ザ・ビートルズ 日本アルバム・デビュー50周年 | 鳥肌音楽 Chicken Skin Music

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4月15日は日本でザ・ビートルズの最初のアルバムが発売されてから50周年となります。1964年4月15日、発売されたアルバムは『ザ・ビートルズ』でした。



ジャケットは英国オリジナルの2ndアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』(1963年11月22日発売)のジャケ写を流用したアメリカでのデビュー・アルバム『ミート・ザ・ビートルズ』(1964年1月20日発売)のジャケをタイトル含めほぼそのまま流用していることが分かります。



米国盤(キャピトル盤)からの変更点は「MEET THE BEATLES!」というタイトル・ロゴは残したもののその下のコピー”The First Album by England's Phenomenal Pop Combo (英国の驚異のポップ・コンボによる1stアルバム)”というのがカットされています。日本盤の場合、そういったキャッチ・コピーのようなものは帯で処理できるので外したのかと思いましたが、発売当初に付けられていた帯の下方がカットされたいわゆる「半掛け帯」にはアーチスト名(兼アルバム・タイトル)と収録曲が数曲、そして価格¥1500のみが書かれているだけで、単純に英語が苦手な日本人なので必要無いと思っただけなんでしょうか。(ちなみにこの半掛け帯付きの1stは非常に貴重で帯なしだと1万くらいなのですが帯付は30万ほどするんだとか、おかげで帯の偽物も出回っているんだそうです。)



キャピトル盤はステレオでしたが日本盤はモノラルでの発売でしたのでジャケ最上部の「STEREO」の文字は当然消されています。

そして、発売元のレーベル名ですが英国版の「パーロフォンParlophone」でも米国盤の「キャピトルCapitol」でもなく、EMI傘下のドイツ系のレーベル「オデオンOdeon」が使われています。今回調べていて初めて知ったのですがODEONの頭文字「O」をドーナツ盤のようにデザイしたロゴやレーベルは日本独自のものだったみたいですね。

オデオン・レコードについてのウィキに以下のような記述があります。

>東芝音楽工業のディレクターで、日本でのビートルズ人気を仕掛けた高嶋弘之は、「日本のオデオン(レーベル)はあっち(海外)とは無関係に独自で発展したもの」だと、後年になって証言している。
高嶋が洋楽担当としてビートルズを売り出すにあたり、当時の「エンジェルレコード」など東芝の既存の洋楽レーベルではグループのイメージに合わないと考え、世界中のEMIが擁したレーベルから目新しいものを探したところ、この時点でマイナーで色も付いておらず、かつ響きが良かった「オデオン」というレーベルを見つけたという。
そこでレーベルのロゴも日本で独自にデザインしたうえで、「オデオン」レーベルをビートルズの作品に使用し始めた。
高嶋曰く、日本での「オデオンレコード」は、レーベルを当地で独自に「作った」「適当につけた」ものであり、それゆえ、海外での「オデオン」レーベルと、日本のそれとでは「ロゴの形も、扱う音楽も、全然違う」のだという。
(但し、日本のオデオン・レコードの第1回発売は1963年1月、英EMIコロムビア原盤のアルマ・コーガン「グッドバイ・ジョー」であり、この時期英EMIコロムビアの日本発売権が日本コロムビアから東芝に移行したのと符合する。) 
2010年12月9日付東京スポーツ・「高嶋弘之 ビートルズとカレッジポップス」第3回より

「へぇー」と思い早速英米以外のビートルズのオデオンのレーベルを探してみました。

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上の写真はフランス盤の『ウィズ・ザ・ビートルズ』です。確かにジャケのロゴ・マーク及びレーベルが日本のものとは違っています。オデオンというのは元々ギリシャ語で劇場という意味で派生して映画館という意味もあります。日本でもオデオン座という名前がついた映画館ってありますよね。語源からすれば仏盤で使われているレーベルがオリジナルらしいデザインとなるのですが、日本では( )内の注釈に書かれているようにEMIが日本コロムビアから東芝に移行する際に独自のレーベルおよびロゴが作られていたようです。

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東芝のオデオンの第一回発売のアルマ・コーガンの「グッバイ・ジョー」のジャケ及びレーベルにはしっかりとお馴染みのオデオンのロゴが使用されています。確かにドーナツ盤をデザインしたロゴで日本人にも馴染みのある「オデオン」というレーベルは、エンジェルなんていうヤワな名前のレーベルよりはビートルズに相応しかった気がします。しかし逆に言えば高嶋氏の判断がなければビートルズは「エンジェル」から発売されていた可能性が高かったわけで(先のアルマ・コーガンも日本コロムビア時代のヒット「恋の汽車ポッポ」はエンジェルからの発売)、合わないですよね。

ジャケだけで時間を喰っちゃいましたが日本盤の最大の特徴はその収録曲です。

A面
1-抱きしめたい (英63/11 シングル(以下Sg) 全英1位)
2-シー・ラヴズ・ユー (英63/8 Sg 全英1位)
3-フロム・ミー・トゥー・ユー (英63/4 Sg 全英1位)
4-ツイスト・アンド・シャウト (英63/8 EP 全英2位)
5-ラヴ・ミー・ドゥ (英62/10 デビューSg 全英17位)
6-ベイビー・イッツ・ユー (英63/11 Al『プリーズ・プリーズ・ミー』収録曲)
7-ドント・バザー・ミー (英63/11 Al『ウィズ・ザ・ビートルズ』収録曲)

B面
1-プリーズ・プリーズ・ミー (英63/1 Sg 全英1位)
2-アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア (米63/12 デビューSg「抱きしめたい」B面 全米17位)
3-P.S.アイ・ラヴ・ユー (英62/10 デビューSg B面曲)
4-リトル・チャイルド (英63/11 Al『ウィズ・ザ・ビートルズ』収録曲)
5-オール・マイ・ラヴィング (英63/11 Al『ウィズ・ザ・ビートルズ』収録曲)
6-ホールド・ミー・タイト (英63/11 Al『ウィズ・ザ・ビートルズ』収録曲)
7-プリーズ・ミスター・ポストマン (英63/11 Al『ウィズ・ザ・ビートルズ』収録曲)

日本と同じく64年が本格的レコード・デビューとなった米国編集の『ミート・ザ・ビートルズ』は英国1st『プリーズ・プリーズ・ミー』収録曲を使ったアルバム『イントロデューシング・ザ・ビートルズ』および「フロム・ミー・トゥ・ユー」がインディーズのヴィージェイから、「シー・ラヴズ・ユー」がスワンから発売されていたために、キャピトルは2ndの『ウィズ・ザ・ビートルズ』収録曲から9曲と米国でのブレイク・シングルとなった「抱きしめたい」とそのB面曲であった「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」、そして英国盤「抱きしめたい」のB面曲であった「こいつ」の3曲を加えた全12曲という半端な内容でした。それに比べると東芝は英国オリジナル・アルバム2枚分とシングル5枚分の曲の中からのベスト選曲といった内容になっています。

ザ・ビートルズ/抱きしめたい


上の収録曲のうち青字のものはアルバム発売前に日本盤シングルが出ていたもので赤字のものはアルバム発売後にシングルとして発売されたものになりますが、14曲中9曲がシングル曲ということでこれまたお買得なアルバムであることの証明かと思います。が、反面アルバムもシングルも買った人からすればダブりが多すぎで、本国英国ではその辺の配慮から2ndアルバム以降はアルバムにはシングル曲を収録していないのと比べると大きな違いを感じます。

この辺、東芝のマーケティングとしてはアルバム購入者とシングル購入者はあまり重ならないという考えだったのでしょうか。ところで当時のアルバム¥1500、シングル¥330というのは今の感覚で言えば高いのか安いのか。よく物価の指標として例に出るコーヒーの価格は当時は¥80、単純計算だとアルバムは19杯分、シングルでも4杯分。コーヒー1杯¥350とするとアルバムは¥6650、シングルは¥1400、これはかなり高い。少年マガジンが当時¥40、これだとアルバム¥9750、シングル¥2145もっと高い。映画料金は¥500、これだとアルバム¥5400でシングル¥1200やっぱり高いですね。

これだけ高価だとなかなかアルバムまでは買えないんじゃないかと思ってしまいます。実際『ビートルズ』がどれくらい売れたのか? 当時はオリコンのような売上データに基づくチャート雑誌もない時代で正確な記録も残っていないようですが、前述の東芝の高嶋ディレクター(ちなみにこの方高嶋ちさ子のお父さんです)の記憶によれば、アルバムの売り上げは5万枚くらいだったんじゃないかとのこと。当時のシングル中心のマーケットの中でアルバム5万枚であればよく売ってるんじゃないかとも思います。ただエレキブームの中で65年8月に発売されたベンチャーズの『イン・ジャパン』は50万枚ほど売れた記録があるようなのですが、それと比べれば売上面では大ブレイクとまでは言えない気がします。

ただ、ベンチャーズとビートルズの64-65年の売上差というのは購買層の違いもあったのではないかと推測します。ビートルズの購買層は中学、高校生だったのに対しベンチャーズのそれは高校生から大学生及び20代の男性、「青春デンデケデケデケ」の主人公たちのようにバイトをして楽器が買えるといった、小遣いだけじゃないお金を持っている人たちというイメージを持ちます。その意味ではビートルズ・ファンたちも来日の66年までには中学生が高校生に、高校生が大学生にということで、購買力が増し人気に売上が追いついていったというところがあったんじゃないかとも思います。

よく「クラスで聴いているやつは一人か二人だった」と言われるビートルズですが、ではこのアルバムはクラスでどのくらいの人が持っていたのでしょうか?政府の統計では64年の中学校の数は12,310校、高校は4,847校で足すと17,157校。5万枚を学校数で割ると2.91枚。もちろん中高生だけが買ったわけではないので、いいとこひとつの学校で『ザ・ビートルズ』を持っていたファンというのは一人か二人というところだったんじゃないでしょうか。これはビートルズを聞いているのがクラスで一人か二人ということ(全校で言えば最低でも2~30人)からしても、あまりに少ないように思われます。やはりかなり高価だったということか。

こうやって見ていくと中高生にとってはあまりに貴重な一枚。アルバムを買った人はそれこそレコード盤が擦り切れるほど聞いたでしょうし、ドーナツ盤しか持っていないファンはLPを持っているというだけでとなりのクラスのやつであっても友達になって、そいつの家にお邪魔して聞かせてもらう、そんな光景が目に浮かびます。

さて、今回も書き出したはいいけどどうやって着地したらよいか見えなくなってきましたが、アメリカで50年半ばにR&Rが登場しブームとなっていったのは、戦後の高度成長の中で可処分所得が増えた中産階級層の子供達が購買力を持つようになり、ラジオで聴いて気に入った音楽のレコードを買うようになったことがベースとしてあったと言われます。若者たちに購買力が生まれることにより大人たちの文化の予備軍的でしかなかった若者の文化も、大人とは違った価値観の文化として育っていきます。そして60年代という「文化革命」の時代を迎えることとなるのですが、ビートルズはその象徴として大きな役割を果たしていきます。

敗戦国として戦後をスタートさせた日本もアメリカに追いつけとばかりに数年遅れで高度経済成長を迎えます。そして同じように若者文化が生まれて行くのですが、そのはじめの一歩だったのが、クラスで一人か二人のビートルズ・ファンであり、全校で1枚か2枚の『ザ・ビートルズ』だった(っていうのは言いすぎでしょうか)。




PS.『ザ・ビートルズ』は僕にとってはアルバムでのハジレコ(初めて買ったレコード)です。中学入学当時に家にプレイヤーが無かった僕は友達の家にお邪魔してはそこにあるレコードを聞かせてもらい、気に入ったものはカセットに録音させてもらいという音楽生活をしていました。プレイヤーは無いけどシングルについては何枚か買っていたのですがLPは高価なこともあって買うことはありませんでした。たしか中2になった頃にポータブルのプレイヤーを買ってもらい、記念に何かLPを買おうと数日間考えたうえで買ったのが『ザ・ビートルズ』でした。

当時ビートルズが一番好きなこともあり、最初はビートルズで。本当は『アビー・ロード』『レット・イット・ビー』もしくはベスト盤『オールデイズ』かなとも思ったのですが、このへんは結構みんな持っていたんですよね。で、僕の友達に持ってる奴がいなかった『ザ・ビートルズ』にすることにしました。デビュー・アルバム=ビートルズの原点というのも最初に買うのにふさわしいだろうと・・・かたちから入る性格なんです。

実際は日本編集のデビュー・アルバムなのですが、そんなことつゆ知らなかったのも事実で、赤青が出た時に『赤盤』のジャケがビートルズのデビュー・アルバムのジャケだと初めて知って、驚いたものでした。




追記(2015/2/1)

トムスプリング(牧田牧)さんのコメントに基づきアルマ・コーガンの「恋の汽車ポッポ」以降の日本盤シングルの発売状況をまとめてみました。向こうでHMVからCOLUMBIAに移籍した関係でいったんエンジェル(東芝)からコロムビア(日本コロムビア)に日本の発売元が写ったのですが、今度はコロムビアの発売元が東芝に移ったため、東芝に戻ることとなるのですが、高嶋さんがポップスのために用意したオデオンよりの発売になっていることが分かります。