翠邑日誌 

Suiyu’s Diary

榎本翠邑

元書法展会員、元太玄会会員、元瑞雲会評議員同人、

元全国書道師範連盟会員、

元東京書道教育会会員、英国ではブルネル大学ギャラリー、アルバートホール等

での展示、英国BBCテレビ「天皇」等があり、また「俳画」・「水墨」・

「書」・「花」等の書の担当での出版物があります。 

東京生まれ。
 

 

6月

百人一首 89

式子内親王

 

百人一首 89 式子内親王 

 

玉の緒よ絶えねば絶えね

ながらへば忍ぶることの

弱りもぞする

 

たまのをよたえなばたえね

ながらへ(え)ば

しのぶることの

よは(わ)りもぞする

 

©榎本翠邑 書

 


私、このまま生きながらえていると、

今まで堪え忍んだ恋を世間に

知られちゃう!私の魂さん、

絶えるのならば今絶えてしまって!

恋を忍ぶ意志が弱くなっちゃうから。

 

 

百人一首を代表する抑えた恋の

激情を感じさせる歌です。

この歌はもともと「忍ぶ恋」

という題を与えられていたと、

新古今集の詠題にあります。

 

明治イラスト
©japansumiecentre

式子内親王

 

式子内親王

 

(しょくし/しきし(のりこ)

ないしんのう)

 

(1149ー1201)

は、後白河院の第三皇女で、

母は藤原成子(藤原季成の女)、

高倉宮以仁王

(たかくらぐうもちひとおう)

は同母兄弟。

高倉天皇は異母弟にあたります。

 

結婚できない皇女

 

萱斎院(かやのさいいん)、

大炊御門斎院

(おおいのみかどさいいん)

とも呼ばれました。

   

式子内親王は1159年

皇族の子女に親王および内親王の

地位を与える内親王宣下を受けて

斎院に吉凶をうらない定め、

10歳から約10年間、1169年に

病により退下するまで

賀茂神社に奉仕しました。

 

斎院とは、賀茂神社に奉仕する

未婚の皇女で、基本的には

天皇が代わるごとに内親王か女王

の中から選ばれていました。


退任後はほとんどの斎院が

生涯独身を通していました。

 

式子内親王もこの例に漏れず、

独身のまま生涯を終えました。

 

 

木曽義仲、後白河法皇を

クーデターで幽閉

木曽義仲

 

 ©bushoojapan.com

 

1183年11月、式子内親王

は35歳でした。

木曽義仲が7月に入京し

都は大混乱しました。

 

義仲はクーデターを決行し、

後白河院の御所である後白河の

法住寺殿を包囲すると、放火して

百余人を殺害して、後白河を

捕縛し五条東洞院の屋敷に

幽閉してしまいました。

 

義仲は自ら従四位下、征夷大将軍に

成り上がることになりました。

 

式子内親王は別の御所に逃れ、

結局、八条殿に移ったようです。

 

退下後は母の実家高倉三条第、

その後父の後白河院の法住寺殿内

におり、正月までには叔母である

八条院暲子内親王の元に

移り住みました。 

 

八条院と以仁王王女呪詛事件

 

叔母である八条院暲子内親王

のもとに身を寄せました。

 

©榎本翠邑 書

 

同年7月から8月にかけて、

元暦大地震とその余震で都の

混乱が続く中も、八条院におり、

准三宮という太皇太后、皇太后、

皇后の三后(三宮)に准じた処遇を

与えられていましたので、

八条院での生活は1190年

正月までは続きました。

 

八条院とその猶子(ゆうし)

の姫宮(以仁王王女

(もちひとおう・おうじょ)、

式子内親王の姪)を呪詛した

との疑いをかけられ、

八条院からの退去を余儀なく

させられてしまいます。

 

そして、白河押小路殿に移り、

親族を呪詛したと疑いをかけられ

たりで苦悩、父、後白河院の

同意を得られないままの

出家となりました。

 

浄土宗法然を戒師として

出家、法号は承如法。

定家『明月記』より

 

蔵人大夫・

橘兼仲夫婦の託宣事件

 

1192年、後白河院崩御により

大炊御門殿ほかを遺領として

譲られたのですが、大炊御門殿は 

九条兼実に事実上横領され、

建久七年の政変による兼実失脚

までは居住することが

できませんでした。

 

©榎本翠邑 書

 

式子内親王の母方の縁者に

藤原公時(きんとき)の部下の

橘兼仲がおりました。

 

彼は家司(けし、けいし)家政を

つかさどった職についていました。

 

この橘兼仲の妻に後白河院の霊が憑き、

「我を祀れ、社を作り、国を寄進せよ」

といった妖言を吐いたのですが、

これが謀計とされて、

夫妻は流罪となりました。

ひどい迷惑な陰謀です。

 

1197年には蔵人(くろうど)大夫、

橘兼仲夫婦の託宣事件に連座し

洛外追放罪を犯した本人だけでなく、

その家族などに刑罰を及ぼすことが 

検討されましたが実際に処分

は行われずに済みました。

 

この迷惑な話の裏にはある

人物がおりました。

 

©japansumiecentre

 

故父後白河院の寵妃で、

院の没後も権力を有していた

丹後院(高階たかしな栄子)の

陰謀が窺え、どうも内親王は

巻き込まれたらしいのです。

 

『愚管抄』と『皇帝紀抄』より

 

1199年5月頃から身体の不調

が見られ、年末にかけて

やや重くなりました。

 

1200年後鳥羽院の求めに応じて

百首歌を詠み、藤原定家に

見せています。

 

その後ほどなく病状が悪化、

1201年1月25日死去、

享年53歳でした。

 

 

歌人としての式子内親王

 

新三十六歌仙、

女房三十六歌仙の一人。

 

歌人として、歌合や定数歌など

による歌壇活動の記録が極めて

少なく、現存する作品も400首

に満たないのですが、その内

157首が勅撰集に入集

(新古今集は49首)その

3分の1以上が「千載和歌集」

以降の勅撰集に入集しています。

 


©榎本翠邑 書


私家集に「式子内親王集」

(他撰) 歌合には出てない。

百首歌が中心。

式子内親王は藤原定家の父

藤原俊成に師事しました。


俊成の歌論書「古来風躰抄」は

式子内親王に差し上げたものでした。

 

式子内親王は後鳥羽院には

叔母にあたります。

 

後鳥羽院は歌人としての

式子内親王を高く買っていました。

 

近き世の殊勝なる歌人として

九条良経、慈円と共に

式子内親王を挙げ、

後鳥羽院御口伝の中で

「斎院は殊にもみもみと

あるやうに詠まれき」

と賞賛しています。

 

「新古今和歌集」に大量入集

するなどと、この時代の代表的

女流歌人と見なされていました。

 

勅撰集勅撰集

 

(ちょくせんしゅう)は、

天皇や上皇)の命によって 

編纂された書物、もしくは天皇が

記した書物のうち特に公式の

ものとして認められている

ものを指しています。

 

©榎本翠邑 書

 

千載和歌集8・新古今和歌集49

新勅撰和歌集14・続拾遺和歌集5

続千載和歌集2・新千載和歌集3

新続古今和歌集4・続後撰和歌集15

新後撰和歌集4・続後拾遺和歌集5

新拾遺和歌集3があります。

 

私撰集等

 

1200年、三百六十番歌合

「前斎院 式子内親王」名

で39首があります。

 

私家集

 

式子内親王の家集の諸本は、

三種の百首歌を後人が

まとめたものです。

 

「千載和歌集」以降百首奥書以前

1187年から1194年頃と推定

されていて、師である俊成の影響からか

和歌や漢詩文から摂取されたものが

見られ、100首が現存しています。

 

「建久五年五月二日」の奥書、

101首が現存。

 

1200年の「正治百首」に出詠

されたもので、99首が現存。

 

式子内親王と男性の関係

恋人とされた人

 

式子内親王が恋したと思われる 

男性は数人おりますが、その

うちの二人を挙げてみましょう。

 

藤原定家との関係

 

©bunka.nii.ac.jp

 

藤原定家

 

1181年、「明月記」には定家が

父俊成と共に和歌の指導や選

のため宮中へ上り当時の

式子内親王の病状や、

元気な時は筝を弾いて見せた事

等を、明月記に記しています。

 

こうして定家の書いた

明月記には、式子内親王の

ことを書き留めています。

 

しかし、感情的だった事

からか、式子内親王の死の

当日や、葬儀のことは

全く書いてありません。

 

やっと、式子内親王の一周忌

の仏事のことが出てきます。

 

式子内親王と藤原定家の間は、

確かに親しかったのでしょう。

 

しかし年齢差が10歳以上も 

あったこと、定家は式子内親王

より、おそらく13歳くらい

年下だったと思われます。

 

狩野探幽「藤原定家像図

©yamadashotem.com

 

そして身分差がを考えると、

定家の父俊成と式子内親王の

師弟関係があり、例えば

1192年後白河院が崩御した

日に、後白河院御所である

六条院で式子内親王と姉の

亮子内親王に人を介して挨拶、

4月28日には式子内親王に

水晶の数珠を献上しています。

 

水晶の数珠は当時大変高価

なものでまた、自分の牛車を

式子内親王の女房達に

貸出をしています。

 

身分の関係の方が強かった

ことから恋心が芽生えたのか

どうかは微妙です。

 

定家は正妻以外に、下女にも

手を付けて20人以上の子を

作ったとありますから、

身分の異なった

式子内親王との恋は

どうだったのでしょうか。 

ちなみに、定家の外見は

醜男に属していたと

いう文も残っています。

 

©japansumiecentre

 

能 「定家」

 

室町時代の能役者の金春禅竹

(こんばるぜんちく)は

式子内親王と藤原定家の

能を創作しました。

 

能の演目は「定家」で、

定家は式子内親王を心から

愛しておりました。

 

定家は死後も内親王の

ことが忘れられず、

定家(て い か葛かずら)

となって生まれ変わり、

内親王の墓に絡みついた

と言われています。

 

熱烈な恋慕の恋の物語

は今日まで事実のように

残されています。

 

 

法然上人

 

平安から鎌倉へ

移行する時代でした。

 

浄土宗を開いた 法然上人は

比叡山延暦寺で修行

する僧でした。

 

式子内親王は10歳から 

賀茂神社に勤め21歳、

病気で賀茂神社を病気の

為立ち退いてから、政変

に巻き込まれ、40歳代のころ

出家をする決心をしました。

 法名は、承如法。

 

法然上人 ©兵庫県念仏寺蔵、

月輪(つきのわ)の御影 

 

法然上人は 式子内親王より

10歳以上は年上でした。

 

白河押小路殿での出家の

儀式で髪を下ろす儀式を

執り行ったのは、

法然上人一人でした。

 

当時の和歌から式子内親王

の法然への思いが感じられる

詩を2つ挙げました。

 

 恋ひ恋ひて

よし見よ世にも

あるべしと

いひにしあらず

君も聞くらん

 

これほどまでに 切ない

あなたへの恋のまこと

 

しっかりと、その果てを

ご覧になってよ

 

とても、この世では

遂げられぬとも考えられない、 

この恋

それを、そのまま抱き

あの世へ行くのかしら

 

それは あなたも

 ご存知のはず

 

法然上人©東京景勝院蔵 

 

恋ひ恋ひて

そなたに靡く煙あらば

いひし契の果てとながめよ
 

近いうちにそちらのほうに

なびいて行く煙が見えたなら、
あなたとの愛の約束に

燃え尽きた私の命の行く末

と思って、眺め、憐れんで

やってくださいな。

 

法然上人は、生涯独身を貫き

彼が死去したのは

1212年1月25日、なんと

式子内親王の亡くなったのは

11年前の同じ日、

1月25日でした。

 



おしまい

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

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ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

 

 

お便りはこちらまで 上田トミ 

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ありがとうございました。

 

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