きょうは沖縄慰霊の日 | よしすけのツレヅレなるママ 映画日記

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ドキュメンタリー沖縄戦 

知られざる悲しみの記憶

(2020年日本)

今日は沖縄慰霊の日。

それに伴い

昨夜放送されたTBSの報道特集

佐古さん取材の沖縄特集が良かった。


報道特集は

沖縄慰霊の日のことを取り上げてくれる

数少ない番組だ。


 

これまでも佐古さんが監督した

沖縄をテーマにした

ドキュメンタリー映画を何本か観ているが

どれも学校では教わらない

太平洋戦争の歴史に焦点が当てられている

とても貴重な映画だ。


↓『生きろ 島田叡』レビュー

今日は太田隆文監督の

『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』を観た。


米軍に残されている沖縄上陸作戦の記録と

沖縄戦を生き延びた人々や

沖縄戦の研究者らの証言により

構成されていた。


戦後70年以上が経ち

当時を知る人たちは高齢化。

証言する人たちのほとんどが

子ども時代の戦争体験だ。


小学3年生だった少女は

赤ん坊の弟を背中におんぶし

残りの二人の弟妹の手を引いて避難。

それまで優しかった大人たちは

赤ん坊がガマで泣きぐずり出すと

「敵に見つかるから」と

黙らせるよう強く迫った。

少女は慌てて赤ん坊の口を手で塞いだ。

ぐったりする姿に驚き手を離すと

息も絶え絶えになっていた赤ん坊は

また泣き出した。

大人たちは業を煮やし

「ガマから出ていけ」と

少女たちを追い出した。

水も食料も身を守るものも何もない

ガマの外に。

数日後に赤ん坊は亡くなった。


米軍の潜水艦に爆撃された

疎開船「対馬丸」に乗っていた少女は

夥しい数の死体と重油が浮かぶ海で

味噌樽に掴まりながら

数日間漂い生き延びた。

一緒に船に乗っていた祖母と姉

同じ樽に掴まっていた従妹は亡くなった。



どの人も昨日の事のように話していた。

筆舌に尽くし難い凄惨な体験は

忘れることなどできないだろう。


特に印象に残ったのは

各地で起きた集団強制死。

一般的には集団自決と言われるが

研究者は「自分で決めた死」などではなく

「強制された死」なのだと言った。


「生きて虜囚の辱めを受けず」と

叩き込まれた大人たちは

ガマの中で自ら息子や娘に手をかけた。

予め手渡されていた手榴弾や

青酸カリを使った人もいる。


米兵は見境なく女を犯し殺すと

信じ込んでいた母親は

米兵に殺されるくらいならと

娘の首を鎌で切り裂き

返り血を浴びながら殺した。

自分も死のうと試みたが

どうしても死にきれず

それならばいっそ米兵に殺されようと

ガマの外へ出たが

米兵は母親を殺さなかった。

収容先で母親が目にしたのは

保護した女性たちを手当てする

米兵の姿だった。

一体自分はなんのために娘を殺したのか…

母親の後悔は計り知れない。


このガマのすぐ近くにあった

別のガマに逃げ込んでいた人の話。

そこには戦前から長くハワイに暮らし

沖縄に戻ってきた人がいた。

民主主義を知る彼は

口には出さなかったが

日本の軍国主義に反対だった。

彼はガマの外の米兵と交渉し

軍人はいない伝えると

米兵は誰も殺さないと約束した。

しかし村人たちは彼の話を信じなかった。

彼は「どうせ死ぬなら陽の光を浴びて

死のうじゃないか」と説得し

村人たちをガマの外に出した。

約束通り米兵は誰も殺さず保護した。

このガマにいた村人は全員助かった。

軍国主義に洗脳されなかった

たった一人の力で。



村ごと山中に移動し

集団強制死を試みた家族の話。

軍人の指示のもと

村長の音頭で天皇陛下万歳と叫んだ後

それぞれ手渡された

手榴弾の信管を抜いた。

血飛沫やもげた手足が飛び散る中

一家の手榴弾は二発とも不発。

焦った父親は火の中に手榴弾を投げ込めと

息子に指示したが

母親の

「死ぬのはいまじゃなくてもできる。

走って逃げろ」の一言で

みな我に返り命が助かった。

教育をほとんど受けたことがなかった

母親だからこそ言えた言葉だと思う。



元村議会議員の男性は

過去の歴史から学ぶとするなら

「軍人は民間人を守らない」

「教育の怖さ、大切さ」だと言った。


教育勅語を学校教育に

取り戻そうという動きは

安倍政権の時から始まった。

教育現場の危うさは

ドキュメンタリー映画『教育と愛国』にも

描かれていた。


ガマで自分の子どもや家族を

手にかけてしまったのは

ほとんどが女性たち、母親たちだった。

男性はみな戦争に参加させられたからだ。

その罪を誰にも話せず

一生一人で背負ったまま

命を終えた人も多かっただろう。


しかし

それではだめだと

口を開き語り始めた女性がいた。

背負った赤ん坊の口を塞ごうとした少女だ。

戦後数十年経ってから語り部となった

彼女は言った。

「朝起きたら戦争が始まっていた。

戦争というのはそういうものなのだ」と。



日本は沖縄戦が始まる30年も前から

仮想敵を作り計画を練っていたと

研究者が言っていた。

いままた同じことが

繰り返されようとしているのではないか。


「台湾有事」を煽り

憲法改正や軍備増強を声高に叫ぶ為政者は

決して戦争には行かない。

自分の家族も戦争に行かせない。


「朝起きたら始まっていた戦争」に

行かされるのは

わたしの子どもたちだ。

だからわたしはしつこく言い続ける。

「戦争反対」「憲法改正反対」と。


きょうの戦没者追悼式典。

玉城知事の揺るがない決意と

高校生の「平和の詩」に心震えた。


それに引替え

岸田総理の言葉のなんて軽いこと。

慰霊の言葉はたどたどしいのに

経済のくだりはスラスラと読んで

彼の価値の基準は金なんだなと思った。


もう夕方になってしまったけど

きょうは夜まで祈りの一日としよう。

亡くなられた多くの命の上にある

平和への感謝と共に。