『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[13]


○アーサー王


(1)物語へ

 A.初期のアーサー王物語(12世紀後半:ラテン語ではなく土着の言語で書かれた)は、起源にあったのは「グレート・ブリテン(5世紀)で起こった様々な出来事の記憶が、大きく変形されて伝わったもの」である。その中心人物が「アルトゥルス公」という、ローマ=ブリテン系の頭である
 B.彼は大ブリテン島北部でスコットランド高地から下ってきたピクト人の侵入と戦い、海から入ってきたゲルマン人・スカンジディナヴィア人とも闘った
 ⇒多少伝説的なアルトゥルス公が、数世紀を経てアーサー王となる。初期イングランドに擬せられるログル王国の君主となり、宮廷に集う世界最高の騎士たちが後に“円卓の騎士”と呼ばれるようになる
 C.彼らの物語には「ケルト神話から借りたテーマ・人物・モチーフ」が早い時期から接ぎ木されていき、さらに「民間伝承・他の神話から借りた伝承、に由来する様々な要素」で豊かになっていく。やがて、文学創造にぴったりの素材をもたらすように至った

【中世盛期には】
 D.アングロ・サクソンの年代記によく登場する(1000年頃~)。特にウェールズの吟唱詩人たちは、グレート・ブリテン、さらにはヨーロッパ大陸の君主・諸侯の宮廷で歌った物語の中によく登場させた
 E.ついには「歴史的な人物:トップ級の重要性を持つ家系の祖先として」扱われるようになり、イングランド王位を狙う様々な家門にとって、政治的に重要性となる(11世紀)
 F.やがて碩学ジェフリー・オヴ・モンマスによって、伝説がイングランド諸王の歴史に組み込まれた(1138年:当然ラテン語で)。その中でアーサー王の治世に割かれた部分は相当な規模であり、盛り込まれたモチーフ・エピソードが数十年後に、壮大な騎士道物語群の枠となる

【定番のコンセプトの誕生】
 G.そしてバイユーの教会参事会員ヴァースは、ジェフリーの原文をベースに、イングランドの歴史として『ブリュ物語』を書いて(1155年頃:これは俗語)アリエノール・ダキテーヌ(ヘンリーの再婚相手)へ献呈した
 H.このヴァースによって『円卓』が初めて言及された(部下の騎士たちの席をめぐる序列争いを防ぐためにアーサーが作らせた)。また彼は「アヴァロンの島で眠りに入った王が、いつの日か真の救世の英雄として甦り、人々を救済へと導く」というプロットを初めて導入した
 ⇒アーサーの人物像は文学的な英雄となっていき、俗語で書かれた物語(レシ)の創造を促していく。創造された物語は「アーサー王,王妃グニエーヴル,甥ゴーヴァン,彼らを取り巻く主だった騎士たち」などを軸に構成されていた



(2)文学としての拡散

 A.これ以後の物語の発展はフランス人による。筆頭はシャンパーニュ伯アンリ1世の宮廷に仕える聖職者だったクレティアン・ド・トロワである(1165~90年の間頃に活躍)。伯アンリの妃マリーはアリエノールとその最初の夫ルイ7世との間の娘であった
 B.彼はアーサー王の世界を舞台とする韻文の物語(ロマン)5篇を遺し、うち4篇が中世フランス文学の傑作に数えられる:『エレックとエニード』『荷車の騎士(ランスロ)』『獅子の騎士(イヴァン)』『聖杯物語(ペルスヴァル)』
 C.これらの作品によって、主要登場人物の性格・物語の大きなデータとモチーフが決定していった。さらにクレティアンによって、物語における「一定数の冒険,局面」がセットされ、以後そのほとんどが必須のものとなった

【物語の拡大】
 D.未完の『聖杯物語』を続けようとした作者たち(12世紀末~1230年に少なくとも4人)は、韻文で「若く素朴なペルスヴァルと勇敢で雅なゴーヴァンの不思議な冒険の錯綜」を書いた
 E.中高ドイツ語・ノルド語・オランダ語の翻訳も行われた。また最初の散文物語が出現し、その作者たちは「登場人物をつなぎ直す,主人公たちの空白の時代を埋める,異なる世代の間の繋がりを書き足す」努力をした。これによって、散文による膨大な作品群が蓄積された
 F.そうした蓄積の上に、新たに「魔術師メルランの伝説」と「トリスタンとイズーの伝説」がさらに接ぎ木された。ここからさらに3つの大規模な物語群:『ランスロ=聖杯』『散文トリスタン』『ギロン・ル・クルトワ物語』が誕生した(1215~40年)。これらはフランス語のアーサー王文学の中で、最も大量に筆写され最もよく読まれた作品群となった

【読者は封建制下の貴族】
 G.円卓物語の文学はほとんどが貴族階級の読者のみを対象としていた(12・13世紀)。物語が押し付ける世界観・社会観は「若者を称揚し、騎士道を賛美し、絶えず増大し続ける君主の権力を遺憾に思い(アーサー王は封建制の王であり続けた)、中小貴族の衰退を惜しみ、農民・諸共同体・商人を軽んじ」るものだった
 ☆しかし封建的・反動的な価値観にもかかわらず、アーサー王伝説は早くから貴族階級以外にも受け入れられていった


(3)名前の影響

 A.フランスでは上記F.の後から、アーサー王伝説に基づく人名が用いられるようになる(ドイツ語でも同じ)。こうしてフランス北部・西部・イングランド・フランドル・ライン川流域地方・バイエルン・チロル地方などで「ゴーヴァン,トリスタン,ランスロ,ペルスヴァル,ボオール」といった名前を持つ人々が現れ始めた(13世紀半ば~)
 B.ただしこれは単なる渾名の場合も多い(馬上試合,十字軍,何らかの騎士道儀礼において採用された)のだが、この場合には「ランスロことペトルス」「ペルスヴァルことジャン」といったように表現されている。そして本物の洗礼名として、登場人物の名前が使われることも増えていったようだ

【命名システムとの関わり】
 C.西欧ではそれまで、名前の世襲方式=「ある集団に属していることを示し、その集団にストックされた名前から、祖先・代父の資格が強い厳格な規則によって割り振られる仕方」が行われていた。これが「両親が名前を選ぶ」というシステムへと変わっていく
 ☆新しい自由なシステムは、流行・嗜好・情緒的なもの・宗教的要素・心理的配慮に影響されるようになる

【洗礼名の変化が現れる】
 D.アーサー王伝説に登場する主要な人名は様々な地域で受け入れられた(13世紀半ば~)。しかもそれは大小の諸侯ばかりでなく、上記作品の朗読を耳にするチャンスの無かったような人々までもが、こうした名前を名乗っている
 E.ノルマンディー地方・ピカルディー地方・ボーヴェジ地方の農民たちの中に、彼らに関連する史料(証書,印章,地代帳など法的なもの)においてそういった名が登場していた(13世紀後半~)
<例>ランスロ・アヴァール
 ノルマンディー地方に住む彼はこの名を刻んだ印章を持っていた。彼は「自作農民」である可能性が高く、社会的・経済的地位の低い「日雇いの小作人」ではなかったようだ。もしかしたら村の有力者かも知れない(1279年)
(∵この印章のついた証書は、ルーアン近郊一帯の農地に広い土地を有するジュミエージュ修道院が、教区の数人の農民と取り交わしたものだった)
 ☆法的価値を持つ印章に「ランスロ」という名前が使われていたというのは、非常に意味が重くなる


(4)アーサー王伝説の儀礼取り入れ

【カルチャーの共有と伝染】
 A.アーサー王伝説ゆかりの名前は比較的速やかに広まったようだ。これは更に「農民たちの文化は彼らを取り巻き小規模な領主たちとさほど違いはなかった(13世紀)」ことを示している
 ★当時は(少なくともフランス王国では)貴族/農民の間の文化の違いは、聖職者/俗人や都市/田舎の間ほどには存在していなかった。領主貴族と農民は日常的に接触があったからだ
 B.アーサー王伝説は、円卓物語からアイデアを得た「アーサー王伝説チックな騎馬試合・見せ物など」が増加していった(13世紀を通じて)ことと関連して、田舎では城館でも藁葺き屋根の家でも伝わっていったようだ

【より大規模に】
 C.アーサー王伝説文化の伝染は「これを元ネタとした騎馬試合(1223年が最初)」だけでなく「王・君侯・諸侯・騎士などがアーサー王とその仲間を『演じ』て冒険や武勲を再構成しようとした」ことにも現れている(1230年代~:ドイツ,スイス,オーストリア,イングランド,スコットランド,北フランス)。彼らは名前だけでなく楯形紋章も取り入れた
 ☆しかも最初は一時的だった(例:軍事遠征,騎士の祝祭)だったのが、後には継続的な形で行われるようになる
<例>エドワード1世
 中世イングランド最大の君主の1人だが、治世(1272~1307年)のかなりの期間において、アーサー王伝説へ本格的にハマっていた。数々の騎馬試合・馬上槍試合・祝祭・円卓を、特に対スコットランドの戦争中に企画し、韻文or散文の物語に描かれた催しを真似たのだ
 D.上記のような儀礼には部下の騎士の大多数が参加していたこともあり、貴族社会(13世紀)において「物語風の振る舞い」はますます重要になっていった。貴族からすると、物語は「貴族のイデオロギーの反映,その規範」であった

【より拡散して】
 E.アーサー王の名前を社会の様々な層に拡散させるのに最も貢献したのは(詩人・作家の作品伝承だけではなく)、このような騎馬試合だったようだ。そこは「あらゆる層の観客が見物した(農民が多数派だっただろう)」「演出・遊戯・多彩な背景を伴った催し」であった
 F.アーサー王は都市住民の中にも広まっていく。やがて「アーサー王を演じ、その騎士たちの名前を採用する」というのは、正統な都市のカルチャーとなり、市民はアーサー王伝説に没頭した
<例1>都市ハンザの大都市の市民の中に、王・騎士の真似をし始めるめる者が出てきた。「彼らもアーサー王伝説に則った祝祭・騎馬試合を企画し始めた」「“聖杯”協会,“円卓”協会のような団体を組織した」のだ(13世紀末~)
<例2>この流行はライン川流域・オランダ・北フランスの諸都市に伝わった(14世紀初)。ケルン・ブリュッヘ・トゥールネ・リエージュ・リール・ヴァランシエンヌ・アラスなどが次々に「アーサー王伝説の遊戯・見せ物の企画」で評判となる
<例3>この流行はパリに達した(14世紀半ば)。それから南フランス・イタリア・スペインにまでも広がっていく


(5)アーサー王ゆかりの名を付ける

 A.印章を基にした洗礼名の調査から。サンプルとなっているのは、1500年までの日付を持つ証書の印章約40,000。地域としてはフランス(15世紀の境界線内)であり、サンプルの4/5はリヨン-ポワティエを結ぶ線よりも北側のものである

【名前と地理的分布】
 B.アーサー王伝説が中世社会に愛好されるようになっていった流れ(13世紀半ば~15世紀)の中において、実在の人物がアーサー王伝説ゆかりの名を持っていた事例は「13世紀後半,14世紀半ば~後半にかけて」の時期が最も多いようだ
 C.そうした名前が最も多くの割合を占める地域(ピカルディー・ボーヴェジ・ポンチュー・両ヴェクサンの諸地方)では、印章の所有者の1/4が伝説群の中の登場人物と一致していた。反対に特に稀なのがブルターニュ地方だった
 ☆ケルトの末裔たるこの地方と、ブリテン・ケルトの素地から生まれたアーサー王という関係にもかかわらず。名前だけでなく、図像や紋章においてもアーサー王伝説の影響はブルターニュでは弱い

【名前と社会階層の関係】
 D.アーサー王伝説ゆかりの名前は社会のあらゆる階層に見られる。しかしこのような名前を最も意欲的に採用していたのは「小貴族(楯持ちと廷臣),裕福な市民」だった(14・15世紀)。反対に、上層貴族(13世紀~)においてはアーサー(アルテュール)を除けば実例は稀だった
 ☆アーサーは幾つかの名家では伝統的な洗礼名だったから例外となっている。フランス王国の上層貴族では、洗礼名は多様性を欠いたままでより「世襲方式」だったのだ(アンシャン・レジームの終わりまで)
 E.上記の2つの社会階層は、地位の変化の真っ只中にあった:「多少なりとも没落しつつある小貴族」「社会的・政治的に上昇の一途をたどる裕福な都市商人層」
 F.小貴族にとって、その洗礼名は「百年戦争で大きく損なわれた、騎士としての威信を少しでも維持するための手段」「経済的・政治的衰退を埋め合わせるために、人名の『外観』を利用した」のだった
 G.市民階級(or彼らの中から出現する都市貴族)にとっては「文学の価値体系を利用して、強引に貴族文化・貴族階級に入り込むための手段」だった
 ☆市民階級が貴族社会に参入するために採った戦略には、他には「政略結婚,資金の貸付,王への奉仕」などがあった

【トリスタンは一番人気だった】
 H.主要登場人物の中で、実在の人物に名を引用されている頻度が最も高いのはトリスタンだった。上位6つを見ると「トリスタン:ランスロ:アーサー:ゴーヴァン:ペルスヴァル:イヴァン」=「17:11:10:6.5:4:2.5」という(大ざっぱな)比率となる
 J.「トリスタン伝説」は、他の「ランスロ,アーサー王,聖杯,ペルスヴァル」にまつわる伝説よりも、写本が多く残っている。残存している写本(13世紀末~15世紀末のもの)の中でも最もよく筆写されていたのが『散文トリスタン』物語(と様々な手直し)であった(≒最も広く読まれていた)
 ☆彩色挿絵・壁画・タピスリーで見ても、トリスタンが優位であった

【フランス以外では】
 K.フランス周辺の国々(中世末)で見ると「ドイツ・オーストリアの人名ではトリスタンが明らかに優位。ただしここではヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの影響でペルスヴァルがよく描かれている」「イタリアでもトリスタンが優勢だが、ランスロが肉迫している」「イングランドではゴーヴァンが第一位のようだ」
 ☆イングランドの場合にはゴーヴァンが「ウェールズ起源の名前」だから。物語『ガウェイン卿と緑の騎士』は写本が1つしか無く、影響力が限られている
 L.あまり調査されていないイタリアでは、エミリア地方・ロンバルディア地方とそれらの隣接地域(1280~1480年)で材料が特に豊富に残されている
<例1>エステ家
 このような有力君主の家門が、アーサー王ゆかりの英雄を崇めていた(15世紀半ば)。代表的な名高い人物が何人もそうした名を名乗っていて、レオネッロ・ボルソ兄弟(相次いでフェラーラ公となった)の名は「ランスロの2人の従兄弟リオネルとボオール」の名に由来する
 彼らの兄弟にはメリアドゥーゼ(メリアデュック:トリスタンの父)がいて、たくさんの姉妹にはイゾッタ(イズー)とジネヴラ(グニエーヴル)がいる
<例2>ミラノ公ヴィスコンティ家
 上記エステ家の数十年前に、ガレアッツォ(ガラード:ランスロの息子)とガレオット(ガルオ:ランスロの親友)の名を持つ者が何人もいた

【女性の場合には】
 M.40,000の印章のうち、女性のものはおよそ550だけだが、そこでは「グニエーヴルは1人もいない」「イズーが合計3人」だった。3人のうち最も古いのが「ブルターニュとノルマンディーの境界に土地を所有する領主アスキュルフ・ド・ソリニェの妻、イズー・ド・ドルの印章」だった(印章が付いた史料は1183年のもの)


(6)名前の利用例

 A.貴族の家系では「『円卓』の英雄の名を最初は渾名として、後に洗礼名として使う」という流行が世襲化しているケースがある
 B.ドリュー家はカペー家の次子以下の分枝だった。この家はドリュー伯ロベール1世(ルイ6世の三男:1188年没)を祖とするが、数十年間のうちに家門の威光を失い(王家との親族関係が離れる一方だった)、また所有する土地も減っていた
 ⇒彼らが文学的な名前を使う(13世紀末~)ようになったのは、手の施しようのない政治的・家系的衰退を埋め合わせる1つの手段だったようだ
 ☆特にドリュー家の次子以下の分枝(ドリュー=ボーサール家,ドリュー=シャトーヌフ家)が、アーサー王がらみの名前・渾名を積極的に採用していた
 C.キエレ家(ピカルディー地方の中流貴族階級)では、長子がボオール(ランスロの実の従兄弟で、アーサー王の世界の崩壊後もただ1人生き残る騎士)の異名を継いでいる。さらに次子以下の者は、ゴーヴァン(アーサー王の甥)・トリスタン・リオネル(ボオールの兄弟)の異名を持つ
 ⇒現実の親族関係と文学上の親族関係を結びつけていた
『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[12]


(4)駒と試合

 A.イスラム世界から西欧にチェスが伝わった時(10世紀末頃)、西欧人は指し方を知らなかっただけでなく「ゲームの原則,駒の性質・動き,色の対比,チェス盤の構造」に当惑した。兵法との類似性以外は、当時のキリスト教徒には無縁だった
 ☆チェスについて語っている文書(11・12世紀)が、ゲームの規則や指し方について、混乱し・不正解で・矛盾だらけだったのが当惑の証拠である

【「詰む」が理解し難い】
 B.勝利を求めて敵の王を「詰み」の状態に持っていくというゲームの最終目的が、封建時代の戦争の慣習とは全く異なっていたのが理由だった:
 1.「封建時代の戦争」を構成する要素は「小集団による絶え間ない闘い,ゲリラ攻撃の繰り返し,実りの無い小競り合い,当てもない騎行,戦利品漁り」などである。これは中世の封建諸侯・騎士たちの日常生活であった
 2.「王は捕虜になったり殺されたりする存在ではない」「闘いに結末は無い:夜になったり冬が来たりすると戦うのを止めるが、敵が潰走するからといって止めたりはしない(そこで止めるのは軽蔑の対象だった)」のがチェスとは正反対である
 3.「騎馬試合=模擬戦争」は、毎日夕暮れに勝利者である騎士が選ばれるが、これは「最高の戦士」のことを指し、チェスのように全ての敵を潰走させた者ではない
 4.「チェスは上記のような戦争よりも、戦闘(会戦)に近い」形態なのだが、中世の会戦は「本格的なものは稀にしか行われない,ほとんど儀礼的なもの」だった
 ⇒こうした状況が変化するのは、キリスト教徒がアラブ人との戦いで本格的な大会戦を繰り広げたこと、中世で最初の大会戦(ブーヴィーヌの戦い:1214年)を経験して以降のことだという

【女王駒】
 C.王・騎士・歩兵(ポーン)は理解できたが、アラブの駒の“大臣(王の主席顧問官)”が言葉の問題ゆえにか理解できなかった。そこで徐々に“女王”へと置き換えられていくのだが、これはキリスト教化されたチェスの駒が(軍隊よりも)「王の宮廷」と見なされたことを示す
 D.現行規則と同じように、ポーンは「昇進」で女王になれ、盤上にどんどん増える。ところが困ったことに、王は顧問官ならば何人でも抱えられるが、女王(妻)は1人しか持てない。解決策として、昇進したポーンを“貴婦人(ダーム)”と呼ぶようにした

【象からビショップへ】
 E.“象”は元々のインドのゲームでは軍隊を表現していた(それほどインドの軍隊では重要だった)。アラブでは象を維持したものの、イスラム教が「(理論上は)生命あるものの形象化を禁じていた」ので、象の牙だけを残して「がっちりした幹の上に生えた2種の角形隆起」で表した
 F.当然キリスト教徒はこの駒を理解できない(当たり前!)ので、様々な変形を施した(元のアラブ語をいじって“伯”“大膳官〔セネシャル〕”“樹木”“軍旗立て”などとと呼んだ)。最終的には駒の上に載った角形隆起を、司教冠(or道化の頭巾)に見立てた
 ⇒“司教(司教冠)”はアングロ・サクソン諸国に、“道化(頭巾)”はその他の国々に広まった

【戦車からルークへ】
 G.ペルシアやイスラムの戦車の駒は「最初はそのまま使われていた」のが、まずは「ラクダor異国的な動物」に変わった。それから「2人のキャラクターの情景(例:アダムとイヴ,竜を殺す聖ミカエル,一騎打ちをする1組の騎士)」。様々な姿が用いられたのが、最終的には「塔:ルークのフランス語」に落ち着く(15世紀)
 ☆この駒はラテン語では“rochus(アラブ語のrukh戦車に基づいて)”と呼ぶが、これをイタリア語の“rocca(砦)”と結びつけたようだ


(5)赤から黒へ

【多色のアイヴォリー】
 A.アイヴォリーの色は単色ではない。「素材そのものが白の中でも多様な色調を示し、時間の経過とともにあらゆる種類の古色をまとう」だけでない。中世の習慣では、アイヴォリー製のものに色を着けたのであった
〈例〉明色を単に加筆する,(多くの場合)着色料・金泥をアイヴォリーの表面全体に層として塗る→そこに貴石・真珠の象牙細工と組み合わせる
 B.今日まで伝わっているアイヴォリー製のチェス駒の多くは、着けた色が落ちてしまい、金箔と赤の着色料のかすかな痕跡が残っている
 ☆こうした駒は「金銀細工,宝石,貴金属とともに宝物庫に保管されていた」ものである。金泥はこのような品々と接して、輝き生気を帯び、その意味・価値を示した

【赤の塗料の意味】
 C.赤の塗料が残っているのは「1.金を付着・固定させるための鉱物性の下層が酸化して残った」「2.アイヴォリーを包んでいた古い塗料の痕跡」という2つの解釈が可能である
 D.西欧の騎士たちは(現代のような白&黒ではなく)、多くの駒が白&赤で着用されているチェスで対戦していた(~13世紀半ば)。ところがインド・イスラムでは黒&赤を用いていた。この違いは「反対色の捉え方の違い:インド・イスラムでは赤/黒,西欧では赤/白だった」による

【赤/白/黒】
 E.キリスト教的中世においては、反対色はこの3極からなるのだが、これは「白/赤」「白/黒」の組み合わせからなり「赤/黒」には何の意味もない。そこで西欧は「赤/白」を選んだのだ(1000年頃)。この選択は赤と黒の「地位」の差に由来するようだ
 F.やがて2世紀が経過し、中世社会においてこの間に黒の地位が大幅に上昇した(「悪魔・死・罪の色」から「節制・謙譲の色」へ:この2つは価値を認められつつあった美徳である)。そして「白/黒をあらゆる価値観の両局のもの」と見なすようになった(この対比は白/赤よりもコントラストが強く強烈である、とされた)
 G.様々な思弁や哲学の影響を受けやすい遊戯であるチェスにおいて、次第に赤の駒は黒の駒に置き換えられていった(13世紀を通じて)。やがて赤は稀になり(14世紀半ば)、白/黒の世界ふと入っていく

【盤面の色】
 H.長い間オリエントでも西欧でも、盤面は「赤/黒or赤/白のマス目を交互に置いたもの」もしくは「単純に64のマス目を作る垂直線/水平線だけでの構成」のどちらかとなっていた
 I.そもそもチェスをするのに、2色のマス目を交互に置いた盤面が絶対に必要というわけではなく、マス目さえ区切られていれば単色でも構わない。初期の指し手はどこでもそのような盤で満足していた。一番シンプルなものでは、石の上に白墨で描いたり、土の上に指で描いても構わない
〈例〉細密画(12・13世紀)には単色のマス目のチェス盤を描いているものが幾つか存在する
 J.しかし2色の市松模様の構造は、既に古代地中海世界では他のゲームに存在していた(特にチェッカーの先祖)。やがてこれがチェスでも支配的になっていた(こっちの方がそれぞれの陣営の重要な駒を見分け易かった)
 ☆この時代の重要な駒は「2つのアルファン駒:かつての象であり後にビショップ(or道化)となる」であった


(6)無限の構造:市松模様

 A.中世では市松模様は「建築の構造,床の舗装,紋章の図柄(例:パラメデス),旅芸人・道化の衣裳,計算早見表のベース」に使われていた
 B.中世の人々の感受性・象徴体系においてこの模様が示していたものはは、常にダイナミズムな感覚を伴った「共示:ある表現が別の暗示への連想」であり、必ず「動き,リズム,音楽,ある状態から別の状態への移行」などに結びついていた
<例>宮殿の広間・教会の床に交互に敷いた2色のタイル・舗石は「そこで繰り広げられる儀式(例:封臣の任命,臣従の誓い,騎士叙任式,婚礼,修道の誓願,聖別式,葬式)に注意を促している」ことを共示していた
 C.文学作品に出てくる楯形紋章にはしばしば「所有者の両面性」を市松模様の図柄で引き立てている
<例>パラメデス:市松模様の楯形紋地によって「彼の二重性,異教徒からキリスト教徒への改宗(=移行の儀式)」を強調していて、さらにチェスの発明者であることも示している

【市松模様と死のイメージ】
 D.中世の著作家・芸術家は、特に市松模様に「死」を共示させる役割を持たせていた。これは「チェスの試合が此岸から彼岸へ移るのを予告する」ものとして示されている
 ⇒このために「死」を相手にする試合では、対戦者は予め敗北している闘いをスタートさせられることになる(この文学的・図像学的主題は何度も用いられるようになる:13世紀~)

【チェス盤が示すもの】
 E.チェス盤は「永遠」を示す記号でもあった。というのは「8×8」の構造の基礎には「2×2」の碁盤目があるが、これが“単為生殖のように増殖していく(=無限の増殖)”のが64のマス目だから
 F.一方で、64という数字はアジアの文明において意味を与えられた。8の自乗の意味は「8つの門が8つの風に向かって開き、8つの山=地上と天とを結ぶ8本の柱がある」ということだが、この「8に基づく表象の体系」はインドと全アジアで本源的に見られるものであった。ここではチェス盤の64のマス目は「地上の空間の縮小イメージ」である
 ☆正方形は多くの社会において「空間を表す象徴(ただしありきたりであるが)」だった。これに対して円は「時間の象徴」である
 G.ところがキリスト教西欧では、8も64も何ら「世界を支配する神秘的な数字」ではなかった。この文明ではそのような役割は「3,7,12とその倍数」に与えられていたのだ(※三位一体,7つの自由学芸,12使徒など)
 ⇒チェス盤を再現した図像では一般に、マス目は64よりも少なく描かれていた。多くはスペース不足という問題によるのだが、時にはキリスト教文化の象徴数(3×3,6×6,7×7)で描こうとする動機が働いていた


(7)チェスに夢中になる

【発掘された駒】
 A.考古学的なチェスの発掘は「1060~80年頃はまだ稀」→「12世紀を通じて増加する」→「13世紀には大量となる」→「やがて減少していく」という。数が減っていくのは、普及した結果として「実際に使う駒が木製になり、中世の木製の物品の多くと同じく、何世紀も生き延びられなかった」からである
 B.ただし現存している様々なオブジェの中には、チェス駒でないにも関わらず「チェスの駒」と断定されていたものがある
〈例〉「サン=ドニ修道院の宝物庫に収められていた、ずっしりした美しい象牙の象(オリエント渡来の品:9~10世紀産)」。これは「頑丈な馬鎧を付けて背中に玉座を背負い、そこに王がひとり座していて、騎手が数人周囲を取り巻いている」姿として彫られているのだが、それでもチェス駒では断じてないという

【指し手たち】
 C.どっちにしても、チェスはヨーロッパの貴族階級全体において、実に盛んだったようだ(13世紀~)。ゲームが行われていたのは城・諸侯の館だけではなく、時としては「守備隊の詰所,修道院内,大学内,船内」だった
 ☆これは指し手の層が貴族以外に広がったことを示す(14世紀半ば~)。特に「単調で長い時間を過ごさねばならない立場の者たち」だった。そういう者たちの数は多かったのだ
 D.中世のチェスの規則は現代のものと少し違っていて、さらに変わりやすいものだった。指し手は相手と合意できれば、少しばかり規則を変えたかも知れない(騎士道文学で語られているのが本当だとすれば、だが)
 E.今も昔も変わらないものとして「本当は知らないのに、チェスができる・規則を知っていると自慢する」者はよくいたことである。そして、チェスをたしなむことは完全に宮廷風文化の一部となっていたので「その才能があるのを自慢する,見せつける」ようになっていた(12世紀~)

【異なるルール】
 a.「クィーン」:今日のゲームとの大きな違いは「クィーンの力が盤上では弱かった」ことである(斜めには1度で1マスしか進めなかった)。これが「クィーンは好きな数だけ動けるようになる,斜めだけでなく縦横に動けるようになる」(15世紀~)と、ゲームを左右する駒となって試合はよりダイナミックになり、形勢逆転は頻繁となった
 b.「アルファン」:それまで盤上で最も強力だったのは「アルファン=道化orビショップ,古代オリエントでは象」。こちらは斜めに好きなだけ進むことができた
 c.「ルーク(フランスでは塔)」:縦横のみ・一度に動けるのはマス目1~3マスだった(その力はナイトとほぼ同等)
 d.「ナイト」:現代と同様にあらやる方向に桂馬跳びで動く
 e.「キング」:全ての方向に、自陣ではマス目2~4つ進める。ただし敵陣では1つしか動けない
 f.「ポーン」:進める数はキングと同じだが、縦のみである

【試合進行】
 F.試合は緩慢であまり動きが無く、一連の「駒vs駒の一騎打ち」で構成されていた。スケールの大きな戦略に基づく、盤上を揺るがすような闘いにはならないのだった。しかし封建時代に生きる指し手たちにとってこのような試合進行は全く苦にはならなかった
 G.彼らは「小集団同士の対決,肉弾戦に慣れていた」「本質的なのは勝ちを目指すのではなく、ゲームをすることだった」からである。他の貴族的スポーツ(例:狩猟)と同じように「儀礼的なしきたりが結果よりも重要だった」のだ
 H.さらには文学作品によると、試合が両陣営のどちらかが勝利/敗北して終わるとは限らなかった(~12世紀)。というのは「キングが詰みの状況になると、マス目を1つ2つずらして試合再開とした」からである。勝者は(いるとするならば)敵を詰みの状況に追い詰めた者ではなく、最も見事な技を披露した者だった(これも騎馬試合と同じ)
 ☆象徴であっても「敵のキングを捕虜にする(or殺す)」のは、当時の指し手たちにとってはどこか賤しい・卑怯なことであり、滑稽ですらあった

【中世後期での習慣の変化】
 I.新たな変化は、カスティーリャ王アルフォンソ10世の命で編纂された(1280年頃)チェス論に示されている。イスラムの指し手はキリスト教徒の指し手よりも強かったのだが、彼らの影響で「試合時間が短くなった,詰みの状況で勝者/敗者が名指しされるようになった」のだ
 J.競技会が組織されるようになり、宮廷・都市・地域を代表する最強の指し手を競わせるようになる(1300年頃~)。まずイベリア半島で始まり、イタリアと西欧全域に広まった
 K.しかし西欧最強の指し手は常にスペイン人とイタリア人で、後にポルトガル人がのし上がってくる(中世一杯)。既に何人かの名高いチャンピオンがいて、個人名も伝わっている(15世紀について)。彼らは早くから実戦よりも理論的な問題の作成に興味を持っていたようで、問題集が何冊も伝わっている
 ☆それらでは試合の終局が注目されているが、オープニングにはまだ関心が持たれていない
 ★中世盛期から後期には、チェスを作品のきっかけor主題とする文学的テクストが幾つも生み出された
『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[11]


○西欧へのチェスの伝来


(1)遊戯の起源

【西欧への流入ルート】
 A.西欧にチェスを伝えたのはイスラム教徒であり、そのルートは「1.地中海を経由してスペイン・シチリア・南イタリアへ(10世紀半ば~)」「2.ビザンツィン~黒海沿岸~ウクライナ・ロシアで貿易していたヴァイキングを経て北方から」である

【東方での起源の解明は難しい】
 B.チェスは「インドで生まれた→イランへ(6世紀初)→(アラブ人によるイラン征服によって)イスラム世界全体へ普及した」ことは確実である
 C.古代社会にはチェス以前から、チェスとはかなり距離のある「市松模様のボードを使う」ゲームが数多く存在していた(アジアでも地中海でも)。それよりも現在のチェスに近いゲームが、いつ頃本格的に登場したのか確定するのは難しい
 ★インド生まれのルールは、ササン朝ペルシアでの文化によって、現在の形に近いものへと発展したのは間違いない

【西欧にて】
 D.中世ヨーロッパでは、このような変身も諸国遍歴も全く知られていなかった。しかしチェスのことを語る著作家たちは「チェスが東方起源であることを知っていたし、そうであると信じた」。というのは彼らは、これほど象徴を持つゲームは「記号と夢の国,あらゆる“驚異”の源泉であるオリエントから渡来するしかない」と考えていたから
 E.そして中世の人々は、チェスの発明者をパラメデス(神話の英雄,『イリアス』に登場する戦士でメネラオス王の従兄弟)に求めた。彼は「トロイア包囲戦が長引き、ギリシア人が退屈を持て余していた時、城壁の下でこのゲームを発明した」と信じたのだった
 ★既に古代ギリシア人は、ユリシーズの最大のライバルたるパラメデスを「数々の発明を成した者」と見なしていた(例:アルファベット,暦,蝕の計算,貨幣の使用,賽子遊び,〔ゲームの〕チェッカー)
 F.中世の人々はチェッカーよりもチェスを好んだだけでなく、発明者とされたパラメデスをアーサー王伝説の登場人物にした(バビロニアのスルタンの息子だが、キリスト教に改宗し、トリスタンの友にして不幸なライバルとなる)
 ⇒彼は「騎士の社会に比類なきゲームをもたらした」功績を持つ人物とされ、彼を描く人々は、彼に“銀と砂の市松模様”の楯形紋地=「地が白/黒の格子縞の楯形紋地」を与えた(1230年頃に初登場した)
 G.著名な人物の中には、何かよくわからない理由から「パラメデスの異名を取る,騎馬試合・野戦の際に彼の楯形紋章を採用する」者がいた(例:ブルゴーニュ公の侍従レニエ・ポ〔14世紀末〕)
 ☆文学作品の主人公の名前・楯形紋章を採用する人は、中世後期の宮廷にはよく見られるのだった

【チェスの駒と伝説】
 H.ゲームだけでなく、君主たちの周りで使われていた豪華な駒(たいていは象牙製の大きな駒で、威光のあり君主でしか所持できなかった)もまた「東方伝来の品」だった。東方の職人にしか作れないし「彼らだけが高貴な材料の魔法の力と、それを加工する技術をわきまえている」と信じられていた
 I.サン=ドニ修道院付属教会の宝物庫に収蔵されている象牙の重い駒は「シャルルマーニュの所有で、アッバース朝のカリフであるハルン・エルラシッドから贈られた」とされている。しかし実際にはサレルノ(南イタリア)で刻まれたものである(11世紀末頃?)
 ☆ハルン・エルラシッドは伝説上の人物だし(『千夜一夜物語』の幾つもの物語の主人公)、シャルルマーニュはもちろんチェスを指したことはない!
 J.しかし元の所有者をシャルルマーニュに擬することは「物体としての駒に計り知れない政治的・象徴的価値を与えた(それはレガリア〔世俗的財産の象徴物〕や聖遺物に匹敵する)」→「サン=ドニ修道院の歴代修道院長&修道士たちの威光を褒め称えるのに貢献する」のだった
 ★同様に西欧の他の教会は、同じように「象牙の駒で、しかも名高い人々の所有だったとされるもの」を宝物庫に蔵していることを、公にひけらかしていた(特に北ドイツとスペインの幾つもの教会)


(2)教会とチェス

【権力者の宝物庫】
 A.中世においてこの言葉は「大きな権力を保持する者:君主・大領主・高位聖職者・修道院など」が保有する、貴重な動産全体を指し示しており、一種の“空想の美術館”である
〈常に存在するもの〉
 聖遺物,文化財,貴金属,貨幣(しばしばイスラムで硬貨コーランの記銘が入っている),金銀細工,食器,宝石,貴石
〈君主の宝物庫にあるもの〉
 武器&武具,馬具一式,鞍,獣の皮,毛皮,布と豪華な衣服,アクセサリー,古道具と骨董品(手写本・証書類・渡来品・ゲーム類・あらゆる珍品),動物(生きている動物も死んだ動物も:熊・ライオン・豹・鷹・犬)
 B.これらは全て権力を象徴しており、演出に用いられた(例:儀礼的に展示して家臣・客の鑑賞に供する)。時には与えられる・交換されるが、それよりも貯め込む方が多い
 C.これらの物品1つ1つに「a.歴史と神話と伝説的な起源,驚異的な力,奇跡的な力(治療・予防)」がある。こうした信仰は「b.その材料が本来持つ性質によって与えられる」のであり「c.製造する際の作業には関係なく」ほとんど関心を持たれなかった。さらに「d.近代人が言うところの美的価値は持たない」のだった

【チェスへの評価の変化】
 D.教会・修道院の宝物庫にチェスの駒がかるのは珍しくない(それがイスラムのチェスの駒であっても)。教会はチェスを最初は「悪魔的な遊技だ」と宣言しながらも、そこに用いられる駒を大切にしまい込むようになっていった
 E.教会当局&高位聖職者による遊戯断罪は「繰り返し発せられた時代(11・12世紀)→次第に減少→消滅(中世末)」となった。そのワケは「1.断罪に効果がなく、社会全体に広まったこと」「2.ゲーム一般が再評価され、宮廷風騎士道教育の一環となったこと(13世紀)」「3.チェスに賽子を使わなくなり、偶然性がなくなっていったこと」にある
 F.教会にとって「遊戯における偶然性」は否定されるべきものであり、特に賽子は忌まわしいものだった-他のどのゲームよりも賭事に使われたから-

【チェスと賽子】
 G.チェスのインドにおける古い変種では、駒の進み方が賽子の目で決まった(動かす駒の選択/ボード上で進むマス目の数)。このルールは、イスラム世界に伝わった時点ではまだ残っていた。そこから西欧に到達した時には、ある程度復活さえしていた
 H.人々はあらゆる機会に、いたる所で(藁葺きの家でもお城,居酒屋でも修道院でも)、持てる物全て(金銭,衣服,馬,住まい)を賭けていた。いかさまは頻繁であり、危険なゲームだった。たとえダイス・カップを使っていても、細工を施した賽子はよく使われた。だから喧嘩は頻繁に起こり、それが本格的な私闘に発展することもあった
〈いかさまの例〉奇数賽:ある面が2つある,鉛賽:あり面に鉛を入れて重くしてある,磁気賽:ある面が磁気を帯びている
 I.チェスを好ましくないものとしたのは賽子の存在だったが、やがて賽子を使うのを断念し、チェスは価値を認められるようになる
〈言い訳の例〉チェスに耽っているのを弾劾されたフィレンツェ司教は「チェスを指したけど賽子なしだった」と弁解している(1061年)
 J.やがて「聖職者がチェスを指すのは禁じられた(諍いの元になるから)」ものの、俗人には容認した(12世紀末)。さらには「賽子を使わない,金を稼がない」という条件で、チェスを指すのを認める聖界施設も登場する(13世紀半ば)

【国王たちの態度】
 K.聖王ルイは教会よりも断固とした態度で、遊戯と偶然を憎んだ。彼は「エジプトからイェルサレムに向かう船の上から、チェス盤・駒・賽子を舷側越しに投げ捨てた(1250年)」。さらには「全ての“卓上”ゲーム(西洋双六とバックギャモンの祖先)と賽子ゲームを禁止した(1254年)」
 L.ただし君主の間では彼は孤立した例であり、同時代の君主の中には熱狂的なチェスの指し手が何人もいた
〈例1〉皇帝フリードリヒ2世はパレルモの宮廷で、イスラムの強豪たちに躊躇いなく試合を挑んだ
〈例2〉カスティーリャのアルフォンソ10世賢王は「チェス,卓上ゲーム,賽子ゲーム」に関する分厚い論集を編纂させた(1283年)

【教会とチェスの駒】
 M.ところが、教会はチェスに対して寛容になる以前から、チェス駒の蒐集を始めていた。修道院によっては、チェスの西欧への流入(1000年頃)より前から、宝物庫にイスラムのチェス駒を保管し始めた所があるようだ
 N.これらの非常に大きく美しいチェス駒は、遊戯用ではなく「所有し、展示し、触れられ、収蔵されるため」のものだったようだ


(3)アイヴォリーと動物

【生ける素材としてのアイヴォリー】
 A.中世の人々にとってアイヴォリー(象牙だけでなく、犀・セイウチ・イッカクの牙も含んでいる)は「他に比類の無い素材,金・宝石と同じように稀少&貴重,物質的特性と医薬・護符としての力に注目された」のだった
 ☆人々はアイヴォリーの「白さ,堅さ,純粋さ,不変性」を賞賛し、さらに「生きている存在だ」と考えてきた。様々な動物が固有の牙をもたらしてくれていた

【カバ】
 B.中世の文化にとってほとんど未知の存在だった。「川に棲む粗暴で頑丈な怪物,後ずさりして歩く(これが大罪の証拠だった),川を氾濫させる」悪魔的な被造物として認識されていた。そのためその歯から取った牙は、中世キリスト教世界ではなおざりにされていた(古代エジプトとローマ世界ではもてはやされていた)
 ★牙はアフリカから象牙と同じくらい輸入され、より安価だったようだ

【マッコウクジラ】
 C.著作家たちから鯨と区別されていないが、同じように海の怪物とされ「悪魔の悪知恵を発揮して人間を飲み込む(例:島と思い込ませて航海家を誘い寄せる,不思議な芳香を放って彼らをおびき寄せる)」とされた。そのためマッコウクジラの歯から採る牙はほとんど利用されていなかった(~16世紀)

【セイウチ】
 D.北ヨーロッパの人々はその肉・油・骨・皮を利用した(彼らにとってそれは「神の賜物」であった)。犬歯の牙は需要が多かったが、そこにはカバ・マッコウクジラと違い「動物誌でのセイウチが怪物ではなく“海の馬”とされていた」ことが背景にあったようだ
 ☆また「象のように大きい,性質が穏やかで群生動物である」という特徴があった

【象】
 E.セイウチ以上に人々は高く評価していた(例:竜=悪魔の大敵である,貞潔で容易に飼い慣らせる,記憶力は驚異的)ので、象の牙から作られたアイヴォリーもその高い評価を引き継いでいた:「浄化作用で毒から守ってくれる,誘惑を斥ける,不変である,記憶の伝達を保証する」
 F.象牙を材料にして何を彫ってもいい、というものではないが「象の形のオブジェ」を彫ることで「動物が象徴する性質と、材料の象徴する性質が相互作用で強めあう」とされている

【象牙細工師の選択】
 G.象牙細工師たちが素材を選ぶにあたっては「a.値段&入手のし易さ(北:セイウチ,南:象)」「b.アイヴォリーの物質的性質:大きさ,反り具合,粒起面の多孔性・硬さ,磨き具合,得られる古色の多様性など」だけでなく「c.動物誌・動物文学から得た、動物が象徴している性質への配慮」が関係してくる
〈例〉イッカク
 クジラ目のこの動物自体は中世の文書では知られていないのだが「1.先細の螺旋状の長い牙が“伝説上の一角獣の魔法の角”と同一視された」。イッカクの角は「2.最も繊細,最も密度が高い,最も白い,最も純粋なアイヴォリーを供給する」とされていた上に、キリスト論的な意味=「3.一角獣は若い処女にしか捕らえることができない」によって「4.角には比類ない治癒&清めの力がある」とされた
 ⇒しばしば加工せずに、そのまま教会の宝物庫に収めて、いかなる聖人のものよりも貴重な「聖遺物」となった

【素材が持つ意味の世界】
 H.ただし、常にチェス駒を刻む素材として選択されたのではない。高価な駒専用なので、むしろ「展示専用となり、使われることはあってもごく稀」だった
 I.普通のチェス駒に用いられる材料も、時として象牙細工師が加工した。よく用いられた「クジラ目・大型哺乳類の骨,シカ科動物の角,牡牛の角」などは、意味として「野性の世界に関係する何か」を持っていたので、チェス盤の上にある種の熱情と力を入れると信じられたのだった
 ⇒こんな駒を使っていると、相手のビショップ・ルークを「象徴的に」手懐けるのは容易ではないとして、より「飼い慣らしにくくない」素材(例:蝋,琥珀,珊瑚)が用いられた
 J.より日常的な世界でのゲームには「生きているがより穏やかで純粋な素材」=植物性の素材、つまり木が使われた。木製の駒には動物性素材(骨・角・アイヴォリー)の持つ獰猛さは持っていないが、中世後期には使用が一般的になると、チェスは「より穏やかな、現代のような知的ゲーム」となった

【駒は生きている!?】
 K.中世後期以来、駒には鉱物(水晶,貴石,様々な鉱石)・金属(金・銀・青銅)など“死んだ素材”が使われていたが、駒が盤上で「材料の性質を持ったまま生きている」という観念は、長きに渡って存在し続けた
 L.君主の中には、チェスの駒の役を人間に演じさせた者がいる(例:シャルル突進公,プロイセンのフリードリヒ2世)。この“人間チェス”のテーマは、中世の文学者を魅惑していた
『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[10]


○楯形紋章の誕生


(6)分家マーク

 A.途中から、1つの家系の内部では「a.本来の長子だけが“完全な”家門の楯形紋章を保持する」「b.他の全ての者たち(父の存命中に生まれた息子たち,父の死後に長子の存命中に生まれた兄弟たち)は、自分が“紋章の長”ではないことを示さなければならない」とされた
 ☆後者は楯形紋章に僅かな変更を加える操作(ブリズュール=分家マーク)によって示される
 B.このブリズュールは女性には適用されない。なぜなら「未婚女性:父親と同じ楯形紋章を持つ」「既婚女性(通常):夫の紋章と父親の紋章を組み合わせた楯形紋章を持つ」から

【分家マークの役割】
 C.様々な付け方がある:「何かある図柄を削除or付加する」「色を変える」「地と図柄の色を入れ替える」など
 D.初期には騎馬試合に必要だったので、たいへん目立つものが付け加えられた。やがて「次子以下であることを、あまり強く・おおっぴらにしたがらなくなる」傾向によって、控え目で小さな図柄の分家マークが(多くの場合)採用された
 E.楯形紋章は世襲で伝えられるが、数世代も分家マークが使われると、元の家系の紋章と似ても似つかなくなる。逆に「一見して親族関係に無さそうな2つの家門」がよく似ていて、そのおかげで「両家門が共通の祖先を持っていた」ことが判明する場合もある
 ☆分家マークを使って「人物を同定する,人名を再発見する,血統を確認する,親族関係を再構成する,同名異人を区別する」のに使える


(7)語呂合わせ紋章

 A.楯形紋章の中には、家名との間に幾つかのパターンの語呂合わせによって密接に関係しているものがあった
〈例〉「ユーグ・ド・ラ・トゥール:塔(トゥール)」「トマ・ル・ルー:狼(ルー)」「ギヨーム・ド・カプラヴィル:楯形紋章に1頭の山羊(ラテン語で“capra”)を置く」「オルジュモンの諸侯:大麦(オルジュ)の穂が3本」「ロッシ家(14世紀フィレンツェの名家):真紅の楯形紋地を使う(イタリア語で「赤い」の男性複数形が“rossi”)」「ヘルフェンシュタイン諸伯:紋章の内部に象と岩(ドイツ語で「象」は“elefant”+「石」は“stein”)」
 B.このような語呂合わせ紋章は、紋章体系が出来上がった時から存在していた。さらに中世の紋章官は、もし「ある国王or大領主の楯形紋章を知らなければ、躊躇うことなく語呂合わせ紋章をこしらえて間に合わせる」ことをしていた
〈例〉フランス出身の紋章官が紋章図鑑を編纂するに際して「ポルトガルPortugal王:扉“porte”を図案にした」「ガリシアGalice王:聖杯“calice”で飾った」「モロッコMaroc王:チェス盤の市松模様“roc”を3つ組み合わせた」それぞれ楯形紋地を割り当てた

【歴史を遡るケース(動物名)】
 C.当時の人々には気の利いた語呂合わせだったのであろう組み合わせが、現代からは分かりにくいものが少なくない。特にノルマン起源のイングランドの家系は、紋章の語呂合わせにはフランス語を参照していることに注意
〈例〉「イングランドの名門ルシーLucy家:紋章には3匹のカワカマス“lucius(ラテン語)”“lus(アングロ=ノルマン語)”を付けている」「ラットレルLuttrel家:カワウソ“loutre(フランス語)”」「フィッツ=アースFitz-Urse家:熊“ours(フランス語)”」

【歴史を遡るケース(幾何学的図柄)】
 D.こちらの場合には、語呂合わせの関係が「連想ゲーム」を含んでいてより分かりにくいものも存在する
〈例〉ギヨーム・デ・バールという名の一介の騎士が、印章の地を「大きな網目模様のように見える楯形紋地」で飾った(1265年)。この場合「網目模様→菱形模様→障害物→仕切り棒“barres”」となる

【歴史的出現パターン】
 E.現在までに公になっている中世の楯形紋章全体の内、少なくとも20%が(何らかの意味で)語呂合わせになっている。分かりにくくて認知されていないケースもあり、実際に占めていた割合はさらに高かったと考えられる
 F.中世後期には多くの平民・共同体が、自分の楯形紋章を持つようになっていた。紋章を選ぶ時には語呂合わせが最も手っ取り早いから、この時期には占有率はさらに高まったと推測される
〈都市は頻繁に使った〉
 「リールLille:百合の花“lis”(12世紀末~)」「リオンLyon:ライオン“lion”」「ベルンBerne,ベルリンBerlin:熊“ba"r”(※aはウムラウト)」「ミュルーズMulhouse:碾き臼“moulin”の輪」
 G.地理的な分布を見れば、ゲルマン語諸国で他の国々よりも多かった。これには「a.ドイツ語は語呂合わせに向いている」「b.ゲルマン語系の人名は、ロマンス語系の人名よりも直接に、動物・植物・色・事物の名称を取り入れようとする」「c.そもそも語呂合わせめいた図柄が人気だった(恥じることなく使った)」という事情が影響している
 ☆逆にフランス・イタリア・スペインの名家の中には、紋章の起源が語呂合わせだという事実が恥ずかしかったらしく、わざわざ英雄伝説をでっち上げて紋章の生成・意味を説明しようとした者たちがいる(14・15世紀)


(8)紋章を記述する言語

 A.楯形紋章の説明・記述には、最初からラテン語以外の土着の言葉が使われた。誕生過程に教会が関与していなかったという理由だけでなく「新しい標章(エンブレム)の役割が戦闘員を同定するためにある」からである
 B.とりあえず軍人・紋章官によって、最初は(土着の言葉で)「学問的・専門的に全く整理されていない言葉で」記述されたのだが、やがて軍人ばかりでなく市民にも使われるようになると、紋章を記述するための特殊な言語が整備されていく
 C.この言語は「布地・衣服に関係する語彙から大部分を拝借してきた、特殊な語彙体系」からなり、さらに特殊な「統辞法:単語を組み合わせて意味の通る文にするための規則」を作り上げた。この統治法は「全ての楯形紋章をたいへん厳密に記述する」ことができた
 ⇒この特殊な記述方式により、世俗の言語を使って楯形紋章の解説を行うのは「詩人,物語作者,紋章官」(いずれも13世紀)にとって、何ら問題は生じなかった
 ★後には紋章についてラテン語で記述することも行われたが、文法構造的にラテン語は紋章のような「図形」の描写には向いていないらしく、フランス語よりも必要以上に長ったらしくなってしまう、という

【紋章官】
 D.彼らは「a.君主or大領主に仕える役人」であり、その使命は「b.メッセージを伝える,宣戦布告をする,騎馬試合を通知・運営する」ことにあった
 E.紋章官の役目は上記の3番目の分野に少しずつ特化していく。彼らは「c.現代のレポーターのように、観客に向かって参加者の主要な武勲を描出する」のだが、そのために彼らは「d.楯形紋章に関する知識を深めていく」ことで、次第に本格的な楯形紋章の専門家となっていく
 ☆騎馬試合参加者は鎧をまとっていて識別し難いので、楯形紋章だけが各人を同定する手掛かりだった
 F.専門家化した紋章官は「e.規則・表示法を体系化する」「f.楯形紋章の記述に用いる言語を確定していく(上記B.C.)」「g.ヨーロッパ中を回って、調査目録を作り、集成を編纂し、見つけた楯形紋章を着色して描いたり、作図したりした」。こうしてできた集成を“紋章図鑑”と呼ぶ


(9)楯から兜飾りへ

 A.紋章に関して、楯は「本質的な」要素だった(楯抜きでは楯形紋章は成り立たない)。しかし数十年の間に、楯の周辺に「付属的な」要素が加わってくる
 ☆純粋に装飾的なもの(兜,冠)、アイデンティティ・親族関係・保持者の尊厳を明らかにするもの(例:高位聖職者の記章,彼らの職務に伴う持ち物,騎士修道会の首飾り)
 B.これら「付属的な」要素=楯以外の装飾物の中で、最も古くて最も強い意味を与えるのが「兜飾り:面頬付き兜・兜の上に置かれる形象」である

【兜飾りが示すもの】
 C.兜飾りそのものは古代から存在していたし、数多くの社会に見受けられる(ヨーロッパではゲルマンとスカンディナヴィアの戦士たちが、最も広く&長期間にわたって利用してきた)。しかしそうした兜飾りと、中世盛期に登場した兜飾り(最初から紋章と関わりが深い:登場は12世紀後半~)には直接の繋がりはない
 D.中世盛期の兜飾りの特徴は「単なる兜の装飾以上のもの(仮面的な要素)をもつ」ことにある。「a.特に騎馬試合に付けるもので、戦場ではめったに用いない(純粋に軍事的な役割が欠如している=象徴的なものである)」
 E.ところが、楯形紋章の図柄は使用者のアイデンティティを明らかにする(個人を特定し、家族集団のどこに位置するのかを明示する)のに対して、兜飾りの場合は「b.使用者のアイデンティティを隠してしまうのと反対に、権力とより広い親族関係を示す(仮面=トーテム)だけのもの」という機能だった
 ☆したがって「c.兜飾りは楯形紋章の補完物」だった

【飾っていたモノ】
 F.戦士の兜の上に描かれた動物(or植物)は、たいていの場合には「楯の内部に描かれた図柄」、時には「幟(バニエール)に縫い付けた図柄」だった
 ☆ただし楯形紋章と違って実物がほんの少ししか遺されておらず、印章に描かれたものから推測せざるを得ない。そこから得られる情報は、実際に用いられたものとかなりの距離がある
 G.中世の印章は数万の兜飾りを伝えてくれるが、実際に装着されたものは非常に少ない、という。それは「d.騎馬試合・槍試合・(兜飾りを実際につける)様々な儀礼に参加する者は限定されている」のと「e.実際に飾り(☆)を装着するには物理的な限界がある」という制限があるから
 ☆兜飾りは、木・金属・布・皮を重ねて華奢な構造物として組み立てられた。場合によってはそれに馬の毛・羽毛・角・植物性の素材が加わる

【自由奔放な兜飾りの図像】
 H.図像として兜飾りを描く場合には、物理的な制限はない。そこで「兜・楯に比べて巨大で、構造・プロポーション・字体が意識的に幾何学とリアリズムに違反している」兜飾りが意識的に描かれた
 I.楯形紋章では厳密に規則化されていたのに対して、兜飾りの表現技法を取り仕切るルールは存在しない。したがって芸術家・職人は(使用する素材,兜飾りが見られる場所・時間,描こうとする形象の特質に応じて)自分のイメージ通りに自由に表現できた。反対に所有者は兜飾りの表現について、ほとんど関与していない
〈例〉印章の地の空隙を埋める,他の兜飾り(墓石・紋章図鑑の見開き)にそのイメージを伝える,兜飾りが付いていない楯形紋章に1つ単純につける,楯形紋章の中にある図柄の一部を引用する
 J.兜飾りは様々な形象を用いたが、それは単一ではなく寄せ集めの集合体だった。そこでは「角,翼,羽毛(特に中世末に人々が夢中になった駱駝と孔雀),物体(特に武器),人間(少女,野人,東方の人物),植物(葉・花・樹木全体),動物」が組み合わされていた
 K.兜飾りの動物の特徴として「半分以上の兜飾りに動物、もしくは動物の体の一部(頭部,胸部,四肢)が使われた」「鳥(孔雀,白鳥,駱駝,フクロウ,カラス)と合体動物が最も多い」という。しかもその中には、理由があって楯に入れることが許されない動物がわざわざ選ばれた場合が多いという
〈例〉「白鳥:偽善の象徴でマイナスと見なされる」「猫・猿・牡山羊・狐・フクロウ:悪魔的と見なされる」「竜・グリフォン・一角獣・セイレーン:楯にはめったに見られない怪物や合体生物」「猫:軽蔑的な意味合いがあり、語呂合わせ紋章であるにもかかわらず楯の中には使えない」
 ☆シュヴァーベンの名家カッツェネレンボーゲン家は、楯には豹を置いているが、兜飾りには猫“katze”を採用している

【威嚇する動物】
 L.図鑑・造形での遊びが許された兜飾りは、ファンタジックな要素がてんこ盛りとなった。それは「動物性を身に付けることができる仮面(偽の顔)」であった。描かれた動物は「体をひきつらせたような格好で硬直し、怒り・恍惚を露わにし、見る者を威嚇している」ように見える
 ⇒馬上槍試合や騎馬試合の参加者にとって、兜飾りをつけた兜は、自分の身を守り顔を隠すと同時に相手を威嚇する機能を持っている。さらには「使用者たる戦士を凶暴な動物になりきらせる」仮装としての効果も持つ
 M.兜飾りが上記のような役割を果たす一方で、楯形紋章のような同定機能(所有者が誰なのか?所有者はどの集団に属しているのか?を示す)は二次的な機能でしかなかった


(10)親族の繋がりと「神話」

 A.兜飾りには上記のように、呪術的な力を求める人々の願いが込められていた。実際の使用はそのような個人のためのものだったが、次第に「個人のもの」から「家系のものへ」変化していく

【地域ごとの違い】
 B.ドイツの兜飾りの大多数は家系に結びつくようになっていった(13世紀半ば~)。そして、家門の物となった兜飾りを自分で改変することが、その家系の中にいる自分自身を差別化することに繋がった
 C.しかし紋章の歴史がより古い地域(フランス,イングランド,スコットランド)では、ゲルマン諸国と比べて兜飾りの使用は「少なく、始まりは遅かった」ので、個人のために用いる状況は続いた(~14世紀初頭)

【楯形紋章との使い方の違い】
 D.楯形紋章は狭い親族関係を示すために使われた(このため、ある家系の中での個人とその兄弟・父親・叔父たち・従兄弟たちとの関係を測り、個人をその家系の中に位置付けるよう作用する)のに対して、兜飾りはより広がった、氏族的な親族関係を示すために使われた
 ⇒2~4世紀も昔に生きた祖先からの、全ての子孫に共通となった。これは「氏族の標章」であった
〈例〉ロベール敬虔王(1032年没)から出た全てのカペー家の子孫は、兜飾りには「角張った百合の花」を用いている(楯の図柄・色彩がどんなものであれ)
 E.貴族の家系の中で「氏族の標章」の兜飾りに最も執着するのは、長子の分枝からは一番遠い、一番身分の低い分枝に属する者たち(次子以下の分枝の次子・私生児)だった。彼らは個人の兜飾りを使おうとせず(そんなことをしても惨めなだけ!)、栄えある氏族の標章で地位の低さを埋め合わせようとした

【白鳥の兜飾り】
 F.これはヨーロッパ・キリスト教世界(14・15世紀)において、いろんな所で領地を持っていた大小数百人の領主が身につけていた。彼らは全員が何らかの形でブーローニュ伯家に関わりがあり、装着者は伝説上の白鳥の騎士(1000年頃に没したとされ、第1回十字軍の英雄ゴドフロワ・ド・ブイヨンの祖父と想定される)の子孫を演じたのだった
 G.騎馬試合・祝祭・儀式・あらゆる儀礼などにおいて(いずれの場でも標章が示されうる)、装着者全員は「伝説上・神話的な祖先を示す」ことになる。そして見る者に対して、祖先のアイデンティティと武勲を想起させた
 H.装着者は確かにブーローニュ家に関わりがあるが、同時に様々な家門にも属している(例:クレーヴ,オーヴェルニュ,ブーン,ドーチェスター)。にもかかわらず全員が「1人の祖先の(orゴドフロワ・ド・ブイヨンの親族の)子孫なのだ」と主張したのだ。たとえば騎馬試合や騎士道に基づいた儀礼の場だけでも、共通のエンブレムの下にアイデンティティを求め、結集を図ったのだった

【大家系において】
 I.西欧では、カロリング家で起こったような大家系の分裂が起こった(11~13世紀:これが様々な法的・経済的現象となって現れた)が、その血の繋がりは人々のメンタリティやイメージの世界ではより長く生き延びた(~15世紀:上流貴族の間ではさらに後まで)
〈例〉ルクセンブルク家ではあらゆる分枝が、特に非嫡出の分枝(サン=ポル,リニー)も含めて「盥の中の翼のある竜」を兜飾りとしていた(中世末)。これは「妖精メリュジーヌのイメージそのもの」。一方でポワトゥー地方の領主リュジニャン家は、名が妖精メリュジーヌに深い縁がある
 ⇒両家の間の絆は、最初の楯形紋章の出現よりずっと以前に遡って存在するという。「両家が共通の兜飾りを保持していた(14・15世紀)」ことが、共通の祖先(1000年前後に生きていた)の記憶を伝えていたのだった
『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[9]


○楯形紋章の誕生


(1)その起源

 A.楯形紋章が生まれたのには「A.西欧社会の変化(1000年~)」と「B.軍隊の装備の進歩(11世紀末~12世紀半ば)」に関係があり、それ以外の要素(十字軍,オリエント,蛮族侵入,ルーン文字,古代ギリシア=ローマ)は全く関係がない

【装備の問題】
 B.西欧の戦士たちは「鎖帷子の頭巾(アゴまでせり上がる)」と「兜の鼻当て(顔面に覆い被さる)」によって、ほとんど顔が見分けられない。そこで「楯の広い平面に、幾何学的図形・動物や花の絵を描いて、混戦のさなかに敵味方を識別できる記号とする」習慣が生まれた(1080~1120年代から次第に)

【紋章の規則(誕生過程の1仮説)】
 C.楯形紋章は無から生まれたのではなく、それまでに用いられていた「標章に関係する様々な要素&慣例」が1つの方式に融合して生まれた。この「要素」は多様だが、主として「幟(バニエール:あらゆる旗・布地を含むと定義する),印章,貨幣,楯」に由来する
 D.幟から紋章にもたらされたのが「a.色彩とその組み合わせ」「b.いくつかの幾何学的模様:抽象図形,楯面分割,ちりばめ模様」「c.原所的な楯形紋章を(家系ではなく)封土と結びつける関係」だった
 E.印章と貨幣からは「d.標章となる図柄:動物,植物,オブジェ」がやって来た。しかしそれは早い段階から幾つかの名家が用いていた(11世紀~)。「e.図柄を代々用いる習慣」は、この印章と貨幣から始まった。また「f.図柄の名称と使用者の名前を引っ掛けた言葉遊び」(例:バール伯と魚の鱸〔バール:すずき〕,ブローニュ伯の玉〔ブール〕)もここから伝わった
 F.楯からは「g.通常は三角形をしている、紋章の楯の形」「h.毛皮の使用(シベリアリス,白テン)」「i.楯の構造から自然に受け継がれた、型の決まった幾何学模様:斜帯,十字,上部横帯,横帯,縁取り」を借用した
 G.これらのa.~i.の要素が、西欧のある地域でいっぺんに混じり合ったのではもちろんない。地域ごとに進み方もいろいろだったはずだが、それが最終的に1つの体系化されたルールにまとまったということ(その時期を決定しようとしても、どうしても40年ほどの幅が生まれるらしい)

【紋章が描かれた楯について】
 H.紋章の原型である記号が大楯に描かれた(下記の【胚胎期】にあたる)。この大楯とは「a.アーモンド形,垂直軸に沿って曲がっている,先端が尖っていて地面に突き立て可能」「b.高さ1.5m,幅60~80cm,戦士の足から顎までを守る,戦闘が終わると担架として使われた」もの
 I.大楯の構造は「c.“ais”と呼ばれる板の組み合わせで出来ていて、様々な形の金属の骨組みで補強されていた。最も多かったのが、一種の大きな星形(中心から放射状に出る8本の分枝)で縁を連結したもの」「d.内側はクッションを施し、外側は布・革・皮で覆っていた」「e.楯のいちばん凸部は、金属の隆起を伸ばしていた。この環“bocle”は、装飾楯だと繊細な彫刻が施されていた。時には彩色ガラスを嵌め込んでいた」のだった
 J.戦闘状態でなければ騎士は「f.負い革を付けて背負う」「g.適当な長さに調整した革紐“guige”で首にかける」ことができた。戦闘中は「h.馬の手綱を持つ手を、十字(あるいは×印形)の革紐“enarme”に通して、前腕に固定した」のだった
 ★戦闘にはこのアーモンド形楯だけでなく、カロリング時代の騎兵が持っていた円形楯もあった(12世紀)。ただしこちらは(どちらかといえば)武装兵(?)と歩兵が使うものだった


(2)いつできたのか?

 A.バイユーの刺繍が歴史的な起点となっている。これは「おそらくイングランド南部で、バイユー司教オドン(ウィリアム1世の異父兄弟)の注文で作られた(1080年頃)」。しかしそこでは楯を飾っている図柄は、まだ本格的な楯形紋章の役割を果たしていない(両軍が同じ紋章を使っている,同じ人物が別の場面で違う楯を用いている)
 B.年代決定の下限は、アンジュー伯ノルマンディー公のジョフロワ・プランタジュネの楯を飾る図柄(葬送銘板のエマイユに描かれたもの:1160年頃)である。これは本格的な楯形紋章っなっており、これが作製されるまでのどこかの段階で楯形紋章が誕生していたことと考えられる

【楯形紋章の胚胎期】
 C.かなり長い時期(11世紀初頭から1120~30年代まで)にわたり、この間に最初期の楯形紋章が「濃密に発酵していた」。バイユーの刺繍が作られた頃の西欧社会では、標章が持つべき意味についてかなり認識が出来上がっていた(11世紀末)
 ☆バイユー刺繍の標章の記号体系:多くの人々・集団のアイデンティティ,社会的身分,序列,顕職,活動分野,民族(例:ノルマン人をサクソン人から区別する剃ったうなじ)

【登場期】
 D.いつ登場したか、を特定すりのは極めて困難であり、約40年の幅が見積もられている(1120~30年頃から1160~70年頃)。この時期に小君主・領主が楯形紋章をつけ始めた。早い時期で完成に至ったのが上記Bである

【普及期】
 E.西欧の貴族全体・非貴族層の一部に楯形紋章が行き渡った(1170年頃~1230年代)が、この間の事情もかなり混沌としている。そこでは「できたばかりの楯形紋章とすでに確定した楯形紋章が同時に存在した」「個人の楯形紋章/集団の楯形紋章,家門の楯形紋章/封建システムによる楯形紋章,軍隊の楯形紋章/民間の楯形紋章」が同時に存在していた
 F.それだけではなく「1人の人物が複数の異なる楯形紋章を持つ場合」「同じ家門の内部なのに『父と息子』『兄弟2人』が違う楯形紋章を用いる」といったことがあり得たのだった


(3)アイデンティティの表現

【アイデンティティを求めて】
 A.原初の紋章体系とは、3つの標章=「個人,家系,封建システム下での関係」を1つのシステム(それは社会的に認知され、もちろん技術的でもある)に結合したことで誕生した。紋章体系の表すものはこの3標章(=アイデンティティ)である
 B.このシステムが社会で練り上げられている間、完全に教会の影響を免れていた(楯形紋章を描写するにあたって、ラテン語ではなく世俗の言語が使われていた)。そして軍事的な必要性があったのは間違いないのだが、紋章体系はそれよりも重要な、使用者(領主)たちのアイデンティティの確立に役立っていた

【社会変動の影響】
 C.カロリング帝国の崩壊とその後の混乱の中から生まれた新たな社会秩序=「領主制」社会(かつては封建制と呼ばれた)は、社会に存在する諸々の階級・諸々のカテゴリーが「細胞化していた」のが特徴である
 D.この社会では各個人は(貴族/平民,聖職者/俗人,都市住民/農村住民を問わず)、何らかの集団に所属している。さらにその集団はより大きな集団に属している、という構造だった。領主制社会はモザイク状に広がった細胞が、何層にも重なって構成されていた
 ⇒新しい社会秩序とマッチした「各個人が自己をアイデンティファイし、社会に対して主張できる」ようなシステムが求められた。そこで用いられた新しい「ラベル」が楯形紋章だった。「ラベルの生成システム」が紋章学である
 E.個々人に与えられたラベル(記号)は、個人のアイデンティティだけでなく「集団内での位置・序列・品位・社会的身分を示す」ようになる。それは個人のレベルだけでなく、集団や法人の間でも同じことがいえる

【システムの例】
 1.「姓」は西欧の大部分で、最初の楯形紋章と同じ時期に誕生した。そして(貴族階級では)ほとんど同じリズムで普及する
 ⇒楯形紋章と姓によって、個人はしっかりとまとまった「家門」に所属する。その家門もさらに大きな「家系集団」に所属することを、この2つは示すようになった(12世紀末~)
 2.「衣服」は様々に変形していき(11/12世紀の変わり目)、時には聖職者たちの顰蹙を買ったものの「特に俗人男性の服:丈の短いものから長いものへ,新しい形・色の採用,婦人服に限られていたアクセサリー・飾りの導入」という変化が起こる
 ⇒新しい男子服は分類され、一目見ただけで「相手がどんな人物なのか」が分かるようになった
 3.「色彩」は豊富になり、1つのシステムとなる。色彩が「騎士」を作るのと同じく、修道院の衣裳の「紋章化」は色彩によって達成された(“黒衣の修道士”クリュニー派と“白衣の修道士”シトー派)
 4.「図像における徴」が、画像において数を増していった。昔から存在していたのが急に数を増し(1100年代~13世紀半ば)、画像の中に存在する社会を示すようになった
 ⇒「下級官吏,司法官,従僕&召使い,職人・専門家,平司祭,小修道院長,土着の聖人,二流どころの聖書の登場人物,文学作品の主人公」など、誰もが自分なりの徴を持つようになる


(4)社会への普及

 A.楯形紋章は「1.最初は君公(君主・公・伯)や大領主のみが用いていた」→「2.西欧の貴族階級全体に受け入れられた」→「3.中小貴族の全てが備えるようになる(13世紀初頭)」という流れで普及した
 B.その横では社会全体へと広がっていった。「4.女性」「5.都市貴族と市民(1220年頃)」「6.職人(1230~40年代以降)」、さらには「7.都市(12世紀末~)」「8.同職組合(1250年頃)」「9.様々な機関と裁判所(13世紀末,14世紀初頭)」が、相次いで楯形紋章を採用した
 C.地域によっては、農民も何らかの形で利用していた(ノルマンディー,フランドル,南イングランド)
 D.教会も最初は警戒心が強かった(自分たちの影響の範囲外で作られた記号システムだから!)のだが「司教(1220~30年頃)」→「教会参事会員,在俗聖職者(1260年頃)」→「司祭,修道院共同体」と続いた。教会・宗教建築では「床,壁,ステンドグラス,天井,典礼服」にまで楯形紋章が見られるようになる

【印章の影響】
 E.領主・騎士は、楯形紋章を楯に描かせるのみならず、所有する様々な財産(例:旗,馬衣,陣中着,ついには動産・不動産を問わず)に描かせた。ただし社会において主となるのは「印章:法的人格の象徴」であった
 F.印章を所有する全ての人々は、次第に貴族のマネをして「楯形紋章によって印章の面を埋める」習慣を持つようになっていく。つまり印章の影響で、楯形紋章の使用があらゆる階級の人々・法人にまで拡大したのだった
 ☆西欧には中世の楯形紋章としておよそ1,000,000が知られているが、そのうち3/4は印章の形で伝わっていて、さらに半分近くが「非貴族層の楯形紋章」だった

【印章の効力】
 G.印章は「名前&人格と特別な関係を結ぶ」ことによって、様々な機能を果たす(例:何かを終える,有効にする,認証する,所有権を確認する)のだが、さらには「個人のアイデンティティを示す(直接・間接に)」のにも役立っていた
〈例〉直接:「印章の所有者がベルトに付けた印章の母型を見せて、自分のことを認識させる」,間接:「印影が流通・移動することで、本人から離れた場所でもその人物のアイデンティティを認識させうる」
 H.印章の利用が非常に拡大した(12世紀を通じて)のは、単なる所期文化の普及というだけでなく、中世社会において「アイデンティティの記号(姓や楯形紋章)に広く関心が寄せられた(1100~50年代以降)」事実とも関連している
 I.印章は個人のアイデンティティの証明というだけでなく、しばしば「その人が型・銘を選んだことによって、個人そのものの象徴ある」と見なされた。「これが私だ」という宣言の機能があったのだ
 ☆法人の場合には、印章の図像こそが(他では得られない)アイデンティティを与えてくれる。こうして法人内部にも真の求心力を与えるのであった

【死んでも個人と同一】
 J.死後の悪用を徹底して避けるために「個人の母型を(傷を付けて無効にしたものも、そうでないものも)遺体と一緒に棺の中に入れる」のは稀ではなかった(~13世紀末)
 K.母型が見つからない・死後にも必要であるという場合には、わざわざ第2の母型を葬儀用に彫った。非常に高い身分の場合には、この特別な母型を(ブロンズではなく)銀・象牙で作った
〈わざわざ作った例〉
 フィリップ2世尊厳王の最初の妃であるイザベル・デノー(1190年没)の印象の母型(銀製)は、パリのノートル・ダム聖堂にある彼女の墓から見つかった。葬儀用に作ったから、印章は一度も取られていない

【楯形紋章の使用領域の拡大】
 L.初期の楯形紋章は、西欧の様々な地域で同時に発生した(ロワール川・ライン川間,南イングランド,スコットランド,スイス,北イタリアなど)。引き続きこれらを出発点として各地に広まっていく。この流行は西欧全体に広まり(14世紀)、さらには東方のローマカトリック地域(ポーランド,ハンガリー)にまで広がり始めた
 M.並行して、楯形紋章を付けるモノの対象も拡大し、様々な物品(オブジェ)・布地・衣服・美術作品・記念物などが覆われた。モノの楯形紋章には「アイデンティティの記号,管理・所有の印,装飾用モチーフ」という役割があった
 N.中世の人々の心性・物的生活に非常に広く行き渡ったので、早い段階から架空の存在(宮廷風騎士道物語・武勲詩の主人公,神話の登場人物,美徳や悪徳の擬人化)にまで楯形紋章を持たせた。さらには古代・中世初期の人物にまで図像の中で与えられたのだった(12世紀後半~)
 ★個人・家系・集団・団体は誰でも、いつでもどこでも好きなように楯形紋章を採用できた。ただし「他人の楯形紋章を流用しない」という条件付きである(←楯形紋章権:13世紀~)


(5)図案と色彩

 A.この2つの要素は、任意の形の境界線(ただし三角形が最も多い:楯の形を引き継いでいたから)で範囲を区切られた楯形の紋様地の中に配置する。しかしそこには規則がある(数は少ないが厳格だった)

【諸規則:色の表現】
 B.主要なものは「a.色彩に関する規則:白,黄,赤,青,黒,緑の6色」である。そこでは色のニュアンスは大事ではない
〈例1〉赤は、明るくても・暗くても・ピンクがかっていても・オレンジ色がかっていても区別はない
〈例2〉フランス国王の楯形紋章(紺碧の地に金の百合形文様をちりばめた)の紺碧は、空色でも・中間のような青でも・ウルトラマリン(群青色)でも構わない
〈例3〉この百合形文様は、明るい黄色でも・オレンジ色がかった黄色でも・金色がかった黄色でも構わない

【色の組み合わせ】
 C.楯形紋地の内側の色の組み合わせ規則では、6色は「白,黄色」「赤,黒,青,緑」の2つにグループ分けされ「b.同じグループの2色を並べる・重ねるのが禁止」とされている

【図柄】
 D.全ての動物・植物・物体も紋章の図柄になりうるはずだが、実際には中世末までは数が制限されていた。「楯形紋章が出現して最初の数十年間:約20種」→「1200年代に入って増加」→「13世紀末:通常に使われるのは50以下」だった
 E.図柄リストは「動物(そのうち獅子の割合が抜群に高い)」「固定した幾何学図形:楯形紋地を一定数の帯・枠で分割したもの)」「小さな模様:多少は幾何学的だけど、楯形紋地の中でどこにでも置ける(例:ブザン金貨,小環,菱形,星,短冊)」がそれぞれ1/3ずつを占める
 ☆人体の部分・物体(武器,道具)・植物(例外:百合と薔薇の花)はあまり使われない

【構成とその変化】
 F.初期の構成は「c.ある色彩を持つ図柄が、別の色の地に置かれている」という単純なものだった。遠くから見えるのが前提だから「d.図柄のデッサンは単純に」「e.同定に役立つ部分(幾何学図形の輪郭線,動物の頭・脚・尻尾,樹木の葉・実)を誇張・強調して」描かれた
 ⇒こうした図柄は「楯形紋地の地をいっぱいに埋める」「鮮やかな単色が2つ、組み合わせのルールに則って用いられる」のだった。これが戦場や騎馬試合の場で生まれた(12世紀前半)
 G.生まれたルールはずっと適用されてきた(12世紀前半~中世末)のだが、途中から紋章の構成は「重くなって複雑化していく(14世紀半ば~)」
〈変化の中身〉
 1.「最初の図柄に二次的な図柄」が、家門を表す楯形紋章に加わる。これによって姻戚関係・親族関係・複数の枝族への分岐を表した
 2.「楯形の分割・再区分」によって区画がますます増える。同じ境界線の中で幾つもの異なる楯形紋章を組み合わせるようになる(これも親族関係・血筋・姻戚関係を表す,複数の封土・称号・権利の保有を強調する手段)
 ☆あまりにもこれをやり過ぎて区画が増えすぎ、ついには読み取れなくなったものすら存在する。こうなると登場当初の目的は失われている

【奥行きの読み取り】
 H.幾つもの面が楯形紋地の中で重なり合っている。それらの意味を読み解こうとするならば「必ず奥の面から始めなければならない」のだった(例:「青地に白十字」の場合には、青地→白十字の順番)
 I.このルールは中世の図像の大部分に適用される。とりわけロマネスク時代の図像(楯形紋章の誕生と同時代)の読み解き方はこれと同じ。これは楯形紋章を実際に作るに当たって「まず奥の面→その次の面→一番上の面(眼に最も近い)」という順番になるからである。楯形紋地に新たな要素を加えるには「図柄と同じ面に置く」or「もう1つの面を重ねる」必要がある
 ☆このルールがあるから、同じ家系の異なる枝族・同じ枝族に属している2人の人物、の区別が可能となる