『秘めごとの文化史』(H・P・デュル)から[5]


○中世の売春に関して(その3)


(5)娼婦への視線

【追い出される存在】
 A.町の立派な市民たちは、娼家がある辺鄙で悪評高い地域に姿を現すのを嫌った。さらに「もぐりの娼婦,街頭に立つ娼婦」だけでなく「公認の娼婦(でさえも)」を、自宅の近所から追い出すことを望んだ
〈例〉ケルン市民の証言
 “この娼家には、庶民の中でも最も最悪で最も軽蔑されている…者以外は誰も来なかった。…多くの人々が回り道をし、自分の行く道がそこに続いている場合、その家沿いの道を歩いてはならなかった”
 ☆この証言の筆者(男性)も、実はもぐりの娼婦により童貞を失っていた(20歳の頃)。その後も酒に酔って4・5回娼家を訪れたが、梅毒が怖くなって止めた
 B.追い出しを望んだのは上流・中流階級の人々だけでなかった。そうした「総意=住民の直接の利害」を無視したのは、たいてい当局だった(全体の利害を考えると娼婦は必要悪だったので)
〈例1〉タラスコン
 近所の住民が「自分たちの路地に通じる娼家の扉を、少なくとも壁で塞ぐ」よう要求した
〈例2〉ディジョン(1486年)
 近隣の人々の要求によって「夜警が娼婦を数名、穴牢獄にぶち込んだ」のだが、その関係役人はラングル司教に破門された
〈例3〉パリ(1373年)
 辺鄙なエリアの平凡な人々が、女主人が経営する娼家に憤慨して、娼家を市内のよその土地に移転させた
〈例4〉リヨン
 ペシェリー街近くに住む住民が、その地にある娼家に対する陳情書を起草した。その中では“公娼館よりもひどい、もぐりの浴場の淫行と破廉恥ぶり”を訴えている
 ☆娼婦たちと客がもし多少は洗練された態度を取っていたなら、近隣の人々も(ごく稀に)腹立ちを抑えて彼女たちを受け入れる余地があるかも知れなかった
〈例5〉厚かましい女
 フィレンツェ(1398年)では、ある男の妻アンジェラが「街頭へ客を引きに行く」として、近隣住民の怒りを買った。彼らはこの恥ずべき習慣を止めさせるべく、慈悲から「毎週パン1籠を彼女の生活費の足しに贈ろう」と申し出たところ、アンジェラは厚かましくも「自分は毎週たった2フローリン(※大金!)を貰えれば自堕落な生活から足を洗える」と答えた
 その後当局から「指定された身なり(手袋をはめる,頭に鈴をつける)をしないで売春した」として、このアンジェラは有罪判決を受けた
〈例6〉私的制裁を企てる
 ハノーヴァー(1462年)では、ある市民が娼婦たちの振る舞いに激怒し、弩を手に“名の通った娼家”に急いで向かった(※どれほど怒らせるようなことを娼婦たちはしたのだろうか?)。その後にこの市民は市参事会に呼び出され「このような私的制裁は許さない」と言い渡された

【もぐり・流れの娼婦】
 C.もぐりの娼婦たちは、仕事がばれると隣人たちからひどい目に遭わされるだけでなかった。(ケルンでは)公娼たちは「競争相手=もぐりの娼婦」たちを「荷車に乗せて市営の娼家に連れて行く」権利を持っていて、実行もされたらしい
 ☆上記のケルン市民によると、連れて行かれる際の“彼女の叫び声の何と大きかったことか”と思ったそうだ
 D.放浪の女性たちによる街頭売春は禁じられており、多くの都市では彼女たちは「一時だけ娼家で働いた(その間家賃を支払わねばならなかった)」。そして大きな催し物の際には、放浪の女性たちが大勢市内へやってきて、当局はできるだけ管理しようと試みた
〈例〉レーゲンスブルク帝国会議にて
 市の監視人は40人以上の娼婦を市内に入れた(1532年3月15日)。この時「回り道をしてはならない(=余計なところへ行くな)」「申告して1グルデンを支払わねばならない」と彼女たちに言い渡した。会議の期間中に500人以上も滞在したという
 ☆都市によっては、もぐりの娼婦たちとの競争に負け、無くなってしまった娼家もあるという

【活動への制限】
 E.娼婦たちの振る舞いが、都市に住む一般の「多くの妻・娘たちを堕落させる、悪しき模範となる(=堕落の道へと引きずり込む)」ことを、当局は恐れていた。だから「娼婦は市内のどこでも、まともな女性・乙女と一緒に、まともな人々の間で踊ってはならない」という条例によって隔離しようとした都市もあった(シュトラスブルク:1480年,など)
 F.娼家での営みにはお酒が付き物。しかしワイン店の主について「彼らがワインを提供するのは“名誉ある誠実な者の家”でなければならない。なぜならそれを市営の娼家で行えば、娼婦たちの恥ずべき振る舞いを(ワイン店の主の)妻・子供・下男たちが見てしまうから」として、彼らの娼家での営業を制限するよう訴願書が出された(ウィーン:1403年)
 G.もちろん客引きそのものは、あらゆる都市で規制された。がこれまた当然ながら、そのような条例はよく無視された
〈例1〉サザーク娼家規則(1162年)
 「娼婦たちは娼家の扉の後ろで静かに座っていなければならない」「娼婦・娼家の主が通行人の服を掴んだら、裁判領主(ウィンチェスター司教)に罰金20シリングを支払う」「娼家の前の小路での客引きを禁止する」
〈例2〉ライプチヒの娼婦たち
 最も有名なのは“厚化粧のアンナ”と呼ばれた。彼女らは、朝から晩までめかし込んで娼家の扉の中に座り、通行人の男を“夫だろうと聖職者だろうと、地元の者でもよそ者でも、通りがかろうものなら襲い込んで娼家に引っ張り込んだ”という。危険や恥辱を感じさせただけでなく、“痘瘡の病気”も撒き散らした。もちろん最終的には刑吏(=監督人)に罰せられたのだが

【日常生活への規制】
 H.娼婦たちは(a.上記のダンスへの参加禁止だけでなく)「b.婦人用の外套・毛皮を身に着けること」も禁じられた(メラノ〔南チロル〕市法:14世紀)。「c.公の祝祭・催しへの参加」も禁止対象だった(メッツ:1493年)。さらに「d.飲み屋に足を踏み入れること」も禁じられた(シュパイアー:1383年)し、市民も「e.戸を開けて彼女らを家に受け入れること」は許されなかった(ゲッティンゲン:1445年)
 I.教会での振る舞いに対する見方はたいへん厳しかった。「f.娼婦たちは大聖堂の祭壇前の階段で喋るな、座るな」(シュトラスブルク:1471年)。実際その前の年に、娼婦たちが階段に座り込んで“祭壇やミサに背を背けて、ミサなど無関心のように…品定めするかのように人々を眺めた”という(→これによって少なくとも罰金1ポンドを科せられた)。娼婦たちは「h.隔離された座席を占めた」(コンスタンツの『娼家亭主規約』)か、イングランド(1485年)ではたいへん厳しいことに「i.教会詣ですら禁じられた」

【隔離命令】
 J.また当局は、男性住民が娼婦たちと過度に接触するのも阻止しようとした(あまりにも男たちの足が娼家へと向かい過ぎたようだ)。そうした意図から各都市で、娼婦が「上品な地域から都市の片隅へと移る」ように何度も命令が出されている(もっとも、娼婦たちが集まってきた都志の片隅が今度は“甘い片隅”になることも時折あった)
〈例1〉マルセイユ(13世紀)
 娼婦たちは「教会の近くや、名誉ある市民の間に滞在してはならない」とされた
〈例2〉パリ(1415年)
 立派な地域において娼婦に住まいを貸す市民に対しては「足枷を付けての晒し者,灼熱の鉄の烙印押し,都市からの追放」にする、と脅して禁じた
〈例3〉ミルテンブルク(1422年)
 誰も娼婦たちを家に泊めてはならない、代わりにふさわしい場所(市内なら娼家,市外なら5シリングの補償金を取って)へ行かせればよい、とされた。これは上記7年前のパリよりも明らかに緩い規定である
〈例4〉ケルン
 娼婦たちは限られた区域だけでの居住を許されていた(1455年)のだが、31年後にはそれが守られていなかったようで“立派な人々の住む区域”から娼婦たちが追放されている
〈例5〉リューベック
 決められた小路から勝手に立ち去った娼婦は、見せしめとして「髪を切り落とされ、晒し台に釘付けにされた」(旧市法での条項)
〈例6〉シュトラスブルク(1471年)
 「市に雇われていない娼婦」=「不倫をしている主婦,自ら進んで街角に立つ女」は全て、市壁の裏にある“ビッカー小路”“フィンカー小路”“グラーベン小路”、あるいは定められた隅へ行かなければならない(ところがこの類の指令は、昔から出されていたらしい。つまりなかなか守られなかったということ)

【移動制限に関連する問題】
 K.娼婦たちは所によっては(娼家に)始終合宿させられた(例:ニュルンベルク,コンスタンツ,アウクスブルク)のだが、脱走した娼婦ももちろんいた
〈例〉アウクスブルク(1520年)
 ここでは日曜日ごとの断食期に、娼婦たちを娼家から聖モーリッツ教会のお説教に行かせた。「教会内の1隅に特別に小教会を作り、娼家の主と2人の召使いが行き帰り共に連れ帰った」のだが、初日の説教の最中に2人の娼婦がメイン教会へ逃れ、そこから逃走した
 L.ところがこれを強引に連れ戻そうとするには障害がある。娼婦が教会へ逃れると、連れ戻すためには教会内へ侵入しなければならないのだが、それは教会の不可侵性を犯すことになる。コンスタンツ(1466年)の事例では、逃げ込んだ公娼よりも追いかけた主の一行の方が、先に教会から出るよう司祭に命じられた
 M.ヨーロッパ各地でもヴェネツィアでも、女性たちはよく「誘拐され、暴行を受け、売春を強いられた」

【市民の憤り】
 N.もしきちんとした措置を当局が取らなければ、逆に市民の中の立派な人々が興奮して声高に対策を求めることもあった
〈例1〉ハイデルベルク(1494年)で出された痛烈な苦情:
 「監視人・役人は、娼婦が破廉恥な服装で、恥知らずにも路地を歩いて教会に行くのを許している」「大勢の若者がそれを見てまず欲望を抱き、そしてしばしば行為へと駆り立てられる」とした。
 そして「こうした女性が自ら娼家へ客引きするのを許してはならない」「夜会・公の場所・市場・教会開基祭へ出てはならない」と結論づけ、規制として「彼女らは相応しい服装で教会に行く以外には、家から一歩も出てはならないように管理する」「唯一認められた教会でも、彼女らが誰からも見られない・目立たないようにすべきだ」と要求した
〈例2〉ハンブルク(1483年)
 こちらは市民が参事会に規制強化を要求した例。「a.市民・娘・男女による毎日の教会詣でに際して通らなければならない場所(教会の中庭,公道)に、娼婦を立てることを禁止せよ」「b.当局が年に1度手入れをして、娼婦を相応しい場所へと連行せよ」


(6)娼家へ行くことへの規制

 A.都市において、かなりの身分の人々が“不潔な暮らしで生計を立てている女性”のもとを訪れるのが禁止されていた。そして娼婦は「既婚者,あらゆる聖職者(巡回説教師・修道士・世俗司祭)など貞潔の誓いを立てた者」を迎え入れるのが禁じられた
 ★古代ローマでは、既婚男性が“売春する酒場女”と寝るのは完全に許されていた。理由は「彼女らは法律上の正当な身分が無いから姦通には当たらない」というもの
 B.既婚男性が娼婦と性交すれば(市民であろうとなかろうと)姦通であり、そのような好色漢を待ち受ける処罰はたいてい身に堪えるものだった
〈例1〉ハイルブロン(1492年)
 ある市民の男が、公娼館の女を自宅に連れ込み、その後に町から逃げ出した。しかし戻った所を逮捕され、都市とその周辺2マイルから永久追放された
〈例2〉ウルム
 当局のガサ入れの際に「娼家にいる所を見つけられた既婚男性を全員地下牢にぶち込む」よう、捕吏は命令されていた
〈例3〉フライベルク(1412年)
 市参事会は、娼家に足を踏み入れた既婚男性に対して「罰金1マルク,もし支払えなければ晒し刑or吊し刑」にするとした
 ☆このような場合、売春宿のおかみも既婚男性から手を引くことを命じられた。既婚男性と関係を持ったある女は「復讐断念誓約,今後2度と市内に足を踏み入れないとの誓約」をさせられた(1501年)
 ★上記のように禁止されていても、もちろん世の夫たちは(聖職者も含めて)取り持ち女の手に落ちた

【ユダヤ人】
 C.あえてキリスト教徒の娼婦と寝たユダヤ人はより厳しい罰を受けた(例:教区の信者から鞭打ちされた後に市外追放〔アヴィニョン〕)。ところで諸々の法書などでは、この性関係は「一種の変態」と見なされた
 ⇒「焚刑に処す」or「一物を切断する」or「片目を抉る」と規定されていた。しかし実際にはたいてい「永久の市外追放」で住んだらしい
 D.ちなみにユダヤ人の側からも、キリスト教徒の娼家に上がるのを禁止した。それだけではなく彼らの内部での禁則として「ユダヤ人の娼家は禁じられた」「秘かに売春するユダヤ人女性は、再三にわたり市外追放にされた」のだった

【職人たち】
 E.多くのツンフトも娼家通いを「公序良俗に反する」と見なして、ここでは「既婚・未婚を問わず」職人に禁じた
〈例〉リガの靴職人規約(15世紀初)
 職人の誰かが“優雅な娼家に行き、ビールや秘密の事柄を愛した”場合には「組合にビール1樽を,常明灯(亡くなった組合員の共同祈祷用)に蝋1マルク分を」支払うこと
 F.職人と娼婦との関係に対する禁止事項は様々で、娼家通いの禁止に限らず「公共の広場で娼婦と一緒に居る,宿・飲み屋で娼婦に飲ませると罰金」(フランクフルトの製本職人組合)というのもあったが、規制の度合いは組合ごとに少し異なる
 ☆厳しい場合だと「娼家の主のために仕事をしてはならないし、親方でも職人でも彼らと関係を持ってはならない」(コルマールの皮なめし職人兄弟団)となった
 G.しかしこれらの規則がどの程度守られたのか、実際にどれほどの職人が娼家に行ったのか、というのは不明である
〈例〉バーゼル市参事会のメンバーである親方が(たぶん半ば冗談混じりに)「最後に残った娼家を市参事会が閉鎖すると決めたら、職人たちは仕事をほっぽりだすだろう」と言った(1525年)

【大学町と娼婦】
 H.多くの大学町では「a.学生・教師は娼家への立ち入りは禁じられていた(彼らは学内の寮に住む場合、独身で暮らさねばならなかった)」「b.時にはダンスパーティーへの立ち入りさえ禁止された(例:グライフスヴァルト市)」
 I.しかしこの規則は道徳的な観点ではなく、学生と「学生以外の町の若者,一時滞在するよそ者」との間で「c.しばしば発生した揉め事をを減らしたいという当局の方針ゆえ」のことだった

【ハイデルベルクにて】
 J.大学はプファルツ選帝侯の希望に応じて、一定期間は「娼家の訪問を断念する」「“私娼窟”“バー付きの浴場(もぐりの娼婦がかなり酩酊した客を無理やり引き込むバーのことらしい)”を避ける」よう、学生らに命じた(1460年)
 K.当時この町には市壁からほんの1歩しか離れていない場所に3軒の浴場があり“上の湯”“中の湯”“下の湯”と呼ばれており、いずれも「蒸し風呂」だった。これらの女性従業員は格別身持ちが良いとは見られなかったらしいが、それでもこの3軒は“バー付きの浴場”とは別らしい

【浴場の湯女たち】
 L.浴場で働く「湯女」の中には、機会があれば売春する気になった者は少なくなかった。浴場は淫行と頻繁に結びついた
〈例1〉ハル市の“前の湯”の水場係アンナ・ガオヘリンは、その振る舞いと「何人がの既婚男性と関係を持った」廉で市外追放された(1529年)
〈例2〉ケルンのベアリッヒには娼家の近くに1軒の浴場があった。娼婦たちは「浴場で入浴する男どもをアルコールで酔わせた」→「それから娼家へ引っ張り込んだ」。このような「連携」は中世都市に数多く見られる
『秘めごとの文化史』(H・P・デュル)から[4]


○中世の売春に関して(その2)


(3)中世の売春

【厳しかった時代の事例(主に中世盛期)】
 A.サンチアゴ・デ・コンポステラ巡礼を呼びかける『カリクスティヌス写本』には“売春と金銭欲のために悪魔の命に従い、夜ごと巡礼者の寝台に近づいた”旅宿の女中たちが破門された、とある
 B.カルカッソンヌ慣習法の1項目には「公娼が都市から追放された(13世紀初頭)」という記述がある
 C.聖ジュヌヴィエーヴならびに聖ジェルマン・デ・プレ大修道院領内の犯罪記録簿(13世紀末~14世紀初頭)には「身持ちが修まらない(にもかかわらず)パリからの立ち退きを拒んだ女性たち」に対して、烙印を押して公の場で晒し者にすると脅した、とある
 D.ヴェネツィアの大参事会は、公娼すべてを1週間以内に「共和国の島から本土へ」追放するように命じた(1266年)
 E.フランス当局は娼婦に対するよりも、むしろ「取り持ち女,娼家のおかみ」に対してひどく厳しい措置を取った(14世紀)

【中世後期の規制緩和】
 A.規制が厳しい時代が終わり、やがてほとんどの都市が「娼家を設立する,市壁外にある既存の娼家を『都市内の辺鄙な地域』へ移転させる」ようになった(14世紀後半~15世紀初頭)。市内への移転時期はトゥールーズ(1425年),モンペリエ(1420年頃?)など
〈例〉バーゼルの場合
 最初の娼家(1293年)は「当局の完全な管轄下にあった」or「私娼窟が当局のお目こぼしに与って容認された」のどちらなのかは不明。やがて半官半民の娼家が存在するようになっていた(14世紀)が、この時点では市内にこうした施設を新たに開くのは当局からは認められなかった
 その娼家の経営について「a.娼家のおかみがそこで働く娼婦から取る上前(?)について『3ペニヒ未満』という制限がかけられていた」。しかし何かと問題があったようで「b.聖オズワルト礼拝堂下にあった娼家は、公娼たちをもう住ませてはいけない、と命令を出されてしまった(1388年)」
 その後しばらくして市参事会が「c.新たに“美女を収容する小家屋”を、娼家の主たちに売り渡すor賃貸するかした」[※この小家屋は市壁内だったのだろう]

【緩和論者の論点】
 B.このような処置を取るようにした根拠はどの都市でも同じであった:「この罪(売春)を大目に見れば、さらに悪い犯罪(増加の一途だった)を減らすのに役立つ」というものだった(神学者たちも同意見だった)。ここでいう“さらに悪い犯罪”とは女性への凌辱・男色であった
 ★男色について:
[14世紀]いかなる男色も禁じられたが、少なくともフィレンツェでは「力ずくでの男性同性愛行為(=強制)」のみが刑法で訴追された
[15世紀]あらゆる種類の男色が罰せられた。フランスでも広まっていたようで、パリ大学総長ジャン・ジェルソンは「若くして結婚しない男はほとんど同性愛行為をしている」と非難した
 C.都市には非公式の社会的監視が減っていた[※当ブログ内記事の『ヨーロッパ中世都市での恥の文化と規律』を参照してください]ことによって“さらに悪い犯罪”の増加へとつながっていた。そのうえ当局からすれば「商業的な淫行」を特定の場所に集中させる方が、管理の面から得策だった
〈例〉フィレンツェ政府は“風紀課”を設けた(1403年)。目的は「公衆道徳の向上」と(何よりも)「出生率低下の原因とされ、蔓延する一方の少年愛を食い止めるべく、外国から(特にドイツ・オランダから)・国内から娼婦を募集し、娼家を設立するため」であった
 D.かなり長い間にわたって常に男だけしかいない場所では、売春婦が「男たちの自由になるように、たいていは配慮されていた」。軍隊にはぞろぞろと、大勢の輜重車娼婦・陣営娼婦がついて行ったし、船にも娼婦が乗っていた
〈例〉ロストックからスコーネへと向かう船には40人の娼家が乗っていた(1267年)

【女性は困っていた】
 E.中世後期には多くの都市が、わりと頻繁に起こる女性への性的嫌がらせ(例:胸・股間に手を触れる)だけでなく、凌辱の舞台にもなった。都市が大きくなって見通しが効きにくくなるほど、女性がこうした犯罪の犠牲者となる危険が増した
 F.特に脅威に晒されていたのが「下層階級の女性:織工と日雇い人夫の娘・妻(☆)」「若い独身女性,若い未亡人,しばらく余所へ出稼ぎに行く男の妻たち,旅の途上の外国人女性」「評判の悪い女性」たちであった
 ☆ハンブルクでは「不法に職人として働く人々の家族の女性メンバー」だった。彼らは保護も受けられなかった。彼らからの苦情によると「妻は公道・市道で蹴られたり、毛をむしられ、相応しからぬ場所に触れられた」らしい
 G.女性は日が暮れると、男性の同伴があっても敢えて路地に出ようとしなかった
〈例〉ハンブルク(1610年)では、女性の安全対策として市参事会が「夜間は軍隊にパトロールさせる(兵士60人を2部隊に分けた)」ことにした
 H.男の凶行がエスカレートすると(少なくとも)フランス南東部では「青少年が徒党を組んで夜ごと地元をあちらこちら徘徊する」→「いわば“成人の儀式”として女性の家に押し入り、犠牲者をさんざん殴り侮辱してから凌辱する」というのが、典型的な反抗の手口となった。そしてこのような一味徒党は、周辺村落も不穏な状態にした
〈例〉ディジョン(中世後期)
 年間ほぼ20人の婦人が凌辱された。うち8割は若者たち15人以下で構成される一味によって犯された。彼らの大半は「18~24歳の職人or徒弟」だった
〈例〉ある男はクリスマスの時期に仲間らと共に、アンジューの2・3の村をくまなく荒らし回った挙げ句、有罪判決を下された(1426年)
 I.中世後期の強姦率の上昇には、当時多くの男性が「かなり遅くなってから(青春期後10~15年して)やっと結婚した」という事情も影響していたようだ
〈例〉フランス南東部(15世紀)
 結婚平均年齢は「男性:25歳,女性:20歳」だったが、結婚適齢期の娘の1/3は“かなり年のいった成り上がり者”にさらわれていった

【必要悪として認められた娼家】
 J.上記のような犯罪はたいてい夜陰に乗じて行われたので、当局は「娼家の客が娼婦のもとで一晩中過ごす」のを、一種の閉じ込め効果があるので大いに歓迎していた。各都市で定められていた夜間外出禁止令も同様の意味をもつようだ
〈例1〉シュレットシュタット(1374年)
 “夜警が3番目の鐘を鳴らした後も、娼家に服を着て滞在している所を見つかったら、市長に2シリング支払うべし”“ただし、男が裸で娘と同じ寝台にいる場合には一文も支払う必要はない。彼らに危害を加えてはならない”
〈例2〉ロンドン
 夜間にロンドンと(テムズ川対岸の)サザークの娼家街との間を、ボートが往復するのを大目に見はしなかった。客は翌朝まで室内に留めておくよう、サザークの娼婦たちは命じられた(1161年)
 K.こんなわけだから、認められていた理由は娼家が持つ治安維持機能ということになる。中世後期に「公の」娼家があっても、娼家そのものが「歓楽の中心」として認められたのではなかった。その営みは常に“罪深いもの”であり、娼婦たちは社会から“追放された者”であった(ユダヤ人・ハンセン病患者と同列)


(4)娼家の場所・管理

 A.娼家は必ず、いたって辺鄙な場所にあった。それはたいてい「市壁沿い,市門の前or後ろ,市壁の外側の郊外,市の水濠のほとり」だった。ちなみに古代ローマでも、ほとんどが港・市門の際にあった
〈例1〉ライプチヒ(15世紀)
 ハレ門外の“郊外で最も静かで辺鄙な場所”と記された場所にあった。市壁から市の水濠を経て、その建物へ行くには小橋1つさえ無かった(市の長老たちが「わざと行きにくいように」設定した)
〈例2〉ハイルブロン(1494年)
 市壁からなかなり離れた市外にあった。それゆえに、夜警が自分の義務をおろそかにして近くの娼家で「ちょっと息抜きをする」というのも、時にはあったらしい
〈例3〉ユーバーリンゲン
 市壁の外側、原っぱ門前に「公営娼家」があった。この近くに“遊びの原っぱ”があって「市内で唯一の、賭博・サイコロ遊び・標的射撃が許されていた場所」だった
 ☆娼家はしばしば、中で賭事もする料理店を営業していたが、賭事も娼家の主(往々にして刑吏が兼ねていた)が管理した
〈例4〉ウィーン
 都市が攻囲された時、娼婦たちは市内へ逃れてきたが、戦闘が終わるとともに城壁外へ戻った(1485年)。ところがトルコ人による包囲(1529年)で2軒の娼家が焼け、最終的にウィーン市内に定着した
〈例5〉ハイデルベルク(中世後期)
 娼家は(西側の市壁にある中央門からそれほど離れていない)“マンテル”のすぐそばの“大マンテル小路”にあった。この門の北側の水濠は埋められないまま(都市拡張によって水濠が不要になっていた:14世紀末)。娼家の最盛期にはこの水濠は“射撃水濠”と呼ばれて、ここで踊り・酒宴などのドンチャン騒ぎ(もちろん賭事付き)が繰り広げられていた
〈例6〉ロンドン
 本来のサザークの娼家街“スチュー・サイド”(ウィンチェスター司教の裁判権の管轄下にあった)とは別に、禁じられていたにもかかわらず市壁内でも売春婦が浸透していた(13世紀初~)。しかしやがてはこれも黙認された(14世紀末)

【ロンドンでの娼婦への扱い】
 a.「厳しい規制」:禁じられていた場所で捕らえられた娼婦は、肌着にいたるまで剥ぎ取られた(上着も返してもらえなかった)
 b.「周りからの視線」:娼婦たちがロンドンの別の地区に住むと、当の地区の家々は窓・扉を下げ、娼婦たちが引っ越ししてやっとまたそれを元に戻した
 c.「買う側も注意が必要」:男たちがタチの悪い買春の廉で判決を食らうと、普通は「1.髭を落とされ、毛髪も頭の周り2寸幅の環だけ残して晒された」「2.その後に彼は足枷をはめられて晒された」「3.さらに2度判決を食らうと永久に市外追放された」
 d.「取り持ち女」:この場合には、恥辱の行列として「1.嘲笑の声を浴びながら、ニューゲートからあちこちの小路を通る」→「2.ベルファーシュトゥールのストック市場まで引き立てられた」→「3.そこで髪の毛を切り落とされ、市長&市参事会の意のままに任された」のだった
 e.「非管理下の娼婦」:彼女たちは「1.頭に縞の帽子を被らされ、手には白い杖を持たされ、ニューゲートからアールゲートまで引き立てられた」→「2.そこからベルファーシュトゥールへ行く」→「3.そこで役人が衆人環視の中、彼女の生き方を糾弾した」→「4.その後はコックレーンの売春地帯へ連れて行かれた」
 f.「累犯に対して」:この場合には罰も重くなる。ある娼家のおかみ(&娼婦)として「有罪→シティ追放」を喰らった女が、再びシティ地区で見つかった。そこで「数日にわたって1・2時間の晒し刑を宣告された,その後1年+1日は牢獄に収容された」という

【売春浴場】
 B.悪評高い売春浴場の場合も、たいていは「市壁沿いorその向こう側」にあった
〈例7〉ジュネーヴ
 “熱い街”というこうした娼家が、市壁外の「コラテリー城外」にあった。ところがここはドミニコ会修道院から、石を投げれば当たるくらいの距離にあった。そこで修道士たちの粘り強い要請により“美しい娘たちの荷車道”に移された(後に“旧娼家街”と呼ばれるようになる)
〈例8〉アネシー(1490年)
 15人の娼婦を抱えるこの手の娼家が「ベフの城外」にあった。ここは大変儲かっていたのだが、市当局が「当市の欲望を満たすには4人の娼婦で十分」として、経営者に11人を無理やり解雇させた

【ユダヤ人街と娼家】
 C.時にはユダヤ人街・ユダヤ人小路に「非ユダヤ人のための娼家」を建てたらしい(これはユダヤ人街などが、市壁近くor郊外にあるケースが稀ではなかったから)。時にはユダヤ人たちは、自分たちの居住地区に対する侮辱に対して抵抗した(しかも成功した)ようだ
〈例9〉シュヴァイトニッツ(1375年)
 市参事会が、ユダヤ人通りと呼ばれる陶工通りには「娼婦を送り込まない」と約束している
 D.中世後期になると多くの都市では、ユダヤ人街はその他の地区から完全に遮断されていた。だから当局は「公営売春を他の場所よりも上手く管理できる」と考えていたようだ。実際、各地のユダヤ人小路は「小路の上に張られた針金・綱で仕切られている」ことも稀ではない
〈出入り管理の例〉
 レーゲンスブルク(15世紀)では、ユダヤ人街は毎晩閉ざされ、朝になると再び開かれた
 ケルン(1341年)では、都市の使丁が「ユダヤ人街の門の鍵を所持した,毎晩日没後に門を閉ざした,早朝第1時課とともに開けた」。これに対してユダヤ人は年間20マルクを支払った
 ★多くの地方でユダヤ人住民とキリスト教徒との間で緊張が高まる(13世紀末)と、ユダヤ人の方から「ユダヤ人の街路を壁で塞ぐ」よう手配した。大がかりなゲットー化は激しい迫害(14世紀後半)の後
〈例10〉ヴァレンシア(中世末)
 塀に囲まれた「売春婦のゲットー」があった。そこでは唯一見張りがいる門のそばに刑場があった

【管理の問題】
 E.娼家を市門の前後に置いたのは「1.中世都市の居住地区が、中心部→周辺に向かって社会的に下っていくように構成されていた」から。都市の周辺地域(or都市権が及んでいる郊外)に住んだのは「貧民,賎民,臨時雇いの労働者,乞食,よく売春もした湯女(に代表される不名誉な職業の者)」だった
 F.もう1つの理由は「2.都市周辺の農民・その他よそ者が毎日市門を通って入ってくる。そんな男性たちに、市門近くの娼家で『エネルギーをぶちまけてもらう』ことで、市内での犯罪を減らす」意図があったから
 G.都市参事会は「他国の領主・その他高官,防衛のための兵士が都市に滞在する」時には、しばしば「a.娼家を建て増す」「b.流れの娼婦を都市に入れる」だけでなく「c.日が暮れると路地を避けるよう、女性住民に強く警告した」のだった
 H.そうした場所にある娼家では「娼婦同士の激しい殴り合い,土地者とよそ者との間の血なまぐさい喧嘩」が起きるのは稀ではなかった
〈例〉ハイデルベルク(1422年)
 上記の“大マンテル小路”の娼家で、同市に宿泊していた伯爵夫人の従者が1人、数名の学生からひどい暴行を受け、手を1本切り落とされた
〈例11〉シャンベリ(1418年)
 見せ物を催したたはずが、本当の争いに変わってしまったケース。“娼婦たちは棍棒で殴り合い、地べたに転がし、上着を引き裂き合った。その上グレダ某女などはある娼婦の頭巾に火さえ着けた”という

【ハイデルベルクと巡礼者と娼婦】
 I.上記ハイデルベルクは“外国人に派手に彩られた”と評される(15世紀半ば)ほど、外国人の訪れが多かった。ここでは上記の“大マンテル小路”の娼家の前にも、東側の市壁の外(上門の近く)にあったようだ(1320~81年)。存在が推定される場所の近くには「巡礼の家」があり、そこに到着する巡礼たちを性的に満足させるために、辺鄙な場所に娼家を建てたと考えられる
 J.この時期(14世紀)には、戦争・ペスト・飢饉のために落ちぶれた農民たちが、放浪者としてますます大量に各地方・各都市に流れ込んできた。そのうえ時には「生涯を巡礼の旅で過ごす巡礼者」までもが無数に存在した。彼らは犯罪に走りやすく、本格的な一味を形成した
 ☆彼らは娼家に出没するのがたいへん好きだった
 ★“女の家”という名が付いていても、それが娼家とは限らない。「産婦の祝別式で祝別されるまで婦人の待合室となる、教会付属の家」にも“女の家”という名がついていた。またシュトラスブルクの“女の家”は「“タチの悪い疱疹”や“フランス病(梅毒)”を病んだ女性のための施療院」だった
『秘めごとの文化史』(H・P・デュル)から[3]


○中世の売春に関して


(1)娼家とイメージの問題

【娼家と売春浴場の違い】
 A.中世後期には、売春については浴場よりも寝台の方が(どこでも例外なく)多かった。「普通の浴場は特に下層階級の人々が利用した」「自家用の風呂を裕福な人々はたいてい持っていた」。数の少ない売春浴場は、比較的地位の高い人々の性的奉仕に満足していた
〈例〉ディジョン
 市営の娼家(=寝台)の料金は1ブラン(女性1人のほぼ半日分の賃金に相当する)だった。対して浴場の娼婦の場合「a.娼婦は若い上にかなり洗練された雰囲気の中で働いていたから、料金はずっと高い」
 B.売春浴場のメリットとして「b.少なくともフランス南東部ではめったに監督の目が届かないので、娼家に立ち入りが禁じられる既婚者でも」あまり煩わされずに性的欲望を満足できた
 C.さらに「c.時には女性も売春浴場を訪れることができた」。そこでは愛人と出会うだけでなく、マッサージを受けられた
〈例〉ディジョンの“聖フィリベール浴場”は、有名な娼家のおかみジャンヌ・セーニャンによって経営されていた

【一番下の料金の娼婦たち】
 D.性行為を戸外で片付ける娼婦はもっと安かった。しかもその料金は長い間わりと安定していた
〈例〉グィーズで市が立った時、同市を訪れる者は市営娼家(=料金が中クラス)だけでなく“浮かれ娘”も自由にできた。彼女たちは客を森へ連れて行ったので、値段は市営娼家の半分で済んだ。その料金は「かなり懐具合の良い職人の、1日の稼ぎの約1/5」だった

【売春浴場の区別】
 E.中世後期には、都市の市壁の外にも浴場があったものの、たいていは市壁の内側(ただし周辺地区だが)にあった
〈例〉シュトラスブルクの市壁の向こう側には“しっかりとした土地にある、避暑用の別荘付きの浴場”があった。客は入浴&マッサージの後、日の下で身体を乾かすことができた(1408年)
 F.娼家はしばしば市壁外にあった。語源的にも娼家“Bordell”は、都市内の家“Maison”とは逆に「市壁の外に立つ1軒家“Borde”」から来ていた

【イメージの問題】
 G.中世の娼家を描いた芸術作品には猿が登場する。中世において猿は「贅沢,官能の悦楽,姦通,盲目的な欲情,破廉恥」を表す有名な象徴だった。特に雌猿はきわめて淫らなものとされた(雌猿は雄の目の前で欲望をそそるようにお尻を見せて興奮させる、として)
 ⇒雌猿は売春婦を代表した。ロマンス語系民族の諸国では娼婦を“guenon(雌猿)”と表した
 H.彼女たちの活動ぶりを示すモチーフとしてはさらに、男性のリビドーを象徴する「“雄の動物(たいていは熊の仔or犬)”を刺激するorその気を引く」というのが用いられた
〈例〉『阿呆の召集』(1512年)
「自然が隠したものを
 どの猿もさらけ出す
 喜んで見せたがるので
 誰もが猿の尻を見る
 自分の恥部を隠せない人を皆
 私は猿と呼ぶ」
「今度は雌猿についても言わねばならぬ
 己の乳房を秘密にしないのは
 窒息するのではと恐れるため
 そして時には半分以上さらけ出す」
作者トマス・ムルナーはこう言って、ほとんど乳輪まで自分の胸を露出し、脚も少し見せるような若い女性(=娼婦)のことを当てこすった

【放浪詩人と娼婦】
 I.中世では放浪詩人は「特にだらしない好色の人間」と評価を下されたので、よく「金星(ヴィーナス)の惑星記号の下に描かれた」。往々にして放浪詩人は「自分が演奏する私娼窟(or悪名高い浴場)で、ポン引きやヒモになった」「流れの娼婦たちと一緒に地方を廻った」のだった
 ☆ちなみに女性の放浪詩人は娼婦とみなされ、図像では「髪の毛をむき出しにしていた」。逆に立派な女性たちは「慎み深く冠型の帽子を被っている」
 ☆娼婦はしばしば「女優“theatrice”“ spliwip”」と表現された
 J.公娼・放浪詩人ともに「聖体拝領,聖別された土地への埋葬を禁じられた」。また「息子が父の意思に背いて放浪詩人となり、名誉の『代わり金』を得る場合には、相続廃除の理由となった(シュヴァーベン法鑑)」
 K.カロリング期から中世後期に至るまで、放浪詩人はたいてい権利・法の保護・名誉が無かった。中世後期には放浪詩人の社会的地位は改善されたが、相変わらず評判は悪かった
〈例〉放浪詩人は証人として法廷に出廷できなかった(バイエルン・ラント法),多くの都市は市門の通過さえ許されなかった
 ★“普通の楽士”だけが、教会開基祭・結婚式で演奏する権利を有していた
 M.したがって、放浪詩人は郊外のもぐり娼家に姿を見せるような人々なので、中世後期のれっきとした(男女別の)浴場で演奏しているのは、とても有り得ない。彼らが登場する図版は娼家を描いたものでしかなかった


(2)近世初期の売春:規制強化から黙認へ

【中世から近世への流れ】
 A.少なくとも中世後期には(13世紀や、14世紀後半と比べても)、当局は売春に対してずっと寛容な態度を示していた。売春への弾圧は(中世では)時代が下るにつれ、減りこそすれ決して強化されなかった
 B.宗教改革に伴い、各地で当初は厳しい措置を取ったが、やがては大波は静まる。そして「娼婦の違反行為が確認されない限りは、広くヨーロッパ各地で公娼に対して寛容になる」(17・18世紀)
〈例1〉ネーデルランドでは、カルヴァン派が娼家を容認しなかったのだが(16世紀末)、やがて娼家が新たに出現し、代官(都市役人)がそれを監視した
〈例2〉ベルンでは“女小路”“刑吏小路”(※娼家は刑吏の管轄下にあった)の娼家が閉鎖された(1534年)が、40年後再開した
〈例3〉チューリヒではヴァハト新市場にあった2軒の娼家が、閉鎖されることなく放置された

【黙認へ】
 C.確かに市営娼家は閉鎖されたものの、目立つことなく姿を消した私娼窟は、各地でまあまあ大目に見られた。ロンドンでは売春の公式の廃止後も、市内各地で売春は花盛りだった(お咎めなしだったり、割と軽い罰で済んだ)
 ☆軽い罰といっても、当人たちがヘラヘラと過ごせたわけではない。ベルン(1563年)での娼婦追放では「4人の娼婦が2人ずつ組になって、死刑執行人によって鞭で追い出された」際に、激しく泣いてひどく嘔吐した1人を、もう1人が慰めている光景が目撃されている
 D.多くの都市では市営娼家の廃止を残念がるようになり、やがて娼家を抑制する措置に当局はあまり熱を入れなくなっていった
〈例1〉パリ(17世紀)ではお上が娼家を大目に見るようになり、また娼家が溢れるようになった。「しばしばひどい無秩序がまかり通る」とも記されている
〈例2〉ネルトリンゲンでは正式な娼家が廃止された(1536年)が、じきにこのような記録が残されていた:
“乞食頭シュトッフェル・フライシュマンは、連れ出すよう命令を受けた娼婦たちと(とりわけ悪名高いアイルランド女と)淫行に耽った廉で投獄されたが、本日……免除され、追って沙汰あるまで所払いとなった”(1567年)
 E.放浪の娼婦に対する滞在規定も、かなり厳しかった(~17世紀中頃)のだが、その後は中世末の水準に戻った
〈例1〉ベルン(1572年)
 “土地者の自堕落な娼婦も余所者たちと同じく、捕らえて投獄し、誓いを立てさせた上で、生まれ育った地ないしは現住所へ送るべし”。ただしこれも真剣に守られなかったようだ
〈例2〉エスタヴァイエ(1627年)
 “居酒屋の主人その他の者も、娼婦を1昼夜以上宿泊させたり、部屋貸ししてはならない”と、滞在は許されていた
〈例3〉グリュエール(1634年)
 “娼婦は宿泊させず、部屋も貸さないこと。ただ飲食物を供するに止めること”(旅館飲食店規則から)
『秘めごとの文化史』(H・P・デュル)から[2]


○中世の医療と女性


(1)中世の医師と女性

【男性はダメ!】
 A.中世~近世初期において、あらゆる階級の女性は分娩椅子(当時は寝台での出産はごく稀だった)に座ってからすぐ、専ら同性に取り囲まれた。男性医師がお産に出てくるのは近世の上流階級である
〈例1〉マリー・ド・フランスの動物寓話(1150年頃)には「女性は誰もが男性の前でお産するのが恥ずかしい」というセリフが登場する
〈例2〉イングランド(15世紀)では、王家の出産中は誰であろうと、男性は室内への立ち入りを禁じた
〈例3〉バーデンの名望ある1開業医は、出産中の女性を介助したために逮捕された(1516年)。ハンブルク(1521年)では、ある医師が「産婆に変装して助産術を施し、おまけに魔術も行ったよう」で、火刑に処された
 B.通常は夫でさえ、妻の出産への立ち会いを許されなかった。「妻の出産に立ち会うよう」夫に薦めた最初の医師は、おそらくハンブルク在住のポルトガル人男性医師(1604年)のようだ(ただし、そもそもこの医師が出産にたずさわれたのかどうかも疑わしい)。どうやら夫が手を貸して良いのは、陣痛が長引き過ぎた場合だけのようだ
〈例〉中世リエージュで、医師だけでなく夫も“恥じらいを感じるゆえに”分娩室への立ち入りを禁じた。イングランド(13世紀)の本には「父親であれ医師であれ司祭であれ」男性は出産に立ち会ってはならない、とある

【緊急事態での対応】
 C.中世後期~近世初期において、全出産の90~92%が正常分娩であり、女性の産婆が介助している。そして各種の規則においては、危機の場合でも医師の介助は考えられていない
〈例1〉レーゲンスブルクの産婆規約(ヨーロッパ最古のもの:1452年)では「産婆は危急の場合には同僚の産婆を動員すべし」としており、医師の介助は考えられていない。しかし約100年後には「危急の際には医学博士にあらゆる助けを求めてもよい」となっている
〈例2〉ユーバーリンゲンの規約(1557年)では、産婆は危急の場合には「自分の意図に固執せずに助産婦・他の産婆と相談するために、迅速に彼女たちを呼ばなければならない」とある
 D.複雑な症状だと医師の助言を求めなければならないのだが、医師はあくまで「産婆に助言する」だけであり、出産を取り仕切るのではない。このケースには「死んだ胎児が縮小されて引き出される」のも、恐らく含まれる
 ☆どうやら農村では、切羽詰まった場合には羊飼いor牧人が呼び寄せられたようだ(彼らは動物のお産で何某かの経験を持つから)。死産が確定したと判断されれば「子供を母胎から強引に引き出すのに手を貸してもよい」という規約もある
 ☆死んだ婦人の帝王切開も男性によって行われた。後には生きている婦人の帝王切開にもたずさわるようになる(15世紀?)
〈例〉中世後期ニュルンベルク周辺の村落の規約には、ややこしいことになりそうであれば「産婆は速やかに医師もしくは産科医(1人or複数の思慮分別のある女性)を必要に応じて呼び寄せる」→「しかる後にその忠告によって必要な措置を講じなければならない」とされている
 ☆同僚の女性はたくさんいたようだ。ニュルンベルクの町では「指令された女性1~3名を呼ぶ」ことになっていた

【医師は指示するだけ】
 E.出産の現場には女性しかいなかったのだから、助産法の教科書(16世紀)は著者自身の体験ではなく「産湯使いからの報告,古代の文献によって得た知識」に基づいていたようだ。男性の医師は(そもそも出産の場に居合わせたとしても)、女性の下半身を目にすることさえできないのだし、だいいち産婆が診察・処置をする時に(たいてい)医師は立ち会わなかった
〈例〉月経の止まったあるビザンツィン女性の婦人科診察で、医師ヨハネス・アクトゥアリウスは患者の検脈・検尿に限られていた(14世紀前半)
 F.ある裁判(1322年)の弁護士が言うには「医師にはどのみち“女性の手,胸,腹部,足などに手を触れることが”禁止されているのだから、経験豊かな産婆が女性の患者を訪れて“自然の神秘”や“恥部”を検査する方がより適切だろう」「女性は男に、自分の秘密を打ち明けるくらいなら、むしろ死を選ぶだろうから」と言明している

【ジャンヌ・ダルクの場合】
 G.彼女は人々から、本当に“乙女”なのかという疑問を向けられ、何度もその「処女性」を検証されたらしい。その手続きは専ら“立派な女性によって”処理された。その結果として「オルレアンの乙女の性器が未発達である」との所見が得られた
 H.ベドフォード公妃の指導によって、2人の女性(うち1人は“貫禄ある年配の婦人”だった)によって行われた検査の時にも、もちろん男性は立ち会いを許されなかった。ところがこの時、隠れた場所からベドフォード公が覗き魔をして、男性の目には隠されるべきものを目撃した

【許された人・許されなかった人】
 I.ジャンヌは男性医師による診察も受けた。その時の様子は「医師は彼女の下着の上から検査した時、ほとんど裸の彼女の姿を見た」「そして腎臓付近を触診して、身体の堅さから『彼女が汚れなく処女である』と診察した」という
 ☆医師が言うには「彼女はまだ若い少女で、美しく整った体つきをしていた」「彼女に鎧を着せる手伝いをした時などは何度も乳房を見たし、彼女の傷に包帯を巻く時には時折むき出しの足を目にした」「にもかかわらず、彼はジャンヌに対して性的欲求を感じなかった」という
 J.ところが、ある仕立屋の場合にはそうはいかなかった。彼は「ベドフォード公妃の注文で仕立てた衣服の試着の機会を利用して」ジャンヌの乳房を優しく掴んだので、怒った彼女から平手打ちを喰らわされた、という
 K.医師による触診も、そもそもしょっちゅうあったわけではない。「死刑の判決を下された女性」の時であっても、妊娠検査に男性が立ち会うのを禁じられた
〈例〉ノーフォークの治安判事が妊娠検査を命じた時、判事は「当の女性の乳房と腹部の触診のために」医師ではなく“尊敬すべき思慮深い”年配の婦人を、ロンドンから呼び寄せた(1220年)


(2)女性の身体の観察

 A.中世では普通、女性が医師の目前で全裸になることはほとんど無かったようだ(例外:腫瘍を診察する際に女性が医師の前で胸をはだけるのを覚悟しなければならない、といったケースは存在した)
 B.しかし陰部のあたりを(触られるのではなく)観察されるのですら、女性にとって大変な苦痛だった。下記のようなケースで女性の身体を露出させるのは、特に冒涜的とされていた
〈例1〉フランクフルト(1457年)
 ある夫婦が申し立てた苦情によると「ハンセン病検査官の医師が法律で定めた身体表面の観察」にあたって、妻に全裸になるようこだわったのでびっくりした。夫婦は「特に下半身は裸にならずに済むよう」お願いしていたから、妻の羞恥心と名誉をひどく傷付けた。おまけに彼女が月経中であり「医師は彼女の衣服の状態からそれに気づいたに違いない」のだという
〈例2〉フライブルク
 1男性が、病気に罹っている女性の衣服の前と後ろを「小路でめくり上げた」ため、鞭打ちの上に市外追放とされた
 C.医師たちも原則としてこのことは受け止めていた。そこで「女性の陰部にできた腫瘍は、原則的には触診&視診による。しかし礼儀正しくするなら、患者が述べた症状から診断する」と記している(15世紀前半)

【中世の絵が表す意味】
 D.しかし、中世後期の描写には「ガレノスが2人の学生の前で、裸体の妊婦をモデルにして婦人科の講義を行っている」もの、あるいは「同じくガレノスが、生きたモデルによって性行為を解説している姿」と解釈されているものがある(14世紀末)
 E.しかしこの絵は、講義の実際の様子を描いたのではなく、正しくは「その章のテーマが、それぞれ『婦人科である』『男女の性的結合である』のを示すため」に描かれたのだという

【医師は配慮する】
 F.婦人病や出産の問題になると、中世の医師は相当に気後れしていた。女性に診断結果を伝えることについて、下半身に関わることであれば「もともとは礼法上禁じられていた」ので、当事者にとっても気まずいものだった
 ⇒それでも「それが耳に大変不快だと感じられても、やはりなさねばならない」と、大部分の医師は考えていた
〈例1〉医師サボナローラは「礼法上の理由から筆に託せない場合は、個人的な会話の場で説明させてもらう」と記している(15世紀)
〈例2〉ヒルデガルド・フォン・ビンゲン(高名な女子修道院長)も「そうした事柄を詳述の対象にしたのは、自分が高齢だから」とわざわざ添えている(12世紀)
〈例3〉ピアチェンツァのグリエルモ・サリチェッティ(中世で最も重要な外科医と見られている)は「自分は女性の陰部に関して述べることはできない。なぜならこのテーマは不穏当だから」と述べている(13世紀)
〈例4〉『大外科学』(ギー・ド・ショリアック著:1363年)には、女性の陰部に関して一言も触れていないが、作者は「これについて書くのは女性の仕事」としている
 G.さらに、婦人科領域のテキストの筆者は、余りにもあからさまな表現のためにしばしば叱責を受けた。そこで多くの医師は「そもそもなぜ、かくのごときものをテーマとしたのか?」を理由づける必要があると考えた
〈例〉『女性の情熱について』(トロトゥーラ:14世紀)では、翻訳者が翻訳の意図について「女性が病気を自己診断でき、それによって男性医師を訪れる必要がないようにする」ためだと記している。さらに「本書で得た知識で、女性を辱めないように」と警告している
 H.やがて産婦人科ハンドブックも書かれた(16世紀)が、これは他の医学文献とは逆に(ラテン語ではなく)各地の地方語で書かれていた。これは使用者を「ご婦人方,産婆」と想定していたからである
 I.しかし「女性は恥ずかしさゆえに、どこが痛むのかを口にしようとすることさえできない」(13世紀)といった嘆きが見られるほか、女性が「医師の上品さと礼儀作法について全然信頼していなかった」フシも多く見られる
〈例1〉医師のための行動規範(1376年)には「医師は往診の際、その家庭の主婦・娘・下女に対して、厚かましい見たり手を触れたりするなかれ」とある
〈例2〉ポリツァイ条例(1500年)に基づいて、シュトラスブルクの救貧院の医師に対して、女性に対するぶしつけな物腰・振る舞いの是正を指導した
〈例3〉西ゴート族の法律において、淫らな事態になりやすいとして、自由身分の女性に対する医師による瀉血を規制していた。「血縁者の立ち会いが必要であり、もし居合わせないのならば『立派な隣人』or『適切な男性or女性の奴隷』の立ち会いが必要」と、違反者への罰金付きで定められている

【中世の女性医師?】
 J.中世盛期には各地で、女性が医療行為に従事することを奨励していた。しかし実際にたずさわった人のほとんどは、正規の女医というよりもむしろ「医術の心得のある産婆」のことだった
〈例1〉カラブリア大公カルロは、サレルノの女性フランチェスカ・デ・ロマーノに「将来外科医として働くことの許可を与えた」ことの証明書を交付した(1321年)
〈例2〉マインツでは“女医”について記述がある(13世紀),バーゼルでは“枯れたつるべ井戸の家の隣の、女医の家”という名が出てくる(1345年)
〈例3〉女医グレダ・ブライヒェリンは魔法使いの罪を被せられた(1415年)
 ☆「ライセンスを持った女医」とはたいてい「女性患者の治療に当たった男性医師の娘or姉妹」だった。女性患者はたいてい、男性の前では脱衣しようとしないから
 K.当時の図版に拠るならば、女性患者は男性医師の前ではせいぜい、身体の一部を露出しただけであった。反対に男性患者も“女医”の治療を受ける時には「少なくともズボン下を穿いたまま」だった
 L.中世~近世初期において、女性への浣腸はたいてい同性によって行われた。もし医師がこの仕事を引き受けた時には「万事がお上品にベッドカバーの下で行われた」ようである
 ☆浣腸は、圧縮できる動物の膀胱を使った圧力式浣腸だったという
〈例〉シュトラスブルクの救貧院の「ハウスキーパー規定」(1515年)には、救貧院の看護婦(ハウスキーパー)は「女性への浣腸など性器に関する仕事を男性に任せてはならず、自ら処理しなくてはならない」とある
 ☆さらに看護人の資格として「尊敬すべき立派な人である」上に「既婚者でなければならない」と決められていた

【女性の身体に対する無知とタブー】
 M.当時の医師は、婦人科の領域に関しては知識はわずかしかなく、実学もほとんど何も経験が無かったのだから、出産の非常事態に対応することなどできなかった
[※女性の身体に関する、男性医師の知識の乏しさについては省略]
 N.逆に、婦人科領域に取り組んだ外科医(例:アンブロワーズ・パレ,ジャック・ギェルモー)は、同職組合内で蔑みの目で見られた(16世紀)。こうした行動の背景には「中世の医者が女性の分泌物・血液に触れたくなかったので、出産・婦人病を敬遠した」ということもあった
 ★医者は切開などには手を下さず、人にやらせた。こうした行動からは「血に関係する職業(この場合は産婆)の不名誉」という問題が見えてくる。それは男性患者に対する接し方も同じだった
 ★中世におけるこの「タブー」は強く、ついには風呂屋・刑吏(=不名誉な職業の男たち)も、以前ほど気軽には婦人の下半身に近づけなくなった
 ★確かに(タブーに触れる)産婆は不名誉な職業であったが「もっと不名誉な女」たちもいた
〈例〉フーズム(ニーダーザクセン)の産婆たちが、皮剥ぎ人の妻の分娩にあたって、誰一人として助けようと意思表明しなかった(∵この妻は夫の不名誉を分かち合っていたから)。そこで市参事会は「これ以上産婆に我慢がならないので、今後は床屋職の男性に女性が必要とする手助けを行わせる」と脅して、無理やり行動させた(1685年)
 O.解剖学的知識にも極めて乏しかった。これは中世には死体の解剖が一切ご法度だったからであり、可能になって以後でも、死体の調達はたいてい至難の業だった(16世紀)。さらに「女性の死体を解剖するのは特に卑猥とされていた」(~18世紀)
〈例1〉フェリックス・プラータはモンペリエで解剖学を学んでいた時、武装した学友たちと闇に乗じて、その日に埋葬された死体を秘かに町外れの修道院脇にある教会墓地から勝手に掘り出しにかかったが、その間修道院の窓から修道士たちに矢を射られた
〈例2〉レオナルド・ダ・ヴィンチも人間の死体の調達が難しく、たいてい豚・犬・馬・牛などの死骸に甘んじていた
〈例3〉モンディーノは「自分が女性の死体解剖を敢行した世界で最初の医師だ」と報告している(1315年)
〈例4〉ウィーン初の女性解剖が行われた(1452年)時には、数十年にわたって語り草となった(解剖されたのは、溺死した女性犯罪者の死体だった)
 P.こうしたこともあって、男性医師の体験的知識は実に乏しく、しばしば動物の性器を持った女性が描かれたほどだった(~16世紀)。これは「医師は雌犬その他哺乳類の性器しか解剖できなかった」ためである

【死体でも見てはいけない】
 Q.医学関係の図であっても「男性の図はズボン下を穿いた状態で」「女性は全く陰部が無いor手・枝・煙などで陰部を隠す」方が普通だった。それほどまでに「見てはいけない」が徹底していた
 R.異性の陰部を人目に曝さないために、人々は様々な努力した。多くの男性も「人前(特に女性の前)で自分の性器を露出するのをいたく恥じた-自分が死んでからであっても!」のだった
〈例1〉ケルン市参事会規定(1647年)には「女性の死体には女性のみ,男性の死体には男性のみ」が通夜を行うのが許された
〈例2〉マクシミリアン1世は遺言付属書において「自分の死後はズボン下を穿かせよ」「自分の遺体に死装束を着せる者たちは目隠ししなければかはない」と付言した(15世紀末)
『秘めごとの文化史』(H・P・デュル)から[1]


○中世都市と恥じらい・規律


(1)親族から団体へ

 A.ある1つの社会において「恥じらいの高さの許容水準,気まずさの限界」というものは、どこにでも存在している。ところがこの限界レベルは、上がったり下がったりすることがある
 B.中世社会には様々な因習によって動いているが、各個人は「親族の絆の集中的な結びつき」によって、日々の行動は“非公式の”社会的な監視下に置かれていた=「親族の結びつきによる、個々人の道徳の監視」
 ☆近代的な都市では“公的な仕組み”によって、主に監視されている

【変化の発生】
 C.こうした仕組みは、中世後期の都市社会で大きく変化したようだ。これによって当時の人々は、それ以前に比べて割と自由に振る舞うようになった(=相対的に不道徳となった)
 D.中世後期の都市の職人・賃金労働者(特にこの時期に賃金労働者は急増した)の間で、新しい土地を求める傾向が広まった。つまり「1.花嫁が夫の実家に移ることなくなる」→「2.若いカップルはたいて、結婚後、両親の住居から遠く離れた賃貸住宅に住む」ようになる。これによって「3.親族の結びつきが弱くなり、親族の人々による社会的な監視の力も弱くなった」
 ☆中世後期の都市の人々は「世帯の間のつながりの弱い、小さな細胞の集まり」と言える

【新しい風紀の監視役】
 E.やがて親族に代わって、その他の団体=「職人・商人の同職組合といった団体:ツンフト(ドイツ北部),イヌング(ドイツ南部)」&「親族集団のような性格を持つもの:兄弟会,ピアグループ,隣近所」が引き受けるようになる
 ☆これらの団体は「倫理的な規範」だけでなく「火災時の相互扶助,小川・泉の清潔維持,路上における安全・秩序の維持」その他の義務を、条例で定めた
 F.中世後期には、手工業者の親方は「息子に父の仕事を継がせるのがだんだん難しくなっていった」ので、その分よそ者の職人を受け入れてようになった。そうした職人たちの振る舞いも同職組合が監視するようになった
〈例1〉素行調査
 雇い人について、年に2度「客に対する振る舞い」だけでなく「家で主婦・子供・女中に対してけしからぬ振る舞いをしていないか」を、仕立屋組合が調べた。当人たちは就業禁止をもって脅かされた
 さらに組合は「職人たる者は皆、仕事中に半開きの服を着て女性・少女・子供の前に出てはならない」と規定した(以上は中部ライン14都市の仕立屋:1483年~)
〈例2〉暴力禁止
 家の仕事をして家で暮らす下男(=住み込みで働く)が、主人の妻・娘・下女を“犯したり同衾したりしたら”首が飛ぶ、と定めた(ドルトムントの市参事会条例:14世紀)
 ★職人が主家の女性を暴行する事件は、稀ではなかったらしい
 G.中世後期、時代が下るにつれて多くの帝国都市で「同職組合によって構成される市参事会」が、ますます強力な監視機能・処分権を持つようになる
〈例〉ウルムでは「礼儀・贅沢法の遵守を監視する“監視人”“叱責人”が導入された」(1420年)
 H.監視機関は次第に、監視される側の日常生活を総合的にチェックするようになる。こうして家族・親族の社会的ネットを補強するのではなく、むしろ取って代わるようになった。つまり、人々の規範は「道徳の向上=内面化」ではなく、強く外から監視されるようななったが。その力は以前よりも不十分だった
 ★「恥の文化」から「罪の文化」へ


(2)動き始めた世界

 A.中世都市には、それ以外の(中世における)社会と比べて、数え切れないほどのよそ者が毎日、都市の門からなだれ込んだ(既に12世紀ロンドンで、そうした現象への愚痴が記されている)
 B.中世後期の都市住民は、こうしてよそ者との付き合いを余儀なくされた。そしてよそ者に対しては、幾つかの点では「どうでも良い振る舞い」ができた。その影響もあり、人々は以前に比べて「割と自由に振る舞える」ようになった

【住民の流入】
 C.人の流れがますます増え、大勢の人間同士が結びつくようになった。「産業での分業化が進み、特に遍歴職人たちの動きの度合いが強まる(14世紀末~)」「都市住民も商業に参加した(規模の大きな商人だけでなく、小商人・職人まで加わった」 D.おまけに都市内では、下層階級だけでなく人々の動きは大きかった。だから都市の人口密度は高くお互い密接に暮らしていたにもかかわらず、それまで見知らぬよそ者との共同生活が生まれた
〈例〉商人ブルカルト・ツィンク(アウクスブルク在住)は35年間で10回引っ越しした。リューベック(14世紀)では「私有地は平均して持ち主が9回変わった」
 E.都市は田舎に比べて死亡率がはるかに高かった。ゴミ処理が特に難しい大都市では、チフス・(とりわけ)黒死病などの伝染病が猛威を奮い、人口を激減させた
 ⇒特に大ペストでの人口減少(14世紀中頃)の後は、都市人口は「ほとんど若年の農村の人々,小都市の住民の流入」によって回復した。これは東方植民を行き詰まらせた(農民は新天地への移住ではなく、都市への引っ越しを選んだ)
〈例〉ブレーメン(14世紀)
 死亡率の高まりとともに、新市民の移住の増加・大規模な転居が起こった。それによって40年間で都市はすっかり再生した

【振る舞いの変化】
 F.こうして動きの激しい社会で、様々な出身の人が集まるようになると、それまでの生活の繋がり(お互いの行動を抑制するもの)からは切り離されていく。そうなると当然、新しい形式での人々の行動監視は必須となった
 G.以前の行動監視は(自然発生たる)親族集団が担っていたのに対して、新しい監視は(上記1ーHのように)団体による総合的な抑圧だった。人々は内面的に振る舞いをコントロールするのではなく、外圧・強制といった形を強めた
〈例〉衣服・浪費・奢侈禁止令はとりわけ、大ペスト後の時代に発布された