『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[8]


○赤毛の男-中世におけるユダの図像学-


(1)裏切りの赤褐色

 A.全ての裏切り者と同じく、ユダは次第に人々の間で赤毛だと伝えられるようになっていく。まずはカロリング時代末の図像から始まり、やがては文字に「赤毛だった」記されるようになる(12世紀~)
 B.西欧では裏切りには「赤と黄の中間」が当てられた。このような色になったのは「赤のネガティブな部分」と「黄のネガティブな部分」を重ね持たせるためであり、これによって「悪魔,狐,偽善,嘘,裏切り」を象徴した
 C.ただし橙色ではなく実際にはそれを暗くして彩度を高めた色=「赤褐色」だった。赤褐色の特徴は「常に赤が黄色に勝っていて、朱色のようには輝かない」「艶のない沈んだ色調で、光で照らすことがなくても燃えている“地獄の炎”を連想させる」ものだった


(2)様々なユダ

 A.ユダの外見については正典・外典を通じて一切記されていない。そのため初期キリスト教と中世初期美術では、特定の徴などで性格づけされてはいない(例外は『最後の晩餐』での表現)

【ユダの徴】
 B.シャルル禿頭王の時代に初めて「赤毛」というイメージが登場し(9世紀後半)ユダの徴の中で最も用いられた(13世紀~)。様々な徴がユダに与えられ、芸術家たちはその中から(自分の芸術に)必要なものを自由に選べぶのだが、唯一ほとんど常に存在したのが「赤毛の髪」だった(13世紀半ば~)
〈ユダの数々の徴〉
 短躯,狭い額,動物めいて引きつった顔つき,黒っぽい皮膚,鉤鼻,分厚い口,黒い唇(告発の接吻のため),光輪の欠如(or黒色の光輪),黄色の衣,だらしのない動作,いわくありげな動作,盗んだ魚or30ドニエの入った財布を持つ手,口に入ろうとする悪魔(orヒキガエル),傍らにいる犬,など

【赤毛で表示される者たち】
 C.中世末期の美術では、しばしば赤毛によって示された「名高い逆臣,裏切り者,反逆者」者たちがいた。あるいは類型的な人物に(時には)赤毛の特徴を与えた。後者の場合には赤毛であることはあまり無いが、中世の人々が見れば一発で判別できるようになっている
〈個人〉
 「a.カイン:アダムとイヴの次男で兄アベルを殺す,一部ではユダを予告する人物とされる」「b.デリラ:イスラエルの英雄サムソンを裏切ってペリシテ人に売り渡す」「c.サウル:イスラエル初代の王でダヴィデを妬む」「d.ガヌロン:『ロランの歌』の主人公ロランの義父,復讐心と嫉妬からロランとその仲間たちを躊躇いなく殺戮の場に送り込む」「e.モードレッド:アーサー王の近親相姦による息子で父を裏切り、ログル王国の崩壊を引き起こす」など
〈類型化された人物〉
 叙事詩・宮廷風騎士道物語において「f.反逆する領主たち,主君の座を狙う重臣・司法官・代官,父に反逆する息子,誓いに背く兄弟,簒奪者である叔父,不貞をはたらく妻」。聖人伝・社会伝承において「g.破廉恥で不法な行為に走り、既成秩序を破ろうとする者たち全て:死刑執行人,売春婦,高利貸し,両替商,偽金作り,軽業師,道化」。口承・伝承で貶められる「h.鍛冶屋,粉屋,肉屋」
〈社会的カテゴリー〉
 中世社会で排斥される者「i.異端者,ユダヤ人,イスラム教徒,ジプシー,賤民(カゴ:一種の流民),ハンセン病患者,障害者,自殺者,乞食,浮浪者,貧者,あらゆる種類の落伍者」も対象とされた
 D.社会的カテゴリーの人々の場合、図像の中の赤毛色が「赤or黄の服飾に付ける標識・記章」と合体し、幾つかの都市では実際に身につけなければならなくなる(13世紀~)


(3)「不名誉の赤」の継承

【聖書の赤:やはりマイナス】
 A.聖書の中では、実はカインもユダも赤毛ではないのだが、しかし他にマイナスのイメージを持つ人物が何人か登場する(上記のサウルがその1人)。ところが一方でダヴィデが例外的存在として“赤毛で、澄んだ目をして、立派な風采だった”と描かれている
 ☆これは「価値の秩序の侵犯」という方法で、あらゆる象徴のシステムに用いられている。象徴システムを機能させるためには「例外が存在しなければならない」のだという(例:「赤毛のキリスト」が逮捕と接吻の場面によく登場する)

【ギリシア・ローマの赤:これも負】
 B.ギリシア神話ではテューポーン(神or怪物:あらゆる怪物の王)[※→台風]は赤毛とされる。ローマの演劇で「赤毛の髪,仮面に着けた赤毛の羽根」は奴隷or道化を意味した
 C.またローマでは、ラテン語の“rufus(赤っぽい,赤毛の)”という渾名にはしばしば嘲りのニュアンスが込められ、ごく普通に罵りの言葉だった
 ☆中世を通じて修道院の内外では“rufus”“subrufus”というように互いに呼び合っていた

【ゲルマン=スカンディナヴィアも同じ】
 D.赤毛の人が比較的多いにもかかわらず事情は同じである。「雷神トール:最も暴力的で最も怖がられる」「ロキ:火の魔神,破壊と悪行の精,最も恐ろしい怪物たちの父」はどちらも赤毛だった

【キリスト教中世】
 E.古典古代の赤のマイナスイメージ=「残忍,血なまぐさい,醜悪,劣っている,滑稽」を継承したのだが、中世が進むにつれてとりわけ「偽物,奸智,虚言,欺瞞,不誠実,背信,変節」の意味を持つようになっていった。しかもそのイメージの広がりは相当なものであり、ここかしこで一種の不可触民とされていた
〈諺・迷信の例〉
 「赤毛の者には信頼は存在しない」(14~16世紀),赤毛を「友にするのは避けなければならない」「親類として迎えてはならない」「聖職・王位につけたりしてはならない」,「道で赤毛の男にすれ違うのは悪い前兆である」「赤毛色の髪の女性は多かれ少なかれ魔女である」(どちらも中世末~)
〈価値の秩序の侵犯例(=赤毛の例外)〉
 幾つかあるが、代表はフリードリヒ1世赤髭王。死後には終末論的な伝説上の人物にまでなっていた

【なぜここまで排斥されたのか?】
 F.あらゆる社会(上記3つ以外にもケルト社会・スカンディナヴィア社会も含めて)では、赤毛の人物とは「他の人々と外見的に異なる者,少数派に属する者」→「安定を乱す,不安を醸し出す,人々を顰蹙させる者」と思われた。社会の平均的な人々からすれば、赤毛の人物は「よそ者=排除される者」だったのだ


(4)中世における色の正/負のイメージ

【赤色】
 A.あらゆる色は良い方/悪い方に捉えられる。赤は中世までは長い間「色の筆頭格,代表的な色」だった。しかし早くも中世後期のある紋章論には“あらゆる色のうちで最も醜い色”と言明されていた
 B.中世での「悪い赤」とは「(キリスト教論と結びついた)白の反対色,直接悪魔&地獄と結びつく色」=「地獄の業火と悪魔の顔の色」だった。暗闇の帝王だった(~12世紀)はずの悪魔は、次第に「赤の面相,赤みがかった体毛を持つ」ことが多くなっていったのだ
 ⇒拡大解釈がなされ、顔・毛が赤色のモノ・ヒトは大かれ少なかれ「悪魔的」と見なされるようになる。赤色で標章される事物には地獄の世界との関わりが与えられた
〈例〉アーサー王物語(12・13世紀)
 この時期のバージョンには、数多くの真紅の騎士(服・装備・楯の全てが赤)が登場し、主人公の行く手を阻もうとする

【地名・渾名の赤】
 C.地名の構成要素に“rouge(赤)”が入っている場所は「危険という評判」の場所を指す場合が多い(特に文学・想像上の地名には)
 D.“赤”“赤毛”という渾名は「赤毛or赤ら顔を示す」「赤色の『不名誉な記号』としての服を身に着けた職業(死刑執行人,肉屋,売春婦)を連想させがち」。また文学上の人名のパターンとして、その名を持つ者の「血なまぐさい,残忍で悪魔的な性格」を強調する

【黄色】
 E.ユダが赤だけでなく、図像表現では衣服を黄色で表現されるようになる(12世紀末~)。黄色の価値下落が始まる(13世紀~)と「偽りの色,虚言の色」とされ、やがてユダヤ人とシナゴーグの色になった
 ☆実はこの間でも、ローマでは「聖なる色」として宗教儀礼で重要な役割を果たしていたのだが……やがて見捨てられていったという
 F.キリスト教関連の版画において、黄色がユダヤ人に繰り返し用いられるようになる(1220~50年より後)。こうして想像世界では、ユダヤ人=「黄色の服を着ている」or「衣服のどこかに黄色のもの(長衣,マント,ベルト,袖,手袋,脚衣,特に帽子)をつけている」となる
 ⇒やがて想像から現実化していく。ラングドック地方・カスティーリヤ地方・北イタリア地方・ライン河畔地方の諸都市にて、服装規定として「識別可能な記号の着用」をユダヤ人に対して強制した

【ユダヤ人服装規定の現実】
 G.実際には(これまで一部で言われてきたのとは異なり)「キリスト教世界全体で共通のシステム」なるものは存在しなかった。ある国・ある地方全体で反復されていた習慣すら、中世盛期の段階では存在しなかったという
 H.黄色は確かに一番多くなった(中世後期)のだが、長い間にわたって諸都市当局・諸王権が使っていたのは、主に「赤・白・緑・黒の単色」だった。あるいは「黄/赤,黄/緑,赤/白,白/黒などの2色に、縦二等分・横二等分・四等分にしたもの」の場合もある。色の組み合わせは数が多かった(~16世紀)
 I.印の形は様々であり「輪形(いちばん多い),小環,星形,律法の石盤形」など。また「スカーフ,ボンネット,十字架」の場合もある。または服に縫い付ける記章の場合でも「肩,胸,背中,被り物やボンネットの上,何ヶ所か」など様々だった(一般化は不可能)
〈例〉フランス王国(1269年)
 フェルトorラシャの黄色の輪形を、衣服の胸と背の辺りに縫い付ける。輪の直径は指4本で、掌を包み込むのに十分な面積を持つようにする。この記章を付けないユダヤ人が発見された場合には、そのユダヤ人は罰として衣服の上半分を奪われ、発見者のものとなる

【金の過剰使用の裏返し】
 J.黄色が中世後期に悪しき色となっていった背後には「芸術創造のあらゆる分野,標章・象徴のシステムのかなり」において、金&金箔が節度なしに使われた現実があった。色彩の明度・濃さを最高に表現する金色は、中世の感受性の象徴である
 ⇒金色は少しずつ「良い黄色」となり、その裏返しとして他の黄色は貶められる
〈例〉赤みがかった黄色(ユダの赤毛),緑がかった黄色(今日の「レモン・イエロー」)

【黄色/緑色は混乱と狂気の象徴】
 K.中世の色彩分類では「黄と緑の組み合わせ(or取り合わせ)は、決して隣り合わない2色」だから、それが隣り合い組み合うと、中世の人々の目には「どこか攻撃的で、乱れていて、不安を感じさせる」「混乱,狂気,感覚と精神の乱れ」に映るのだった
 ⇒「黄色と緑色の組み合わせ」を用いるのは「宮廷の道化役の衣裳,『詩篇』に登場する狂人の服,ユダの衣服」に使われた

【斑点は嫌い!】
 L.赤毛であることには、もう1つ「肌にそばかすがある」=「斑点がある」とこでもある。これを「不純である種の動物性を帯びるもの」として、中世の人々の感受性は斑点のあるものを怖れていた
 ☆反対に「美しいもの=純粋なもの」「純粋なもの=単色」だった(だから金色を好んだ)
 M.中世の人々にとって「縞模様は常に価値を落とす要素」である(その極限でる市松模様も含めて)。そして皮膚病が蔓延し深刻なものとして怖れられた時代にあっては「斑点は特に不安を呼び起こした」のだった
 ☆中世の人々には「斑はつねに謎めいている,不純で人を賤しくする」ものとして受け取られていた
 N.上記L.の「赤+動物性」の組み合わせは最悪だった。赤だけでも不純なのに(赤毛=偽善的な狐,淫乱なリスの毛)、斑が持つ動物性(豹,ドラゴン,虎のような残忍きわまる)を持つ
 ⇒「赤毛=人を欺く悪徳漢+豹のように獰猛で血に飢えている」として、民間伝承・口承文学では“人喰い鬼”という噂が立つのだった(~18世紀)
 ★中世ではリスは“森の猿”と言われ「怠惰,淫乱,愚昧,貪欲」という性質が通り相場だった。中世の知識人に言わせれば「ほとんどの時間を睡眠・同類とのいちゃつき・遊戯・木々の梢での異性との戯れに費やす」「必要以上の食糧を貯め込むという深刻な罪を犯す」「使った隠し場所を思い出せないという愚かしさの印を見せる」 ⇒リスの赤毛の毛並みは、このような悪しき本性の外的記号だったのだ


(5)中世の「左」

 A.中世末期の宗教的な図像は、描かれた特定の人物のイメージを表す標章・目印をしっかりと管理していた(それが見る人に誤ったイメージを植え付けてしまうことを恐れたため)。「裏切り者は絶対に裏切り者として読み取られなければならない」
 ⇒あるイメージを表す要素を、間違いが起こらないように図像の中にジャンジャン詰め込んでいった

【ユダの場合】
 B.読み間違いが起こらないようにするためには「赤毛の髪+動物じみた顔つき+犯罪的な面構え」では足りないとして、2ーBのリストにあるイメージがどんどん図像に追加されていく
 C.その中で繰り返し使われるようになっていったのが「左利き」という標章だった:「左手でドゥニエ銀貨30枚の入った財布を受け取る(そして返す)」「左手で盗んだ魚を背に隠す」「最後の晩餐では告発のひとくちを左手で口に運ぶ」「最期は左手で綱を掛けて首を吊る」

【左利きのマイナスイメージ】
 D.中世の図像表現において、全ての左利きの人物は様々な意味でマイナスの属性を持っている。これはどんなポジションの人物(例:前面に出てくる主役,三流の端役,不名誉で非難されるべき何らかの仕事を図像の端でしている,それを舞台の奥でしている)でも同じことであった
 E.左利きの登場人物の中には社会的排除・排斥の対象者(とりわけ肉屋,死刑執行人,軽業師,両替商,売春婦)もいる。しかし特に左利きが多いのは「非キリスト教徒サイド(異教徒,ユダヤ人,イスラム教徒)と悪魔サイド(サタン,悪魔による被造物)」だった
 ☆そこでは「君主・長が左手(=悪しき手,破滅をもたらす手)で指揮・命令している」「彼らの兵士・家来たちが左手で命令を遂行している」のだった
 F.多くの文化圏や、ギリシア=ローマでもゲルマンでも、それを受け継いだヨーロッパ文化圏でも、左手は貶められがちだった。特に聖書は「右手・右側・右の位置の優位を強調する」⇔「左側にあるもの全ての不人気・背徳を強調する」のだった
 ⇒左手はキリストの敵であり、あらゆる敵・裏切り者は左で悪をなした
『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[7]


(5)染物師の社会的地位の低さ

 A.染色に関係する工業化学の発展(18世紀~)までは、正確な色見本のような色を作り出すの不可能であり、正確な色合いを出せるのは偶然に左右された(たとえ赤・青でも。ただし茜染料で赤に染める場合は確率が高かった)
 ☆工業の発展は、色彩作りという仕事(魔術?)の神秘性を奪い、社会にとって色彩をコントロール可能なものとした

【謎めいた職人というイメージ】
 B.そこに至るまで、人々にとって染物師とは「謎めいた不気味な職人,騒々しい,喧嘩っ早い,訴訟好き,本心を見せない」という、怖れられた存在だった
 C.おまけに彼らは「危険な物質を扱う,空気を汚す,川の水を汚染させる,不潔,シミだらけの服を着ている,爪を伸ばして髪・顔も汚れている」のだから、外見までもが社会秩序から逸脱していた。頭から脚までシミだらけの姿は“地獄の桶から出てきた道化役者”を連想させたのだ
〈例〉『辞典』(13世紀初)
 “毛織物の染物師は、茜染料・キバナモクセイソウ・胡桃の木の樹皮で染める。だから爪に色がついていて、ある者は赤い爪・またある者は黄色・さらにある者は黒い爪だ。そのため美しいご婦人方は彼らを軽んじる。持っているお金で受け入れるなら別だが”

【毛織物商>染物師という地位】
 D.染物師の中には一財産を築き、財布をジャラジャラいわせている者もいた。それでも彼らは職人であり、商人階級からはバカにされ、そこには決して近づくことができない(中世のイデオロギーに於いては、その間の壁を越えられない)
 E.商人は(職人と違って)自分の手を使って働かないことによって、常に「百姓・職人・織工と一緒にされないよう」心を砕いていた。そんな所から、毛織物商の彼ら織工・染物師に対する侮蔑の念が生まれたのだった
 F.毛織物商と同じく、香辛料商・薬剤師に対しても染物師は従属していた。彼らは「染物師に薬種・着色剤を供給するから」だが、同じように画家・医師・料理人に対しても供給していた

【賤業とされた染物師】
 G.ヴェネツィアは「西欧の染色の首都,あらゆる材料・あらゆる知識の供給源」であり、例外として染物師が敬意を集めていた。彼らは職能団体として“大同業組合”を形成していた
 H.しかし他の都市では社会の位階の上位を得るのは難しく(例外はニュルンベルク:15世紀)、都市によっては染物師が「最も軽視されている職人階級」に属していたケースもある
〈例〉フィレンツェ
 彼らは政界・公職から排除され、同業組合を組織する権利を持たなかった。そして「カリマラ同業組合(毛織物商人ギルド)に従属し、そこから仕事をもらって染料・媒染剤の供給を受けていた」
 彼らの毛織物商・他の織物業者との対立は「チョンピ(毛梳職人)の乱:1378年」で噴出し、染物師・縮絨工・織工による同業組合が結成されるに至った(この要求はそれまで数十年間出されていた)。しかし革命は失敗し、この同業組合は廃止されてしまう(1382年)
 ★彼らの反乱はそれ以外にも、ラングドック(1381年)やノルマンディー・フランドル(1382年)の“青い爪”の反乱のように、いつも極端に激しい暴力を伴った
 I.このように差別されたことから、いくつかの都市では染物師は長い間「ユダヤ人職人の営為」とされた。そこでは職業差別による警戒心・侮蔑に、社会的・宗教的な周縁性が結びついていた
〈ユダヤ人の仕事とされた都市〉
 イタリア(サレルノ,ブリンディシ,トラニ),スペイン(セビーリャ,サラゴサ),ラングドックとプロヴァンス(モンペリエ,アヴィニョン)
 J.染物師の中でも、親方の下で働く一番身分が低い職人がいた。彼らは「槽を掃除する,腐った水を捨てる」係である

【女性蔑視の観念との関係】
 K.中世の男たちにとって「地上の楽園からの追放後、糸を紡ぐイヴのモデル」は強く心に訴えかけるものだった。そして中世社会は(多かれ少なかれ)女性蔑視の傾向があり、女性の中に「危険で劣った存在」を見てとっていた
[※男性の女性に対するこのような見方については『裸体と恥じらいの文化史』『秘めごとの文化史』に詳しいのですが、女性の生物学的機能に関する“神秘性への畏れ”が潜んでいるようです]
 L.そもそも「糸・布・衣服にまつわるあらゆる活動は本質的に女性的だ」という観念は昔から存在した。そして染色作業の分野には“女性だけが効果的な染物ができる。なぜなら女性は本質的に不純で、いささかなりとも魔法使い的な傾向があるから”という伝統があった(カロリング期~)
〈例〉アイルランドの司教である聖キアラン(6世紀)について後に書かれた伝記(760年頃)には「キアランが子供の頃、母親は布・服を染める時には必ず息子を家の外に出した。母の傍に息子がいると、染めは上手くいかなかったり失敗するものだった」とある
 ⇒「染め」「女性蔑視」「社会的差別」の結びつきによって、中世の染物師に対する賤業イメージが決定づけられた
[※もしかしたら聖書の「転落のエピソード」とその後のイヴの糸紡ぎは、古来から存在した観念と女性蔑視が結びつけられたことで生み出されたのだろうか?]

【不正と欺瞞の染物師?】
 M.染色作業は、当時の言葉が象徴していたイメージでは「胡散臭い作業,汚れ・汚物と関係したもの,不正・欺瞞に結びつくもの」とされていた
 N.染物師という職業に対する都市当局の規制は、きわめて細心の注意を払ったものとなっている。それほどまでこの職業には、不正・欺瞞のイメージがつきまとっていたようだ
「a.基本的な項目:仕事の組織化について,各種の染物師の養成課程の各段階について,休業日・労働時間,都市内の設置場所,職人と見習いの人数,見習い期間,組合幹部の資格,など」
「b.仕事の遂行に関する規制:用いる色・布地,許可された染料/禁止された染料,用いるべき媒染剤,利用される薬剤類それぞれの供給条件,他の同業組合との関係,隣の都市の染物師との関係」
 O.a.の規則は様々な繊維業に対して頻繁に存在するのだが、b.のような規則は他のどの職業よりも数が多く、拘束性が強い(事細かに仕事内容を縛っていた)。その背景には、染物師たちが「“絵の具で染める”ことで媒染を不十分なままにした,染料に高い薬剤を使う代わりに安いもので誤魔化した」といった不正を頻繁に行ってきたことがあった(特に染料の誤魔化し)
〈例〉赤色系:ケルメスの代わりに茜染料orオルシン(☆)を使う,青色系:大青の代わりに様々な漿果を使う,黄色系:キバナモクセイソウやサフランの代わりにエニシダを使う,黒色系:没食子の代わりに釜の煤・胡桃の木の根
 ☆オルシン(folium):材料はリトマスゴケで、これは岩の多い丘陵地帯に見られる地位類。オルシンからは得られる赤染色は「紫がかって美しい,通常の媒染剤(尿,酢)を使える,あまり安定しない」という特徴がある
 ★ちやみにヒマワリ(彩色挿絵師が使う)も時として同じラテン語foliumで呼ぶから、紛らわしいらしい
 P.染料に関する不正はあまりにも頻繁なので、多くの都市では「染物師が用いる染色用薬剤は、毛織物業者自らが供給する」措置が取られた。他の都市では、都市当局が「染料の品質を管理し、よい品質の毛織物には都市の印象を付した」のだった


(6)染物師によるイメージ向上戦略

 A.染物師は毛織物産業における自分たちの役割の重要さを知っていた。それゆえに彼らは、伝統・規制のせいで作り上げられたマイナスイメージを払拭しようと、自分たちの評価を高めようと努力していた

【守護聖人はイメージキャラ】
 B.染物師たちは(多くの場合は)「裕福であり強固に組織化されて組合に結集していた」ので、自分たちの守護聖人(聖マウリティヌス:中世では騎士と染物師の守護聖人を同時に努めていた)を表に出そうとした
 C.染物師たちは聖マウリティヌスを誇り「a.聖人の物語・絵を、ステンドグラスだけでなく(あらゆる種類の)興業・行列・紋章を媒体として知らしめる」努力をした。幾つもの都市で「b.染物職人の団体は楯形紋章に聖マウリティヌスの像をおさめた」「c.聖マウリティヌスの祝日(9月22日)を祝うため、染物師の親方は揃って休業した」
 ★染物師が聖マウリティヌスを選んだのは、聖人の「輝かしく、消えることのない黒い肌」のためである。これは彼がアフリカ出身というよりも(伝承ではコプト人だった)、彼の名がモール人(もちろん黒人)を連想させるからだったようだ

【色彩変化するキリスト】
 D.染物師たちは、キリストが神の栄光に包まれて出現した時に“顔は太陽のように輝き、服は雪(or光)のように白くなった”(マタイ17の2)という記述から「このようなキリストの色彩変化こそ、自分たちの活動を正当化するものだ」として、この“変容のキリスト”のイメージに庇護(守護)を求めるようになった
 ⇒彼らは「祭壇画を注文した」「ステンドグラスに変容したキリストの情景を描かせた」のだった(13世紀半ば~)

【染物師になったイエス】
 E.7・8歳になった「イエスがティベリアスの染物師のもとで徒弟奉公をし、そこの親方の前で(or群衆の前で)奇蹟を行う」というエピソード(※詳細は本書参照)が、正典外の幾つかの文書(外典福音書)で語られている。染物師たちはこのエピソードを描かせもした
『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[6]


○中世の染物師


(1)職人たち

【染物師vs織工】
 A.織物業は中世ヨーロッパで唯一の大規模な産業で、織物生産都市にはどこでも「染物師の数は多く、強力に組織化されていた」。彼らは「ラシャ製造業者,織工,皮なめし工」をはじめ他の職能団体との衝突が多かった
 B.極端な分業化とそれを規制によって厳格に守らせたことによって「染色作業は染物師が独占していた」はずだった
 ★ところが織工は「ほとんどが染色をする権利を持たない」にもかかわらず、それを行っていた。そのため訴訟・係争がよく起こった

【染色対象の重複:織工との対立】
 C.中世の染物師は、ほとんど常に「織った布地を染めていた」一方で、繊維(絹を除く)・羊毛の房は滅多に染めなかった
 D.ところで織工は「新しく流行し始めた色,これまで染物師がほとんど(or全く)使っていなかった染料を用いた色」に、毛の布を染めることが、時として認められた。これは都市当局や領主権を持つ者から、特別に権利を与えられたのが根拠だった(=染物師の既得権の迂回)
〈例〉パリ(1230年頃)
 王太后ブランシュ・ド・カスティーユは織工に対して「彼らの仕事場2ヶ所で、大青のみを使って青染めを行う」のを許可した。これは顧客サイドからの要望に応えるためだったらしい
 ☆この事例はちょうど、人々の間で青の人気が沸騰する頃にあたる

【水の利用:皮なめし工との対立】
 E.皮なめし工は、動物の死体を使って仕事をするために、人々から疑わしげな目で見られていた。彼らは「皮を浸けるために綺麗な水が必要」だった
 F.ところが染物師が染料で川を汚染すると、皮なめし工はその下流では仕事ができない。もちろん反対に、皮なめし工がなめし作業で汚れた水を川に流すと、染物師はその下流では仕事ができない。そこで両者の間で衝突・訴訟が常に発生した
 ★パリの規則(1533年)では、毛皮業者・皮なめし工・染物師に対して「城壁内・城壁外地区の自宅での営業を禁止し、パリ下流方面の城壁外地区から少し離れた場所でのみ許可した」「羊毛を洗う際には、セーヌ川のテュイルリーより下流まで運ぶこととした」「なめし用の明礬溶液,染料の溶液,その他汚染物質の川への投棄を禁止した」。違反者に対しては、財産&商品没収と王国追放に処した

【色違いの染物師同士の対立】
 G.川の水の問題は、染物師の間でも激しく対立していた。そこで染色産業に関しては(毛織物生産都市の大多数で実施されたが)「布地の材料(羊毛・亜麻・木綿),色,色のグループ」によって厳しく区分されていた。認可を受けていなければ染色作業は禁じられた
〈羊毛の場合〉
 「赤専門の染物師ならば、青に染めることができない(逆も同じ)」「しかし青専門の染物師ならば、緑色系・黒色系の仕事を引き受けることができた」「赤専門の染物師は黄色を扱えた」
 H.実際もしどこかの都市で、赤専門の染物師が先に来てしまうと、川の水は強い赤みを帯びてしまうから、青専門の染物師はしばらくの間は水を使えない(→永久に諍いが繰り返され、数世紀にわたって恨みつらみが引き継がれる)

【都市当局の介入】
 I.時として「市当局が川の水を使うカレンダーを作って毎週これを変更して、各人が交替で綺麗な水を使えるようにする」試みもあった(例:ルーアン〔16世紀〕)
 J.ドイツ・イタリアの都市では「1つの色の中でも、染物師が使用権を持つ染料を1種類にして、染物師をさらに専門化させる」ことも推進された
〈例1〉ニュルンベルクとミラノ
 赤専門の染物師の中で「茜染料を使う者」「ケルメス・エンジムシを使う者」に区分した。両者は「課税方法,規制手法,技術,使用する媒染剤,顧客」の全てが異なる(14・15世紀)
 ★「茜染料:西欧ではふんだんに採れ、値段もほどほど」「ケルメス・エンジムシ:東欧or中東からの輸入に頼るので非常に高価となる」
〈例2〉マクデブルク,ニュルンベルク等
 赤系・青系について「並みの品質の染色を行う普通染物師」と「貴重な素材を用い、布の繊維に色素を深く染み込ませる技術を持つ高級染物師」を区別した


(2)混色の問題

【なぜ人々は染物師を忌み嫌ったのか】
 A.中世では染物業は「聖職者には禁じられた,善良な市民にはお勧めできない」職業だった。人々から疑わしげに見られ、多少なりとも排斥されてきたのは、中世の人々が「混合すること」を嫌悪していたからだった
 B.中世の人々は「混ぜること,かき回すこと,融合させること,アマルガム化すること」をしばしば“悪魔の所業”と見なした。職業上この操作を行う者(染物師,鍛冶屋,薬剤師,錬金術師)は、おしなべて人々の懸念・疑惑を呼び覚ました。これは「物質をごまかしていると感じられた」からであった

【混ぜない色作り】
 C.当人たちにも「混ぜること」には躊躇いがあった。染物師の場合だと、2色を混ぜて第三の色を作る時「並べたり重ねたりはするが、モロに混ぜることはしなかった」という
 D.中世では色作りのどんな処方集にも、塗料であれ染色であれ「緑を作るのに青と黄を混ぜるとは説明されていなかった!」(~15世紀)。緑色の色調は「緑の顔料or染料からとる」or「青or灰色の染料に、混合とは違う一定の処置を行う」といった別の仕方をした
 E.中世の人々の知識には「青と黄の中間は緑」というのはない。さらには染物師の仕事場に、青の桶と黄の桶が一緒に置かれていることは有り得ない(~16世紀)。だからそもそも「青+黄→緑」の操作は、忌避されているだけでなく現実的にも困難だった
 ★同じく紫色でも「大青+茜染料→紫」の操作は滅多にされないで「もっぱら大青に特殊な媒染剤を施して作る」。このため中世の紫は青みがかりがちだった

【媒染剤の問題】
 F.染色を行うにあたって、中世では媒染剤の作用の制約が強かった。媒染剤は「染色液槽に入れて羊毛から不純物を取り除き、染料を織物の繊維に深く浸透させる」のに使う
 ☆媒染剤なしでは「染色が不可能」or「長持ちしない」のだった(例外は藍精の豊富な青染めの場合)

【高価な媒染剤:明礬】
 G.中世で贅沢な毛織物を染色するには明礬が主に用いられた。これは「採掘で得られる塩で、自然状態ではアルミニウムとカリウムの二重硫酸塩として存在」し、中世では「水の純化(or清浄化),石膏の硬化,皮なめし,羊毛の脂抜き,(とりわけ)染色の色止め」に用いられた
 H.需要が高く、大規模な商取引の対象となっていた(13世紀~)。取引を一手に握っていたのがジェノヴァ商人だった
[生産地]エジプト,シリア,小アジア半島(特にフォチャ地方が最良の品を産出する)。ここから西欧に輸入していた
 I.しかしコンスタンティノープル陥落後には、西欧で調達しなければならなくなった。そこで「スペインの明礬鉱山,(次いで)ローマ北方の教皇領にあるトルファ鉱山」が開発された。教皇庁はこれで莫大な利益を上げた(16世紀)

【安価な媒染剤】
 J.もっと普通の染色には、しばしばより安価な薬剤=「酒石(葡萄酒の容器の底・樽の内壁に残る、塩を含む沈殿物),石灰,酢,人間の尿,木の灰(胡桃・栗)」を使った
 K.これらは「媒染剤ごとによく適合する染色法・織物繊維がある」「媒染の規模・処方によって色調が変化する」「茜染料(赤色系)やキバナモクセイソウ(黄色系)の染料は、強い媒染をしないと美しい色が得られない」など、条件は様々だった
 ☆他の色素は軽い媒染だけで澄むし、全く媒染剤無しでOKなものもある(例:大青,インディゴ)
 L.媒染剤の使用度によって規則は区分された(赤色染色/青色染色)。フランスではこの区分について「a.ブイヨンの染物師:最初の浴で媒染剤・染料・布をまとめて一緒に煮沸する」と「b.桶の染物師(or(大青の染物師):a.のような操作が必要なく、場合によっては加熱なしに染色する」という呼び方をしていた。そして上記のようにa.b.の兼任はできなかった


(3)染色の困難さ:白

【問題はあるが技術水準は高い】
 A.中世の染色技術は高いレベルに達していた(古代の染色は非常に長い間、赤に染めることしかできなかった)。そこでは「a.真の緋色の秘密は失われていた」が、数世紀にわたって「b.青・黄・黒の色階の染色技術は大きく進歩した(12世紀~)」。依然として「c.白・緑だけが微妙な問題を抱えていた」
[※染色技術の処方集は具体性に欠けている部分が存在し(例:量,割合,必要時間)、また記述が文学的過ぎる部分もあり、そのままでは絶対に作業できない。根幹部分の知識は口承伝達によったようだ]

【真っ白は困難】
 B.亜麻を除けば、真っ白に染めるのはほとんど不可能であり、なおかつ複雑な操作だった。中世では本物の白を身にまとうのは滅多になかった
 C.羊毛の場合は野原での「漂白:露,太陽光でたっぷりと酸素を含んだ水によって行われる」で生み出される自然の色合いに(多くの場合は)甘んじるしかなかった。しかしこれにも「緩慢で時間がかかる,場所が必要,冬場はダメ,本物の白は得られない(しばらくすると灰褐色・黄色などに戻る)」欠点がある
 D.植物(サポナイア)・灰・土・鉱物(マグネシア,白亜,鉛白)をベースにした灰汁を染色に使うと、白に「灰色がかった、緑っぽい、青みを帯びたツヤ」を与えてしまうので、白はあまり輝かなくなるという欠点がある

【白もどきで我慢するしかない】
 E.男女を問わず、何らかの理由で白を身につけなければならない者は「真っ白をまとう」「角から角まで白で装う」ことなど無理だった
〈例1〉フランスとイングランドの王妃は、白の喪服を着る習慣を取り入れた(13世紀末or14世紀初~)。しかしこれは理論上の話であり、無地の白は入手困難だから、王妃たちは「白を黒・灰色・紫色と組み合わせて『割る』」のだった
〈例2〉司祭・助祭は、聖務にあたっては白の着用を義務づけられる日があった(キリストの祝日,聖母マリアの祝日,公現節,万聖聖)。こうした日に「白と金を組み合わせた」
〈例3〉シトー会修道士は“白衣の修道士”と呼ばれたが、現実には決して本当に白くはなかった
 ★ベネディクトゥス会修道士=“黒衣の修道士”も同様。毛織物を「無地で純粋の、保ちのいい黒に染める」のはデリケートで費用がかかった(絹の方が簡単)
 ⇒両修道会士ともに、修道院・小修道院ではしばしば「茶色,灰色,青すらも着ていた」


(4)染色の困難さ:緑

【作るのも定着も難しい】
 A.布地・衣服の上では、緑の色調は「しばしば色が薄くなり、灰色じみてきて、光・洗濯に耐えきれない」。ヨーロッパでは深く浸透した・一様に鮮やかな・色褪せしない緑はなかなか作られなかった(~18世紀)
 B.緑に染めるために、同じ水槽内で青と黄の染料を混ぜるのは行われていなかった。色相においては白/赤の間のどこかに位置付けられ、時には白/赤の混合色として通用していた

【代わりの緑の作り方】
 C.最もありふれた緑の染色には、植物性の染料を使ったが、いずれも「濃くて安定した緑を出せない,色合いは長持ちせずに褪色する,ある種の繊維の上では消えてしまう場合がある」という欠点があった。そのためにも強い媒染が必要だったので、色の効果を損ないがちだった
 ☆緑は一般に「仕事着の色」として使われた。その場合には(普通の青と同じように)しばしば灰色じみて見えた
〈緑染色の材料〉
 草:羊歯・オオバコ,花:ジギタリス,小枝:金雀枝(エニシダ),葉:トネリコ・白樺,樹皮:榛の木
 D.時々、鉱物性の染色素材(硫酸銅,緑青,緑土〔緑砂などを原料とする緑色顔料〕)を用いることで、より品のある色調を得る場合もあった。しかしそのような素材は腐食しやすく均一な染めになりにくかった(おまけに危険)

【染物師による緑の探求】
 E.ニュルンベルク・エアフルト・テューリンゲン地方の諸都市を筆頭に、色々な仕事場の染物師がそれぞれ努力していた(15世紀末~)。そこでは布地を「1.まず大青(青)の槽に浸ける」→「2.次いでキバナモクセイソウ(黄)の槽に浸ける」ことで緑染めをし始めた
 F.この方法は青/黄の混合に少し近付いたもので、これを絵描きたちが少しずつ真似するようになり、色調における緑色の理解を「青と緑の中間」という位置へと近づけていく。しかしこれが画家たちの間で広く実践されるようになるまでは、長い時間がかかった
 G.職業に対する伝統の重みはたいへんなものであり、染物職人は1色のみ・1染色素材のみしか扱えなかった。だから、例え同じアトリエであっても「布地をまず青の槽に浸け、次に黄の槽に浸ける」操作は、不正するか実験的にするか(どっちにせよ規則違反)しか有り得なかった
 H.ただし逆の操作(黄色に染め損なった毛織物を青で染め直す)のは出来たらしいのだが、それでもこの操作を行うには別のアトリエに移らなければならない。このような試行錯誤を通じて、染物師は少しずつ緑の作り方を学んでいったようだ

【緑の困難さと人気の関係】
 I.美しくて保ちがよくて鮮やかな緑を作れなかったことは、青の色調が流行り始めた頃(12世紀~)に、この色が衣服であまりもてはやされなくなった理由のようだ(少なくとも社会の上層の間では)
 J.農民の間では、自生植物=「たいていの場所では羊歯・オオバコ・金雀枝,北ヨーロッパでは白樺の葉」と質の悪い媒染剤=「葡萄酒,尿」をベースにした「小染め」の染色手法が、経験に頼って行われていた
 K.このため農村では緑がよく用いられた(宮廷・都市よりも目につきやすかった)。ここでの緑は“陽気な緑(明るい)”“緑褐色(暗い)”、または「くすんだ、薄い、褪せた緑」だった。おまけに獣脂蝋燭やランプの光のために「灰色・黒色がかった」ので、だんだんと需要は減っていく
 ☆需要には地域差もあった(例:ドイツの染色はあまり保守的でなく、緑は頻繁に衣服に用いられた)
『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[5]


○白黒の世界の誕生


(1)教会における色彩の肯定/否定論争

 A.神学者・高位聖職者の色彩に対する見方(古代後期~中世末):「くだらないもの,時間・金銭を浪費させる不毛の物質,本質から目を逸らさせる人を欺く仮面」=“虚飾”
⇔反対に「明るさ,熱,太陽」だとして色彩を賛美する意見も数多くあった

【色彩を肯定する流れ】
 B.カロリング期には賛美するスタンスが支配的になる。そして第2ニカエア公会議(787年)以降、教会は色彩に満ち溢れるようになる。これは「カロリング期~オットー1世時代~ロマネスク時代」に深く浸透した。色彩愛好家の代表:サン=ドニ修道院長シュジェ

【強烈な否定派の登場】
 C.この流れに対して修道院の改革運動によって「贅沢・図像・色彩などは今の状態のままでいいのか?」という議論が立ちはだかる(11世紀末~12世紀前半)。色彩豊かなそれまで教会に猛烈に反対したのが、クレルヴォー修道院長の聖ベルナルドゥスだった。彼は「あらゆる色彩,磔刑像以外のあらゆる聖像」を徹底的に否定した
 ☆多くの高位聖職者・神学者が同じ立場にあったが、彼はきわめて高い名声を有した上に「色を悪魔的なもの」とすら主張したので、影響力は最大級だった
 D.中世の人々の色に対する美的感覚は「明るいもの」をよしとしていた。これに対してベルナルドゥスの美的感覚は「音楽,歌唱,リズム,数,比例」といったものの調和に向けられていた。その違いの上で彼は「教会(特にクリュニー派)を飾る重い光輪,大きな枝付き燭台」に向けて怒りをぶちまけていた
 ⇒彼の考えは、シトー派修道会の新たな規則(礼拝の場での内部照明を規制するもの:1130年代)へと継承される
 E.ベルナルドゥスは「キラキラしたもの,輝くものが嫌い」であり、多色のステンドグラス・極彩色の写本装飾・金銀細工・宝石貴石を全て否定し、色彩は「くすんだ重苦しいものであるべき」と考えていた:これは中世の人々の大多数と正反対の見方である!


(2)教会は色彩の殿堂

 A.シュジェは(歴代のクリュニー修道院長と同じく)「神への奉仕を表現するには、どれほど美しくてもまだ足りない」と考えていた。そのため光と色彩の調和を(形の調和より)優先させ、サン=ドニ修道院付属聖堂を「絵画・ステンドグラス・七宝・金銀細工・布地・宝石類,さらにあらゆる技術」によって“光の殿堂”とした

【多色装飾】
 B.中世の建築・彫刻において色彩は、本質的な要素を構成している(それが時間の経過によって失われている現在では、再びその全体を理解し直すのは不可能になっている)
〈例〉ロマネスク時代のタンパン(教会の扉の上のアーチに囲まれた部分)や柱頭も着色されていたはず
 C.多色装飾は少しずつ衰退していく(1250年頃~?)。この時期には「サント=シャペルの強烈な色彩/ランスのカテドラルのより控え目な色彩」の対比が見られる。やがて本格的な多色装飾はかなり減る(14世紀)代わりに「単純な明色,線と穹稜への金箔張り・金泥塗り,灰色濃淡技法の効果」などが用いられるようになる
 ☆ただしこれは地域ごとによってかなり違う(例:イル=ド=フランス地方やシャンパーニュ地方で言えることが、トスカーナ地方やライン川流域地方にも当てはまるとは限らない)し、都市の大きなカテドラルと田舎の小さな教会でも事情は違う

【色彩を変化させるもの】
 D.最初は多色装飾を、建築家が仕切っていた(~13世紀末)。そこから彫刻家がより重要になるにつれて「建築の多色技法」は「彫刻の多色技法」に合わされるようになる
 E.ガラス職人の働きによるステンドグラスの技法の変化も影響した。「光の透過量の多いステンドグラス(12世紀)」→「少ないステンドグラス(13世紀)」→「新しい技法(☆)によって逆により明るくなる(14~15世紀半ば)」
 ☆ジョヌ・ダルジャン技法:ガラス表面上の銀の硫化物から作られた薄い黄色。14世紀のステンドグラスの技法
 F.季節の変化を通じて・1日の時刻に応じて、教会内部の色は生気を帯び活性化し、再び生気が消えて暗くなっていく。実は「教会内部には、安定した変わらない色」というのは存在しない
 G.色は褪せる。石・ガラス・木・布のどの素材でも色は変質していく(鮮やかな色≠新しい色)。そして面白いのは、時代ごとにそれぞれの高位聖職者の置かれた環境(修道院の、俗世間の)が違うので、1人1人が「色彩についてあれこれ考えて、多少なりとも先行者とは差をつけよう」としたこと
〈例〉ある聖母像は「黒or暗色(1000年頃)」→「赤い聖母(12世紀)」→「青い聖母(13~14世紀)」→「金色の聖母(バロック時代)」→「白の聖母(1845年~)」と塗り替えられてきた

【感受性の問題】
 H.中世の人々はとにかく色彩を好んだ。彼らにとっては色彩=「富,喜び,安心感を与えるもの」だったのだ。そこで彼らは「あらゆる木材,全ての象牙,ほとんど全ての粘土,金属の大部分(特にブロンズ),骨,角,蝋」だけでなく、王侯貴族は「多数の植物性の食物,ある種の家畜の毛並みや羽毛(対象:犬,イイズナ,馬,鷹)」までもが対象だった
 I.中世の人々は色彩を多様したが、実はそこにはキチンとした価値観があった。「色の並置は眼に不快なものと映る=ごちゃ混ぜ,不愉快なもの」「色を重ねて違う面に位置させるのは調和が取れている」と感じていたという。ある色は「上or下にある色」との関係が重要だった
 J.どんな彫刻も(記念碑的なものでも、独立したものでも)、全体or一部分に色を塗られていた(9~15世紀)。それに対してシュジェは「単色の彫刻を作ってはいけない」とアドバイスしていた。そんな状況だから、パリのアトリエ(15世紀初)では「彫刻の色塗りには、本体の彫刻作業と同じくらいの報酬が支払われていた」

【金の位置づけ】
 K.教会は金の殿堂であり(初期キリスト教時代~)、ビザンツィンとゲルマンのWの影響によって金は増え続けた。教会のあらゆる什器は金銀細工を施し(9世紀~)ていた
 L.聖エロワ(金銀細工師だった司教で、フランク王国の貨幣係も務めた:7世紀)にならって、金銀細工を行う修道士・高位聖職者は少なくなかった
 M.金もまた物質であり光だったが、色でもある(★)。金は物質としては最高級(中世では金に勝るのは宝石だけ)である。さらに自らたけでなく、他の色彩を盛り立てる(金の縁取りの中に他の色彩を入れて、それを安定させる効果を認められていた)のだった
 ★あらゆる色について。光と色が科学的に解析されるまで「色は光である」vs「色は物質である」という見解に分かれていた。色彩を嫌う聖職者たちは後者に基づき、物質的なものを否定する神学的な見解によって色彩を否定した
 N.金によって教会は自らの権威を表明する。そして権力の徴として、聖域の内外でいろんな形態で蓄えられた(例:インゴット,金粉,貨幣,宝石,食器,武器,聖遺物箱,織物,衣服,書籍,文化品)。教会は金によって数々の典礼を行った


(3)色彩の典礼

 A.金は中世の人々の感覚にとって、黄色とはほとんど関係がなかった。それは“濃密な白”“白を超える白”であった。白は「天上世界や天使の世界を表現する色」なのだが、しかし白のグレードは貧困である。そこで「白より白い色=金色」が導入されたのだ(あまりにもその意識が過剰だったから、聖ベルナルドゥスは文句をつけたのだが)
 B.教会はこうして“黄金の劇場”であった(もちろん色彩・光・ガラス・松明・ランプ・枝付き大燭台の劇場でもある)。これらが全て高価だったからこそ、使用は礼拝の場所に限定されていた。教会は単なる色彩のある場所であるばかりでなく「色彩を示す瞬間,色彩に溢れた儀礼,色彩の聖域」でもあった

【典礼での色彩の変遷】
 C.キリスト教の初期において、司式者は「1.通常の衣服で礼拝を執り行っていた」。そこから「2.白衣orまだ色染めしていない衣服」へとだいたい統一された。その後次第に「3.白は復活祭・典礼暦での最も荘厳な聖祭に限る」とするようになる(=白は最も荘厳な色となる)
 D.ところが、典礼のしきたりは地方ごとに違う(司教たちが定める)のだが、司教は色彩には注文をつけなかった(色とりどりの服装をとがめる,白が優越していると喚起する程度だった)
 E.やがて文化全体で「贅沢な素材,金,鮮やかで彩度の高い色彩」が持ち上げられ、よく見られるようになる。この頃に「7色の色彩:白,赤,黒,緑,黄,茶,緋色」が基本とされたらしいが、これがキリスト教世界全体で統一した「典礼と色彩の関係」にはまだ至らなかった。それでも「4.司教区ごとに『色/典礼の関係』を定める」ように、ようやくなっていく
 F.そしてロタリオ枢機卿(後の教皇インノケンティウス3世)が登場する。教皇に即位してから彼の権威が強まるにつれ「5.ローマで定められ有効となったものは、キリスト教世界全体において法的な通用力を持つ」という観念が強くなっていく
 G.彼は枢機卿の時期に「ローマ地方でのミサ聖祭のしきたりについての論考」を書いていた。それまでは司教区ごとに地方ルールの伝統が強かったのだが、F.の流れに乗って「6.ローマのローカルルールが、教皇の威光によって汎西欧的な『理論』へとなった」

【ロタリオの論考から】
 “白”:純粋さの象徴,用いられるのは「天使・処女・証聖者の祭日,降誕祭,公現祭(1月6日),聖木曜日(復活祭の直前),復活祭,キリスト昇天祭(復活祭40日後),諸聖人の大祝日(万聖節:11月1日)」である
 “赤”:キリストによって&キリストのために流された血を想起させる,用いられるのは「使徒・殉教者の祭日,十字架の祝日,聖霊降臨祭(復活祭50日後)」である
 “黒”:喪・苦行と関連付けられる,用いるのは「死者のためのミサ」「待降節期間,聖幼子殉教者の祝日(12月28日),四旬節期間」である
 “緑”:「白・黒・赤の中間の色」として、どれも相応しくない日に用いられる
 G.中世初期には「白・黒・赤が基盤となる,黒と赤は白の反対色」とされ、典礼システムはそのまま採用している(序列は“黒”が優位とされた)。“緑”は「おまけの色,外の色」だった
 H.ここには“青”は登場しないが、実はこの論考の引用元の時代(11~12世紀初)に、青はようやく色として認められてきたばかりだったため。また“金”は物質であり光であり、色とは見なさなかった
 I.中世初期を通じて“白”は「楽園の色,殉教者の色」だったのが、キリストのために血を流したという要素を重く見るようになり、殉教者の色というのは“赤”と結びつけられた
 ⇒ロタリオの論考は西欧全体に影響を及ぼしたが、どちらと言えば理論的で啓蒙のための中身であり、本当に実践的なものではなかった。やがてローマ教会の指導力が低下する(14・15世紀)と、各地方・各司教区ごとのしきたりが息を吹き返したので「典礼統一化の運動」は後退した

【典礼での色彩導入の意味】
 J.この間(カロリング時代~13世紀)には並行して「教会の色彩化」の流れがあり、これは「典礼での色彩導入」と明らかに結びついていた。色彩が無ければ典礼も礼拝も有り得なかった
 K.さらにもう1つ、この間に「紋章学」が生まれついる。色彩から何かを読み解く試みは、楯型紋章の中で最も洗練されていた。ミサも紋章と同じように、色彩に「社会的に読み解くべき内容」を織り込んだのだった


(4)衣服 -象徴から標章へ-

 A.修道院の服装における問題点(6世紀→13世紀)は「倫理的に正しいのか?」から始まったのが「どうやって区別するのか?」へと変わっていく。これはまさに「色彩の紋章化」であった
 B.現代から中世の修道服を調べるには、色々と障害があるという。「当時の言説に書かれていることと、現実の色彩がかなりズレている場合がある(例:ベネディクト派の黒衣は、13世紀でも素材としては茶色・褐色・灰色・青で十分に表現可能だった)」「厳密な色彩ではなく、色彩の濃さや素材を当時は問題にしていた」「染色化学の制約が、色彩に関する象徴的な思弁と互いに影響を与えあっていた」など

【その変遷】
 C.初期の修道生活では規則・習慣は曖昧で、コンセプトには「簡素と謙虚への配慮」があったので、修道士は「農民と同じ衣服を身に着けた,羊毛を染めたりしなかった,仕上げも施さなかった」。色彩は「余分の付け足し」と考えられた
 D.しかし衣服とは「所属している共同体の標章」でもあったから、やがて俗人の衣装からは乖離していく。そして“修道者としての身分”を統一・主張するために、ある程度は画一化していった(カロリング時代)
 ☆ただしこの時点では“黒”という特定の色ではなく「色の暗さ(色階)」で表現されていた。技術的にも“真っ黒”(しかも褪せにくい)な染色が難しかった
 E.やがて言説において“黒の修道士”についてやたらと言及するようになる(9世紀)。しかし現実の布地としては“茶”“青”“灰色”や“自然な色調”で置き換えられていた
[※例えばその修道院の豊さ・貧しさが影響していたのだろうか?]

【クリュニー修道院と理念的反対派】
 F.クリュニー修道院の影響力(とその奢侈)が広まるにつれて、理念としてそれに反対し(それらは隠遁を理想とした)、衣装に「原初の貧しさ,簡素さを求める」動きが出てきた。後者は「修道士たるもの色彩とは距離を置くべし」というスタンスで、断固として粗末な布地を採用した
〈例〉「脂を落とさない元の色のままの布地,山羊の毛を混ぜたもの:カルトジオ会」「野原で単に漂白しただけ:カマルドリ会」「白・赤褐色の仔羊の毛と織ったもの:ヴァロンブルーズ会」
 ★動物の毛そのままというのは、動物のように生きるのとはあまり距離がない。そこで隠遁志向が行き過ぎると、野人のように生活することを理想とするようになる(→異端へ近づく)
 G.シトー会もその始まりは「クリュニー派の“黒”に対する反動,原点回帰」だった。彼らが用いてもよい服は「安価で普通のもの」=「修道士自身が修道院で紡ぎ、織り上げ、染めていない羊毛で作った布地」=“灰色”の布地だった。だから初期シトー派修道士は“灰色の修道士”と形容されている(12世紀初)

【色彩の明確化】
 H.やがて技術的な制約が無くなり、希望の色に近づけやすくなる(12世紀~)。それと並行してシトー会は“白の修道士”へと変わっていく。もちろんクリュニー派は明確に“黒の修道士”として定義できるようになる(12世紀前半)
 I.クリュニー修道院長尊者ピエールと、クレルヴォー修道院長聖ベルナルドゥスが交わした、両派間の激しい論争によって、シトー派は決定的に“白衣の修道士”として位置付けられた。尊者ピエールは書簡の中で「おお、白衣の修道士よ…」と呼びかけ、クリュニー派の自尊心過剰を非難した。そこでは「白:祭日・栄光・復活の色」「黒:謙譲の色」なのである(論争は20年も続いた)
 J.やがて色彩は「何かを象徴する」ものから「標章:社会秩序における標識orレッテル」へと変わる。「象徴としての色彩」には物質的な自由度があったが「標識としての色彩」には、社会における「作法」が求められたから、色彩は厳密に秩序を示すようになる(12世紀~)
 K.このような変化の後に、托鉢修道会が出現した(13世紀初頭)。(代表として)フランシスコ会は清貧を追い求め、その象徴として「粗末で染色せず、汚くつぎはぎだらけの、毛の長衣」を選んだ。色彩は0を目指し“灰色と褐色のあいまいさ”としたのだが、外部からは俗人たちによって“灰色の修道士”と呼ばれた
 ☆その呼び方には、フランシスコ会の理念は象徴されていない。単に社会における目印・標章としてそう呼んだだけである
 L.一方でドミニコ会は早くからこの点を意識していたらしい。色によって理念を象徴するのを諦め、社会的な記号として「二色構成=“白と黒”」を選んだ(1220年~)。他の托鉢修道会(ラ・ピ兄弟会,カルメル会)や隠修修道会(例:ケレスティヌス会,ベネディクト会)もそれに習った


(5)色使いのモラル

 A.グレゴリウス改革の前から、宗教人が派手な衣服を着ることに対する批判が上がっていた(11世紀半ば~)。彼らの努力は支持されていき「贅沢すぎる衣装,あまりにも鮮やかな色彩(特に“赤”“緑”)」が排除対象とされた。この2色に加えて“黄色”も派手&高価とされた
〈例〉十字軍から帰還した聖王ルイは自分の服から“赤”“緑”を排除し、頻繁に“灰色”“茶”“黒”、時には“青”をまとった(1254年)。カペー家の色である“青”がゆっくりとフランス王国の色となる
 B.やがて色の規制は、矛先を「色の並べ置き=多色装飾」へと向ける(最初は1148年)。やがて焦点は「縞模様,縦2等分配色,格子模様の服」に絞られた(14世紀~)。これらは俗人の間で次第に流行するようになっていった
 ☆中世の人々の感受性にとって、縞模様は混色(受け入れ難い!)の原型であり、聖職者はもちろん、誠実なキリスト教徒にとっても相応しくなかった
[※それが最先端のファッションとして流行したのだから、オシャレを追い求める人々と平均的な道徳の対立はいつの時代にもあった、ということ]

【服飾への規制】
 C.聖職者の衣装への規制はもちろんのこと、やがて世俗社会全体で「奢侈と派手な衣服に対する規制」が公布されるようになる(13世紀末~,とりわけ中世後期)
 1.「経済的な意味:衣装や装飾品への支出は非生産的な投資であり、制限されるべきである」
 2.「道徳的な意味:キリスト教的な伝統(謙遜&貞節)を維持する。この規範は中世を越え、宗教改革へと引き継がれる」
 3.「社会的な意味:各人は自分が所属する性・身分・家柄・階級・職能別のカテゴリーに応じたものを身につけなければならない。規制項目:所有する衣類の数,衣服を構成する部分,材料の布地,色,あらゆる装飾品」

【色規制】
 D.ある種の色が社会の特定の人々に禁止されたのは、道徳的な観点(派手すぎる,慎みを欠く)というだけではなく「染料が高価すぎるから」というのがあった
〈例1〉“青”では「孔雀青:深く濃い青」の長衣。これはたいへん高価な大青のエキスで染めていた
〈例2〉“赤”では「ケルメス(タマカイガラムシを原料とする赤色染料)・エンジムシ(サボテンに寄生する虫でコチニールという紅色染料を作るのに用いる)」を使った、豊かな色合いのあらゆる赤の長衣
 E.社会の特定のカテゴリーの人々(例:差別された職業,様々な身体障害者,非キリスト教徒,あらゆる種類の受刑者)を排除するために、彼らに指定された色があった。その色使いは町ごと・地方ごと・十年単位での変化もあるが、必ず“赤”“黄”“緑”が繰り返し使われていた。この3色は「不調和な配色,隔たり,違反の色」だったのだ

【誠実な色としての“黒”】
 F.中世盛期までは“黒”は盛装用の衣服からは排除されていたが、これは「とりわけ濃くて艶のある黒色を出すのが技術的に不可能だった」からであり、やがては流行の色となる(14・15世紀)。特にペスト大流行の後にイタリアで始まったようで(1350~80年頃)、そこから数十年で全西欧に広まった。ついには王侯貴族の間で“黒”は流行色となり「色彩の真の価値」とされて、色彩の新たな極となる(15世紀)
 G.染物師は以降、技術的・化学的成果を次々と挙げ「深みのある鮮やかな黒」「非常に艶のある、青や茶の光沢を帯びた黒」「羊毛の布地にも絹織物にもしっかりとのって、なかなか褪せない黒」を作り出していく。それまで何世紀も実現できなかったことが、たった2・3世代で全て生み出されたのだった
 H.中世末にはブルゴーニュ公国の宮廷が「あらゆる儀礼的な習慣に意味を与え、それを流行らせる」役割を担っていた。そこで採用された“君主に相応しい黒”の流行がスペインの宮廷に伝えられ、名高い“スペイン儀礼”となる。これがさらに近世ヨーロッパの全宮廷に浸透していった。
『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[4]


○中世の色彩を見る


(1)色彩あふれる中世社会

【教会こそが色彩の劇場である】
 A.中世の日常生活において、色彩は重要な位置を占めていた。社会の最貧層でも、身の回りは無色ではなかった。ほとんどあらゆる物に色をつけていたが、その中でも筆頭が教会だった
 B.教会は大小を問わず、堂々と多色装飾を施されていた(カロリング時代~中世の終わり)。そこには「a.固定された色:壁,床,天井,ステンドグラス,彫刻装飾(常に彩色された)」と「b.可動・可変の色:物体,祭式用の衣服,典礼書,特定の祝祭に用いられるその場限りの背景(ふつうは布地)」がある
 ⇒ミサは単なる祭儀ではなく催し物となっており(13世紀~)、その際の「典礼のための色彩」が果たす役割は次第に大きくなっていった

【日常の色彩:権力を示すもの】
 C.色彩はミサのように演劇性を持つ。それは「a.王宮:権力が目に見える」「b.法廷:礼式が存在する」、とりわけ「c.祝祭日:豊かで騒がしい演出の場であり、演ずる者も観客も普段よりずっと盛大に色を使う」がそうだった
 D.その中でも特に色彩に溢れていたのは「d.数を増していく(12世紀後半~)騎馬槍試合,1対1の馬上槍試合」だった。見せ物や戦いだけの中で、色彩は「e.紋章ににおいて、視覚的・儀礼的機能を果たしていた」のだった

【楯形紋章の普及】
 E.出現(12世紀)してからしばらくして利用が本格化する(1200~1220年)と、あらゆる社会階層とカテゴリーに属する人々が楯形紋章を利用し始めた(地域によっては、早い時期から職人・農民の楯形紋章が存在していた)
 F.普及するにつれて、楯形紋章に関するコード(約束,象徴する事物)が決まってくるようになる。コードの中でも色彩は非常に重要であり、色数は6つ(白,黄,赤,青,黒,緑)しかなかった

【楯形紋章と6色の世界】
 G.中世後期には楯形紋章の普及が徹底する。日常的な風景の一部となり(村落でさえも)、いかなる教区教会も「本格的な楯形紋章の『博物館』になっていた」(13世紀半ば~)。そして全ての楯形紋章は、彫刻された場合でも(穹窿の要石,墓石なども)着色されていた
 H.色は楯形紋章の意味を読みとるのに不可欠だったから、その普及を考えると、紋章学が「人々の色彩の知覚,色に対する感受性」に大きな役割を果たしたと考えられる。つまり6色(白,黄,赤,青,黒,緑)が西欧文化の基本となった
 I.また、配色の際の禁則として定められた配色(例:赤/黒,緑/青,青/黒の並べ置き)が、通用しなくなるor稀なものになったのもこのせいである。このように、人々の目は色の読み取りに敏感となり、色の濃さも感じ取られるようになった

【衣服:最も存在感のある色彩】
 J.中世では(通念とは反対に)あらゆる衣装が染色されており、最貧層の衣服でもそうだった。そこでは「贅沢な衣服/貧弱な衣服を区別する」のは、色合いの「耐久性,濃さ,鮮やかさ」だった(特定の色などではない)。富める者/貧しい者ともに同じような色彩の衣服を身に着けていた
[富裕層・権勢のある人々]
 鮮やかな色調の衣服を身に着けていた。染料が布地の繊維に深く染み込んでいて「光に照らされても,洗濯を繰り返しても,時間が経っても」色が褪せない
[貧者・つましい生活を送る人々]
 褪せて灰色じみた色の服を身にまとっている。これはそんな服は「安価な染料で染められているから」だった。そのような染料は「たいていは植物性,布地の表面にとどまる,水分・日光のせいで薄くなってしまう」のだった
〈例〉聖王ルイは(特にその治世の後半に)「鮮やかで純粋な」青の衣装を身に着けるのを好んだ。青を着た最初の王でもある。王国の農民も大多数は青の服を着ていた(13世紀半ば)
 ★農民たちが使ったのは「多くの耕作地で自生していたアブラナ科の大青を使って、手染めしたもの」だった。だから色は薄くなり、灰色がかって褪せている


(2)日常生活の色彩を見るに際して

【最も重要な要素:色彩の見事さ】
 A.中世の人々の眼には、濃くて輝きのある青(富者の青)は、褪せてくすんだ青(貧者の青)よりも「濃くて輝きのある、赤・黄・緑により近い」ものだと、しばしば知覚されていたらしい
 ☆つまり、色調よりも「色彩の鮮やかさ,濃さ,彩度」の要素が重要だった!
 B.そんなわけで、当時の布地・衣服の分野での重要性とは「互いに関連付けられた『価格・等級・社会的分類』と『色彩の明るさ・濃さ』」>「色合い」とされていた。これは「色合いが第1の紋章学」とはハッキリと違う

【次に重要なもの:色の機能】
 C.色彩の濃淡・鮮やかさとぼやけの対比の次に、ようやく紋章学的な象徴性が問題となる。「色使いによって、人物の同定・位階と尊敬などを表す」色彩の表示機能は、楯形紋章の影響によって教会人の間で発展する(12世紀~)
 D.ここではもちろん「色使い」「2色or3色の組み合わせの作用」がまず第一にくる(この点は紋章学と同じ)。ところが衣服の場合には、色彩の性質=「鮮明な色/くすんだ色」「飽和色/淡い色」「無地/斑点模様」「スベスベ/ザラザラ」までもが表示機能を持っていた
 ☆中世の人々は素材・ 材料の質を判断するのに慣れていたから、手で触らなくても、どんな色の布地でも、一目でこの力を発揮できた

【中世での人気と流行:青】
 E.社会のあらゆる階層において、青みを帯びた色が支配的になっていった(フランス:1140年代に始まって12世紀後半に激しくなる,その他あらゆる地域:13世紀)。西欧文化に新たな色の秩序が導入された“青の革命”現象とすら言える
1.[古代社会]青は重視されず、特にローマ人に嫌われていた(彼らは蛮族の色と見做したから)
2.[中世初期]ずっと、どちらといえば目立たない色のままだった
3.[1140年~]急速に芸術創造のあらゆる分野に入り込む。キリスト教の色・マリアの色となり、さらに王族・君主の色になる
4.[12世紀末~]社会生活の数々の分野で赤と競合し始める
5.[1300年~]青は赤に代わって、ヨーロッパの民衆が偏愛する色となる

【他の色と組み合わせの人気の盛衰】
 “赤”:あまり影響はなく、青が強力なライバルとなってからも、衣服においては依然として存在感を示した(衣装・日常生活で赤が凋落するのは後:16世紀)
 “黄”:王族でも平民でも、西欧でこの色を着る男女は稀になる(1200年代~)
 “緑”:黄色ほどではないが存在感は後退していく
 F.“青と白”“赤と白”“黒と白”“赤と青”の取り合わせがこれまでにないほどもてはやされる。一方で“黄と赤”“黄と緑”“赤と黒”“赤と緑”の組み合わせは相手にされなくなる。特に“赤と緑”は(カロリング時代より)貴族の衣服で最も人気があったにもかかわらず