『秘めごとの文化史』(H・P・デュル)から[5]


○中世の売春に関して(その3)


(5)娼婦への視線

【追い出される存在】
 A.町の立派な市民たちは、娼家がある辺鄙で悪評高い地域に姿を現すのを嫌った。さらに「もぐりの娼婦,街頭に立つ娼婦」だけでなく「公認の娼婦(でさえも)」を、自宅の近所から追い出すことを望んだ
〈例〉ケルン市民の証言
 “この娼家には、庶民の中でも最も最悪で最も軽蔑されている…者以外は誰も来なかった。…多くの人々が回り道をし、自分の行く道がそこに続いている場合、その家沿いの道を歩いてはならなかった”
 ☆この証言の筆者(男性)も、実はもぐりの娼婦により童貞を失っていた(20歳の頃)。その後も酒に酔って4・5回娼家を訪れたが、梅毒が怖くなって止めた
 B.追い出しを望んだのは上流・中流階級の人々だけでなかった。そうした「総意=住民の直接の利害」を無視したのは、たいてい当局だった(全体の利害を考えると娼婦は必要悪だったので)
〈例1〉タラスコン
 近所の住民が「自分たちの路地に通じる娼家の扉を、少なくとも壁で塞ぐ」よう要求した
〈例2〉ディジョン(1486年)
 近隣の人々の要求によって「夜警が娼婦を数名、穴牢獄にぶち込んだ」のだが、その関係役人はラングル司教に破門された
〈例3〉パリ(1373年)
 辺鄙なエリアの平凡な人々が、女主人が経営する娼家に憤慨して、娼家を市内のよその土地に移転させた
〈例4〉リヨン
 ペシェリー街近くに住む住民が、その地にある娼家に対する陳情書を起草した。その中では“公娼館よりもひどい、もぐりの浴場の淫行と破廉恥ぶり”を訴えている
 ☆娼婦たちと客がもし多少は洗練された態度を取っていたなら、近隣の人々も(ごく稀に)腹立ちを抑えて彼女たちを受け入れる余地があるかも知れなかった
〈例5〉厚かましい女
 フィレンツェ(1398年)では、ある男の妻アンジェラが「街頭へ客を引きに行く」として、近隣住民の怒りを買った。彼らはこの恥ずべき習慣を止めさせるべく、慈悲から「毎週パン1籠を彼女の生活費の足しに贈ろう」と申し出たところ、アンジェラは厚かましくも「自分は毎週たった2フローリン(※大金!)を貰えれば自堕落な生活から足を洗える」と答えた
 その後当局から「指定された身なり(手袋をはめる,頭に鈴をつける)をしないで売春した」として、このアンジェラは有罪判決を受けた
〈例6〉私的制裁を企てる
 ハノーヴァー(1462年)では、ある市民が娼婦たちの振る舞いに激怒し、弩を手に“名の通った娼家”に急いで向かった(※どれほど怒らせるようなことを娼婦たちはしたのだろうか?)。その後にこの市民は市参事会に呼び出され「このような私的制裁は許さない」と言い渡された

【もぐり・流れの娼婦】
 C.もぐりの娼婦たちは、仕事がばれると隣人たちからひどい目に遭わされるだけでなかった。(ケルンでは)公娼たちは「競争相手=もぐりの娼婦」たちを「荷車に乗せて市営の娼家に連れて行く」権利を持っていて、実行もされたらしい
 ☆上記のケルン市民によると、連れて行かれる際の“彼女の叫び声の何と大きかったことか”と思ったそうだ
 D.放浪の女性たちによる街頭売春は禁じられており、多くの都市では彼女たちは「一時だけ娼家で働いた(その間家賃を支払わねばならなかった)」。そして大きな催し物の際には、放浪の女性たちが大勢市内へやってきて、当局はできるだけ管理しようと試みた
〈例〉レーゲンスブルク帝国会議にて
 市の監視人は40人以上の娼婦を市内に入れた(1532年3月15日)。この時「回り道をしてはならない(=余計なところへ行くな)」「申告して1グルデンを支払わねばならない」と彼女たちに言い渡した。会議の期間中に500人以上も滞在したという
 ☆都市によっては、もぐりの娼婦たちとの競争に負け、無くなってしまった娼家もあるという

【活動への制限】
 E.娼婦たちの振る舞いが、都市に住む一般の「多くの妻・娘たちを堕落させる、悪しき模範となる(=堕落の道へと引きずり込む)」ことを、当局は恐れていた。だから「娼婦は市内のどこでも、まともな女性・乙女と一緒に、まともな人々の間で踊ってはならない」という条例によって隔離しようとした都市もあった(シュトラスブルク:1480年,など)
 F.娼家での営みにはお酒が付き物。しかしワイン店の主について「彼らがワインを提供するのは“名誉ある誠実な者の家”でなければならない。なぜならそれを市営の娼家で行えば、娼婦たちの恥ずべき振る舞いを(ワイン店の主の)妻・子供・下男たちが見てしまうから」として、彼らの娼家での営業を制限するよう訴願書が出された(ウィーン:1403年)
 G.もちろん客引きそのものは、あらゆる都市で規制された。がこれまた当然ながら、そのような条例はよく無視された
〈例1〉サザーク娼家規則(1162年)
 「娼婦たちは娼家の扉の後ろで静かに座っていなければならない」「娼婦・娼家の主が通行人の服を掴んだら、裁判領主(ウィンチェスター司教)に罰金20シリングを支払う」「娼家の前の小路での客引きを禁止する」
〈例2〉ライプチヒの娼婦たち
 最も有名なのは“厚化粧のアンナ”と呼ばれた。彼女らは、朝から晩までめかし込んで娼家の扉の中に座り、通行人の男を“夫だろうと聖職者だろうと、地元の者でもよそ者でも、通りがかろうものなら襲い込んで娼家に引っ張り込んだ”という。危険や恥辱を感じさせただけでなく、“痘瘡の病気”も撒き散らした。もちろん最終的には刑吏(=監督人)に罰せられたのだが

【日常生活への規制】
 H.娼婦たちは(a.上記のダンスへの参加禁止だけでなく)「b.婦人用の外套・毛皮を身に着けること」も禁じられた(メラノ〔南チロル〕市法:14世紀)。「c.公の祝祭・催しへの参加」も禁止対象だった(メッツ:1493年)。さらに「d.飲み屋に足を踏み入れること」も禁じられた(シュパイアー:1383年)し、市民も「e.戸を開けて彼女らを家に受け入れること」は許されなかった(ゲッティンゲン:1445年)
 I.教会での振る舞いに対する見方はたいへん厳しかった。「f.娼婦たちは大聖堂の祭壇前の階段で喋るな、座るな」(シュトラスブルク:1471年)。実際その前の年に、娼婦たちが階段に座り込んで“祭壇やミサに背を背けて、ミサなど無関心のように…品定めするかのように人々を眺めた”という(→これによって少なくとも罰金1ポンドを科せられた)。娼婦たちは「h.隔離された座席を占めた」(コンスタンツの『娼家亭主規約』)か、イングランド(1485年)ではたいへん厳しいことに「i.教会詣ですら禁じられた」

【隔離命令】
 J.また当局は、男性住民が娼婦たちと過度に接触するのも阻止しようとした(あまりにも男たちの足が娼家へと向かい過ぎたようだ)。そうした意図から各都市で、娼婦が「上品な地域から都市の片隅へと移る」ように何度も命令が出されている(もっとも、娼婦たちが集まってきた都志の片隅が今度は“甘い片隅”になることも時折あった)
〈例1〉マルセイユ(13世紀)
 娼婦たちは「教会の近くや、名誉ある市民の間に滞在してはならない」とされた
〈例2〉パリ(1415年)
 立派な地域において娼婦に住まいを貸す市民に対しては「足枷を付けての晒し者,灼熱の鉄の烙印押し,都市からの追放」にする、と脅して禁じた
〈例3〉ミルテンブルク(1422年)
 誰も娼婦たちを家に泊めてはならない、代わりにふさわしい場所(市内なら娼家,市外なら5シリングの補償金を取って)へ行かせればよい、とされた。これは上記7年前のパリよりも明らかに緩い規定である
〈例4〉ケルン
 娼婦たちは限られた区域だけでの居住を許されていた(1455年)のだが、31年後にはそれが守られていなかったようで“立派な人々の住む区域”から娼婦たちが追放されている
〈例5〉リューベック
 決められた小路から勝手に立ち去った娼婦は、見せしめとして「髪を切り落とされ、晒し台に釘付けにされた」(旧市法での条項)
〈例6〉シュトラスブルク(1471年)
 「市に雇われていない娼婦」=「不倫をしている主婦,自ら進んで街角に立つ女」は全て、市壁の裏にある“ビッカー小路”“フィンカー小路”“グラーベン小路”、あるいは定められた隅へ行かなければならない(ところがこの類の指令は、昔から出されていたらしい。つまりなかなか守られなかったということ)

【移動制限に関連する問題】
 K.娼婦たちは所によっては(娼家に)始終合宿させられた(例:ニュルンベルク,コンスタンツ,アウクスブルク)のだが、脱走した娼婦ももちろんいた
〈例〉アウクスブルク(1520年)
 ここでは日曜日ごとの断食期に、娼婦たちを娼家から聖モーリッツ教会のお説教に行かせた。「教会内の1隅に特別に小教会を作り、娼家の主と2人の召使いが行き帰り共に連れ帰った」のだが、初日の説教の最中に2人の娼婦がメイン教会へ逃れ、そこから逃走した
 L.ところがこれを強引に連れ戻そうとするには障害がある。娼婦が教会へ逃れると、連れ戻すためには教会内へ侵入しなければならないのだが、それは教会の不可侵性を犯すことになる。コンスタンツ(1466年)の事例では、逃げ込んだ公娼よりも追いかけた主の一行の方が、先に教会から出るよう司祭に命じられた
 M.ヨーロッパ各地でもヴェネツィアでも、女性たちはよく「誘拐され、暴行を受け、売春を強いられた」

【市民の憤り】
 N.もしきちんとした措置を当局が取らなければ、逆に市民の中の立派な人々が興奮して声高に対策を求めることもあった
〈例1〉ハイデルベルク(1494年)で出された痛烈な苦情:
 「監視人・役人は、娼婦が破廉恥な服装で、恥知らずにも路地を歩いて教会に行くのを許している」「大勢の若者がそれを見てまず欲望を抱き、そしてしばしば行為へと駆り立てられる」とした。
 そして「こうした女性が自ら娼家へ客引きするのを許してはならない」「夜会・公の場所・市場・教会開基祭へ出てはならない」と結論づけ、規制として「彼女らは相応しい服装で教会に行く以外には、家から一歩も出てはならないように管理する」「唯一認められた教会でも、彼女らが誰からも見られない・目立たないようにすべきだ」と要求した
〈例2〉ハンブルク(1483年)
 こちらは市民が参事会に規制強化を要求した例。「a.市民・娘・男女による毎日の教会詣でに際して通らなければならない場所(教会の中庭,公道)に、娼婦を立てることを禁止せよ」「b.当局が年に1度手入れをして、娼婦を相応しい場所へと連行せよ」


(6)娼家へ行くことへの規制

 A.都市において、かなりの身分の人々が“不潔な暮らしで生計を立てている女性”のもとを訪れるのが禁止されていた。そして娼婦は「既婚者,あらゆる聖職者(巡回説教師・修道士・世俗司祭)など貞潔の誓いを立てた者」を迎え入れるのが禁じられた
 ★古代ローマでは、既婚男性が“売春する酒場女”と寝るのは完全に許されていた。理由は「彼女らは法律上の正当な身分が無いから姦通には当たらない」というもの
 B.既婚男性が娼婦と性交すれば(市民であろうとなかろうと)姦通であり、そのような好色漢を待ち受ける処罰はたいてい身に堪えるものだった
〈例1〉ハイルブロン(1492年)
 ある市民の男が、公娼館の女を自宅に連れ込み、その後に町から逃げ出した。しかし戻った所を逮捕され、都市とその周辺2マイルから永久追放された
〈例2〉ウルム
 当局のガサ入れの際に「娼家にいる所を見つけられた既婚男性を全員地下牢にぶち込む」よう、捕吏は命令されていた
〈例3〉フライベルク(1412年)
 市参事会は、娼家に足を踏み入れた既婚男性に対して「罰金1マルク,もし支払えなければ晒し刑or吊し刑」にするとした
 ☆このような場合、売春宿のおかみも既婚男性から手を引くことを命じられた。既婚男性と関係を持ったある女は「復讐断念誓約,今後2度と市内に足を踏み入れないとの誓約」をさせられた(1501年)
 ★上記のように禁止されていても、もちろん世の夫たちは(聖職者も含めて)取り持ち女の手に落ちた

【ユダヤ人】
 C.あえてキリスト教徒の娼婦と寝たユダヤ人はより厳しい罰を受けた(例:教区の信者から鞭打ちされた後に市外追放〔アヴィニョン〕)。ところで諸々の法書などでは、この性関係は「一種の変態」と見なされた
 ⇒「焚刑に処す」or「一物を切断する」or「片目を抉る」と規定されていた。しかし実際にはたいてい「永久の市外追放」で住んだらしい
 D.ちなみにユダヤ人の側からも、キリスト教徒の娼家に上がるのを禁止した。それだけではなく彼らの内部での禁則として「ユダヤ人の娼家は禁じられた」「秘かに売春するユダヤ人女性は、再三にわたり市外追放にされた」のだった

【職人たち】
 E.多くのツンフトも娼家通いを「公序良俗に反する」と見なして、ここでは「既婚・未婚を問わず」職人に禁じた
〈例〉リガの靴職人規約(15世紀初)
 職人の誰かが“優雅な娼家に行き、ビールや秘密の事柄を愛した”場合には「組合にビール1樽を,常明灯(亡くなった組合員の共同祈祷用)に蝋1マルク分を」支払うこと
 F.職人と娼婦との関係に対する禁止事項は様々で、娼家通いの禁止に限らず「公共の広場で娼婦と一緒に居る,宿・飲み屋で娼婦に飲ませると罰金」(フランクフルトの製本職人組合)というのもあったが、規制の度合いは組合ごとに少し異なる
 ☆厳しい場合だと「娼家の主のために仕事をしてはならないし、親方でも職人でも彼らと関係を持ってはならない」(コルマールの皮なめし職人兄弟団)となった
 G.しかしこれらの規則がどの程度守られたのか、実際にどれほどの職人が娼家に行ったのか、というのは不明である
〈例〉バーゼル市参事会のメンバーである親方が(たぶん半ば冗談混じりに)「最後に残った娼家を市参事会が閉鎖すると決めたら、職人たちは仕事をほっぽりだすだろう」と言った(1525年)

【大学町と娼婦】
 H.多くの大学町では「a.学生・教師は娼家への立ち入りは禁じられていた(彼らは学内の寮に住む場合、独身で暮らさねばならなかった)」「b.時にはダンスパーティーへの立ち入りさえ禁止された(例:グライフスヴァルト市)」
 I.しかしこの規則は道徳的な観点ではなく、学生と「学生以外の町の若者,一時滞在するよそ者」との間で「c.しばしば発生した揉め事をを減らしたいという当局の方針ゆえ」のことだった

【ハイデルベルクにて】
 J.大学はプファルツ選帝侯の希望に応じて、一定期間は「娼家の訪問を断念する」「“私娼窟”“バー付きの浴場(もぐりの娼婦がかなり酩酊した客を無理やり引き込むバーのことらしい)”を避ける」よう、学生らに命じた(1460年)
 K.当時この町には市壁からほんの1歩しか離れていない場所に3軒の浴場があり“上の湯”“中の湯”“下の湯”と呼ばれており、いずれも「蒸し風呂」だった。これらの女性従業員は格別身持ちが良いとは見られなかったらしいが、それでもこの3軒は“バー付きの浴場”とは別らしい

【浴場の湯女たち】
 L.浴場で働く「湯女」の中には、機会があれば売春する気になった者は少なくなかった。浴場は淫行と頻繁に結びついた
〈例1〉ハル市の“前の湯”の水場係アンナ・ガオヘリンは、その振る舞いと「何人がの既婚男性と関係を持った」廉で市外追放された(1529年)
〈例2〉ケルンのベアリッヒには娼家の近くに1軒の浴場があった。娼婦たちは「浴場で入浴する男どもをアルコールで酔わせた」→「それから娼家へ引っ張り込んだ」。このような「連携」は中世都市に数多く見られる