PERFECT DAYS | sukerocさんのブログ

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日々、七転八倒の左官日和。

「インプットが大事だよ」。妻がたまに口にします。その度に意見しそうになるのですがやめてただ頷きます。そういう時はたいてい私が客観的に行き詰まって見えているようで、勧められている物事も実際に良い場合が多いからです。


しかし、どういうわけか腹が立つのです。良いと思って勧めてくれるのは有難いのですが、そのこころは相手がまるで何もインプットしていないということになるからでしょうか。当たり前ですが何もインプットしていない人間は誰一人いません。それもそのこころの前提になっている可能性がありますが、そうするとなおタチが悪くなってしまいかねません。相手のインプットを自分が提案しているものに対して意味がないと断じていることにもなるからです。押し付けがましい上に傲慢この上ないことになってしまいます。上から目線でさもありがたいものとして供することが出来るものなどあり得ないことがどんどん明確になっている中で、なお残る、有り難いかどうかは別にして存在する圧倒的な物事があります。それに向き合おうと、どうにか生き延びようと常日頃足掻いている中で、誰しも出来る限りのことをし続けています。そのためには捨て去るものも必要になってきます。


こんな調子ですから行き詰まりも行き詰まりのどん詰まりの壁に額を打ちつけているに等しい状況に映ったのかもしれません。何だかんだで妻の勧めにハズレはありません。だから今回も行ったのですが、やはり良い作品でした。あまりにも見どころがあり過ぎて困るほどに。PERFECT DAYSという映画です。


主人公の平山の嗜好や行いが個人的に符号する点が少なからずあって思わず笑ってしまいました。妻もほくそ笑んだに違いありません。ある程度は見る前に得ていた情報から覚悟していたことでしたが、使っている車まで同じとは想像出来ませんでした。よく飲む缶コーヒーの味も同じ、Perfect Day、Pale Blue Eyesが収録されたアルバムはいまだに聴くことがありますし、聴くとするならば車の中(さすがにカセットテープではありませんが)が多いのです。

金延幸子というミュージシャンのことはまるで知りませんでした。これを機会にあれこれと聴いているのですが、なぜ知らなかったのかが不思議です。もう私も、というより人はいつ命を落としても不思議ではないことを思うと生あるうちに聴けて良かった。発見でした。

さすがにSpotifyと聞いて路面店を連想するまでの隠遁生活は出来ていませんし、それが姪を笑わせるジョークだったとしたらそこまでのセンスは持ち合わせていません。


ホームレスか、ホームレス風の住人なのか微妙なキャラクターを演じた田中泯はかつてテレビで左官職人と対談したことがありました。挟土秀平というカリスマと呼ばれるような、今となっては稀少な土壁の技術を日常の住空間の壁を塗るのみならずデザインや美術的で装飾的な意匠を表現する美術家のような立ち位置の人で、大河ドラマの題字を作ったりしていたこともあって実現した対談だったようです。興味深い顔合わせだったのですが、挟土秀平が作った壁の前で田中泯に踊ってくれと頼む展開にギョッとしました。シナリオどおりなのなどうなのかわかりませんが、田中泯が虚を突かれたように見えました。この映画での舞はその時の微妙な空気感とは対照的でした。


そして、大きな決断をして辞職して、日常の糧を得るために就いている仕事の内容。私はトイレの清掃員ではありませんが、転職して肉体労働に就き、会社員のように見えて日給月給のようにも見えるグレーな雇用形態でもありそうな状況に自然とシンパシーが湧きます。早朝から目覚めて現場に車で向かい、一日を終える。その流れはとても似ていますが、陽が高いうちに帰宅して銭湯へ一番風呂に浸かりに行ける時間に終えることなどはありません。むしろ、同僚のタカシが突然辞めて、空いたシフトの穴を一人で埋めなければならず残業となり帰宅も遅くなってしまったエピソードの時刻の方が日常に近いものがあります。


公園のトイレというのは職人や作業員にとってとても大切で死活問題と言っても良いくらいです。現場に清潔なトイレなど無いことは日常茶飯事で、昼食をとるスペースも無いことが珍しくありません。車で移動する場合は良いですが都内のコインパーキングに停めなければならない場合、何のために日々働いているのかわからなくなります。しかも都内などでは公園で昼食をとったり、公共のトイレを使うことが許されないところもあります。コンビニもトイレ使用させてくれないところが増えています。もちろん、現場作業員や職人の中には公共のマナーのかけらもない者も多いので、そうした輩には使う資格などありません。が、しかしという話にもなります。そもそも公衆トイレの普及やたくさんのコンビニを存在させていることが凄いことですが、信用不全や不信感によってせっかくのインフラを使えなくしている愚かしさがやるせません。その意味では現実に放っておけば荒廃してしまって危険でさえあったエリアをあのように変身させた事自体がすごいことです。この映画自体もその一連のトイレのプロジェクトに包摂されているようで、そのこともあって普通の映画とちょっと違った在り方をしているのかもしれません。コンセプトが先行してしまってビジネスライクなものになりかねないギリギリのラインを綱渡りする危うさも感じます。

そうやって喉に引っかかる、気になって仕方がない小骨のような存在がこの映画にはたくさんあります。しかしそれは良い作品の条件とでも言うべきものなのでしょう。「この映画をドイツ人が撮ったと思いますか?」とインタビューの際にヴェンダース監督は問います。自らに日本人の魂があるとでも言うように。もちろんユーモアです。いずれにせよ、良くも悪くもこの映画は、日本人には撮れませんし、ドイツ人かどうかまではわかりませんが外国人であるに違いないとは思ってしまいそうです。


この映画のキャッチコピーは「こんなふうに生きていけたなら」というものです。監督や役者さん達のインタビューにもそんな心情が吐露されていました。どれもオフィシャルな場での言葉なので本心は不明ですが、わからなくもないですし、それはそれとして一つの円環が美しく閉じられて収まりの良い見方な感じがします。しかし、そこには当然言葉にし得ない葛藤や心情があります。この映画の脚本のように。よく出来たシナリオ、会話劇、ノンバーバルな演技やアドリブもそこから始まる面白さとして出会えた時の感動もありますが、それとはまた別の、とっくに言葉であることを忘れてしまったくらいに醗酵してトロトロに溶けてしまった味わいに満ちた饗宴があり、本編の節々に漲っていて、五感の中でも瞬間的に届いてくる領域があまりに多くて息をつく暇がありませんでした。対話や説明の必要性、言語化の重要性を考える時、どうしてもそのことを忘れてしまっているようです。暗黙知やそうしたことの重要性を意識しているにもかかわらず、身の回りにはそうした現象が溢れかえっているにもかかわらず、その足元を掬われるようにして。そのことを役所広司は最後の最後までみせつづけました。終始穏やかなその表情に反したかのような言葉にし得ない怒りや煩悶が蠢く表情にはただただ畏怖するばかりでした。そこまでヴェンダース監督が感じていたとするならば、とうてい外国人が撮ったとは思えない作品ということになります。あるいはそのままで良いのか?というような観る人に向けたヴェンダースの問いかけとも捉えられ、そうなるとやはり逆に日本人には撮れない異邦人の作品ということにもなり、堂々巡りが終わらなくなります。つまり、どこの国の人が撮ったとかそういう問題ではない、諦めかけていた普遍性がそこにはあるということになるのかもしれません。


「こんなふうに生きていけたなら」というときの「こんなふう」も必ずしもトイレの清掃業をしたいということではなく、仕事に対する姿勢やあの振る舞い、そこから起こる他者との関係性、取り巻く環境、空気感、覚悟、のように浮かび上がってくる共通項を指しているのかもしれません。


喉につかえる小骨を咀嚼して嚥下できたのか、何だか気持ちが落ち着きを取り戻している感じがします。日々のせわしいルーティン、ルーティンそのものを疑わしく思うと日々がぎこちなく混沌としていきます。ルーティンとなったものは整理しておかないと生成する物事を受け入れる余地が生まれず、荒廃してしまうのかもしれません。新しい何かが起こる保証はないけれどももしも起きたら受け入れられるようにするために出来る限り圧縮して整理して準備しておく。それがルーティンの重要な所なのかもしれません。


スカイツリーからの光景には朝日が広がり、役所広司扮する平山が見せた最後の表情に真正面から当たります。ルーティンは様々なレベルで繰り返されています。平山1人のルーティンはシンプルで無駄がなく見えて、タカシやアヤ、ニコといった闖入者はノイズのようで、それによって生成されていく様はトラブルのようにルーティンを乱すだけのようですが、それらも含めてひとまとまりのルーティンにも見えます。友山との出会いのノイズも平山の気持ちに漣を立て、一人一人のルーティンはからみあい、ほぐれあうように変容していきそうです。Perfectという完全無欠な言葉のイメージは、時が止まったくらいの結晶化されたかのような何も足す必要も引く必要も無い、変化させる必要も無い静的な世界を想像してしまいますが、実際のところその真逆なのかもしれません。スカイツリーが建造されている最中に、あの大地震は起こりました。大地震でさえもマクロの視点からみれば大きなルーティンかもしれません。未曾有の出来事を乗り越えて完成して聳え立っています。平山はその時どう過ごしていたのでしょうか。歴史的に見れば断続的につづく戦争もルーティンに見えてきます。平山は戦後生まれのはずですが、銭湯にいるお年寄り達、平山を毎朝目覚めさせる箒の音を立てる人は戦禍を潜り抜けた世代のような気がします。かれらが積み重ねてきたルーティンの中でさす同じ朝日の中で世界をどのように見つめているのでしょうか。どうしても淋しいと感じる時があるにしても物事がそのままでいることなく移り変わっていく日々こそがPERFECT DAYSなのかもしれません。


ルーティンにも良いものから悪いものまで千差万別で、視点によっても様々ですが、妻からしてみれば私が負のルーティンにはまっているように見えたのかもしれません。「インプットが大事だよ」という言葉への引っかかりに変わりはありませんが、やはり妻には感謝の言葉しかありません。


You just keep me hanging on


Perfect Dayの歌詞の一節が響きます。

訳にはゆらぎがあるようですが


“あなたのおかげでかろうじて生きながらえている”


というようなニュアンスがしっくりきます。

そして、やはりアウトプットも重要だということに行き着くのです。


私が常日頃から平山のように穏やかに空を見上げていたならば、妻はこの映画を勧めてこなかったでしょうか。平山は勤労と木漏れ日、読書などの日常の中でインプットとアウトプットが絶妙に均衡した“足るを知る”かのような状態にいるのでしょうか。少なくとも最後の平山の表情はそうではないと雄弁に物語っている気がします。