いかにしてビートルズは日本人に受け入れられていったか その2 未完 | 鳥肌音楽 Chicken Skin Music

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前回の続きです。

The Astronauts - Firewater


アストロノーツは元々は海のないコロラド州の学生によるガレージ・バンドだったのですが、同じようにガレージ・バンドながらローカル・ヒットから全米ヒットへというサファリーズやシャンティーズのような成功例に乗り遅れまいとするRCAがサーフィン・バンドにでっち上げたものでした。本国ではリー・ヘイゼルウッド作の「バジャ」くらいしかシングル・ヒットはなかったようなのですが、日本のビクターのディレクターがアルバムの中の一曲「Movin'」を目ざとく見つけ「太陽の彼方に」といういかにもな邦題をつけて大ヒットさせます。(文化放送「9500万人のポピュラーリクエスト」では年間8位、ただし4位「恋する二人」6位「プリーズ・ミスター・ポストマン」7位「プリーズ・プリーズ・ミー」とビートルズが3曲も上に来ています。もう日本で受容されてますやん、という意見もありそうですが、それはまた別の機会に考えたいと思います。)

業界というものはアメリカも日本も同じ、アストロノーツのヒットを見て乗り遅れてたまるかと思ったのが東芝で大慌てで(想像)自社のレーベルの中から「サーフィン」ものはないかとなったのですが、いますよね、勿論ベンチャーズが。

そうして引っ張り出されてきた曲がシャンティーズのカバー「パイプライン」でした。



思えばアストロノーツやシャンティーズ、サファリーズといったガレージ・バンドは絶対ベンチャーズに影響されてバンドを始めているだろうし、ここでベンチャーズが引っ張り出されるというのはある意味必然だったんじゃないかと思います。それにしても数あるベンチャーズ・ナンバーの中から「パイプ・ライン」を選んだというのも「運命的」ですよね。テケテケ(トレモロ・グリッサンド)が最も印象に残る一曲です。「サーフィン」ムーヴメントに合わせた曲ということでベンチャーズのアルバム『サーフィン』の1曲目のアップ・テンポの曲ということで選ばれたのだと思いますが、もしテケテケが無い曲が選ばれていたらひょっとしたらエレキ・ブームが盛り上がっていたのか?日本のロック史も大きく変わっていたかもしれません。

サーフィン(モノ&ステレオ)(紙ジャケット仕様)/ユニバーサルミュージック



そしてこの曲に雷のように打たれた「青春デンデケデケデケ」の主人公ちっくんはエレキを手にします。シングルの発売が64年の7月で、雷に打たれるのは65年の3月とかなりのタイム・ラグはありますが、これは地域的なものというよりは受験が終わっての開放感で新しいものに対する好奇心や何かやってみたいという心理が働いたんじゃないのかな。

こうして「サーフィン」ムーヴメントをきっかけに日本でのエレキ・ブームが始まっていくわけですが、ブームを決定的にし、かつベンチャーズの日本での人気を決定づけたのが、アストロノーツとともに行った1965年明けてすぐの来日公演でした。



この時点で「サーフィン」の文字が消えて「エレキが炸裂する」というコピーになっているのを見てもエレキ・ブームが始まっていたことを感じさせてくれます。この時のライヴは1月3日から13日まで10日間以下の日程で行われたようです。

3日(日)東京厚生年金会館
4日(月)リキスポーツパレス
5日(火)大阪フェスティバルホール
6日(水)愛知県文化会館
7日(木)サンケイホール
8日(金)東京厚生年金会館
9日(土)リキスポーツパレス
10日(日)東京厚生年金会館
13日(水)札幌市民会館

東京、大阪、名古屋と場所の移動があっても中休みの無い(流石に札幌は中二日)毎日公演というのが凄いですね。まぁ当時はPAや照明機材、舞台セットも今みたいじゃなかったでしょうから可能だったのでしょうね。10日の東京厚生年金会館での公演がライヴ録音され『イン・ジャパン』として8月に発売されたのはご存知かと。

ベンチャーズ・イン・ジャパン(紙ジャケット仕様)/ベンチャーズ


とにかくエレキ・ブームの中でのベンチャーズ人気は凄まじかったようで、データー的な面での証明として65年以降のシングルの発売枚数の多さがあります。ちなみに64年は「パイプライン」と「急がば廻れ」の2曲のみでした。

1月「ダイアモンド・ヘッド/朝日の当る家」
2月「10番街の殺人/ ラップ・シティ」
5月「キャラバン/ブルドッグ」
5月「夢のマリナー号/ バード・ロッカーズ」
6月「青い渚をぶっとばせ/キャンディ・アップル・レーサー」
8月「クルーエル・シー/逃亡者」
8月「ロコ・モーション/ リンボ・ロック」
8月「果てしなき慕情/ 悲し街角」
8月「テルスター/悲しき闘牛」
8月「行け!行け!ドンドン/スキヤキ」
9月「スウィンギン・クリーパー/ペダル・プッシャー」
10月「木の葉の子守唄/アパッチ」
10月「フィール・ソー・ファイン/エンジェル」
11月「パラダイス・ア・ゴー・ゴー/星への旅路」
11月「ジングルベル/ホワイト・クリスマス」

なんと15枚、8月には一挙5枚”夏だ!エレキだ!ベンチャーズだ!”っていうことなのでしょうか。続く66年は。

1月「若さでゴー・ゴー /ゴー・ゴー・ギター」
3月「密の味/ビートでOK」
3月「君といつまでも/夜空の星」
4月「秘密諜報員/007-0011」
4月「バットマン/ナポレオン・ソロのテーマ」
6月「ストップ・アクション/ホイッチャー通りでゴー・ゴー」
6月「アウト・オブ・リミッツ/ペネトレーション」
6月「ニ人の銀座/霧の8マイル」
8月「エスケープ/ゴー」
8月「ブルー・スター/カミン・ホーム・ペイビー」
8月「夕陽は赤く/若さでジャンプ」
8月「パイド・パイパー/ラ・バンバ」
11月「グリーン・ホーネットのテーマ/グリーン・グラス」

枚数は13枚と若干減ってはいますが、それでも月1枚以上の計算ですし、「君といつまでも/夜空の星」という加山雄三のカバーや「ニ人の銀座」というオリジナルの歌謡曲のセルフ・カバー、いわゆるベンチャーズ歌謡も発売され、日本人にとってより身近な存在になってきていることが想像できます。

ということで64年後半から66年にかけてベンチャーズの日本での人気が爆発していたことはお分かりいただけるかと思います。そのベンチャーズを中心にしたエレキ・ブームの大きな意義としては、それまではヒット曲をラジオやレコードで聴くだけだった若者たちがギターを手に取りバンドをつくり洋楽を演奏し始めたことだと言われます。

・・・・・・・・・と、前回の続きでかくたさんのコメを「渋谷陽一と山下達郎というたった一学年の違いで、何故ビートルズの受容に大きな違いがあったのか」と読んだ僕はその「一年」の間にベンチャーズに大きく影響された日本でのエレキ・ブームがあり、このブームにより日本の若者はようやくプレスリーやアンカ、セダカなどの「ロカビリー」から抜け出しビート・バンドによるDIY精神あふれるR&Rを理解し、その結果としてビートルズも受け入れられていったといった主旨の続きを書いていました。

テーマが大きくてちょっと行き詰まってる時にかくたさんから再度いただいたコメにこんな一文が。

>で、このエントリのきっかけとなった私のコメントの主題と申しますのは「そんな時代環境の中で、クラスの半分(20人以上)が武道館に結集した山下達郎の母校ってどんなとこだよ!」
ということでした(笑)。だってビートルズの曲の歌詞をノートに書き留めて、休み時間に友達とコーラスやる中学校なんてあのころ他にあったのか?

なんと、僕の読み自体が勘違いだったことに気づきました。またかくたさんの最初のコメにある

>渋谷陽一が中学時代、ホームルームで「ビートルズは是か非か」という討論会をしたら、1対圧倒的多数で渋谷の負けという話をよくしてました。

というエピソードを、てっきり日本デビューの64年の頃のことと思っていたのですが、この発言が載った「ロックは語れない」(新潮文庫)を読み直すと、浜田省吾との対談の中で、中学三年のビートルズ来日時に時事的な話題としてクラス討論会が行われ、その際に渋谷一人がビートルズ派だったという事が書かれています。

来日の時期にクラスでビートルズ派が一人という渋谷の中学と20人以上が武道館にいった山下の中学は同じ東京でありながらかくたさんのおっしゃるとおりあまりの温度差があるように思われます。

ただ「ロックは語れない」の中のチャボとの対談などを読むとチャボがビートルズのデビューに敏感に反応しロバプール・サウンドのグループの来日ということでピーター&ゴードンやハニカムズに行った話など、日時は正確ではないもののおおむね当時の状況を事実にそって話しているのに対し渋谷は(ロッキングオンらしいといえるかもしれませんが)、自分の「ロック」への思い込みによって記憶を語っている、今流行りの「捏造」っぽいところも感じられるので、上のクラスで一人というのも本当にそうだったのか、ロックの殉教者を気取っていないのだろうかという疑問も残ります。でも達郎さんの誰かがビートルズを歌いだすと周りがコラスをつけていたっていうのもちょっとという気もしますが・・・。

まぁ、そんなわけで記事のまとまりがつかなくなったので一旦ペンディングにさせていただきたいと思います。なんか、このブログいつも尻すぼみな記事が多くてお恥ずかしい限りです。


PS.今回記事を書きながらいくつか面白い疑問が出てきたので今後の研究課題にメモっておきます。

*The Venturesの日本での表記は現在「ザ・ベンチャーズ」でほぼ統一されているように思います。英語の綴りからいえば「ザ・ヴェンチャーズ」がより正しいわけでこれはてっきりメーカー側の購買層への配慮で昔のままの「ザ・ベンチャーズ」を使っていると理解していました。ところが「パイプライン」の表記を見ると「ヴェンチャーズ」。最初は「ヴェ」だったんですね、これがどうして「ベ」になったのか、そしれそれは何故?

*日本での「バンド・ブーム」というのは3回あるとされます。最初が「エレキ・ブーム」、次が「エレキ・ブーム」とほとんど地続きの「GSブーム」そして3つ目が「イカ天ブーム」。この三つは日本のポップスに大きな変革をもたらしているような気がします。「エレキ・ブーム」は若者にDIYを目覚めさせ、「GSブーム」で日本お得意の洋楽の翻訳が行われ、時代はかなり経た「イカ天ブーム」により大瀧さん流で言えば邦楽/洋楽という分母分子がごろんと横に倒れ邦楽と洋楽が並列に並ぶこととなる。おおまかに言えばそういうことになるんじゃないのか?

*またまたかくたさんのコメの中の
>ちなみにこのエントリでリンクしていただいた達郎・桑田対談で、達郎さんはジョンのことを「レノン」と呼んでおりますね。かなり少数派かも。

というやつですが、確かに一般的にビートルズはジョン、ポール、ジョージ、リンゴ。ストーンズもキースにミックにブライアン、フーはピートにロジャー、ビーチボーイズはブライアンにマイクと圧倒的にファースト・ネームで呼ぶことが多いような気がします。ただ中にはディラン、クラプトン、ベック(ジェフです念のため)、ペイジ、プラント、スティルスなどファミリー・ネームが定着している人もいたりします。この違いはなんなんでしょうね。拙ブログでもできるだけ、統一をはかろうと思ってはいるのですが気がつくとごっちゃになっていることがしょっちゅうです。何か法則があるのか否か?