『ヨーロッパ中世象徴史』(M.パストゥロー)から[13]
○アーサー王
(1)物語へ
A.初期のアーサー王物語(12世紀後半:ラテン語ではなく土着の言語で書かれた)は、起源にあったのは「グレート・ブリテン(5世紀)で起こった様々な出来事の記憶が、大きく変形されて伝わったもの」である。その中心人物が「アルトゥルス公」という、ローマ=ブリテン系の頭である
B.彼は大ブリテン島北部でスコットランド高地から下ってきたピクト人の侵入と戦い、海から入ってきたゲルマン人・スカンジディナヴィア人とも闘った
⇒多少伝説的なアルトゥルス公が、数世紀を経てアーサー王となる。初期イングランドに擬せられるログル王国の君主となり、宮廷に集う世界最高の騎士たちが後に“円卓の騎士”と呼ばれるようになる
C.彼らの物語には「ケルト神話から借りたテーマ・人物・モチーフ」が早い時期から接ぎ木されていき、さらに「民間伝承・他の神話から借りた伝承、に由来する様々な要素」で豊かになっていく。やがて、文学創造にぴったりの素材をもたらすように至った
【中世盛期には】
D.アングロ・サクソンの年代記によく登場する(1000年頃~)。特にウェールズの吟唱詩人たちは、グレート・ブリテン、さらにはヨーロッパ大陸の君主・諸侯の宮廷で歌った物語の中によく登場させた
E.ついには「歴史的な人物:トップ級の重要性を持つ家系の祖先として」扱われるようになり、イングランド王位を狙う様々な家門にとって、政治的に重要性となる(11世紀)
F.やがて碩学ジェフリー・オヴ・モンマスによって、伝説がイングランド諸王の歴史に組み込まれた(1138年:当然ラテン語で)。その中でアーサー王の治世に割かれた部分は相当な規模であり、盛り込まれたモチーフ・エピソードが数十年後に、壮大な騎士道物語群の枠となる
【定番のコンセプトの誕生】
G.そしてバイユーの教会参事会員ヴァースは、ジェフリーの原文をベースに、イングランドの歴史として『ブリュ物語』を書いて(1155年頃:これは俗語)アリエノール・ダキテーヌ(ヘンリーの再婚相手)へ献呈した
H.このヴァースによって『円卓』が初めて言及された(部下の騎士たちの席をめぐる序列争いを防ぐためにアーサーが作らせた)。また彼は「アヴァロンの島で眠りに入った王が、いつの日か真の救世の英雄として甦り、人々を救済へと導く」というプロットを初めて導入した
⇒アーサーの人物像は文学的な英雄となっていき、俗語で書かれた物語(レシ)の創造を促していく。創造された物語は「アーサー王,王妃グニエーヴル,甥ゴーヴァン,彼らを取り巻く主だった騎士たち」などを軸に構成されていた
(2)文学としての拡散
A.これ以後の物語の発展はフランス人による。筆頭はシャンパーニュ伯アンリ1世の宮廷に仕える聖職者だったクレティアン・ド・トロワである(1165~90年の間頃に活躍)。伯アンリの妃マリーはアリエノールとその最初の夫ルイ7世との間の娘であった
B.彼はアーサー王の世界を舞台とする韻文の物語(ロマン)5篇を遺し、うち4篇が中世フランス文学の傑作に数えられる:『エレックとエニード』『荷車の騎士(ランスロ)』『獅子の騎士(イヴァン)』『聖杯物語(ペルスヴァル)』
C.これらの作品によって、主要登場人物の性格・物語の大きなデータとモチーフが決定していった。さらにクレティアンによって、物語における「一定数の冒険,局面」がセットされ、以後そのほとんどが必須のものとなった
【物語の拡大】
D.未完の『聖杯物語』を続けようとした作者たち(12世紀末~1230年に少なくとも4人)は、韻文で「若く素朴なペルスヴァルと勇敢で雅なゴーヴァンの不思議な冒険の錯綜」を書いた
E.中高ドイツ語・ノルド語・オランダ語の翻訳も行われた。また最初の散文物語が出現し、その作者たちは「登場人物をつなぎ直す,主人公たちの空白の時代を埋める,異なる世代の間の繋がりを書き足す」努力をした。これによって、散文による膨大な作品群が蓄積された
F.そうした蓄積の上に、新たに「魔術師メルランの伝説」と「トリスタンとイズーの伝説」がさらに接ぎ木された。ここからさらに3つの大規模な物語群:『ランスロ=聖杯』『散文トリスタン』『ギロン・ル・クルトワ物語』が誕生した(1215~40年)。これらはフランス語のアーサー王文学の中で、最も大量に筆写され最もよく読まれた作品群となった
【読者は封建制下の貴族】
G.円卓物語の文学はほとんどが貴族階級の読者のみを対象としていた(12・13世紀)。物語が押し付ける世界観・社会観は「若者を称揚し、騎士道を賛美し、絶えず増大し続ける君主の権力を遺憾に思い(アーサー王は封建制の王であり続けた)、中小貴族の衰退を惜しみ、農民・諸共同体・商人を軽んじ」るものだった
☆しかし封建的・反動的な価値観にもかかわらず、アーサー王伝説は早くから貴族階級以外にも受け入れられていった
(3)名前の影響
A.フランスでは上記F.の後から、アーサー王伝説に基づく人名が用いられるようになる(ドイツ語でも同じ)。こうしてフランス北部・西部・イングランド・フランドル・ライン川流域地方・バイエルン・チロル地方などで「ゴーヴァン,トリスタン,ランスロ,ペルスヴァル,ボオール」といった名前を持つ人々が現れ始めた(13世紀半ば~)
B.ただしこれは単なる渾名の場合も多い(馬上試合,十字軍,何らかの騎士道儀礼において採用された)のだが、この場合には「ランスロことペトルス」「ペルスヴァルことジャン」といったように表現されている。そして本物の洗礼名として、登場人物の名前が使われることも増えていったようだ
【命名システムとの関わり】
C.西欧ではそれまで、名前の世襲方式=「ある集団に属していることを示し、その集団にストックされた名前から、祖先・代父の資格が強い厳格な規則によって割り振られる仕方」が行われていた。これが「両親が名前を選ぶ」というシステムへと変わっていく
☆新しい自由なシステムは、流行・嗜好・情緒的なもの・宗教的要素・心理的配慮に影響されるようになる
【洗礼名の変化が現れる】
D.アーサー王伝説に登場する主要な人名は様々な地域で受け入れられた(13世紀半ば~)。しかもそれは大小の諸侯ばかりでなく、上記作品の朗読を耳にするチャンスの無かったような人々までもが、こうした名前を名乗っている
E.ノルマンディー地方・ピカルディー地方・ボーヴェジ地方の農民たちの中に、彼らに関連する史料(証書,印章,地代帳など法的なもの)においてそういった名が登場していた(13世紀後半~)
<例>ランスロ・アヴァール
ノルマンディー地方に住む彼はこの名を刻んだ印章を持っていた。彼は「自作農民」である可能性が高く、社会的・経済的地位の低い「日雇いの小作人」ではなかったようだ。もしかしたら村の有力者かも知れない(1279年)
(∵この印章のついた証書は、ルーアン近郊一帯の農地に広い土地を有するジュミエージュ修道院が、教区の数人の農民と取り交わしたものだった)
☆法的価値を持つ印章に「ランスロ」という名前が使われていたというのは、非常に意味が重くなる
(4)アーサー王伝説の儀礼取り入れ
【カルチャーの共有と伝染】
A.アーサー王伝説ゆかりの名前は比較的速やかに広まったようだ。これは更に「農民たちの文化は彼らを取り巻き小規模な領主たちとさほど違いはなかった(13世紀)」ことを示している
★当時は(少なくともフランス王国では)貴族/農民の間の文化の違いは、聖職者/俗人や都市/田舎の間ほどには存在していなかった。領主貴族と農民は日常的に接触があったからだ
B.アーサー王伝説は、円卓物語からアイデアを得た「アーサー王伝説チックな騎馬試合・見せ物など」が増加していった(13世紀を通じて)ことと関連して、田舎では城館でも藁葺き屋根の家でも伝わっていったようだ
【より大規模に】
C.アーサー王伝説文化の伝染は「これを元ネタとした騎馬試合(1223年が最初)」だけでなく「王・君侯・諸侯・騎士などがアーサー王とその仲間を『演じ』て冒険や武勲を再構成しようとした」ことにも現れている(1230年代~:ドイツ,スイス,オーストリア,イングランド,スコットランド,北フランス)。彼らは名前だけでなく楯形紋章も取り入れた
☆しかも最初は一時的だった(例:軍事遠征,騎士の祝祭)だったのが、後には継続的な形で行われるようになる
<例>エドワード1世
中世イングランド最大の君主の1人だが、治世(1272~1307年)のかなりの期間において、アーサー王伝説へ本格的にハマっていた。数々の騎馬試合・馬上槍試合・祝祭・円卓を、特に対スコットランドの戦争中に企画し、韻文or散文の物語に描かれた催しを真似たのだ
D.上記のような儀礼には部下の騎士の大多数が参加していたこともあり、貴族社会(13世紀)において「物語風の振る舞い」はますます重要になっていった。貴族からすると、物語は「貴族のイデオロギーの反映,その規範」であった
【より拡散して】
E.アーサー王の名前を社会の様々な層に拡散させるのに最も貢献したのは(詩人・作家の作品伝承だけではなく)、このような騎馬試合だったようだ。そこは「あらゆる層の観客が見物した(農民が多数派だっただろう)」「演出・遊戯・多彩な背景を伴った催し」であった
F.アーサー王は都市住民の中にも広まっていく。やがて「アーサー王を演じ、その騎士たちの名前を採用する」というのは、正統な都市のカルチャーとなり、市民はアーサー王伝説に没頭した
<例1>都市ハンザの大都市の市民の中に、王・騎士の真似をし始めるめる者が出てきた。「彼らもアーサー王伝説に則った祝祭・騎馬試合を企画し始めた」「“聖杯”協会,“円卓”協会のような団体を組織した」のだ(13世紀末~)
<例2>この流行はライン川流域・オランダ・北フランスの諸都市に伝わった(14世紀初)。ケルン・ブリュッヘ・トゥールネ・リエージュ・リール・ヴァランシエンヌ・アラスなどが次々に「アーサー王伝説の遊戯・見せ物の企画」で評判となる
<例3>この流行はパリに達した(14世紀半ば)。それから南フランス・イタリア・スペインにまでも広がっていく
(5)アーサー王ゆかりの名を付ける
A.印章を基にした洗礼名の調査から。サンプルとなっているのは、1500年までの日付を持つ証書の印章約40,000。地域としてはフランス(15世紀の境界線内)であり、サンプルの4/5はリヨン-ポワティエを結ぶ線よりも北側のものである
【名前と地理的分布】
B.アーサー王伝説が中世社会に愛好されるようになっていった流れ(13世紀半ば~15世紀)の中において、実在の人物がアーサー王伝説ゆかりの名を持っていた事例は「13世紀後半,14世紀半ば~後半にかけて」の時期が最も多いようだ
C.そうした名前が最も多くの割合を占める地域(ピカルディー・ボーヴェジ・ポンチュー・両ヴェクサンの諸地方)では、印章の所有者の1/4が伝説群の中の登場人物と一致していた。反対に特に稀なのがブルターニュ地方だった
☆ケルトの末裔たるこの地方と、ブリテン・ケルトの素地から生まれたアーサー王という関係にもかかわらず。名前だけでなく、図像や紋章においてもアーサー王伝説の影響はブルターニュでは弱い
【名前と社会階層の関係】
D.アーサー王伝説ゆかりの名前は社会のあらゆる階層に見られる。しかしこのような名前を最も意欲的に採用していたのは「小貴族(楯持ちと廷臣),裕福な市民」だった(14・15世紀)。反対に、上層貴族(13世紀~)においてはアーサー(アルテュール)を除けば実例は稀だった
☆アーサーは幾つかの名家では伝統的な洗礼名だったから例外となっている。フランス王国の上層貴族では、洗礼名は多様性を欠いたままでより「世襲方式」だったのだ(アンシャン・レジームの終わりまで)
E.上記の2つの社会階層は、地位の変化の真っ只中にあった:「多少なりとも没落しつつある小貴族」「社会的・政治的に上昇の一途をたどる裕福な都市商人層」
F.小貴族にとって、その洗礼名は「百年戦争で大きく損なわれた、騎士としての威信を少しでも維持するための手段」「経済的・政治的衰退を埋め合わせるために、人名の『外観』を利用した」のだった
G.市民階級(or彼らの中から出現する都市貴族)にとっては「文学の価値体系を利用して、強引に貴族文化・貴族階級に入り込むための手段」だった
☆市民階級が貴族社会に参入するために採った戦略には、他には「政略結婚,資金の貸付,王への奉仕」などがあった
【トリスタンは一番人気だった】
H.主要登場人物の中で、実在の人物に名を引用されている頻度が最も高いのはトリスタンだった。上位6つを見ると「トリスタン:ランスロ:アーサー:ゴーヴァン:ペルスヴァル:イヴァン」=「17:11:10:6.5:4:2.5」という(大ざっぱな)比率となる
J.「トリスタン伝説」は、他の「ランスロ,アーサー王,聖杯,ペルスヴァル」にまつわる伝説よりも、写本が多く残っている。残存している写本(13世紀末~15世紀末のもの)の中でも最もよく筆写されていたのが『散文トリスタン』物語(と様々な手直し)であった(≒最も広く読まれていた)
☆彩色挿絵・壁画・タピスリーで見ても、トリスタンが優位であった
【フランス以外では】
K.フランス周辺の国々(中世末)で見ると「ドイツ・オーストリアの人名ではトリスタンが明らかに優位。ただしここではヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの影響でペルスヴァルがよく描かれている」「イタリアでもトリスタンが優勢だが、ランスロが肉迫している」「イングランドではゴーヴァンが第一位のようだ」
☆イングランドの場合にはゴーヴァンが「ウェールズ起源の名前」だから。物語『ガウェイン卿と緑の騎士』は写本が1つしか無く、影響力が限られている
L.あまり調査されていないイタリアでは、エミリア地方・ロンバルディア地方とそれらの隣接地域(1280~1480年)で材料が特に豊富に残されている
<例1>エステ家
このような有力君主の家門が、アーサー王ゆかりの英雄を崇めていた(15世紀半ば)。代表的な名高い人物が何人もそうした名を名乗っていて、レオネッロ・ボルソ兄弟(相次いでフェラーラ公となった)の名は「ランスロの2人の従兄弟リオネルとボオール」の名に由来する
彼らの兄弟にはメリアドゥーゼ(メリアデュック:トリスタンの父)がいて、たくさんの姉妹にはイゾッタ(イズー)とジネヴラ(グニエーヴル)がいる
<例2>ミラノ公ヴィスコンティ家
上記エステ家の数十年前に、ガレアッツォ(ガラード:ランスロの息子)とガレオット(ガルオ:ランスロの親友)の名を持つ者が何人もいた
【女性の場合には】
M.40,000の印章のうち、女性のものはおよそ550だけだが、そこでは「グニエーヴルは1人もいない」「イズーが合計3人」だった。3人のうち最も古いのが「ブルターニュとノルマンディーの境界に土地を所有する領主アスキュルフ・ド・ソリニェの妻、イズー・ド・ドルの印章」だった(印章が付いた史料は1183年のもの)
(6)名前の利用例
A.貴族の家系では「『円卓』の英雄の名を最初は渾名として、後に洗礼名として使う」という流行が世襲化しているケースがある
B.ドリュー家はカペー家の次子以下の分枝だった。この家はドリュー伯ロベール1世(ルイ6世の三男:1188年没)を祖とするが、数十年間のうちに家門の威光を失い(王家との親族関係が離れる一方だった)、また所有する土地も減っていた
⇒彼らが文学的な名前を使う(13世紀末~)ようになったのは、手の施しようのない政治的・家系的衰退を埋め合わせる1つの手段だったようだ
☆特にドリュー家の次子以下の分枝(ドリュー=ボーサール家,ドリュー=シャトーヌフ家)が、アーサー王がらみの名前・渾名を積極的に採用していた
C.キエレ家(ピカルディー地方の中流貴族階級)では、長子がボオール(ランスロの実の従兄弟で、アーサー王の世界の崩壊後もただ1人生き残る騎士)の異名を継いでいる。さらに次子以下の者は、ゴーヴァン(アーサー王の甥)・トリスタン・リオネル(ボオールの兄弟)の異名を持つ
⇒現実の親族関係と文学上の親族関係を結びつけていた
○アーサー王
(1)物語へ
A.初期のアーサー王物語(12世紀後半:ラテン語ではなく土着の言語で書かれた)は、起源にあったのは「グレート・ブリテン(5世紀)で起こった様々な出来事の記憶が、大きく変形されて伝わったもの」である。その中心人物が「アルトゥルス公」という、ローマ=ブリテン系の頭である
B.彼は大ブリテン島北部でスコットランド高地から下ってきたピクト人の侵入と戦い、海から入ってきたゲルマン人・スカンジディナヴィア人とも闘った
⇒多少伝説的なアルトゥルス公が、数世紀を経てアーサー王となる。初期イングランドに擬せられるログル王国の君主となり、宮廷に集う世界最高の騎士たちが後に“円卓の騎士”と呼ばれるようになる
C.彼らの物語には「ケルト神話から借りたテーマ・人物・モチーフ」が早い時期から接ぎ木されていき、さらに「民間伝承・他の神話から借りた伝承、に由来する様々な要素」で豊かになっていく。やがて、文学創造にぴったりの素材をもたらすように至った
【中世盛期には】
D.アングロ・サクソンの年代記によく登場する(1000年頃~)。特にウェールズの吟唱詩人たちは、グレート・ブリテン、さらにはヨーロッパ大陸の君主・諸侯の宮廷で歌った物語の中によく登場させた
E.ついには「歴史的な人物:トップ級の重要性を持つ家系の祖先として」扱われるようになり、イングランド王位を狙う様々な家門にとって、政治的に重要性となる(11世紀)
F.やがて碩学ジェフリー・オヴ・モンマスによって、伝説がイングランド諸王の歴史に組み込まれた(1138年:当然ラテン語で)。その中でアーサー王の治世に割かれた部分は相当な規模であり、盛り込まれたモチーフ・エピソードが数十年後に、壮大な騎士道物語群の枠となる
【定番のコンセプトの誕生】
G.そしてバイユーの教会参事会員ヴァースは、ジェフリーの原文をベースに、イングランドの歴史として『ブリュ物語』を書いて(1155年頃:これは俗語)アリエノール・ダキテーヌ(ヘンリーの再婚相手)へ献呈した
H.このヴァースによって『円卓』が初めて言及された(部下の騎士たちの席をめぐる序列争いを防ぐためにアーサーが作らせた)。また彼は「アヴァロンの島で眠りに入った王が、いつの日か真の救世の英雄として甦り、人々を救済へと導く」というプロットを初めて導入した
⇒アーサーの人物像は文学的な英雄となっていき、俗語で書かれた物語(レシ)の創造を促していく。創造された物語は「アーサー王,王妃グニエーヴル,甥ゴーヴァン,彼らを取り巻く主だった騎士たち」などを軸に構成されていた
(2)文学としての拡散
A.これ以後の物語の発展はフランス人による。筆頭はシャンパーニュ伯アンリ1世の宮廷に仕える聖職者だったクレティアン・ド・トロワである(1165~90年の間頃に活躍)。伯アンリの妃マリーはアリエノールとその最初の夫ルイ7世との間の娘であった
B.彼はアーサー王の世界を舞台とする韻文の物語(ロマン)5篇を遺し、うち4篇が中世フランス文学の傑作に数えられる:『エレックとエニード』『荷車の騎士(ランスロ)』『獅子の騎士(イヴァン)』『聖杯物語(ペルスヴァル)』
C.これらの作品によって、主要登場人物の性格・物語の大きなデータとモチーフが決定していった。さらにクレティアンによって、物語における「一定数の冒険,局面」がセットされ、以後そのほとんどが必須のものとなった
【物語の拡大】
D.未完の『聖杯物語』を続けようとした作者たち(12世紀末~1230年に少なくとも4人)は、韻文で「若く素朴なペルスヴァルと勇敢で雅なゴーヴァンの不思議な冒険の錯綜」を書いた
E.中高ドイツ語・ノルド語・オランダ語の翻訳も行われた。また最初の散文物語が出現し、その作者たちは「登場人物をつなぎ直す,主人公たちの空白の時代を埋める,異なる世代の間の繋がりを書き足す」努力をした。これによって、散文による膨大な作品群が蓄積された
F.そうした蓄積の上に、新たに「魔術師メルランの伝説」と「トリスタンとイズーの伝説」がさらに接ぎ木された。ここからさらに3つの大規模な物語群:『ランスロ=聖杯』『散文トリスタン』『ギロン・ル・クルトワ物語』が誕生した(1215~40年)。これらはフランス語のアーサー王文学の中で、最も大量に筆写され最もよく読まれた作品群となった
【読者は封建制下の貴族】
G.円卓物語の文学はほとんどが貴族階級の読者のみを対象としていた(12・13世紀)。物語が押し付ける世界観・社会観は「若者を称揚し、騎士道を賛美し、絶えず増大し続ける君主の権力を遺憾に思い(アーサー王は封建制の王であり続けた)、中小貴族の衰退を惜しみ、農民・諸共同体・商人を軽んじ」るものだった
☆しかし封建的・反動的な価値観にもかかわらず、アーサー王伝説は早くから貴族階級以外にも受け入れられていった
(3)名前の影響
A.フランスでは上記F.の後から、アーサー王伝説に基づく人名が用いられるようになる(ドイツ語でも同じ)。こうしてフランス北部・西部・イングランド・フランドル・ライン川流域地方・バイエルン・チロル地方などで「ゴーヴァン,トリスタン,ランスロ,ペルスヴァル,ボオール」といった名前を持つ人々が現れ始めた(13世紀半ば~)
B.ただしこれは単なる渾名の場合も多い(馬上試合,十字軍,何らかの騎士道儀礼において採用された)のだが、この場合には「ランスロことペトルス」「ペルスヴァルことジャン」といったように表現されている。そして本物の洗礼名として、登場人物の名前が使われることも増えていったようだ
【命名システムとの関わり】
C.西欧ではそれまで、名前の世襲方式=「ある集団に属していることを示し、その集団にストックされた名前から、祖先・代父の資格が強い厳格な規則によって割り振られる仕方」が行われていた。これが「両親が名前を選ぶ」というシステムへと変わっていく
☆新しい自由なシステムは、流行・嗜好・情緒的なもの・宗教的要素・心理的配慮に影響されるようになる
【洗礼名の変化が現れる】
D.アーサー王伝説に登場する主要な人名は様々な地域で受け入れられた(13世紀半ば~)。しかもそれは大小の諸侯ばかりでなく、上記作品の朗読を耳にするチャンスの無かったような人々までもが、こうした名前を名乗っている
E.ノルマンディー地方・ピカルディー地方・ボーヴェジ地方の農民たちの中に、彼らに関連する史料(証書,印章,地代帳など法的なもの)においてそういった名が登場していた(13世紀後半~)
<例>ランスロ・アヴァール
ノルマンディー地方に住む彼はこの名を刻んだ印章を持っていた。彼は「自作農民」である可能性が高く、社会的・経済的地位の低い「日雇いの小作人」ではなかったようだ。もしかしたら村の有力者かも知れない(1279年)
(∵この印章のついた証書は、ルーアン近郊一帯の農地に広い土地を有するジュミエージュ修道院が、教区の数人の農民と取り交わしたものだった)
☆法的価値を持つ印章に「ランスロ」という名前が使われていたというのは、非常に意味が重くなる
(4)アーサー王伝説の儀礼取り入れ
【カルチャーの共有と伝染】
A.アーサー王伝説ゆかりの名前は比較的速やかに広まったようだ。これは更に「農民たちの文化は彼らを取り巻き小規模な領主たちとさほど違いはなかった(13世紀)」ことを示している
★当時は(少なくともフランス王国では)貴族/農民の間の文化の違いは、聖職者/俗人や都市/田舎の間ほどには存在していなかった。領主貴族と農民は日常的に接触があったからだ
B.アーサー王伝説は、円卓物語からアイデアを得た「アーサー王伝説チックな騎馬試合・見せ物など」が増加していった(13世紀を通じて)ことと関連して、田舎では城館でも藁葺き屋根の家でも伝わっていったようだ
【より大規模に】
C.アーサー王伝説文化の伝染は「これを元ネタとした騎馬試合(1223年が最初)」だけでなく「王・君侯・諸侯・騎士などがアーサー王とその仲間を『演じ』て冒険や武勲を再構成しようとした」ことにも現れている(1230年代~:ドイツ,スイス,オーストリア,イングランド,スコットランド,北フランス)。彼らは名前だけでなく楯形紋章も取り入れた
☆しかも最初は一時的だった(例:軍事遠征,騎士の祝祭)だったのが、後には継続的な形で行われるようになる
<例>エドワード1世
中世イングランド最大の君主の1人だが、治世(1272~1307年)のかなりの期間において、アーサー王伝説へ本格的にハマっていた。数々の騎馬試合・馬上槍試合・祝祭・円卓を、特に対スコットランドの戦争中に企画し、韻文or散文の物語に描かれた催しを真似たのだ
D.上記のような儀礼には部下の騎士の大多数が参加していたこともあり、貴族社会(13世紀)において「物語風の振る舞い」はますます重要になっていった。貴族からすると、物語は「貴族のイデオロギーの反映,その規範」であった
【より拡散して】
E.アーサー王の名前を社会の様々な層に拡散させるのに最も貢献したのは(詩人・作家の作品伝承だけではなく)、このような騎馬試合だったようだ。そこは「あらゆる層の観客が見物した(農民が多数派だっただろう)」「演出・遊戯・多彩な背景を伴った催し」であった
F.アーサー王は都市住民の中にも広まっていく。やがて「アーサー王を演じ、その騎士たちの名前を採用する」というのは、正統な都市のカルチャーとなり、市民はアーサー王伝説に没頭した
<例1>都市ハンザの大都市の市民の中に、王・騎士の真似をし始めるめる者が出てきた。「彼らもアーサー王伝説に則った祝祭・騎馬試合を企画し始めた」「“聖杯”協会,“円卓”協会のような団体を組織した」のだ(13世紀末~)
<例2>この流行はライン川流域・オランダ・北フランスの諸都市に伝わった(14世紀初)。ケルン・ブリュッヘ・トゥールネ・リエージュ・リール・ヴァランシエンヌ・アラスなどが次々に「アーサー王伝説の遊戯・見せ物の企画」で評判となる
<例3>この流行はパリに達した(14世紀半ば)。それから南フランス・イタリア・スペインにまでも広がっていく
(5)アーサー王ゆかりの名を付ける
A.印章を基にした洗礼名の調査から。サンプルとなっているのは、1500年までの日付を持つ証書の印章約40,000。地域としてはフランス(15世紀の境界線内)であり、サンプルの4/5はリヨン-ポワティエを結ぶ線よりも北側のものである
【名前と地理的分布】
B.アーサー王伝説が中世社会に愛好されるようになっていった流れ(13世紀半ば~15世紀)の中において、実在の人物がアーサー王伝説ゆかりの名を持っていた事例は「13世紀後半,14世紀半ば~後半にかけて」の時期が最も多いようだ
C.そうした名前が最も多くの割合を占める地域(ピカルディー・ボーヴェジ・ポンチュー・両ヴェクサンの諸地方)では、印章の所有者の1/4が伝説群の中の登場人物と一致していた。反対に特に稀なのがブルターニュ地方だった
☆ケルトの末裔たるこの地方と、ブリテン・ケルトの素地から生まれたアーサー王という関係にもかかわらず。名前だけでなく、図像や紋章においてもアーサー王伝説の影響はブルターニュでは弱い
【名前と社会階層の関係】
D.アーサー王伝説ゆかりの名前は社会のあらゆる階層に見られる。しかしこのような名前を最も意欲的に採用していたのは「小貴族(楯持ちと廷臣),裕福な市民」だった(14・15世紀)。反対に、上層貴族(13世紀~)においてはアーサー(アルテュール)を除けば実例は稀だった
☆アーサーは幾つかの名家では伝統的な洗礼名だったから例外となっている。フランス王国の上層貴族では、洗礼名は多様性を欠いたままでより「世襲方式」だったのだ(アンシャン・レジームの終わりまで)
E.上記の2つの社会階層は、地位の変化の真っ只中にあった:「多少なりとも没落しつつある小貴族」「社会的・政治的に上昇の一途をたどる裕福な都市商人層」
F.小貴族にとって、その洗礼名は「百年戦争で大きく損なわれた、騎士としての威信を少しでも維持するための手段」「経済的・政治的衰退を埋め合わせるために、人名の『外観』を利用した」のだった
G.市民階級(or彼らの中から出現する都市貴族)にとっては「文学の価値体系を利用して、強引に貴族文化・貴族階級に入り込むための手段」だった
☆市民階級が貴族社会に参入するために採った戦略には、他には「政略結婚,資金の貸付,王への奉仕」などがあった
【トリスタンは一番人気だった】
H.主要登場人物の中で、実在の人物に名を引用されている頻度が最も高いのはトリスタンだった。上位6つを見ると「トリスタン:ランスロ:アーサー:ゴーヴァン:ペルスヴァル:イヴァン」=「17:11:10:6.5:4:2.5」という(大ざっぱな)比率となる
J.「トリスタン伝説」は、他の「ランスロ,アーサー王,聖杯,ペルスヴァル」にまつわる伝説よりも、写本が多く残っている。残存している写本(13世紀末~15世紀末のもの)の中でも最もよく筆写されていたのが『散文トリスタン』物語(と様々な手直し)であった(≒最も広く読まれていた)
☆彩色挿絵・壁画・タピスリーで見ても、トリスタンが優位であった
【フランス以外では】
K.フランス周辺の国々(中世末)で見ると「ドイツ・オーストリアの人名ではトリスタンが明らかに優位。ただしここではヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの影響でペルスヴァルがよく描かれている」「イタリアでもトリスタンが優勢だが、ランスロが肉迫している」「イングランドではゴーヴァンが第一位のようだ」
☆イングランドの場合にはゴーヴァンが「ウェールズ起源の名前」だから。物語『ガウェイン卿と緑の騎士』は写本が1つしか無く、影響力が限られている
L.あまり調査されていないイタリアでは、エミリア地方・ロンバルディア地方とそれらの隣接地域(1280~1480年)で材料が特に豊富に残されている
<例1>エステ家
このような有力君主の家門が、アーサー王ゆかりの英雄を崇めていた(15世紀半ば)。代表的な名高い人物が何人もそうした名を名乗っていて、レオネッロ・ボルソ兄弟(相次いでフェラーラ公となった)の名は「ランスロの2人の従兄弟リオネルとボオール」の名に由来する
彼らの兄弟にはメリアドゥーゼ(メリアデュック:トリスタンの父)がいて、たくさんの姉妹にはイゾッタ(イズー)とジネヴラ(グニエーヴル)がいる
<例2>ミラノ公ヴィスコンティ家
上記エステ家の数十年前に、ガレアッツォ(ガラード:ランスロの息子)とガレオット(ガルオ:ランスロの親友)の名を持つ者が何人もいた
【女性の場合には】
M.40,000の印章のうち、女性のものはおよそ550だけだが、そこでは「グニエーヴルは1人もいない」「イズーが合計3人」だった。3人のうち最も古いのが「ブルターニュとノルマンディーの境界に土地を所有する領主アスキュルフ・ド・ソリニェの妻、イズー・ド・ドルの印章」だった(印章が付いた史料は1183年のもの)
(6)名前の利用例
A.貴族の家系では「『円卓』の英雄の名を最初は渾名として、後に洗礼名として使う」という流行が世襲化しているケースがある
B.ドリュー家はカペー家の次子以下の分枝だった。この家はドリュー伯ロベール1世(ルイ6世の三男:1188年没)を祖とするが、数十年間のうちに家門の威光を失い(王家との親族関係が離れる一方だった)、また所有する土地も減っていた
⇒彼らが文学的な名前を使う(13世紀末~)ようになったのは、手の施しようのない政治的・家系的衰退を埋め合わせる1つの手段だったようだ
☆特にドリュー家の次子以下の分枝(ドリュー=ボーサール家,ドリュー=シャトーヌフ家)が、アーサー王がらみの名前・渾名を積極的に採用していた
C.キエレ家(ピカルディー地方の中流貴族階級)では、長子がボオール(ランスロの実の従兄弟で、アーサー王の世界の崩壊後もただ1人生き残る騎士)の異名を継いでいる。さらに次子以下の者は、ゴーヴァン(アーサー王の甥)・トリスタン・リオネル(ボオールの兄弟)の異名を持つ
⇒現実の親族関係と文学上の親族関係を結びつけていた