8、武蔵国造の乱

 

 6世紀初め、応神王朝が倒れたことによってムサシ国は東国での覇権を失っていた。そんな中、ムサシ国ではヲワケが亡くなったあとに国を分裂させるような動きがあった。このころからムサシ国を統べる首長一族は笠原氏と呼ばれるようになっていたが、同じ一族内でも、さきたま地域(行田市近辺)を本拠とする豪族と、比企地方の有力な豪族が首長の座をめぐって争っていた。この争いによって、ムサシ国は分裂し、長い間首長が決まらなかった。この争いはヤマト王権における大王位をめぐる争いとも絡んでいたのである。

 

 ヤマト王権では、531年に継体大王が亡くなると、後継をめぐって争いが起きた。継体が越前にいたとき娶った尾張氏の目子媛が産んだ安閑・宣化を推す大伴・物部氏などと、継体が大王位に就いた際に妃とした旧王朝の仁賢天皇の娘の手白香媛が生んだ欽明を推す和珥氏や阿部・蘇我氏などのグループが対立した。

 

 大王位が空位のまま3年が過ぎ、やっと両派の妥協が成って、安閑・宣化、欽明の順で大王位に就くことが決まった。中央におけるこの騒乱は東国にも及んだ。継体王朝との同盟によって東国の覇権を握っていた上毛野君は、安閑・宣化派としてその軍事力を背景に中央で勢威を誇っていた。

 

 534年、ムサシ国の首長の座をめぐる戦いは、最終局面を迎えていた。ヲワケの2代あとの笠原直使主(オミ)と、同族の小杵(オキ)が対立していた。使主はさきたま地域を本拠とし、小杵は比企地方を拠点として、お互いムサシ国の首長の座を狙っていた。

 

 二人の対立は、軍事的な対立として双方に多くの死傷者を出した。しかし、決着はつかず膠着状態になっていた。小杵は、東国で一大勢力を誇っていたカミツケノ国の上毛野君小熊(オグマ)に助力を仰ぎ、使主を倒そうとした。これに対し、使主はヤマト王権の中で欽明を推す豪族グループに助けを求めた。

 

 本来、ムサシ国の首長はその血筋からして、使主とするのが至当であったが、野心家の小杵が、上毛野君小熊に相応の見返りを約束して、軍事的な助力を得ようとしたのであった。しかし、使主の訴えを取り上げたヤマト王権の欽明派は、小杵を退け使主に軍配を上げた。

 

 ヤマト王権の中で、安閑・宣化派として力を誇示していた上毛野君小熊であったが、欽明派によるこの裁定によって彼の立場は弱まり、小杵を助けるための軍隊の派遣は困難になった。王権の後ろ盾を得た使主は、小杵の軍を破り、彼を殺して首長の座に就いたのである。

 

 首長に就いた使主は、王権による助力への見返りとして、北武蔵から東京湾西岸部に至る自己の勢力圏の中に、ヤマト王権の屯倉(直轄地)となる4か所の拠点を献上した。ヤマト王権は、彼をムサシ国の国造(くにのみやっこ)に任命して、王権の支配下に置いた。

 

 国造に任命された使主は、ヤマト王権の支持を得て、分裂したムサシ国内の政治的統一を図るとともに、農業生産や手工業生産の拡大、利根川・荒川水運による交易の拡大によって、ムサシ国の繁栄を築いたのであった。使主が亡くなると、稲荷山古墳の隣の二子山古墳に葬られた。

 

 この争いによって、上毛野君小熊はヤマト王権の中枢から外され、王権は彼の勢力圏にあった緑野(藤岡市一帯)の地に屯倉を設置し、上毛野君の勢力を削いだのであった。その後、ヤマト王権は小熊の後継者をカミツケノ国の国造に任命した。その結果、カミツケノ国は王権の同盟者から、王権の臣下へと変わったのである。