『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[3]


○木の力


(1)生きている材料

 A.木は「石・金属よりも耐久性に劣る」が、全く異なるのは「生きたり、死んだり、病気になったり、欠陥を持っていたり→極めて個性的である」点が、人間と共通していることにある。1つの生命体であり動物に近いのだ
 B.とりわけ石に対して、木は優位に立つ。石は(木と同じく)「a.しばしば聖なるものと結びつく」のだが「b.不活性・剥き出し・不変の物質である(それゆえに永遠性が与えられるのだが)」→木は生きているが石は生きていない!
〈例〉中世の迷信にはしばしば「話したり、動いたり、血を流したり、泣いたりする像」が出てくるが、そのほとんどは(石像ではなく)木像にまつわる迷信である。この話はロマネスク時代初期(1000年頃)に多いのだが、当時は石像は稀だった

【木と石との間の選択】
 C.封建制が盛んになる時代において「木の城から石の城へ」と移行が起こるが、そこには領主たちの抵抗が伴っていた。その理由は「経済的・技術的なもの」だけでなく「象徴的なもの(≒木に対する愛着?)」があったようだ
 D.中世ヨーロッパは全体としてはまだ「木の時代」であったらしい(聖俗での権威の象徴となっていた石造の城砦・大聖堂の存在にもかかわらず)。繰り返し火事が発生していたにもかかわらず、単なる経済的理由だけでなく「どうしても木でなければならない」象徴的な意味が、木造建築には込められていたらしい

【対立する木と金属】
 E.木は「聖十字架の理想的なイメージによって聖化された純粋な物質」であるのに対して、金属は「悪魔or地獄のイメージと連想させられる」物質だった。金属は「a.大地からもぎ取られ、火(木の敵)によって処理される」「b.闇と地下の世界の産物である」「c.魔術と何らかの関係がある変質操作の結果によって生み出される」と思われていた
 F.さらに「鍛冶屋と大工」は中世の人々の価値観において対立する。鍛冶屋は「社会に有力&不可欠な職業だが、鉄と火を操作する魔法使い」である。対して大工は「高貴で純粋な材料を加工するのだから、控え目だが尊敬される職人」である
 ☆イエスが「大工の息子」になっているのは偶然ではない(キリスト教の正典の記述は曖昧なままであるにもかかわらず)
 G.現実において「相反する木と金属がくっついたもの」は多い。教会の考え方によれば「金属製のモノ(例:斧,鋤,犁)の力強さと恐ろしさは、柄の部分が木製になっているおかげでいくらか取り除かれている」のだという


(2)中世における突出した素材

 A.木は中世の人々の生活の、物質的な側面や日常生活において、近代のヨーロッパからは想像もつかないほどの地位を占めていた。人間が利用・加工する素材のリストの先頭にあった(~14世紀)
 B.木は特に北ヨーロッパ・北西ヨーロッパでは「主要な富の1つ,主要輸出品(特に木材不足のイスラム世界に対して),大規模に消費される財」だった。農民は農地に関連して「公有林利用権,森林開発権」をしっかりと守っていた
 C.南ヨーロッパでは木材はさほど豊富ではない。しかしそうだからこそ、木は価値を有していた。このため人々は「木を節約し、尊重し、ほとんど貴重な材料扱いする(文化面など)」のだった

【繊維の登場】
 D.中世盛期の300年間の間に、ヨーロッパの森は大規模に損なわれ、そして中世後期には木の相対的欠乏の時代が訪れた。もちろんこれは全体的なトレンドであり、地域・時期によって差はあることに注意
 E.中世後期には木は「たった1つの抜きん出た素材」ではなくなり、代わりに人々の間で重きをなすようになる:
[経済的な面]繊維産業は経済活動の原動力となる。織物は多様化して消費の対象となり、絶えず成長を続ける
[象徴的な意味]衣服が社会的なアイデンティティを示す記号となり「着ている者が誰なのか,いかなる地位(or位階)にあるのか,どのような親族集団・職業団体・社会グループに属するのか」一発で見えるようになる


(3)木こりと炭焼き

【大工との比較】
 A.大工“carpentarius”は多様な職業をカバーしていており「建物の骨組みを組み立てる者」から「木製の物・家具・道具・器具を製造する者」まで、木を加工するあらゆる職人のことを(しばしば)示していた(これは村・修道院では1人による兼職だったことが起源となっている)
 ☆都市では(例によって)分業化・専門職化していく。「指物師,櫃作り,車大工,樽職人,木靴作り,門細工師,ボワソー升職人」など
 ★“ボワソー”は小麦を計量する容積単位で、約12.8Lである
 B.しかし「木こり,炭焼き」は中世において人々から排斥されていた。彼らが様々な証言(例:文学テクスト,年代記,諺,民間伝承,口碑伝承)において与えられていたイメージは「貧しい,不潔,毛むくじゃら,粗暴,物を壊す,定住しない,人間社会から孤立している」「地方から地方へと樹木を伐採・断裁しては木材を焼く」というものだった
 C.こうしたイメージはまさに中世の人々にとって“悪魔から遣わされた者”でしかなかった。おまけに彼らは森の中で「もう1つの魔法使い=鍛冶屋」とも時々会っているのだ
 ★中世農民文化において最も恐れられ、嫌われた5つの職業:「木こり,炭焼き,鍛冶屋,粉屋(粉を貯め込んで人々を餓えさせる),肉屋(裕福・残酷・血に染まっている)」

【木こりのイメージ】
 D.彼らは「鉄&火花を操る」ことから“樹木の大いなる敵”“森の死刑執行人&屠殺人”だった。そして木こりにまつわる小話・伝説の言語データベースが形成されてきた(13世紀~):
「不思議な力を備えた存在である」「決して斧は手放さない」「村人とはめったに交わらない」「盗みはする,人に突っかかる,森を出る時には決まって畑の作物を盗む,喧嘩はふっかける」「赤貧洗うがごき生活ぶり」の人物である
 E.一方で「“貧しい木こり”の娘(or息子)が、運命・自身の長所のおかげで、ついには王(orお姫様)と結婚する」というモチーフが、文学的テクスト・口承伝説に繰り返し出てくる

【炭焼きのイメージ】
 F.彼らは木こりよりも「さらに貧しい・不潔・卑しい・不気味」とされ、どの地域でも村人から怖れられた:
「鉄は使わないものの、火(木の最悪の敵!)を操るので“悪魔の申し子”である」「結婚しないので子孫はいない」「森を離れるのは別の森に閉じこもる時で、そこで破壊&燃焼の作業を続ける」
 G.さらに「チビ,色黒,毛深い,くぼんだ赤い目をしている,口を残酷そうに歪めている」というイメージも付与された。これは文学テクスト(特に宮廷風騎士道物語)において「登場人物である勇敢な騎士が、森の中で道に迷い、仕方なく怖ろしい炭焼きに道を尋ねる」という場面である
 ☆中世盛期の読者にとって、この出会いの印象の怖ろしさは極限だったらしい

【炭焼きの社会的必要性】
 H.ところが彼らが行う「木材の炭化」は、中世においても金属業・ガラス産業にとって不可欠な活動だった。木炭には「a.原木よりも運搬しやすい」「b.燃焼効率が良いので、同じ質量でより多くの熱を発する」というメリットがある。そして「c.中世の人々はこのことをよく知っていたので、広範囲に利用していた」
 ⇒このことが森林破壊を招いたので、至る所で森林保護が試みられた(13世紀~)
 ☆ある見積もりによると「1kgの炭を得るのに約10kgの木材が必要」「炭焼き用に掘る穴が1ヶ月で1haの森を破壊しかねなかった」という(14世紀初頭)
 I.彼らは(中世においては)決して団体にはならなかった。中世の炭焼きは「常に孤独であり、排斥された」が「決して権力に対抗しようとはしない」存在だった。そして中世の森=“不安をかき立てる神秘的な世界”“出会いと変身の場所”の住人の一角であった
 ☆中世の森の住人=“野性人”には他に「鍛冶屋,木こり,猟師,豚飼い,隠者,追放者,山賊,幽霊,逃亡者」などが含まれていた


(4)斧と鋸

 A.中世においては木の加工に使う道具として、この2つの他には槌・鉋がある。しかし象徴性の次元においては、斧と鋸は最も強く、そして対称的だった

【斧:道具にも武器にもなる】
 B.斧は日常生活の様々な場面だけでなく、戦闘にも「騎士以外の平民=徒歩で戦う者の武器」として登場する。複数の価値を持つがため、斧は中世世界で最もポピュラーな道具の1つである
 C.技術的には古代の斧が既に洗練されており、中世の斧は技術の進展を示していない。しかし「脆くない,製造が簡単,使いやすい,長持ちする」というメリットがあった。おまけに種類も多様化していた
〈例〉木こりの大斧(柄が長く刃が短い“まさかり”),大工の斧(柄が短く刃が非対称の“手斧”)
 D.しかし斧がどんな種類であれ、象徴するもの(イメージ)は共通していた:
「叩いて切る際に音と火花を伴う」→「雷のように光と鉄を撒き散らしながら落ちてくる」→「豊饒をもたらすもの,何かを生み出すために叩くもの」となる(それが樹木を伐採する時であっても)

【残酷な鋸】
 E.鋸の動作原理は先史時代から知られていたが、手仕事・専門職での利用の本格化は遅かった。そして中世の人々は“悪魔的な道具”とみなして、利用はしたものの鋸を嫌悪していた。このことは「文書・図像に登場するのが遅かった(13世紀~)」ことと「取り上げられる場合にも拷問の道具としてしか扱われていない」点に現れている
〈例〉預言者イザヤは(伝説によると)内部が空間になっている木の中に逃げ、木と一緒に鋸挽きされた
 F.殉教する義人・聖人の肉体を切断するためとして専ら登場し、木材を切っていないのだという。「木こりが斧で切り倒した木を鋸で切っている場面を描いた絵」が登場するのはずっと遅い(中世末)
 G.実際のところ、鋸の利用開始はもっと早かったが、地域によってバラつきが激しい。「一般的:13世紀~」「東欧:18世紀~」「西欧の複数の司教区では司教が使用者を破門した(14世紀になっても)」「北イタリアでは工業用の水力鋸による縦挽きが可能になっていた(12世紀~)」

【不人気さの理由】
 H.使用上では鋸に対する不平不満が多かった。「a.脆くて使い方が複雑」「b.斧なら1人で済むのに2人必要」「c.高価であり保守・修理が難しい」「d.比較的作業が静かに進むので不法伐採を可能にする」
 I.さらに象徴の次元では「e.緩慢で卑怯な道具」であることが責められた。「f.樹木の繊維を切断し、しばしば木質部が劣化して、幹・切り株からの枝の再生を妨げる」ので、木を「鋸で責め苛まれた聖人たちのように」痛めつけると連想された(木はしばしば人に喩えられた!)
 J.イメージの理由によって「中世ではヤスリも嫌われた」。時間をかけて対象物を傷つける行為が「(神のものである)時間を利子=金に変える」高利貸しを連想したからだった
 ★鋸がイメージ的に嫌われたので「鋸歯状のもの,ギザギザのもの,鋸の歯の形に切り取られたもの」は全て“負のイメージ”を与えられた(例:波線は直線・曲線よりも悪い線である)
 ★逆に「最初から悪いイメージを持つ者に対して、ギザギザ・鋸歯状・山形などの模様を与える」ことも行われた(例:裏切り者の騎士,死刑執行人,売春婦,道化,私生児,異端者,異教徒)


(5)良い木・悪い木

【菩提樹】
 A.この木は中世の人々にとって、ほとんど常にプラスのイメージしかなく、民衆からは特別な敬意を払われていたようだ。まず外見=「荘厳な佇まい,葉叢,枝ぶり,幹の豊かさ,長命」を賞賛された
〈例〉中世ドイツには幹の太さを記録し競う風潮があった。ノイシュタット(ヴュルテンベルク地方)には約12mの太さの菩提樹があった(1229年)
 B.外見以上に菩提樹は、人々に恵みをもたらしていた。「芳香,音色(ミツバチの羽音),産物の豊さ,材木としの素材的特性」が魅力だった:
「a.薬局に一番人気のある木で、樹液・樹皮・葉・(特に)花が利用された。鎮静効果は麻酔作用まであるとされた(古代から知られていた)。ライ病院・施療院の傍に菩提樹を植えた(13世紀~)」
「b.花に群がるミツバチのおかげで蜜が採れ、そこには治療・予防・味覚における価値が高いとされた」
「c.樹液から一種の糖が抽出できる」
「d.葉は家畜の飼料になる」
「e.樹皮は柔軟・耐久性が強い・繊維に富むことから、繊維素材=“靱皮”が作られ、これは袋・井戸の引き綱に用いられた」
「f.柔らかく・軽く・加工が容易・木理が詰まっていて均質という特質が、彫刻師やボワソー升職人から最も高く評価されていた。しばしば楽器の素材となった」
 ☆多大な効用ゆえに「保護者・領主としての性格」が付与され、教会の前に植えられた・葉叢の下で判決が下された
 ☆「菩提樹の木材に刻まれた癒やしの聖人像」が、他の木材に同じ聖人像を刻むよりも、治療・予防効果が高いと信じられていた可能性もある
 ☆楽器製作には「菩提樹を特に好むミツバチの羽音の記憶」ゆえに、わざわざ菩提樹を選んだ可能性もある

【トネリコ】
 C.ゲルマン人の崇める樹木であり「天と地の仲介者,雷・雷雨を招き寄せる」とされている。中世では「投擲武器の大部分(槍,投槍,矢)の製造」に使われた。素材的にも適切だった(木質の柔軟さ・強度)だけでなく、古い神話(神々に仕える戦士の武器,天の火の樹木)が影響していた可能性もある

【白樺】
 D.ヨーロッパ全域で、枝の柔軟さゆえに「悪魔憑き・罪人の身体から悪を追い出すための、鞭打ち用の鞭」を作るのに使われた。ただしこれも「白い樹木,冬の太陽の光の中で輝く」という性質が、悪を追い出すのに相応しい、と信じられていた可能性もある

【イチイ:不吉&不気味な木】
 E.この木はたいていの場合「他の木々が生えない場所(荒れ地,泥炭地)に、悲しげにひとりぼっちで生えている」「常緑で奇妙なほど不変である」という、外見上の特徴がある
 F.不変なのは「悪魔と契約して不死性を獲得した」ように見られた。その不気味な外見もあって「a.(数多くの伝説・伝統で)イチイは彼岸・死と結びつけられた」「b.ドイツ語では“死の木”となる」「c.埋葬と縁が深く、墓地でよく見かけられ、喪・自殺に関わりのある木」とされた
 G.おまけに「d.含むもの全て(葉・果実・樹皮・根・とりわけ抽出液)が毒になる(例:シェイクスピアがハムレットの父を死なせるのに使った毒にも入っている)」ので、イチイに触れる動物はいない
 H.中世では「e.弓・矢を作るのに、イチイ材がいちばんよく用いられた」が、確かに「f.(トネリコとほとんど同じくらい)イチイ材は柔軟で強い」というメリットがあった。しかし、含まれる毒をアテにしていたのかも知れないし“死の木”というイメージが影響していたかも知れない
 ☆中世の射手が、弓・矢を切り出すためにイチイ材を最も大量に使ったのは、イングランド・スコットランド・ウェールズ(最もイチイを怖れ敬った、古代ケルト文化を受け継いだ3国)だったのだ

【胡桃の木】
 I.キリスト教の著作家たちは「不吉な樹木,悪魔の木の1つ,根は周囲の植生をを枯らせる,根が(毒を持つので)家畜小屋・厩に近付き過ぎると家畜の死を招く」とした。民間信仰でも不吉な木として「胡桃の木の下で眠り込むと発熱・頭痛に見舞われる,悪霊どもがやって来る」と怖れられた。後には“魔女の木”とされた(15世紀~)
 J.ところがこんな悪評にもかかわらず、中世の人々は胡桃の木を大量に消費した。「a.医薬・食料に役立った」「b.実からは油・(あらゆる種類の)飲料が作られた」が、全く怖がられなかった。さらに「c.胡桃の木の根と樹皮は染料の製造に使われた(☆)」「d.木材は堅く・重く・強いので、装飾家具の製造・彫刻において、最も美しく最も尊ばれた」
 ☆染料として「褐色染め」「黒色染め」に使われたが、黒色は中世ヨーロッパでは困難な染めだった(=胡桃が不可欠!)
 K.農民は民間信仰を素朴に信じ、我が子・家畜を胡桃の木から遠ざけていた(20世紀になってもこの信仰は残っていた!)。一方で指物師は嬉々として胡桃材を加工して利益を上げていた

【榛(はしばみ)の木】
 M.フランスの地名に最も頻繁に出てくる木だが、一方で(イチイや胡桃の木)と同じく“神に見放された木”の筆頭だった。「a.水と奇妙に関係が深く、他の樹木が生えない所(泥炭地,沼地)に芽を出す」「b.煙を出さずに燃える」「c.葉は落葉するまで緑を保つ」「d.不安を感じさせ、靄の中の亡霊のように見える」「e.黄色の木質部が、切ると赤くなって『出血する』ように見える」ので、誰もが怖がった
『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[2]


○中世と動物:諸メモ


(1)動物園とライオン

 A.野生状態のライオンは、西欧では早くから消えていた(B.C.数千年頃?)。ローマ人が円形競技場での闘技のために輸入した大量のライオンは「北アフリカ,小アジア,(時には)さらに遠くから」だった

【慎ましい移動動物園】
 B.ところが中世の人々は生きているライオンを見るチャンスがあった(もちろん毎日ではないが、意外と多かったらしい)。それは「定期市から定期市へ、市場から市場へと移動する、たくさんの“動物使い”によってもたらされた」のだった
 C.動物の種類は意外と多く、その中には「踊ったり曲芸をする熊,1~数頭のライオン」がいた。ライオンは一座の花形であり、遠くから見物に来る者もいたくらいだった

【権力と動物園】
 D.上記よりも規模が大きく、多くは定置式(時には巡回)だったのが「王(or大公)の動物園」で、そこでの最高位はやはりライオンだった。中世においてこの動物園は常に権力の象徴であり、所有者は国王・大貴族・幾つかの修道院に限られていた
 ☆後には「一定数の都市,幾つもの教会参事会,少数の裕福な高位聖職者」が真似るようになる(13世紀~)
 E.獰猛&珍奇な動物を見せて人々の好奇心を満足させるのは目的ではなかった。所有者には「最も権力ある者だけが、購入できる・養える・献上できる・交換できる」というステータス性こそが重要であった。動物園は“宝の蔵”だったのだ
[中世初期]
 熊,猪,ライオンが中心だった
[中世盛期]
 猪は無くなる,熊が減る,ライオン・豹・パンサーの割合が高くなる
[中世後期]
 異国的な動物がますます求められるようになる。「北方産:セイウチ,トナカイ,ヘラジカ」「アジア産:パンサー,ラクダ」「アフリカ産:象,ヒトコブラクダ,猿,アンテロープ,オナジャー(ロバに似たウマ科の哺乳類)」。しかしライオンこそは一番の花形であるのは変わらない

【その他、見せ物としての動物】
 F.中世後期には「a.貴族所有の鹿園が増加し、貴族にとって鹿狩りが高貴なものとされていく」「b.剥製・標本にした動物(処理は油で茹でた),動物の体の部分が増える」という傾向が現れる。体の一部分とは「皮・毛皮・毛・たてがみ・骨・歯・爪などが対象」「ワニ・蛇が多い」といった特徴があり、世俗・教会の宝物庫に収蔵された
 G.動物を使った見せ物・闘技は動物園と深く関係していた。武勲詩でお馴染みの「熊vsライオンの闘い」は中世盛期まではあったらしい。中世後期でも「ライオンvs牡牛の対決」は、特にスペイン・イタリアでは稀ではなかった


(2)ライオンのイメージ

【古代地中海世界にて】
 A.聖書の時代のパレスチナ・近東全体において、野生状態のままライオンは生息していた。これらは「アフリカのライオンよりも小型の種,主に家畜を襲う(人はめったに襲わない)」ものだった。ローマによる征服時期には数が減り、十字軍の時代には事実上絶滅していた
 B.聖書などを見ると、ライオンは善悪両面を持つ動物と見なされていた
悪いライオン:「危険・冷酷・悪賢い・不道徳,悪の力・イスラエルの敵,暴君・悪しき王の象徴,」だった(こっちの方が数は多い)。中世には悪魔の形象となる
良いライオン:「自分の力を公益に奉仕させる,咆哮は神の言葉を表している,あらゆる動物の中で最も勇敢,イスラエルで最も強力なユダの支族の象徴」とされた
 C.ローマでは(巨大な消費の場としての)円形競技場を通じてだけであるが、ローマの人々によく知られており、あらゆる他の動物よりも優位と考える人は多かった。しかし著作家たちは決してそうとは限らなかった(例:アリストテレスは“百獣の王”とは認めていない,プリニウスの『博物誌』で四足動物の最初に来るのは象だった)

【異教時代の北部ヨーロッパにて】
 D.上記は地中海地方・オリエントの文化であり、ケルト人では全く異なる。「ライオンは(キリスト教化以前は)未知の動物である」「彼らにとっての“動物の玉座”を占めているのは熊だった」のだ
 E.ゲルマン人にとって、ゲルマン=スカンディナヴィアの神話の最古層では、いかなる場合にも問題にはならない。ところがロシアで活動したヴァイキングが、黒海周辺エリアで中央アジア・近東の社会と文化的・商業的に接触していた
 ⇒ライオンやグリフォン(獅子の胴体+鷲の頭&翼をもつ幻獣)の形象を「金属に刻んだもの,象牙に彫ったもの,布に刺繍したもの」が、西欧に輸入された
 F.こうした図像は、速やかにゲルマンの伝統とマッチングした。特に「ライオンのたてがみ」が「豊かな長髪こそが力&権力の象徴であるゲルマン文化」との親和性が高かった。ただし、神話の中でのポジションこそ慎ましいものだったが

【豹(レパード)の誕生】
 G.初期キリスト教の教父たちは、最初は「悪いライオン」のイメージを採用し、悪魔の動物とした。「良いライオン」のイメージを用いたのはごく僅かだったが、中世初期カロリング期から徐々に増加し、中世盛期には“動物の王”となる。キリスト教論的なイメージも接続された
 H.中世盛期にイメージ転換が決定的になると、初期の著述に登場する“悪いライオン”のイメージとの整合性が問題となった。そこで「悪いライオン=別の動物(豹:レパード)だ」というような論理操作を行った(12世紀~)
 ☆これは本物の豹ではなく「想像上の豹」だった。その特徴は「ライオンの特性・外見はほとんど有している(たてがみだけが無い),本性は悪である」というもの。ライオンの敵として「時には竜のいとこor仲間」とされた


(3)熊のイメージ

 A.「熊を崇拝対象とする」のは、北半球で最も広まっていた動物崇拝の1つだった。熊にまつわる神話は多く、さらに数多くの物語・伝説の中へと拡散していった。重要なのは「人間に近い形を持つ」という特性が重きをなしたことであり、これによって「人間(特に女性)と緊密・暴力的・(時には)肉体的な関係を持つ」「毛むくじゃらの動物≒野生の男」というイメージを与えられたのだ
 B.西ヨーロッパの全ての地方で、熊は土着の動物だったから、人々が熊を「見る,賞賛する,畏れる,崇める」のはごく自然なことだった。カロリング期には、ゲルマン&スカンディナヴィア系ヨーロッパの大部分で「暦の上の祝祭と結びついた、異教的崇拝の対象」だった
 ⇒教会は(未だに異教の影響が強く残る)人々の心性をコントロールすべく、熊に対するマイナスのイメージ戦略を開始する(代わりに持ってこられたイメージ動物こそが、上記のライオンだった)

【教会の戦い】
 1.「まずは熊を悪魔と同一視した」。熊の悪徳として「粗暴,性悪,淫乱,不潔,貪欲,怠惰,憤怒」などを強調した
 2.「次に熊を家畜or僕として手懐けた」。数多くの聖人伝の中で、熊は聖人たちによって打ち負かされ、服従させられた
〈例〉聖アマンは自分の牝ラバを食べてしまった熊に荷物を運ばせた,聖ヴァーストは牛を喰らった熊に犁を牽かせた,聖リュスティックは葬礼の車を牽かせた(本来はこれまた牛だった),聖コロンバヌスは熊の巣窟で自分のためのスペースを譲らせた,聖ガル(熊を1頭連れている)は自分の庵を造る手伝いをさせた
 3.「嘲りの的とした(1000年~)」。教会は動物を使った見世物には全て反対したのだが、例外として「熊使いの巡業にだけは文句を付けなくなった」

【凋落した熊(中世盛期~)と人々】
 C.熊は口籠をはめられて鎖に繋がれ、城から城へ・定期市から定期市へ・市場から市場へと、曲芸団の動物として旅芸人や軽業師に連れられ、観客を喜ばせた
 D.カロリング期と異なり、熊を贈ることは「王の贈り物」として相応しくなくなる(13世紀~)。王侯貴族の動物園に熊の居場所は無くなった。例外として「白熊:デンマークやノルウェーの王が贈った」だけは、珍品として重きを置かれていた
 E.貴族の紋章においても、熊は非常に少ない割合でしか採用されなくなる。そこでは最も多かったのがライオンだった(ライオン:15%,熊:0.5%)


(4)猪の場合

 A.古代社会では「猪狩り」はことのほか格の高い狩りであった(これはギリシア人・ローマ人・ゲルマン人・ケルト人いずれも共通)。中世初期西ヨーロッパにおいても、その状況は変わらなかった

【ローマ人と狩り】
 B.猪狩りを好んだ彼らにとっての猪とは「高貴な獲物,恐ろしい敵,力と勇気を褒め称えるべき相手」だった。狩人にとっては「最後まで闘い、死ぬまで逃げもしないし諦めもしない極めて危険な敵」だった
 C.猪狩りは「1.獲物の狩り出しは犬・網を使って行う」「2.たいていは徒歩で行われ、最後には互いの息がかかる取っ組み合いになる」「3.男が1人で攻撃を受け、咆哮・耐え難い臭いも怖れずに、槍or短剣で猪の眉間(or喉)を狙ってトドメを刺す」のだった
 ⇒猪を仕留めることは常に武勲と見なされた。何といっても、抵抗&逆立った剛毛で傷を受けずに獲物を倒せる者は稀だった
 D.対照的に、鹿狩りは特に顧みもされず軽んじられていた。鹿は「か弱く、臆病で、卑怯とされていた(敵前逃亡する臆病な兵士を鹿に例えるほどだった)」「貴族や声望ある市民にとって、何ら栄光・快楽をもたらさない、つまらない獲物だった」のだった

【ゲルマン人・ケルト人と狩り】
 E.ゲルマン人にとっては「1vs1で熊or猪と対決するのは、若者にとって“自由な戦士”となるための不可欠な儀礼」だった。ドイツ語ではこれを事実を反映して、熊(bar:aはウムラウト)と猪(eber)は語源が同じであった。そして“闘う(*bero)”という動詞の大きな語族に関係づけられていた
 F.ケルト人の間では、猪は「王の獲物として抜きん出た存在」だった。ケルトの神話には「果てしない狩りを続けて猪(特に白い猪)を追い掛けたまま、異界に入り込んでしまう王・王子」がたくさんいる。ケルト人には「王ー熊」「ドルイド僧ー猪」というイメージの対比があった

【猪狩りの不人気化】
 G.フランス(13・14世紀)には、鹿狩りが猪狩りに取って代わるようになる。この時代、狩猟に関する(技術など)様々な面を貴族たちが論じた狩猟書には、鹿狩りを高きに置くようになっていく一方で、猪狩りの地位はどんどん下がっていく
 H.実務面での記録を見ると、王家・大貴族の宮廷の会計簿(フランス,イングランドにおいて)では「猪狩りに特化した猟犬の群れを維持するための出費」が見あたらなくなる(14世紀半ば~)。猪狩りには「勇敢で忍耐強い犬が必要で、しかも猪に殺される数が多い」ので、定期的に補充しなければならない
 ☆猪狩りが不人気になっていくと、猟犬の群れを維持する理由がなくなっていった、というのがその原因だった。だから、猟犬を養っていない貴族が猪狩りをしようとして「他の貴族や家臣から借用した」という事例が見られた
 I.猪狩りにかつて見られた儀礼的な側面は失われ、単なる駆り立ての対象となった。だから「a.領主ではなく配下の狩猟係(専門職)が行う」「b.繁殖し過ぎて葡萄畑・種を蒔いた土地を荒らすようになったのを排除するのが目的となる」「c.駆除が目的なので、罠・網を使うようになる」のだった(狼狩りと同レベル)
 J.猪の肉は古代より中世盛期まで広く賞味されていたのが、王・大公の食卓にはあまり上らなくなる(中世後期)。代わりには「水鳥,鹿,牝鹿,ダマジカの肉」が好まれた
 ★ダマジカは庭園で飼育されるようになり、愛玩動物として・食用獣肉として利用されるようになる

【不人気化の理由】
 1.「鹿狩りのステータスが高まったこと」。鹿狩りには猪狩りよりも広い空間が必要とされるが、中世の間にそのような広大な“森”は、王・大貴族しか持てなくなっていた。それ以下のランクの貴族にとっては手の届かない「憧れ」であり、彼らは猪狩りで満足するしかなかった
[※森の管理については当blog記事『中世ヨーロッパの「森の利用権」』も参照して下さい]
 2.「騎乗のステータス」。鹿狩りは最初から最後まで騎乗で行うが、猪狩りは騎乗でスタートするが最後は徒歩になる。騎乗は貴族の・徒歩は平民の象徴となっていた(中世盛期~)
 3.「教会によるマイナスイメージの付与」。教会は中世初期よりずっと、猪に負のイメージしか与えてこず、しまいには悪魔の化身とすらされた
 4.「猪による事故」。猪狩りのステータスが真っ先に落とされたのはフランスだったが、そこで「国王フィリップ4世美男王がコンピエーニュの森での狩りの最中、猪が引き起こした事故が原因で亡くなる」という事件が起こった(1314年)
 ★この事故の200年ほど前にも、フィリップ王子が「放し飼いの豚が馬の脚の間に飛び込んできた」ことで落馬し、死に至るという事故があった(1131年)。中世では豚と猪はきちんと区別されていたのだが、このトラウマがあったので、猪を貶めるのに十分な理由となりえたらしい


(5)鹿の場合

 A.初期キリスト教の教父たちによって一貫して、鹿はきわめて高く位置付けられていた。鹿はキリスト教にとって「純粋で有徳の動物,良きキリスト者のイメージ,キリストの属性を持つ代理」として、ポジションとしては仔羊・一角獣と同じだった
 B.古代の猟師たちからは「臆病で興味が持てない獲物」と見なされていた(反対に猪は獲物として高く見られていた)のを、教会は逆転させた
 ☆熊を「動物の王」の玉座から引きずりおろし、代わりにライオンをそこに据えた(12世紀)のと同じ
 C.教会のこうしたイメージ戦略によって、狩猟書の中で「王・大貴族の狩りの獲物」の地位は、徐々に猪から鹿へと置き換えられた。この変化は中世文学の中でも追うことができる
〈例〉中世初期ウェールズの説話では、ケルトの伝統をそのまま継承していて「熊=アーサー王」が「白い牝猪」を狩っていた。ところがクレティアン・ド・トロワの『エレックとエニード』(12世紀後半のアーサー王文学)では、アーサー王は「白い鹿」を狩っている
 ⇒これ以降、宮廷風文学全体において「鹿狩り」こそが王の狩りとなる


(6)狩りと教会

 A.教会はあらゆる狩りに否定的だったが、その中でも鹿狩りは悪のランク付けとしては低いものだった。それは「熊狩り(ピレネー地方ではなお続いていた:14~15世紀)・猪狩りほど野蛮ではない」という理由だった
 B.鹿狩りの特徴比較:「a.熊・猪と異なり、人間vs獣の血まみれの取っ組み合いで終わることはない。狩人がエキセントリックにならない」「b.人・犬の死ぬ数がずっと少ない」「c.収穫を荒らすことも少ない」「d.動物の吼える声・悪臭も控え目である」「e.人間・犬・獲物が疲れた、という時点で終わりになることが多い」
 ☆ただし「f.鳥の猟ほど穏やかではない」「g.秋の発情期に大形の牡が性欲を高めていると、荒々しいものとなる」という側面はあるが…
 C.それでも教会は鹿狩りを「より文明的な狩り」と捉えた。さらに教会による鹿の(一種の)聖化が加わり、鹿はより穏やかで文明的な、王・大貴族・領主に相応しい狩りへと「誘導されていった」
『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[1]


○動物裁判に関するメモ書き


 教会が巨大な裁判所化した時期(13世紀半ば~16世紀半ば)には「教区裁判所の創設,異端審問と捜査による訴訟手続きの制度化」が進んだ。動物裁判はこの時期に多く行われている
 会計簿に見られる様々な支出の記録などは、記述処刑の叙述(きわめて稀)・処刑を求める判決文よりも、動物裁判についてよく知らせてくれる。

【中世では罪を処罰するにはお金が要る】
 A.「動物は審判を待つ間は拘留される(1~3週間)」→この間「餌をやらねばならない,看守への手当てが要る,拘留している施設の所有者に支払いをする(場合によっては)」
 B.「刑吏&その助手,処刑台設置,拷問器具を準備する大工・石工・各種職業団体の費用」が必要となる
 C.「動物を捕まえ、牢屋まで護送し、最期を迎えさせるまでは警吏・衛兵を動員しなければならない」
 ⇒支出は(司法当局or公証人の)会計簿に記入される。さらに受益者の名前が記録され、時には職務の遂行に関する詳細も記述される
〈例〉ファレーズの牝豚事件
 公正証書係ギヨ・ド・モンフォールが受領確認した領収書によれば、町の刑吏が報酬として「10スー+10ドゥニエ・トゥルノワを受け取る」「他に10スーを貰って新しい手袋を買った」。後者は手袋代にしては高いので、単なる弁償以上の埋め合わせが込められているようだ(1386年)

【様々な動物と裁判の類型】
 A.「動物の犯罪:大人や子供を殺したorひどく傷つけた」のなら、動物の所有者は決して罪を問われなかった。裁判によって自分の豚・馬・牛類・ロバ・犬を失うことが、十分罰と見なされた。刑事裁判であり、教会権力は介入しない(上記の牝豚事件では国王代官が裁いた)
 B.「動物が悪さをした」=不法行為(盗み,庭荒らし,店舗・倉庫への侵入,多種の損壊,徘徊)の場合には、飼い主は責任を問われない。これは刑事裁判ではなく「民事で裁かれ、罰金が課せられる」。動物絡みの民事裁判は、隣人間の争い・訴訟にきわめて多い
 C.「集団の動物に対する訴訟1」。これは災厄とされるが「特定の地方を荒らしたり、住民を脅かしたりする大型哺乳類(猪・狼)」の場合には、世俗権力の駆り立てによって追い詰められる
 D.「集団の動物に対する訴訟2」。こちらの災厄は「小型動物(齧歯類,虫,'害虫')による収穫物に対する損害」のケース。これは教会が介入し「悪魔祓いをする」「神の呪いを求める,教会から追放する→破門宣告をする」となる。担当するのは悪魔祓い師と教区宗教裁判所判事
 E.「獣姦罪に動物が連座する訴訟」。これはおぞましい罪とされ「男(or女)と動物(共犯と見做される)が、訴訟書類とともに同じ袋に生きたまま押し込められ、まとめて火刑台で焼かれてしまう」ことで、罪の痕跡を消してしまう
 F.「動物と何らかの魔術が絡むケース」。猫・犬・牡山羊・ロバ・カラスが対象となるが、中世ではこの種の裁判はあまり行われない(特に多いのが16・17世紀)

【処刑執行にあたって】
 1.処刑法は「絞首:一番多い」「火あぶり」「扼殺:めったにない」「首切り(特に牛類)」「溺死刑」「生き埋め」など
 2.これに「晒し者にする」「辱める」「体の一部を切る」という祭儀としての要素が加わることもある
 3.「何らかの理由で予定された処刑が行われない(例:絞首台が腐っていて倒れた)」場合には、有罪宣告を受けた動物は「釈放され」所有者に返される
 4.罪を犯した動物を捕らえられない場合には「a.同類を捕まえ、裁きを受け、判決を申し渡される(ただし処刑はされない)」場合と「b.代わりによく似た人形を裁き、刑罰を加える」場合がある(b.の方が頻繁に行われた)
〈b.の最古の事例(1332年)〉
 1頭の馬が事故を引き起こし、死人が出た。事件が起きたボンディ小教区(パリ近郊)は、苛酷さをもって鳴るサン=マルタン=デ=シャン小修道院の管轄下だった
 そこで馬の所有者は大急ぎで、別の管轄に属する区域に馬を連れて行ったものの、この企みは露見し男は捕らえられた。彼の受けた判決は「馬1頭の金額を支払う」&「サン=マルタン=デ=シャン修道院に“馬の像”を納める」だった。馬の像は通常の動物裁判のプロセス通りに、引き回されて首を吊られた

【動物裁判には豚が多い】
 上記の類型A.において最も多く裁かれているのは豚(9割!)。その主な原因:
<1.数が多い>
 中世ヨーロッパで、哺乳類のうち最も数が多かったのはおそらく豚(分布は不規則だし、近世に入って減少し始めるようだが)であり、羊は2番目である。動物考古学では、家畜の飼育・肉の消費の推計は、残っている骨の数に基づいて行われるが、これだと豚を羊類・牛類と比べて過小評価してしまう
 ★理由は「a.豚は全てが美味である」「b.豚の骨が実に多くの物品・製品(特に糊)を作るのに消費された」から
<2.たくさん徘徊している>
 豚は町中において「ゴミの清掃を引き受けていた」ので、あらゆる広場・街路・庭をうろつき、墓地にまで出没した(死骸を掘り出そうとする)。あらゆる都市当局は禁令を繰り返した(12~18世紀)が、豚の徘徊が日常生活の1場面であることには変わらなかった。そのため、豚による事故は最も頻繁だった
<3.豚と人間の親近性>
 昔の社会で人間に一番近い動物は(熊・猿ではなく)豚だった。実は身体組織の研究(古代~14世紀)は、豚の解剖を通じて行われてきた。医学校では教会によって人体解剖を禁じられていたので、代わりに牡豚・牝豚の解剖を通じて研究してきた
 ★中世の人々は「人体と豚の体内組織は近似している」と考えていたが、現代医学によっても「消化器官・泌尿器・皮膚組織・皮膚系の近似性」は確認されている
『秘めごとの文化史』(H・P・デュル)から[7]


○中世の売春に関して(その5)


(10)娼婦への暴行と罰則の揺らぎ

 A.中世都市では、一般の人々に対する娼婦からの嘲笑・侮辱は日常茶飯事だったという(説教師ジャック・ド・ヴィトリの証言が正しければ)。それによると「パリ(13世紀)の路地で彼女たちは、男性(特に学生)に声をかけ、彼らが知らん顔で通り過ぎると、後ろから“おかま野郎!”“ケツかまし野郎!”と呼び立てた」という
 B.特に古い時代には各地で、少なくともある一定の状況下では「公娼を打擲するだけでなく、罰を受けずに凌辱する」ことすら許されていた(例:シュヴァーベン・ラント法)。それは、娼婦はそもそも奪われる名誉すら無かったからである
 C.しかし娼婦に対する凌辱への罰則は、各法規を見る限りでは「罰を受けない→裁かれる→罰を受けない」という、時系列で見た変動が存在するようだ。ただし「犯人が庇護を受けられる身の者であれば、しばしば大変寛大な処罰が下される」ことも有り得たから、ケースバイケースともいえる
[11世紀:ハンガリー]
 公娼に対する強姦は斬首(=名誉ある処刑法),既婚婦人の強姦は車裂き(=最も不名誉な処刑法),未婚女性への強姦は斬首(ただしその前に「馬の尾にくくりつけられ、道路の泥・糞の間を引きずり回される」という屈辱付き)
[1276年:アウクスブルク]
 少女・女性・放浪の女を強姦した者が、不法行為のゆえに捕まったら、生きながらにして埋めるべし
[1389年:フランスのシャルル6世]
 悪評高い者・娼家の女を力ずくで犯せば、罰としてウィーン貨幣100ソリドゥス(!)を支払わねばならない
[15世紀:ベルリン]
 娼婦の強姦は死刑
[1527年:再びアウクスブルク]
 上記1276年の規定から“放浪の女”の項目だけが消えている
[1558年:ダムディエール]
 …ふしだらな女性への強姦or強姦未遂には、いかなる処罰も存在しない。彼女らは…抗弁も拒絶も許されない身分だから
〈寛大な処罰の例〉
 ある貴族の従者が、ランツフートの娼家にて同時に2・3名の娼婦を暴行して留置されたケース。主人の抗議によってすぐに塔牢獄から釈放され、ただ(当局から不当に!留置されたことに対する)「報復権を放棄する誓約」だけで済んだ(1418年)


(11)娼婦の目印

 A.中世後期になると、多くの都市では男が「小路に立つ女性が娼婦なのか、立派な女性なのか迷う」「へまをして気まずい思いをする」ことのないよう、公娼に対して外出時に特別な目印を付けるよう命じた
 ☆さらには、客となるかも知れない側からすれば、娼婦でなく間違って既婚婦人を相手にすると「売春以上の罪である姦通を問われる危険」があった!
〈諸都市の規則例〉
「a.赤い頭巾を斜めに被り、それを縫い合わせること。教会に入ったら脱ぐが、その際には肩の上に掛けておくこと(チューリヒ:1319年)」
「b.珊瑚の飾り紐など、立派な婦人がいつも身につける装飾品を着用してはならない(ハンブルク:1497年)」
「c.公娼は黄色の長い帯を服に取り付け、もぐりの娼婦は小外套を頭の上に被る。これによって公娼/私娼も区別する(ライプチヒ:1463年)」
「d.娼婦は3エレの長さの襟を付け、雇い主は赤い帽子を被らねばならない(パドヴァ:中世後期)」
「e.娼婦は右袖に赤い縞を付けねばならない(ジュネーヴ:1397年)」
 ☆娼婦に義務づけられた衣服は、市庁舎に打ちつけられた告知板に書かれていた(リューベック:1478年)

【特殊な規制】
 B.ミラノ(1581年)では逆転の発想として「公娼のみあらゆる衣服規定からの免除される」という提案があった。こうすると「娼婦はできる限り下品で贅沢に着飾る」→「既婚婦人は娼婦と間違わないために、贅沢で破廉恥な流行を諦めるしか手は無くなる」ので、贅沢禁止令の実効性を高められるという!
 C.まともな婦人たちの堕落を牽制する手段は他にも必要だった。「娼婦にはハイヒールを履き、ヴェールを被る権利が留保された(シエナ:1343年)」のは、まともな婦人たちが「ヴェールを被ってどこの誰だか分からなくする方法で、性的な自由を獲得する」のを恐れたから。婦人たちの道徳も怪しかったのだろう

【多様性と紛らわしさ】
 D.フランスでは(少なくとも一時)娼婦の色として白が好まれた。ところが「白の垂れ頭巾と紐を着けろ」という王のお触れにたいして、トゥールーズの娼家“大修道院”の娼婦たちが抗議し、結局“服とは違った色の紐or端布を巻く”という条件付きで、彼女たちは色の選択を任された(1389年)
 E.明らかに不倫をしている婦人にも“名誉あるご婦人方”と同じ格好を禁じた場合もある(1450年頃)。また「中世のまともな女性は露出を恥じた」ことから、逆に娼婦に対して「長い外套を着るのを禁じ、短い男性用外套だけを頭の上に被る→脛の辺りが露わになる(※ミニスカートみたいになる!?)」ように定めたケースもある(リューネブルク)
 F.外套の被り方から判別できたケース。「ある種のベギン会員は各地で売春をしていた」ことから、ビーベラッハの修道女たちの規則には“頭に外套を被ってはならない。それは不品行なベギン会員だけがそのように外套を被るからである”(1406年)と規則で定められた


(12)豊饒をもたらす娼婦

 A.娼婦は(中世・近世を通じて)「普通は妊娠しないから、男性を誘惑して無駄な射精をさせる」と繰り返し非難されてきた。にもかかわらず、奔放な性は「豊饒の象徴」とされた
 B.この信仰には「彼女たちの奔放な性は破廉恥&猥褻を意味する」→「これによって豊饒に敵対するもの全てを追い払う」という、呪術的な意味が込められていた!

【女神フローラの娼婦たち】
 C.フローラは植物(特に穀物)の生長を司る。古代イタリアでは、彼女たちはフローラの春祭りで「チューバに合わせて色とりどりの衣裳を脱いでいき、裸の姿を群衆に見せる」。そこには「春の自然を損なう悪霊などを、陰部を露出することでことごとく追い払う」という意味があった
 D.元々フローラの祭りの初日(4月28日,後に5月3日)は「売春婦の祭日」であり、そもそもフローラ自身も公娼だったと言われていた。最初は不定期だったのがしばしば不作に見舞われたので、毎年催されるようになった(B.C.173年~)

【幸運をもたらす娼婦】
 E.上記の理由から、娼婦との出会いが吉兆とされていた時代があった(例:夢の中で娼婦を見るのは良い兆しだという)。そして元々は豊饒だったのが、意味の拡大解釈が起こり「娼婦は幸運を支配者たちに授ける」と見做されるようになった(中世後期)
 F.中世後期にはほとんどの人は豊饒にまつわる意味を知らなかった(知識人だけが知っていた)のだが、古代の豊饒の儀式の名残は残っていた
〈例1〉アヴィニョン
 当地の大学生には“尻叩きの権利”があった。これは「謝肉祭に娼婦のスカートをたくし上げ、彼女たちの裸の臀部を打つのを許された」というもの(その際恥ずかしがり屋の娼婦は、1デナールだけを支払えばこのように侮辱的な扱いから逃れられた)。これはドイツでも行われていた
〈例2〉結婚式にて(15世紀でも)
 娼婦は「結婚式で踊り、花婿に祝辞を述べる」ことが許されていた(むしろ義務づけられていた)
〈例3〉ヴュルツブルク(1486年)
 ある結婚式にて、不名誉な人々が勢揃いしていた。「a.牢番が人々の真ん中を行った」「b.右手には娼家のあるじを、左手には皮剥人兼獄吏を従えた」「c.その後には悪臭を放つ肉・腐った卵が続く」「d.最後に死刑執行人が教会に入って行った」「e.さらにその後に花嫁が、さらに娼家のおかみと娼婦たちが続いた」という
[※彼らの職業が持つ不名誉さと、腐った肉・卵は、悪魔どもすら追い払うと考えられたのだろうか?]
〈例4〉ヴェネツィアでは娼婦は「市役人に薔薇などの花束を贈った」(~1438年)。フランスではシャルル7世が娼婦から「毎年5月に“春の訪れの花束”と呼ばれる花束を渡された」(この習慣は1540年でも続いていた)

【象徴としての薔薇】
 G.薔薇は花弁の配列ゆえに、当時から「女性の陰部の象徴」とされていた。娼婦に関係するネーミングや隠喩には、頻繁に薔薇が用いられていた:
 「a.中世後期に、娼家はよく“薔薇小路”にあった」「b.娼家の名前じたいが“薔薇の穴開け亭”“黒薔薇屋”のように名付けられた」「c.“薔薇の中に入る”“薔薇を摘む”“ミンネ(愛)の野で薔薇を折る”は、いずれも女性との同衾を指す表現だった」「d.女性が男性から贈られる赤い薔薇を受け取るのは『彼と親密になってもよい』という承諾を意味した」
〈娼家の名前と都市内での配置〉
 1.「ダンツィヒ」(15世紀):“薔薇小路”は、男女の取り持ちらによる殴り合いが行われて悪名高かったが、同じく“ケッターバーガー小路”とともに、市の城壁の傍にあった
 2.「フランクフルト」(14・15世紀):見本市での客を目当てにやって来たよそ者の娼婦たちは、同市で私娼が唯一許可されていた“薔薇の谷”へやって来た。その中でも特に“薔薇小路”に滞在した
 3.「ベルリン」(1420年):城壁に近い“薔薇通り”に新しい娼家が1軒建った。そこは新市場やシュパンダウアー門から遠くなかった[※ということは、これらの場所もあまり風紀の良くない場所だったのだろうか?]
 4.「シュトラスブルク」(1350年以前~):“薔薇の湯”という風呂屋があった
 ★風呂屋もよく“薔薇小路”にあったり、薔薇に因んで命名された[※グレーゾーンの営業をしていたことを示しているのだろうか?]

【祭りと娼婦】
 H.ライプチヒでは娼婦たちが「1.四旬節の中日(初春にあたる)に、長い竿の先に藁人形を吊して歩くリーダーを先頭」に「2.死を求める詩を歌いながら郊外の小路を行進」して「3.最後に人形をパルテ川に投げ込む」“死の追い出し”行事を行った
 ⇒これによって娼婦たちは「同市の女性を多産にし、ペストなどの伝染病から市を守った」とされた
 I.新たな支配者が自分の領地を馬で巡察する(神聖ローマ帝国の慣例となっていた:11世紀~)時には、娼婦たちが登場した
〈例〉ブライザッハ(1475年)では、この年の聖ヨハネ祭に多くの領主層・放蕩者・娼婦がやって来たという
 J.聖ヨハネ祭(夏至のお祭り)では、各地で大昔から「様々な悪霊を追い払おう」という儀式がなされた[※下記例では娘が裸になるという儀式が多いが、これも娼婦の役割だったのだろうか?]
〈例1〉ザールフェルト
 若い娘たちが聖ヨハネ祭の宵宮に「亜麻の回りを踊り、服を脱いで裸になると亜麻の中を転げ回った」という
〈例2〉エストニアのある地域
 聖ヨハネ祭の晩に「火を燃やした瓦礫の山の回り」を『子を産めない女性』たちが服を脱いで踊った
〈例3〉ドイツ各地の習俗
 この日の夜に「裸になって穀物畑に行き、4隅から穀物の茎を何本か刈り取る」→「これで十字架を作って煙突にぶら下げる」という行事がある。これによって「来るべき時期に穀物が鳥から守られる」という
〈例4〉レオープシュッツ
 聖ヨハネ祭の宵宮に「聖ヨハネが天から下る」と言われ、そして「この聖者のために摘んだ花束に祝福を与えれば、そのおかげで家屋敷でのあらゆる災い除けになる」という(この花束は聖ヨハネ祭の祝日の昼時に摘まなくてはならない)。この“聖ヨハネの花束”には治癒力&魔力がある、とされた

【競技と娼婦】
 K.「軽装の娼婦たちによる競争」が行われた記録は多い。これも「災いを追い払う」という願いを込めてのものだった可能性が高い[※決して「娼婦が社会に組み込まれている」ことの証明ではなく、呪術として行われるのであれば、彼女たちのアウトサイダー性の証明である]
〈娼婦の競争の例〉
 古代ローマのフローラ祭の期間中,ペリグー(13世紀),ベルヌやアルルの聖バルトロメウス(8月24日)祭,アウクスブルクのクロスボウ射撃大会(1509年)
 ★後にはこの種の競争は、公娼が参加せぜに行われた。そこでは「独身の百姓たちが男女の区別なく。裸になったり下品な冗談を飛ばしたりした」ので、見物人がひどく怒ったらしい(1757年の証言)。この後には禁止されはしなかったものの、それまでよりも大人しく行われた
〈オーストリアの“布競争”〉
 ここでは若い娘も参加し、勝利者には懸賞として美しく布が与えられた(娘たちが肌着まで脱ぐのは禁じられた:1534年)が、ここでも「豊饒と健康を脅かす敵を追い払う」のが問題だった
 L.しかしイタリアでは「敵の軍隊に対する勝利」が主題となった
〈例〉ペルージャ
 10年に亘るアレッツォ包囲が失敗に終わった後「胸をさらけ出した娼婦たちに、敵の町の門前で競争を行わせた」
 さらにフィレンツェの市壁前でも彼らは同じことを繰り返した(1363年)。ここでも、勝利を収めた女性には“Palio”という布を与えられ、後にはこれが競技そのものの名称となった


(13)娼婦と社会との関係

 A.娼婦は祭りなどの限られた特別な場面において、社会と接触した。しかしそれは「魔術的な理由」によるものであり、特別な理由なく彼女たちと接触するのは「その人たちを“不名誉”とし、名声を汚す行為」であった
 B.娼婦たちに対して人々は、一見すると親しげな・時には親しみを込めたような呼び方をする。しかしこれは「本来の名称を口にするのを憚った」故であり、そこに嘲笑が込められていた
〈例〉“美女”“公の美女”“恋しい女性たち”“楽しい娘たち”“友情ある女性”“良い婦人たち”“人のいい婦人たち”
 ☆同様に、娼家のことを“外套を着た神の家”“大修道院”“赤い修道院”とよんだ。また娼家のおかみには“軽薄な女の大修道院長”“女王”と蔑称を与えた
 C.女乞食たち(※たぶんもぐりの娼婦を含んでいる)に対してはもっと酷かった。彼女たちのたむろしている小路は“まともな男はほとんどその小路を通って歩けず、女乞食どもが彼に襲いかかり、彼から何とかお金を貰おうとする”(バーゼル郊外)ような状態だった
〈呼び名の例〉
 “危険な娘”“悪しき暮らしの女”“形の崩れた靴”“身体を非難され中傷された女”“とても低い政府の女性”“罪と低い名声の女性”“救い無き女性”

【微妙な形容】
 D.“売女”は「女性を傷つける最悪の語」の1つであり、口にすると罰せられた(罰金20ソリドゥス:ランゴバルト法)。他にも「互いに“性悪の娼婦!”“坊主の娼婦!”と罵り合った2人の婦人が、ともに都市追放を喰らった」(コッヘル河畔のヴェストハイム)というのだから、一般人が悪口に使うのすらもっての他だった。公娼同士の間でも、悪口によって罰せられた
〈例〉相手が窃盗を働いたのか明らかでないのに、公娼が仲間を“たちの悪い娼婦”と罵ったら罰せられた(14世紀中頃)
 E.高級娼婦とは「貴族専用娼婦」のことで、大勢の普通の娼婦と区別されていた。イタリアでは後者を“蝋燭の娼婦”“明かりの娼婦”と呼び(接客時間を蝋燭で測るから)、前者は“正直な娼婦”“名誉ある娼婦”と呼ばれた

【娼婦が許容される時:謝肉祭】
 F.A.の「限られた時」の最たるものが、謝肉祭だった。そこでは「ある程度の礼儀作法の規範(※)を守っていれば『普段は禁じられていること』を言ったり行ったりすること」が、許されたのだった
〈例〉ゲッティンゲン(中世後期)
 娼婦は普段、呑み屋にさえ足を踏み入れるのを禁じられていたが、阿呆となる日々の最後の3日間は「謝肉祭の打ち上げ」に市庁舎で踊ることが許されていた
 ※性に関連する言葉を口にする際に、ダイレクトな表現を使ってはいけない、という規範は存在したらしい(『謝肉祭劇の世界』から)
『秘めごとの文化史』(H・P・デュル)から[6]


○中世の売春に関して(その4)


(7)娼婦の社会的地位

【結婚からの排除】
 A.世間一般の関心は「娼婦たちが結婚によって罪のない生活に戻ること」だったはずなのだが、実際には彼女たちと結婚する気になる者はたいへん稀な存在だった。教会は「そうした行いを為す男性には罪を全て赦す」とまで約束して後押しした(教皇インノケンティウス3世:1198年)にもかかわらず、娼婦を妻に持つことに組合はたいていは批判的だったし、組合員も同じ反応だったようだ
〈例1〉パリの肉屋ギルド(1381年)
 親方・組合員の許可なく、堕落した娼婦の世話をする肉屋は、永久に肉屋業界から除名される。ただしその者は「プチ・ポンの肉屋の屋台(セーヌ川に架かる橋の上にある)を手にすることはできる」
〈例2〉中部ライン地域(中世後期)
 帽子屋とズボンかがり職人の団体は「仲間の職人が獄卒の娘・元娼婦と結婚する」のをはっきりと禁止した
 ★この地域では職人運動が盛んで、職人団体が都市を超えて地域レベルで連携しており、禁止事項も地域で行われた
〈例3〉ダンツィヒ
 公娼を妻にした者は「相続権を奪われる」こともあったが、後には「相続財産の取り上げ」となった。最古の条例では“娼婦と結婚した市民の息子は、妻とともにこの町の住まいを永久に失う”とされていた
〈例4〉ニュルンベルク
 この町にはツンフトは無く(14世紀半ば~)、娼婦との結婚はしばしば行われたが、市民権は失わなかった。ただしそうした人々が、生涯にわたり汚名を着せられた可能性はかなり存在する
 ☆娼婦と関係した車大工を、かつてあるツンフトが好意から喜んで受け入れたのに、他の職人仲間が彼を敬遠した、という話も伝わっている
 ★ニュルンベルクは豪商の家門同士による寡占支配体制が確立され、職人は完全にその支配下にあった

【拭えない烙印】
 B.こういった状況だったので、娼婦との結婚の承認はほとんど与えられなかった。もし与えられたとしても、そうした女性は生涯いつまでも「元娼婦」の烙印を押されたのだった
〈例〉ハンブルク
 元娼婦たちは“上辺を装い他の立派なご婦人方のように出歩こうとしてはならない”“立派なご婦人のように装飾品を着けて出歩いてはならない”とされた

【娼婦の組合】
 C.少なくとも中世盛期には、パリの娼婦たちは組織化されていた。この都市には“娼婦の王”がいた(~15世紀中頃)が、これは「娼家規約を守るように監視していた下っ端役人」である
 D.彼女たち「姉妹団」の社会的地位はやはり低かったのは、2つのエピソードから理解できる。「a.建設中のノートルダム大聖堂のステンドグラスを、娼婦たちは奉納しようとし。しかし司教は“その金は臭くない”と言い切る決心すら付かなかった(12世紀末)」。後に娼婦たちは「b.“土曜日毎の夕べの礼拝”にロウソクを献納するのは許されたが、ロウソクを自分たちの手で祭壇に捧げるのは禁止されていた」


(8)娼婦の生活

【娼家の営業】
 A.娼家への訪問者は普通、そこで酔っ払って大盤振る舞いなどせずに、さっさと欲望を処理して大人しく立ち去った
〈例〉娼家の客の持ち時間は最大30分間で、ロウソクで計った(ディジョン)。イタリアでは娼婦を“ロウソク娘”とも呼んだ
 B.これとは反対に、娼婦の側からよく「下記b.のような男を一晩中を自分の元に引き止めた」。この場合には「“娘たちの家”の女は誰でも、娼家の主に1クロイツァー支払わねばならなかった(ウルム)」のは、宿賃のようなものだろう
 ☆一晩中泊まるのは「a.治安維持のために、夜中に男を外に出さないよう命じられていた」か「b.娼婦の一種の常連客で、ヒモか友人だった」と考えられる
 C.しかし「15歳以下の少年は、娼家の主によって娼家から鞭で叩き出すべし」(ウルム,ディジョンなど)という命令が出ていたということは、そうした年齢の若者が娼家に行くという風潮もあったようだ。若者たちの初めての相手が娼婦だった、というのは少なくないようだ(例:ケルンの商人へルマン・ワインスベルク)

【汚れとして隔離される】
 D.中世後期には、都市の当局は公娼たちを「必要悪」と見なして許容していただけなので、なるべく彼女たちを公的生活の舞台裏に押しやろうと努力した
〈例〉フィレンツェ(1415年)
 当局の者たちは“そうしたスキャンダラスな仕事をもっと上手く隠しおおせる”地域へと押しやろうとしていた。しかし一方で、娼家を2軒新設した
 ☆娼婦たちがあまり評判のよくない隠れた場所から、まともな婦人・娘たちの目に入る所へ現れると、晒し柱に繋がれてさんざんに鞭で叩かれた」
 ☆街頭に立つもぐりの娼婦だけでなく、正式な公娼すらも“軽蔑される屑”に数えられた
 E.中世後期の都市では、家族の一員が娼婦だと知られるのは、家族にとって耐え難い屈辱だった。そうしたことから、地元の女性が娼婦になるのは大変稀なことであり、その裏返しとして「多くの地域で娼婦は主に外国出身者」だった
〈例1〉ロンドン
 サザークの“スチュー・サイド”には、フランドル・オランダ・ブラバンド出身の娼婦が大勢いたので、英語では“フラマン女”が“売春女”の同義語となったほど。さらに『娼家規約』では「当市の女性はいかなる施設でも売春してはならない」と強調されている
〈例2〉ディジョン(中世後期)
 146名の娼婦のうち少なくとも38名が同市出身者だったが、これはあくまで例外である。彼女たちの大半は「集団暴行の犠牲者となったことよって名誉を失い、この職にに就かざるを得なかった」と考えられる
 F.立派な女性が娼婦と出会わないようにするため、浴場でも配慮がなされた。「a.娼婦に(ユダヤ人一般と同じく)専用の浴場を設置した(例:ウルム)」or「b.女性浴場を特別に娼婦への貸切にした(例:マルセイユ〔13世紀〕)」
 ☆もし浴場の主人が一度でも娼婦を、女性浴場に一緒に入れたとすれば「それ以降は他の女性が寄り付かなくなる」だけでなく、主人は裁判にもかけられた
 ☆ちなみに、娼婦たちは時には路地でスカートをたくし上げて、身分の立派な女性たちを驚かせようとすらした
 G.(ユダヤ人と同じように)娼婦も「市場でパン・果物に触れるのを禁じられ、一度でも触れたら買い取りを求められた(アヴィニョン:1243年)」。この扱いは普通は「郊外の施療院に住むハンセン病患者にしか適用されなかった」のだ
 ☆死刑執行人・獄吏のことを“名誉が悪臭を発する者”と呼んだリューベックにおいては、彼らは市場で何一つ触れてはならなかった
 H.中には「大火が町を焼き尽くそうとしている時でも、娼婦には消火作業に参加することさえ許されなかった」事例すらある(クラカウ)

【証人能力の欠如】
 I.娼婦と娼家の主・おかみは、証人として出廷できなかった。彼らは“法により名誉を奪われた者”なので「判決を受けた者,偽誓者,人殺し,踊り・大道芸人の監視人」と並んで扱われた(シュリーンゲン村規則)

【聖なる空間からの拒絶】
 J.娼婦がミサへ行くにも(上記のように)制限が加えられた。「放浪詩人とともに、聖体の秘蹟から閉め出すよう命じられた」(リエージュ:1287年,ケルン:近世初期)というのもある
 K.埋葬にも制限があり、聖別された土地への埋葬は拒否された。そこで「ベアリッヒの娼婦(ケルン)には裏庭に専用墓地があった」(近世初期)。埋葬場所には「皮剥ぎ場(フランクフルト),肥やしの下(教皇の命令),絞首台の下(アウクスブルク)」などもあった
 ★ちなみに自殺者については、伝統的に「wasen(泥炭土or沼沢土)で、wasenの親方(刑吏と同一人物の場合も少なくない)によって埋められた」という。埋葬場所が隔離されている点で娼婦と同じである
 L.絞首台の下に埋葬されるという扱いは「絞首刑に処せられた性犯罪者」と同じだった。また「繰り返し娼婦と暮らした聖職者たちを、塔に吊した木製の籠の中で餓死させ、刑吏の助手が罪人たちの屍を絞首台の下に埋めた」事例もある


(9)“不名誉な”者同士で

 A.娼婦は死刑執行人or獄吏(こちらも不名誉な人々とされた)の管轄下にあった。そして公娼は「誰もやりたがらない、あらゆる不名誉な汚い仕事」へ、刑吏によって駆り出された
 B.その刑吏たちの任務が「便所を掃除する,ハンセン病患者を町から追い出す,娼婦たちを監督する(アウクスブルク)」「捨てられた家畜・家の中から排出すべき家畜や、ニシンや魚の内臓を、決まった川に運び出す(コルマール)」だった
 C.“愛の生活の王”と呼ばれた獄吏による管轄の場合(ボルドー)、彼らは「罪人を鉄枷で繋ぐこと,公安を害する狂人を町から鞭で追い払うこと」を主任務としていた。管轄する死刑執行人を“娼婦の王”と呼んだ場所もある(例:アミアン)
 D.娼婦たちは都市参事会に支払う税金を監督者(死刑執行人や刑吏)にも渡すが、彼らのいわば「監督報酬」は、その中から支払われた。監督者はその他に「賭事からの上がり」があったが、当局から報酬をもって雇われるようになるのは後になってからだった
〈ベルンの場合〉
 死刑執行人の官舎の隣に市営娼家があり、その妻が管理していた。おまけ刑吏の家の中&前において、賭事が行われていた。そこは「隣にある娼家のためのバー」だったらしい
〈刑吏による公娼経営〉
 ボーツェンの刑吏コンラート親方は、古い娼家が家事で焼け落ちたので「新しい娼家の賃貸を引き受けるか、自宅で娼家を営む」と申し出た(1484年)
〈死刑執行人者がもぐりの経営者に〉
 ハル市の刑吏クリストフ・トリンガーは、女房に逃げられた後に様々な“自堕落女”たちに囲まれて私娼宿を開いた(1579年)が、この件が評判になって刑吏の職を解雇された。この時期には娼家がほとんど解体されていたのがポイントである

【決定的な扱いの低さ】
 E.死刑執行人はたいへんな軽蔑を受けていた(例:死刑判決を下された罪人が「処刑か、死刑執行人になるか?」を選択できたほどだった)が、その視線は「死刑執行人の家族,配下の娼婦」にまで及び「彼らは目印として、黄色の布切れを胸の上に付けさせられた(例:アルテンブルク〔1438年〕)」
 ☆「死刑執行のために刑吏が他都市に出向いた」場合にも、普通の家には泊めてもらえない(泊めた人の名誉が失われるから)ので、その町の娼家に泊まった
 F.娼婦と共に過ごしている小悪党どもも下記G.に引っかかった。“取り持ち男”と書かれているが、その実態は様々で「ヒモ,札付きの賭博師,いかさま賭博師,フランソワ・ヴィヨンのような者」のことを指す。彼らは「目の白い、黒のサイコロを3つ縫い込んだ黄色の球帽を被る」ように宣告されたこともある(バーゼル)
 G.娼婦・売春宿の主が、厚かましくも立派な市民に対して何かをしでかせば、一定の範囲での私的制裁権が認められていた
〈例1〉ランツフート(1335年)
 「市民orその下男」が「市の獄吏,旅芸人(語り手でも歌い手でも),乞食坊主,娼婦など」に対して暴行をしても、被害者は市や裁判所から一切の償いを求められなかった。乞食坊主とは「落ちぶれた元聖職者が大道芸人となったもので“長髪の乞食坊主”などとも書かれている」連中
〈例2〉シュヴェーリン(12世紀)
 娼婦など“不名誉な者”から侮蔑された市民は「その者に平手打ちを喰らわせること」が認められていた
 H.ただし娼婦については、特に市営娼家の娼婦は保護下に置かれるようにもなる
〈例〉ウィーン
 王ルドルフ1世から授かった市民権(1278年)では同市の娼婦は掟の外にあった。しかし後に大公アルブレヒト2世から授かった市民権(1340年)の特権においては「娼婦を法の絆によって拘束はしないが、彼女たちを苦しめる者には、裁判官が市参事会の助言に従って罰すること」と定められていた