継体大王とその時代ーその6-
7、継体の死と後継争い 磐井戦争を戦い北部九州を制圧したヤマト王権側は、やっと近江毛野臣軍を半島に渡海させる ことができた。しかし、新羅に侵攻された金官国を救うことはできなかった。532年、金官国は 新羅に服属した。 さらに、新羅は北部伽耶の大伽耶(加羅国)との同盟を解消し、大伽耶への侵攻を開始する。い っぽう、百済も南部伽耶の有力国であった安羅国に出兵し駐屯する。こうして伽耶諸国への侵攻を 進める新羅と百済が、安羅国を挟んで直接対決する構図が出来上がったのである。 半島情勢が緊迫する中、継体大王が亡くなった。大王の死は謎に包まれているところが多い。 「日本書紀」本文では531年(辛亥)に亡くなったとするが、或本では534年(甲寅)を没年 とする。さらに、「日本書紀」本文が依拠した「百済本記」には、「辛亥の年に日本の天皇及び太 子・皇子がともに亡くなった」記されている。 以上のような紀年の混乱は、継体亡きあとの後継をめぐる対立・混乱を背景としているためだ。 継体には尾張氏のメノコ媛が生んだマガリノオオエノ皇子(のちの安閑)とヒノクマノタカタ皇 子(のちの宣化)の二人の皇子がいた。さらに、継体が大王位に就いた際に后とした、旧王朝の仁 賢天皇の娘であった手白香媛が生んだ皇子(のちの欽明)がいた。 安閑・宣化を後継に推す勢力は、越前・近江・尾張などの畿外グループと、継体政権の中枢にい た大伴氏や物部氏がいた。対して欽明側には、母の手白香媛を始め継体によって征服された旧王朝 と結びついていた和珥氏や阿部・蘇我氏などの畿内の豪族グループがいた。 継体は遺言で、長子で太子であったマガリノオオエノ皇子を後継にしようとしたが、この遺言は 踏みにじられた。継体の死と同時に安閑・宣化は退けられ、まだ若かった欽明を推す勢力が勢い を増し、一方的に欽明の即位を宣言した。辛亥年(531)のことである。この事態を「百済本 記」が書き留めたのである。 継体政権の晩年には磐井戦争を筆頭に地方豪族の離反が相次ぐとともに、「任那4県の割譲」な ど一連の朝鮮外交の失敗で継体政権は求心力を失っていた。それ故、継体から安閑へと大王位が円 滑に引き継がれる状況ではなかったのである。 継体の死を契機に、政権の中枢から外されていた畿内の豪族グループは欽明を押し立てて主導権 を握ろうとしたのである。しかし大伴金村を筆頭とする安閑・宣化派は、欽明の即位を認めなかっ た。3年後の534年、安閑・宣化派は、安閑の大王即位を宣言する。ここに、安閑朝と欽明朝の ニ朝が併存することになった。 両派の対立は軍事的対立までには至らなかった。緊迫する朝鮮半島情勢において、倭国の既得権 が失われようとする中にあって政権をめぐる主導権争いをする余裕はなく、両派は妥協せざるを得 なかったのである。安閑が2年後に亡くなると、両派の話し合いにより、次に宣化が大王になるこ と、そして宣化の後には欽明が大王になることが決まり、540年に欽明が即位することによりニ 朝並立の状態は解消されたのである。