蘇我氏四代ーその10-
12、乙巳の変と蘇我本宗家の滅亡 上宮王家を滅ぼすという点では、皇極を頂点とする大王家側と蘇我蝦夷・入鹿親子側の利害は一致していたが、その後の権力の在り方をめぐっては双方の思惑には大きな違いがあり、抜き差しならない緊張関係が生じていた。次の大王に中大兄王子を継がせたい皇極と、蘇我の血を引く古人大兄王子を着けたい蝦夷・入鹿の駆け引きが始まった。 大王家側のキーマンである中臣鎌足は、まず皇極の弟の軽王子(孝徳天皇))に接近する。軽王子の妃は阿部内麻呂の娘で内麻呂は皇極政権内で入鹿に次ぐ大きな力を持っていた。鎌足は軽王子を味方につけることによって、阿部内麻呂を通じ有力な豪族層を自己の陣営に引き込むことに成功した。 次に僧旻の学堂で一緒に学んだ中大兄王子に接近する。そして、蘇我氏傍系で入鹿に反発しいる蘇我倉山田石川麻呂(倉麻呂の子・入鹿の従兄弟)の娘のオチノイラツメを中大兄王子に嫁がせて味方にした。オチノイラツメはのちに鵜野王女(持統天皇)を生む。段々と蝦夷・入鹿包囲網が築かれていくのであった。 一方、蘇我蝦夷・入鹿側は大王家側の動きを薄々感じていた。そのため、皇極の宮殿である飛鳥板葺宮を見下ろす甘樫丘に館を造り、畝傍山周辺の防備を強化し、一帯を東漢(やまとのあや)氏一族に守らせて不測の事態に備えた。朝鮮半島における高句麗や百済の政変が伝えられる中で、入鹿は自らが権力を握ることによって激動する東アジア国際情勢に乗り遅れまいとしたのである。入鹿は密かに皇極・中大兄王子を葬って、古人大兄王子を大王位に就ける計画を練っていた。その計画を近いうつに実行に移す予定であった。 皇極4年(645年)6月、クーデターが起きた。この日は、飛鳥板葺宮正殿で朝鮮三国が「貢物」を献上する儀礼があり(実は偽りであった)、皇極が出御し、古人大兄王子、蘇我入鹿が見守る中、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げた。その時突如として中大兄王子が乱入し、佐伯子麻呂らとともに入鹿を斬った。驚愕する皇極に対し、中大兄王子はクーデターの正統性を述べた。古人大兄王子は自分の宮に逃げ帰った。 中大兄王子はすぐさま飛鳥寺を接収し軍営とすると、王族・豪族がこぞって終結した。蘇我親子の権力集中に多くの支配層がいかに反発していたかの証である。蘇我氏に仕える東漢氏一族は徹底抗戦を唱えたが、中大兄王子側の将軍であった巨勢徳太の説得を受け逃散してしまった。翌日、蝦夷はその邸宅で自殺する。その際、蘇我氏が主導して撰修していた「天皇記・国記」が焼かれてしまった。こうして蘇我本宗家は滅び去ってしまったのである。 稲目、馬子、蝦夷、入鹿と四代にわたって政権の中枢にいた蘇我氏本宗家は滅んだ。しかし、氏(うじ)としての蘇我氏が滅んだわけではない。乙巳の変に加担した蘇我倉山田石川麻呂は次の孝徳政権の右大臣となり、蘇我倉氏が蘇我氏の氏上(うじのかみ)となった。それ以降も蘇我氏は多くの上級官人を出しているが、先の四代の本宗家が持っていたような権力を持つことはついになかったのである。おわりに これまで古代氏族蘇我氏の興亡を辿ってきた。日本書紀「皇極紀」には蝦夷・入鹿親子がいかに王権に敵対したり、王権に対する不敬行為を行ったかが描かれている。特に入鹿が単独で山背大兄王子の上宮王家を襲ったように描き、「偉大な聖徳太子の後継者を滅ぼした邪悪な入鹿」という人物像を作り上げた。そして、乙巳の変で蝦夷・入鹿親子を滅ぼした中大兄王子と中臣鎌足こそ律令制国家建設の立役者と語っているのである。 これらの主張は、日本書紀の編者、究極的には持統天皇と藤原不比等が作り上げたものであり、蝦夷・入鹿親子悪人説が後世まで人々の脳裏に深く刻み込まれ今日に至っている。もし、入鹿が政権を維持し続け、その主導で完成するかもしれなかった日本古代国家がいかなるものであったか、少なくとも藤原氏全盛の世の中にはならなかったであろう。