翠邑日誌

 Suiyu’s Diary

榎本翠邑

元書法展会員、元太玄会会員、元瑞雲会評議員同人、

元全国書道師範連盟会員、

元東京書道教育会会員、英国ではブルネル大学ギャラリー、アルバートホール等

での展示、英国BBCテレビ「天皇」等があり、また「俳画」・「水墨」・

「書」・「花」等の書の担当での出版物があります。 

東京生まれ。
 

 

7月    百人一首

 90 殷富門院大輔

 

 百人一首 90 殷富門院大輔 

 

 

殷富門院大輔

いんぷもんいんのたいふ

90番

見せばやな 雄島(をじま)の

蜑(あま)の 袖だにも

濡れにぞ濡れし 色は変はらず

 

みせばやなをじまのあまのそでだにも

ぬれにぞぬれしいろはかはらず

 

©榎本翠邑 書

 

私の袖をあなたに見せたいわ。

悲しくて涙も枯れて血の涙になったのよ。

松島の雄島の漁師の袖だって、

こんなにはならないわ。

 

泣きすぎて血の涙で濡れた袖を

見せたいものです。

 

松島にある雄島の漁師の袖でさえ、

波をかぶって濡れに濡れても

色は変わらないというのに私は

涙を流しすぎて血の涙が出て、涙を

拭く袖の色が変わってしまいました。

 

本歌取り

 

この歌は百人一首にも登場する源重之 

(みなもとのしげゆき)48番が詠んだ


松島や 雄島の磯にあさりせし

 あまの袖こそ かくは濡れしか


という歌を本歌(ほんか)にした

「本歌取り」の歌です。

©japansuibokucentre


本歌取りというのは、昔の有名な歌の

一部を引用したりさまざまにアレンジして

新しい歌を作る、和歌の技法のひとつです。

松島の雄島の磯で漁をしている

海女の袖くらいでしょうか、

涙をぬぐう私の袖より

濡れているものといったら。

 

 

 「雄島」は、宮城県にある島々の

一つです。

 

42番の「末の松山」と共に、

東北地方の歌枕として、昔から

歌の題材にされてきました。

 

重之の歌は

「つらい恋で涙を流し、松島の雄島の

海女(漁師)の袖くらいでしょう、

私の袖のように濡れているのは」

と詠っています。


返歌で大輔は、重之に答えて

「私の袖こそ見せたいものです。

涙も枯れて血の涙が流れ、 

色が変わってしまったのですから。

松島の雄島の漁師の袖でも

こうはならないでしょう」

と詠ったのです。

 

©榎本翠邑 書と画

 

血の涙

 

袖の色が変わったのは、泣きすぎて

涙が枯れ、ついには血の涙が

流れたためで、これは中国の

故事から来ています。

 

〔韓非子、和氏〕和(くわ)、

乃ち其の璞(はく)を抱きて、

楚山の下に哭(こく)すること、

三日三夜、泣(なみだ)盡きて、

之れに繼ぐに血を以てす。

 

「血涙」(けつるい)とは、

中国の古典から来た言葉で、

中国戦国時代の法家である韓非の著書、

「韓非子」(かんぴし)によりますと 

「ある農夫が畑で宝石の玉(ぎょく)

の巨大な原石を見つけました。

 

王に2度献上しましたが、磨いても

石のままだったので、王に両足を

切られてしまいました。

 

そこで農夫は激しい怒りや悲しみ

のために激しく泣いて血の涙を

流しました。

 

©japansuibokucentre

 

結局3度目に玉が磨き出され、

農夫はやっと称えられたという

物語から来ています。

 

「血涙」は激しい怒りや

悲しみのために流す涙。

血のなみだのことです。

血の涙。悲痛を極める。

 

この歌は「袖の色が変わる」と語って、

涙が枯れて血の涙が出るほど激しく

泣いたことを暗示しています。

 

これを大げさに表現した歌です。

 

殷富門院大輔

 

殷富門院大輔

(いんぷもんいんのたいふ)

(1131ー1200)

 

従五位下、

勧修寺流藤原信成(のぶなり)

の娘で、勧修寺流

(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)

は、藤原北家高藤流の公家

(公家貴族)でした。

 

母は従四位式部大輔菅原在良

(すがわら の ありよし)

の娘で、一説に道尊僧正どうそん 

の母とも言われています。

 

若い頃から後白河院の第1皇女、

殷富門院(亮子内親王)

(りょうし(あきこ)ないしんのうに

姉とともに仕えました。

 

©榎本翠邑 書

 

当時は、小侍従(こじじゅう)と

並ぶ女房の歌人として有名で、

千首の歌を詠んだといわれ、

「千首大輔」と言われています。

 

1192年に殷富門院に従って出家し、

尼となり69か70歳で亡くなりました。

 

 

歌人としての殷富門院大輔

 

 

藤原定家は日記「明月記」の中で、

9月末、当時27歳の時の出来事を、

書いています。

 

夕方定家は大輔のもとを訪れ、

文学や芸術の話をしていた中、深夜に、

いとこの藤原公衡(きんひら)も

大輔に会いに馬でやって来ました。

 

大輔は他の女房たちも招き夜明けまで

和歌や連歌を楽しんだとあります。

 

このようにまだ20代だった藤原定家、

藤原公衡(きんひら)など若い歌人たち

からを敬愛されていたようです。

 

定家が撰者の「新勅撰集」には

女性で最多の15首が入っています。

 

なお、歌の技法などは藤原定家の父、

83番藤原俊成に学んでいます。

 

藤原定家が撰者の「新勅撰集」には

女性で最多の15首が入っています。 

 

©榎本翠邑 書

 

勅撰集

千載和歌集5続後撰和歌集6

新後撰和歌集1続後拾遺和歌集1

新拾遺和歌集4新古今和歌集10

続古今和歌集2玉葉和歌集4風雅和歌集4

新勅撰和歌集15続拾遺和歌集1

続千載和歌集2新千載和歌集2

新続古今和歌集2

 

歌合

 

1160年 太皇太后宮大進清輔歌合

1170年 住吉社歌合

1172年 広田社歌合

1178年 別雷社歌合

1182年 寿永百首

後京極摂政家百首歌

1195年 民部卿家歌合

 

私家集

 

「殷富門院大輔集」

(鎌倉時代前期写本 伝藤原為家筆 

冷泉家時雨亭文庫 重要文化財) 

(宮内庁書陵部本の親本) 305首

「殷富門院大輔集」

(寿永百首家集・続群書類従本) 110首

©japansuibokucentre

 

京都白川の俊恵法師の別邸で開かれた

「歌林苑」(かりんえん)の歌会の

メンバーで、源頼政、8寂蓮法師、

西行法師らと親交があり、

多くの贈答歌が残っています。

 

  殷富門院大輔 人丸はか尋て仏事を

こなふとて 人々に尺教歌よませ侍けるに

 権中納言長方かきつめしことはの露の

かすことに 法の海にはけふやいるらん

 

鴨長明の「無名抄」の中で

近く女歌よみの上手にては、

大輔、小侍従(こじじゅう)

とてとりどりにいはれ侍りき

近ごろの女流歌人のなかで上手なのは

殷富門院大輔と小侍従であると

さまざまにいわれていると書かれ、

当時名ある女流歌人であると

認められていました。

 

その歌風は「歌仙落書」によると

「古風を願ひてまたさびたるさまなり」

(古いスタイルの和歌を手本として

古風な趣があり、また一方では、

本歌取(ほんかどり)のことが

挙げられています。  

 

そのライバルと目されていた

小侍従と夜通し連歌に興じることも

あったとあります。

 

「無名抄」(むみょうしょう)には

大輔と小侍従の歌才を比較した

85番、俊恵法師の言葉があります。

 

©榎本翠邑 書

 

 

「近く女歌よみの上手にては、

大輔、小侍従とてとりどりにいはれ侍りき。

大輔は今少し物など知りて

、根強くよむ方(かた)は勝り、

小侍従ははなやかに、目驚く所よみ

据うることの優れたりしなり」

 

個性は違いますが、2人とも優れた歌人

だと称賛されています。

 

大輔は歌の道に深く学んでいたことや、

その教養をふまえて、根強く工夫して

詠むことが知られていたようです。

 

殷富門院大輔の物見遊山

 

1191年頃、殷富門院大輔集は

南都への巡礼に出かけ、

東大寺で再建間もない大仏を拝した後、

興福寺南円堂、一言主社等を

参拝しました。

 

荒廃した元興寺

 

  元興寺ことのほかに荒れて  

煙のたぐひにはなくて うてなの

露しげきに似たり
飛ぶ鳥や飛鳥の仏あはれびの

 そのはぐくみに漏らし給ふな
  これに智光が曼陀羅おはします
夢のうちに手の際みせし極楽を

 とくみのりにぞ思ひあはする

 


©japansuibokucentre 

 

大輔は比叡山では登離ましたが、

当時は山そのものが「女人結界」

とされ、仏教の聖地である高野山や

比叡山も「女人禁制」でした。

 

大輔はそれを「くやしいと」と

書き残していました。

 

ちなみに霊山や寺社における女人禁制は

明治5年に解除されました。

 

それから仲間と四天王寺や

住吉大社を参詣しています。

 

寂蓮法師らと奈良まで出かけ

和歌の歌聖と呼ばれ、称えられている

柿本 人麻呂(かきのもと の ひとまろ)

の墓を訪ね、て仏事を営み、

在原業平の遺跡を訪ね当代の

有名歌人達に和歌の詩歌をよんで

宮中や社寺などに差し出す

行事を主催していました。 

 

仲間の僧侶たちと難波に療治に出かけ、

みそぎなどのため、海水につかる

潮浴み」(しほゆあみ)をしています。

 

©殷富門院大輔の書

 

殷富門院大輔集から恋の歌4首

 

もらさばや思ふ心をさてのみは

えぞ山しろの井手のしがらみ

新古1089

ひそかに伝えたいわ、

私があの人を思うこの気持を。

こうして堪え忍んでばかりなんて嫌。

山城の井手のしがらみだって、

水を漏らすじゃないの。

 

題しらず

逢ひみてもさらぬ別れのあるものを

つれなしとても何歎くらん

新勅撰749

 

逢って契りを交わしたからって、

避け難い永遠の別れというものが

あるじゃないの。

あの人がつれないとからといって、

私は何を歎いているのかしら。

 

【本歌】業平母「古今集」


老いぬればさらぬ別れもありといへば

いよいよ見まくほしき君かな

よみ人しらず「後撰集」


逢ひ見ても別るる事のなかりせば

かつがつ物は思はざらまし

 

いかにせん今ひとたびの逢ふことを 

夢にだに見てねざめずもがな

新勅撰976

 

©japansuibokucentre 

 

どうしよう。

なんとか、あの人に逢いたいの。

今一度あの人と逢うことを、

せめて夢にだけもいいから、

そのまま眠りから覚めずにいたい。

 

【本歌】和泉式部「後拾遺集」


あらざらんこの世の外の思ひ出に

今一たびの逢ふこともがな

 

はかなしなただ君ひとり世の中に

あるものとのみ思ふはや我

 

殷富門院大輔集

 

情けないことだわ。

わたし、この世界にあなた一人しか存在

しないとでも思っているのかしら。

 


おしまい

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

音譜音譜音譜音譜音譜音譜ドンッドンッ音譜音譜音譜音譜音譜音譜

 

 

 

 

ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

お便りはこちらまで 上田トミ 

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翠邑書 Haiga Illustrated HAIKU Poems by Yukki Yaura

 

SHO: Japanese Calligraphy   ISBN    0-9538692-3-7

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ありがとうございました。

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6月

百人一首 89

式子内親王

 

百人一首 89 式子内親王 

 

玉の緒よ絶えねば絶えね

ながらへば忍ぶることの

弱りもぞする

 

たまのをよたえなばたえね

ながらへ(え)ば

しのぶることの

よは(わ)りもぞする

 

©榎本翠邑 書

 


私、このまま生きながらえていると、

今まで堪え忍んだ恋を世間に

知られちゃう!私の魂さん、

絶えるのならば今絶えてしまって!

恋を忍ぶ意志が弱くなっちゃうから。

 

 

百人一首を代表する抑えた恋の

激情を感じさせる歌です。

この歌はもともと「忍ぶ恋」

という題を与えられていたと、

新古今集の詠題にあります。

 

明治イラスト
©japansumiecentre

式子内親王

 

式子内親王

 

(しょくし/しきし(のりこ)

ないしんのう)

 

(1149ー1201)

は、後白河院の第三皇女で、

母は藤原成子(藤原季成の女)、

高倉宮以仁王

(たかくらぐうもちひとおう)

は同母兄弟。

高倉天皇は異母弟にあたります。

 

結婚できない皇女

 

萱斎院(かやのさいいん)、

大炊御門斎院

(おおいのみかどさいいん)

とも呼ばれました。

   

式子内親王は1159年

皇族の子女に親王および内親王の

地位を与える内親王宣下を受けて

斎院に吉凶をうらない定め、

10歳から約10年間、1169年に

病により退下するまで

賀茂神社に奉仕しました。

 

斎院とは、賀茂神社に奉仕する

未婚の皇女で、基本的には

天皇が代わるごとに内親王か女王

の中から選ばれていました。


退任後はほとんどの斎院が

生涯独身を通していました。

 

式子内親王もこの例に漏れず、

独身のまま生涯を終えました。

 

 

木曽義仲、後白河法皇を

クーデターで幽閉

木曽義仲

 

 ©bushoojapan.com

 

1183年11月、式子内親王

は35歳でした。

木曽義仲が7月に入京し

都は大混乱しました。

 

義仲はクーデターを決行し、

後白河院の御所である後白河の

法住寺殿を包囲すると、放火して

百余人を殺害して、後白河を

捕縛し五条東洞院の屋敷に

幽閉してしまいました。

 

義仲は自ら従四位下、征夷大将軍に

成り上がることになりました。

 

式子内親王は別の御所に逃れ、

結局、八条殿に移ったようです。

 

退下後は母の実家高倉三条第、

その後父の後白河院の法住寺殿内

におり、正月までには叔母である

八条院暲子内親王の元に

移り住みました。 

 

八条院と以仁王王女呪詛事件

 

叔母である八条院暲子内親王

のもとに身を寄せました。

 

©榎本翠邑 書

 

同年7月から8月にかけて、

元暦大地震とその余震で都の

混乱が続く中も、八条院におり、

准三宮という太皇太后、皇太后、

皇后の三后(三宮)に准じた処遇を

与えられていましたので、

八条院での生活は1190年

正月までは続きました。

 

八条院とその猶子(ゆうし)

の姫宮(以仁王王女

(もちひとおう・おうじょ)、

式子内親王の姪)を呪詛した

との疑いをかけられ、

八条院からの退去を余儀なく

させられてしまいます。

 

そして、白河押小路殿に移り、

親族を呪詛したと疑いをかけられ

たりで苦悩、父、後白河院の

同意を得られないままの

出家となりました。

 

浄土宗法然を戒師として

出家、法号は承如法。

定家『明月記』より

 

蔵人大夫・

橘兼仲夫婦の託宣事件

 

1192年、後白河院崩御により

大炊御門殿ほかを遺領として

譲られたのですが、大炊御門殿は 

九条兼実に事実上横領され、

建久七年の政変による兼実失脚

までは居住することが

できませんでした。

 

©榎本翠邑 書

 

式子内親王の母方の縁者に

藤原公時(きんとき)の部下の

橘兼仲がおりました。

 

彼は家司(けし、けいし)家政を

つかさどった職についていました。

 

この橘兼仲の妻に後白河院の霊が憑き、

「我を祀れ、社を作り、国を寄進せよ」

といった妖言を吐いたのですが、

これが謀計とされて、

夫妻は流罪となりました。

ひどい迷惑な陰謀です。

 

1197年には蔵人(くろうど)大夫、

橘兼仲夫婦の託宣事件に連座し

洛外追放罪を犯した本人だけでなく、

その家族などに刑罰を及ぼすことが 

検討されましたが実際に処分

は行われずに済みました。

 

この迷惑な話の裏にはある

人物がおりました。

 

©japansumiecentre

 

故父後白河院の寵妃で、

院の没後も権力を有していた

丹後院(高階たかしな栄子)の

陰謀が窺え、どうも内親王は

巻き込まれたらしいのです。

 

『愚管抄』と『皇帝紀抄』より

 

1199年5月頃から身体の不調

が見られ、年末にかけて

やや重くなりました。

 

1200年後鳥羽院の求めに応じて

百首歌を詠み、藤原定家に

見せています。

 

その後ほどなく病状が悪化、

1201年1月25日死去、

享年53歳でした。

 

 

歌人としての式子内親王

 

新三十六歌仙、

女房三十六歌仙の一人。

 

歌人として、歌合や定数歌など

による歌壇活動の記録が極めて

少なく、現存する作品も400首

に満たないのですが、その内

157首が勅撰集に入集

(新古今集は49首)その

3分の1以上が「千載和歌集」

以降の勅撰集に入集しています。

 


©榎本翠邑 書


私家集に「式子内親王集」

(他撰) 歌合には出てない。

百首歌が中心。

式子内親王は藤原定家の父

藤原俊成に師事しました。


俊成の歌論書「古来風躰抄」は

式子内親王に差し上げたものでした。

 

式子内親王は後鳥羽院には

叔母にあたります。

 

後鳥羽院は歌人としての

式子内親王を高く買っていました。

 

近き世の殊勝なる歌人として

九条良経、慈円と共に

式子内親王を挙げ、

後鳥羽院御口伝の中で

「斎院は殊にもみもみと

あるやうに詠まれき」

と賞賛しています。

 

「新古今和歌集」に大量入集

するなどと、この時代の代表的

女流歌人と見なされていました。

 

勅撰集勅撰集

 

(ちょくせんしゅう)は、

天皇や上皇)の命によって 

編纂された書物、もしくは天皇が

記した書物のうち特に公式の

ものとして認められている

ものを指しています。

 

©榎本翠邑 書

 

千載和歌集8・新古今和歌集49

新勅撰和歌集14・続拾遺和歌集5

続千載和歌集2・新千載和歌集3

新続古今和歌集4・続後撰和歌集15

新後撰和歌集4・続後拾遺和歌集5

新拾遺和歌集3があります。

 

私撰集等

 

1200年、三百六十番歌合

「前斎院 式子内親王」名

で39首があります。

 

私家集

 

式子内親王の家集の諸本は、

三種の百首歌を後人が

まとめたものです。

 

「千載和歌集」以降百首奥書以前

1187年から1194年頃と推定

されていて、師である俊成の影響からか

和歌や漢詩文から摂取されたものが

見られ、100首が現存しています。

 

「建久五年五月二日」の奥書、

101首が現存。

 

1200年の「正治百首」に出詠

されたもので、99首が現存。

 

式子内親王と男性の関係

恋人とされた人

 

式子内親王が恋したと思われる 

男性は数人おりますが、その

うちの二人を挙げてみましょう。

 

藤原定家との関係

 

©bunka.nii.ac.jp

 

藤原定家

 

1181年、「明月記」には定家が

父俊成と共に和歌の指導や選

のため宮中へ上り当時の

式子内親王の病状や、

元気な時は筝を弾いて見せた事

等を、明月記に記しています。

 

こうして定家の書いた

明月記には、式子内親王の

ことを書き留めています。

 

しかし、感情的だった事

からか、式子内親王の死の

当日や、葬儀のことは

全く書いてありません。

 

やっと、式子内親王の一周忌

の仏事のことが出てきます。

 

式子内親王と藤原定家の間は、

確かに親しかったのでしょう。

 

しかし年齢差が10歳以上も 

あったこと、定家は式子内親王

より、おそらく13歳くらい

年下だったと思われます。

 

狩野探幽「藤原定家像図

©yamadashotem.com

 

そして身分差がを考えると、

定家の父俊成と式子内親王の

師弟関係があり、例えば

1192年後白河院が崩御した

日に、後白河院御所である

六条院で式子内親王と姉の

亮子内親王に人を介して挨拶、

4月28日には式子内親王に

水晶の数珠を献上しています。

 

水晶の数珠は当時大変高価

なものでまた、自分の牛車を

式子内親王の女房達に

貸出をしています。

 

身分の関係の方が強かった

ことから恋心が芽生えたのか

どうかは微妙です。

 

定家は正妻以外に、下女にも

手を付けて20人以上の子を

作ったとありますから、

身分の異なった

式子内親王との恋は

どうだったのでしょうか。 

ちなみに、定家の外見は

醜男に属していたと

いう文も残っています。

 

©japansumiecentre

 

能 「定家」

 

室町時代の能役者の金春禅竹

(こんばるぜんちく)は

式子内親王と藤原定家の

能を創作しました。

 

能の演目は「定家」で、

定家は式子内親王を心から

愛しておりました。

 

定家は死後も内親王の

ことが忘れられず、

定家(て い か葛かずら)

となって生まれ変わり、

内親王の墓に絡みついた

と言われています。

 

熱烈な恋慕の恋の物語

は今日まで事実のように

残されています。

 

 

法然上人

 

平安から鎌倉へ

移行する時代でした。

 

浄土宗を開いた 法然上人は

比叡山延暦寺で修行

する僧でした。

 

式子内親王は10歳から 

賀茂神社に勤め21歳、

病気で賀茂神社を病気の

為立ち退いてから、政変

に巻き込まれ、40歳代のころ

出家をする決心をしました。

 法名は、承如法。

 

法然上人 ©兵庫県念仏寺蔵、

月輪(つきのわ)の御影 

 

法然上人は 式子内親王より

10歳以上は年上でした。

 

白河押小路殿での出家の

儀式で髪を下ろす儀式を

執り行ったのは、

法然上人一人でした。

 

当時の和歌から式子内親王

の法然への思いが感じられる

詩を2つ挙げました。

 

 恋ひ恋ひて

よし見よ世にも

あるべしと

いひにしあらず

君も聞くらん

 

これほどまでに 切ない

あなたへの恋のまこと

 

しっかりと、その果てを

ご覧になってよ

 

とても、この世では

遂げられぬとも考えられない、 

この恋

それを、そのまま抱き

あの世へ行くのかしら

 

それは あなたも

 ご存知のはず

 

法然上人©東京景勝院蔵 

 

恋ひ恋ひて

そなたに靡く煙あらば

いひし契の果てとながめよ
 

近いうちにそちらのほうに

なびいて行く煙が見えたなら、
あなたとの愛の約束に

燃え尽きた私の命の行く末

と思って、眺め、憐れんで

やってくださいな。

 

法然上人は、生涯独身を貫き

彼が死去したのは

1212年1月25日、なんと

式子内親王の亡くなったのは

11年前の同じ日、

1月25日でした。

 



おしまい

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

音譜音譜音譜音譜音譜音譜ドンッドンッ音譜音譜音譜音譜音譜音譜

ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

 

 

お便りはこちらまで 上田トミ 

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榎本翠邑

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5月

百人一首 

88 皇嘉門院別当

 

百人一首 88 皇嘉門院別当

 

 

©榎本翠邑書

 

皇嘉門院別当

(こうかもんいん・べっとう)

 

難波江の 蘆のかりねの 

ひとよゆゑ みをつくしてや 

恋ひわたるべき

 

なにはえの あしのかりねの 

 ひとよゆゑ みをつくしてや 

こひわたるべき

 

 

©榎本翠邑 書

 

 

難波の入り江に生えている芦を

刈った短い根っこみたいに、

たった一夜の仮寝(かりね)

だけなのに、交わした男の

ことが忘れられないの。

座礁防止の標識の澪標

(みおつくし)みたいに、

なんで私が身を尽くしてあなたを

恋し続けなきやならないの?

 

(遊女の心で読んだ、

又は若かりし昔を詠んだ歌)

 

歌会と詩

 

源頼朝の後援で摂政となった

藤原兼実こと九条兼実

(くじょうかねざね)が

右大臣のときに開いた歌会で、

「旅宿に逢う恋」という題詠でした。

 

千載集 恋三807
詞書:「摂政、右大臣の時の家の

歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる」

兼実家歌合での歌が1175年の

歌合とすると皇嘉門院聖子は53才頃。
若かりし昔を詠んだ歌

だったのでしょうか。

平安時代、女性の許へ男が

出かけていくという、

「通い婚」が慣習だった時代でした。

 

この歌は皇嘉門院が遊女の 

立場に自分を置いて作った歌

と言われています。

 

難波江というのは現在の

大阪府大阪市の南部一帯の湾岸で、

難波潟のあたりには遊女が

多くいたようです。

 

©japansumiecentre

 

この歌は、「芦の刈り根」と

「仮寝(かりね)」、「一節(ひとよ)」

と「一夜(ひとよ)」、

「澪標(みおつくし)」

と「身をつくし」などを

掛詞としてあしらい、技巧を凝らし

尽くした歌として表現しています。

 

難波の入り江に生えている、

芦の刈った根の一節(ひとよ)

ほどの短いたった一夜(ひとよ)

ではないが、私は澪標(みおつくし)

のように、身を尽くして恋し続け

なければならないのでしょうか。

 

 

皇嘉門院別当

こうかもん・いんのべっとう

 

  生没年不明)とは太皇太后亮 

源俊隆の娘で、崇徳天皇の皇后 

皇嘉門院、関白藤原忠通の娘

に仕えて、別当という役職についていた

ことからそのように呼ばれています。

 

 

定家が皇嘉門院別当を 

百人一首に選んだのは

「皇嘉門院」崇徳院后という名

を百人一首に入れたかった

と言われています。

順番は76番忠通-

77番崇徳院-

88は番皇嘉門院です。

 

崇徳院の悲劇と皇嘉門院は

自然に繋がっていたからだと

言われています。

 

©榎本翠邑 書

 

皇嘉門院別当

(こうか・もんいん・べっとう)

 

平安時代末期の女流歌人です。

生没年は不詳ですが、

推定1125年頃。

 

太皇太后宮亮

(たいこうたいごうぐうのすけ)

源俊隆(みなもと のとしたか)

の娘で、で大蔵卿源師隆

(みなもと の もろたか)

の孫にあたります。

 

77番、崇徳天皇の

中宮皇嘉門院藤原聖子

(こうか・もんいん・

ふじわら の せいし/きよこ子)

摂政藤原忠通

(ふじわら の ただみち)

の娘に仕えた女房でした。

 

父が「皇太后宮亮」になり、

その縁で「皇太后の女房」として

出仕したと想像できます。

 

皇嘉門院 

 

皇嘉門院というのは

崇徳天皇(七十七)の皇后
藤原聖子(せいし)の

院号(いんごう)です。


院号は皇后や皇太后、内親王

などに贈られる名前で、
贈られた人は女院と呼ばれます。

 

©榎本翠邑 書

 

中宮皇嘉門院藤原聖子聖子

が1142年「皇太后」になった

ときが18歳で、1150年、

「皇嘉門院」になったときが

聖子26歳でした。

 

中宮皇嘉門院藤原聖子は、

1156年の後、聖子の夫、

崇徳は保元元年、1156年

保元の乱で讃岐へ流され

ましたが、聖子は父、藤原忠通、

九条兼実の支援を得て、

出家の身で都で過ごしました。

 

夫の崇徳院が讃岐に流された

ため聖子は出家し、1181年に

亡くなっています。

 

別当、皇嘉門院はその頃1181年

には出家して57歳で尼になって

いたことが、九条兼実(かねざね)

の日記「玉葉」(ぎょくよう)に

記されています。

 

©japansumiecentre

 

別当は、家政を司る役目のことです。

「皇嘉門院別当」は1182年

皇嘉門院が亡くなるまで、

皇嘉門院に仕えました。

 

没年は不明です。

左京四条二坊六町に邸宅があった

という記録が残っています。

 

九条兼実(くじょう‐かねざね)

は異母弟に当たり,その縁からか,

1175年、右大臣兼実家歌合を

はじめ兼実関係の歌合に

参加しています。

 

(千載集)以下の勅撰集に

9首入集しています。

(百人一首)には

難波江の芦のかりねのひとよ

ゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき

がとられています。

 

 


(おしまい)

 

 

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

 

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ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

お便りはこちらまで 上田トミ 

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4月 百人一首 87 寂蓮法師

©榎本翠邑書

©Japansumiecentre

 寂蓮法師 (じゃくれんほうし)87番

 

村雨の露も未だ干ぬまきの葉

に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

 

 むらさめの つゆもまだひぬ

 まきのはに きりたちのぼる

 あきのゆふぐれ 

 

©榎本翠邑書

 

 

にわか雨があっという通り過ぎて、

露もまだ乾ききらないのに、

槇の葉にはもう霧がもやってる。

なんて美しい秋の夕暮れよ。

 

詩の背景

 

この和歌は、後鳥羽院が

催された歌合で、1201年に

行われた「老若五十首歌合」

の時に詠まれた歌です。

 

秋の風情をしみじみと感じさせる

歌になっています。

 

当時の「真木の葉」は

杉やヒノキ、高野槇や

犬槇の葉のことです。

 

「三夕の歌」

槇立つ山の 秋の夕暮れ」

の一首が、藤原定家、西行法師

の和歌とともに、「三夕の歌」

に選ばれています。

 

 

©Japansumiecentre

 

独鈷鎌首論争(とっこかまくび)

 

1193年、藤原良経による

主催で「六百番歌合」

が催されました。

 

この歌合は六条藤家と御子左家の

全面対決の様相となり、

家の威信をかけて歌を

競い合う合戦となりました。

 

特に勝敗を争ったのが

六条藤家の顕昭(けんしょう)と

御子左家の寂連の争いでした。

 

「寂蓮、顕昭は毎日に参りて

いさかひありけり。
顕昭はひじりにて独鈷を

持寂蓮は鎌首をも立て

ていさかひけり。
殿中の女房、例の独鈷鎌首

と名付けられけり。」

 

顕昭(けんしょう歌僧は

(1130ー1209)独鈷どっこ

 と呼ばれる密教で用いる鉄製

または銅製で出来た両端がとがった

短い棒状のもの法具金を持ちあげ、

寂蓮は鎌首を立てて、毎日口論を

交わしたと激烈な戦いの

様子が記されています。

©Japansumiecentre

 

顕昭が独鈷を手に持ち、

寂蓮が鎌首のように首をもたげて

激しく議論した様子を見た女房

たちが「例の独鈷鎌首」と囃し立てた

ことからその名がついたことは有名で、

「独鈷鎌首(とっこかまくび)」

という言葉が論争好きの歌人を

意味する四字熟語として

今に伝わっています。

 

 

これは、万葉集を重んじた旧態派

であった六条藤家の顕昭に対して、

御子左家の歌人で革新を目指す寂連に

とっては、我慢がならなかったのでしょう。

 

「村雨の露もまだ乾いていない

真木の葉のあたりに、

霧が立ちのぼる秋の夕暮れよ」

 

和歌を創作する際、で晩秋の風景

というと、「紅葉」が選ばれるの

ですが、寂連は常緑樹を選びました。

 

杉や檜などの色が変わらない 

葉に霧が立ちのぼる、夕暮れの

美しさを歌に詠んだのでした。

 

晩年は嵯峨に住んだと伝えら

れています。

 

©榎本翠邑書

 

 

新古今和歌集の撰者

 

新古今和歌集の撰者の

一人でしたが、完成を待たず

没してしまいました。


なお、それ以外の撰者は

源通具源 通具 

(みなもと の みちとも)

(堀川通具)、六条有家

(藤原有家)藤原 有家

(ふじわら の ありいえ)、

藤原定家、藤原家隆藤原 家隆

(ふじわら の いえたか)、

飛鳥井雅経飛鳥井 雅経

(あすかい まさつね)で、寂蓮の弟に

当たる定家も含まれていました。

 

©榎本翠邑書

 

寂蓮法師

 

寂蓮法師(じゃくれんほうし)

1139- 1202

平安・鎌倉時代の歌人です。

 

俗名は藤原定長

(ふじわらのさだなが)、

藤原氏北家長家流。

 

醍醐寺の僧、

阿闍梨俊海の子でした。

 

母は未詳。

藤原俊成の兄弟であるおじ

俊成の甥で藤原俊成の養子でしたが、

俊成に実子である 成家、定家が 

生れると、それをを機に

出家して寂蓮と称しました。

 

©榎本翠邑の画と書

 

定家は従弟。

尊卑分脈によれば、在俗時に

もうけた男子が四人い他と

言われています。

 

妻は藤原永範の女、子供たちは

男子が、藤原保季(1200年?)

藤原実宗養子、幸尊、公猷、昌観、

女子は藤原家隆室がいました。

 

出家

 

出家したその後諸国行脚の

旅に出、河内、大和などの

歌枕を探訪しました。

 

高野山で修行したことも

あったと伝えられています。

 

1190年には出雲大社に参詣しており、

同じ頃東国にも旅しています。

 

後鳥羽院に一目された 

 

晩年は嵯峨に住み、後鳥羽院

より播磨国明石に領地を賜わって

繁栄したということが「源家長日記」

( みなもとのいえながにっき)

にみれれます。

 

「新古今和歌集」の撰者となり

ましたが、完成を待たずに翌1202年

没しました、享年64歳でした。

 

©歌川国芳画

 

歌人としての寂蓮法師

 

歌人としては出家以前から

活動が見られ、1167年の

太皇太后宮亮経盛歌合、

1170年の左衛門督実国歌合、

同年の住吉社歌合などに

歌を出しています。

 

出家後は1178年の別雷社歌合、

同三年の右大臣兼実歌合に参加し、

また1185年頃の無題百首、

同2年西行勧進の二見浦百首、

同3年の殷富門院大輔百首、

同年の句題百首、1190年の花月百首、

同2年の十題百首など、多くの

百首歌に参加し、定家、九条良経 

(くじょうよしつね)

藤原家隆 (ふじわらのいえたか)

ら新風歌人と競作しました。

 

家系

 

歌道に精進した、御子左家の

中心歌人として活躍しました、

御子左家(みこひだりけ)は、

藤原北家嫡流藤原道長の六男、

権大納言 藤原長家を祖とする

藤原氏の系流で御子左流

(みこひだりりゅう)ともいいます。

 

ただし「御子左」を家名として

名乗った者はないようです。

家系をバックにして戦った

「六百番歌合」での顕昭との

「独鈷鎌首論争」は有名です。

©Japansumiecentre

 

1193年頃、良経主催の

六百番歌合では六条家の

顕昭と激しい論戦を展開する

など、御子左家の一員として

九条家歌壇を中心に活躍を

見せるようになりました。

 

後鳥羽院歌壇でも中核的な

歌人として遇され、正治二年

初度百首、仙洞十人歌合、

老若五十首歌合、新宮撰歌合、

院三度百首(千五百番歌合)などに

多くの詩歌を出詠しています。

 

1201年には和歌所寄人(よりうど)

となり、新古今集の撰者に 

任命されました。

寄人とは朝廷の官衙である

和歌所における職員で、

和歌所は、召人(めしうど)と

呼ばれました。

 

 

 

©Japansumiecentre

 

これは和歌の作成、選定能力に

精通した事務能力のある官人が

選任されました。

しかし翌年五月の仙洞影供歌合

に参加後まもなく亡くなり、

新古今の撰集作業は果すこと

ができませんでした。

 

家集に「寂蓮法師集」があ離、

千載集初出、勅撰入集は

計百十六首あります。

 

書家

 

寂蓮は書家としても名があり、

現存する書跡は

一品経和歌懐紙

熊野懐紙

があります。

 

©寂蓮筆二首懐紙 京都国立博物館蔵、国宝

 

 

「三夕」

 

 後の世において、

新古今和歌集秋歌上の中の

結句が「秋の夕暮」の三首並んだ、

西行、定家と寂蓮の「さびしさは」

を三夕と称し、茶具の

銘などになっています。

 

 

 

 


おしまい

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

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3月

百人一首

86番 西行法師

 

86番 西行法師

 

嘆けとて月やはものを思はする

かこち顔なるわが涙かな 

 

なげけとてつきやは(わ)

ものをおもは(わ)する

かこちがほ(お)なる

わがなみだかな

 

©榎本翠邑書

 

月が私に「嘆けよ」と言って、

私に物思いをさせて

いるんじゃろーか。

いや、そーじゃーない。

この悲しみは愛しい人への

想いなんのに、月のせいに

して涙が流れてくるんじゃよ。

 

この歌は「月前の恋」という

題で詠まれた歌です。

 

出典、所載の歌集は「千載和歌集」

(恋五・929)で、

「「月前の恋」といへる心を詠める」

とあります。

 

月について 


月を見ているとまるで月が

もの思いをさせているのでは

ないかと思えるほど、色々な

思いや考え事、悩みが

浮かび上がってきます。

 

「嘆けとて月やはものを思はする」

「月がもの思いをさせるわけではない」

と詠んでいます。

 

本当は恋のせいだとわかっていのに。

©Japansumiecentre


月を愛し、月の歌を歌ったた西行の、

月の歌は自分の恋を月のせいに

してしまっているのは、自分のつらさを、

月にぶつけた甘えなのでしょうか。

 

西行法師(さいぎょうほうし)は、

23歳の若さで出家、

俗名は佐藤義清。

武士出身で、鳥羽上皇の北面の

武士として鳥羽院に仕えた

過去を持つ人物です。

その後出家し、諸国を

行脚しながら歌を詠み、

歌人としても活躍しました。

 

西行法師

 

1118年生まれ、

父は左衛門尉(さえもんのじょう)

佐藤康清、母は中務省に

属した源清経女でした。

 

父系は藤原魚名(ふじわら の うおな)

藤原北家の藤原房前の子

を祖とする魚名流藤原氏。 

 

祖父の佐藤季清も父の康清も

衛府近衛兵(このえへい)や

近衛(このえ)君主を護衛、

警護、する職に仕えました。

 

西行の祖父の源清経

 

(みなもと の きよつね)については

文武に秀でた人物だったとされて

いる他、考証があります。

 

面白い文が残されています。

 

西行の祖父、源清経と後白河院の遊女

 

西行の祖父である源清経

(みなもと の きよつね)が

13歳の乙前の今様の才能をかい、

自分の女だった師匠の目井に

弟子入させました。

 

清経は目井のパトロンだったのです。

 

これは清経の話を聞いた後白河院が

書き残したものです。

 

後白河院 ©Wiki

 

「清経は目井の世話をしてやった。

女の芸に惚れ込んで、

色香に魅かれたが、今では、

色褪せて近く寄るのも気分がのらず、

女と共寝はするのだが寝ているのが、

あまりうっとうしくて、

空寝をして、後ろむきて寝ている。

 

目井が背中に顔をすり寄せて

瞬きをした睫毛が背中に当り

気持ち悪くなったけれど、

清経はそれを我慢していた。

 

美濃の今様の催しに出かける時は

一緒に行って、また迎えに出

帰りも目井の共をしてやり、

のちに年老いてからは、

食物もあてがい、尼になっても

死ぬまで面倒を見てやった」

 

西行の祖父源清経は優しさと、

責任感があった男だったようです。

 

祖父の代から徳大寺家 

(とくだいじけ)に仕えており、

「古今著聞集」の記述から自らも

15~16歳頃には徳大寺実能に

出仕していたことがうかがえます。

 

徳大寺家の紋 ©Japansumiecentre

 

「長秋記」によると1135年に

左兵衛尉に任ぜられ、さらに

鳥羽院鳥羽天皇(とばてんのう)

に下北面武士(ほくめんのぶし)

としても奉仕していたらしく、

北面武士とは白河法皇が創設

した院の直属軍として、主に

寺社の強訴を防ぐために動員された

上皇の身辺を警衛、あるいは

御幸に供奉した武士のことで

同時期の北面武士に

平清盛がいました。

 

「百錬抄」によると1140年、

23歳で出家して西行法師と号

しています。

 

 

 

©榎本翠邑書

 

 

妻と子供 

 

妻子の存在については

よく分かっていませんが、

子供は

「尊卑分脈」には「権律師隆聖」

という男子があるとあり、

「西行物語絵巻」では娘が

あったと言われています。

 

出家のいわれ

 

友人の急死説

「西行物語絵巻」では、

親しい友の死を理由に北面を

辞したと記されています。

 

失恋説

「源平盛衰記」「西行の物かたり」

には、似通った理由、高貴な

上臈女房と逢瀬を持ったの

ですが「あこぎ」

「押しつけがましい」と 

言われて出家したとあります。

 

 

©榎本翠邑書

 

 

瀬戸内寂聴は「白道」で

鳥羽天皇の皇后待賢門院

(たいけんもんいん)または、

鳥羽天皇の皇后

美福門院びふくもんいん)

説もあるとしています。

 

五味文彦「院政期社会の研究」

では恋の相手を鳥羽天皇の娘

上西門院(じょうさいもんいん)

としています。

 

鳥羽天皇の皇后待賢門院 ©Wiki

 

どちらにしても叶わない恋でした。

出家後は東山、嵯峨、鞍馬

など諸所に草庵を営んだとあり、

30歳頃に陸奥に最初の長旅

に出、その後、1149年前後

に高野山に入りました。

 

1168年には崇徳院の白峯陵

を訪ねるため四国へ

旅をしたています。

 

これは江戸時代に上田秋成

によって「雨月物語」中の一篇

「白峯」として書かれ、

この旅は弘法大師の遺跡巡礼

も兼ねていたようです。

 

高野山に戻り、1180年頃に

伊勢国に移った、東大寺再建の

勧進のため2度目の陸奥行きを

行い奥州藤原氏第3代当主

藤原秀衡(ふじわら の ひでひら)

と面会しています。

 

この後で鎌倉で源頼朝に面会し、

歌道や武道の話をしたことが 

「吾妻鏡」に載っています。

 

伊勢国に数年住まった後、

河内国現在の大阪府にある

弘川寺に庵居し1190年にこの

地で73歳で亡くなりました。

 

「西行物語」

©小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

 

西行が

「願はくは花の下にて春死なん

そのきさらぎの望月のころ」

と詠んだ歌通り、

桜の季節に逝った西行の、

その生きざまが藤原定家や

慈円の感動と共感を呼び、

当時西行は名声を博しました。

 

西行法師と歌について

 

西行は藤原俊成ともに新古今の

歌風に大きな影響を与えた

歌人でありました。

 

後鳥羽院が西行をことに好んだことは、

「後鳥羽院御口伝」に西行の

歌の評価が書かれています。

 

「長秋記」の1135年頃、

徳大寺公重の菊の会に招かれ、

藤原宗輔(ふじわら の むねすけ)が

献上した菊の歌を詠んでおり、既に

歌人としての評価を得ていたようです。

 

崇徳院歌壇にあって藤原俊成と

交際し、一方で俊恵(しゅんえ)が

主催する歌林苑からの影響をも

受けた思われています。

 

徳大寺家の紋 ©Japansumiecentre

 

出家後は山居や旅行のために歌壇とは

一定の距離があったようですが、

1187年に自歌合「御裳濯河歌合」

また自歌合「宮河歌合」を作って、

当時は一介の新進歌人でしかなかった

藤原定家に作品の評価を願った

ことは特筆に価することでした。

 

その時の二つの歌合はそれぞれ

伊勢神宮の内宮と外宮に

奉納されました。

 

和歌は約2,300首が伝わる勅撰集

では「詞花集」に1首が初出。

 

天皇、上皇の命令によって作られた

公的な歌集勅撰和歌集の第八番目 

「新古今和歌集」には、

最多の94首が載っています。

 

「花」「桜」や「月」を詠んだ

歌が多く作られました。

 

「千載集」に18首、「新古今集」に

94首をはじめとして二十一代集に

計265首が入撰しています。

 

六家集の私家集に「山家集」、

自撰の「山家心中集」、「聞書集」

など、多くの優れた歌を残しました。

 

西行の逸話など

 

西行が後世に与えた影響は極めて

大きく、「撰集抄」「西行物」を

はじめとする「いかにも西行らしい」

説話や伝説が生まれていきました。

 

能「江口」©prtimes

 

例えば能に「江口」があり、

長唄に「時雨西行」があり、 

あるいはごく卑俗な画題として

「富士見西行」があり、江戸時代、

上田秋成によって「雨月物語」

「白峯」の物語として作られ

、各地に「西行の野糞」なる口碑

が残って西行のポピュラーさ

が感じられます。

 

西行と源頼朝

 

西行の性格をかいわ

見れる逸話があります。

 

頼朝が侍だった西行が知っている

弓馬道のことを聞くと、

「一切忘れはてた」

ととぼけたといわれています。

 

西行が頼朝と会い、拝領した

純銀の猫を、そのまま通りすがりの

子供に与えてしまった

と言われています。

 

西行法師 菊池容斎画

 


おしまい

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

 

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ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

 

 

お便りはこちらまで 上田トミ 

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ありがとうございました。

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