3月6日、私の誕生日。
15歳半だった爺さまクリンの病気と余命を初めて受け入れることができました。(記事はこちら)
そして、いつかやってくるお別れの日まで、
私にできる全てをやって、クリンが幸せな最期を迎えられるよう精一杯お世話しよう
と決心しました。
1日おきの通院(皮下輸液)、
シリンジご飯&水分補給、
会社へ同伴出勤してお世話、
夜中~朝まで数回の排尿・徘徊補佐、
外出(留守時間)制限、
近場なら途中抜けて家と出先を往復してのお世話も全然苦じゃなかった。
過度な血液検査も治療もしない。
「神様助けて
」
「クリンがんばって
」
と願うこともない。
ただ、体調と加速する老化症状に合わせて、その時自分にできることを(自分でも驚くほど)冷静にやり続けただけ。
ドロドロご飯で毛がカピカピになった顔回りも、
ひどい口臭もヨダレも、
白内障で白くなった目も、
皮膚炎で禿げた頭も耳も、
ボケてしまった脳も、
曲がった背中も、
小さい体がさらに軽く小さくなっても、
全部愛おしかった。
ボロ雑巾にも見える老犬がこんなにも可愛いなんて知らなかった。
こうして尿毒症もてんかん発作も、次々やってくる老化による緒症状も全部受け入れ、乗り越えました。
どんな時も、お世話できることが本当にありがたく、毎日毎日、最高に幸せ。
10月17日、
目標だった16歳の誕生日を無事迎えました。
「次は、年を越せたらいいね。」
腎臓はうまく付き合っていけたけど、老化は止められません。
9月以降、足腰は急速に弱まり、内蔵も弱っていってたんでしょうね。
ついに先週、獣医さんから選択を迫られました。
「さて、どうしますか?」
「いろんな精密検査をして原因を突き止め治療をしますか?
それとも、
クリンちゃんが今の状況から少しでも楽になれることを優先しますか?」
私たちの答えは決まっていました。
少しでも楽にしてあげたい、
それだけです。
何の検査もせず、炎症止めの注射と輸液だけ。
奇跡的に血尿はとまりましたが、3日後にはもう後足が立たなくなりました。
25日日曜日、
晩秋というのに温かく気持ち良い日。
「よし最後のお散歩をしよう
」
この時初めて
「クリンが死ぬなんて嫌だ」
という感情が湧き、まだこんな気持ちが私の中に残っていたんだ、と気づきました。
26日月曜日、一緒に出勤。
首がグラグラしないようフカフカのベッドごとしっかり抱いて帰る途中、
「あたたかい」
私のお腹に伝わるクリンの体温を感じました。
帰宅後、
少しのドロドロご飯と水をゴックン、ゴックン。
この喉のゴックンがいつも可愛かった。
うんちで汚れたお尻をお湯で洗い、カピカピになった口回りの毛もスッキリ切って男前。
19:40、
最後くらい美味しいスープをあげたい。
できたての鶏肉スープをゆっくりゴックン、ゴックン
ハッ
と、うたた寝から覚めるともう夜中過ぎ。
日が変わって27日。
昨夜から辛そうに泣いていたのがウソのように静かに眠っている。
「美味しいスープ、飲もうね。」
だけど、呼吸はしているものの、スープは口から溢れるだけ。
もう可愛いゴックンをしない。
汚れた口をきれいに拭いて首を支えながら抱っこしました。
クリン、ありがとうね
可愛いクリン、大好きなクリン
ママは幸せやったよ
クリン、クリン、ありがとうね
顔をなでながらそう伝えた直後、カッカッカッと大きくゆっくり3回呼吸して息を引きとりました。
私がうたた寝から目覚め、抱きかかえるまで、
私のお別れの挨拶が終わるまで、
生前の約束通りクリンは待ってくれていました。
ほんとに賢い子
悲しいのは当然。
寂しいのも当然。
涙が出るのも当然。
でも私は何一つ悔いはありません。
もう全部やった
やり尽くした
私の持つ全ての愛情を注ぎきった
だから最期は感謝と笑顔で見送ることができました。
火葬を終え、今後の法要をお渡ししますね、と葬儀場の方にもらったメモを見て再び涙が溢れました。
【亡き者を偲んで悲しむのをやめ、希望を持って前へ進む区切りの日】
クリンの100ヶ日、私の誕生日
2018年3月6日、余命を受け入れ覚悟した日。
2019年3月6日、新たな区切りの日。
3月6日から始まり、3月6日で終わる、クリンからの私への最高のプレゼント
この約9か月間は私がクリンと共に生きた中で一番穏やかで一番幸せな時間でした
11月27日0:51、
永遠の別れではない
また逢う日までしばしのお別れの始まりです
クリンのメッセージを伝えてくれたNAOMI☆さん、心配してくれていた皆さん、同伴出勤を許可してくれた会社、そして、思う存分にお世話に専念させてくれた旦那と息子のクラブチームの友達に心から感謝します。
この人たちのおかげで、クリンが旅立った今まだ寂しさは残るけど全く悲観していません。
ありがとうございます。
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