蘇我氏四代ーその4-
6、蘇我馬子と崇仏 欽明の子で有力な後継者には、前大王宣化の娘が生んだ太玉敷王子(のちの敏達)、蘇我稲目の娘の堅塩媛が生んだ橘豊日大兄王子(のちの用明)、妹の子姉君が生んだ穴穂部王子と初瀬部王子(のちの崇峻)がいた。群臣は旧大王家の血を引く石姫が生んだ太玉敷王子を後継の大王に推戴した。572年、敏達天皇である。いまだ蘇我氏所生の大王が生まれる状況ではなかった。大連に尾輿の子の物部守屋が就き、大臣には稲目の子の蘇我馬子が就いた。ともに20代の働き盛りであった。 敏達の太后には「息長氏」の娘であった広姫がたてられたが、広姫は押坂彦人大兄王子を生んだあと若くして亡くなってしまった。敏達には、彼がまだ太子であった時、欽明と蘇我堅塩媛の間に生まれた額田部王女(炊屋姫のちの推古天皇)が嫁いでいた(異母兄妹婚)。馬子とは叔父と姪の関係であった。広姫なきあとこの額田部王女が太后となった(以後、炊屋姫という)。有能であった炊屋姫は政権運営に積極的に参加した。炊屋姫は竹田王子を生んだ。ここに敏達の有力な後継者として、非蘇我系の押坂彦人大兄王子と蘇我系の竹田王子がいることになった。 敏達即位当初、守屋の妹が馬子に嫁ぐなど二人の関係は良好であった。しかし、馬子が大陸の文化や技術を取り入れて屯倉を拡大するなど、革新的な政権運営を行う中、彼の王権内における評価が高まった。一方、武辺一筋の守屋は王権内での確たる成果はなく孤立が目立つようになった。。そうした中、蘇我系の炊屋姫が太后になるに及んで、守屋の危機感は増大した。 くすぶっていた崇仏紛争が再燃した。馬子は父の稲目と同じく仏教保護の方針を採っていた。584年、百済から二体の仏像が渡ってきた。馬子はその仏像を手に入れ、これを出家していた司馬達等の娘の島(善信尼)及びその弟子二人の尼に祀らせた。 馬子は父が建てた向原の家(豊浦寺)を拡張して桜井寺とし、そこに3人の尼を住まわせた。さらに自邸の東方に仏殿を建て、弥勒の石像を安置し3人の尼によって法会を行わせた。この時、仏舎利が出現したという。これが日本仏教の開幕とされる。翌年、馬子は塔を大野の丘の北(豊浦寺近辺)に立てて法会を催し、仏舎利を塔の柱頭に納めた。この大野の丘の塔が後の飛鳥寺造営の模範となったのである。 ところが、馬子は当時流行していた疫病に罹ってしまう。馬子は仏を祀ることによって病を治そうとして、その許しを敏達に乞うと敏達はこれを許した。しかし、多くの民が疫病に罹ってしまった。これを好機と受け止めた物部守屋は、神官である中臣勝海(鎌子の子)を自陣営に引き入れ、「疫病は蘇我氏が仏法を信仰しているためである」と奏上すると、仏教嫌いであった敏達は仏法をやめるよう命じた。 仏教や大陸の文化に通じていた開明派の馬子や炊屋姫の評判が大きくなるにつれ、敏達の存在感は薄くなっていた。その反発から敏達は物部守屋と組んで廃仏に踏み切ったのであった。 敏達から詔を得た守屋らは寺に赴いて塔を切り倒し、仏像と仏殿を焼き、残骸を難波の堀江に捨てた。さらに、善信尼たち3人の尼をとらえて鞭打った。ところが疫病はますます盛んになり、世間ではひそかに仏法弾圧の罪と語った。 流行する疫病は馬子ばかりか敏達にも襲い掛かった。再度、馬子が仏法の信仰を願い出ると、敏達は馬子だけの崇仏を許可し、3人の尼を許した。しかし、他の人の信仰は禁じた。その直後に敏達は流行り病でなくなるのである。586年のことである。