『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[4]


(7)ベッドでの恥じらい

 A.北ゲルマン族の女性は、寝る時は裸ではなく「下着or丈の長い肌着を着ていた」。あるいは「亜麻布の寝間着を着て、さらに腰から膝まで達する股の開いたズボン下をはいて寝た」こともある
 ☆日中は「肌着の襟ぐりに胸当ての布を付けた」(乳房の上がむき出しにならないようにするため)
 ☆男性も夜はたいていズボン下を身に着けて寝ていた
 B.中世でもこのような寝間着に変わりはなかった。物語において:
「1.トリスタンとイゾルデが眠っているところを見つけ出された時、イゾルデは“丈の長い肌着”(中世初期には“スブクラ”と呼ばれたスリップのこと?)を、トリスタンは“ズボン下”を、それぞれはいていた」「2.ブルンヒルデは“亜麻布の白い肌着”を着て、床入りしていた」

【中世盛期~後期】
 C.中世後期には“目開きシュミーズ”があった(“穴開きシュミーズ”とも呼ばれる)。これは「3.分厚く重い寝間着である,陰部のところにあるスリットからほんの少し露出すれば夫婦の義務を果たせる」というものだった
 ☆後に修道院付属学校の女生徒が、よくこれを嫁入り支度のために作っ
 D.しかしたいていは(特に婚外の人々が愉しむ時には)、もう少し肌を露出していた。特に中世盛期の絵では(明らかにエロチックなシーンはさておいて)、ベッドの男女はしばしば浴場と同じく、衣服をまとっていた。これは中世後期も変わらない
「4.男性は“寝ズボン”と次第に呼ばれるようになったズボン下を、また(稀には)寝間着を身に着けたていた」
「5.女性は(普通)丈の長い肌着をつけた。(時に)パンティをはくこともあった」
〈例1〉フォア伯領(フランス:14世紀)の農民たちは、下着で寝ていた。つまり田舎でも裸で寝ない習慣があった
〈例2〉フィレンツェでの姦通訴訟で、モンナ・セルヴァッツァの隣に住む女性が“自分はこのご婦人が、裸で「全裸の」男たちとベッドで寝ているのを窓越しに見た”と証言した。つまりモンナは「肌着か、少なくともパンティを身に着けていた」と解釈すべきである(1400年)
〈例3〉ある巡礼団のリーダーに出された命令には「巡礼宿の宿泊者たちがベッドに入る前には、肌着の他は全て脱いで、旅着で寝具を汚さないように見張ること」とされている(中世後期)
 ☆これは同時期のイタリアでも同じ。ロンズヴォーの宿屋では、どの巡礼にも白くて丈の長いシャツが寝間着用に与えられた
〈例4〉ある若い女性がベッドから引きずり出され、その後陵辱された時には、肌着しか身に着けていなかった(1516年)
〈例5〉エラスムスによれば、ロッテルダムでは夏も冬も丈の長い肌着をつけて寝るのが礼儀だった(1519年)
〈例6〉ハル(ティロル地方)の人々は、たいてい服をそっくり着たまま寝た(17世紀初頭)

【未知の男女の場合】
 E.一般的に「中世では未知の男女が、とりわけ旅行中にベッドを共にするのは稀ではなかった」と従来は考えられてきた。しかしそれは正しくない理解で実際には、異性が一緒の寝床に入るのはきわめて問題だった、という。
〈例7〉宿屋では普通、1つのベッドで2人寝た(14世紀半ば)が、それはいつも同性同士だった。これ以前には、時には4人かそれ以上の場合もあった
〈例8〉バイエルンにある巡礼宿の規則では「男女が同室で(同じベッドなどとんでもない!)夜を過ごすのは“自分たちが結婚している”と誓っても禁じられた」という(15世紀)。これは他の巡礼路の大旅館(ブルゴス,サン・マルコ・デ・レオン,サンティアゴ・デ・コンポステラ)でも同じだった
〈例9〉『黄色の書』に書かれた巡礼宿でのルール:「宿の主人は巡礼者を時間をずらすことなく一緒に眠りに就かせ、男女別々にして、誰かが他の部屋に行かないよう注意しなければならないという」「そのために、部屋の外から鍵を掛けるべし」
〈例10〉ネーデルラントでは、家の主が「特に重んじている客を、信用して自分の妻をその部屋で寝させる」習慣があった(中世後期)。これは「男女が一緒に寝るのは一般的ではなかった」ことを示している

【男女が1つベッドなのは良くない!】
 F.中世では(それ以降と同じく)、未婚の男女がベッドを共にすれば、何事もなかったとしてもそれは「ひどいふしだらのこと」であった。夜に「見知らぬ女性と同じ宿で、同じベッドで出会えば」それだけで姦通と同じだった(リヨンなど:中世後期)
〈例11〉北フランスのある離婚訴訟にて。「女中を同じ部屋で、しかも夫が妻と寝ているベッドの足元に寝かせた」ということで、妻が夫に罪を被せた
〈例12〉フライブルク・イム・ブライスガウで、ハンス・ラップ某がある女性を「酸っぱいのまま私のベッドの隣に寝かせたが、彼女には指一本触れはしなかった」と告白したが、それでも罰金+生涯の都市追放を食らった(1571年)
〈例13〉バートン(トレント河畔)で「ある男女が1つのベッドで夜を過ごそうとしている」という噂が広まると、2人は家から引きずり出され、野次馬が「売女と悪党!売女!売女!」と叫ぶ中、喧しい音楽とともに通りを引き回された。そして2人は棒杭に繋がれ、翌朝町から追放された(1618年)
 G.女性が、やむを得ず見知らぬ男性と1つの部屋で夜を過ごすことになれば、まずい事が起こりかねないのを承知していた。中には「夜に行き届いた看護ができるように、病気の主人の部屋で寝ていた女中が、性的な不意打ちに遭う」のも珍しくなかった
 ⇒彼女たちは「しばしば明かりを一晩中つけっ放しにした」という
〈例14〉スペインの好色の爺さんがある晩、ドイツの未亡人のもとに泊めてもらった。ところが彼は夜、手込めにしようと下着のまま彼女のベッドの前にやって来た。彼がベッドに入って襲おうとするや、未亡人はナイフを掴んで彼の裸の腹に刺した、という(時代不明)

【男女の空間的隔たり】
 H.当時は男性と女性の世界はハッキリと仕切られていたので「男性客を夜の憩いのために、女性の“秘密の領域”で寝かせる」ことは全く有り得なかった、という。宮廷のしきたり(古ゲルマンの慣習に従っている)によれば、女性たちは「それまで面識の無かった男性が手にした物に触れること」すら許されなかった
 I.面会時間中の女性の部屋には「執事自ら立ち会う」or「侍従や立派なご婦人が代わりを務める」ことが義務づけられていた。もし夜半に高貴な姫君の具合が悪くなれば「式部女官を呼んで、必要ならば彼女がさらに医師・理髪師を呼んだ」。もちろんどんな場合でも、姫君の元へ他の男性を遣わせてはならなかった(16世紀)

【男性も襲われる】
 J.男性が襲われるのは、他の男性と一緒だった時である。同性愛的行為は、射精に至った段階で既に問題とされたのだった
〈例15〉あるコックは「ベッドの中で手を伸ばし、隣に寝ている廷丁の陰部をマッサージした」のを第三者に目撃されたため、火刑に処せられた。しかしされた側の男性も、彼は相手の手を払いのけなかったので、町から永久追放された
 ☆「払いのけなかった」というのは、彼が(どんなに眠っているフリをしていても)射精してしまったことによって、法廷で証明されてしまった
 K.そんなわけで、お互いの気遣いは男性同士がやむを得ず一緒のベッドで寝なければならない時にも必要だった:「ベッドの中で接触しない」「他人の掛け布団を剥いで身体を露わにさせない」「もちろん自分の身体も露わにしない」

【修道士と修道女への規則】
 L.ヴァルドー派修道院や“キリストの貧しき者”修道会では「肉の誘惑に動じない」ことを示すために、男女が1つのベッドで寝た(12世紀初)が、やがて「もってのほかとされた」(13世紀初期)という
 M.全ての修道士は「a.別々のベッドで、寝間着をつけて寝なければならない」とされた。あるいは「b.10人か20人がひとかたまりになって寝なければならない」「c.青少年の場合には、彼らの面倒を見る最年長者と一緒でなければならない」「d.共同寝室では朝まで蝋燭を燃やさなければならない」「e.服を着て眠り、かつベルトor紐で締めなければならない」のだった
 N.別の場所では、ベッドに入る際の注意として「f.修道士は就寝時、ベッドの外でフロックを脱ぐ」→「g.ベッドに入り、布団の中で下着を脱ぎ、翌朝再び布団の中でそれを着なければならない」、さらに「h.同僚に覗く機会を与えないよう、脚を組まずに、必ず両脚を同時に上げてベッドに入れ」と指示されていた(ヒルザウ修道院:11世紀)
 O.同性愛に対する警戒はずいぶん早くから登場する。「i.魅力的な同僚のそばに座ったり寝たりせず、ましてや2人きりにならないよう心掛けてほしい」「j.もしやむを得ない事情で彼と話さざるを得ない時は、目を伏せて彼を正視しないこと」とは、聖バジリウスの助言である(4世紀)
 P.もちろん修道女に対しても同じである。中世でも「k.同じベッドに寝る,手を繋いで歩く,入浴などの折に全裸or半裸の姿を姉妹に見せる、ことは禁じられた」のだった

【病院・大学にて】
 Q.中世の大学・病院の共同寝室の規則は、修道院ほどは厳しくなかったものの、ここでも厳格な礼儀作法が求められた。「病院の大部屋では、病人は誰もが寝間着を身につけている(14世紀の写本に描かれた絵から)」「パリの学生たちは、共同寝室では寝間着の下にさらにズボン下を着用していた(これも絵に描かれている)」
 R.やむを得ない場合には、2人の病人が一緒のベッドに寝かされたが、常に同性同士だった。男部屋と女部屋は例外なく、非常に厳しく隔てられていた。世話をするのはもちろん同性同士だった
〈例1〉フランス(17世紀)では未だに4人までベッドを共用していた一方で、中世後期・ルネサンス期の絵には、患者は1人ずつ寝ていたように描かれている
〈例2〉ヨハネ騎士団の巡礼病院(イェルサレム)では、騎士団長によってシングルベッドであるよう定められた(1182年)
 S.性別の区分は牢獄においても存在し「男:塔内牢獄」「女:女性牢」というようになっていた。ちなみに中ではどちらも「パンと水だけ」しか与えられなかった

【ハンセン病患者の施療院の規則】
 T.ここでは、とりわけ規律がやかましく「男女は互いに訪問しあう,語らう,食事を共にするのは禁じられていた」。ここには、中世にあった見当違いな説(ハンセン病患者は極めて異常な性欲の持ち主である)と関連があった可能性はある。ただし夫婦は例外だった(例:リールでは日曜日毎に、食事を共にできた)
 ☆幾つかの地方では、ハンセン病の施療院は男女別々に存在した
 U.シュトラスブルクでは、一般病院も含めて「夜間看護のために、男部屋に下僕・女部屋に下女を雇った」「世話をしてもらうので、礼儀に反した寝間着を身につけるのは厳しく罰せられた」。ちなみに罰するのは看護人が随意に行った(中世後期)
 V.フライブルク病院規則では、入浴の際「男性:下着,女性:丈の長い浴用肌着」を着なければならなかった(1480年)。また聖ヨハネ病院(レヴァル)に見られるように、男女の混浴は禁じられていた
『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[3]


(3)浴場の区分と恥じらいの問題

【混浴禁止】
 A.各地での「普通の浴場/娼家と変わらない浴場」の間の線引きは「混浴か否か」が一般的だった(これにはもちろん例外もあったが、容認されていた場所でも中世後期には混浴は禁じられた)。以下は混浴を禁じた規則
〈例1〉ルツェルン
 いかなる婦人も“リッツマン”“シュテッケン”の浴場に、水曜日以外は入浴してはならない。違反者には10シリングの罰金。水曜日にこの浴場に入った男性には「罰金1グルデン(2倍!)+1ヶ月の市外追放」とする(1300年以前)
〈例2〉バーゼルとシュトラスブルク
 男女が一時に同じ部屋で入浴した。「男はズボン下,女は浴用肌着を身につけた」「ともに下半身だけでなく、腹・胸まで隠した」にもかかわらず、中世後期には混浴を禁じられていた
 ⇒シュトラスブルクは「よそ者がこの浴場で引き起こす風紀上のスキャンダル」に配慮したもの。男湯5軒・女湯3軒が建てられ、異性を入浴させたある浴場主には5ポンドもの罰金を課せられた
 B.1つ屋根の下に男湯/女湯がある場合でも、たいていは区切られていた
〈例1〉クラカウでは「天井まで達するような木の壁で互いに仕切られている」「男女別々で服を脱ぎ、また着た」
〈例2〉十字軍の騎士たちは、オリエントでふしだらと非難されていた。そんな彼らがアックラに建てた浴場ですら、木の柵によって男女は分かれていた

【混浴の場合】
 C.柵が無ければ、特に異性の方が多くなった場合に、かなりの湯治客は気まずい思いをしたようだ
〈例〉ある男性客2人連れがアーガウの浴場のあいていた浴槽に入った。しばらくして中年の婦人が22人やって来て、最初は彼女たちと愛想よく談笑していたが、やがて2人は「男が自分たちしかいない」ことに気づき、不安になって早々に退散した
 D.野外浴場(中世後期~近世初期)では「男女はズボン下と浴用肌着をまとって」混浴するのは珍しくない。それでもしばしば、木の柵によって男湯/女湯に分かれていた。残されたコメントを見ても、野外浴場であっても混浴は当たり前ではない

【恥じらいの境界線】
 E.時には(実に不作法と受け取られたのだが)浴用肌着しかまとわずに、小路を通って浴場に行く女性は少なくなかった。ただしこれは素っ裸ではなく「胸から膝まで身体を覆っていた」ことに注意
 F.当時、男が上半身を露わにした女性を見るのは相当異常なことだった。「びっくり仰天した!」という感想が伝わる
〈例〉ある旅人がラ・トゥール・ドゥ・パン(ローヌ地方)の宿に泊まった時のこと。彼はたまたま宿の厨房に足を踏み入れた時、おかみはカーテンも引かずに湯槽に浸かっていた。腹部まで裸のおかみを見た彼は仰天し、そしてひどく恥ずかしくなり、急いで厨房から立ち去った、という


(4)普通の浴場と売春浴場

 A.中世には「楽士が一糸まとわぬ男女のために演奏しているさなか、ご両人が浴槽に浸かり、飲んだり食べたりしているさま」を描いた木版画・銅版画・装飾画・絵画が無数残されている。これを「中世のかなりの人々が、男女混浴(しかも裸で)を恥ずかしがることなく楽しんでいた」と、一般には解釈されている

【諸都市の売春浴場】
 B.芸術作品に残された「売春浴場」は、ブルゴーニュや隣のフランス諸都市に存在した。しかもその営業形式はかなり手が込んでいて「時にはまともな浴場と同じ屋根の下に同居していた(下記3.)」「たいてい浴場とは名前だけで、実態は全くの女郎屋であった」という
〈例1〉トゥールーズ:
 浴場主ジャック・ロワは「1年間の教区からの追放」+「裸で町の中を走り回らされる」刑罰を課せられた。理由は、彼が「今日ならばマッサージサロンと呼べるような店」を経営していたため(1477年)
[※下記の“もぐり営業”店だった]
〈例2〉アヴィニョン:
 1.教会会議の規則によって、聖職者・既婚の男性が“いかがわしい”風呂屋に立ち入るのを禁じた。そこは“娼家風で……売春をする娼婦が公然と置かれているからである”(1441年)
 2.“ジュナン・デル・ジュラン”or“デュ・オーム”と名乗る風呂屋が「うちの浴場は“尊敬すべき、しかも上品な”ご婦人方専用です」「浴場は男風呂から完全に隔てられており、当然ながら女性従業員しかいません」と、わざわざ世間に知らせている(1443・44年)
 3.セルヴリエール浴場主たちには、彼らの家で「2つの区域を持つ許可」が与えられた。これは「浴場は昔から2つの目的(1つは尊敬すべき,1つは恥ずべき)のために奉仕してきたから」というので、それぞれに許可を与えたわけだ(1448年)
 ☆ただし浴場主たちは「2つの区域が別々の入り口を持つよう」配慮しなければならなかった
 4.浴場という名にもわらず、ある売春浴場には浴槽がたった1つもなく、代わりにベッドがたくさんあった
〈例3〉リヨン:
 この都市最大の女郎屋は、ローヌ橋畔の“山羊の風呂”(1511年取り壊し)だったが、風呂とはあまりにも無関係だった
〈例4〉ロンドン:
 ほとんど全てはロンドンの市壁外である、テムズ川南岸のサウスワークにあり、公娼宿として設立された(1161年には存在していた)。設立の折りには「浴場が“はるか昔から”女郎屋を営んでいた」事実をたてに取った(←この文化はローマから持ち込まれたことを示す)
〈例5〉ウィンチェスター:
 “ホットハウス”はウィンチェスター司教の管轄下にあったので、浴場の娼婦たちは“ウィンチェスターの鵞鳥”と呼ばれた(1506年に一時閉鎖,1546年に最終閉鎖)
 ★アラスでは「風呂桶がカップルを泊める」のが禁じられていた(1450年)のだが、規制緩和されて「一方が既婚者のカップルにだけベッドを拒否する」ようになる(1485年)。そこの浴場“イェルサレム”では、ベッド10台が財産目録の中に入っていた(1455年)
[※中世のラブホテルか!?]

【女郎屋と売春浴場】
 C.売春浴場は(当然ながら)普通の女郎屋の手強い商売敵だった。それゆえ「女郎屋のおやじ vs.“恥ずべき”売春浴場主」のいざこざは絶えなかった
〈例6〉モンペリエ:
 市営の女郎屋のおやじたちが、2つの売春浴場を訴えた。論拠は「既に法により許された、ヴィーナスに奉仕する“有益な場所”と“全くまともなやり方で身体の健康に役立つ浴場”があるのだから」とのことだった(1477年)
 よりによって訴えられた売春浴場は、そこの湯女たちが「時折隣にある修道院の塀によじ登り、院内の敬虔な住人に猥褻なストリップをしてビックリさせた」として、怒りを買った。湯女に関して、トゥールーズ議会に訴願が出されている

【グレーの営業】
 D.一般浴場の中にも、いかがわしいが本来の売春浴場ではない、曖昧なものがかなりあった。そこには(風呂屋の主が目をつむったので)「湯女に偽装したプロの娼婦がいて、客を見つけては彼女たちはコネをつけた
〈例7〉シュトラスブルク:
 上記を防ぐために、女性従業員に関して「前歴はあるがキリスト教の規律に従って矯正された女性は例外として、卑しい生活を送る下女を雇ってはならない」という指示が出された(中世末期)
 ★シュトラスブルクには一時期混浴の浴場があったようで、そこは「まともな婦人・娘たちはしばしば立ち退き、それを避けねばならない」とされた(市参事会規定から)。同様にチューリヒでは「客を人目につかない片隅で湯浴みさせたり、小部屋に連れ込んではならない」と命じられた
[※ここの混浴の風呂屋は、隠れて女性客に悪さをすることができるほど大きかったのだろうか。客の格好については、上記(2)L.~O.を参照]
〈例8〉コンスタンツ:
 コンスタンツ公会議のためにあちこちからやって来た無数の娼婦のうち、多くの者は「こうした需要と供給に応じて建てられたらしい、ある種の市営浴場」に滞在した
〈例9〉ブレスラウ:
 市参事会は風呂屋に対して「公娼その他の売春婦に宿を貸してはならない」と決めた(1487年)
[※風呂屋は“場所貸し”によって手数料を得ていたのだろうか?]
 E.風呂屋の女性従業員の中には、売春する気は無いにしても「報酬を貰って別の方法で浴客の世話をする,楽しませる,くつろがせる」者がいた。これを防ぐためにミュンヘンでは「男湯には三助だけ,女湯には湯女だけ」しかいないようにした

【グレー営業の浴場での湯女について】
 F.ウィーンでは「浴場はほとんど例外なく、もぐりの女郎屋だ」と噂されていた(13世紀)が、この評判は何百年もの間続いてきた。湯女の大半はやはり臨時の売春婦であり、一般から「公娼になるつもりはないのだ」と言われていた(15世紀)
 G.彼女たちは「殿方の背中を流した後で、愛のためにその殿方に柔らかな臥所を用意する、上品な女性たち」というような評価をされた。だからこそ湯女が「官能的な愛のアレゴリー」として選ばれた
〈例〉『黄金文書』:
 これはボヘミア王ヴェンツェル4世の命令で作成された(1400年)。その欄外装飾には、数多くの湯女の姿が描かれている
 彼女たちは「たいてい膝丈の、肩をむき出しにした白い浴用肌着を着ている」「時には肌着から身体の線が透けて見える」「半裸や全裸の時もある」「1人は胸で愛の仕草をしている」というように、描かれている
 H.ただしイタリアだけは例外として、もぐりの浴場に厳しかった。フィレンツェでは「浴場において男性が飲食物をとることを許さなかった(中世を通じて)」のだが、これは「浴場での宴にいつも公娼がやって来る」のを知っていたからである

【中世後期には】
 I.売春浴場・その他のいかがわしい浴場の数がますます増える一方で、まともな浴場の数は減っていく
〈例10〉ブザンソン:
 ここでは「売春女・身持ちの悪い使用人を雇い続ける風呂屋を厳しく罰していた」(1457年)のが、後には「都市の公娼は、きちんとした婦人専用の浴場1軒を除いて、どの市営浴場にも出入りが許される」(1535年)ようになった
 J.男女混浴が禁じられていたパリ(1268年)でも、その当時から既に「かなりの浴場が地下の秘密ルートによって、正規の女郎屋と繋がっていた」「そこから娼婦がコッソリとやって来ることができた」という。それもやがて、いかがわしい浴場がひどくはびこるようになる(中世末)

【時代の流れの変化】
 K.ペスト大流行(1348年)では、公衆浴場は危険なものと見なされた(例:パリ大学医学部の疫病鑑定書〔1348年〕)にもかかわらず、その存続には全く影響は無かった。
 L.後に梅毒が出現した時も、たいていの場合に風呂屋は閉鎖されなかった(多くの文化史家は梅毒のせいにしているが、それは誤りだという)。風呂屋は病人を締め出すことで存続したのであり、風呂屋・女郎屋を消滅させたのは宗教改革/反宗教改革であったという
〈例1〉ニュルンベルクでは「“新しい病気:フランス病”に感染している者を、風呂屋に入れない」「床屋が患者の髪を刈る,瀉血師が患者に瀉血するなら、使用した鋏・小刀を二度と浴場で使ってはならない」と、罰金付きで定めた(1496年)
〈例2〉ツヴィッカウでは、市の議員たちは犠牲者のために病院を建てたものの、市営の女郎屋を閉鎖しようとは考えなかった(1496年)。閉鎖は宗教改革の時代のことである


(5)中世の野外浴場(※温泉?)

 A.ルネサンス期イタリアでは、野外の浴場さえ男女別であった。浴場は男女別で時間帯によって区切られていた(例:モンテーニュはルッカの浴場で、時間帯別規則のために「私は少し遅れて風呂に行く」と記録している)。ポッツオーリ(ナポリ西)の幾つかの浴場の描写があるが、そこに両性の混浴を描いたものは1つもない
 B.中部ヨーロッパでは、部屋が足りないためにやむを得ず行われた男女混浴に対して苦情が出た(例:ヘッセン方伯ヴィルヘルムによる、エムスの浴場に対する文句〔1579年〕)

【スイスはイタリアよりは自由だが…】
 C.チューリヒでも「内輪のサークルの中であっても裸は許されていなかった」という。それでもふしだらな連中はいたようで、市参事会の記録(1492年)によると「何人かの男女が裸で座って一緒に飲んでいた時、別の男2人が真似をした」という
 D.バーゼルには「婦人浴場(ただし、他の女性の前でも浴用シャツを着なければ入浴しなかった上品な女性もいた)」「男性浴場」、さらに“釜”と呼ばれた一般人用の浴場があった。そこの様子:
「a.この浴場にはあらゆる庶民が、女も男もおよそ50人ほど集まり、行儀よく親しげに一緒になっている」
「b.もちろん“犬のねぐら”“鳩小屋”と呼ぶ2つの牢屋もあり、裸になるorその他の無作法を働いた者たちがぶち込まれた」
「c.浴場で淫らなこと(言葉であれ振る舞いであれ)をすれば、風呂屋によって罰せられ、役人と裁判により矯正される」
「d.しかし『言うことを聞かない,度の過ぎた淫行をする,ズボン下もはかずに入浴して他のまともな男女の感情を害して怒らせた』場合、市長によって罰せられる」
 E.バーデン(スイスのアールガウ州:中世後期)にあった野外浴場の風紀は、イタリアよりも自由だった。しかし露出は許されず、罰せらた
〈例〉浴場規則(1506年):
 浴場の三助は、女性が「上質の羊毛or亜麻製の、乳隠しとなる丈の長い肌着を着ていなければ」全てを罰するようにしなければならない。まずは適切な言葉で注意し、口で言ってもダメならば鞭で矯正するように促されていた

【悪評の理由】
 F.ただしバーデンは評判の悪い土地だった。というのは売春婦が群がっていたからで、そのためにれっきとしたご婦人方は、たいていこの地での湯治を諦めていた
 G.ここの“ヴェレーナ浴場”は「娼婦と姦淫の守護聖人ヴェレーナ」を庇護者としていた。そして「身体に様々な障害(足・背・腰)を持つ人々やハンセン病患者はタダで入浴することができた」ので、湯治場の娼婦たちがいいカモを捕まえようと(路地だけでなく)そうした浴場にも出かけて、商売用の部分を露わにしていた、とも考えられる
 ☆ただし彼女たちも“鳩小屋”にぶち込まれないように注意しなければならなかったのだが
 H.彼女たちの活動を、バーデン当局も一定範囲では容認していたようだ。少なくとも娼婦と2人きりで風呂に入るのは時には許されていたようで「当の女が“素人女”か“売春婦”かをその都度調べるように」と、衛丁は命じられていた


(6)裸が当たり前、という(後世の)勘違い

 A.中世の人々について、何人かの歴史家が「家から風呂屋まで、裸に近い格好で走って行った」と考えていた:
“……娘たちが全裸で、または「丈の短く亜麻布製の、しばしば擦り切れた着古しの浴用ガウン」だけをまとい、または乳隠しの肌着で前だけを隠し、後ろは背中・太腿・足のあたりをはだけだしたまま、しかるべく片手をお尻にあてがって、真っ昼間に自分の家から長い路地を通り、浴場へと走っていく……”
 ★この記述は、ある中世都市の入浴生活だと考えられていた。しかし実は「17世紀の文献の証言」なのだという
 ☆ちなみにこの文献の著者はカトリック信者で、かなり上品ぶった人物だったようだ。なにせ「泉のほとりで洗濯女たちが、腕だけでなく脚もひざの上まで露わにしている」のに憤慨していたくらいだから。したがって彼の記述と道徳的な価値基準に関して、多少は割引かねばならない、という
 B.ところがそもそも「帯もせずに、裸足のまま浴場に行く」のは、一般的に不作法と見られていたようだ
〈例〉ブランデンブルク(1407年):
 織物職人に関しての文書の中で「浴室では礼儀正しい服装をせよ」「シャツ姿や裸足で浴場に行ってはならない」とした

【いかがわしさの源】
 C.中世後期・近世初期の、野外の湯治場・戸外浴場の絵には、非常にだらしない浴場での様子が描かれている
〈例〉『鉱泉』(ハンス・ボック兄)は、ロイク(ヴァリス州)の浴場を描いたとされるが、そこでは鬼ごっこやマッサージを楽しんでいるように見える
 ☆しかしそうした絵には、事実を写実的に描こうとする意図があったわけではないようだ
 D.実際に野外の湯治場はいかがわしいものと見なされていた(特に、上記バーデンに見られるスイスは)。しかしそれは(一部の室内浴場と同じく)湯治場が売春を営んでいたからではなく「1.おびただしい娼婦が滞在していた」「2.大勢の湯治客が男女ともに、湯治場で異性をこしらえるか、好機が来れば決して見逃さなかった」からである
[※おそらく何らかのきっかけで風紀の悪化を引き起こす要因が生まれ、それが1.2.を呼んだのではないだろうか?]
 E.実際のところ、様々な浴場規則(16世紀)には、上記J.のようないかがわしさとは正反対のことが書かれている
〈例1〉ロイクの浴場規則(1548年):
 浴場では「男性は下着をはかないと」「女性は“礼儀にかなった衣装”をしないと」取り押さえられ、罰金としてヴァリス貨幣10シリングを支払わされる
〈例2〉プロムビエール(1500年):
 当浴場では、貴婦人・令嬢・その他の婦人・娘たちに対して「何らかの好色または淫らな目的をもって振る舞うこと」「いかがわしい行為をし、公衆道徳に反して無作法にそこに出入りすること」は、禁止されている
 売春婦・淫蕩な娘たちも全て、その風呂に入ってはならないし、その風呂の周囲四方に小屋が無い場合には500歩以内に近づかないこと
『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[2]
(※画像も同じ)


(2)中世の浴場にて

 A."stube(部屋)"という語は、もともとは「蒸し風呂」を意味していた。これは浴用ボイラーが他の空間の暖房にも用いられるようになり、その空間も"stube"と呼ばれるようになった
 B.この語はまず「貴族の暖かい部屋」の名称として登場する(1194年)。じきに城・貴族の居場所だけでなく、市民も「プライベートな暖かな部屋」付きの家を所有するようになる(13世紀)。そこは「上部天井によって隔てられ、外から鎧戸の後ろの炉で暖められる」「(通常)一家の主人とその妻の寝台がある」空間だった
 C.公衆浴場に触れた最古の文献はゾーストの市法(12世紀前半)だという。当時のニュルンベルクにも“薔薇の湯”という浴場があった。どうやらそれ以前には個人の風呂しか無かったようだ。やがて公衆浴場は主に都市に出現したが、時には田舎にもあった(中性末~近世初期)
 D.にもかかわらず、当時の人々には「清潔が好き」という気持ちはさほどではなかったようだ
〈例1〉アウクスブルクの女性市民は、頭のてっぺんから足先まで洗うのはせいぜい年に1・2回で、体から発する臭気は麝香・ラベンダー・その他エキスで誤魔化すしかなかった(1548年)
 ★多くのご婦人は、まだ事が全く始まらないうちに愛人を逃してしまわないよう「脇の下・脚の間に、香水入りの小さな海綿を入れていた」という
〈例2〉アンドレアス2世の息女は銀の浴槽を持っていたが、たいてい足の爪先だけを浸すに限った。身体の他の部分は「彼女の周りの者がもはや我慢できなくなった時に」やっと浴槽に浸けた(13世紀)
〈例3〉モンタイユーの農民の場合(14世紀前半):「a.身体を洗うのはごく稀で、洗っても陰部と肛門のあたりは省いた」「b.下着を洗うのは4年に一度の聖年ごと」「c.かつてアクス・レ・テルメへ旅した人は浴場には行かず、女郎屋に行った」。c.には理由があり「d.風呂屋はたいていライ病人・疥癬病み専門だった」からである

【混浴はない!】
 E.中世の浴場のほとんどには男湯と女湯があったことは史料から読み取れる。おまけに当時の人々は「自宅で誰はばかることなく身体を洗う方が、人前で裸になるより好ましい」と言われていた
〈例1〉パリの浴場規則(1268年)
 初めは「朝と昼は女性専用,午後と晩は男性専用」と時間で分けられていたのが、どうやら男女が裸で鉢合わせすることがたくさんあったらしい。そこで「男女が空間で分けられた浴場を利用しなければならない」と改めた
〈例2〉ハンブルクの浴場規約(1375年)
 「女性は平日の朝~14時まで」「男性はその後夕暮れまで」「それから再び女性が晩まで」入浴を許されていた。それがかち合えば、風呂屋は罰金を支払わねばならないとされていた
〈例3〉フレンスブルクの条例(1295年)
 「月曜と木曜は女性専用,その他が男性専用」とされ、違反者は自分の服を失った
〈例4〉ルツェルン(1300年頃)
 男性の浴室に足を踏み入れたある女性は 10シリングの罰金を支払わねばならなかった。反対に「ある男性が水曜日に、2つの浴室のうち当日は女性用になっていた部屋に入った」時、彼は「1ヶ月の所払い,罰金1ポンド」を食らった

【より厳しい場合】
 F.「夫婦でない異性と浴槽に入る者は、その持参金を失わなければならない(※つまり対象者は女性である)」というのは、多くの地方で一般に行われていた。これについて「もし夫の意思と関わりなくよその男と密かに風呂に入る」と、その夫人は夫の死後に終身年金を失った
 G.いずれにせよ、そんなことが知れ渡れば少なくともスキャンダルにはなった
〈例1〉モーリッツ大公がアウクスブルクで美しい娘と風呂に入った時、町中が悪口を言った
〈例2〉ある百姓の女房と代官が家の中に籠もっていた時、不幸なことにこの百姓があまりにも早く家に帰ってきた。事態を知った彼は、斧の一撃で代官を葬った。この話はとても有名になったので、数世紀にわたって木版画に描かれた
 H.反対に無理やり婦人浴場に侵入する者には、命を奪うように求められた事例もある(1451年チューリヒの1司教座参事会員の提案)が、実際に各地で規約化されていた
〈例1〉アヴィニョン〔15世紀〕では見つかり次第、情け容赦なしに首を切られた
〈例2〉サッサーリ(サルディニア島:中世末期)では、女性専用の日に風呂に足を踏み入れた男は「重大犯罪をした」ことになり、殺人に匹敵する罰を受けた

【覗きも重罪】
 I.中世では「覗き魔」というテーマが、数え切れないほどの装飾画・木版画・銅版画の題材となっていた。これほどまでに覗き魔が扱われるというのは、それが目立った犯罪だった(→裸は日常的なものでは決してない!)
〈例1〉カスティーリャ(中世末期)では、入浴中の女性を窓から覗く男たちは撲殺と同じ刑罰を受けた
〈例2〉ヴァレンシア(1324年)では、婦人浴場の敷居に足を掛けた男は極刑で脅かされた(この犯罪は“有害な事件”と呼ばれた)
〈例3〉女性浴場に侵入して「淫らな言葉で浴客を悩ませた」男は、絞首刑にされるor大岩から突き落とされた(12世紀)
〈例4〉川・池で水浴びしている女性の衣類を奪う者も、やはり撲殺された(カスティーリャ)。たたしこの場合、その女性が公娼の場合には適用されない
 ★カスティーリャ(の2・3の町)では、男性浴場に足を踏み入れた女も罰せられた。しかし実際にはそのような女は売春婦しか有り得なかった。そのため彼女は強姦されても、刑法上犯人を追及できない
 J.(覗きと関連して)品行方正な婦人に対して「一緒に浴場へ行こう」と誘うのは、重大な結果を招きかねなかった。マクデブルク大司教庁の枢密書記は「ベルリンの浴場へ行く途中、市民の1婦人に『一緒に行かないか』と尋ねた時、女は大声を上げた」→「駆けつけた市民たちによってこの無礼な振る舞いゆえに、乳清市場で打ち殺された」のだった
 K.覗きを題材として「召使いたちが扉の隙間から、風呂桶の中の女主人を観察している」「侍女がチップを貰って、女主人の秘密のために浴室の扉に穴を開けて、覗きショーのお膳立てをしてやる」様子が用いられている

覗き魔(15世紀)
 覗き魔(15世紀)

穴を開けている所(15世紀)
 不実な侍女が覗き魔のために穴を開けている所(15世紀)


婦人浴場(デューラー)
 婦人浴場(デューラー)。左奥の扉の隙間にいる覗き魔

婦人浴場と覗き魔(ベーハム)
 婦人浴場と覗き魔(ベーハム)


【混浴の場合でも…】
 L.中世の浴場は男女別々(空間的or時間的に仕切りがあった)だが、中には両性が同時に訪れているものもある
〈例1〉ディジョンのある条例(1410年)では、浴場は2日間は男性専用・2日間は女性専用とされていた。もし残りの3日間が休業していなかったとすれば「異性との出逢いを厭わない人々のために開かれていた」ことになる
〈例2〉バーゼル(1431年)では「今後は男女が混浴してはならない」と条例が定められた
 ★例外的に「風呂屋の下男が女性浴場に入ることを許された」(シュトラスブルク)時、彼は幅広のコルセットを前も後ろも着けなければならなかった
 M.ところが浴場の中は暗闇であった。蒸し風呂は「ごくちっぽけな小窓からの最低限必要な照明があるだけ」だった。男性客が一縷の望みを抱いたとしても「熱い石に水が注がれて、部屋中がもうもうと蒸気だらけになる」と、その望みは消えた
 N.ある目撃者が「時には男は尻を、女は乳房をむき出しにしている」とキレている(ヴィースバーデン:中世末期)が、それは一番肝心な場所は隠していたことの裏返しでもある。一般に、特に男性は“浴用はたき(白樺の葉をくくった束)”で隠し、男女ともに少なくとも手を陰部の前に当てがっていた

はたきで大事な部分をカバーして入浴(14世紀)
 はたきで大事な部分をカバーして入浴(14世紀)

 O.さらには、たいていの場合「男性はズボン下」「女性は丈の長い『乳隠しの肌着』」を着用していた。女性客は(女性従業員が奉仕する全くの婦人浴場であっても)乳隠しの肌着を身に着けていた。それは女性客が持参すべきものだったらしい
 ☆自宅の風呂であっても、夫婦はたいてい腰布を着けて湯槽に入ったが、主婦はしばしばその上になお乳隠しの肌着を着けた
 ☆ズボン下と乳隠しの肌着は、野外浴場での標準的な衣類でもあった。さらに浴槽に浸かるまではシャツ・ガウンを着用していた(バース市のグロッター谷での浴場規則:1449年)
 ☆シュタイエルマルクの山峡の湯の規則には「主人でも主人でない男性でも、浴用着に帯を締めた婦人が中にいれば、入浴してはならない」とある

【従業員】
 P.湯女もまた「丈の長い乳隠しの服」を着ていた。ただしそれは、元々は「袖無しシャツの軽装」で済んでいたのだが、仕立屋が「体型が目立つようにウエストを強調して作った」ものだった
 Q.湯女が乳房を露わにして客の世話をしたのは、婦人浴場だけである。それでも彼女たちは「亜麻布の下着で前後を隠すべし」と命じられていた(シュトラスブルク:中世末期)
 R.風呂屋の主人・下男たちも、少なくとも「下半身を隠す前垂れを着けていた(不着用は罰金の対象だった)」が、たいていは男性客と同じく「ズボン下を着用」していた」。そして彼らは、そのような身なりのままで路地に出ることを決して許されなかった
 ☆一般に「公衆の面前で“露わな腿,むき出しの脚”を見せる」ことは、実に無作法と見なされていた
〈例〉風呂屋の下男は「長いズボンをはかずに排水溝を掃除してはならない」(ハンブルク:1375年),風呂屋の主人と下男は「素足で、長ズボンor長いコートを着ずに公衆の面前に現れてはならない」(バムベルク:1480年)
『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[1]
(※画像も同じ)


○裸体と恥じらい


(1)恥じらう中世人

【物語における騎士の恥じらい】
 A.『パルツィヴァル』(W.v.エッシェンバッハ)では、主人公パルツィヴァルが「満足げに風呂桶の中に腰を降ろしていると、突然不意をついて、派手な身なりをしていた乙女たちが現れる」場面がある
 ☆ここでの“乙女”とは「決して処女でなければならない、ということはない」という
---
 お湯は薔薇の花びらで覆われ、若い娘たちが何かを見ることはなかったが、パルツィヴァルにとっては気まずいことに、乙女たちは立ち去ろうとしない。それどころか彼女たちは湯上がりタオルまで差し出した
 彼女たちはどうやら、パルツィヴァルの身体の「下の辺り」の様子に興味があったらしい。彼はタオルを見ようともしなかったので、結局乙女たちは出て行かざるを得なかった、というもの
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 B.英雄ヴォルフディートリヒの場合には「向こう見ずな女主人が、彼の着替えを手伝おうとする」という場面がある。彼はその行為を、次のように拒絶した
“気高いご婦人よ、ご立派な方がここでそれがしを裸にしようとは、全く無作法なこと。貴女様の名誉にとって全く相応しくございません”

【お風呂と裸と習慣】
 C.『ヴォルフディートリヒ』のある版の挿絵に表されているように、中世では「少なくない騎士が、美女のいる浴槽に入る時に恥ずかしさから、ズボン下を脱がずにいた」という
 ☆これは、現実の浴場の規定=「湯槽に浸かってから初めて男性客はズボン下を、女性客はシャツを脱いでよい」にも現れている(※女性の部分にも注意!)

女性の前でズボン下を脱がずに入浴する騎士
 女性の前でズボン下を脱がずに入浴する騎士

 D.風呂桶はしばしば、藁・亜麻布・ビロード・絹地で覆われていた(木の場合もある)。これは「入浴中の人々を隙間風から守る,湯を冷めにくくする,礼儀作法に適う」のに役立った
〈例〉フランドルのマルガレーテは2つの浴槽を隠すための64エレ(30mちょっと)の亜麻布と、天蓋用にメヘレン製の赤い布を買った

14世紀末の風呂桶
 14世紀末の風呂桶

【愛の印しの習慣】
 E.女性が男性に対して花(花の冠,1本の花など色々だが)を差し出すのは、中世では(花から想像されるように)あからさまな求愛を意味していた
〈例〉パリの公娼は「5月に愛と豊饒が再び巡ってきた」印として、フランス国王に花束を手渡した(~16世紀)
 F.男女一緒にお風呂に入っている場面を描いた絵は、ごく日常的な入浴シーンを具体的に描いたのではなく、愛のアレゴリー(抽象の具体化)だった。風呂の湯に浮かぶ薔薇の花びらも、女性への奉仕に意味を持っているという

【男女は別々に】
 G.普通は「ご婦人が騎士の背中を洗い流す」ということは、当時ほとんど起こらなかった(あくまでも物語の中でしかない出来事ということ)。なぜなら女性の世界は、男性の世界から隔てられていたから(その例外:馬上槍試合,祝祭の饗宴)
〈例〉アルドレの領主たちの家庭では「少年と娘たちは7歳にして席を同じくしなかった」。娘たちは「見張り付きの自分の寝室を持ち、婚礼まで夜はそこに閉じ込められていた」という
 ☆逆に女性同士では、教会内や巡礼中に「はばかることなく男と私事について語っていた」ようだ。説教師ジャック・ド・ヴィトリはそのことに腹を立てている
 H.作法の教則本には「常に若い娘やご婦人方は、おおっぴらに誰かと話をしたり、誰かを見てはならない。ましてや騎士の顔を正視するなどとんでもない」と書かれている。男性の側でも、ヴィッテンベルクの学生たちが「普通の娘の心を傷つけないよう、面前ではドイツ語で口にするのを憚る事柄をラテン語で話した」という(16世紀前半)
 I.上記G.の例外は「公衆浴場の湯女」である(それでも彼女たちが客の背中をマッサージするのは、全く問題が無かったわけではないようだ)。そして、女性が「完全に素っ裸の」男性を見てしまったら、さらに恥ずかしいことだったようだ
〈例〉『裸の使者』という物語にて:
 ある騎士の下僕がよそのお宅にて、浴用はたきだけを持って浴室に入った時、誰もいないと思っていたそこには服を着た女たちが働いていた。彼女たちは裸の男に驚き、彼の恥部を見ないように両手で顔を覆った。下僕はびっくり仰天して逃げ出したが、家の主人が武装した部下を引き連れ「罰として去勢せん」と追いかけてきた
 ☆多くの男は他の男性の前でも恥じたらしい。素っ裸でも陰部だけは手で隠したという

【女性の高い羞恥心レベル】
 J.しかし「男が裸の女性を見る」のは、もっと大きな恥だった。他人(ましてや男性)の前で裸になるのは、娼婦しか考えられなかったのだった
〈例〉とある草原で覆い(上記D.)をした風呂桶を、若い貴族が見つけた話:
 男は風呂桶が女性のために用意されたのだろう、と推測した。彼は期待半分の一方で、もし女性がいて彼女の裸を見てしまえば「彼女は生きたもないだろう」「自分にとっても大きな不名誉になる」と考えた
 実際、風呂桶の中には半ば期待した乙女がおり、彼女は若い貴族を怒鳴りつけた。そして宥める男に「自分の浴用肌着・ガウン・靴を持ってきて、自分が風呂から出られるよう、この場から離れて下さい」と頼んだ
 ☆彼女は貴族がそばにいる時に、ビロードの幕の陰で浴用肌着を着て、桶から出てガウンをまとったと考えられる。つまり彼女は、たとえ浴用肌着をまとっていても、彼に見られるのを嫌がった
 K.「裸を恥じらう乙女」というのは、この話だけではない。当時の人々の道徳観の中でも極端なものでは「入浴中の乙女が『自分の裸姿を見ること』すら許さない」という意見もあった(12・13世紀)

【絵と現実との間に】
 L.中世末期の美術には〈他の人が居るその横で、裸の若者が彼の風呂桶に入ろうとする裸の娘にガツガツと手を伸ばしている様子が描かれている〉ので、当時は「男女間のエロチックな関係が、衆人の前で相当あけすけに行われていた」と解釈されるようになってしまったものがある
 M.同じく〈踊っている人々のすぐ隣に、排便をしている男が描かれている〉ので、中世では「排便も衆人環視の中でなされていた」と信じられているものもある

戸外での農民の踊り(右真ん中に注目)
 戸外での農民の踊り(右真ん中に注目)

 N.しかしこれらの事例は、制作した芸術家が「現実には隣り合わせで起こるはずのないシーンを、隣り合わせに配置した」だけだと考えるべき、という。中世では1つの作品の同じ空間に描かれていても、それは「意味を共有している空間」であって、現実的・幾何学的空間ではない
〈例〉農村の様子を描いた作品で、様々な作業をしている人々が1つの空間のアチコチに描かれているのは、それらが全て同時に行われていたのではなく「収穫,脱穀,家禽の世話」というように並列で書いたことを、単にそのまま並列で絵にしただけであった
○料理におけるワイン、薬としてのワイン


(1)ワインの仕込み・保存

 A.ワインがどのくらい保存が利くのかは「収穫したブドウをまずいかに仕込むか」に懸かっていた。仕込む方法は作ろうとするワインのタイプによって異なる

【仕込み】
 B.白ワイン:
 極力色がつかないようにする。ブドウを潰す前に重みで自然に流れ出た汁(“母なる滴”と呼ばれた)も使ったが、多くの場合「1.ブドウを足で踏んで搾り出した汁から作る」。踏んだ後のブドウは「2.水を加えて発酵させ、ピケットを作った」。ブドウの汁は「3.出来るだけ早く樽に入れて、酒蔵で発酵させた」
 ☆足ではなく、ブリッジ式の大型圧搾器で汁を搾るのは、教会・王侯貴族の大規模なブドウ園に限られていた
 C.赤,クレレ:
 ☆についてはこれも同じ。クレレには「a.潰したブドウの汁だけから作る」場合と「b.ブドウの皮・果梗と汁が混ざった状態で短時間発酵させてから、汁を抜いて作る」場合とがある。長期の保存は利かない(色が薄くタンニンも少ないから)
 D.“濃い”赤ワイン:
 b.の皮が混ざった状態で、さらに長く発酵させた(イタリアやプロヴァンス地方では、発酵期間は2~3週間)。この時「c.残った皮を圧搾した汁も混ぜた」

【保存】
 E.発酵を終えて樽に詰めてからも「絶えずワインに目を配り、度々利き酒を繰り返した」「清澄作業(蜂蜜・卵白・粘土・砂などを加えて、ワイン中の不純物を一緒に沈める)も行われた」「澱引き(樽から樽にワインを移し替えて澱を取り除く作業)は11月末に行われた」
 ☆ただ、新酒を待ちきれない客のために、10月になるやまだ清澄作業の終わっていないワインが売りに出されることもあった
 F.常に樽を一杯に保つことがとりわけ重要なので、樽から滲み出して目減りした分をしばしば補充した。樽の内側にピッチを塗らなくなった(カロリング期~)ので、若干の水分は滲み出た。また「2回目の澱引き」は3月が良いとされた
 G.エルザス地方・ドイツでは“加熱ワイン”が作られるようになった(14世紀~)。加熱によって「ワインが濃縮され、甘味も増して、保存性が高まる」メリットがあった。秋からひどく冷え込む時にはこうしたワインが作られた
 ☆元々は古代ローマ時代から行われていた方法だった

【ワイン作りの注意】
 H.以下は『パリの家政の書』に記された様々な注意点だが、古代ローマ時代から受け継がれてきた知識であった
a.「ワインを澱引きする時には、空気に触れて変質しないように注意すべし」
b.「給仕長は毎週、ワイン・ヴェルジュ(未熟なブドウの実の汁で、調味料として用いた)・酢を点検させ、味見させるようにしなければならない」
c.「もしワインが“腐った”場合は、冬に酒蔵の外に出して霜に当てる」
d.「ワインが“油のように”なったら、固茹で卵の白身&殻を袋に入れたものを、樽に加える」
e.「ワインが酸っぱくなったら、破裂寸前までに茹でた小麦の粒を入れる」
f.「ワインが濁っているようなら、生の卵黄&卵白を混ぜる」
 I.変質しそうなワインに加えるものとして『農村がもたらす利益について』の著者は「ブドウの若枝,フェンネルの種子をすり潰したもの,没食子(コナラ属の若枝にできる虫瘤)を焼いたもの,オークの木の灰,真っ赤に燃えた藁束のたいまつ,熱した金片(!)」を勧めている


(2)料理とワイン

 A.中世の料理の作り方の相当数に、ワインが使用されていた。中世では「a.肉を調理する前にまず、ワイン入りの様々な漬け汁に漬けておく」ことが多かった。これは「1.若い家畜は食肉にしない(農業資本だから!)」「2.狩りの対象に好まれたのは成熟した鳥獣が多い→肉は固いし匂いもきつい」「3.肉は塩漬けにして保存することが多かった」ためである
 B.そうした肉を柔らかくし、強い塩味を抜いて味を良くするために「b.白or赤のワインに1~2日漬けておく」「c.その漬け汁にはワインの他に、香草(例:バジル,フェンネル,ローズマリー,タイム,パセリ,特にセージ)と香辛料(例:コショウ,ショウガ,クローヴ,サフラン,カルダモン,ナツメグ,シナモン)が入っていた」
 C.のみならず「d.ワインはポタージュにも使われた」。ポタージュとは元々「鍋(ポ)で煮た食べ物(肉など)」を意味していた。また料理において「e.ワインと酢は区別なく使われていた」と考えられる
 D.料理書に特に指示がなければ、半分酢になりかけた酸っぱい白ワインを煮汁に使っても良かったようだ。これには家計上の問題だけでなく「古代ローマ以来の伝統として、酸っぱい料理が好まれていた」ことにもよる。中世の医学的にも、肉に白ワイン・酢を加えるのはバランスが良い、とされた
 E.さらに「f.ワインはソースの材料でもあった」。グリセリンに富む白ワインは格好のつなぎの材料であり、淡水魚に添える『香辛料の効いたソースのカムリーヌ』に使った。また、セイヨウカラシナの種子をすり潰し、ワイン(酢)を加えてといたマスタードソースは『大味な家禽の茹で煮』にアクセントを添えた

【ヴェルジュ】
 F.ワインの代わりにヴェルジュを使うことも少なくなかった。身体を温めない料理が求められる夏にヴェルジュは適していた。ヴェルジュを作るためのブドウは「7月にまだ青いうちに摘み、塩or酢に漬けて保存した」。また「晩熟でよく熟していないブドウを使う」こともあった
 G.他には「リンゴ,梨,レモン,ザクロ,桑の実,野生のセイヨウミザクラの実,ミズキの実,セイヨウメギの実,白スグリ(グーズベリー),スイバの葉,ブドウの若芽」から“ヴェール・ジュ(緑の汁)”を作ることもあった
 H.実際、封建制下のルーヴル宮の遺跡発掘では、元調理場の真下から「ブドウ,ザクロ,レモン,セイヨウミザクラ,スロープラムなどの種」が固まって発見されている。また「一家の主婦の心得として、ヴェルジュを充分に貯えておく」ことが『パリ家政の書』では挙げられている

【酢】
 I.ワイン樽を開けておくと、自然に酢酸発酵が進んでできることが多かった。また「小麦粉・ヴェルジュ・玉ねぎ・酢などを混ぜ合わせて乾かした種:“酢職人のパン”」を元に、料理人が作ることもあった
 J.酢を街角で酢を売り歩く行商人もいた。パリで初めて酢職人の組合規約が定められる(1394年)以前から、酢職人の組合そのものは存在していた(13世紀末~)。樽職人も酢職人の組合に属していた(~17世紀)
 K.酢作りは、ハンセン病患者にも認められていた。彼らに対する中世の人々の接し方からして、酢の予防効果も認められていたと考えられる
 L.酢は肉・魚を引き締め、酢を使った料理の「ツンとくる軽い酸味」は食欲をそそり、味覚を刺激するのでたいへん好まれた。また、酢は催淫効果も見込まれていたらしい
〈例〉『やさしい医療の書』の〈酢〉の項目に、樽から酢を抜き出す2人の男女を描いた装飾画が添えられているが、2人とも頬を赤く染め、何やらおかしな気配になっている

【煮詰めたブドウ液】
 M.これはヴェルジュや酢と対照的なものであり「ブドウがよく熟していれば半分まで,ブドウがまだ熟していなかった場合には1/3まで」煮詰めて水分を飛ばした。中世の料理書には“サパ”という名で登場する
 N.この濃縮された甘い液は「菓子作りの際に蜂蜜代わりに」よく使われた。マルメロから作る、ゼリーに似た菓子の“コティニャック”に使うこともあった


(3)ワインを使った料理の例

【豚の大腸の料理】
 “とろみの付いた肉のポタージュ”の1つとして
「1.塩・酢の入った水で大腸を何度も洗い、丸ごと土鍋で茹でてから切り分ける」
「2.これを器に盛り、パンと一緒にすり潰した香辛料に『だし汁,赤ワイン,ヴェルジュ,酢を加えて煮たポタージュ』をかける」

【去勢鶏や若鶏、雛鳥の白いブルエ】
「1.鶏を白ワインと水で煮て、捌いてラードで炒める」
「2.鶏の肝臓などの内臓をアーモンドと一緒にすり潰し、鶏の煮汁・香辛料・酢を加えて煮て、鶏肉の上からかける」

【イポクラスの作り方】
 1カルトのイポクラスを作る際、以下の材料が必要
「選り抜きの上質のシナモンを綺麗に掃除したもの:5ドラクマ」
「白い選り抜きのショウガを掃除したもの:3ドラクマ」
「クローヴ,マニゲット(カルダモンに似た香辛料),メース(ナツメグを包み込む仮種皮),ガランガル(ショウガ科の植物の根茎),ナツメグ,ナルド(オミナエシ科の芳香のある植物):全部で1+1/4ドラクマ(クローヴが一番多い)」
 これらを粉末状にして、大重量単位(パリの重量単位)で1リーヴル1/2カルトロン(=18オンス)の砂糖の塊をすり潰して加え、混ぜる
 ワインとこの砂糖を火にかけて溶かし、香辛料も良く混ぜ合わせる。漉し袋に入れて、綺麗に澄んだ赤いイポクラスができるまで何度も漉す。砂糖とシナモンが主体となるようにすること
 ☆ワインに“ボーヌの極上ワイン”を使うことで「デザートワインによし、寝酒によし、薬酒としても申し分ない」イポクラスとなる


(4)ワインと医学

「ワインにはくれぐれも用心すべし
 薬にもなれば毒にもなる」
 (サレルノ養生訓)
「少しだけ、ただし良いワインを飲むこと
 良いワインに医者要らず
 悪しきワインは毒に同じ」
 (医者のアルノ・ド・ヴィルヌーヴ:1240~1311年頃)

 A.“悪しきワイン”は味と関係なく、サレルノ養生訓と同じく「度を越した酒」のことを指している。そんな飲み方に対しては「肝臓・脳・神経を損ない、麻痺・震え・痙攣・卒中が起こり、突然死に至ることもある」と、戒められている(アダン・ド・クレモーヌ:1250年頃)
 ☆ただし、飲み過ぎラインがどこに引かれていたのかは不明という
 B.“黒ワイン”(黒ブドウを使い、皮・種が果汁に浸かった状態で長く発酵させるので、色が濃くなる。ガスコーニュ・ギュイエンヌ・ラングドック・プロヴァンスのものなどがある)を筆頭に、濃いワインは避けるべきとされた(中世医学によれば「粘液を増して鈍重になるから」という)
 ⇒濃いワインがダメなのだから、夏はもちろん、常に水で割って飲むのが良い、とされた。老人だけがワインを薄めずに、生のまま飲んでもよかった(血を温める必要があるから、という理由で)
 C.ワインは「愛の一戦を交えたの精力回復剤」だった。しかし愛し合う者が行為に及ぶ前に生のワインを飲み過ぎると、こっぴどく失望感を味わわされる羽目に陥る(様々な笑い話・落語には、そういった場面がしばしば登場する)
 D.女性の酩酊をネタにした話もあるくらいだから、実際ひどかったのだろう。『パリの3人の奥方の物語』では、3人は“ガルナッシュ”ワイン(スペイン産の強い甘口ワイン)を飲み過ぎ、死人のごとく泥酔した挙げ句、イノサン墓地の共同墓穴に裸で投げ込まれた

【良いワインは白】
 E.イル=ド=フランス産やブルゴーニュの白の“良質のワイン”は「心も身体も目も頭も、いささかも乱すことのない」として高い評価を与えられた。中世医学によると「a.冷性・乾性を有し、多少強くても水で割って控え目に飲めば、身体から悪い体液を除くのに役立つ」とされた
 F.さらに白ワインには「b.外用薬としての使い方がたくさんある」という:
「目ヤニの治療にはワインに浸した布を当てる」「鼻詰まりを通す,膿を出す,蛇に咬まれた,虫に刺された時、その穢れを外に出すのに使う」
 G.白ワインは体中に素早く行き渡るので「c.内服薬としても有効だった」:
「詰まっている管を通すのに効果があり、結石の治療には白ワインを用いる(あるいはユキノシタをワインで煮て服用する)」「悪い脂が溜まった肝臓・脾臓の負担を軽減する」
 H.さらにアルノ・ド・ヴィルヌーヴによれば「d.頭の働きを鋭くする」という。彼は白ワインを、学生に対してだけでなく「生まれつきor何らかの事故のために頭が弱い者」にも勧めている

【薬として】
 I.ワインの薬効として「e.身体に必要な熱を回復させる」というのがある。この場合には赤でも白でも「温めてから飲んだ,たいていは香草(ローズマリー,セージ)や香辛料(特にコショウ)を加えて煎じた」。珍妙な材料(例:熊の脂,乾かした犬の糞)がここに加わることもある
 J.さらに「f.呼吸器の病気・口峡炎(軟口蓋・扁桃腺(へんとうせん)などに起こる急性の炎症)を治した」「g.上記C.もそうだが、回復期の患者・産婦・老人には強壮剤として用いた」。g.に関しては、医学も宗教上の教えも軌を一にしている
〈例1〉聖ベネディクトゥスの戒律の例外としてワインを飲むことが認められたのは、必要なカロリーの補給のためである
〈例2〉コーランが飲酒を禁止しても、イスラムの地でもブドウは栽培され、医療用に用いられた。アヴィケンナもマイモニデスも、寒い時期にはワインを勧めている
 K.伝染病の流行期にも「h.汚染された水より安全ワインを飲む」よう勧められた
〈例〉ボッカチオは、控え目だがワインを常用することによってペスト大流行(1348年)を乗り越えた
 L.『ニコラの調剤書』(14~15世紀に広く用いられた調剤法概論)では、85の処方が収録されている。うち「31にワインが使われている,1/3の薬はワインを使って飲むことになっている」という