『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[9]
(6)楽園と裸の人々
A.中世ヨーロッパでは「自分たちを罪なき状態にある」と主張する人々は繰り返し出現した。彼らはその主張の根拠として“お互い同士、見知らぬ人々の前でも裸体になれる”(=楽園追放以前の姿)ことを特に重要視した
B.ただし、全ての異端者が下記のような極端な主張をしたわけではないことに注意しなければならない。ある被尋問者は異端審問官に対して「私は神がそんな行為を許すとは思わない」と語った(1381年)
C.さらにはこうした、異端の中でも特殊な宗派以外の人々は「己の無罪」ー「羞恥心の無さ」を結びつけて示威することに関心は無かった。だから彼らは礼儀作法を重んじて「身体のある部分(特に陰部の辺り)をズボン下などで常に隠していた」

鞭打ち苦行者の贖罪行列
【公然と裸になる宗派:その1】
A.「信者が裸ミサを開いて、乱交に身を委ねる」フィビオン派orバルベロ派(早くも4世紀に!)
B.「一糸まとわぬ姿でヴェローナに集まった」善悪二元論者。うち何人かは「臍から下には罪はない。だからどの婦人とも問題なく性交できる」と教えた(1280年代)
c.「異性の裸体を見て、まだ羞恥心・色欲が起こるようでは完全ではない」と『自由の霊兄弟会』は説教した
d.「自然物を目の当たりにして、赤面しなければならないようなものは何一つ無い」→「だから人前でおおっぴらに陰部を見せ、性行為ができる」と、テュルパン派は考えた(14世紀後半)。パリ大学総長ジャン・ド・ジェルソンは彼らを激しく非難した。ジェルソン曰わく「所詮我々は祖先とは違うのだ。もはや罪なき状態では暮らしていけない」ということ
☆“テュルパン”とは「笛を吹く」という意味の擬声語である。そして「笛を吹く」とは「性交」の言い換えだった
e.「“自由の霊の持ち主”は、罪を犯すことなく祭壇で自分の母・妹と共寝できる」「律法に服するのは粗野な者どもだけだ」と、男子ベギン会士ヨハネス・ハルトマンは主張した(1367年に捕らえられる)
f.「(性交は)飲み食いのように全く自然なものである」と主張した、アマリクス派の影響を受けた1婦人は、自分を「熾天使(セラビム)」と称した(1410年)
g.ある修道士は、大勢の人を「自分は父なる神である」と上手く丸め込んだ。その上で彼は「一同に着物を脱ぐように命じ、川中で洗礼を施した」。ところが彼らが服を脱いでフェルモ市内に入った時、フェルモ市民の健全な庶民感覚がこの破廉恥さに激昂した。かくして裸の人々は捕らえられ、牢獄にぶち込まれた(1420年)
【その2:アダム派の場合】
h.「性交は飲食と同じく自然なものだから、万人の目の前でも恥ずかしがることなく行える」と、中世後期のアダム派は主張した。しかしアダム派の中にも、羞恥心を捨てて陰部を露出するのにかなり抵抗を感じる者たちは存在した
〈例〉パレスチナ(1421年)
アダム派の一派はこの地のタボール山にて“この世の楽園”を建設しようと、裸で火踊りをすべく服を脱いだ。しかし何人かの男は羞恥心が働き、人前で腰布を取ることを拒んだ
すると女性メンバーたちが無理やり男どもの陰部をさらして“汝の牢獄を捨てよ、我に汝の霊を与え、かつ我が霊を受けよ!”と言いながら、公衆の面前での性交を要求し、ただちに実行された
【その3:再洗礼派(の一部)の場合】
i.「真の秘蹟は兄弟・姉妹との性交にある。なぜなら男女は性交によらずして互いには聖化できないだろうから」と、クラウス・ルートヴィヒ(テューリンゲンの再洗礼派)は確信していた。彼が聖書朗読後に“神の命ずるままに、行きて、産み、増えよ”と語ると、弟子たちは「男も女も服をかなぐり捨てて裸となり、入り乱れて乱交した」という。これは“クリステリー”と呼ばれた
〈攻撃の材料に使われる〉
D.乱交の場面を描いた芸術作品は、そこに子供が描かれていることから、明らかに売春宿(16世紀に悪評高かった浴場)を描いたものではない。こうした作品には『再洗礼派を描いた』ということで、明らかに再洗礼派を誹謗・光景する材料とされた(例:『再洗礼派の浴室』ヴィルギィール・ゾリス作)
E.もちろん一般の再洗礼派自身も、このような乱交の光景を「悪魔の猥褻行為」と見なした。ただしこうした行為に対する対応は、各地の再洗礼派の間に差があった
〈例〉シュトラスブルクの兄弟団は、重婚だとして「メンバーの1人であっても」火刑に処した。オーストリアのある再洗礼派信者だと「夫婦間の性交すら罪である」とした(1529年)
F.そして“クリステリー”のような乱交(そしてゾリスが描いた光景)は、実際に各地で演じられた(例:バーゼル,アウクスブルク,ハイルブロン,シュヴェービッシュ・グミュント,ザンクト・ガレン〔1527~35年〕)
【洗礼との関係】
G.再洗礼派が「洗礼に際して洗礼者を水に浸けさせた」という事実もまた「公衆の面前で裸になっている→不道徳だ!」との非難を招いた。実際、古代ローマにおいてすら「裸の男女の洗礼は、キリスト教徒の破廉恥・不道徳だ」と非難されていた
H.ニケア公会議規定集(8世紀)では、ついに「男性は若い娘の見物を見物してはならない」「婦人も青少年の洗礼に同席してはならない」とされ、その後間もなく「浸水洗礼の風習」が無くなった
(7)不能の証明と公開性交
【不能か、できるのか?】
A.中世において、場合によっては男性たちは、見知らぬ人々の前で公開された状況において「自らの性器を露出し、さらにそれを刺激しなければならない」場面があった、と言われている
〈例1〉ヨーク(1433年)
妻から不能の烙印を押されたある男性が「パートナーを変えても“役に立たない”ままなのか」を確認すべく、女性証人が立てられた。彼女が男性に様々な手段で性的興奮を掻き立てようとしたものの、残念ながら男性は“ほとんど役に立たない”まま終わった
〈例2〉ヴェネツィア(中世後期)
ある男が「山羊と性的関係を持った」と訴えられ、これに対して「自分は肉体的に虚弱だから“役に立たない”のだ」と自己弁護した。そこで裁判所は2人の公娼を指名して、被告が“役に立つ”かどうかをテストするように命じた
B.しかし実際には、上記2例は「ごく稀な例外」だった。中世後期フランスにおいて、時々このような訴訟手続きは行われた。しかしそれは「1.不能とされた男」が「2.1週間ほど毎晩、裁判所が定めた女性の立ち会いの下」で「3.自分の妻と運試しをしてもよい」というものだった
☆しかも普通は(上記の手続きの代わりに)「a.医師による肉体の観察」が行われた
C.上記手続きは「中世後期には徐々に行われ、そしてルネサンス期~近世にはしばしば行われた」のだが、中世では概ね「口頭での質問しか行われなかった」という特徴がある。しかもそこではむしろ「b.縁者・隣人により間接証言に頼った」のだ。こうした手続きには「c.7人の誓いだけで十分」とされていた
☆アウクスブルクの裁判記録(1350年)には、不能に関する訴訟手続きは10件あり、いずれも肉体の観察によって進められた。その際には「d.男は医者・女は産婆によって調べられた」
D.夫が“役に立つ”にもかかわらず夫婦に子供が無い場合には、医者が新鮮な精液を検査することはよくあった。しかしこの検査は「検査対象の男性が医者の前で精液を用意しなければならなかたた」ようで、不快感を招いたらしい
☆ちなみに中世後期の医学的見解からすると「健康:黄味を帯びた白色,高熱のためにダメなもの:レモンの黄色」だという
⇒こうした(離婚訴訟に伴う)検査は、中世に限らず近代初頭まで行われていた
【君侯たちの儀式】
E.“公開性交”なるものが、中世の宮廷儀式として行われていた、と信じられている。これは「当時の君主・諸侯の婚礼において、夫婦が皆の目前で肉体・陰部を露出した」「夫婦の共寝時の性行為には全く羞恥心が無かった」と言われるものである
F.しかし実際には“公開性交”なるものには「現実の交わりはなく、夫も妻も決して裸にはならない」象徴的なセレモニーだった、という。この“お床入り”(“両人がベッドに入る時”)での行為とは「単に掛け布団の下で夫婦が並んで寝る」or「足でただベッドに触れるだけ」だった
☆こうしたアクションが、婚姻を法律上有効なするために必要とされていた。手順として「1.たいていは衣服を着た夫が、同じように衣服を着た妻を腕に抱く」→「2.周りの人々が暫く、シーツ&掛け布団を両人の上で折り畳む」というもの
G.セレモニーなので絶対に必要だが、もし未来の夫の都合が悪い時には、代理人を立てることも認められた
〈例1〉フランスのルイ12世
国王の名代として、ロートラン侯は国王の花嫁=イングランド王女マリーアに触れた(1514年)。ところでかなりの年を取っていた主君は、実際に花嫁と「(儀式ではない)肉体の性交を追体験した」時、ひどい無理がたたって卒中に襲われて死んだ
〈例2〉マクシミリアン1世
ブルターニュのアンナとの性交の前に、代役としてポールハイムのヘルボーロを遣わした(1489年)。その際に「1.ランスの町で恭しく迎えられたヘルボーロは、王侯の慣わし通りに王妃と寝た」「2.彼は武装した護衛の者を1人引き連れ、右腕・右足を露わにした王妃と共寝した」「3.両人の間には抜き身の剣が置かれていた」と伝えられる
〈例3〉フリードリヒ3世
ナポリでポルトガル国王の妹レオノールと結婚した(1452年)。彼は臥所をしつらえさせ、新郎新婦はそっくり衣服を着たままそこに寝た。ところが掛け布団が両人に掛けられた時、花嫁お付きの婦人方が大声を上げて皇帝を非難した
というのも、皇帝は「掛け布団の下で公然と“肉の交わり”が行われる」と勘違いしていたから。もちろんそれはプログラムを経て数夜の後に(当然ながら)見物人なしで行われた
【初夜は公開ではない】
H.中世に新婚初夜が公開される=「結婚式の客たちが、着物を脱いだ新郎新婦を性行為のためにベッドに連れて行って、しかる後の行為の際にそこに居合わせた」と、一般によく云われている
I.しかし「両人が裸になったところをお供の人々が部屋に残っていた」ことを示すものは何1つない。それどころかアウグスティヌスは全く逆のことを書いていた:
「召使いは1人残らず、それどころか花嫁の案内人たち、用事のために立ち入りを許された者さえ、夫が妻を愛撫し出す前に部屋から追い出される」
【主に女性によるチェック】
J.嫁探しの時に、中世後期の高位貴族たちは「チェックのために乙女を裸にした」らしいが、その際にも(特に陰部のあたりは)女性にしか露わにしなかった
〈例1〉ヤーコプ2世の息女ヴィオランテ
フランス国王の使節団は、彼女と王子を結婚させたがっていた。しかし最後に彼女は「『子を産めるかどうか』をチェックするために、使節団に対して片方の乳房だけを見せざるを得なかった」(14世紀)
☆ただし彼女の場合には、花嫁候補として選ばれるまでに全てのライバルを勝ち抜いてきたのだから、その際には彼女の素晴らしい身体も役立っていたと考えられる、という
〈例2〉バイエルンのイザベラ
シャルル6世との結婚前に、脱衣の状態で自分の身体を鑑定させなければならなかった(1385年)。この時に同席したのは専らご婦人方だけだった。年代記作者のフロワサールのコメント:
「やんごとなき方の姫君である婦人ならどなたも、子供を懐妊できる身体かどうかを知るために、貴婦人によって一糸まとわぬ姿を見たり調べられたりするのは、フランスの習慣であり目的にも適っている」
〈例3〉エドワード3世の花嫁
イングランド国王の使節は、王子(後のエドワード3世)の花嫁たるハイノルト伯の娘フィリッパについて、十分に素質があると報告した。その中身:
「彼女の首といい、肩といい、身体全体に均整が取れ健やかです。お見受けしたところ、具合の悪いところ1つございません」
K.こうした手続きは、中世後期の乙女にとってどれほど身を切られる思いだったにせよ、王侯貴族の婚姻という性格上不可欠であった(とされていた)。しかし、新郎新婦が初夜を公開する必要は全くない
〈例4〉ヘンリー7世の財政報告書
「新婦がやって来てベッドに運ばれるまでには、女性を除いて男性は皆締め出される。新郎の場合は両性とも居合わせる」「彼はシャツを着てガウンを身にまとい、ベッドに座る。それから司祭が司教とともに入室し、そのベッドを祝福する」
〈例5〉リューベック
「花嫁介添えの婦人たちが新婦を夫のベッドに連れて行く」旧習は廃止された(1612年)。つまり旧習であっても、新婦のシャツ姿を見たのは婦人たちだけである
【後世の誤解の原因:図版の解釈の問題】
L.中世の図版で「A.1組の男女が何人かの人々の前で同衾している」「B.男が他人の目の前で下半身を露出させている」といった、そのまま解釈してしまいがちな作品は数多く見られる
☆ところが中世の絵では「違う場所で、続けて起こった事象が、同じ空間上に描かれる」という特徴がある。A.では「夫の浮気の場面と、妻が当局に姦通を訴え出る場面」が、B.では「妻が当局に夫の不能を訴える場面と、訴因たる夫の不能」が、それぞれ並べて描かれている
★大半の人々が文盲だった中世において、見る人に一目で理解できるよう、このように配置されていたのだった
(6)楽園と裸の人々
A.中世ヨーロッパでは「自分たちを罪なき状態にある」と主張する人々は繰り返し出現した。彼らはその主張の根拠として“お互い同士、見知らぬ人々の前でも裸体になれる”(=楽園追放以前の姿)ことを特に重要視した
B.ただし、全ての異端者が下記のような極端な主張をしたわけではないことに注意しなければならない。ある被尋問者は異端審問官に対して「私は神がそんな行為を許すとは思わない」と語った(1381年)
C.さらにはこうした、異端の中でも特殊な宗派以外の人々は「己の無罪」ー「羞恥心の無さ」を結びつけて示威することに関心は無かった。だから彼らは礼儀作法を重んじて「身体のある部分(特に陰部の辺り)をズボン下などで常に隠していた」

鞭打ち苦行者の贖罪行列
【公然と裸になる宗派:その1】
A.「信者が裸ミサを開いて、乱交に身を委ねる」フィビオン派orバルベロ派(早くも4世紀に!)
B.「一糸まとわぬ姿でヴェローナに集まった」善悪二元論者。うち何人かは「臍から下には罪はない。だからどの婦人とも問題なく性交できる」と教えた(1280年代)
c.「異性の裸体を見て、まだ羞恥心・色欲が起こるようでは完全ではない」と『自由の霊兄弟会』は説教した
d.「自然物を目の当たりにして、赤面しなければならないようなものは何一つ無い」→「だから人前でおおっぴらに陰部を見せ、性行為ができる」と、テュルパン派は考えた(14世紀後半)。パリ大学総長ジャン・ド・ジェルソンは彼らを激しく非難した。ジェルソン曰わく「所詮我々は祖先とは違うのだ。もはや罪なき状態では暮らしていけない」ということ
☆“テュルパン”とは「笛を吹く」という意味の擬声語である。そして「笛を吹く」とは「性交」の言い換えだった
e.「“自由の霊の持ち主”は、罪を犯すことなく祭壇で自分の母・妹と共寝できる」「律法に服するのは粗野な者どもだけだ」と、男子ベギン会士ヨハネス・ハルトマンは主張した(1367年に捕らえられる)
f.「(性交は)飲み食いのように全く自然なものである」と主張した、アマリクス派の影響を受けた1婦人は、自分を「熾天使(セラビム)」と称した(1410年)
g.ある修道士は、大勢の人を「自分は父なる神である」と上手く丸め込んだ。その上で彼は「一同に着物を脱ぐように命じ、川中で洗礼を施した」。ところが彼らが服を脱いでフェルモ市内に入った時、フェルモ市民の健全な庶民感覚がこの破廉恥さに激昂した。かくして裸の人々は捕らえられ、牢獄にぶち込まれた(1420年)
【その2:アダム派の場合】
h.「性交は飲食と同じく自然なものだから、万人の目の前でも恥ずかしがることなく行える」と、中世後期のアダム派は主張した。しかしアダム派の中にも、羞恥心を捨てて陰部を露出するのにかなり抵抗を感じる者たちは存在した
〈例〉パレスチナ(1421年)
アダム派の一派はこの地のタボール山にて“この世の楽園”を建設しようと、裸で火踊りをすべく服を脱いだ。しかし何人かの男は羞恥心が働き、人前で腰布を取ることを拒んだ
すると女性メンバーたちが無理やり男どもの陰部をさらして“汝の牢獄を捨てよ、我に汝の霊を与え、かつ我が霊を受けよ!”と言いながら、公衆の面前での性交を要求し、ただちに実行された
【その3:再洗礼派(の一部)の場合】
i.「真の秘蹟は兄弟・姉妹との性交にある。なぜなら男女は性交によらずして互いには聖化できないだろうから」と、クラウス・ルートヴィヒ(テューリンゲンの再洗礼派)は確信していた。彼が聖書朗読後に“神の命ずるままに、行きて、産み、増えよ”と語ると、弟子たちは「男も女も服をかなぐり捨てて裸となり、入り乱れて乱交した」という。これは“クリステリー”と呼ばれた
〈攻撃の材料に使われる〉
D.乱交の場面を描いた芸術作品は、そこに子供が描かれていることから、明らかに売春宿(16世紀に悪評高かった浴場)を描いたものではない。こうした作品には『再洗礼派を描いた』ということで、明らかに再洗礼派を誹謗・光景する材料とされた(例:『再洗礼派の浴室』ヴィルギィール・ゾリス作)
E.もちろん一般の再洗礼派自身も、このような乱交の光景を「悪魔の猥褻行為」と見なした。ただしこうした行為に対する対応は、各地の再洗礼派の間に差があった
〈例〉シュトラスブルクの兄弟団は、重婚だとして「メンバーの1人であっても」火刑に処した。オーストリアのある再洗礼派信者だと「夫婦間の性交すら罪である」とした(1529年)
F.そして“クリステリー”のような乱交(そしてゾリスが描いた光景)は、実際に各地で演じられた(例:バーゼル,アウクスブルク,ハイルブロン,シュヴェービッシュ・グミュント,ザンクト・ガレン〔1527~35年〕)
【洗礼との関係】
G.再洗礼派が「洗礼に際して洗礼者を水に浸けさせた」という事実もまた「公衆の面前で裸になっている→不道徳だ!」との非難を招いた。実際、古代ローマにおいてすら「裸の男女の洗礼は、キリスト教徒の破廉恥・不道徳だ」と非難されていた
H.ニケア公会議規定集(8世紀)では、ついに「男性は若い娘の見物を見物してはならない」「婦人も青少年の洗礼に同席してはならない」とされ、その後間もなく「浸水洗礼の風習」が無くなった
(7)不能の証明と公開性交
【不能か、できるのか?】
A.中世において、場合によっては男性たちは、見知らぬ人々の前で公開された状況において「自らの性器を露出し、さらにそれを刺激しなければならない」場面があった、と言われている
〈例1〉ヨーク(1433年)
妻から不能の烙印を押されたある男性が「パートナーを変えても“役に立たない”ままなのか」を確認すべく、女性証人が立てられた。彼女が男性に様々な手段で性的興奮を掻き立てようとしたものの、残念ながら男性は“ほとんど役に立たない”まま終わった
〈例2〉ヴェネツィア(中世後期)
ある男が「山羊と性的関係を持った」と訴えられ、これに対して「自分は肉体的に虚弱だから“役に立たない”のだ」と自己弁護した。そこで裁判所は2人の公娼を指名して、被告が“役に立つ”かどうかをテストするように命じた
B.しかし実際には、上記2例は「ごく稀な例外」だった。中世後期フランスにおいて、時々このような訴訟手続きは行われた。しかしそれは「1.不能とされた男」が「2.1週間ほど毎晩、裁判所が定めた女性の立ち会いの下」で「3.自分の妻と運試しをしてもよい」というものだった
☆しかも普通は(上記の手続きの代わりに)「a.医師による肉体の観察」が行われた
C.上記手続きは「中世後期には徐々に行われ、そしてルネサンス期~近世にはしばしば行われた」のだが、中世では概ね「口頭での質問しか行われなかった」という特徴がある。しかもそこではむしろ「b.縁者・隣人により間接証言に頼った」のだ。こうした手続きには「c.7人の誓いだけで十分」とされていた
☆アウクスブルクの裁判記録(1350年)には、不能に関する訴訟手続きは10件あり、いずれも肉体の観察によって進められた。その際には「d.男は医者・女は産婆によって調べられた」
D.夫が“役に立つ”にもかかわらず夫婦に子供が無い場合には、医者が新鮮な精液を検査することはよくあった。しかしこの検査は「検査対象の男性が医者の前で精液を用意しなければならなかたた」ようで、不快感を招いたらしい
☆ちなみに中世後期の医学的見解からすると「健康:黄味を帯びた白色,高熱のためにダメなもの:レモンの黄色」だという
⇒こうした(離婚訴訟に伴う)検査は、中世に限らず近代初頭まで行われていた
【君侯たちの儀式】
E.“公開性交”なるものが、中世の宮廷儀式として行われていた、と信じられている。これは「当時の君主・諸侯の婚礼において、夫婦が皆の目前で肉体・陰部を露出した」「夫婦の共寝時の性行為には全く羞恥心が無かった」と言われるものである
F.しかし実際には“公開性交”なるものには「現実の交わりはなく、夫も妻も決して裸にはならない」象徴的なセレモニーだった、という。この“お床入り”(“両人がベッドに入る時”)での行為とは「単に掛け布団の下で夫婦が並んで寝る」or「足でただベッドに触れるだけ」だった
☆こうしたアクションが、婚姻を法律上有効なするために必要とされていた。手順として「1.たいていは衣服を着た夫が、同じように衣服を着た妻を腕に抱く」→「2.周りの人々が暫く、シーツ&掛け布団を両人の上で折り畳む」というもの
G.セレモニーなので絶対に必要だが、もし未来の夫の都合が悪い時には、代理人を立てることも認められた
〈例1〉フランスのルイ12世
国王の名代として、ロートラン侯は国王の花嫁=イングランド王女マリーアに触れた(1514年)。ところでかなりの年を取っていた主君は、実際に花嫁と「(儀式ではない)肉体の性交を追体験した」時、ひどい無理がたたって卒中に襲われて死んだ
〈例2〉マクシミリアン1世
ブルターニュのアンナとの性交の前に、代役としてポールハイムのヘルボーロを遣わした(1489年)。その際に「1.ランスの町で恭しく迎えられたヘルボーロは、王侯の慣わし通りに王妃と寝た」「2.彼は武装した護衛の者を1人引き連れ、右腕・右足を露わにした王妃と共寝した」「3.両人の間には抜き身の剣が置かれていた」と伝えられる
〈例3〉フリードリヒ3世
ナポリでポルトガル国王の妹レオノールと結婚した(1452年)。彼は臥所をしつらえさせ、新郎新婦はそっくり衣服を着たままそこに寝た。ところが掛け布団が両人に掛けられた時、花嫁お付きの婦人方が大声を上げて皇帝を非難した
というのも、皇帝は「掛け布団の下で公然と“肉の交わり”が行われる」と勘違いしていたから。もちろんそれはプログラムを経て数夜の後に(当然ながら)見物人なしで行われた
【初夜は公開ではない】
H.中世に新婚初夜が公開される=「結婚式の客たちが、着物を脱いだ新郎新婦を性行為のためにベッドに連れて行って、しかる後の行為の際にそこに居合わせた」と、一般によく云われている
I.しかし「両人が裸になったところをお供の人々が部屋に残っていた」ことを示すものは何1つない。それどころかアウグスティヌスは全く逆のことを書いていた:
「召使いは1人残らず、それどころか花嫁の案内人たち、用事のために立ち入りを許された者さえ、夫が妻を愛撫し出す前に部屋から追い出される」
【主に女性によるチェック】
J.嫁探しの時に、中世後期の高位貴族たちは「チェックのために乙女を裸にした」らしいが、その際にも(特に陰部のあたりは)女性にしか露わにしなかった
〈例1〉ヤーコプ2世の息女ヴィオランテ
フランス国王の使節団は、彼女と王子を結婚させたがっていた。しかし最後に彼女は「『子を産めるかどうか』をチェックするために、使節団に対して片方の乳房だけを見せざるを得なかった」(14世紀)
☆ただし彼女の場合には、花嫁候補として選ばれるまでに全てのライバルを勝ち抜いてきたのだから、その際には彼女の素晴らしい身体も役立っていたと考えられる、という
〈例2〉バイエルンのイザベラ
シャルル6世との結婚前に、脱衣の状態で自分の身体を鑑定させなければならなかった(1385年)。この時に同席したのは専らご婦人方だけだった。年代記作者のフロワサールのコメント:
「やんごとなき方の姫君である婦人ならどなたも、子供を懐妊できる身体かどうかを知るために、貴婦人によって一糸まとわぬ姿を見たり調べられたりするのは、フランスの習慣であり目的にも適っている」
〈例3〉エドワード3世の花嫁
イングランド国王の使節は、王子(後のエドワード3世)の花嫁たるハイノルト伯の娘フィリッパについて、十分に素質があると報告した。その中身:
「彼女の首といい、肩といい、身体全体に均整が取れ健やかです。お見受けしたところ、具合の悪いところ1つございません」
K.こうした手続きは、中世後期の乙女にとってどれほど身を切られる思いだったにせよ、王侯貴族の婚姻という性格上不可欠であった(とされていた)。しかし、新郎新婦が初夜を公開する必要は全くない
〈例4〉ヘンリー7世の財政報告書
「新婦がやって来てベッドに運ばれるまでには、女性を除いて男性は皆締め出される。新郎の場合は両性とも居合わせる」「彼はシャツを着てガウンを身にまとい、ベッドに座る。それから司祭が司教とともに入室し、そのベッドを祝福する」
〈例5〉リューベック
「花嫁介添えの婦人たちが新婦を夫のベッドに連れて行く」旧習は廃止された(1612年)。つまり旧習であっても、新婦のシャツ姿を見たのは婦人たちだけである
【後世の誤解の原因:図版の解釈の問題】
L.中世の図版で「A.1組の男女が何人かの人々の前で同衾している」「B.男が他人の目の前で下半身を露出させている」といった、そのまま解釈してしまいがちな作品は数多く見られる
☆ところが中世の絵では「違う場所で、続けて起こった事象が、同じ空間上に描かれる」という特徴がある。A.では「夫の浮気の場面と、妻が当局に姦通を訴え出る場面」が、B.では「妻が当局に夫の不能を訴える場面と、訴因たる夫の不能」が、それぞれ並べて描かれている
★大半の人々が文盲だった中世において、見る人に一目で理解できるよう、このように配置されていたのだった




