『裸体と恥じらいの文化史』(H・P・デュル)から[8]


(2)中世の俳優と舞台での裸

 A.中世後期において「俳優たちが舞台において,活人画において(3),都市の公娼が都市空間において(4)」人前で裸になった、と一般に言われている

【真っ裸ではない】
 B.ツェルプストであり宗教劇が演じられた(1507年)では「2人の風呂屋がアダムとエヴァに扮し、浴用のはたきで前を隠した」と記録されている。これは(そのまま読めば)「風呂屋と下女が素っ裸で登場し、罪に堕ちた後に羞恥心から、浴用のはたきだけを身につけた」と思える
 C.まず、この2人は「男女のペア」だとは全く記されていないことに注意。実は中世後期~近世初期では、通常はエヴァ役は「思春期前のかなり年のいった少年」が扮した(エヴァが低い声を出さないための配慮だった)
 D.さらに“裸の”と書かれていても、実は真っ裸ではなかった。だからエヴァに乳房が無くても、滑稽に思わせたり幻滅したりしなかった。というのは、実際にはこの表現は「シャツを着て」「ズボン下を穿いて」(=肉襦袢姿で)という意味である

【小道具類】
 E.よく使われたのが「ボディー・ストッキングとその類」だった。これを“裸のアダムとエヴァ”は「裸体の上に服をまとって」登場したのに対して、すでに“羞恥心を知ったカインとアベル”は「トリコットの上から身体に密着した上着を着た」という(ルツェルンの衣裳一覧表から)
〈その他の道具・小道具〉
 a.「ズボンの付いた肌色の衣裳」「肌色の皮ズボン」(ペルージャ:1426年)
 b.「白い皮衣(堕罪前のアダムとエヴァ用に)」「いちじくの葉(堕罪後に陰部に当てる)」(コーンウォールでの創世記上演にて)
 c.「2ポンドの白粉(“裸の人”の肌色を仕上げる)」(トゥーリンで行われた聖ゲオルク物語:1429年)
 d.「エヴァ用には覆い2枚とズボンの染めた物」「アダム用には覆い1枚とズボンの染めた物」(ノーウィッチ:1565年)
 e.「吹き出物のように彩色した亜麻織の衣(天然痘に罹ったヨブの表現として)」
【演技の指図から】
 F.モンスで演じられた受難劇(1501年)には“兵士たちはあたかもイエスの衣を脱がせるようなフリをする”とある(神の子は常に衣服をまとっていたから)。また“乙女マリアは十字架降下の祭、いかにもヴェールで息子の裸体を隠すように仕草を演じる”と書かれている
 G.ドナウエッシンゲンの受難劇では“ゲツセマネの園”の場面について“ここに盲目のマルケルスが立っていて、裸体に亜麻布をまとっている”“弟子たちが逃げると、マルクスが素早く盲目のマルケルスから外套を取る。彼は裸で逃げる”とある。もちろん“裸”とは、亜麻布をまとった姿である。ちなみに洗礼者ヨハネは“獣の皮を着て、仔羊を連れてやって来る”とある

【女性キャラの場合】
 H.イタリア後期ルネサンスのコンメディア・デラルテ(仮面を使った即興劇の1種)では婦人たちも登場する。彼女たちは時には「乳房を露わにしたこともあった」と思われる、という
 I.バールディの喜劇『誠実な友』(フィレンツェで上演された)では、ヴィーナスなどの女神は「乳房をリボンで縁取り、ヴェールで覆っていれ」だけだった。対して擬人化された“アモール”“悦楽”の場合には「いかにも裸体を思わせる皮衣」を身につけた
 J.人々は(特に女性役については)裸同然の姿がはしたない、と感じたのは、珍しいことではなかった。だから「裸同然のアダムとエヴァが演じる舞台が倒壊した」事件では、大勢の人々は「天罰が下された」と思った(ナポリ:16世紀)


(3)活人画の場合

 A.これは「素っ裸の女性が、ギリシア神話・旧約聖書での場面を描いた」「とりわけ中世後期に、王侯が(特に)スイス・エルザス・ブルゴーニュ・フランス・ネーデルラントの諸地方の大都市に入城する際、彼らを楽しませるために」行われた、とされている
〈例1〉パリ(1461年:ルイ11世戴冠年)
 国王が入城した折りに“ポンソーの泉のほとりに野性的な恰好の男女がいて、互いに闘ったり色々なポーズを取ったりしていた”“そこには、サイレンに扮した3人の非常に美しい娘もいたが、3人が3人とも裸だった”“彼女たちの美しい乳房の、まさしく2つに分かれて丸みを帯び固いさまを、人々は目にすることができた”
(ジャン・ド・トロワの報告)
〈例2〉ヘント
 フィリップ善良公入城の時、ライエ川で“全裸で、悩める人のごとく髪を振り乱していた”という
〈例3〉アントウェルペン(1494年)
 フィリップ美公入城の折り、パリスの審判の活人画が捧げられた。そこでは“最も熱い眼差しが向けられたのは、3人の女神に関する舞台だった。人々はその女神たちが裸で、しかも本物の生きた女たちであるのを見た”という
 B.活人画について伝えられる文章で気をつけなければならないのは“素っ裸”と伝えられるのは全て“水の精”だということ。つまり、頭と上半身以外は見えないので、少なくとも陰部は見えなかった、ということになる
 C.その裏返しとして、水の中以外で活人画のショーを演じる女性に関しては“素っ裸”と記述されていない。“裸で”というのは、宗教劇の場合には「白いシャツを着て」という意味であった
〈例4〉パリ(1313年)
 フィリップ4世がイングランド王のために、愛の場面を演じさせた。この時には裸体の表現には「白の亜麻色のシャツ」を用いた
〈例5〉リール(1468年)
 シャルル突進公が入城した時『パリスの審判』が、明らかに公を面白がらせる内容で提供された。というのは「ヴィーナスは目方100kg,ジュノーは背の高いやせっぽち,ミネルヴァは前と後ろにこぶが1つずつ」だったから。ただし、この3人の女神が陰部を露わにしていたかどうかは、全く触れられていない
〈例6〉アントウェルペン(1520年)
 皇帝カール5世入城の折に「“美少女の活人画”が若い娘たちによって構成され、彼女たちは“ほとんど裸で”〔=絽(縞織物)の薄物をまとい〕、肉体の形がほのかに透けて見えた」という
 この時、若い皇帝は恥ずかしさのあまり娘たちをまともに見られなかった。反対に皇帝とともにやって来たニュルンベルク市民デューラーは「そこで何が行われているのかを知るためにも、またこの上なく美しい乙女たちの完全さを観察するためにも、自分から喜んで近寄っていった」「自分は画家だから“いつもより少し恥知らずになって当たりを見回すのだ”と言いながら、近寄っていった」と、己の行動を弁明した
[※裸を見る側にも羞恥心があった!]

ブリュッセルの「活人画」(1446年)
 ブリュッセルの「活人画」(1446年)


(4)中世後期の公娼

【社会内で制限された公娼の位置】
 A.中世都市において、公娼が占めることのできる場所というのは、基本的には「社会の外=名誉の外」でしかなかった
〈例1〉トゥールーズ
 市民には「隣近所から公娼を追い払い、辱めるために衣類を剥ぎ、量刑を定める司祭のもとに彼女たちを無理やり引きずっていく」権限が与えられた(1271年)。また「2人の娼婦が教会内で(大それたことに)名誉あるご婦人方の場所へ座り、おまけに帽子も被らなかった」ので罰せられた(14世紀)。娼婦と立派な婦人たちは、入浴も隔てた場所とされた
〈例2〉バーゼル
 かなりの数の娼婦が、十字石のある場所(都市の市場の平和を示す)から、3年間の市外追放にされた(1417年)
〈例3〉ヴェネツィア
 大参事会は「“夜の紳士”と公娼を、1人残らず“市道”から追放するよう」命じた。戻ってきた女は、しばしば衣類を剥がれた(1266年)。娼婦が客引きに行く時に、乳房を晒さねばならないことも時にはあった(15世紀末)
〈例4〉リヨン
 娼婦は“公共の由緒ある”道路からのみ追い出された(中世後期)
 B.このように「一定の隔離」を行った一方、都市当局は“小さな災いをもってより大きな災いに代えるため”という理屈で、市営の女郎屋に肩入れしていた(より大きな災いとは、男色〔イタリア〕や強姦〔ドイツ〕を指す)。中世後期には都市売春はかなり制度化されて管理されるようになるが、やはり娼婦は都市社会から隔離された存在のままだった

【幸運の女神として】
 C.都市において、一定限度で娼婦が公共との隔離を解除される場面がある
〈例1〉アルプレヒト2世のウィーン入城(1438年)では、娼婦が出迎えに送られた。このような事例は中世では少なくない
〈例2〉皇帝老ジークムントは、1人で堂々とベルン市とウルム市の女郎屋に赴いた。この場合に皇帝は、性的な安らぎを得るために訪れたのでは決してない
 ☆しかし、サヴォイア地方・スイスの諸都市では「一群の子供・青年が、皇帝を迎えに市門の前(or隣村)まで遣わされる」ことの方が多かった
 D.ヨーロッパ各地では「公娼と出会うのは吉」「司祭・修道士・修道女と出会うのは凶」とする民間信仰があった。その背景には「拘束されない性の具体物(=売春婦)のおかげで田畑は肥沃になる」という考え方があった
 ⇒彼女たちはしばしば宗教上の儀式・祝祭に招かれた(これはインドや古代ローマでも同様だった。ローマでは豊饒の女神フローラの祭典に参加した)
〈例3〉ライプチヒ
 学生連中は4団体しかなく、第5の団体として娼婦たちを仕立てた。彼女たちは四旬節の間に“娼婦の行進”をした。そこでは「都市をペストから守るために、娼婦は揃ってパルテ川に行き、藁人形を川中に投げ込んだ」という
 E.中世後期でも娼婦は「幸運をもたらし、損害を防ぐ」とされた。〈例1・2〉では、彼女たち“アウトサイダー”との出会いによって「直接には支配者自身に,間接には彼の領国に」幸運と豊饒がもたらされるのを期待した
 F.マキャヴェリによると「カストルッチョがセラヴァッレの戦い後に開いた祭りで、裸の娼婦たちを競争させ、優勝者は絹布1巻を貰った」という。しかしこのような競争は、本来は「土壌が肥沃になるための、駆けっこ・駆け回り」だった
〈例〉古代ローマの女神フローラの祭典では、自然を栄えさせるために(娼婦だけでなく)野兎・山羊を走らせた
 ☆これらの動物は「とりわけ好色&多産と見なされていた」から

若者と娼婦の競争(1509年)
 若者と娼婦の競争(1509年)


(5)言葉が示す意味

 A.たとえ娼婦だったとしても、婦人たちが公衆の面前で裸身を晒すことができた、などとはとても考えられない(イタリアでも、中央ヨーロッパでも)
〈例1〉ダンツィヒでは、7人の商人が娼婦数人と裸踊りをした廉で厳罰に処せられた(1530年)
〈例2〉アウクスブルクの弩射撃大会(1509年)では、若者と娼婦たちの競争が催されたが、真っ裸では決してなかった
〈例3〉ボヘミア王ラディスラウスはウィーンにおいて、ファスチアン織1梱を景品に、娼婦たちに「露わな太腿が見えるようにスカートを高くたくし上げて」競争させた(1454年)

【いろいろな“裸”】
 B.結局のところ“誰かが裸だった”と書かれている場合、それは「筆者にとっての規準以下の格好だった」という意味だった(古代~近世を通じて)。古代ローマの女郎屋での“裸の娼婦たち”は、おそらく「薄物をまとって、せいぜい乳房を露わにした」程度だったようだ
〈例1〉イングランド軍がアルザスに侵攻した時、下っ端について“その部隊の貧乏人は素足で、裸だ”と表現された。つまり「武器を持たない丸腰だ」ということだった(1365年)
 C.「みすぼらしい羊の皮しかまとわなかった」「襤褸を着た者」は“裸nudes”と呼ばれた。死刑執行人も「軽装の短衣(チュニック)しか着なかった」ので“裸”と表現された。さらに、刑罰として(名誉を奪われ屈辱を与えられた)“裸にされた者”も、最低限の服しか着ていなかった
〈例2〉町中を鞭打たれる「腰巻きをまとっている」男が描かれた絵(16世紀)でも“彼は裸である”と説明されている

【“素っ裸”≠一糸まとわぬ姿】
 D.さらには“素っ裸”と書かれていても、それが一糸まとわぬ裸だとは言い切れない、という。アッシジの聖フランチェスコについて“ある時、生まれたままの裸姿で通りを歩いた”と記されている。ところが彼は、常に少なくとも「ズボン下だけは穿いていた」らしい
 ☆彼は死の数日前に“衣を脱ぎ素っ裸になった”とあるが、これは「無所有を表したもの」と考えられる
〈例3〉フランス(1247年)
 「卑しいことを他人に話す女」に対する刑罰は「罰金5スーを支払う」or“素っ裸の下着姿で行列に加わることになる”とされていた
 イザベラはルノーを「破廉恥漢の伊達男」と呼んだので、この規定にしたがうことになった。3度の行列をするために彼女は“裸足・裸で帯も締めずに、無作法にもマントは無かった”。この表現の意味は彼女が「マントも着ずに身体も覆わずに、シャツだけで行列に参加した」ということ