『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[4]
(7)ベッドでの恥じらい
A.北ゲルマン族の女性は、寝る時は裸ではなく「下着or丈の長い肌着を着ていた」。あるいは「亜麻布の寝間着を着て、さらに腰から膝まで達する股の開いたズボン下をはいて寝た」こともある
☆日中は「肌着の襟ぐりに胸当ての布を付けた」(乳房の上がむき出しにならないようにするため)
☆男性も夜はたいていズボン下を身に着けて寝ていた
B.中世でもこのような寝間着に変わりはなかった。物語において:
「1.トリスタンとイゾルデが眠っているところを見つけ出された時、イゾルデは“丈の長い肌着”(中世初期には“スブクラ”と呼ばれたスリップのこと?)を、トリスタンは“ズボン下”を、それぞれはいていた」「2.ブルンヒルデは“亜麻布の白い肌着”を着て、床入りしていた」
【中世盛期~後期】
C.中世後期には“目開きシュミーズ”があった(“穴開きシュミーズ”とも呼ばれる)。これは「3.分厚く重い寝間着である,陰部のところにあるスリットからほんの少し露出すれば夫婦の義務を果たせる」というものだった
☆後に修道院付属学校の女生徒が、よくこれを嫁入り支度のために作っ
D.しかしたいていは(特に婚外の人々が愉しむ時には)、もう少し肌を露出していた。特に中世盛期の絵では(明らかにエロチックなシーンはさておいて)、ベッドの男女はしばしば浴場と同じく、衣服をまとっていた。これは中世後期も変わらない
「4.男性は“寝ズボン”と次第に呼ばれるようになったズボン下を、また(稀には)寝間着を身に着けたていた」
「5.女性は(普通)丈の長い肌着をつけた。(時に)パンティをはくこともあった」
〈例1〉フォア伯領(フランス:14世紀)の農民たちは、下着で寝ていた。つまり田舎でも裸で寝ない習慣があった
〈例2〉フィレンツェでの姦通訴訟で、モンナ・セルヴァッツァの隣に住む女性が“自分はこのご婦人が、裸で「全裸の」男たちとベッドで寝ているのを窓越しに見た”と証言した。つまりモンナは「肌着か、少なくともパンティを身に着けていた」と解釈すべきである(1400年)
〈例3〉ある巡礼団のリーダーに出された命令には「巡礼宿の宿泊者たちがベッドに入る前には、肌着の他は全て脱いで、旅着で寝具を汚さないように見張ること」とされている(中世後期)
☆これは同時期のイタリアでも同じ。ロンズヴォーの宿屋では、どの巡礼にも白くて丈の長いシャツが寝間着用に与えられた
〈例4〉ある若い女性がベッドから引きずり出され、その後陵辱された時には、肌着しか身に着けていなかった(1516年)
〈例5〉エラスムスによれば、ロッテルダムでは夏も冬も丈の長い肌着をつけて寝るのが礼儀だった(1519年)
〈例6〉ハル(ティロル地方)の人々は、たいてい服をそっくり着たまま寝た(17世紀初頭)
【未知の男女の場合】
E.一般的に「中世では未知の男女が、とりわけ旅行中にベッドを共にするのは稀ではなかった」と従来は考えられてきた。しかしそれは正しくない理解で実際には、異性が一緒の寝床に入るのはきわめて問題だった、という。
〈例7〉宿屋では普通、1つのベッドで2人寝た(14世紀半ば)が、それはいつも同性同士だった。これ以前には、時には4人かそれ以上の場合もあった
〈例8〉バイエルンにある巡礼宿の規則では「男女が同室で(同じベッドなどとんでもない!)夜を過ごすのは“自分たちが結婚している”と誓っても禁じられた」という(15世紀)。これは他の巡礼路の大旅館(ブルゴス,サン・マルコ・デ・レオン,サンティアゴ・デ・コンポステラ)でも同じだった
〈例9〉『黄色の書』に書かれた巡礼宿でのルール:「宿の主人は巡礼者を時間をずらすことなく一緒に眠りに就かせ、男女別々にして、誰かが他の部屋に行かないよう注意しなければならないという」「そのために、部屋の外から鍵を掛けるべし」
〈例10〉ネーデルラントでは、家の主が「特に重んじている客を、信用して自分の妻をその部屋で寝させる」習慣があった(中世後期)。これは「男女が一緒に寝るのは一般的ではなかった」ことを示している
【男女が1つベッドなのは良くない!】
F.中世では(それ以降と同じく)、未婚の男女がベッドを共にすれば、何事もなかったとしてもそれは「ひどいふしだらのこと」であった。夜に「見知らぬ女性と同じ宿で、同じベッドで出会えば」それだけで姦通と同じだった(リヨンなど:中世後期)
〈例11〉北フランスのある離婚訴訟にて。「女中を同じ部屋で、しかも夫が妻と寝ているベッドの足元に寝かせた」ということで、妻が夫に罪を被せた
〈例12〉フライブルク・イム・ブライスガウで、ハンス・ラップ某がある女性を「酸っぱいのまま私のベッドの隣に寝かせたが、彼女には指一本触れはしなかった」と告白したが、それでも罰金+生涯の都市追放を食らった(1571年)
〈例13〉バートン(トレント河畔)で「ある男女が1つのベッドで夜を過ごそうとしている」という噂が広まると、2人は家から引きずり出され、野次馬が「売女と悪党!売女!売女!」と叫ぶ中、喧しい音楽とともに通りを引き回された。そして2人は棒杭に繋がれ、翌朝町から追放された(1618年)
G.女性が、やむを得ず見知らぬ男性と1つの部屋で夜を過ごすことになれば、まずい事が起こりかねないのを承知していた。中には「夜に行き届いた看護ができるように、病気の主人の部屋で寝ていた女中が、性的な不意打ちに遭う」のも珍しくなかった
⇒彼女たちは「しばしば明かりを一晩中つけっ放しにした」という
〈例14〉スペインの好色の爺さんがある晩、ドイツの未亡人のもとに泊めてもらった。ところが彼は夜、手込めにしようと下着のまま彼女のベッドの前にやって来た。彼がベッドに入って襲おうとするや、未亡人はナイフを掴んで彼の裸の腹に刺した、という(時代不明)
【男女の空間的隔たり】
H.当時は男性と女性の世界はハッキリと仕切られていたので「男性客を夜の憩いのために、女性の“秘密の領域”で寝かせる」ことは全く有り得なかった、という。宮廷のしきたり(古ゲルマンの慣習に従っている)によれば、女性たちは「それまで面識の無かった男性が手にした物に触れること」すら許されなかった
I.面会時間中の女性の部屋には「執事自ら立ち会う」or「侍従や立派なご婦人が代わりを務める」ことが義務づけられていた。もし夜半に高貴な姫君の具合が悪くなれば「式部女官を呼んで、必要ならば彼女がさらに医師・理髪師を呼んだ」。もちろんどんな場合でも、姫君の元へ他の男性を遣わせてはならなかった(16世紀)
【男性も襲われる】
J.男性が襲われるのは、他の男性と一緒だった時である。同性愛的行為は、射精に至った段階で既に問題とされたのだった
〈例15〉あるコックは「ベッドの中で手を伸ばし、隣に寝ている廷丁の陰部をマッサージした」のを第三者に目撃されたため、火刑に処せられた。しかしされた側の男性も、彼は相手の手を払いのけなかったので、町から永久追放された
☆「払いのけなかった」というのは、彼が(どんなに眠っているフリをしていても)射精してしまったことによって、法廷で証明されてしまった
K.そんなわけで、お互いの気遣いは男性同士がやむを得ず一緒のベッドで寝なければならない時にも必要だった:「ベッドの中で接触しない」「他人の掛け布団を剥いで身体を露わにさせない」「もちろん自分の身体も露わにしない」
【修道士と修道女への規則】
L.ヴァルドー派修道院や“キリストの貧しき者”修道会では「肉の誘惑に動じない」ことを示すために、男女が1つのベッドで寝た(12世紀初)が、やがて「もってのほかとされた」(13世紀初期)という
M.全ての修道士は「a.別々のベッドで、寝間着をつけて寝なければならない」とされた。あるいは「b.10人か20人がひとかたまりになって寝なければならない」「c.青少年の場合には、彼らの面倒を見る最年長者と一緒でなければならない」「d.共同寝室では朝まで蝋燭を燃やさなければならない」「e.服を着て眠り、かつベルトor紐で締めなければならない」のだった
N.別の場所では、ベッドに入る際の注意として「f.修道士は就寝時、ベッドの外でフロックを脱ぐ」→「g.ベッドに入り、布団の中で下着を脱ぎ、翌朝再び布団の中でそれを着なければならない」、さらに「h.同僚に覗く機会を与えないよう、脚を組まずに、必ず両脚を同時に上げてベッドに入れ」と指示されていた(ヒルザウ修道院:11世紀)
O.同性愛に対する警戒はずいぶん早くから登場する。「i.魅力的な同僚のそばに座ったり寝たりせず、ましてや2人きりにならないよう心掛けてほしい」「j.もしやむを得ない事情で彼と話さざるを得ない時は、目を伏せて彼を正視しないこと」とは、聖バジリウスの助言である(4世紀)
P.もちろん修道女に対しても同じである。中世でも「k.同じベッドに寝る,手を繋いで歩く,入浴などの折に全裸or半裸の姿を姉妹に見せる、ことは禁じられた」のだった
【病院・大学にて】
Q.中世の大学・病院の共同寝室の規則は、修道院ほどは厳しくなかったものの、ここでも厳格な礼儀作法が求められた。「病院の大部屋では、病人は誰もが寝間着を身につけている(14世紀の写本に描かれた絵から)」「パリの学生たちは、共同寝室では寝間着の下にさらにズボン下を着用していた(これも絵に描かれている)」
R.やむを得ない場合には、2人の病人が一緒のベッドに寝かされたが、常に同性同士だった。男部屋と女部屋は例外なく、非常に厳しく隔てられていた。世話をするのはもちろん同性同士だった
〈例1〉フランス(17世紀)では未だに4人までベッドを共用していた一方で、中世後期・ルネサンス期の絵には、患者は1人ずつ寝ていたように描かれている
〈例2〉ヨハネ騎士団の巡礼病院(イェルサレム)では、騎士団長によってシングルベッドであるよう定められた(1182年)
S.性別の区分は牢獄においても存在し「男:塔内牢獄」「女:女性牢」というようになっていた。ちなみに中ではどちらも「パンと水だけ」しか与えられなかった
【ハンセン病患者の施療院の規則】
T.ここでは、とりわけ規律がやかましく「男女は互いに訪問しあう,語らう,食事を共にするのは禁じられていた」。ここには、中世にあった見当違いな説(ハンセン病患者は極めて異常な性欲の持ち主である)と関連があった可能性はある。ただし夫婦は例外だった(例:リールでは日曜日毎に、食事を共にできた)
☆幾つかの地方では、ハンセン病の施療院は男女別々に存在した
U.シュトラスブルクでは、一般病院も含めて「夜間看護のために、男部屋に下僕・女部屋に下女を雇った」「世話をしてもらうので、礼儀に反した寝間着を身につけるのは厳しく罰せられた」。ちなみに罰するのは看護人が随意に行った(中世後期)
V.フライブルク病院規則では、入浴の際「男性:下着,女性:丈の長い浴用肌着」を着なければならなかった(1480年)。また聖ヨハネ病院(レヴァル)に見られるように、男女の混浴は禁じられていた
(7)ベッドでの恥じらい
A.北ゲルマン族の女性は、寝る時は裸ではなく「下着or丈の長い肌着を着ていた」。あるいは「亜麻布の寝間着を着て、さらに腰から膝まで達する股の開いたズボン下をはいて寝た」こともある
☆日中は「肌着の襟ぐりに胸当ての布を付けた」(乳房の上がむき出しにならないようにするため)
☆男性も夜はたいていズボン下を身に着けて寝ていた
B.中世でもこのような寝間着に変わりはなかった。物語において:
「1.トリスタンとイゾルデが眠っているところを見つけ出された時、イゾルデは“丈の長い肌着”(中世初期には“スブクラ”と呼ばれたスリップのこと?)を、トリスタンは“ズボン下”を、それぞれはいていた」「2.ブルンヒルデは“亜麻布の白い肌着”を着て、床入りしていた」
【中世盛期~後期】
C.中世後期には“目開きシュミーズ”があった(“穴開きシュミーズ”とも呼ばれる)。これは「3.分厚く重い寝間着である,陰部のところにあるスリットからほんの少し露出すれば夫婦の義務を果たせる」というものだった
☆後に修道院付属学校の女生徒が、よくこれを嫁入り支度のために作っ
D.しかしたいていは(特に婚外の人々が愉しむ時には)、もう少し肌を露出していた。特に中世盛期の絵では(明らかにエロチックなシーンはさておいて)、ベッドの男女はしばしば浴場と同じく、衣服をまとっていた。これは中世後期も変わらない
「4.男性は“寝ズボン”と次第に呼ばれるようになったズボン下を、また(稀には)寝間着を身に着けたていた」
「5.女性は(普通)丈の長い肌着をつけた。(時に)パンティをはくこともあった」
〈例1〉フォア伯領(フランス:14世紀)の農民たちは、下着で寝ていた。つまり田舎でも裸で寝ない習慣があった
〈例2〉フィレンツェでの姦通訴訟で、モンナ・セルヴァッツァの隣に住む女性が“自分はこのご婦人が、裸で「全裸の」男たちとベッドで寝ているのを窓越しに見た”と証言した。つまりモンナは「肌着か、少なくともパンティを身に着けていた」と解釈すべきである(1400年)
〈例3〉ある巡礼団のリーダーに出された命令には「巡礼宿の宿泊者たちがベッドに入る前には、肌着の他は全て脱いで、旅着で寝具を汚さないように見張ること」とされている(中世後期)
☆これは同時期のイタリアでも同じ。ロンズヴォーの宿屋では、どの巡礼にも白くて丈の長いシャツが寝間着用に与えられた
〈例4〉ある若い女性がベッドから引きずり出され、その後陵辱された時には、肌着しか身に着けていなかった(1516年)
〈例5〉エラスムスによれば、ロッテルダムでは夏も冬も丈の長い肌着をつけて寝るのが礼儀だった(1519年)
〈例6〉ハル(ティロル地方)の人々は、たいてい服をそっくり着たまま寝た(17世紀初頭)
【未知の男女の場合】
E.一般的に「中世では未知の男女が、とりわけ旅行中にベッドを共にするのは稀ではなかった」と従来は考えられてきた。しかしそれは正しくない理解で実際には、異性が一緒の寝床に入るのはきわめて問題だった、という。
〈例7〉宿屋では普通、1つのベッドで2人寝た(14世紀半ば)が、それはいつも同性同士だった。これ以前には、時には4人かそれ以上の場合もあった
〈例8〉バイエルンにある巡礼宿の規則では「男女が同室で(同じベッドなどとんでもない!)夜を過ごすのは“自分たちが結婚している”と誓っても禁じられた」という(15世紀)。これは他の巡礼路の大旅館(ブルゴス,サン・マルコ・デ・レオン,サンティアゴ・デ・コンポステラ)でも同じだった
〈例9〉『黄色の書』に書かれた巡礼宿でのルール:「宿の主人は巡礼者を時間をずらすことなく一緒に眠りに就かせ、男女別々にして、誰かが他の部屋に行かないよう注意しなければならないという」「そのために、部屋の外から鍵を掛けるべし」
〈例10〉ネーデルラントでは、家の主が「特に重んじている客を、信用して自分の妻をその部屋で寝させる」習慣があった(中世後期)。これは「男女が一緒に寝るのは一般的ではなかった」ことを示している
【男女が1つベッドなのは良くない!】
F.中世では(それ以降と同じく)、未婚の男女がベッドを共にすれば、何事もなかったとしてもそれは「ひどいふしだらのこと」であった。夜に「見知らぬ女性と同じ宿で、同じベッドで出会えば」それだけで姦通と同じだった(リヨンなど:中世後期)
〈例11〉北フランスのある離婚訴訟にて。「女中を同じ部屋で、しかも夫が妻と寝ているベッドの足元に寝かせた」ということで、妻が夫に罪を被せた
〈例12〉フライブルク・イム・ブライスガウで、ハンス・ラップ某がある女性を「酸っぱいのまま私のベッドの隣に寝かせたが、彼女には指一本触れはしなかった」と告白したが、それでも罰金+生涯の都市追放を食らった(1571年)
〈例13〉バートン(トレント河畔)で「ある男女が1つのベッドで夜を過ごそうとしている」という噂が広まると、2人は家から引きずり出され、野次馬が「売女と悪党!売女!売女!」と叫ぶ中、喧しい音楽とともに通りを引き回された。そして2人は棒杭に繋がれ、翌朝町から追放された(1618年)
G.女性が、やむを得ず見知らぬ男性と1つの部屋で夜を過ごすことになれば、まずい事が起こりかねないのを承知していた。中には「夜に行き届いた看護ができるように、病気の主人の部屋で寝ていた女中が、性的な不意打ちに遭う」のも珍しくなかった
⇒彼女たちは「しばしば明かりを一晩中つけっ放しにした」という
〈例14〉スペインの好色の爺さんがある晩、ドイツの未亡人のもとに泊めてもらった。ところが彼は夜、手込めにしようと下着のまま彼女のベッドの前にやって来た。彼がベッドに入って襲おうとするや、未亡人はナイフを掴んで彼の裸の腹に刺した、という(時代不明)
【男女の空間的隔たり】
H.当時は男性と女性の世界はハッキリと仕切られていたので「男性客を夜の憩いのために、女性の“秘密の領域”で寝かせる」ことは全く有り得なかった、という。宮廷のしきたり(古ゲルマンの慣習に従っている)によれば、女性たちは「それまで面識の無かった男性が手にした物に触れること」すら許されなかった
I.面会時間中の女性の部屋には「執事自ら立ち会う」or「侍従や立派なご婦人が代わりを務める」ことが義務づけられていた。もし夜半に高貴な姫君の具合が悪くなれば「式部女官を呼んで、必要ならば彼女がさらに医師・理髪師を呼んだ」。もちろんどんな場合でも、姫君の元へ他の男性を遣わせてはならなかった(16世紀)
【男性も襲われる】
J.男性が襲われるのは、他の男性と一緒だった時である。同性愛的行為は、射精に至った段階で既に問題とされたのだった
〈例15〉あるコックは「ベッドの中で手を伸ばし、隣に寝ている廷丁の陰部をマッサージした」のを第三者に目撃されたため、火刑に処せられた。しかしされた側の男性も、彼は相手の手を払いのけなかったので、町から永久追放された
☆「払いのけなかった」というのは、彼が(どんなに眠っているフリをしていても)射精してしまったことによって、法廷で証明されてしまった
K.そんなわけで、お互いの気遣いは男性同士がやむを得ず一緒のベッドで寝なければならない時にも必要だった:「ベッドの中で接触しない」「他人の掛け布団を剥いで身体を露わにさせない」「もちろん自分の身体も露わにしない」
【修道士と修道女への規則】
L.ヴァルドー派修道院や“キリストの貧しき者”修道会では「肉の誘惑に動じない」ことを示すために、男女が1つのベッドで寝た(12世紀初)が、やがて「もってのほかとされた」(13世紀初期)という
M.全ての修道士は「a.別々のベッドで、寝間着をつけて寝なければならない」とされた。あるいは「b.10人か20人がひとかたまりになって寝なければならない」「c.青少年の場合には、彼らの面倒を見る最年長者と一緒でなければならない」「d.共同寝室では朝まで蝋燭を燃やさなければならない」「e.服を着て眠り、かつベルトor紐で締めなければならない」のだった
N.別の場所では、ベッドに入る際の注意として「f.修道士は就寝時、ベッドの外でフロックを脱ぐ」→「g.ベッドに入り、布団の中で下着を脱ぎ、翌朝再び布団の中でそれを着なければならない」、さらに「h.同僚に覗く機会を与えないよう、脚を組まずに、必ず両脚を同時に上げてベッドに入れ」と指示されていた(ヒルザウ修道院:11世紀)
O.同性愛に対する警戒はずいぶん早くから登場する。「i.魅力的な同僚のそばに座ったり寝たりせず、ましてや2人きりにならないよう心掛けてほしい」「j.もしやむを得ない事情で彼と話さざるを得ない時は、目を伏せて彼を正視しないこと」とは、聖バジリウスの助言である(4世紀)
P.もちろん修道女に対しても同じである。中世でも「k.同じベッドに寝る,手を繋いで歩く,入浴などの折に全裸or半裸の姿を姉妹に見せる、ことは禁じられた」のだった
【病院・大学にて】
Q.中世の大学・病院の共同寝室の規則は、修道院ほどは厳しくなかったものの、ここでも厳格な礼儀作法が求められた。「病院の大部屋では、病人は誰もが寝間着を身につけている(14世紀の写本に描かれた絵から)」「パリの学生たちは、共同寝室では寝間着の下にさらにズボン下を着用していた(これも絵に描かれている)」
R.やむを得ない場合には、2人の病人が一緒のベッドに寝かされたが、常に同性同士だった。男部屋と女部屋は例外なく、非常に厳しく隔てられていた。世話をするのはもちろん同性同士だった
〈例1〉フランス(17世紀)では未だに4人までベッドを共用していた一方で、中世後期・ルネサンス期の絵には、患者は1人ずつ寝ていたように描かれている
〈例2〉ヨハネ騎士団の巡礼病院(イェルサレム)では、騎士団長によってシングルベッドであるよう定められた(1182年)
S.性別の区分は牢獄においても存在し「男:塔内牢獄」「女:女性牢」というようになっていた。ちなみに中ではどちらも「パンと水だけ」しか与えられなかった
【ハンセン病患者の施療院の規則】
T.ここでは、とりわけ規律がやかましく「男女は互いに訪問しあう,語らう,食事を共にするのは禁じられていた」。ここには、中世にあった見当違いな説(ハンセン病患者は極めて異常な性欲の持ち主である)と関連があった可能性はある。ただし夫婦は例外だった(例:リールでは日曜日毎に、食事を共にできた)
☆幾つかの地方では、ハンセン病の施療院は男女別々に存在した
U.シュトラスブルクでは、一般病院も含めて「夜間看護のために、男部屋に下僕・女部屋に下女を雇った」「世話をしてもらうので、礼儀に反した寝間着を身につけるのは厳しく罰せられた」。ちなみに罰するのは看護人が随意に行った(中世後期)
V.フライブルク病院規則では、入浴の際「男性:下着,女性:丈の長い浴用肌着」を着なければならなかった(1480年)。また聖ヨハネ病院(レヴァル)に見られるように、男女の混浴は禁じられていた







