9、武蔵国造の終焉

 

 欽明がヤマト王権の大王となった540年ごろ、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国が鼎立する三国時代になっていた。倭国は半島南部の伽耶地方(任那)における権益を守るべく、激しい外交戦を繰り広げた。しかし、結果的に伽耶諸国は百済と新羅に分割されて、半島における倭国の拠点は完全に失われてしまった。562年のことである。

 

 この間、百済は対新羅・高句麗との戦いを勝ち抜くために倭国に何度も救援要請をしてきた。その対価として、百済は倭国に仏教をはじめ多くの先進文化や技術を提供した。これを受けて、倭国も数度にわたって半島に軍隊を派遣し、百済軍とともに新羅・高句麗と戦った。

 

 半島への軍隊派遣にあたって、遠征軍の主力となったのが東国の軍隊であった。特にカミツケノ国はアラタワケや田道(タジ)などの5世紀以来の対外軍事活動の伝統から、たびたび遠征軍の将軍を輩出した。彼らは、盛んな馬生産を背景に優れた騎馬隊を組織し、多数の東国兵士を従えて海を渡ったのである。

 

 ムサシ国でも多くの兵士が動員された。6世紀半ばにこの軍隊を率いていたのが、笠原直使主(オミ)の次に武蔵国造となった笠原直日下(クサカ)であった。日下も倭国派遣軍の将軍として半島にわたり、百済軍とともに対新羅・高句麗戦に参戦し活躍した。日下の配下には多くの百済系渡来人がおり、彼らの戦闘力もあって、日下の軍隊は強力であった。日下はその功績をたたえられて、百済王室から高貴な身分を標章する朝鮮製の甲冑や武器、鉄製馬冑などが下賜された。それらの軍用装備品が日下の墓であるさきたま古墳群の「将軍山古墳」(6世紀後半)に副葬されのである。

 

 6世紀後半までのムサシ国は笠原氏一族の首長が権力を保持し、国造にも任命されていたが、ヤマト王権による地方支配の強化により、笠原氏の勢力は徐々に削がれていった。先のムサシ国内の紛争の結果、ヤマト王権に差し出した4か所の屯倉を管掌する官吏が王権中央から派遣された。4か所のうち、3か所は今の神奈川県や多摩地方の南武蔵に設置された屯倉であったが、横沼(よこぬ)屯倉は、かつてムサシ国の中心であった比企地方に設置された。

 

 この横沼屯倉に派遣されたのが、渡来系氏族である壬生吉志(みぶきし)氏であった。壬生吉志氏は難波吉志氏の一支族であり、各地の屯倉の経営に携わり優れた成果をもたらす一族であった。壬生吉志氏一族は集団としてこの屯倉周辺に移住し、耕作地の開発や農業生産の拡大によって王権中央に多大な利益をもたらした。

 

 こうしたヤマト王権直轄の地方経営が拡大するにつれ、在地勢力としての笠原氏の支配範囲は徐々に失われていく。それを決定づけたのが645年の大化の改新であった。大化2年の改新詔によって、各国に下部の行政区として「評(こおり)」=のちの「郡」を置くことが決められ、東国にも評制が施行された。

 

 

 在地の有力者である国造が支配していた地域に、「評」という官の行政区が設置された。国造の国がそのまま評に編成されることもあれば、国をいくつかに分割してそれぞれに評が立てられる場合もあった。ムサシ国は最終的に19の評に分割されてしまい、これにより国造の権限は大幅に削減されてしまうのであった。しかも、ムサシ国の政治的中心は笠原氏が支配してきた北武蔵地方から、南武蔵の多摩川流域に移行していくのである。

 

 更に7世紀後半の天武・持統朝による律令制度の確立によって、国造制は廃止され、中央集権的な国・郡制が敷かれる。その結果、それまでヤマト王権と適度な距離を置き、自立した国として繁栄を謳歌したムサシ国も、律令制の国(令制国)となってヤマト王権の地方組織に組み入れられ、その自立性は完全に失われてしまうのである。