『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[9]


(6)楽園と裸の人々

 A.中世ヨーロッパでは「自分たちを罪なき状態にある」と主張する人々は繰り返し出現した。彼らはその主張の根拠として“お互い同士、見知らぬ人々の前でも裸体になれる”(=楽園追放以前の姿)ことを特に重要視した
 B.ただし、全ての異端者が下記のような極端な主張をしたわけではないことに注意しなければならない。ある被尋問者は異端審問官に対して「私は神がそんな行為を許すとは思わない」と語った(1381年)
 C.さらにはこうした、異端の中でも特殊な宗派以外の人々は「己の無罪」ー「羞恥心の無さ」を結びつけて示威することに関心は無かった。だから彼らは礼儀作法を重んじて「身体のある部分(特に陰部の辺り)をズボン下などで常に隠していた」

鞭打ち苦行者の贖罪行列
 鞭打ち苦行者の贖罪行列

【公然と裸になる宗派:その1】
 A.「信者が裸ミサを開いて、乱交に身を委ねる」フィビオン派orバルベロ派(早くも4世紀に!)
 B.「一糸まとわぬ姿でヴェローナに集まった」善悪二元論者。うち何人かは「臍から下には罪はない。だからどの婦人とも問題なく性交できる」と教えた(1280年代)
 c.「異性の裸体を見て、まだ羞恥心・色欲が起こるようでは完全ではない」と『自由の霊兄弟会』は説教した
 d.「自然物を目の当たりにして、赤面しなければならないようなものは何一つ無い」→「だから人前でおおっぴらに陰部を見せ、性行為ができる」と、テュルパン派は考えた(14世紀後半)。パリ大学総長ジャン・ド・ジェルソンは彼らを激しく非難した。ジェルソン曰わく「所詮我々は祖先とは違うのだ。もはや罪なき状態では暮らしていけない」ということ
 ☆“テュルパン”とは「笛を吹く」という意味の擬声語である。そして「笛を吹く」とは「性交」の言い換えだった
 e.「“自由の霊の持ち主”は、罪を犯すことなく祭壇で自分の母・妹と共寝できる」「律法に服するのは粗野な者どもだけだ」と、男子ベギン会士ヨハネス・ハルトマンは主張した(1367年に捕らえられる)
 f.「(性交は)飲み食いのように全く自然なものである」と主張した、アマリクス派の影響を受けた1婦人は、自分を「熾天使(セラビム)」と称した(1410年)
 g.ある修道士は、大勢の人を「自分は父なる神である」と上手く丸め込んだ。その上で彼は「一同に着物を脱ぐように命じ、川中で洗礼を施した」。ところが彼らが服を脱いでフェルモ市内に入った時、フェルモ市民の健全な庶民感覚がこの破廉恥さに激昂した。かくして裸の人々は捕らえられ、牢獄にぶち込まれた(1420年)

【その2:アダム派の場合】
 h.「性交は飲食と同じく自然なものだから、万人の目の前でも恥ずかしがることなく行える」と、中世後期のアダム派は主張した。しかしアダム派の中にも、羞恥心を捨てて陰部を露出するのにかなり抵抗を感じる者たちは存在した
〈例〉パレスチナ(1421年)
 アダム派の一派はこの地のタボール山にて“この世の楽園”を建設しようと、裸で火踊りをすべく服を脱いだ。しかし何人かの男は羞恥心が働き、人前で腰布を取ることを拒んだ
 すると女性メンバーたちが無理やり男どもの陰部をさらして“汝の牢獄を捨てよ、我に汝の霊を与え、かつ我が霊を受けよ!”と言いながら、公衆の面前での性交を要求し、ただちに実行された

【その3:再洗礼派(の一部)の場合】
 i.「真の秘蹟は兄弟・姉妹との性交にある。なぜなら男女は性交によらずして互いには聖化できないだろうから」と、クラウス・ルートヴィヒ(テューリンゲンの再洗礼派)は確信していた。彼が聖書朗読後に“神の命ずるままに、行きて、産み、増えよ”と語ると、弟子たちは「男も女も服をかなぐり捨てて裸となり、入り乱れて乱交した」という。これは“クリステリー”と呼ばれた
〈攻撃の材料に使われる〉
 D.乱交の場面を描いた芸術作品は、そこに子供が描かれていることから、明らかに売春宿(16世紀に悪評高かった浴場)を描いたものではない。こうした作品には『再洗礼派を描いた』ということで、明らかに再洗礼派を誹謗・光景する材料とされた(例:『再洗礼派の浴室』ヴィルギィール・ゾリス作)
 E.もちろん一般の再洗礼派自身も、このような乱交の光景を「悪魔の猥褻行為」と見なした。ただしこうした行為に対する対応は、各地の再洗礼派の間に差があった
〈例〉シュトラスブルクの兄弟団は、重婚だとして「メンバーの1人であっても」火刑に処した。オーストリアのある再洗礼派信者だと「夫婦間の性交すら罪である」とした(1529年)
 F.そして“クリステリー”のような乱交(そしてゾリスが描いた光景)は、実際に各地で演じられた(例:バーゼル,アウクスブルク,ハイルブロン,シュヴェービッシュ・グミュント,ザンクト・ガレン〔1527~35年〕)

【洗礼との関係】
 G.再洗礼派が「洗礼に際して洗礼者を水に浸けさせた」という事実もまた「公衆の面前で裸になっている→不道徳だ!」との非難を招いた。実際、古代ローマにおいてすら「裸の男女の洗礼は、キリスト教徒の破廉恥・不道徳だ」と非難されていた
 H.ニケア公会議規定集(8世紀)では、ついに「男性は若い娘の見物を見物してはならない」「婦人も青少年の洗礼に同席してはならない」とされ、その後間もなく「浸水洗礼の風習」が無くなった


(7)不能の証明と公開性交

【不能か、できるのか?】
 A.中世において、場合によっては男性たちは、見知らぬ人々の前で公開された状況において「自らの性器を露出し、さらにそれを刺激しなければならない」場面があった、と言われている
〈例1〉ヨーク(1433年)
 妻から不能の烙印を押されたある男性が「パートナーを変えても“役に立たない”ままなのか」を確認すべく、女性証人が立てられた。彼女が男性に様々な手段で性的興奮を掻き立てようとしたものの、残念ながら男性は“ほとんど役に立たない”まま終わった
〈例2〉ヴェネツィア(中世後期)
 ある男が「山羊と性的関係を持った」と訴えられ、これに対して「自分は肉体的に虚弱だから“役に立たない”のだ」と自己弁護した。そこで裁判所は2人の公娼を指名して、被告が“役に立つ”かどうかをテストするように命じた
 B.しかし実際には、上記2例は「ごく稀な例外」だった。中世後期フランスにおいて、時々このような訴訟手続きは行われた。しかしそれは「1.不能とされた男」が「2.1週間ほど毎晩、裁判所が定めた女性の立ち会いの下」で「3.自分の妻と運試しをしてもよい」というものだった
 ☆しかも普通は(上記の手続きの代わりに)「a.医師による肉体の観察」が行われた
 C.上記手続きは「中世後期には徐々に行われ、そしてルネサンス期~近世にはしばしば行われた」のだが、中世では概ね「口頭での質問しか行われなかった」という特徴がある。しかもそこではむしろ「b.縁者・隣人により間接証言に頼った」のだ。こうした手続きには「c.7人の誓いだけで十分」とされていた
 ☆アウクスブルクの裁判記録(1350年)には、不能に関する訴訟手続きは10件あり、いずれも肉体の観察によって進められた。その際には「d.男は医者・女は産婆によって調べられた」
 D.夫が“役に立つ”にもかかわらず夫婦に子供が無い場合には、医者が新鮮な精液を検査することはよくあった。しかしこの検査は「検査対象の男性が医者の前で精液を用意しなければならなかたた」ようで、不快感を招いたらしい
 ☆ちなみに中世後期の医学的見解からすると「健康:黄味を帯びた白色,高熱のためにダメなもの:レモンの黄色」だという
 ⇒こうした(離婚訴訟に伴う)検査は、中世に限らず近代初頭まで行われていた

【君侯たちの儀式】
 E.“公開性交”なるものが、中世の宮廷儀式として行われていた、と信じられている。これは「当時の君主・諸侯の婚礼において、夫婦が皆の目前で肉体・陰部を露出した」「夫婦の共寝時の性行為には全く羞恥心が無かった」と言われるものである
 F.しかし実際には“公開性交”なるものには「現実の交わりはなく、夫も妻も決して裸にはならない」象徴的なセレモニーだった、という。この“お床入り”(“両人がベッドに入る時”)での行為とは「単に掛け布団の下で夫婦が並んで寝る」or「足でただベッドに触れるだけ」だった
 ☆こうしたアクションが、婚姻を法律上有効なするために必要とされていた。手順として「1.たいていは衣服を着た夫が、同じように衣服を着た妻を腕に抱く」→「2.周りの人々が暫く、シーツ&掛け布団を両人の上で折り畳む」というもの
 G.セレモニーなので絶対に必要だが、もし未来の夫の都合が悪い時には、代理人を立てることも認められた
〈例1〉フランスのルイ12世
 国王の名代として、ロートラン侯は国王の花嫁=イングランド王女マリーアに触れた(1514年)。ところでかなりの年を取っていた主君は、実際に花嫁と「(儀式ではない)肉体の性交を追体験した」時、ひどい無理がたたって卒中に襲われて死んだ
〈例2〉マクシミリアン1世
 ブルターニュのアンナとの性交の前に、代役としてポールハイムのヘルボーロを遣わした(1489年)。その際に「1.ランスの町で恭しく迎えられたヘルボーロは、王侯の慣わし通りに王妃と寝た」「2.彼は武装した護衛の者を1人引き連れ、右腕・右足を露わにした王妃と共寝した」「3.両人の間には抜き身の剣が置かれていた」と伝えられる
〈例3〉フリードリヒ3世
 ナポリでポルトガル国王の妹レオノールと結婚した(1452年)。彼は臥所をしつらえさせ、新郎新婦はそっくり衣服を着たままそこに寝た。ところが掛け布団が両人に掛けられた時、花嫁お付きの婦人方が大声を上げて皇帝を非難した
 というのも、皇帝は「掛け布団の下で公然と“肉の交わり”が行われる」と勘違いしていたから。もちろんそれはプログラムを経て数夜の後に(当然ながら)見物人なしで行われた

【初夜は公開ではない】
 H.中世に新婚初夜が公開される=「結婚式の客たちが、着物を脱いだ新郎新婦を性行為のためにベッドに連れて行って、しかる後の行為の際にそこに居合わせた」と、一般によく云われている
 I.しかし「両人が裸になったところをお供の人々が部屋に残っていた」ことを示すものは何1つない。それどころかアウグスティヌスは全く逆のことを書いていた:
「召使いは1人残らず、それどころか花嫁の案内人たち、用事のために立ち入りを許された者さえ、夫が妻を愛撫し出す前に部屋から追い出される」

【主に女性によるチェック】
 J.嫁探しの時に、中世後期の高位貴族たちは「チェックのために乙女を裸にした」らしいが、その際にも(特に陰部のあたりは)女性にしか露わにしなかった
〈例1〉ヤーコプ2世の息女ヴィオランテ
 フランス国王の使節団は、彼女と王子を結婚させたがっていた。しかし最後に彼女は「『子を産めるかどうか』をチェックするために、使節団に対して片方の乳房だけを見せざるを得なかった」(14世紀)
 ☆ただし彼女の場合には、花嫁候補として選ばれるまでに全てのライバルを勝ち抜いてきたのだから、その際には彼女の素晴らしい身体も役立っていたと考えられる、という
〈例2〉バイエルンのイザベラ
 シャルル6世との結婚前に、脱衣の状態で自分の身体を鑑定させなければならなかった(1385年)。この時に同席したのは専らご婦人方だけだった。年代記作者のフロワサールのコメント:
「やんごとなき方の姫君である婦人ならどなたも、子供を懐妊できる身体かどうかを知るために、貴婦人によって一糸まとわぬ姿を見たり調べられたりするのは、フランスの習慣であり目的にも適っている」
〈例3〉エドワード3世の花嫁
 イングランド国王の使節は、王子(後のエドワード3世)の花嫁たるハイノルト伯の娘フィリッパについて、十分に素質があると報告した。その中身:
「彼女の首といい、肩といい、身体全体に均整が取れ健やかです。お見受けしたところ、具合の悪いところ1つございません」
 K.こうした手続きは、中世後期の乙女にとってどれほど身を切られる思いだったにせよ、王侯貴族の婚姻という性格上不可欠であった(とされていた)。しかし、新郎新婦が初夜を公開する必要は全くない
〈例4〉ヘンリー7世の財政報告書
 「新婦がやって来てベッドに運ばれるまでには、女性を除いて男性は皆締め出される。新郎の場合は両性とも居合わせる」「彼はシャツを着てガウンを身にまとい、ベッドに座る。それから司祭が司教とともに入室し、そのベッドを祝福する」
〈例5〉リューベック
 「花嫁介添えの婦人たちが新婦を夫のベッドに連れて行く」旧習は廃止された(1612年)。つまり旧習であっても、新婦のシャツ姿を見たのは婦人たちだけである

【後世の誤解の原因:図版の解釈の問題】
 L.中世の図版で「A.1組の男女が何人かの人々の前で同衾している」「B.男が他人の目の前で下半身を露出させている」といった、そのまま解釈してしまいがちな作品は数多く見られる
 ☆ところが中世の絵では「違う場所で、続けて起こった事象が、同じ空間上に描かれる」という特徴がある。A.では「夫の浮気の場面と、妻が当局に姦通を訴え出る場面」が、B.では「妻が当局に夫の不能を訴える場面と、訴因たる夫の不能」が、それぞれ並べて描かれている
 ★大半の人々が文盲だった中世において、見る人に一目で理解できるよう、このように配置されていたのだった
『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[8]


(2)中世の俳優と舞台での裸

 A.中世後期において「俳優たちが舞台において,活人画において(3),都市の公娼が都市空間において(4)」人前で裸になった、と一般に言われている

【真っ裸ではない】
 B.ツェルプストであり宗教劇が演じられた(1507年)では「2人の風呂屋がアダムとエヴァに扮し、浴用のはたきで前を隠した」と記録されている。これは(そのまま読めば)「風呂屋と下女が素っ裸で登場し、罪に堕ちた後に羞恥心から、浴用のはたきだけを身につけた」と思える
 C.まず、この2人は「男女のペア」だとは全く記されていないことに注意。実は中世後期~近世初期では、通常はエヴァ役は「思春期前のかなり年のいった少年」が扮した(エヴァが低い声を出さないための配慮だった)
 D.さらに“裸の”と書かれていても、実は真っ裸ではなかった。だからエヴァに乳房が無くても、滑稽に思わせたり幻滅したりしなかった。というのは、実際にはこの表現は「シャツを着て」「ズボン下を穿いて」(=肉襦袢姿で)という意味である

【小道具類】
 E.よく使われたのが「ボディー・ストッキングとその類」だった。これを“裸のアダムとエヴァ”は「裸体の上に服をまとって」登場したのに対して、すでに“羞恥心を知ったカインとアベル”は「トリコットの上から身体に密着した上着を着た」という(ルツェルンの衣裳一覧表から)
〈その他の道具・小道具〉
 a.「ズボンの付いた肌色の衣裳」「肌色の皮ズボン」(ペルージャ:1426年)
 b.「白い皮衣(堕罪前のアダムとエヴァ用に)」「いちじくの葉(堕罪後に陰部に当てる)」(コーンウォールでの創世記上演にて)
 c.「2ポンドの白粉(“裸の人”の肌色を仕上げる)」(トゥーリンで行われた聖ゲオルク物語:1429年)
 d.「エヴァ用には覆い2枚とズボンの染めた物」「アダム用には覆い1枚とズボンの染めた物」(ノーウィッチ:1565年)
 e.「吹き出物のように彩色した亜麻織の衣(天然痘に罹ったヨブの表現として)」
【演技の指図から】
 F.モンスで演じられた受難劇(1501年)には“兵士たちはあたかもイエスの衣を脱がせるようなフリをする”とある(神の子は常に衣服をまとっていたから)。また“乙女マリアは十字架降下の祭、いかにもヴェールで息子の裸体を隠すように仕草を演じる”と書かれている
 G.ドナウエッシンゲンの受難劇では“ゲツセマネの園”の場面について“ここに盲目のマルケルスが立っていて、裸体に亜麻布をまとっている”“弟子たちが逃げると、マルクスが素早く盲目のマルケルスから外套を取る。彼は裸で逃げる”とある。もちろん“裸”とは、亜麻布をまとった姿である。ちなみに洗礼者ヨハネは“獣の皮を着て、仔羊を連れてやって来る”とある

【女性キャラの場合】
 H.イタリア後期ルネサンスのコンメディア・デラルテ(仮面を使った即興劇の1種)では婦人たちも登場する。彼女たちは時には「乳房を露わにしたこともあった」と思われる、という
 I.バールディの喜劇『誠実な友』(フィレンツェで上演された)では、ヴィーナスなどの女神は「乳房をリボンで縁取り、ヴェールで覆っていれ」だけだった。対して擬人化された“アモール”“悦楽”の場合には「いかにも裸体を思わせる皮衣」を身につけた
 J.人々は(特に女性役については)裸同然の姿がはしたない、と感じたのは、珍しいことではなかった。だから「裸同然のアダムとエヴァが演じる舞台が倒壊した」事件では、大勢の人々は「天罰が下された」と思った(ナポリ:16世紀)


(3)活人画の場合

 A.これは「素っ裸の女性が、ギリシア神話・旧約聖書での場面を描いた」「とりわけ中世後期に、王侯が(特に)スイス・エルザス・ブルゴーニュ・フランス・ネーデルラントの諸地方の大都市に入城する際、彼らを楽しませるために」行われた、とされている
〈例1〉パリ(1461年:ルイ11世戴冠年)
 国王が入城した折りに“ポンソーの泉のほとりに野性的な恰好の男女がいて、互いに闘ったり色々なポーズを取ったりしていた”“そこには、サイレンに扮した3人の非常に美しい娘もいたが、3人が3人とも裸だった”“彼女たちの美しい乳房の、まさしく2つに分かれて丸みを帯び固いさまを、人々は目にすることができた”
(ジャン・ド・トロワの報告)
〈例2〉ヘント
 フィリップ善良公入城の時、ライエ川で“全裸で、悩める人のごとく髪を振り乱していた”という
〈例3〉アントウェルペン(1494年)
 フィリップ美公入城の折り、パリスの審判の活人画が捧げられた。そこでは“最も熱い眼差しが向けられたのは、3人の女神に関する舞台だった。人々はその女神たちが裸で、しかも本物の生きた女たちであるのを見た”という
 B.活人画について伝えられる文章で気をつけなければならないのは“素っ裸”と伝えられるのは全て“水の精”だということ。つまり、頭と上半身以外は見えないので、少なくとも陰部は見えなかった、ということになる
 C.その裏返しとして、水の中以外で活人画のショーを演じる女性に関しては“素っ裸”と記述されていない。“裸で”というのは、宗教劇の場合には「白いシャツを着て」という意味であった
〈例4〉パリ(1313年)
 フィリップ4世がイングランド王のために、愛の場面を演じさせた。この時には裸体の表現には「白の亜麻色のシャツ」を用いた
〈例5〉リール(1468年)
 シャルル突進公が入城した時『パリスの審判』が、明らかに公を面白がらせる内容で提供された。というのは「ヴィーナスは目方100kg,ジュノーは背の高いやせっぽち,ミネルヴァは前と後ろにこぶが1つずつ」だったから。ただし、この3人の女神が陰部を露わにしていたかどうかは、全く触れられていない
〈例6〉アントウェルペン(1520年)
 皇帝カール5世入城の折に「“美少女の活人画”が若い娘たちによって構成され、彼女たちは“ほとんど裸で”〔=絽(縞織物)の薄物をまとい〕、肉体の形がほのかに透けて見えた」という
 この時、若い皇帝は恥ずかしさのあまり娘たちをまともに見られなかった。反対に皇帝とともにやって来たニュルンベルク市民デューラーは「そこで何が行われているのかを知るためにも、またこの上なく美しい乙女たちの完全さを観察するためにも、自分から喜んで近寄っていった」「自分は画家だから“いつもより少し恥知らずになって当たりを見回すのだ”と言いながら、近寄っていった」と、己の行動を弁明した
[※裸を見る側にも羞恥心があった!]

ブリュッセルの「活人画」(1446年)
 ブリュッセルの「活人画」(1446年)


(4)中世後期の公娼

【社会内で制限された公娼の位置】
 A.中世都市において、公娼が占めることのできる場所というのは、基本的には「社会の外=名誉の外」でしかなかった
〈例1〉トゥールーズ
 市民には「隣近所から公娼を追い払い、辱めるために衣類を剥ぎ、量刑を定める司祭のもとに彼女たちを無理やり引きずっていく」権限が与えられた(1271年)。また「2人の娼婦が教会内で(大それたことに)名誉あるご婦人方の場所へ座り、おまけに帽子も被らなかった」ので罰せられた(14世紀)。娼婦と立派な婦人たちは、入浴も隔てた場所とされた
〈例2〉バーゼル
 かなりの数の娼婦が、十字石のある場所(都市の市場の平和を示す)から、3年間の市外追放にされた(1417年)
〈例3〉ヴェネツィア
 大参事会は「“夜の紳士”と公娼を、1人残らず“市道”から追放するよう」命じた。戻ってきた女は、しばしば衣類を剥がれた(1266年)。娼婦が客引きに行く時に、乳房を晒さねばならないことも時にはあった(15世紀末)
〈例4〉リヨン
 娼婦は“公共の由緒ある”道路からのみ追い出された(中世後期)
 B.このように「一定の隔離」を行った一方、都市当局は“小さな災いをもってより大きな災いに代えるため”という理屈で、市営の女郎屋に肩入れしていた(より大きな災いとは、男色〔イタリア〕や強姦〔ドイツ〕を指す)。中世後期には都市売春はかなり制度化されて管理されるようになるが、やはり娼婦は都市社会から隔離された存在のままだった

【幸運の女神として】
 C.都市において、一定限度で娼婦が公共との隔離を解除される場面がある
〈例1〉アルプレヒト2世のウィーン入城(1438年)では、娼婦が出迎えに送られた。このような事例は中世では少なくない
〈例2〉皇帝老ジークムントは、1人で堂々とベルン市とウルム市の女郎屋に赴いた。この場合に皇帝は、性的な安らぎを得るために訪れたのでは決してない
 ☆しかし、サヴォイア地方・スイスの諸都市では「一群の子供・青年が、皇帝を迎えに市門の前(or隣村)まで遣わされる」ことの方が多かった
 D.ヨーロッパ各地では「公娼と出会うのは吉」「司祭・修道士・修道女と出会うのは凶」とする民間信仰があった。その背景には「拘束されない性の具体物(=売春婦)のおかげで田畑は肥沃になる」という考え方があった
 ⇒彼女たちはしばしば宗教上の儀式・祝祭に招かれた(これはインドや古代ローマでも同様だった。ローマでは豊饒の女神フローラの祭典に参加した)
〈例3〉ライプチヒ
 学生連中は4団体しかなく、第5の団体として娼婦たちを仕立てた。彼女たちは四旬節の間に“娼婦の行進”をした。そこでは「都市をペストから守るために、娼婦は揃ってパルテ川に行き、藁人形を川中に投げ込んだ」という
 E.中世後期でも娼婦は「幸運をもたらし、損害を防ぐ」とされた。〈例1・2〉では、彼女たち“アウトサイダー”との出会いによって「直接には支配者自身に,間接には彼の領国に」幸運と豊饒がもたらされるのを期待した
 F.マキャヴェリによると「カストルッチョがセラヴァッレの戦い後に開いた祭りで、裸の娼婦たちを競争させ、優勝者は絹布1巻を貰った」という。しかしこのような競争は、本来は「土壌が肥沃になるための、駆けっこ・駆け回り」だった
〈例〉古代ローマの女神フローラの祭典では、自然を栄えさせるために(娼婦だけでなく)野兎・山羊を走らせた
 ☆これらの動物は「とりわけ好色&多産と見なされていた」から

若者と娼婦の競争(1509年)
 若者と娼婦の競争(1509年)


(5)言葉が示す意味

 A.たとえ娼婦だったとしても、婦人たちが公衆の面前で裸身を晒すことができた、などとはとても考えられない(イタリアでも、中央ヨーロッパでも)
〈例1〉ダンツィヒでは、7人の商人が娼婦数人と裸踊りをした廉で厳罰に処せられた(1530年)
〈例2〉アウクスブルクの弩射撃大会(1509年)では、若者と娼婦たちの競争が催されたが、真っ裸では決してなかった
〈例3〉ボヘミア王ラディスラウスはウィーンにおいて、ファスチアン織1梱を景品に、娼婦たちに「露わな太腿が見えるようにスカートを高くたくし上げて」競争させた(1454年)

【いろいろな“裸”】
 B.結局のところ“誰かが裸だった”と書かれている場合、それは「筆者にとっての規準以下の格好だった」という意味だった(古代~近世を通じて)。古代ローマの女郎屋での“裸の娼婦たち”は、おそらく「薄物をまとって、せいぜい乳房を露わにした」程度だったようだ
〈例1〉イングランド軍がアルザスに侵攻した時、下っ端について“その部隊の貧乏人は素足で、裸だ”と表現された。つまり「武器を持たない丸腰だ」ということだった(1365年)
 C.「みすぼらしい羊の皮しかまとわなかった」「襤褸を着た者」は“裸nudes”と呼ばれた。死刑執行人も「軽装の短衣(チュニック)しか着なかった」ので“裸”と表現された。さらに、刑罰として(名誉を奪われ屈辱を与えられた)“裸にされた者”も、最低限の服しか着ていなかった
〈例2〉町中を鞭打たれる「腰巻きをまとっている」男が描かれた絵(16世紀)でも“彼は裸である”と説明されている

【“素っ裸”≠一糸まとわぬ姿】
 D.さらには“素っ裸”と書かれていても、それが一糸まとわぬ裸だとは言い切れない、という。アッシジの聖フランチェスコについて“ある時、生まれたままの裸姿で通りを歩いた”と記されている。ところが彼は、常に少なくとも「ズボン下だけは穿いていた」らしい
 ☆彼は死の数日前に“衣を脱ぎ素っ裸になった”とあるが、これは「無所有を表したもの」と考えられる
〈例3〉フランス(1247年)
 「卑しいことを他人に話す女」に対する刑罰は「罰金5スーを支払う」or“素っ裸の下着姿で行列に加わることになる”とされていた
 イザベラはルノーを「破廉恥漢の伊達男」と呼んだので、この規定にしたがうことになった。3度の行列をするために彼女は“裸足・裸で帯も締めずに、無作法にもマントは無かった”。この表現の意味は彼女が「マントも着ずに身体も覆わずに、シャツだけで行列に参加した」ということ
『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[7]


○中世の様々な“裸”


(1)中世で肉体の露出

 A.中世~近世初期の人々にとって、裸体はタブーとされていた。したがって、しばしば現れた「露出症患者,シャツを脱いでひどい姿を晒した者」には、厳しい罰金刑・名誉剥奪の恥辱刑が待っていた
〈処罰の例〉
 A.ブレスラウにて、婦人の前で全裸になったストリーカーは「投獄+罰金として銀貨5マルク」を課せられた(1496年)
 B.フライブルク・イム・ブライスガウにて、呑み屋でベロンベロンになり「陰部を引っ張り出し、テーブルの皆の前にてワインで洗った」男に対しては「“泥棒塔(牢獄)”へのぶち込み+罰金として銀貨1マルク」が課せられた(1527年)
 C.同じく「白昼に魚市場で素っ裸になって、ふざけてそこで寝た」男に対しては「罰金+市外追放」とされた(本来なら、公衆の面前で破廉恥なことをした者には「板から水中に突き落とされる」筈だった)
 D.バーゼルでは謝肉祭(1532年)の頃に、15人の若者が裸で市内の小路をあちこち踊っていた。当局はただだに投獄し、各々に5ポンドの罰金を払わせた
 E.フランクフルトで裸の男が小路を散歩していた時、これは狂人だとはっきり判った。そこで1人の船頭に頼んで、狂人を捕らえ小船に乗せ、マイン川を使って町から遠ざけさせた(1399年)

【あらゆる場面で禁止】
 B.女性はもちろんのこと、男性も公衆の面前で太腿を露わにしてはならなかった。ゲルリッツの市参事会規則では「婚礼の湯から宴の席へ、太腿も露わにして、浴用帽子を被ったまま立ち入ってはならない」としていた(1476年)
 C.人々は日常的に裸体を見られたわけではないから、チャンスがあれば野次馬根性を発揮して見にやって来た
〈例1〉ニュルンベルクの事件:
 ある家宅侵入犯が縛り首にされたのだが、夜の内に泥棒が「絞首台にぶら下がった死体から、ちぎれた靴下以外の衣類をそっくり盗んでしまった」ので、陰部が剥き出しとなり、大勢の野次馬(特に“出しゃばりの女ども”)が見にやって来た。そこで市参事会は大慌てで「死体に丈の長いシャツと亜麻のズボンを穿かせた,野次馬を四散させた」という

【中世の人々の羞恥心のライン】
〈例2〉
 4人の追い剥ぎが靴屋の女房を打ち殺したが、まだ殺していないうちに「彼女のスカート2枚,肌着,女物飾り」を奪った(1492年)。これに対して年代記作家が「どうして先に殺してから衣類を剥がなかったのか!?」と憤慨している
 ☆数多くの他の文献でも「泥棒どもが犠牲者に下着すら残してやらなかった」、その破廉恥ぶりにカッカしている
〈例3〉
 フランシスコ会の宣教師たちは、ハンガリーの羊飼いたちに「無理やり身包みを剥がされ、最後はズボン下まで脱がされた」(1219年)ことを、この上ない恥辱として終生忘れなかった
〈例4〉
 トルコ軍がハンガリー勢を破った(モハーチの戦い:1526年)後に「奴隷市場でキリスト教徒の婦人たちの衣類を脱がせ、一糸まとわぬ姿にした」事件には、ヨーロッパの半ばが憤慨した
〈例5〉
 リーグニッツ大公フリードリヒ3世の宮廷にて(1561年)。数日間滞在したシュヴァイニッヘンのハンス(当時9歳)が小姓として奉仕していた時、ウンテ・リーメンという乙女が素っ裸で出て来て「冷や水をくれるよう」命じた。もちろんそれまで女性の裸身を見たことのないハンスは、どうしていいか分からず、とりあえず彼女に冷や水を浴びせた
 すると彼女は大声を上げて大公夫人の名を呼び、ハンスの仕業を告げた。大公夫人は笑って「私の仔豚ちゃんは立派な人になるでしょうよ!」と言った。ハンスは彼女の行動の意味を最後まで分からなかった

【男児への躾】
 D.上記の例5はかなり奇妙な事例である。というのは、ハンスが後年になって回想録を書いた時点でもなお、件の乙女の奇妙な振る舞いについて説明できなかったから(→特異な行動であったことの証)
 E.9歳の童であっても、子供が抱く性的な興奮について人々はきちんと認識していて、それを踏まえた行動・習慣などが中世には成立していた
〈例1〉少なからぬ百姓女が「坊やをあやすために彼の陰部をこする」習慣があった
[※これについては本書の第12章(省略した)を参照のこと]
〈例2〉躾について「行儀の悪い子供たちは朝晩数時間、時にはかなり大きな子も、裸で入り乱れて走っても放任されている。だから彼らは若いうちから、恥・躾の習慣を無くしてしまうのだ」というコメントが伝わっている
 ☆童といえる年齢でも時折、性犯罪のゆえにしばしば罰せられている
〈例3〉「3歳の子供にも大人は裸姿を見せてはならない……大人が何の対策も立てずに(性的な考え・自然の興奮を引き起こす行為を)見せつけて育てた場合、子供は後にはそれに慣れっこになってしまい、恥を感じなくなってしまう」「このような羞恥心の無さが、本当に破廉恥である」(1405年)

【女性の裸に対して】
 F.女性の裸は、中世初期・盛期においても、かなり恥知らずだと認められていた
〈例1〉
 ランゴバルド侯ジークハルトの妃アーダルギーザは夫の行軍に従っていたが、ある時「天幕の中で足を洗おうと露わにした」のが、ある男の目に止まった。侯はこれに激怒して「妃の衣をふくらはぎまで切り取らせて、足を剥き出しにしたまま陣中を引き回させた」という
〈例2〉ランゴバルド法(8世紀)
 もし、ある婦人が川で水浴びをしていた時に岸辺に置いていた服を男が持ち去った場合、その男は「婦人の一族から血の復讐を受ける」or「(婦人の夫や兄弟を打ち殺した時と同額の)生命贖罪金を支払う」ことを余儀なくされた。親族の殺害と同じく罪の重さと見なされたのだ
〈例3〉古代フリースランド法(15世紀)
 既婚婦人の衣類を奪った者には罰金15マルク(妊婦・乙女・寡婦に対してはさらに1.5倍)が科せられた
〈例4〉挿し絵でも恥ずかしい
 『イタリアの客』(1256年作)という本では“大言壮語”のアレゴリー(寓意)は“裸の男”となっている(大風呂敷=破廉恥、という意味で)。それでも、裸男の陰部は描かれていない
〈例5〉ゴディヴァ夫人も隠された
 夫人はコヴェントリーの市場において、全裸になって公衆の前にて馬を走らせた。しかし『歴史の精華』(13世紀初頭)という本には次のように表現されている:
“夫人は予めほどいた長い髪の毛で身体中を覆い、雪の如き股しか曝さぬようにしてあった”
 G.反対に、女性が人前で一糸まとわぬ姿を曝す場合には、何らかの意味が込められていた。『哀れなハインリヒ』(ハルトマン・フォン・アウエ:12世紀)では、己の死によって主人ハインリヒの命を救おうとするうら若い乙女が登場する。彼女が自ら、いささかも恥じる風もなく衣類を脱ぐ場面が出てくる
 ⇒これはあまりにも非現実的な描写であるが、ゆえに「彼女が罪の無い天国の状態にいること」が暗示される(彼女は全く無垢であるから恥も知らない)。また「裸体が持つ“災いを防ぐ魔力”」がそこには潜んでいる
(後者は、ゴディヴァ夫人がコヴェントリーの人々を救おうとしたのと同じである)
『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[6]
 (※画像も同じ)


(10)刑罰としての露出

 A.古代から中世にかけて、刑罰の対象とされた場合でも「女性の恥じらい」は考慮されていた。そのため、ある種の「名誉剥奪刑」はもっぱら男性のみに適用された(もちろん例外はある)
〈例1〉
 「最悪の犯罪である魔女を除いて、婦人には斬首刑も絞首刑も相応しくない(西ゴートの法)」「女性に対する車裂き刑・絞首刑は禁止(古代スウェーデンの法典)」「婦人の名誉のために、絞首刑ではなく生き埋めにすべき(リューベック:1348年)」「絞首刑を執行すべき盗みも、婦人にあっては溺死刑にする(ラドルフツェルの刑事裁判法:1506年)」
〈例2〉
 ニュルンベルクで“猟師のマリア”“百姓のケッテルライン”という異名を持つ泥棒娼婦を絞首刑にした時、死刑執行人は「女性を絞首刑にするのは、ニュルンベルクでは前代未聞だ」と注を付けた(1584年)
 B.近世には婦人の絞首刑がしばしば行われるが、それでもイングランド(18世紀)において、死刑判決を受けた女性に対して「女性の身体を露出したり、公衆の面前で切り苛むのは、品位に相応しくない。そこで女性に対する刑は絞首台に引き据えた上、生きながらの火あぶりにする」と言っている
 C.男装していた女性が処刑される時には、絞首刑に処されたケースがある(男性と偽り女性と結婚した:1580年)。また、死刑執行直前に「実は女性だった」と死刑執行人が気付いたケースもある(1591年:結局そのまま絞首刑に処された)
 ☆男装の人に女性であるという疑いがかかれば、検査は産婆が行っていた
 D.例外は魔女・ユダヤ人女性・ジプシー女性だった。また、スペイン人の男がアメリカの先住民を処刑する際、女性を吊しても何とも思わなかったらしい(ラス・カサスの報告によると)

【婦人の名誉を傷つけるものとは?】
 E.婦人にとって、よその男性に「むき出しの太腿を見られる」だけでも恥ずかしいことだった。絞首刑専用の下穿きを着ける(17世紀~)までは、女性はズボン下を着用できなかったようだ(理由:異性の服装を身に着けるのは神の禁令に背く)。代わりに「ふくらはぎも隠れない短いスリップ」を着ていた
 F.そうでなくても、絞首刑はいろいろ惨めな光景を伴うので、始めから終わりまで婦人の品位に相応しくなかった:
「a.絞首台上でブラブラと揺れる」「b.綱で窒息死した婦人は、陰唇の腫張・変色がよく見受けられる」「c.陰門に通じる静脈が変化することもある」という

【死んでも曝される恥辱】
 G.医師は「d.絞首刑になった男性が射精した,17時間勃起が続いた」ことを確認している。これらの現象を人目に曝すバツの悪さは相当なものだろうから、男性犯罪者も「陰部を露出したままでは決して絞首刑を執行しなくなった」
 ⇒プロセスは「刑吏がまず罪人を絞殺し、それからシャツを除いて衣服を全て脱がせる」ように変わった(1547年)。そのため、陰部の辺りが人目に触れることは無くなった
 ☆刑吏は(しばしば)罪人の下着以外の衣服を要求した。そんなわけで、罪人は(時折)絞首台に架けられる時点で、ズボン下しかはいていなかった
 ☆この件についてはバーゼルの参事会は「刑吏が罪人の衣服を要求する権利」を否定した(1492年)

刑吏と罪人(1348年)
 刑吏と罪人(1348年)

 H.絞首刑・その他の方法で窒息させられた大勢の男性からは「ペニスが硬直して精液が流れ出る」(この事実は多くの民族で昔から知られていた)。中世では「磔刑のイエスが窒息死する間に射精した精液が地面に染み込み、その場からまずナス科の植物ヒヨスが生えた」と言われる
 I.男性にとっては「勃起状態のペニスを曝すのが恥ずかしい」だけでなく、そもそも「陰部・肛門の辺りを見知らぬ人(特に女性)に見られる」のも恥ずかしがった

免罪符販売の修道士

〈例〉この木版画(1525年のもの)には「免罪符売りの廉で吊された1修道士のあるところを、1人の女が下から眺めている」場面が描かれている。おそらく、辱めを与えるためにズボン下は穿いていないだろう

【罪に対応する恥辱:特に女性の場合】
 J.イタリア(13世紀)では「同性愛その他の性的犯罪者に対して」“罪を反映した刑罰”として、誇りを傷つけるために、裸で市内を引きずり回したことがあった。それだけではなく「同性愛者を焚刑に処す前に、特に罪を犯した器官を釘で棒に打ちつけた」という(トレヴィゾの規定)
 K.不貞の罪の場合には、女性も恥辱を与える対象となったのだが、どうやら一糸まとわぬ姿にさせられはしなかったようだ
〈例1〉アヴィニョンで、ある男女が姦通の罪に問われた時(1292年)、男は裸で村中を引き回されたが「恥ずかしがり屋の女性は覆い隠されていた」という。男性だけが陰部を露出させられたようだ
〈例2〉ギュストロウの規約(1270年)では、既婚婦人が他の男と同衾中に捕らえられた場合には「男は裸で引き回すべし,女は通りをあちらこちら引き回すべし」と書かれている
〈例3〉トゥールでは「当市の既婚婦人とともに捕らえられた者は誰でも、裸にされて性器を縛られ引き回される」(1218年)
 ☆ここでは女性に関する定めがない。トゥールーズ写本(1296年)では、女性も真っ裸で、不貞相手の男性の性器にくくりつけられた縄と結ばれた絵が書かれているが、これは挿し絵画家が拡大解釈した可能性がある
 L.女性の場合、どこまで裸にさせられたのか、一概には言い切れない。「身体のどこの部分なのか?」という問題には、ハッキリと線を引くのは難しいようだ。ゲルマン人の場合、妻に裏切られた夫は「妻を親類の目の前で“露わにし”髪を切り、家から追い出し、村中彼女を鞭打ち続けた」という(タキトゥスの報告)
 ☆この場合“露わにし”というのは“裸”ではないことに注意。どうやら“皆の前ででシャツ姿になるように、下着の上にまとう衣類だけを無理やり脱がされた”という意味らしい
 M.タキトゥス以外の報告では、ゲルマン人やザクセン族の女性(どちらもキリスト教化以前)において、姦通女性(or父の家で異性と関係を持った乙女)に対しては“衣服を帯まで切り取る”“身体をへそまで裸にする(そして教会の杭に繋いだ)”のが行われた
 ☆ただし、どこかを露出させられた場合でも「陰部ではなかった可能性が高い」

恥辱のロバ
 恥辱のロバに乗った姦通女とその夫
 夫の頭には角(寝取られた男のシンボル)が付けられている

 N.中世において最もありふれた形式は“裸足で、帽子も被らず、シャツ姿(or羊毛の贖罪衣を着て)で、公衆の面前に曝される”ことだった
〈例〉シュレッドシュタット市法(1374年)が、男女両性の重婚者に対しこの方法を定めていた
 O.この場合に考慮しなければならないのは「シャツだけの姿を公衆の面前に曝すことでも、相当に体面を傷つける恥ずかしい罰だった」ということである。したがって「シャツ姿はひどい不作法」とされた
〈例〉フライブルク・イム・ブライスガウで、ある男が「相当酔っ払い、人目のある小路で服を脱ぎシャツ姿になった」だけで、高額の罰金を課せられた(1602年)
 ☆もちろん素っ裸になっていれば“鞭で打たれて市外追放”というように、もっと厳しく罰せられた

【それでも例外はある】
 P.中世~近世初期にかけて“恥辱としての全裸”は、特に婦人に対しては稀だったが、婦人の胸を露出する(上記M.のように)ことも少なからずあった。とりわけ「魔女」の場合には“乳房剥き出しで火刑に処す,首をはねる”ことも時にはあった
〈例1〉中世パリで、シテ島の裕福な金細工師の夫に対して不貞をはたらいた麗人ジャンヌ・ショアは、聖ポール教会の周囲を上半身裸で引き回された
〈例2〉フライジングの聖堂参事会は、魔術を白状した女性に対して“皆の前で過ちを絶つことを誓う”“2年間定まった日に毛髪を剃って胸も露わにして、教会墓地の前で大勢の人の前に立つ”ことを命じた(1417年)
〈例3〉激しい幻覚ですら異端審問に見逃されなくなった時代のスペイン(1523年)にて。「激しい聖母マリアの幻覚」のために、25歳の女性は“上半身裸でロバに跨がり、小路引き回しの上に百叩き”の判決を受けた
 Q.ルイ9世は「涜神の廉で判決を受けた女性に対して、刑吏の下僕ではなく、わざわざ女を雇って刑罰(鞭打ち)を執行させる」ように命じた。また「男の野次馬が、女の罪人の剥き出しの背中・お尻を楽しむチャンスを与えないよう、彼らを締め出せ」と命じた
 ☆ただし多くの地方では、女性に対する鞭打ちは普通に行われることではなかったことに注意
『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[5]


(8)はばかりと便器

【便所という空間】
 A.中世の建物・家屋において便所は、しばしば「階段下の死角,その他の離れた場所」にあった。城の中では、だいたい「全く人目につかない片隅」にあっで、しばしば“ピッチ口”(城を攻められた時にピッチを熱して城壁から落とす所。ピッチは木材を乾留して得られる樹脂)と見なされていた、という
 B.名称は“秘密”“秘密の部屋”“内密な場所”“ごく内密の小部屋”などと言われていた。中世イングランドでは“秘密”“ガードローブ”“ワードローブ(箪笥)”なども、婉曲表現として使われた
 C.しかしもっとダイレクトに“名前を口にできないほど吐き気を催す場所”(13世紀)、あるいは“口にするのさえ相応しくない場所”(16世紀)と言われたこともある。当時の人も便所に対する認識は近代と違わないようだ
 D.用を足すところを人に見られるのは、中世の人々にとってもかなり気まずいことだった
〈例1〉デュラム修道院の“はばかり”は、木の壁で三方を囲んでいたので、使用者同士の顔は見えなかったり(1662年)。中世のサウスウェル宮殿や他の場所でも、隣人が便器を覗けないよう仕切があった
〈例2〉中世の修道院では、修道士が隣り合わせに座るのは珍しくなかったが「できるだけ顔を僧帽の下に隠す」ことで、必要なプライバシーを打ち立てた

【マナー違反と罰】
 E.野外の人目につく場所で用を足すのは、人々の怒りかを買った。もちろん女性が異性の前で用を足すのは、ずっと恥ずかしいことだった
〈例3〉イングランド皇太子の近侍が市民2人と喧嘩し、罰金刑に処せられた(1307年)。理由は「彼が礼儀正しく“はばかり”を使えば良かったものを、路地でズボンを下ろした」ことに2人が腹を立てたため
 F.当時ロンドンには1ダース以上の公衆便所があったはずである。バーゼルにも(おそらく男女別に)公衆便所はたくさんあり、それは「流れる水の上(例:ライン川の橋上)」によく建てられた(中世後期)。ニュルンベルクにはペグニッツ河畔に男女別の公衆便所が7つあった(1461年)
 G.男性が公衆の面前で小便をするのは、確かにそれほど無作法とは考えられなかったようだ。にもかかわらず、とりわけ「排尿中に異性に見られる危険があったので」下品と見なされた
〈例4〉ユーバーリンゲンでは、泥酔して人前で用を足そうとする者に対して「恥ずべき醜行を見つけた時には、泥酔と同じく厳罰に処すつもりである」と、条例で打ち出した(1553年)
 H.ニュルンベルクでも路上での排尿が固く禁じられただけでなく「夜10時以前に窓からしびんの尿をこぼす」のは普通ではなかった、という(16世紀中頃)。ところが同時期のスコットランドやイングランドでは「しびんの中身を捨てる前に“水に御用心”と叫んでいた」
 ★中世都市では、窓から投げ捨てる行為は広く禁じられていた。「しびんの糞尿を窓から捨てると少なくとも4シリング,尿・水だと2シリングの罰金(ロンドン:1372年)」「昼でも夜でも、家の中から誰かに注ぎかければ罰金60グロッシェン(クラカウ:14世紀)」
 ☆この罰金60グロッシェンは、塔内牢獄の禁固4週間に相当した

【便所に悪霊が棲む?】
 I.エラスムスは「誰1人とて見ていない場所でも、用便の際には厳しく礼儀作法を守りなさい」と少年たちに教え込んだ(16世紀前半)。彼によると“少年の慎み深さを非常に愛して好まれる、敬愛すべき聖天使が、至る所にいますからである”からだという
 J.このような主張は近世初頭の人文主義が生み出したのではない。古代ギリシア人も、昼間は「太陽を侮辱することになるから」と言って、道端・野原では用を足さなかった(城壁にピッタリとくっついてしゃがみ込んだ)
 ⇒そして夜でも「夜の神々がいて、人間でないものの視線に満ちている(byヘシオドス)」として、品位を求めた
 K.ドイツでも便所は「悪霊どもの大好きな場所」と言われた。中世の低地ドイツでも「ある敬虔な司祭が“はばかり”に座って、用を足していた。その時悪魔が彼のもとにやって来て、この場所で祈ってはならない、と言った」と伝えられる

【やはり憚られた】
 L.中世~近世では、君主たちも便所を見られるのは気恥ずかしいことだった
〈例1〉ルイ11世は「便器に座っているところを偶然の闖入者に見られないように、カーテンで囲ませた」「悪臭で便器の場所を気付かれないよう、ヨモギグサを買い込ませた」(15世紀)
〈例2〉フィレンツェでは、ある金細工師がメディチ家の宮殿内をさ迷っているうちに、携帯用便器に座った公爵夫人を驚かせたら、夫人は激怒して怒鳴りつけた(ルネサンス期)
 ⇒ところが近世中頃には、多くの上品な君主たちが「客人目のの前で便器に座り、用を足しながら話をした」という事実がある。しかしこれは「目の前で用を足される者に対する“権力の誇示”」(=お前は大した客じゃない!)なのだという
 ☆排泄行為が憚られるものだからこそ、逆説的にこのような無礼が成り立つ
 M.近世初頭において、便所の話を人前でするのも憚られた(やはりエラスムスが注意している)。また、エチケット教本(16世紀中頃)にも「パーティーの前には予め用を済ませておき、やむを得ない時にはその後でキチンと手を洗って、自分が用を足したことを気付かれないように」と勧められている


(9)音と匂い

 A.ルターは「なぜ君たちはゲップやおならをしないのかい、これは好きじゃなかったかい?」と客に言ったとされる。ところが、本当にルターが言ったのかどうかすら確認できないらしい。宗教改革時代の中部ヨーロッパで、遠慮なしにおならはできなかった
〈例1〉「どうしても放屁したり、すかし屁をしたくなったら、尻をギュッと締めて臭い匂いをさせないようにしなくてはならない」(16世紀初頭の言葉)
〈例2〉ゾロトゥルンの射撃場でおならを1発放った者は、1シリングの罰金を支払わねばならない(そこの射手規則から:1515年)
〈例3〉エラスムスの勧めるマナーとして「(少年は)おならを我慢するのは健康に良くないから、古い諺にならって、咳払いで音を消さなければならない」「(おならに悩むご婦人は)いつも小犬を1匹連れ歩いて、おならの音・匂いはそのせいにしなさい」という
 B.さらに遡って中世の人々にとっても、おならやゲップは失礼なことだった。中世後期のテーブルマナーから:
「上からだろうと下からだろうと、
 屁を放つ者は、
 私の考えでは阿呆だ
 そんなものは褒められたものではない
 というのも破廉恥で、不潔だから」

【中世人は悪臭を嫌う】
 C.中世都市について「息が詰まるほど不潔で、便壺のような匂いがした」「しかし中世の人々は悪臭に対して、現代人よりも気にならなかった」とよく言われる。しかし、都市が最も不潔だったのは明らかに「人口が過剰だった近世」だという
 ☆中世都市では、汚物・悪臭についてたいてい大袈裟に述べられている!
 D.そして何よりも「中世の人々は悪臭に全く平気だった」という証拠は何もない、という。家畜小屋の臭いですら、都市住民には不快なものだったようだ。また“はばかり”などから生じた、迷惑な臭いに対する訴えも多発している
〈例1〉ヨーク市民に対して「この町に満ちている、その厭うべき臭いのために、市内を清潔に保たねばならない」という決定を、エドワード3世は下した(1332年)
〈例2〉あるウィーン市民は「隣人を悪臭から守るため、便所の上に煙突のような排気管を取り付ける」ことを義務付けられた
〈例3〉「悪臭が出るので、誰も市内で豚小屋を建てたり、豚を飼ったりしてはならない。郊外で豚小屋を建て豚を飼うべきである」「肉屋は悪臭でなるべく市民を悩ませないよう、腸詰めを人通りのある昼間ではなく、夜に煮なければならない」(バーゼル:1494年)
 E.芳香剤で臭いを消すのは、中世の人々にとって当たり前のことだったようだ。ヒルデスハイムのヨハネスは「幼子イエスに東方の3賢者が乳香・没薬を贈った(マタイ伝2章11節)」のは、芳香剤の助けを借りて厩の悪しき空気を隠そうとしたのだ、という説明をしている(14世紀)