『ワインの文化史』ジルベール・ガリエから[6]


(5)民衆のワイン

 A.中世社会では(パリのような巨大都市は例外として)都市/農村の線引きをするのは無理があった。フランスの南半分では「市壁に囲まれた小都市~大きめの村は、様々な取引・交流を通じて近隣農村とは、経済的・社会的に一体化していた」という現実があった
〈例〉カルパントラ(プロヴァンス地方)
 この町では農民・職人・聖職者・非聖職者を問わず、年間300~400Lものワインを消費していた。住民とワインの関わりの内訳(税の監査官が残した会計簿から)は以下の通り
「自分で作ったワインをそのまま酒蔵に貯蔵した(売り買いどちらもしていない):45%」
「売って残りのワインを貯蔵した:20%」
「自分で作ったワイン以外にいくらか貯蔵した:20%」
「ブドウを買って自分でワインを作った:3%(全てユダヤ人)」
「ワインを全く貯蔵していない:12%」
 B.この町では「住民はブドウを栽培するワイン算出者である」「大半は自家消費用で、少量が地元で取引された」ことが分かる。司教と15人ばかりの司祭(特権に与っていた)が最大の販売者であった(司教だけで5~12KL/年)
 C.カルパントラの生産者の顧客は「プロヴァンスの北・アルプスに近いガップ一帯の農民」だった。彼らはワインを小麦・羊・ラバと交換した
 D.このような例はフランス南部に多い(例:アルル,ニーム,カルカソンヌ,アルビ,ガイヤック,ロデーズ,ミョー)。小さな町では「周辺で産するワインを消費する」だけでなく「近隣地域で牧畜を行う農民にワインを売っていた」のだ

【ワイン消費と身分秩序】
 E.アルル大司教と食事を共にした高官は年間平均894KLものワインを飲んだのに対して、トレッツ(エクス=アン=プロヴァンス近郊)にある教皇庁学校の学生は220KL/年だった
 F.カルパントラでは「司教館では甘口ワイン(例:“マルヴォワジ”“ミュスカ”)・香辛料入りワイン(クラレイア,イポクラス)」「裕福な商人の館ではラングドック地方東部の地中海沿岸(例:サン=ジル,ボケール,リュネル)で産するクレレ・赤ワイン」「職人の家では地元の白ワイン・赤ワイン」「労働者・農民の家では“ピケット”」が、それぞれ飲まれていた
 G.“タヴェルヌ”ではたいてい、酸っぱくなったお粗末なワインを水で薄めたものが出された。したがってそこで飲むのは、貧乏人・旅人だけだった
 H.ワインを飲む器にも序列があった(公証人が作成した財産目録から)。「司教館:銀製のカップ,杯,ゴブレット(ミサにも用いた)」「商人・職人の家:主に錫の食器」「農家:土器,木製の酒坪orゴブレット」が使われた


(6)ワインと暴力

 A.中世でも「戦いを前にしてワインを飲むと、勇気が湧いて闘争心が高まる」と言われた。それゆえに、息が詰まりそうな甲冑・鎖帷子を装備した騎士・歩兵は、戦の前にも後にも「ワインを飲んで喉の渇きを癒やし、力を取り戻した」
〈例〉ブーヴィーヌの丘で戦ったフィリップ2世(1214年)にも、オルレアンの戦いに身を投じたジャンヌ・ダルク(1429年)にも「ワインに浸したスープ」が供された
 ★スープとはもともとは「ワインorスープに浸して食べる薄切りのパンのこと」
 B.領主の旗の下に集まった兵士(or国王の軍隊)が行軍する後には、ワインを積んだ荷車が続いた。ワインは隊長用だが、たいていは兵士たちに分配しないわけにはいかなかった。それでも町・城・修道院は略奪を受けたし、食料貯蔵庫・酒蔵はスッカラカンになった
 C.“タヴェルヌ”・旅籠屋では暴力沙汰はつきものだった。“会食者”とは「パンとワインを分かち合う者」を意味し、公に「友情の誓い・和解の接吻が交わされ、酒が酌み交わされた」のだが、その絆は同じくらい公然と断ち切られた
 D.相手の顔にグラスのワインをひっかけるのは「約束の破棄」を意味し、捨て台詞=勝手にしやがれ、金輪際貴様とは酒なんか飲むものか」が続いた。これは「騎士が戦いを挑む際に、籠手を地面に投げ捨てる」のと同じ意味しだった
 E.さらに乱闘へと発展する場合には、場所を通りへ移した。というのは「タヴェルヌはみんなが共有する友愛の場」であり、汚してはならない場所だったから


(7)ワインの贈り物

 A.国王・教会・諸侯・都市当局などお偉方は、都市の街路に繰り出した民衆が思う存分酒を飲む機会を、祝賀行事によって与えた。これによって「都市の威光」を高めようとしたのだが、この場合の主役は民衆だった
 B.中でも「王の入市」の祝いはとりわけ盛大であり、惜しみなくワインが振る舞われた。市参事会員は「王とその一行にはとっておきのワインを供した」「民衆のために噴泉から流れ出るワインを用意した」
〈例〉シャルル6世のリヨン入市(1389年),ルイ11世のオルレアン入市(1461年)&ブリーヴ入市(1463年),ジャン2世(1350年)&シャルル5世(1364年)のパリ入市
 C.しかしルイ11世のパリ入市(1461年)の場合には「両者の和解を身をもって示す」という、強い政治的意図が込められていた。これはパリが「ブルゴーニュ公家(1404年~)とイングランド王家(1420~36年)の覇権を公然と受け入れた」ので、フランス王との間に長く険悪な関係が続けていたためである
[※ジャン・ド・ロワの年代記が伝える、ルイ11世のパリ入市の様子は省略]
 D.民衆に酒を振る舞うのは大変な出費になるので、特別税が徴収されることもあった。それでも祝祭が催されたのは、そこに「社会の上下を1つに結びつける機能があり、ままならぬ日々の暮らしを一旦中断し、光輝を与える力がある」からだった。それは「ワインが持つ社会的・文化的機能」であった
〈例〉サン=トメールでは“王のワイン”の名のもとに徴収された。パリでは“慈愛の贈り物”という1種の特別債を使って集められた。しかし特別債が償還されることはなかった




○その他、中世のワインに関して


(1)中世のワイン関連の単位

【樽の容量】
1クー(約470L)=3ミュイ
1ミュイ(約156L)=16スティエ

【ワイン容器の容量】
1スティエ(約10L)=4カルト
1カルト(約2.5L)=2パント
1パント(約1.25L)=2ショピーヌ
1ショピーヌ(約0.62L)

【パリで用いられた単位】
1ミュイ(約160L)
1カルト(約1.86L)=2パント
1パント(約0.93L)

【同:重さ】
1リーヴル(約489.5g)=4カルトロン
1カルトロン(約122.4g)=4オンス
1オンス(約30.6g)=8ドラクマ
1ドラクマ(約3.82g)

【南仏では】
1リーヴル=12オンス


(2)利きワインについて

 新酒のワインの味利きをするには、ワインが他の時期よりも「混じり気がなく、澄んでいる」ので、北風が吹く頃がいい
 反対に南風は「ワインを揺さぶって目覚めさせ、どんなワインであるかがよくわかる」ので、専門家の中には南風が吹く頃に味利きする人もいる

 若い者は味利きをすべきではない
 さんざん飲み食いさたあとに味利きをするのも良くない。ボローニャでは「必ず空きっ腹で味利きをする」。味利きの前には「苦いもの,辛いもの,その他味の分からなくなるものを口にしてはならない」。ただし食べても少量で、きちんと消化できるのなら問題ない

 商人を騙すために「用意した新しい容器を、馥郁と香る古い上質のワインで湿らせてから、売り物のワインを入れる」者がいる。もっと巧妙なのは、味利きをする人に「クルミやチーズを出して食べさせる。すると、さっきまでしっかりしていた舌が狂って」誤魔化されてしまう

 こんな話をするのも一杯食わされないようにするためであり、人を騙すためではない。ワインの味を利いて値踏みするのが仕事の商人は、新しいワイン・古いワインを問わず度々味利きして、くれぐれも引っかからないようにする必要がある

※『農村がもたらす利益について』(14世紀初頭)の中で、著者であるイタリアの農学者ピエトロ・デ・クレッシェンツィはこのように説いている、という


(3)美味しい酢の作り方

 良質のワインを用意し、甕に半分まで入れる……。この甕に蓋をせずに温かい場所に置き、最初に酢をたっぷりかけておく……。こうして1ヶ月かもう少しそのまま発酵させれば、とても美味しい酢ができる

(さもなければ、前もって“酢職人のパン”と呼ぶ酢種を作った。これには「ミズキの実,野生の桑の実,野生ブドウの実,辛玉ネギの種子を使った)

 全ての材料を粉末状にする。強い酢を用意してこの粉末をとき、小さなパンのように丸めてよく乾かす。いざ使う時には、ワインが強ければこれを1オンス、弱ければもっとたくさん入れる。そうして1週間置いておくと、とても強い酢ができる

※これもクレッシェンツィの上記著作の中で記されている、という。さらに『酸味』(ミゼット・ゴダール著)の解説付き


(4)ワイン・酩酊を語る古い言葉

【ワインの色】
 白ワイン(中世のワインの大部分を占めた)はそのまま“白”と表現された。中でも“涙のように澄んだ”ワインは最高とされた
 中世には黄色いワインは評価されていなかったから“黄色い”という形容詞は使われていない
 黒ブドウを使い「1.すぐに圧搾する」or「2.皮・種が果汁に浸かったまま短時間発酵させる」と“クレレ”という種類の、色の薄いワインができた。クレレにはごく薄い色から、オレンジ色・ルビー色・赤ワインに近いものまであった
 2.でより長く発酵させたものは“黒いワイン”と呼ばれた

【ワインの味】
 ブドウがよく熟していない、醸造が上手くいかない場合には、白ワイン&クレレは“酸っぱく渋い”ものになった。中には“微かに泡立つ”と表現されるものがあった。“繊細な”ワインは少なく、ギリシア・イタリア・スペインからの輸入物は全て“強い”ワインだった

【ワインを飲む】
 ラブレーは「ワインをガブガブ飲む」という意味の動詞として“ショピネ:chopiner(容量単位ショピーヌから)”“マルティネ:martiner(ブドウ栽培の守護聖者の聖マルティンから)”“アントネ:entonner(原義:ワインを樽に詰める)”“デサンドル:descendre(原義:ワインを地下の酒蔵に降ろす)”“ランぺ:lamper(喉をランパという)”を使っている
 また“パンテ:pinter(容量単位パントから)”は「ワインを浴びるほど飲む」という意味だった。「鯨飲みする」には“肘を高々と上げる”という表現が用いられている(15・16世紀)
 “イングランド人のように”飲むとは「痛飲する」という意味だった(13世紀)。これが中世末には“ドイツ人のように”へと変わった
 “聖歌隊の歌上手は/大の飲み助”(16世紀の諺)と言われるように、飲めば飲むほど上手く歌えた。反対も真実であり“飲んだくれの聖歌隊員で酒場は溢れかえっている”のだった。“酒蔵のカエル”とは「折り紙付きの酒飲み」のことだった

【酔っ払う】
 ラブレーは“ツグミのように酔っ払う(この鳥が美味しく熟したブドウを好んで狙うから)”“あばずれ女(マルゴ)のように酔っ払う”と表現した
 ☆マルゴ←ピ(カササギ)の別名←ピ(ピヨ〔ワイン〕を飲んで酔っ払う)、という連想から
 また“酔っ払って酒樽になる(or酒を入れる革袋になる)”こともある。“酒蔵の聖水をみだりに飲むと、主のブドウ園に身を置く”は「えもいわれぬ酔い心地を味わう」ことだった


(5)ワインの嗜み方

 由緒正しき家柄の貴族の3人の奥方が“タヴェルス(居酒屋)”で席についている。料理に取りかかる前に飲んだのは“川”の白ワイン(マルヌ川沿いの産地のもの)だった

 かすかに泡立つ、
 澄み切ったこのワイン
 強くかつ繊細で、
 すがすがしく舌をくすぐる
 その飲み口のやさしく、
 なんと心地良いこと

 食事の締め括りには、菓子(コーフル,ウブリ)・ナッツ(アーモンド,クルミ)・香辛料入り糖菓といっしょに“ガルナッシュ(名前はグラナダに由来する)”を飲んだ。ガブガブはしたなく飲む姪を見咎めて、1人の奥方が正しい飲み方を指南する

 ワインは控えめに口に含み
 舌にのせてしばらく遊ばせる
 一口飲んだら、一息おいて
 やおら次を飲む
 これでほら、じっくり味わえるの
 口に心地良くも力強いワインを」

『パリの3人の奥方の物語』(1310年頃)から