ライダーは北海道をめざす | 直球オヤジの自由奔走生活

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座右の銘は「"行きたい"、"やりたい"、"欲しい"と思った時が"その時"」。55歳で早期退職し、高齢者と呼ばれるまでの今が"その時"。趣味のバイクや自転車は年齢的に待ったなし。エコノミーな生活で趣味を楽しむ。これをどう追い求めるかが、このブログのメインテーマです。

北海道ツーリングを練り始めた。1967年に作家の五木寛之が書いた小説「青年は荒野をめざす」をもじれば、「ライダーは北海道をめざす」。なぜだろう?

私の頭の中には様々なことが逆巻いている。ウクライナ戦争のこと、ガザ侵攻のこと、地球温暖化のこと、末期的な日本の政治のこと、円安のこと、AIやEVのこと、半導体のこと、自分の健康のこと、家族のこと、お金のこと等々無数の関心事や心配事が、日常的に私の頭の中をグルグルと廻り、脳を占めている。特に、ガザの悲惨な状況は心が痛むどころか、怒りさえ沸いて来る。でも、それであっても
自分がやりたいことはやっておきたい。特にバイクのことは重要で、いつまでまともにバイクに乗られるかわからない。今日明日死ぬことは無いだろうが、数か月後、酷い腰痛に悩まされたり、重病を発症して病に臥せっていてもおかしくない”お年頃”。だからツーリングに行ける内に行っておかねば

しかし、ツーリングという趣味をそんな強迫観念や義務的なものと捉えずに、「
北海道をもう一度走りたい」という素直な欲求があることを大事にしたい。去年と今年前半は東北や九州、四国を巡ったが、どんなに素晴らしい景観や道であっても、北海道には敵わない。いやそれは敵わないとか、どちらが素晴らしいというような比較ではなく、北海道のそれらは北海道以外の日本各地のそれらとは全く異質のもの。つまり、ありきたりな表現で言えば、日本離れ」しており別物

そのような景色や道という、目に見える物理的なものではなく、全国各地をツーリングして最も感じる違いは、北海道ツーリングは旅行ではなく、自由な”
”であり、旅情をヒシヒシと感じさせられるという点。本州各地を平日ブラブラと走っていると、特に観光地ではないエリアでは、どことなく疎外感や負い目を感じることがある。それはさほど強いものではないが、みんなが働いている時に、いい歳したおっさんがブラブラ遊びまわっていることに対して、本州ではそんな不埒な自分を僅かではあるものの意識させられるが、北海道ではそれが全く無い。それは土地が広いからなのか、人間性が大らかだからかわからないが、自由人であることを曝け出せられる雰囲気がある。だから大ぴらに自分が求める旅を満喫できる。つまり、「北海道は自由だ!」。そして、「バイクは自由だ!」。

そして、誰もいない(本当に誰もいない)ただ広い大地の中を貫く道。これまた誰も走っていない道をただ一人ひた走る。広い景色は日本各地で見られても、これほど広く、これほど人のいないシチュエーションはやはり北海道しかない。そんな無人のエリアを走っていると、そこに現れるのが同好の士。そこで緊急停止して話すこともあるが、多くの場合、お互いちょっと手を挙げて挨拶して通り過ぎてゆく。ただそれだけのことだけど、それでいい。

彷徨」(ほうこう)という言葉も、「さすらい」と言う言葉もほぼ死語になりつつあるが、私のような古い世代にはこの単語は郷愁と憧れを誘発させ、どこかジ~ンと来るものがある。半世紀近い昔の学生時代、一カ月以上使って北海道を彷徨したが、今ではちゃんと計画し、宿やフェリーを予約した上でのツーリングだから、彷徨らしさなんて微塵も無い。それでも北海道を走っていると、「ああ、俺はさすらっているなぁ」と、若かりし頃に抱いたほのかな憧れが沸き起こってくる。それが私において北海道の魅力となっているし、北海道を走るオッサンライダーが多いのも、そんなところにあるのかも知れない。

そんな北海道ツーリング、今回実行すれば20回目。2年前、19回目のツーリングを終えた時、「果たして次回はあるだろうか?」と思ったが、現時点、肉体的にも資金的にも家族関係においても20回目を実行に移せる状況にあるのは幸いだ。ならば行こうじゃないか、北へ!「
ライダーは北海道をめざす」。私は「思い立ったが吉日」人間だから、その気になって動き始めると早い。そうして急速に計画を具体化し始めた。