大修道院に隣接する、ある小修道院からの異議申し立てを退けて、シトー大修道院に「ヴジョの畑の所有を認めた」&「周囲に塀を巡らす許可を与えた」(1162年)

【ブルゴーニュ公のブドウ栽培への配慮】
 B.貴族は自分の所有地を「1.賃借栽培契約によって、地域の農奴の労働力を利用して開発した」。借主たる農民は「2.土地を開墾してブドウを植え付け手入れする」。最初は僅かな収穫だが「3.5年経った時点で畑を折半するので、生産力の高まった畑が貸主=貴族に戻る」という仕組みであった
 ⇒半分は農民の手に残るので「4.農民の小規模保有地が貴族の所有地から生まれた」ことになる。独立小作農となった農民には「5.土地譲渡も認められたが、領主への貢租は支払わなければならなかった」
 C.上記1.~5.の制度が特に盛んに用いられる頃(15世紀~)には『分益小作制』(土地を折半するのではなく、5年目以降に収穫の半分を納める。その他の貢租ももちろん納めて賦役労働もこなす)が採られるようになった。導入の狙いは「百年戦争で疲弊した農村に、稀少な労働力を引き留めておく」ことにあった

【品質維持のために】
 D.さらに歴代ブルゴーニュ公は、領主直営地はもとより、領内の封臣・臣民が産するワインについても、品質の維持に注意した。というのは「過剰な施肥,多産型のガメ種の急増によって、ブルゴーニュワインが品質低下の危機に晒されていた」のだった(14世紀)
 E.ブルゴーニュ公国はそもそも白ワイン(例:“ボーヌ”)で有名だったが、新たに優良な赤ワインを産し、売り出すようになっていった。フィリップ豪胆公(1342~1404年)は、そうした上質な“ピノの赤ワイン”をいたく好んだ
〈例〉豪胆公の勅令(1395年)では、ガメ種のブドウ(大量のワインを作ることができる)を“油断のならない悪質なガメ”と呼んで、樹の引き抜きを命じ今後の植え付けを(高額な罰金をもって)一切禁じた
 ☆同じ勅令では「優良なブドウの畑に、堆肥・汚物を施肥する」ことも禁じた
 F.しかし勅令はなかなか守られなかったようで、後にフィリップ善良公も同じ勅令を発布しなければならなかった(1441年)。また国王シャルル8世の同様の王令を出した(1486年)が、これは以後に「ワインの原産地・品質を保護する政策の根拠or模範」となった

【その他の諸侯の努力】
 G.フランドルボードワンは「リール,エル=シュル=ラ=リス,ヴァランシエンヌのそれぞれ周辺」で、成果は乏しかったものの良質のワイン作りに取り組んだ(11世紀~)
 H.オーセール伯領では、フランス王とブルゴーニュ公という強大な隣人(どちらもワイン作りに鎬を削った)に挟まれながら「シャブリ,ヴェルマントン,サン=ブリ」で上質のワインを作った(12世紀~)。その際「ブドウ栽培自体は近くのポンティニ大修道院のシトー会士に任せていた」ものの「河川輸送路は伯が掌握していた」という
 ☆フランシスコ会士サリンベーネ師は、滞在しているオーセールの町が「ブドウの単作に支えられ繁栄している」様子に目を見張った(1245年)。そこの白ワインは“時に黄金色を帯び、アロマに富み、コクがあっても、えもいわれぬ味わいがまったき喜びで心を満たす”のだという


(3)ボルドー地域のワインと政治

 A.ヘンリー2世(プランタジネット朝初代のイングランド王として即位した:在位1154~89年)は、アンジュー伯領・ノルマンディー公領・アキテーヌ公領を有することになった。以後のプランタジネット王家は、支配下の競合するワイン産地(アンジューとボルドー)のどちらにも利益がもたらされるように務めた
〈例〉ジョン欠地王(在位1199~1216年)は、アンジューとボルドーのワインを寵臣に分け与えた
 ☆このワイン分与には「歴代フランス王がカンタベリー大聖堂に対して行ったワインの定期的奉納(1179~1477年)に対するお返し」の意味合いもあった。奉納そのものは「聖トマス・ベケットを称えて100ミュイの“極上ワイン”が奉納された」というもの
 ★中世パリの1ミュイ=約160l
 B.中世の英‐仏間での長い紛争において、ノルマンディーとアンジューは両国間を行き来した。そのためイングランド王は、アキテーヌの臣民(のブドウ畑&ワイン)にばかりかまけているわけにはいかなかった。歴代の王が臣民の忠誠を得るには、何度も特権を振りまくより他なかった
〈例1〉ヘンリー2世はギュイエンヌ公として、ラ・ロシェルにコミューン(自治都市)としての特許状を与えた(1178年)。王妃アリエノールは同市に新港を築いた(1180~90年)
 ★ラ・ロシェルについて:「a.早くからコミューン特許状を授けられた」「b.新たな港も築かれて、フランドルなづ北方の商船が集まる港として栄えた」「c.一帯は塩の産地だったが、良港を擁する強みを生かして、周辺でのワイン作りも盛んになる」
 ★そもそも北方のフランドルにワインを供給していたのは、地理的に近いパリ周辺・ライン地域だった。しかし北の産地ではブドウの出来が天候に左右されやすいので、温暖で安定した収穫が得られる大西洋岸が注目されたのだった
〈例2〉ヘンリー3世(在位1216~72年)の頃には、オレロン島の船主たちは「司法権を含む自治権を認められた」「彼らがまとめた『海事法の基礎』というべき文書が、大西洋~バルト海の海域で適用される」ようになっていた
 ★洋上交易に適した船の大きさは、積載可能なワイン樽(トノー)の数で示されていた

【特に厚遇されたボルドー(13世紀)】
 C.リチャード1世は宮廷を構えたばかりでなく(~1199年)、彼はガスコーニュ・リムーザンの方言を話し、ボルドーワインのイングランドでの販売を推し進めた。リチャードの死後に母后アリエノールはボルドーに特許状を出し、都市がブドウ栽培をする際の制約を取り払った
 D.ボルドー市民はカスティーリャ王の侵略に抵抗してイングランドへの忠誠を示し、ジョン王の行為を勝ち取った。これによってロンドンの宮廷で、ボルドーワインのラ・ロシェルワインに対する優位が決定的となる(1215年)
 ⇒これによって、イングランド王から「見放された」と考えたラ・ロシェル市民は、フランス王ルイ8世に対して町を開いた(1224年)。ここぞとばかりにボルドー市民はイングランド王への忠誠を誓い、王からコミューン特許状を授けられた
 E.英国人の好みは、こうしてボルドーを中心とするガスコーニュワインへと移っていった
〈例1〉ヘンリー3世はブリストルの代官に「ガスコーニュワイン25樽,アンジューワイン5樽をブリストルで買い付け、聖霊降臨祭の祝いに間に合わせるようにグロスターへ送る」よう命じた(1233年)
〈例2〉エドワード2世は自分の戴冠式の祝賀行事のために、ボルドーの“クレレ”(薄い赤色orロゼのワイン),1000樽を注文した(1307年)
 F.ボルドー繁栄の背景には「アキテーヌ女公だったアリエノールが、ルイ7世に離縁される(1152年)や否やアンジュー伯アンリと結婚した」→「そのアンリがイングランド王に即位した(1154年)」ことがあった
 ☆繁栄したボルドーの活況ぶり:「a.市域を大きく広げた」「b.周囲の荒れ地・森林を開墾してブドウ畑とし、不毛とされていた砂利地・干拓された沼沢地もブドウを植えた」「c.ガロンヌ川右岸のケリエスの沼沢地は、ボルドー大司教が率先してブドウ畑に変えた」「d.王侯・司教・ブルジョワがそれに続いた」

【諸都市の特権】
 G.英‐仏間に小競り合いは絶えなかった(百年戦争以前も)ので、ボルドー以外のアキテーヌのワイン産地も、いかにイングランドから利益を引き出すかに腐心した
〈例1〉ベルジュラックの臣民は“ボルドーの特権”と呼ばれたものを回避して「ドルドーニュ川沿いの貯蔵庫に無税で自分とこのワインを保管する権利」を、ヘンリー3世から手に入れた(1254年)
〈例2〉同じように、必要な自治・ブドウ栽培の自由を各都市は手に入れた(カオール,ガイヤック,モワサック,ラ・レオル,ランゴン)
 H.一方では“ボルドーの慣行”なる特権もまかり通っていた。ボルドーはコミューン特許状(1224年)に自分たちでべらぼうな特権を盛り込んでいたのを、歴代イングランド王は承認こそしなかったものの多目に見ていた:
 「a.ボルドー市民が作ったワインに免税を認めた」「b.タルン川・ロット川・ガロンヌ川を下ってくる内陸部のワインは、聖マルタンの祝日(11月11日)以前にはボルドーに持ち込むのを禁じられた」「c.ただしボルドーが不作の年には、10月でも喜んで内陸部のワインを受け入れた」「d.反対に豊作の年には、ボルドーワインが売りさばかれるまで、内陸部のワインはジロンド川を通って大西洋へ出ることも認められなかった」
 ☆ジロンド川経由で輸出されたワインのうち、内陸部のワインは年によって50~70%を占めていた

【特に厚遇されたボルドー(14世紀~)】
 I.英‐仏戦争の再開(1337年~)とペストによって荒廃が広がる中、ボルドー市民はイングランド王への忠誠を貫くことで利益を収めた。反対にフランス王に味方した都市(例:カオール,ロデーズ,アルビ)は「ボルドーへの搬入解禁日が12月15日になった」ことにより、大西洋方面への販路を失った(1373年~)
 J.ついにヘンリー4世は、ボルドー市よりも下流でのジロンド川におけるワインの荷積みをも禁じた(1401年)。ドルドーニュ川流域の産出者・リブルヌのワイン商人は怒り狂ったと思われる
 ★ドルドーニュ川はボルドー市よりも下流でジロンド川に合流するので、それまではボルドーの特権に悩まされることなくワインを大西洋に送り出せていた
 K.カスティヨン(リブルヌ南東)での英軍敗北をもって百年戦争が終結した(1453年)時、フランス王シャルル7世はボルドーの特権を剥奪すべき、と考えていた
 ⇒ところがシャルル7世は「戦争がもし再開された場合、ボルドーに寝返られてはならない」と考えて、翌年にはボルドーの特権を回復させた
 L.これによって、内陸部で産するワインは「11月30日以前でのボルドー通過を禁じられた」。この期限は後に「12月25日まで遅らせた」(1461年,ルイ11世による)。さらに「外国商人がボルドー産とそれ以外を判別できるよう、内陸部から運んできたワインの貯蔵庫を城郭外のシャルトロン河岸に限定した(貯蔵期限は9月8日だった)」(1565年,シャルル9世による)
『ワインの文化史』ジルベール・ガリエから[2]


○樽と聖杯


(1)ブドウを経て永遠の生命へ

【キリスト教でのワインの表現】
 A.“人にとって人生そのものとも言えるワイン”は“心を浮き立たせ、喜びを満たす”と幾度か記されている(旧約聖書の1書:シラ書)
 B.神に選ばれたイスラエルの民はしばしば“ヤハウェのブドウの樹”と表現された
 C.“主のブドウの樹”(新約聖書)
 D.“わたしはブドウの樹、あなた方はその枝である”(ヨハネによる福音書に記されたキリストの言葉)
 E.“ある人がブドウを植え、垣を巡らし、ブドウを踏む窪みを穿ち、見張りの櫓を建てた”(マルコによる福音書)。これは旧約聖書のイザヤ書にあるのとほぼ同じ
 F.冬ごとに刈り込まれては再び実をつけて収穫されるブドウの樹は「復活と永遠の生命の象徴」と見なされた

【秘跡とワイン】
 A.“わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、いつもわたしの内にあり、わたしもまたその人のうちにいる”(ガリラヤ湖のほとりでイエスが語り、ヨハネが伝えた言葉)。これは「聖体の秘跡」を予告していた
 B.パンとワインを用いる聖体の秘跡の儀礼は「1.最後の晩餐の席でキリスト自身によって制定された」→「2.象徴的意味づけがなされた」。この儀礼を通じて「3.聖別されたパン・ワインは実体変化し、キリストの肉となり血となる」「4.それに与った信徒には、神の恩寵が授けられて天国への扉が開かれた」
 C.聖体の秘跡における問題〈1〉「この儀礼に用いるのは通常は白ワインであって、赤ワインではない」。白が用いられる理由は「白ワインの方が豊富で安く、染みもつかなくて扱いやすい」という、経済的・実際的なものだった。つまり“ワインが血である”というのは、あくまで象徴的意味合いである
 ★中世の写本装飾画・陶器・ステンドグラスに描かれた「神秘の圧搾器から流れる汁」は赤く描かれる。そして「ブドウとともに圧搾器にかけられたキリストが流す血」は、その汁と混じり合っている
 D.問題〈2〉「時代が下ると、ワインを儀礼に用いるのは聖職者だけに限られた」。教義上の根拠はなく「経費の削減,伝染病予防」などが理由として挙げられる。むしろ反対に「全ての一般信徒の聖体拝領を(再び)パンとワインの両形態で行うように求める」声が上がった(14世紀~)
 ☆ウィクリフ(イギリス)・フス(ボヘミア)→ルター→カルヴァンへと、一貫してこの要求は掲げられた。これに対してトリエント公会議(1545~63年)では何ら立証は行われず「それは神の権利に反する」と断じたに止まった
 ★この問題について「聖杯と聖体拝領のワインを専用する」→「一般信徒の“群れ”の上に立つ聖職者という序列を、教会が明示しようとした」と解釈されている(グレゴリウスの教会改革以降の流れに位置付けた理解)
 ★歴代フランス王は「戴冠式で両形態による聖体拝領を受ける」→「自らを聖職者と並ぶ地位に置いた」とされている


(2)酩酊は罪なり

 A.初期教会の教父は“酩酊はいかなる場合も厳しく断罪される”とこぞって明言していた。ところが異教的な伝統では「陶酔の中で人と聖なる霊は交わりうる」とされていたのだから、教会はこれとはキッパリと手を切らねばならなかった
〈例〉アルル司教カエサリウスは「宴会の終わりに、生者・死者から聖人・天使にまで捧げられていた乾杯」を一切禁じた(6世紀)[※当時の人々も、飲酒が許される場面・口実を欲していたようだ]
 B.そこで教会の立場として「断食・瞑想を経て初めて、人は霊的な忘我の境地に達することができる」というように考えた。したがって聖ベネディクトゥスも「節制を第一」とし“修道士が神を称え、無駄話を慎むように”留意せよ、と修道院長に命じている
 C.教化を目的とした文学作品ではもちろん節制を大事としたのだが、宗教色のない文学作品でも「性的禁欲‐節酒」はひとくくりにして語られた
〈例〉賢明なるブルジョワの模範を示した『パリの家政の書』(1393年頃)には“酔っ払い、酒浸りになると人は分別も理性も失う。酒を飲んでいるつもりが、実は酒に飲まれているのだ”と書かれている


(3)教会美術とブドウの樹・ワイン

 A.キリスト教美術(例:石or木の彫刻,版画,写本装飾画,絵画)には、中世キリスト教とワインとの2面的関係(ワインは「救済への道」と「罪への道」を持ち合わせている)がハッキリと現れている
 B.「ブドウの樹,ブドウ畑での日々の仕事」は「ワインそのもの,醸造・貯蔵の様子,ワインを飲む様」よりも描きやすいという事情があった
〈例1〉「ブドウの蔓が絡み合い、房が垂れ下がる」図像は“生命と幸福をもたらす力の象徴”として、ロマネスク教会の柱頭を飾った。信者はそこに“エデンの園の生命の木”を見た
〈例2〉「ブドウ栽培者が働く姿,使用する道具」は、ブドウ畑に対する神の加護を願い、さらに「労働と対比することで、あらゆる悪徳の母となる“怠惰”を際立たせる」狙いがあった

【ゴシック美術において】
 C.信者の心を揺さぶる役割を担っていた図像の重要性は、さらに増していった。ブドウの樹・ブドウ畑での仕事は、大聖堂の外側の目につく所に描かれるようになったのだ
〈例3〉サンスのサン=テティエンヌ大聖堂正面の基礎部に彫られた絵暦は「3月:ブドウの剪定,9月:摘み取り,10月:ワインの樽入れ」の場面である。同様の絵暦は他にも(複数)見られる
〈例4〉ステンドグラスの図柄の中では、シャルトル大聖堂のもの(13世紀初頭)が最高傑作として挙げられるが、そのうち酒屋の同職組合が寄進した「聖ルビヌスのステンドグラス」について:
 「a.聖ルビヌスはシャルトル司教で“ブドウ畑の守り主”だった」が、その周りに「b.ブドウ栽培者が収穫している(桶,醸造桶,樽)」「c.屋台の酒屋がワインを売っている」「d.酒蔵担当修道士がワインを抜いている」といった場面を描いた、円形の図柄を配している
 身廊の上のノアのステンドグラスには「e.ブドウを育て、収穫した実をつぶす」場面が描かれている
 内陣右手の黄道12宮と農作業を描いた大ステンドグラスには「f.3月のブドウの剪定~12月に新酒を飲むまでのワイン作りの流れ」を追っている

【聖書の写本装飾にて】
 D.こちらに携わった芸術家たちは、旧約聖書に材を取って「エラム王を打ち破ったアブラハムを、サレム王メルキゼデクがパンとワインを持って訪れて祝福する場面」(創世記14)が描かれた。また(福音書から)「カナの婚礼」「最後の晩餐」の場面が何度となく描かれた

【酩酊がもたらす災いを題材に】
 E.この災いを暴いた図は、上記のポジティブな美術よりも多い
〈例〉旧約聖書からは「酔っ払って裸になったノア(創世記9),酔って娘たちと近親相姦を犯したロト(創世記19),神を畏れぬベルシャザル王の宴会(ダニエル書5)」の3つの画題が採られた。新約聖書では「“大淫婦”“獣に跨がる淫らな女”に対して、神の激しい怒りのワインの杯が振りかざされる」場面は、数多く登場する
 F.教会の聖職者席の「ミゼリコルド」(起立した聖職者を支える小さな支え)にも、酩酊の図が彫られる場合があった。この作者は非聖職者だが「淫蕩な大酒飲みの修道士を揶揄する」ために、ここぞとばかりに鑿を振るったと思われる
 ⇒下品な彫刻は雇い主の目についたであろうが、教会サイドにとっても「そこに席を占める司教座聖堂参事会員に節制を促し、品行を正す」ように求める、教育的効果があった筈だ


(4)神のブドウ畑の修道士たち

 A.早い頃から多くの修道院で聖ベネディクトゥスの会則が忘れられ「肉・菓子・ワインなどの飲食を大目に見る」のが次第に当たり前になっていった(9・10世紀)
 ⇒こうした風潮への反発がクリュニー大修道院で始まる(11世紀)。そこから“娘修道院”(従属修道院:西ヨーロッパ全域を10の地方に分けて設けていた)にたちまち広まった
 B.この改革運動をさらに徹底させたのがシトー会(モレーム修道院長ロベールが設立:1098年)であり、その娘修道院クレルヴォー(ベルナールが初代院長となる:1115年)であった。シトー会が打ち出した規律は、修道士があるべき姿を取り戻すのに力があった

【修道士の農場開発】
 C.原点に立ち返るために「1.自給自足の理想を実現してこそ、富の虚しさを超然と見下ろすことができる」→「2.そのために(修道院の世俗的財産たる)農業資源を開発する必要がある」。こうして「3.クリュニーと(とりわけ)シトー会の修道士は、草創期のベネディクト会士以上にブドウ栽培に打ち込んだ」のだった
 D.シトー会士はブルゴーニュ地方に次から次へとブドウ畑を開いた(12~13世紀)。彼らは「a.自らは節制に務めつつも、ブドウ栽培・醸造学のしっかりとした知識を身に付けていった」。言い伝えでは「b.所領の畑の土の味を舌で確かめて分析を行った」という(真偽は不明)。少なくとも「c.ワインとそれを産する土地(テロワール)の関係を経験から掴んでいた」のは間違いない
 ★修道院は様々な人から寄進された、小さな畑をあちこちに所有していた。だから比較はし易かったはずである

【開発の深化】
 E.後になると「d.畑の『区画』ごとに名前をつけて区別していた」(14世紀)
「1.外観から:“モンラッシェ”はそもそも禿山〔モン・ラシャ〕と呼ばれていた」
「2.土壌によって:“ペリエール”は石切場,“グレーヴ”は砂場,“グラヴィエール”は砂利採取場」
「3.植生をもとに:“ジュネヴリエール”はネズの木の群生地,“シャルム”はクマシデ」
 F.シトー会修道院は「e.石切場も経営していた(上記2.からも窺える)」ので、惜しみなく「f.石を使ってブドウ畑を塀で囲い、修道院の回廊・教会にも劣らない入念さで、醸造室・酒蔵を建てた」
〈例1〉クロ・ド・ヴジョの酒蔵は「縦:27m,横:16m,高さ:5m,ワイン2,000樽を収納できた」
〈例2〉ディジョンにあるクレルヴォー修道院の酒蔵は、丸天井(交差リブ・ヴォールト)の3階建て

【開発の拡張を示す事例】
 A.ポンティエ(シトー会の娘修道院)はスラン川沿いの(現在の)シャブリ一帯の丘にブドウを植え、できたワインは助修士が平底船でオーセールへと運んだ
 B.パリ周辺では、シャリ(サンリス近郊)・ダマリ=レ=リス(ムラン近郊)・ロワイヨモン(モンモランシ近郊)などの修道院な周りにブドウ畑が開かれた
 C.メッツ(13世紀)には4つの修道院(サン=タルヌー,サン=クレマン,サン=サンフォリヤン,サン=ヴァンサン)のブドウ畑があり、そのワインは酒蔵の所有者の所で小売りされた
 D.メッツとリヨンのサン=ピエール教会の修道女は、修道院の戸口でワインを売っていた
 ☆ワインの「量り売り」を認められた印として、戸口の上には「緑の小枝の束」が掛けられていた
 E.サン=タントワーヌ修道院(ドーフィネ地方・ベネディクト会所属)が、そこの聖人の遺物を浸した、聖なるワインを病人に売った
 F.南西部のアルビ地域・ガスコーニュ地方・ベアルン地方では、ピレネー山脈をまたいだスペイン側のロンズヴォーにまで手を広げて、ベネディクト会士・シトー会士・救護修道会士がワインを作り、ヨーロッパ全域から訪れる巡礼者にワインを売った
 ★サンディアゴ=デ=コンポステラへ向かう大巡礼路は、1大ワイン街道でもあったのだ